私は4月14日~17日の4日間お休みを頂き宮城県に行ってきました。私

私は4月14日~17日の4日間お休みを頂き宮城県に行ってきました。私の父の実家は宮城
県です。今回の東日本大地震の津波により被災をしました。亘理町・山本町に祖父母・叔父叔母・
従兄弟などの親戚が住んでいます。生まれてからずっとお正月とお盆の年2回は必ず訪れていま
した。3月11日、病院のテレビをつけると震源地が宮城県だということを知りました。その瞬
間祖父母や親戚は無事なのだろうかととてもとても不安になりました。津波で流されていく建物
や車を映像でみると、私が知っているあの場
所があんな事になっているのかと思うと体
の震えがとまりませんでした…。すぐさま従
兄弟と連絡をとり、無事を確認しましたが祖
父は持病の薬を持っていく余裕はなかった
そうです。祖父は83歳という高齢で1年前
に胃ガンを患い、胃の全摘出手術をうけてい
ました。
しかし叔父叔母とは全く連絡がとれず、
「みんな無事だ」と連絡をうけたのは14日
の夜でした。私も勿論心配でたまりませんで
したが、自分の弟や兄の無事が確認出来ずに
いた父は気が気ではなかったでしょう…。数
日たち連絡も頻繁にとれるようになった頃被
害の状況がだんだんと分かってきました。祖
父母の家では、家の前10メートルあたりま
で水がきたそうです。従兄弟の家は全く津波
の被害は受けなかったそうです。叔父の家は
津波を受け半壊でしたが怪我人はいなかった
そうです。しかし、父の従兄弟は車で逃げて
いる最中に津波にさらわれ死亡したそうです…。非常に残念でしたが、身元が分かってからの土
葬になったので、「分からないままの土葬に
ならなくて良かった…。」とみな口を揃えて
言っていました。
4月2日~4日に父が、被災地に入りまし
た。帰ってきて話を聞くと、「言葉では伝え
られない。ひどすぎる」と肩を落とし小さな
声で言いました。私はあんな父を初めて見ま
した。父は「14日から17日の4日間でま
た宮城に行く。半壊した弟の家の片付けを手
伝いに行く。お前も一緒に行くか?」と言い
ました。私はすぐに「行く!何も出来ないかもしれないけど、少しでもみんなの力になりたい!」
と答えました。次の日さっそく院長先生とスタッフに相談をしたところ全員が快く「行ってきて」
「頑張って!」「病院のことは私たちに任せ
て!」と背中を押してくれました。私は嬉し
くて涙が出そうになりました。
そして14日当日。午前の診療をし14時
で早退を頂き、スタッフみんなに「行ってき
ます」と言い帰宅し15時に父と一緒に宮城
に向け出発しました。宮城に向かう東北自動
車道は物資を運ぶ大型のトラックや“緊急車
両”や自衛隊の車が多く走っていました。道
路は地震の影響で地割れが多く、そこを応急
的に直しているのでボコボコしていました。そして19時頃、被害を免れた祖父母の家(父の実
家)に到着しました。被害が小さかったため祖父母は避難所生活ではなく自宅で生活することが
出来ていると聞きました。ここに私と父は3泊することになりました。私の顔をみるなり祖父母
は満面の笑みで「よく来たねぇ」と言いました。被災し怖い思いを沢山したはずなのにその顔は、
いつもと変わらない優しい笑顔でした。地震発生時の話、どのように逃げたのか、被害の状況を
たくさん聞かせてくれました。
「田んぼも瓦礫まみれだし塩害もあるし、もうまなみちゃん家に美
味しいお米作って送ってあげることが出来
ないねぇ…」と悲しそうに呟いていました。
翌朝6時に起床して叔父叔母家族が避難
し生活をしている山下中学校に行きました。
長い時間は見学出来なかったのですが、たく
さんの人が避難生活をしていました。山下中
学校を後にして
叔父叔母の家に向かいました。山下中学校周
辺は比較的被害は小さかったようですが、そ
こから車で10分も走らないうちに景色は
一変しました。父が言っていた言葉の意味がわかりました。見たこともない景色が広がっていま
した。1番被害が大きかった気仙沼や石巻
に比べれば被害は小さいのかもしれません
が、それでも大変な被害を受けていると思
います。私は、泥まみれになったお鍋や食
器、靴、キレイになればまた使えるものを
洗ったり、家族の大切な思い出のアルバム
の泥をキレイにおとしたり、小さな瓦礫を
撤去する手伝いをしました。叔父叔母には
中学2年生と小学5年になる息子がいるの
ですが、その2人と一緒になって作業して
いました。2人と卒業アルバム・卒園アル
バムを拭いている時に、1人の女の子の顔を指さし「この子津波で死んだ」と弟が私に言いまし
た。兄の方も「俺の同級生も1人死んだ」と言ってきました。私は悲しすぎて何も言えませんで
した…。身近でこんなにも悲しい現実が起こっているなんて…。改めて地震と津波の恐ろしさを
感じました。夕方になり作業
を終え帰ろうとすると、叔母
の母が私を強く抱きしめ「ま
なみちゃんどうもありがとう。
本当にありがとう。まさかま
なみちゃんが来てくれるなん
て夢にも思わなかった。絶対
に復興する!させてみせるか
ら!だから元気になった宮城
にまた絶対に来るんだよ」涙
を流しながら言いました。宮
城は強い。東北は強い。日本
は強い。心からそう思いまし
た。
3日目は親戚の家の片付けを手
伝いました。この家には「危険」と
書かれた赤い紙が張ってあります。
いつ崩れてもおかしくはないとい
う意味です。ここでは食器を洗った
り毛布を洗ったり泥の撤去をしま
した。初めて会った親戚のお姉さん
が「わざわざ栃木から来てくれた
の?!あいがたいね」と言ってくれま
した。
この4日間被災地に入り、まず感
じたことは、ニュースなどでどれだけひどい状態なのか分かっていたつもりでしたが、実際自分
の目で見ると全く違って見えた事です。本当にこの世のものとは思えないような光景が 360 度広
がっています。私は4日しか手伝うことが出来ませんでした。私の小さな力だけではまだまだ足
りません。多くの時間・多くの人手・多く
の資金が必要です。この記事を読んだ皆さ
ん、もし時間に余裕があるのならぜひ現地
に入り、お手伝いをして下さい。しかし、
私たちが最もやらなければいけない事は、
毎日の生活を見直し、少しでも被災地のた
めにやれる事を継続して行うことだと思い
ます。1人1人の力はとても小さいのもで
すが、たくさん集まればとても大きな力に
なるのです。
最後に、仕事を離れ現地に行くことを快く承
諾して下さったスタッフの皆さん、応援をして
下さった患者さんに心から感謝申し上げます。
そして今を生きていることを素直に感謝しこ
れからも1日1日を大切にいたいです。
機会があれば私はまた宮城に行き何かをし
たいと思います。
頑張れ日本!!頑張れ東北!!
(歯科助手
齋藤麻菜美)