博愛記念碑−ドイツ遭難船の救助 明治6年、ハンブルクの港を出港するドイツの商船がありました。ロベルトソ ン号といい中国福洲へ渡る目的をもっていました。ロベルトソン号は航海を続け るその途中の洋上で、台風にあってしまいました。 突然の台風は荒れ狂い、ドイツ人二人がマストに打たれて死亡し、生きている 者も傷を負い、そして船はついに宮古島上野村の宮国海岸近くで座礁してしまい ました。 このありさまを発見したのが、宮古島上野村の役人たちでした。早速在番所に 連絡されました。役人三名が島の医者を伴って救助を試みましたが、海はうねり、 彼らを寄せつけませんでした。遭難船からは助けを求める悲痛な叫び声が聞こえ るが、島民は気が気ではありません。 宮国地頭職の仲地は、五隻のクリ舟を出して乗組員の救助を試みました。しか し、クリ舟は波にさらわれ、遭難船にたどりつくことができません。沖の遭難船 からは力つきたのか助けを求める声さえ聞こえなくなりました 。 「 このままでは生 命に危険がある。何とか力をあわせて船までたどりつこう 。」 二十名の若者が集められましたが、役人の仲地は反対しました。 「舟での救出は失敗であった。無理をすれば、いたずらに島民の命を危険にさら させるだけである 。」 「人事をつくして天命を待つ 。」 島民の意気が天に通じたのだろうか、嵐も少しばかりおさまり、波おだやかに なってきたかに見えました。これに力を得た若者たちは、いっせいに遭難船にこ ぎつけ、みごと救出に成功したのでした。 しかし、それからが大変でした。まず言葉が通じないということでした。初め て見る異国の人に、島民は「人食い人種ではないか」と恐れを抱くものが多く、 彼らに近づくことをしませんでした。そのうち遭難の事情は絵図や手まねでわか り、傷を負った者には医者が手当てをし、看護のために在番所を提供しました。 夜は島民交替で看護と警護にあたりました。 彼らのために島民は貧富に関係なく彼等に援助しました。白湯や栗、お粥を持 参する人、漬物や子いもを運ぶ貧しい老人、洗い立ての粗末な着物を持参した者 もありました。 このような島民たちの温かい看護に助けられ 、船員たちは生気を取り戻してき ました。遭難者の健康が次第に回復してくると、故郷への思いが強くなってきま した。そうなると彼らに必要なものは祖国へ帰るための船でした。ところが、島 の役人がどんなに頼んでも首里政庁は官船を貸してくれませんでした。たまりか ねた宮古在番所は宮古に係留されている官船一そうを使用することにしました。 いよいよ帰る前夜、別れの宴が盛大に行われました。遭難者の一人一人が口々に 感謝の言葉を述べ、会は夜遅くまで続きました。 船員からこの救助活動の話を聞いたドイツの政府は、このことを細かく調査し、 宮古島島民の表彰を考えるようになりました。三年後には博愛記念の石碑と記念 品、望遠鏡、時計、航海用具などが島民に送られることになりました。 小さな島、宮古島でのできごとが、遠く離 れたドイツ帝国の人々の心を動かし、記念碑 の建立となったのでした。 この記念碑は現在、宮古島平良市の港をの ぞむ一角に建っています。 ○ 語句の説明 在 番 所・・・政府の役人がいる場所。 首里政庁・・・政治に関する仕事をする役所。 官 舟・・・首里王府の所有する舟。 道 徳 学 習 指 導 案 中学校1学年 1.主題名 博愛の精神(人間愛) 内容項目 2.資料名 博愛記念碑−ドイツ遭難船の救助 2−(2) 3.主題設定の理由 中学生の時期は自分さえよければそれでいいという自己本位的な考え方もする傾向がある。価 値観の多様化に押し流され、自己中心で「人を人としていつくしみ愛する心」が欠けてきている ように思える。このことは、現実に「いじめ」の問題や小・中・高校生の自殺がふえつつある状 況にも見ることができるのではないだろうか。そこで「人間は、その人その人なりの人生観を深 め、悩み苦しみながら、次第に成長していくものである。」ということが分かりかけてくるこの 時期に、国や人種によりものの考え方や感じ方の違いがあっても、同じ人間として尊重し、思い やりの心で接していくことが大切であることを認識させ、その心を育てる必要がある。 4.本時のねらい 人命を尊重し、思いやりの心を育てる。 5.展開 区分 学習活動(主な発問と予想される生徒の反応) 導入 1 指導上の留意点 「博愛 」「記念碑」の言葉からイメージされるこ ・自由に気楽に発表させる。 とはどんなことかを発表しあう。 「愛 」「記念碑」というイメー ・美しい恋愛の碑 ジから、いろいろな反応がある ・人間愛の碑 と思われる。 ・愛 展開 2 資料「博愛記念碑」を読んで話し合う。 ・教師が範読し、むずかしい語 (1)荒れ狂う海にクリ舟を出して乗組員を救助しよ 句の意味については説明する。 うとする場面で、仲地目差しの気持ちと20人の若 ・自分ならその場面で、どんな 者を募った者の気持ちは、どんなものだったろうか。考え、どんな行動をとったかと ・仲地目差の言い訳は、もっともだ。 いうことで考えさせ、葛藤場面 ・ に進点化する。 〃 、正しくない。 (2)白湯や小いもを運んできた島民をどう思うか。 ・人と人とのつながりの大切さ ・人種がちがっても、思いやり、助け合いの心は同 において、とらえさせる思いや じなんだ。 りは、人間の自然な心の発露で ・物の不足している時代に、たいへんだっただろう。あることを理解させる。 (3)別れの部分で、島民や救助された人たちの気持 ・別れがつらい、さびしいとい ちはどんなだっただろうか。 う根底には情愛があることを考 ・滞在期間のみじかさや人種のちがいをこえ、やは えさせ、帰国できる喜びと島民 り別れはさびしくつらい。 の人間愛に進点化する。 ・救助された人たちは感謝している。 終末 3 救助され乗組員の立場から島民に手紙を書く。 ・島民のやったことに対して感想を書く。 ・何人かに発表させる。 <資料「博愛記念碑−ドイツ遭難船の救助」を活用して> 1.生徒の感想 ○ 船員は島民に命を助けられて、白湯や栗、お粥などを持ってきてくれたり、傷をおった人な ど助けてたりしたそうで、言葉も通じなくて、見たこともないのに助けるなんて優しいなぁと 思います。そんな優しい気持ちがあるなんて、とてもえらいと想います。島の人の優しさをの せた船で無事帰ることができて船員はとても幸せだなぁと思いました。こういう助け合いがみ んなでできたら、とてもいいなぁと思いました。 ○ 僕は博愛記念碑という話を聞いて宮古島の人々は他の国の人が事故にあったのに救助をして から自分達の少ない食糧を与え、しまいには舟まで貸して外国(ドイツ)人を国へ帰すという やさしさがとても伝わってきました。ドイツ人は無事帰国できてうれしかったのではないでし ょうか。僕らはこのやさしさを見ならって人々を助けて、協力していきたいと思います。 ○ ドイツの人達と宮古の人達はやさしい人達だなぁと思いました。明治6年と、とても昔のこ となのに、宮古の人達もドイツの人達も覚えていて、今でも交流が続いているので(サミット の首相が訪問)すごいなぁと思いました。今の年寄りは、戦争があって、外国人を嫌っている けど、宮古の人とドイツの人は仲が良いので私達もこれを見習い、外国人との交流をもっと広 げていきたいと思いました。 ○ 宮古の人達は、近くの海岸で座礁し、全く話が通じない関係のないドイツ人を救出しようと 思う気持ちはすばらしいと思った。又、救出しただけでなく残り少ない食糧を分け与え、その 頃恐れられてた白人を宮古の人は同じ人間として受け入れることができたんだなぁ。それに周 囲の人に救出するのを反対され、拒否されている中であるから思いやる気持ちや助けたいとい う気持ちがよほど強かったんだなぁと思いました。この優しい気持ちを忘れない為にも博愛記 念碑を建てたのかもしれないと思いました。この気持ちが受けつがれるとよいと思います。 2 授業へむけての留意事項 (1)資料について ロベルトソン号の航海の様子や台風に遭ったときの船が大破している状況、在番所がごった がえす様子などは削除し、その他の文章を簡略化。 発問にあまり影響しない部分や難しい表現などを構成し,漢字にはふりがなをつけた。 (2)発問の工夫 仲地目差や20人の若者の立場をそれぞれ相手の立場に立って考えさせる。また、当時の島 の暮らしについて発問し、考えさせる。 (3)その他 授業を始める前に、宮古島について当時の島の状況(珊瑚の島、島の生活・経済状況等)を 説明する。 まとめにおいて、宮古島とドイツとの交流の歴史(博愛記念碑から始まり、ドイツ村の創設、 沖縄サミットにおける独首相の訪問地と歴史の長い交流)を説明することによって、人と人と のつながりが広がることを感じさせる。
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