中島 隆博 グローバル化時代の資本主義の精神(1)資本主義の機制 ~要旨~ マックス・ウェーバーは、1905年に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精 神』という本を出版した。ウェーバーは、本の中で、 「世俗内禁欲というプロテスタンティ ズムの倫理が、かえって資本主義の無際限の欲望を解放した」と述べた。 今日、ウェーバーの時代に比べ、資本主義の速度が増し、一個人や一社会では対処でき ない非常に困難な問題が現れていると同時に、ポスト世俗化の時代と言われている。政治 と宗教が分離し世俗化の時代と言われた近代では、プロテスタンティズムにしても世俗内 倫理という形で個人の内面に宗教が残っていたが、今は、イスラム国、インド、中国など 世界各地で宗教の復興が起きている。 こういう世界的な状況の中、グローバルな市民社会を構想するとき、資本主義の精神は 何であり得るのかを考えてみる価値はある。 資本主義を欲求と欲望に区別すれば、欲求は身体的、生理的な充足を目指していくのに 対して、欲望は「他者の欲望を欲望する」と定義され、無際限になり得る可能性を持って いる。 また、欲望を資本主義以前と以降に分けると、以前は王侯貴族の貪欲のように、全てを 消尽して消費する蕩尽であるのに対し、以降は資本家による投資となる。投資を可能にす る背景にあったものが、神を内面における信仰の問題に転換し禁欲を主張したプロテスタ ンティズムであるのは皮肉である。それは最大の他者である無限の神に欲望を向かわせ、 それを一挙に加速させたのである。 時間もそれを支えていた。未来という、もう一つの絶対的他者を取り込むことで、今こ こでの自己充足が無限に延期される。投資が可能になるためには、リニアな時間性が成立 しないとできない。そのため、資本が時間を支配する形式が全面的に展開していった。 1 無断引用、転載、配布禁止 中島 隆博 ~講義録~ ●プロテスタンティズムの倫理が資本主義の無際限の欲望を解放した 資本主義の精神と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、当然マックス・ウェーバーの『プロ テスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本です。これは、だいたい110年前 の1905年に出版をされています。 今年は第一次世界大戦100周年なので、20世紀とはいったい何だったのか、 そして、 20世紀にとっての資本主義は何だったのかを考えると同時に、20世紀は戦争の世紀で もありましたので、いったいあの戦争、しかも、世界化した戦争とは何であったのかを考 える非常によい年だったかと思います。 私は、今日、このウェーバーについて、もう1回考え直してみたいと思います。ウェーバ ーは、この本の中で、 「プロテスタンティズムの倫理、すなわち、世俗内禁欲という倫理が、 かえって資本主義の無際限の欲望を解放した」と述べていました。つまり、パラドックス ですね。本来であれば、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズムは禁欲を主張しま すので、儲けることに対しては厳しい態度をとるのです。ところが、それにもかかわらず、 プロテスタンティズムから資本主義が生まれてきたとまでは言いませんが、資本主義を支 える仕組みが登場したと、ウェーバーは論じたのです。 ●ポスト世俗化の時代、世界各地で宗教が復興をしている では、今日はどうなっているのかというと、ウェーバーの時代に比べましても、資本主 義の速度はますます増しています。一個人や一社会では対処できない、グローバル・イシ ューズと言われているような非常に困難な問題が、 われわれの目の前に現れてきています。 しかも、これは重要な概念なのですが、同時に今「ポスト世俗化の時代」と言われてい ます。近代は、世俗化、secularizationの時代だと言われてきました。つ まり、政治と宗教の分離なのですが、それまで宗教は社会の全体を覆っていたのです。と ころが、その宗教が個人の内面の問題に還元されていきました。そして、社会の公的な領 域から宗教が退いていき、政治が宗教から独立して、ある種の公的な空間を構成していく ようになるということが近代だと言われてきたのです。ですから、ウェーバーのプロテス タンティズムにしても、プロテスタンティズムの倫理、すなわち、世俗内倫理、世俗内道 徳という形で宗教が残ったことを前提にしていたのです。 2 無断引用、転載、配布禁止 中島 隆博 しかし今、世界を見ますと、イスラム国もそうですし、あるいは、インドでは、ヒンド ゥーナショナリズムという形で、ヒンドゥー主義が復活をしています。私の専門の中国、 あるいは、中国の周辺では、儒教が大変な勢いで復興しています。 こういう世界的な状況、つまり、世俗化が問い直される時代、あるいは、宗教が新しい 姿をとって現われる時代において、資本主義がどうなっていくのかを考える必要があるだ ろうと思うのです。 それを踏まえた上で、例えば、グローバルな市民社会を私たちは本当に構想できるのか という問題があります。それを構想するとき、資本主義の精神は何であり得るのかを今日 は考えてみたいと思っています。 ●欲望とは、他者の欲望を欲望すること まず、資本主義とは何か。これには、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の議論がありま すので、どれに与してもいろいろな反論がすぐに予想されますが、今日は、まず最初に、 欲求と欲望を少し区別して考えてみようと思います。 欲求とは何かですが、例えば、食べることは非常に強い欲求ですね。つまり、身体的、 生理的な充足を目指していきます。ただ、われわれがどんなに食べようとしても、例えば、 おにぎりを一時に1000個食べることは無理です。あるところで満足をしてしまいます。 ところが、それに対して、欲望は無際限になり得る可能性を持っています。例えば、先 ほどこちらの会員さまの中には、無際限の欲望をお持ちの方がいるとうかがいましたが、 いったいなぜそのような無際限の欲望を人は持つことができるのでしょうか。これは一つ の大きな問題だろうと思うのです。 哲学の中で、欲望の定義は非常に単純で面白く、 「他者の欲望を欲望することが欲望だ」 と定義されることがあります。 どういうことかというと、例えば、私の子どももそうなのですが、iPhoneが欲し いと言います。友達が皆持っているからそれが欲しいと言うのです。ということは、実は どうもiPhoneそれ自体を欲望しているのではなく、iPhoneをめぐる他人の欲 望を取り込んでいく構造が人間の欲望にはあるだろう、ということです。 3 無断引用、転載、配布禁止 中島 隆博 この問題を一番に論じたのは、ヘーゲルという哲学者です。 「人間は、他人に承認された いという欲望を持っている。だから、他人が欲するものを欲することによって、自己承認 を高めていく。ここに人間の秘密がある」と言うのです。 そうしますと、自分の欲望、欲求と違って、他人の欲望を欲望するわけですから、欲望 には最初から拡大していく可能性があるのです。これは、どうも人間がその存在のあり方 からして持っている形式らしいと、一つ言えるわけです。 ●資本主義以降の欲望は最大の他者である無限の神を取り込んで加速する構造 では、資本主義以前の欲望と資本主義以降の欲望は同じなのでしょうか。例えば、王侯 貴族の貪欲を考えてみます。中国の皇帝は、ものすごい財力を持っていました。極めて精 巧な装飾品をつくらせます。 あるいは、 不死の欲望もそこに入ってくるかもしれませんが、 すごく貪欲です。でも、どうでしょう。それが、今の資本主義の体制の中での貪欲と同じ かどうかは、やはり検討に値することだろうと思うのです。 例えば、北米インディアンの中で財貨を手に入れた人は、何をするかというと、親類、 縁者を招いて大宴会を開き、皆に振る舞うのです。挙句の果ては、皆から「太っ腹だね」 と言われていることがうれしくなって、自分の家を燃やしてしまいます。そこまでに至る というのです。これを蕩尽(とうじん)と言います。つまり、王侯貴族の貪欲とは、その 裏には全てを焼き尽くして消費するという蕩尽も張り付いている欲望だったのです。 でも、資本家は、そんなことはしませんよね。多分、自分の家を燃やしたりはしません。 もし資本が手に入ったら何をするでしょうか。当然それを次に投資します。投資に回して いきます。こういう欲望の形式に支配されているのです。 では、投資という形で資本を回していく、循環させていくことは、何によって可能にな るのでしょうか。これはなかなか難しいと思います。一つ言われていることは、やはりこ こにはキリスト教、あるいは、近代のキリスト教としてのプロテスタンティズムがあるだ ろうということです。 どういうことかというと、例えば、神の問題に対して、中世の場合は、教会を通じて神 に接近するという手法を使いました。ところが、プロテスタンティズムは何をやったかと いうと、神は、あなた自身があなたの内面において向かうべきものだ、つまり、信、信仰 の問題に転換していったのです。 4 無断引用、転載、配布禁止 中島 隆博 でも、これは考えてみたら、恐ろしくありませんか。われわれが自分の内面において神 と向かい合うことは、ほとんど狂気に近い。なぜならば、神は、人間をはるかに超越した ものだと言われていたからです。抱えきれないものを抱え込む構造を近代のキリスト教は 持ち込んでいったのです。先ほど、欲望とは「他者の欲望を欲望する」と言いましたが、 最大の他者は神なのです。神の欲望を欲するという形式が成立をしていったのです。 そうしますと、神はまさに無限ですから、人間を無限に超えています。人間は、はじめ て無限の他者を取り込んでいくことになって、 そうすると欲望は一挙に加速していきます。 こういう非常に皮肉な構造が出てきたと思います。 ●資本が時間を支配する形式が全面的に展開していった それを支えていたもう一つが、時間だろうと思います。未来という、もう一つの絶対的 他者を取り込むことで、今ここでの自己充足を無限に延期する。投資が可能になるために は、リニアな時間性が成立しないとできません。 「明日蕩尽をしてご破算にしましょう」 「も うちゃらですから」と言われたら、投資家は大変困ります。時間は、無限につながってい かなければいけない。たとえ、その間に恐慌が来ようが何が来ようが、時間さえ無限につ ながっていれば、構わないのです。そういう条件が、やはり近代において成立をしていっ たのでしょう。私の言い方では、資本が時間を支配する一つの形式という表現になります が、それが全面的に展開していった気がしています。 ですから、すでにこの資本主義の機制の中に、非常に神学的なもの、しかも、近代の神 学的なものが入り込んでいることがお分かりいただけるだろうと思います。 5 無断引用、転載、配布禁止
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