オリエントへの揺れるまなざし - プール学院大学・プール学院短期大学部

プール学院大学研究紀要 第51号
2011年,15∼26
オリエントへの揺れるまなざし
―イザベラ・バードの第3期旅行記をめぐって― 1)
大田垣 裕 子
序
『日本奥地紀行』
(U QEHDWHQT UDFNVLQJ DSDQ)の著者であるイザベラ・バード(1831−1904)は
ヴィクトリア朝時代に世界各地をめぐって見聞を広めたイギリスのレイディ・トラベラーの一人で
あった。その中でも、旅の範囲の広さ、また旅の体験をもとに書かれた膨大な著作や活発な講演活
動などにおいてバードは傑出していたといえる。本稿では前半第I部で当時アジア旅行家の第一人
者であったバードの一生の伝記的紹介、後半第Ⅱ部でバードが1878年から1879年にかけて訪れた日
本やマレー半島の旅行記を主として取り上げ、そこに見られるオリエントへの揺れるまなざし―ア
ジア的事象に関する詳しい観察記述の中にそれらに対する彼女の矛盾する視点の混在、すなわちア
ルカディアとしてのオリエントへの賞賛、幻想とアジアの国々の宗教や文化に対する否定的解釈が
読み取れることを明らかにしたい。
踏みならされた道(beaten tracks)を避けて旅したバードは「困難には真っ向から立ち向かっ
て」いった。2)切り傷、擦り傷、虫さされはいつものことで、川で溺れかけてアバラ骨を折ったり、
荷馬車から放り出されて腕を折ったりもした。炎天下、吹雪のなか、トラ、暴徒、戦争などにひる
むことなく、むしろ危険で困難な状況であればあるほど意気込んでその旅程に挑戦したのである。
そして彼女がものした紀行文や旅に関する記事は正確を期す姿勢が伝わる、生き生きとした描写で
あったため、常に非常に高い評価を得た。若いころから脊髄の病気に悩まされていたと言われるが、
それにもかかわらず、旅で発揮される勇気、スタミナ、エネルギーには目を瞠るものがある。22歳
から始まった海外旅行は70歳の晩年に至るまで繰り返され、海外での生活は9年余りに及ぶ。その
生涯はどのようなものであったのかを以下で辿る。3)
Ⅰ
バードは1831年、イギリスのヨークシャー・バラプリッジでバード家の長女として生まれた。
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バード家は高位聖職者を輩出した家柄で、牧師であった父エドワードはきわめて熱心な安息日厳守
主義者であった。父は彼のいとこでイギリス奴隷貿易廃止に尽力した福音伝道者ウィリアム・ウィ
ルバーフォースから強い影響を受けた。バードの父方の叔母たちの中には奴隷がプランテーション
で栽培した作物である砂糖を一切口にしなかった者もいる。3)
父エドワードは息子を早く亡くしたこともあり、バードを長男のように育て、幼い頃から乗馬を
教えた。また馬に乗って教区を回る父のお伴をしている時にバードは父から場所や事物間の距離を
目測する方法を習得した。畑の作物、動物、水車や門の仕組みなどについて問いかけられ、物事を
観察し自分で考えるようになった。やはり牧師の娘であった母ドロシーは控え目ながら教え方がと
てもうまく子供たちの知的好奇心を掻きたてた。このような家庭環境がのちのバードの旅行作家、
地理学者としての活躍の素地を育んだといえよう。
生来、病弱であったバードは医師から療養のための遠洋航海 4) を勧められ、また渡した100ポ
ンドを使いきるまで帰ってこなくてよいという父の進歩的な申し出により、1854年、22歳の時に
アメリカとカナダを訪れることになる。これが第1回目の彼女の行った大きな旅行である。この
旅は決して後の旅行のようにスリルに満ちたものではなかったが、旅行記や地誌の出版などを手
掛けていたジョン・マレー社から1856年にこの旅の記録を『イギリス女性のアメリカ紀行』
(T KH
E QJOLVKZRPDQLQA PHULFD)と題して出版し、カナダ・アメリカでも評判を得る。ちなみにこの本の
出版以前にバードはアメリカの宗教事情に関する論文9本を一冊の本にまとめてほしいとジョン・
マレイに申し出て断られている。そもそもこの北米への旅はイギリスの貧困層の人々が移住するの
にふさわしい土地かどうかを調査することにあった。
2回目の長旅には1872年、40歳の時に出発した。父を、次いで母を亡くし、エディンバラで宗教
社会活動に従事していた彼女は再び病状が悪化し、医師から航海を勧められた。当時のイギリス社
会では中流階級以上の女性は家庭、社交、慈善活動といった狭い範囲に活動の場を制限されていた。
バードもまた国内ではその抑圧から逃れることはできなかったのである。
バードはオーストラリア、ニュージーランドを経てサンドイッチ諸島(今のハワイ諸島)へ行き、
そこで半年過ごした後、アメリカ、ロッキー山中で数カ月を送った。これはおよそ1年半に亘る危
険と困難に満ちた長期旅行となった。オーストラリア・ニュージーランドの旅でますます体調が悪
化したバードはニュージーランドからサンフランシスコ経由でイギリスに帰ることに決め、旧式ア
メリカ型汽船ネバダ号に乗船するが、折悪しくハリケーンに遭遇し生命の危険にさらされる。嵐の
間薬を飲む暇もなかった彼女は、驚いたことに病状が落ち着き気分も爽快になっていることに気付
く。この時のことをバードは友人のMrs. Blackieへの手紙の中で次のように書いている。
At last[she wrote]I am in love, and the old sea-god has so stolen my heart and penetrated
my soul that I seriously feel that hereafter, though I must be elsewhere in body, I shall be
with him in spirit ! My two friends on board this ship have several times told me that I have
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imbibed the very spirit of the sea. It is to me like living in a new world, so free, so fresh, so
vital, so careless, so unfettered, so full of interest that one grudges being asleep . . . . 5)
いにしえの海の神に恋をし、心奪われてしまったので、今後はきっと陸の上でも海の神と一緒で
しょう、世界が新しくなった、自由で、爽やかで、元気いっぱい、心配ごともなく、何にも縛られ
ず、眠るのももったいないぐらい、とその高揚感を語っている。そしてこの後に上陸するハワイで
は自然の景観や政治、社会、宗教的生活に心惹かれ、半年あまりをこの地で過ごす。馬に横座りで
はなく跨って乗るメキシコ式鞍とトルコ風の乗馬ズボン 6)を手に入れ馬の旅を満喫し、またロッ
キー山脈では愛と別離を経験した。バードは帰国後、2冊の旅行記『サンドイッチ諸島での6カ月』
(S L[M RQWKVLQWKHS DQGZLFKI VODQGV)と『女性のロッキー山脈での生活』(A L DG\·VL LIHLQWKHR RFN\
M RXQWDLQV)を出版し、前者は『スペクテイター』誌や『ネイチャー』誌でも認められ、後者も「も
う『ロッキー山脈』を読んだか。」と皆が口々に聞き合うほどの人気を博した。
バードが3回目の転地療養のための長期旅行で日本に到着したのは1878年、バード46歳の時で
あった。6月に東京を出発し、2カ月かけて陸路を青森まで進み、北海道で1カ月間留まりアイヌ
集落で調査を行い、函館から船で横浜へ、さらに1カ月を東京で過ごした後、神戸、京都、伊勢な
ど関西方面を訪ね、12月に日本を立ち、香港、広東、シンガポールなどを経由してマレー半島で5
週間滞在し、1年ぶりに帰国する。
翌年出版された『日本奥地紀行』も何度も版を重ねる売れ行きであった。しかし、初版出版の2
カ月前、妹のヘンリエッタことヘニーが病死する。バードはヘニーが旅の様子が見えるようにと手
紙をしたため彼女に送り、その手紙をもとに紀行文を書いていた。インスピレーションを失った彼
女の嘆きは『日本奥地紀行』の前書きにもよく表われている。
その翌年に数年来家庭医であったジョン・ビショップ博士と結婚する。49歳であった。2年後に
は香港からマレー半島の旅について記した『黄金の半島とそこへ至る道』
(T KHG ROGHQC KHUVRQHVH
DQGWKHW D\T KLWKHU)を出版した。ビショップも悪性貧血を患い、長い間の介護のかいもなく他界し、
彼らの結婚生活は5年で終わってしまう。
医療伝道を支持していた夫ビショップの志を継ぎ、バードは外科の看護婦としての訓練を受け再
び旅に出る。1889年、59歳の時である。カラチからカシミールに入り、そこでジョン・ビショップ
記念病院の建設準備を整え、西チベットで3カ月滞在する。次いでパンジャブに入り、妹を記念
してヘンリエッタ・バード病院を建てるように取り計らう。さらにラホール、バグダッド、ペル
シャ、クルディスタン、アルメニアと進んだ。この旅は彼女が今まで経験した中でも最も厳しいも
のであった。バグダッドからテヘランまで傷口から流れる血もすぐに凍りついてしまう極寒の中を
まさに生死をかけて前進していった。しかし、この旅で一番バードの心を痛めたのは人々の貧しさ
と惨めな生活であった。帰国後1年して出版された『ペルシャとクルディスタンの旅』(J RXUQH\V
LQP HUVLDDQGK XUGLVWDQ)も大いに賞賛された。翌1892年にスコットランド地理学会特別会員、イギ
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リス王立地理学会特別会員に選出されている。これまでの彼女の功績が認められた結果であろう。
帰国3年後の1894年、62歳で再び極東へと向かう。今回は撮影技術を身につけてのカメラ持参
の旅だった。日本経由で朝鮮へ、次に満州、天津、北京をめぐっている。日清戦争が勃発したた
め、一旦日本に戻り、翌年再度朝鮮へ、クリスマスに上海へ、そこから揚子江流域、さらに四川盆
地の奥まで訪れている。夏は日本、日光で過ごし、最後にもう一度朝鮮へ行き、帰国する。3年余
りに亘る長旅となった。翌1898年に『朝鮮とその近隣諸国』(K RUHDDQGKHUN HLJKERXUV)、1899年に
『揚子江渓谷とその奥地』(T KHY DQJW]HV DOOH\DQGB H\RQG)を出版した。
さらに帰国3年後、バード最後の旅は70歳の時に行われた。体力的なこともあり、中国とインド
への招待を受けることができず、北アフリカ、モロッコへの旅となった。旅行記は書かなかったが、
興味深い論文や手紙を残している。
1904年バードは心臓病を患い、エディンバラで亡くなる。旅の合い間には旅について書いたり、
講演を行ったりした。そして国内でも頻繁に住み替えをしている。文字通り旅から旅への人生を
送ったのであった。
Ⅱ
ここではバードの第3期旅行記を検討し、バードのアジアに向けたまなざしを考察する。1878年
5月にシティー・オブ・トーキョー号の船上から日本を初めてみたバードは富士山にみとれ 7)、「日
本の山々は森でおおわれ、谷や平地は見事に耕された庭園である。」(5)とその印象を述べている。
日本を訪れたのはその気候が身体に良いというよりも、特別に珍しいもの、興味の尽きないものが
あり、それがなにより保養になるからである。(ⅶ)岩倉使節団が欧米に視察に行ってまだ7年に
満たないにもかかわらず、政治的、社会的変化が目覚ましい日本は、スエズ運河開通(1869)後、
極東への興味も高まる中の目的地選択と言えるであろうか。本書は列強の東洋進出の気運の中、大
変な人気を得て、版を重ねたのであった。
日本に滞在する著名なイギリス人宛てに、各界の人々からの40通以上の紹介状を携えたバードは
駐日イギリス公使ハリー・パークスに日本のどのルートでも自由に通ることが出来る通行証を発行
してもらう。旅の荷物や随伴者は最小限に抑えた。食べ物や旅行用具は出来うる限り現地調達で経
費を節約している。日本に限らずバードは軽装の旅に徹している。次ページの図①はバード自身が
蓑をつけているところを彼女が描いたスケッチである。ただし顔は若い日本女性に似せてあるとい
う。(346)この年は30年来の多雨で旅も難航したが、日本の蓑の方が持参したマッキントッシュよ
りも防水性にすぐれていると書いている。また日本の奥地を長期旅行しようとする女性の荷物は柳
行李ひとつで十分と注をつけている。(82)これは当時の他の男性および女性の旅行家達の重装備
との際立った違いであろう。
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しかしバードは旅の軽装備とは逆に情報は十全に集める
努力をしている。その情報収集能力は皆が認めるところで
あるが、ちなみに金坂清則氏は論文「旅する女 性 」で勝海
舟の息子梅太郎と後に結ばれるクララ・ホイットニーがその
日記の中で「誰にでもしつこくいろいろ聞きだそうとするの
で、誰も側へ行きたがらない人物」と書いていることを挙げて
8)
いる。
家庭の外で活動の場を見出そうとする女性に対するイ
ギリス・ヴィクトリア朝の大方の人々の見方をクララは代表し
ているであろう。以上のように公使による特別の通行証、軽装
の旅、周到な情報収集、これらのことがバードの未踏性の高い
土地での旅を可能にしたといえる。
日本に降り立ったバードは日本の人々はみな勤勉で礼儀正し
いことを大いに評価している。勤勉をよしとするプロテスタン
ト的価値観に基づく判断といえる。半面、外観は窪んだ胸で洋
服が全く似合わない体型、例外はあるもののたいていは醜いと
書いている。またその道中で、騒がしくプライバシーが全くな
い宿屋、何千という野次馬、耳障りな音楽、口に合わない食べ
図 ①
物、蚤や蚊の大群、いろいろな悪臭に閉口する様が、ある時は
淡々と、ある時はユーモアたっぷりに描かれていく。以下の引用は栃木の城下町の宿での出来事で
ある。四方を襖ではなく障子で仕切られた部屋に通されたバードは穴だらけの障子の穴の一つひと
つから度々、人間の目が見えたと書いている。宿屋の主人や使用人たちがなんの口実もなく中をの
ぞき、大道芸人、楽師、盲目のマッサージ師たちがこぞって障子を開ける。調子外れの音楽、走り
回る音、水のはねる音が夜遅くなっても決して止まず、偶然立てつけの悪い障子がはずれて、浮か
れ騒ぎの光景がみえる。たくさんの人間がお湯に浸かり、お湯をかけ合っていたのである。
The VKRML were full of holes, and often at each hole I saw a human eye. Privacy was luxury
not even to be recalled . . . . Drums, tom-toms, and cymbals were beaten ; NRWRVDQGVDPLVHQV
screeched and twanged; geishas(professional women with the accomplishments of dancing,
singing, and playing)danced, accompanied by songs whose jerking discords were most
laughable; story-tellers recited tales in a high key, and the running about and splashing close
to my room never ceased. Late at night my precarious VKRML were accidentally thrown down,
revealing a scene of great hilarity, in which a number of people were bathing and throwing
water over each other.
(100−101)
バードが辿った東京から日光経由で新潟、山形、久保田(現秋田)そして青森にいたるルート沿
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いの村落の多くで目についたのは、非常に貧しく不衛生で、着る着物とてない人々とその暮らしで
あった。彼女の通訳兼旅案内役であった伊藤という青年は日本の都市からは考えられないほどの貧
困を屈辱と感じていた。けれどもバードは、部屋はむさ苦しく、食事も食べられたものではないも
のの、謙虚に精一杯のもてなしをしようとする人々の誠実さに心打たれた。しかしながら、釜澤氏
が『イザベラ・バードを歩く』で指摘するところであるが、当時の東北地方のどん底の貧しさの原
因、例えば冷害、水害、干ばつ等による凶作、戊辰戦争の爪痕、農地制度などにはバードは一切触
れていない。9)
一方、このような寒村と隣接した位置にある山形の米沢平野は米どころとして知られ、気候に適
した作物があふれるほどに実っていた。手入れが行き届いた農地を見て、
「鋤ではなく鉛筆で耕さ
れて」(“tilled with a pencil instead of a plough”)(267)いると、絵のように美しい田園風景を憧
憬の念をもって賞賛している。「怠け者の畑は日本には存在しない」(“‘The field of the sluggard’
has no existence in Japan”)(268)
、また米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、
くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろなどを豊かに産する、繁栄し自立した「東洋のアルカディ
ア」(“an Asiastic Arcadia”)(267)と書いている。さらにバードが日本庭園のなかにある蔵とい
うユニークな部屋に宿泊した上山については、温泉場を訪れて日本人の習慣や娯楽や「ヨーロッ
パの借り物でない全く完璧な文化」(“civilization quite complete, but borrowing nothing from
Europe”)(269)を見るのは興味深いとも書いている。
さて、城下町としては例外的に活気のある久保田で病院、学校、絹織物工場を見学したバー
ドは日本は無宗教で物質主義であり、
「キリスト教文明の所産を修正し、破壊し、組みたて、横
奪 し て い ま す。 し か し そ の 果 実 が 育 っ た 樹 木 は 拒 む 」
(“reforming, destroying, constructing,
appropriating the fruits of Christian civilization, but rejecting the tree from which they
spring . . . .”
)(314)と日本の知識人層が西洋の制度や技術を
吸収することには余念がないが、キリスト教に対しては冷淡
な態度であることを批判している。ちなみに彼女は日本の家
には必ず大黒つまり富の神の像があると書き、大黒信仰につ
いて詳細に説明している。右のバードの描いた大黒像の挿絵
(図②)
(272)は重版された1881年アメリカ版では表紙を飾っ
ている。
ここで一つ、本州での旅の終わり近く、秋田と青森の県境、
羽州街道の矢立峠を越えのシーンを読んでみたい。バードの
美しい自然への賛美は生涯変わらず、どの旅行記においても
バードの苦難に満ちた旅の報酬のように描かれている。
I admire this pass more than anything I have seen
図 ②
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in Japan ; I even long to see it again, but under a bright blue sky. It reminds me much of the
finest part of Brunig Pass, and something of some of the passes in the Rocky Mountains, but
the trees are far finer than in either. It was lonely, stately, dark, solemn; its huge cryptomeria,
straight as masts, sent their tall spires far aloft in search of light; the ferns, which love damp
and shady places, were the only undergrowth ; the trees flung their balsamy, aromatic scent
liberally upon the air, and in the unlighted depths of many a ravine and hollow, clear, bright
torrents leapt and tumbled, drowning with their thundering bass the musical treble of the
lighter streams. Not a traveller disturbed the solitude with his sandalled footfall ; there was
neither song of bird nor hum of insect.
(366)
30年来の大雨続きで川が氾濫し、バードはあちこちで足止めされながら進んでいく。小止みの中、
一行は矢立峠を登っていく。この峠は日本3大美林の1つ、天然秋田杉の樹林地帯で、スイスのブ
リューニック峠やロッキー山脈の峠よりも木々が見事である。マストのようにまっすぐな杉の木々
は明るい方へとその若枝を高くすくすくと伸ばし、芳しい香りを気前よくあたりに放つ。せせら
ぎのソプラノを奔流のバスが掻き消し、
「わらじ」をはいているのであたりの静寂をみだす者もな
いと書かれている。この日本の旅でバードは馬の質の悪さ、それをさらに悪くする馬のわらじにつ
いて何度も言及しているが、ここではその良さも認めている。自然が与えてくれる心地よい安らぎ
を五感で感じ、やっと息を吹き返した筆者であったが、一転して直後にこの旅で最大の危機を迎え
ることになる。再び土砂降りになり、山腹から大量の大木が地面ごと滑り落ち、岩がころがる。豪
雨、滝、転がり落ちる木々のすさまじい轟音。臨場感あふれる描写が続き、まさにスリル満点のド
ラマティックな展開となる。宿に着いたバードはその2階からつい先ほど自分たちが渡ってきた橋
が流されるのを目撃する。氾濫する川を観察し、ほんの短い間に立派な丸太が300本流され、20本
に1本の割にしか救出できなかったこと、丸太のサイズ、水の深さなど事細かに数字を記載してい
る。
バードの日本旅行の第1の目的はアイヌの調査であった。蝦夷に関する記述は地理、気候、生活、
慣習、宗教など幅広く、著作全体の4分の1以上の紙幅を占めている。蝦夷に降り立った時、故郷
にも似た北の荒波と冷たい風に大いに励まされた彼女であったが、ここは日本で最も自由で楽しい
地と書いている。自然の景観に幾度もうっとりとし、大方のアイヌたちはヨーロッパ的で美しいと
繰り返す。家屋のまわりはとても清潔で、病気にかかっているものも稀である。人々は大変誠実で
正直であると何度も褒めている。しかしながら、文明・未開の図式でアイヌたちを見ているのも事
実で、彼らのことを頭が大きいにもかかわらず鈍いであるとか、進歩の余地のない無害な人たちと
言い、交霊術の場に加わった際には、未開人が文明人に教えていると感想をもらす。ただ、石弘之
氏は「イザベラ・バードの日本紀行―日本その日その日」の中で「当時の世界の少数民族に対する
偏見を考えれば、きわめて温かいまなざしといってよいだろう。」10)と述べている。ガイドの伊藤
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がアイヌは人間ではなく、先祖は犬として蔑んでいるのに比べれば、おだやかな差別といえるであ
ろう。またバードは次のようにも書いている。
The verse came into my mind,“It is not the will of your Father which is in Heaven that
one of these little ones should perish.”Surely these simple savages are children, as children to
be judged; may we not hope as children to be saved through Him who came“not to judge the
world, but to save the world”? 11)
アイヌたちは素朴な幼子で「世を裁くためでなく救うために来られた」神を通して、子どもとして
救われるように望んでいる。
最後に『黄金の半島とそこへ至る道』に少し触れておきたい。バードは最初の日本旅行のあと、
5週間ほどマラヤに滞在する。マラヤに住むイギリス人の招待を受けたため、予定を変更して旅を
した。マラヤについては予備知識がなく、ほんのしばらくの滞在であったことがマラヤについて
本を書く動機となった。ラテン語の勉強をしていた妹ヘニーが提案したタイトルの「黄金の半島」
(“Golden Chersonese”)からも連想されるこの旅行記の明るくのんびりとした雰囲気が読者を大
いに魅了した。Amok(マレー人特有とされた凶暴な精神障害)や奴隷制、迷信などが記録される
一方で、マレーの自然の神秘、豊かさ、豊饒な作物が描かれている。その中でひどく場違いに思わ
れる場面の描写がある。それはマレーへ至る途中でバードが立ち寄った広東の刑務所と処刑場の訪
問のくだりである。
We had not gone far into this aceldema when we came to a space cleared from pots, and to
a great pool of blood and dust mingled, blackening in the sun, then another and another, till
there were five of them almost close together, with splashes of blood upon the adjacent pot,
and blood trodden into the thirsty ground. Against the wall opposite, a rudely constructed
cross was resting, dark here and there with patches of blood. Among the rubbish at the base
of the wall there were some human fragments partly covered with matting ; a little farther
some jawbones with the teeth in them, then four more crosses, and some human head lying at
the foot of the wall, from which it was evident that dogs had partially gnawed off the matting
in which they had been tied up. The dead stare of one human eye amidst the heap haunts me
still. A blood-splashed wooden ticket, with a human name on one side and that of the NaamHoi prison on the other, was lying near one of the pools of the blood, and I picked it up as a
memento, as the stroke which had severed its string had also severed at the same time the
culprit’
s neck. The place was ghastly and smelt of blood.
12)
この箇所についてドロシー・ミドルトンは出版社のジョン・マレーがこのきわめて残酷な場面の削
除を求めるがバードはそれに応じなかった、それは犯罪者が拷問を受け、処刑される場で何が起こっ
13)
ているかを知らせるべきと考えたからだと説明している。
マリア・ノエル NGはイギリス・ヴィ
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クトリア朝慈善活動家たちはひるむことなく、刑務所、病院、スラムを視察して回ったのだが、こ
こではイギリス植民地であるマラヤのクランの刑務所に較べて、中国のそれがいかにひどいもので
あるかを際立たせる意図があったとしている。14)
けれどもバードは『黄金の半島』の終わり近く次のように綴っている。
I am painfully aware of the danger here, as everywhere, of forming hasty and inaccurate
judgments, and of drawing general conclusions from partial premises, and on my present
tour there is the added risk of seeing things through official spectacles; but still certain
things lie on the surface, and a traveler must be very stupid indeed if he does not come to an
approximately just conclusion concerning them.
15)
「誰もが性急で不的確な判断や結論を下す危険性があることを痛感しています」と自戒している。
このように物事の肯定的な面と否定的な面の両方を考慮するバランスのとれた見方があるからこ
そ、バードの旅行記が読者の信頼を得たのであろう。
結び
バードの伝記作家パット・バーはイザベラ・バード・ビショップはその名の通り、二面性(“riven
personality”)をもっていたと書いている。鳥のように世界のどこへでも自由に飛び立っていくが、
16)
しかしビショップ(“bishop”)のように敬虔で真摯に人生に立ち向かったというのである。
また、
オリーブ・チェックランドもその著書の中で彼女の二面性を論じている。まず、バードは国内では
ひ弱で、海外ではサムソンのようにたくましかった。17)また伝道活動に関する彼女のあいまいな態
度は父エドワードが安息日厳守運動で周囲の反感を買い、石や泥を投げつけられるという排斥を受
けて牧師を引退するのを目の当たりにみて、自分の主義主張を押し付けることにはためらいがあっ
18)
たのではないか、それがひいては先住民への過度の干渉を避ける結果となったと推測している。
そもそも『中国奥地紀行』の「中国におけるプロテスタント系伝道についての備忘録」でバードは
初めてアジアを訪れたときにはこの問題については関心がなかったと書いているほどである。19)
そして女性については常に特別の関心と共感をもって書いているバードであるが、フェミニスト
として真正面から権利を求めてはいなかったと言える。もっとも女性は「うまくできることはする
権利がある」(
“ DZRPDQ·VULJKWWRGRZKDWVKHFDQGRZHOO”)と友人への手紙に書いているが。20)
バードは旅の途中、これと興味をもった事については出来うる限り調査して説明を加えている。
したがって彼女の紀行文には多くの数字、統計、名詞の列挙がしばしば見られる。彼女の旅行記が
地理、歴史、政治、経済、民俗、植生など幅広い分野にわたって読者を惹きつける所以であるが、
それは同時に未知のものごとを同定し、把握し、コントロールする帝国主義的な手段であったとも
言える。しかしまた彼女は著作の随所で物事の裏の面をもみて、自己の基準でのみ判断を下す性急
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さを避けるべく自戒の言葉を綴っている。彼女の揺れるまなざしには自文化中心主義に偏らず文化
相対主義をめざす姿勢が窺われる。そのバランスのとれたものの捉え方が作品の魅力につながって
いるのであろう。
バードの作家としての成功は彼女の豊かな才能、資質、育った環境、多大な努力、大英帝国を背
景にした人脈など多くの要因があげられるが、バードは常に旅によって世界に対する、そして自己
に対する知見を深めていったと言える。それはまたミドルトンも書いているようにイギリス・ヴィ
クトリア朝の自分や他の人々に向けられた「改良」の情熱が遥か水平線の向こうへの旅にはけ口を
見つけた、その一つの形であると言えよう。21)
本発表ではバードの膨大な著作の一部しか取り上げることができなかった。今後は彼女の他の作
品、また、他の同時代の旅行家の作品との比較、イギリス・ヴィクトリア時代の中後期の社会背景
との関係に着目したさらなる考察が課題である。
଎â#
1)金坂清則氏は『中国奥地紀行 2』
(東洋文庫、2002)の解説でバードの旅を6期に区分し、1878年から1879
年にかけて行われた日本、マレーシア等のアジア旅行を第3期としている。本稿はその区分に従った。
2)Isabella Bird, T KHY DQJW]HV DOOH\DQGB H\RQG(London: Virago, 1985)p. 326.
(1831−1904) ¶A QGDW RPDQ·VR LJKWWRD R
3)バードの伝記的事実に関しては Olive Checkland, I VDEHOODB LUG
W KDWS KHC DQD RW HOO·(Aberdeen: Scottish Cultural Press, 1996)、Dorothy Middleton, V LFWRULDQL DG\
T UDYHOOHUV(Chicago : Academy Chicago Publishers, 1982)および原田平作、溝口宏平編、
『性のポリフォニー
(世界思想社、1990年)pp. 131−150. 等を参照した。
―その実像と歴史をたずねて』金坂清則「旅する女性」
4)John Urry, T KHT RXULVWG D]HL HLVXUHDQGT UDYHOLQC RQWHPSRUDU\S RFLHWLHV(London: Sage Publications, 2002)
アーリーはイギリスでは18世紀から医療目的で海水を飲んだり、海水に浸かることが行われており、18世
紀末から19世紀にかけては海その他の自然に接すれば元気が回復するというロマン主義的信奉が広がって
いったとしている。
5)Anna M. Stoddart, T KHL LIHRII VDEHOODB LUG(London: John Murray, 1908)p. 79.
6)アメリカの女権拡張論者アメリア・ブルーマーが考案したもの。
7)Isabella L. Bird, 8QEHDWHQ7UDFNVLQ-DSDQ$Q$FFRXQWRI7UDYHOVRQ+RUVHEDFNLQWKH,QWHULRU,QFOXGLQJ9LVLWVWR
WKH$ERULJLQHVRI<H]RDQGWKH6KULQHVRI1LNN{DQG,Vp(New York : G.P. Putnam’
s Son, 1881)Ⅰ. pp. 13−14. 以
後、引用文のページ数は本文中の( )内の数字で示す。
8)「旅する女性」pp. 132−133.
9)釜澤克彦、『イザベラ・バードを歩く―『日本奥地紀行』130年後の記憶』
(彩流社、2009年)p. 37.
10)石弘之、「イザベラ・バードの日本紀行―日本その日その日」N LNNHLE FRORJ\(2009年10月)p. 64.
11)Isabella L. Bird, U QEHDWHQT UDFNVLQJ DSDQA QA FFRXQWRIT UDYHOVRQH RUVHEDFNLQWKHI QWHULRUI QFOXGLQJV LVLWV
WRWKHA ERULJLQHVRIY H]RDQGWKHS KULQHVRIN LNN{DQGI Vp(New York : G.P. Putnam’
s Son, 1881)Ⅱ. p. 60.
12)T KHG ROGHQC KHUVRQHVHDQGWKHW D\T KLWKHU(Arizona: Echo, 2005)pp. 47−48.
13)Dorothy Middleton, p. 39.
14)Maria Noëlle Ng, T KUHHE [RWLFV LHZVRIS RXWKHDVWA VLDT KHT UDYHON DUUDWLYHVRII VDEHOODB LUGM D[D DXWKHQGH\
DQGA LW X1850−1930(New York : East Bridge, 2002)pp. 66−68.
15)T KHG ROGHQC KHUVRQHVHDQGWKHW D\T KLWKHU p. 172.
オリエントへの揺れるまなざし
25
16)Pat Barr, A Curious L LIHIRUDL DG\T KHS WRU\RII VDEHOODB LUGT UDYHOOHUE [WUDRUGLQDU\(London: Penguin
Books, 1979)pp. 13−14.
17)Olive Checkland, pp. 177−185.
18)I ELG., pp. 168−176
19)T KHY DQJW]HV DOOH\DQGB H\RQG, p. 513.
20)Checkland, p. 155.
Floriane Revironは“Isabella Bird’
s in Japan: Unbeaten Tracks in Travel Literature”I QB HWZHHQT ZR
W RUOGVN DUUDWLYHVE\F HPDOHE [SORUHUVDQGT UDYHOOHUV1850−1945 Béatrice Bijon and Gérard Gâcon ed.(New
York: Peter Lang Publishing, 2009)pp. 67−80. で『日本奥地紀行』で聞かれるバードの帝国主義者とフェミ
ニストの2つの声について論じている。
21)Middleton, p. 6.
本論文は日本ヴィクトリア朝文化研究学会第10回全国大会の発表原稿を改題し、加筆、訂正を施
したものである。
プール学院大学研究紀要第51号
26
(ABSTRACT)
Unsteady Gaze upon the Orient
― Isabella Bird’
s Far East Travels(1878−1879)―
OTAGAKI Yuko
Isabella Bird(1831−1904)was one of the most noted Victorian lady travelers. She traveled
around the world and wrote books and gave lectures about the areas she visited, which brought
her a very high reputation. In 1878 and 1879, She paid her first visits to the Far East ― Japan,
China, and Malaysia.
She tries to be as accurate in her minute descriptions of her experiences as possible. Her
idea is usually to take“the bull by the horn,”and she writes about her adventures calmly here
and humorously there.
The reader will notice that her travel journals have contradictory points of view. Sometimes
she praises“an Asian Arcadia”, and at other times she gives negative interpretations of
indigenous cultures, religions, and so on. Although she looks on Asian people and phenomena
with an imperialistic gaze, she writes that she is“painfully aware of the danger . . . of forming
hasty and inaccurate judgments, and of drawing general conclusions from partial premises.”
This balanced stance on intercultural aspects could be a key to solving the problems in the
postcolonial age we live in.