中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖

関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
―― 死後の魂の救いの可能性をさぐる ――*
多ヶ谷
有
子
要 旨:
中世後期のヨーロッパに見られる宗教抒情詩には、天国への希求とともに地
獄への恐怖が鮮やかに描かれている。地獄の恐怖はまた、天国の対比として、
絵画や造形美術に表された。これらの絵画や造形美術は、文字を理解しない多
くの庶民に、死後の審判、そして天国と地獄を強烈に印象付けた。
一方、日本では、仏教の普及とともに、地獄の思想が受け入れられていった。
仏教の地獄は六道の一つであり、輪廻転生の世界である。仏教では元来、輪廻
転生を断ち切ることを理想としている。平安時代以降、浄土思想とともに、地
獄・極楽の思想が人々の間に広まった。化野、紫野、鳥辺野、蓮台野など風葬
地は、現世無常を教えるとともに、極楽を望み、地獄の恐怖をかきたて、仏教
布教に影響を与えた。
キリスト教世界の地獄と日本における仏教の地獄を対照させると、興味深い
相違が見えてくる。キリスト教の地獄は永遠の罰であるが、日本の地獄は六道
の一つであり、気の遠くなるような長い時間を経るとしても、永遠ではない。
日本の地獄絵には、地獄の中に仏がいる。こどもを救う地蔵、女性を救う観音。
仏教の地獄は期限があり、かつ、地獄からも救われる。その意味で、日本の地
獄にはキリスト教の煉獄に当たる要因がある。
キリスト教の地獄と煉獄、日本の仏教の地獄を比較検討したときに、そこに
は救済を希求する普遍的な人間性の一側面を見ることができる。本稿では、文
学、絵画などを通して、キリスト教と日本仏教の天国(極楽)の対比にある地
獄(煉獄)観についての一考察を行いたい。
キーワード:
天国、極楽浄土、煉獄、地獄、六道輪廻、中世キリスト教、平安・鎌倉期の
仏教
*本稿は2009年度および2010年度における関東学院大学文学部人文科学研究所の
研究助成を受けた研究の一環として発表するものである。
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中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
1 .はじめに―死後の魂の行方について
ヨーロッパ中世哲学の著名な学者の山田 晶博士は、
「日本の地獄は、キリ
。こ
スト教の煉獄に当たる」と語ったことがある(山田 晶 1986:66−81)
の言葉は、魂の救済(死後の魂の行方)の本質の一側面を表している。魂
の救済とは、死後の魂の最終的な落ち着き場所が望ましい結末になり得る
かどうかの問題である。
「魂の救済」という言い方は、
「キリスト教の視点を前提にしている」
、あ
まっこう
るいはあまりに「抹香くさい」と受けとめられる恐れがないではない。し
かし、
「死後の行方」という問題についていえば、どのような言い方をしよ
うが、言わんとすることの本質は同じである。死後の魂の行方は、いかな
る宗教にとっても本質的な問題であり、宗教に関わらない立場の者にとっ
ても、命を考える時には本質的な問題にならざるを得ない。
筆者は基本的には、死後の魂の行方の問題は、宗教に関わろうとそうで
なかろうと、人間の本質的な問題であると受けとめている。問題の領域を
広げると焦点が曖昧になるため、本章では魂の救済の視点にたち、キリス
ト教および日本仏教の天国あるいは極楽の対比にある地獄・煉獄観につい
て考察し、山田氏の言葉の意味するところを明らかにしたい。
2 .キリスト教世界に見られる地獄と煉獄
2 −1 .抒情詩が歌う死後の魂の行方
ヨーロッパ、中世後期、13世紀以降の宗教抒情詩は、特に、フランシス
コ会の托鉢修道士による民衆教化に、大いに効果があったと言われる。宗
教抒情詩は民衆の教化のために、キリスト教の基本的な教え(たとえばカ
テキズム)の内容を短詩の形にしたものである。歌うメロディは、しばし
ば当時の流行り歌に乗せたという。内容は、大きく、①キリストを讃美す
る歌、②マリアを崇敬し、日々、とりわけ臨終に際してとりなしを願う歌、
③そしてやがて訪れる死に備え、この世の無常に心を向け、よく生き、死
後の審判の後に天国に入れるよう心せよと教える死と無常の歌、の三つに
分けられる。死と無常をうたう宗教抒情詩のテーマは、四終、すなわち死、
審判、天国、地獄であり、死後の彼方にあるものを教える。
まず、宗教抒情詩が前提している死者の運命、つまり死者の魂がどこへ
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関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
行くかの考え方を整理しておきたい。
旧約聖書によれば、元来死者は
sheol (シェオール)と呼ばれる場所
にくだると考えられていた。しかしバビロン捕囚(597−538 B.C.)以後の
ヘブライ人には、善人と悪人は死後異なる場所に行き、悪人は死後も苦難
を受けると信じられた。紀元前 2 世紀のころから、ダニエル書にあるよう
に、死者の復活が信じられ、永遠の命と永遠の罰の思想が信じられるよう
になった(ダニエル XII:2 )
。古代イスラエルの時代に、エルサレムの南
に「ヒノムの谷」と呼ばれる谷があり、その場所では生贄が焼かれた(エ
レミア
VII:31,他)。そこは後に動物や犯罪者などの亡骸が焼かれる場
所となり、終末のとき「地獄」の門が開かれるところとして知られていた。
この谷はギリシア風に「ゲ・ヒノム」と発音され、新約聖書では gehenna
(ゲヘンナ)と呼ばれ、永遠の罰の場所、「地獄」の意味になった(cf.『新
カトリック大事典』1998:Ⅱ,1182−84)。地獄は、教義的にいえば、中世
時代では、悔悛をせずに大罪を犯したままの状態でこの世を去った魂が永
遠の罰を受ける場所と受けとめられていた。キリスト教では、審判は死後
すぐにくだされる私審判と、世の終わりに行われる最終的な公審判がある。
最後の公審判以後は、死者(すべての人類)の行き先は、天国と地獄の二
ケ所である。しかし公審判以前において、死後の世界は、天国、地獄、煉
獄に分かれ、暫定的な行き場としての煉獄が存在するとされた。
ここで、煉獄の概念を明確にしておくために、煉獄成立の過程を要約し
ておきたい。南山大学の Hans-Jürgen Marx(ハンス・ユルゲン・マルクス)
師によれば以下のとおりである(H-J. マルクス
1
1990:1−80)。
初代教会の頃には、終末にともなう公審判は近い未来に来ると信じられ
ていた。しかし、なかなか世の終末は到来せず、時代がくだるに従い、公
審判は無期延期されると受けとめられるようになった。その時期、つまり
3 世紀頃から、死後の魂の行方、死後にも生前の罪の許しがありうるかど
うか、ということが問題となった。すぐに天国に直行する聖人は別として、
完全ではないが、清められれば天国に行けるのではないかと思われる程度
の者はどうなるか、という問題が出た。Origenes(オリゲネス;c. 185−c.
254)は、コリント前書の記述を拠りどころに、魂の死後の浄化の思想を展
開した(cf. 1 コリント
III:11−15)。アレクサンドリアの Clemens(クレ
1 煉獄成立の過程、煉獄の概念の成立過程については、その多くを、ハンス・
ユルゲン・マルクス師に負う。
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中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
メンス;c. 150−c. 215)は死後の浄罪を最初に認めた教父だろうといわれ
る。以上のように、死後の魂の浄化の思想は、元は東方教会の内部で成立
した。しかし、オリゲネス等の異端とされた思想の結果、東方では魂の死
後の浄化の思想は絶えた。一方この思想は、4 世紀後半以降、はじめて西
方に広がった。
その後、終末に先立つ死者の行方の問題は、西方で以前より重大になり、
ヒッポの Augustinus(アウグスティヌス;354−430)は、その考え方に大
きな影響を与えた。彼は死と公審判との間の浄罪を明確に認めた最初の教
父である。彼は、生前に清い生活をした故人であれば、煉獄で生前の罪を
償っている場合、生者の祈りが、天国に行く可能性のある故人の魂の運命
に対して役にたつと主張した。
アウグスティヌスの解釈は西方教会においては古典になり、さらに、6 世
紀、Gregorius I(グレゴリウス一世、グレゴリウス大教皇とも呼ばれる;
c. 540−604)は、公審判に先立って小罪のための清めの火がある、善行によ
ってよい生活をした人は死後も許されると述べ、死後すぐに天国に入れら
れなかった魂にも救済、つまり天国に入れる可能性があることを示し、誓
願違反者の魂も生者の祈りによって浄化されるとした。死後すぐに天国に
入れなかった魂が天国に入るためには、生前の罪が浄化されなければなら
ない。死後の浄化の場となる清めの場所、Le Goff(ル・ゴフ)がいうところ
の
loca purgatoria (清めの場所)は、後に煉獄と呼ばれることになる。
Purgatorium (煉獄)という名詞にこだわるル・ゴフは、「煉獄」と「清
めの場所」を分けて考えているが、どう呼ばれようと、
「あとで煉獄と呼ば
れた事柄と何ら変わりはない」とH-J. マルクスは指摘している(cf. H-J. マル
クス
1990:30)。
死後の魂の救済の可能性が認められる方向に向かうと、死者に対しての
生者の祈りが故人の魂の救済に役に立つという思想が現れる。これはアウ
グスティヌスやグレゴリウス大教皇が説き始めたことだが、さらなる展開
をみた。この思想は西方教会では 9 世紀以来繰り返された。その後、
「11世
紀後半、おそらく1024−1033年までの間に11月 2 日が死者の日に定められ
た」(cf. H-J. マルクス
1990:31)。Legenda aurea(『黄金伝説』)をはじ
め、一般的には、クリュニーの修道院長 Odilo(オディロ;c. 962−1048)が
998年にこの日を定めたとしており、この日には、すべての死者のためにミ
サと祈りが献げられたといわれる(cf. Jacobus a Voragine[ヤコブス・デ・
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ウォラギネ;c. 1230−1298]前田他訳 1987:IV,181−205])。祈りが死
者の魂の救済に役立つという思想の典礼化である。この習慣はまもなく西
方教会全体に伝わった。煉獄の思想は、1153年没のクレルヴォーの
Bernardus(ベルナルドゥス;1090−1153)の晩年の説教の強い影響もあり、
西方教会では12世紀末までに確立し、社会全体として、死者の記念が行わ
れるようになった。
「この習慣こそ煉獄の表象が12世紀末までに確立するた
めに大きく貢献したに違いない。」(cf. H-J. マルクス
1990:29,31)。同
時に、アウグスティヌスやグレゴリウス大教皇等が主張したように、死後
の浄化、死後の救済には、生前の生き方が重要であるということが強調さ
れた。
1254年、Innocentius IV(イノケンティウス 4 世;1189−1254)が東方教
会に送った対外的な公的な教書に、死後浄罪に関する部分が明記された(ジ
ンマーマン
1974:195−56,724)。これが煉獄に関する最初の公式の教理
である。その後、この教理は神学的に理論化され、1263年にはトマス・ア
クィナスが一論文の中で説明した。それらの土台を踏まえ、1274年のリオ
ン第二公会議で煉獄の教理が扱われた(cf. H-J. マルクス
1990:45−50、
。ついでこの教理は、1438/39年のフィレン
特に、49−50の公会議教理決議)
2
ツェ公会議で扱われた。
煉獄の成立の過程を、H-J. マルクス、『カトリック大辞典』、ジンマーマ
ンから整理すれば、煉獄の表象は、9 −12世紀にかけて次第に形成され、13
世紀に教理として確立したことがわかる。結局、煉獄に関する教理は、最
終的には、1545−1563年のトリエント公会議でまとめられ、煉獄は存在す
る、煉獄の魂は信者の代祷、特にミサ聖祭によって助けることができると
定められた(cf. ジンマーマン
1974:314−15)。以上のことから、死者の
行方は、洗礼後に罪の汚れに染まらなかった魂、および罪の汚れに染まっ
たままこの世を去ったが清められた魂は、いずれも天国に行く。そして、
大罪を犯したまま、あるいは原罪の状態でこの世を去った魂は地獄に行く
と整理できよう。
上記の死後の世界に対する考え方を踏まえて、以下、宗教抒情詩につい
ての考察に入る。ここでは、キリスト教について対象の中心とするのは、
中世の宗教抒情詩で描かれる世界、つまり、民衆のレベルで受けとめられ
2 Cf. H-J. マルクス 1990:51−67。H-J. マルクスの見解の参照はここで終る。
以下は『カトリック大辞典』および、ジンマーマン(1974)を参照する。
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中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
ていた地獄や煉獄である。神学者が神学で扱うレベルについては基本的に
触れない。同時に、本稿で扱う仏教についても、一般の民衆がどう受けと
めていたかということに焦点をあてる。
煉獄の思想が明確化する背景には、世の終わりの延期という認識のみな
らず、宗教抒情詩の言葉が示すように、死後の行方に対する関心の強さ、
すなわち、地獄の恐怖から免れたい、救いの可能性を探りたい、という人
間的欲求の心情があると思われる。現代人は天国も地獄も絵空事か架空の
もの、お伽話と見るだろう。そうした現代人にとって、中世後期のキリス
ト教世界の庶民認識は、理解することも想像することも不可能に近い。中
世の人々にとって、四終、つまり、死、審判、天国、地獄、の教えは、絵
空事でもお伽噺でもなかった。彼らにとって、天国と地獄の間に煉獄があ
り、現世で犯した罪の償いの済まない魂が浄化の炎で焼かれるのは、現実
そのものであった。天国は無論のこと、地獄も煉獄も、実体であり、事実
そのものであった。したがって、天国を望み、地獄を恐れる心情は、死と
無常をうたう宗教抒情詩に大いに歌われ、現世無常を教え、すべてが移ろ
い儚い現実に信をおかず天国に宝を積み、永遠の命を望めと教えるととも
に、地獄の恐ろしさをこれでもかというほどに歌い上げ、地獄への恐怖心
は否が応でも掻き立てられた。
例えば、 Penitence for Wasted Life (「無為に過ごした人生に対する悔
い改め」)と題される13世紀の抒情詩ではこう歌われる。3
vunnut lif to longe ich lede;
h anne ich me bi enche
el sore ich me a-drede . . . .
Al to longe slepø e mann at neure nele a akie;
h o-so understant el his ende-day, el eorne he mot spakie
to donde sunne a ei fram him & fele almesse makie,
if him ne shal h anne he forø- ant his brei-gurdel quakie . . . .
Ifurn ich habbe isunehed mid orke & mid orde,
h ile in mine bedde & h ile ate borde,
3 Brown(1932:76−78, no. 2)
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ofte in idrunke & selde of e forde;
muchel ich habbe ispened, to lite ich habbe an horde . . . .
& el feole sunne ido e me of incheø nu e . . . .
Moder ful of milce, i bidde mi mod ende,
laete me steo I mi flesc & mine fo schiende . . . .
Leuedi sainte marie , . . .
ber min erende el to deore sune ine,(3−38)
(試訳)
(私はあまりにも長いこと無益な日々を過ごしてきた。
/我
身を振り返りよく考えると本当に恐ろしい。
/…/目覚めようとし
ない者は眠りすぎて手遅れになる。/己の最後の日を知るものは、
心して努めるがよい。/我身を罪から遠ざけ、施しを多く行うよ
うに。
/さもなければ、この世を旅立つとき、腰の巾着が、さぞ震
えるだろう。/…/かつて私は言葉と行いで罪をおかした。/床の
中でも、食卓にあるときも。/始終ぶどう酒を飲み、浅瀬の水を
飲むことはめったになかった。/散々浪費をしたから、天に積む
宝はほとんどない。
/…/まことに多くの罪をおかしたから、その
ために今が悲しい。
/…/慈悲深いマリア様、どうか私の心を変え
てください。/肉欲を抑え、敵なる悪魔を出し抜いてやれるよう
おとめ
に。
/…/処女なるマリア様、…/私の願いをお聞きくださり、麗
しの御子キリストに、どうかよろしくお取次ぎください。
)
死や地獄を歌うこの詩には、魂はキリストの教えには従いたいし、喜んで
教えを実践したいと思う、しかし、肉体は本能的にこの世の楽しみに惹か
れ、長年地獄に導かれるような生活を続け、死を迎える時になって、審判
と地獄に怯え、かといって魂の命じる生活を送るのは難しい、といった本
心が見え隠れする。それゆえ、この世の楽しい生活を長く続けていたいと
いう願望と、そのことのために一層、死と地獄を恐れるというアンビバレ
ントな心理が鮮やかに描き出されている。
この抒情詩をはじめ、人生の終わりに近づき、これまでの生活を悔いる
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中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
宗教抒情詩の多くは、地獄の業火を恐れる心情を歌うものが多いが、具体
的に煉獄について歌われたものもある。例えば、15世紀の、 Beware the
4
Pains of Purgatory (
「煉獄の苦痛を思え」
)と題する抒情詩である。
Thy frendis afore the−why art ou so blynde?−
In purgatory paynyng, there shalt thow them fynde.
With doolefull cry, ou shalt aby, is world defygh . . . .
Than see I right wele ther is no way butt oone,
Now helpe me, ceere lady, Kateryn, and John,
Cristofer & George, myne avowries, echone ! . . .
Pray for me high. Now god me guy, . . .(8−30)
(試訳)(なぜそれほどまで物が見えないのか。先に世を去ったあ
なたの友が/煉獄で苦しんでいるのを、あなたは見ることができ
よう。/悲嘆の声をあげ、償いをし、俗世とは縁をきるべきなの
だ。
/…/さて、これ以外に道がないことが、よくよくわかりまし
た。
/今こそ私をお助けください。麗しのマリア様、聖カタリナ様、
聖ヨハネ様、/聖クリストフォロス様、そして聖ゲオルギウス様、
私の守護の聖人の皆様、/…/すぐに私のために祈ってください。
神様、どうか私をお導きください。…)
この詩の趣旨は、煉獄の浄化の炎の苦痛を思い、天国に入れるようよい行
いを心がけそして祈れ、と教えるものである。人々の苦痛への恐怖に訴え
る点は地獄を恐れる抒情詩と変わらない。しかし、地獄が永遠の罰である
のに対し、煉獄には、浄化によって天国に至れるという希望がある。とは
いえ、煉獄の苦しみは地獄の苦しみに劣らない、とも言われる。したがっ
て、地獄への恐怖は、地獄の罰の苦悶そのものであると同時に、救済の道が
永遠に閉ざされることである。一方、煉獄への恐怖は、煉獄に墜ちることそ
のものより、煉獄の苦しみの大きさである。煉獄をうたう歌では、地獄へ
の恐怖との相違がよく表れている。それゆえに、煉獄を歌う抒情詩の場合、
煉獄は魂の浄化の場と捉えて、救済を求める祈りに結び付けられている。
4 Brown(1939:254−55, no. 161)
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関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
例に挙げた抒情詩をはじめ、中世の死と無常を歌う抒情詩は、当時の人々
の、地獄の業火への恐怖と天国への希求をよく伝えている。
2 −2 .造形美術に見られる地獄の恐怖
地獄の恐怖については、ヨーロッパ中世の庶民は、一方では上述したよ
うな抒情詩やまた、説教、つまり聴覚を通して、よくよく教えられた。さ
らに、教会や大聖堂などいたるところに、地獄や最後の審判、大天使ミカ
エルに生前の行いを秤で計られる様子、世の終わりの後に来る天国と地獄
の全体図などを描く、様々の絵画や造形美術があった。これらの絵画や造
形美術は、文字を理解しない多くの庶民に視覚という強力な手段で、死後
の審判、そして天国と地獄を強烈に印象づけた。庶民は死後の魂の行方に
対する畏怖と恐怖を、このように五感に訴える形で、いよいよ骨身に刻ま
れたのである。地獄への恐怖を背景に、この世で善いことをすることを勧
められ、教えに背くことをしないようにと諌められたのであった。
1346年の春、黒死病(おそらくは腺ペスト)がクリミヤ半島の黒海沿岸
で、その最初の流行が始まった。これは波状的に流行し、ヨーロッパを疲
弊させ、その被害による死亡率には、諸説あるが、人口の 3 分の 1 ともい
われる。そうした時代背景もあり、14世紀中期以降、抒情詩においてもそ
うであったが、絵画、造形芸術で描かれる無常観も激しくなり、地獄への
恐怖は強烈で激しいものとなった。イングランドにはほとんどないといわ
れるが、ヨーロッパ大陸の一部では、俗に「死の舞踏」と呼ばれる、魂が
死神に地獄へと追い立てられる図像が多く見られた。
3 .仏教の地獄
3 −1 .仏教の地獄の思想
日本では、仏教の普及とともに、地獄の思想が受け入れられていった。
地獄の思想は紀元前三千年の頃にチグリス=ユーフラテス河流域に栄えたシ
ュメール族の間に起こり、紀元前 7 − 8 世紀の頃にインドに移入されたとい
われる(岩本裕
1988:354)。仏教は一方、在来のインド思想である六道
輪廻の思想を継承し、六道の一つである地獄の思想も受け入れていた。
六道とは、今生の行いの善悪によって赴く来世の六つの世界で、地獄、
餓鬼、畜生、修羅、人間、天をいう。六道は、ときに五道とされる場合も
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中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
5
あるが、この場合には修羅(阿修羅とも)道が省かれる。
六道の認識は、民間の間ではゆるやかな理解で受けとめられ、例えば、
最期の一念で七度まで人間に生まれ変わることができるとの思想があった。
ななたび
七度人間に生まれ変わる決意を表す挿話は、
『太平記』一場面「正成兄弟討
死事」に語られている。これは、楠正成兄弟の属する軍勢の敗色が濃厚と
なり、楠正成兄弟が差し違えて死ぬ場面である。ここで、弟の楠正季は、
6
「七度人間に生まれ変わって朝敵を殪す」と語っている。
仏教の地獄は六道の一つであり、輪廻転生の世界である。仏教ではこの
輪廻転生を断ち切り、解脱することが理想とされた(cf. 渡辺照宏 1969:
20)
。やがて大乗仏教が勃興し、浄土思想、特に、阿弥陀浄土が中国に伝え
られる。これは中国で変容し、日本へは、中国思想の影響がおよんだ仏教
が、6 世紀の中ごろ伝来した(cf. 家永三郎
1967:46−50)。
日本における死後の世界についていえば、もともと日本においては、懲
罰的な死後の世界という思想はなかった。文献で残された記述として、
『記
紀』の描く死後の世界がある。第一は、女神イザナミノミコトが死んで、
男神イザナギノミコトが死後の世界である黄泉に迎えに行く話である。第
二は、スサノオノミコトの世界である根の国に、子孫のオオクニヌシが訪
れ、嫡妻スセリヒメを得る話である。第一の話が描く死後の世界は、古墳
(墓)を思わせ、また腐乱死体の描写がある。第二の話の根の国は、スサノ
オが死後住んでいる世界である。オオクニヌシはここで試練に会うが、機
5 Cf. 小野玄妙編(1933:329−30)
。なお宮沢賢治の詩集『春と修羅』のなかで、
「おれはひとりの修羅なのだ」(「春と修羅」)と歌ったのは、『法華義疏』(伝
てんごく
聖徳太子述)が述べる修羅の諂曲の性格によるとする説がある。(Cf. 小野隆
祥 1979:140。Cf.「諂曲模様」
「修羅」
。いずれも『春と修羅』
)
。見田は、修
羅は「矛盾の存在」=「苦悩の存在」ととらえ、賢治はそれを自己と重ねたと
てんごく
論じる(見田宗介 1984:114)。しかし筆者は、諂曲に満ちる世間の中でな
お「戦う存在」としての修羅に自らを重ねた、と考えている。最高神アフラ
マツダが阿修羅となって仏教に取り入れられたとき、霊山の山頂から転落し
た鬼神と語られる(小野隆祥 1979:142が引用の賢治の母校、盛岡高農図書
館蔵『仏教大辞彙』の説明)のは、最も美しい天使ルシファーが天から三日
三晩落ち続けて地獄に至ったと語る、伝キャドモンのGenesisを連想させる。
Cf. Gordon(1926:101)
。
6 後藤丹治・釜田喜三郎(1961:159)
。この場面は、
『太平記』巻第十六「正成
兄弟討死事」
。
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智で克服し、スサノオの娘のスセリヒメと、呪術的宝物を得てこの世に戻る。
この根の国を、死んだ祖先が住む死者の国であり、ここには子孫を畏怖さ
せる面と、子孫に恵みを与える面とがあると理解する考え方がある(cf. 五
来重
1991:143−45)。上記の『記紀』の記述から、江戸時代の本居宣長
(1730−1801)は、
「世の人は貴きも賤きも善も悪きも、みな悉く、死すれば、
必ずかの黄泉の国にゆかざることを得ず、いと悲しき事にてぞ侍る」と述
べ、黄泉の国は穢れた世界であり、生前の善悪に関わらず、悲しいことに死
後はだれでもこの黄泉の国へ行く、と考えた(本居宣長
1902:9−10)。7
仏教伝来により、仏教の教義を受容したとき、日本人は、六道輪廻、生
まれ変わりの思想を受け入れた。徐々に、かつ日本的な受容の仕方であっ
たろうことは、最期の一念で七度まで人間に生まれ変わることができると
か、成仏すると生まれ変われなくなるので七歳以下の幼児は埋葬しないと
かの思想などからうかがうことができる(cf.『小右記』1959:225、『水左
記』1982:54、高橋昌明
8
1994:23)。
平安時代以降は、浄土思想とともに、地獄・極楽の思想が人々の間に広
あだしの
まり、特に、平安末期には、末法思想や疫病などの流行もあいまって、化野、
むらさきの
とり べ
の
れんだい の
紫野、鳥辺野、蓮台野などの風葬地は、現世無常を教えるとともに、極楽
を望み、地獄を恐怖することを教えた。この時代には、貴族ばかりでなく、
武士、一般庶民にいたるまで、浄土へ生まれ変わるという浄土思想が隆盛
になり、六道輪廻の世界から浄土に生まれ変わることを願い、念仏を唱え
た。当時の人々が激しく極楽浄土を求めた心情を伝えるものとしては、例
えば、権力者藤原道長(966−1027)、その子頼道(992−1074)は、阿弥陀
仏の来迎を望んで寺を建てた例にみることができる(森谷尅久・井上満郎
1994:36)。道長は法成寺を建て、頼道は平等院を建てた。
7 引用については、旧仮名遣いを新仮名遣いに改め、旧字は常用漢字に改めた。
しょうりゃく
8 幼児埋葬については、『小右記』の正暦 元年(990)七月十二日の条に、記録
者である藤原實資自身の女児が亡くなったのに対し、葬礼等「七歳以下更不
可」とされて遺骸を東山に置くのみで悲嘆にくれる場面が記述されている(
『小
じょうりゃく
右記』1959:225)。また『水左記』(源俊房の日記)の承保四年(承暦 元年)
(1077)九月七日の条に、前日亡くなった四歳(数え)の若宮について、僧が
伴うことなど不可、七歳までは尊卑おなじこと、とされた旨の記事が見える
(『水左記』1982:54)。高橋昌明(1994:23)によると、「幼児の・・・霊魂は
成仏させてはならない。生まれ変わりを熱望するから・・・である。
」と説明し
ている。七度人間に生まれ変わり得るとの思想については、前掲注 6 参照。
― 31 ―
中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
庶民の理想は、六道輪廻の循環を断ち切り、浄土にいたることであるか
ら、地獄は単に六道の一つというだけでなく、浄土の裏腹でもあるという
ことになる。庶民レベルでの理解は、浄土へ生まれ変われない「凡人」は
永遠の六道輪廻の悲惨な世界にいるということである。そのなかでも、
「悪
人」は地獄へ堕ちて責め苦を受けことになる。
地獄について精緻な論述を展開したのは、恵心僧都源信(942−1017)で
よ かわ
ある。源信は『源氏物語』の聖僧「横川の僧都」のモデルとされる。源信
しょうぼうねんじょぎょう
の『往生要集』は、
『正法念処経』を主たる典拠とし、地獄を恐怖の場とし
て描いている。後代の版本の挿絵には、釜茹で、剣の山、閻魔庁、借金地
獄の比喩にいわれる炎と火の車、鬼に舌を抜かれている図など、お馴染み
の絵が描かれている。源信の『往生要集』によれば、地獄には寒地獄と熱
地獄があり、寒地獄には八寒地獄、熱地獄には八熱地獄がある(cf. 石田端
麿
1998:3−14)。ほかに「孤地獄」がある。芥川龍之介の作品『孤独地
獄』は、これに由来するのであろう。地獄は以上の三種である。
日本の場合、最も印象深いのは熱地獄である。そこに属する八大地獄には
様々の呼称があるが、
『往生要集』でも採用され、よく知られているもので
は、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、炎熱地獄、大炎
熱地獄、無間地獄(または阿鼻地獄)である。さらに、各地獄にはその四周
に四つずつ、計16の別所と呼ばれる小地獄を抱えているという。各地獄は人
間世界である膽部州(閻浮提)の下方にある(cf. 石田端麿
1970:11−29)。
地獄そのものの構造については各説ある。『往生要集』の地獄について、
広さは記されているが、立方体とは記されていない。地獄の構造は、立方
体を縦に連ねたものであるという説がある(cf. 石田端麿 1998:6)。それ
によれば、無間地獄が最低部でほかの七地獄を支え、縦横高さ、二万踰繕
那の立方体である。踰繕那というのは、古代インドの距離の単位である。1
踰繕那は約 7 マイルあるいは 9 マイルとするなど、その長さには諸説ある。
さて、立方体説によれば、無間地獄の上に五千踰繕那立方の七地獄が七重
に重なり、それに支えられて膽部州があるという。
ダンテの神曲の地獄図は有名だが、それに対応する、仏教の立方体の地
獄図は、今のところ見たことがない(cf.「法界安立図第二巻(仁潮録)
」の
絵。前田慧雲 1905−1912:459)
。その信憑性はともかく、立方体と仮定す
る地獄とダンテの地獄図と対比させると面白い。
『往生要集』の記述は「寒
地獄」より「熱地獄」が詳細にわたっている(cf.「法界安立図第二巻(仁
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関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
潮録)」の寒地獄の図、前田慧雲
1905−1912:461)。ダンテの地獄の最低
地、一番奥にルシファーが氷漬けに貼り付けられている図はまさに寒地獄
の極致であり、興味深い。仏教の熱地獄だが、各層に堕ちる業因は区別が
あってしかるべきだが、その区別については、必ずしも整然としていると
はいえない。しかし、下方の地獄に行けば行くほど、罪は重くなる(cf. 石
田端麿
1998:7−8)。
3 −2 .地獄絵
仏教には密教の世界像を表す曼荼羅の絵が多く残されているが、ヨーロ
ッパのカテドラルに見られるステンドグラスの薔薇窓は、それに一脈通じ
るものがある。先にも述べたように、キリスト教には四終を表す絵や造形
美術は多いが、それにあたる絵は仏教にも当然多く見られる。『往生要集』
の地獄を描いたものを「地獄変」又は「地獄絵」と称する。
『地獄変』は芥
川龍之介の短編にもあるが、この言葉は「地獄変相図」の略といわれる。
地獄絵を用いて、僧侶等が寺や街で絵解きを行い、こうして仏教の地獄は
民衆に広まった。江戸時代の白隠禅師は幼少のとき近所の寺で聞いた地獄
の恐怖を契機に出家したという(cf. 通山宗鶴 1967:289)。近年では太宰
治が『津軽』のなかで、地獄絵をみて恐怖にかられたことを語っている。9
キリスト教の地獄絵、あるいは最後の審判の図は様々にそして大いに描か
れた。地獄だけを描いたものも多いが、天国・地獄を対比的に描いたもの
もある。仏教の地獄絵もまた、地獄のみならず、人間の一生なり輪廻なり
を描くものも多い。人間がこの世に生まれ、死して六道で苦しむ亡者の有
様を描いたのが地獄絵である。地獄絵は、六道から厭離して浄土を欣求す
るよう教えるためのものである。地獄絵は 9 世紀には現れている。
例えば、江戸時代初期の作といわれる六道珍皇寺所蔵の地獄絵『六道珍
皇寺熊野観心十界図』を見てみよう(cf. 図 1 )。六道珍皇寺は、平安時代
に弘法大師の師、慶俊僧都が開いた寺で東山にある。六道珍皇寺の薬師堂
には平安時代の作で重要文化財の本尊、薬師如来像を祀られている。また、
閻魔堂(篁堂)には閻魔大王と小野篁像が安置されている。庭には、冥界
の入口と伝えられている「冥土通いの井戸」がある。六道珍皇寺のある場
所は都の境界にあたり、東には鳥辺野という風葬地がある。諸説はあるが、
この寺のあたりは古くから六道の辻と意識されてきた。六道の辻とはこの
9 Cf. 赤木孝之(1996:562−4)
― 33 ―
中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
(図 1 )六道珍皇寺所蔵の地獄絵『六道珍皇寺熊野観心十界図』
図の下部中央に賽の河原のこどもたちを救う地蔵菩薩の姿、その左上、血の池地
獄のほとりに女性を救う観音菩薩が描かれている。十界とは、六道に仏、菩薩、
しょうもん
声聞(釈迦の声を聞く、弟子)、縁覚(自分で悟りを開く)を加えたもの。
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関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
世とあの世の境であり、現世から墓所(来世)へいたる中継点で、このあ
たりが、来世との境界である冥界への入口と信じられてきたのである。九
世紀、嵯峨天皇に仕えた小野篁は、学者、歌人としても知られているが、
昼間は宮廷に仕え、夜には井戸を伝って閻魔庁に至って執務したという伝
説が残っている。
輪廻の世界である六道と、解脱の世界である佛・菩薩・声聞・縁覚の四
聖道との計十の世界を描く十界図は、死後の天国と地獄を描くキリスト教
世界の最後の審判の図に似ているとも言える。六道珍皇寺の十界図には、
人間が生まれてから冥界に至るまで(老いの坂)
、冥界に至ってからの行く
末が一目で判る絵が描かれている。こうした絵は、見る者に来し方行き方
を示し、死の彼方にあるものを、臨場感を持って示し、この世の生き方の
あり方を具体的に教えたのである。それは、キリスト教で最後の審判や地
獄を見せる絵画や造形美術が果たしたのと同じ役割を果たしたのであった。
4 .死後の救済
4 −1 .キリスト教の煉獄と仏教の地獄
キリスト教の教義によれば、地獄に救いはない。死後の魂が救われる可
能性があるのは煉獄である。キリスト教の地獄はダンテの『神曲』に見ら
れるように永遠であり、救いがなく、過酷である。現世における罪業のゆ
えに、その種類や深さによって地獄に堕ちるという点で、日本の地獄とキ
リスト教の地獄は類似している。注目するべき点は、仏教の地獄は期限が
あり、かつ、地獄において救いがあることである(cf. 野々村智剣 2007:
36−38、五来重
1991:132−64)。仏教の地獄にとどめられる時間は永遠に
比せられるほど永い。しかし、地獄はあくまで六道輪廻の一環であり、い
つかは次の輪廻に入っていくべき場である。いかに永遠のごとく永いもの
であっても、キリスト教の、文字通りの永遠、終わりのない、脱する可能
性が微塵もない地獄とは本質的に異なる。 もう一点注目すべきは、日本の
地獄絵には、地獄の中に仏がいるということである。地獄の炎に苦しむ男
を助けようとする姿で知られる「矢田地蔵縁起」のほか、子供を救う地蔵、
女性を救う観音の姿が地獄絵の中には見える。
元来仏教の地獄は輪廻の一環であったので、もともとキリスト教でいう
永遠性とは異なっている。仏教の地獄は、源信の場合、
『正法念処経』など
― 35 ―
中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
に基づくいかにも恐ろしい恐怖の場であり、罪のゆえの刑罰の場でしかな
かった。が、次第に、源信を離れ、地獄の中に救いが求められるようにな
り、地獄絵に見られるように、
「救いのある」場所と描かれるようになった。
地獄の場から救われる可能性があることが、仏の慈悲の現われとされるよ
うになったのである(cf. 真保亨
1984:129−61、特に150−51)
。
地蔵菩薩は地蔵和讃や十界図にもあるように、しばしば、地獄にも極楽
にも行けず、賽の河原で永遠に石を積む子どもを救う姿としても描かれる。
地獄の審判者である閻魔と、地蔵とは同一であるとの思想もある(cf. 中田
祝夫 1986:177−80)
。このように地獄に救いを見る傾向は、五来重によれ
ば、仏教の地獄が、祖先の世界を死後の世界と考える古来の根の国の思想
と混合(習合)して理解されるようになったためである。その結果、たと
まんまい
えば、地獄は、満米上人の話に見られるように、子孫を罰するが恵みも与
えるところと考えられるようになった、というのである(cf. 五来重 1991:
148−52)
。おそらくは、元来、仏教の地獄が輪廻の一環で永遠性が無いこと
が、さらに日本人の心性にある祖先の恵みの考え方と混合して、地獄にも
救いがある形態の思想になったと理解できる。
地獄にも救いがあるというという点については、
『日本霊異記』には、地
獄の苦しみの緩和・救済のための追善によって、死者の苦しみが軽減され
えん ら わう
あや
しるし
る、という思想が見られる。下巻第九「閻羅王の奇しき表 を示し、人に勧
めて善を修せしめし縁」に次のような話がある(cf. 中田祝夫 1986:177−
80)
。藤原広足という人物が一度死んで蘇生したが、地獄で妻が苦を受けて
いるのを閻魔王に知らされたので、法花経を写し講読することでその苦を
あがなうために現世へ戻ってきて追善供養した、というものである。ここ
に、閻魔が自ら地蔵である旨述べたことが出ている。
地獄は、キリスト教も仏教も、現世で犯した罪業を罰する場所という点
では共通している。しかし、両者には決定的な相違がある。仏教の場合、
各地獄での亡者の寿命は、気の遠くなるほど長いものであるが、永遠では
ない。地獄の責め苦には終わりがあり、その期間が終ると、その後はまた
六道のいずれかを輪廻する。一方、キリスト教の地獄は永遠の罰、永遠の
業火の場所である。したがって、仏教の地獄は、キリスト教の永遠の罰の
場という地獄とは、本質的に異なった場であることになる。
煉獄が救いの可能性のある場であり、浄化の火によって最後は天国に至
る場と考えられていることと比較すれば、仏教の地獄、とりわけ日本の地
― 36 ―
関東学院大学文学部 紀要 第128号(2013)
獄はむしろ煉獄に対応するとの前述した山田博士の見解はうなずけるもの
である。
4 −2 .死者への祈りと取り成し
魂の救済についていえば、キリスト教では煉獄、仏教では地獄において
それが可能という違いはあるが、仏教の地獄であれ、キリスト教の煉獄で
あれ、そこに救いの可能性がある。双方に共通することは、救済の可能性
のある魂のために、生きた人間が祈り、善行を施すことで、浄化の苦しみ
を軽減できるという思想が見られることである。
仏教の場合は、先の『日本霊異記』の例に見られる。キリスト教の場合、
13世紀のヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』がいくつかのエピソー
ドを語っている。例えば、グレゴリウス大教皇は皇帝トラヤヌスの死後の
霊のために祈り、その祈りのお陰で皇帝の罪は赦されたという。また、あ
るとき、死んだ修道士が彼のもとに現れた。件の修道士は赦免無しに死ぬ
羽目におちいったのだが、死後に教皇が赦免を与えたお陰で修道士の魂は
自由になったと語る(Ⅰ,437−65,特に451−53)。聖パトリックの煉獄の
。諸聖人の祝日については、ある
話はあまりにも有名である(Ⅰ,484−89)
納室係が脱魂状態になり、天国の様子を見せられ、さらに、煉獄の様子を
示され、ここにいる魂の代願のために諸死者の日を定めるよう促したとの
エピソードを語っている(Ⅳ,160−77,特に176−77)。さらに、諸死者の
日については、特別な代願に恵まれない死者が恩恵にあずかれるよう定め
られた日であると述べ、浄められる死者は、悔悛の心はあったが贖罪を果
たさないで世を去った者、贖罪が充分でなかった者や、現世を愛したが、
神をさらに愛した者が現世を愛した度合いに応じて浄化されるといってい
る(Ⅳ,181−202、特に176−77,187,188)。彼らは、地獄の隣にある煉獄
で悪天使によって浄化されるという。
5 .おわりに―死後の魂の行方についての展望
地獄と煉獄の違いはあるが、死後の魂の行方の区別化、死後の魂の救済、
死後の魂の救済を強力にする、死後の魂と現世の人間の間の交流といった
内容を表す、これらのエピソードは、キリスト教であろうと、仏教であろ
うと、人間が永遠の罰、永遠の業火ではなく、永遠の救済を求めているこ
― 37 ―
中世キリスト教と仏教における地獄の恐怖
とをよくあらわしており、改めて、死後の救いを求める心情の強さがうか
がわれる。これは、洋の東西を問わない救済を希求する普遍的な人間性の
一側面が投影されていると理解できる。
キリスト教の地獄についても、仏教の地獄についても、様々な見解があ
る。仏教の地獄についても、地獄などというものはない、あるいは、地獄
はこの世のことだ、という説から、死後の世界というものはない、という
説も含めて様々である。本稿では、庶民の間で一般的である地獄観に基づ
いて論を進めた。そもそも、死者を生者の世界から分かつという区別が、
死後の魂の罰や浄化や救済の思想をもたらし、そのテーマはキリスト教神
学、仏教学の研究で扱われるが、当然、流れもあり、その考え方にも変化
がみられる。一例をあげると、キリスト教のリンボの考え方である。リン
ボとは、旧約時代の義人と未洗礼の幼児が死後にとどめられていると理解
されている。旧約時代の義人はキリストが伴い、天国に入れられた。した
がって、リンボにとどめられているのは未洗礼の幼児ということになる(仏
教の賽の河原にとめおかれている子供に似ている)。このリンボについて、
カトリック教会は、2007年、リンボの中の未受洗の幼児の魂も天国に行く
と修正し、「教皇ベネディクト十六世の2008年11月 2 日の『お告げの祈り』
のことば」で明らかにした(cf. 教皇ベネディクト十六世
2008)
。10
さらに、カトリックにも、それ以外のキリスト教においても、永遠の罰
という教義に疑問を呈する見解は以前からあった。煉獄について論陣をは
ったル・ゴフ教授は、ついには、煉獄は教義からなくなるとの見解と聞く。
辺獄つまりリンボの次に煉獄がなくなるといっているようで、2007年より
11
前の発言ではあるが、すでにリンボの否定を前提しているようである。
私
見によれば、地獄の教義が残って煉獄が消滅するのではなく、むしろ地獄
は煉獄の思想の中に吸収されるのではないだろうか。救いの希望のある煉
獄よりも、永遠の罰の状態である地獄の方が、消滅するにふさわしいと考
えるからである。
10 The Hope of Salvation for Infants Who Die without Being Baptised
International Theological Commission.
11 Vittorio, Messori, Le Goff si Sbaglia il Purgatorio Resta Corriere Della Sera
2009/09/24〈http://archiviostorico.corriere.it/2006/gennaio/07/Goff̲Sbaglia
̲Purgatorio̲Resta̲co̲9̲060107126.shtml〉
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