奈良学ナイトレッスン 第 11 期 ユーラシアから大和へ―時空を超えた祈り

奈良学ナイトレッスン 第 11 期 ユーラシアから大和へ―時空を超えた祈りの旅
~第二夜 中央アジアのオアシス都市から─興福寺フェスタ阿修羅~
日時:平成 26 年 2 月 26 日(水) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:菊地章太(東洋大学教授)
内容:
1.「阿修羅」とは何か
2.仏教に採り入れられた八部衆
3.中央アジアから中国に伝わった祭り
4.「行像」の仏像は軽くて頑丈
5.興福寺阿修羅像の魅力
※実際の講座では、[]のスライドを映写しました。
1.「阿修羅」とは何か
今回のサブタイトルの「フェスタ」はイタリア語でお祭のことです。英語のフェスティバルでも
いいのですが、語呂のいい方を選びました。ずばり阿修羅像はフェスタのために造られた、これが
今日の結論です。そしてそれがユーラシアの広範囲にわたる長い伝統でした。
そのフェスタとは日本でいう花会式(はなえしき・灌仏会とも。薬師寺の花会式とは別)です。
日本では生まれたばかりのお釈迦様の像に甘茶をかけるだけですが、ユーラシアではこれを山車
(だし)に乗せて町中を練り歩く。これを行像(ぎょうぞう)と呼んでいます。この行像に随行し
たのが十大弟子と八部衆の像でした。かついで歩きますので、軽量で小ぶりに造られます。阿修羅
像は乾漆(かんしつ)という技法で造られていますが、これは言わば張り子の虎です。木の芯棒以
外に中味は入っていません。この技法は中国では行像のために考案され、それが中央アジアや日本
にも伝わりました。阿修羅は行像フェスタのために造られた。それを、今からたどってみましょう。
[乳海攪拌『マハーバーラタ』ヴィクトリア&アルバート美術館]
インドの叙事詩『マハーバーラタ』の一場面です。天空にそびえるメールの山のいただきに神々
が集まり、アムリタと呼ばれる不死身の薬を手に入れたいと考えました。そのときヴィシュヌ神が
命じました。神々とアスラたちとでともに海を攪拌(かくはん)せよ、そうすればアムリタが得ら
れる、というのです。そこで神々は大きな山をひきぬいてきて海まで運び、大きな亀の背に乗せて、
大蛇を山に巻きつけた。神々とアスラたちはそれぞれ両端をひっぱり、山をぐるぐるまわして海を
攪拌しはじめました。左には神々、右にわさわさといるのがアスラたちです。山の上で音頭を取っ
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ているのはヴィシュヌ神です。神々の中に顔が4つあるシヴァ神がいます。これもアスラに関係が
ありますが、これはのちほどお話しします。
攪拌が始まると大音響が起こって、海にいる生き物は死に絶え、海の水が乳にかわり、その中か
ら太陽と月が現れ、いろいろな神さまが現れ、最後にアムリタが現れました。これを見たアスラた
ちは、アムリタを独占したくなって、武器を手にして神々に襲いかかりました。この大混乱のさな
かに神々はヴィシュヌ神から渡されたアムリタを飲んだ。ところがそのすきに、アスラの一人が神
様に変装してアムリタを飲みはじめた。それが喉まで達したとき、太陽と月がそれに気づいてヴィ
シュヌ神に告げました。ヴィシュヌ神はすかさずアスラの首をはねましたが、アムリタを飲んだ首
から上だけは不死身になって生き残りました。それからあと、太陽と月をうらみ続け、ときどき腹
いせに呑みこんでしまう。それが日蝕や月蝕の原因であるとインドの人々は考えました。
このアスラに漢字を宛てて阿修羅と呼びます。興福寺の阿修羅像には手が6本ありますが、その
うちの2本は左右に高くかかげています。ここにはかつて日輪と月輪が載っていました。日蝕と月
蝕を引き起こす阿修羅は、日輪と月輪を両手につかむ。これが阿修羅像の伝統的なスタイルです。
[1.アート・ニュースペーパー 2010]
2009年に東京国立博物館で国宝阿修羅展が開かれましたので、ご覧になられた方もおられる
と思います。観客動員数はその年の展覧会の世界最高でしたから世界中で話題になりました。イギ
リスの美術専門誌『アート・ニュースペーパー』にも特集記事が掲載されたほどです。「日本人の
展覧会好きは不況知らず」と書いてあります。トップ30が出てますが阿修羅展は断トツ1位です。
[2.六地蔵 絵本『笠地蔵』
]
阿修羅像にどのような魅力があるのかを考えてみたいのですが、その前にまず、そもそも阿修羅
とは何かと言いますと、実は昔話の『笠地蔵』に関係があります。仏教の教えに六道輪廻というの
があります。人は死んだら、いずれどこかに生まれ変わる。その生まれ変わる先は6つあるという
教えです。その6つというのは、天、人間世界、修羅の世界、畜生の世界、餓鬼の世界、そして地
獄です。修羅とは阿修羅のことです。この6箇所のどこへ生まれ変わっても、お地蔵様は助けに来
てくれる。阿弥陀様も観音様も私たちを救ってくださるけれど、地獄へ堕ちたら、そこまでは来て
くれない。そこまで来てくれるのはお地蔵様だけです。ですからお地蔵様が信仰され続けてきたの
です。六道すべてお地蔵様が助けてくれる。それを願って、お墓の入口に地蔵の像を6体立てます。
昔話の笠地蔵は、全部で6体です。
[3.修羅道 聖衆来迎寺]
阿修羅の世界とは何かと申しますと、一言で言えば争いの世界です。阿修羅はインドラと常に争
っています。仏教で帝釈天と呼ばれるインドラとの戦いに固執するあまり、戦いから抜けだすこと
ができずに苦しみ続けている。阿修羅から阿を取って修羅とも言います。修羅場という言葉がある
とおり、争いに明け暮れている世界です。阿修羅の世界とはまさに修羅場が繰り返される世界です。
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地獄よりはましだとしても、人間世界にははるかに劣る。仏教ではそう言いますが、この人間世界
だって十分に修羅場だと思います。人間の本能の中に争いを好むところがある。あるいは、争いた
くなくても争いに引きずりこまれてしまう。私たちの日常も阿修羅の世界と変わりがありません。
[4.阿修羅 敦煌莫高窟]
阿修羅はヒンドゥー教から仏教に取りこまれて、仏教の経典にも登場するようになります。阿修
羅は私たちが住む世界のはるか北にある海の底に住んでいるとあります。敦煌の壁画に描かれた阿
修羅は、4つの目と4本の手を持ち、太陽と月をわしづかみにする。左右に風神と雷神がいて、世
界に大混乱をもたらしている姿です。
[5.アスラ バンテアイ・スレイ出土]
狂暴なアスラの兄弟がいました。神々はこの兄弟を退治するため、絶世の美人の天女をこしらえ
ました。天女は神々を讃えて、そのまわりを右廻りしました。これはインドでは最高の敬意の表現
です。偉大なシヴァ神は堂々と前を向いて坐っていましたが、天女が右脇を通るとき、見たくてた
まらなくなって顔の右にもうひとつ顔が生じました。それから後ろにも左にも顔が生じて、全部で
顔が4つになりました。困ったおじさんです。
カンボジアのアンコール遺跡から出た浮彫には、狂暴なアスラの兄弟が天女を奪いあい、血みど
ろになっている場面が描かれています。
[6.阿修羅面 法隆寺]
阿修羅の像というのは、決して穏やかな表情はしていません。そこが他の仏像とは大きく違うと
ころです。私たちの心のどこかに、争わずにはいられない本性がある。それが阿修羅の表情の中に、
ときにはむき出しになって現れています。
法隆寺に伝わる阿修羅の面は、聖徳太子の忌日とされる旧暦2月22日に、太子7歳のときの像
を載せた御輿をかついで歩き、それを取り囲む八部衆の面の一つです。この八部衆の面の用途は、
今日の話の展開にとってたいへん重要です。
[7.阿修羅像 興福寺(左正面)
]
阿修羅の顔は眉根のところに険しさがあります。表情に険がある。他の仏像ならばありそうな安
らぎがない。ですが、かえってそこが魅力です。私たちは、仏様ではあるまいし、いつも穏やかで
いられるわけがない。心の中は怒りだの憎しみだのにあふれていて、それを押し殺して生きている。
それは辛いし、苦しい。阿修羅は、苦しんでいる。その苦しみを眉間にたたえています。
お寺のお坊さんがおっしゃっていました。阿修羅は争うことのむなしさや愚かさを超越しており、
その苦しみから解き放たれているそうです。でも私にはこの阿修羅の表情が何かを超越していたり
解き放たれているようには見えません。そういう美しい心を持つことができない、そんなゆがんだ
この性格と一生つきあっていくしかない、そういう辛さを私ならばこの阿修羅像に見たい気がしま
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す。
何と言っても眉根が美しい。美しいといっても、優美な美しさではありません。険しい美しさで
す。自分に対する悲しみが、眉を寄せた険しさの中に、痛いほどこめられている気がします。
[8.阿修羅像 興福寺(右正面)
]
仏像は言うまでもなく立体ですから、さまざまな角度から見ることができます。むしろ角度を変
えて見れば、違った表情が見え、違った魅力が感じられる。阿修羅像を向かって右下から見ると、
頬にやわらかささえただよっています。そこにこの像のよさを見出す方もきっとおられると思いま
す。
阿修羅のどこにどんな魅力を感じるかはその人次第、などというよりも、その人を映し出してい
るという気がします。眉根を寄せた阿修羅しか見えないということは、私自身がそういう人間だと
いうことの投影になってしまいます。だから、この像はひとりでそっと見たいと思います。
仏像を見る視点ということで言えば、たいていの仏像はお寺の中で須弥壇の上に置かれているた
め、いくらか高い位置にあるのが普通です。しかも座って拝むとすれば、かなり見上げる角度にな
るはずです。おそらくその角度が仏像の大事な視点となるはずです。また、お寺の中であれば、暗
い本堂の中でろうそくの炎が揺れているだけです。天井はほとんど闇のように暗いのが普通です。
かすかな炎が揺れる中にいる姿が、仏像の本当の姿なのかもしれません。
薄暗いお堂の中に浮かびあがる阿修羅の表情は、もしかしたら恐ろしいものだという気がします。
でも恐ろしいということは、信心にとっても、また美を見つめるうえでも、とても大事なことです。
この阿修羅像も、お堂の中で見るともっと別な魅力があるかもしれません。
2.仏教に採り入れられた八部衆
[9.沙羯羅像 興福寺]
八部衆の一人沙羯羅(さから)です。興福寺の沙羯羅像は頭上で蛇がとぐろを巻いています。も
とはインドのナーガという蛇の神様です。水の湧き出る泉で崇拝されています。インドではコブラ
の姿で表されますが、中国にはコブラがいないので龍王と訳されました。龍王は8人いて八大龍王
といいます。その一人がサーガラで、漢字を宛てて沙羯羅と呼びます。浅草の浅草寺の境内にも沙
羯羅の像があります。
[10.迦楼羅像 興福寺]
同じく八部衆の迦楼羅(かるら)は、インド神話のガルーダがもとになっています。頭は鳥、体
は人間で、翼が生えています。ヴィシュヌ神の乗り物です。ヴィシュヌ神は世の中が平和な時は、
ナーガをベッドにして寝ています。ところが世界に危機が訪れると、このガルーダに乗って駆けつ
けることになっています。
[11.乾闥婆像 興福寺]
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乾闥婆(けんだつば)はインド神話のガンダルヴァがもとになっています。阿修羅の敵のインド
ラに仕えていて、音楽をつかさどっています。半分神様、半分獣というのが本来の姿ですが、絵や
彫刻では頭に獅子の冠をかぶった姿で表されます。
[12.乾闥婆面 法隆寺]
法隆寺の乾闥婆の面も同じように、獅子の冠をかぶっています。
この乾闥婆の面には目が4つあります。乾闥婆のイメージはインドの執金剛神(しつこんごうし
ん)と混ざりあっているところがあります。ですからその姿はバラエティがありますが、四つ目と
いうのは異例です。ただ、八部衆はどれもヒンドゥー教の神様がもとですから、顔が鳥や獣だった
り、手が何本もあったり、目が余分についていたりするのが、かえって一般的だと言えます。
[13.童子経曼荼羅 智積院]
乾闥婆はお母さんのおなかの中の子どもを守る神様として、崇拝されてきました。密教の経典に
は、乾闥婆が子どもに近寄ってくる悪鬼を退ける、と説かれています。これは京都の智積院に伝わ
る童子経曼荼羅(どうじきょうまんだら)です。子どもを守護する童子経法という修法の本尊とし
て祀られています。
こういう形で、八部衆の面々はもともと仏教の神様でなかったものが、仏教に取り入れられ、仏
教を守護する存在として崇拝されてきたわけです。
[14.涅槃像 法隆寺五重塔]
八部衆の中には乾闥婆のように単独で崇拝されるものもありますが、8人全部が揃っているのは
めったにありません。法隆寺の五重塔の中のお釈迦様が亡くなる場面に、そのうちの何人かが登場
します。お釈迦様の足元に阿修羅の姿があります。
さてその八部衆は、お釈迦様が亡くなる場面と、お釈迦様が生まれた場面に揃って登場します。
お釈迦様誕生の場面こそ八部衆にとって大事な活躍の場でした。
3.中央アジアから中国に伝わった祭り
[15.西域求法僧 ギメ美術館]
中国に法顕(ほっけん)というお坊さんがいました。経典を求めてインドまで旅した僧侶です。
法顕は399年に長安の都を出発しています。法顕のインド旅行は、自身の記録がありますので、
それによって旅行の行程をたどることができます。
[16.タクラマカン砂漠]
中央アジアといえばシルクロードという言葉が思い浮かびますが、これは西洋人が付けた名称で
す。中央アジアの砂漠地帯を昔の中国人は流砂と呼びました。流砂海西とも言います。海の西に砂
漠が広がっているからです。海には水が流れる。しかし海の西には砂が流れます。
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法顕は敦煌を通り、そこから中央アジアのタクラマカン砂漠の南側を通っていきました。タクラ
マカンの南西にあるコータンという古い町に立ち寄って、3カ月ほど滞在しています。ここで行像
を見物するためでした。生まれたばかりのお釈迦様の像を山車に乗せて、町を練り歩くお祭りです。
[17.カラホト 内蒙古自治区]
中央アジアでは仏教が盛んに信仰されていました。しかし10世紀以降は、イスラムが浸透して
いき、完全にイスラム化されてしまいます。かつて栄えていた仏教寺院は、今はまったくの廃墟と
なっています。流れる砂が幾世紀ものあいだに何もかも呑みこんでしまいます。水も何もかも呑み
こんでしまう。水や砂の方が人間の造りだしたものよりも強くて恐ろしいのかもしれません。
[18.クチャ 新疆維吾爾自治区]
現在は中国の領土になっているクチャの町の様子です。その近くで、同じ小さな仏教国であった
コータンの町には、かつて大きな寺が14もありました。ひとつの寺ごとに1日がかりで行像が催
されたため、よその町だとたいていは1日、2日で終わる祭が、ここでは2週間もかかりました。
お釈迦様の像を乗せる山車も宮殿のようなこしらえです。コータンの王様がこれを出迎え、冠をぬ
いで、裸足になり、仏像の足もとにひれ伏したと言います。車が城内に入ると、花びらが雨のよう
に降り注いだと伝えられています。こうした行像の祭というのは、中央アジアの国々では、国をあ
げての行事として催されていました。
[19.玄奘三蔵 東京国立博物館]
『西遊記』の三蔵法師のモデルになった玄奘(げんじょう)三蔵です。玄奘のインド旅行も『大
唐西域記』にくわしい記録が残っていますので、その足跡をたどることができます。
[20.大唐西域記 法隆寺写本]
玄奘はタクラマカン砂漠の北側を通りましたから、途中のクチャで行像を見ています。仏像を宝
石で輝かせ、綾錦で飾り、山車に乗せて引いていったとあります。雲のごとく見物人が集まったと
記されています。
[21.エサラ・ペラヘラ祭
スリランカ]
スリランカで現在も行なわれているエサラ・ペラヘラ祭は、仏様の歯を背に乗せた象が町を練り
歩く祭です。ブッダの歯が4世紀にインドからスリランカに贈られ、仏教徒の崇拝の対象となって
いました。中国からインドにお経を求めに来た僧侶たちもここに巡拝しています。7月から8月の
エサラ月に行なわれるスリランカ最大の祭です。
法顕はスリランカに渡って、この祭を見物しています。3月から始まって90日もの間、昼夜を
分かたず行なわれたと述べています。道の両脇にブッダの前世の物語を絵に描いて飾りました。と
もしびを灯し、お香をたいて雲のごとく人が集まったとあります。運ぶのはブッダの歯ですが、そ
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れはブッダその人を乗せていることと変わりがありません。行像とまったく同じ行事と言ってよい
と思います。
[22.皇帝巡行 鞏県石窟]
行像の祭は中央アジアから中国へも伝えられました。南北朝時代に北中国にあった北魏は、仏教
が盛んに崇拝された国です。首都の洛陽では盛大な行像の祭が行なわれました。6世紀に造られた
鞏県(きょうけん)石窟の浮彫には、北魏の皇帝が臣下や僧侶を従えて行列する様子が表されてい
ます。洛陽の寺へ巡行するときの光景と考えられますが、皇帝みずからが先導した行像のようすを
思わせるものです。
[23.弥勒下生経変 安西楡林窟]
敦煌に近い安西楡林(あんせいゆりん)窟の壁画には、弥勒の経典に語られたお城の中の様子が
表され、楼閣のような山車の下に車輪が描かれています。行像のときお釈迦様の像を乗せた車を想
像させます。この壁画が描かれた9世紀に敦煌はチベットの吐蕃(とばん)王国に支配されていま
したが、そこでも行像は盛んに行なわれていました。ですから、この巨大な山車は、行像のとき用
いられた実際の車をそのまま写したとも考えられます。
[24.弥勒授記図 ベゼクリク石窟]
チベットやモンゴルでは20世紀に至るまで、弥勒の巨大な像を山車に乗せて運ぶ祭が行なわれ
ていました。中央アジアのベゼクリク石窟の壁画では、そうした祭の情景が、そのまま描かれてい
ると考えることができると思います。
[25.誕生釈迦像 ペシャワール博物館]
お釈迦さまが生まれたとき、ヒンドゥー教の神様、ブラフマーとインドラ、つまり梵天と帝釈天
がお祝いにやってきました。仏教を開いた人の誕生日にヒンドゥー教の神様がお祝いにくる。この
おおらかさが素敵です。神々が、生まれたばかりのお釈迦様に水を注ぎます。日本ならば産湯をつ
かわすところですが、暑いインドでは水を頭から注ぐのでしょう(お釈迦様が生まれたのはヒマラ
ヤに近いところですが)
。そうした場面が、このような彫刻や絵に表されるようになりました。
[26.誕生釈迦像 東大寺]
誕生釈迦像に水を注ぐ祭があります。日本では小さなお釈迦様の像に甘茶をかけます。お釈迦様
の誕生日は4月8日とされていますので、この日に行なわれます。水浴の浴という字を使って浴仏。
あるいは灌(そそ)ぐという字を使って灌仏(かんぶつ)とも呼びます。桜の季節に行なわれるの
で花会式とも呼ばれます。
東大寺の誕生釈迦像はさすがに堂々としたものです。韓国では花会式はかなり大規模に行なわれ
ます。ただ、日本でも韓国でも釈迦像はたいてい寺院の庭にしつらえておくだけですので、行像の
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ように移動はしないのがほとんどです。
行像はお釈迦さまの誕生会フェスタですから、主役はもちろん誕生釈迦像ですが、これに随行す
る像がいくつもありました。それは何の像だったでしょうか。
[27.鬼神像 トムシュク出土]
中央アジアのトムシュクの寺院の跡から出土した4~5世紀の鬼神像の頭や、敦煌には獅子頭の
兜をかぶった鬼神像があり、法隆寺の伎楽面の乾闥婆も同様ですので、これも八部衆の一人、乾闥
婆に違いありません。5世紀前後の中央アジアですでに八部衆の像が造られていたことがわかりま
す。
4.釈迦十大弟子
[28.龍頭 晴明神社]
北中国の鄴〔ぎょう〕という古い町のありさまを記した四世紀の書物に、釈迦誕生祭に関する記
事があります。機械仕掛けの山車があり、龍が釈迦像に水を注ぐ。木でできた道人の像10体が袈
裟をまとい、お釈迦様のまわりをめぐり、その前へ来ると礼拝して、お香を焚いたとあります。そ
れがからくり人形によって演じられたのです。10体の道人像は、お釈迦様の10人の弟子たち、
つまり十大弟子と考えられます。十大弟子の像もまた行像に随行していたことがここから知られま
す。
[29.舎利弗像 敦煌莫高窟]
十大弟子の筆頭、シャーリープトラは、漢字をあてて舎利弗(しゃりほつ)と呼びます。お釈迦
様の弟子で智慧第一と言われた人です。敦煌莫高窟の塑像では、目を閉じて思索を凝らしており、
舎利弗は常にこうした聡明な姿で表されます。
[30.阿難像 敦煌莫高窟]
十大弟子のひとりアーナンダは、漢字で阿難(あなん)と呼びます。年若い弟子で、いつもお釈
迦様に仕えていました。たくさん教えを聞いたので、多聞第一と言われます。アーナンダの教えを
聞く人は、聞いているだけでほれぼれした。アーナンダが黙っていても、見ているだけでほれぼれ
した。これはお釈迦様の言葉として仏典に書いてあります。ですから、絵や彫刻にするときは、と
びきり美男に表現する伝統があります。
[31.須菩提像 興福寺]
興福寺の十大弟子の中で一番人気は須菩提(すぼだい)だと思います。ナイーブで涼しげな顔だ
ちです。興福寺の十大弟子の像がそれぞれ誰を表しているのかは、実は明確な根拠があるわけでは
ありません。ユーラシアの伝統から考えると、興福寺の須菩提像はアーナンダかもしれません。
先ほどのからくり人形の十大弟子は木でできていましたが、行像に随行する十大弟子や八部衆は、
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ほとんどの場合、別の素材で造られます。主役の誕生釈迦像はもともと小さなものですから、たい
てい金属製ですが、それに随行する像は、かつぎだして山車に乗せるなり、持って歩くなりするた
め、金属や石の像では無理があります。それはどんな素材で造られた像であったのかを、考えてみ
たいと思います。
4.「行像」の仏像は軽くて頑丈
[32.十大弟子木心 東京藝術大学]
興福寺の十大弟子の体は、木や竹で芯棒を造られています。芯の上に粘土で型を作ります。型の
上に麻布を貼って、その上に漆を塗ります。漆の上にまた麻布を貼って、さらに漆を塗る。つまり
麻布を貼り重ね、漆を塗り重ねていく。これを何重にも重ねていき、乾燥してから中の粘土を掻き
出して仕上げます。興福寺の十大弟子も八部衆もそうした造り方でできています。
[33.乾闥婆像(構造図)
]
八部衆の中の乾闥婆の木枠の見取り図があります。頭まで届く芯棒と、両肩から両脚までの芯棒
の全部で3本の縦の軸に、横の軸を棚板のように付けています。腕のところはさらに別の芯を入れ
ています。
玄奘三蔵の『大唐西域記』には、中央アジアのコータンの町はずれの寺に、クチャからもたらさ
れた仏像があったと記されています。それは夾紵(きょうちょ)の像だったとあります。夾は「は
さむ」という意味です。紵は「いちび」という麻の一種で、その繊維で織った麻布を言います。麻
布を貼り重ね、漆を塗り重ねますから、麻布と漆を相互にはさむことになります。乾燥してから中
の粘土は掻き出します。そうすると芯棒と表面の麻布と漆だけになり、たいへん軽量にできあがり
ます。興福寺の八部衆も十大弟子も重さは14キロ前後です。しかも麻布に塗り重ねた漆が固まれ
ば、極めて堅牢な仕上がりになります。
日本ではこれを乾漆と呼んでいます。つまり日本では麻布ではなく、漆の方に注目した呼び名で
すが、夾紵も乾漆も同じことです。これは張り子の虎と同じ技法です。粘土の型の上に和紙を幾重
にも貼り重ね、やはり土はあとで掻き出しますから、中は空っぽ。中空です。軽くてしかも頑丈な
ものができあがるわけです。
[34.漆砂硯 馬王堆出土]
中国の夾紵の方は紀元前にさかのぼると考えられています。有名な馬王堆(まおうたい)の漢代
の墓から、夾紵によって作られた漆器が出土しています。この墓は紀元前2世紀のものと推定され
ていますから、2000年以上も前から行なわれていた技術であることがわかります。
[35.五部浄像 興福寺]
興福寺の八部衆の中の五部浄(ごぶじょう)は下半身が失われていますので、乾漆の技法がよく
わかります。断面を見ると麻布は5枚重ねてあります。土を抜くため背中をいったん切り開いて土
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を掻き出す。そのあと開いた部分を糸で縫い合わせてふさいでいるのがわかります。
夾紵の仏像は中国でも行像に用いられました。中国の西、甘粛(かんしゅく)の寧夏(ねいか)
という町で行像が催された記録があります。お坊さんたちが夾紵の仏像をかついで、幡(ばん)を
はためかせ、歌を歌いながら町中を練り歩いたとあります。寧夏の町は長安と敦煌を結ぶ拠点です
から、ここを経由して中国の文物が中央アジアにもたらされたことが考えられます。
この漆を用いた夾紵の技術というのは、どこで始まったのかと言いますと、やはり中国ではない
かと考えられます。中央アジアの遺跡からも漆塗りの鉢が出土していますが、素材が中央アジアに
はない籐(とう)であることや、装飾が中国の伝統にもとづいていることから考えて、中国製品が
輸入されたことは間違いありません。夾紵の仏像も中国からもたらされたか、あるいは中国からも
たらされた技術で造られたと判断してよいと思います。
5.興福寺阿修羅像の魅力
[36.持国天像 當麻寺]
中央アジアから中国にかけて盛大に催された行像の祭ですが、これは古代の日本に伝わったので
しょうか。今のところそうした事実は確認されていません。ですがこの祭を構成している要素に注
目してみると、いくつかの可能性が浮かびあがってきます。
今までのところ、もう一度確認してみますと、行像の祭で誕生釈迦像に随行する像は、梵天・帝
釈天・四天王・八部衆とさらに十大弟子の像がありました。祭に使われた像は中国で夾紵と呼ばれ、
日本で乾漆と呼ばれる技法で造られていたことが明らかです。乾漆像を造るにはたいへんな手間と
費用がかかります。あえてそのような像を造ったのは、行像という使用目的を前提にしていたと考
えられます。
奈良の大安寺に関する史料の中に、天智天皇が即(そく)の像を造らせたという記事があります。
古代の日本では乾漆をこの即の字で呼んでいます。即の四天王像が造られ、つづいて即の羅漢(ら
かん)像つまり僧侶の像10体と八部衆一揃えが加えられたと記されています。
當麻寺には乾漆の四天王像があります。當麻寺の本堂の本尊は前回お話しした當麻曼陀羅ですが、
本堂とは別に金堂があり、そこの本尊は弥勒如来像で、粘土で造られた塑像です。本尊が塑像なの
に、それに従う四天王が乾漆という、手間も材料費も格段に違う技法で造られるのは不可解だとさ
れています。また本尊の両脇には脇侍があったはずですから、さらにそのまわりに四天王までいた
とすれば、本尊の台である須弥壇が小さすぎます。ですから四天王像はもともとこの堂のものでは
なく、どこからか運び込まれたものと考えられます。もとの出所も造られた年代もわかりません。
7世紀、天平時代の前の白鳳期のものという意見もあります。
[37.興福寺曼荼羅 京都国立博物館]
天平5年、733年に、光明皇后のお母さん橘三千代が亡くなりました。皇后はその供養のため
に興福寺に西金堂を建てさせました。興福寺の歴史を記した史料によりますと、本尊は釈迦像で、
その他に梵天・帝釈天・四天王・八部衆とさらに羅漢像10体が造られたとあります。これらの仏
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像の材料については記されていませんが、西金堂の造営に関する資料が正倉院文書の中に残ってい
て、このとき大量の漆が購入された事実が明らかになっています。今の分量に換算して1500リ
ットルになります。それほどの大量の漆が使用されたのは、仏像がことごとく乾漆像で造られたこ
とを物語っています。
興福寺は創建以来たびたび火災にあっています。西金堂も何度も火災に見舞われていますが、お
堂の中の仏像はそのたびに運び出されて焼失をまぬがれています。これは乾漆像で軽量であったた
め運び出すのが容易だったおかげです。
西金堂は現在はありません。京都国立博物館にある「興福寺曼荼羅」は、平安時代の終わりに興
福寺が焼き討ちにあう直前の西金堂のようすを描いたものと考えられています。本尊の釈迦像のま
わりに梵天と帝釈天の像、十大弟子とさらにその周囲に八部衆の像が描かれています。阿修羅像は
左上に見えます。
阿修羅は顔も体も真っ赤です。もともとこの絵の通り、真っ赤な顔、真っ赤な体でした。今も阿
修羅像には黒ずんだ表面に赤い彩色のあとが残っています。真っ赤な阿修羅はどんな雰囲気だった
でしょうか。上に掲げた2本の手は二つの輪、つまり太陽と月をかかげています。敦煌の壁画と同
じです。
[38.阿修羅像 興福寺]
興福寺の古い記録には、橘三千代の供養のために釈迦像のまわりにおともの像が造られ、さらに
僧侶400人に「行道」を行なわせたと記されています。行道は道を行くと書きます。日本では仏
像や仏殿のまわりを回ることを意味しますが、中国の仏教文献を見ますと行像と同じ意味で用いら
れています。やはり八部衆と十大弟子の像は、かついで歩くために、乾漆という手間も費用も格段
にかかる技術で造られたとみることができます。
この阿修羅像が誕生釈迦像をガードしながら行進した。そんな姿を想像してみたいと思います。
鳥の顔をした迦楼羅も目立ったでしょうが、手を何本もつき出した阿修羅は、ひときわ人々の目を
引いたはずです。手が動き出し、体が回転するように見えたかもしれません。暗い場所でしたら、
なおさらに怪しげな、シュールな光景だったに違いありません。そこには私たちの知らない阿修羅
像の魅力があったのかもしれません。
[39.興福寺冬]
奈良は盆地ですから、2月は凍てが厳しいころです。まわりの山々、金剛、葛城、生駒、二上山、
みんな凍てつきます。
[40.興福寺春]
でも、あとひと月もすれば、やわらかな春の奈良になります。これは猿沢の池越しにのぞむ興福
寺の五重塔です。3月の奈良でしたら、お寺も仏さまもゆっくりお詣りができます。阿修羅も独占
できます。みなさまもどうぞお出かけください。
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