目を覚ますとおなかに女の顔がはりついていた

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二千十五年、七月十日のこと―。
目を覚ますとおなかに女の顔がはりついていた・・・。
いつものように目を覚まして、トイレに行き大便をした。下腹をさすりながらトイレを
出ると、その上辺りに違和感を覚えた。わずかに凹凸がある。
肌着をめくって見てみると、腹の上に顔がある。へそはきれいさっぱりとなくなり、顎
らしきものと、白くのっぺりとした頬が浮き出ている。
どうやら女の顔らしい。艶のある鼻が突き出て、広い額には鳥が翼を広げたような眉が
浮かんでいる。陰毛がずいぶんと増えたなと思ったが、それは女の髪だった。
僕は洗面台の鏡に腹を映してみた。照度が低いので、ライトをつけた。するとやはり顔
があった。瞼を閉じている。褐色の肌に女の白い顔が浮き上がっているのでやはり奇妙だ。
顔に見覚えがあるように思った。はっきりとしないが、自分の人生に関係のある女に違い
ない。そうでなければ、自分の腹なんかに現れっこない、と考えた。
肌着を脱いで、しばらく部屋を歩き回った。ロールカーテンを上げ、朝日を部屋に入れ
た。マンションの四階から見えるいつもと変わりのない街並みが見える。
僕は念のためもう一度腹を見た。顔は依然としてある。テレビをつけた。天気予報が流
れた。日中は二十七度まで上がるらしい。いくつかチャンネルを変えてみる。天変地異が
起きた様子はない。
世の中はいたって平和のようだ・・・。
ソファに座り、つくづく腹の顔を見た。まだ顔は目を覚まさない。いったい誰のさしが
ねかわからないが、腹に女の顔がくっつくなんて。恐らくは人面疽というものだろうが、
これは初めての体験だ。
確かに「高野聖(たかのさとし)」という名前は、いけない。
高野山の坊さんを意味する「高野聖(こうやひじり)」と同じだ。
「高野聖」はまず中学のとき、おまえと同じ名前の小説があったと、友達のひとりが文
庫本を買ってきた。
泉鏡花の小説。一読して嫌悪感を抱き、その本は捨ててしまった。高校でも同じ現象が
起こり、おかげ様でニックネームが「サシー」から「ヒジリ」になった。
-1-
大学で初めて小説を読んで、親に軽い憎しみを感じた。せめて「聖一」とか「聖道」と
か、「聖」に一字加えてほしかった。
小説ではなく「高野聖」そのものの意味を調べてみると、もう「自殺的」だ。
【高野聖(こうやひじり)は、日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と
呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧。蓮華谷聖、萱堂聖、千住院聖。
ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものであった。
同様の遊行者は奈良時代に登場し、高野山では平安時代に発生。開祖として小田原聖
教懐、明遍、重源らが知られる。
高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。学侶
方、行人方とともに高野山の一勢力となる。諸国に高野信仰を広め、連歌を催すなど文芸
活動を行い民衆に親しまれたが、一部においては俗悪化し、「夜道怪(宿借)」とも呼ば
れた。】
ウキィペディアからの引用だ。波線部は僕が引いた。
「文芸活動で民衆に親しまれた」はいいとしても、「最下層」「夜道怪」とはなんだ。
特に「夜道怪」。
【村の街道などで、「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と呼ばわったためと云われる。
「高野聖に宿貸すな。娘とられて恥かくな」という俗謡もあった。】
要するに「宿を借りて」「娘を誘惑」していたから「夜道怪」と呼ばれていたというこ
とか。突然おなかに女の顔がはりつく事態も、この「夜道怪」となにか関係があるのだろ
うか。
さらに三日前のこと。飯田橋で易者に呼び止められた。
易者なんて存在は、正直言って僕にとっては、やくざ、政治家、棋士、力士についで無
縁であり無意味だった。
会社の同僚と飲んで、その後ひとりでバーに寄りバーボンをしたたか飲んで、タクシー
を探していると年老いた老婆が僕を呼び止めた。
易者の方から客を呼び止めるなんてありえない。
その老婆によると、呼び止められずにはいられなかったという。名前を訊かれたので答
えた。
「名前ですか?
タカノサトシです。漢字では『高野聖』・・・確かにコウヤヒジリとも
読めますが。いえ、実家はお寺じゃありません。両親が『聖』とつけたのも偶然ですよ」
「そりゃもったいない。お宅様は、類いまれなる神気をもっていなさる」
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「神気、ですか」
「法然、親鸞、道元をご存じですか」と易者は僕を上目づかいに見て言った。
老婆易者はとてつもなく小さかった。顔つきもスターウォーズの『ヨーダ』のようだっ
た。
「知ってますよ。法然ですよね。浄土宗ですよ」
「あなたは、上人方と同レベルの神気をもっていなさる、だからわたしは、呼び止めたん
ですよ」
「それは喜んでいいことなんですか?」
「まあ、基本的にはね・・・」
そこから後のことは思い出せない。
あの易者が言うように、僕に並々ならぬ神気があってこのような事態になったのだろう
か。よしんば僕にそんな神力があったとしても、おなかに女の顔を置くなんてことはしな
いはずだ。
どういう事情なのか、当の女が早く目を覚まして説明してくれたらいい。そもそもこの
女は生きているのか。死んだ顔がはりつくなんてごめんだ。
僕は頬をつまんだり顎を撫でたり、鼻をとんとん叩いたりしてみた。感覚が伝わってこ
ない。他人の皮膚のようだ。ほのかに熱があるから、死んでいるわけではなさそうだ。
思い切って女の頬を強く叩いた。反応があった。目蓋がぴくりと動き、口も左右にわず
かに震えた。
「おい」
僕はもう一度頬を叩いた。女の顔は窮屈そうに顔を左右に動かした。もう一度叩く。
「ねえ、きみ」
何回か頬をつっつくと、漸く女は目を覚ました。
「あ、あの」女が声を出す。「おはよう、ございます」
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上目遣いに僕を見上げ、女は軽く会釈をした。声は幾分羞恥を帯びている。
「お、おはよう。って、きみは誰だい?」
顔は恥ずかしそうに俯く。僕はお互いに話しづらいことに気づき、再び洗面台に行くと
鏡に顔を映した。鏡に映った女は、ちらりと僕を見て顔を赤らめた。
「すいません、突然・・・」
「きみは誰だ?」僕は同じ質問を繰り返した。
「わたし、森下雪乃と申します」
「モリシタ、ユキノ・・・わからないな。悪いけど、知らないよ」
「会社が同じなんです」
「あ、そう・・・『株式会社大正乳業』なわけだ・・・」
そうは言ったものの、同僚にモリシタユキノという女の子がいたかどうか思い出せない。
六百人ほどの社員が本社にはいた。そのうち女子社員は何人いるだろう。
「わたし、営業部リサーチ課なんです。わたしのこと、わかりませんか?」
「リサーチ課?」
「時々、エレベーターで一緒になることもありました。それから食堂でも」
女が伏し目がちになる。
鏡に映っている女と会話するのも奇妙に感じたが、僕は話すより他になかった。この非常
事態で救いなのは、女が普通に会話できることだった。もし顔が押し黙ったままで、始終
睨んでばかりいたら、僕はいたたまれなくなって自殺しただろう。
「もう少しちゃんときみの顔を見せてくれよ。目をしっかり開いて、僕の方を向いてくれ
ないか」
「恥ずかしいです。御化粧してないし・・・」
僕はじっくりと顔を見た。美人ではあるようだ。
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「その、顔が逆に見えるしね、鏡に映ったきみを見てもわからない・・・。でも、どうし
て僕のおなかなんかに・・・」
女は再び伏し目がちになり、少し狼狽の色を見せた。何か思い当たる節があるようだ。
「もし、僕たちが恋人同士だったら、こんなふうに考えられる。僕が他に女を作って、シ
ョックを受けたきみは自殺して、僕を怨んで腹にとりついたと・・・。つまり人面疽とい
うやつだ。でも僕たちは会社の同僚と言っても殆ど知らない者同士だ。それなのに、どう
してきみが僕の腹にくっつくことになったのだろう・・・」
僕はなるべく優しい態度をとろうと心がけた。女が心を開いて何もかも明らかにしてく
れることを願った。
「わたしにも、よくわからないんです」女はゆっくり口を開いた。「ただ・・・」
「ただ、どうしたの?」
「何日か前、易者さんに会ったんです。会社から帰る途中でした。呼び止められて」
「易者・・・呼び止められた?」
僕は背中に悪寒を感じた。そう、誰かさんと一緒だった。
「まさか、その易者、飯田橋の?」
「いえ、池袋です。会社からの帰り、ちょっと寄ったんです。友達と会う約束があって。
その帰りに呼び止められました」
「なんで呼び止められたの?」
「あなたには、普通と違う力があるって」
それも誰かさんと同じだ。
リビングに戻りテレビを見た。みのもんたが大口を開けて笑っている。いつもの朝は、
テレビを見ながら歯を磨き、髪を整え、着替えた。その日常が、みのもんたの口の中に消
え去っていくような気持ちになった。
僕とモリシタユキノは、数日前易者に呼び止められ、双方とも神力があると告げられた。
これ自体は確かに驚くべきことだ。神力があるふたりなら、このような事態になっても、
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それほど不思議ではないのかもしれない。
「僕も、同じことがあったよ。易者に呼び止められて、神気があると言われた。法然さん
や、親鸞さんと同じくらいの・・・」
「わたしは、そんなにすごいことは言われてません。普通とは違うと、ただそれだけです
・・・」
「僕たちは同じ会社―これは安心できる材料なんだけど・・・易者に神気があるとか、普
通とは違うとか、偶然にしては奇妙なことに同じ体験をしている。でも、それだけで、き
みの顔がぼくのおなかに現れるなんて、これはどういうことだろうか?
わからないな・
・・」
「きっと、わたしが悪いんです」
「どういうこと?」
「昨日、寝る前に、その・・・高野さんのことを、考えたんです」
「僕のことを考えた?」
彼女は目をつむった。
「こんな状況ですから、もう言ってしまうしかないですね。わたし、入社したときから、
高野さんのことが・・・好きだったんです」
「ちょっと待って。そんなこと言われても・・・」
「知ってます。彼女がいらっしゃるのは・・・だから、ずっと言えないでいたんです。い
つも、遠くから見ることしかできなくて・・・」
僕に対する恋心が天に通じ、こういう事態になったというのだろうか?
「易者さんに普通と違う力があると言われて、少しうれしくなりました」
「なんで?」僕は尋ねた。
「もしそんな力があるなら、高野さんのこと、なんとかできないかなって・・・」
「それだ!
なにをしたの?」
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「呪文を唱えたんです」
僕は顔を覆った。この事態の原因が判明したのだ。ただ、呪文なんて疑わしいものがこ
の非現実を引き起こしたとは思えない。
「呪文?
呪文で、僕たちこうなったわけ?」
「わたし自身、こんなことが現実にあるなんて思えません」
「でも、感覚がリアルだよ。きみはどうだい?」
「はい、確かに。身体の感覚が全くなくて、顔の感覚だけ感じるんです。変な感じです」
「僕の腹に現われる前は、君はちゃんと家で寝てたのかい?」
「はい・・・」
「腹にはいつくっついたか、そんなことわかった?」
「いえ・・・ただ、目が覚める前、高野さんのおなかにいるんだという感覚はありました」
「さて、これからどうしたらいいだろう。名前、モリシタさん、だよね?」
「モリシタです。モリシタ、ユキノ」
「モリシタさん、きみはどうしたらいいと思う?」
「いつもどおりに行動したらどうでしょう。明日になれば元にもどっているような気がし
ます」
「そうだろうか・・・」
「呪文でこうなったとしたら、いずれは元に戻ると思うんです。だってこうしていること
は高野さんにとってもわたしにとってもよくないことですから。きっと、やはりわたしの
せいです。でも、まさか呪文が効くなんて思わなかったし、ちょっとしたおまじないのつ
もりでしただけなんです。呪文をもう一回唱えるか、わたしが高野さんのことを忘れたら、
たぶん元に戻るでしょう。それまで、高野さん、どうかお願いです。わたしをこのままこ
こに置いてください!」
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置く置かないは、僕の意思ではいかんともしがたいことだったが、こんなふうに頼まれ
ると、なんだか彼女が憐れに思えてきた。僕なんかのおなかでよかったらどうぞ、と言い
たくなった。
時計を見ると七時半。僕はスーツに着替えた。当たり前だが、外見上は不自然には見え
なかった。まさかおなかに女の顔を隠し持っているなどと、誰も思いはしないだろう。
考えてみれば、身体に顔が張り付くとなると、おなかほど打ってつけの場所はないよう
だ。服で隠れる場所でないといけない。背中だと顔の凹凸が目立つし、話もできない。お
しりだときまりが悪いし、座ることもできない。まさか下半身というわけにもいかない。
それはもってほかだ。道徳的によろしくない。
「苦しくないかな?」
シャツのおなかのあたりのボタンを外し、ベルトを緩める。
「平気です」
「時計、忘れてます」ユキノが言う。
「何だか落ち着かないよ。仕事なんかできるかな・・・」
「大丈夫です。今日一日やり過ごせば、何とかなると思います」
僕は靴を履き、マンションのドアを開いた。いつもと変わりない朝のはずが、ムーミン
谷に投げ出されたような、ひどく心細い気持ちになった。
「一つ聞いていい?」階段を降りながら僕は言った。「時計を忘れたこと、なぜきみはわ
かったの?」
「雰囲気で・・・」
「もう一つ聞いていい?
僕の考えてること、きみはわかるの?」
「いえ、わかりません。わたし、あくまで高野さんのおなかに張り付いているだけですか
ら―」
僕は幾分安心した。
-8-
2
駅に向かっている間、もちろんこの状況を怪しむ余地はあった。これは有り得ないこと
だと。
しかし実際、僕は腹に張り付いたモリシタユキノと名乗る女と会話をしていた。そうし
なければ、状況は益々悪化するように思われたからだ。
「モリシタってどう書くの?」
「そのままです。森の下」
「ユキノは?」
「雪乃です・・・あの、高野さん。すいません、暑くて・・・」
「ああ、ごめん、ごめん」
僕はシャツのボタンを外し、風を送った。
「顔だけでも、やっぱり暑いだろね」
石神井公園駅に着いた。いつもなら駅の立ち食いそば屋で朝食をとるところだが、時間
的にも気分的にもその余裕はなかった。
「あの、もう一つお願いですが、ケータイ、貸してもらえませんか。会社に電話したいん
です」
「きみは一人暮らし?
きみの、その、身体の方はどうなってんだろう?」
「ベッドの上だと思います」
僕は想像してみた。身体がベッドに横たわっているのはいいとして、一体顔の部分はど
うなっているのだろう。四谷怪談的状態なのだろうか。
僕は人気のないところを探した。通勤する人々の雑踏の中で電話はしづらいだろうし、お
なかにケータイを押し付ける姿を善良な市民に見せたくはない。男性用のお手洗いに行き、
洋式トイレに入って鍵をかけた。ケータイを取り出すと同時におなかを全開した。雪乃の
額は汗びっしょりになり、申し訳なさそうな表情をしている。
「だいじょうぶ?」
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僕はハンカチでおなかを拭いた。いや、雪乃の額の汗を拭いた。
「すみません」
「耳がないようだけど。音は聞こえてるね」
「はい。聞こえてます」
「耳はどこなんだろう・・・」
僕は電話をかけた。呼び出し音が鳴るのを確認するとすぐに電話を腹にくっ付けた。
「もしもし、おはようございます。森下です・・・」
雪乃は話し始めた。病気で休むとするには張りのある声だったので、僕は内心ひやひや
したが、彼女は屈託なく体調不良で休むと言ってのけた。そして僅か二十秒ほどで用件を
終えた。
「体調不良にしちゃあ、少し元気良すぎたよ」
「そうでしたか?」雪乃が微笑む。
身だしなみを整えるとトイレを出た。小便をしていた一人の男が、気味悪そうに僕を見た。
電車の中では、森下雪乃を窒息死させないように気を遣った。
会社に着くと、その必要もないのにびくびくした。お前、腹に何か隠しているだろう、な
んて人に言われやしないかと、妙に臆病になった。
僕はおなかのあたりを再度チェックして会社に入った。
「わたし、エレベーターで高野さんと一緒になることがよくありました」
囁き声で雪乃が言う。おなかから人の声が立ち上ってくるのはつくづく妙な感じだった。
「そう。知らなかったよ」
「待ってましたから。高野さんが来るのを・・・」
「そうか!」僕は思い出した。「よく一緒になる美人がいたよ。あれが、きみなのか?」
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おなかの雪乃がほほ笑むのがわかった。
エレベーターに乗り込み四階のボタンを押した。同僚と挨拶を交わす。
「わたしは七階です」雪乃がささやく。
会社案内の表示板に営業部リサーチ課の文字がある。
「残念だけど、七階のボタンは押してないよ」
商品開発部の精鋭七名がそれぞれにうごめいている。いつもと変わらない面々。適当に
挨拶をしてデスクに座る。
四ヶ月前から只ならぬ関係になった沢井祐未と目が合う。
「おはよう。あら、汗びっしょりね・・・」と祐未。
「当たり前だろ。夏なんだから」
「―にしたって。まだ七月よ。昨日電話したんだけど」
「おいおい、職場でよせよ」
「いいじゃない、真向かいなんだし」
「だからって」
「どこにいたの?」
「昨日は取引先と接待、帰って来たのは二時だったよ」
「そんなの、わたし聞いてない」祐未が少し乱暴にファイルを手渡す。
「会議の資料よ―」
「―高野くん、おはよう」
背後から気取った中年の声が聞こえる。振り返るまでもなく兼田係長だとわかる。
- 11 -
「おはようございます」
「昨日はごくろうさん」
「いえ、こちらこそごちそうさまでした」
「どうだったね。あれから」
「はい、先方に最後までお付き合いしました」
「そう。すまんねえ。私はもう限界だった」
「まっすぐお帰りになれましたか」
「ああ、なんとかね。しかしきみは強いね。兼ねてから強いって聞いてたけど、あれだけ
飲んでしらっとしてたもんなあ」
「いえ、今も残ってますよ。アルコール」
「突然のことですまないね。また何かあったら頼むよ。きみのあれは大受けだったよ」
兼田係長がデスクに戻る。
「あれって、何?」祐未が言う。
「今のでわかったろ。昨日退社前に接待に付き合えって言われてさ。きみは外回りに出て
たろ。接待に行くって、とりあえずメールには入れといたよ」
「えっ?
見てない」
「ちゃんと送ったよ」
「それより、あれって何?」
「あれって?」
「その、先方に受けたって」
「ああ、裸踊りのこと?」
「裸踊り?」
- 12 -
「きみには見せただろ」
「見たことなーい。裸は見たけど・・・」
僕は他の同僚と新商品の打合せを始めたが、にわかに腹の具合が悪くなりトイレに駆け
込んだ。
「大丈夫ですか?」
腹からの声に僕はびっくりした。
「やあ。きみ、やっぱりいるね。腹が痛くて・・・思わず思いっきりがんばったけど・・
・臭くない?」
「いえ・・・」
「正直に言ってよ。ほんとはくさいでしょ?」
「・・・はい。ふつうに、匂います。でも生理現象ですから」
「うんこがジャスミンの香りだったらよかったのに。下、見えてないよね」
「見ようと思えば見えないこともないです・・・葛藤中です」
「葛藤中って。きみが良識ある娘であることを願うよ。今までなにを考えていた?」
「私も、まだ夢みたいな感じです。夢うつつという感じ。何も考えられないんです」
「そう。僕もだよ。何とか話はしてるけど、妙な感じがするんだ。ここは昨日と同じ世界、
社会なのかなって。さっき会議でさ、係長の顔をさ、昨日と同じかじっと観察しちゃった
よ」
「トイレなら少しでもお話ができます。変な気分になったらトイレに入ったらどうでしょ
う。トイレに行く回数が少し多いくらい、誰も怪しまないと思います」
「今日は少なくとも二十回は来そうだよ。ところで僕の態度はどうだったろう。普通だっ
たと思う?」
「わかりません。多分大丈夫だったと思います。わたしもおなかに張り付いている立場で
すから、自信はありません・・・」
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「やっぱり、これって現実なんだね・・・」
「ドラマか、小説ならありそうな話ですけど・・・」
「子どものころ『ど根性ガエル』が好きだったよ」
「知ってます、『ぴょん吉くん』ですよね」
「モリシタさん、『ぴょん吉』って呼び捨てでいいんだよ。さて、これから新商品の会議
なんだ」
「『オランチョ』をヒットさせた高野さんですから、きっと大丈夫です」
「ありがと。まあ、ボツになったのも数知れないんだけどさ」
「『オランチョ』はいまだに売れています。関東ではお菓子部門堂々の第一位」
「さすがリサーチ課。きみも顔は出社してるのに欠勤とは少し残念だね」
トイレを出て会議室に入る。会議はもう始まっていた。
「ネーミングが安易すぎるな。ベビーチョコなんて」
「大体ベビースターラーメンにチョコを絡めただけだろ」
「味はよさそう。ココアパウダーとカカオをミックスするわけね」
「味じゃなくてコンセプトを問題にしなくちゃ」
「基本として、スナックものにチョコを絡めるのは常套手段だが、新鮮味があるかな?」
「チョコフレークと似たような感じね」
いろんな意見が出される中、僕が提案したニュースナックは午後に検討されることにな
った。
「二人で食事しましょ」
祐未はそう言って社外の喫茶店に連れ出した。スパゲティ専門の店だ。
- 14 -
「カルボナーラでいいでしょ?」祐未は次第に僕から決定権を奪っていく。
「なぜ強制するなるだい?
でも、まあ、それでいいよ」
僕はメニューを手持ち無沙汰に眺めた。僕は一つのことに固執するタイプだ。スパゲテ
ィは十種類以上あるが、この店でカルボナーラ以外を注文したことがない。
「今日のあなた、何か変・・・」
「そう?」
「前は、自分の発案した新商品を一生懸命アピールしてたのに」
「何が違うの?」
「意見、ほとんど言わなかったじゃない。まるで人事みたいな感じ」
僕はおなかの森下雪乃のことを考えた。僕たちの会話をどう聞いているのだろう。
「そうだった?」
「少しちゃんと、こっち見て」
「なんだよ急に・・・」
「わたしに飽きたの?」
「わけのわからないこと言うなよ」
「あなた、とても、変」
「なんども言うなよ、変、変って」
「あなた、今までに見せなかった顔をしてる」
「そんなことはないよ」
「こう見えても、わたし純なのよ」
「わかってるさ」
- 15 -
「付き合った男の人って、少ないの」
「なんでそんなに飛躍するんだよ」
「わたしによくないところがあったら言って」
「そんなことはないよ。きみに不満なんてない。僕にはもったいないくらいだ。社内一の
美人だよ。いや、東京都で働くOL一かな?」
「冗談言わないで」
「いや、ほんとだよ」
「都内一はあんまりよ。社内一くらいならいいわ」
森下雪乃と祐未とどっちが美人なのだろう。
「僕たちはまだ知り合って二年。お互いの恥部を確認し合ったのは四ヶ月前だよ。まだま
だ分かり合えていないところはあるさ」
「恥部だなんて」祐未は笑った。
「昨日は接待だったんだよ。疲れてるんだ。今日の僕が変だからっていちいち勘ぐらない
でくれ。僕は、その気になれば女優にもなれた女の子に夢中なんだから」
祐未は満面の笑みを浮かべて僕の手を取った。そして指を弄ぶ。
「あなた、顔はフツーだけど、ジョークがおもしろいから好き・・・」
「僕の顔はモンゴル系でも中国系でもないんだ。自分ではアイヌ系だと思ってる」
「アイヌ系?
「え?
わけわかんないわ。今日、手料理作ってあげようか?
今日?」
「いいでしょ」
「ごめん、今日は確か・・・」
「なによ」
- 16 -
久しぶりに」
「そう、友達と飲むことになってるんだ」
「あなた、考えながら言ってるわね。友達って誰なの?」
「きみは知らないと思うけど、大学時代からの友人だよ。ほら、あの北宝映画、あそこで
ホラー映画を作ってるんだ。有名なのはね、『猫のお化け』知ってる?」
「知らないわ。あなた、うそ言ってるでしょ」
「どうして?」
スパゲティがきた。僕はタバスコをしこたまかけた。
「最近わかってきたの。あなたのジョークはおもしろいけど、うそばっかり」
「そりゃあ、ジョークは大抵はうそさ。真実をもとに言うジョークなんか、大抵はつまら
ないものだよ」
「この前、ブルース・ウィルスと飲んだことがあるって、うそついたわ。その、大学の友
達っていうのも、想像上の、架空の人物なんでしょ?」
「確かにブルース・ウィルスと飲んだっていうのはうそだったよ。実際に飲んだのは僕の
友達の友達の、そのまた友達さ。CMの打合せで。でも、今日の大学の友達っていうのは
本当。名前は羽月泰三っていうんだ」
「名前なんか言ったって。それに嘘っぽい名前。泰三だなんて。いいわ。好きにして」
「おいおい、友達の名前を悪く言わないでくれよ。実名なんだから」
それから黙々と食事をした。もともと、僕は静かに食べる方だ。
「機嫌なおしてよ。お昼、おごるから」
「いつもいつもありがとう」皮肉っぽく祐未が答える。
店から出ると太陽は真上にあった。影もほとんどない。
「たぶん、明後日は大丈夫だと思うけど」
- 17 -
「明後日はわたしが都合悪いの」
「何があるの?」
「何がって・・・」
「きみも今考えてる・・・」
「考えてないわ」
「いいや、復讐してやろうと思っている。まあいいさ。一週間会えないからって、だめに
なる仲じゃないだろ―」
「十二時には帰ってるでしょ?」
「たぶんね」
「ねえ。猫背になってるわ・・・いつから?」
「たぶん・・・今日から・・・」
会社に着いた。僕はおなかの森下雪乃を思い出した。彼女は昼食をとっていない。
「先に行ってて」と祐未をエレベーターに送り出す。
「どこ行くの?」
「売店に行って来るよ」
「何を買うの?」
「サンドウイッチ」
「まだ食べる気?」
「朝、食べてないからかな。まだちょっと空腹感が・・・」
「腹八分がいいのよ。コーヒー淹れててあげる」
祐未はエレベーターの中に消えた。僕は売店に入る。
- 18 -
「卵とトマトのサンドでいいかい?」小声でおなかの彼女、雪乃に聞いた。返事がない。
「どうかしたの?」
「いえ、別に・・・」
「寝てた?」
「いえ」
「おなかすいたでしょ。お茶とコーヒーとどっちがいい?」
「どっちでも」
どこで食べさせたらよいか思案したが、やはりあそこしかなかった。
「仕方ないよね」
「食欲ありません」
おなかを出して雪乃の表情を見ると暗い。トイレで食事なんて、確かに最悪だ。
「トイレじゃいや?
屋上はさ、人がけっこういるんだよ」
「わかってます。わたしもよく食事が終わったあと、屋上に行ったりしましたから」
「機嫌が悪いね」
「いえ、すみません。ごめんなさい。せっかく親切にしていただいているのに。普通の人
だったら、気が変になってますよね。わたしもこうしていられないはずです。高野さんが
いい人でよかった・・・」
「きっと、僕が普通じゃないんだよ。そうそう、神気が備わってるからね。親鸞さんに負
けないくらいの」
「わたしも、普通と違う女ですもんね。サンドウィッチ、いただきます」
おなかに食べ物を押し付ける感覚というのは変な気分だった。咀嚼の様子を窺いながら、
雪乃の口に食べものを近づけるタイミングを図るのが難しい。
- 19 -
「高野さん、すみません、お茶を」
「よく冷えてるよ」
五分ほどで、雪乃はサンドウィッチをたいらげた。
「ごちそうさま。すみません。お手数おかけします」
「仕方ないよ」
「せめて手でもあったら・・・」
僕は腹から彼女の手が生えているところを想像してみた。
「いや、いいよ。顔だけで。手があると、それこそ僕たちは外に出かけることもできない」
「そうですね―」
「僕が食べさせてあげるから。気にしないで。さて、午後の会議がある。そろそろいくよ」
「高野さん、わたしのこと、モリシタじゃなくて、ユキノって呼んでもらえませんか?」
「わかったよ、ユキノさん」
扉を開くと警備員の鰻さんが立っていた。鰻さんは僕が出た後のトイレを覗いた。
「高野さん・・・今、女の人の、声みたいな・・・」
「えっ、まさかあ」僕はごまかし笑いをした。
「でも、確かに、艶のある、女の人の声がしたような・・・」
「それで、鰻さん、わざわざ駆けつけたの?」
警備員の鰻さんとは、会社で徹夜をしたとき、何回か一緒にカップ麺を食べたことがあ
る。試作品のお菓子を試食してもらったこともあった。
初老の紳士で、格闘技と囲碁が
趣味。警備会社に勤める前は、中学の体育教師をしていたという。鰻さんは真顔になって
説明をした。
「いや、わたしはただ、小をしてまして、女の声がするもんで、不思議に思って・・・」
- 20 -
「女の声に聞こえましたか?」
「ええ、あれは、女の声ですよね。でも、ほんと、誰もいない―」
鰻さんはもう一度トイレを覗き込み、便器の裏まで調べている。
「いや、実はですねえ」僕は鰻さんの肩をポンポンと軽快に叩いた。「ちょっと、アレな
んですが・・・」
「なんですかあ?」鰻さんは口をぽかんと開けた。
「鰻さん、腹話術って、わかります?」
「腹話術・・・そりゃあ、わかります。腹話術ですよね。人形を、こう持って、口をぱく
ぱくと・・・」
「その、腹話術、なんですよ。練習して、たんすよ」僕は咳払いした。
「ああ、ああ」鰻さんは納得したように、漸くいつもの人懐こい笑みを浮かべ、うなずい
た。
「つまり、高野さんこの中で、腹話術の練習をしていたと。それでわたしが、勘違いした
わけだ。しかし、まあ、うまいもんですな。高野さんは芸達者って噂だから」
「今年の忘年会のかくし芸にって、思いましてね」
僕は鰻さんと揃って手を洗った。
「高野さん、もう一回、やってみせてくださいよ」鰻さんが催促する。
「いや、それは、その。さっきのは練習でしてえ。人前でするのは、ちょっとねえ。それ
にほら、人形もないし」
「ああ、人形ねえ。高野さん、人形はもう、持ってるんですか?」
「いえ、まだ、始めたばっかりで・・・」
「よかったら、わたしの知合いに人形職人がいるんですよ。作ってもらいましょうか?」
- 21 -
「ほんとに?
そりゃあ、うれしいなあ。人形どうしようって思ってたんですよ。渡りに
船だ。ぜひお願いしますよ」
右の頬が一回痙攣するのが自分でもわかった。トイレを出ると鰻さんはケータイを取り
出した。
「わたしの番号、高野さんに教えてますよね」
「もちろん、入れてありますよ」スマートフォンを意味もなく取り出した。
「今度連絡しますから、どんな人形がいいか、考えといてくだされば」
「わかりました。いろいろ、お世話になります」
「こちらこそ。また、夜中にカップ麺食べましょう」
鰻さんは、ラーメンを食べる仕草をわざわざして、笑った。
僕は会議室へ向かった。
「腹話術なんて、高野さん、機転がききますね。さすが、です」
「その機転のおかげで、僕は新しい芸を身につけなきゃいけない」
雪乃がプッと吹き出す。
「でもあれだね、声をもっと落とさないといけないね。注意しなきゃ」
「名前が、鰻って・・・」雪乃は僕のアドバイスを聞いていない。
会議室では再び新作スナックについての会議が始まった。ただ、やはり集中できない。
「ベビーチョコっていうネーミング、案外いいかも」
「このDNAみたいな螺旋も、見方によっては斬新かな?」
「じゃあさ、DNAチョコなんてどう?」
「遺伝子組替え小麦粉を使ってると思われるよ」
- 22 -
「企画会議で結論を出すということでどうかね?
次、わたしの企画に入ろう」
兼田係長の促しで浅野が企画書を配る。
「なんですかこの形は?」と、企画書のイメージイラストを見て僕はつぶやいた。
「まるで・・・」
「まるで何だね?」係長が妙に笑みを浮かべる。
「気のせいか、うんちのようですけど・・・」
「コーンスナックをチョコでソフトにコーティングしてる。確かにうんちの形だが、これ
にはねらいがある」
「どんなねらいですか?」
「うんちはおしりから出すものだ。決して口に入れるものではない。しかしそれは本物の
うんちに限ってだ。お菓子のうんちであればそのタブーは払拭される。つまり、スナック
菓子界に一石を投じる革命的なお菓子なわけだ」
「革命的・・・ねえ」
「係長、うんこの形をしたお菓子が売れるわけないじゃないですか」
僕は呆れた。
「そこがねらいなんだ」と係長。
「世の中何が当たるかわからないものよ。ネーミングと宣伝次第ではヒットするかもしれ
ないわ。係長、ネーミングは考えていらっしゃるんですか?」と祐未は企画書をめくる。
「そこに書いてあるだろ。『うんチョコ』って・・・」
「ネーミング以前に、これを本当に商品化するおつもりですか。気は確かですか?」
「何をいうんだね、高野くん。わたしは至って正気だよ」
「チョコとクッキーで外は滑らか中はサクッと、か・・・。大きさからすると食べ応え充
分ね。ガーナミルクの風味が合いそう・・・」
- 23 -
祐未が兼田課長の肩を持つことに多少いらつく。
「味の問題じゃないよ、この形だよ。これで売れるはずがない」と僕は反論した。
「高野くんは形にこだわってるようだが、かりんとうはどう説明するね」
「かりんとう?」
「かりんとうのあの形、想像してみたまえ。あれだって棒状のうんこにそっくりだ。そも
そも渦巻き型のうんこなんてそうお目にかかれるものじゃない。人間が出すうんこの形は、
ええっと、国立衛生保安事務局委員会の調査によれば、九十パーセント以上が棒状なんだ
よ。高野くん、きみはかりんとうを食べながら、うんこを食べているような気持ちになっ
たことがあるかね?」
「それは、ないですが・・・しかし巷ではこの形がうんこの形として定着していることは
確かです」
「人間のイメージというものはおかしなものなんだよ、高野くん。カレーライスを食べて
いるとき下痢状のうんちを想像する人がいるかね。よく観察すると、両者はよく似てるん
だよ。食べたカレーがそのまま出てきたのではないかと錯覚するほどね。しかし人は両者
を同じとは考えない。人間の感覚はおかしなものだが、混乱を避けるために、うまくでき
ているもんなんだよ」
「それは、そうですが・・・」
「そういった人間のおもしろい感覚を利用したんだよ。それにもうひとつ、この『うんチ
ョコ』には教育的な意義がある」
それまで半分居眠りをしていた時任が尋ねる。
「なんですか?
教育的意義というのは?」
「幼児教育では、うんちの指導が重要視されている。正しいうんちの仕方を教えるのはも
ちろんだが、うんちへの嫌悪感をなくし、うんちをすることで健康が保たれるという認識
をもたせることが必要だ。できれば、うんちへ愛着を感じるような・・・。アメリカでは、
うんちの絵本が大ブームになっているらしい」
「あっ、知ってます。アニメになってますよね」
- 24 -
「うんちはそもそも口から食べた物の残り物、決して汚いものではない。そんな新しいう
んち観を、わたしは世間の人々にもってもらいたいと思っている」
「うんち観・・・ですか」
と入社して三年目になる上原が深刻な顔になる。
「小学校や中学校時代、学校でうんちをするのは恥だという気持ちが僕もありました。だ
からずっと我慢してたんですよ」
「俺も。一度だけしたことがあるけど、ものすごい罪悪感があったなあ」
「学校でうんこをしたことが原因でいじめられる、というのはよく聞く話だよ。実は、私
にも暗い思い出がある・・・恥ずかしながら、『うんチョコ』の発案はそこにある。日本
人はうんちに対して偏見を持っている。わたしは、その偏見をなくしたい。欧米人のよう
に、堂々とうんちができる日本人の育成が大切なんだ」
「それで『うんチョコ』ですか・・・」時任が腕組みをしてうなずく。
「係長、お菓子に教育的うんぬんなんてもの、必要なんですか?」
「反対は高野くんだけかな?」係長の言葉に一同は黙る。
「あの、係長の新製品についても、高野さんの案と一緒で、企画会議でってことでどうで
しょう?」
「よろしい」兼田係長は席を立った。
他の者は各自のデスクに戻る。僕はため息をついた。
「コーヒーでも飲む?」祐未が言う。
「うんちコーヒーを頼むよ。肥溜みたいなやつ」
祐未は笑ったが、すぐに顔をしかめて言った。
「冷めたコーヒーなら、あなたのデスクの上に置いてあるわ」
- 25 -
3
五時になり、僕はすぐに会社を出た。祐未が後をつけて来ることも懸念したがその様子
はなかった。あまり飲みすぎないで、と言ったことから、僕の嘘を信じているようだ。
「さてと、まず飯田橋に行ってみよう」
東京メトロ東西線東陽駅から飯田橋は通過駅だ。
「高野さんが易者さんに会ったところですね」
「そのあと池袋だ」
易者が営業を始めるのは夕暮れ時。日が落ちるまで時間がある。
「とにかく飯田橋で、あの老婆易者に解決策を聞いてみよう。ほんとは、池袋に直行した
ほうがよさそうだけど。きみにこうなるアドバイスをしたんだからね。その易者は、きみ
になんて入知恵したの?」
「好きな人と結ばれるにはどうしたらいいか聞きました」
「その易者、男?、女?」
「おじいさん、です。おじい様っていう感じの、雰囲気のある方でした」
「飯田橋がおばあちゃんで池袋がじい様か。それで?」
電車に乗る。人気の少ない車両に移動した。
「好きな人の名前を何回か唱えて、呪文を念じたんです」
「どんな呪文?」
「さあ・・・よく、覚えてないんです」
「やっぱり池袋にいったほうがよさそうだ。呪文、じい様易者に聞いてみよう」
「飯田橋の易者さんは・・・」
「気になるけどね、この件には関係ないかも。だってきみが僕のおなかに張り付くなんて
- 26 -
お願いしなけりゃ、こんなことにはなってないんだから」
「高野さん、わたし、高野さんのおなかに張り付きたいってお願いしたわけじゃないんで
す。結ばれますようにって、祈ったんです」
「そりゃそうだ。ごめん、謝るよ」
「きっと、わたしが失敗したんでしょう・・・」
「呪文を言い間違えたとか?」
電車内はいたって平和だった。電光掲示板に株価が出ている。
「とっても言いにくい呪文でした」
「その呪文、メモとかしなかったの?」
「呪文は覚えなさいって言われました。文字にすると効力がなくなるからと・・・」
「なるほどね」
大手町で乗客が増えた。しばらく沈黙する。僕はケータイでメールをチェックした。
「高田馬場だ。山手線に乗り換えるよ」
池袋はほのかに夕暮れ始めていた。森下雪乃が友達と会ったカフェは明治通りにあった。
「いますかね、易者さん・・・」雪乃が不安そうに言う。
「いてもらわなくちゃ困るよ」
易者らしい姿はまだ見えない。マクドナルド池袋東口店で時間をつぶすことにした。ア
イスコーヒーとフライドポテトをもって二階に上がる。街路樹が生い茂って通りの視界が
悪い。
「どう?
見えるかい?」
シャツのボタンをはずし、雪乃の顔を出した。窓向いの席に座り人目を避けた。
「涼しい!」雪乃は声を弾ませた。
- 27 -
「ほら、筋向いにきみが行ったカフェが見える。友達と別れて、あの横断歩道を渡って、
しばらく歩いて易者に声をかけられたんだから、だいたいあのあたりだ。森下雪乃さん、
聞いてるかな、僕の話・・・」
「高野さん、すみません、アイスコーヒーを少しだけ・・・」
「ああ、ごめん、ごめん。自分だけ・・・。二つ買うわけにはいかなくてさ。買ってもよ
かったんだろうけど」
僕は人目を盗んでアイスコーヒーをおなかの前に置いた。ストローを雪乃の唇に合わせ
る。
「ああ、おいしいです」
「どう?
よく見て。このへんで間違いないかい?」
「はい、ですね。このあたりです」
「人をよく見てて。それらしい人がいたら、教えて」
「少し暗くなってきましたね」
ビルの上の入道雲が夕闇に埋没していく。この夏初めて見る入道雲だった。僕と雪乃は
しばらく黙っていた。店内にいる客の声がなぜだか録音テープのように聞こえた。
「高野さん・・・」雪乃が話しかけた。
「あ、ごめん、ポテトも僕ひとりで食べてた」
僕はポテトを雪乃の口にあてがった。雪乃は食べようとしない。
「違うんです。いま、空気が動きました・・・」
「空気が動いた?
冷房、結構強いから」
「だれか、入ってきましたか?」
「そりゃあ、マクドナルドだし、人はひっきりなしに出入りしてる・・・」
- 28 -
僕は辺りを見回した。ひとりの老人が目に入った。老人はお盆をもってテーブルに着く
と、すぐにコーヒーをすすった。異様にぎらつく目。普通の老人でないことは明らかだっ
た。
「まさか、あの老人?」
「見せてください」
僕は体を反転させ、体を老人に向けた。雪乃の目のあたりでシャツのボタンを外し、左
右に開いた。
「どう?」
「たぶん・・・」
「見えてる?」
「暗かったんで、確かじゃないんですが、雰囲気はまちがいないです」
「一か八かやってみよう」
僕は動いた。トレイを持って老人の前に立った。
老人はチキンナゲットをむしゃむしゃと咀嚼しながら僕を見上げた。
「ちょっと、いいですか?」
僕は笑みを浮かべて同じテーブルについた。
「はい、なんでございますかの?」
老人はいささかの警戒も見せずに、チキンナゲットに心を奪われている様子だった。
「まちがいないです」雪乃が明瞭な滑舌でささやいた。
老人の声を聞いて確信したのだろう。僕は老人の正面に座った。
「失礼ですが、あなたは易者さんでは?」
「さよう・・・」老人はナプキンで手を拭いた。
- 29 -
「よかった。少しお聞きしたいことがありまして」
「わしゃ、弟子はとりません」
「そうですか。それは残念です。立派なポリシーをおもちなんですね」
「わしのポリシーというよりは組合の方針ですがの。そちらは、わしのお客さんかの?」
「はい。いえ、正確には、僕の友達が・・・」
「それで、わしになにか?
言っときますが、弟子はとりませんぞ」
「わかってますよ、組合の方針ですよね」
「組合の方針?
組合じゃなくて協会じゃよ」
「二日前なんですが、ある女性に声をかけませんでしたか?」
「とんでもない、わしゃ、ナンパなんかしとらん」
老易者は、コーヒーカップをやや乱暴に置いた。
「いえいえ、ナンパじゃなくて、もちろん仕事ですよ」
「いい年こいて、そんなことするわけなかろう」
「わかってます。あなたはいい人だ。僕にはよくわかります。それで、易者さんから、歩
いてる人に声をかけるってことってあるんですかね?」
「そりゃ、たまにはあるよ。客がないときは、こっちから声をかけるさね。まあ、小遣い
稼ぎだから、商売は」
「易者さんには、その、霊力というか、すごい力があるんですか?」
「そんなもん、あるわけなかろう、わしらはただの易者じゃよ。占いじゃよ」
「僕の友達が、あなたに呼び止められて、不思議な力をもってるって言われたんです」
「わしに?」
- 30 -
「はい・・・」
老人に悪びれた様子はない。必死に思い出そうとしている。老人が忘れっぽいのは仕方
がない。
必要な情報は、お腹の雪乃がささやいて教える。
「三日前の、土曜日。九時過ぎぐらいだったということです」
「けっこうな美人なんですが、その友達」
「美人!」老人はうなった。「美人なら覚えてるはずじゃが・・・」
「好きな人と結ばれる方法はないかと聞いたんです」
「そんなことを聞く人はたまにおるよ。美人じゃから、声をかけたんじゃろうね。わし」
「易者さんは、その女性になんて言ったんですか?」
「呪文を教えたよ―」
「それです!それを教えてほしいんですよ。どんな呪文ですか?」
「それは、教えるわけにいかん」
「企業秘密ですね」
「仕入れたばかりの呪文じゃ」
「仕入れたばかり?」
僕は悪い予感がした。
「易者さん、あなたは、僕に呪文を教える義務があるんですよ」
「なぜじゃ?
どうしてじゃ?」
老易者の目が異様に光る。
- 31 -
「僕の友達、呪文を間違えたんです」
「なんと!」
そう言いながらも、老易者はタバコを取り出して火をつけた。興奮気味に深呼吸をして
煙を吐いた。
「そりゃあ、気の毒じゃった!」
老易者はしきりにうなずいた。
「それで、なにが起こった。ああ、あんたか、その娘が好きだという男は・・・」
僕は、うなずくかわりに黙って氷のとけたアイスコーヒーを飲んだ。
「見せた方がいいんじゃないかな?」僕は雪乃に相談した。
「大丈夫でしょうか?」
「この事態を見てもらわないと、呪文教えてくれないんじゃないかな?」
「どうしたんじゃ?
だれと話しとる?」
「今朝、僕が目を覚ますと、ある女性の顔がおなかに張り付いていたんです」
「ん? なんじゃと?」
僕は老易者を手招いた。老人はたばこを手に持ったまま顔を近づけた。
「その女性は、僕と同じ会社に勤めてて、僕に好意をもっていたというんです。易者のあ
なたに声をかけられて、不思議な力をもってると言われた。彼女は、好きな人がいるから、
その人と結ばれる方法を教えてください、と言った。あなたは彼女に呪文を教えました。
文字にすると呪力が失われるから覚えなさいと言われた」
「思い出した!
えらい別嬪さんじゃった!」
老易者が大声で言ったものだから、周囲の客が驚いて僕たちを見た。
「じいさん、静かに・・・」
- 32 -
「おー、すまん、つい」
「彼女は、呪文を間違えて言ってしまったんです。それで、僕のおなかに張り付いてしま
った」
「まさか・・・」老易者はにわかには信じがたいという顔をした。「呪文をまちがえたか
らいうて、そんな奇怪なことが起ころうとは信じられん」
「そうですか?」
「だってそうだろうよ、お若いの。おなかに顔が張り付くなんて、そんな恐ろしいことが
あるわけなかろうて・・・」
「そうですよね・・・」僕もうなずいた。
「そりゃあ、ばけもんだよ―」
じじいの言葉は僕たちの胸を刺した。
「それは、ちょっと言いすぎですよ」
「ああ、こりゃすまん。あんたのことだったの、その話・・・もし本当なら、見せてみれ、
あんたのおなか」
老易者はたばこの火を消した。
「見せたら教えてくれますね、呪文」
「ああ、約束しよう。もしそれが本当ならわしの責任じゃからの」
「驚かないでくださいよ」
僕はゆっくりとシャツを開いた。老人の視線を腹に感じる。老易者はなお顔を近づけた。
雪乃を老易者が見たとき、老人はヒッと小さな悲鳴を上げた。見開いた老人の目は、にわ
かに充血してきた。
雪乃はかろうじて「こんにちは」とくずれた笑みを見せた。
「呪文を、おしえてください」シャツを元に戻す。
- 33 -
老易者は大きくうなずいた。僕を見る目は、明らかに恐ろしいものを見る目だった。
老易者は呪文を僕にささやいた。
「もう一回・・・」僕は人差し指を突き立てた。
「もう二度と間違えてはいかん、驚いた、これは本物の呪文じゃった・・・。すまんがも
う一回見せてくれ」
僕はシャツを開いた。雪乃は決まり悪そうにほほ笑んだ。
「成功を・・・祈るよ」
老易者はそう言ってすばやく立ち上がった。そして老人とは思えない速さで立ち去った。
僕はしばらく頭を抱えていた。呪文を声にならないように繰り返し唱えた。
雪乃にも聞こえたようだ。
「なんとか、なりますね」雪乃が言った。
「呪文がわかった。きみにも聞こえたね?」
「四つの耳で聞いたんですから、もう間違うことはないですね」
「二つの脳で覚えたからね。もとに戻れる。まちがいないよ」
僕たちはマクドナルドを出て駅に向かった。
「うん、もとに戻れる」僕はもう一度つぶやいた。
西武池袋線に乗る。石神井公園駅に着くまで、僕はぐっすり寝込んだ。腕組みができな
いので、両手を両膝の上に載せた。まるでリングで灰になった明日のジョーみたいだと自
分で思った。
駅に着くと家路を急いだ。夜の八時を過ぎていたが、夕飯は家で作るしかなかった。
「今日は最後の晩餐としよう。外で食べるわけにはいかないからね。コンビニでお惣菜を
買ってもいいけど、せっかくの晩餐だから。うちでなにか作るよ。何か食べたいものあ
る?」
- 34 -
「何でもいいです。簡単なもので。あの、考えたんですけど、ストローで食べられるもの
だったら、高野さんを煩わすこともないと思うんです。シチューとか」
「ストローでシチュー?
熱でストローがふにゃふにゃになるよ。いいよ。食べさせてあ
げるから。おなかにご飯を食べさせるなんてそう経験できるもんじゃないよ」
「高野さんて、やっぱり、いい人ですね・・・。」雪乃が涙ぐむ。
「変わってるだけさ。こんな理不尽なこと、嫌いじゃないんだ。僕の弱点だよ」
商店街でスーパーに寄る。
「カレーでいいかい?」
「得意なんですか?」
「いや。失敗する可能性が少ないからね。自炊するときはたいていカレーを作るよ」
スーパーに入り買い物カゴを手に取る。
「肉は牛がいい?
豚がいい?」雪乃に訊く。
「カレーはバーモントですか、それともジャワ?」
「どうして?」
「わたし、牛肉だとジャワ、豚肉だとバーモントを使います」
「使い分けてるの?」
「はい」
「それ、いいね。僕も真似させてもらうよ」
「どうぞ」
「僕は生まれてこのかたバーモントしか食べたことない。たまには牛肉でジャワにするか
・・・」
- 35 -
じゃがいも、ニンジン、たまねぎ、サラダの食材を買い込んだ。レジは、ドラえもんに
出てくるのび太がそのまま大人になったような男の人だった。
合計千五百三十二円。
スーパーを出る。僕は数週間前祐未とこのスーパーに買い物に来たことを思い出した。
彼女は奇妙な味のするビーフシチューを作ってくれた。
「彼女、沢井さんのこと、大丈夫でしょうか?」
「ああ。大丈夫だと思うよ。信じきってたし。彼女けっこう単純なところがあるんだ」
「あの友達のことは嘘なんですか?」
「あれは本当だよ」
駅から徒歩十三分の我が家に着いた。
「あっ、そういえば・・・」
「どうかしましたか?」
「もう一つ嘘をついてた。映画を作ってる友達・・・彼の代表作は『猫のお化け』じゃな
くて『犬のお化け』だった。彼の、最後の作品だったよ・・・」
まだ七月初旬だというのに、部屋はサウナのごとき暑さだった。窓を開けてクーラーを
入れる。
「脱ぐよ」
「どうぞ。わたしのこと気になさらず、高野さんの好きなようになさってください。普段
どおりに」
「シャワーを浴びたいんだ」
「わたしも」
「そう?」
「とても暑かったので、すっきりしたいです」
バスルームに入るとシャワーを調整した。
- 36 -
「目をつぶっててくれる?」
「わかってます―」
洗いタオルでゴシゴシ洗いたいところだが、やはり妙に落ち着かず、軽く汗を流す程度
にした。
「もっと、かけてもらっていいですか」雪乃が目をつむる。
「大丈夫?」
「水の感触が、とても気持ちいいんです」
「おぼれないでくれよ」
体を拭くときには注意を要した。なるべくかがまないようにした。かがむと、雪乃と例
のものが衝突する。
「目をしっかりつむってますから、普通にやってください」
「そうは言ってもさ。きみに当たっちゃいそうだよ」
「それは・・・困ります」
「だろ?」
「高野さん、覚えてますか、呪文」
雪乃が突然聞いた。
「忘れるはずないだろ。きみと話しながらも、頭のなかではお経みたいにながれてるよ」
普段ならパンツとTシャツという格好だが、ジャージをはいた。
「さて、カレーを作るとしよう」
「何かお手伝いしましょうか・・・」
「手伝いといってもねえ。それじゃあ、きみ流のカレーの作り方を教えてもらおうか。僕
- 37 -
流で作れないことないけどさ」
「わかりました」
「きみも、見えたほうがいいね」
雪乃の顔は僕のTシャツに隠れていた。彼女には僕のシャツの内側しか見えない。僕は
クローゼットからTシャツを一枚取り出し、ハサミをもってソファに腰掛けた。
「どうするんですか?」
「暑いだろ。涼しくしてあげるよ」
僕は雪乃の顔の位置にあたる部分を目算して、ハサミでTシャツの腹あたりを切り抜い
た。
「Tシャツ、切ってるんですか?」
「いいんだ。これはもう古いし。あまり気に入ってなかったんだ」
僕は穴あきTシャツに着替えた。位置はぴったりだった。雪乃の顔がTシャツの穴から
顔を出した。
「涼しい!」雪乃は声を弾ませた。
「名案だろ?」
「やっぱり、いろいろ見えた方が落ち着きますね」
「部屋、あまりじろじろ見ないでくれよ。掃除してないからさ」
カレー作りを再開した。雪乃の指示で、隠し味にインスタントコーヒーを少々加えた。
火を小さくしてしばらく煮込むことにした。ベランダに出て夕陽を眺める。
雪乃の身の上について質問した。ある程度彼女のことを知っておかなければ、落ち着いて
おなかに置けるものでもない。
「秋田美人か・・・」
「はい。いえ、美人では・・・」
- 38 -
「僕は長崎なんだ」
「知ってます・・・」
「そう。ひょっとして、僕のストーカーとかしてたんじゃないよね?」
「近いですね」
「ほんとに?」
「うそ。お名前、出身地、性別、血液型、特技、それくらいです」
「どうやって調べたの?」
「すみません。会社のパソコンで。わたし、リサーチ課ですし」
「これは失敬」
「恋は盲目・・・」
「恋は盲目か・・・ほとんど死後になりつつある言葉だね。今は、恋はゲーム、もしくは
ファッションって感じじゃないかな。簡単にくっついて簡単に別れる。困難があった方が
恋愛は味わい深くなるのにね。でも、どうして僕なんか好きになったの?」
「わたし本当は商品開発部希望だったんです。中学のころから『オランチョ』が大好きで、
高校の工場見学で『大正乳業』のお菓子作りを見ました。こんな仕事もいいなって思って
『大正乳業』に就職したんです」
「入社して何年目?」
「二年目です」
「二十四歳か。六歳違いだね」
「はい。リサーチ課では消費者の意識調査や、商品の販売状況から市場傾向を割り出すん
ですが、『オランチョ』は根強い人気で、いつの世代にも好まれる人気商品なんです。し
かも市場傾向を見るとき、『オランチョ』の売れ行きがひとつの指標になっていることが
わかったんです」
「急にレクチャーが始まったみたいだけど、要するに『オランチョ』の開発者である僕に
- 39 -
興味がわいたってことだね?」
「高野さんのリサーチをしているうちに、憧れを抱いてしまいました・・・」
「僕はきみのような美女が憧れるような人間じゃないよ。僕のおなかにくっついたのも、
キミのリサーチ方法のひとつなのかもね。さて、ディナーにしよう。最後の晩餐だ」
電話が鳴る。僕は躊躇した。
「祐未かもしれない・・・」
「でしょうか?」
「僕がほんとに飲みにいってるかチェックを入れてるのかもしれない」
「ナンバーディスプレイは・・・」
「彼女のケータイじゃない」
「沢井さんではないようですね」
「わからないよ。用心して公衆電話からかけているかもしれない」
「沢井さん、高野さんを信じていると思います」
「確かに祐未は、疑い深いほうじゃない。でも人間わからないものさ。とにかく出ないで
おこう」
電話が鳴り終わる。
僕は、祐未がいつか持ってきたワインのコルクを抜いた。
「きみはお酒はいける方かい?」
「少しは」
「祐未はね、けっこういけるんだ」
「そうですか・・・」
- 40 -
「僕より強いな。この前飲みにいったときなんかね、彼女に介抱されちゃったよ」
二人分のカレーをテーブルに置いた。レタスとキュウリとシーチキンのサラダは一皿。
「一応乾杯しよう。奇妙な巡り合わせを祝って」
僕は二つのワイングラスを合わせ、左手で自分に、右手で雪乃の口に運んだ。
「本当にすみません、今日は。突然こんなことになってしまって・・・」
「いいさ。奇妙なことなんて、長い人生の中では二三回はあるよ。さあ、食べよう」
ふたりは食事をした。僕は、自分の食事と兼ね合わせて雪乃の口に食べ物を運んだ。サ
ラダには苦労した。フォークで彼女の唇を刺しそうになった。
「おいしいですね」
「うん」
「それに、高野さん食べさせるのが上手」
「もう慣れたよ。わりと器用なんだ。おなかだしね。もし張り付いたのが背中だったら大
変だった」
雪乃が笑う。僕は、彼女が笑うのを初めて見たような気がした。
「きみも落ち着いてきたね」
「高野さんでよかった、とつくづく思います。これが他の人だったら、気が狂って、自殺
しているでしょう。そうなったら、わたしも死んでしまいます」
「僕だって、この状況は異常だと思うし、気が狂いそうだよ。もしきみがこんなふうでな
かったら・・・たとえば、いつも睨んで、命令ばかりする女の子だったらさ、きっと気が
狂ったと思うよ。きみが美人で、いい子で、謙虚な態度をとっているから普通の精神状態
でいられるんじゃないかな」
「ごちそうさまでした。手を合わせることができません」
「それ、きみ流のジョークかい?」
「ワインで、少し酔いました」
- 41 -
「最後の晩餐、終わり。片付けるよ」
残ったサラダはラップをして冷蔵庫に入れた。明日の朝、一人で食べるとしよう。
ソファに座ってアメリカアニメの『シンプソンズ』を見た。雪乃も大好きだということら
しい。僕は『ホーマー』の物真似をしてみせた。そして、バーボンをしこたま飲んだ。
「飲みすぎじゃないですか?」雪乃が言う。
「僕は今友達と飲みに行ってるんだ。銀座にさ。多分十一時まで飲んでる。そして十一時
四十分に帰ってきて、歯磨きをしているところへ祐未から電話がくる段取りなんだよ」
「では、ここは銀座なんですね」
「そう。銀座の高級クラブさ。テレビのある」
「次は何を見ましょうか」
「きみももっと飲んでよ。こんな異常なことってそうはないからさ。明日、会社できみと
会ったらなんて言おうか」
「お世話になりました。わたしは、そう言います」
「あは、みてよ。あれ」
ふたりはテレビを見て笑った。変な話だが、おなかに張り付いた女の子と一緒に笑うの
は快いものだった。『腹を抱えて笑う』というけれど、腹そのものが笑うのだから。腹か
ら笑い声が聞こえるのはすがすがしいものがあった。また、雪乃もいい笑い声をしていた。
彼女がおばさんになったら、お笑い番組のさくらになれるかもしれない。
「それにしてもふざけてるよ」
「なんですか?」
「今日の会議さ。『うんチョコ』なんて・・・きみがおなかにいるのも忘れて反論しちゃ
ったけどね」
「楽しいですね」
「なにが?」
- 42 -
「新しいお菓子を考えるって」
「時々ばからしくなるよ」
「どうしてですか?」
「たかがお菓子だよ」
「でも・・・」
「なんていうんだろう・・・『オランチョ』がヒットして、今でもまあまあ売れてるから、
燃え尽き症候群みたいになったのかな・・・」
「『オランチョ』はまちがいなく『大正乳業』を支えてるヒット商品です。その開発者の
高野さんがまだ平社員なんて信じられません!」
「森下くん、日本は学歴社会なんだよ」
ケータイが鳴る。
「今度はまちがいなく祐未だ」
ケータイの受信ボタンを押す。
「もしもし、サトシ?」
「いかにも」
「酔ってるわね。どうだった?」
「どうだったって」
「変なとこ行ってないでしょうね」
「行ってないよ」
「男同士だと、変なとこ行くから」
「変なとこ?
祐未、ああいうところは決して変なところじゃないよ。きみ
- 43 -
も行ってみればわかる」
「興味ないわ。それより、明日、いいでしょ。そっち行くわ」
「明日?」
「また誰かと飲む約束でもするつもり?」
「・・・もちろん大丈夫だよ。三日連続はきつい。きみと飲むのもきついけど」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
「疲れてる?」
「まあね。もう寝るよ」
「うん。また明日」
「今日はすまなかったよ」
「いいわ。明日の晩、一緒にいられるし」
「また、きみのまずい料理を食わせてくれよ」
「ええ。覚悟しといて」
「はは。じゃあ、切るよ」
「ゆっくり休んで。明日の夜のために・・・あっはん、じゃあね」
ケータイを切るとテーブルに置いた。
「あっはん、か・・・やれやれ」
洗面台で歯を磨く。雪乃の歯を磨くのには苦労した。
「いたい」「ごめん」「いたい」「すまん」
- 44 -
この繰り返しだった。雪乃の歯茎はきっと腫れてしまったに違いない。口をすすぐと血
が出ていた。
寝室に入りベッドに腰掛ける。呪文の時間だ。部屋の灯りを消す。しばらく沈黙。特に
意味はないがエアコンを消した。
雪乃は呪文を唱えた。老易者が言った呪文と違うところはなかった。僕と雪乃は、おそ
らく以心伝心でその呪文を確認しあった。雪乃の呪文は、自分と結ばれるようにという願
いだが、ここは目をつむるしかない。とにかくこの異常事態を抜け出すことが先決だ。
「合ってましたか?
呪文・・・」雪乃が上目遣いで訊く。
「大丈夫だよ」雪野の顔をのぞき込んで僕はうなずいた。
これだけの呪文で、こんな事態になったのが信じられなかった。
ベッドに入る。僕は毛布をかけず、ただ横になっていた。毛布に穴を開けるわけにはい
かない。
「大丈夫だよ。僕は寝冷えに強い性格なんだ・・・」
「性格?
体質の方が適切だと思いますが・・・冗句ですね。でも、いろいろありがとう
ございました」
「いいよ。おもしろかったよ」
「わたしも・・・いい思い出ができました。憧れの人と一緒に、たった一日でも生活でき
て」
「夢のような一日だった?」
「はい。こんなことって、有り得ませんね」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「そして、さようなら。会社で会おう。たまには飲みにも行こうか」
「そうですね・・・。こうして高野さんと知り合えてラッキーでした。ひとまず、さよう
- 45 -
なら」
灯りを消した。僕は大きく息を吸い、眠る体勢に入った。雪乃の存在が気になりすぐに
は寝付けなかったが、雪乃の寝息が聞こえると安心して眠る気になった。
夜中の一時過ぎに雪乃のいびきで目を覚ました。「まだいるのか」と思いながらも、眠
らなければ雪乃は消えないと考え必死に眠った。
- 46 -
4
水曜日の朝だ。目が覚めた。おなかをゆっくりさすってみる。凹凸はない。目で確かめ
る。彼女、雪乃の顔は消えた。
ベッドから飛び起きるとテレビをつけ、洗面台に向かった。鏡にも雪乃の顔は映ってい
ない。腹を幾度となくさする。少したるんだ肉が、手に吸い付いた。いつもと変わりのな
い腹だ。
僕は頭を横に振った。雪乃のことが夢のように思えた。
キッチンにはカレーのかすかな匂いが漂っている。僕は鍋の蓋を取って、中を覗いてみ
た。カレーは確かにある。流しには汚れたカレー皿が二つ。空になったワインボトルを指
ではじくと、乾いた音が響いた。
雪乃はやはりいたのだ。
僕は気を取り直して着替える。朝食をとる気にはなれない。
会社に入る前に僕は躊躇した。雪乃はどんな顔をして自分を見るのだろう。ビル前のベ
ンチに座りしばらく考えた。
「おはようって会釈すればいい。でも、それだけじゃ素っ気ないか。冷たい人間と思うか
もしれない・・・少し話した方がいいか。こんなとき、ブルース・ウイルスだったらどう
するだろう・・・」
僕は、軽く会釈をすることにした。それが自然のように思えた。機会があったら、二人
で話すこともあるだろう。そのときに、この奇妙な出来事を振り返って話し合えばいい。
それで気持ちは落ち着くだろう。
会社のエントランスに立つ。普通の人間になった雪乃はどんな女性なのだろう。そんな興
味もわいて、少し戸惑った。しかしそもそも雪乃はいるのだろうか。実在する人間なのだ
ろうか。
「高野、何してんの?」同僚の浅野だ。
「いや、なんでも」
彼と会社に入ることにした。彼の影に多少隠れながら一階のフロアーに入る。エレベー
ター前で僕を待ち伏せていた彼女。しかし、エレベーター周辺に森下雪乃の姿は見えない。
- 47 -
「ハーイ」祐未が僕の肩をたたいた。
「やあ、おはよう」
「気分はどう?」
「悪くないよ」
エレベーターに祐未と乗る。
「二連チャンはきつかったんじゃない?」
「昨日は十一時には帰ったよ。さすがに疲れたから」
「今日、いいの?」
「いいよ」
「明日にしようか?」
「大丈夫だよ」
体調は良好ではなかったが、今夜はだれかに傍にいてほしかった。自分のデスクに着く
なり時任が寄ってきた。
「高野、そろそろ行ったほうがいいよ」
「企画会議か・・・」僕はため息をついた。
「なんだ、最近燃えてないな」時任が僕に資料を手渡した。
「あのさ、時任」僕は時任の耳元でささやいた。「営業リサーチ課の森下って、聞いたこ
とある?」
時任はにやりと笑った。
「社内一の美人社員をモノにしたお前がなんだよ。もう浮気か?」
「違うって」
- 48 -
「まあ、気持ちはわかるよ。男なら気になるよな」
「そんなに評判なのか?」
「お前マジで知らないの?
いくら沢井とべったりだからって。男ができた沢井祐未を抜
いて今じゃトップだよ」
「そんなに美人なのか・・・」
ドアが開いて祐未が入ってきた。「会議よ―」
「社内二位が寿退職を今か今かと待ってるぜ」
時任が僕に耳打ちして出ていく。
今日は新作スナックについてある程度結論を出す。企画立案者と、課長と部長、そして専
務を交えての企画会議だ。僕のスナックはもうどうでもよかった。ボツになってもかまわ
ない。ただ係長のスナックだけは賛成しがたいものがあった。
他の者がそれほど反対しないことにも違和感をもった。異常事態は嫌いな方ではないが、
うんちの形をしたスナックがこの世の中に出回ってもいいのだろうか。
「ベビーチョコのコンセプト、スタンスはなんだね、高野くん」
米田部長が眼鏡の奥から問う。
「ひとことで言えばライトテイスト、つまり『軽さ』をモチーフとしたスナックというこ
とが言えます。この系列のスナックでは麦チョコがその代表格ですが、それに匹敵する、
いやそれ以上のライト感覚のあるスナックを目指しました」
「アピールポイントは?」熊沢専務が無意味に微笑みながら問う。
「通常のベビースターラーメンよりも螺旋を強くしました。スプリング状に近くなります。
このねらいは、口の中でスプリングが噛み砕かれる、このとき起こる快い食感を生むこと
です」
「なるほど」人の良い和田課長がしきりにうなずく。
「すると、ハコになるね。フクロじゃつぶれてしまう」
- 49 -
「螺旋と螺旋が絡まりあって取りづらいってことはないかね」
「それはありうる。そのへんはどうかね、高野くん」
「フクロ系ですと、手でつまんで食べる、手のひらにのせて食べる、袋から直接食べる、
この三つが可能です。ハコは手でつまんで食べることしかできません。どちらにするかは、
試作品の強度をみて検討すればいいと考えています。絡まって食べづらいという意見がご
ざいましたが、数珠つなぎになったものを食べることによって、消費者の遊び心を誘発す
ると考えています」
「あ、おれの三個つながってた、とかね」時任がベビーチョコをぶら下げる手振りをする。
「それならいっそ『数珠チョコ』なんてどうだろう、ネーミング」
「いや、スプリング状で噛み応えがあるなら『スプリング・ハズ・噛む』春限定!」
みなが笑う。
「悪くないないがね・・・」米田部長が身を乗り出した。「わたしが問うたコンセプトと
いうのは、社会的コンセプト、状況的コンセプト、というものだよ。今なぜこの商品を世
に送り出すのか、そういう意味でのきみのビジョンはなにか、ということだ」
「はい、ですから、ライト感覚。しいて言えば、『世の中の軽さ』です」と僕は言い放っ
た。
「確かに現在は流れやすく、軽い世の中だ。そういう社会に対してきみはライト感覚、軽
さで打って出ようというのかね?」
「まずいでしょうか」僕は極力声を荒げないように言った。
「まずいってことは、ないがね。わたしはもう少しインパクトがほしいんだよ。軽い世の
中だからこそ、それに反発するハードなものが、新たな何かを生み出す。そこをわたしは
言っているんだ。開発部にそんなパワーをもってもらわんことには、わが社の将来は危な
い。時代の後を追うような商品ではねえ」
「まあ、米田部長。そのくらいにしなさい」熊沢専務が制した。「時代を先取りする商品
も、時代を守る商品も、どちらの開発も大切なのだよ。高野くんはコンセプトよりも、味
そのものを追及するタイプだよ。わたしはそうみてる。まあ、米田くんも発破をかけとる
のかもしらんがね。いろんな個性があってよいし、役割分担ということもある。兼田係長
- 50 -
の提案は変わった商品だと聞いておるから、米田くんの今の意見にマッチするんじゃない
かね。とりあえず、高野くんの企画は商品化の方向で進めてくれたまえ。よろしいかな、
米田部長」
「仰せのとおりに」米田部長は起立して頭を下げた。
休息中、僕はトイレに行き、大便をした。意味もなくおなかをなで回す。昨日サンドウィ
ッチを食べさせた雪乃のことを考えた。
(彼女は出社しているのだろうか。なんとか確かめよう。もし休んでるとしたら心配だ・
・・)
雪乃と話をしたかった。昨日の出来事を確認したいという気持ちがあった。雪乃と話を
することで、あの異常な出来事が事実であることを確認し、自分なりに気持ちを整理した
かった。
トイレの鏡におなかを出して映してみた。
「ここに森下雪乃がいたんだもんなあ。社内でも評判の美人が」
そうつぶやいて腹に手を当てる。僕は、少し残念な気もした。社内で評判の美女が腹に
とりつく経験なんてそうできるものでもない。
「どうしたの。腹なんか出して」
時任が入ってきた。
「いや、ちょっとね。少し、おなか出てきたかなーって・・・」
「中年みたいなこと言うなよ」
「三十過ぎれば立派な中年だろ」
「そうそう、森下雪乃は昨日から休んでるって」そう言って時任は大きなあくびをした。
「どうしてそれを?」
「社でも有名な娘だから、こういった情報は早いぜ」
「そうか、今日も休みか・・・」
- 51 -
「おいおい高野、やけに森下のこと気にしてるじゃない。社内二位とそろそろ結婚ってと
きに、まずいんじゃない?」
「そんなんじゃないさ。ちょっとな。あのさ、社内二位はもうやめろよ」
「もうおれたち中年だぞ。分別ある大人の行動しなきゃ」
時任は妊婦のようなおなかをなでた。もし森下雪乃が時任のおなかに張り付いたとした
ら、さぞ窮屈な思いをしたことだろう。
兼田係長が新商品について説明した。当然ボツになるだろうという僕の予想に反して、
『うんチョコ』はとりあえず商品化することになった。米田部長が後押ししたことは言う
までもない。
熊沢専務は難色を示したが、時代を先取りする商品も必要だと述べた手前、試作品の段
階で結論を出すことで同意した。どのような商品になるのか、一同の異様な興味をひいた
ことも確かだ。
祐未と退社した。風はあるが涼しくはなかった。ビルに反射して踊っている太陽光線が
眩しい。
地下鉄の階段を下ると、生温かい人いきれが立ち上ってくる。
「外食しないか」
駅に向かう道すがら祐未に提案した。
「二日も外だったから、家でゆっくりしたいでしょ。それに、ほら」
祐未はアイフォンの画面を僕に見せる。電車に乗るとすぐドアは閉じた。
「フェットチーネ、サンドライトトマト、オイルサーディン。なにこれ?」
「『サンドライトトマトとオイルサーディンのパスタ』のレシピ。作ってみようと思って」
「また人体実験か・・・」
「失敗したときの強い味方、宅配ピザがあるわ」
「そっちの方がいいかもしれない」
- 52 -
祐未が笑いながらどつく。
近所のスーパーに入る。カートを押しながら雪乃を思い出した。彼女は僕にジャワカレ
ーという未知の世界を教えたくれた・・・お菓子コーナーで自分が生み出した『オランチ
ョ』の売れ行き具合をチェックする。
大人の目線よりも低く、子どもの目線からわずかに上の高さの棚に置いてある。僕は、
まずまずだなとつぶやいて、『オランチョ』を数箱きちんと整えた。
「これ、持って」祐未がカゴを渡す。「重くなってきちゃった」
「ずいぶん買い込んだね。払うのはやっぱり僕だろ?」
「だってあなたのために作るんだもの。男はけちけちしないの」
「それ、男女差別だよ。女もけちけちしちゃいけない」
祐未はお菓子も買い込んだ。
「それも僕が食うのかい?」
「研究のためよ」
「そんなもの、会社で研究してるだろ?
わざわざ自腹を切らなくても・・・」
「あなた、自分で買って研究したりしないの?」
「しないよ」
「だからよ」
「なにが?」
「いまいち、あなたお菓子に愛情がないわね」
「どういうこと?」
「会社で研究のためにお菓子を食べるのと、自分の家で食べるのとは違うわ」
- 53 -
「わかったよ。もういいよ。君の『未来のお菓子に関する論文』はこの前読ませてもらっ
たし。レジ、行こう」
レジは、サザエさんに出てくる波平さんを女にしたような人だった。
「でも、ひとつだけ反論するよ。お菓子の開発で大事なのは客観的な目を持つことだよ。
お菓子だけの世界に埋没してしまうとよくない。ヒントは意外なところにあるからさ。お
菓子への愛情が返って仇になることがある」
「『オランチョ』の生みの親、高野教授のレクチャーはぜひ拝聴したいところだけど、ワ
イン、まだあったわよね」
「ワイン?
確か、飲んだと思う」
「ひどい。あれ、高かったのに。一人で?」
「当たり前だろ?
僕が愛人を作ってるとでも?」
「愛人だなんて、私たち、まだ夫婦じゃないわ。友達、家まで来たの?」
「いや。いつだったか忘れたけど、とにかく、飲んでしまったよ。たぶん、もう小便に変
わって排出してしまったと思う。今ごろはもう東京湾かもしれない」
「私が排出する分を買って。あれ、高かったのよ」
「高いって何度もいうなよ。いくらしたの?」
「二万円」
僕は大袈裟にずっこけてみせた。
「きみを花嫁候補から削除するよ」
「どうして?」
「そんな浪費をする女性は困る。二万もするワインなんて」
「単純ね、あなたも。奥さんになったらなったでそれなりに考えるわよ。記念日だったか
ら奮発したんじゃない」
- 54 -
「何の記念日だったっけ?」
「『初めての夜』記念日よ。酔っぱらうとダメになるからって結局飲まなかったの」
「わかった。酒屋寄ろう」
「花嫁候補にしてくれる?」
「きみさえよければ」
「あなたさえよければね」
祐未は僕の腕を取った。そして鼻歌を口ずさむ。幸せそうな彼女を見て、結婚を考えた。
祐未と結婚してもいい。彼女は綺麗だし、性格もかわいい。僕にはもったいない女性だ
ろう。
そう思いはしたものの、一方で雪乃のことが思い出された。彼女も社内で評判の女の子
だ。その子がおなかに現れるくらい最近僕はもてている。
「部屋、きれいにしてる?」
「いや、きみのために汚くしてあるよ」
「わたしは掃除屋じゃないのよ」
「きみのダイエットのためさ。最近、つまみがいがあるよ、きみのおなか」
「あなただって」
祐未が僕のおなかをつまむ。雪乃がいなくてよかった。
家に着き、ドアを開けたとたん僕は冷汗が流れるのを感じた。
「いい匂いがするわ」
靴を脱ぐなり祐未は鼻を利かせる。キッチンに行き、祐未は鍋の蓋を取った。
「カレーじゃない。どうしたの、これ」
- 55 -
「それ?
もちろん、僕が作ったよ」
「いつ?」
「三日前」
「これ、三日前のカレーなの?」
「冷蔵庫に入れてたから大丈夫だよ」
「昨日食べたわけ」
「酔っぱらって帰ってきて、おなかがすいたんで食べたんだ」
祐未はひしゃくでカレーをかき回す。
「信じられない・・・」
「なにが?」
「具がまだ新しいわ。昨日作ったでしょ。今日が食べごろって感じ・・・」
僕は窓を開け、クーラーを入れた。
「だから、冷蔵庫に入れてたんだって。具が新しい?
よくそんなことわかるね」
「おいしそう・・・。ねえ、今日はこれ食べようか」
「僕は昨日食べたんだ。きみの料理を食べさせてよ。なんだったっけ。
『サンドバッグトマトとオイルアラジンのパスタ』?」
「サラダもあるわ」
「どんなの?」
「焼きカマンベールとキャラメルソースのごちそうサラダ」
「よくわからん。どんな料理が想像つかないよ」
「掃除するわ。あなた、シャワーでも浴びたら」
- 56 -
「ぬるま湯につかっとくよ。のんびり。料理の手伝いをさせられそうだから」
僕はテレビ番組表の雑誌と缶ビールをバスに持ちこみ、湯船に入った。シャワーを浴び
ながらお湯を溜める。
おなかまで水位がきたとき、雪乃がおなかにいたら風呂には入れないところだったと考
えた。
「彼女、どうしてるだろう・・・」
小さな声でつぶやいた。明日、雪乃が出社しなかったら・・・と不安になった。まさか死
んでいたとしたら。腹にとりつくという異常現象からしてみると、あり得ないことではな
い。僕は身震いをしてぬるま湯を頭にかけた。
「いや、だいじょうぶ。彼女のあの様子。会社で会おうって言ったんだ」
僕は半分残っていた缶ビールを一気飲みし、空き缶を湯船に浮かべて一人戯れた。
「まだ、そこにいるつもり?」
バスの扉を開けて祐未が声をかける。
「いい気分だよ」僕は空になった缶ビールを渡す。「料理はどうだい?」
「中学の時の調理実習を思い出すわ。それよりあなた、長くない?
もう五十分も入って
るわ」
「そんなに?」
「いつもは、烏の行水なのに。どうしたの?」
「僕はけっこう長く風呂に入るほうだよ。きみがいるときはそうじゃないかもしれないけ
ど」
「そうだったの。つまり、わたしがいてもいつもの長風呂ができるくらい、わたしになれ
っこになったってわけね」
「不愉快かい?」
「うれしくもあり、悲しくもあるわ。でも、自然の摂理ね」
- 57 -
「これからいっぱい、僕たちは自然の摂理を経験するだろうな」
「パンツ、持ってきてほしい?」
「それは、結婚してからにしてもらおうかな。いいよ、自分でするから。きみは料理に集
中してくれよ。ピザを頼まなくても済むように」
「おいしくなくても、なんとか食べられるわ。贅沢言わないで。飽食の時代なんだから、
少しは謙虚になりましょ」
「わかったよ。たとえ豚のえさでも、きみが作ったものなら僕は食べる」
「いい心がけね。それより早く上がって。聞きたいことがあるの」
「なに?」
祐未は一旦消えてから、右手にシャツをもって戻ってきた。
「これ、なに?」
僕にはそれがどんなTシャツかもうわかっていた。二度目の失敗だ。
「Tシャツだろ」
「そう。でも、この穴はなんなの?」
祐未は穴を広げて見せ、穴から手を出しては、その奇妙さを確かめていた。
「おなかのあたりに穴なんか開けて。ハサミで?」
「たぶんね」
「何のために?」
「わからないよ、酔っ払ってたからね。涼しくしようとしたのかも」
「あなた、大丈夫?
少し変じゃない?」
「多かれ少なかれ、人間には変なところがあるさ」
- 58 -
「そうだけど、変なところが多すぎるわ。予想はしてたけど。あなたが変わり者ってこと
は」
「よかった。理解してくれてるね。そのシャツは、僕なりのファッションだよ。もう上が
るよ」
「わかったから、これ着てみせてね」
僕は穴あきTシャツを着ることになった。
居間に行くと丸テーブルの上に祐未の力作が並んでいる。
「見た目はいいね。これはなに?」
「『ごぼう・レンコン・セロリのスープ』。ワイン、抜いて」
「見たいテレビがあるんだけど」
「録画でもすれば?
食事のときはテレビは消して」
「この前は映画を見たけど・・・」
「音楽・・・クラシックかジャズがいいわ。それ、ほんとに着たの?」
祐未は呆れ顔で僕のおなかを見た。穴あきシャツからおへそが覗いている。
「きみが着ろって言ったんだろ?」
「冗談に決まってるじゃない」
ふたりは食事を始めた。祐未の料理はまあまあだった。
「この、なんだっけ、名前。おいしいよ」
「『サンドライトトマトとオイルサーディンのパスタ』よ」
「ワインに合うよ」
「わたしが買った、二万円のワイン、おいしかった?」
- 59 -
「イヤミ言うなよ。金持ちになったらいくらでも買ってあげるから」
「一人で飲むなんて、信じられない」
「いいかげんに忘れたら?
食事がまずくなる・・・」
祐未のグラスにワインを注ぐ。
「二千円のワインで我慢してよ。大体、高いからおいしいとは限らない」
「サラダ、全部食べて」
「このサラダ、僕を嫌ってるような気がするんだ」
「レタスとツナのサラダがいいわけ?
作ったの?
持ってこようか。冷蔵庫にあったわ。あれはいつ
まさか三日前じゃないわよね」
サラダのことはすっかり忘れていた。昨日雪乃と一緒に全部食べておくべきだった。
「あれ?
あれは今朝だよ」
「朝ご飯、自分で作ってるの?
いつから?」
「今日から」
「どういう心境の変化?」
「駅前の立ち食いそばに飽きたのさ。ふと思ったんだ。僕の朝飯はこれでいいのかと」
「ふざけないで」
「いや、ほんとだよ。いいかい?
きみは知らないと思うけど、僕はこの三年間、駅前の
あの天麩羅うどんを食べ続けてきたんだ。これは異常だと思わないか。あの、汁の濃いう
どんをさ」
「あなた、異常なんでしょ。だから、あなたにとってはそれほど異常なことじゃないのか
も」
- 60 -
「いや、正直に言って、気づいてしまったというべきだろうな。三年間同じ朝食を食べ続
けたこの驚異に。もちろん、天麩羅うどんだけでなく、きつねうどんも食べたけど」
「食パンがないようだけど・・・サラダの他になにを食べたの?」
「ご飯を炊いたよ」
「そうだ!
カレー、食べていい?
ご飯、余ってたわね」
「まだ食べる気?」
「あなただって昨日、お昼食べてからサンドウィッチ食べてたじゃない」
「別に張り合うことないだろうに。僕たち、肥満カップルをめざしてるのかい?」
「そう。太ってから体を鍛えてマッチョになるのよ。おいしそうだったから少し食べてみ
るだけよ」
確かに、カレーは一日おいたほうがおいしくなる。
「僕にもくれよ。マッチョカップル計画に賛成するからさ」
祐未は小皿にミニカレーを盛ってきた。
「あら。おいしい」
「だろ?」
「あなたが前作ったのと味が違うわね」
「前はポークカレーだったろ?
これビーフカレー」
「なんだかおかしいわ・・・」
「なにが?」
祐未は皿を置いて部屋を見回す。
「どうしたの?」僕は祐未の目線を追った。
- 61 -
「考えてるの・・・」
「なにを」
「あなた、昨日から様子が少しおかしかったわ」
「そうだね。二日連チャンで飲んでさ。くたくただったよ」
「そうじゃなくて、なにか隠してる」
「隠してないよ」
「このカレーの味。あなたが作ったんじゃないわ」
「僕が作ったよ。それは事実さ」
「女の感よ。あなた、他に女の人、いるの?」
「いないよ、そんなの」
「別にいてもいいのよ。ただ、隠し事してほしくないの」
「僕はきみだけだよ。カレーの味が前と違うだけできみは僕を疑うのか?」
「カレーだけじゃないわ。昨日の飲んだのも女じゃないの?わかった。あなた、この部屋
でその女と飲んだのね。わたしのワインを。サラダだって今朝じゃなくて昨日作ったんで
しょ。これで辻褄が合う」
「いいかげんにしろよ!」
僕は怒鳴った。祐未の顔がこわばる。互いの瞳がこれまでと違う温度で見詰め合った。
僕は視線を外し、ワインを飲みほした。
そしてCDを変え、アメリカン・ポップスベスト曲集をかけた。
『スタンド・バイ・ミー』が流れる。少しボリュームを上げた。
祐未はカーテンをつまみ外を見ている。
「僕は時代おくれの男なんだ。一人の女を一途に思う、今時では珍しい男なんだよ」
- 62 -
「わかってるわ」振り返った祐未は瞳を潤ませている。
「きみと付き合ってるのに他の女を部屋に呼ぶようなことはしない」
「マジに怒らないでよ」
「風俗に行くことはあるかもしれないけど」
「それはダメ」
「とにかく、不誠実なことはしてないつもりだよ」
「あなたはちょっと変わってる人。どこか違ってる。わたし、そこが好きなの」
「きみが嫌いになったらはっきり言う。その後で好きになった人と付き合う。二股かける
ようなことはしないよ」
祐未が笑みを浮かべる。彼女の好きな『スタンド・バイ・ミー』を流したことが功を奏
した。僕は祐未に近寄り、カーテンをつまんでいる手を握る。そして唇を指で撫でた。
「きみは、僕にはもったいないと思ってる。きみは綺麗だし、かわいい」
「もっと言って。うれしいから」
「肌はきれいだし、胸は大きいし、髪もしなやか。スタイル抜群・・・」
すばやく短いキスをする。僕は乳房をもみほぐした。祐未は少女のような吐息をもらす。
「ねえ。お風呂、入ってくる。昨日、シャワー浴びただけなの」
「いいよ。そのままで」
「お風呂上りの方がね、お肌もきれいよ」
「わかったよ。早くしてくれよ。あんまり遅いと寝ちゃうよ」
祐未はバスに入った。シャワーの音が響く。僕は、ベッドで目を閉じて大の字になる。
クーラーがききすぎているが、止める気にならない。
- 63 -
便意を感じ、トイレに行く。兼田係長の『うんチョコ』を思い出しながら、消化されな
かった落ちこぼれどもを便器に落とす。
そのとき腹痛を感じた。僕は腹を抑えてこらえる。その痛みは耐え難いものだった。爆
竹が一束おなかで弾けたような感覚がある。
思わず声を出してうめいた。痛みが治まり、ゆっくりおなかを撫でていると、俄かにな
にかが隆起してくる。
僕は手を離し、おなかの変容を見つめる。まさか・・・不安が胸をよぎる。目の前が一
瞬かすんだかと思うと、あの顔が再び現れた。
「こんばんは・・・」
「こんばんは、って、き、きみは、森下・・・さん!」
「すみません、また突然」
「どうしたの?」
「わかりません。気がついたら、ここに・・・」
「今までどうしてたの?」
「寝てました。あれから、目が覚めて、元に戻ったのはよかったのですが、気分が悪くて、
会社休んだんです」
「気になってたんだ」
「とてもだるくて、眠たくて・・・一日中寝ていました。そして眼を覚ますと・・・」
「ここにいるわけ?」
「はい・・・すみません。わたしも、今朝はよかったと思ったのですが。元に戻って」
祐未が風呂から出る。
「祐未が来てるんだ」
「沢井さんが?
そうですか・・・」
- 64 -
「まずいなあ」
「ごめんなさい、すぐ消えたいんですが」
「呪文が効かなかったか・・・」
「サトシ、サトシ?」祐未の声がする。
「トイレ!
きみが作ったごちそう、消化がいいよ」
「早くきてー」
「どうしましょう・・・」雪乃がつぶやく。
「頭が変になりそうだ。少し考えさせて・・・」
考えてみたところで、良い方法など永久に見つからないだろうことは僕にもわかってい
た。とにかくこの場をどうにかしなくてはならない。
雪乃がおなかにいることを祐未に知られてはまずい。彼女はこの理不尽を受け入れなれ
ないだろう。もし祐未が発狂でもしたら・・・。
「長いのね、大丈夫?」
祐未がトイレのドアをノックする。
「出るよ。もうすぐ」
祐未の足音が遠ざかってから雪乃に声をかける。
「とりあえず、きみは静かにしててよ」
「わかってます」
「絶対に声を出してはいけないよ」
「はい」
- 65 -
僕は穴あきTシャツを反転させ、雪乃を隠した。祐未はバスタオルを巻いてソファに座
っている。脚を組み、乾ききっていない長い髪をかき上げた。
「ねえ、ベッドまで抱いてって。どうしたの?
変な顔して」
「きみに見とれてるのさ」
「なんだかんだいって、久しぶりよね。わたしも興奮してきちゃった。ねえ、早く」
「アイタタ・・・」僕は腹を軽く抑えてうずくまった。
「どうしたの?」
「腹が・・・痛い」
「大丈夫?」祐未が歩み寄る。バスタオルが半ば落ちて、祐未の胸があらわになった。
「見
せて・・・」
「いいよ。おなかを見たってよくなるもんでもない。アイタタタ・・・」
「とにかく寝て。便はどうだったの?」
祐未に抱きかかえられ、僕はベッドに横になった。
「洪水だったよ。腸まで流れたかと思ったよ」
「冗談言えるから大したことないわね」
「イタタタ」僕は大袈裟に転げ回った。
「ねえ、どこが痛いの?」
「どこって、おなかだよ」
「そこ、おなかなの?」
「えっ?」
僕は股間に手を当てていた。祐未の久しぶりの半裸がその犯人だった。
- 66 -
僕は祐未が持ってきてくれた顆粒状の胃薬を飲んだ。本当に腹痛が起こりそうだった。
いや、この状況ではそうなった方がいいかもしれない。いくら鈍い祐未でも、僕の下手な
芝居を見破るのは時間の問題だ。
「今夜は無理みたいね・・・」
「ごめん、久しぶりだったのに」
「介抱してあげるわ。一晩中」
「一晩中?」
「そのうち治るかもしれないし」
「たぶん、治らないよ」
「そう?」
「前にもこんなことがあった。痛くて眠れなかったよ」
「いつ?
一度診てもらったほうがいいわ。悪い病気かも」
「脅かすなよ」
「心配してるのよ」
「とにかく、一晩寝れば大丈夫だよ。一人にしてほしいんだ」
「帰ったほうがいい?」
「すまない・・・。こういうときは一人のほうがいいんだ。わかるだろ?」
「傍にいたいのよ」
「ありがとう。気持ちはうれしいけど・・・」
「わかったわ!」語気を強め、祐未は無表情になった。リビングに行き服を着始める。
「あ
なたって、まだわたしに気を許してないのね」
「そうじゃない!」
- 67 -
「わかったのよ―」
「なにが?」
「あなたの本当の気持ちが・・・」
帰り支度をする祐未に、僕はベッドルームから呼びかけた。
「僕はきみを愛してるよ」
「口ではなんとでもいえるのよ」
「ちょっとこっちに来てくれないか」
「なによ」柱に手をおいて、祐未は眉間を寄せる。
「きみを愛してる。それだけは信じてくれよ」
「まさかのときに、人間って本当の姿を現すものよ。あなたが病気なのに、わたしはほっ
とけないの。そのわたしをあなたは邪険にしてる」
「そんなことはない」
「わかるのよ。どうもあなたの行動、おかしいわ」
「またふりだしか?」
「もういいわ。とにかく帰る。あなたが帰ってほしいなら―」
僕には、雪乃のことを隠しとおす自信はなかった。いかなるハプニングで祐未と雪乃が
ご対面するかわからない。
ドアの閉まる音が重く聞こえた。僕は暗闇の中で深いため息をついた。
「すみません、こんなことになって」
「悪いけど、黙っててくれる?」
「怒って・・・ますね」
- 68 -
「少なくとも、笑えやしないよ」
「わたしの罪は、きっといつか償います。許してください」
僕はバーボンのボトルを取って、ラッパ飲みした。続けざまに飲むと、喉の奥に走る痛
みをこらえた。
「正直言って、きみがおなかに現れた昨日は、おもしろいと思った。この異常事態をね。
今朝は、きみが消えたことにホッとする反面、心のどこかで、またきみが現れやしないか、
期待しているところもあったよ」
「本当ですか?」
「ああ。人間て、おかしなものだね。いや、僕がやはり変わってるんだろう」
バーボンのボトルを抱いて夜更けの窓に立つ。
「きみが再び現れて、少しうれしかったのも事実だよ。でも、僕は悪い予感がしてきたよ」
「わたしも、どうしたらいいか、わからないんです」
「祐未を―傷つけてしまった・・・」
「いつかきっと、沢井さんに、わたしから説明します。そして、謝ります」
「そうしてくれると助かるよ。祐未が信じるかどうかわからないけどね。しかしどうして
よりによって腹が痛いなんて言ったんだろ。確かにキミが現れるときおなかに激痛がした
けどさ、祐未の視線をおなかに感じて気が気じゃなかったよ」
「あの、飲みすぎでは・・・」
僕は続けざまにバーボンを飲んだ。
「頭痛にするとかさ、もう少し機転がきかないかな・・・酔っ払わないと眠れそうにない
・・・」
「高野さんは、わたしに消えてほしいですか?」
僕は返事に窮した。
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「消えてほしいですよね。当たり前ですよね」
「きみも言ったろ?
こうしていることは、きみにも僕にもよくないって。いつか元に戻
るって」
「はい。いつか・・・」
「この理不尽な出来事がなぜ起こったのか、その原因をつきとめて、元に戻る方法を見つ
けなきゃ」
「わたしも、もちろん協力します」
「よかった。反対されたらどうしようかと思った。まずはあの呪文だ」
「やり方、間違ってたんでしょうか?」
「僕は悪い予感がしてきたよ」
「どういう意味ですか?」
「あの易者、じい様が間違ってたんじゃないかって」
「まさか・・・」
「じい様、誰かから呪文を聞いたような言い方をしてた。『仕入れたばかり』・・・とか
言ってたよ」
「だとしたら・・・」
「あした池袋に行って、じい様にもう一度会うしかない―」
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