化学と教育 2008, 56, 400-401. 講座 反応はなぜ起こるのか 酸・塩基の硬さ・軟らかさ MANABE Kei 眞鍋 敬 理化学研究所 独立主幹研究員 酸と塩基(ルイス酸とルイス塩基)の親和性の傾向を理解しやすくする概念として、硬い酸・塩基および軟ら かい酸・塩基という考え方が導入されている。一般に、硬い酸は硬い塩基と高い親和性を持ち、逆に軟らかい酸 は軟らかい塩基と高い親和性を持つ。この考え方は、酸と塩基の熱力学的な親和性の理解だけでなく、反応速度 の理解にも役立つものである。 1 はじめに ピアソン(R. G. Pearson)は 1960 年代に、硬い酸・硬い 塩基および軟らかい酸・軟らかい塩基(Hard and Soft Acids and Bases, HSAB)という概念を導入し、様々なルイス酸・ ルイス塩基について、この概念に基づく分類を行った 1)。 この概念は、酸と塩基の親和性の傾向を理解するのに非常 に便利であるため、現在に至るまで重要な考え方として使 われ続けている。 「硬い」 「軟らかい」という言い方の代わ りに、英語の hard と soft を使い、 「ハードな酸」 「ソフトな 塩基」というような言い方をする場合もある。ここでいう 「硬い」 「軟らかい」という言葉は、我々が日常使っている ような意味での物質形状の物理的な硬軟を意味しているわ けではない。では、酸・塩基の硬さ・軟らかさとは何か。 2 酸・塩基の硬さ・軟らかさとは 硬い酸(あるいは硬い塩基)は一般的に以下の特徴を持 っている。 (1)高い電荷を持つ場合が多い、 (2)原子半 径が小さい場合が多い、 (3)分極しにくい。軟らかい酸(あ るいは軟らかい塩基)は逆に、 (1)電荷が低く、 (2)原 子半径が大きく、 (3)分極しやすい、という傾向がある。 そして、この概念から導かれる最も重要なポイントは、 「硬 い酸は硬い塩基と高い親和性を持ち、逆に軟らかい酸は軟 らかい塩基と高い親和性を持つ」という点である。 具体的に各種のルイス酸・ルイス塩基を、硬さ・軟らか さの視点から分類したものが表 1 である。たとえば、小さ くて分極しにくいプロトン(H+)やリチウムイオン(Li+) などは、代表的な硬い酸である。同様に、フッ化物イオン (F—)や水酸化物イオン(OH—)は、硬い塩基に分類され る。逆に、大きくかつ分極しやすいヨウ素陽イオン(I+) 表1 酸・塩基の硬さ・軟らかさに基づく分類 硬い酸 硬い塩基 + H Li+ , Na+ Mg2+, Ca2+ Al3+ Fe3+ Si4+ BF 3 AlCl3 etc. 中間の酸 F– H 2O, OH – CH 3CO 2– Cl– NO 3– ROH, RO – NH 3, RNH 2 etc. 中間の塩基 Fe2+ Cu 2+ Zn2+ R3C + etc. aniline pyridine Br– NO 2– etc. 軟らかい酸 軟らかい塩基 Cu +, Ag +, Au+ Hg +, Hg2+ BH 3 RS + I+, Br+ , I2, Br2 nitrobenzene 金属原子 カルベン etc. R 2S, RSH, RS – I– SCN – R 3P CN – CO ethene benzene H –, R – etc. 化学と教育 2008, 56, 400-401. やヨウ化物イオン(I—)は、それぞれ軟らかい酸・軟らか い塩基である。また、同じ元素でも電荷によって硬さ・軟 らかさが異なる。たとえば、1 価の銅イオン(Cu+)は 2 価のイオン(Cu2+)よりも軟らかい、と分類される。 先にも述べたように、硬い酸は硬い塩基と高い親和性を 持ち、 逆に軟らかい酸は軟らかい塩基と高い親和性を持つ。 たとえば、軟らかい塩基であるヨウ化物イオン(I—)は、 リチウムイオン(Li+)よりも銀イオン(Ag+)に対して高 い親和性を持つ(つまり結合が安定である) 。また別の例と しては、ニッケルやパラジウムなどの遷移金属原子に対す る配位子として、ホスフィン(R3P)が頻繁に使用されて いる。 これも、 軟らかい酸 (金属原子) と軟らかい塩基 (R3P) との親和性の高さを利用した例である。 硬い酸と塩基および軟らかい酸と塩基の考え方は、反応 速度の理解にも応用できる。 たとえば図 1 に示したように、 水酸化物イオンは、臭素よりもプロトンと速く反応する。 一方、アルケンは一般に、プロトンよりも臭素と速く反応 する。この現象も、硬い塩基(OH—)が硬い酸(H+)と速 く反応し、軟らかい塩基(アルケン)は軟らかい酸(Br2) と速く反応する、と理解できる。 (A) HO – + Br2 HOBr + Br– (B) HO – + H + H2O きない。一方、軟らかい酸や軟らかい塩基は、弱い電荷相 互作用しか引き起こせないが、強い軌道相互作用を引き起 こす能力を持っている。その結果、強い電荷相互作用能力 を持つもの同士である硬い酸と硬い塩基とが反応すること によって、大きなエネルギー的安定性が得られる。また、 強い軌道相互作用能力を持つもの同士である軟らかい酸と 軟らかい塩基も、互いに反応することによって大きなエネ ルギー的安定性を獲得できる。 4 おわりに 硬い酸・塩基および軟らかい酸・塩基の概念には、注意 すべき点もあり、 安易に何にでも当てはまるわけではない。 たとえば組み合わせによっては、ある軟らかい酸が、ある 軟らかい塩基よりも硬い塩基と速く反応する場合もありう る。これは、前述の電荷相互作用と軌道相互作用の寄与す る割合が、酸・塩基の組み合わせによって影響を受けるか らである。このような点を認識していれば、硬い・軟らか いという概念は、様々な酸塩基反応の傾向を説明するのに 大変便利な考え方である 3,4)。 参考文献 1)R. G. Pearson, J. Am. Chem. Soc. 1963, 85, 3533. 2)G. Klopman, J. Am. Chem. Soc. 1968, 90, 223. 3)I. Fleming (竹内敬人, 友田修司 訳) ,フロンティア軌道法入門, (A)よりも(B)の方が速い 講談社サイエンティフィク,1978. 4)東京大学教養学部化学部会 編,化学の基礎 77 講,東京大学出版会, CH 2 CH 2 (C) CH 2 + Br2 CH 2Br + Br– 2003. 用語解説 CH 2 (D) CH 2 + H+ CH 2 CH 3 (D)よりも(C)の方が速い 図 1 水酸化物イオンおよびアルケンの反応 3 理論的解釈 クロップマン(G. Klopman)によってなされた酸・塩 基反応の理論式によると 2)、酸と塩基の相互作用エネルギ ーは、簡略化して言えば、電荷相互作用と軌道相互作用の 2つの要因によって決まる。電荷相互作用とは、正電荷と 負電荷とが互いに引き付けあおうとする相互作用のことで ある。軌道相互作用とは、原子軌道(あるいは分子軌道) の間に働く相互作用のことで、特に、塩基の最高被占軌道 と酸の最低空軌道との間の相互作用が重要となる。 硬い酸や硬い塩基は、強い電荷相互作用を引き起こすこ とはできるが、弱い軌道相互作用しか引き起こすことはで 分極:原子あるいは分子において、外部電場の影響によって、電荷(ある いは電子雲)に偏りが生じること。 最高被占軌道:電子が入っている分子軌道あるいは原子軌道のうち、もっ ともエネルギー準位が高い軌道。 最低空軌道:電子が入っていない分子軌道あるいは原子軌道のうち、もっ ともエネルギー準位が低い軌道。
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