大逆事件のリーダー新村忠雄 新村忠雄は長野県埴科郡屋代町に生れ、小学校を出て補習科一年を卒えて親戚をたよって 上京し、明治三十六年週刊平民新聞を購読して其講習会に出席し之に共鳴した。 其等の関係から東北評論の著名人にもなったことと思う、 高畠が京都へ去ると間もなく新村が私宅を尋ねて来た。当時私は妻があって谷中の角の 延明院の反対側の経王寺といふ寺の、庫裏の二階を借りて住んでいた。 妻は直ぐ裏の日暮里小学校の教師を勤めていた。住職が日暮里の旧家冠藤右衛門という人 の伜であったために、何くれとよく世話をして呉れた。寺は広く廊下なども綺麗であった、 周囲は六尺ばかりの石塀がめぐって居て西南の隅が延明院と共に切石の立派な門があった、 庫裏の下の二座敷きには住職夫妻が住んで居て、子供がなかったから至って閑静であった、 他に飯を炊く女中と掃除する爺や所化僧の外、錬勇といふ小僧が居た。 私は大学へ行き妻は小学校へ通うわけだから寄食していても、二階のわれわれの二座敷き は畄守がちで極めて自由であった。食事も洗濯も家族同様で、宿料は無論只であったから 高畠も新村も甚だ愉快で、なかなか快適の住いであったと思う。 新村は好い男という程ではなかったが、色白で目鼻立も整え、 ことに笑うと笑くぼが深く目立って見えた。 顔色は桜色とも云うべき程だったが、性質は温順で他人に対し極めて遠慮深かった。 荒畑寒村などは「一寸あうと軽卒の感じがする男だったが、絞首台に上ったときは 最も落ち着きがあったというのは不思議だ」と言っていたが、私としては、 それが新村の本領だと思って居る。里芋の煮たのが大好物で、妻がそれを煮てやると、 「女子諸君自覚せよ」などといっては、一人で笑いながら喰べて居た、 何の意味かわからないが、恐らく彼も何の事かわからなった言葉であろう。 私も際限なく新村をかくまって置くことは経済上からも困るので、 何か職を見つけ金をとってはどうかと、すすめた。 彼は在る日品川の方の大井にある後藤毛織会社へいって仕事を見つけて来た、出かけて 二三日すると機械にはねられ怪我をして帰って来た。おれは機械は危険だからいやだ、 といって又二三日私の家に居た、が、私はその時分幸徳秋水が巣鴨の向うの大塚に住んで 居るのを知っていた。幸徳なら、書生の一人や二人は養えるだらうと思ったので、 そんなら幸徳のところえ行かないかとすすめた。 そんなわけで私は新村を伴れて幸徳のところえ行ったのが、 これがそもそも大逆事件の発端となったわけだ。 其時幸徳の家は菅野すが子がハウスキーパーの役目となり、他に書生として坂本清馬が 居り、新村を加えて書生が二人になった。秋水の家の前には五十間ばかり隔てて例の刑事が 家を借りて見張り、目を皿の様にして秋水の家の行動を看視していた。 秋水は身体も弱く寒がりやで、炬燵に這入りながら、大阪から贈って貰ったという、 栗おこしをポリポリと喰べていた、ふだん胃の工合が悪いというのに、 無茶なことをするものだと思った。 私が花おもだかの紋付の黒い木綿羽織を着ていたら、 菅野はあなたの紋所は私のと同じねと、藤色縮緬の自分の羽織の紋と比べて見せた、 丸顔で美人ではなかったが、愛嬌のある顔立ちであった。 虫巣くふ胸を抱いて三尺の鉄窓より眺む初夏の雲 捉えられてから、こんな歌をよむ女だとは、とても見えなかった。 一時間ばかり無駄話をして、新村のことを頼んで秋水の家を辞した。 1 菅野と新村が送って出た、坂本はどこかへ出て居なかった、 監視の家を振り返って見たけれど、別について来る様子はなかった。 当時私共の仲間で、尾行する刑事たちを犬と呼んでいた、平生ユーモリストの境枯川など 門の所へ「犬入るべからず、但四足の犬はこの限りにあらず」と札を下げて置いた。 明治四十二年春三月の事だった、新村が夜おそく一人でやって来て、途中まで犬がついて 来たといった。私の居た経王寺は日暮里の停車場から坂をのぼると右側にあるので、 北豊島郡で郡部だが、左側は谷中の墓地で天王寺に続き、当時の東京市内の部に属し 谷中初音町であった。 だから坂をものぼって左へ曲ると、広い墓地で幾千と知れぬ大小の石塔が立って居た。 この石塔群の中にはいると昼間でも、容易に人の姿などわからなくなる、 新村は私の処へ来るときは、何時でもこの墓地へ這入り込んで尾行をまくのが常であった、 刑事が停車場から出ると尾行すべき新村を見失うのが常であった、 この夜も新村は、今夜も犬をまいた、と一人で笑って居た。 この夜新村は秘密出版物無政府党のパンフレット四五十枚と、これも幸徳の訳した クロポトキンのパンの略取(Conquest of bread)を二十冊ばかり出して、 暫く預っておいてくれといって、戸棚にかくした。 其の夜は私の家へ泊まって翌朝私が学校へ行く時に一緒に家を出た。 久し振りだったので私は学校をサボって、二人で九段下の古本屋を一巡してから、 九段下の坂を登り麹町三番町から、お堀端に沿って日比谷の方へ行く途中、 三宅坂あたりまで来ると、急に立ちどまって新村は 「塩酸加里を一ポンドばかり買って呉れないか」 と私に言った、塩酸加里は塩剥といって、劇薬に属し、 主として医者が含嗽などに使うのだが、まだ医者になって居ない私には買えなかった、 私は塩剥など買って君は何にするのかと訊いた。 彼は爆裂弾を作るのに入用なのだと、割合平気で答えた。 私は驚いた、すると、 爆裂弾をこしらへて皇太子殿下を暗殺するのだといった。 私は尚更驚いた。 後日事件が暴露した時には、天皇暗殺を計った事となって居る、 しかし天皇でも皇太子でも、時の刑法七十三条は何れも死刑であった。 私は幸徳とも新村とも懇意であるから、そんな大それた事はとりやめてはどうか、 第一ここから宮城を眺めると翠の松が宮城の土堤を這うように、お濠りに偃臥(エンガ)して 紺碧の水が宮城を取り巻く風情など、僕は何となく神々しい様な気がする。 それに暗殺などと云ふ事は容易に出来たものではない。 その上幸徳のような、常に弱い男や、菅野のような病気勝ちな女を相棒にして、 そんな事が出来るものではない。 やめた方がよいぜ。と言うと新村は笑いながら事の成否は私の問う所ではありません、私の ような考えを持つ日本人が一人でも日本にあるということが、世界にわかればいいんですと 言った。それ迄思いつめたら、私は止めない、併し私には親兄弟妻もあるから、之に加わる 事は出来ないと断った。 私が新村をリーダーと呼ぶのは、事件から言えば、宮下太吉が一ばん積極的ではあったが、 太吉は四十一年十一月十日既に決心していたが、信州の遠方でしかも職を持っていたし、 菅野は、四十一年六月二十二日、赤旗事件この方考えていた事であるが、幸徳の世話なども あり、古賀力作は皆の意見にくみしただけであるが、新村は東京に住み職もなく、 色々の連絡等にも便利であったから、勢いリーダーとなったわけである。 2 明治四十三年六月十九日と覚えて居る。 私は帝国大学医科の二年から三年になるところでもう暑中休暇が始まるというので いつもより早く戻って来た。妻はその頃近くの、日暮里小学校の先生をして居たのだが、 まだ学校から戻らなかった。 私が戻って見ると、机の上に新村の真赤な封筒に入れた置き手紙があった。 中にはこれから群馬に寄って信州へ帰る、いろいろお世話になったが、 当分は会えないと思う、会はずに了うのは残念だが、皆様によろしくと書いてあった。 群馬では阿部米太郎君の所へよって爆裂弾を投げるメンバーと、順序とを話したそうだ、 メンバーは新村、宮下、古河、菅野の四人で、 場所は赤坂溜池の弁慶橋附近がよかろうと話したそうだ。 投げる順序も籤を引いて定めたと話したが、阿部君は今は忘れたといって居る。 場所が弁慶橋というからには暗殺の相手は皇太子で、阿部君にも皇太子だといったそうだ。 当時陛下があの辺を通過する事は、めったになかったからだ。 それが大逆事件の判決では天皇暗殺の計画となって居る。 之は始め宮下太吉や菅野すがなどが、天皇暗殺の言葉を言い出したのが原因だと思う。 超えて七月一日の朝早く「板橋警察署刑事巡査部長大月七五三吉」という名刺を持って 私を尋ねて来た男がある。他に塀の外に何人かの刑事が見張をして居たそうだ、 つまり私がにげるかと思った為めだろう。 此の日は私の誕生日で、私はまだ寝て居た。起きて何用があって来たのかと尋ねたら、 「貴下は信州の新村忠雄というのを知っているか」と聞くから、知って居ると答えた、 どういう交際で新村と知ったかと言うから、新村が印刷人の名で群馬の高崎から、 東北評論という雑誌を出して居たが、其記事が悪いというので起訴になった、 新村は「僕は監獄へ行くのはよいが裁判所へ行くのは嫌いだ、だから刑の決る迄僕をかくして 呉れ」と言った、私はそんならそうしたらよかろうと承知したと話した。 刑事は其の外に新村と何か深い関係があるのだろうというから、私は別に他には関係はない といった。刑事は何か文書の往復があるだろうというからそれも絶対にない、只一度新村が 信州から土地の名物杏の缶詰を贈ってくれた事がある、私が珍しい物を贈って呉れて有難う という礼状を出した。新村は田舎え帰って見たら犬がついて困るという葉書を呉れた、 私は犬がついてはうるさいだろうと返事を出した、 当時私の仲間では尾行の刑事の事を犬といっていた。 大月刑事は何か他にもあるだろうと言うから、若しあるのなら信州の方から事実こういう 事があると言ってくるだろう、それ迄は、君があるだろう私はないといった所で 結極水かけ論と言うものできりがない、だからそんな事を言うのはやめにして信州からの 結果を待つ事にしたらよかろう、というと大月刑事も之に賛成した。 刑事は更にあなたはそういう人間となぜこれ程交際をする必要があったのかとも聞いた、 私は去る物は追わず、来るものは拒まずすいう主義で頼って来たから交際もした、 之は新村ばかりではない、人が見るとなぜあんな人と交際するのかと怪しむ様なひととも 別に何とも思わず交際して居る、その事が悪い事か善い事か知らないが私は別によいとも 悪いとも思った事がない。 所が折とてその一日二日前の夜、寺に泥棒が入った、住職夫妻の室は常に入口に厳重に 鍵がかかって開かないので庫裏のお所化僧の金弐十円が盗まれた。 寺の住職夫妻、女中、爺や迄が警察が来て何やら調べて居るのは、さては先夜の泥棒は 二階の私等夫妻かしらとへんな目で見て居た。 之を一一説明する程、簡単な事ではないのでおかしいやら気持が悪いやらの幾日かが続いた。 3 引続いて刑事が毎日来るので私は、板橋警察え抗議を申込んだ、 「刑事の来るのもやむを得ぬが兎に角も少し人相のよいのにして呉れ」(其当時の刑事は、 総体に赤髯の目の光った人相のよくない一目で刑事と思える柄の者が多かった)と。 抗議の効果覿面、板橋警察署長の計らいで或る日一人の老母が私の家へ来て、 家の枠に英語を教えて貰いたいといって、紅顔の美青年を連れて来た、 之が所謂注文の刑事で英語を習う名目で毎日私について居た、 この刑事は今野といって兵隊帰りで、人相の善い女にせまほしい顔立ちで、 毎日紫の風呂敷に握飯の弁当を持っては通って来て居た。 この様に毎日刑事が附きまとい、泥棒などの事も、 あるとき谷中本に適当の家があったので、転居する事にした。 猶、軽王寺について事件とは関係ないが、道一重隔てた延明院に支那新政府の 大統領孫逸仙が、久しく貴族院議長であった近衛篤麿公の墓参に来た事がある。 近衛公は遠山満や犬養毅などと支那革命を成就させた人で、少なからず孫文の世話をした。 孫逸仙は、今でも支那の人たちの間には大切なる存在である。孫文は写真でも見る通り、 鼻下に髭が薄く左右に延びた鰌髭は特長があって如何にも支那人らしい人であった。 脊は高く外套の衿や袖にはラッコの皮を附けて居た。 支那政府の要人宋子文なども一行に附いて来たように思う。 日本では宮崎竜介の父滔天など長髪のつかね髪で、紋附羽織袴で之に加わって居た。 当時は、東京の自動車が皆で十台位しかなく、これに花輪が満載してあった。 私は軽王寺の石塀に昇って見て居たが、之が軽王寺での最後の思出である。 新村忠雄の獄中便り 其の一 茂木さん、奥様御達者ですか、私が本年五月参上した為めいろいろ調べられなすった様子、 実際済まない次第です、殊に大切な大学の試験中ではあり私は少なからず心をいためて 居りました。 今も尚大変済まなく存じます、茂木さん、かつて友様の紹介で参上して以来随分お世話に なって居りましたのを只今あらためて茲に感謝します。 私は学校の方がお忙しいのだから成る可く参上せず御勉強の妨げをせぬ考えで居りましたが、 何せい主義など眼中に置かずに心持ちよく取り扱って下さったので足繁くお世話に上り、 遂に思いもかけぬ御迷惑をかけました私の愚をかなしみます。 秋は試験も済んで暇もある、又上京したら芝居にでも行かうと、 仰せられらのはよく記憶して居ります。 何にもお話せず居りました私は有難う又出たら上りますと申して居りましたが、 只今ではとんだ芝居です。 本月九日予審が終結しました。来月十日公判開廷の筈です、 初めて同志諸君と相見るのですから、うれしくもあり悲しい感じもします。 茂木さん私の家兄は私の愚であったため、共犯として同じ日に拘引されて居ります。 其の人を見るのは尚心苦しく思はれます。 私共二人の居らぬ所え洪水で家は大変な被害、老いた母は一人で困って居った様子です。 まあ貴方や阿部さんに御迷惑をかけたのを思いますと、自身の苦痛の多ければそれだけ罪ほ ろぼしをした様に思います。お二人様の御健康を祈ります。 大沢様へ夏服のお礼を特に。そして久しい御厚情を一六様、元様、 友様(お序に)へ感謝して居りますことを伝えて下さい 明治四十三年十一月十八日 4 {注}私はこの手紙に接したのでこれに対して今年も余す所幾日もなくなりました、今年は ハレー彗星の出現と吉原の大火と、君等の事件で暮れ行くにて候と書いて返事を出した。 其の二 茂木さんお葉書三十日の夜拝読仕り候。 私の立場がこんなに明白になった今日、手紙を差し上ぐるさえよろしくないと思い乍ら、 又認め候。 友様の紹介で参上して以来どんな人間かわからぬ私を久しく親切になすって下さりし貴方と 共に忘るべからざる人は阿部さんに候。 評論の同情者なる阿部さんが一目面識もない私をあの評論のことで入ったため非常に同情な さって下さり、何時迄もお世話下されしに対し始めから評論の元様、友様、とは全く違った 立場の自己を明白にするか遠ざかる様にするか、いづれか一を撰ばさりし愚を悲しみ居候。 殊に阿部さんの御両親や阿部さんの境遇思想を思う毎に只お気の毒に堪えず候。 私は今度の事件に関する様主義主張を抱き居ると共に、一面に於て不義理とか済まぬとかを 非常に気にする方に候。 只今は阿部さんに対しては其感が烈しくはたらき居り候。 直接彼此申上兼候へば貴方よりよろしく御願申上候、 阿部さんの俳句はますます御上達の事と察し居り候、 私は阿部さんは二十世紀の一茶たるべき人と常に思い居り候、 一茶の住みし地を熟知し居る私が赤城の麓を訪れし時殊にそれを面白く感じられ候、 茂木さんここでもたまには楽観することが之あり候、 されどそれはお宅での四分の一位に候、高畠さんの行かれた頃の上毛ならば 私は楽観許り続くものをなどと馬鹿なことを考えるが度々に候、 好男子羽左衛門阪地に去り雲が坊主になるとのお話御贔負のものが居らず 寂しさお察し致し候、雲の坊主は私も実に意外に拝聞し候、 小山内氏のみ一人元気にて中村春雨の新社会劇が滅びたとの御話より あの牧師の家を思い出し候、あれを掲げた朝日に桐生悠々が マクスノルドウのべらんめい訳を出して今の文壇を罵ったため 文土が憤慨して彼地此地の雑誌に書き散らした様に聞き及び候、 その後雑誌新潮を見て文土の憤怒が何だか小共らしいのが可愛らしく面白く感じ申し候、 茂木さん、思はず無駄言を長く書きつけ失礼致し候、 私が上毛での二ヵ月と比較するにこの度の方が如何にも身体が弱って来た様に思われ候、 五月一寸具合が悪かった為め大抵十二貫四百匁位あったのが拾一貫九百匁に減じ居り候、 寒い信州生れなれば東京の冬位は何とも思はねども、 秋水のあとつぎの資格を有して居るのは閉口致し居り候、 尤も之は以前よりのものに候、私は膓(腸)がおかしく冬が来ようが矢張り元気にて 相変らず楽天家に候間御安心下され度候、 併し只今のところ家兄が嫌疑で来て居るため母親にあまり注文も致し兼 裁判の終結ばかり待ち居り候、乱筆にて失礼に候へども御二人の健康を専一に望み候 草々 明治四十三年十二月三日 元様、友様、一六様に何卒よろしくお願い申し上げ候 {注}茲の元様とは高畠素之、友様とは遠藤友四郎、一六様とは大沢一六 新村は三宅坂で事件の内容を私に打ち明けた時から、すでに死を覚悟して居たのだから、 この二通の手紙の中に少しも未練らしい事は書いてない、只私や阿部君その他周囲の人達に 対しては少しも迷惑のかからぬ様細心の注意を払って居る。 「大逆事件のリーダー」 5 茂木一次著より抜粋
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