と き: 平成 21 年 11 月 14 日(土) ところ: 東総文化会館 大ホール 主 催

と
き:
ところ:
平成 21 年 11 月 14 日(土)
東総文化会館
大ホール
主
催:
旭市教育委員会 ・ 旭市青少年育成市民会議
協
賛:
旭市PTA連絡協議会
目 次
■小学生
かたやま
1
CO2 を削減するために
中央小6年
2
平和への祈り
琴田小6年
こ
片山
りか子…………………P1
くわばら
けい た
桑原
慶 太……………………P2
はぎはら
けんた
健太……………………P3
3
核兵器のない世界をめざして
干潟小6年
萩原
4
世界中の笑顔のために
富浦小6年
加瀬 千尋……………………P4
5
私の弟
矢指小6年
加瀬 理緒……………………P5
6
夢をあきらめずに
共和小6年
菅谷
亮 介 …………………P6
いとう
す なお
か せ
ちひろ
か せ
り お
すがや
りょうすけ
7
ハードルから学んだこと
豊畑小6年
伊藤 沙緒 ……………………P7
8
環境について
鶴巻小6年
須田 実千留…………………P9
9
応えん団長を経験して
滝郷小6年
す だ
み ち る
かわむら
とも
川村
智 ……………………P10
およかわ
10 平和への願い
嚶鳴小6年
11 感謝の心を伝えていきたい
三川小6年
ち ひろ
及川
千裕 …………………P11
まつもと
こう
松本
航 季 …………………P12
すがや
さ き
12 将来の夢 職業体験で学んだこと
飯岡小6年
菅谷 咲希……………………P14
しみず
ゆう き
13 お笑い芸人になるために
中和小6年
清水
祐 希……………………P15
みやざわ
14 私たちの萬歳小学校
萬歳小6年
宮澤
か な こ
花菜子…………………P16
■中学生
なかがわ
15 「やれなかった」と胸を張って言える人生に
第一中3年
中川
こしかわ
16 夢、救急救命士
第二中3年
越川
いとう
17 幸せの価値
海上中3年
ゆう た
雄 太 …………………P17
ゆう か
優 香 …………………P19
しょうこ
伊藤 祥子 …………………P20
はたけやま
18 平和のための小さな一歩
飯岡中3年
畠山
たか ぎ
19 本当の幸せ
干潟中3年
ひかる ……………P21
か な え
髙 木 佳那江 ………………P23
■高校生
いとう
20 私の夢
旭農高3年
21 未来への確かな一歩を
東総工高3年
こずえ
伊藤
梢 ……………………P25
たか ぎ
しゅん た
俊 太 ………………P27
髙木
■青 年
やまざき
22 今の自分
社会人 19 歳
山﨑
じゅんへい
純 平 ………………P28
23 日本とアメリカの文化の違い
デリンジャー
レ
ネ
ALT(外国語指導助手)25 歳 Dellinger Renee
ニ
コ
Nicole …………P29
CO 2を削減するために
中央小学校
6年
片山
りか子
9月 22 日に、国連本部で国連気候変動首脳会議が開かれました。
この 会合 では、「地 球 温 暖化 に つい て」 や 、「C O 2削 減 につ い て」の 話 し合
い・演説が行われたそうです。鳩山首相は 、会合の演説で「日本は 、2020 年ま
でにCO2を 25%削減する。」という事を発表し、世界から高い評価を受けたと
いうことです。このことは、みなさんも新聞やテレビのニュースで知っている
ことと思います。
では、
「25%削減する」というのはどのような事なのでしょう。具体的にいう
と、例えば、日本中の車の 1/2 から 2/3 位の車を、エコカーに乗り換えなけれ
ばならないということだそうです。日本中の車って 、いったい何台位あるので
しょう。私には 、全くわかりませんが、
「25%削減する」という事が 、ものすご
く大変な事なのだ、ということはわかります。
では、いったいどうやって 25%も減らすと言うのでしょう。日本の政府は、
排出量取引を考えているのだと教えてもらいました。
排出量取引というのは、国どうしでCO 2の排出量の権利を売買するのだそ
うです。それは、各国の決められた排出量を超えてしまった国が、排出量を超
えていない国から、残りの排出量の権利を 、お金を払って買い取る!というこ
とです。つまり 、可能な排出量の割合が増えたのですから、「CO 2削減に成功
した!」ということになるのだそうです。何だか変な話だなと思います。
みなさん!よく考えてみてください。排出量取引をしたところで、肝心のC
O 2排出量の全体 量は変わらないことに気付くはずです。数字の上だけの「25%
削減」なんて、全く意味がないと思いませんか。
仮に、世界中のニュース番組で、
『日本は、排出量取引によって 、CO2の 25%
削減に成功しました。』なんて報道されたら、日本国民として、はずかしくない
でしょうか。
そうならないために、いいえ、そうしないために、私は自分達の手でできる
ことから 「CO 2の削減」に取り組み・協 力していく事が大切だと思いました。
毎日 の生 活の 中で、 私達 子ど もにも 「 CO 2の 削 減」の ために 、 でき る ことが
いっぱいあります。ゲームをやり っぱなしにしない。部屋の電気を点けたまま
にしない。手を洗う時 、必要以上に水を出し過ぎない。ごみは分別して捨てる。
鉛筆・ノート・消しゴムは無駄なく使う。などなどあげたらきりがないほどで
す。一人一人が真剣に取り組んだなら、「CO 2の削減」のためにきっと大きな
力になるはずです。さらに、大人の人達も同じように心がけたら、なお大きな
力になるのではないでしょうか。
そし て、 政府に も「CO 2削 減 」の ため の法案 につ いて 話し 合い、 実 現・実
行できるよう努力してもらいたいと思います。排出量取引にたよらない「CO
2の削 減 」を目 指し て み んな で 、でき る 事に力 を 合わせ て取り 組 んでい きま し
ょう。
1
平和への祈り
琴田小学校
6年
桑原
慶太
日本国憲法第 9 条「日本国民は、正義と秩序をもととする国際平和を心から
願い、武力を国と国との争いを解決するための手段としては、永久に放棄する 」
ぼくは、この夏休みにあるテレビドラマを観ました。それは、第 2 次世界大
戦のころの話でした。ぼくは家で家族といっしょに観ていました。日本の敗戦
が濃厚となったころ、「赤紙」と呼ばれる召集令状が届いた人物が戦地に行き、
戦うという話でした。ぼくの心の一番深いところに入った話、番組を観終わっ
たぼくは、そんな感じがしていました。
ぼくは今、学校の社会科の時間に日本史を学習しています。そのなかで、日
清戦争や日露戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦という近代日本が
経験した 4 つの戦争について知りました。そんななかで、ぼくの心に最も強く
残ったのは、第二次世界大戦です。やはり「日本がボロボロに負けた戦争」と
か「日本が唯一の被爆国となった戦争」といったことがあるからだと思います。
そして、ぼくは、第二次世界大戦について、もっともっと詳しく調べてみた
いと思いました。本やパソコンで調べました。いろいろなことがわかりました。
中国や朝鮮との関係、ドイツなどのヨーロッパとの関係など、とても興味がわ
きました。しかし、ぼくのなかで、最も印象に残ったのは、日本国憲法第 9 条
でした。戦争のころの資料写真や映像を見ると、
「こんなことが本当にあったの
か」と思えるほど、現在の日本は平和です。現在の日本にもたくさんの深刻な
問題がありますが、戦争と比べればとても小さなことに思えてきます。そして、
ぼくは、現在の日本の平和は「日本国憲法第 9 条によって守られている」と思
ったのです。ぼくが調べたところによると、ここまではっきりと戦争や武力闘
争を放棄する憲法をもった国は、世界中で日本だけだということです。ぼくは、
すばらしいことだと思いました。日本が世界に誇れる大きなものの1つだと思
いました。
そんなことを考えながら、夏休みの終わりをむかえました。今年は衆議院総
選挙がありました。選挙に向けてのいろいろな報道のなかで、ぼくはあること
に驚いてしまいました。日本国憲法、特に第 9 条の見直しを考えている人たち
がいることを知ったのです。ぼくは、その意見に反対です。いくら 64 年という
月日が経ったとはいえ、ぼくのひいおじいちゃんやおじいちゃんの世代の人た
ちの「平和への祈り」の気持ちが込められた憲法第 9 条をなくしてはいけない
と思うのです。
ぼくは今 12 歳です。まだまだ知らないことがたくさんあります。これからも
多くのことを学び、いろいろな人の考え方を知りたいと思います。そんななか
で、10 年経ったら、ぼくの憲法第 9 条に対する考え方は変わっているかもしれ
ません。しかし、当時の日本人の苦しみや祈りを忘れることはありません。こ
れからは、実際の戦争を体験した人たちがますます減っていきます。だからこ
そ、日本人一人一人が憲法第 9 条について真剣に考えていく必要があると思い
ます。
2
核兵器のない世界をめざして
干潟小学校
6年
萩原
健太
戦争や原爆で多くの人の命が奪われてしまったのは60年以上も前のことで、
ぼくには想像することもできませんでした。しかし、5年生の時に行った沖縄
県で、戦争を体験した人の話を聞いたり、博物館の展示物を見たりしたことで、
多くの人々を苦しめ、命を奪った戦争はもう二度とあってはならないことだと
思いました。そして、その思いは、国語の『川とノリオ』という物語を勉強し
たことによって、ますます強くなりました。主人公ノリオは、ヒロシマに落と
された原爆によって母親を亡くしました。ノリオのこらえてきた悲しみや、母
親への恋しさがわかるにつれ、戦争や原爆によってもたらされる傷跡の深さを、
改めて感じました。
日本は、原爆を2回も落とされた世界で唯一の被ばく国です。建物や自然を
壊し、一瞬で何万という尊い命を奪い、一命を取り留めたとしてもひどい傷を
負わせ、そのときは被害が無いようにみえても何年後かに白血病などの病気を
引き起こす‥‥それが、人間が作り出した恐ろしい武器、核兵器なのです。
日本の国会と政府は、
「核兵器を持たない、つくらない、持ちこませない」と
いう非核三原則を定めています。これは、核兵器による被害を二度と出さない
ようにするための制度です。ぼくは、非核三原則をこれからもずっと守り続け
ていかなければならないと思うと共に、世界で唯一の被ばく国として平和を守
るため、原爆によって起きた悲劇を他の国々に伝えていくべきだと考えます。
アメリカのオバマ大統領は、
「核兵器なき世界」という理念を掲げ、ノーベル
平和賞を受賞しました。世界には、核兵器を持つことで国の安全が保障される
と考える人がいるようですが、ぼくはそうは思いません。核兵器を自分の国の
ために使うということは、かつての日本と同じような悲しみや辛さを相手に与
えるということです。そうやって得る安全は、本当の意味での安全ではないと
思います。オバマ大統領のように、核廃絶を訴え、行動する人が多くなってほ
しいです。
では、核兵器のない世界をつくるために、ぼくたちは何をしたらよいのでし
ょうか。1つめは、核兵器のおそろしさを知って後世に伝えていくことだと思
います。戦争や原爆を体験した方から話を聞いたり、様々な資料から戦争につ
いて学んだりして、自分が大人になったらそのことを次の世代に伝えていくこ
とが必要であ ると考えます。2つめは、生活の中で問題が生じたとき、力ずく
で解決するのではなく、話し合いで解決していく努力をすることだと思います。
何回も話し合うことでお互いの考えをよく知り、痛みや傷を与えることなく解
決していく方法を見つけることができると思うからです。これらのことは、と
ても小さなことかもしれません。しかし、世界中のみんなで努力していけば、
核兵器だけでなく戦争もなくなる日がいつか来ると思います。ぼくもできるこ
とから努力していきますので、みなさんもぜひ考えてみてください。
3
世界中の笑顔のために
富浦小学校
6年
加瀬
千尋
今、日本は戦争もなく、平和で豊かです。しかし、世界の中には、まだ戦争
をしている国があり、苦しい思いをしている人々がたくさんいると思います。
だから、私たちは、戦争時代の大変さと原爆の悲惨さをむだにしないで、二度
と戦争を起こしてはいけない、そして、世界中に戦争と原爆の悲惨さを伝えな
ければならないと思います。
私は、この夏「はだしのゲン」という本を読みました。ゲンは小学2年生の
男の子で、父、母、兄、姉、弟の6人家族です。しかし、8月6日の広島に原
爆が落とされた日、父と姉、弟が死んでしまいます。いろいろな困難にあいな
がらも父に言われた「ふまれても、ふまれても、くじけんたくましい麦のよう
に生きろ。」「なぜ、わしらが焼き殺されるんか、生きてそれを見届けるんだ。」
という言葉を胸に、ゲンは成長していきます。私は、社会の教科書にのってい
る戦争中の写真や資料集を見ながら、恐ろしさと悲しさで胸がいっぱいになり
ました。
私は、ゲンと同じ戦争時代を生きた、今は亡きひいおじいちゃんのことをお
じいちゃんに聞いてみました。ひいおじいちゃんは、第二次世界大戦で戦場へ
行き、たくさんの人の死を見、戦争の悲惨さを経験したそうです。思い出した
くない記憶だったのか、おじいちゃんには、あまり話してくれなかったと言っ
ていました。戦後、ひいおじいちゃんは、満州で捕虜になりました。一日も早
く日本にもどるために、やせて働けなくなるように食事をとらなかったそうで
す。馬小屋へ塩を盗みに入ったこともあると言っていました。また、食事当番
になったときは、結核にかかり寝ている仲間に、たくさんの食事をこっそり持
っていってあげたそうです。このとき、ひいおじいちゃんに命を助けられたと
いう武田さんという方がいました。武田さんは、感謝の気持ちを伝えるために、
遠い徳島から何度も訪ねて来ました。ひいおじいちゃんは、
「そんな感謝される
ことはしていない。」と話し、いつも泣きながら2人で一日中話をしていたそう
です。ひいおじいちゃんが亡くなっても、武田さんは、何度も連絡をくれ、そ
のたびに感謝の言葉を言っていました。
私は、ひいおばあちゃんのことも聞きました。ひいおじいちゃんが戦場から
帰ってくるまで、いけないことですがどうしても生活していくために、お米や
もちを持ってヤミ屋をやりお金をかせいでいたと聞きました。つかまったら大
変なのでとても怖かったそうです。戦争は、たくさんの人をつらく大変な目に
あわせたんだと感じました。
今、この時代に生きている人の中には、「戦争なんてやってもいいじゃん。」
と考えている人がいるかもしれません。そんな人たちのため、もう二度と戦争
を起こさないようにするために、私たちは戦争のことをきちんと知り、戦争を
二度と起こしてはいけないということを伝えていかなければならないと思いま
す。いつか、世界中のみんなが、笑って幸せに暮らせる日がくればいいなと思
います。
世界中に笑顔があふれますように…。
4
私の弟
矢指小学校
6年
加瀬
理緒
私の弟は、平成20 年6月4日に、病院へ向かう車の中で産まれました。体
重は、1878gのとっても小さな男の子でした。それに、7番染色体欠損異
常症など7つもの病気を持っていました。そのせいで、産まれてから約10ヶ
月の間、旭中央病院に入院していました。弟の名前は、
『未来大』です。未来が
明るく大きくなるようにと両親がつけました。未来大が産まれてから、毎日、
夜になると両親は、面会のために病院に行っていました。毎日大変だったけど、
未来大はうれしかったと思います。私は、毎日、未来大のことを聞くのがとて
も楽しみでした。何回か、
『ファミリールーム』という所で未来大に会えたこと
もあります。一緒にいる時はとても幸せでした。病気に負けずに頑張っている
未来大を見ると、私も頑張らなくてはいけないと思いました。
産まれてから9ヶ月経った今年の3月、無事退院が決まりました。けれども、
酸素ボンベやモニターなどいろいろ家に持って帰ることになりました。未来大
は、いろいろな病気を持っていたので、口からミルクを飲むことはできません
でした。そのため鼻から管を入れていました。そして3時間おきに管からミル
クを注入していました。管がついていたので、抱っこするときも管がぬけな い
ように気をつけなければいけませんでした。お風呂の時も、管をつけたまま入
りました。そんな未来大の世話をする両親を見ていて、私も注入の手伝いをし
たり、お風呂の着がえを手伝ったり、おむつをかえたりしました。それだけで
も、私は未来大に幸せをもらいました。
そんな未来大との楽しくて幸せな日が急に終わるとは思いませんでした。5
月11日午前5時頃、未来大は天国に旅立って、天使になりました。その時は
とても悲しかったです。そして、私は、たくさんたくさん泣きました。
未来大が亡くなって、しばらくは思い出して泣いていたけれど、私は、未来
大と約束をしました。
「未来大の分まで勉強や運動をがんばる。」
「未来大の分ま
で長生きする。」「未来大の分まで楽しい思い出を作る。」と・・・
私の将来の夢は、
『保育士』となることです。保育士となって障害を持ってい
る子どもたちも入れる施設を作ることです。今は障害を持っている子どもたち
の入れる施設が少ないそうです。一つでもそういう施設を多くして、障害を持
っている子どもたちの笑顔を増やしたいと思います。そして子どもたちだけで
なく、その両親や家族の笑顔も増やしたいです。障害を持っている子どものい
る家庭は、とても大変です。わたしの家族もそうでしたが、体力もたくさん使
うし、心の面でもその子の心配をしたり、将来への不安もあったりと、心の休
まる時間はないと思います。家族にとっても、子どもが施設に行っている間の
何時間かだけでも、心の息ぬきができると思います。そこで、子どもたちを少
しでも元気づけられるような優しい保育士、そして、家族の人たちにも何でも
相談してもらえるような頼りがいのある保育士になりたいです。わたしの最初
の夢はただ保育士になることでした。こんなに夢を大きくしてくれたのは未来
大です。早く大人になって、この夢を実現したいと思います。
5
夢をあきらめずに
共和小学校
6年
菅谷
亮介
自分は今、考えていること、というより気持ちで戦っていることがあります。
それは、小学2年から4年までやっていたサッカーに復帰する事です。4年生
の時に病気になり、仕方なくサッカーチームを休部して、病気を治す事に専念
しています。初めは、少し休めばまたすぐ復帰できると思っていました。しか
し、思うように病気は治りませんでした。
ぼくがサッカーをあきらめない理由は、父のえいきょうかもしれません。父
は、中学、高校と陸上部に所属 し、高校には毎日朝一番の電車で通って、夜遅
くの電車で帰ってきていたそうです。だから、父は「最後まであきらめるな!」
とよく言っています。病気になる前、サッカーの練習を見にきていた父は、ぼ
くがボールを追いかけなかったりすると「あきらめるな…」と、大きな声で言
っていました。そんな言葉も、ぼくの耳から遠のいていきました。前は、プロ
の試合やサッカーゲーム、サッカーに関する事はすべて大好きでしたが、いつ
の間にか、サッカーはぼくの気持ちから離れていきました。
そんな時期、チームの大事な試合があり、ぼくはもちろん参加できませんで
した。後で知ったことですが、コーチは試合に参加していないぼくをいつもメ
ンバー表に入れてくれていたそうです。チームのメンバーはみんな、ぼくの背
番号の「6」を手に書いて「亮介も一緒に戦うんだ。」という気持ちで、試合に
いどんでいたそうです。自分の調子がよいときは、チームの応援にいきました。
コーチは必ず「お∼亮介」と、笑いながら声をかけてくれます。でもコーチは
練習のときはすごく厳しい人で、ぼくはよくコーチにびびっていました。そん
なコーチも、ぼくに気をつかってくれているのです。選手の家族はぼくを見つ
けると、「亮介、元気になったらもどってきな。みんな待っているから…。」と
声をかけてくれました。ぼくは照れくさくなって照れ笑いをしてしまいました。
学校でも、ぼくを気づかってくれて、負担にならないようにクラスのみんなは、
助けてくれました。病気になったことはつらいですが、ぼくは、みんなの優し
さに触れることができました。
今6年生になり、だいぶ体の調子もよくなってきました。今ならチームに復
帰できそうですが、なかなか一歩がふみ出せませんでした。チームのみんなは
自分を入れて16人。このチームに入るのに、百人以上の人がセレクションを
受けているのです。週に4日の練習で、平日は約2時間の練習と、土、日は試
合や練習をこなしているので、みんな心の強い人ばかりです。普段のみんなは、
明るく楽しい仲間です。でも、ピッチの上に立つと選手の顔になるのです。
その中に今まで練習をしていない自分が、チームについていけるのか・・・
とか。自分を受け入れてくれるのか・・・とかいろいろと考えてしまい、なか
なかチームに合流できません。でも絶対に一歩をふみ出すことをやめようとは
思いません。なぜなら、ぼくはサッカーが大好きだからです。
ぼくは、絶対あきらめたくありません。ぼくの背中をおしてくれる家族、友
だち。チームのみんなが見守ってくれているかぎり・・・。
6
ハードルから学んだこと
豊畑小学校
6年
伊藤
沙緒
私は、5年生のころから陸上競技のハードルに取り組んでいます。5年生の
旭市体育大会から、種目別競技に出られることになり、私は、ハードルを選び
ました。私は
背が高いのでハードルに向いているのではないかと思ったからです。先生方に
も、ハードルをやってみることをすすめられました。
ハードルをやってみて大変だったのは、練習前の柔軟体操です。私は、体が
かたいので、とても痛くてつらかったです。家でもテレビを観ながら、ハード
ルを跳ぶ姿勢で柔軟を続けました。
5年生の大会の時は、自信がなくて、ハードルに足が当たったらどうしよう
と、不安でいっぱいでした。何とか予選を2位で通過し、決勝では4位になれ
ました。このときは、ゴールできれば良いと思っていたので、入賞できておど
ろきました。
でも、この入賞をきっかけに、今度は1位を目指したいと思いました。なぜ
なら、
6年生で1位になると県大会に行けるからです。そのことを考えている時に、
父から「旭ジュニア陸上クラブ」をすすめられました。私はぜひやってみたい
と思いました。
「旭ジュニア陸上クラブ」というのは、旭第2中学 校の先生である加瀬先生
と宮崎先生、石井先生と豊畑小出身の髙橋まさちかコーチが中心となり、教え
てくださっています。旭2中の陸上部のみなさんと一緒に東総陸上運動場で練
習しています。先ぱいは優しいのか?練習についていけるのか?心配でしたが、
2中の先ぱい達はよく話しかけてくれるし、陸上の豆知識などをよく教えてく
ださいます。
ハードルについても、現役のハードル選手の方が、跳んでいる時の姿勢など
を熱心に教えてくださいました。小学校生活最後の体育大会に向けて、陸上ク
ラブでも、学校でも練習にはげみました。
5月20日、いよいよ本番がやってきました。予選の時から、絶対に負けな
いという強い気持ちで臨み、1位で通過しました。
決勝になると、ものすごいきんちょう感におそわれました。スタートすると、
視界に去年1位だった人が入ってきたので、あせってしまいました。でも、練
習の時に教えていただいたように足を速くふりおろして、1位の人をぬかそう
としました。
しかし、残念ながら結果は2位に終わりました。ゴールした瞬間、涙があふ
れてきました。一生懸命練習して、本番だって全力で走ったのに、何で負けて
しまったのだろうと悲しい気持ちでいっぱいでした。
その悔しさをばねに、今まで以上に陸上クラブでハードルの練習をがんばっ
ています。10 月 18 日には、県の記録会があり、天台の陸上競技場で走ること
ができました。
私はハードル競技を通して、つらい練習にも休まず参加した経験から、努力
7
を積み重ねることの大切さを学びました。苦しくてもゴール目指して走り抜く
レースから、あきらめずに最後までやりぬくことのすばらしさを学びました。
中学に行ったらこの経験が生かされるように、初めてのことにもどんどんチャ
レンジしていきたいと思います。
8
環境について
鶴巻小学校
6年
須田
実千留
最近、テレビのニュースで、
「台風や豪雨が多く、異常気象が多い。これは地
球温暖化が原因である。」ということを耳にしました。今、地球に何が起こって
いるのかとても気になり、環境問題について調べることにしました。環境問題
の中でも、地球温暖化と酸性雨を取り上げることにしました。
まず、地球温暖化についてです。地球温暖化とは、二酸化炭素が大気中に増
えることによって地球の温度が上がっていき平均気温が上昇する現象です。地
球が温室のように暑くなると、海に台風が発生しやすくなり、そのため、異常
気象が増えてきているそうです。
なぜ、地球温暖化が進んでいるのでしょう。その原因を調べると、なんと、
私たちが出している二酸化炭素であることがわかりました。この二酸化炭素が
温室ガスの量を増やし、地球温暖化のもとになっていることもわかりました。
中でも、自動車から出る二酸化炭素の量が最も多く、毎日のように、車に乗っ
ている私にとってはとても衝撃的でした。また、家庭以外でも、いろいろな製
品をつくる工場から多くの二酸化炭素排出量があり問題にも なっていることが
わかりました。
そこで、日常生活を振り返り、私にできることはないかと考えてみました。
すると、節水をしたり、節電をしたりすればいいことがわかりました。歯磨き
や手洗いの時には水を出しっぱなしにしないこと。使っていない電気製品は元
栓を抜いたり、使っていない部屋の電気はスイッチを切ったりすること。テレ
ビを見ないときは主電源を切ること。近いところは車に乗らず、歩いたり自転
車を利用したりすること。私にできることがたくさんあることに気づきました。
そして、これらのことを少しずつでも実行することで節約になり、地球温暖化
を防ぐことにつながると思います。
次に、酸性雨についてです。酸性雨とは、自動車から出る排気ガスや工場か
ら出るけむりに含まれる汚染物質が、上空で雨雲にとりこまれて酸性になった
雨のことです。
この酸性雨により、木がかれたり、建物や文化財の大理石がとけたりしてい
るそうです。また、生き物なども死んでしまっていることがわかりました。私
は、雨というのは無害であると思っていましたが、酸性雨というものが存在し、
さまざまな被害を出していることを知り、とても驚きました。そして、その被
害は年々ひどくなっており世界 各国に及んでいるとのことです。
このように、環境問題について調べてみると、環境に対して人間は加害者で
あり、同時に被害者でもあるということがわかりました。さらに、今、地球環
境問題は深刻であることを思い知りました。このまま放っておいたら大変なこ
とになってしまいます。地球環境をよくするためには、たくさんの人が環境に
目を向け、協力をしていくことが大切だと思います。そして、私自身できるこ
とから実行したいと思います。かけがえのない地球を守るために。
9
応えん団長を経験して
滝郷小学校
6年
川村
智
ぼくは今年、滝郷小の運動会で紅組の応えん団長をつとめました。その時の
ことを話します。
九月の学級会で団長に決まった時、ぼくは、正直「すごくいやだなあ。」とい
う気持ちでした。なぜなら、自分の性格はおとなしい方だからです。
団長になったその日 、すぐに係の先生との打合せがありました。先生は、た
くさんアドバイスをしてくれました。だけど、次の日までに考えていくことに
なった「応えんコール」の振りつけのことなど、ほとんど頭に入らず 、とにか
く、いやで、いやで、たまらないという気持ちでいました。
次の日から 、すぐに実際の練習が始まってしまいました。ぼくは 、団長なの
で、いつも最初に何かをやらなければなりません。他の団員よりは、大きな声
を出したり、手本になるようにしなければなりません。しかし 、自信がなく、
人前で大声を出すことに慣れていないこともあり 、とてもはずかしいことをや
っているような気持ちでいました。それなのに、他の応えん団の人たちが、な
かなか声を出せないでいると、心の中では 、「もっと大きな声を出せよ。」と思
ってしまうこともありました。そんな日が少し続いたので 、ぼくは、応えん団
を本当にやめたいと思うようになっていました。また 、練習が昼休みにあると、
他の人たちが楽しそうに遊んでいるので 、とても、うらやましく思うこともあ
りました。
次の週からは、全校の応えん練習が始まりました。全校の前に出たしゅん間
から、緊張で足がふるえ、心臓がドキドキしている自分に気づきました。声も
全然出ませんでした。応えん団だけで練習しているときより百倍緊張してしま
い、何が何だか全くわからないうちに初日の練習が終わりました。練習が終わ
り片付けをしていると、先生方がぼくのところへ飛んで来てくれて 、
「すごかっ
たよ。智くん」「大きな声出てたよ。」など 、たくさん声を かけてくれました。
その時、自分で思っていたことと全くちがうことを言われたので正直驚きまし
た。しかし、時間が経つにつれ、自分の気持ちが晴れ晴れしてくるのを感じま
した。何かが変わったのです。憂うつだった気持ちが、応えんの練習をがんば
ろうという気持ちになったのです。それからの練習でぼくは 、自分から進んで
大きな声を出そうと努力しました。先生に教えてもらったことを自分たちで工
夫し、みんなが盛り上がるように振りつけを変えたりもしました。ぼくが変わ
ると応えん団の人たちも、だんだん大きな声が出るようになってきました。全
校 の みん な も大 き な声 で 応 え ん の 練 習 に 参 加 して く れる よ うに な り ま し た 。
運動会の当日 、紅組はみんなが協力し、力を合わせて応援をがんばりました。
自分は、その応えん団の先頭に立ち、自分なりに考え、責任を果たせたと思っ
ています。それは 、応えん団長をやりとげたという自信からそう思ったのです。
ぼくは、今回応えん団長を経験し、弱い自分でも 、逃げずに挑戦することの大
切さを学びました。努力していれば、必ずだれかが応えんしてくれ 、支えてく
れることも知りました。だから 、こんなぼくでも、何事にも負けない強い気持
ちで、これから、いろいろなことに挑戦していこうと思っています。
10
平和への願い
嚶鳴小学校
6年
及川
千裕
太平洋戦争・・・ぼくはその名前だけは知っていますが、もちろん実際その
場で体験してはいません。ですが 、親にすすめられて「はだしのゲン」や「い
おう島からの手紙」
「娘よ、ここが長崎です」などの映画を見たり、本を読んだ
りして戦争の悲惨さを知りました。
「いおう島からの手紙」では 、いおう島で戦死した兵隊さんたちが自分の家
族に対する気持ちを書き記した手紙が、土の中からほりだされ、物語が始まり
ます。その手紙は、家族とはなればなれでいたつらさや悲しみがわかるもので
した。
「はだしのゲン」と「娘よ、ここが長崎です」は 、広島と長崎に落とされた
原子ばくだんによって、大勢の人が一瞬にして死んでしまうおそろしさと、そ
の後の人たちの悲しみと苦しみの深い物語でした。これらを見て、ぼくは鳥は
だが立ちました。戦争とは何なのか、何のために、数え切れないほど多くの人
たちの命が失われてしまったのか・・・。
しかし、これだけは言えます。
戦争は絶対に起こってはいけないと・・・。
テレビやラジオのニュースでは 、連日のようにテロや核実験の話が出てき ま
す。今でも世界のどこかで、絶え間なく争いが続いています。そして 、ぼくと
同じくらいのたくさんの子供達も 、争いに巻きこまれて、大切な命を落として
います。
現在の日本は 、憲法により守られていて、戦争はしていません。とても「平
和」だと感じます。ぼくたちが毎日学校へ行き、勉強したり、友達と仲良く 、
遊びや運動をしたりする、そして、おじいさんやおばあさんが、仲良くゲート
ボールをして、楽しく過ごしていること、そのように、ほんの小さな事ですが 、
それが、「平和」なのだと思います。
では、世界の人たちみんなが、ぼくたちと同じように、楽しく喜び合いなが
ら生活するためにはどうしたらよいのでしょうか。
それは、世界中の人たちが武器を捨て 、相手を思いやる心を持つことではな
いでしょうか。話し合い、お互いの気持ちを分かり合うことではないでしょう
か。
日本は世界でゆいいつ、原子ばくだんを落とされ、そのおそろしさを体験し、
世界のどの国よりも 、戦争による悲しみを知っています。そこで、その体験を
より多くの人たちに知ってもらい 、それを引きついでいくことではないでしょ
うか。平和の大切さ 、平和のありがたさを感じる心を 、常に、そしていつまで
も持ち続けていくことではないでしょうか。
ぼく達の力は大きなものではないかもしれません。しかし 、これからの平和
を守っていくのは、ぼく達子供がやっていかなくてはならないものなのだと思
います。
ぼくは、世界中から戦争がなくなり、みんなが平和に暮らせることができる
ようになることを願います。
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感謝の心を伝えていきたい
三川小学校
6年
松本
航季
僕は、今年の夏休みにとても貴重な体験をしました。それは、旭青年会議所
が主催した富士登山と 、ボーイスカウトで行った八ヶ岳のキャンプです。
まず富士登山は、僕にとっては初めての経験でした。ですから、その日の朝
はとてもワクワク、どきどきしながらバスに乗りこみました。四時間ほどで、
やっと宮ノ口に到着し 、昼食を済ませたあと、いよいよ登山の開始です。しか
し、外はあいにくの雨で『大丈夫かな?』 、と少しいやな感じが頭をよぎりま
した。実際に登っている途中は 、地面がすべりやすく、上からの砂や土がまじ
っている、まさに土砂降り状態だったのです。
いくらか登っていった途中、休憩時に旭青年会議所の方から 、
「小屋までもう少しだぞ。がんばれ!」
と励ましていただきました。とても疲れていましたが、体と心に元気がわいて
きました。それでも 、泊まる小屋に着く頃には、頭からつま先までずぶ濡れで 、
もうクタクタになってしまいました。
次の日は、まだ暗いうちに起床して、真っ暗な中を出発しました。このころ
になって、やっと雨が上がりました。この辺りの標高は、とても寒かったので
すが、空を見上げると星がいつもより輝いていて、それに下の方を見下ろすと、
町の明かりがどこまでも続いている、まるで宝石箱のような夜景がとても印象
的でした。
しかし、昨日の雨で地面がすべりやすくなっていて、何回もすべって転んで
しまいました。だんだん上の方に行くにつれ、少し頭も痛くなってきました。
寒さも加わり 、体調も思わしくないこともあり、最後まで登り切れるかどう
か、だんだん心細くなってきてしまいました。今にも萎えてしまいそうな気持
ちと、疲れ切った体でしたが 、いろいろな方に励まされながら 、なんとか九合
目までたどり着くことができました。
ふと東の方を見ると 、夜が明けてきてご来光が見え始めました。すると、周
りが一気に『ぱあっ』と明るくなり、日の光が差し込んで暖かくなってきまし
た。気持ちまで明るくなってきました。ふだんではあまり感じなかった太陽の
ありがたさを、このときばかりはとても感じたのです。
頂上までもう少しの所で、旭青年会議所の方が 、
「もう少しだぞ、がんばれ!」
と何回も声をかけて励ましてくださいました。そのお陰で 、より一層元気がわ
いてきて、一歩一歩かみしめるように登り始めました。そして 、ついに頂上ま
で登りつめることがでたのです。
富士山の頂上では、雲海が広がっていて、とてもすがすがしい気分でした。
旭青年会議所の方々の励ましや応援がなかったら 、たぶん僕は登り切れなかっ
たかもしれません。苦しさに 打ち勝ったときの充実感と、日本一高い山の頂上
で味わった感動は、今でも忘れられません。これも、旭青年会議所の方々が励
ましてくださったお陰と感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、もうひとつ忘れられない体験は 、ボーイスカウトで行った八ヶ岳の
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キャンプです。ここでは、自分たちでテントを張ったり、食事を作ったります。
今回使った『A型テント』は、一人で張るのは難しく 、みんなで協力しないと
うまく組み立てられません。それにテントを張るときには 、暗闇の中で張らな
ければなりませんでした。懐中電灯を照らしながらの作業は 、いつもよりも時
間がかかってしまい大変でした。それでも 、協力しながら、やっとのことで立
てることができたのです。「明かり」がないとなかなかうまくいかず 、ふだん
は感じなかった「明かり」のありがたさを思い知らされました。
食事作りも 、みんなで協力し合い、役割分担を決めて作ります。資源を大切
に使うことを教わり 、物を大切することも学びました。
薪から火をおこす係 、食材を切る係、それを調理する係、どの仕事も責任を
もって調理しないと食事が作れません。もし 、失敗したら責任重大です。でも、
みんなで協力し合い回数を重ねていくうちに、だんだん上手になっていきます。
なによりも、自然の中で、みんなで作って食べる料理は 、とても楽しく格別
でした。
ここで学んだことは、「みんなで協力し合ったり、責任ある行動をしたりす
ること」、そうした積み重ねが 、自分の為、仲間の為、そして人の為に考える
ことが出来るようになると、教えていただいたことです。
自然の中で 、資源の大切さやありがたさ、人と人とのふれ合いが経験できる
ボーイスカウトに入って、ほんとに良かったと思います。
小学校最後の夏、僕は本当に良い思い出が出来ました。これも、皆さんにい
ろいろ支えていただいたお陰と感謝しています。
ボーイスカウトの言葉の中で 、『感謝の心を持つ』というのがあります。し
かし、これは言葉で言うのは簡単ですが 、実際に経験してみなければよく分か
らない、まさに「言うは易く行うは難し」の言葉だと思います。
富士登山では 、何回も、何回も声をかけて励まし続けてくださった旭青年会
議所のみなさん、また、三泊四日の八ヶ岳のキャンプでは 、ずっと付き添って
色々教えてくださったボーイスカウトの指導員の方々。このような方々のお陰
で、僕たちは貴重な経験や感動を得ることが出来たのです。
自然をいくつしみ、相手の立場や考え方を尊重し 、感動の気持ちをもつ。そ
のようなことを教えていただいた皆さんに 、あらためて感謝を申し上げます。
僕は、来年中学生なります。そして、高校へ行き 、将来に向かって進んでい
きます。これからもこの気持ちを持ち続け 、次の世代にこの言葉を教えてあげ
られるような大人になっていきたいと思います。
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将来の夢
職業体験で学んだこと
飯岡小学校
6年
菅谷
咲希
私は今年の夏休みに、私が卒園した「ひかり保育園」に行って職業体験をし
ました。この体験がきっかけとなり、自分が将来どのような職業につ きたいの
か、また、その夢をかなえるためにはどのようなことをしておけばよいのかを、
真剣に考えるようになりました。
私は、生まれて2か月で保育園に入ったので、母と一緒に過ごす時間が少な
く、少しさびしい思いをしていました。保育園の迎えも、仕事で忙しい母では
なくいつも祖父でした。祖父のことも大好きでしたから、お迎えはうれしかっ
たのですが、それでも時にはさびしく思うことがありました。ですから初めは
何となく保育園が嫌いで、「行きたくない。」とだだをこねて、休んでしまうこ
とも多かったように思います。
そんな私が、いつの まにか保育園の先生や友だちと遊ぶことが楽しくなり、
めったなことでは休まなくなるほど保育園のことが大好きになりました。やさ
しい先生や大勢の友だちと遊ぶことの楽しさを知ったからです。
私は、卒園した時にも思いましたが、小学校の卒業を目前にした今でも、あ
の楽しかった日々にもどりたいと思うことさえあります。それほど保育園が大
好きになっていたからです。家では味わえないたくさんの楽しい遊びを知り、
大勢の友だちややさしい先生と遊ぶことの楽しさを知り、みんなと過ごした保
育園のことが本当に大好きだからです。私にとって、あの 時の保育園の先生方
はあこがれの存在です。保育園ぎらいになりそうだった私を、保育園が大好き
な私に変えてくださった先生のようになれるものならなりたいと思いました。
「保育士になること」これが、今の私の将来の夢です。
ところが、こんなことがありました。
「ゆめ・仕事・ぴったり体験」の学習の
第1時間目に、保育士になる条件について話題になりました。何と、ピアノを
習っていないと保育士になるのは難しいのではないかというのです。ピアノを
習っていなかったために夢をあきらめたという人の話も聞きました。
それを聞いた私の心に、大き な衝撃が走りました。私もその人と同じに今は
ピアノがひけないからです。私は、職業体験に行った時にその事実を確かめて
みました。するとやはり答えは同じでした。保育士はピアノがひける方がいい
のです。ピアノがほとんどひけない私は、保育士になる夢をあきらめるしかな
いのかなと思ってしまいました。でも、保育園での職業体験で、小さい子ども
たちと楽しく遊んだことを思うと、やはりこの夢をあきらめるわけにはいきま
せん。ピアノがひけないという障害を乗り越えても、私は保育士になりたいの
だという強い気持ちを再確認しました。
夢の職業につ くためには、ピアノに限らず、職業体験で学んだあいさつや言
葉づかいなどの礼儀をきちんとすることも大切です。相手の心を思いやる心を
持つことも大切です。これからの生活でこれらのことをきちんと学びながら、
がんばって夢に向かっていこうと思います。そして何年か後にはピアノがひけ
る私なりの「いい先生」になれたらいいなと思っています。
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お笑い芸人になるために
中和小学校
6年
清水
祐希
私の将来の夢は、お笑い芸人になることです。なぜ、お笑い芸人になりたい
かと言うと、みんなが笑っている姿を見ると、自分がとても幸せな気持ちなれ
るからです。クラスがしずんでいる時に静かでおとなしい「清水祐希」のイメ
ージを捨て、今はやっている芸人のギャグをポロッと言うと、今までよどんで
いた空気がいっきに明るく変わり、私もとても幸せな気分になれるからです。
何と言っても、みんなの笑い声や笑顔が私の心を震わせます。
私は、小さい頃から体を動かすことや、歌うことが大好きでした。大きくな
ったら、スポーツ選手や歌手になるのかなと、父や母は思っていたようです。
しかし、5歳の時に、
「もやもや病」と言う頭の血管がどんどんせまくなってし
まう原因不明の病気に なりました。いままでに、2回頭の手術はしたけれど、
はげしい運動をしたり、長い間歌っていたりすると、手足がしびれてしまうの
で、運動も、歌う事も、普通の人達よりも出来ない状況です。無理に続けると、
頭の血管がやぶれたり、詰まったり最悪は、命をとられてしまうそうです。そ
んな状態なので、何をするにも親が見ていて、時に止められ、思う事が、出来
ない状況でした。思うように出来ないということは、つらく悲しいことです。
楽しそうに歌や運動をしている友達が、にくらしく思えることもありました。
何をするにも心から楽しむことが出来ず、日増しに、私の胸の奥に重い塊のよ
うなものが出来ている感じがありました。
そんなある日、私の胸の重い塊を溶かしてくれる者がありました。それは・
・・。4年生の冬休みの事です。「笑っていいとも」という番組に、「はんにゃ
」という芸人が出ていました。どんなネタをやっていたのかは詳しく覚えては
いませんが、会場のお客さんの笑い声が心に響いた事と、何より自分が体の底
から笑っていたからです。そして、そのネタを学校でやってみると、想像以上
にみんなが笑ってくれて、私もとても心地よい気分になれました。それ以来、
落ち込んでいる友達を みると、
「笑わせてやろう」と言う気持ちが自然にわいて
くるようになりました。
お笑い芸人は、決して簡単になれるものではないと思います。そして、見て
いる以上につらく険しいみちのりだと思います。でも、
「はんにゃ」が私の胸の
重い塊を溶かしてくれたのと同じように、私も、人を笑わせ、いろんな事で悩
んでいる誰かの胸の重い塊を少しでも溶かしてあげられるような芸人になれる
よう努力しようと思います。
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私たちの萬歳小学校
萬歳小学校
6年
宮澤
花菜子
裏山では、小鳥がさえずり、校舎からは干潟八万石が見渡せる、こんな自然
豊かな所に 、私たちが通う萬歳小学校があります。 萬歳小学校は、全校児童が
96 名のとても小さな学校です。私の、曾祖父も祖父も、父も、萬歳小学校で学
びました。そして、私もあと約 4 ヶ月で卒業します。私は、思い出がたくさん
つまった萬歳小学校が大好きです。
私が、保育所に通っていた頃は、外で遊ぶ友だちが全然できなくて 、友だち
と遊んだのは室内の方が多かったと思います。また 、姉がいっしょの時は、姉
の友だちといつもいっしょに遊んでいたことを覚えています。しかし 、小学校
に入学したら、同級生の友だちとも外で仲良く遊べるよう になり、毎日がとて
も楽しくなりました。上級生もよく面倒をみてくれて、登下校も大好きでした。
この 6 年間で、部活動にもみんなが参加して頑張ってきました。陸上大会で
は、全員が選手として出場しました。運動会の鼓笛パレードも 、3年生以上が
全員で行ってきました。音楽会の合唱も 、4 年生以上がみんなでステージに立
ちました。練習はとても厳しかったけれど 、心を一つにして歌うことで、合唱
のすばらしさを学ぶことができました。私はもともと、楽器の演奏や歌が大好
きなのですが、特に音楽会で歌った曲は、どれも心に染み込んでいます。さら
に、ミニバスケットボールも全員がやっていて、年に 2 回ある大会に向けて 、
みんなで一生懸命がんばっています。1 月に行われる最後の大会では 、選手と
して出場を果たしたいと思います。このように、部活動のスポーツと音楽をと
おして、たくさんの経験をしてきました。
そして、何といっても、今までいっしょに過ごした友だちとの大切な時間。
クラス替えがないので、保育所からずっといっしょの友だちがほとんどです。
クラスには 、まとめ役の人 、ギャグをとばして笑わせる人、何事にも頑張る人、
気持ちをわかってくれる人など 、個性豊かな友だちばかりで、とても楽しいで
す。運動会や修学旅行などの行事でも共に頑張り 、共に楽しい思い出を作って
きました。以前、ある先生に 、
「みなさんは仲が良すぎたり 、優しすぎたりして、
競争心が育ちにくい」と言われたことがあります。私は、友だち同士みんな仲
良しで良いと思うのですが、時には、ライバルとして競うことも必要なことな
んだと考えるようになりました。卒業までは 、より楽しい思い出を作りながら 、
よきライバルとしても勉強や部活動に頑張りたいと思います。
このような大好きな 萬歳小学校ですが、実は不安なことがあります。それは 、
これから先どんどん児童数が減り続けて 、よその学校と統合されたり、廃校に
なってしまったりしないかということです。学校の規模が大きくなれば、友だ
ちも増えるし、楽しい行事も増えて良いかもしれません。しかし、やはり、徒
歩で登下校できて、1 年生から 6 年生までのみんなが仲良しで 、みんなで頑張
っていける萬歳小学校が私は大好きです。祖父や父も 、今の萬歳小学校と共に
小学校時代の思い出を大切にしているのだと思います。私も卒業していく萬歳
小学校の思い出を大切にしながら 、親しみのある萬歳小学校が、いつまでも続
いていってほしいと願っていま す。
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「やれなかった」と胸を張って言える人生に
第一中学校
3年
中川
雄太
「やれなかった やらなかった どっちかな」皆さんは、この言葉をどこか
で耳に、或いは目にしたことは、ありませんか?
これは、相田みつをさんという有名な書道家が、詩集の一作品として遺した言
葉です。僕は、カレンダーでこの言葉を目にしたとき、何だか心の隙間を刺さ
れたようで、ドキッとしました。まるで、知らぬうちに自分の心のどこかで気
に掛けていたところを、覗かれてしまったかのように感じたのです。
よく人は失敗をし、後悔をします。そん なとき、何故もっと努力をしなかっ
たのだろうかと悔やむものです。僕も何もしないでする後悔は、やるだけのこ
とをやって悔いるよりも、後味が悪く、その思いよりもより大きくなると思う
のです。しかし、実際の場面では、いざという時になると、行動に移 さなかっ
たり、歯をくいしばって頑張ることのできない自分がいます。
陸上球技部の選手として大会に参加したある日のこと、僕はあまり調子が良
くない状態で出場しました。1,500mのレースが始まり、ラスト 200mに差し掛
かったときでした。普通ならばラストスパートをかけてタイムを縮めに 入るの
ですが、どうにも苦しい。結局、スパートせずに、そのまま流してゴールした
のです。当然のように、タイムは散々でした。でも、その時は特別「悔しい」
という気持ちは起こりませんでした。クールダウンをした後、友達からこう声
をかけられました。「お疲れ様。中川、頑張って いたね。」しかし、僕はその励
まし の言 葉に も、 嬉しさ は 感じま せ んでした。次 に、 顧問 の先生 か ら「う ん 、
今の 体調 にし ては十分 踏ん 張って い たと思う よ。 ご苦 労様 。」 と いう言 葉 。そ
の時です。ものすごく悔しい気持ちが沸き上がってきたのです。他人からどう
見えたにしろ、あと一歩のところで頑張ることのできなかった自分がそこにい
たの を、 誰よ りも 自分自 身 がよく 知 っていた から です。そ れはま さ に、「 やれ
なか っ た」の では なく 、「 やら な かった」 ので す 。これ ま で に何 度も 同じ よう
なことはありましたが、このとき初めて「やらなかった」ことの後味の悪さを
感じました。「辛い」のでも、「苦しい」のでもなく、反省する意識の中で、や
ればできる努力をしなかった。その後に悔いる、まさしく「後悔」という言葉
のほ か には見 あた りま せん でした 。 それも二 度と 味わ いた くない と 思う感 覚 。
湧き起こってきた悔しさは、そのためのものでした。それからの僕は、時間を
戻すことのできない大切な人生を「やらなかった」ではなく、「やれなかった」
と言 える よう に努 力を 怠る ことな く 生きてい こう と考 える ように な りまし た 。
たとえ失敗してできなかったとしても、精一杯努力した結果「やれなかった」
のだと、胸を張って堂々と言えるように。いつもそういう心構えで生きていれ
ば、人生はいつまでも楽しく、毎日が青春のように生き生きとし、張りのある
ものになると思うのです。それに人生はサッカーのようにロスタイムなどくれ
ません。一本勝負なのです。人生という長い時の流れの中で も、その時その時
を大切にし、常に高いモチベーションを持って望めば、その人生は充実した内
容の濃いものになっていくと思うのです。ですから、僕はこれからは自分に負
けず、また、結果も恐れず、いざというときこそ全力を出し切って、人生とい
17
うたった一回きりのマラソンを駆け抜けて行きたいと思います。
18
夢、救急救命士
第二中学校
3年
越川
優香
私の父は、消防士の中の救助隊通称「レスキュー隊」に所属していました。
父の話から心肺停止している人の心臓が動きだした時、命がよみがえる瞬間が
嬉しいと聞きました。また、命の大切さを父の仕事を見ていながら強く感じま
した。私は気が付くと救急救命士になり、父と同じように命を救う仕事を志し
たいと考えるようになりました。
皆さんは、救急救命士という職業を知っていますか。救急現場、救急車内で
容態によっては医師と同じような処置が出来ます。なので、幅広い医療知識と
技能を身につけなくてはなりません。ですから、自分の目標をしっかり持ち困
難な事も乗り越えていかなければなりません。
父がレスキュー隊に所属出来たのも、自分だけの力ではなく周りの人達の支
えがあったからだと言っています。私も日々努力し、日々感謝の気持ちを忘れ
ず夢に向かっていきたいと思っています。また、父は日々の訓練が大事だと言
っています。きっと辛い訓練だと思いますが、一度も辛いという言葉を口に出
した事はありません。その努力が救助大会で県1位、関東で1位、全国で2位
という成績を残すことが出来たのだと思います。
父は大切なことは、体力と精神力、やりたくない、出来ない、やれないは決
して口にしてはいけないと言う仕事への責任だといっています。人の命を救う
ためには当然きびしい試練もクリアしていかなければいけないと思います。
私は友達が怪我をしていたりすると、手当てをしてあげたいと思うので、常
に絆創膏を持ち歩いています。実際に友達の小さな傷の手当てをしてあげた事
が何度かあります。その時に、
「ありがとう」という言葉を聞くと言葉では言い
表せない嬉しさがこみあげてきます。人が喜ぶ顔や感謝の言葉を返してくれる
事がとても幸せだと思うのです。この気持ちを生かし、救急救命士になるとい
う夢を実現させたいと思っています。
私は三年間バスケ部に所属し、ここで状況判断、体力などを学び私は部長と
して責任感を持ち行動力もつける事が出来ました。クラスでは副会長として皆
の前にたち会長の補佐をしています。今、頑張っている事は未来に繋がると私
は信じています。ですから、頼まれた仕事は最後まで責任を持ってやり遂げ、
何事にも精一杯取り組み、挑戦していきます。父の仕事は人の命を預かるもの、
故にとても責任が重いと思います中途半端な気持ちで出来るものではありませ
ん。なぜなら、その人が幸せに生きる事が出来るか不幸になるか分ける事にな
るからです。そんな過酷な仕事を乗り越え、現在は旭消防の代表として千葉県
内の新人消防士の育成のために、千葉消防学校で教官をしています。
私は父から学んだ事を軸として、これから進んでいく夢に向かっていきたい
と思っています。言葉では簡単に表すことが出来ますが、実現するのはとても
大変なことです。一つ一つ向かい合いながら自分を信じ、救急救命士になる心
と体を育て、どんな状況においても冷静な判断と適切な処置手当てが出来るよ
うに、夢に向かい突き進んでいこうと考えています。
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幸せの価値
海上中学校
3年
伊藤
祥子
「少年兵」という兵を知っていますか。読んで字の如く、少年の兵士のこと
です。
ここでいう少年兵とは十八歳未満の少年少女の兵のことを言います。私たちと
同年代、信じられな いことに十歳にも満たない子供が兵士として毎日を過ごし
ているのです。
彼らは戦場でどんな仕事をしているのでしょうか。「子供が戦争に出る」、そ
れすらおかしいことです。
しかし彼らは毎日、実際に戦闘で人を殺したり、誘拐、スパイ活動、地雷原に
真っ先に突入、といった、大人の兵士と何ら変わりない、いえ、大人より過酷
な仕事をしているのです。
どうして子供を兵士にしたのでしょうか。それには主に三つの理由がありま
す。まず何より、子供だとあまり食費がかかりません。次に、武器の小型化が
挙げられます。小型化によって、簡単に子供 でも銃が扱えるようになりました。
三つ目に、子供なので命令をすれば素直に聞くことが挙げられます。
大人が喉から手が出るほど欲しがる少年兵ですが、少年たちが好き好んで兵
士になっているわけではありません。驚くことに、軍が少年兵を育てるために
少年を誘拐するのです。他にも生活のために、親によって軍に売られた子供も
います。そんな子供たちは毎日のように大人の兵から虐待を受け、そして兵士
として戦いに出ます。もちろん素直に命令を聞く子供と言えど、人を殺すこと、
自分が死ぬこと、死と隣り合わせの恐怖は拭えません。そこで軍は子供に薬物
を投与して恐怖心をなくさせたり、薬物特有の依存症を引き起こしたりして、
中毒症状に陥らせます。そして、軍に従順となった少年兵は、軍の命令に従い、
自分と同じ境遇である少年少女を誘拐します。誘拐され、薬物を与えられ、人
を殺し、少年少女を誘拐する。この連鎖は戦争が終わらない限り、いつまでも
続くのです。もし、軍を抜けたとしても、少年達が世間に受け入れられること
はありません。なぜなら世間にとって彼らは、憐れむべき戦争の被害者である
とともに、憎むべき加害者だからです。受け入れられなかった少年たちは、ス
トリートチルドレンやギャング団に入ることになるのです。
そんな少年兵に対して、中学生の私たちにはささやかな募金はともかく、金
銭援助はできません。しかし、
『知る』それだけでも何か変わることがあるので
はないかと私は思います。世界の同世代、10 歳にも満たない子供たちが、戦場
に出て働いているということ、食べるものもなく餓死していくこと、それを考
えれば、どれだけ自分が多くの幸せに囲まれて生きているか、実感すると思い
ます。
実感できたなら、無駄な好き嫌いや、自殺、人を殺すこともできないでしょ
う。だから、私は知ることも大事だと思うのです。
20
平和のための小さな一歩
飯岡中学校
3年
畠山
ひかる
「平和」というこの二文字から人は、どんなことを連想するのでしょうか。私
は、
「安堵感」や「何にも染まっていない真っ白な世界」を連想します。私が今回、「平和」
について考えてみようかと思ったのは、一学期に「ウミガメと少年」という戦
争童話を国語の授業で学習したことがきっかけでした。壮絶な沖縄戦のことが、
少年の目を通して悲しく描かれていました。また、女優の吉永小百合さんが、
被爆の恐ろしさや悲惨さを伝えるために、朗読活動をボランティアで行ってい
ることを知りました。更に、夏休みに「夏の庭」という本を読みました。そこ
には、戦場でお腹に赤ちゃんのいる女性を殺してしまった主人公がずっと、そ
の時の苦しい過去を背負って生きている姿が描かれていました。人が人を殺す
ということは、決して許されないことです。それをわかっていながら、敵、味
方というだけで、殺さなければならなかった当時の人々の気持ちを思うと、胸
が痛くなりました。小学校の頃、沖縄を訪れた時、島のあちこちに戦争の爪跡
が残っているのを目にし、それが深く心に刻まれた記憶がよみがえります。
日本の歴史を振り返ると、いつの時代も戦争や紛争は繰り返されてきました。
実は人間とは、戦争好きなのではないかとさえ思えてなりません。
そして今、第二次世界大戦が終わり、約六十四年が経ちました。今の日本は、
戦争や紛争がなく平和な時代と言われています。けれども、本当に今の日本は
平和なのでしょうか。もし私が、「今の日本は平和ですか。」と聞かれたら、
「平和です。」とは簡単に即答できないような気がします。なぜなら、毎日のよ
うに犯罪が起こっていたり、諸外国の脅威などの報道を耳にしたりするからで
す。そんなことは他国の事だと、危機感を持ってい ない人が多いのではないで
しょうか。
また、私は最近、
「日本は非核三原則を破っていたのではないか」と疑われて
いることをテレビ報道で知りました。その時、私は、
「世界で唯一の被爆国であ
る日本が、核を持ち込ませるはずがないだろう。」と怒りさえ覚えました。核を
持つことイコールその国の強さを示しているように思われがちです。しかし、
「日本のように『核をもたない』という意志を持ち続ける方が強い。」と語って
いる人もいました。私もその通りだと思います。戦後、何十年、何百年経った
としても、私達は絶対に核を持ってはいけないと思います。唯一の被爆国とし
て、「核をもたない」という強い信念を貫いて欲しいです。
では、今、平和のために、私達ができることはなんでしょう。皆さんも、お
じいさんやおばあさんに戦争の話を聞いたことがあると思います。戦争に限ら
ず、実際に体験した人の話程、心に強く響くものはありません。しかし、戦争
を体験した人達も高齢化しています。積極的に私達から話を聴く機会をつくっ
ていくべきです。そして私達の世代がその歴史を受け止め、次の世代に語り継
ぎ、被爆国日本のあり方や意志を、しっかりと受け継いでいかなければなりま
せん。世界の人々もまた、それぞれの国で起きてきた悲惨な出来事を、次の世
代に語り継いでいくべきです。私達、一人一人、そうすることが、争いのない
平和な世の中を守っていくことになるのだと思います。
21
「語り継ぐ。」それは、決して派手な活動ではありません。しかし、みんなが、
小さな歩みを進めることで、やがてそれが、大きな力となり、平和の輪が広が
っていくのではないでしょうか。
22
本当の幸せ
干潟中学校
3年
髙木
佳那江
「幸せ」それは、人それぞれ違うと思います。
人は今まで、
「寝ることが幸せ、食べることが幸せなど、幸せとはど れも、その
人にとって好きなこと、好きな時間」そう思ってきました。
でも、それは、豊かで健康な生活を送れている私たちだからこそ言えること
なのではないでしょうか。
貧しい国の人たちにとっての幸せ、それは、私たちにとっては、当たり前の
ことになってしまっているのかもしれません。たとえば、前述した「食べるこ
との幸せ」でも違いがあると思います。私たちの食べるということは、きっと、
お腹が空いたら何かあるものを、お腹いっぱいにすることです。でも、お腹い
っぱい食べることもできずに飢餓に苦しむ国もあります。
日本で水をい っぱい飲むことはすごく簡単です。しかし、他の国では、何キ
ロも歩いてやっと飲める水も茶色く濁っているのです。
私たちがいきなりそのような暮らしになったらどうなるでしょうか。
きっと、いや、絶対に我慢できないはずです。そんなことすら、考えたことも
ないという人がほとんどでしょう。わたしも、一日一日を当たり前のように過
ごしてきました。でも、ある人にとっては、すごく、大事な一日になっている
のです。
みなさんは、1 年間で日本の一般家庭から出る食品廃棄物は、2tトラック
何台分くらいになるか知っていますか?
正解はおよそ「600 万台分」です。そのうち、手つかずのまま廃棄されたり、
食べ残されたものが1人あたり年間 20 ㎏にも及ぶといいます。
一方世界では、1分間におよそ 17 人も飢えによって命を落としています。旭市
の人口約 7 万人で換算すると、3日で旭市が消滅してしまいます。
これは、本当に驚くべきことです。
わたしは、最近、病気の子の手術代の募金などを通して思うようになったこ
とがあります。それは、健康な私はとても幸せであるということ。またその反
面、その幸せを感じられない人がいるということを。
それは、とても悲しむべきことで、私ができる範囲で、その人が少しでも幸せ
を感じられる可能性があるのなら、協力し、助けるべきではないかということ
です。
わたしは、身近な募金はしてきました。けれど、他の国のための募金箱が何
年も前からコンビニに置いてあったのは、目にしても協力はしませんでした。
「近いから助ける。病気で死んでしまうかもしれないから助ける。遠いから
助けない。別に病気ではないから助けない。
おおげさに聞こえますが、そう考えていたことと同じことを私がしていたと考
えると、ひどいことをしていたんだと思いました。そういうことは関係なく協
力し、どんな人でも等しい目で見ることが大切だと思います。それを、今まで
私のようだった人、全員が理解してくれて、考え直すことによって、世界中で
幸せな人が増えるといいです。
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「幸せ」とは、自分一人が満足していることではなく、みんなでちょっとし
たことでも「幸せ」を感じることだと私は考えています。
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私の夢
旭農業高等学校
3年
伊藤
梢
「私は看護師になりたい」
幼い頃、私は一万人に一人という難病にかかり入院しました。
髪の毛も抜け、不安で、寂しくて、どうしようもない私をいつも笑顔で励まし、
元気づけてくれたのが看護師のお姉さんでした。
お姉さんのおかげで私は難病と闘う事ができ、今はこんなに元気になりまし
た。
その時から、私も「人の役に立ちたい」と看護師という仕事に憧れるように
なり、小学生の頃には「看護師になりたい」と強く思うようになりました。
今その道を目指す第一歩として、
「奉仕の精神を学ぶこと」と人間には必要不
可欠である「食」について学ぶ事が大切であると考え、旭農業高校に入学しま
した。当然、ボランティア活動を通して「奉仕の心」を学ぶためにJRC部に
も入部しました。 入部して初めての活動は旭市にある社 会福祉施設、マリア
園の訪問でした。その施設は高齢者が快適に生活ができるように室内にスロー
プがあったり、出入口には、ドアがなかったりして、その工夫が多岐に渡って
いることに驚きました。
まず私は、普段なかなか手入れの届かない場所を中心的に清掃をすることに
しました。草取りなどを積極的に行ったのです。
何度も訪問して繰り返しているうちに顔見知りになり、名前を覚えることがで
きるようになりました。今では利用者のみなさんと一緒にフラワーアレンジメ
ントをしたり、文化祭などを一緒に楽しみながらボランティアを続けています。
その中で介護士や看護師、福祉士といった様々な人たちが共存し仕事を分担し
ながら生活していることを知りました。子どもの頃からの夢であった、看護師
以外にも、人のためになる、多くの仕事があると知り、更に新しい知識を得る
ことができました。
そんな中、日本赤十字千葉県支部主催の合宿に参加することにしました。
この研修会は、赤十字、青少年赤十字、話し合いの仕方、ボランティア活動に
ついてなど、
「気づき・考え・行動する」という言葉を心がけ、その後の自分の
生活を見直す大きな言葉となり、たくさんのことを学ぶことができとても有意
義でした。
さらに幸せな事に、2年生の時、カンボジア王国への国際派遣団の一人に推
薦されたのです。
「これはチャンスだ!」と思い、カンボジア王国に行くことを決意したので
す。
本来の活動をとおしてのボランティアというものを体験し現実面からいろい
ろと考えたいと思いました。この体験を身近な人、更には同じ気持ちをもって
活動している日本のみんなに伝えたい、という目的を持って出発したのです。
カンボジア王国に到着して最初に訪問したのはカンボジア赤十字社の本部で
した。そこのセンター長から、戦争の傷跡として、地雷の被害によって手や足
を失い、生活に苦しんでいる人々がたくさんいることをお聞きしました。また
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そこには、撤去された多くの地雷、それによる被害の写真がありました。私と
同年代の女の子の手足がない写真を見て、とてもショックを受けました。
また、義肢を作る工場を見学しました。そこでは手作りで義肢を作っている
ため、多くの人に与えることができず、まだ、義肢を手に入れられない子ども
たちがたくさんいることを知りました。しかし、働いている方々が、
「障害者が
健常者と同じ生活をしてもらいたい」と思い、一生懸命義肢を作っている姿を
拝見して、 私は胸を打たれました。
私たちと同行した、バスガイドのキム・リーさんも家族を戦争で亡くされた
一人でした。ガイドさんのお話をお聞き、私は、悲しい現実を理解したくない。
でも受け止めなくてはならない。という複雑な心境に陥りました。なぜ人は争
ってしまうのでしょうか。
しかし、そんな中にあっても、カンボジアの人々は明るく、笑顔で生きてい
る姿を見て、私は勇気をたくさん貰い元気づけられました。
戦争による被害を受けた人たちのために、地雷の撤去や義肢を真心を込めて作
っている工場の人と、赤十字やカンボジアで出会った人達の 姿を見て、ボラン
ティアの本当の意味を知る事ができたような気がします。
それは、
「心のケア」だと思いました。どんなに技術や知識があっても人を思
いやる気持ちが一番大切なんだという事に気が付きました。
この活動を通して多くの事を学ぶことができ感謝しています。今では、相手の
気持ちを考えて行動するように心がけています。
JRC部での活動、カンボジア王国での様々な体験は、看護師になりたい。
とゆう夢を目標に変えてくれました。
今の私ならこう言えます。「私は、看護師になる!」
以上で発表を終わります。
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未来への確かな一歩を
東総工業高等学校
3年
髙木
俊太
思い出というものはなかなか忘れられないもので、興奮した体験や感動した場
面というのは、いつまでも心の奥底に焼き付いているものです。
僕自身にも忘れられない経験というものがあり、それは僕の進路を決めたと言
っても過言ではありません。
中学校三年生の夏。僕らのクラスでは徐々に進路について真剣に考える雰囲気
がありました。僕はそれまでまったく将来について楽観的に見ていました。と
いうのも、働くという事のイメージが具体的に想像できず、働きたくないとい
うのも正直な気持ちと してありました。
楽してお金を稼ぎたい。当時の僕はそんな甘い考えを持っていました。
そんな僕を見かねたのか、父はある大仕事に僕を誘いました。
それは早稲田大学の電気設備の修理でした。当時の僕にとって早稲田大学は雲
の上の大学。
生きているうちに絶対いけない場所だろうと感じ、二つ返事で父の手伝いをす
ることにしました。
早稲田大学の空調を中心に工事し、夜遅くから手伝いました。
そのときの父の背中は今でもはっきり覚えています。仲間と一緒に連絡を取り
合い、工具を使って大学の天井の中を一生懸命に工事している姿は、当時 の僕
にとって衝撃的でした。
それまでは父の仕事にあまり関心はなかったのですが、この時の父はものすご
くかっこいいと感じました。そのときはじめて僕は父のようになりたいと感じ
ました。
それが僕の進路を決定する大きな要因になったと思います。
それから僕は東総工業高等学校に入学し、父のような存在になりたいと三年間
思い続けてきました。そして僕は大学に合格し、今は父を越えようと思ってい
ます。
もっと世界中に目を向けた存在になりたいと感じるようになりました。
それは、依頼を受ければどこまでも飛んでいく父のように、僕自身ももっとグ
ローバルな視線で世界中を飛び回り、素晴らしい仕事をする事です。
貧困に悩む人々を救うような、そんな夢を持っています。
最後に、今の僕があるのは父との経験のおかげだと思っています。
早稲田大学での思い出があるからこそ、こうして新しい夢を持ち、未来への確
かな一歩を踏み出す事が出来たと思っています。
これからも僕はこの経験を胸に、夢を実現しようと思っています。ありがとう
ございました。
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今の自分
山﨑
純平
私の病気は、ジストニアと言います。この病気は、筋肉の伝達が上手く出来
ない遺伝性の病気です 。そのため私は、小学校の時はほとんど歩くことができ
ず、車いすでした。車いすの生活は、正直いうととても辛かったです。
中学校に入学と同時に、
「脳深部刺激療法」という手術をしました。どの様な
手術かというと、脳に微弱な電気が流れる管を埋め込み、胸に電気を送る電池
を入れる手術をしました。手術をして歩けるようになった時は、歩けるように
なるなんて思わなかったのでうれしかったと同時に「医学はすごい」と思いま
した。でも手術をして1番気がついたことは、日々生活している中で両親が一
生懸命に働いてくれたから手術を受けることがで きたということです。特に母
は、仕事をしながら入院している私のために電車で片道3時間かけて、最低で
も週3日は病院に来てくれました。両親にはとても感謝しています。
母は今うつ病にかかり、自分を責めたり、ネガティブに考えるようになって
しまいました。母は仕事をしながら休みの日に病院に来てくれていたので、疲
れやストレスがたまったのだと思います。やっぱり母が病気になったと聞いた
時はとても驚きました。しかし、「後悔先に立たず」という言葉があるように、
後悔してもしょうがないので、母には笑顔でいてほしいと思うようになりまし
た。ドラマで「人は笑うために生きている」と言っていましたが、笑うことが
全てだとは思いません。しかし、私はとても良い感情表現だと思います。だか
ら私は、母が笑顔でいてくれるように相談に乗ったり、笑わせたりしています。
私は、今年の6月に香取にある温泉施設「かりんの湯」での就職が決まりま
した。今まで働いた経験がなかったのですが、接客業をしている母の姿は見て
いました。初めて働いて、自分が思っていた以上に仕事は大変だと知りました。
仕事をする中で、ただ単に仕事の内容が難しいだけではなく、言葉の思い違い
やコミュニケーションの問題が出てきました。そんな時に東総障害者就業・生
活支援センターの人が親身になって相談に乗ってくれました。私がその時に感
じた事は、家では自分は母を守る立場で、職場ではマネージャーさんや支援セ
ンターの人達に守られていることを実感しています。なので正式採用されたこ
の会社で一社員として自分の持てる力を発揮して戦力になれるように頑張りま
す。
私が高校生の時に担任をしていた先生が、
「今の自分は未来のために」という
言葉を教えてくれました。今している事は、未来に必ず役立つとそう解釈して
います。だから私は、「今の自分」があるから未来があると思っています。
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日本とアメリカの文化の違い
ALT(外国語指導助手)
デ リ ン ジ ャ ー
Dellinger
レ
ネ
Renee
ニ
コ
Nicole
私は7年間アメリカで陶芸を勉強しました。磁器のクラスでは文化や人々と
のつながりがあります。クラスの人達は日本の人達と同じようにお互いを気遣
います。私はこのクラスが懐かしく、また勉強したいと思っています。磁器を
一生懸命取り組んだことで、日本を訪問したいと思い、二回ほど訪れました。
訪問期間は短かったですが、日本の文化や芸術に触れることができました。
アメリカでは釜から作品を取り出す作業はとてもわくわくします。仕事をし
ている人たちは作品がどのように変化したかを見ることができます。作った作
品は一つも同じものはありませんし、同じものを作ろうともしません。すべて
の作品は違う大きさ、形であり、違った色彩をしています。
しかし、日本では釜から取り出す作業はあまりわくわくしません。九州でで
きあがった作品を見たとき、すべての器がどれも同じ大きさと形をしていまし
た。違うのは模様の色づかいです。私は全く同様の器にとても驚きました。私
も数セット作ってみましたが、とても難しかったです。
アメリカでは、芸術だけで生計を立てたいと思うなら、他の人とは違ったこ
とをしなければなりません。自分自身のスタイルを作り出す必要があります。
他の誰にもできないようなことをしなければなりません。必ずしも上手でなく
ても、人々が好むようなものであればいいのです。アメリカ人にとっては目立
つことが大切です。
それに対し日本では、才能がなければ生き残ることはできません。多くの場
合、師匠のまねを忠実にすることが才能として捉えられます。良いものを融合
させてよりよいものを作り上げることが日本人にとって重要なのです。
また、アメリカ人は同じものを好まず、違っていることを好みます。他のも
のと違っていることに価値があるのです。日本人は違うことを好みません。日
本人は正確に作ることに価値を見出します。これらの文化の違いを見てきて、
私が思うことは、どちらの文化にもよいところがあるということです。そして、
どちらも大切にされるべきだと思います。
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旭市青少年育成市民会議では
◎大人が変われば、子どもも変わる運動
◎地域の子どもは、地域で守り育てる運動
を推進しています。地域の皆さまのご協力とご支援をお願いします。
旭市青少年育成市民会議 事務局:旭市教育委員会 生涯学習課
〒289-2692 旭市高生1番地 TEL 0479-55-5727 FAX 0479-55-5825