MediaNet No.18 (2011.11) ティールーム ローマで出会ったヴァーチャル精神医療資料館 みやさか けいぞう 宮坂 敬造 (文学部教授) 人の背丈ほどの高さのガラス性樹脂の板が, 部屋の前に仕切りのように置かれている。その 様子が遠くから見えた。奥には机と椅子がある だけのがらんとした空間がある。さらに近づく と,その透明な板の中から突然,人がこちらに むかって体当たりしてくるのが見えた。上半身 が裸の男性だ。それに女性も突進してくる。け れども,壁に当たって跳ね返されてしまう。と 思うと,後ろから彼らの手をとって引き留める 人間もみえた。拘束されて自由を奪われている 人間が絶望しながらも脱出をしようとしてい る!そう直観した…。次の部屋<話す>に移っ てほしいと館長に促され,廊下の右端の部屋に 入った。そこにはマイクがあり,なに か言葉をしゃべってみるように言われ た。 「こんにちは!こんにちは!」とま ず日本語で呼び掛けてみた。すると, その部屋の壁の部分が画面のようにな り,人の唇が大写しに浮かび上がり, さまざま音が発音され,話し声がさま ざまな角度から聞こえてきた。さらにひとつ隔 てた左側の別の部屋に入る。すると,そこには 天井から手のひら程度の大きさの釣り鐘型の金 属機器が多数吊り下っている。そして,自分の 声音に似ている声が多数の方向から同時に聞こ えてきた。もし幻聴が聞こえるというような体 験があったら,こんな感じに聞こえてくるのだ ろうか…? 釣り鐘機具はスピーカーになっていて,先ほ どの部屋で私がマイクにむかっていろいろしゃ べった言葉がスクランブルされ,方々から聞こ えてくる仕組みになっていると説明をうけた。 かつての病棟の食堂の空間を改変した回廊で食 卓に向かうと,仮想現実メディアの映像で当時 の皿や食事が出てきたり,記録帳があるのでめ くると元患者の自己語りが始まったり,昔の病 院風景の映像を見ることができた。 この建物はいまは資料館ムセオ・ラボラトリ オ・デラ・メンテとなっているが,もとはとい サ ン タ ・ マ リ ア ・ デ ラ ・ ピ エ タ えば中世からの流れをくむ精神病院であり,イ タリアの近代精神医学の展開とともにいろいろ な治療を行ってきた歴史をもつ。ところが,精 神科医フランコ・バザーリアの運動により, 1978 年にいわゆるバザーリア法が国会を通過 し,80 年代末までに精神病院への強制入院治療 は廃絶されていくことになる。イタリアでは, 精神疾患をもつ人たち自身の自発的治療要請に 応える地域精神保健治療機関による外来だけの 診療が主となり,2000 年に至ると精神病院への 入院治療は例外的事態を除き,行われなくなっ たのである。 「それで,長年この病院で治療して きた自分は精神科医として失業したので,この 資料館の館長となった」とポンペオ・マルテリ 先生は冗談めかしておっしゃった。冒頭に記し た 3 つの部屋は,精神障害の経験を仮想現実的 に一般訪問者たちに体験をさせるために開発さ れた空間であった。2000 年以降,館長 自身とスタジオ青(アズッロ)が共同 でヴァーチャル・メディア芸術の表現 方法を実験的に開拓し,精神疾患をも つ人々を一般社会が特殊視する傾向を 無くすための具体的呈示法を編み出し てきたのである。それゆえ,実験美術 〔博物〕館と名付けられている。一部のヴァー チャル映像は俳優が演じたものから作成されて いるが,大部分はかつて病院で使っていた治療 器具や病室などの過去の実物と,入院患者の描 いた絵,バザーリア法導入以降の過去の治療法 への反省に基づいて彼らに応えてもらったイン タビュー映像等々,病院の過去の文書や映像記 録を反省的に再構成した資料なのである。 ヴァーチャル資料館の最後のスペースの壁に は,電気ショック療法の機械装置(1938 年に ローマ大学の精神科医が創始して以来,この病 院で使われていた)や病室ベッドなどが,風で 飛ばされて消失していくイメージで,まさに「反 省的」に展示されていた。この秋,ローマでの 学会発表の関連で,いくつか地域医療施設を訪 問する機会があり,最後に訪れたのが精神医療 の歴史を保存するこの実験的資料館であった。 50 人ほどの高校生見学客がにぎやかに退出し たあと,館長にインタビューし二人で 90 分ほど かけて見たのだが,まさに近未来に普及すべき アーカイヴの姿をそこに見たという思いがした のである。 57
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