9がつのおたより

9がつのおたより
平成 26 年 9 月 1日
愛泉幼稚園
聖句
言葉は、あなたの近くにあります。あなたの口にあり、心にあります。この言
葉は、初めは神と共にありました。(ローマ人への手紙 10 章 8 節)
ようやく夏の暑さも収まりつつあり、目を空に向けると筋状の雲が見られる
様になり秋の訪れを感じられるようになりました。秋と言えば、秋の七草。萩、
尾花(すすき)、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗の七つを万葉集で山上
憶良が歌っています。これらは一時に咲くのではなく秋が深まりながら咲いて
いくというまさに季節の変化を私たちに知らせている草花です。
長い夏休みも終わり、9 月の月を迎えました。登園してきた子供たちの様子に
は、長い休みで心が園から遠く離れたのではという心配も感じられない位、ス
ッーと入ってきてその穏やかさに私達保育者は少しく驚かされました。夏休み
中に経験したことが、きっと充実していたものと想像されます。
私は、この夏栃木、東京へといくつかの研修会に行ってきました。そこで他
園の保育者といろいろな話し合いをし、又講師の話を聞いたりする中で感じた
のですが、今の時代は人類がいまだかって経験したことのない状況に置かれて
いるということでした。あっという間に情報は世界を駆け巡り、大量の情報が
満ち溢れ、ビッグデータと言われる超大量のデータを瞬時に処理できるコンピ
ューターが使われるようになり目にもとまらぬ速さで世界は動いています。か
っての人間が記憶したり、計算したりということがコンピューターやロボット
に取って替わられる社会が今まさに迫っているということです。この中で人間
が人間として関与できる余地は何かを考えることはとても意味あることです。
そこで、改めて人間とロボットやコンピューターの違いは何かを考えてみたい
と思います。それは、ズバリ「感じる心」です。自分が感じること、そして他
者が同じ感じを抱いたり、全く反対の感じを持ったりと計算できない部分が人
間は持っているということです。書道家で詩人の相田みつをさんが、
「にんげん
っていいな・・・みんなちがっていい」と言っていますが、これほど非合理的
で計算できないことはコンピューターには受け入れられません。処理不可能と
いうわけです。人間の場合は相違があっても何とか話し合って合意を作ろうと
します。もちろん、物別れとなることもありますが、時間をおいてその間に色々
と考えて譲れるところを見つけたり、相手に受け入れられるような案をも考え
たりします。つまり感じるということは、人間にしか持ちえないものと言えま
す。この感じる心を乳幼児期にこそ育まなければいけないと思います。この感
じる心が育まれないとどうなるかという例があります。ホスピタリズム(施設
病)という症状が、イランの施設で乳幼児にみられたのです。
ホスピタリズム(施設病)とは、劣悪な乳児院に収容された子供の死亡率が
高く、心身ともに発達の遅れが目立ち、また、後々まで性格的歪みという特有
の後遺症を残す現象が見られたのです。ホスピタリズムは、二〇世紀の初頭頃
から注目をひいていたのですが、その原因は容易につかめませんでした。これ
を決定的につきとめたのは、スピッツの研究でした。この結果は、きわめて明
瞭に、母親あるいは母親代りの人の存在が、乳幼児の心身の発達にとって必須
の要素であることを示しています。そういう要素が欠けると、歩行や言語のよ
うにきわめて生得的とみえる行動すら育たなくなるのです。現在では、施設病
という紛らわしい名称は止めて、このような現象を、真ターナル・デプリヴェ
ーションとか情緒的疎隔などと呼んでいます。ある人は、また、心理的な接触
の欠損と名づけています。
1 歳前後の子どもが指さしをして「あーあー」と声を上げます。それに応えて
「あれ、いいものみつけたね。トンボが飛んでるよ。おうちにかえるのかなぁ
~」とそばにいる大人が言う。あるいは年長組の子どもが野菜の栽培をしてい
るとき「きて、きて!きゅうりが3ぼんなってるよー!」
「さわるととげとげが
あるよ!」という言葉に対して「ほんとだね。よく見つけたね!痛いくらいの
とげだね!」と私たち大人が驚きや感じたことを言葉にして返してあげること
がとても大切なのです。この私たちが感じたことを子供たちの呟きや発せられ
た言葉に対して伝えることが、感じる心や感じる言葉としてお互いに伝え合う
ことが大切なのです。相手の気持ちを考えることや思いやりのある子供を育む
ことは大切ですとよく言われますが、これらは、目に見えない情緒的なモノで
す。数値化できるものでもありません。言葉のやり取りを通して気持ちを言葉
に載せて言葉を交わし合う経験がこれらの心を育てるのではないかと思います。
感じる心があれば、心が動き、行動が起こされるように思います。自発的行動
や自主的な行いといったものは、ここから生まれるように思います。日々の生
活の中で子供たちは、発見したものを私たちに大声を上げて知らせに来ます。
又、驚いたものに感嘆の声を上げます。そばにいる私たちがその場で同じ場面
を共有し、同じ思いを分かち合ったならば、共通のイメージを抱くことができ
ます。この繰り返しの中で他者とは多少は異なっても、ほぼ似たようなイメー
ジを持って共同したり、協同したり、協働することが容易になるのではないか
と思います。