G・リゲティの電子音楽研究:《アルティクラツィオン》の 直筆資料、及び同

The Murata Science Foundation
G・リゲティの電子音楽研究:
《アルティクラツィオン》の
直筆資料、及び同時代作曲家達との往復書簡の調査
Study of György Ligeti’s Electronic Music: Research About Primary Sources of
Artikulation and Correspondences between Ligeti and Contemporary Composers
H27海人5
派遣先 パウル・ザッハー財団 20-21世紀音楽アーカイブ・研究センター
(スイス・バーゼル)
期 間 平成27年8月24日~平成27年9月21日(29日間)
申請者 パウル・ザッハー財団 20-21世紀音楽アーカイブ・研究センター
客員研究員 奥 村 京 子
ウル・ザッハー財団20-21世紀音楽アーカイ
海外における研究活動状況
ブ・研究センター(スイス、バーゼル)が所有
研究目的
している。申請者はこれまでに、合計15ヵ月の
1.研究背景
期間、ザッハー財団に滞在し、1950~1970年
現代音楽の作曲家であるジェルジ・リゲティ
代の一次資料に焦点を絞り、その年代の全て
(György Ligeti, 1923-2006)は、当時ルーマニ
の一次資料を閲覧し、それらを分類・整理し、
ア領にあったトランシルヴァニア地方に生ま
一枚一枚に独自の番号付けを行った上で順列
れ、ハンガリー語を母語とするユダヤ人家庭で
付け、解読作業を進めてきた。その結果、直
育った。彼の音楽作品には、ナチスによる強
筆譜を分析することによってリゲティ作品の音
制労働や肉親の虐殺、社会主義制度下の芸術
楽構造や作曲プロセスの詳細が明らかになった
創造の弾圧、1956年に決行したドイツへの亡
だけでなく、往復書簡を調査することによって
命という深い苦渋、終生消えることのない傷痕
当時の政治情勢や音楽環境、交友関係といっ
が、沈潜している。彼は、東欧の民俗音楽を
た創作背景についても新たな知見を得ることが
始め、西欧の前衛音楽であった電子音楽やク
出来た。さらに、亡命直後の1956年から1958
ラスター、アメリカのミニマル音楽、アフリカ
年にかけて取り組んだ「電子音楽」の創作が、
の多声音楽など、多種多様な音楽文化を急速
リゲティの創作史において重大な転換点となっ
に消化吸収し、自らの作曲スタイルを劇的に
ていたことが分かった。このような研究背景を
変化させていった。彼の作品は時代を映す鏡
踏まえ、本研究では、リゲティの電子音楽創
であり、そこには、人生の意味、死や生、絶
作の実態を明らかにするために、彼が1958年
望や希望など、人間としてのありようを希求す
に作曲した電子音楽作品《アルティクラツィオ
るリゲティの壮絶な足跡が刻印されている。
ン》の直筆資料と、リゲティと親交が深かった
リゲティの全ての音楽作品に関連する直筆
同時代の作曲家達との往復書簡を調査した。
譜や往復書簡といった一次資料は、現在、パ
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Annual Report No.29 2015
2.研究目的・研究方法
ではなく、第二次世界大戦後に発明されたテー
本研究の目的は、リゲティの電子音楽作曲
プレコーダーの録音と編集という手作業をメイ
の実態を、ザッハー財団が所有する直筆資料、
ンとしたアナログ音楽であった。リゲティは、
及び同時代作曲家達との往復書簡を精査する
当時スタジオで働いていたシュトックハウゼン
ことによって明らかにすることである。具体的
やアイメルトらに指示を仰ぎながら、いくつも
には、次に挙げる2点の一次資料について、解
の大型装置の使用法を数カ月で習得し、テー
読・分析を行った。
プに多種多様な音を録音し重ね合わせる「テー
プ・モンタージュ」の手法を学び、様々な合成
① リゲティが1958年にケルンの西ドイツ放送
音響を作り上げた。さらに、聴衆を取り囲むよ
局電子スタジオで作曲した電子音楽作品《ア
うに5群のスピーカーを設置するシュットック
ルティクラツィオンArtikulation》に関する
ハウゼンの電子音楽作品《少年の歌》
(1955-56)
全ての直筆譜。
をモデルとして、リゲティは、複数のスピーカー
② リゲティに多大な影響を与えた当時の前衛
をスタジオのいたるところに設置し、音を放射
作曲家達、とりわけ、電子音楽の始祖で
する音響空間の実験を繰り返した。また、4人
あるカールハインツ・シュトックハウゼン
の独唱者と語る合唱と室内楽のためのマウリシ
(1928-2007)や、ヘルベルト・アイメルト
オ・カーゲル(1931-2008)の作品《アナグラマ》
(1897-1972)
、ゴットフリード・ミヒャエル・
(1957-58)にも強い影響を受け、合成音響であ
ケーニッヒ(1926-)といった同時代の作曲
る「声」を用いた音声的室内楽を作曲したいと
家との往復書簡。
考え始めた。しかし最終的には、リゲティが亡
命前から抱いていた架空言語(リゲティの頭の
申請者は、2015年8月24日~9月21日の期
中だけに存在する架空の王国キルヴィリアにお
間、ザッハー財団に客員研究員として滞在し
いて話される言葉)に基づいた疑似会話のよう
た。なお財団では、リゲティ・コレクションの
な音楽を、電子音楽として実現するようにシュ
キュレーターであるハイジ・ツィンマーマン博
トックハウゼンに説得され、リゲティは、
《アル
士と、ライブラリアンのエヴリン・ディーンド
ティクラツィオン》
(1958)を作曲した。作曲中
ルフ氏の協力を受けた。
には、リゲティは、スペインのカタロニア出身
の画家ジョアン・ミロ(1893-1983)が描いた鮮
海外における研究活動報告
明な色遣いのユニークで不気味な絵画をよく思
1.研究内容
い出していたという。本作品は、1958年1月~
リゲティが電子音楽に携わったのは、1956
2月にかけて創作され、同年3月25日にケルン
年から約2年という短い期間ではあるが、彼は、
のスタジオで、リゲティ自身のオペレーション
亡命前から抱いていた「架空言語による疑似会
によって初演された(アシスタントとして、ケー
話の音楽」というアイデアを具現化する方法を、
ニッヒとコーネリアス・カーデュー(1936-81)
電子スタジオでの「音響素材の探求」と「音響
が手を貸した)
。
空間の実験」によって獲得した。
リゲティの《アルティクラツィオン》の自筆
当時の電子音楽は、今日のようなシンセサイ
資料の精査、及びシュトックハウゼンやケー
ザーやコンピューターを駆使したハイテク音楽
ニッヒとの往復書簡の解読を通して明らかに
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なったのは、リゲティが、ケーニヒの小論文
取り囲むように設置されたスピーカーから音響
Score, and instruction for realization(1960)を
が放射されることによって、言語が対話するよ
手引書として、様々な音響を42の基礎素材に
うに絡み合うのである。
グループ分けし、その音響素材を組み合わせ
ることによって、
「独り言」や「対話」、
「三者対
2.今後の研究展望
話」
、
「多数の声による口論」といった疑似会話
《アルティクラツィオン》で試みられていた、
を作り上げようとしていたことである。具体的
話し言葉をモデルとした音楽「言語」の使い方
に言うと、リゲティが《アルティクラツィオン》
は、リゲティが、1961年に作曲した有名な舞
に使用した音響は、サイン波やホワイトノイズ、
台作品《アヴァンチュール》
(1962)、及び《新
様々なやり方でフィルターがかけられたノイズ、
アヴァンチュール》
(1962/65)においても、言
スペクトル、インパルスなどであるが、彼はま
わば「秘密のレシピ」として重要な役割を果た
ず、テープに録音されたそれらの音源を、
「ざ
している。
《アルティクラツィオン》を含む彼の
らざらした」、
「砕けやすい」、
「繊維質の」、
「ね
電子音楽作品の一次資料を分析した本研究成
ばねばした」
、
「べとべとした」
、
「ぎっしり詰まっ
果によって、彼のその後の音楽作品の再評価
た」などというカテゴリーに連想的にグループ
が出来るようになったことだけでなく、殆どリ
分けし、多種多様な長さにテープを切り分け、
アルタイムで展開していた世界の電子音楽の比
その小片をボックスに振り分けていった。そし
較研究にも繋がることが期待される。フランス
てそのボックスから取り出したテープの小片群
では、1951年にフランス国営放送が設置され、
の端を接合し継ぎ足していくことによって、
「シ
ピエール・シェフェール(1910-1995)らが世界
ラブル(音節)」から「ワード(単語)」へ、そし
で初めて磁気テープを音楽に用い、録音技術
て「センテンス(文章)
」へと組み立て、またそ
を駆使したミュージック・コンクレートを作曲
の結果生じた「ランゲージ(言語)
」を反転した
している。また日本では、1955年にNHK電子
り、重ねて録音するといった一般的なテープ
音楽スタジオが設立され、黛敏郎(1929-1997)
操作を行うことによって、
「コミュニケーショ
や諸井誠(1930-2013)らが日本独自の電子音
ン(会話)
」へと形作っていった。さらに、実際
楽を展開していった。
の作品の実演においては、客席の前後左右を
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