地球温暖化と気候変化―僅かな水温変化が海洋生物資源を変える 桜井 泰憲(北大大学院水産科学研究院・教授) 1. はじめに 地球上での生命誕生以降、生物は 様々な転変地異の影響を受け、ある ものは死滅し、あるものは繁栄して きた。人類誕生以降の歴史の中でも、 人類大移動や文明の繁栄と崩壊は、 地球規模での寒冷化や温暖化という 気候変化の影響を大きく受けている。 21 世紀に入り、私たちは否応なく地 球温暖化という言葉を耳にし、日常 生活においても桜前線に代表される 春の訪れの早さや、真夏日の長さか ら、足音もなく近づいてきた事実の 重さを感じている。ところが、暑け 図1 函館におけるサクラの開花日と4月の月 平均気温の50年間の変化(岡村 ,2002) れば冷房、寒ければ暖房という近代 生活の中で、私たちはたった 1℃の気温変化に気づくことはない。ただ、野や庭に咲く 花と街路樹の紅葉などからその気配を感じるだけである。一例を紹介しよう。1945 年 以降の 4 月における函館市の気温は,2002 年までに約 1℃上昇した(図1)。これに よって桜の開花日は,特に 1980 年代後半に、ゴールデンウィーク後からその前へと約 8 日間も早くなっている。この開花日のジャンプには、気温の上昇だけでは説明できな い要因、例えば晴れ、曇りや雨による日照時間の変化や風の強さが、開花日のジャン プを促したかもしれない。ところが、今年の函館の桜開花日は連休後と、1980 年代に 逆戻りしている。 それでは、水の中の世界はというと、気候変化ですぐに思い当たるものはないが、 水の温度変化で経験していることといえば、お風呂のお湯の熱め・温めの加減ではな いだろうか。最近の都市型温泉では、温め(40-41℃)、熱め(42-43℃)という表示 が多く見られる。ぬるま湯好きの私にとって、このたった 1-2℃の湯の温度は天国と地 獄の差である。海の生き物にとって僅かな水温変化が、どのような影響を与えている のだろうか。20 世紀末から 21 世紀の地球環境の将来への不安と関心が高まっている。 例えば、南極上空に見られるオゾンホールの拡大、産業革命以降の活発な人間活動に よる大気中の炭酸ガス濃度の増加、南極・北極の海氷や氷河の溶解、それに伴う海面 上昇などのニュースに触れる機会が増えている。身近な海の生物では、1950 年代のニ シンと 1980 年代のマイワシ資源の激減、サケの小型化、沖縄周辺のサンゴ礁の白化と サンゴの分布の北上なども海洋環境変化と温暖化による可能性が指摘されている。そ こで、本章では特に僅かな水温変化が本当に彼らの生活を変えてしまうのか、海の水 温変化がタラやイカの仲間の資源変動に与える影響について紹介する。 2. 周期的な海洋生物資源変動と気候変化 人が生活している陸上での気温の 変化の範囲は、マイナス 60℃からプ ラス 50℃と 100 度以上もの変化があ る。では、水中はというと、海水が 凍る温度は、およそマイナス 1.8 度、 熱帯の海でもプラス 30 度前後であり、 陸上よりもはるかに温度変化は少な い。それでも、僅かな水温変化が海 洋生物資源の変動に与える事例が最 近注目されている。ロシアのクリア シュト−リンは、過去数百年の気温変 化を、アイスランドの氷河の中に閉 図2 55 年周期の気温変化とマイワシ資源の 増減のハーモニー(Kryashutorin, 2002) じ込められた大気の同位体を用いて約 55 年で温暖・寒冷の周期的変動とマイワシの資 源変動と一致する現象を報告している(図2)。マイワシは 55 年周期の寒冷な谷間か ら温暖へと向かう時期に爆発的な資源の増加が起きている。一方、カリフォルニア沖 の無酸素な海底に堆積されたマイワシとカタクチイワシの鱗の体積状況と安定同位体 による地質年代推定からも、紀元 2 世紀以降、両種が約 50-60 年周期で増えたり減っ たりしていることも明らかにされている。クリアシュトーリンの資源変動仮説に従え ば、日本の海に再びマイワシが復活する時期は、2040 年ころとなる。つまり、漁業と いう海洋生物資源への強制的な圧力による資源変動だけではなく、地球規模での気候 変化が海洋生物資源の盛衰にも大きな影響を与えている。 しかし一方では、産業革命以降の石炭・石油などの化石燃料の利用に伴って気温は 上昇し、特に 20 世紀に入って以降は急激な温暖化が心配され、海洋の平均表面水温も 過去 100 年間に 0.6℃の上昇が報告されている。このまま行けば、今までの寒冷・温暖 の周期は、温暖化という右上がりの上昇曲線の中で生じる現象となり、将来の温暖期 にはこれまで経験したことない気温となる可能性がある。温暖化という右上がりの水 温上昇の中では、寒冷の谷間の温度は、過去の温度よりもはるかに高くなってしまう 恐れがある。もし、そのようなことが起きれば、マイワシ資源の復活はないかもしれ ない。気温の変化に比較して、確かに水温の変化の幅は小さい。それでは、僅かな水温 変化が海洋生物に与える影響を具体的に紹介して行きたい。 3.海洋生物の生態と適水温を調べる 私たちは、1970 年代の大学院学生のころから、多くの仲間と一緒に北太平洋に生息 するタラ類とイカ類の繁殖生態を調べてきた。これまでに、スケトウダラ、マダラ、 コマイという北海道でもなじみのあるタラ類のほかに、北極洋とその周辺のマイナス の水温に生息するホッキョクダラの飼育に挑戦し、これら 4 種の産卵行動や卵・稚魚 の生残可能な水温などを明らかにしてきた。さらに、イカ類ではスルメイカとヤリイ カの繁殖生態と卵・幼生の生残可能水温などを調べてきた。イカやタラは一体何度の 水温で生存できるか、卵や稚仔が正常に生きることのできる水温はなど、実験的な確 認が大切である。 最適な水温などの環境条件を泳ぐことによって選択できる成魚とは違って、生まれ た卵や稚仔魚はほとんど環境変化に対しては受身である。そのため僅かな環境変化は、 その生き残りに致命的な打撃を与えることとなる。これも、実際に各海洋生物を飼育 して自然産卵や人工授精によって卵発生や稚仔魚を育て、種ごとの最適に生存できる 水温範囲などを確かめなければならない。 4.スケトウダラとマダラは気候変化に応答して資源が変わる スケトウダラとマダラは重要な水 産資源であるため、その資源の動向が 注目されている。最近では、青森県陸 奥湾を産卵場とするマダラ漁獲量の激 減、あるいはベーリング海、オホーツ ク海や北海道周辺のスケトウダラにも 漁獲量の減少が心配されている。これ らタラ類資源の変動の解明、資源の維 持あるいは増やすためには、両種の繁 殖の特徴を考慮して、資源管理および 資源の培養方策を検討する必要がある。 スケトウダラは、卵稚仔が表層水の 図3 マダラとスケトウダラの産卵行動 動きに依存して生き残ることのできる 海域を産卵場として選択している。卵と稚魚が生存できる水温は、およそ 1℃から 8℃ の範囲であり、本種は産卵に適した水温の海で、雄が雌を腹鰭でさかさまになった状 態で抱き、中層で産卵していると考えられる(図3)。すなわち、産卵に適した海水 の時期的・地理的移動が生じたとしても、それに併せて産卵場所を移動・選択できる。 しかも、長い産卵期間に繰り返し産卵することによって、いずれかの産卵された卵が 生残できるという繁殖戦略をしている。1990 年以降の東北海域におけるスケトウダラ の漁獲量が激減し、日本海でも乙部―熊石でのスケトウダラ漁業が苦戦している。東 北海域の漁獲の年変化は、およそ 2-7℃の親潮系混合水が 2-3 月に東北沿岸に接岸する 年代が続くとスケトウダラ漁獲量が増加し、逆に2℃以下の冷たい親潮系水が接岸し た年や、7℃以上の暖水が沿岸を覆っていると漁獲量が激減することが判ってきた。 特に、1990 年代からは暖水が覆うことが多く、この年代からスケトウダラの漁獲量が 急激に減少している。このように、スケトウダラは卵・稚魚の時代に生き残れる適水 温帯の中で成長し、その後陸棚へと移動できることが資源の増加につながっている。 温暖化が続けば、東北海域まで広がっていたスケトウダラの生息場所は、次第に北海 道より北へと偏って行くことになる。 一方、マダラの場合は、産卵に適した海水温に加えて、湾口部などの潮通しが良く、 海底が砂泥の場所を選んで産卵している(図3)。しかも産卵の仕方はスケトウダラ とまったく違って、雌雄が抱き合うことはなく、雌の卵放出に刺激された雄が一気に 精液をかけて受精させる。1 回の産卵ですべての卵(約 100-200 万粒)を放出しており、 個体ごとの繁殖の成功率は不安定と考えられる。こちらの卵・稚魚が生存できる水温 は、スケトウダラよりやや高い2−8℃と推定されている。もし、砂泥の海底に局所 的に存在する産卵場の南限で、海洋環境の温暖化に伴って、再生産に不適な8℃以上 の高温水が産卵場を覆えば、その資源の急激な減少をもたらす。青森県の陸奥湾は、 昔からマダラの産卵場があり、産卵のために湾内へ回遊するマダラを底建網という漁 法で漁獲しており、青森では冬の大切な魚として珍重されてきた。ところが、このマ ダラも1990年代に入って津軽海峡の太平洋側に面する北海道恵山沖では延縄で漁 獲されているにも関わらず、陸奥湾湾口部での漁獲は激減している。おそらく産卵に 接岸してきたマダラは、今までの産卵場が高水温のため、他の産卵場へと移動してい る可能性が高い。わずか8℃か9℃という変化がもたらした現象と考えられる。 5.僅か1℃の産卵場の水温変化がヤリイカ資源を変える ヤリイカ類は、種により多少異なるが、沿岸域の岩礁帯や砂泥海底に「卵のう」と 呼ばれる数十から数百の卵を含むカプセルを産卵する。そのため、資源変動に最も影 響する時期は、産卵された「卵のう」が海底の基質に付着してふ化するまでの期間で ある。 私たちは、北日本に生息するヤリイカ の資源変動と卵のうが存在する季節の沿 岸環境水温との関係、飼育実験によりヤ リ イ カ の 産卵 行 動 に 対す る 低 水 温の 影 響 、 「卵のう」内での卵発生に対する低水温 の影響を調べてきた。北海道南部の松前 では、冬―春に沿岸で産卵に訪れるヤリ イカを漁獲している。この漁獲量は大き な年変化をしており、1980 年代半ばの冬 季の沿岸水温は6℃以下であり、この時 期に漁獲量が激減している(図4)。一方、 図4 松前沿岸の冬季水温とヤリイカ 漁獲量の関係 90年以降の最低水温が7℃以上となった年が続くと、漁獲量が増加している。卵発 生実験においても、7℃以上では正常にふ化、6℃ではふ化率は低く、ふ化しても幼 生は活発な遊泳ができない。まして5℃では卵発生が停止し、発生途中で卵を5℃に 移すと死亡率が増加する。つまり、沿岸環境の僅か 1℃の経年的な最低水温の変化でも、 短命なヤリイカ資源の変動をもたらす可能性が考えられる。 6.スルメイカは温暖期に増える? 寿命一年のスルメイカ(別名マイカ)は日本列島に沿って回遊し、夏から秋に北日 本周辺の海で成長し、秋から冬に対馬海峡や東シナ海で産卵して死亡するという生活 史を毎年繰り返している。初夏から晩秋にかけて、北海道の夜の海と空を照らす漁火 (いさりび)は、このイカを釣る漁船の灯りである。過去 50 年間の漁獲量は 10 万ト ンから 70 万トンと大きな変化をしてきたが、寒冷な年が続くと資源は減少し、温暖な 年が続くと増加することが私たちの研究から明らかになっている。おそらく、親から 子への世代交代である産卵からふ化までの再生産過程が、海洋環境の温暖・寒冷によっ て成功または失敗している可能性がある。スルメイカは直径80 cm ほどの透明な卵塊 (内部に直径1ミリ弱の卵が約20万個存在)を生む。まるで水中に漂う巨大なシャ ボン玉のようで、透明なゼリー膜に覆われた卵塊は極めて弱く、壊れると内部の卵は バクテリアや食害性動物プランクトンに捕食されて全滅してしまう。気候変化に応答 したスルメイカの資源変動、そのプロセスとメカニズムの最新の研究成果を紹介する。 スルメイカは一年中どこかで産卵しているが、資源を支えているのは秋・冬生まれ 群である。大不漁年が続いた 1980 年代には冬生まれ群が極端に減り、秋生まれ群のみ となってしまった。逆に、1990 年以降の豊漁期には秋・冬生まれ群がともに増えてい る。北海道周辺でのスルメイカの漁獲からみると、不漁年では初夏から9月くらいま では漁があったものの、10月以降はさっぱり獲れないという現象をおこすことにな る。この現象は、冬生まれ群の再生産の失敗が原因と考えている。冬生まれ群の産卵 場は東シナ海の大陸棚斜面に沿った長崎県五島列島から鹿児島南東の薩南海域と呼ば れる場所である。80 年代は日本周辺の海洋環境は寒冷期、90 年代は温暖期に相当して いた。私たちは、長年の水槽での産卵・人工授精実験と水中ロボットカメラによる天 然卵塊探査から、「スルメイカの産卵海域は、水深が 100m∼500m の陸棚から斜面上の 表層暖水内であり、海の表層水温が 18∼23℃の範囲にある」という再生産仮説を提案 している。例えば、僅か 1mm のふ化幼生が元気に泳ぐことのできる水温は、18∼23℃ の範囲だけである。この再生産仮説に基づいて、秋・冬生まれ群の産卵海域の季節・ 経年的変化を調べた。その結果、80 年代の寒冷期には冬生まれ群の産卵場は東シナ海 の南の方に偏り、狭い海域となっており、逆に、90 年代以降の温暖期には、冬の産卵 場は対馬海峡まで拡大して秋の産卵場と重なっていた。つまり、寒冷期には秋から冬 の産卵場が北から南にどんどん移動して範囲も狭くなり、温暖期には対馬海峡を挟ん で秋-冬の間も重なって広がっていることになる。おそらく、寒冷―温暖といっても、 水温の変化は 1℃程度とほんの僅かなはずである。 7.風が吹けばスルメイカが減る? それでは、なぜ 80 年代の寒冷期に冬生まれのスルメイカが激減してしまったのか。 産卵に適した水温の海水は東シナ海と日本海でも海の表面を覆っている。この表層の 暖 かい 海水と 底の 方の冷 たい 海水の 間には Winter wind stress (weak) 水 温躍 層と呼 ばれ る境界 面が ある。 もし、 ス ルメ イカの 卵塊 が中層 の水 温躍層 付近に 滞 留す ること で大 量ふ化 に成 功し、 逆に海 Sea surface air temperature (high) Spa wn ing >24 o C Egg mass 底 まで 躍層が なく 、卵塊 が海 底に沈 んで壊 18 o C∼ 23 o C Hatch Pycnoc line れ てふ 化に失 敗す るとす れば 、冬季 季節風 <17 o C <17 o C Co ntin en t h al s e lf an lo ds pe の 強さ や海表 面か らの冷 却な どによ って深 (adapted from Sakurai et al.,2000) さ が変 化する 季節 的水温 躍層 の経年 変化の Winter wind stress (strong ) 解 明が 重要と なる 。研究 グル ープの 一人、 山 本潤 博士は 、産 卵海域 の季 節的水 温躍層 の 発達 状況と ふ化 直後の スル メイカ 幼生分 布 を調 べ、中 層に 水温躍 層が なく、 卵発生 に 適し た水温 の海 水が海 底ま で達し ている 場 合に は、ふ 化幼 生が出 現し ないこ とを明 Sea surface air temperature(low) Spa wn ing >24 o C 18 o C∼ 23 o C <17 oC Egg mass」 Hatch Pycnoc line <17 o C Egg mass (broken ?) pe No hatch s lo nd Co n tin en ta l sh e lf a らかにした。海底まで躍層がない場合には、 卵塊は海底まで沈んで壊れてしまい、発生 途中の卵からの幼生のふ化が失敗する可能 図5 冬の季節風が弱い年には、再生産 が成功し(上図),強い年には再生産が 失敗する 性が高くなる。冬生まれ群の漁獲が著しく 低下した 80 年代半ばまでは、冬の季節風は強く気温も低く、その後 80 年代後半から は、風は弱くなり気温も上昇している。冬生まれ群の漁獲量は、風が弱く、気温が上 がり始めるのを追いかけるように急激に増えている。つまり、冬生まれ群の産卵場に 強い冬の季節風が吹く年が続くとスルメイカは減り、この季節風が弱くなると資源が 増えるという関係が明らかになってきた(図5)。冬の温かい、寒いという気象変化 は、産卵場における海の水温と水温躍層の深さの季節・年変化をもたらし、スルメイ カの再生産過程を通した資源変動を誘導している可能性が強く示唆される。 8.おわりに 多種多様な海洋生物の資源変動に対する気候変化の影響は、限られた知見しかない 現状ではあるが、タラ類やイカ類を例に紹介したように、非常に敏感に応答している。 スルメイカでは、18-23℃の産卵に適した場所が、冬の季節風の影響を受けて拡大・縮 小し、それが資源の大きな変動を引き起こしている。同様に、僅か 6℃か 7℃かの沿岸 の水温変化がヤリイカの資源変動の引き金となっている。短・中長期の気候変化に伴 う海洋生物の資源変動を解明し、将来を予測するためには、個々の生物の生活史を通 した環境変化に応答したメカニズムの解明という地味な研究も大切である。もし、そ の情報が蓄積されれば、地球規模での温暖化や海洋環境のレジームシフトなどのよう な海洋環境のダイナミックな動態の中での個々の生物の生残プロセスへと展開できる はずである。「いきもの」としての海洋生物の研究は、こつこつと長い階段を一段ず つあがって行く風景にも似ている。
© Copyright 2024 Paperzz