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全力疾走で駆け抜けたわが子博嗣へ捧ぐ 父 市川健二 博嗣は1962年

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全力疾走で駆け抜けたわが子博嗣へ捧ぐ
父 市川健二
博嗣は1962年(昭和37年)1月9日山口県宇部市の中原産婦人科病院で産声
を上げました。家内は7日から陣痛が始まりまる2日苦しみましたが生まれず、私も
そうは会社を休めないので9日に出社すると直ぐ電話があり、此の儘では胎児も母体
も危ないので今から帝王切開したいがよろしいか、とのことで病院に戻り手術に立ち
会いました。
手術室で家内の両手を頭側から握り1部始終を見ました。表皮・筋肉・脂肪・下皮・
子宮と切開,陣痛が始まるとお腹の上 10 センチ位(計ったわけはないのですが)腸
がとびだし、陣痛が収まるのを待ってお腹の中に押し込み手術を続けました。
麻酔は局部麻酔で痛がると注射をして手術を続行、開腹した両側にはカンシが沢山
ぶらさがり、その触れ合う音がパチンコの玉をお腹の中に入れられるような気がして
とても怖かったそうです。手術は30分〜40 分位とのことでしたが2時間ほどかか
りました。
子宮はピンク色でとても美しく感動しました。まる 2 日の陣痛、局部麻酔の家内も
大変でしたが、博嗣も苦しんだのでしょう取り上げられた時には暫く泣きませんでし
た。両足を持ち逆さにしてお尻を数回叩くとやっと産声を上げ難産なお産は終わりま
した。生まれた子はしわくちゃまみれ、顔は真っ赤お猿のような子を産んで悲しかっ
たと後に家内が言っていましたが、しわが多く赤いほど後にきれいになるというのは
本当だと思いました。
10 日ほどの入院の間母乳が出ないので毎日ミルクを作り飲ませることと、産湯を
使わせるのは私の仕事でした。その時の大失敗談は、義兄が見舞いに来られコーヒー
を出したのは良いのですが、砂糖と味の素を間違えたっぷり入れて出した所、コーヒ
ーとはこんなにまずいものかと思いながらそれでもみな飲んでくれたのですが、後に
聞いて赤面すると共に冷や汗をかきました。
退院した博嗣はミルクを良く飲み、就寝前には哺乳瓶 1 本(200cc)飲み干し
てぐっすり寝て朝まで起きませんでしたのでとても楽でした。誕生後数年は病気らし
い病気もせず、すくすく育ち私がバドミントン部やソフトボール部の部長をしていた
ので県内あちこちミルク・哺乳瓶・おしめ持参で旅をしたものです。
西宇部のアパートに居た時 1 度だけ腸じゅうせき(腸が腸の中に入る病気で命にか
かわる病)をしましたが、松岡先生のお陰で 1 命を取り留めました。
博嗣は幼いころはとても可愛い子で女の子と間違われ、お嬢ちゃんでしょう。いい
え男の子ですと答えるとパンツ脱いでとからかわれることが度々でした。現在の姿か
らは想像もつかないものでした。
私達結婚後 4 年目に然も年を取って難産の上出来た子であり、特に家内は目に入れ
ても痛くないほどの可愛がり様で、一寸姿が見えないと気が狂ったように探し回り過
保護に育てました。あまり干渉しすぎたので自分では何も出来ない子に成るのではな
いかと、心配しましたが中々どうして芯の強い子に育ちました。小学校 5・6 年頃下
関で先生をしていた従兄弟のところへ家出して(1 度も行ったことも無いのに)甥か
ら電話を受けるまで知らず吃驚したこともありました。又小学校に上がる前宇部空港
から大阪まで 1 人で行き、家内の妹の所で数日過ごしましたが、流石に着いた日は淋
しかったのかしょげかえっていたそうですが、直ぐ元気を取り戻し楽しく過ごしたよ
うです。
あまりにもひ弱そうなので小学校 3 年から柔道を習わせ次男(小1)と共に有段者
となり逞しく育ちました。大学ではボクシン部に入り可愛い可愛いと言われるのが嫌
でバンカラな格好をしておりました。大学は独協大学の外国語英語科を卒業、2人1
度に大学に行かせる親の苦労を知ってか、アルバイトをして仕送りを減らすよう言っ
てくれました。その為生活はとても苦しく大変苦労したようで今でも済まなかったと
思っています。これが後に彼の根性と、人に頼らず何事も自分で解決する糧となった
と思います。
又人がよく、人を信じ疑うということを知らない為、友人が無断で電話を(長距離、
東京〜鹿児島)掛け数万円の電話代が払えず、電話を止められたことも数回ありまし
たがそれでも性善説を貫き通す子でした。
大学へ入学前から映画監督になるのが希望でしたが、日大の芸術学部の1次には合
格しても2次で失敗、塾の講師を生業としてからも当分その夢を忘れることが出来な
かったようです。親の都合で断念させたのですが、今にして可愛そうなことをしたな
と思います。
学生時代のアルバイト時から塾の塾頭をしており、数年後一念発起独立し、柴又で
4階建てのとらやビルの内3階を借り切り開業したのですが、親にも相談せず備品什
器家賃敷金外で1千万円くらい掛かったのではないかと思いますが、誰の助けも借り
ずやり遂げたのにはわが子ながら良くやったと感心しました。日頃から親父には絶対
負けたくない、上を行くんだと何事にも一生懸命頑張っていました。親としては子供
に目標にされることは、嬉しくまた励みにもなりました。
流星のように短い人生をパッと明るく光り、太く短く 39 年間に何もかもやり遂げ
て、全力疾走で駆け抜けた子でした。昭和天皇・祖先を尊び、親・友人を大切にし、
情に厚く利害を無視しても人に尽くし、塾生には採算を度外視しても分かるまで教え、
合格数が予定に満たなかったら丸坊主になってお詫びをするような子でした。
塾が軌道に乗ったころから毎年私たちを海外旅行に連れていってくれました。短い
老後を楽しく過ごすようにと、乏しい収入の中から毎月 10 万円ずつ仕送りしてくれ、
自分たちの生活は慎ましく趣味らしい趣味も持たず、亡くなる 3 年前からボデービル
にのめりこみ、大会で上位入賞する迄になったのですが悲願達成ならず他界したこと
は、本人にとって残念でならなかった事と思います。
博嗣たち夫婦は 5 月の連休と 8 月 13 日ごろから10日間位が休みで、正月は 31
日から 3 日までと休みが少なく、宇部に帰ってくるのは夏、私たちと次男貴久一家は
それを心待ちにして3家族で毎年2泊3日の旅をし、お互いの無事を確かめ家族の絆
を深めたものです。それもこれからは出来ないと思うと、涙が止まりません。
私が定年退職後スキューバーダイビングのライセンスを取ると、親父も 1 人では寂
しかろうと忙しい中、短期間で自分もライセンスを取り、1 度福岡の志賀島で一緒に
もぐりました。忘れることの出来ない思い出です。沖縄に行ったことが無いので両親
と一緒に行ってみたいと言っていたとか、もう1度一緒に潜って見たいと思っていた
のでしょう。
2001年のゴールデンウイークも博嗣たちがハワイに行くというので、私達も招
待しようという事で、我々2人は少し早く行き2週間位滞在し、博嗣たちとはハワイ
で1週間位一緒に過ごそうと言う事で4月22日に上京した所、(24日に成田空港
発ハワイ行きの便で)19日頃から40度近い熱が出て高砂のクリニックに3日ほど
通ったのですが熱が下がらず、診たてはインフルエンザ、家内が博嗣の様子を見て、
風邪ではない様だと(22 日は日曜)23日にクリニックへ電話をさせ、総合病院へ
紹介状を書いてほしいとお願いした所、インフルエンザだから何処に行っても同じで
すよ、寝ているしかしょうがないですよと言われましたが、無理を言って東京女子医
大に紹介状を書いてもらい連れて行ったところ誤診で手遅れの状態でした。東京女子
医大にはこの病の専門医が 1 名しかいないので社会保険中央総合病院へ転送、内科部
長を含む3名のチームで手厚い看護を受けましたが、その甲斐もなく2週間足らずで
黄泉の国に旅立っていきました。 この2週間の間薫子と貴久の献身的な看病は筆舌
たかね
に尽くせぬものでした。又松村のご両親妹の尚子ちゃんをはじめ多くの親戚の方々、
友人・先輩・大学時代の先生同級生、ボクシング部・ボデイビルダー、等等毎日見舞
いの方々の絶える間もなく博嗣の交友の広さ深さを見せられました。息を引き取る前
かおり
の数日間は病との壮絶な闘いでした。まだ遣り残したこともあり薫子のことも心配で、
もう少し生きたい、まだ死ねないと一生懸命頑張っているのが目に見えるようでした。
2001年5月4日午前2時31分永眠。6日通夜、あまりに多い参列者に、焼香
も3人ずつ1度にしても読経内に焼香が終わらず、同じお経を繰り返していましたが、
お寺さんも途中で止められました。7日葬儀、500人以上の参列者に驚くと共に博
嗣の人望の厚さに感心しました。火葬場への道順の途中、塾の前を通り塾生の1部も
見送ってくれました。 亡くなると良い思い出しか残らないといいますが、我が子な
がら立派な人生を生きてくれた。親も博嗣の生き様を見習わなければと思いを深くし
た次第です。
博嗣の両親
薫子の両親
1999 年 5 月 4 人揃ってのハワイ旅行、ホノルル号
ディナークルージングでのひとこま
ディナークルージングで乗ったホノルル号
潜水艦 VOYAGER 乗船記念
ボートにて
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