No.12 平成14年12月号

2002/12
No.12
< イ ヴ ェ ン ト >
第58回を数える財団法
人大日本蚕糸会主催平成
14年度蚕糸功労者表彰
式は、11月8日(金)
東京都千代田区有楽町東
京會舘11階シルバー
ルームにおいて総裁常陸
宮正仁親王殿下御臨席の
もとに行われた。
蚕糸功績賞3名、貞明
皇后記念蚕糸科学賞1名、
蚕糸功労賞28名、蚕糸
有功賞29名が表彰の栄
に浴した。………………
……………………P 10
<研究トピックス>
わが国における蚕と絹の文化誌
元農林水産省
蚕糸・昆虫農業技術研究所
栗林
茂治
平成14年度の貞明皇后記念蚕糸科学賞は「蚕糸業に
関わる文化誌的研究」により栗林茂治氏が受賞した。
右の写真は、総裁宮殿下に御説明する栗林氏夫妻
………………………………………………P 2
<オアシス>
大日本蚕糸会顧問
遊 印
嶋崎
昭典
……………………………………………… P 8
< 行 事 予 定 >< 行 事 記 録 >
……………………………………………………………………………………………………………P12
(2)
シルクだより
< 研 究 ト ピ ッ ク ス >
わが国における蚕と絹の文化誌
元農林水産省 蚕糸・昆虫農業技術研究所
栗 林 茂 治
蚕。思えば不思議な虫である。仲間と喧嘩するこ
とも、騒ぐことも、逃げ出すこともなく、群れをな
し、ただ黙々と人間に仕えている。桑という何の変
哲もない葉を食べて繊維のダイヤにも喩えられる
絹を生みだす。その絹たるや衣料としての審美性や
着心地、保健衛生的な機能性などがきわだっている。
さらに健康食品や医療素材、楽器弦などに利用され
るなどの様々な機能も秘めている。絹は太古の昔か
ら繊維の女王として珍重され、優雅さと豊かさのシ
ンボルであった。絹を生み出す養蚕および製糸・絹
織物の技術はいつの時代においてもハイ・テクノロ
ジーであった。蚕や絹のずばぬけた機能性は、科学
が進んだ現代においても驚異とか神秘としかいい
ようがないほど真似のできないものが多く、今でも
ハイテクの標的の一つになっている。一方で蚕は古
来からわれわれ人間の社会や生活、文化にはかり知
れない大きな係わりをもってきた。ここではそのよ
うな蚕と絹の文化誌的側面をかいつまんで紹介す
図−2
振袖、江戸後期
横浜シルク博物館所蔵
ることにする。
日本人と蚕・絹
蚕の飼育は紀元前数千年の大昔に中国ではじ
まったと推定され、それがいわゆるシルクロ−ドを
経由して各地に広まり、東の終着点である日本には
弥生時代(紀元前後 300 年)の中頃に伝えられた(図
−1)。それ以来、日本人と蚕との係わり合いはか
れこれ2千年にも及ぶ。養蚕はわが国の気候・風土
に良くなじみ、勤勉で手先が器用な日本人の国民性
にも合致した。人々は意志があるでもない蚕を「お
かいこさま」「おこ(蚕)さん」と呼び、ときには
神様のようにあがめ、わが子のように慈しんで大切
に大切に育てた。絹は、四季の変化に富む自然環境
に住む日本人の感性に良く適合した。蚕糸絹業は九
州から東北までの広い地域で営まれ、絹織物(図−
2)も好まれた。これらは長い歴史のなかで優れた
技術や芸術性(図−3)を培いながら貴重な伝統文
化を形成してきた。日本人は絹という天然素材をつ
図−1
「蚕種渡来の地」記念碑
シルクだより
(3)
くり利用することを通じて繊細な技のみならず自
然と調和する美しい心根をも育ててきたといえる。
図−5
江戸時代の代表的蚕書
機織などが分業になり、業(なりわい)として形成
された。各地に織り、染め、特殊加工などでそれぞ
図−3
西陣織の一つ。
つづれ織
紋様それぞれの部分を幾
色もの緯糸で縦糸を包み込むように織る。
れ独自性のある絹織物の地域産業(図−4)がうま
れた。
元禄から幕末までの約 170 年間におよそ 100 種
類もの養蚕手引き書が著されている。この数は一つ
近世の蚕糸業、蚕書、錦絵
江戸時代中期頃までの養蚕は殆どが農家の婦女
の業種としてはかなり多い。一般農書の多くが為政
者側の勧農奨励の意図によって著されたのに対し、
子の片手間仕事で、蚕飼いから糸とり、機織までを
養蚕書の多くは蚕種製造者などの実務者によって
一貫して行うものであったが、やがて養蚕、製糸、
書かれた。その代表的なものが「養蚕秘録」(図−
5)である。この書は各地の養蚕の実態を見聞し、
その結果を盛り込むことによって実践性を高めた
もので、挿絵が多く、文章を読まなくても絵だけで
十分に知識を得ることができ、養蚕技術の指導、普
図−4
結城紬の織機
各地の絹織物特産地は伝統的な技法に
改良を加え独自性を発揮している。
図−6
広重描く繰糸図
(4)
シルクだより
及に役だったことは想像にかたくない。
この時代には養蚕を題材とした錦絵(図−6)が
多く描かれている。養蚕という一定の画題で 60 人
もの浮世絵師によって 300 余種も描かれた例は他
にない。養蚕錦絵のほとんどには美しく着飾った女
性たちが彩りを添えていた。養蚕錦絵は継続的に発
行されており、当時、需要が安定して存在していた
ことを示している。しかし、養蚕錦絵の多くは労働
作業にかりて目先の変化を持たせた美人画であっ
て、作業についての写実を目的としたものでなく、
大衆の関心を呼ぶ商業的努力はなされても、養蚕技
術という立場からの正確な描写は期待すべくもな
かった。
皇室のご養蚕
皇室のご養蚕は明治4年(1871)にはじめられた。
これは明治新政府が推し進めた殖産興業政策の象
徴の一つであり、皇室による率先垂範として重要な
意義を持つものであった。皇室でのご養蚕は御親蚕
図−7
皇后さまのご養蚕
という形で天皇陛下の御稲作と並ぶ皇室行事とし
多くの製糸会社は社内に学校を開設して女子従業
て歴代の皇后に受け継がれ、今日まで変わることな
員に教育をした。これは女子教育の草分けとして高
くとり行われてきている(図−7)。この営みはわ
く評価されている。どこの地方でも、政治や財界の
が国蚕糸業に極めて意義深く、蚕糸関係者は元気づ
中心的な役割を果たす人に蚕糸関係者が多かった。
けられ励まされてきた。
これは蚕糸業がそれだけ各地域で重要な産業で
あったことを物語っている。
日本の近代化への貢献
生糸や絹織物等がわが国輸出総額に占める割合
明治維新以降、蚕糸業は農業や産業の先兵として
は、明治初期(1868)から昭和初期まで 27〜67%に
わが国の経済を先導してきた。明治から大正期にか
も及んだ。わが国蚕糸業の最盛期だった昭和初期に
けて生糸を輸出して得た外貨は富国強兵、殖産興国
は全国農家の約 40%にあたる 220 万戸が養蚕に従
へと活かされ、欧米列強に対抗し得る国力を築きあ
事した。この頃の機械製糸工場数は 12,640 工場、
げる原動力になった。蚕糸業のめざましい発展を支
その従業員数は約 53 万人でその 93%は女性であっ
えたのは、政府の蚕糸業振興施策、産・官・学研究
機関による技術開発に加えて、この産業に携わった
人たちの努力であった。とりわけ零細な養蚕農家や
女子製糸労働者たちの献身は忘れられてならない。
蚕糸絹業は、養蚕という農業分野の工程と製糸・製
織という工業分野の工程を包含し、わが国を農業国
から工業国に導く先導的な役割を果たした。国の基
幹産業として位置づけられた蚕糸業は、国内全土に
蚕業に関する実業教育機関の創設や、蚕糸地帯への
郵便、電信、電話、鉄道、銀行などの設置を促した。
図−8
模範蚕室
埼玉県児玉町の養蚕伝習所「競進社」
シルクだより
(5)
た。桑園は全畑地の約4分の1を占め、国土や環境
の保全にも役だった。
蚕室と蚕具
蚕の飼育は昭和 20 年代までは居宅内で行われ、
人は蚕と家族の一員のように一緒に生活した。蚕期
中は居間も座敷も蚕に明けわたされた。人は、桑の
葉や蚕の糞などが入りまじった特有の臭いがただ
よう部屋の隅や天井裏などで小さくなって生活し
た。養蚕を大量に行うために、間口が広く、総二階
で、二階の屋根棟には小屋根を設けて排気孔を付け
た家屋が建てられ(図−8)、養蚕地帯に独特の農
村風景となった。蚕具は、昔からの伝承蚕具に改良
図−10
蚕種免許印紙
を加えながら、藁、木、竹などを材料として自製さ
わが国印紙の始まり。明治5〜10年使用
れ(図−9)、人々の生産活動を支えてきた。現在
ための国家検査の際に、その手数料徴収と検査合格
の最新式の蚕具や技術も、このような農民の永年に
証を兼ねて使用された。
わたる知恵が結晶として積みかさなってきたもの
である。
輸出用の生糸に付けられた商標(図−11)は商
品の顔であり、信用保証的な意味もあった。そのた
め企業は競ってそのデザインに工夫をこらし、明治
の初めから色刷りの美しいものが用いられた。初期
のエキゾチックな雰囲気を漂わせる日本人の生活
風景を描いた絵は、西洋人に興味をもって迎えられ
たが、やがて西洋の影響を受けた絵や図柄へと変化
図−9
藁蔟製造器
昔は藁、木、竹などで蚕具を自給自足した
印紙、生糸商標、郵便切手
印紙は、国の収入となる租税や手数料、その他の
収納金を徴収する手段として政府が発行する証票
である。わが国で蚕糸分野で最初に使われたことは
特筆される。蚕種免許印紙(図−10)および生糸・
繭・真綿印紙がそれらである。明治5年から同 10
年にかけて行われた粗製乱造等による不正防止の
図−11
生糸商標
(6)
シルクだより
日本の研究者と技術者によって作り出されたと
いってもよい。それらは国内の蚕糸業はもとより、
世界の蚕糸業の発展にも大きく貢献し、また他の学
問分野にも大きな影響を及ぼしてきた。ハイブリッ
ド品種やバキュロウイルス利用による有用物質生
産など、今日の先端科学技術のルーツをさぐると蚕
糸研究にたどりつく例が少なくない。このような世
界最高レベルの蚕糸技術と科学は、わが国が最も自
信をもってできる国際貢献として外国への蚕糸技
図−12
生糸の綛を描いた郵便切手
術指導に役立てられている。
していく。しかし、明治 20 年代になると、欧米化
への反動として、国粋主義的傾向も現れ、日本的な
ものが復活してくる。小さなラベルの中に時代の流
れを知ることができる。
養蚕の民俗・民話・文学・文献・碑
蚕作安定祈願などの養蚕の行事や儀礼、習俗にも
蚕と人との深い係わりを見ることができる。蚕はか
蚕糸関連の図柄を描いた郵便切手も多く発行さ
弱い虫である。病気の的確な予防手段がなかった昔
れた。その一つに、終戦の翌年に民間貿易が再開さ
は、飼育に細心の注意をはらいながらも蚕が病気に
れたのを記念して発行された切手(図−12)があ
ならないようにひたすら神に祈った。養蚕神社(図
る。これには当時の代表的輸出品の一つとして生糸
−13)が各地に祀られ、農家には戸ごとの蚕室に
の綛が描かれている。このほかにも、養蚕農家、製
蚕神の御札が貼られていた。昆虫のなかで守護神を
糸女子従業員、機織り、絹織物、着物などを描いた
もつのは蚕だけである。養蚕農家の人たちは蚕を
切手が発行されていて、それぞれの時代の蚕糸文化
「おかいこさん」と呼んだが、これは必ずしも蚕に
を知ることができる。
対する親しみの気持ちだけからではなかった。この
呼び名のなかに養蚕を生活の糧とし、違作しないよ
蚕糸の科学と技術の進歩
国の基幹産業としての蚕糸業の発展を目標に掲
う祈り続けていた人たちの蚕にかけた期待の大き
さを読みとることができる。
げて、選りすぐられた英才叡智が国の強力なバック
「記紀」の神話に蚕の記述がでてくるように、有
アップのもとで蚕糸研究に取り組み、わが国の蚕糸
史以前から蚕には特別の関心が寄せられていた。わ
科学と技術は世界に冠たる成果をあげてきた。蚕糸
が国のほぼ全地域に養蚕にまつわる伝承が残って
科学と技術とが車の両輪として互いに刺激しあっ
いる。養蚕が盛んだった地方ではその長い歴史の中
て蚕糸業を発展させる展開がみられた。蚕から絹に
で、養蚕をめぐる多彩な風習が生まれ、今に伝えら
いたる基礎から応用に関する一連の研究は、実業に
れている。繭の豊作を祈願する行事としてその習俗
役立つとともにそのままライフサイエンスという
新しい分野の発展に結びついてきた。蚕は、実験用
動物として素性が確かで、斉一な材料が大量にいつ
でも得られ、扱いやすいなどの優れた条件を備えて
おり、動物遺伝学や生理学などの進展に大きく貢献
した。また、蚕は内部構造が開放血管系で、タンパ
ク質の合成能が極めて高い特性があり、最近盛んに
なってきた有用物質を生産する昆虫工場の主役と
して最先端技術を支えている。
今日の世界の蚕糸科学と技術はそのほとんどが
図−13
蚕影山神社
最も著名な養蚕神社、茨城県つくば市
シルクだより
(7)
蚕糸に関する膨大な文献や資料、記録(図−14)
が今に残され貴重な蚕糸絹業の歴史を伝えている。
また、全国各地に建てられた蚕糸関連の顕彰碑や銅
像(図−15)、記念碑、(図−1)、文学碑(図−
16)は、訪れる人たちに蚕糸業の偉大さを教えて
いる。
蚕の歴史は、蚕飼い、糸とり、染色、機織などに
携わった無数の人たちが営々と築きあげてきた歴
史である。あるときは科学の力を借り、あるときは
神仏にすがり、絶えることなく営み続けてきた足跡
がわが国の伝統文化として刻まれている。
おわりに
蚕は、日本という風土の中ではるか昔から人の心
をとらえ、人に自然の営みのなんたるかを教えてき
た。人は蚕とともに絹をつくり、その文化を育くん
図−14
蚕糸記録文学「富岡日記」
富岡製糸所草創期の日常を克明に描く
できた。蚕ならびに蚕糸業を現社会の経済性に合わ
ないなどの理由で日本から失くしてしまってはな
が現代にも伝えられているものに、小正月の繭玉飾
らない。われわれ日本人にとって蚕はただの虫では
りがある。繭型の団子を小枝に挿して神棚などに飾
なく、世界に誇る、世界から尊敬されるかけがえの
るもので、その年の養蚕豊作の祈願がこめられてい
ない文化財であり歴史の証人なのだから。
た。デパートや商店街などで同様のものを正月のめ
でたい飾りとしているのはこの養蚕習俗に由来し
くりばやし
しげはる:
(独)農業生物資源研究所 非常勤職員
ている。
Eメール
図−15
[email protected]
外山亀太郎博士銅像
蚕の一代交雑技術の開発者
福島明成高校に所在
図−16
貞明皇后歌碑
立石寺、これを含め全国9か所に建立
(8)
シルクだより
< オ ア シ ス >
遊
印
(財)大日本蚕糸会理事
詩に尋ねる
嶋崎
昭典
まちなみ
もう20年以上昔のことになりますが、東京大学
活、街並、酒場のざわめき、お祭りの賑わいなどを
詩の中から生き生きと現代に再現させ、どうです・
の吉武成美教授に誘われて「蚕史」の世界に関心を
いいとこでしょう。長安の街は。微笑みながら、ゆっ
持つようになりました。が、そこへ入っていく手懸
くりと満足げに歩いておられる。」と述べられてい
りがつかめませんでした。何かないか。どうしたら
たのを思いだしました。私は第二の窓口を「詩の世
いいか。いろいろ考えているうちに「漢字は古代情
界」に求めようと思い立ちました。
報の化石」という文をみて「糸と糸へん文字群」と
いう入門の一つの窓を見つけました。これは貴重で
面白い知識を次から次と与えてくれました。しかし、
養蚕秘録
うえがき もりくに
ようさん ひ ろ く
文字は文字であって一つの点なんです。自ずから限
上垣守国著『養蚕秘録』(1803)は、製糸技術最
古の文献といわれています。その下巻には蚕糸に係
界があります。
わる漢詩がいくつかのせられています。その一つに
「
として風雨に似たり
いとくち
きる
て 縷 の断る無し
ちゃく
りて 着 せん
な
繭厚く糸長くし
いとま
今年那んの 暇 ありてか絹を織
めいじつ せいもん
い
明日西門に糸を売りに去く」の詩が
図1.范成大(南宋)繰糸行
そうした時、文芸春秋で「十三世紀の文章語」と
いう司馬遼太郎の一文をみました。その書き出しが
「世界のどの地域でもまず詩が発達した。文章の方
はずっと遅れた。日本でも同様で、和歌がまず発達
し、日本語としての文章語は遅れた。奈良・平安朝
を通じ、公文書の文章は外国語(漢文)を借用して
きたのである。その理由は、単に文章語が未熟だっ
たことによる。」でした。文字の連なりが作り出す
感情や思想の生きた情報の源はまず詩にあるのだ。
との感を強くしました。
そうした時、以前読んだ井上靖著『きれい寂び』
の中の一つ、
「私にとっての座右の書」の文中に「私
は石田幹之助著『長安の春』を座右の書にしている。
氏は全唐詩4万8千首の林の中に入っていき、私達
に理解できる書き方でそれを示してくれている。そ
れが『長安の春』である。歴史にのらない庶民の生
図2.詩経
(殷代の養蚕)
世界最古の蚕糸文献
シルクだより
(9)
るのですか」と質問され、一瞬何のことか理解でき
ませんでした。しかし届けられた作品を見て氷解し
ました。例えば「繰糸行」には沢山の糸文字が出て
きますが、一つとして同じ字形はなく、位置、意味、
配列などにより字形が異なり全体として調和が整
えられ、すばらしい芸術の世界が画き出されている
のです。蔡先生はいうのでした「私の創作文字は一
しんかん
いしぶみ
つもありません。秦漢時代以降の文人墨客の石文に
刻まれたものを選び制作したものです」。石は有名
図3.杜牧(唐)吐糸人
けいけつせき
あります。そこに描かれている風景は確かに守国の
ゆういん
な鶏血石でした。これが基で、私は遊印の病み付き
になりました。
古里但馬の田舎を思わせる絵ですが、詩意は中国で
す。作者がわかれば、その頃すでに機械を使っての
早廻しの糸繰の行われていた事が知られますが『秘
録』にはそれを示す手懸りがありません。
昭和56年、文部省の海外研究員で中国を訪問し
そしゅう しちゅう
た折、蘇州糸綢工学院に古詩の研究会を開いてもら
へいこうふ
はん せいだい
いました。上の詩は平江府 (現蘇州市)の范 成大
そ う し こう
(1126−1192)の「繰糸行」で、成大は宋代4大詩
人の一人であり、蚕糸の詩を沢山残していることを
図5.
(南宋)耕織図(三眠)
教えてもらいました。
詩の世界にみる蚕糸の文化
中国詩の頂点に立つといわれる『詩経』に始まり、
古今の詩集をみると、蚕糸の詩文が何と多いことか。
先ずその数に驚かされます。技術の面でみますと、
三千数百年前、すでに家々で養蚕の行われていたこ
とに始まり、人々が営々として励んできた辛苦の跡
が浮んできます。一方文化的立場でみると、明日の
命の保証のために、吾が子を守るために父子相伝の
秘法の発見に命をかける奴隷達の悲願が。また一方、
図4.
(南宋)耕織図(浴蚕)
それを着る上流社会の人々の文化の香りのする華
やかな生活が窺われるのです。詩の世界は確かに蚕
糸の文化、技術情報の宝庫と思われるのです。
遊
それからは、中国を訪問するたびに遊印を一つ作
印
私はこの機会に、「繰糸行」を石に刻み、お世話
になった大勢の皆さんにそれを押した印箋を添え
ることにしました。そのいくつかを、そのままの大
きさで、載せて頂きました。
てお礼の便りをしたいと考えました。それを人民日
きんせき て ん こ く か
報によく紹介される有名な金石篆刻家、国家一級美
さい のぶてる
術師、蘇州国画院副院長の蔡延輝先生に頼みました。
ところが蔡先生は私の顔を見て「先生は私の底をみ
しまざき
あきのり:
市立岡谷蚕糸博物館名誉館長
電話:0268−23−3002
(10)
シ ル ク だ よ り
< イ ヴ ェ ン ト >
第 5 8 回 蚕 糸 功 労 者 表 彰 式
第58回を数える平成14年度蚕糸功労者表彰式は、11月 8 日(金)本年度から会場を変更し、東京
都千代田区有楽町東京會舘11階シルバールームにおいて総裁常陸宮正仁親王殿下御臨席のもとに行われ
た。農林水産大臣(太田豊秋副大臣代理出席)をはじめ山本農畜産業振興事業団理事長、宮下全農常務理
事、須藤日本製糸経営協議会会長、鷲野横浜商品取引所理事長、井上独立行政法人農業生物資源研究所理
事、草野独立行政法人農林水産消費技術センター横浜センター所長など多くの来賓が見守る中、栄えある
表彰を受けられた方々は次の通り。
[蚕糸功績賞]
福島県
吉井
太門
京都府
橋本
善治
野尻
悦司
山下
興亜
栃木県
中村
弘男
島根県
佐藤
好祐
群馬県
武井
輝雄
愛媛県
渡邉
隆夫
群馬県
阿部
良衣
鹿児島県
村尾
英丸
群馬県
伊藤
繁
中央蚕糸団体
津崎
勝宏
群馬県
鳥山
賢二
中央蚕糸団体
山崎
昌良
埼玉県
坂田
市郎
[貞明皇后記念蚕糸科学賞]
栗林
茂治
[蚕糸功労賞]
大塚功
野村町長
独立行政法人農業生物資源
岩手県
中村
勇雄
埼玉県
坂本和十郎
宮城県
川嶋平一郎
山梨県
川口
忠男
山形県
遠藤
芳雄
山梨県
里吉
茂和
研究所
山形県
齋藤
一夫
岐阜県
河村
尚徳
絹人繊織物工業会佐藤義男
研究所
加藤
正雄
独立行政法人農業生物資源
佐藤
姚子
シルクだより
全日本きもの振興会
佐々木亮一
(11)
群馬県
石原
勝江
宮崎県
甲斐
好禮
群馬県
齋藤
政次
中央蚕糸団体
内林
寛行
群馬県
下田
昌利
中央蚕糸団体
山本登美子
豊島
伸一
群馬県
小川
元行
西尾
方男
群馬県
小山
茂雄
江田
俊郎
埼玉県
新田
恭一
山梨県
小林
芳弘
[蚕糸有功賞]
岩手県
伊藤
眞二
山梨県
久津川
剛
岩手県
畠山
忠昭
岐阜県
井之口忠彦
宮城県
平間
寛一
京都府
数江
朝子
山形県
後藤
信芳
島根県
和田
臣正
山形県
新野
孝一
高知県
中島
和雄
茨城県
高橋
和男
熊本県
米村
厚
茨城県
大津
義美
熊本県
桑野
宏介
独立行政法人農業生物
資源研究所
佐藤
忠一
独立行政法人農業生物
資源研究所
小池
文江
独立行政法人農林水産消費
技術センター 松岡
直哉
独立行政法人農林水産消費
技術センター 高田
英機
独立行政法人農林水産消費
技術センター 梅田
悦子
────────────────────────────────
蚕糸功労者表彰茶会
表彰式に引き続いて総裁宮殿下を囲む茶会が開
かれた。この席では、表彰者の業績を総裁宮殿下
に御説明したり、御下問にお答えしたりし、殿下
は終始御興味を示され和やかな時を過ごされた。
茶会の開始、総裁宮殿下と吉国会頭
紅葉山御養蚕所について
御説明する佐藤好祐氏夫妻
蚕についてお話する山下興亜氏夫妻
殿下のお帰りをお見送り
(12)
シルクだより
< 行 事 予 定 >
< 行 事 記 録 >
(財)大日本蚕糸会
◎日本シルク学会創立50周年記念式典
◎賀詞交換会(東京)
平成14年12月5日(木)
平成15年1月7日(火)11:00〜
新宿区百人町のホテル海洋で開催
蚕糸会館6階
産官学各界からの蚕糸関係者を始め、中国、韓国、
インドなどからも会員が集まり、国際色豊かに
◎理事会・評議員会
50周年を祝った。
平成15年3月26日(水)
小野四郎、嶋崎昭典両氏の表彰、白井汪芳、角谷
議題は予算その他
美和子両氏による記念講演が行われた。
蚕糸科学研究所
<表彰式余話>
◎小型繰糸機開発実証事業新技術開発委員会
◎ 御存知でしたか。
今年の蚕糸功労賞および蚕糸有功賞の賞状は、
平成14年12月12日(木)11:00〜
シルク和紙で出来ていました。
蚕糸科学研究所会議室
このシルク和紙は、旧宮城県蚕業試験場が開発
農畜産業振興事業団では、平成14事業年度に小
型繰糸機開発実証試験事業を実施することとなり、
したもので、宮城県の主要養蚕産地である丸森町
(財)大日本蚕糸会は、この事業の事業主体になっ
に伝わる丸森和紙の伝統を生かしたものです。
た。蚕糸科学研究所は、製糸機械メンテナンス改
丸森町生活改善グループがはがきやしおりを
良開発事業で取り組んだ製糸機械部品等の開発を
作って仙台七夕祭りや地元の収穫祭で販売したり、
ベースに小型高性能自動繰糸機の実用化に取り組
紙漉体験などの活動をしています。小学校の卒業
む当該助成事業の具体的な推進方策等について検
証書作りにも養蚕学習と一体となって活躍してい
討を図るため、新技術開発委員会を開催する。
ます。
小型高性能自動繰糸機の繰糸試験成績を取りまと
める予定。
◎ ハイブリッド絹展
03
シルク開発センター(センター長:勝野盛夫蚕糸
科学研究所所長)主催、蚕糸科学研究所が企画、
運営に協力。
平成14年2月4日(火)〜6日(木)
初日は 14:00、通常 10:00 開場、17:00 まで
蚕糸会館6階特設会場
無撚シルクを中心に新しいシルクの展示が期待さ
表彰状には次の文章が添えられていました。
この表彰状は生糸と桑皮を原料とし
た手漉きの﹁シルク和紙﹂でございま
す︒
﹁シルク和紙﹂のしなやかさ︑硬さ
などは︑生糸と桑皮の使用割合によっ
て異なりますが︑この表彰状は︑シル
クの風合いと和紙の特性を損なうこと
の無いように︑使用割合を一対一とし
たもで︑初めての試みでございます︒
なお、同事業は、3月末までに新たに開発した
れる。
原料は生糸と桑の木の皮が主体です。
シルクだより
№12
平成 14年12月号
発行:財団法人大日本蚕糸会
編集:財団法人大日本蚕糸会
蚕業技術研究所
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