19 世紀ヨーロッパの国際関係 — 植民地の変遷 —

<研究ノート>
19 世紀ヨーロッパの国際関係 — 植民地の変遷 —
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
15 世紀
大航海時代・・・冒険航海と探検
葡・西 2 強時代(トルデシリャス条約<1494 年>)
16 世紀
採掘植民地・・・金銀、香辛料
価格革命(Price Revolution)→「繁栄の 16 世紀」
17 世紀
貿易植民地・・・貿易差額&商業拠点…香辛料、陶磁器、絹、木綿
「不況の 17 世紀」
「力の時代」…英蘭2強時代
18 世紀
栽培植民地・・・タバコ、砂糖、茶、コーヒー
産業革命始動…「第二次英仏百年戦争」→イギリスの商業革命
19 世紀
市場植民地・・・垂直分業…母国=製品供給;植民地=原材料供給
自由主義が徐々に保護主義を駆逐、欧州列強五大国均衡協調
世紀末
帝国主義植民地・・・欧州列強による世界分割完了
20 世紀
戦争の時代・・・列強による弱小国吸収と植民地争奪戦
(1)
「植民」の語源
上表は 15 世紀以降における欧州列強による植民地の変遷を図式化したものである。同じ「植民地」と
いっても時代によって意味あいを変えてきていることがわかる。問題とする一か所にとどまって定点観
測するのもひとつの手法だが、歴史の大きなうねりを見据えたうえ、そのなかでわれわれが問題とする
一点を見なおすのも有用である。
19 世紀[注:1815 年から 1914 年まで]というのは不思議なほどにヨーロッパで抗争や戦争が少ない
時期にあたる。ひるがえって 18 世紀と 20 世紀をみると、この落差は肌で感じるほどに大きい。ともに
列強どうしがしのぎ削りあいの戦争をやっているのだ。なぜそうなったのか? 19 世紀だけを見つめて
も、それだけでは容易に答えは出てこない。だからこそ、歴史を俯瞰する必要があるのだ。
「植民 colon」というのは、古くフェニキア人が地中海沿岸に商業拠点を築き、そこ Colony に依拠し
ながら商業活動を展開したことに始まる。この植民はギリシャ人により、そしてローマ人によっても引
き継がれた。そのようなわけで 15 世紀以降の欧州列強による植民地主義を論じるためには、少々時代を
遡って考察することが欠かせない。
ギリシャ時代や、それに続くヘレニズム時代は地中海沿岸と中近東沿岸に限られた動きだったが[注
1]
、ローマ時代となると、その範囲は海洋(地中海と大西洋)からしだいに離れ、内陸部に及ぶ[注 2]
。
古代の植民は文字どおり、母国の文化や生活形態を維持したままの人間の移動である。むろん、母国と
の通商はおこなうが、交通手段(船舶)や操船技術が優れなかったこともあり、移民の基本は母国に依
存することなく、定住先での自立繁栄を期す移動であった。
[注 1]ギリシャ人の植民都市は黒海沿岸全体に亘り、小アジア半島南岸のミレトス、アスペンドス、
ハリカルナッソス、アドリア海入口のエビダムノス、アポルロニア、イタリア半島南端のタレント
1
ゥム、メタボンツム、レギウム、ネアポリス(ナポリ)
、ポセイドニア、ポンペイ、シチリア島のシ
ュラクサエ、アグラカス、リグリア海岸のニカイア、マッサリア(マルセーユ)
、イベリア半島南岸
のヴァレンシア、マラガ、アフリカ北岸のキュレネなどを挙げることができる。
[注 2]ローマの植民市の名残はケルンに認められる。
「ケルン Köln」の語源は Colon つまり「植民市」
である。ネロ帝の母后アグリッピーナの保養地として出発している。ライン河畔やドナウ河畔の都
市はすべてローマ起源と言ってもよい。ウィルヌム(ウィーン)
、アウグスタ(アウグスブルク)
、
ブルディアガラ(ボルドー)、パリシー(パリ)
、コルドゥバ、ティンギス、カエサレア(イオル)
、
ロンディニウム(ロンドン)
、アンティオキア、アンキュラ等。
(2)十字軍と商業の「復活」
古典古代が異民族侵入によって終わりを告げ、地中海貿易が衰えると、ローマ時代に栄えた都市文明
はひとたび姿を消す。ヨーロッパ世界は 7~10 世紀のあいだイスラム勢力に圧迫されつづけたが、やが
て新しい社会も整い、さらに手工業と商業の中心としての都市も興り、遠隔地貿易もしだいに盛んにな
ってきた。十字軍はこのような情勢の中で起こった、ヨーロッパ勢力のイスラム勢力に対する一大反撃
であった。ただし、過大評価は慎もう。それは反撃の開始であって完成ではない。究極的な意味では十
字軍は失敗しているのだ。
十字軍は一時的に教皇の権威こそ高めたが、それは同時に教皇権の衰微をも道連れにする試みであっ
た。十字軍は多数の騎士、諸侯を戦死させ、また彼らを窮乏させた。封建諸侯などライバルの衰退の反
動として各地で王権が伸長していく。
十字軍を直接輸送したジェノヴァやヴェネチアなどイタリア諸都市が繁栄し、そのうえ、これによっ
て発展してきた東方貿易は、すでに成長しつつあった内陸都市の発達を促し、商品流通と貨幣経済を発
展させた。このような状況下で 13 世紀の十字軍においては現実的な利害が露骨に表われ、その指導権は
教皇の手を離れて国王やイタリア諸都市に移っていく。その極端な例は第4回十字軍である。この十字
軍はヴェネチアの要求を受け入れて、聖地イェルサレムに向かうことなく、何と! ヴェネチアの商敵で
もあり同盟都市でもあるビザンツの首都コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国(1204~61)を
建て、西ヨーロッパの領主が分封するまでした。
これ以後、十字軍はエジプトに重点をおくようになる。十字軍のなかには子ども十字軍(1212)のよ
うに宗教的熱狂が悲惨な結末を生んだ例もあったが、第5、第6、第7回と相次ぐ十字軍はエジプト=
シリアのイスラム勢力を攻撃しヴェネチアの東地中海貿易権の強化を助けた。第8回十字軍はテュニス
を襲撃したが、それは西地中海貿易に関心をもつジェノヴァ、ピサ、マルセーユなどの商業的利害に突
き起こされたものである。
その後、イェルサレム王国は領土の大部分をイスラム勢力に奪回され、ラテン帝国もその暴政に怒り
狂ったブルガリア人、ギリシャ人、ヴェネチアの永遠のライバルジェノヴァによって滅ぼされ、ビザン
ツが復活した。やがて 1291 年にはパレスティナにおける十字軍の最後の拠点アッコンが陥落。
こうして十字軍は失敗におわったが、それは地中海貿易と東方貿易をイタリアの手に移し、ビザンツ
帝国に経済的、文化的な大打撃を与えた。そのことが原因となってビザンツはイスラム勢力に滅ぼされ、
そのために西ヨーロッパはイスラムの直接的な圧迫を受けるようになる。2世紀にわたる十字軍の遠征
によってビザンツ文化やイスラム文化と接触した西ヨーロッパ人はその視野を拡げ、その文化から刺激
を受けることになった。十字軍はヴェネチア、ジェノヴァ、ピサなどのイタリア諸都市の発達を促した。
アラビア人がもたらす中国やインドなどの香料や織物がイタリアを経てヨーロッパ各地に運び込まれる。
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さらに、地中海貿易の影響を受けてミラノ、フィレンツェのような内陸都市でも手工業が発達した。こ
の南方貿易圏に次いで発達したのは北海、バルト海沿岸の北方貿易圏で、南北を結ぶ川沿いにも都市が
発達。
これら都市住民の大部分は商人と手工業者で、彼らは同業組合(ギルド)をつくり、組合員以外のも
のの営業を禁じて貿易や生産を独占した。ギルドは裕福な市民が支配し、市民はギルドを中心に結束し
て封建領主と闘い、自治権を獲得していく。これが中世ヨーロッパのコミューン運動である。商工業と
都市が発達し、市場がひろがり、貨幣経済が進展するにつれて農民の生活も向上し、荘園制経済の脱却
の動きも始まる。しかし、領主層は政治的勢力を強めるため多くの財貨を必要とし、農民に対する負担
を重くする(封建反動)。そこで、農民は都市の自由な空気を求めて逃亡したり反乱を起こしたりした。
(3)西南辺境での中央集権化
英仏が版図をめぐって抗争「百年戦争」を続けているあいだ、イベリア半島で 11~15 世紀の間、イス
ラム教徒から国土を奪還していく動きが始まっていた。いくつかの王国が形成され、12 世紀中ごろには
半島の北半にアラゴン、カスティーリャ、ポルトガルなどの王国がつくられ、これらの王国はしだいに
イスラム教徒を南方に圧迫していった。アラゴンとカスティーリャにはすでに 12 世紀に聖職者・貴族・
市民の代表者より成る身分制議会が成立していた。両国は合併してイスパニア王国となり(1479)
、1492
年にはイスラム教徒最後の拠点のグラナダを陥落させた。国王フェルディナンドは諸侯を抑え、また宗
教的統一を図るため宗教裁判を用いた(異端審問所)
。ポルトガルも 15 世紀半ばまでには中央集権国家
を形成した。両国の王権伸長の影にはやはり都市の発達があり、特に商人の活動が盛んであった。両国
は後述の「地理上の発見」の先駆をなした。
ヨーロッパの南西辺境でのレコンキスタ Reconquista の活動はヨーロッパ人の定住地を拡げた。イベ
リア半島の大部分は 8 世紀の前半からイスラム教徒により侵食されていたが、11 世紀に入ると形勢は逆
転する。領土の回復は最初はゆっくりと、しかも、キリスト教徒の君主間の反目などにより阻害されな
がらではあったが徐々に進展し、11 世紀末までには北東スペインや中部のメセタで足場を築く。13 世紀
半ばになると、イスラム教徒の領土はアンダルシアの山中のみにまで狭められた。リスボン Lisboa は
1147 年、メリダ Merida は 1228 年、バダホス Badajoz は 1227 年、コルドヴァ Cordova は 1236 年、
ヴァレンシア Valencia は 1238 年、ムルシア Murcia は 1245 年、セヴィージャ Sevilla は 1248 年、
カディス Cadiz は 1262 年にそれぞれ失地回復を成し遂げた。
南の辺境では 1061 年から 1091 年にかけノルマン人がシチリアでイスラム支配に終止符を打つ
[注]
。
そして、東南の前線、つまりレヴァントの地域では 11 世紀から 13 世紀にかけて十字軍が攻勢をかける
ことによってイスラム勢力に対して一時的に優勢となった。
[注]シチリアはイタリア半島の南にある大島である。フェニキア人、ギリシャ人が植民し、紀元前 4
世紀前半にポエニ戦争の後にローマの属州となった。ここは穀物産地として重要であった。9 世紀
初にサラセンが占領し、そのもとで著しい経済成長とともに文化の発展がもたらされた。1130 年に
ノルマン人のロジェー二世がサラセン人を追放し、シチリアとナポリ地域を合わせて両シチリア王
国を形成。
ここで注目すべきは、ヨーロッパの西南端と東端において高度の中央集権国家が誕生したという事実
である。西南端はイベリア半島だが、東端というのはロシアである。西南端と東端に共通するのは異民
族と直接的に対峙していたことである。西南端はイスラム教徒、東端はモンゴル族である。宿命的に軍
事衝突が見込まれるところから、ともにキリスト教徒の根拠地[注:ロシアはロシア正教だが]として
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高度の軍事大国であることを必須とした。
こうして、15 世紀後半のヨーロッパは国の統一が実現できないドイツとイタリアを中央にし、大西洋
岸と東方ロシアに成長した中央集権国家を支柱として構成されるにいたる。そして、バルカンに進出し
たオスマン=トルコ勢力の圧力に対応して、西ヨーロッパと東ヨーロッパの中央集権諸国がヨーロッパ世
界を西方と東方へ拡大させていく形勢が生まれた。
(4)ドイツ人の東漸運動
東の辺境ではドイツ人の東漸運動 Drang nach Osten が活発化する。この移動はすでに 10 世紀に始ま
る。ドイツ人はエルベ川とザール川のあいだのソルベンラント Sorbenland を征服。東方への移動は 12
世紀の半ば以降いっそう活発になる。バルト海地域では 1186 年に始まり、リヴォニア Livonia のクール
ラント Courland を征服。他方、1231 年からチュートン騎士団が東部プロイセンの征服に乗り出す。バ
ルト海南岸では 1240 年までにドイツ人はオーデル川まで到達。そして、同世紀末までにポメラニアの海
岸沿いに植民を進めた。内陸に向かってはエルツゲビイルゲ Erzgebirge 山脈とズデーテン山脈に阻ま
れるまで南進した。
ドイツ人が進出した場所に新しい都市が建設された。リューベック Lübeck(1143)
、ブランデンブル
ク Brandenburg(1170)
、リガ Riga(1201)
、メクレンブルク Mecklenburg(1218)
、ヴィスマール Vismar
(1228)
、ベルリン Berlin(1230)
、シュトラールズント Stralsund(1234)
、ダンツィヒ Danzig(1238)
、
フランクフルト=アム=オーデル Frankfurt-am-Oder(1253)などが次々と建設された。
1300 年を過ぎると東漸運動はかなり鈍化した。そして、ペストの大災厄が拡大をストップさせた。東
方への拡大はタンネンベルク Tannenberg の戦い(1410)でドイツ人がポーランド人に負けたことにより
当分のあいだ中断することになる。
ドイツ人によって征服された土地はもともとスラブ人の居住地であり、スラブの経済は主として漁
撈・狩猟・牧畜であり、農業はあまり発達していなかった。ドイツ人は豊富な資本と進んだ農業技術を
保持していた。彼らは鉄製の重い斧をもって深い森を切り拓き、有輪犂でもって粘土質の土壌を掘り返
す。したがって、ドイツ人の東方への移動はヨーロッパ式農業の拡大でもあり、ヨーロッパの鉱業の移
動でもあった。農業・鉱業・商業のドイツの技術はスラブ人にも伝播した。これらの発達は東欧と西欧
の経済の結合を促した。東欧で生産された余剰農産物はバルト海を経由し西ヨーロッパに輸出されるよ
うになった。ブランデンブルクは 1250 年ごろからフランドルとイギリスへの穀物を輸出しはじめた。ハ
ンザの都市同盟が東西貿易を促す。
(5)西洋文明の特質
大航海時代に移るまえにここで小休憩しよう。われわれは以上、全世界に進出する以前のヨーロッパ
を見てきた。しかし、進出・発展を単なる商圏拡大や領土獲得の野心とだけ結びつけて考えるのは単純
すぎる。その進出・発展のイデオロギー的考察を抜きにしては真の理解に達することができない。西洋
文明の発展を支えてきた精神的特質はギリシャ精神とキリスト教精神である。前者は精神と肉体を分け
ないで現実生活に価値を認め、個性を尊重しつつ、その社会生活との調和を完成しようとする人間中心
の精神であり、後者は精神と肉体を分け、精神を神に捧げ、神の御心(愛)に導かれる隣人愛に生きよ
うとする、神中心の精神である。
ギリシャ精神に潜む合理主義と個性主義、キリスト教精神に含まれる神の前の平等や敬虔・正義の観
念は形式化した文化や政治的圧制に対する抵抗の精神となった。西洋文明の近代化がまず古典文化の復
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興と宗教の改革として進められたことも、以上のような事情から理解されるべきである。この外見的に
は矛盾しあう精神の葛藤を通した、不断の刷新が西洋文明の特質であり、イスラム教や中華思想、イン
ドの輪廻思想など他文明の精神には見られないものである。オリエントでは大国がどっかり腰を下ろす
と、そのまま老衰を迎えるまで文化的な停滞を経験し、そのあいだに周辺から興った諸民族によって征
服されてしまう。西洋文明は歴史上、何度か破綻し衰微していく危機を迎えながらそのつど自己革新に
よって蘇生し、新しい芽をつけていく過程に着目しなければならない。それゆえにこそ、今なお(異文
明に属するわれわれにとっても)研究の意義があるのだ。
ギリシャ精神とキリスト教精神という 2 本の支柱の周りに西洋文明を発展させたものは「自由の精神」
である。東洋ではこの精神は伸びず、専制主義の支配は今にいたるまで続いているが、西洋では古代の
市民や中世都市市民の間に「自由の精神」が成長したばかりでなく、それは近代のヨーロッパ文明に受
け継がれていく。この「自由の精神」は豊かな生活と幸福を自らの手によって実現しようとする現実的
な努力によって獲得されたものである。
「自らの運命は自らの手で切り拓く」といった自主的にして現世的で積極的な態度は、あらゆる抵抗
と反動を圧してもキリスト教の布教をおこなおうとする超越主義および果敢主義の態度と表裏の関係に
ある。現世主義はプロテスタントに、超越主義はカトリックに、というように色だちの濃淡はある。西
洋文明の具有するこれら二面性は、それに接する意文明世界の人々にとって魅力として、あるいはまた
押しつけがましい独善主義として受け止められる。結果的に「西洋の技術は導入してもよいが、宗教の
ほうはどうも…」といった逡巡と疑心暗鬼の態度を呼び寄せる。
そうした懸念が炎上するのは西洋人による現地人の略奪と収奪、文化習俗の蔑視・破壊、勝手な国境
線引き、部族離間策、奴隷取引、信仰強要などにおいてである。
(6)採掘植民地
1500 年はヨーロッパと東洋の力関係が逆転の時期にあたる。東方ではモンゴル人の支配から脱しよう
とする動きが始まり、モスクワ公国が形成され、西方では既述のレコンキスタ運動に示されるように、
イスラム勢力を排除しながら中央集権国家の形成に余念がなかった。また、西南アジアでは 14 世紀以降、
オスマン=トルコが興って、東方貿易を中断したことはヨーロッパ人による新航路の開拓を促すことにな
った。
すでに 15 世紀前半からポルトガルの王子エンリケはアフリカ海岸沿いに探検隊を南下させ、
「航海王」
と呼ばれていたが、1487 年バルトロメロウ=ディアス Bartholomeu Diaz は喜望峰に達し、1498 年ヴァ
スコ=ダ=ガマ Vasco da Gama はアラビア人の水先案内人に導かれてインド西岸のカリカットに到達し、
アフリカ回りのインド航路が開かれた。一方、西回りにインドに達しようとする者もいた。ジェノヴァ
のコロンブスはイスパニア王妃イサベラの後援を得て 1492 年に大西洋を横断し、今の西インド諸島に達
し、以後3回にわたりこの地方を探検した。その後、スペイン王に仕えたポルトガル人マガリヤエンス
Magalhæs は 1519 年に西回り航路をとって太平洋を横断しフィリピン群島に到達。彼はそこで襲撃を
受けて死んだが、その乗組員は 1522 年イスパニアに帰り、世界一周に成功した。
1494 年、スペインとポルトガルがローマ教皇の斡旋でその海外発展の勢力範囲を決めた(Tordesillias
条約=教皇境界線)
。ポルトガルはブラジルを除き主として東洋に進出し、インドのゴアを根拠地とした。
つまり、東南アジアの諸島に産する香料を主要貿易品として東洋貿易の巨利を独占し、リスボンは一時
期、
「ヨーロッパの首都」と言われるほどの繁栄を見せる。その領土(点在する貿易拠点にすぎないが)
はインド西海岸、スリランカ、マラッカ、スマトラ、ジャヴァ、モルッカに及び、やがてポルトガル人
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は中国と日本にも来航した。一方、スペインはアメリカ大陸に進出し、古くから栄えていたメキシコの
アステカ帝国やペルーのインカ帝国を滅ぼして先住民を奴隷とし莫大な富を築いた。特のこの地の豊富
な銀を大量にヨーロッパに持ち帰り、これまでの銀の生産で栄えていた南ドイツに大打撃を与えた。
スペインの銀、ポルトガルの香料はいずれもヨーロッパの経済興隆に大きな貢献を果たしたが、この
“分業”の国際経済に対するインパクトはどちらが大きかったのだろうか。
東南アジア産の香料はヨーロッパ側の赤字貿易による銀の流入を産地にもたらすことによって、自給
自足を原則とするアジアの市場経済化に穏やかなかたちで貢献した。貿易というのは基本的に取引先の
相互に《ウィン! ウィン! 》の結果[注]をもたらすものである。
[注]余剰物の交換となるから、生産地では無価値として捨て置かれた余剰物が遠隔地に運ばれると価
値を帯びる。短期的には《ウィン! ウィン! 》の関係が生じる。しかし、それが片や製品生産、片や
原材料生産というふうに垂直分業関係が築かれるようになると、前者における工業特化、後者にお
ける農業特化となって、特に後者の自律的発展が阻害されていく。これがいわゆる「南北問題」を
生む基盤である。
一方、スペインがものにした銀はヨーロッパに価格革命をもたらし、それまで極度の“金欠乏症状”
に悩まされていたヨーロッパの通商に便宜を与え、長期にわたる全般的な好景気をもたらした。ここか
ら「繁栄の 16 世紀」という語が生まれる。イタリア戦争やオランダ独立戦争などの局地的な戦いはある
が、大国間の大規模な戦争は不思議なほどにない。これもそれも、ヨーロッパの全般的な好景気が作用
しているのである。しかし、スペインそのものは銀の流入のせいで、多年の保護の甲斐あって育ちつつ
あった毛織物産業の育成を放棄し、工業化への道を自らの手で塞いでしまう。あまりにも安易なかたち
で財宝をせしめたためである。
スペインは鉱山開発のために現地人を使い[注]
、スペイン人がもちこんだ天然痘のせいで現地人が絶
滅の危機に瀕すると、こんどはポルトガル人の手を借りてアフリカ人奴隷を送り込んだ。鉱山が枯渇す
ると、今度は西インドで盛んになった砂糖キビとタバコの栽培、牧場・菜園経営に大量の奴隷が投入さ
れる。奴隷の平均寿命は 30 才ぐらいだったと言われる。
[注]アンデス山中の著名な銀鉱ポトシはアンデス山中の標高 4,200 メートルの高所にある。富士山よ
よりさらに 500 メートルも高いのだ。酸素の不足するここに登るだけでも大変なうえに、そこの地
下坑に入り、50 キログラムの籠を背負って古びた梯子を日に 25 回も登り降りするのだ。1 週間作
業したのちは 2 週間休憩するという。そうしないと体力を回復しないといわれる。
ポルトガルに較べスペインは新大陸開発のために多数の本国人を送ったことにより、ポルトガルより
も安定性のある植民がおこなわれた。スペインの富は世界第一となり、ヨーロッパ列強の羨望の的とな
った。フェリーペ二世の時、ポルトガルをも併合してスペイン全盛期を迎えた(1580~1620)
。
発掘された貴金属の 2 割が国王の取り分となり、国王一家の贅沢、軍備のために供された。残りの 8
割は帰国した「征服者」の所有となり、高級織物、ワイン、兵器、家具・調度品・宝石などのような消
費財となったものと思われる。
需要の増大に伴う乗数効果は 16 世紀の全期間を通して現われはじめた。原因か結果かははっきりしな
いが、たまたま発生した人口増と相俟って、需要増大は供給力の限界にまで伸びた。だが、生産力の限
界とりわけ農業分野で生産拡張にブレーキのかかるレベルにまで生産が伸びると、需給バランスが崩れ、
価格騰貴が生じた。1500 年から 1620 年の期間は経済史家によって、ちょっと誇張した表現ではあるが
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「価格革命」の時代と命名された。この期間にヨーロッパ諸国の平均的物価上昇率は3~4倍と見込ま
れている。世紀単位の変化と見れば、それほどの物価騰貴とはいえない。
(7)植物の交流
「ポルトガルとスペインに続け!」とばかり、遅れて海外進出を企てたオランダやフランス、イギリ
スは進出先で貴金属鉱山を見つけられなかった。これら諸国が新大陸で見出したものは、ヨーロッパに
存在しない植物や薬草である。
アメリカからヨーロッパにもたらされた薬剤で、今なお使用されているものはユソウボク[注:癒瘡
木:リューマチ、皮膚病、結核に効く]
、キナ[注:キニーネの原料木で解熱、マラリアに効く]
、サル
サパリア[注:ユリ科植物の根:利尿、発汗、皮膚病、梅毒に効く]である。他に、南米のインディオ
から学んだ薬草類にクラーレ[注:毒矢]とトコン[注:下剤]がある。中米マヤ人はトウガラシ、ア
カザ[注:虫の毒消薬]
、ユソウボク、バニラを使っていた。
ヨーロッパ人はまた、ココア、トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、大豆を見つけた。なかでも重要
なのはジャガイモとトウモロコシである。1588 年、スペインの兵士がコロンビアのカウカ Cauca 渓谷で
発見したジャガイモがヨーロッパに紹介された。同じころ発見されたトウモロコシと並び、これらの植
物は徐々に普及し、ヨーロッパの食糧問題と飢餓危機を根本的に解決するのに貢献する。これは「食糧
革命」ともいわれる
タバコはイギリス人ラルフ・レーン Ralph Lane により持ち込まれ、ウォールター・ローリーWalter
Raleigh (1552-1605)
[注]によって広められた。1537 年から 1559 年のあいだに「医薬品」たるタバ
コに関する 14 冊もの書物が出版された。1560 年から 70 年のあいだ、タバコの薬効に関する他の著書が
あい次ぎ、16 世紀末には「タバコは万能中の万能薬」という評価に到達。だが、その一方で、
「タバコ
は有害なり」とする者も現われようになる。1602 年にタバコの害を説いた著者は匿名で小冊子を書かざ
るをえなかった。1604 年には英国のジェームズ一世(在位 1603-25)は自ら小冊子を著し、タバコの有
害説を唱えた。ロシアでは皇帝ミハエル(1603-45)が兵士の一人を喫煙のかどで拷問・鞭打ち刑に処し
た。イギリス清教徒も喫煙を非難。しかし、多くの人々は依然として喫煙を疫病の予防法として用いた。
1665 年、名門イートン校の生徒は疫病を避けるためパイプを吸うよう強制されている。
[注]ローリーはヴァージニア植民地の創設者であり、彼はここで 1603 年にタバコのプランテーション
栽培に成功した。
「ヴァージニア」とは、ヴァージン女王エリザベス一世に因んで命名。
ヨーロッパがアメリカから得た産物と較べると、東洋から得た産物のリストはみすぼらしい。その理
由は、ヨーロッパと東洋の通商関係は以前からさまざまな仲介者を経て続いていたからである。この時
期、ヨーロッパが中国と直接の交わりを通じて得た最大の発見は茶である。茶は 1664 年にイギリスに紹
介された。時の国王チャールズ二世(在位 1660-85)は外国の珍しい鳥のコレクターであった。東イン
ド会社は要請にもとづき、いつも国王のコレクションにふさわしい珍鳥を献呈してきた。1664 年、会社
は珍鳥を見つけることができず、仕方なく外国産の珍しい薬草の包みを贈呈した。このなかに茶が入っ
ていた。これは成功したとみえ、国王は翌年もこの贈物を希望したのである。中国からの輸入品のなか
で当初、いちばん多かったのは絹だったが、しだいにこれが茶に代わっていく。1720 年の東インド会社
の主要な輸入品のなかで首位を占めたのは茶であった。
だが、茶はイギリスにおいてだけ人気を博した。これは同国のすべての階級に受け入れられた。一方、
大陸のほうで飲みものといえば、まずコーヒー、ぶどう酒、ビールが思い浮かぶ。このうち外国産品と
7
いうのはコーヒーだけである。オランダ人は 17 世紀の全期間を通してコーヒーにとり憑かれる。しかし、
概してコーヒー、茶、チョコレート、タバコの消費は中・上流階級にかぎられていた。ロシアでは 18 世
紀末まで茶は専ら貴族の嗜好品であった。
、、、、、
これら外国産嗜好品の普及は薬効があるという評判によって進んだ。とりわけ、茶の不思議が話題に
のぼる。中国では起こるとされた茶の奇蹟がヨーロッパではなにも起きなかったのだ。そこで、人々は、
長い船旅のあいだに効用がなくなってしまうと信じた。
オランダの医師コルネリス・ボンテクーCornelis Bontekoe が 1685 年に出版した小冊子によると、
茶、
コーヒー、チョコレートは病気を予防し、治療に役立つとされた。ちょうど同じころフランスのニコラ・
ド・ブレニーNicolas de Blégny も同じ内容の発表をおこなった。だが、世紀が変わると、これら嗜好
品の過度の飲用は身体に有害だという説が有力になっていく。
次は砂糖の話だ。これは嗜好品としてはもちろん、究極的に産業革命期になって紅茶と結びついて安
上がりのエネルギー源としても重要であり、俗説によれば、
「イギリスの料理が不味くなったのはこのせ
い」ともいわれる。
砂糖は古代からヨーロッパ人に知られていた。しかし、とても不足する食品であったから、中世にお
いては専ら薬局で丸薬(キャンデー)の形で売られていた。日常の食品や飲み物を甘くするのに人々は
蜂蜜を使った。1500 年当時、砂糖は依然として高価な調味料だった。さとうきびは地中海のキプロス、
シチリア、大西洋のマデイラにおいて集中的に栽培されていた。なかでもマデイラは重要な産地である。
1508 年の生産高をみると、7 万アローバ[注:1アローバ=25 ポンド=13.5 キログラム]にのぼり、1570
年には 20 万アローバに急増する。しかし、1580 年代になると、一転して3~4 万アローバに急減してい
る。そして、17 世紀に入ると完全に消えた。マデイラの砂糖がブラジル産の砂糖により駆逐されたのだ。
ブラジル砂糖は 17 世紀初に 35 万アローバに達し、1650 年になると 200 万アローバの水準に達した。
1660 年代になると、
「ブラジル」とは砂糖の代名詞となった。そして、そのころから西インド諸島のほ
うがさとうきび栽培にさらに適していることが明らかになった。こうして栽培の中心は徐々にこちらの
ほうへ移動していく。西インド諸島からロンドンへの砂糖の積荷は増えた。当然、価格は反比例して安
くなる。
1663~1669年 ・・・ 1500万アローバ
1669~1701年 ・・・ 3700万アローバ
甘い砂糖の量産と普及は「苦い」犠牲を生みだす。プランテーションの成長は黒人奴隷に対する需要
を生む。奴隷たちは西アフリカの海岸からヨーロッパ人(ポルトガル人)によって無理やりブラジルそ
して西インド諸島に連行されたのだ。ヨーロッパ人は織物、銃と火薬、アルコール、ガラス球、その他
の商品と交換に奴隷を買った[注]のである。
[注]ヨーロッパ人が直接に奴隷狩りをしたのではない。アフリカでは部族間の闘争が激しく、敗北側
の住民が捕虜となった。これを勝利側がヨーロッパ産の珍品と交換に売り渡したのである。
(8)貿易差額主義
対アジアはどうか。ヨーロッパ人はアジアで特に目新しい商品を見いださなかった。というのは、ア
ジアとは中央アジア~イスラム圏経由で貿易が続いていたからである。1500 年時点で較べ、アジアのほ
うが文明レベルで優越しており、持ち帰ってヨーロッパ市場で売れる商品を多数そろえていたのに対し、
ヨーロッパ側はアジアで売りさばけるような魅力的な商品を提供しなかったのだ。
【各地域の輸出品】
8
ヨーロッパ・・・毛織物、亜麻布、金属製品、銀、ぶどう酒、馬、石鹸
西アフリカ・・・金、奴隷
東アフリカ・・・金、象牙、奴隷
インド・・・・・胡椒、木綿、宝石、砂糖、染色剤(藍)
東南アジア・・・香辛料
中国・・・・・・絹、茶、薬剤、香料、陶磁器、ショウガ
そのうえ、アジア経済は基本的に自給自足であり、国際間の分業はそれほど進んでいなかった。要す
るに、ヨーロッパは対アジア貿易において恒常的な赤字であった。よって、金銀の大量の流出を招く対
アジア貿易は各国でつねにやり玉に挙った。東インド会社がアジアの珍奇で魅力的な商品をもち込む代
価に金銀をアジアに流出させるという非難がそれだ。早くも 16 世紀の終わりにフィレンツェの商人兼旅
行家のフランツェスコ・カルレッティ Francesco Carletti は中国人について次のように書き残してい
る。
「中国人は自国の商品を売るばかりで、何も買わない。彼らは 1 年間でこれ2国(ポルトガルとス
ペイン)から百万エキュ以上を獲得したが、いったん銀を手にしたが最後、けっして手放さないの
だ。
」
こうした非難を避けるために考案されたのが三角貿易である。ヨーロッパの港を出帆した商船は何も
積まないで出航する。まずペルシャに到着すると、ここで絨毯を買い込み、それをインドに持ち込んで
売却する。インドでは絹織物を購入し胡椒列島に持ち込んで売る。胡椒列島では香料を購入し、中国に
行って売る。中国からは陶磁器や絹を、日本からは銅を買い入れて中国やあるいはインドに売る。帰路
の胡椒列島からは大量の香料を積み、インドで藍や木綿を買い込みヨーロッパに持ち込む。このような
貿易を通して赤字分をアジア間貿易の仲介収益によって補填するのだ。かくて元金なしに、また母国か
ら貴金属を流出させることなく、ヨーロッパで容易に捌ける商品を帰り船に山積して帰港する。
要するに、元手なしでも商売ができるのだ。つまり、貴金属鉱山を発見しなくても、貿易の差額でも
って国を豊かにできる。とはいえ、全体として見た場合、まだヨーロッパの対アジア貿易は赤字貿易で
ある。そのため、世の批判を完全にかわすことはできない。イギリスの主要産物としての毛織物がちっ
とも売りさばけないため、東インド会社は春画や宗教絵画を売ろうとつとめたが、これが不成功におわ
ったのはいうまでもない。そこで、イギリス人は問題解決の方法をアヘンに見出した。このアヘンは結
局のところ、中国とのあいだに悲劇的な紛争を巻き起こすことになる。
それにしても、当時の人々は無意識のうちに「金銀=富」という古い観念から離れることができた。
つまり、国民が年々生産する生活資料そのものが富ではないか[注:これがアダム・スミスのいう「富」
の概念]
、少なくとも富をもたらす方法ではないか? ― というふうに。
話は前後するが、新大陸の産出する金銀は 1590 年代にピークに達し、それより後になると、年を追っ
て産出高は落ちていき、1630 年代にガタ落ち状態になる。すでに「繁栄の 16 世紀」で弾みのついてい
た国際通商を支える必須条件の貴金属の枯渇がはっきりしてきたのである。ここから、各国がそれぞれ
自衛(保護貿易)に走ったため、貿易摩擦・紛争が相次ぎ、時には戦争や植民地領土の襲撃や商船を積
荷ごとに没収するような事態が相次いだ。ここから、17 世紀は「不況の世紀」または「力の時代」と呼
ばれるようになる。各国が貿易差額主義にこだわるかぎり、自国産品(加工品)の輸出は促すけれども、
他国からは原材料以外は購入を渋ることになり、この国家的エゴが丸出しになると、貿易は事実上、停
9
止する。これは人類が未だ「金銀=富」の観念にとらわれる以上は避けられない宿命であった。
1690 年代にブラジルに金鉱(ミナス・ジェライス Minas Gerais)が見つかって一時的に貴金属の流入
が見られ、暫時、通商が復興する気配を見せたが、ブラジル金は前世紀の中南米の銀ほどの産出量に達
しないまま枯渇してしまう。
「王位継承」
「独立」
「国境」
かくて、18 世紀の冒頭からまたもや熾烈な戦争が始まる。口実は「宗教」
「植民地」
「自由」
「人権」といろいろあるが、その根は共通する。すなわち、単なる国内紛争ではなく、
列強どうしの領土および経済圏の拡大、特に植民地争奪戦であることだ。なかでも絶対主義国家の成長
でもって徐々に地歩を固めてきた英・仏・露の台頭が著しい。ロシアの存在感が増すのは 19 世紀なって
からだが、ロシアは 18 世紀冒頭にすでに北東欧の一角で盤石の基盤を築いていた。
ここで後の 18~19 世紀の展開を考えるとき強調しておかなければならないことがある。それはイギリ
スの「商業革命」である。イギリスというとすぐに「産業革命」が思い出されるが、これに先行し、か
つ並行した「商業革命」を忘れてはならない。それはつまり、イギリスがヨーロッパや中近東という近
隣市場を見限って、いち早く貿易の新天地を新大陸やアジアに見出したことである。イギリスはもはや
ヨーロッパや中近東市場が飽和状態にあって将来性に乏しいことを見てとっていたのだ。それよりも「大
航海時代」以降、急激に眼前にひろがった新市場の魅力に惹かれたのである。当面は赤字貿易かもしれ
ない。しかし、イギリスが率先して新市場で売れる商品の開発をやり遂げれば、商品と貨幣の流れを逆
転させるのも可能と看取ったのである。その術は製造課程の機械化でもって大量生産を可能ならしめ、
そのことにより安価でしかも良質の商品を生みだせる。機械化の過程における動力エネルギーの転換も
必須である。それが石炭の大々的な利用であることはいうまでもない。
18 世紀後半から 19 世紀前半にかけてのイギリスの産業革命について述べなければならないことは
多々あるが、これがイギリスにおける独歩的な変革であることもあり、ここでは国際関係を論じること
が主眼であるゆえに割愛することにしたい。
(9)第二次英仏百年戦争
18 世紀をひと言で評すると、世界覇権をめぐる英仏の争いの時代である。フランスはもとから大国で
あったが、大西洋を背にどっかりと腰を据え、しだいに近隣諸国を併呑しながら現在の六角形を築きつ
つあった。この国に特徴的なことは一度として国土を他国に奪われたことがないことだ。もともと沃地
に恵まれたフランスは貿易に依存しなくてもやっていけるところから、海上覇権に関心が薄かった。野
心が皆無というわけでもないが、海軍創設や海外進出の面で場当たり主義に流れ、国策としてこれを一
貫追求しなかったところから、オランダとイギリスに後れをとることになった。天然要害の大西洋を背
にし、陸軍養成に専念さえしていれば国家は安泰であった。ところが、海峡を隔てたイギリスが産業革
命の準備を着々と進め、背後の脅威を受けるようになってから風向きがおかしくなる。
1660 年代から 19 世紀初のナポレオン戦争の終結までの 150 年間[注]における欧州列強どうしの争
いのなかで英仏は一貫して敵対関係にあり、同盟したことは一度としてない。その根本的理由は欧州覇
権に翳りが生まれ、相互の海外権益の摩擦にあると見てよい。
[注]ナポレオン戦争の終結を告げるウィーン講和会議の後のイギリスは海外植民地の獲得と経営に専
念するようになり、ヨーロッパの紛争に関わりをもとうとしなくなった。だが、オスマン=トルコと
その支配下エジプトの紛争(東方問題)に際し、フランスがエジプトに味方しようとしたとき、エ
ジプトへの権益が失われることを懸念したイギリスとの間に一触即発の危機が訪れる(1840 年)が、
フランス七月王政が融和策に転じ危機を免れた。英仏が完全に協調体制に入るのは第二帝政ナポレ
10
オン三世の時である。
アンリ四世に始まるブルボン王朝が有利な国際環境[注]のなかで王権強化と中央集権的な統一国家
への道を歩んでいた。続くルイ十三世の宰相リシュリューRichelieu は封建貴族や新教徒ユグノーを抑
圧して王権を強化し、1614 年以後、三部会を召集しなかった。ついでマザラン Mazarin は、封建貴族
が特権を取りもどそうとして起こしたフロンドの乱(1648~53)を鎮め、国外では三十年戦争に干渉し
てドイツからライン左岸を割取し、スペインと戦ってピレネー山脈以東の地を得た。
[注]当時、ドイツとイタリアは小国に分裂しており、スペインとポルトガルも衰えつつあり、そのう
え、オランダとイギリスは欧州と植民地の両方において凌ぎを削りあっていた。
ルイ十四世(在位 1643~1715)は官僚機構を整え、軍隊を強化し、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建て、
また蔵相コルベールの重商主義政策を用い経済の発展につとめた。好戦的な王はたびたび近隣に侵略戦
争を企てた。ネーデルランドとファルツの侵略には失敗したが、アルザスを初めて版図内に置いた。し
かし、海外ではカナダ、ルイジアナ(ミシシッピー川流域)
、西インド諸島、マダガスカル、インド沿岸
地方を占領した。
イギリスはエリザベス女王の治世下、北米にヴァージニア植民地を開き、その後、清教徒が拓いたニ
ューイングランドが成立し、さらに蘭英戦争によってオランダの植民地を奪った。こうして 18 世紀には
東海岸一帯に植民地を保有したイギリスは、ルイ十四世の時代にルイジアナ植民地を建設したフランス
と北米で対立するようになる。インドでイギリスは東インド会社の創立以来、マドラス、ボンベイ、カ
ルカッタを確保したが、フランスも東インド会社を梃にポンディシェリー、シャンデルナゴルに根拠地
をつくって対抗。
イギリスはスペイン継承戦争でフランスから北米の植民地を、スペインからジブラルタルを奪ったが、
さらに 18 世紀中ごろのオーストリア継承戦争と七年戦争などの欧州におけるゴタゴタに忙殺され、フラ
ンスが海外を顧みる余裕のない状態に乗じて海外植民地をごっそり奪いとった。インドではプラッシー
の戦い(1757)でフランス破り、ベンガル地方の実権を握ってインド支配を固め、北米でもカナダとル
イジアナを獲得。このようにして、イギリスはフランスに勝利を得たが、この海外における両国の対抗
はアメリカ独立戦争からフランス革命、ナポレオン戦争まで続く。
「2兎を追う者は1兎をも得ず」とはよくいったもので、フランスはヨーロッパ内の覇権争いと海外
植民地確保の両方を狙うことによって、ヨーロッパ内で国際的孤立を深め、海外では西インド諸島とマ
ダガスカル、アルジェリアを除く植民地のすべてを失うにいたる。その点で、島国のイギリスは海に隔
てられているため海防さえしっかりしておれば、ヨーロッパ内の紛争への介入を避けることができたし、
強固な海軍を保持しておれば、海上でも植民地でも無敵であった。
あまり歴史では取りあげられないが、18 世紀におけるフランスの海外進出にも見るべきものがあり、
もし七年戦争[注:北米で繰り拡げられた名をとって「フレンチ=インディアン戦争」と呼ばれることも
ある]でフランスがイギリスに勝利するか、互角の戦いを進めていれば、その後の世界史の展開はまっ
たく別ものになった可能性は高い。フランスの海外進出の痕跡は大西洋岸ブルターニュ地方の諸都市に
、、
その痕跡をとどめている。遺憾ながら第二次大戦による(英軍による)空襲[注]で大きく被災しため、
古の繁栄の影を認めるのは難しいが、サン=マロ Saint-Malo、サン=ブリアック Saint-Brieuc、モルレー
Morlaix、
ブレスト Brest、
キャンペル Quimper、
ロリアン Lorient、
ヴァンヌ Vannes、
ナゼール Nazaire、
ナント Nantes、ラ・ロシェル La Rochelle(軍港)
、ボルドーBordeaux などがフランスの対スペイン貿
11
易、西インド、インド貿易の根拠地である。
[注]フランスは対ドイツ戦争においてわずか 6 週間で敗れ講和を結んでしまう。こうしてロワール川
以北はナチス=ドイツの直接占領下におかれ、英仏連合軍は敵対関係になってしまった。ここから、
イギリス軍はフランスの軍事的拠点の町や工場を空爆で叩いたのである。この怨念は今なおフラン
ス人のなかに反英感情として影を落としている。
(10)市場植民地
駆け足で植民地の変遷を見てきた。さて、問題の 19 世紀である。ここにおいて植民地は最終の形態に
到達する。それを最初にやり遂げ完成状態にまでもっていったのはイギリスである。原料産出地として
の植民地、製品産出地としての母国という重商主義的な垂直分業のかたちはイギリスによって創始され
たが、これは早くも 18 世紀中に頓挫する。それは植民地側からする反撃に遭い、北米 13 州は合衆国と
して独立してしまうのだ[注]
。
[注]植民地の独立という最初の偉業にイギリスの永年のライバルたるフランスの加勢が関与していた
ことは疑いないし、フランス海軍の加勢がなければ独立運動は頓挫したことはまちがいない。北米
ではイギリス系の移民が主であり、その生活形態や習俗、思想、宗教までも母国風であり、母国の
無茶な押しつけに反抗する精神までもが移出されたとみてよい。イギリスは南アフリカの植民地で
も激しい抵抗に遭い、戦争(ボーア戦争)に敗れ独立を認めてしまう。要するに、ヨーロッパ系の
移民が主力をなすところではその植民地が成熟するに伴い、すぐに手放す結果になる。
ところが、一方の南アジアにおいてイギリスはインドやミャンマーを植民地化した。18 世紀後半から
イギリスでは産業革命が進行し、植民地の役割は大きく変化した。すなわち、紡績機の発明などによる
産業資本の発展は原料供給地としてのインドおよびイギリス製品の市場としてのインドを必要とするに
いたった。かくして、インドの土着の伝統産業は破壊され、綿花とともに藍やアヘン、茶などの輸出に
頼らざるをえないように経済構造を奇形化し、インドの従属化を進めた。イギリスはアヘン戦争によっ
て中国の門戸を開き、中国社会の自給自足体制を打破した。
19 世紀においてヨーロッパの工業化の波は大きく、いよいよヨーロッパ列強と後進国地域との格差を
拡げ、後進的地域はますます従属化を深めていく。それに応じないところでは武力制圧がなされた。19
世紀中葉において「東方問題」が発生した。これは国内の諸民族の独立運動と列強の介入の結果、オス
マン=トルコの支配下にあった諸民族をトルコの専制支配から解放した代わりに、新たにイギリスの従属
下に置いたものである。西洋列強が掲げる「自由主義」と「民主主義」の看板の裏には必ず、こうした
植民地=従属化の目的が隠されている。
列強が発展するにつれて植民地ではモノカルチャーが形成される。キューバの砂糖やブラジルのコー
ヒー、エジプトおよびメキシコの綿花のように世界市場に輸出するために単一の作物を栽培し、それが
その地域の主要な部門になっているものをモノカルチャーと呼ぶ。これらの地域では経済の諸部門が直
接的・有機的に連携しているのではなく、世界市場を媒介として ― その媒介者は西欧列強だが ― 絡
みあっているのであり、当該地域の経済は宗主国の利害に左右されざるをえない。たとえば、ブラジル
は形式的には独立国であるものの、実際上はコーヒー栽培に特化され、その輸出を左右するのはイギリ
ス、後にはアメリカ合衆国に経済的に従属する半植民地的な状態におかれたのである。
モノカルチャーの代価は付加価値の高い製造品は宗主国からの購入を事実的に義務づけられることだ
った。そもそも、洗練された文化というものは、最初に植民地に移動したイギリス人、オランダ人、フ
12
ランス人によってもたらされたものであり、家具・建具、調度品、道具、各種金物、衣類、醸造酒、加
工食品などの生活必需品はもとより、機械や運搬車両、鉄道、機関車、軍需物資の製造について植民地
ではもともと作る技術がなかったのであり、そこにきて植民地における製造業の育成は母国によって極
力妨害されたからである。たとえば、独立以前のアメリカで許された製造業といえば製材業と造船業ぐ
らいしかなかった。それというのも、ヨーロッパでは木材資源が枯渇していたからである。
太平洋の探検が次々とおこなわれ、オーストラリアとニュージーランドへのイギリス人の入植が進ん
だことで、18 世紀の終わりにはヨーロッパの影響力や海軍力が地球上に隈なく及ぶようになる。ヨーロ
ッパ人は 20 世紀半ばまで続くことになる覇権を確立しようとしていた。
ヨーロッパ人に対抗できるのはもはや中国とオスマン帝国だけである。これら2国も 18 世紀末には明
らかに衰勢にあったが、それでも 19 世紀に入ってもまだ独立国としての敬意を受けるだけの力を残して
いた。オスマン帝国は、後に「大いなるゲーム」と呼ばれる覇権争いのなかで、勢力伸張を狙うヨーロ
ッパ列強を相互に競わせる戦略を取ることでなんとか 19 世紀半ばまで生き延びた。しかし、1900 年ま
でにかつてのスルタン領のほとんどを失っていた。中国は通商の有力な相手国として価値を認められて
いたが、1793 年、東インド会社とジョージ三世の代理としてジョージ・マッカートニー卿が歴史的に有
名な訪問[注]をおこなったときにはすでに貪欲なイギリス人の眼には無防備な存在として見えはじめ
ていた。
[注]清の皇帝のまで伝統的な叩頭の礼を取るのを拒否した事件である。マッカートニーは公的な使節
である。天子の前でひれ伏すこと拒んだのは、中国文明が自由貿易の荒々しい力の前に、さらには
もう少し経てば、西洋の科学の荒々しい力の前に長く抵抗できないという確信をいだいていたから
だ。
中華帝国は明らかに古くさく死にかけた社会だった。一押しすれば転げ落ちるだろう。もちろん革新
的で無遠慮で個人主義のヨーロッパ人たちはその一押しに手を貸そうと待ち構えていた。数年の間にヨ
ーロッパ特にイギリスとフランスは中国に対して「洋鬼子」に門戸を開くよう苛酷な要求を強めていく。
その要求の頂点を迎えたのが 1839~42 年のいわゆるアヘン戦争である。イギリスは香港の基地を拡張
。また、1859
し、イギリス領インドの一部と見るのが正当だと考えて、チベットを事実上分離させた[注]
年に各港で外国貿易を管理する税関施設の「海関」を統括する権利を得て、名目上、
「海関」は皇帝の支
配下にありながら、主としてイギリスの商業的利益のために活動する巨大な官僚組織となった。ドイツ
はこの国の北部山東半島に基地を築き、すでにインドシナを占有していたフランスは南部に影響力を拡
げていた。
[注]1750 年以来、清朝の保護領となっていたチベットは清国への抵抗運動が続いていた。1903 年、F.
Younghusband を首魁とする武装使節団がラサに侵入し、英蔵条約(ラサ条約)を締結し、保護領と
した。辛亥革命後も十三世ダライラマは親英政策を取り独立の動きを見せたが、1951 年に新中国に
よって併合され自治区となった。十四世ダライラマは以後、国外に亡命したまま今日にいたる。
1900 年に英・仏・露・伊・独・米・日の連合軍はいわゆる義和団の乱(夷狄排斥の独立運動)を平定
し、北京を占領。このような侵略が直接の原因となって、1911 年に国内の革命蜂起によりチンギスハン
の時代から続いた中華帝国は崩壊し、支配権は軍閥と呼ばれる多数の地方支配者の手に移り、この体制
が 1949 年の共産党の支配が確立するまで続くことになる。
中国で有力な帝国が崩壊したことで、世界はヨーロッパ列強とロシア、アメリカの手に渡る。1800 年
13
にこれら諸国が占有ないし支配していた地域は全世界の 35%ほどだった。それが 1878 年には 67%、さ
らに 1914 年には 84%にまで跳ね上がるのである。
市場植民地とそれをめぐっての列強の凌ぎ削りあいを語るうえで忘れてならないことがある。それは
保護貿易と自由貿易の扱いである。アダム・スミスが「自由放任 Laissez-Faire」政策を唱えてからとい
うもの、イギリスはもちろん列強のどの国も保護貿易から自由貿易に転換したように思われがちである。
ところが、実情はそうではなく、イギリスですら自由貿易主義に転換したのは、東インド会社を解散さ
せてからにすぎない。この辺の事情を述べておこう。
保護貿易とは重商主義原理に則り、国内の幼弱な製造業を外国商品の侵入から保護するため外国商品
の流入を禁止ないしは高額の関税を課すことである。もしこの種の経済統制を止め貿易を自由に放任す
れば、国内の産業が育たない。自由主義は経済的勝者の論理である。西南ドイツのヴュルテンベルク出
身のフリードリヒ・リストは大著『国民経済学体系』でスミスの立論を厳しく批判した。国際貿易の最
高度の自由が国民的隷属をもたらすことを英葡間のメスェン条約(1703)と英仏間のイーデン条約(1786)
によって示した。つまり、この2つの条約はイギリスの工業製品市場を拡大し、ポルトガルとフランス
の国民経済を破滅に追いやったのである。
こうした自由貿易主義に敵意を剥き出しにしたのがナポレオンである。彼は「ベルリン勅令」
(1806)
によって大陸封鎖を敢行し、これによってすべてのイギリス製品、ロンドン経由の植民地産品の流入を
大陸から封鎖した。ナポレオンはイギリス海峡の向こう側に販売不振という深刻な危機をつくりだすこ
とを狙った。彼はこの封鎖がボルドーやアムステルダムの商業都市を荒廃させることは認識していた。
しかし、彼は同時に大帝国の住民たち、特にフランス人がイギリスや植民地の製品なしで済まし、また
自己の経済のなかにそれに取って代わる手段を見いだすような勇気と力を十分にもつことに期待をかけ
たのである。
実際は密輸が横行した。フランスの小麦、ぶどう酒、絹織物がイギリスに入り、他方、ヘルゴラント
島におかれたイギリスの交易地のすぐ近くに位置したハンブルクを経て、イギリスからの綿織物、粗糖、
インディゴ、タバコなどが帝国に入ってきた。この密輸を阻止するために 1810 年に数千人の兵士がフラ
ンクフルトを包囲し、すべての商品倉庫を徹底的に捜索し、差し押さえたイギリス商品を路上に積み上
げて焼いた。
ナポレオン帝国の没落後、低価格で作られたイギリス製品は洪水のように大陸に押し寄せ、中部・東
部ヨーロッパの小麦がイギリス市場に進出。こうした荒々しい競争から自国の生産者を守るために各国
は厳しい保護主義体制を実施した。たとえば、ドイツ諸国は自由交換の関税同盟を形成し、同時にフラ
ンスあるいはイギリス製品に対して高い関税を課した。フリードリヒ・リストの立論もこうした中での
ものである。
保護主義を再検討することになるのは、産業革命を実現した最初の国にして競争者を圧倒的にリード
していた国イギリスである。コブデン、ブライトを中心としたマンチェスター地域の実業家たちは小麦
課税によってパンの高値が労働者の利益(その実、安上がりの労働力を必要とする実業家たちの利益)
を害しており、自由貿易にすればすべての者が利益を享受できると主張した。彼らの圧力のもとにイギ
リスは実際に 1848~52 年に自由貿易を採用する。これはイギリス人の生活費を引き下げ、イギリスの
工業生産物をいっそう競争力のあるものにした。
フランスでは金融家ペレール兄弟や経済学者ミシェル・シュヴァリエのようなサン=シモン主義者の中
から自由貿易を掲げる者が現れた。しかし、実業家たちの大部分は損害を懼れて関税政策の変更に根強
14
く反対した。ナポレオン三世は長い間イギリスで生活した経験もあって、関税の大幅引き下げをめざす
条約交渉をコブデンとの間で実施することをシュヴァリエに委ねた。この条約 1860 年に調印された。衝
撃は大きかった[注:
「ナポレオン三世の商業クーデタ」と評された]が、まもなくこれがフランス経済
の近代化に貢献したと見なされるようになる。直ちに、この自由貿易主義はベルギー、オランダ、関税
同盟、そしてロシアを除く大多数の国がこれに追随した。
だが、この最初の自由貿易の期間は 20 年ほどしか続かなかった。1873 年に始まる「大不況」がヨー
ロッパを席巻し、各国は経済の防衛に復帰したからである。その後、一時期こそ自由主義への気運が再
燃したが、さしたる効果を挙げないまま、イギリスを除き各国は植民地争奪に躍起となり、自国と植民
地を中心としたブロック経済の育成に余念がなかった。
(11)帝国主義植民地
19 世紀後半、列強の生産力の発展は著しく、各国は工業製品の市場を国外に求めなければならなくな
った。しかし、列強国内には社会主義勢力が台頭しつつあり、植民地でも民族資本家や民衆の抵抗が起
こりはじめた。そのため、各国政府は一方で国内の革命勢力を抑え、他方では植民地の排外主義の抵抗
を排したうえ、しかも他列強の介入を妨害するという三重の課題を負った。
自由放任主義の経済ではこれまでのように利潤確保が難しくなり、大資本による企業の集中と資本集
積が進み、こうした独占を通じて超過利潤を確保する以外に方法がなくなっていたのだ。大資本の形成
に伴い銀行の役割が増大し、ついに一国の全産業を支配するような金融資本も出現する。国内において
資本利潤が限度に達すると、原料や労働力が安く、市場としての価値をもつ植民地に資本そのものが輸
出されるようになる。植民地における鉄道の敷設、各種企業の経営、借款の供与などはその具体的なあ
らわれである。このような先進資本主義国による海外発展の傾向を「帝国主義」と呼ぶ。
近代産業の発展に優越し、他国との商品輸出に自信を高めたイギリスは自由貿易主義を徹底させ、植
民地無用論さえ取り沙汰する。国内の労働運動はトレード=ユニオニズム Trade-unionism が主流とな
り、また 1867 年と 1884 年の選挙法改正を通じて選挙権もしだいに拡張された。しかし、仏・独・白な
ど他列強が海外発展を強化するにつれ、植民政策強化論もあらわれ、保守党ディズレーリは全領土を「帝
国」として強力に統一支配すべきことを唱えた。
1875 年、イギリスはエジプト太守が所有していたスエズ運河の株を買い取り、後のエジプト支配の糸
口をつくった。1877 年にはインドを帝国としてヴィクトリア女王(在位 1837~1901)がインド皇帝の
称号を重ねるにいたった。また、1887 年以来、植民地会議が召集され、本国と植民地の関係は特恵関税
制度によって緊密なものとされた。この間、1876 年にはインド西方のベルチスタンを 1879 年にはアフ
ガニスタンを保護領とし、1886 年にはミャンマーを併合した。
普仏戦争後のフランスでは、諸王党派を抑えて共和派が勝利し、1875 年には「共和国憲法」が制定さ
れ、ここに第三共和政が確立した。中小農民と小市民の多いフランスは工業生産の面では新興国アメリ
カとドイツに追い越されようとしていた。しかし、小市民の資金を基礎とする海外投資が発展し、1881
年にテュニジアを占領した[注]
。これでもってフランスも帝国主義の仲間入りを果たした。
[注]アルザス=ロレーヌの奪還をめざし対ドイツ復讐熱に燃えるフランスの関心を逸らそうとして、ビ
スマルクがフランスのテュニジア進出を促した話は有名である。
ドイツ帝国の成立後、まずビスマルクは中央党を組織し、反政府的態度をとるカトリック教徒に対し
て「文化闘争」をおこなったが、結局ひとつの妥協に終わる。また、彼は強国の発展に対抗して急速に
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ドイツを近代化するため、1879 年に保護関税政策をとった。ビスマルクは 1878 年に「社会主義鎮圧法」
を制定して社会主義勢力を抑制したが、十分な成果を挙げることができなかった。この間ドイツの資本
主義は著しく発展し、イギリスを凌ぐ形勢にあった。当時ドイツでは産業資本家が保護関税を、農業に
依存する土地所有者が自由貿易をそれぞれ支持していた。しかし、交通の発達、南北戦争後のアメリカ
の農業の発展、農奴解放後のロシアにおける農業の発展などの結果、安価な穀物がヨーロッパに入った
ため、ヨーロッパは農業恐慌に陥り、ドイツの土地所有者も保護貿易を要求するようになる。
1880 年代になると、ヨーロッパ列強は国内問題および国際問題においていっそう緊迫した状態におか
れるようになった。国際関係ではビスマルクはなおもフランスの孤立化をはかり、1882 年にはオースト
リア、イタリアと三国同盟を結んだ。しかし、資本主義が発展するにつれ、ドイツもバルカンから近東
へ向かって進出せざるをえなくなったため、もはやベルリン会議当時(1878)のように、公平無私な態
度で国際関係の調整に当たることはできなくなった。1887 年、ビスマルクは三帝同盟の維持に失敗し、
1891 年、ついにロシアがドイツを離れて露仏同盟が成立。これは三国同盟に対立する軍事同盟である。
そのロシアでは露仏同盟成立の時期と前後してフランス資本の輸入によって重工業化を果たし、1891
年にはシベリア鉄道も起工された。ロシアは西ヨーロッパに安価な原料と労働力と軍事力を提供する国
にはなったが、国民の生活は改善されなかった。
ヨーロッパで内外政策ともに行き詰った列強は争って植民政策を強化したので、ここにいわゆる「世
界分割」という事態が現われた。アフリカは暗黒大陸として長い間顧みられなかったが、探検家たちに
よりアフリカ奥地の状態もしだいに明らかになる。それまでのアフリカは北岸と西岸を中心に沿岸しか
わからなかったのである。
ベルギー王のもとに「コンゴ自由国」が誕生。1880 年代に入ると、ドイツも東アフリカ、西南アフリ
カ、カメルーン、トーゴなどを領有。統一後のイタリアはしきりにエチオピアを狙ったが、1896 年その
遠征軍は大敗し、わずかにその周辺エリトレア、ソマリランドを領有するにとどまった。
イギリスは 1896 年ごろから再び南下を始め、一方、フランスはサハラ砂漠を通ってアフリカ横断計画
を進めていた。1898 年、英仏両軍はファショダで衝突したが、フランスの譲歩で妥協に達した。
ケープ植民地と南ア問題、オーストラリア、ニューギニアの植民地化(英独による分割)
、アメリカに
よるフィリピンとグァム、ハワイ領有についてもふれたいが、ここでは割愛する。
最後に、帝国植民地の運営の問題 ― 特に英仏の違い ― についてふれておきたい。端的にいって、
イギリスは「間接統治」
、フランスは「直接統治」の政策を取る。
イギリスはその土地に広まっている社会秩序に直接的に関わろうとしない。イギリス人は現地の人々
の上に立つのではなく、植民地の上層部分を通じて統治した。理由は、帝国たるものは面倒が少なく一
「間接統治」がこれである。この
種の温情主義的な管理をおこなうものだという考え方に一致していた。
結果、イギリスのインド統治ではインド諸侯の荘園はそのまま残り、諸侯自身がイギリス政府の出先機
関として働いた。イギリスはインド土着諸侯たちの子弟を本国の大学に留学生として迎え入れ、未来の
植民地官僚として養成した。
この考え方の基本になるのは人類学者マリノフスキー流の機能主義である。マリノフスキー[注:ポ
ーランド人亡命者]は、アフリカの社会は非常に脆く、分断されているので、急速で劇的な変化を受け
入れることができないと考えた。人類学者の役割は、この繊細な社会のいちばんうまい扱い方を政府に
指導し、旧社会を破壊することなしに将来のヨーロッパ人による支配にそれらの馴染ませることである。
それには、その社会の働きを理解し、できるかぎり現地の支配者を通じて働きかけるしかない、とマリ
ノフスキーは考えた。
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だが、
「間接統治」がおこなわれたのは、主に現金作物に依存した経済を展開し、気候がヨーロッパ人
の入植に向かない北アフリカと中央アフリカに限られた[注]
。これに対し、南アフリカ、南ローデシア
(現ジンバブエ)
、ケニアは豊かな耕作地とダイアモンドと貴金属が発見されたことで政府の職員だけで
なく、セシル・ローズをはじめとする民間の土地投機家や渡り者を惹きつけた。ここではしばらくのあ
いだ、アジアでは考えられないような行動の自由(殺戮と追放の策)を手にした。
[注]西洋人は炎熱に弱い。アフリカ人は炎熱下の起伏ある山地を 1 日に 60 キロメートルを難なく踏破
するが、西洋人は 10 キロメートルでも難しい。これはフィリピンの「パターン死の行進」
(1947 年
4 月)でも実証される。
フランスは「直接統治」策をとる。それはフランス革命に発する。1789 年の「人権宣言」は普遍主義
的な願望を告げる。人権宣言はすべての政府の基盤となる基本的原則を打ち出し、
「フランス人民はあら
ゆる人々のなかでいちばんであり、あらゆる国の手本となる」を宣言した。のちにナポレオンはもっと
ぶしつけに「フランス人にとっていいことはだれにとってもいいことだ」と喝破する。彼はセントヘレ
ナ島から次のように書き送る。
「すべての場所に同一の法と原則、意見、感情、見解、利害をもたらすというのが私の構想であっ
た。そうすることで、ヨーロッパという大きな一族にアメリカ合衆国のような代議制議会やギリシ
ャの隣保同盟のような制度を導入することが可能となるのだ。
」
この考え方の基礎をなすのは、ナポレオンにとってフランスが頂点に立つヨーロッパの統一は第一歩
にすぎず、最終目標は世界である。それゆえにナポレオンは確信をもってヨーロッパに革命の輸出を図
り、異文化社会でのその最初で最後の矛先がエジプトであった。ここで矛盾が一挙に噴出する。フラン
ス人は古代ローマの栄光を再現しようとする。ローマが拡張しているかぎり、内部的な矛盾は隠ぺいで
きるが、拡大にブレーキがかかるや否や、たちまち分解してしまう宿命的な弱さをかかえていた。はた
して、フランス革命とナポレオン戦争が拡大を止めると同時に「普遍共和国」は頓挫した。同じことは
1940 年にフランスがナチス=ドイツの電撃攻撃の前に潰えた時点でも生じた。
「間接統治」と「直接統治」の結果は英仏において異なったあらわれ方をする。
フランスは西アフリカにイギリスの3倍の広さの帝国を築いたが、資源と人口の点ではイギリスに明
らかに見劣りする。それにもかかわらず、フランスは植民地の同化政策を展開し、基本的にフランス本
土と同じ地方政治体制を敷いた。イギリスとの比較で明らかに違うのは、イギリス人のような明確な人
種主義的偏見 ― フランス人が人種的偏見をもたないとまではいわないが、比較的薄いのは事実だ ―
に毒されることもなく、本国人と植民地人、そしてその混血人クレオールを平等に扱ってきた。フラン
スの第三共和政がとつぜん消滅したとき、植民地で独立運動が起こるのだが、本国がヴェトナムを除い
てあっさり手を引いたこともあって、この地域を別として大きな紛議をもたらさなかった。
イギリスは第二次大戦で戦勝国となった。とはいえ、この戦勝は激しい消耗を伴った。宗主国が危機
を迎えると、かつての植民地で方向転換が生じるのは避けられず、独立運動に火がつくことになる。植
民地で支配される人々が支配下にとどまるのは、少なくともそのうちのかなり多くがそうすることに何
らかの利益を認めている間に限られた。その経緯はかなりの摩擦を伴い、険悪な事態を生みだした。そ
の主たる理由は植民地に元の独立時代の遺制が残っていたため、民主派と旧制度復元派の対立を招いた
からである。ガンディやネルーを悩ませたのはこうした種の内部的な桎梏であった。
イギリスの場合、― 南アフリカを除いて ― 植民地に自国民を多数送り込んだり、大きなクレオール
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のエリート層をつくりだしたりしていなかったために、現地人の叛逆が起きると、それに抵抗したり、
介入したりすることができなかった。そのことが原因となって、もとのイギリス植民地が今なお、過去
の禍根を引きずり民族・人種・宗教をめぐって対立を続けているのである。アイルランド、スコットラ
ンドはむろん、パレスティナ、インド、パキスタン、バングラデシュ、アフガニスタン、チベット然り
である[注]
。それは、アングロ=サクソンを主とするオーストラリアやニュージーランド、カナダで深
刻な問題を生じていないのと対照的である。
[注]フランスでも時間差を伴ってフランス仲間入りした辺境地域(フランドル、ルシヨン、ブルター
ニュ、コルシカ、バスク等)で独立運動がかつては起こったものの、今や独立運動はほとんど下火
になっており、西インドや太平洋の島々でも同様である事実に注目すべきである。
(c)Michiaki Matsui 2014
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