人文地理学の視点からみた地域のとらえかた

人文地理学の視点からみた地域のとらえかた
田林 明
筑波大学大学院生命環境科学研究科 地球環境科学専攻 教授 2007年度から常陽アークが取り組んできた「持
う。地理学の空間的研究視点をさらに細かくみ
続可能な地域社会を目指す地域区分調査」は、
「持
ると、「位置」や「分布」、「地域」、「環境」、「景
続可能」や「地域社会」、
「地域区分」といったキー
観」、
「空間的相互作用」といったものに細分され、
ワードに示されているように、私が専門として
地理学はこれらの概念にそって地球上の様々な
いる人文地理学と密接なかかわりがあるように
現象をみるのである。
思える。人文地理学は地表面における人間の存
人文地理学は地表面の人文現象を取り扱うこ
在や活動のあり方を考察し、その地域的特質や
とから、研究を進めるための地域調査が重要と
空間的構造を明らかにしようとする学問である
なる。野外での実態の調査体験を出発点として、
が、そのために野外での実態の調査、すなわち
地域の性格や構造を思考するのが基本的な学問
地域調査を重視している。そこで、ここでは一
の姿勢である。しかし、最近では人文地理学の
般には必ずしもなじみが深いとは言えない人文
研究・調査方法も多様化し、役所などで収集し
地理学の視点から、常陽アークによるこれまで
た統計や情報の分析、既存の統計や文献の検討、
の調査結果を振り返ってみることにしよう。
室内実験、モデルを用いた数値実験などが多く
なり、フィールドワークによって知識を積み上
げていくという手間と時間のかかる方法は次第
1.人文地理学の基本的な考え方
哲学者のエマニュエル・カント(1724−1804)
は、当時ドイツ領であったケーニヒスベルク(現
に敬遠されるようになってきた。しかし、地域
調査は人文地理学の基本であり、その価値は依
然として高い。
在のロシア連邦のカリーニングラード)の大学
で40年以上にわたって自然地理学に関する講義
を行った。これはカントの講義の中でも最も評
2.人文地理学にとっての地域区分
判の高いものであった。彼によると世の中の多
人文地理学的な考察にとって、地域区分は重
くの学問は、取り扱う現象によって分類される
要な役割を果たす。それはあたかも歴史学にとっ
ものであった。例えば、動物を研究するのは動
ての時代区分と同じような意味をもっている。
物学であり、経済を取り扱うのは経済学、社会
時代区分は、時間的経緯の中で生起するさまざ
集団の研究をするのは社会学である。カントは
まな現象を分析する際に、諸現象が推移する転
地理学と歴史学はこれらと違って、現象の取り
機に着目して時間を区切り、歴史的性格を整理
扱い方によって分類される学問であるとした。
する作業である。多様な地域をひとくくりにし
すなわち、歴史学は時間的視点で、地理学は空
て分析したり、その性格を捉えたりすることは
間的視点で現象を研究するものであるとし、歴
むずかしいために、ある基準からみて性格の似
史学とともに地理学に科学における中心的な地
ているより細かい地域(部分地域ともいう)に
位を与えた。このようなことから地理学は地表
分けることによって、地域現象を整理するのが
面の様々な事象を空間的視点から分析すること
地域区分である。
に特徴がある。人文地理学は人文現象を取り扱
地域区分は様々な方法で行われるが、ある指
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田林 明(たばやし あきら)
筑波大学 大学院生命環境科学研究科
地球環境科学専攻 教授
1948年生まれ
1971 東京教育大学理学部 地学科地理学専攻 卒業
1975 東京教育大学大学院 理学研究科博士課程、地
理学専攻退学
研究分野:農業の地域差、農業・農村の持続性、農村
空間の商品化、カナダ研究
標に関して均質な性格をもつものとして区分さ
最近の論文:日本農業の構造変容と地域農業の担い手、
経済地理学年報(学術雑誌、2007)52/1,3-25、茨城県
筑西市協和地域における小玉スイカ産地の維持要因、
地域研究年報(大学・研究所等紀要、2008)/30,1-31、
石垣イチゴにみる農村空間の商品化−静岡市増地区を
事例として−、新地理(学術雑誌、2008)56/2,1-20
最近の著書:日本の地誌7 中部圏(朝倉書店、2007)、
日本農業の維持システム(農林統計出版、2009)
70%といった数値で決定することになる。
れたものを等質地域と呼ぶ。たとえばある境界
図1は市町村別の農産物生産額構成比によっ
線を境に畑作地域と稲作地域が広がっているよ
て茨城県を地域区分したものである。畜産が卓
うな例が典型的なものである。現実的には、地
越する北部と中央部、野菜が卓越する南東部と
域はある性質をもつものから他の性格のものに、
西部、水稲作が中心の那珂川や久慈川の流域と、
次第に移行していくので、例えば稲の作付率が
利根川や鬼怒・小貝川の流域に分けることがで
図1 2000年における茨城県における農業地域区分と農家当たりの生産農業所得
(田林,2004による)
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きる。これが農産物の種類を指標にして区分さ
れた茨城県の等質地域である。これに農家1戸
3.持続可能な地域社会
すでに本誌でも持続可能な地域社会とは何か、
あたり生産農業所得の等値線を重ねあわせてみ
それはどのような意味をもっているのか、それ
ると、北部の畜産地域や水稲作が中心の地域で
に至るにはいかにすればよいかが繰り返し議論
は低く、南東部と西部の野菜卓越地域では高く、
されてきたが、再度その内容を確認しておくこ
南部の利根川や鬼怒・小貝川流域では中位にあ
とにしよう。私は主に農村を対象としてこれま
ることがわかり、茨城県のそれぞれの地域の農
で持続可能性を考えてきたが、それを地域社会
業を通した性格がみえてくる。
一般に応用すると、持続可能な地域社会とは「地
これに対して、ある中心地を核として、さま
域資源と環境を保全しつつ一定の生産力と収益
ざまな場所がある機能によって結合されて1つ
性を確保しつつ、現在および将来とも社会的・
の統一された範囲を画定することができるが、
経済的・文化的に安定しており、住民が安全で
これを機能地域と呼ぶ。例えば周辺から中心と
質の高い生活が享受でき、それぞれの住民がそ
なる都市に買物や娯楽のために人々が集まって
の地域社会の一員として意義をみいだし、積極
来る場合、都市が人々を引きつける範囲を機能
的に発展させていこうとする意欲がみられる」
地域という。都市の影響圏である都市圏や通勤
ものと考えられる。
の範囲で示される通勤圏などは、典型的な機能
持続可能な地域社会の実現のためには、図2
地域といえよう。買物行動によって常陽アーク
に示したように、経済的発展とともに生態的(環
が設定した茨城県の18の圏域はまさに、この機
境的)発展、そしてコミュニティ(社会的・文
能地域である。また、1つの機能地域は、性格
化的)の発展といった3つの要素が、総合的に
の異なる等質地域がいくつか集まって構成され
結びつかなければならない。つまり持続可能な
ていることが多い。また、等質地域であろうが
地域社会は、コミュニティ・経済的発展、保全
機能地域であろうが、その地域は周囲の地域と
は異なった固有の性格をもっている。さらに地
コミュニティ・経済的発展
Community Economic
Development
保全主義
Conservationism
経済的発展
域はより大きな地域の部分であるとされ、これ
は様々な空間スケールに地域が存在し、それら
がお互いに階層的な関係にあることを示してい
持続的
発展
る。
コミュニティの
発展
(社会的・
文化的)
生態的発展
(環境的)
自然回帰指向
Deep Ecology
図2 持続可能な地域社会の概念
(田林・菊地,2000より引用)
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主義、自然回帰指向といった2つの要素のみの
生活の側面、すなわち社会的・文化的な側面が
組合せによる発展だけでは達成することができ
特に重要である。すなわち地域住民が相互のコ
ず、3つの要素がともに発展しなければ実現し
ミュニケーションをもち、社会的・文化的な生
ないのである。
活上の諸欲求をみたすことを重視しなければな
高度経済成長期以前の日本の地域社会は、生
らない。このような視点は、諸外国の文献でも
態(環境)的には持続的であり、さらにコミュ
強調されている。たとえば、カナダのマニトバ
ニティといった面でもある程度持続的な性格を
州における持続可能な地域社会の研究を行って
もっている反面、経済的には極めて低位な状況
きたEverittとAnnis(1992)は、持続可能な地域
にあった。しかし、その後の経済的要素の肥大
社会の住民に必要なものとして、表1に列挙した
化にともなう生態(環境)的要素の弱体化、コミュ
住民の資質をあげた。この17項目を要約すると
ニティの崩壊が、1980年代後半から持続可能な
地域社会の住民の能力と意欲の高さ、住民がつ
地域社会が重要視されるようになった背景であ
くる組織、指導者と後継者の教育、社会的・経
る。経済的発展は人間が生活する上では最も基
済的・文化的基盤の充実などが重視されている。
本的なものであるが、生態(環境)的要素の発
次に、これまで述べた、人文地理学の見方、
展と人間的なつながりすなわちコミュニティ活
地域区分、そして持続可能な地域社会という3
動の強化も重要である。
つの観点から、これまで実施されてきた常陽アー
なかでも、人間的な結びつきが極めて希薄に
クの地域区分調査の結果を振り返ってみよう。
なってきた現代の日本では、地域社会における
表1 持続可能な地域社会における住民の資質
① コミュニティに対して誇りをもっているか。
② コミュニティの将来のために時間と知恵と資金を使うか。
③ コミュニティに影響を及ぼす意志決定に積極的に加わるか。
④ より若いリーダーに権限をわたすことができるか。
⑤ 女性をリーダーとして受け入れることができるか。
⑥ リーダーあるいはリーダー予定者がたくさんいるか。
⑦ 教育の価値を強く信じているか。
⑧ 多様な意見を導き出すような手段があるか。
⑨ 情報と新しい技術を容易に入手できるか。
⑩ インフラストラクチャーが整備されているか。
⑪ 積極的な経済開発計画があるか。
⑫ 隣接コミュニティとの協力をおしまないか。
⑬ 外部からのアドバイスをよろこんで受け入れるか。
⑭ 若い世代が学校教育を終えた後、そのコミュニティに帰ってくることを促進するプログラムをもっているか。
⑮ 十分な文化的活動やレクレーション活動を行っているか。
⑯ 自立こそが自分にとってもコミュニティにとっても最良のことであるという信念があるか。
⑰ 発展のための新しいアイディアに常に関心をもっているか。
(田林・菊地,2000より引用)
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4.「持続可能な地域社会を目ざす地域区分
調査」を振り返って
(1)地域区分調査の成果
の特性をもつものでない。図1に示したような、
農業やその他の産業、人口構造、文化、住民生
活の質に関する様々な等質地域をあわせて検討
この調査の最も大きな特徴は、買い物という
することによって、それぞれの圏域の多様性を
人間の生活行動の範囲に基づいて茨城県を区分
認識する必要があろう。もう1つは、それぞれ
して設定した18の圏域ごとに、それぞれを詳細
の圏域相互の関係を検討すること、圏域を様々
に調査・分析したことである。自然環境も産業
な空間スケールで見る必要性があることである。
も人口構成も文化も多様な茨城県を一緒くたで
例えば石岡圏域は土浦圏域の強い影響を受け、
はなく、地域的に整理することによって、それ
土浦圏域は大きな意味で東京の影響下にあると
ぞれの圏域の性格と課題をより明確に把握し、
いった具合である。
圏域の今後の方向性を具体的に示したことは高
地域区分調査では、産業や就業、開発といっ
く評価できる。圏域ごとの調査内容については、
た経済的要素と、保険・医療、公共サービス、
(1)客観的な統計指標による「圏域の全体像」と、
余暇・レクリエーション、文化活動、といった
(2)自治体がかかげる「まちづくり」の要点、
(3)
コミュニティ(社会・文化)的要素については
圏域の住民や企業・団体、行政による先進的な
極めて詳細に多面的に考察されているが、持続
地域活性化への取り組み、そしてこれらに基づ
可能な社会の基礎となる生態(環境)的要素に
いて(4)
「圏域のめざす方向性」を導くという
ついての分析は必ずしも十分ではない。環境問
多面的な分析を行っている。ここで取り上げら
題といった取り上げ方のみならず、各圏域の地
れている住民や団体が取り組んでいる活性化の
形や気候、土壌、水環境といった自然環境その
取り組みは、それぞれの圏域の人間や人間の結
ものや自然を基盤とした景観の質をさらに評価
びつきを含む地域資源を活用する事例であるだ
するべきであり、それが何にもかえがたい地域
けに、将来的に地域の持続性を高める可能性を
資源となろう。真冬でも晴天が続き、室内にお
示してくれる。最後の提言も具体的で、実行可
れば暖房がなくても安穏にすごせる茨城県の気
能なものが多い。
候だけをとっても、北陸出身の私にとっては、
うらやむべき財産に思える。
(2)地域区分調査の課題
各圏域では行政によるまちづくりと企業や団
これまでの地域区分調査の結果については、
体などのユニークで先進的な地域活性化の活動
基本的には高く評価できるが、それでもいくつ
が取り上げられ、それらが圏域の将来を考える
かの課題が指摘できる。その1つは最初の前提
ために重視されたが、一方ではそれぞれの地域
となった圏域の意味である。買い物行動という
のごく一般の生活者はどのような暮らしぶりを
機能によって中心地に結びつけられた地域は、
して、どのような日常的課題を抱え、何を必要
買い物行動という点から見れば確かに均一で、
としているのかが見えてこないことが気になっ
基本的でまとまった生活圏であるが、そこでの
た。地域住民の素顔に迫れるような調査が加わ
住民の生活や社会、産業、文化は必ずしも1つ
れば、より具体的な地域のイメージが得られる
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のではないかと思われる。例えば常陸大宮圏域
を評価し、場所を組織化し、よりよい生活のた
の山間地域における高齢者世帯の日常生活、そ
めに努力している姿を具体的に示してくれるか
のような世帯が住む集落のコミュニティ活動、
らである。景観にみられる特徴の把握から始め
集落の景観などの調査が加われば、より現実味
て、それをつくりあげた当事者に徹底的に聞き
の帯びた結果が得られるのではないかと感じた。
取りを行い、地域の具体的なイメージを得るよ
うにする。これによって解決すべき課題の仮説
(3)地域調査における人文地理学の視点の活用
地域調査は人文地理学のみならず社会学、文
化人類学、経済学など様々な学問で重視されて
ができ、それを、アンケートや聞き取り、観察
や実測、既存の統計や文献・資料によって、実
証するように努める。
いるが、当然ながら人文地理学には特徴的な地
様々な地域現象を自然環境との関わりあいで
域調査のやり方がある。人文地理学者はある場
考察することは、人文地理学の大きな特徴であ
所を調査する場合、まず、その「位置」に関心
り、自然環境がどのように人間生活に影響を及
をもつ。「位置」の概念にもいくつかの意味があ
ぼしたり、逆に人間がいかに自然環境を使用し、
り、例えば日当たりの良さや風の強さ、地形の
さらに長期にわたって持続的に活用できるよう
平坦さ騒音の大きさといった場所そのものの性
に工夫しているかを見つけようとする。
格を立地場所とよび、他の場所との関係、すな
空間的相互作用という見方も人文地理学に特
わち駅やショッピングセンターなどに近いか遠
徴的なものである。例えば、Aという場所に工場
いかといった条件を関係位置と呼ぶ。ある場所
があったとすると、その工場へはBという場所か
や地域を調査する場合、この立地場所と関係位
ら原料が運ばれ、製品はCという消費地に出荷さ
置を考える必要がある。
れるとする。すると、AとBとCという異なった
次は、分布である。ある場所である現象を確
場所は、この工場を介して空間的に関係をもつ
認した場合、それと同じものがどのような空間
ことになり、これを空間的相互作用と呼ぶ。また、
的範囲まで広がっているか、どこで密度が高い
ある場所から情報や文化が周辺に広がっていく
か低いかといったことは、地域現象を解明する
ことも、空間的相互作用の一種である伝播とい
重要な手がかりとなる。そのような分布あるい
う考え方である。ある地域の現象を見たとき、
は機能の及ぼす空間的範囲を区切って地域を取
それがどこからどのようにして伝わってきたか
り出し、それを分析する重要性は、この常陽アー
に関心をむけることが、この現象の起源や存立
クの地域区分調査で示された通りである。
条件を解明する有力な手がかりとなる。
私どもは、地域調査の際には景観の観察から
このように、人文地理学的な視点から見れば、
始めることが多い。なぜなら、景観はそこに住
これまでとはまた異なった地域の性格や側面が
む人々が、彼らの伝統や価値観、文化、技術水
発見できるかもしれない。
準を背景とし、与えられた自然的・場所的資源
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