藤井慎太郎 「フランス語圏の演劇論」(解題) ここには、19 世紀末から 20 世紀前半にかけて、フラ ンスを中心とする仏語圏にて書かれた演劇論のうち、演 占領、ヴィシー政府の成立(1940-44)によって、この 第三共和政も終焉を迎えることになる。 劇史上の重要性にもかかわらず日本語訳が存在しない、 演劇や舞台芸術に関してはどうであったか。ここで あるいは容易に入手できないもののなかから 10 本ほど 取り上げられる時期は、一般にベル・エポックとも呼 を選んで翻訳してある。 ばれている。ベル・エポックは政治的な安定、国際的 まずは、この時期にフランスがおかれていた状況を、 な平和、経済的な成長を見た時期でもあったが、パリが 簡単に振り返っておこう。ナポレオン 3 世による第二帝 世界の芸術を牽引する中心であると信じられた最後の時 政が、普仏戦争(1870-71 年)のあっけない敗戦によっ 代であったともいえるだろう。自然主義、象徴主義、バ て倒れた後に、フランスでは第三共和政が成立した。だ レエ・リュス、印象主義、キュビスム、アール・ヌー が、フランス革命(1789 年)以来の 1 世紀足らずの間に、 ヴォー、アール・デコ……、確かにこの時期のパリはま 立憲王政、帝政、共和政の間で 7 回の政体の変化が見ら だ芸術的、文学的な冒険の第一の舞台であった。舞台芸 れたように、そして、普仏戦争の際に成立したパリ・コ 術についていえば、第二帝政時代の 1864 年に劇場開設 ミューンが 2 か月後に鎮圧されたように、第三共和政は が自由化されたことも手伝って、パリの商業的な劇場文 結果的に第二次世界大戦まで続くことになるとしても、 化は大きな盛り上がりを見せた。オスマン県知事が推 決してその安定を約束されて発足したわけではなかっ 進したパリ大改造計画(1852-70)によって、現在のレ た。一方では王政復古の動き、もう一方では社会主義革 ピュブリック広場の近くに位置して「犯罪大通り」の異 命の企てに挟まれて、第三共和政政府が手にしていた裁 名をとった劇場街は姿を消したが、逆に周辺に分散し、 量の余地は大きくはなかった。フランス革命百周年、お ブールヴァール演劇はサブジャンルにまでなった。都市 よびそれを機に組織された万国博覧会(この際にエッ の再編に伴って、シャトレ広場の二劇場(現在の市立劇 フェル塔が建造された)を利用して、政府は自らの基盤 場とシャトレ座、1862 年開館)やパリ・オペラ座(ガ を強化し、革命において謳われながら道半ばで終わって ルニエ宮、1875 年開館)が新たに建設されて、これま いた理念を実現しようと試みた。ジュール・フェリー法 で悪場所としての性格をぬぐいきれなかった劇場は、都 (1881-2 年)による無償・義務・世俗の初等教育の制度 市景観の中心、首都の顔としての役割を担い、ブルジョ 化や、その教育の世俗化やドレフュス事件を受けて法制 ワジーの社交の場としてもすぐれて機能するようになっ 化された政教分離(1905)などは第三共和政の功績であ た。ウージェーヌ・スクリーブ、ヴィクトリアン・サル る。検閲は革命のたびに廃止されてはすぐに復活してい ドゥらウェルメイド・プレイの作家の作品が人気を博 たが、この時期に「出版の自由に関する法律」が制定さ し、「聖なる怪物」と呼ばれたサラ・ベルナール、ムネ れ(1881)、遅れて演劇の検閲が廃止されている(1906)。 =スュリなどのスター俳優が大劇場の観客を魅了し、オ その一方で、プロシアに敗れアルザス=ロレーヌ地方を ペレット、バレエ、サーカス、パントマイムが盛んに 失ったことで傷ついた自尊心を慰めるかのように、第三 上演され、キャバレーやミュージック=ホールが新たに 共和政はアフリカ、インドシナを中心にきわめて熱心に オープンし、劇場文化が華やかに開花した。ガス、つい 海外進出を進め、英国に次ぐ規模の海外植民地を獲得し で電気による照明技術の革新もこうした視覚文化の発展 ていった。それを背景としてアリアンス・フランセーズ を後押しした。第三共和政の文化政策は自由放任主義的 が 1884 年に、後にフランス芸術活動協会(AFAA)に なものであった。規制も緩和されたものの、国家による 改組されるフランス芸術拡大・交流協会が 1922 年に創 助成はフランス革命以前の王政時代から引き継いだパ 設され、フランスの対外文化政策を担うことになった。 リ・オペラ座(前身の王立音楽アカデミーの創設 1669 一方、フランスとドイツの根深い対立はその後も続き、 年)、コメディ=フランセーズ(創設 1680 年)、その第 両国は第一次世界大戦(1914-18)においても対戦し、 二劇場と位置づけられていたオデオン座(開館 1782 年) 今度はフランス側が勝利することになるし、さらにいえ にほぼ限られていた上に、支援の水準も今日とは比較に ば第二次世界大戦の勃発、そしてドイツによるフランス ならなかったし、こうした文化自体がパリに、そのパリ ― i ― においてはもっぱらブルジョワジーに限られる現象で に、その音楽が舞台化される際の空間表現が旧来と本質 あった。 的に変わらないことに強い不満を抱いたが、このことが こうした状況がここに取り上げたテクスト群の背景を 彼独自の演出理論を発展させることにつながった。演出 なしているのだが(ところで、商業主義に対抗する芸術 はそもそも舞台化(これがまさに mise en scène「舞台 演劇の動きが出てきたからといって、商業的な演劇が急 に置くこと」が第一に意味することである)、つまり空 に消えてなくなるわけではないのはもちろんのことであ 間化と関係した概念であるが、とりわけアッピアにとっ る)、ここでとりわけ多くのテクストが参照しているリ ては、線遠近法による二次元的な書き割りの背景幕を廃 ヒャルト・ヴァーグナーの改革についてもふれておこ し、電気照明の発明によって可能になった陰影や色彩の う。オペラのうちに詩、音楽、舞踊のギリシア的な融合 表現を生かしながら、空間によって空間を立体的に表現 を実現しようとしたヴァーグナーの改革は同時に、バイ することを意味する。演劇は戯曲ないしテクストを再現 ロイト祝祭劇場(開館 1876 年)の建築のうちにも具現 することを一挙にやめるわけではもちろんないが、自 化していた。同時期に開館したパリのオペラ座とは異な 律した表現への道をこうして歩み始めるのだといって り、社交のための側面は抑えられ、客席についても座席 よい。 を馬蹄型に配することをやめて、扇形の階段席に観客が アッピアはまた 1906 年にジュネーヴでエミール・ みな舞台を向いて座るようになり、オーケストラ・ピッ ジャック=ダルクローズと知り合い、舞台上の身体に トは舞台下に設けられ、演奏家や指揮者さえも観客の目 関する考察を深めることになる。1910 年、ドイツのド から隠され、さらに上演中は客席を消灯するようになっ レスデン近郊にあるユートピア的な田園都市ヘレラウ たことで、観客は二重の額縁によって観客から強く分離 に、ダルクローズ学院が開設されることになって、アッ された舞台にて展開される「全体芸術作品」に集中せざ ピアはそれに惜しみなく協力した。学院には劇場が併 るを得なくなった。こうした改革はこの時代の演劇人に 設され、そこでジャック=ダルクローズに協力してい とっても大きな影響を与えることになった。 くつもの舞台のデザインを手がけた。なかでもたとえ 1.演出概念 空間、身体、照明の革新 アドルフ・アッピア(1862-1928) ばグルック作オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』 (1912-13)の、大階段を生かして抽象化された舞台空 間はよく知られ、ヨーロッパ各地で類似の表現を生み出 すことになったほか、『リトミック空間』と題された相 アドルフ・アッピアは、エドワード・ゴードン・クレ 当数のデッサンを残してもいる。作品の上演には、セル イグとともに、現代的な意味での演出概念を少なくとも ジュ・ディアギレフ、マリ・ランベール(バレエ・リュ 理論的に確立したことで知られる人物である。舞台美術 スにてリトミックを教えていた)、ジョージ・バーナー 家、照明家、演出家として、フランス語圏とドイツ語圏 ド・ショー、ポール・クローデル、コンスタンティン・ の両方を舞台に活躍した。そのアッピアの著作から、や スタニスラフスキーらが駆けつけるほどであった。第 や長い『音楽と演出( 一次世界大戦の勃発とともにジャック=ダルクローズと )』 (1899)を訳出することは別の機会に譲るとして、「リ トミック体操と演劇(La Gymnastique rythmique et le アッピアはドイツを離れてジュネーヴに戻ったが、その 後は次第に疎遠になっていった。 théâtre)」(1911)、「ドラマと演出の将来(L’Avenir du drame et de la mise en scène)」(1919)を選び、田中 晴子が訳出した。いずれも、1983 年から 1992 年にかけ てローザンヌで出版された『アドルフ・アッピア全集』 (全四巻)を底本としている(Adolphe Appia, 2.自由劇場運動 アンドレ・アントワーヌ (1858-1943)、 ジ ャ ッ ク・ コ ポ ー (1879-1949) , 4 volumes, L’Age d’Homme, 1983-1992)。 アドルフ・アッピアは国際赤十字(の前身組織)の共 アンドレ・アントワーヌは演劇史上、最初の演出家の 同創設者である医師ルイ・アッピアを父として、スイ ひとりとして、職業としての演出家を誕生させたことで スのジュネーヴに生まれた。ジュネーヴ、ライプツィ 知られるが、彼が創設した自由劇場(1887)、さらにポー ヒ、パリ、ドレスデンの各地を転々としながら音楽を学 ル・フォールが創設した芸術座(1890)、自由劇場でも び、1882 年に訪れたバイロイトでヴァーグナー作曲の 俳優を務めたオレリアン・リュニェ=ポーが芸術座を引 オペラ『パルシファル』の上演に立ち会っている。アッ き継いで創設した制作座(1893)が端緒となって、その ピアはヴァーグナーの音楽の革新性に圧倒されるととも 後、ヨーロッパ全体、ついには日本にまで自由劇場運動 ― ii ― ないしは小劇場運動が波及し、同様の劇場組織が創設さ ジャーナリストとして活動したりしたが、再び晩年はあ れたこともまた、よく知られている通りである。その まり恵まれなかった。 アントワーヌが残したテクスト群のなかから、「自由劇 さらに、ジャック・コポーがヴィユ=コロンビエ座を 場(Théâtre-Libre)」(1890)、「演出についてのおしゃ 1913 年 10 月に開館させるに先がけて発表した「ドラマ べり(Causeries sur la mise en scène)」(1903)、「現代 の 革 新 の 試 み(Un essai de rénovation dramatique)」 の俳優術(L’Art du comédien moderne)」(1924)を選 を田中晴子が訳出した。「ドラマの革新の試み」は、劇 び、横山義志が訳出した。第一のテクストは、まだ発 場開設にあたってのマニフェストといえるテクストであ 足したばかりの自由劇場についてのマニフェストとも り、コポーがアンドレ・ジッドらと創刊した雑誌『新フ いえるもの、第二は、観客に語りかけるためにアント ランス評論( ワーヌが定期的に開催していたトーク(causeries)の 号に発表された後、1923 年に単行本『別の時代の批評』 記録、第三は演劇史を回顧する作業をおこなっていた批 (Jacques Copeau, )』の 1913 年 9 月 ’ Nouvelle 評家時代の講演の記録である。前二者は、1999 年にジャ revue française, 1923)に再録されており、ここでは後 ン=ピエール・サラザックとフィリップ・マルスルー 者を底本とした。 によって注釈を加えつつ編まれたアントワーヌのテク ジャック・コポーは、パリのブルジョワの家庭に生ま スト選集(Jean-Pierre Sarrazac et Philippe Marcerou, れ、有名校に通い、成績も総じて優秀であった。34 才 のときヴィユ=コロンビエ座を創設するとともに、劇場 ’ ’ , Actes Sud, 1999)、後者は学術 雑誌「コンフェランシア」第 17 号( , no.17, 1924)を底本としている。 に付設した演劇学校における俳優教育、あるいは劇場の 活動を通じて多くの人材を育て、両大戦間期のフランス 演劇を主導した人物である。ヴィユ=コロンビエ座は同 アントワーヌは、13 才にして自ら生計を立てなけれ 名の通りの 21 番地に現存する。10 年間の冒険に消尽し ばならなかった。演劇を志し、コンセルヴァトワールを たコポーは 1924 年に劇場をジョルジュ・ピトエフに譲 受験したものの失敗し、兵役を終えた後、ガス会社の社 り、ブルゴーニュ地方に拠点を移したが、コポーの元で 員となって、アマチュア演劇サークルに加わって演劇を 演劇を学んだ俳優で構成され、彼の甥であるミシェル・ 続けた。そのときの仲間たちと創設したのが自由劇場で サン=ドゥニに率いられた 15 人劇団が、1930 年にヴィ ある(プロの俳優のように大げさな演技法を身につけて ユ=コロンビエ座に再び戻ってくる。1970 年代には閉 いない彼らの演技は自然とリアリズム的にならざるをえ 鎖・消滅の危機を迎えたが、1986 年に国が劇場を買い なかった)。自由劇場は同時代の劇作家、とりわけイプ 取り、1989 年以来コメディ=フランセーズの一部を構成 セン、ストリンドベリらの自然主義的な戯曲を多く取り している。ロシアやドイツにおいて、前衛と呼ばれる演 上げたが、これは制作座がアルフレッド・ジャリ『ユ 出家たちの多くが、共産主義革命を信じ、構成主義や表 ビュ王』(1896)をはじめ、メーテルランクやクローデ 現主義などの美術と接近し、視覚的な演出を重視する道 ルら象徴主義の作家の戯曲を多く上演したことと対照を を採ったのとは異なり、ヴィユ=コロンビエ座の代名詞 なしている。当初の自由劇場は、劇場を借りて上演する ともなった裸舞台(tréteau nu)において(コポー「新 会員制の私的上演組織であったが(それには当時、公の しい作品のために、我々に裸舞台を残したまえ」)、文学 劇場に課されていた重税と検閲を避けることができる利 性をそのまま観客に届けることを志向した。機械仕掛け 点があった)、1897 年から、ムニュ=プレジール劇場と を排するための「裸舞台」はしかし、建築学的・美学的 賃貸契約を結び、自由劇場は常設劇場となった(同年に に充分に計算されたものでもあった。 アントワーヌ劇場と改名され、現在もストラスブール大 コポーの影響はパリの演劇界に限られず、彼と親し 通り 14 番地に劇場として存在する)。それとともに、観 かった人間の活動を通じて広く世界に及んだ。娘婿で 客受けの見込める安全な作品とリスクのある作品をとり あるジャン・ダステは、サンテチエンヌにコメディ・ まぜて上演するようになっていった。1906 年以降は国 ドゥ・サンテチエンヌを創設し、第二次世界大戦後の演 立劇場オデオン座の支配人を務めたが(1896 年にも一 劇の脱中央化の運動を主導し、ミシェル・サン=ドゥニ 度、共同支配人に任命されたが、もう一人の支配人ポー は英国、カナダ、アメリカ合衆国で相次いで演劇学校の ル・ジニスティと意見が合わずに任命から半年も経たず 創設に関わり、英語圏諸国の俳優教育に大きな影響を与 に辞任せざるをえなかった)、1914 年、劇場を倒産寸前 えたし、コポーのもとに演劇を学んだ岸田國士は、日 まで追い込んだ責任をとって辞任している。その後は 本帰国後に文学座を創設したことは周知の通りである 映画監督の仕事を手がけたり、映画や演劇の批評家・ (ヴィユ=コロンビエ座の創設当初からコポーの右腕と ― iii ― して活躍したシャルル・デュランのもとでは、やはり後 彼は、パリで学問を修め、その後、作家・ジャーナリス に文学座に加わった長岡輝子が学んでいる)。 トとして活動するうちに、ポール・クローデルやロマ ン・ロランとの知己を得た。1895 年夏、故郷ビュサン 3.民衆演劇運動 モーリス・ポトゥシェール (1867-1960)、フィルマン・ジェミエ (1869-1933) において両親や妻を主要登場人物、地元住民もエクスト ラに起用して、自作の戯曲を上演し、これを人民劇場と 名づけ、翌年に完成した木造建築の劇場を舞台にその後 も毎年夏に自作戯曲を上演する試みを続けた(その試み は成功し、彼の死後も現在に至るまで続いている)。 民 衆 演 劇 運 動 に 関 し て、 モ ー リ ス・ ポ ト ゥ シ ェ ー ル「パリに人民劇場を(Théâtre du Peuple à Paris)」 フィルマン・ジェミエは、アンドレ・アントワーヌと 同様に、少年時代は経済的には恵まれず、またコンセル (1899)、ポトゥシェールが代表となっていた民衆劇場創 ヴァトワールの受験にも失敗したが、アントワーヌの自 設委員会の名において提出された「公教育・美術大臣 由劇場に俳優として加わり、制作座で『ユビュ王』の主 への手紙(Lettre au ministre de l’Instruction publique 演を務めたことによって広く名を知られるようになっ et des Beaux-Arts)」(1899)、 フ ィ ル マ ン・ ジ ェ ミ た(制作座もパリのシテ・モンティエ 3 番地に現存す エ「 明 日 の 演 劇 と シ ェ イ ク ス ピ ア 協 会(Théâtre de る)。オデオン座の支配人となったアントワーヌの後任 demain et la Société Shakespeare)」(1917) を 田 中 晴 として 1906 年から 19 年にはアントワーヌ劇場の支配人 子が訳出した。前一者はポトゥシェールが 1899 年に著 を務め、さらに 1922 年から 30 年にかけてはオデオン座 した『人民劇場 民衆演劇の再誕生と行く末』 (Maurice の支配人を務めている。観客受けのする作品と前衛的・ Pottecher, 実験的な作品を組み合わせて劇場のシーズン・プログ , P. Ollendorff, 1899)、後二者はシャ ラムを構成するのもアントワーヌ譲りであった。ビュ ンタル・メイエル=プランチュルー編『民衆演劇、政治 サンの人民劇場(ポトゥシェールはジェミエの協力者 的争点 ジョレスからマルローまで』(Chantal Meyer- であり続けた)、ロマン・ロランの民衆演劇論に影響さ Plantureux, れたジェミエは、もともと俳優組合の弁護士であった , Editions Complexes, 2006)を底本と している。 政治家ジョゼフ・ポール=ボンクールの支援を得て 1910 年、国立移動劇場(Théâtre national ambulant)を計 民衆演劇運動とは民衆教育運動と並行した動きとい 画する。だが、1650 席を数える仮設の移動劇場を用い え、フランス革命の平等の理念を演劇においても実現 て、アントワーヌ劇場の俳優を起用して「国民的戯曲」 すべく、大都市に住む一部のエリートのものであった を各地で上演しようというこの試みは野心的すぎて、長 演劇をあらゆる人間のものに変えようとした運動のこと 続きせずに終わった。だがジェミエはわずかだが国の助 であり、労働組合を通じた労働者の組織化、権利拡大を 成金を得て国立民衆劇場(Théâtre national populaire) 求める運動とも呼応しながら、演劇人、知識人、政治家 を 1920 年に創設することに成功し、1933 年までその支 の中に支持者を広げて展開していった。ロマン・ロラン 配人も務めたほか、英仏両国の演劇の交流を目的とした の『民衆演劇論( )』(1903)を理論 シェイクスピア協会を 1917 年に創設した後、国際演劇 的支柱として、民主主義の理念と演劇とを結びつけ、戦 協会の前身となる世界演劇協会(Société universelle du 前にはごくわずかしか実現には至らなかったにせよ、演 théâtre)を 1925 年に創設している。そんなジェミエら 劇に対する公的関与の増大、演劇の脱中央化を素描して しく、1927 年には岡本綺堂の『修善寺物語』のフラン 見せた点で、戦後の文化政策の理論的基礎を築いたとい ス語版の上演計画を助け、主役を演じてもいる(会場は える。 シャンゼリゼ劇場、舞台美術を手がけたのは藤田嗣治で モーリス・ポトゥシェールはヴォージュ県ビュサン市 あった)。 に生まれた。同市の市長を務めた父親のもとに生まれた ― iv ―
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