ダメージ・13 息子の恋人 畠山 拓 退職してから省三は当てもなく、歩き

ダメージ・13
息子の恋人
畠山 拓
退職してから省三は当てもなく、歩きまわることを楽しみにしている。
散歩と小旅行との中間に近いことだ。
省三は読書と、無目的に町や田舎をさまよう。最近はロレンスの「チャタレー夫人の恋
人」や「息子と恋人」を読んでいる。
省三は家を出た。近所の駅に近い喫茶店に入った。小春日のテラスで読書する。ロレン
スの「息子と恋人」を広げた。
思いついて、冷えたコーヒーを飲みほし、立ち上がった。
省三は息子の龍の女を見ておこうと思いついたのだ。女の素性は元子から少し聞いてい
る。龍の会社の社員だという。名前は聞かなかった。広報部勤務らしい。
地下鉄から地上に出る。ガラス張りのビルと並木が輝いている。数年前までは、毎日通
勤した街だ。黒いガラス張りのビルの前に立った。
昼食時間になっている。ビルから出てくる人影は多くなった。
「先日、広報に取材したライターの・・・だが」と、省三は受け付けで言った。
「そういう者はおりませんが」
省三は女の特徴を言った。龍の好みの女の特徴を言った。龍より若くて、美人に違いな
い。受付嬢はそれでも教えてくれなかった。
「申し訳ありません。御役に立てなくて」
省三はロビーの椅子に腰をおろした。
受付が怪しんでも、まだ守衛は呼べない。
待った甲斐があった。三人の女子社員がエレベーターから現れた。女たちを見た受付嬢
は思わず省三に視線を走らせた。
省三は息子の龍に女がいるらしい、と妻の元子から聞いた。
元子の言葉に省三は驚かなかった。龍は女にもてる。結婚以前も恋人や同棲した女は何
人もいた。結婚してもおさまる事はあるまい。
息子夫婦がうまくいっていない事も知っていた。女が原因だ。上手くいっていないから、
女が出来たのかもしれない。省三は嫁の美里が気に入っていた。美里には気の毒なことだ
と感じていた。
「美里から聞いたのか」
「ふたりは変だと思っていました」
「何時からのことなのだ」
「お正月だって、おかしいと思ったわ」
元子は興奮していた。
正月に息子夫婦と孫たちが来た。龍は仕事だと、家を飛び出して行った。商社勤めだ。
突然のトラブルであったらしい。省三もサラリーマンを四十年近く経験している。本当に
仕事だったのだろうか。
龍の女の御代(みよ)は苛めがいのある女だ。苛められ、翻弄されているのは自分の方
かも知れない、と省三は思う。御代は息子と父親の二人の男に抱かれる女だ。
木乃伊取りが木乃伊になる、のか。省三は苦笑する。苦笑も途中で凍りつきそうだ。
省三は御代の会社の帰りを二度ほどつけた。
「声をかけられた時、分かったわ」
「付け回していたからな」
「見られていることを、感じていた」
御代は省三を見破ったと言うのである。
「気付かないふりをしていたね。父親とは」
「そうしてほしかったのでしょ」
最初は元子に息子の女のことを教えてあげようと、考えた。どんな女なのか、興味もあ
った。元子はやきもきするだけで、耳元でうるさい。龍がじきに飽きてしまう女なのか、
深みにはまりそうな女か、確かめたい。
省三は御代を「散策」に連れ出す。
御代は躊躇していた。龍の誘いがあるのだな、と感じた。
「今日は龍と会うはずじゃなかったのかい」
「だったらどうしたの」
「龍はどうしているのかなとね」
「父親として心配なの」
「美里と子供達で遊びに出かけるだろう」
御代の端正な白い顔は血が上って一瞬、上気した。怒りがこみ上げたのだろう。平気で
はいられないらしい。嫉妬しているのか。今日は激しく甘えてくるに違いない、と省三は
思った。御代が動揺している。省三にも許し難い事だった。
龍は車で母の元子を迎えに来るだろう。元子はいそいそと出かけるのだ。
「龍。貴方達、どうするつもりなの」
「かあさん。どうしたらいいと思う」
「別れてしまいなさい。
・・・里美と、よ」
「しかしな・・・」
「子供達は私が面倒をみるわよ」
甘いもの好きの元子と龍が落ち着いて話せる、店は知っている。
省三は元子と龍の会話を想像した。甘味所で蜜豆を突きながら、恍惚として話している
様を想像した。母親は息子を励まし、息子は母親に甘えている。
御代とホテルのロビーを歩いていて、省三は思った。
龍と御代は何処で会っているのか。御代の後姿を眺めて、御代は高級ホテルのフロアー
に慣れているように思った。省三と御代はホテルのフレンチレストランに入る。ふたりも
同じ店に入るのかもしれない。
料理も酒も安くはない。御代が働いているにしても、龍が支払をするのだろう。ホテル
の部屋代もあるだろうし、たびたびの利用なら、龍の出費も多くなるはずだ。龍は家計を
きちんとしているのだろうか。
省三が呼んだので、美里は孫を連れて来るのだった。元子は何も言わない。元子も内心
気になっているだろう、と省三は思った。美里を心配しているのとは違うのだろうが。
「もしも困っているのなら、そう、言いなさい」
「いえ。大丈夫です」
「遠慮することはないのだよ」
「すみません。ご心配をかけて」
美里は省三の目を見詰めた。見つめすぎて目が離せなくなったらしく、うろたえている。
省三はいじらしくなって、肩を抱きしめたい衝動に駆られたが、我慢した。美里の目に涙
が滲んでいた。
「私がいけないのです」
「悪いのは龍だ」
大丈夫だ、もうすぐ、龍と女は別れるのだ、と美里に言いたかった。言えるわけもない
し、根拠も曖昧である。省三が出来たのは、紙幣を美里の手に握らせる事だけだった。美
里は素直に金を受け取った。
御代を抱いたあと、省三は言った。
「龍と別れてくれないか」
「どうして。私を独り占めしたくなったの」
「理由はどうでもいい」
「男としてなの。それとも、息子の家庭を心配する父親として」
御代の本心は省三には解らない。
御代が龍と別れて、自分だけのものになれば、満足するだろうか。省三には自分の心理
が分からなかった。息子の恋人でなくなった御代に魅力を感じなくなるかもしれない。自
分だけのものになった御代を益々愛すようになるかもしれない。どちらになるか見極めた
い気もする。
「美里は最近どうしているのだ」
「貴方はご存知かと思った」
「暫く、顔を見せないようだが」
「貴方は外出ばかりだから」
妻の元子が最近、生き生きとしている事に省三は気が付いている。たびたび、龍と孫の
三人連れで、出かけている。遊園地だったり、ミュージカルだったり。龍と二人で甘味所
にしばしば入る。最近は美里を呼んでいないようだ。美里も来たがらないらしい。元子に
「龍と別れても仕方がない」と、言うような事を言われているのだろう。美里は反発を感
じて来られないのだ。
「貴方が、どうしても龍と別れろと言うのなら、考えるわ」
御代は、言った。
「別れてくれるか」
「会社を辞めなくちゃならないけれど。会社にも日本にも居たくない」
「なら、どうするのだ」
「海外留学をする」
「私とも別れるということか」
「貴方も一緒に行くのよ」
省三にはどこまで御代が本気に言っているのか、疑わしい。妻と別れてほしい、と言って
いるのか。龍と別れるつもりなどないと言っているのか。龍と御代の関係は上手く行って
いるのだろうか。
御代の言葉はそのつど、変わるのだった。省三は取り合わないように、心掛けている。
激しい怒りや、正反対の幸福感に浸ることがある。老齢のため精神が不安定になっている
のかもしれない。
省三は龍に電話を入れた。夕方、バーに呼び出した。龍は神妙な顔で現れた。父親の話
を予想しているのだ。母親とは何度も話しているのだ。父も事情は知っている。父が何を
言うのかも、予想しているのだろう。まさか、御代が省三との関係を告白する事は無いだ
ろうが。不安はあった。
「美里とはどうなっているのだ」
「話し合い中です」
「お前は、どうしたいのだ」
「龍太の事もあるし、女とは別れるつもりです」
「別れるにあたって、金は必要だろう」
「少しは」
「それなら、私が貸してあげよう」
「女との手切れ金を親から借りるわけにはいかない」
「今更、何を言う」
省三は龍が御代と別れる決心をしていないのだ、と感じた。自分と御代との関係を知れ
ば、恐らく激怒して、御代を捨てるだろうが。
「おとうさん。会ってくれませんか。女に」
省三は予想外の龍の言葉に驚いた。カウンターにグラスを置いた。
「会って、どうしようというのだ。美里だって、お前が結婚を決心してから会ったのだ」
「それはそうだけれど、どうしてこうなったのか分かってもらえると思って」
「そんなに良い女なのか。今更どうでもいいことだよ」
龍も納得したらしかった。龍は酒に弱く、酔っていての言葉だったのだろう。
後日、省三は少なくない額の金を龍に用意した。龍は「女と手を切った」と、言った。
元子は気が抜けた風だ。本当のところは息子夫婦の離婚を望んでいたのだ。元の鞘に収
まったことを安心もしている。気持ちが落ち着いていないのだ。
龍と別れても、御代は会社を辞めなかった。省三は龍がまだ、御代と付き合っている事
を知った。手切れ金として用立てた金はおそらく、龍と御代の遊興費に使われたのだ。省
三は御代と十日ほど連絡が取れないことがあった。その間、ふたりは海外旅行でもしてい
たのだろう。
「親の金で不倫旅行か」と、省三は思った。
省三は思わず、元子に愚痴を言う。
「何というやつだ。けしからん」
「貴方が甘いじゃないの」
「あんな男に育てたのは、お前だ」
元子は珍しく省三に口答えをしなかった。
省三は久しぶりに御代と会うために、出かけた。朝から何となく体調が変だと思ってい
た。駅の階段でふらつき、転倒した。骨折までには至らなかったが、ひびが入り、入院し
た。
御代が病院に見舞いにきた。省三の好きな花束を抱えていた。久しぶりに見る御代は素
晴らしく美しかった。省三はベッドから起き出したかった。足はギブスで固められている。
御代の体に触ることすら出来ない。
「天罰ね」
「罰せられるような事はない。お前こそ」
「何が・・・」
「何がじゃない・・・」
省三は言葉の続きを探した。
了