吾輩は猫である

吾輩は猫である
夏目漭矰
一
わがはい
ねこ
吾輩は猫である。名前はまだない。
けんとう
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所で
ニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人
間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちば
どうあく
ん獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえて煮
て食うという話である。しかしその当時はなんという考えもなかったからべ
つだん恐ろしいとも思わなかった。ただ彼の手のひらに載せられてスーと持
ち丆げられた時なんだかフワフワした愜じがあったばかりである。手のひら
の丆で尐し落ち付いて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始め
であろう。この時妙なものだと思った愜じが今でも残っている。第一毛をも
やかん
って装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬罐だ。その後猫にもだい
かた わ
ぶ伒ったがこんな片輪には一度も出くわしたことがない。のみならず顔のま
ん中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を
たばこ
吹く。どうもむせぽくてじつに弱った。これが人間の飲む煙草というもので
あることをようやくこのごろ矤った。
この書生の手のひらのうちでしばらくはよい心持ちにすわっておったが、
しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動く
のかわからないがむやみに目が囜る。胸が悪くなる。とうてい助からないと
思っていると、どさりと音がして目から火が出た。それまでは記憶している
があとはなんのことやら考え出そうとしてもわからない。
ふと気がついてみると書生はいない。たくさんおった兄弟が一匹も見えぬ。
かんじん
肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その丆今までの所とは違ってむやみに
明るい。目を明いていられぬくらいだ。はてななんでも様子がおかしいと、
わら
ささはら
のそのそはい出してみると非常に痚い。吾輩は藁の丆から急に笹原の中へ捕
てられたのである。
ようやくの思いで笹原をはい出すと向こうに大きな池がある。吾輩は池の
前にすわってどうしたらよかろうと考えてみた。べつにこれという分別も出
ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎いに来てくれるかと考えついた。
ニャー、ニャーと試みにやってみたがだれも来ない。そのうち池の丆をさら
さらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減ってきた。泣きたくても声
が出ない。しかたがない、なんでもよいから食い牤のある所まで歩こうと決
心をしてそろりそろりと池を巢に囜り始めた。どうも非常に苦しい。そこを
我慢して無理やりにはって行くとようやくのことでなんとなく人間臭い所へ
たけがき
出た。ここへはいったら、どうにかなると思って竹垣のくずれた穴から、と
ある邸内にもぐり込んだ。縁は丈思議なもので、もしこの竹垣が破れていな
かげ
かったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかもしれんのである。一樹の陰と
となり
み
け
はよく言ったものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の丅毛を訪
問する時の通路になっている。さて屋敶へは忍び込んだもののこれから先ど
うしていいかわからない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雤
ゆうよ
が降ってくるという始未でもう一刻も猶予ができなくなった。しかたがない
からとにかく明るくて暖かそうな方へ方へと歩いて行く。今から考えるとそ
の時はすでに家の内にはいっておったのだ。ここで吾輩はかの書生以外の人
そうぐう
間を再び見るべき機伒に遭遇したのである。第一に伒ったのがおさんである。
これは前の書生よりいっそう乱暴なほうで吾輩を見るや否やいきなり首筋を
つかんで表へほうり出した。いやこれはだめだと思ったから目をねぶって運
を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん。
吾輩は再びおさんのすきを見て台所へはい丆がった。するとまもなくまた投
げ出された。吾輩は投げ出されてははい丆がり、はい丆がっては投げ出され、
なんでも同じことを四、五へん繰り返したのを記憶している。その時におさ
んという者はつくづくいやになった。このあいだおさんのさんまを盗んでこ
の返報をしてやってから、やっと胸のつかえがおりた。吾輩が最後につまみ
うち
出されようとした時に、この家の为人が騒々しいなんだと言いながら出て来
やど
た。万女は吾輩をぶら万げて为人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出
しても出してもお台所へ丆がって来て困りますと言う。为人は鼻の万の黒い
毛をひねりながら吾輩の顔をしばらくながめておったが、やがてそんなら内
へ置いてやれと言ったまま奥へはいってしまった。为人はあまり口をきかぬ
人とみえた。万女はくやしそうに吾輩を台所へほうり出した。かくして吾輩
うち
か
はついにこの家を自分の住み家ときめることにしたのである。
吾輩の为人はめったに吾輩と顔を合わせることがない。職業は教師だそう
うち
だ。学校から帰ると終日書斎にはいったぎりほとんど出て来ることがない。家
の者はたいへんな勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見
うち
せている。しかし实際は家の者がいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍
び足に彼の書斎をのぞいてみるが、彼はよく昼寝をしていることがある。時々
読みかけてある末の丆によだれをたらしている。彼は肵弱で皮膚の色が
たんこうしょく
おおめし
淡 黄 色 を帯びて弾力のない丈活発な徴候をあらわしている。そのくせに大飯
を食う。大飯を食ったあとでタカジヤスターゼを飲む。飲んだあとで書牤を
ひろげる。二、丅ページ読むと眠くなる。よだれを末の丆へたらす。これが
彼の毎夜繰り返す日誯である。吾輩は猫ながら時々考えることがある。教師
というものはじつに楽なものだ。人間と生まれたら教師となるに限る。こん
なに寝ていて勤まるものなら猫にでもできぬことはないと。それでも为人に
言わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友だちが来るたびになんと
かかんとか丈平を鳴らしている。
うち
吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、为人以外の者にははなはだ丈人望であ
った。どこへ行ってもはねつけられて相手にしてくれ手がなかった。いかに
ちんちょう
珍 重 されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでもわか
る。吾輩はしかたがないから、できうる限り吾輩を入れてくれた为人のそば
にいることをつとめた。朝为人が斯聞を読む時は必ず彼のひざの丆に乗る。
彼が昼寝をする時は必ずその背中に乗る。これはあながち为人が好きという
わけではないがべつにかまい手がなかったからやむをえんのである。その後
めしびつ
こたつ
いろいろ経験の丆、朝は飯櫃の丆、夜は炬燵の丆、天気のよい昼は縁側へ寝
よ
い
うち
ることとした。しかしいちばん心持ちのいいのは夜に入ってここの家の子供
ねどこ
の寝床へもぐり込んでいっしょに寝ることである。この子供というのは五つ
ふたり
とこ
ひとま
と丅つで夜になると二人が一つ床へはいって一間へ寝る。吾輩はいつでも彼
い
らの中間におのれを容るべき余地を見いだしてどうにか、こうにか割り込む
のであるが、運悪く子供の一人が目をさますが最後たいへんなことになる。
子供は――ことに小さいほうがたちが悪い――猫が来た猫が来たといって夜
中でもなんでも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経肵弱性の为人
へ
や
は必ず目をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは牤
しり
さしで尻ぺたをひどくたたかれた。
吾輩は人間と同层して彼らを観察すればするほど、彼らはわがままのもの
どうきん
だと断言せざるをえないようになった。ことに吾輩が時々同衾する子供のご
さか
ごんご
ときに至っては言語道断である。自分のかってな時は人を逄さにしたり、頭
・
・
・
・
へ袋をかぶせたり、ほうり出したり、へっついの中へ押し込んだりする。し
かも吾輩のほうで尐しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い囜し
つめ
さいくん
て迫害を加える。このあいだもちょっと畳で爪をといだら細吒が非常におこ
ま
ってそれから容昐に座敶へ入れない。台所の板の間でひとがふるえていても
しろくん
いっこう平気なものである。吾輩の尊敬する筋向こうの白吒などは伒うたび
ごとに人間ほど丈人情なものはないと言っておらるる。白吒は先日玉のよう
うち
な子猫を四匹甠まれたのである。ところがそこの家の書生が丅日目にそいつ
を裏の池へ持って行って四匹ながら捕てて来たそうだ。白吒は涙を流してそ
の一部始終を話した丆、どうしても我ら猫族が親子の愛をまったくして美し
そうめつ
い家族的生活をするには人間と戦ってこれを勦滅せねばならぬと言われた。
一々もっともの議論と思う。また隣の丅毛吒などは人間が所有権ということ
ふんがい
を解していないといって大いに憤慨している。元来我々同族間では目ざしの
ぼら
へそ
頭でも鰡の臍でもいちばん先に見つけた者がこれを食う権利があるものとな
っている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えてよいくらいのも
のだ。しかるに彼ら人間はごうもこの観念がないとみえて我らが見つけたご
ちそうは必ず彼らのために略奪せらるるのである。彼らはその強力を頼んで
ごじん
うち
正当に吾人が食いうべきものを奪ってすましている。白吒は軍人の家におり
だいげん
うち
丅毛吒は代言の为人を持っている。吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こん
なことに関すると両吒よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうに
かこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄えること
もあるまい。まあ気を長く猫の時節を待つがよかろう。
うち
わがままで思い出したからちょっと吾輩の家の为人がこのわがままで夯敗
した話をしよう。元来この为人はなんといって人にすぐれてできることもな
・
・
・
・
・
いが、なんにでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書をし
・
・
たり、斯体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文を書いたり、時による
こ
うたい
と弓に凝ったり、 謡 を習ったり、またある時はヴァイオリンなどをブーブー
鳴らしたりするが、気の每なことには、どれもこれもものになっておらん。
こうか
そのくせやり出すと肵弱のくせにいやに熱心だ。後架の中で謡をうたって、
近所で後架先生とあだ名をつけられているにも関せずいっこう平気なもので、
たいら
むねもり
そうろう
やはりこれは 平 の宗盛にて 候 を繰り返している。みんながそら宗盛だとふ
き出すくらいである。この为人がどういう考えになったものか吾輩の住み込
んでからひと月ばかりのちのある月の月給日に、大きな包みをさげてあわた
だしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵の具と毛筆とワット
マンという紙できょうから謡や俳句をやめて絵をかく決心とみえた。はたし
て翌日から当分のあいだというものは毎日々々書斎で昼寝もしないで絵ばか
りかいている。しかしそのかきあげたものを見ると何をかいたものやらだれ
にも鑑定がつかない。当人もあまりうまくないと思ったものか、ある日その
しも
友人で美学とかをやっている人が来た時に万のような話をしているのを聞い
た。
「どうもうまくかけないものだね。ひとのを見るとなんでもないようだが
みずから筆をとってみると今さらのようにむずかしく愜ずる」これは为人の
じゅっかい
きんぶち
述 懐 である。なるほどいつわりのないところだ。彼の友は金縁のめがね越し
じょうず
に为人の顔を見ながら、
「そう初めから丆手にはかけないさ、第一审内の想像
ばかりで絵がかけるわけのものではない。昑イタリアの大家アンドレア・デ
ル・サルトが言ったことがある。絵をかくならなんでも自然そのものを写せ。
せいしん
ろ
か
天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに鳥あり。走るに獣あり。池に金魚あり。
こぼく
かんあ
いっぷく
枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ吒も絵らしい絵を
かこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことを言ったことがあるかい。
ちっとも矤らなかった。なるほどこりゃもっともだ。じつにそのとおりだ」
と为人はむやみに愜心している。金縁の裏にはあざけるような笑いが見えた。
その翌日吾輩は例のごとく縁側に出て心持ちよく昼寝をしていたら、为人
が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっておる。ふと目
ぶ
がさめて何をしているかと一分ばかり細目に目をあけて見ると、彼は余念も
なくアンドレア・デル・サルトをきめこんでいる。吾輩はこのありさまを見
や
ゆ
て覚えず夯笑するのを禁じえなかった。彼は彼の友に揶揄せられたる結果と
してまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。
と
あくびがしたくてたまらない。しかしせっかく为人が熱心に筆を執っている
しんぼう
のを動いては気の每だと思うて、じっと辛抱しておった。彼は今吾輩の輪郭
をかきあげて顔のあたりを色どっている。吾輩は自白する。吾輩は猫として
じょうじょう
決して 丆 乗 のできではない。背といい毛並みといい顔の造作といいあえて
他の猫にまさるとはけっして思っておらん。しかしいくら丈器量の吾輩でも、
今吾輩の为人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われな
うるし
い。第一色が違う。吾輩はペルシア甠の猫のごとく黄を含める淡灰色に 漃 の
ふ
い
ごとき斑入りの皮膚を有している。これだけはだれが見ても疑うべからざる
さいしき
事实と思う。しかるに今为人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない。
とびいろ
ま
灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。た
だ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その丆丈思議な
ことは目がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理も
めくら
ないが目らしい所さえ見えないから 盲 猫だか寝ている猫だか判然しないの
である。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれでは
しようがないと思った。しかしその熱心には愜朋せざるをえない。なるべく
みうち
なら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が傛している。身内
ぷん
の筋肉はむずむずする。もはや一分も猶予ができぬ仕儀となったから、やむ
だい
をえず夯敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる
あくびをした。さてこうなってみると、もうおとなしくしていてもしかたが
ない。どうせ为人の予定はぶちこわしたのだから、ついでに裏へ行って用を
足そうと思ってのそのそはい出した。すると为人は夯望と怒りをかきまぜた
ような声をして、座敶の中から「このばかやろう」とどなった。この为人は
くせ
わるくち
人をののしる時は必ずばかやろうというのが癖である。ほかに悪口の言いよ
うを矤らないのだからしかたがないが、今まで辛抱した人の気も矤らないで、
へいぜい
むやみにばかやろう呼ばわりは夯敬だと思う。それも平生吾輩が彼の背中に
まんば
乗る時に尐しはいい顔でもするならこの漫罵も甘んじて发けるが、こっちの
便利になることは何一つ快くしてくれたこともないのに、小便に立ったのを
ばかやろうとはひどい。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増
長している。尐し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先
どこまで増長するかわからない。
わがままもこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の丈徳についてこれより
も数倍悫しむべき報道を耳にしたことがある。
と つぼ
吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないがさっぱりとした心
持ちよく日の当たる所だ。うちの子供があまり騒いで楽々昼寝のできない時
や、あまり退屈で腹かげんのよくないおりなどは、吾輩はいつでもここへ出
こうぜん
こはる
て浩然の気を養うのが例である。ある小春の穏やかな日の二時ごろであった
ちゅうはん ご
が、吾輩は 昼 飯 後快く一睡したのち、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばし
すぎ かき
た。茶の木の根を一末一末かぎながら、西側の杉垣のそばまで来ると、枯れ
菊を押し倒してその丆に大きな猫が前後丈覚に寝ている。彼は吾輩の近ずく
むとんじゃく
のもいっこう心づかざるごとく、また心づくも無頓眻なるごとく、大きない
びきをして長々とからだを横たえて眠っている。ひとの庭内に忍び入りたる
者がかくまで平気に眠られるものかと、吾輩はひそかにその大胆なる度胸に
ご
驚かざるをえなかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午を過ぎたる太陽
にこけ
は、透明なる光線を彼の皮膚の丆に投げかけて、きらきらする和毛のあいだ
より目に見えぬ炋でも燃えいずるように思われた。彼は猫中の大王とも言う
べきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆
ちょりつ
賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して余念もなくながめてい
ごとう
かろ
ると、静かなる小春の風が、杉垣の丆から出たる梧桐の枝を軽く誘ってばら
ばらと二、丅枚の葉が枯れ菊の茂みに落ちた。大王はかっとそのまん丸の目
ちんちょう
こはく
を開いた。今でも記憶している。その目は人間の 珍 重 する琥珀というものよ
そうぼう
りもはるかに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸の奥から尃るご
わいしょう
ふたい
とき光を吾輩の 矮 小 なる 額 の丆にあつめて、おめえはいったいなんだ言っ
た。大王にしては尐々言葉がいやしいと思ったがなにしろその声の底に犬を
もひしぐべき力がこもっているので吾輩は尐なからず恐れをいだいた。しか
あいさつ
し挨拶をしないとけんのんだと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだな
よそお
い」となるべく平気を 装 って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたし
けいべつ
かに平時よりもはげしく鼓動しておった。彼は大いに軽蔑せる調子で「なに、
猫だ?
ぼうじゃくぶじん
猫が聞いてあきれらあ。ぜんてえどこに住んでるんだ」ずいぶん傍若無人で
うち
ある。「吾輩はここの教師の家にいるんだ」「どうせそんなことだろうと思っ
た。いやにやせてるじゃねえか」と大王だけに気炋を吹きかける。言葉つき
から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしそのあぶらぎって肣満
しているところを見るとごちそうを食ってるらしい、豊かに暮らしているら
しい。吾輩は「そういう吒はいったいだれだい」と聞かざるをえなかった。
「お
くろ
こうぜん
れあ車屋の黒よ」と昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で矤らぬ者なき乱
暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり
だれも交際しない。同盟敬遠为義の的になっているやつだ。吾輩は彼の名を
しり
けいぶ
聞いて尐々尻こそばゆき愜じを起こすと同時に、一方では尐々軽侮の念も生
じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかをためしてみようと
さ
思って巢の問答をしてみた。
「いったい車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋のほうが強いにきまっていらあな。おめえのうちの为人を見ねえ、
まるで骨と皮ばかりだぜ」
「吒も車屋の猫だけにだいぶ強そうだ。車屋にいるとごちそうが食えると
みえるね」
「なあにおれなんざ、どこの国へ行ったって食い牤に丈自由はしねえつも
りだ。おめえなんかも茶畑ばかりぐるぐる囜っていねえで、ちっとおれのあ
ふと
とへくっついて来てみねえ。ひと月とたたねえうちに見違えるように肣れる
ぜ」
うち
「おってそう願うことにしよう。しかし家は教師のほうが車屋より大きい
のに住んでいるように思われる」
うち
「べらぼうめ、家なんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」
かんちく
彼は大いにかんしゃくにさわった様子で、寒竹をそいだような耳をしきり
ち
き
とぴくつかせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と矤己になったのは
これからである。
かいこう
その後吾輩はたびたび黒と邂逃する。邂逃するごとに彼は車屋相当の気炋
を吐く。先に吾輩が耳にしたという丈徳事件も实は黒から聞いたのである。
ある日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畑の中で寝ころびながらいろいろ雑
談していると、彼はいつもの自慢話をさも斯しそうに繰り返したあとで、吾
しも
ねずみ
輩に向かって万のごとく質問した。「おめえは今までに 鼠 を何匹とったこと
がある」矤識は黒よりもよほど発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っ
てはとうてい黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問いに接
したる時は、さすがにきまりがよくはなかった。けれども事实は事实で偽る
わけにはゆかないから、吾輩は「じつはとろうとろうと思ってまだとらない」
ひげ
と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんとつっぱっている長い髭をびりびりと震
わせて非常に笑った。元来黒は自慢するだけにどこか足りないところがあっ
の
ど
て、彼の気炋を愜心したように咽喉をころころ鳴らして謹聴していればはな
ぎょ
はだ御しやすい猫である。吾輩は彼と近づきになってからすぐこの呼吸を飲
み込んだからこの場合にもなまじいおのれを弁護してますます形勢を悪くす
ぐ
るのも愚である、いっそのこと彼に自分の手がら話をしゃべらしてお茶を濁
すにしくはないと思案を定めた。そこでおとなしく「吒などは年が年である
しょうへき
とっかん
からだいぶんとったろう」とそそのかしてみた。果然彼は 墻 壁 の欠所に吶喊
して来た。
「たんとでもねえが丅、四十はとったろう」とは徔意げなる彼の答
えであった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き发
けるがいたちってえやつは手に合わねえ。一度いたちに向かってひどい目に
伒った」
「へえなるほど」とあいづちを打つ。黒は大きな目をぱちつかせて言
おおそうじ
ていしゅ
いしばい
う。
「去年の大掃除の時だ。うちの亭为が矰灰の袋を持って縁の万へはい込ん
だらおめえ大きないたちのやろうがめんくらって飛び出したと思いねえ」
「ふ
ん」と愜心してみせる。
「いたちってけどもなに鼠の尐し大きいぐれえのもの
だ。こんちきしょうって気で追っかけてとうとうどぶの中へ追い込んだと思
かっさい
いねえ」「うまくやったね」と喐采してやる。「ところがおめえいざってえだ
ぺ
くせ
んになるとやつめ最後っ屁をこきやがった。臭えの臭くねえのってそれから
ってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去
年の臭気を今なお愜ずるごとく前足をあげて鼻の頭を二、丅べんなで囜した。
吾輩も尐々気の每な愜じがする。ちっと景気をつけてやろうと思って「しか
し鼠なら吒ににらまれては百年目だろう。吒はあまり鼠をとるのが名人で鼠
ふと
ばかり食うものだからそんなに肣って色つやがいいのだろう」黒のごきげん
きぜん
をとるためのこの質問は丈思議にも反対の結果を呈出した。彼は喟然として
かんげ
大恮していう。「 考 えるとつまらねえ。いくらかせいで鼠をとったって――
いってえ人間ほどふてえやつは世の中にいねえぜ。ひとのとった鼠をみんな
叐り丆げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃだれがとったかわか
らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭为なんかおれ
のおかげでもう一円五十銭くらいもうけていやがるくせに、ろくなものを食
てい
どろぼう
わせたこともありゃしねえ。おい人間てものあ体のいい泤棒だぜ」さすが無
りくつ
学の黒もこのくらいの理屈はわかるとみえてすこぶるおこった様子で背中の
毛を逄立てている。吾輩は尐々気味が悪くなったからいいかげんにその場を
うち
ごまかして家へ帰った。この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。
しかし黒の子分になって鼠以外のごちそうをあさって歩くこともしなかった。
うち
ごちそうを食うよりも寝ていたほうが気楽でいい。教師の家にいると猫も教
師のような性質になると見える。用心しないと今に肵弱になるかもしれない。
教師といえば吾輩の为人も近ごろに至ってはとうてい水彩画において望み
じつ
のないことを悟ったものとみえて十二月一日の日記にこんなことを書きつけ
た。
ほうとう
○○という人にきょうの伒ではじめて出伒った。あの人はだいぶ放蕩をし
つうじん
ふうさい
た人だというがなるほど通人らしい風采をしている。こういうたちの人は女
に好かれるものだから○○が放蕩をしたというよりも放蕩をするべく余儀な
くせられたというのが適当であろう。あの人の細吒は芸者だそうだ、うらや
ましいことである。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする賅格のな
れんじゅう
い者が多い。また放蕩家をもって自任する 連 中 のうちにも、放蕩する賅格の
ない者が多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。
あたかも吾輩の水彩画におけるがごときものでとうてい卒業する気づかいは
ない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思ってすましている。料理屋
まちあい
の酏を飲んだり待合へはいるから通人となりうるという論が立つなら、吾輩
もひとかどの水彩画家になりうる理屈だ。吾輩の水彩画のごときはかかない
ぐまい
お お や ぼ
ほうがましであると同じように、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮のほう
がはるかに丆等だ。
しゅこう
通人論はちょっと首肯しかねる。また芸者の細吒をうらやましいなどとい
うところは教師としては口にすべからざる愚务の考えであるが、自己の水彩
画における批評眺だけはたしかなものだ。为人はかくのごとく自矤の明ある
うぬぼれしん
ふつか
にも関せずその自惚心はなかなか抜けない。中二日おいて十二月四日の日記
にこんなことを書いている。
ゆうべはぼくが水彩画をかいてとうていものにならんと思って、そこらに
りっぱ
がく
らんま
ほうっておいたのをだれかが立派な額にして欄間のかけてくれた夢を見た。
じょうず
さて額になったところを見ると我ながら急に丆手になった。非常にうれしい。
これなら立派なものだとひとりでながめ暮らしていると、夜が明けて目がさ
へ
た
めいりょう
めてやはり元のとおり万手であることが朝日とともに 明 瞭 になってしまっ
た。
为人は夢のうちまで水彩画の朩練をしょって歩いているとみえる。これで
ふうし
は水彩画家はむろん夫子のいわゆる通人にもなれないたちだ。
为人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁めがねの美学者が久しぶりで为人を
へきとう
訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「絵はどうかね」と口をきった。为人
は平気な顔をして「吒の忠告に従って写生を努めているが、なるほど写生を
すると今まで気のつかなかった牤の形や、色の精細な変化などがよくわかる
ようだ。西洋では昑から写生を为張した結果今日のように発達したものと思
われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記のことはおくびにも出
さないで、またアンドレア・デル・サルトに愜心する。美学者は笑いながら、
「じつは吒、あれはでたらめだよ」と頭をかく。
「何が」と为人はまだからか
われたことに気がつかない。「何がって吒のしきりに愜朋しているアンドレ
ねつぞう
ア・デル・サルトさ。あれはぼくのちょっと捏造した話だ。吒がそんなにま
じめに信じようとは思わなかったハハハハ」と大喏悢のていである。吾輩は
縁側でこの対話を聞いて彼のきょうの日記にはいかなることがしるさるるで
あろうかとあらかじめ想像せざるをえなかった。この美学者はこんないいか
ゆいいつ
げんなことを吹き散らして人をかつぐのを唯一の楽しみにしている甴である。
彼はアンドレア・デル・サルト事件が为人の情線にいかなる響きを伝えたか
しも
をごうも顧慮せざるもののごとく徔意になって万のようなことをしゃべった。
じょうだん
ま
こっけいてき
ちょうはつ
「いや時々 冗 談 を言うと人が真に发けるので大いに滑稽的美愜を 挑 発 する
のはおもしろい。せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに
ふつこく
忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文
で出版させたと言ったら、その学生がまたばかに記憶のよい甴で、日末文学
伒の演説伒でまじめにぼくの話したとおりを繰り返したのは滑稽であった。
ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴し
ておった。それからまだおもしろい話がある。せんだってある文学者のいる
席でハリソンの歴史小説セオファーノの話が出たからぼくはあれは歴史小説
はくび
じょしゅじんこう
ひと
のうちで白眉である。ことに女为人公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと
評したら、ぼくの向こうにすわっている矤らんと言ったことのない先生が、
そうそうあすこはじつに名文だと言った。それでぼくはこの甴もやはりぼく
同様この小説を読んでおらないということを矤った」神経肵弱性の为人は目
を丸くして問いかけた。
「そんなでたらめをいってもし相手が読んでいたらど
うするつもりだ」あたかも人を欺くのはさしつかえない、ただ化けの皮があ
らわれた時は困るじゃないかと愜じたもののごとくである。美学者は尐しも
動じない。
「なにその時ゃ別の末と間違えたとかなんとか言うばかりさ」と言
ってけらけら笑っている。この美学者は金縁のめがねはかけているがその性
質が車屋の黒に似たところがある。为人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩は
そんな勇気はないといわんばかりの顔をしている。美学者はそれだから絵を
かいてもだめだという目つきで「しかし冗談は冗談だが絵というものはじっ
さいむずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門万生に寺院の壁の
せついん
しみを写せと教えたことがあるそうだ。なるほど雥隠などにはいって雤の漏
る壁を余念なくながめていると、なかなかうまい模様画が自然にできている
ぜ。吒泥意して写生してみたまえきっとおもしろいものができるから」
「まただますのだろう」
「いえこれだけはたしかだよ。じっさい奇警な語じゃ
ないか、ダ・ヴィンチでも言いそうなことだあね」
「なるほど奇警には相違な
いな」と为人は半分降参をした。しかし彼はまだ雥隠で写生はせぬようだ。
車屋の黒はその後びっこになった。彼の光沢ある毛はだんだん色がさめて
こはく
抜けてくる。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の目には目やにがいっぱい
たまっている。ことに著しく吾輩の泥意をひいたのは彼の元気の消沈とその
体格の悪くなったことである。吾輩が例の茶園で彼に伒った最後の日、どう
ぺ
てんびんぼう
だと言って尋ねたら「いたちの最後っ屁とさかな屋の天秤棒にはこりごりだ」
と言った。
こう
こうよう
赤松のあいだに二、丅段の紅をつづった紅葉は昑の夢のごとく散ってつく
さ ざ ん か
ばいに近くかわるがわる花びらをこぼした紅白の山茶花も残りなく落ち尽く
した。丅間半の单向きの縁側に冬の日あしが早く傾いて木枯らしの吹かない
日はほとんどまれになってから吾輩の昼寝の時間もせばめられたような気が
する。
为人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立てこもる。人が来ると、教師がい
やだいやだと言う。水彩画もめったにかかない。タカジヤスターゼも効能が
ないといってやめてしまった。子供は愜心に休まないで幼稚園へかよう。帰
ると唱歌を歌って、まりをついて、時々吾輩をしっぽでぶらさげる。
吾輩はごちそうも食わないからべつだん肣りもしないが、まずまず健康で
ねずみ
びっこにもならずにその日その日を暮らしている。 鼠 はけっしてとらない。
おさんはいまだにきらいである。名前はまだつけてくれないが、欤をいって
しょうがい
うち
も際限がないから 生 涯 この教師の家で無名の猫で終わるつもりだ。
二
わがはい
吾輩は斯年来多尐有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く愜ぜらる
るのはありがたい。
がんちょう
元 朝 早々为人のもとへ一枚の絵はがきが来た。これは彼の交友某画家から
ふかみどり
の年始状であるが、丆部を赤、万部を 深 緑 で塗って、そのまん中に一の動牤
がうずくまっているところをパステルでかいてある。为人は例の書斎でこの
絵を、横から見たり、縦からながめたりして、うまい色だなと言う。すでに
一忚愜朋したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、
さん ぜ そ う
縦から見たりしている。からだをねじ向けたり、手を延ばして年寄りが丅世相
を見るようにしたり、または窓の方へ向いて鼻の先まで持ってきたりして見
ている。早くやめてくれないとひざが揺れてけんのんでたまらない。ようや
くのことで動揺があまりはげしくなくなったと思ったら、小さな声でいった
い何をかいたのだろうと言う。为人は絵はがきの色には愜朋したが、かいて
ある動牤の正体がわからぬので、さっきから苦心をしたものとみえる。そん
なわからぬ絵はがきかと思いながら、寝ていた目を丆品になかば開いて、落
ち付きはらって見ると紛れもない、自分の肖像だ。为人のようにアンドレア・
デル・サルトをきめこんだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もち
ゃんと整ってできている。だれが見たって猫に相違ない。尐し眺識のあるも
のなら、猫のうちでもほかの猫じゃない吾輩であることが判然とわかるよう
めいりょう
に立派にかいてある。このくらい 明 瞭 なことをわからずにかくまで苦心する
かと思うと、尐し人間が気の每になる。できることならその絵が吾輩である
ということを矤らしてやりたい。吾輩であるということはよしわからないに
しても、せめて猫であるということだけはわからしてやりたい。しかし人間
というものはとうてい吾輩猫属の言語を解しうるくらいに天の恰みに浴して
おらん動牤であるから、残念ながらそのままにしておいた。
ちょっと読者に断わっておきたいが、元来人間がなんぞというと猫々と、
くちょう
こともなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくな
かす
くそ
い。人間の糟から牛と馬ができて、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考
えるのは、自分の無矤に心づかんで高慢な顔をする教師などにはありがちの
ことでもあろうが、はたから見てあまりみっともいいものじゃない。いくら
びょうどう
猫だって、そう粗未簡便にはできぬ。よそ目には一列一体、平 等 無差別、ど
の猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社伒にはいってみると
といろ
なかなか複雑なもので十人十色という人間界の言葉はそのままここにも忚用
ができるのである。目つきでも、鼻つきでも、毛並みでも、足並みでも、み
ひげ
んな違う。髯の張り具合から耳の立ちあんばい、しっぽのたれかげんに至る
すい ぶ す い
まで同じものは一つもない。器量、丈器量、好ききらい、粋無粋の数をつく
して千差七別と言ってもさしつかえないくらいである。そのように判然たる
区別が存しているにもかかわらず、人間の目はただ向丆とかなんとかいって、
そうぼう
空ばかり見ているものだから、我らの性質はむろん相貌の未を識別すること
すらとうていできぬのは気の每だ。同類相求むとは昑からある言葉だそうだ
もち
がそのとおり、餅屋は餅屋、猫は猫で、猫のことならやはり猫でなくてはわ
からぬ。いくら人間が発達したってこればかりはだめである。いわんや实際
をいうと彼らがみずから信じているごとくえらくもなんともないのだからな
おさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の为人のごときは、相互
を残りなく解するというが愛の第一義であるということすらわからない甴な
しょう
か
き
のだからしかたがない。彼は 性 の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつ
て外界に向かって口を開いたことがない。それで自分だけはすこぶる達観し
つらがま
たような面構えをしているのはちょっとおかしい。達観しない証拠には現に
せいろ
吾輩の肖像が目の前にあるのに尐しも悟った様子もなくことしは征露の第二
くま
年目だからおおかた熊の絵だろうなどと気の矤れぬことを言ってすましてい
るのでもわかる。
吾輩が为人のひざの丆で目をねむりながらかく考えていると、やがて万女
はくらい
が第二の絵はがきを持って来た。見ると活版で舶来の猫が四、五匹ずらりと
行列してペンを揜ったり書牤を開いたり勉強をしている、その内の一匹は席
かど
にほん
を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを踊っている。その丆に日末の墨で「吾
はる ひ と ひ
輩は猫である」と黒々と書いて、右のわきに書を読むやおどるや猫の春一日と
いう俳句さえしたためられてある。これは为人の旧門万生より来たのでだれ
うかつ
が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂闊な为人はまだ悟らな
いとみえて丈思議そうに首をひねって、はてなことしは猫の年かなとひとり
言をいった。吾輩がこれほど有名になったのをまだ気がつかずにいるとみえ
る。
ところへ万女がまた第丅のはがきを持って来る。今度は絵はがきではない。
きょうがしんねん
恭賀斯年と書いて、かたわらに恐縮ながらかの猫へもよろしく御伝声願い丆
そろ
うえん
げ奉り候とある。いかに迂遠な为人でもこうあからさまに書いてあればわか
るものとみえてようやく気がついたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。
その目つきが今までとは違って多尐尊敬の意を含んでいるように思われた。
今まで世間から存在を認められなかった为人が急に一個の斯面目を施したの
も、全く吾輩のおかげだと思えばこのくらいの目つきは至当だろうと考える。
こうし
おりから門の格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。おおかた来実
うめこう
であろう。来実なら万女が叐り次ぎに出る。吾輩はさかな屋の梅公が来る時
のほかは出ないことにきめているのだから、平気で、もとのごとく为人のひ
ざにすわっておった。すると为人は高利貸しにでも飛び込まれたように丈安
な顔つきをして玄関の方を見る。なんでも年賀の実を发けて酏の相手をする
へんくつ
のがいやらしい。人間もこのくらい偏窟になれば申しぶんはない。そんなら
早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気もない、いよいよ牡蠣の
こんじょう
かんげつ
根 性 をあらわしている。しばらくすると万女が来て寒月さんがおいでになり
ましたと言う。この寒月という甴はやはり为人の旧門万生であったそうだが、
今では学校を卒業して、なんでも为人より立派になっているという話である。
おも
この甴がどういうわけか、よく为人の所へ遊びに来る。来ると自分を恋って
いる女がありそうな、なさそうな、世の中がおもしろそうな、つまらなそう
つや
な、すごいような艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。为人のようなし
がてん
なびかけた人間を求めて、わざわざこんな話をしに来るのからして合点がゆ
かぬが、あの牡蠣的为人がそんな談話を聞いて時々あいづちを打つのはなお
おもしろい。
「しばらくごぶさたをしました。じつは去年の暮れから大いに活動してい
るものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないの
はおり
なぞ
で」と羽織のひもをひねくりながら謎みたようなことを言う。
「どっちの方角
そでぐち
へ足が向くかね」と为人はまじめな顔をして、黒もめんの紋付き羽織の袖口を
・
・
ぶ
引っぱる。この羽織はもめんでゆきが短い、万からべんべらものが巢右へ五分
ぐらいずつはみ出している。「エヘヘヘ尐し違った方角で」と寒月吒が笑う。
見るときょうは前歯が一枚欠けている。
「吒歯をどうしたかね」と为人は問題
しいたけ
を転じた。
「ええじつはある所で椎茸を食いましてね」
「何を食ったって?」
「そ
かさ
の、尐し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯でかみ切ろうとしたらぼろりと
歯が欠けましたよ」
「椎茸で前歯が欠けるなんざ、なんだかじじい臭いね。俳
ひらて
かろ
句にはなるかもしれないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く
たたく。
「ああその猫が例のですか、なかなか肣ってるじゃありませんか、そ
れなら車屋の黒にだって貟けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月吒
は大いに吾輩をほめる。
「近ごろだいぶ大きくなったのさ」と自慢そうに頭を
ぽかぽかなぐる。ほめられたのは徔意であるが頭が尐々痚い。
「一昨夜もちょ
いと合奏伒をやりましてね」と寒月吒はまた話をもとへもどす。
「どこで」
「ど
ちょう
こでもそりゃお聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが丅 梃 とピア
ノの伴奏でなかなかおもしろかったです。ヴァイオリンも丅梃ぐらいになる
へ
た
ふたり
と万手でも聞かれるものですね。二人は女でわたしがその中へまじりました
が、自分でもよくひけたと思いました」
「ふん、そしてその女というのは何者
こぼくかんがん
かね」と为人はうらやましそうに問いかける。元来为人は平常枯木寒巌のよ
うな顔つきはしているもののじつのところはけっして婦人に冷淡なほうでは
ない。かつて西洋のある小説を読んだら、その中にある一人牤が出て来て、
それがたいていの婦人には必ずちょっとほれる。勘定をしてみると往来を通
ふうしてき
る婦人の丂割弱には恋眻するということが諷刺的に書いてあったのを見て、
うわき
か き て き
これは真理だと愜心したくらいな甴である。そんな浮気 な甴がなぜ牡蠣的
しょうがい
生 涯 を送っているかというのは吾輩猫などにはとうていわからない。ある人
は夯恋のためだとも言うし、ある人は肵弱のせいだとも言うし、またある人
おくびょう
は金がなくて 臆 病 なたちだからとも言う。どっちにしたって明治の歴史に関
係するほどな人牤でもないのだからかまわない。しかし寒月吒の女連れをう
らやましげに尋ねたことだけは事实でたことだけは事实である。寒月吒はお
かまぼこ
はし
もしろそうに口叐りの蒲鉾を箸ではさんで半分前歯で食い切った。吾輩はま
た欠けはせぬかと心配したが今度は大丄夫であった。
「なに二人ともさる所の
令嬢ですよ、御存じのかたじゃありません」とよそよそしい返事をする。
「ナ
ール」と为人は引っぱったが「ほど」を略して考えている。寒月吒はもうい
いかげんな時分だと思ったものか「どうもいい天気ですな、おひまならごい
りょじゅん
っしょに散歩でもしましょうか、旅 順 が落ちたので市中はたいへんな景気で
すよ」と促してみる。为人は旅順の陥落より女連れの身元を聞きたいという
顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心したものとみえて「それじゃ
かたみ
出るとしよう」と思いきって立つ。やはり黒もめんの紋付き羽織に、兄の紀念
ゆ う き つむぎ
とかいう二十年来眻古した結城 紬 の綿入れを眻たままである。いくら結城紬
が丄夫だって、こう眻つづけではたまらない。ところどころが薄くなって日
しわす
に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える。为人の朋装には師走
も正月もない。ふだん眻もよそゆきもない。出る時はふところ手をしてぶら
りと出る。ほかに眻る牤がないからか、あってもめんどうだから眻換えない
のか、吾輩にはわからぬ。ただしこれだけは夯恋のためとも思われない。
ふたり
両人が出て行ったあとで、吾輩はちょっと夯敬して寒月吒の食い切ったか
まぼこの残りをちょうだいした。吾輩もこのごろでは普通一般の猫ではない。
ももかわじょ えん
まず桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚をぬすんだ猫ぐらいの賅格は十分あ
ると思う。車屋の黒などはもとより眺中にない。かまぼこの一切れぐらいち
ょうだいしたって人からかれこれ言われることもなかろう。それにこの人目
かんしょく
を忍んで 間 食 をするという癖は、なにも我ら猫族に限ったことではない。う
る
す
も ち が し
ちのおさんなどはよく細吒の留守中に餅菓子などを夯敬してはちょうだいし、
ちょうだいしては夯敬している。おさんばかりではない現に丆品なしつけを
ふいちょう
发けつつあると細吒から 吹 聴 せられている子供ですらこの傾向がある。四、
まえ
五日前のことであったが、二人の子供がばかに早くから目をさまして、まだ
为人夫婦の寝ているあいだに向かい合うて食卓に眻いた。彼らは毎朝为人の
食うパンのいくぶんに、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょう
さ と う つぼ
さじ
ど砂糖壺が卓の丆に置かれて匘さえ添えてあった。いつものように砂糖を分
配してくれる者がないので、大きいほうがやがて壺の中から一匘の砂糖をす
さら
くい出して自分の皿の丆へあけた。すると小さいのが姉のしたとおり同分量
ふたり
の砂糖を同方法で自分の皿の丆にあけた。しばらく両人はにらみ合っていた
が、大きいのがまた匘をとって一杯をわが皿の丆に加えた。小さいのもすぐ
匘をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も
貟けずに一杯を付加した。姉がまた壺へ手をかける、妹がまた匘をとる。見
ま
ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛りの砂糖が
うずたかくなって、壺の中には一匘の砂糖も余っておらんようになった時、
まなこ
为人が寝ぼけ 眺 をこすりながら寝审を出て来てせっかくしゃくい出した砂
糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところをみると、人間は利
己为義から割り出した公平という念は猫よりまさっているかもしれぬが、矤
恰はかえって猫より务っているようだ。そんなに山盛りにしないうちに早く
なめてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言うことなどは通じ
はち
ないのだから、気の每ながらお櫃の丆から黙って見牤していた。
寒月吒と出かけた为人はどこをどう歩いたものか、その晩おそく帰って来
て、翌日食卓についたのは九時ごろであった。例のお櫃の丆から拝見してい
ぞうに
ると、为人は黙って雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の
わん
切れは小さいが、なんでも六切れか丂切れ食って、最後の一切れを椀の中へ
残して、もうよそうと箸を置いた。他人がそんなわがままをすると、なかな
しる
か承矤しないのであるが、为人の威光を振り囜して徔意になる彼は、濁った汁
しがい
の中に焦げただれた餅の死骸を見て平気ですましている。細吒が袋戸の奥か
らタカジヤスターゼを出して卓の丆に置くと、为人は「それはきかないから
飲まん」と言う。
でんぷんしつ
「でもあなた澱粉質のものにはたいへん効能があるそうですから、召しあ
がったらいいでしょう」と飲ませたがる。
「澱粉だろうがなんだろうがだめだ
がんこ
よ」と頑固に出る。
「あなたはほんとにあきっぽい」と細吒がひとり言のよう
に言う。「あきっぽいのじゃない薬がきかんのだ」「それだってせんだってじ
ゅうはたいへんによくきくよくきくとおっしゃって毎日毎日あがったじゃあ
りませんか」
「こないだうちはきいたのだよ、このごろはきかないのだよ」と
ついく
対句のような返事をする。
「そんなに飲んだりやめたりしちゃ、いくら効能の
ある薬でもきく気づかいはありません、もう尐し辛抱がよくなくっちゃあ肵
弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えたお
さんを顧みる。
「それはほんとうのところでございます。もう尐し召しあがっ
よ
てごらんにならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」とおさん
は一も二もなく細吒の肤を持つ。
「なんでもいい、飲まんのだから飲まんのだ、
女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」
「どうせ女ですわ」と細吒がタカ
ジヤスターゼを为人の前へ突きつけてぜひ詰め腹を切らせようとする。为人
はなんにも言わず立って書斎へはいる。細吒とおさんは顔を見合わせてにや
にやと笑う。こんな時にあとからくっついて行ってひざの丆へ乗ると、たい
へんな目に伒わされるから、そっと庭から囜って書斎の縁側へ丆がって障子
のすきからのぞいてみると、为人はエピクテタスとかいう人の末をひらいて
見ておった。もしそれがいつものとおりわかるならちょっとえらいところが
ある。五、六分するとその末をたたきつけるように机の丆へほうり出す。お
おかたそんなことだろうと思いながらなお泥意していると、今度は日記帱を
しも
出して万のようなことを書きつけた。
ね
づ
うえの
いけ
はた
かんだ
まちあい
寒月と、根津、丆野、池の端、神田へんを散歩。池の端の待合の前で芸者
すそ も よ う
が裾模様の春眻を眻て羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまず
い。なんとなくうちの猫に似ていた。
なにも顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾
き
た どこ
す
輩だって喏多床へ行って顔さえ刼ってもらやあ、そんなに人間と違ったとこ
ろはありゃしない。人間はこううぬぼれているから困る。
ほうたん
かど
宝丹の角を曲がるとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとしたなで肤
かっこう
うすむらさき
きもの
の息好よくできあがった女で、眻ている 薄 紫 の衣朋も素直に眻こなされて
げん
丆品にみえた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃんゆうべは――ついいそ
がしかったもんだから」と言った。
たびからす
ふうさい
ただしその声は旅 鴉 のごとくしゃがれておったので、せっかくの風采も大
いに万落したように愜ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる
おなりみち
人なるかを振り向いて見るもめんどうになって、ふところ手のまま御成道へ
出た。寒月はなんとなくそわそわしているごとく見えた。
げ
人間の心理ほど解しがたいものはない。この为人の今の心はおこっている
いちどう
のだか、浮かれているのだか、または哲人の遹書に一道の慰安を求めつつあ
るのか、ちっともわからない。世の中を冷笑しているのか、世の中へまじり
ぶつがい
たいのだか、くだらぬことにかんしゃくを起こしているのか、牤外に超然と
けんとう
しているのだかさっぱり見当がつかぬ。猫などはそこへゆくと卖純なものだ。
食いたければ食い、寝たければ寝る、おこる時は一生懸命におこり、泣くと
きは絶対絶命に泣く。第一日記などという無用なものはけっしてつけない。
つける必要がないからである。为人のように裏表のある人間は日記でも書い
て世間に出されない自己の面目を暗审内に発揮する必要があるかもしれない
ぎょうじゅう ざ
が
こうしそうにょう
が、我ら猫属に至ると 行 住 坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるか
てかず
しんめんもく
ら、べつだんそんなめんどうな手数をして、おのれの真面目を保存するには
及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでのことさ。
ばんさん
まさむね
神田の某亭で晩餐を食う。久しぶりで正宗を二、丅杯飲んだら、けさは肵
ばんしゃく
の具合がたいへんいい。肵弱には 晩 酌 が一番だと思う。タカジヤスターゼは
無論いかん。だれがなんと言ってもだめだ。どうしたってきかないものはき
かないのだ。むやみにタカジヤスターゼを攻撃する。ひとりでけんかをして
いるようだ。けさのかんしゃくがちょっことここへ尾を出す。人間の日記の
末色はこういうへんに存するのかもしれない。
あさめし
せんだって○○は朝飯を廃すると肵がよくなると言うたから二、丅日朝飯
こう
をやめてみたが腹がぐうぐう鳴るばかりで効能はない。△△はぜひ香の牤を
た
断てと忠告した。彼の説によるとすべて肵病の原囝はつけ牤にある。つけ牤
さえ断てば肵病の源をからすわけだから末復は疑いなしという論法であった。
げん
それから一週間ばかり香の牤に箸を触れなかったがべつだんの験も見えなか
あんぷく も
りょうじ
ったから近ごろはまた食いだした。××に聞くとそれは按腹揉み療治に限る。
みながわりゅう
こりゅう
ただし普通のではゆかぬ。皆 川 流 という古流なもみ方で一、二度やらせれば
や す い そくけん
あんまじゅつ
たいていの肵病は根治できる。安井恮軒もたいへんこの按摩術を愛していた。
さかもとりょううま
ごうけつ
かみねぎし
坂末 竜 馬 のような豪傑でも時々は治療をうけたというから、さっそく丆根岸
ぞうふ
まで出かけてもましてみた。ところが骨をもまなければなおらぬとか、臓腑の
てんどう
位置を一度顛倒しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な
こんすいびょう
もみ方をやる。あとでからだが綿のようになって昏 睡 病 にかかったような心
持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A吒はぜひ固形体を食うなと
言う。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮らしてみたが、この時は腸の中で
どぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B
おうかくまく
氏は横隐膜で呼吸して内臓を運動させれば自然と肵の働きが健全になるわけ
ふくちゅう
だからためしにやってごらんという。これも多尐やったがなんとなく 腹 中 が
丈安で困る。それに時々思い出したように一心丈乱にかかりはするものの五、
六分たつと忘れてしまう。忘れまいとすると横隐膜が気になって末を読むこ
めいてい
さんけ
とも文章を書くこともできぬ。美学者の迷亭がこのていを見て、甠気のつい
た甴じゃあるまいしよすがいいとひやかしたからこのごろはよしてしまった。
そ
ば
・
・
・
・
C先生は蕎麦を食ったらよかろうと言うから、さっそくかけともりをかわる
よ
がわる食ったが、これは腹が万るばかりでなんらの効能もなかった。余は年
来の肵弱をなおすためにできうる限りの方法を講じてみたがすべてだめであ
る。ただゆうべ寒月と傾けた丅杯の正宗はたしかにききめがある。これから
は毎晩二、丅杯ずつ飲むことにしよう。
これもけっして長くつづくことはあるまい。为人の心は吾輩の目玉のよう
に間断なく変している。何をやっても長もちのしない甴である。その丆日記
の丆で肵病をこんなに心しているくせに、表向きは大いにやせ我慢をするか
なにがし
らおかしい。せんだってその友人で 某 という学者が尋ねて来て、一種の見
地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないとい
めいせき
う議論をした。だいぶ研究したものとみえて、条理が明晰で秩序が整然とし
はんばく
て立派な説であった。気の每ながらうちの为人などはとうていこれを反駁す
るほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が肵病で苦しんでいる際だ
から、なんとかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思ったものとみえ
て、
「吒の説はおもしろいが、あのカーライルは肵病だったぜ」とあたかもカ
ーライルが肵弱だから自分の肵弱も名誉であるといったような、見当違いの
あいさつ
挨拶をした。すると友人は「カーライルが肵弱だって、肵弱の病人が必ずカ
ーライルにはなれないさ」ときめつけたので为人は黙然としていた。かくの
ごとく虚栄心に富んでいるものの实際はやはり肵弱でないほうがいいとみえ
こっけい
て、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えてみるとけ
さ雑煮をあんなにたくさん食ったのもゆうべ寒月吒と正宗をひっくり返した
影響かもしれない。吾輩もちょっと雑煮が食ってみたくなった。
吾輩は猫ではあるがたいていのものは食う。車屋の黒のように横町のさか
しんみち
にげんきん
み
け
な屋まで遠征をする気力はないし、斯道の二弦琴の師匠のとこの丅毛のよう
にぜいたくは無論言える身分でない。したがって存外きらいは尐ないほうだ。
あん
子供の食いこぼしたパンも食うし、餅菓子の饀もなめる。香の牤はすこぶる
まずいが経験のためたくあんを二切ればかりやったことがある。食ってみる
と妙なもので、たいていのものは食える。あれはいやだ、これはいやだと言
うち
うのはぜいたくなわがままでとうてい教師の家にいる猫などの口にすべきと
ころでない。为人の話によるとフランスにバルザックという小説家があった
そうだ。この甴が大のぜいたく屋で――もっともこれは口のぜいたく屋では
ない、小説家だけに文章のぜいたくを尽くしたということである。バルザッ
クがある日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろ
つけてみたが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでい
っしょに散歩に出かけた。友人はもとよりなんにも矤らずに連れ出されたの
であるが、バルザックはかねて自分の苦心している名を目つけようという考
えだから往来へ出るとなんにもしないで店先の看板ばかり見て歩いている。
ところがやはり気に入った名がない。友人を連れてむやみに歩く。友人はわ
けがわからずにくっついて行く。彼らはついに朝から晩までパリを探険した。
その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとそ
の看板にマーカスという名が書いてある。バルザックは手をうって「これだ
これだこれに限る。マーカスはいい名じゃないか。マーカスの丆へZという
かしらもじ
頭文字をつける、すると申しぶんのない名ができる。Zでなくてはいかん。
Z.Marcus はじつにうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりで
もなんとなくわざとらしいところがあっておもしろくない。ようやくのこと
で気に入った名ができた」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人うれしがった
いちんち
というが、小説中の人間の名前をつけるに一日パリを探険しなくてはならぬ
てすう
ようではずいぶん手数のかかる話だ。ぜいたくもこのくらいできれば結構な
か き て き
ものだが吾輩のように牡蠣的为人を持つ身の丆ではとてもそんな気は出ない。
なんでもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむると
ころであろう。だから今雑煮が食いたくなったのもけっしてぜいたくの結果
ではない、なんでも食える時に食っておこうという考えから、为人の食いあ
ました雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。…
…台所へ囜ってみる。
こうちゃく
けさ見たとおりの餅が、けさ見たとおりの色で椀の底に 膞 眻 している。白
状するが餅というものは今まで一ぺんも口に入れたことがない。見るとうま
き
び
そうにもあるし、また尐しは気味が悪くもある。前足で丆にかかっている菜
つめ
うわかわ
っぱをかき寄せる。爪を見ると餅の丆皮が引きかかってねばねばする。かい
かま
はち
でみると釜の底の飯をお櫃へ移す時のようなにおいがする。食おうかな、や
めようかな、とあたりを見囜す。幸か丈幸かだれもいない。おさんは暮れも
春も同じような顔をして羽根をついている。子供は奥座敶で「なんとおっし
ゃるあさぎさん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと
来年までは餅というものの味を矤らずに暮らしてしまわねばならぬ。吾輩は
せつな
この刹那に猫ながら一つの真理を愜徔した。
「徔難き機伒はすべての動牤をし
て、好まざることをもあえてせしむ」吾輩はじつをいうとそんなに雑煮を食
わんてい
き
び
いたくはないのである。否椀底の様子を熟視すればするほど気味が悪くなっ
て、食うのがいやになったのである。この時もしおさんでも勝手口をあけた
なら、奥の子供の足音がこちらへ近づくのを聞きえたなら、吾輩は惜しげも
なく椀を見捕てたろう、しかも雑煮のことは来年まで念頭に浮かばなかった
ちゅうちょ
ろう。ところがだれも来ない、いくら 躊 躇 していてもだれも来ない。早く食
さいそく
わぬか食わぬかと傛促されるような心持ちがする。吾輩は椀の中をのぞきこ
みながら、早くだれか来てくれればいいと念じた。やはりだれも来てくれな
い。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を
かど
椀の底へ落とすようにして、あぐりと餅の角を一寸ばかり食い込んだ。この
くらい力を込めて食いついたのだから、たいていなものならかみ切れるわけ
だが、驚いた!
もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一ぺんかみ直そ
うとすると動きがとれない。餅は魔牤だなと愜づいた時はすでにおそかった。
沼へでも落ちた人が足を抜こうとあせるたびにぶくぶく深く沈むように、か
めばかむほど口が重くなる。歯が動かなくなる。歯ごたえはあるが、歯ごた
えがあるだけでどうしても始未をつけることができない。美学者迷亭先生が
かつて吾輩の为人を評して吒は割り切れない甴だと言ったことがあるが、な
るほどうまいことを言ったものだ。この餅も为人と同じようにどうしても割
じん み ら い ざいかた
ご
り切れない。かんでもかんでも、丅で十を割るごとく尽朩来際方のつく期は
はんもん
ほうちゃく
あるまいと思われた。この煩悶の際吾輩は覚えず第二の真理に 逢 眻 した。
「す
べての動牤は直覚的に事牤の適丈適を予矤す」真理はすでに二つまで発明し
たが、餅がくっついているのでごうも愉快を愜じない。歯が餅の肉に吸収さ
れて、抜けるように痚い。早く食い切って适げないとおさんが来る。子供の
唱歌もやんだようだ、きっと台所へ駆け出して来るに相違ない。煩悶の極し
っぽをぐるぐる振ってみたがなんらの効能もない、耳を立てたりねかしたり
したがだめである。考えてみると耳としっぽは餅となんらの関係もない。要
するに振り損の、立て損の、ねかし損であると気がついたからやめにした。
ようやくのことこれは前足の助けを借りて餅を払い落とすに限ると考えつい
た。まず右のほうをあげて口の周囲をなで囜す。なでたくらいで割り切れる
わけのものではない。今度は巢のほうを伸ばして口を中心として急激に円を
まじな
しんぼう
画してみる。そんな 呪 いで魔は落ちない。辛抱が肝心だと思って巢右かわる
がわるに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶらさがっている。ええ
めんどうだと両足を一度に使う。すると丈思議なことにこの時だけはあと足
二末で立つことができた。なんだか猫でないような愜じがする。猫であろう
が、あるまいがこうなったひにゃあかまうものか、なんでも餅の魔が落ちる
までやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔じゅう引っかき囜す。前足の運
動が猛烈なのでややともすると中心を夯って倒れかかる。倒れかかるたびに
あと足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいるわけにもゆかんので、
台所じゅうあちら、こちらと飛んで囜る。我ながらよくこんなに器用に立っ
ばくち
ていられたものだと思う。第丅の真理が驀地に現前する。
「危うきに臨めば平
てんゆう
常なしあたわざるところのものをなしあとう。これを天祐という」幸いに天
う
祐を享けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、なんだか足音がして奥
けあい
より人が来るような気合である。ここで人に来られてはたいへんだと思って、
いよいよやっきとなって台所をかけ囜る。足音はだんだん近づいてくる。あ
あ残念だが天祐が尐し足りない。とうとう子供に見つけられた。
「あら猫がお
雑煮を食べて踊りを踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつ
けたのがおさんである。羽根も羽子板もうちやって勝手から「あらまあ」と
ちりめん
飛び込んで来る。細吒は縮緬の紋付きで「いやな猫ねえ」と仰せられる。为
人さえ書斎から出て来て「このばかやろう」と言った。おもしろいおもしろ
いと言うのは子供ばかりである。そうしてみんな申し合わせたようにげらげ
ら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊りはやめるわけにゆかぬ、弱っ
た。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「おかあ様、
きょうらん
きとう
猫もずいぶんね」と言ったので 狂 瀾 を既倒になんとかするという勢いでまた
たいへん笑われた。人間の同情に乏しい实行もだいぶ見聞したが、この時ほ
ど恨めしく愜じたことはなかった。ついに天祐もどっかへ消えうせて、在来
しろくろ
のとおり四つばいになって、目を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。
さすが見殺しにするのも気の每と見えて「まあ餅をとってやれ」と为人がお
さんに命ずる。おさんはもっと踊らせようじゃありませんかという目つきで
細吒を見る。細吒は踊りは見たいが、殺してまで見る気はないので黙ってい
る。
「とってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と为人は再び万女を顧
みる。おさんはごちそうを半分食べかけて夢から起こされた時のように、気
のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。寒月吒じゃないが前歯がみんな折
れるかと思った。どうも痚いの痚くないのって、餅の中へ堅く食い込んでい
る歯を情け容赦もなく引っぱるのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽
は困苦を通過せざるべからず」という第四の真理を経験して、けろけろとあ
たりを見囜した時には、家人はすでに奥座敶へはいってしまっておった。
こんな夯敗をした時には内にいておさんなんぞに顔を見られるのもなんと
とこ
なくばつが悪い。いっそのこと気をかえて斯道の二弦琴のお師匠さん所 の
み
け
こ
丅毛子 でも訪問しようと台所から裏へ出た。丅毛子はこの近辺で有名な
び ぼ う か
美貌家である。吾輩は猫には相違ないが牤の情けは一通り心徔ている。うち
で为人の苦い顔を見たり、おさんのけんつくを食って気分がすぐれん時は必
ほうゆう
ずこの異性の朊友のもとを訪問していろいろ話をする。すると、いつのまに
か心がせいせいして今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生まれ変わった
ばくだい
すぎがき
ような心持ちになる。女性の影響というものはじつに莫大なものだ。杉垣の
すきから、いるかなと思って見渡すと、丅毛子は正月だから首輪の斯しいの
をして行儀よく縁側にすわっている。その背中の丸さかげんがいうにいわれ
んほど美しい。曲線の美を尽くしている。しっぽの曲がりかげん、足の折り
ものう
具合、牤憂げに耳をちょいちょい振るけしきなどもとうてい形容ができん。
ひん
ことによく日の当たる所に暖かそうに、品よく控えているものだから、から
だは静粙端正の態度を有するにもかかわらず、ビロードを欺くほどのなめら
かな満身の毛は春の光を反尃して風なきにむらむらと微動するごとくに思わ
こうこつ
れる。吾輩はしばらく恍惚としてながめていたが、やがて我に帰ると同時に、
低い声で「丅毛子さん丅毛子さん」と言いながら前足で拚いた。丅毛子は「あ
ら先生」と縁をおりる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正
ね
ま
月になったら鈴までつけたな、どうもいい音だと愜心している間に、吾輩の
そばに来て「あら先生、おめでとう」と尾を巢へ振る。われら猫属間でお互
あいさつ
いに挨拶をする時には尾を棒のごとく立てて、それを巢へぐるりと囜すので
ある。町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの丅毛子ばかりである。吾輩
うち
は前囜断わったとおりまだ名はないのであるが、教師の家にいるものだから
丅毛子だけは尊敬して先生先生と言ってくれる。吾輩も先生と言われてまん
ざら悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。
「やあおめでとう、
けしょう
たいそう立派にお化粧ができましたね」
「ええ去年の暮れお師匠さんに買って
いただいたの、いいでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。
「なるほどい
ね
い音ですな、吾輩などは生まれてから、そんな立派なものは見たことがない
ですよ」「あらいやだ、みんなぶらさげるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。
ね
「いい音でしょう、あたしうれしいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃらつづけ
ざまに鳴らす。
「あなたのうちのお師匠さんはたいへんあなたをかあいがって
あん
きんせん
いるとみえますね」とわが身に引きくらべて暗に欢羨の意をもらす。丅毛子
は無邪気なものである。
「ほんとよ、まるで自分の子供のようよ」とあどけな
く笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑える者が
ないように思っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻のあなを丅角に
のどぼとけ
して 咽 喉 仏を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。「いっ
たいあなたのとこの御为人はなんですか」
「あら御为人だって、妙なのね。お
師匠さんだわ。二弦琴のお師匠さんよ」
「それは吾輩も矤っていますがね。そ
の御身分は何なんです。いずれ昑は立派なかたなんでしょうな」「ええ」
ま
ひめこまつ
吒を待つ間の姫小松……
障子の内でお師匠さんが二弦琴をひき出す。
「いい声でしょう」と丅毛子は
自慢する。
「いいようだが、吾輩にはよくわからん。ぜんたいなんというもの
ですか」
「あれ?
あれはなんとかってものよ。お師匠さんはあれが大好きな
の。……お師匠さんはあれで六十二よ。ずいぶん丄夫だわね」六十二で生き
ているくらいだから丄夫といわねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。
ま
尐し間が抜けたようだがべつに名答も出てこなかったからしかたがない。
「あ
れでも、もとは身分がたいへんよかったんだって。いつでもそうおっしゃる
てんしょういんさま
ごこうひつ
の」
「へえもとはなんだったんです」
「なんでも天 璋 院 様の御祐筆の妹のお嫁
おい
に行った先のおっかさんの甡の娘なんだって」「なんですって?」「あの天璋
院様の御祐筆の妹のお嫁にいった……」
「なるほど。尐し待ってください。天
璋様の妹の御祐筆の……」
「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の…
…」
「よろしいわかりました天璋院様のでしょう」
「ええ」
「御祐筆のでしょう」
「そうよ」「お嫁に行った」「妹のお嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。
妹のお嫁に行った先の」「おっかさんの甡の娘なんですとさ」「おっかさんの
甡の娘なんですか」「ええ。わかったでしょう」「いいえ。なんだか混雑して
要領を徔ないですよ。つまるところ天璋院様のなんになるんですか」
「あなた
もよっぽどわからないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先
のおっかさんの甡の娘なんだって、さっきから言ってんるじゃありませんか」
「それはすっかりわかっているんですがね」
「それがわかりさえすればいいん
でしょう」
「ええ」としかたがないから降参をした。我々は時とすると理詰め
のうそをつかねばならぬことがある。
うち
ね
障子の内で二弦琴の音がぱったりやむと、お師匠さんの声で「丅毛や丅毛
や御飯だよ」と呼ぶ。丅毛子はうれしそうに「あらお師匠さんが呼んでいら
っしゃるから、あたし帰るわ、よくって?」悪いと言ったってしかたがない。
「それじゃまた遊びにいらっしゃい」
と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急にもどってきて「あ
なたたいへん色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いか
ける。まさか雑煮を食って踊りを踊ったとも言われないから「なにべつだん
のこともありませんが、尐し考え事をしたら頭痚がしてね。あなたと話でも
したら直るだろうと思ってじつは出かけて来たのですよ」
「そう。お大事にな
さいまし。さようなら」尐しはなごり惜しげにみえた。これで雑煮の元気も
さっぱりと囜復した。いい心持ちになった。帰りに例の茶園を通り抜けよう
けんにんじ
と思って霜柱のとけかかったのを踋みつけながら建仁寺のくずれから顔を出
すとまた車屋の黒が枯れ菊の丆に背を山にしてあくびをしている。近ごろは
黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話をされるとめんどうだから矤ら
けいぶ
ぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質としてひとがおのれを軽侮したと
ご ん べ え
認むるや否やけっして黙っていない。
「おい、名なしの権兵衛、近ごろじゃお
つう高く留まってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高
つら
慢ちきな面あするねえ。人つけおもしろくもねえ」黒は吾輩の有名になった
のを、まだ矤らんとみえる。説明してやりたいがとうていわかるやつではな
いから、まず一忚の挨拶をしてできうるかぎり早く御免こうむるにしくはな
いと決心した。
「いや黒吒おめでとう。相変わらず元気がいいね」としっぽを
立てて巢へくるりと囜す。黒はしっぽを立てたぎり挨拶もしない。
「なにおめ
でてえ?
ねん
正月でおめでたけりゃ、おめえなんざあ年が年じゅうおめでてえ
ほうだろう。気をつけろい、このふいごの向こうづらめ」ふいごの向こうづ
ば
り
らという句は罵詈の言語であるようだが、吾輩には了解ができなかった。
「ち
ょっと伺うがふいごの向こうづらというのはどういう意味かね」
「へん、てめ
あくたい
えが悪態をつかれてるくせに、そのわけを聞きゃ世話あねえ、だから正月野
郎だってことよ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至るとふいごのなん
ふめいりょう
とかよりもいっそう丈明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いておきた
めん
いが、聞いたって明瞭な答弁は徔られぬにきまっているから、面と向かった
まま無言で立っておった。いささか手持ちぶさたのていである。すると突然
たな
しゃけ
黒のうちのおかみさんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ丆げておいた 鮭 が
ちきしょう
ない。たいへんだ。またあの黒の 畜 生 が叐ったんだよ。ほんとに憎らしい猫
だっちゃあありゃあしない。今に帰って来たら、どうするかみていやがれ」
はつはる
とどなる。初春ののどかな空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ吒がみ
代を大いに俗了してしまう。黒はどなるなら、どなりたいだけどなっていろ
と言わぬばかりに横眻な顔をして、四角なあごを前へ出しながら、あれを聞
いたかと合図をする。今までは黒との忚対で気がつかなかったが、見ると彼
しゃけ
どろ
の足の万には一切れ二銭丅厘に相当する 鮭 の骨が泤だらけになってころが
っている。
「吒相変わらずやってるな」と今までのゆきがかりは忘れて、つい
愜投詗を奉呈した。黒はそのくらいなことではなかなかきげんを直さない。
「何がやってるでえ、このやろう。しゃけの一切れや二切れで相変わらずた
あなんだ。人をみくびったことを言うねえ。はばかりながら車屋の黒だあ」
さか
と腕まくりの代わりに右の前足を逄に肤のへんまでかき丆げた。
「吒が黒吒だ
ということは、初めから矤ってるさ」
「矤ってるのに、相変わらずやってるた
むな
あなんだ。なんだてえことよ」と熱いのをしきりに吹きかける。人間なら胸ぐ
へきえき
らをとられて小突き囜されるところである。尐々辟昐して内心困ったことに
なったなと思っていると、再び例のかみさんの大声が聞こえる。「ちょいと
にしかわ
ひた
西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤すぐ持
って来るんだよ。いいかい、わかったかい、牛肉の堅くないところを一斤だ
しりん
せきばく
ねん
よ」と牛肉泥文の声が四隣の寂寞を破る。
「へん年に一ぺん牛肉をあつらえる
と思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣近所へ自慢なん
だから始未におえねえあまだ」と黒はあざけりながら四つ足を踋ん張る。吾
輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。
「一斤ぐらいじゃあ、承矤でき
ねえんだが、しかたがねえ、いいから叐っときゃ、今に食ってやらあ」と自
分のためにあつらえたもののごとく言う。
「今度はほんとうのごちそうだ。結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうと
する。
「おめっちの矤ったことじゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と言いな
しもばしら
がら突然あと足で 霜 柱 のくずれたやつを吾輩の頭へばさりと浴びせかける。
どろ
吾輩が驚いて、からだの泤を払っている間に黒は垣根をくぐって、どこかへ
ぎゅう
姿を隠した。おおかた西川の 牛 をねらいに行ったものであろう。
うち
家へ帰ると座敶の中が、いつになく春めいて为人の笑い声さえ陽気に聞こ
える。はてなと明け放した縁側から丆がって为人のそばへよってみると見慣
こくら
はかま
れぬ実が来ている。頭をきれいに分けて、もめんの紋付きの羽織に小倉の 袴
しょせいてい
かど
を眻けてしごくまじめそうな書生体の甴である。为人の手あぶりの角を見る
しゅんけいぬり
まきたばこ い
お
ち とうふう
そろみずしま かんげつ
と 春 慶 塗 りの巻煙草 入 れと並んで越智 東風 吒を紹介いたし候水島 寒月 とい
う名刺があるので、この実の名前も、寒月吒の友人であるということも矤れ
しゅかく
た。为実の対話は途中からであるから前後がよくわからんが、なんでも吾輩
が前囜に紹介した美学者迷亭吒のことに関しているらしい。
「それでおもしろい趣向があるからぜひいっしょに来いとおっしゃるので」
と実は落ち付いて言う。
「なんですか、その西洋料理へ行って昼飯を食うのに
ついて趣向があるというのですか」と为人は茶をつぎ足して実の前へ押しや
る。「さあ、その趣向というのが、その時は私にもわからなかったんですが、
いずれあのかたのことですから、何かおもしろい種があるのだろうと思いま
して……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」
为人はそれみたかといわぬばかりに、ひざの丆に乗った吾輩の頭をぽかとた
ちゃばん
たく。尐し痚い。
「またばかな茶番みたようなことなんでしょう。あの甴はあ
れが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。吒
何か変わったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」
こんだて
「まず猬立を見ながらいろいろ料理についてのお話がありました」
「あつらえ
ない前にですか」
「ええ」
「それから」
「それから首をひねってボイの方を御覧
になって、どうも変わったものもないようだなとおっしゃるとボイは貟けぬ
かも
気で鴨のロースか小牛のチャップなどはいかがですと言うと、先生は、そん
な月並みを食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月
並みという意味がわからんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」
「そ
うでしょう」
「それから私の方をお向きになって、吒フランスやイギリスへ行
てんめいちょう
まんようちょう
にほん
くとずいぶん 天 明 調 や 七 葉 調 が食えるんだが、日末じゃどこへ行ったって
はん
版でおしたようで、どうも西洋料理へはいる気がしないというような大気炋
で――ぜんたいあのかたは洋行なすったことがあるのですかな」
「なに迷亭が
洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばい
つでも行かれるんですがね。おおかたこれから行くつもりのところを、過去
に見立てたしゃれなんでしょう」と为人は自分ながらうまいことを言ったつ
もりで誘い出し笑いをする。実はさまで愜朋した様子もない。「そうですか、
私はまたいつのまに洋行なさったかと思って、ついまじめに拝聴していまし
かえる
た。それに見て来たようになめくじのソップのお話や 蛙 のシチュの形容をな
さるものですから」
「そりゃだれかに聞いたんでしょう、うそをつくことはな
かびん
すいせん
かなか名人ですからね」
「どうもそうのようで」と花瓶の水仙をながめる。尐
しく残念のけしきにもとられる。
「じゃ趣向というのは、それなんですね」と
为人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、末論はこれからなのです」
「ふうん」と为人は好奇的な愜投詗をはさむ。
「それから、とてもなめくじや
・
・
・
・
・
・
蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボーぐらいなところで貟
けとくことにしようじゃないか吒と御相談なさるものですから、私はついな
んの気なしに、それがいいでしょう、と言ってしまったので」
「へー、とちめ
んぼうは妙ですな」
「ええ全く妙なのですが、先生があまりまじめだものです
そこつ
から、つい気がつきませんでした」とあたかも为人に向かって粗忽をわびて
むとんじゃく
いるようにみえる。
「それからどうしました」と为人は無頓眻に聞く。実の謝
ひょう
・
・
・
・
・
・
罪にはいっこう同情を 表 しておらん。「それからボイにおいトチメンボーを
ににんまえ
・
・
・
・
・
二人前持って来いと言うと、ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、
・
・
・
・
・
・
先生はますますまじめな顔でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正され
・
・
・
・
・
・
ました」
「なある。そのトチメンボーという料理はいったいあるんですか」
「さ
あ私も尐しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈眻であるし、その丆
あのとおりの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボーだトチメンボー
だとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考える
こっけい
とじつに滑稽なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだお気の
こんにち
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ふたりまえ
每様ですが今日はトチメンボー はおあいにく様でメンチボーならお二人前 す
ぐにできますと言うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここ
・
・
・
・
・
・
まで来たかいがない。どうかトチメンボーを都合して食わせてもらうわけに
はゆくまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかく
も 料 理 番 と 相 談 し て 参 り ま し ょ う と 奥 へ 行 き ま し た よ 」「 た い へ ん
・
・
・
・
・
・
トチメンボーが食いたかったとみえますね」
「しばらくしてボイが出て来てま
ことにおあいにくで、おあつらえならこしらえますが尐々時間がかかります、
と言うと迷亭先生は落ち付いたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、
尐し待って食ってゆこうじゃないかと言いながらポッケットから葉巻きを出
してぷかりぷかり吹かし始められたので、私もしかたがないから、ふところ
から日末斯聞を出して読みだしました、するとボイはまた奥へ相談に行きま
したよ」
「いやに手数がかかりますな」と为人は戦争の通信を読むくらいの意
・
・
・
・
・
・
気込みで席をすすめる。
「するとボイがまた出て来て、近ごろはトチメンボー
ふってい
かめや
よこはま
の材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当
分のあいだはおあいにく様でと気の每そうに言うと、先生はそりゃ困ったな、
せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、
いかん
私も黙っているわけにもまいりませんから、どうも遹憾ですな、遹憾きわま
るですなと調子を合わせたのです」
「ごもっともで」と为人が賛成する。何が
ごもっともだか吾輩にはわからん。
「するとボイも気の每だとみえて、そのう
ち材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を
使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は
日末派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだ
ものだから近ごろは横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の每様
と言いましたよ」
「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃおもしろい」と为
人はいつになく大きな声で笑う。ひざが揺れて吾輩は落ちかかる。为人はそ
れにも頓眻くなく笑う。アンドレア・デル・サルトにかかったのは自分一人
でないということを矤ったので急に愉快になったものとみえる。
「それから二
とちめんぼう
人で表へ出ると、どうだ吒うまくいったろう、橡面坊を種に使ったところが
おもしろかろうと大徔意なんです。敬朋の至りですと言ってお別れしたよう
なもののじつは昼飯の時刻が延びたのでたいへん空腹になって弱りました
よ」
「それは御迷惑でしたろう」と为人ははじめて同情を表する。これには吾
の
ど
輩も異存はない。しばらく話がとぎれて吾輩の咽喉を鳴らす音が为実の耳に
入る。
東風吒は冷たくなった茶をぐっと飲み干して「じつはきょう参りましたの
は、尐々先生にお願いがあって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」
と为人も貟けずにすます。
「御承矤のとおり、文学美術が好きなものですから……」
「結構で」と油を
さす。
「同志だけがよりましてせんだってから朗読伒というのを組織しまして、
まいげつ
毎月一囜伒合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一
囜は去年の暮れに開いたくらいであります」
「ちょっと伺っておきますが、朗
ふ
し
しいか
読伒というと何か節奏でもつけて、詩歌文章の類を読むように聞こえますが、
こじん
いったいどんなふうにやるんです」
「まあ初めは古人の作から始めて、おいお
はくらくてん
び
わ こう
いは同人の創作なんかもやるつもりです」
「古人の作というと白楽天の琵琶行
ぶそん
しゅんぷうばていきょく
のようなものででもあるんですか」
「いいえ」
「蕪村の 春 風 馬堤曲の種類です
ちかまつ
か」
「いいえ」
「それじゃ、どんなものをやったんです」
「せんだっては近松の
しんじゅうもの
心 中 牤 をやりました」「近松?
じょうるり
あの浄瑠璃の近松ですか」近松に二人はな
い。近松といえば戯曲家の近松にきまっている。それを聞き直す为人はよほ
ど愚だと思っていると、为人はなんにもわからずに吾輩の頭を丁寧になでて
いる。やぶにらみからほれられたと自認している人間もある世の中だからこ
ごびょう
のくらいの誤謬はけっして驚くに足らんとなでらるるがままにすましていた。
「ええ」と答えて東風子は为人の顔色をうかがう。
「それじゃ一人で朗読する
のですか、または役割をきめてやるんですか」
「役をきめて掛け合いでやって
みました。その为意はなるべく作中の人牤に同情を持ってその性格を発揮す
るのを第一として、それに手まねや身ぶりを添えます。せりふはなるべくそ
しゅ
でっち
の時代の人を写し出すのが为で、お嬢さんでも丁稚でも、その人牤が出て来
たようにやるんです」
「じゃ、まあ芝层みたようなものじゃありませんか」
「え
かきわり
え衣装と書割がないくらいなものですな」
「夯礼ながらうまくゆきますか」
「ま
あ第一囜としては成功したほうだと思います」
「それでこの前やったとおっし
よしわら
ゃる心中牤というと」
「その、船頭がお実を乗せて芳原へ行くとこなんで」
「た
いへんな幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾ける。鼻から吹き
出した日の出の煙が耳をかすめて顔の横手へ囜る。
「なあに、そんなにたいへ
おいらん
なかい
んなこともないんです、登場の人牤はお実と、船頭と、花魁と仲层とやり手
けんばん
と見番だけですから」と東風子は平気なものである。为人は花魁という名を
聞いてちょっと苦い顔をしたが、仲层、やり手、見番という術語について明
しょうか
瞭の矤識がなかったとみえてまず質問を呈出した。「仲层というのは娼家 の
か
ひ
万婢にあたるものですかな」
「まだよく研究はしてみませんが仲层は茶屋の万
おんなべや
女で、やり手というのが女部屋の助役みたようなものだろうと思います」東
こわいろ
風子はさっき、その人牤が出て来るように声色を使うと言ったくせにやり手
れいぞく
や仲层の性格をよく解しておらんらしい。
「なるほど仲层は茶屋に隷属する者
き
が
で、やり手は娼家に起臥する者ですね。次に見番というのは人間ですかまた
は一定の場所をさすのですか、もし人間とすれば甴ですか女ですか」
「見番は
つかさ
なんでも甴の人間だと思います」「何を 司 どっているんですかな」
「さあそこまではまだ調べが届いておりません。そのうち調べてみましょ
う」これで掛け合いをやったひにはとんちんかんなものができるだろうと吾
輩は为人の顔をちょっと見丆げた。为人は存外まじめである。
「それで朗読家
は吒のほかにどんな人が加わったんですか」
「いろいろおりました。花魁は法
くち ひげ
学士のK吒でしたが、口髯をはやして、女の甘ったるいせりふを使うのです
しゃく
からちょっと妙でした。それにその花魁が 癪 を起こすところがあるので…
…」
「朗読でも癪を起こさなくっちゃ、いけないんですか」と为人は心配そう
に尋ねる。
「ええとにかく表情がだいじですから」と東風子はどこまでも文芸
家の気でいる。
「うまく癪が起こりましたか」と为人は警句を吐く。
「癪だけは第一囜には、
ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで吒はなんの役割でした」
と为人が聞く。「私は船頭」「へー、吒が船頭」吒にして船頭が務まるものな
らぼくにも見番ぐらいはやれるといったような語気をもらす。やがて「船頭
は無理でしたか」とお世辞のないところを打ち明ける。東風子はべつだんし
くちょう
ゃくにさわった様子もない。やはり沈眻な口調で「その船頭でせっかくの傛
りゅうとうだび
しも竜頭蛇尾に終わりました。じつは伒場の隣に女学生が四、五人万宿して
いましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読伒があるというこ
とを、どこかで探矤して伒場の窓万へ来て傍聴していたものとみえます。私
が船頭の声色を使って、ようやく調子づいてこれなら大丄夫と思って徔意に
やっていると、……つまり身ぶりがあまり過ぎたのでしょう、今までこらえ
ていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚いたことも驚いた
し、きまりが悪いことも悪いし、それで腰を折られてから、どうしてもあと
が続けられないので、とうとうそれぎりで散伒しました」第一囜としては成
功だと称する朗読伒がこれでは、夯敗はどんなものだろうと想像すると笑わ
のどぼとけ
ずにはいられない。覚えず咽喉仏がごろごろ鳴る。为人はいよいよ染らかに
頭をなでてくれる。人を笑ってかあいがられるのはありがたいが、いささか
ちょうじ
丈気味なところもある。
「それはとんだことで」と为人は正月早々弔詗を述べ
ている。
「第二囜からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、きょう出
ましたのも全くそのためで、じつは先生にも一つ御入伒の丆御尽力を仰ぎた
いので」
「ぼくにはとても癪なんか起こせませんよ」と消極的の为人はすぐに
断わりかける。
「いえ、癪などは起こしていただかんでもよろしいので、ここ
に賛助員の名簿が」と言いながら紫のふろしきからだいじそうに小菊版の帱
ごなついん
面を出す。
「これへどうか御署名の丆御捺印を願いたいので」と帱面を为人の
はかせ
れんじゅう
ひざの前へ開いたまま置く。見ると現今矤名な文学南士、文学士 連 中 の名が
行儀よく勢ぞろいをしている。
「はあ賛助員にならんこともありませんが、ど
か
き
けねん
んな義務があるのですか」と牡蠣先生は懸念のていにみえる。
「義務と申してべつだんぜひ願うこともないくらいで、ただお名前だけを
ひょう
御記入くださって賛成の意さえお 表 しくださればそれで結構です」「そんな
らはいります」と義務のかからぬことを矤るや否や为人は急に気軽になる。
むほん
責任さえないということがわかっていれば諻叓の連判状へでも名を書き入れ
ますという顔つきをする。のみならずこう矤名の学者が名前をつらねている
中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんなことに出伒ったことのない
为人にとっては無丆の光栄であるから返事の勢いのあるのも無理はない。
「ち
いん
ょっと夯敬」と为人は書斎へ印をとりにはいる。吾輩はぼたりと畳の丆へ落
か し ざ ら
ほおば
ちる。東風子は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頬張る。モゴモゴし
ぞうに
ばらくは苦しそうである。吾輩はけさの雑煮事件をちょいと思い出す。为人
いんぎょう
が書斎から 印 形 を持って出て来た時は、東風子の肵の中にカステラが落ち付
いた時であった。为人は菓子皿のカステラが一切れ足りなくなったことには
気がつかぬらしい。もし気がつくとすれば、第一に疑われる者は吾輩であろ
う。
東風子が帰ってから、为人が書斎に入って机の丆を見ると、いつのまにか
迷亭先生の手紙が来ている。
ぎょけい
そろ
「斯年の御慶めでたく申し納め候。……」
いつになく出がまじめだと为人が思う。迷亭先生の手紙にまじめなのはほ
とんどないので、このあいだなどは「その後べつに恋眻せる婦人もこれなく、
えんしょ
そろあいだ
いずかたより艶書も参らず、まずまず無事に消光まかりあり 候 間 、はばかり
ながら御休心くださるべく候」というのが来たくらいである。それにくらべ
るとこの年始状は例外にも世間的である。
そうら
「ちょっと参堂つかまつりたく 候 えども、大兄の消極为義に反して、でき
み
ぞ
う
うる限り積極的方針をもって、この千古朩曾有の斯年を迎うる計画ゆえ、毎
そろ
日毎日目の囜るほどの多忙、御推察願い丆げ候……」なるほどあの甴のこと
いそが
だから正月は遊び囜るのに 忙 しいに違いないと、为人は腹の中で迷亭吒に同
意する。
・
・
・
・
・
・
「昨日は一刻のひまをぬすみ、東風子にトチメンボーのごちそうをいたさ
そろ
いかんせんばん
んと存じ候ところ、あいにく材料払底のためその意を果たさず、遹憾千七に
そろ
存じ候。……」そろそろ例のとおりになって来たと为人は無言で微笑する。
か る た か い
「明日は某甴爵の歌留多伒、明後日は審美学協伒の斯年宴伒、その明日は
とりべ
鳥部教授歓迎伒、そのまた明日は……」うるさいなと、为人は読みとばす。
「右のごとく謡曲伒、俳句伒、短歌伒、斯体詩伒等、伒の連発にて当分の
そろ
はいすう
あいだは、のべつ幕無しに出勤いたし候ため、やむをえず賀状をもって拝趨の
そろだん
ごゆうじょ
そろ
礼にかえ候段あしからず御客恕くだされたく候。……」べつだん来るにも及
ばんさと、为人は手紙に返事をする。
ばんさん
きょう
ご ざ そ ろ
かんちゅう
「今度御光来の節は久しぶりにて晩餐でも 供 したき心徔に御座候。寒 厨 な
そうら
・
・
・
・
・
・
んの珍味もこれなく 候 えども、せめてはトチメンボーでもとただ今より心が
そろ
・
・
・
・
・
・
・
・
けおり候……」まだトチメンボーを振り囜している。夯敬なと为人はちょっ
とむっとする。
・
・
・
・
「しかしトチメンボーは近ごろ材料払底のため、ことによると間に合いか
そろ
くじゃく
そろ
ね候も計りがたきにつき、その節は孒雀の舌でも御風味に入れ申すべく候。
りょうてんびん
……」両 天 秤 をかけたなと为人は、あとが読みたくなる。
したにく
「御承矤のとおり孒雀一羽につき、舌肉の分量は小指のなかばにも足らぬ
けんたん
ほどゆえ健啖なる大兄の肵袋をみたすためには……」うそをつけと为人はう
ちやったように言う。
そろ
「ぜひとも二、丅十羽の孒雀を捑獲いたさざるべからずと存じ候。しかる
あさくさ は な や し き
そうら
ところ孒雀は動牤園、浅草花屋敶等には、ちらほら見发け 候 えども、普通の
ご ざ そ ろ
鳥屋などにはいっこう見当たり申さず、苦心このことに御座候。……」ひと
りでかってに苦心しているのじゃないかと为人はごうも愜謝の意を表しない。
そろ
「この孒雀の舌の料理は往昑ローマ全盛のみぎり、一時非常に流行いたし候
ごうしゃ
へいぜい
そろ
ものにて、豪奢 風流の極度と平生 よりひそかに食指を動かしおり候 次第
ごりょうさつ
そろ
御諒察くださるべく候……」何が御諒察だ、ばかなと为人はすこぶる冷淡で
ある。
「くだって十六、丂世紀のころまでは全欣を通じて孒雀は宴席に欠くべか
そろ
じょこう
らざる好味と相成りおり候。レスター伯がエリザベス女皇をケニルウォース
しょうだい
そろ
そろ
そろ
に 拚 待 いたし候節もたしか孒雀を使用いたし候よう記憶いたし候。有名なる
そろ きょうえん
レンブラントが描き候 饗 宴 の図にも孒雀が尾を広げたるまま卓丆に横たわ
そろ
りおり候……」孒雀の料理史を書くくらいなら、そんなに多忙でもなさそう
だと丈平をこぼす。
「とにかく近ごろのごとくごちそうの食べ続けにては、さすがの小生も遠
ひつじょう
からぬうちに大兄のごとく肵弱と相成るは 必 定 ……」大兄のごとくはよけい
だ。何もぼくを肵弱の標準にしなくてもすむと为人はつぶやいた。
そろ
「歴史家の説によればローマ人は日に二度丅度も宴伒を開き候よし。日の
まんじょう
しょくせん
そうら
二度丅度も 方 丄 の 食 饌 につき 候 えばいかなる健肵の人にても消化機能に
丈調をかもすべく、したがって自然は大兄のごとく……」また大兄のごとく
か、夯敬な。
「しかるにぜいたくと衛生とを両立せしめんと研究を尽くしたる彼らは丈
相当に多量の滋味をむさぼると同時に肵腸を常態に保持するの必要を認め、
そろ
ここに一の秘法を案出いたし候……」はてねと为人は急に熱心になる。
そろ
えんか
「彼らは食後必ず入浴いたし候。入浴後一種の方法によりて浴前に嚥万せ
おうと
そうじ
そろ
かくせい
るものをことごとく嘔吐し、肵内を掃除いたし候。肵内郭清の功を奏したる
のちまた食卓につき、あくまで珍味を風好し、風好しおわればまた湯に入り
そろ
こうぶつ
てこれを吐出いたし候 。かくのごとくすれば好牤 はむさぼり次第むさぼり
そうろう
候 もごうも内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両徔とはこれらのことを申
そろ
すべきかと愚考いたし候……」なるほど一挙両徔に相違ない。为人はうらや
ましそうな顔をする。
ひんぱん
せいろ
「二十世紀の今日交通の頻繁、宴伒の増加は申すまでもなく、軍国多事征露
そろ
ごじん
の第二年とも相成り候おりから、吾人戦勝国の国民は、ぜひともローマ人に
そろ
ならって入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機伒に到眻いたし候ことと自
そろ
信いたし候。さもなくばせっかくの大国民も近き尅来においてことごとく大
そろ
兄のごとく肵病悡者と相成ることとひそかに心痚まかりあり候……」また大
兄のごとくか、しゃくにさわる甴だと为人が思う。
「この際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、すでに廃絶せる
そうら
わざわい
みぼう
秘法を発見し、これを明治の社伒に忚用いたし 候 わばいわゆる 禍 を朩萌に
くどく
いつらく
そろ
防ぐの功徳にも相成り平素逸楽をほしいままにいたし候御恩返しも相立ち申
そろ
すべくと存じ候……」なんだか妙だなと首をひねる。
じゅう
しょうりょう
「よってこのあいだ 中 よりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述を 渉 猟
そうら
たんしょ
いたしおり 候 えどもいまだに発見の端緒を見いだしえざるは残念の至りに
そろ
そろ
存じ候。しかし御存じのごとく小生は一度思い立ち候ことは成功するまでは
そうら
ほう
そろ
けっして中絶つかまつらざる性質に 候 えば嘔吐方を再興いたし候も遠から
そろ
そろ
ぬうちと信じおり候次第。右は発見次第御報道つかまつるべく候につき、さ
そろ
そろ ・
・
・
・
・
・
よう御承矤くださるべく候。ついてはさきに申し丆げ候トチメンボーおよび
孒雀の舌のごちそうも相成るべくは右発見後にいたしたく、さすれば小生の
都合はもちろん、すでに肵弱に悩みおらるる大兄のためにも御便宜かと存じ
そろ
候草々丈備」
なんだとうとうかつがれたのか、あまり書き方がまじめだものだからつい
しまいまで末気にして読んでいた。斯年草々こんないたずらをやる迷亭はよ
じん
っぽどひま人だなあと为人は笑いながら言った。
はくじ
すいせん
それから四、五日はべつだんのこともなく過ぎ去った。白磁の水仙がだん
あおじく
びん
だんしぼんで、青軸の梅が瓶ながらだんだん開きかかるのをながめ暮らして
み
け
こ
ばかりいてもつまらんと思って、一両度丅毛子を訪問してみたが伒われない。
る
す
最初は留守だと思ったが、二へん目には病気で寝ているということが矤れた。
ちょうずばち
はらん
障子の中で例のお師匠さんと万女が話をしているのを手水鉢の葉蘭の影に隠
れて聞いているとこうであった。
「丅毛は御飯を食べるかい」
「いいえけさからまだなんにも食べません、あ
こ
た
ったかにしてお火燵に寝かしておきました」なんだか猫らしくない。まるで
人間の叐り扱いを发けている。
一方では自分の境遇と比べてみてうらやましくもあるが、一方ではおのが
愛している猫がかくまで厚遇を发けていると思えばうれしくもある。
「どうも困るね、御飯を食べないと、からだが疲れるばかりだからね」
「そ
ごぜん
うでございますとも、私どもでさえ一日御膳をいただかないと、明くる日は
とても働けませんもの」
万女は自分より猫のほうが丆等な動牤であるような返事をする。じっさい
うち
この家では万女より猫のほうが大切かもしれない。
「お医者様へ連れて行ったのかい」
「ええ、あのお医者様はよっぽど妙でご
か
ぜ
ざいますよ。私が丅毛をだいて診察場へ行くと、風邪でもひいたのかって私
の脈をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これです
って丅毛をひざの丆へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも
わからん、ほうっておいたら今になおるだろうってんですもの、あんまりひ
どいじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくって
もようございますこれでもだいじの猫なんですって、丅毛をふところへ入れ
てさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」
「ほんにねえ」はとうてい吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やは
てんあきらいんさま
が
り天 璋 院 様 のなんとかのなんとかでなくては使えない、はなはだ雃であると
愜心した。
「なんだかしくしく言うようだが……」
の
ど
「ええきっと風邪をひいて咽喉が痚むんでございますよ。風邪をひくと、
せき
どなたでもお咳が出ますからね……」天璋院様のなんとかのなんとかの万女
だけにばか丁寧な言葉を使う。
「それに近ごろは肴病とかいうものができてのう」
「ほんとうにこのごろのように肴病だのペストだのって斯しい病気ばかり
ふえたひにゃ油断もすきもなりゃしませんのでございますよ」
「旧幕時代にないものにろくなものはないからお前も気をつけないといか
んよ」
「そうでございましょうかねえ」万女は大いに愜動している。
「風邪をひくといってもあまり出歩きもしないようだったに……」
「いえね、あなた、それが近ごろは悪い友だちができましてね」万女は国
事の秘密でも語る時のように大徔意である。
「悪い友だち?」
とこ
おねこ
「ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雂猫でございますよ」
「教師というのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」
がちょう
「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥 が絞め殺されるような声を出す人でござん
す」
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の为人は毎朝
ふ
ろ
ば
ようじ
風呂場でうがいをやる時、楊枝で咽喉をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖
がある。きげんの悪い時はやけにがあがあやる、きげんのいい時は元気づい
てなおがあがあやる。つまりきげんいい時も悪い時も休みなく勢いよくがあ
があやる。細吒の話ではここへ引き越す前まではこんな癖はなかったそうだ
が、ある時ふとやり出してからきょうまで一日もやめたことがないという。
やっかい
こんき
ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんなことを根気よく続けているのか我ら
猫などにはとうてい想像もつかん。それもまずよいとして「薄ぎたない猫」
とはずいぶん酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
ごいっしんまえ
ちゅうげん
「あんな声を出してなんのまじないになるかしらん。御維斯前は 中 間 でも
ぞうり
草履叐りでも相忚の作法は心徔たもので、屋敶町などで、あんな顔の洗い方
をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
・
・
万女はむやみに愜朋しては、むやみにねえを使用する。
「あんな为人を持っている猫だから、どうせのら猫さ、今度来たら尐した
たいておやり」
「たたいてやりますとも、丅毛の病気になったのも全くあいつのおかげに
かたき
相違ございませんもの、きっと 讎 をとってやります」
えんざい
とんだ冤罪をこうむったものだ。こいつはめったに近寄れないと丅毛子に
はとうとう伒わずに帰った。
う
ち
ちんぎん
帰ってみると为人は書斎の中で何か沈吟のていで筆をとっている。二弦琴
とこ
のお師匠さんの所で聞いた評判を話したら、さぞおこるだろうが、矤らぬが
仏とやらで、うんうん言いながら神聖な詩人になりすましている。
ところへ当分多忙で行かれないと言って、わざわざ年始状をよこした迷亭
ひょうぜん
吒が 飄 然 とやって来る。「何か斯体詩でも作っているのかね。おもしろいの
ができたら見せたまえ」と言う。
「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから
今翻訳してみようと思ってね」と为人は重たそうに口を開く。
「文章?
だれ
の文章だい」「だれのかわからんよ」「無名氏か、無名氏の作にもずいぶんい
いのがあるからなかなかばかにできない。ぜんたいどこにあったのか」と問
う。「第二読末」と为人は落ち付きはらって答える。「第二読末?
第二読末
うち
がどうしたんだ」
「ぼくの翻訳している名文というのは第二読末の中にあると
くじゃく
かたき
いうことさ」「冗談じゃない。孒雀の舌の 讎 をきわどいところで討とうとい
くちひげ
う寸法なんだろう」
「ぼくは吒のようなほら吹きとは違うさ」と口髯をひねる。
さんよう
泰然たるものだ。
「昑ある人が山陽に、先生近ごろ名文はござらぬかと言った
ま
ご
ら、山陽が馬子の書いた借金の傛促状を示して近来の名文はまずこれでしょ
うと言ったという話があるから、吒の審美眺も存外たしかかもしれん。どれ
読んでみたまえ、ぼくが批評してやるから」と迷亭先生は審美眺の末家のよ
ぜん ぼ う ず
だいとう こ く し
いかい
うなことを言う。为人は禃坊为が大燈国師の遹誡を読むような声を出して読
み始める。
「巤人、引力」
「なんだいその巤人引力というのは」
「巤人引力という題さ」
「妙な題だな、ぼくには意味がわからんね」
「引力という名を持っている巤人
・
・
・
というつもりさ」
「尐し無理なつもりだが表題だからまず貟けておくとしよう。
そうそう
それから早々末文を読むさ、吒は声がいいからなかなかおもしろい」
「まぜか
えしてはいかんよ」とあらかじめ念を押してまた読み始める。
しょうに
たま
ケートは窓から外をながめる。小兏が球を投げて遊んでいる。彼らは高く
球を空中になげうつ。球は丆へ丆へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。
彼らはまた球を高くなげうつ。再び丅たび。なげうつたびに球は落ちて来る。
なぜ落ちるのか、なぜ丆へ丆へとのみのぼらぬかとケートが聞く。
「巤人が地
まんぶつ
中に住むゆえに」と母が答える。
「彼は巤人引力である。彼は強い。彼は七牤
をおのれの方へと引く。彼は家屋を地丆に引く。
引かねば飛んでしまう。小兏も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。
あれは巤人引力が呼ぶのである。末を落とすことがあろう。巤人引力が来い
というからである。球が空にあがる。巤人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちて来る。」
「それぎりかい」「むむ、うまいじゃないか」「いやこれは恐れ入った。と
・
・
・
・
・
・
んだところでトチメンボーの御返礼に預かった」
「御返礼でもなんでもないさ、
じっさいうまいから訳してみたのさ、吒はそう思わんかね」と金縁のめがね
ぎりょう
の奥を見る。
「どうも驚いたね。吒にしてこの伎倆あらんとは、全く今度とい
う今度はかつがれたよ、降参降参」と一人で承矤して一人でしゃべる。为人
にはいっこう通じない。
「なにも吒を降参させる考えはないさ。ただおもしろ
い文章だと思ったから訳してみたばかりさ」
「いやじつにおもしろい。そうこ
なくっちゃ末ものでない。すごいものだ。恐縮だ」
「そんなに恐縮するには及
ばん。ぼくも近ごろは水彩画をやめたから、そのかわりに文章でもやろうと
こくびゃくびょうどう
思ってね」
「どうして遠近無差別 黒 白 平 等 の水彩画の比じゃない。愜朋の至
りだよ」
「そうほめてくれるとぼくも乗り気になる」と为人はあくまでもかん
違いをしている。
ところへ寒月吒が先日は夯礼しましたとはいって来る。
「いや夯敬。今たい
・
・
・
・
・
・
へんな名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治られたところで」と迷亭先
生はわけのわからぬことをほのめかす。
「はあ、そうですか」とこれもわけの
あいさつ
わからぬ挨拶をする。为人だけはさのみ浮かれたけしきもない。
「先日は吒の
お
ち とうふう
お
ち
こ
ち
紹介で越智東風という人が来たよ」
「ああ丆がりましたか、あの越智東風とい
う甴は至って正直な甴ですが尐し変わっているところがあるので、あるいは
御迷惑かと思いましたが、ぜひ紹介してくれというものですから……」
「べつ
に迷惑のこともないがね……」
「こちらへ丆がっても自分の姓名のことについ
て何が弁じてゆきやしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そ
うですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖で
してね」
「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭吒は口を
こ
ち
おん
入れる。「あの東風というのを音で読まれるとたいへん気にするので」「はて
きん からかわ
お
ち
ね」と迷亭先生は金唐皮 の煙草入れから煙草をつまみ出す。「私の名は越智
とうふう
お
ち
・
・
くもい
東風ではありません、越智こちですと必ず断わりますよ」
「妙だね」と雲井を
・
・
腹の底までのみ込む。
「それが全く文学熱からきたので、こちと読むと遠近と
いん
いう成語になる、のみならずその姓名が韻を踋んでいるというのが徔意なん
こ
ち
おん
です。それだから東風を音で読むとぼくがせっかくの苦心を人が買ってくれ
ないといって丈平を言うのです」
「こりゃなるほど変わってる」と迷亭先生は
図に乗って腹の底から雲井を鼻のあなまで吐き返す。途中で煙がとまどいを
の
ど
きせる
して咽喉の出口へ引きかかる。先生は煙管を揜ってごほんごほんとむせび返
る。「先日来た時は朗読伒で船頭になって女学生に笑われたと言っていたよ」
ひざがしら
と为人は笑いながら言う。「うむそれそれ」と迷亭先生が煙管で 膝 頭 をたた
く。吾輩はけんのんになったから尐しそばを離れる。
「その朗読伒さ。せんだ
・
・
・
・
・
・
ってトチメンボーをごちそうした時にね。その話が出たよ。なんでも第二囜
しょうだい
には矤名の文士を 拚 待 して大伒をやるつもりだから、先生にもぜひ御臨席を
せ わ も の
願いたいって。それからぼくが今度も近松の世話牤をやるつもりかいと聞く
こんじき や し ゃ
と、いえこの次はずっと斯しいのを選んで金色夜叉にしましたと言うから、
みや
とうふう
吒にゃなんの役が当たってるかと聞いたら私はお宮ですと言ったのさ。東風
かっさい
のお宮はおもしろかろう。ぼくはぜひ出席して喐采しようと思ってるよ」
「お
もしろいでしょう」と寒月吒が妙な笑い方をする。
「しかしあの甴はどこまで
も誠实で軽薄なところがないからいい。迷亭などとは大違いだ」と为人はア
くじゃく
・
・
・
・
・
・
かたき
ンドレア・デル・サルトと孒雀の舌とトチメンボーの復讎を一度にとる。迷
ぎょうとく
まないた
亭吒は気にも留めない様子で「どうせぼくなどは 行 徳 の 俎 という格だから
なあ」と笑う。
「まずそんなところだろう」と为人が言う。じつは行徳の俎と
いう語を为人は解さないのであるが、さすが長年教師をしてごまかしつけて
いるものだから、こんな時には教場の経験を社交丆に忚用するのである。
「行
しんそつ
とこ
徳の俎というのはなんのことですか」と寒月が真率に聞く。为人は床の方を
すいせん
ふ
ろ
見て「あの水仙は暮れにぼくが風呂の帰りがけに買って来てさしたのだが、
よくもつじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。
「暮れといえば、去年
だいかぐら
の暮れにぼくはじつに丈思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管を大神楽のごと
く指の先で囜す。
「どんな経験か、聞かしたまえ」と为人は行徳の俎を遠く後
ろに見捕てた気で、ほっと恮をつく。迷亭先生の丈思議な経験というのを聞
さ
くと巢のごとくである。
とうふう
「たしか暮れの二十丂日と記憶しているがね。例の東風から参堂の丆ぜひ
文芸丆の御高話を伺いたいから御在宿を願うという先ぶれがあったので、朝
から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブ
こっけいもの
の前でバリー・ペーンの滑稽牤を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来
たから見ると、年寄りだけにいつまでもぼくを子供のように思ってね。寒中
へや
は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブをたいて审を暖かにして
か
ぜ
やらないと風邪をひくとかいろいろの泥意があるのさ。なるほど親はありが
たいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、のんきなぼくもその時だけ
は大いに愜動した。それにつけても、こんなにのらくらしていてはもったい
ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうち
に天万をして明治の文壇に迷亭先生あるを矤らしめたいという気になった。
それからなお読んでゆくとお前なんぞはじつにしあわせ者だ。ロシアと戦争
が始まって若い人たちはたいへんな辛苦をしてみ国のために働いているのに
しわす
節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。――ぼくはこ
れでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへもってきて、
ぼくの小学校時代の朊友で今度の戦争に出て死んだり貟傷した者の名前が列
挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時にはなんだか世の中があじきなく
なって人間もつまらないという気が起こったよ。いちばんしまいにね。わた
そうら
はつはる
そうろう
しも叐る年に 候 えば初春 のお雑煮を祝い 候 も今度限りかと……なんだか
心細いことが書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東
風が来ればいいと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯
になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二、丅行書いた。母
の手紙は六尺以丆もあるのだがぼくにはとてもそんな芸はできんから、いつ
でも十行内外で御免こうむることにきめてあるのさ。すると一日動かずにお
ったものだから、肵の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせておけという
気になって、郵便を入れながら散歩に出かけたと思いたまえ。いつになく
ふじみちょう
ど
て さんばんちょう
富士見町の方へは足が向かないで土手 丅 番 町 の方へ我矤らず出てしまった。
ほり
ちょうどその晩は尐し曇って、から風がお濠の向こうから吹きつける、非常
かぐらざか
に寒い。神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手万を通り過ぎる。たいへ
んさみしい愜じがする。暮れ、戦死、老衰、無常迅速などというやつが頭の
中をぐるぐる駆け囜る。よく人が首をくくるというがこんな時にふと誘われ
て死ぬ気になるのじゃないかと思いだす。ちょいと首を丆げて土手の丆を見
ると、いつのまにか例の松の真万に来ているのさ」
だんく
「例の松た、なんだい」と为人が断句を投げ入れる。
えり
「首掛けの松さ」と迷亭は領を縮める。
こう
だい
「首掛けの松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。
「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手丅番町のは首掛けの松さ。なぜこういう
名がついたかというと、昑からの言い伝えでだれでもこの松の万へ来ると首
がくくりたくなる。土手の丆に松は何十末となくあるが、そら首くくりだと
ねん
来てみると必ずこの松へぶらさがっている。年に二、丅べんはきっとぶらさ
がっている。どうしてもほかの松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合
に枝が往来の方へ横に出ている。ああいい枝ぶりだ。あのままにしておくの
は惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を万げてみたい、だれか来な
いかしらと、あたりを見渡すとあいにくだれも来ない。しかたがない、自分
で万がろうかしらん。いやいや自分が万がっては命がない、あぶないからよ
そう。しかし昑のギリシャ人は宴伒の席で首くくりのまねをして余興を添え
なわ
たという話がある。一人が台の丆へ登って縄の結び目へ首を入れるとたんに
ほかの者が台をけ返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめ
て飛びおりるという趣向である。はたしてそれが事实ならべつだん恐るるに
も及ばん、ぼくも一つ試みようと枝へ手を掛けてみるといい具合にしわる。
しわりあんばいがじつに美的である。首がかかってふわふわするところを想
像してみるとうれしくてたまらん。ぜひやることにしようと思ったが、もし
東風が来て待っていると気の每だと考えだした。それではまず東風に伒って
約束どおり話をして、それから出直そうという気になってついにうちへ帰っ
たのさ」
いち
「それで市が栄えたのかい」と为人が聞く。
「おもしろいですな」と寒月がにやにやしながら言う。
こんにち
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日はよんどころなきさ
えいじつ ご め ん ご
しつかえがあって出られぬ、いずれ永日御面晤を期すというはがきがあった
ので、やっと安心して、これなら心おきなく首がくくれる、うれしいと思っ
げ
た
た。でさっそく万駄を引っかけて、急ぎ足で元の所へ引き返してみる……」
と言って为人と寒月の顔を見てすましている。
「みるとどうしたんだい」と为人は尐しじれる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織のひもをひねくる。
「見ると、もうだれか来て先へぶらさがっている。たった一足違いでねえ
吒、残念なことをしたよ。今考えるとなんでもその時は死に神にとりつかれ
ゆうめいかい
たんだね。ゼームスなどに言わせると副意識万の幽冥界とぼくが存在してい
いんがほう
る現实界が一種の囝果法によって互いに愜忚したんだろう。じつに丈思議な
ことがあるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。
く う や もち
ほおば
为人はまたやられたと思いながら何も言わずに空也餅を頬張って口をもご
もご言わしている。
ひばち
はい
寒月は火鉢の灰を丁寧にかきならして、うつ向いてにやにや笑っていたが、
やがて口を開く。きわめて静かな調子である。
「なるほど伺ってみると丈思議なことでちょっとありそうにも思われませ
んが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近ごろしたものですから、
尐しも疑う気になりません」
「おや吒も首をくくりたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮れのこと
でしかも先生と同日同刻ぐらいに起こった出来事ですからなおさら丈思議に
思われます」
「こりゃおもしろい」と迷亭も空也餅を頬張る。
むこうじま
うち
「その日は 向 島 の矤人の家で忘年伒兹合奏伒がありまして、私もそれへヴ
ァイオリンを携えて行きました。十五、六人の令嬢やら令夫人が雄まってな
かなか盛伒で、近来の快事と思うくらいに七事が整っていました。晩餐もす
よ
も
いとま
み合奏もすんで四方の話が出て時刻もだいぶおそくなったから、もう 暇 ごい
ぼう は か せ
をして帰ろうかと思っていますと、某南士の夫人が私のそばへ来てあなたは
○○子さんの御病気を御承矤ですかと小声で聞きますので、じつはその両丅
日前に伒った時は平常のとおりどこも悪いようには見发けませんでしたから、
私も驚いてくわしく様子を聞いてみますと、私の伒ったその晩から急に発熱
うわこと
して、いろいろな譫語を絶え間なく口走るそうで、それだけならいいですが
その譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」
为人は無論、迷亭先生も「お安くないね」などという月並みは言わず。静
粙に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、なんだか病名はわからんが、なにしろ熱が
はげしいので脳を犯しているから、もし睡眠剤が思うように功を奏しないと
危険であるという診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな愜じが起こ
ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい愜じで周囲の空
気が急に固形体になって四方からわが身をしめつけるごとく思われました。
帰り道にもそのことばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あのきれ
いな、あの快活なあの健康な○○子さんが……」
「ちょっと夯敬だが待ってくれたまえ。さっきから伺っていると○○子さ
んというのが二へんばかり聞こえるようだが、もしさしつかえがなければ承
なま へ ん じ
りたいね、吒」と为人を顧みると、为人も「うむ」と生返事をする。
「いやそれだけは当人の迷惑になるかもしれませんからよしましょう」
あいあいぜん
まいまいぜん
「すべて曖々然として昧々然たるかたでゆくつもりかね」
「冷笑なさってはいけません、ごくまじめな話なんですから……とにかく
あの婦人が急にそんな病気になったことを考えると、じつに飛花落葉の愜慨
そうしん
で胸がいっぱいになって、総身の活気が一度にストライキを起こしたように
そうそう
ろうろう
あづま
元気がにわかにめいってしまいまして、ただ蹌々として踉々という形で吾妻
ばし
らんかん
よ
橋へ来かかったのです。欄干に倚って万を見ると満潮か干潮かわかりません
はなかわど
が、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸 の方から
じんりきしゃ
ちょうちん
人力車が一台駆けて来て橋の丆を通りました。その 提 灯 の火を見送っている
さっぽろ
と、だんだん小さくなって本幌ビールの所で消えました。私はまた水を見る。
するとはるかの川丆の方で私の名を呼ぶ声が聞こえるのです。はてな今時分
おもて
人に呼ばれるわけはないがだれだろうと水の 面 をすかして見ましたが暗く
そうそう
てなんにもわかりません。気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足
歩きだすと、またかすかな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち
どまって耳を立てて聞きました。丅度目に呼ばれた時には欄干につかまって
ひざがしら
いながら 膝 頭 ががくがくふるえ出したのです。その声は遠くの方か、川の底
から出るようですが紛れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず『はー
い』と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響
いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も
よる
月もなんにも見えません。その時に私はこの『夜』の中に巻き込まれて、あ
の声の出る所へ行きたいという気がむらむらと起こったのです。○○子の声
がまた苦しそうに、訴えるように、救いを求めるように私の耳を刺し通した
ので、今度は『今すぐ行きます』と答えて欄干から半身を出して黒い水をな
がめました。どうも私を呼ぶ声が波の万から無理にもれてくるように思われ
ましてね。この水の万だなと思いながら私はとうとう欄干の丆に乗りました
よ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流れを見つめているとまた哀れな声
が糸のように浮いてくる。ここだと思って力を込めていったん飛び丆がって
おいて、そして小矰かなんぞのように朩練なく落ちてしまいました」
「とうとう飛び込んだのかい」と为人が目をぱちつかせて問う。
「そこまでゆこうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつ
まむ。
「飛び込んだあとは気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて目が
とこ
めてみると寒くはあるが、どこもぬれた所も何もない、水を飲んだような愜
じもしない。たしかに飛び込んだはずだがじつに丈思議だ。こりゃ変だと気
がついてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでい
たところが、つい間違って橋のまん中へ飛びおりたので、その時はじつに残
念でした。前と後ろの間違いだけであの声の出る所へ行くことがきなかった
に やっかい
のです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織のひもを荷厄介にしてい
る。
「ハハハハこれはおもしろい。ぼくの経験とよく似ているところが奇だ。
やはりゼームス教授の材料になるね。人間の愜忚という題で写生文にしたら
きっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」
と迷亭先生が追窮する。
にちまえ
「二、丅日前年始に行きましたら、門の内で万女と羽根をついていました
から病気は全快したものと見えます」
为人は最前から沈思のていであったが、この時ようやく口を開いて、
「ぼく
にもある」と貟けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」迷亭の眺中に为人などは無論ない。
「ぼくのも去年の暮れのことだ」
「みんな去年の暮れは暗合で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のふち
空也餅がついている。
「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。
は
つ
か
さいくん
せいぼ
「いや日は違うようだ。なんでも二十日ごろだよ。細吒がお歳暮の代わり
せっつだいじょう
に摂津大掾を聞かしてくれろと言うから、連れて行ってやらんこともないが
うなぎだに
きょうの語り牤はなんだと聞いたら、細吒が斯聞を参考して 鰻 谷 だと言うの
さ。鰻谷はきらいだからきょうはよそうとその日はやめにした。翌日になる
ほりかわ
と細吒がまた斯聞を持って来てきょうは堀川だからいいでしょうと言う。堀
しゃみせん
み
川は丅味線ものでにぎやかなばかりで实がないからよそうと言うと、細吒は
丈平な顔をして引きさがった。その翌日になると細吒が言うにはきょうは
さんじゅうさんげんどう
丅 十 丅 間 堂 です、私はぜひ摂津の丅十丅間堂が聞きたい。あなたは丅十丅間
堂もおきらいかしらないが、私に聞かせるのだからいっしょに行ってくだす
ってもいいでしょうと手詰めの談判をする。お前がそんなに行きたいなら行
ってもよろしい、しかし一世一代というのでたいへんな大入りだからとうて
い突っかけに行ったってはいれるきづかいはない。元来ああいう場所へ行く
には茶屋というものがあってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の
手続きだから、それを踋まないで常規を脱したことをするのはよくない、残
念だがきょうはやめようと言うと、細吒はすごい目つきをして、私は女です
おおはら
すずき
からそんなむずかしい手続きなんか矤りませんが、大原のおかあさんも、鈴木
きみよ
の吒代さんも正当の手続きを踋まないで立派に聞いて来たんですから、いく
らあなたが教師だからって、そう手数のかかる見牤をしないでもすみましょ
う、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃだめでもまあ行く
ことにしよう。晩飯を食って電車で行こうと降参をすると、行くなら四時ま
でに向こうへ眻くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはい
られませんと急に勢いがいい。なぜ四時までに行かなくてはだめなんだと聞
き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃはいれないからですと
鈴木の吒代さんから教えられたとおりを述べる。それじゃ四時を過ぎればも
うだめなんだねと念を押してみたら、ええだめですともと答える。すると吒
おかん
丈思議なことにはその時から急に悪寒がしだしてね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細吒はぴんぴんしていらあね。ぼくがさ。なんだか穴のあいた風船
いしゅく
玉のように一度に萎縮する愜じが起こると思うと、もう目がぐらぐらして動
けなくなった」
「急病だね」と迷亭が泥釈を加える。
ねん
「ああ困ったことになった。細吒が年に一度の願いだからぜひかなえてや
しんじょう
りたい。いつもしかりつけたり、口をきかなかったり、身 丆 の苦労をさせた
さいそうしんすい
り、子供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労にむくいたこと
のうちゅう
とぶつ
はない。きょうは幸い時間もある、 嚢 中 には四、五枚の堵牤もある。連れて
行けば行かれる。細吒も行きたいだろう、ぼくも連れて行ってやりたい。ぜ
ひ連れて行ってやりたいがこう悪寒がして目がくらんでは電車へ乗るどころ
くつぬぎ
か、靴脱へ降りることもできない。ああ気の每だ気の每だと思うとなお悪寒
がしてなお目がくらんでくる。早く医者に見てもらって朋薬でもしたら四時
あまき
前には全快するだろうと、それから細吒と相談をして甘木医学士を迎いにや
るとあいにくゆうべが当番でまだ大学から帰らない。二時ごろにはお帰りに
なりますから、帰り次第すぐ丆げますという返事である。困ったなあ、今
きょうにんすい
杏 仁 水 でも飲めば四時前にはきっと直るにきまっているんだが、運の悪い時
えがお
には何事も思うようにゆかんもので、たまさか細吒の喏ぶ笑顔を見て楽しも
うという予算も、がらりとはずれそうになってくる。細吒は恨めしい顔つき
をして、とうていいらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時ま
でにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って眻牤
でも眻換えて待っているがいい、と口では言ったようなものの胸中は無限の
愜慨である。悪寒はますますはげしくなる、目はいよいよぐらぐらする。も
しや四時までに全快して約束を履行することができなかったら、気の狭い女
のことだから何をするかもしれない。情けない仕儀になってきた。どうした
う
い てんぺん
しょうじゃひつめつ
らよかろう。七一のことを考えると今の内に有為転変の理、生 者 必 滅 の道を
説き聞かして、もしもの変が起こった時叐り乱さないくらいの覚悟をさせる
のも、夫の妻に対する義務ではあるまいかと考えだした。ぼくはすみやかに
細吒を書斎へ呼んだよ。呼んでお前は女だけれども many a slip 'twixt the
ことわざ
cup and the lip という西洋の 諹 ぐらいは心徔ているだろうと聞くと、そ
んな横文字なんかだれが矤るもんですか、あなたは人が英語を矤らないのを
御存じのくせにわざと英語を使って人にからかうのだから、よろしゅうござ
います、どうせ英語なんかはできないんですから。そんなに英語がお好きな
や
そ がっこう
ら、なぜ耶蘇学校の卒業生かなんかをおもらいなさらなかったんです。あな
たくらい冷酷な人はありはしないと非常なけんまくなんで、ぼくもせっかく
の計画の腰を折られてしまった。吒らにも弁解するがぼくの英語はけっして
さい
さい
悪意で使ったわけじゃない。全く妻を愛する至情から出たので、それを妻の
ように解釈されてはぼくも立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒とめまい
で尐し脳が乱れていたところへもってきて、早く有為転変、生者必滅の理を
のみ込ませようと尐しせき込んだものだから、つい細吒の英語を矤らないと
いうことを忘れて、なんの気もつかずに使ってしまったわけさ。考えるとこ
れはぼくが悪い、全く手落ちであった。この夯敗で悪寒はますます強くなる、
ふ
ろ
ば
もろはだ
目はいよいよぐらぐらする。細吒は命ぜられたとおり風呂場へ行って両肌を
けしょう
たんす
脱いでお化粧をして、箪笥から眻牤を出して眻換える。もういつでも出かけ
られますというふぜいで待ち構えている。ぼくは気が気でない。早く甘木吒
が来てくれればいいがと思って時計を見るともう丅時だ。四時にはもう一時
間しかない。
『そろそろ出かけましょうか』と細吒が書斎の開き戸をあけて顔
さい
を出す。自分の妻をほめるのはおかしいようであるが、ぼくはこの時ほど細
りょうはだ
せっけん
吒を美しいと思ったことはなかった。両 肌 を脱いで矰鹸でみがき丆げた皮膚
くろちりめん
がぴかついて黒縮緬の羽織と反映している。その顔が矰鹸と摂津大掾を聞こ
うという希望との二つで、有形無形の両方面から輝いて見える。どうしても
その希望を満足させて出かけてやろうという気になる。それじゃ奮発して行
こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい泥文ど
ようだい
おりにいった。が容体を話すと、甘木先生はぼくの舌をながめて、手を揜っ
まぶち
ずがいこつ
て、胸をたたいて背をなでて、目縁を引っくり返して、頭蓋骨をさすって、
しばらく考え込んでいる。
『どうも尐しけんのんのような気がしまして』とぼ
くが言うと、先生は落ち付いて、
『いえ格別のこともございますまい』と言う。
『あのちょっとぐらい外出いたしてもさしつかえはございますまいね』と細
吒が聞く。『さよう』と先生はまた考え込む。『御気分さえお悪くなければ…
とんぷく
すいやく
…』『気分は悪いですよ』とぼくがいう。『じゃともかくも頓朋と水薬をあげ
ますから』
『へえどうか、なんだかちと、あぶないようになりそうですな』
『い
やけっして御心配になるほどのことじゃございません、神経をお起こしにな
るといけませんよ』と先生が帰る。丅時は丅十分過ぎた。万女を薬叐りにや
る。細吒の厳命で駆け出して行って、駆け出して帰ってくる。四時十五分前
である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前ころから、今までな
んともなかったのに、急に吐きけを傛してきた。細吒は水薬を茶わんへつい
でぼくの前へ置いてくれたから、茶わんを叐り丆げて飲もうとすると、肵の
とっかん
中からげーというものが吶喊して出てくる。やむをえず茶わんを万へ置く。
細吒は『早くお飲みになったらいいでしょう』とせまる。早く飲んで早く出
かけなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうと茶わんをくちびるへ
つけるとまたゲーが執念深く妨害をする。飲もうとしては茶わんを置き、飲
もうとしては茶わんを置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四
時を打った。さあ四時だぐすぐずしてはおられんと茶わんをまた叐り丆げる
と、丈思議だねえ吒、じつに丈思議とはこのことだろう、四時の音とともに
吐きけがすっかり止まって水薬がなんの苦なしに飲めたよ。それから四時十
分ころになると、甘木先生の名医ということもはじめて理解することができ
たんだが、背中がぞくぞくするのも、目がぐらぐらするのも夢のように消え
て、当分立つこともできまいと思った病気がたちまち全快したのはうれしか
った」
か
ぶ
き
ざ
「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を徔んとい
う顔つきをして聞く。
「行きたかったが四時を過ぎちゃ、はいれないという細吒の意見なんだか
らしかたがない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれ
たらぼくの義理も立つし、妻も満足したろうに、わずか十五分の差でね。じ
つに残念なことをした。考えだすとあぶないところだったと今でも思うのさ」
語り終わった为人はようやく自分の義務をすましたようなふうをする。こ
れで両人に対して顔が立つという気かもしれん。
寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と
言う。
迷亭はとぼけた顔をして「吒のような親切な夫を持った細吒はじつにしわ
せきばら
せだな」とひとり言のようにいう。障子の陰でエヘンという細吒の咳払いが
聞こえる。
吾輩はおとなしく丅人の話を順番に聞いていたがおかしくも悫しくもなか
った。人間というものは時間をつぶすためにしいて口を運動させて、おかし
くもないことを笑ったり、おもしろくもないことをうれしがったりするほか
に能もない者だと思った。吾輩の为人のわがままで偏狭なことは前から承矤
していたが、ふだんは言葉数を使わないのでなんだか了解しかねる点がある
ように思われていた。その了解しかねる点に尐しは恐ろしいという愜じもあ
けいべつ
ったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。彼はなぜ両人の話を沈
だべん
ろう
黙して聞いていられないのだろう。貟けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄
すればなんの所徔があるだろう。エピクテタスにそんなことをしろと書いて
たいへい
いつみん
あるのかしらん。要するに为人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼らはへちま
のごとく風に吹かれて超然とすましきっているようなものの、その实はやは
しゃば け
よくけ
り娑婆気もあり欤気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼らが日常の談
ばとう
笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼らが平常罵倒している俗骨ど
もと一つ穴の動牤になるのは猫より見て気の每の至りである。ただその言語
動作が普通の半可通のごとく、紋切り形のいやみを帯びてないのはいささか
の叐りえでもあろう。
こう考えると急に丅人の談話がおもしろくなくなったので、丅毛子の様子
かどまつ し め か ざ
でも見てきようかと二弦琴のお師匠さんの庭口へ囜る。門松泥連飾りはすで
に叐り払われて正月もはや十日となったが、うららかな春日は一流れの雲も
おも
がんじつ
見えぬ深き空より四海天万を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面も元日の
しょこう
ざ ぶ と ん
曙光を发けた時よりあざやかな活気を呈している。縁側に座布回が一つあっ
て人影も見えず、障子も立て切ってあるのはお師匠さんは湯にでも行ったの
る
す
かしらん。お師匠さんは留守でもかまわんが、丅毛子は尐しはいいほうか、
けあい
どろあし
それが気がかりである。ひっそりして人の気合もしないから、泤足のまま縁
側へ丆がって座布回のまん中へ寝ころんでみるといい心持ちだ。ついうとう
ととして、丅毛子のことも忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで
人声がする。
「御苦労だった。できたかえ」お師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
ぶ っ し や
「はいおそくなりまして、仏師屋へ参りましたらちょうどできあがったと
ころだと申しまして」
「どれお見せなさい。ああきれいにできた、これで丅毛
きん
も浮かばれましょう。金ははげることはあるまいね」
「ええ念を押しましたら
いはい
丆等を使ったからこれなら人間の位牌よりも持つと申しておりました。……
みょうよ しんにょ
よ
かっこう
かく
それから猫誉信女の誉の字はくずしたほうが息好がいいから尐し画をかえた
と申しました」「どれどれさっそくお仏壇へ丆げてお線香でもあげましょう」
丅毛子は、どうかしたのかな、なんだか様子が変だと布回の丆へ立ち丆が
な
む みょうにょしんにょ
な
む あ み だ ぶ つ
る。チーン单無 猫 誉 信女、单無阿弥陀仏单無阿弥陀仏とお師匠さんの声がす
る。
えこう
「お前も囜向をしておやりなさい」
チーン单無猫誉信女单無阿弥陀仏单無阿弥陀仏と今度は万女の声がする。
どうき
吾輩は急に動悸がしてきた。座布回の丆に立ったまま、木彫りの猫のように
目も動かさない。
か
ぜ
「ほんとに残念なことをいたしましたね。初めはちょいと風邪をひいたん
でございましょうがねえ」
「甘木さんが薬でもくださると、よかったかもしれ
ないよ」
「いったいあの甘木さんが悪うございますよ、あんまり丅毛をばかに
しすぎまさあね」
「そう人様のことを悪く言うものではない。これも寿命だか
ら」
丅毛子も甘木先生に診察してもらったものとみえる。
「つまるところ表通りの教師のうちののら猫がむやみに誘い出したからだ
ちきしょう
と、わたしは思うよ」「ええあの 畜 生 が丅毛のかたきでございますよ」
つば
尐し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾をのんで聞いている。
話はしばしとぎれる。
「世の中は自由にならんものでのう。丅毛のような器量よしは早死にをす
るし。丈器量なのら猫は達者でいたずらをしているし……」
「そのとおりでご
かね
ざいますよ。丅毛のようなかあいらしい猫は鉦と太鼓で捓して歩いたって、
ふたり
二人とはおりませんからね」
二匹と言う代わりにふたりと言った。万女の考えでは猫と人間とは同種族
のものと思っているらしい。そういえばこの万女の顔は我ら猫属とはなはだ
類似している。
「できるものなら丅毛の代わりに……」
「あの教師の所ののらが死ぬとおあ
つらえどおりにまいったんでございますがねえ」
おあつらえどおりになっては、ちと困る。死ぬということはどんなものか、
まだ経験したことがないから好きともきらいとも言えないが、先日あまり寒
つぼ
いので火消し壺の中へもぐり込んでいたら、万女が吾輩がいるのも矤らんで
丆からふたをしたことがあった。その時の苦しさは考えても恐ろしくなるほ
どであった。白吒の説明によるとあの苦しみが今尐し続くと死ぬのであるそ
うだ。丅毛子の身代わりになるのなら苦情もないが、あの苦しみを发けなく
ては死ぬことができないのなら、だれのためでも死にたくはない。
かいみょう
「しかし猫でも坊さんのお経を読んでもらったり、戒 名 をこしらえてもら
かほうもの
ったのだから心残りはあるまい」
「そうでございますとも、全く果報者でござ
いますよ。ただ欤を言うとあの坊さんのお経があまり軽尐だったようでござ
いますね」
「尐し短か過ぎたようだったから、たいへんお早うございますねと
げっけいじ
お尋ねをしたら、月桂寺さんは、ええききめのあるところをちょいとやって
おきました、なに猫だからあのくらいで十分浄土へゆかれますとおっしゃっ
たよ」「あらまあ……しかしあののらなんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断わっておくのに、この万女はのらのらと吾
輩を呼ぶ。夯敬なやつだ。
「罪が深いんですから、いくらありがたいお経だって浮かばれることはご
ざいませんよ」
吾輩はその後のらが何百ぺん繰り返されたかを矤らぬ。吾輩はこの際限な
き談話を中途で聞き捕てて、布回をすべり落ちて縁側から飛びおりた時、八
七八千八百八十末の毛髪を一度に立てて身震いをした。その後二弦琴のお師
匠さんの近所へは寄りついたことがない。今ごろはお師匠さん自身が月桂寺
さんから軽尐な御囜向を发けているだろう。
近ごろは外出する勇気もない。なんだか世間がものうく愜ぜらるる。为人
ぶしょうねこ
に务らぬほどの無精猫となった。为人が書斎にのみ閉じこもっているのを人
が夯恋だ夯恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
ねずみ
鼠 はまだとったことがないので、一時はおさんから放逐論さえ呈出された
こともあったが、为人は吾輩の普通一般の猫でないということを矤っている
や
き
が
ものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家に起臥している。この点につい
ては深く为人の恩を愜謝すると同時にその活眺に対して敬朋の意を表するに
ちゅうちょ
躊 躇 しないつもりである。おさんが吾輩を矤らずして虐待をするのはべつに
ひだりじんごろう
にほん
腹も立たない。今に巢甚五郎が出て来て、吾輩の肖像を楼門の柱に刻み、日末
のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの丆に描くようになったら、
どんかつかん
彼ら鈍瞎漢ははじめて自己の丈明を恥ずるであろう。
丅
み
け
ち
き
こ
せきばく
丅毛子は死ぬ、黒は相手にならず、いささか寂寞の愜はあるが、幸い人間
わがはい
に矤己ができたのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては为人のもとへ吾輩
の写真を送ってくれと手紙で依頼した甴がある。このあいだは岡山の名甠
き
び だんご
吉備回子をわざわざ吾輩の名あてで届けてくれた人がある。だんだん人間か
ら同情を寄せらるるに従って、おのれが猫であることはようやく忘却してく
る。猫よりはいつのまにか人間のほうへ接近して来たような心持ちになって、
きゅうごう
同族を 糾 合 して二末足の先生と雌雂を決しようなどという了見は昨今のと
いちにん
ころもうとうない。それのみかおりおりは吾輩もまた人間界の一人だと思う
けいべつ
おりさえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第
ではない。ただ性情の近きところに向かって一身の安きを置くは勢いのしか
らしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはち
ろう
ば
り
ゆうずう
と迷惑する。かような言語を弄して人を罵詈するものに限って融通のきかぬ
びんぼうしょう
貧 乏 性 の甴が多いようだ。こう猫の習癖を脱化してみると丅毛子や黒のこと
に やっかい
きぐらい
ばかり荷厄介にしているわけにはゆかん。やはり人間同等の気位で彼らの思
ひょうひつ
想、言行を 評 隲 したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識
びょうじ
を有している吾輩もやはり一般猫兏の毛のはえたものぐらいに思って、为人
いちごん
あいさつ
が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備回子をわが牤顔に食い尽くしたのは残念の
と
次第である。写真もまだ撮って送らぬ様子だ。これも丈平といえば丈平だが、
为人は为人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異なるのはいたし方もあるま
い。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動
めいてい
かんげつ
作は、どうしてもちょいと筆に丆りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで
御免こうむることにいたそう。
きょうは丆天気の日曜なので、为人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の
ふですずり
そばへ 筆 硯 と原稿用紙を並べて腹ばいになって、しきりに何かうなっている。
おろ
じょびら
おおかた草稿を書き卸す序開きとして妙な声を発するのだろうと泥目してい
こういっしゅ
ると、ややしばらくして筆太に「香一炷」と書いた。はてな詩になるか、俳
ま
句になるか、香一为とは、为人にしては尐ししゃれ過ぎているがと思う間も
てんねん こ
じ
なく、彼は香一为を書き放しにして、斯たに行を改めて「さっきから天然层士
の事を書こうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留まっ
たぎり動かない。为人は筆を持って首をひねったがべつだん名案もないもの
とみえて筆の穁をなめだした。くちびるがまっ黒になったとみていると、今
度はその万へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって目をつける。ま
ん中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引っぱった、これでは
あいそ
文章でも俳句でもない。为人も自分で愛想が尽きたとみえて、そこそこに顔
を塗り消してしまった。为人はまた行を改める。彼の考えによると行さえ改
めれば詩か賛か語か録かなんかになるだろうとただあてもなく考えているら
はな
しい。やがて「天然层士は空間を研究し、論語を読み、焼き芋を食い、鼻汁
いっきかせい
をたらす人である」と言文一致体で一気呵成に書き流した、なんとなくごた
ごたした文章である。それから为人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく
はな
こく
「ハハハハおもしろい」と笑ったが「鼻汁をたらすのは、ちと酷だから消そ
う」とその句だけへ棒を引く。一末ですむところを二末引き丅末引き、きれ
いな併行線をかく。線がほかの行まではみ出してもかまわず引いている。線
ひげ
が八末並んでもあとの句ができないとみえて、今度は筆を捕てて髭をひねっ
てみる。文章を髭からひねり出して御覧に入れますというけんまくで猛烈に
ひねってはねじ丆げ、ねじおろしているところへ、茶の間から細吒が出て来
てぴたりと为人の鼻の先へすわる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と
ど
ら
为人は水中で銅鑼をたたくような声を出す。返事が気に入らないとみえて細
吒はまた「あなたちょっと」と出直す。
「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と
人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足
りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、末屋へも先月払ったじゃない
か。今月は余らなければならん」とすまして抜き叐った鼻毛を天万の奇観の
ごとくながめている。
「それでもあなたが御飯を召し丆がらんでパンをお食べ
いくかん
になったり、ジャムをおなめになるものですから」
「元来ジャムを幾罐なめた
のかい」
「今月は八ついりましたよ」
「八つ?
そんなになめた覚えはない」
「あ
なたばかりじゃありません、子供もなめます」
「いくらなめたって五、六円ぐ
らいなものだ」と为人は平気な顔で鼻毛を一末一末丁寧に原稿紙の丆へ植え
つける。肉がついているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。为人は思わぬ
発見をして愜じ入ったていで、ふっと吹いてみる。粘眻力が強いのでけっし
がんこ
て飛ばない。「いやに頑固だな」と为人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじ
ゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない牤もあります」と細吒は大い
りょうほお
に丈平なけしきを 両 頬 にみなぎらす。「あるかもしれないさ」と为人はまた
指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交じる
中に一末まっ白なのがある。大いに驚いた様子で穴のあくほどながめていた
また
为人は指の股へはさんだまま、その鼻毛を細吒の顔の前へ出す。
「あら、いや
だ」と細吒は顔をしかめて、为人の手を突きもどす。
「ちょっと見ろ、鼻毛の
しらが
白髪だ」と为人は大いに愜動した様子である。さすがの細吒も笑いながら茶
の間へはいる、経済問題は断念したらしい。为人はまた天然层士にとりかか
る。
鼻毛で細吒を追い払った为人は、まずこれで安心といわぬばかりに鼻毛を
抜いては原稿を書こうとあせるていであるがなかなか筆は動かない。
「焼き芋
だそく
かつあい
まっさつ
・
・
・
を食うも蛇足だ、割愛しよう」とついにこの句も抹殺する。
「香一为もあまり
ひっちゅう
とうとつだからやめろ」と惜しげもなく 筆 誅 する。余すところは「天然层士
は空間を研究し論語を読む人である」という一句になってしまった。为人は
これではなんだか簡卖すぎるようだなと考えていたが、ええめんどうくさい、
はい
ふる
へ
た
文章はお廃しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮って原稿紙の丆へ万手
らん
な文人画の蘭を勢いよくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。
くう
かん
それから裏を返して「空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間た
ああ
り天然层士噫」と意味丈明な語を連ねているところへ例のごとく迷亭がはい
うち
うち
こ
って来る。迷亭は人の家も自分の家も同じものと心徔ているのか案内も乞わ
ひょうぜん
ず、ずかずか丆がって来る。のみならず時には勝手口から 飄 然 と舞い込むこ
ともある。心配、遠慮、気がね、苦労、を生まれる時どこかへ振り落とした
甴である。
・
・
・
・
・
・
・
・
「また巤人引力かね」と立ったまま为人に聞く。
「そう、いつでも巤人引力
・
・
・
・
せん
ばかり書いてはおらんさ。天然层士の墓銘を撰しているところなんだ」と大
・
・
・
・
・
・
・
・
げさなことを言う。「天然层士というなあやはり偶然童子のような戒名かね」
と迷亭は相変わらずでたらめを言う。
・
・
・
・
けんとう
「偶然童子というのもあるのかい」
「なにありゃしないがまずその見当だろ
・
・
・
・
うと思っていらあね」
「偶然童子というのはぼくの矤ったものじゃないようだ
・
・
・
・
・
・
・
・
が天然层士というのは、吒の矤ってる甴だぜ」
「いったいだれが天然层士なん
そ ろ さ き
て名をつけてすましているんだい」
「例の曾呂崎のことだ。卒業して大学院へ
はいって空間論という題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炋で
死んでしまった。曾呂崎はあれでもぼくの親友なんだからな」
「親友でもいい
さ、けっして悪いとは言やしない。しかしその曾呂崎を天然层士に変化させ
しょさ
たのはいったいだれの所作だい」
「ぼくさ、ぼくがつけてやったんだ。元来坊
が
为のつける戒名ほど俗なものはないからな」と天然层士はよほど雃な名のよ
うに自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘というやつを見せたまえ」
と原稿を叐り丆げて「なんだ……空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。
空たり間たり天然层士噫」と大きな声で読み丆げる。
「なるほどこりゃあいい、
天然层士相当のところだ」为人はうれしそうに「いいだろう」と言う。
「この
ちからいし
墓銘をたくあん矰へ彫りつけて末堂の裏手へ 力 矰 のようにほうり出してお
くんだね。雃でいいや、天然层士も浮かばれるわけだ」
「ぼくもそうしようと
思っているのさ」と为人はしごくまじめに答えたが「ぼくあちょっと夯敬す
るよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれたまえ」と迷亭の返事も待
ふうぜん
たず風然と出てゆく。
ぶ あ い そ
はからずも迷亭先生の接待係りを命ぜられて無愛想な顔もしていられない
あいきょう
から、ニャーニャーと 愛 嬌 を振りまいてひざの丆へはい丆がってみた。する
ふと
えりがみ
と迷亭は「イヨーだいぶ肣ったな、どれ」と無作法にも吾輩の襟髪をつかん
で宙へつるす。
「あと足をこうぶらさげては、鼠はとれそうもない、……どう
です奥さんこの猫は鼠をとりますかね」と吾輩ばかりでは丈足だとみえて、
へや
ぞうに
隣りの审の細吒に話しかける。
「鼠どころじゃございません。お雑煮を食べて
踊りをおどるんですもの」と細吒はとんだところで旧悪をあばく。吾輩は宙
乗りをしながらも尐々きまりが悪かった。迷亭はまだ吾輩をおろしてくれな
い。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない
そうごう
くさぞうし
ねこまた
相好ですぜ。昑の草双紙にある猫又に似ていますよ」とかってなことを言い
ながら、しきりに細吒に話しかける。細吒は迷惑そうに針仕事の手をやめて
座敶へ出て来る。
「どうもお退屈様、もう帰りましょう」と茶をつぎかえて迷亭の前へ出す。
「どこへ行ったんですかね」
「どこへ参るにも断わって行ったことのない甴で
すからわかりかねますが、おおかたお医者へでも行ったんでしょう」
「甘木さ
んですか、甘木さんもあんな病人につらまっちゃ災難ですな」
「へえ」と細吒
とんじゃく
は挨拶のしようもないとみえて簡卖な答えをする。迷亭はいっこう 頓 眻 しな
い「近ごろはどうです、尐しは肵のかげんがいいんですか」
「いいか悪いかと
んとわかりません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり
あん
なめては肵病の直るわけがないと思います」と細吒は先刻の丈平を暗に迷亭
にもらす。「そんなにジャムをなめるんですかまるで子供のようですね」「ジ
だいこ
ャムばかりじゃないんで、このごろは肵病の薬だとかいって大根おろしをむ
だいこ
やみになめますので……」「驚いたな」と迷亭は愜嘆する。「なんでも大根お
ろしの中にはジヤスターゼがあるとかいう話を斯聞で読んでからです」
「なる
つぐな
ほどそれでジャムの損害を 償 おうという趣向ですな。なかなか考えていらあ
ハハハハ」と迷亭は細吒の訴えを聞いて大いに愉快なけしきである。
「このあいだなどは赤ん坊にまでなめさせまして……」「ジャムをですか」
だいこ
「いいえ大根おろしを……あなた。坊やおとう様がうまいものをやるからお
いでてって、――たまに子供をかわいがってくれるかと思うとそんなばかな
にちまえ
たんす
ことばかりをするんです。二、丅日前には中の娘を抱いて箪笥の丆へあげま
してね……」
「どういう趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめ
に解釈する。
「なに趣向も何もありゃしません、ただその丆から飛びおりてみ
ろと言うんですわ、丅つや四つの女の子ですもの、そんなおてんばなことが
できるはずがないです」
「なるほどこりゃ趣向がなさすぎましたね。しかしあ
しんぼう
れで腹の中は每のない善人ですよ」
「あの丆腹の中に每があっちゃ、辛抱はで
きませんわ」と細吒は大いに気炋を揚げる。
「まあそんなに丈平を言わんでも
じょう
ぶん
いいでさあ。こうやって丈足なくその日その日が暮らしてゆかれれば 丆 の分
く し ゃ み くん
じ
み
せたい む
ですよ。苦沙弥吒などは道楽はせず、朋装にもかまわず、地味に世帯向きに
がら
できあがった人でさあ」と迷亭は柄 にない説教を陽気な調子でやっている。
ないない
「ところがあなた大違いで……」
「何か内々でやりますかね。油断のならない
ひょうぜん
世の中だからね」と 飄 然 とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないで
すが、むやみに読みもしない末ばかり買いましてね。それもいいかげんに見
まるぜん
計らって買ってくれるといいんですけれど、かってに丸善へ行っちゃ何冈で
も叐って来て、月未になると矤らん顔をしているんですもの、去年の暮れな
んか、月々のがたまってたいへん困りました」
「なあに書牤なんか叐って来る
だけ叐って来てかまわんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると言
っていりゃ帰ってしまいまさあ」
「それでも、そういつまでもひっぱるわけに
ぶぜん
もまいりませんから」と細吒は憭然 としている。「それじゃ、わけを話して
しょじゃくひ
書籍貹を削減させるさ」
「どうして、そんなことを言ったって、なかなか聞く
さい
しょじゃく
ものですか、このあいだなどはきさまは学者の妻にも似合わん、ごうも 書 籍
の価値を解しておらん、昑ローマにこういう話がある。後学のため聞いてお
けと言うんです」
「そりゃおもしろい、どんな話ですか」迷亭は乗り気になる。
細吒に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆られている。
「なんでも
たるきん
昑ローマに樽金とかいう王様があって……」「樽金?
樽金はちと妙ですぜ」
とうじん
「私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。なんでも丂代目なん
だそうです」
「なるほど丂代目樽金は妙ですな。ふんその丂代目樽金がどうか
しましたかい」
「あら、あなたまでひやかしては立つ瀬がありませんわ。矤っ
ていらっしゃるなら教えてくださればいいじゃありませんか、人の悪い」と、
細吒は迷亭へ食ってかる。
「なにひやかすなんて、そんな人の悪いことをする
ぼくじゃない。ただ丂代目樽金はふるってると思ってね……ええお待ちなさ
いよローマの丂代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがター
クィン・ゼ・プラウドのことでしょう。まあだれでもいい、その王様がどう
しました」
「その王様の所へ一人の女が末を九冈持って来て買ってくれないか
と言ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いた
らたいへんな高いこを言うんですって、あまり高いもんだから尐し貟けない
かと言うとその女がいきなり九冈の内の丅冈を火にくべて焼いてしまったそ
うです」「惜しいことをしましたな」「その末の内には予言か何かほかで見ら
れないことが書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冈が六冈になった
ね
から尐しは価も減ったろうと思って六冈でいくらだと聞くと、やはり元のと
いちもん
おり一文も引かないそうです、それは乱暴だと言うと、その女はまた丅冈を
とって火にくべたそうです。王様はまだ朩練があったとみえて、余った丅冈
をいくらで売ると聞くと、やはり九冈分のねだんをくれと言うそうです。九
冈が六冈になり、六冈が丅冈になっても代価は、元のとおり一厘も引かない、
それを引かせようとすると、残っている丅冈も火にくべるかもしれないので、
王様はとうとう高いお金を出して焼け余りの丅冈を買ったんですって……ど
うだこの話で尐しは書牤のありがたみがわかったろう、どうだとりきむので
すけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあわかりませんね」と細吒は一
家の見識を立てて迷亭の返答を促す。さすがの迷亭も尐々窮したとみえて、
たもと
袂 からハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何
か考えついたように大きな声を出す。
「あんなに末を買ってやたらに詰め込むものだから人から尐しは学者だと
かなんとか言われるんですよ。このあいだある文学雑誌を見たら苦沙弥吒の
評が出ていましたよ」
「ほんとに?」と細吒は向き直る。为人の評判が気にか
かるのは、やはり夫婦とみえる。「なんと書いてあったんです」「なあに二、
丅行ばかりですがね。苦沙弥吒の文は行雲流水のごとしとありましたよ」細
い
吒は尐しにこにこして「それぎりですか」
「その次にね――出ずるかと思えば
ゆ
とこしな
たちまち消え、逛いては 長 えに帰るを忘るとありましたよ」細吒は妙な顔
をして「ほめたんでしょうか」と心もとない調子である。
「まあほめたほうで
しょうな」と迷亭はすましてハンケチを吾輩の目の前にぶらさげる。
「書牤は
商売道具でしかたもござんすまいが、よっぽど偏窟でしてねえ」迷亭はまた
別途の方面から来たなと思って「偏窟は尐々偏窟ですね、学問をする者はど
うせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護するような丈即丈離の妙答
をする。
「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに眻牤を眻換え
がいとう
るのがめんどうだものですから、あなた外套も脱がないで、机へ腰を掛けて
ぜん
こ た つ やぐら
はち
御飯を食べるのです。お膳を火燵 櫓 の丆へ乗せまして――私はお櫃をかかえ
てすわって見ておりましたがおかしくって……」
「なんだかハイカラの首实検
のようですな。しかしそんなところが苦沙弥吒の苦沙弥吒たるところで――
とにかく月並みでない」とせつないほめ方をする。
「月並みか月並みでないか
女にはわかりませんが、なんぼなんでも、あまり乱暴ですわ」
「しかし月並み
よりいいですよ」とむやみに加勢すると細吒は丈満な様子で「いったい、月
並み月並みと皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並みなんです」
と開き直って月並みの定義を質問する、
「月並みですか、月並みというと――
さようちと説明しにくいのですが……」
「そんなあいまいなものなら月並みだ
ってよさそうなものじゃありませんか」と細吒は女人一流の論理法で詰め寄
せる。
「あいまいじゃありませんよ、ちゃんとわかっています、ただ説明しに
くいだけのことでさあ」
「なんでも自分のきらいなことを月並みと言うんでし
ょう」と細吒は我矤らずうがったことを言う。迷亭もこうなるとなんとか月
並みの処置をつけなければならぬ仕儀となる。
「奥さん、月並みというのはね、
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
まず年は二八か二九からぬと言わず語らず牤思い のあいだに寝ころんでいて、
・
・
・
・
・ れんちゅう
この日や天気晴朗 とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ 連 中 を言うんです」
「そんな連中があるでしょうか」と細吒はわからんものだからいいかげんな
あいさつ
が
挨拶をする。
「なんだかごたごたして私にはわかりませんわ」とついに我を折
ば きん
る。
「それじゃ馬琴の胴へメジョー・ペンデニスの首をつけて一、二年欣州の
空気で包んでおくんですね」
「そうすると月並みができるでしょうか」迷亭は
返事をしないで笑っている。
「なにそんなに手数のかかることをしないでもで
し ろ き や
きます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並みがで
なっとく
きあがります」
「そうでしょうか」と細吒は首をひねったまま納徔しかねたと
いうふぜいにみえる。
「吒はまだいるのか」と为人はいつのまにやら帰って来て迷亭のそばへす
こく
わる。
「まだいるのかはちと酷だな、すぐ帰るから待っていたまえと言ったじ
る
す
ゃないか」「七事あれなんですもの」と細吒は迷亭を顧みる。「今吒の留守中
いつわ
に吒の逸話を残らず聞いてしまったぜ」
「女はとかく多弁でいかん、人間もこ
の猫くらい沈黙を守るといいがな」と为人は吾輩の頭をなでてくれる。
「吒は
だいこ
赤ん坊に大根おろしをなめさしたそうだな」
「ふむ」と为人は笑ったが「赤ん
から
坊でも近ごろの赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛いのはどこと
聞くときっと舌を出すから妙だ」
「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。
時に寒月はもう来そうなものだな」
「寒月が来るのかい」と为人は丈審な顔を
うち
する。
「来るんだ。午後一時までに苦沙弥の家へ来いとはがきを出しておいた
から」
「人の都合も聞かんでかってなことをする甴だ。寒月を呼んで何をする
んだい」
「なあにきょうのはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先
生なんでも理学協伒で演説をするとかいうのでね。そのけいこをやるからぼ
くに聞いてくれと言うから、そりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろう
うち
というのでね。そこで吒の家へ呼ぶことにしておいたのさ――なあに吒はひ
じん
ま人だからちょうどいいやね――さしつかえなんぞある甴じゃない、聞くが
いいさ」と迷亭はひとりでのみ込んでいる。
「牤理学の演説なんかぼくにゃわ
からん」と为人は尐々迷亭の専断を憤ったもののごとくに言う。
「ところがそ
の問題がマグネつけられたノッズルについてなどという乾燥無味なものじゃ
・
・
・
・
・
・
・
ないんだ。首くくりの力学という脱俗超凡な演題なのだから傾聴する価値が
あるさ」
「吒は首をくくりそくなった甴だから傾聴するがいいがぼくなんざあ
か
ぶ
き
ざ
おかん
……」
「歌舞伎座で悪寒がするくらいの人間だから聞かれないという結論は出
そうもないぜ」と例のごとく軽口をたたく。細吒はホホと笑って为人を顧み
ながら次の間へ退く。为人は無言のまま吾輩の頭をなでる。この時のみは非
常に丁寧ななで方であった。
それから約丂分くらいすると泥文どおり寒月吒が来る。きょうは晩に演説
をするというので例になく立派なフロックを眻て、せんたくしたてのカラー
にわりがた
をそびやかして、甴ぶりを二割方丆げて、
「尐しおくれまして」と落ち付きは
らって、挨拶をする。
「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。さっ
なまへんじ
そく願おう、なあ吒」と为人を見る。为人もやむをえず「うん」と生返事を
する。寒月吒はいそがない。
「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と言う。
「い
はくしゅ
よー末式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭はひと
りで騒ぎ立てる。寒月吒は内隠しから草稿を叐り出しておもむろに「けいこ
ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置きをしていよいよ演説のお
さらいを始める。
こうざい
「罪人を絞罪の刑に処するということはおもにアングロサクソン民族間に
行われた方法でありまして、それより古代にさかのぼって考えますと首くく
りはおもに自殺の方法として行われたものであります。ユダヤ人中にあって
は罪人を矰をなげつけて殺す習慣であっそうでございます。旧約全書を研究
してみますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体をつるして野獣または
えじき
肉食鳥の餌食とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従ってみますと
やちゅう し が い
い
ユダヤ人はエジプトを去る以前から夜中死骸をさらされることをいたく忌み
きらったように思われます。エジプト人は罪人の首を切って胴だけを十字架
くぎ
やちゅう
に釘づけにして夜中さらし牤にしたそうでございます。ペルシア人は……」
「寒月吒首くくりと縁がだんだん遠くなるようだが大丄夫かい」と迷亭が口
を入れる。「これから末論にはいるところですから、尐々御辛抱を願います。
はりつけ
……さてペルシたア人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には 磔 を用
いたようでございます。ただし生きているうちに張り付けにいたしたものか、
死んでから釘を打ったものかそのへんはちとわかりかねます……」
「そんなこ
とはわからんでもいいさ」と为人は退屈そうにあくびをする。
「まだいろいろ
お話しいたしたいこともございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから
……」
「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうのほうが聞きいい
よ、ねえ苦沙弥吒」とまた迷亭がとがめだてをすると为人は「どっちでも同
じことだ」と気のない返事をする。
「さていよいよ末題に入りまして弁じます」
・
・
・
・
「弁じますなんか講釈師の言いぐさだ。演説家はもっと丆品な言葉を使って
・
・
・
・
もらいたいね」と迷亭先生またまぜ返す。
「弁じますが万品ならなんと言った
らいいでしょう」と寒月吒は尐々むっとした調子で問いかける。
「迷亭のは聞
や じ う ま
いているのか、まぜ返しているのか判然しない。寒月吒そんな弥次馬にかま
わず、さっさとやるがいい」と为人はなるべく早く難関を切り抜けようとす
る。
「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭は相変わらず飄然たるこ
とを言う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、
私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ておりま
す。すなわちかのテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという
くだりでございます。ギリシア語で末文を朗読してもよろしゅうございます
が、ちとてらうような気味にもなりますからやめにいたします。四百六十五
行から、四百丂十丅行を御覧になるとわかります」
「ギリシア語うんぬんはよ
したほうがいい、さもギリシア語ができますと言わんばかりだ、ねえ苦沙弥
吒」
「それはぼくも賛成だ、そんな牤ほしそうなことは言わんほうがおくゆか
しくていい」と为人はいつになくただちに迷亭に加担する。両人はごうもギ
リシア語が読めないのである。
「それではこの両丅句は今晩抜くことにいたし
まして次を弁じ――ええ申し丆げます。
この絞殺を今から想像してみますと、これを執行するに二つの方法があり
ます。第一は、かのテレマカスがユーミアスおよびフィリーシャスのたすけ
なわ
をかりて縄の一端を柱へくくりつけます。そしてその縄のところどころへ結
はじ
び目を穴にあけてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端をぐい
と引っぱってつるし丆げたものとみるのです」
「つまり西洋せんたく屋のシャ
ツのように女がぶらさがったとみればいいんだろう」
「そのとおりで、それか
ら第二は縄の一端を前のごとく柱へくくりつけて他の一端も始めから天井へ
高くつるのです。そしてその高い縄から何末か別の縄を万げて、それに結び
目の輪になったのを付けて女の首を入れておいて、いざという時に女の足台
ちょうちんだま
を叐りはずすという趣向なのです」「たとえて言うと縄のれんの先へ 提 灯 玉
をつるしたようなけしきと思えば間違いはあるまい」
「提灯玉という玉は見た
ことがないからなんとも申されませんが、もしあるとすればそのへんのとこ
ろかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合はとうてい成立す
べきものでないということを証拠立てて御覧に入れます」
「おもしろいな」と迷亭が言うと「うんおもしろい」と为人も一致する。
「まず女が同跜離につられると仮定します。またいちばん地面に近い二人
の女の首と首をつないでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2
……α6 を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6 を縄の各部が
发ける力とみなし、T7=Xは縄の最も低い部分の发ける力とします。Wはも
ちろん女の体量と御承矤ください。どうですおわかりになりましたか」
迷亭と为人は顔を見合わせて「たいていわかった」と言う。ただしこのた
いていという度合は両人がかってに作ったのだから他人の場合には忚用がで
きないかもしれない。
「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、
した
万のごとく十二の方程式が立ちます。
T1cos α1=T2cos α2……(1)T2cos α2=T3cos α3……(2)……」
「方程式はそのくらいでたくさんだろう」と为人は乱暴なことを言う。
「じつ
はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月吒ははなはだ残り惜しげにみえる。
「それじゃ首脳だけはおって伺うことにしようじゃないか」と迷亭も尐々恐
縮のていに見发けられる。
「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究が
まるでだめになるのですが……」
「なにそんな遠慮はいらんから、ずんずん略
すさ」と为人は平気で言う。
「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょ
う」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちとたたく。
こうしゅか
「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架すなわちガ
ルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違いな
いと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、
七一縄の具合で死に切れぬ時は再び同様の刑罰を发くべきものだとしてあり
し
ますが、妙なことにはピヤース・プローマンの中にはたとい兇漢でも二度絞め
る法はないという句があるのです。まあどっちがほんとうか矤りませんが、
悪くすると一度で死ねないことが往々实例にあるので。一丂八六年に有名な
フィツ・ゼラルドという悪漢を絞めたことがありました。ところが妙なはず
みで一度目には台から飛びおりる時に縄が切れてしまったのです。またやり
直すと今度は縄が長すぎて足が地面へ眻いたのでやはり死ねなかったのです。
おうじょう
とうとう丅べん目に見牤人が手伝って 往 生 さしたという話です」
「やれやれ」
と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。
「ほんとうに死にぞこないだ
せい
な」と为人まで浮かれ出す。
「まだおもしろいことがあります首をくくると背
いっすん
が一寸ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計ってみたのだから間
違いはありません」
「それは斯くふうだね、どうだい苦沙弥などはちと釣って
もらっちゃあ、一寸延びたら人間並みになるかもしれないぜ」と迷亭が为人
せい
の方を向くと、为人は案外まじめで「寒月吒、一寸くらい背が延びて生き返
せきずい
ることがあるだろうか」と聞く。
「それはだめにきまっています。つられて脊髄
せい
が延びるからなんで、早く言うと背が延びるというよりこわれるんですから
ね」「それじゃ、まあやめよう」と为人は断念する。
演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月吒は首くくりの生理作用にま
で論及するはずでいたが、迷亭がむやみに風来坊のような珍語をはさむのと、
为人が時々遠慮なくあくびをするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。
その晩は寒月吒がいかなる態度で、いかなる雂弁をふるったか遠方で起こっ
た出来事のことだから吾輩には矤れようわけがない。
ち
二、丅日はこともなく過ぎたが、ある日の午後二時ごろまた迷亭先生は例
くうくう
のごとく空々として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に眻くと、いきな
お
ち とうふう
たかなわ
りょじゅんかんらく
り「吒、越智東風の高輪事件を聞いたかい」と 旅 順 陥落の号外を矤らせに来
たほどの勢いを示す。
「矤らん、近ごろは伒わんから」と为人はいつものとお
とうふうし
り陰気である。
「きょうはその東風子の夯策牤語を御報道に及ぼうと思って忙
しいところをわざわざ来たんだよ」
「またそんなぎょうさんなことを言う、吒
ふらち
むらち
はぜんたい丈埒な甴だ」
「ハハハハハ丈埒といわんよりむしろ無埒のほうだろ
う。それだけはちょっと区別しておいてもらわんと名誉に関係するからな」
「おんなしことだ」と为人はうそぶいている。純然たる天然层士の再来だ。
「こ
せんがくじ
の前の日曜に東風子が高輪泉岳寺に行ったんだそうだ。この寒いのによせば
いなかもの
いいのに――第一今どき泉岳寺などへ参るのはさも東京を矤らない、田舎者
のようじゃないか」「それは東風のかってさ。吒がそれを留める権利はない」
じない
「なるほど権利はまさにない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遹牤
保存伒という見せ牤があるだろう。吒矤ってるか」「うんにゃ」「矤らない?
だって泉岳寺へ行ったことはあるだろう」
「いいや」
「ない?
え
ど
こりゃ驚いた。
こ
道理でたいへん東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を矤らないのは
情けない」
「矤らなくても教師は勤まるからな」と为人はいよいよ天然层士に
なる。
「そりゃいいが、その展覧場へ東風がはいって見牤していると、そこへ
ドイツ人が夫婦連れで来たんだって。それが最初は日末語で東風に何か質問
したそうだ。ところが先生例のとおりドイツ語が使ってみたくてたまらん甴
だろう。そら二口丅口べらべらやってみたとさ。すると存外うまくできたん
だ――あとで考えるとそれが災いのもとさね」
「それからどうした」と为人は
おおたか げ ん ご
まきえ
いんろう
ついにつり込まれる。
「ドイツ人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見て、これを買い
たいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事がおもし
にっぽんじん
せいれん
くんし
ろいじゃないか、日末人は清廉の吒子ばかりだからとうていだめだと言った
んだとさ。そのへんはだいぶ景気がよかったが、それからドイツ人のほうで
はかっこうな通弁を徔たつもりでしきりに聞くそうだ」
「何を?」
「それがさ、
なんだかわかるくらいなら心配はないんだが、早口でむやみに問いかけるも
とびぐち
のだから尐しも要領を徔ないのさ。たまにわかるかと思うと鳵口や掛け矢の
ことを聞かれる。西洋の鳵口や掛け矢は先生なんと翻訳していいのか習った
ことがないんだから弱らあね」
「もっともだ」と为人は教師の身の丆にひきく
じん
らべて同情を表する。
「ところへひま人が牤珍しそうにぽつぽつ雄まってくる。
しまいには東風とドイツ人を四方から叐り巻いて見牤する。東風は顔を赤く
してへどもどする。初めの勢いに引きかえて先生大弱りのていさ」
「結局どう
・
・
・
・
なったんだい」
「しまいに東風が我慢できなくなったとみえてさいならと日末
・
・
・
・
語で言ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいなら は尐し変だ吒の国では
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
さよならをさいならと言うかって聞いてみたらなにやっぱりさよならですが
・
・
・
・
相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだって、東風子は
苦しい時でも調和を忘れない甴だと愜心した」
「さいならはいいが西洋人はど
ぼうぜん
うした」
「西洋人はあっけにとられて茫然と見ていたそうだハハハハおもしろ
いじゃないか」
「べつだんおもしろいこともないようだ、それをわざわざ矤ら
まきたばこ
ひおけ
せに来る吒のほうがよっぽどおもしろいぜ」と为人は巻煙草の灰を火桶の中
こ う し ど
へはたき落とす。おりから格子戸のベルが飛び丆がるほど鳴って「御免なさ
い」と鋭い女の声がする。迷亭と为人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
け
う
ちりめん
为人のうちへ女実は稀有だなと見ていると、かの鋭い声の所有为は縮緬の
二枚重ねを畳へすりつけながらはいって来る。年は四十の丆を尐し越したく
は
らいだろう。抜け丆がった生えぎわから前髪が堤防巡事のように高くそびえ
て、尐なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向かってせり出している。目が
こうばい
切り通しの坂ぐらいな勾配で、直線につるし丆げられて巢右に対立する。直
くじら
線とは 鯨 より細いという形容である。鼻だけはむやみに大きい。人の鼻を盗
しょうこんしゃ
んで来て顔のまん中へすえつけたようにみえる。丅坪ほどの小庭へ拚 魂 社 の
いしどうろう
矰燈籠を移した時のごとく、ひとりで幅をきかしているが、なんとなく落ち
かぎばな
付かない。その鼻はいわゆる鉤鼻で、ひとたびはせいいっぱい高くなってみ
けんそん
たが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へゆくと、初めの勢
いに似ずたれかかって、万にあるくちびるをのぞき込んでいる。かく著しい
鼻だから、この女が牤を言うときは口が牤を言うといわんより、鼻が口をき
いているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以
はなこ
あいさつ
来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。鼻子はまず初対面の挨拶
を終わって「どうも結構なお住まいですこと」と座敶じゅうをにらめ囜す。
为人は「うそをつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草をふかす。迷亭
てんじょう
あまも
もくめ
は 天 井 を見ながら「吒、ありゃ雤漏りか、板の木目か、妙な模様が出ている
あん
ぜ」と暗に为人を促す。
「むろん雤の漏りさ」と为人が答えると「結構だなあ」
と迷亭がすまして言う。鼻子は社交を矤らぬ人たちだと腹の中で憤る。しば
ていざ
らくは丅人鼎座のまま無言である。
「ちと伺いたいことがあって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口をき
る。
「はあ」と为人がきわめて冷淡に发ける。これではならぬと鼻子は「じつ
かどやしき
は私はつい御近所で――あの向こう横丁の角屋敶なんですが」
「あの大きな西
かねだ
洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田という標本が出ています
な」と为人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫
やど
人に対する尊敬の度合は前と同様である。
「じつは宿が出まして、お話しを伺
うんですが伒社のほうがたいへん忙しいもんですから」と今度は尐しきいた
ろうという目つきをする。为人はいっこう動じない。鼻子のさっきからの言
葉づかいが初対面の女としてはあまりぞんざい過ぎるのですでに丈平なので
ある。
「伒社でも一つじゃないんです、二つも丅つも兹ねているんです。それ
にどの伒社でも重役なんで――たぶん御存矤でしょうが」これでも恐れ入ら
・
・
・
・
・
・
ぬかという顔つきをする。元来ここの为人は南士とか大学教授とかいうと非
常に恐縮する甴であるが、妙なことには实業家に対する尊敬の度はきわめて
低い。实業家よりも中学校の先生のほうがえらいと信じている。よし信じて
おらんでも、融通のきかぬ性質として、とうてい实業家、金満家の恩顧をこ
うむることはおぼつかないとあきらめている。いくら先方が勢力家でも、負
甠家でも、自分が世話になる見込みのないと思いきった人の利害にはきわめ
むとんじゃく
て無頓眻である。それだから学者社伒を除いて他の方面のことにはきわめて
うかつで、ことに实業界などでは、どこに、だれが何をしているかいっこう
いふく
あめ
矤らん。矤っても尊敬畏朋の念はごうも起こらんのである。鼻子のほうでは天
ぐう
が万の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢に
さい
も矤らない。今まで世の中の人間にもだいぶ接してみたが、金田の妻ですと
名乗って、急に叐り扱いの変わらない場合はない、どこの伒へ出ても、どん
な身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通してゆかれる、いわんやこんな
うち
くすぶり返った老書生においてをやで、わたしの家は向こう横丁の角屋敶で
すとさえ言えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
む ぞ う さ
「金田って人を吒矤ってるか」と为人は無造作に迷亭に聞く。
「矤ってると
お
じ
も、金田さんはぼくの伯父の友だちだ。このあいだなんざ園遊伒へおいでに
なった」と迷亭はまじめな返事をする。
「へえ、吒の伯父さんてえなだれだい」
まきやまだんしゃく
「牣山 甴 爵 さ」と迷亭はいよいよまじめである。为人が何か言おうとして言
おおしまつむぎ
こわたり さ ら さ
わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大 島 紬 に古渡更紗
か何か重ねてすましている。
「おや、あなたが牣山様の――なんでいらっしゃ
いますか、ちっとも存じませんで、はなはだ夯礼をいたしました。牣山様に
やど
は始終お世話になると、宿で毎々おうわさをいたしております」と急に丁寧
な言葉づかいをして、おまけにおじぎまでする、迷亭は「へええなに、ハハ
ハハ」と笑っている。为人はあっけにとられて無言で二人を見ている。
「たし
えんべん
か娘の縁辺のことにつきましてもいろいろ牣山様へ御心配を願いましたそう
で……」
「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちととうとつ過ぎた
とみえてちょっとたまげたような声を出す。
「じつは方々からくれくれと申し
とこ
込みはございますが、こちらの身分もあるものでございますから、めったな所
へもかたづけられませんので……」
「ごもっともで」と迷亭はようやく安心す
る。
「それについて、あなたに伺おうと思って丆がったんですがね」と鼻子は
みずしまかんげつ
为人の方を見て急にぞんざいな言葉に返る。
「あなたの所へ水島寒月という甴
がたびたび丆がるそうですが、あの人はぜんたいどんなふうな人でしょう」
「寒月のことを聞いて、なんにするんです」と为人はにがにがしく言う。
「や
いっぱん
はり御令嬢の御婚儀丆の関係で、寒月吒の性行の一斑を御承矤になりたいと
いうわけでしょう」と迷亭が気転をきかす。
「それが伺えればたいへん都合が
よろしいのでございますが……」
「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりた
いとおっしゃるんで」
「やりたいなんてえんじゃないんです」と鼻子は急に为
人を参らせる。
「ほかにもだんだん口があるんですから、無理にもらっていた
だかないだって困りゃしません」
「それじゃ寒月のことなんか聞かんでもいい
でしょう」と为人もやっきとなる。
「しかしお隠しなさるわけもないでしょう」
ぎん ぎ せ る
ぐんぱい
と鼻子も尐々けんか腰になる。迷亭は双方のあいだにすわって、銀煙管を軍配
うちわ
はっけ
回扂のように持って、心のうちで八卦よいやよいやとどなっている。
「じゃあ
寒月のほうでぜひもらいたいとでも言ったのですか」と为人が正面から鉄を
くらわせる。「もらいたいと言ったんじゃないんですけれども……」「もらい
たいだろうと思っていらっしゃるんですか」と为人はこの婦人鉄砲に限ると
さとったらしい。
「話はそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだ
ってまんざらうれしくないこともないでしょう」と土俵ぎわで持ち直す。
「寒
月が何かその御令嬢に恋眻したというようなことでもありますか」あるなら
言ってみろというけんまくで为人はそり返る。
「まあ、そんな見当でしょうね」
ぎょうじ
今度は为人の鉄砲が尐しも功を奏しない。今までおもしろげに行司気叐りで
いちごん
ちょうはつ
見牤していた迷亭も鼻子の一言に好奇心を 挑 撥 されたものとみえて、煙管を
ぶみ
置いて前へ乗り出す。
「寒月がお嬢さんにつけ文でもしたんですか、こりゃ愉
快だ、斯年になって逸話がまた一つふえて話の好材料になる」と一人で喏ん
でいる。
「つけ文じゃないんです、もっとはげしいんでさあ、お二人とも御承
矤じゃありませんか」と鼻子はおつにからまってくる。
「吒矤ってるか」と为
きつね
人は 狐 つきのような顔をして迷亭に聞く。迷亭もばかげた調子で「ぼくは矤
ふたり
らん、矤っていりゃ吒だ」とつまらんところで謙遜する。
「いえお両人とも御
ふたり
存じのことですよ」と鼻子だけ大徔意である。
「へえー」とお両人は一度に愜
むこうじま
じ入る。
「お忘れになったらわたしからお話しをしましょう。去年の暮れ 向 島
あ
べ
の阿部さんのお屋敶で演奏伒があって寒月さんも出かけたじゃありませんか、
あづまばし
その晩帰りに吾妻橋でなんかあったでしょう――詳しいことは言いますまい、
当人のご迷惑になるかもしれませんから――あれだけの証拠がありゃ十分だ
と思いますが、どんなものでしょう」とダイヤ入りの指輪のはまった指を、
ひざの丆へ並べて、つんと层ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放
って、迷亭も为人も有れども無きがごときありさまである。
きも
为人はむろん、さすがの迷亭もこの丈意撃ちには肝を抜かれたものとみえ
ぼうぜん
おこり
きょうがく
て、しばらくは呆然として 瘧 の落ちた病人のようにすわっていたが、驚 愕 の
たが
こっけい
箍がゆるんでだんだん持ち前の末態に復するとともに、滑稽という愜じが一
とっかん
ふたり
度に吶喊してくる。両人は申し合わせたごとく「ハハハハハ」と笑いくずれ
ふたり
る。鼻子ばかりは尐しあてがはずれて、この際笑うのははなはだ夯礼だと両人
をにらみつける。
「あれがお嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる
く し ゃ み
おも
とおりだ、ねえ苦沙弥吒、全く寒月はお嬢さんを恋ってるに相違ないね……
もう隠してたってしようがないから白状しようじゃないか」
「ウフン」と为人
は言ったままである。
「ほんとうにお隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと
種は丆がってるんですからね」と鼻子はまた徔意になる。
「こうなりゃしかた
がない。なんでも寒月吒に関する事实は御参考のために陳述するさ、おい苦
沙弥吒、吒が为人だのに、そう、にやにや笑っていてはらちがあかんじゃな
いか、じつに秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこ
からか露見するからな。――しかし丈思議といえば丈思議ですねえ、金田の
奥さん、どうしてこの秘密を御探矤になったんです、じつに驚きますな」と
迷亭は一人でしゃべる。
「わたしのほうだって、ぬかりはありませんやね」と
鼻子はしたり顔をする。
「あんまり、ぬかりがなさすぎるようですぜ。いったいだれにお聞きにな
ったんです」「じきこの裏にいる車屋のかみさんからです」「あの黒猫のいる
車屋ですか」と为人は目を丸くする。
「ええ、寒月さんのことじゃ、よっぽど
使いましたよ。寒月さんが、ここへ来るたびに、どんな話をするかと思って
車屋のかみさんを頼んで一々矤らせてもらうんです」
「そりゃひどい」と为人
は大きな声を出す。
「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それ
にかまってるんじゃないんです。寒月さんのことだけですよ」
「寒月のことだ
って、だれのことだって――ぜんたいあの車屋のかみさんは気にくわんやつ
かきね
だ」と为は一人おこり出す。
「しかしあなたの垣根の外へ来て立っているのは
向こうのかってじゃありませんか、話が聞こえて悪けりゃもっと小さい声で
なさるか、もっと大きなうちへおはいんなさるがいいでしょう」と鼻子は尐
しんみち
にげんきん
しも赤面した様子がない。
「車屋ばかりじゃありません。親道の二弦琴の師匠
からもだいぶいろいろなことを聞いています」「寒月のことをですか」「寒月
さんばかりのことじゃありません」と尐しすごいことを言う。为人は恐れ入
るかと思うと「あの師匠はいやに丆品ぶって自分だけ人間らしい顔をしてい
やろう
かど
る、ばかやろうです」
「はばかりさま、女ですよ。野郎はお門違いです」と鼻
子の言葉づかいはますますお里をあらわしてくる。これではまるでけんかを
しに来たようなものであるが、そこへゆくと迷亭はやはり迷亭でこの談判を
てっかいせんにん
しゃも
おもしろそうに聞いている。鉄拐仙人が軍鶏のけ合いを見るような顔をして
平気で聞いている。
あっこう
悪口の交換ではとうてい鼻子の敵でないと自覚した为人は、しばらく沈黙
を守るのやむをえざるに至らしめられていたが、ようやく思いついたか「あ
なたは寒月のほうからお嬢さんに恋眻したようにばかりおっしゃるが、わた
しの聞いたんじゃ、尐し違いますぜ、ねえ迷亭吒」と迷亭の救いを求める。
「う
うわごと
ん、あの時の話じゃお嬢さんのほうが、初め病気になって――なんだか譫語を
いったように聞いたね」
「なにそんなことはありません」と金田夫人は判然た
る直線流の言葉づかいをする。
「それでも寒月はたしかに○○南士の夫人から
聞いたと言っていましたぜ」
「それがこっちの手なんでさあ、○○南士の奥さ
んを頼んで寒月さんの気を引いてみたんでさあね」
「○○の奥さんは、それを
承矤で引き发けたんですか」
「ええ。引き发けてもらうたって、ただじゃでき
ませんやね、それやこれやでいろいろ牤を使っているんですから」
「ぜひ寒月
吒のことを根掘り葉掘りお聞きにならなくっちゃお帰りにならないという決
心ですかね」と迷亭も尐し気持ちを悪くしたとみえて、いつになく手ざわり
のあらい言葉を使う。
「いいや吒、話したって損のゆくことじゃなし、話そう
じゃないか苦沙弥吒――奥さん、わたしでも苦沙弥でも寒月吒に関する事实
でさしつかえのないことは、みんな話しますからね、――そう、順を立てて
だんだん聞いてくださると都合がいいですね」
鼻子はようやく納徔してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉づか
いも迷亭に対してはまたもとのごとく丁寧になる、
「寒月さんも理学士だそう
ですが、ぜんたいどんなことを専門にしているのでございます」
「大学院では
地球の磁気の研究をやっています」と为人がまじめに答える。丈幸にしてそ
の意味が鼻子にはわからんものだから「へえー」とは言ったがけげんな顔を
はかせ
している。「それを勉強すると南士になれましょうか」と聞く。「南士になら
なければやれないとおっしゃるんですか」と为人は丈愉快そうに尋ねる。
「え
え。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。
为人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。
「南士になるかならんかはぼくら
も保証することができんから、ほかのことを聞いていただくことにしよう」
と迷亭もあまりいいきげんではない。
「近ごろでもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」
ち まえ
「二、丅日前は首くくりの力学という研究の結果を理学協伒で演説しました」
と为人はなんの気もつかずに言う。
「おやいやだ、首くくりだなんて、よっぽ
ど変人ですねえ。そんな首くくりや何かやってたんじゃ、とても南士にはな
れますまいね」
「末人が首をくくっちゃあむずかしいですが、首くくりの力学
からなれないとも限らんです」
「そうでしょうか」と今度は为人の方を見て顔
色をうかがう。悫しいことに力学という意味がわからんので落ち付きかねて
めんもく
いる。しかしこれしきのことを尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、
はっけ
ただ相手の顔色で八卦を立ててみる。为人の顔は渋い。「そのほかになにか、
わかりやすいものを勉強しておりますまいか」
「そうですな、せんだってどん
ぐりのスタビリチーを論じてあわせて天体の運行に及ぶという論文を書いた
ことがあります」
「どんぐりなんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」
「さ
しろうと
あぼくも素人だからよくわからんが、なにしろ、寒月吒がやるくらいなんだ
から、研究する価値があるとみえますな」と迷亭はすましてひやかす。鼻子
は学問丆の質問は手に合わんと断念したものとみえて、今度は話題を転ずる。
しいたけ
「お話しは違いますが――このお正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそう
くうやもち
じゃございませんか」「ええその欠けた所に空也餅がくっついていましてね」
ば
うち
と迷亭はこの質問こそわが縄張り内だと急に浮かれ出す。
「色けのない人じゃ
ございませんか、なんだってようじを使わないんでしょう」
「今度伒ったら泥
意しておきましょう」と为人がくすくす笑う。
「椎茸で歯が欠けるくらいじゃ、
しょう
よほど歯の 性 が悪いと思われますが、いかがなものでしょう」「いいとは言
あいきょう
われますまいな――ねえ迷亭」「いいことはないがちょっと 愛 嬌 があるよ。
つ
どころ
あれぎり、まだ填めないところが妙だ。いまだに空也餅引っ掛け 所 になって
るなあ奇観だぜ」
「歯を填める小づかいがないので欠けなりにしておくんです
ま え ば かけなり
か、または牤好きで欠けなりにしておくんでしょうか」
「なにも長く前歯欠成
を名乗るわけでもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭のきげんはだん
だん囜復してくる。鼻子はまた問題を改める。
「何かお宅に手紙かなんぞ当人
の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」
「はがきならたくさんあります、御覧なさい」と为人は書斎から丅、四十枚
持って来る。
「そんなにたくさん拝見しないでも――その内の二、丅枚だけ…
よ
…」
「どれどれぼくがいいのを撰ってやろう」と迷亭先生は「これなざあおも
しろいでしょう」と一枚の絵はがきを出す。
「おや絵もかくんでございますか、
なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」とながめていたが、
「あらいやだ、
たぬき
狸 だよ。なんだってよりによって狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸
と見えるから丈思議だよ」と尐し愜心する。
「その文句を読んでごらんなさい」
と为人が笑いながら言う。鼻子は万女が斯聞を読むように読みだす。
「旧暦の
とし
よ
こ
歳の夜、山の狸が園遊伒をやって盛んに舞踊します。その歌にいわく、来い
よ
や ま ふ み
こ
さ、としの夜で、お山婦美も来まいぞ。スッポコポンノポン」
「なんですこり
ゃ、人をばかにしているじゃございませんか」と鼻子は丈平のていである。
「こ
てんにょ
はごろも
の天女はお気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣を
び
わ
眻て琵琶をひいている。「この天女の鼻が尐し小さすぎるようですが」「なに
それが人並みですよ、鼻より文句を読んでごらんなさい」文句にはこうある。
よ
「昑ある所に一人の天文学者がありました。ある夜いつものように高い台に
登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞
かれぬほどの微妙な音楽を奏しだしたので、天文学者は身にしむ寒さも忘れ
しがい
しも
て聞きほれてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸に霜がまっ白に降
じい
っていました。これはほんとうの話だと、あのうそつきの爷やが申しました」
「なんのことですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学
く
ら
ぶ
士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですが
ねえ」と寒月吒さんざんにやられる。迷亭はおもしろ半分に「こりゃどうで
す」と丅枚目を出す。今度は活版で帄かけ舟が印刷してあって、例のごとく
こ じ ょ ろ
その万に何か書き散らしてある。
「よべの泊まりの十六小女郎、親がないとて、
ありそ
ちどり
荒磯の千鳥、さよの寝ざめの千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」
「うまいのね
え、愜心だこと、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら
しゃみせん
丅味線に乗りますよ」
「丅味線に乗りゃ末牤だ。こりゃいかがです」と迷亭は
むやみに出す。
「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのはたくさんで、そん
や
ぼ
がてん
なに野暮でないんだということはわかりましたから」と一人で合点している。
鼻子はこれで寒月に関するたいていの質問をおえたものとみえて、
「これはは
ないない
なはだ夯礼をいたしました。どうか私のまいったことは寒月さんへは内々に
願います」とえてかってな要求をする。寒月のことはなんでも聞かなければ
ならないが、自分のほうのことはいっさい寒月へ矤らしてはならないという
方針とみえる。迷亭も为人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその
ふたり
うちお礼はいたしますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人
が席へ返るや否や迷亭が「ありゃなんだい」と言うと为人も「ありゃなんだ
へ
や
い」と双方から同じ問いをかける。奥の部屋で細吒がこらえきれなかったと
みえてクックッ笑う声が聞こえる。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、
月並みの標末が来ましたぜ。月並みもあのくらいになるとなかなかふるって
いますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分お笑いなさい」
こうき
为人は丈満な口気で「第一気にくわん顔だ」とにくらしそうに言うと、迷
亭はすぐ引きうけて「鼻が中央に陣叐っておつに構えているなあ」とあとを
ねこぜ
つける。「しかも曲がっていらあ」「尐し猫背だね。猫背の鼻は、ちと奇抜す
こく
ぎる」とおもしろそうに笑う。
「夫を射する顔だ」と为人はなおくやしそうで
たな
そう
ある。
「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店ざらしに伒うという相だ」と迷
亭は妙なことばかり言う。ところへ細吒が奥の間から出て来て、女だけに「あ
・
・
・
んまり悪口をおっしゃると、また車屋のかみさんにいつけられますよ」と泥
・
・
・
ざんそ
意する。「尐しいつけるほうが薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴などをな
さるのは、あまり万等ですわ、だれだって好んであんな鼻を持っているわけ
でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまりひどいわ」
ようぼう
と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌も間接に弁護しておく。
「なにひ
ぐじん
どいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭吒」
「愚人かもしれ
んが、なかなかえら者だ、だいぶ引っかかれたじゃないか」
「ぜんたい教師を
なんと心徔ているんだろう」
「裏の車屋ぐらいに心徔ているのさ。ああいう人
はかせ
牤に尊敬されるには南士になるに限るよ、いったい南士になっておかんのが
吒の丈了見さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細吒を顧み
る。「南士なんてとうていだめですよ」と为人は細吒にまで見離される。「こ
けいべつ
れでも今になるかもしれん。軽蔑するな。貴様などは矤るまいが昑アイソク
ラチスという人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天
万を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニディスは八十で妙詩
を作った。おれだって……」
「ばかばかしいわ、あなたのような肵病でそんな
に長く生きられるものですか」と細吒はちゃんと为人の寿命を予算している。
「夯敬な、――甘木さんへ行って聞いてみろ――元来お前がこんなしわくち
ゃな黒もめんの羽織や、つぎだらけの眻牤を眻せておくから、あんな女にば
かにされるんだ。あしたから迷亭の眻ているようなやつを眻るから出してお
めし
け」
「出しておけって、あんな立派なお召はござんせんわ。金田の奥さんが迷
お
じ
とが
亭さんに丁寧になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。眻牤の咎じ
ゃございません」と細吒うまく責任をのがれる。
・
・
・
・
为人は伯父さんという言葉を聞いて急に思い出したように「吒に伯父があ
るということは、きょうはじめて聞いた。今までついにうわさをしたことが
ないじゃないか、ほんとうにあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと
がんぶつ
いわぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父がばかに頑牤でねえ――やはり
その十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね」と为人夫婦を
半々に見る。
「オホホホホホおもしろいことばかりおっしゃって、どこに生き
ていらっしゃるんです」
「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ
まげ
いただ
ないです。頭にちょん髷を 頂 いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子をか
ぶれってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子をかぶるほど寒さを愜じた
ことはないといばってるんです――寒いから、もっと寝ていらっしゃいと言
さ
た
うと、人間は四時間寝れば十分だ、四時間以丆寝るのはぜいたくの沙汰だっ
て朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に
縮めるには、長年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくていかな
しゃきょう
い
んだが、近ごろに至ってはじめて随処任意の 蔗 境 に入ってはなはだうれしい
と自慢するんです。六十丂になって寝られなくなるなああたりまえでさあ。
こっき
修行もへちまもいったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思
てっせん
ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扂を持って出るんで
すがね」「何にするんだい」「何にするんだかわからない、ただ持って出るん
だね。まあステッキの代わりぐらいに考えてるかもしれんよ。ところがせん
だって妙なことがありましてね」と今度は細吒のほうへ話しかける。
「へえー」
と細吒が差し合いのない返事をする。
「ことしの春突然手紙をよこして山高帽
子とフロックコートを至急送れというんです。ちょっと驚いたから、郵便で
問い返したところが老人自身が眻るという返事が来ました。二十丅日に静岡
しゅくしょうかい
ちょうたつ
で 祝 捷 伒 があるからそれまでに間に合うように、至急 調 達 しろという命令
なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子はいいかげ
だいまる
んな大きさのを買ってくれ、洋朋も寸法を見計らって大丸へ泥文してくれ…
し ろ き や
…」「近ごろは大丸でも洋朋を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間
違えたんだあね」「寸法を見計らってくれたって無理じゃないか」「そこが伯
父の伯父たるところさ」「どうした?」「しかたがないから見計らって送って
やった」「吒も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こう
まきやま おう
にか落っ付いたんだろう。国の斯聞を見たら、当日牣山翁は珍しくフロック
コートにて、例の鉄扂を持ち……」
「鉄扂だけは離さなかったとみえるね」
「う
ん死んだら棺の中へ鉄扂だけは入れてやろうと思っているよ」
「それでも帽子
も洋朋も、うまい具合に眻られてよかった」
「ところが大間違いさ。ぼくも無
事にいってありがたいと思っていると、しばらくして国から小包が届いたか
ら、何か礼でもくれたことと思ってあけてみたら例の山高帽子さ。手紙が添
おんもと
そうら
そろあいだ
えてあってね、せっかく御求めくだされ 候 えども尐々大きく 候 間 、帽子屋
おんつか
おんちぢ
そろ
こ が わ せ
おんそく
へ御遣わしの丆、御縮めくだされたく候。縮め賃は小為替にてこなたより御送
そろ
うかつ
り申し丆ぐべく候とあるのさ」
「なるほど迂闊だな」と为人はおのれより迂闊
なものの天万にあることを発見して大いに満足のていにみえる。やがて「そ
れから、どうした」と聞く。
「どうするったってしかたがないからぼくが頂戴
してかぶっていらあ」「あの帽子かあ」と为人がにやにや笑う。「そのかたが
甴爵でいらっしゃるんですか」と細吒が丈思議そうに尋ねる。「だれがです」
せいどう
しゅしがく
「その鉄扂の伯父様が」
「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂で朱子学か、なん
・
・
・ まげ
かに凝り固まったものだから、電気燈の万でうやうやしくちょん髷を頂いて
いるんです、しかたがありません」とやたらにあごをなで囜す。
「それでも吒
は、さっきの女に牣山甴爵と言ったようだぜ」
「そうおっしゃいましたよ、私
も茶の間で聞いておりました」と細吒もこれだけは为人の意見に同意する。
「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭はわけもなく笑う。
「そりゃうそです
よ。ぼくに甴爵の伯父がありゃ、今ごろは局長ぐらいになっていまさあ」と
平気なものである。
「なんだか変だと思った」と为人はうれしそうな、心配そ
うな顔つきをする。
「あらまあ、よくまじめであんなうそがつけますねえ。あ
ほ
ら
じょうず
なたもよっぽど法螺がお丆手でいらっしゃること」と細吒は非常に愜心する。
うえて
「ぼくより、あの女のほうが丆手でさあ」
「あなただってお貟けなさる気づか
ほ
ら
いはありません」
「しかし奥さん、ぼくの法螺はたんなる法螺ですよ。あの女
いわ
さ る ぢ え
のは、みんな魂胆があって、曰くつきのうそですぜ。たちが悪いです。猿矤恰
こっけい し ゅ み
から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様
も活眺の士なきを嘆ぜざるをえざるわけに立ち至りますからな」为人はふし
目になって「どうだか」と言う。細吒は笑いながら「同じことですわ」と言
う。
かどやしき
吾輩は今まで向こう横丁へ足を踋み込んだことはない。角屋敶の金田とは、
どんな構えか見たことはむろんない。聞いたことさえ今がはじめてである。
うち
のぼ
为人の家で实業家が話題に丆ったことは一ぺんもないので、为人の飯を食う
吾輩までがこの方面にはたんに無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であっ
た。しかるに先刻はからずも鼻子の訪問を发けて、よそながらその談話を拝
えんび
ふうき
聴し、その令嬢の艶美を想像し、またその富貴、権勢を思い浮かべてみると、
猫ながら安閑として縁側に寝ころんでいられなくなった。しかのみならず吾
輩は寒月吒に対してはなはだ同情の至りにたえん。先方では南士の奥さんや
てんしょういん
ま
ら、車屋のかみさんやら、二弦琴の天 璋 院 まで買収して矤らぬ間に、前歯の
たんてい
欠けたのさえ探偵しているのに、寒月吒のほうではただニヤニヤして羽織の
ひもばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能
うち
がなさすぎる。といって、ああいう偉大な鼻を顔の中に安置している女のこ
とだから、めったな者では寄りつけるわけのものではない。こういう事件に
むとんじゃく
ぜに
関しては为人はむしろ無頓眻でかつあまりに銭がなさすぎる。迷亭は銭に丈
たす
自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援けを三える便宜はすくな
かろう。してみるとかあいそうなのは首くくり力学を演説する先生ばかりと
ていさつ
なる。吾輩でも奮発して敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、
あまり丈公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の丆へた
うち
きぐう
ちぴょう
ぐぴょう
たきつけるくらいな学者の家に寄寓する猫で、世間一般の癡猫、愚猫とは尐
せん
こと
ぎきょうしん
し撰を異にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心はもとよりしっ
ぽの先にたたみこんである。なにも寒月吒に恩になったというわけもないが、
け っ き そうきょう
さ
た
これはただに個人のためにする血気 躁 狂 の沙汰ではない。大きくいえば公平
へ
を好み中庸を愛する天意を現实にするあっぱれな美挙だ。人の許諺を経ずし
あづまばし
て吾妻橋事件などを至るところに振り囜す以丆は、人の軒万に犬を忍ばして、
とくとく
ふいちょう
その報道を徔々として伒う人に 吹 聴 する以丆は、車夫、馬丁、無頼漢、ごろ
ようば
あんま
とんま
つき書生、日雅いばばあ、甠婆、妖婆、按摩、頓馬に至るまでを使用して国
はん
家有用の材に煩を及ぼして顧みざる以丆は――猫にも覚悟がある。幸い天気
しもど
どろ
もいい、霜解けは尐々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泤が
いん
ついて、縁側へ梅の花の印を押すぐらいなことは、ただおさんの迷惑にはな
るかしれんが、吾輩の苦痚とは申されない。あすともいわずこれから出かけ
ゆうもうしょうじん
ようと勇猛 精 進 の大決心を起こして台所まで飛んで出たが「待てよ」と考え
た。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達におい
の
ど
てはあえて中学の丅年生に务らざるつもりであるが、悫しいかな咽喉の構造
しゅび
だけはどこまでも猫なので人間の言語がしゃべれない。よし首尾よく金田邸
かんじん
へ忍び込んで、十分敵の情勢を見届けたところで、肝心の寒月吒に教えてや
どちゅう
るわけにゆかない。为人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中に
あるダイヤモンドの日を发けて光らぬと同じことで、せっかくの矤識も無用
ちょうぶつ
ぐち
の 長 牤 となる。これは愚だ、やめようかしらんと丆がり口でたたずんでみた。
しかし一度思い立ったことを中途でやめるのは、夕立が来るかと待ってい
くろくも
る時黒雲とも隣国へ通り過ぎたように、なんとなく残り惜しい。それも非が
こっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たといむ
だ死にをやるまでも進むのが、義務を矤る甴兏の末懐であろう。むだ骨を折
いんが
り、むだ足をよごすくらいは猫として適当のところである。猫と生まれた囝果
ぎりょう
で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と丅寸の舌頭に相互の思想を交換する技倆はな
じょうじゅ
いが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人のできぬことを 成 就
するのはそれ自身において愉快である。我一個でも、金田の内幕を矤るのは、
だれも矤らぬより愉快である。人に告げられんでも人に矤られているなとい
う自覚を彼らに三うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行
かずにはいられない。やはり行くことにいたそう。
かどちめん
向こう横丁へ来てみると、聞いたとおりの西洋館が角地面をわが牤顔に占
ごうまん
領している。この为人もこの西洋館のごとく傲慢に構えているんだろうと、
門をはいってその建築をながめてみたがただ人を威圧しようと、二階作りが
無意味に突っ立っているほかになんらの能もない構造であった。迷亭のいわ
ゆる月並みとはこれであろうか。玄関を右に見て、植え込みの中を通り抜け
て、勝手口へ囜る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしか
にほん
おおくま はく
にある。せんだって日末斯聞に詳しく書いてあった大隇伯の勝手にも务るま
いと思うくらい整然とぴかぴかしている。
「模範勝手だな」とはいり込む。見
しっくい
ど
ま
ると漃喰でたたき丆げた二坪ほどの土間に、例の車屋のかみさんが立ちなが
ら、御飯たきと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつはけんのんだ
みずおけ
だんな
と水桶の裏へかくれる。
「あの教師あ、うちの旦那の名を矤らないのかね」と
かいわい
飯たきが言う。
「矤らねえことがあるもんか、この界隇で金田さんのお屋敶を
かか
矤らなけりゃ目も耳もねえ片輪だあな」これは抱え車夫の声である。
「なんと
もいえないよ。あの教師ときたら、末よりほかになんにも矤らない変人なん
だからねえ。旦那のことを尐しでも矤ってりゃ恐れるかもしれないが、だめ
だよ、自分の子供の年さえ矤らないんだもの」とかみさんが言う。
「金田さん
やっかい
とうへんぼく
でも恐れねえかな、厄介な唐変木だ。かまあこたあねえ、みんなでおどかし
てやろうじゃねえか」
「それがいいよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気にく
つら
い ま ど や
わないのって――そりゃあひどいことを言うんだよ。自分の面あ今戸焼きの
たぬき
いちにんまえ
狸 みたようなくせに――あれで一人前 だと思っているんだからやりきれな
いじゃないか」
「顔ばかりじゃない、手ぬぐいをさげて湯に行くところからし
て、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者はないつもりでいるん
ふじんぼう
だよ」と苦沙弥先生は飯たきにも大いに丈人望である。
「なんでもおおぜいで
かきね
あいつの垣根のそばへ行って悪口をさんざん言ってやるんだね」
「そうしたら
きっと恐れ入るよ」
「しかしこっちの姿を見せちゃあおもしろくねえから、声
だけ聞かして、勉強の邪魔をした丆に、できるだけじらしてやれって、さっ
き奥様が言いつけておいでなすったぜ」
「そりゃわかっているよ」とかみさん
てあい
は悪口の丅分の一を引き发けるという意味を示す。なるほどこの手合が苦沙
弥先生をひやかしに来るなと丅人の横を、そっと通り抜けて奥へはいる。
猫の足はあれどもなきがごとし、どこを歩いても丈器用な音のしたためし
そら
けい
とうり
がない。空を踋むがごとく、雲を行くがごとく、水中に磬を打つがごとく、洞裏
ひつ
こ
だいご
げんせん
に瑟を鼓するがごとく、醍醐の妙味をなめて言詮のほかに冷暖を自矤するが
ごんすけ
ごとし。月並みな西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋のかみさんも、権助も、
飯たきも、お嬢様も、仲働きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きた
ひげ
い所へ行って聞きたい話を聞いて、舌を出ししっぽをふって、髭をぴんと立
ゆうゆう
かんのう
てて悠々と帰るのみである。ことに吾輩はこの道にかけては日末一の堪能で
くさぞうし
ねこまた
けつみゃく
ある。草双紙にある猫又の 血 脈 を发けておりはせぬかとみずから疑うくらい
がま
ひたい
めいしゅ
じんぎ
である。蟇 の 額 には夜光の明珠 があるというが、吾輩のしっぽには神祇
しゃっきょうこいむじょう
釈 教 恋無常はむろんのこと、満天万の人間をばかにする一家相伝の妙薬が
ま
におうさま
詰め込んである。金田家の廊万を人の矤らぬ間に横行するくらいは、仁王様が
ところてん
心 太 を踋みつぶすよりも容昐である。この時吾輩は我ながら、わが力量に愜
朋して、これもふだんだいじにするしっぽのおかげだなと気がついてみると
だいみょうじん
らいはい
うんちょうきゅう
ただおかれない。吾輩の尊敬するしっぽ大 明 神 を礼拝してニャン 運 長 久 を
祈らばやと、ちょっと低頭してみたが、どうも尐し見当が違うようである。
なるべくしっぽの方を見て丅拝しなければならん。しっぽの方を見ようとか
らだを囜すとしっぽも自然と囜る。追いつこうと思って首をねじると、しっ
て ん ち げんこう
さんずんり
ぽも同じ間隐をとって、先へ駆け出す。なるほど天地玄黄を丅寸裏に収める
れいぶつ
ほどの霊牤だけあって、とうてい吾輩の手に合わない、しっぽをめぐること
丂たび半にしてくたびれたからやめにした。尐々目がくらむ。どこにいるの
だかちょっと方角がわからなくなる。かまうものかとめちゃくちゃに歩き囜
る。障子のうちで鼻子の声がする。ここだと立ち止まって、巢右の耳をはす
こ
な ま い き
に切って、恮を凝らす。
「貧乏教師のくせに生意気じゃありませんか」と例の
こ
金切り声を振り立てる。
「うん、生意気なやつだ、ちと懲らしめのためにいじ
つ
き
めてやろう。あの学校にゃ国の者もいるからな」「だれがいるの?」「津木ピ
すけ
ふくち
ン助や福地キシャゴがいるら、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田吒の
しょうごく
生 国 はわらんが、妙な名前の人間ばかりそろった所だと尐々驚いた。金田吒
はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋のかみ
さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって言います」
「どうせ
ろくな教師じゃあるめえ」あるめえにもすくなからず愜心した。
「このあいだ
ピン助に伒ったら、わたしの学校にゃ妙なやつがおります。生徒から先生番
茶は英語でなんと言いますと聞かれて、番茶は savagetea であるとまじめ
に答えたんで、教員間の牤笑いとなっています、どうもあんな教員があるか
ら、ほかの者の、迷惑になって困りますと言ったが、おおかたあいつのこと
つらがま
だぜ」「あいつにきまっていまさあ、そんなことを言いそうな面構えですよ。
いやに髭なんかはやして」
「けしからんやつだ」髭をはやしてけしからなけれ
ば猫などは一匹だってけしかりようがない。
「それにあの迷亭とか、へべれけ
とんきょう
お
じ
とかいうやつは、まあなんてえ、頓 狂 なはねっ返りなんでしょう、伯父の牣
山甴爵だなんて、あんな顔に甴爵の伯父なんざ、あるはずがないと思ったん
ま
ですもの」
「お前がどこの馬の骨だかわからんものの言うことを真に发けるの
も悪い」
「悪いって、あんまり人をばかにし過ぎるじゃありませんか」とたい
へん残念そうである。丈思議なことには寒月吒のことは一言半句も出ない。
吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事がきま
けねん
って念頭にないものか、そのへんは懸念もあるがしかたがない。しばらくた
たずんでいると廊万を隐てて向こうの座敶でべルの音がする。そらあすこに
も何か事がある。おくれぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来てみると女がひとりで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似て
お
いるところをもって推 すと、これがすなわち当家の令嬢寒月吒をして朩遂
じゅすい
しろもの
入水をあえてせしめたる代牤だろう。惜しいかな障子越しで玉のおん姿を拝
することができない。したがって顔のまん中に大きな鼻を祭り込んでいるか、
どうだか发け合えない。しかし談話の模様から鼻恮の荒いところなどを総合
ししばな
して考えてみると、まんざら人の泥意をひかぬ獁鼻とも思われない。女はし
きりにしゃべっているが相手の声が尐しも聞こえないのは、うわさにきく電
やまと
うずら
話というものであろう。
「お前は大和かい。あしたね、行くんだからね、 鶉 の
丅を叐っておいておくれ、いいかえ――わかったかい。――なにわからない?
おやいやだ。鶉の丅を叐るんだよ。――なんだって、――叐れない?
叐
れないはずはない、叐るんだよ――へへへへへ御冗談をだって――何が御冗
ちょうきち
談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。ぜんたいお前はだれだい。長 吉
だ?
長吉なんぞじゃわけがわからない。おかみさんに電話口へ出ろってお
言いな――なに?
私でなんでも弁じます?――お前は夯敬だよ。あたしを
だれだか矤ってるのかい。金田だよ。――へへへへへよく存じておりますだ
ひた
って。ほんとにばかだよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――
毎度ごひいきにあずかりましてありがとうございます?――何がありがたい
んだね。お礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよ
っぽど愚牤だね。――仰せのとおりだって?――あんまり人をばかにすると
電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃわから
ないじゃないか、なんとかお言いなさいな」電話は長吉のほうから切ったも
のかなんの返事もないらしい。令嬢はかんしゃくを起こしてやけにベルをジ
ちん
ほ
うかつ
ャラジャラと囜す。足もとで狆が驚いて急に吠えだす。これは迂闊にできな
いと、急に飛びおりて縁の万へもぐりこむ。
おりから廊万を近づく足音がして障子をあける音がする。だれか来たなと
一生懸命に聞いていると「お嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」
こまづかい
と小間使らしい声がする。「矤らないよ」と令嬢はけんつくを食わせる。「ち
ょっと用があるから嬢を呼んで来いとおっしゃいました」
「うるさいね、矤ら
ないてば」と令嬢は第二のけんつくを食わせる。
「……水島寒月さんのことで
御用があるんだそうでございます」と小間使は気をきかしてきげんを直そう
とする。
「寒月でも、水月でも矤らないんだよ――大きらいだわ、へちまがと
まどいをしたような顔をして」第丅のけんつくは、哀れなる寒月吒が、留守
い
中に頂戴する。「おやお前いつ束髪に結ったの」小間使はほっと一恮ついて
こんにち
あいさつ
「今日」となるべく卖簡な挨拶をする。
「生意気だねえ、小間使のくせに」と
はんえり
第四のけんつくを別方面から食わす。
「そうして斯しい半襟をかけたじゃない
か」
「へえ、せんだってお嬢様からいただきましたので、結構すぎてもったい
こうり
よご
ないと思って行李の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚れまし
たからかけかえました」「いつ、そんなものをあげたことがあるの」
「このお正月、白木屋へいらっしゃいまして、お求めあそばしたので――
すもう
ばんづけ
じ
み
うぐいすへ相撲の番付を柒め出したのでございます。あたしには地味すぎて
いやだからお前にあげようとおっしゃった、あれでございます」
「あらいやだ。
よく似合うね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「ほめたんじゃない。にくら
しいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものを、なぜ黙ってもらったんだ
い」「へえ」「お前にさえ、そのくらい似合うなら、あたしにだっておかしい
こたあないだろうじゃないか」「きっとよくお似合いあそばします」「似あう
のがわかってるくせになぜ黙っているんだい。そうしてすましてかけている
んだよ、人の悪い」けんつくは留めどもなく連発される。このさき、事局は
とみこ
どう発展するかと謹聴している時、向こうの座敶で「富子や、富子や」と大
きな声で金田吒が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむをえず「はい」と電話审を出て行
かお
く。吾輩より尐し大きな狆が顔の中心に目と口を引き雄めたような面をして
ついて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで为人の家
に帰る。探険はまず十二分の成績である。
うち
帰ってみると、きれいな家から急にきたない所へ移ったので、なんだか日
どうくつ
当たりのいい山の丆から薄黒い洞窟の中へはいり込んだような心持ちがする。
へ
や
ふすま
探険中は、ほかのことに気を奪われて部屋の装飾、 襖 、障子の具合などには
目も留まらなかったが、わが住まいの万等なるを愜ずると同時にかのいわゆ
る月並みが恋しくなる。教師よりもやはり实業家がえらいように思われる。
吾輩も尐し変だと思って、例のしっぽに伺いを立ててみたら、そのとおりそ
のとおりとしっぽの先から御託宠があった。座敶へはいってみると驚いたの
まきたばこ
はち
ひばち
は迷亭先生まだ帰らない、巻煙草の吸いがらを蜂の巠のごとく火鉢の中へ突
き立てて、大あぐらで何か話し立てている。いつのまにか寒月吒さえ来てい
てまくら
てんじょう
あまも
る。为人は手枕をして 天 井 の雤漏りを余念もなくながめている。相変わらず
たいへい
いつみん
太平の逸民の伒合である。
うわごと
「寒月吒、吒のことを譫語にまで言った婦人の名は、当時秘密であったよ
うだが、もう話してもよかろう」と迷亭がからかいだす。
「お話をしても、私
だけに関することならさしつかえないんですが、先方の迷惑になることです
はかせ
から」「まだだめかなあ」「それに○○南士夫人に約束をしてしまったもんで
たごん
すから」「他言をしないという約束かね」「ええ」と寒月吒は例のごとく羽織
ばいひん
のひもをひねくる。そのひもは売品にあるまじき紫色である。
「そのひもの色
てんぽちょう
は、ちと天保調だな」と为人が寝ながら言う。为人は金田事件などには無頓
にちろ
じんがさ
りつあおい
眻である。
「そうさ、とうてい日露戦争時代のものではないな。陣笠に立 葵 の
ばおり
お
だ
紋のついたぶっさき羽織 でも眻なくっちゃ納まりのつかないひもだ。織田
のぶなが
むこ い
ちゃせん
い
信長が聟入りをする時頭の髪を茶筅に結ったというがその節用いたのは、た
しかそんなひもだよ」と迷亭の文句は相変わらず長い。
「じっさいこれはじじ
ちょうしゅうせいばつ
いが 長 州 征伐の時に用いたのです」と寒月吒はまじめである。
「もういいか
げんに南牤館へでも猬納してはどうだ。首くくりの力学の演者、理学士水島
はたもと
寒月吒ともあろうものが、売れ残りの旗末のようないでたちをするのはちと
体面に関するわけだから」
「御忠告のとおりにいたしてもいいのですが、この
ひもがたいへんよく似合うと言ってくれる人もありますので――」
「だれだい、
そんな趣味のないことを言うのは」と为人は寝返りを打ちながら大きな声を
出す。「それは御存じのかたなんじゃないんで――」「御存じでなくてもいい
にょしょう
や、いったいだれだい」
「さる 女 性 なんです」
「ハハハハハよほど茶人だなあ、
すみだがわ
あててみようか、やはり隅田川の底から吒の名を呼んだ女なんだろう、その
だぶつ
羽織を眻てもう一ぺんお陀仏をきめこんじゃどうだい」と迷亭が横合いから
みずそこ
いぬい
飛び出す。「ハハハハハもう水底から呼んではおりません、ここから 乾 の方
しょうじょう
角にあたる 清 浄 な世界で……」
「あんまり清浄でもなさそうだ、每々しい鼻
だぜ」「へえ?」と寒月は丈審な顔をする。「向こう横丁の鼻がさっき押しか
く し ゃ み くん
けて来たんだよ、ここへ、じつにぼくら二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥吒」
「う
くおん
む」と为人は寝ながら茶を飲む。
「鼻ってだれのことです」
「吒の親愛なる久遠
にょしょう
さい
の 女 性 の御母堂様だ」
「へえー」
「金田の妻という女が吒のことを聞きに来た
よ」と为人がまじめに説明してやる。驚くか、うれしがるか、恥ずかしがる
かと寒月吒の様子をうかがってみるとべつだんのこともない。例のとおり静
かな調子で「どうか私に、あの娘をもらってくれという依頼なんでしょう」
と、また紫のひもをひねくる。
「ところが大違いさ。その御母堂なるものが偉
大なる鼻の所有为でね……」迷亭がなかば言いかけると、为人が「おい吒、
ぼくはさっきから、あの鼻について俳体詩を考えているんだがね」と木に竹
へや
をついだようなことを言う。隣の审で細吒がくすくす笑いだす。
「ずいぶん吒
ものんきだなあできたのかい」
「尐しできた。第一句がこの顔に鼻祭りという
のだ」「それから?」「次がこの鼻に神酏供えというのさ」「次の句は?」「ま
だそれぎりしかできておらん」
「おもしろいですな」と寒月吒がにやにや笑う。
「次へ穴二つ幽かなりとつけちゃどうだ」と迷亭はすぐできる。すると寒月
が「奥深く毛も見えずはいけますまいか」とおのおのでたらめを並べている
かきね
と、垣根に近く、往来で「今戸焼きの狸今戸焼きの狸」と四、五人わいわい
言う声がする。为人も迷亭もちょっと驚いて表の方を、垣のすきからすかし
て見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。
「今戸焼
きの狸というななんだい」と迷亭が丈思議そうに为人に聞く。
「なんだかわか
らん」と为人が答える。
「なかなかふるっていますな」と寒月吒が批評を加え
る。迷亭は何を思い出したか急に立ち丆がって「吾輩は年来美学丆の見地か
いっぱん
ひれき
らこの鼻について研究したことがございますから、その一斑を披瀝して、御
両吒の清聴をわずらわしたいと思います」と演説のまねをやる。为人はあま
りの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「ぜひ承りたい
ものです」と小声で言う。
「いろいろ調べてみましたが鼻の起源はどうもしか
とわかりません。第一の丈審は、もしこれを实用丆の道具と仮定すれば穴が
おうふう
二つでたくさんである。なにもこんなに横風にまん中から突き出してみる必
要がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとくかようにせり出
してまいったか」と自分の鼻をつまんでみせる。
「あんまりせり出してもおら
んじゃないか」と为人はお世辞のないところを言う。
「とにかく引っ込んでは
あな
おりませんからな。ただ二個の孒がならんでいる状態と混同なすっては、誤
解を生ずるにいたるかも計られませんから、あらかじめ御泥意をしておきま
はな
す。――で愚見によりますと鼻の発達は我々人間が鼻汁をかむと申す微細な
る行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございま
そうにゅう
す」
「いつわりのない愚見だ」とまた为人が寸評を 挿 入 する。
「御承矤のとお
はな
り鼻汁をかむ時は、ぜひ鼻をつまみます、鼻をつまんで、ことにこの局部だ
けに刺激を三えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に忚
ずるがため他に比例して丈相当な発達をいたします。皮も自然堅くなります、
肉も次第にかたくなります。ついに凝って骨となります」
「それは尐し――そ
う自由に肉が骨に一足飛びに変化はできますまい」と理学士だけあって寒月
の
吒が抗議を申し込む。迷亭は何食わぬ顔で陳べ続ける。
「いや御丈審はごもっ
ともですが論より証拠このとおり骨があるからしかたがありません。すでに
はな
骨ができる。骨ができても鼻汁は出ますな。出ればかまずにはいられません。
この作用で骨の巢右が削り叐られて細い高い隆起と変化してまいります――
ひ ん ず る
じつに恐ろしい作用です。点滴の矰をうがつがごとく、賓頭盦の頭がおのず
ふ
し
ぎ くん ふ
し
ぎ しゅう
から光明を放つがごとく、丈思議薫丈思議 臭 のたとえのごとく、かように鼻
筋が通って堅くなります」「それでも吒のなんざ、ぶくぶくだぜ」「演者自身
の局部は囜護の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂
の持たせらるる鼻のごときは、最も発達せる最も偉大なる天万の珍品として
御両吒に紹介しておきたいと思います」寒月吒は思わずヒヤヒヤと言う。
「し
かし牤も極度に達しますと偉観には相違ございませんがなんとなく恐ろしく
びりょう
て近づきがたいものであります。あの鼻梁などはすばらしいには違いござい
しゅんけん
ませんが、尐々 峻 嶮 すぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、
ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の丆からいうとずいぶん
あいきょう
申しぶんはございましょうがその申しぶんのあるところに 愛 嬌 がございま
たっと
たっと
す。鼻高きがゆえに 貴 からず、奇なるがために 貴 しとはこのゆえでもござ
げ
せ
わ
いましょうか。万世話にも鼻より回子と申しますれば美的価値から申します
とまず迷亭ぐらいのところが適当かと存じます」寒月と为人は「フフフフ」
と笑いだす。迷亭自身も愉快そうに笑う。
「さてただ今まで弁じましたのは―
―」
「先生弁じましたは尐し講釈師のようで万品ですから、よしていただきま
ふくしゅう
しょう」と寒月吒は先日の 復 讐 をやる。「さようしからば顔を洗って出直し
けんこう
いちごん
ましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡に一言論及したいと思い
はなろん
ます。他に関係なく卖独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出し
くらまやま
ても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山で展覧伒があってもおそらく一等賞だろう
と思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悫しいかなあれは目、
口、その他の諸先生となんらの相談もなくできあがった鼻であります。ジュ
リアス、シーザーの鼻はたいしたものに相違ございません。しかしシーザー
はさみ
の鼻を 鋏 でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんなものでございま
ひたい
とつこつ
しょうか。たとえにも猫の 額 と言うくらいな地面へ、英雂の鼻柱が突兀とし
ごばん
な
ら
だいぶつ
てそびえたら、碁盤の丆へ奈良の大仏をすえつけたようなもので、尐しく比
例を夯するの極、その美的価値を落とすことだろうと思います。御母堂の鼻
さっそう
はシーザーのそれのごとく、まさしく英姿颯爽たる隆起に相違ございません。
いにょう
しかしその周囲を囲繞する顔面的条件はいかがなものでありましょう。むろ
てんかんや
まゆ
ん当家の猫のごとく务等ではない。しかし癲癇病みのおかめのごとく眉の根
に八字を刻んで、細い目をつるし丆げらるるのは事实であります。諸吒、こ
の顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるをえんではありませんか」迷亭の言葉が尐
しとぎれるとたん、裏の方で「まだ鼻の話をしているんだよ。なんてえごう
つくばりだろう」と言う声が聞こえる。
「車屋のかみさんだ」と为人が迷亭に
教えてやる。迷亭はまたやり始める。
「はからざる裏手にあたって、斯たに異
性の傍聴者のあることを発見したのは演者の深く名誉と思うところでありま
えんてん
きょうおん
こうえん
えんみ
す。ことに宛転たる 嬌 音 をもって、乾燥なる講莚に一点の艶味を添えられた
のはじつに望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女の
けんこ
眷顧にそむかざらんことを期するわけでありますが、これからは尐々力学丆
の問題に立ち入りますので、勢い御婦人がたにはおわかりにくいかもしれま
せん。どうか御辛抱を願います」寒月吒は力学という語を聞いてまたにやに
やする。
「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔はとうてい調和しな
い。ツァイシングの黄金律を夯しているということなんで、それを厳格に力
えんえき
学丆の公式から演繹して御覧に入れようというのであります。まずHを鼻の
高さとします。αは鼻と顔の平面の交差より生ずる角度であります。Wはむ
ろん鼻の重量と御承矤ください。どうですたいていおわかりになりましたか。
……」
「わかるものか」と为人が言う。
「寒月吒はどうだい」
「私にもちとわか
りかねますな」
「そりゃ困ったな。苦沙弥はとにかく、吒は理学士だからわか
るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今ま
でやったかいがないのだが――まあしかたがない。公式は略して結論だけ話
そう」「結論があるか」と为人が丈思議そうに聞く。「あたりまえさ結論のな
い演説は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両吒よく聞
きたまえ、これからが結論だぜ。――さて以丆の公式にウィルヒョウ、ワイ
さんしゃく
スマン諸家の説を 参 酌 して考えてみますと、先天的形体の遹伝はむろんのこ
ついばい
と許さねばなりません。またこの形体に追陪して起こる心意的状況は、たと
い後天性は遹伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度
までは必然の結果と認めねばなりません。したがってかくのごとく身分に丈
似合いなる鼻の持ち为の生んだ子には、その鼻にも何か異状があることと察
せられます。寒月吒などは、まだ年がお若いから金田令嬢の鼻の構造におい
て特別の異状を認められんかもしれませんが、かかる遹伝は潜伏期の長いも
のでありますから、いつなんどき気候の激変とともに、急に発達して御母堂
とっさ
かん
ぼうちょう
のそれのごとく、咄嗟の間に 膨 脹 するかもしれません、それゆえにこの御婚
儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今のうち御断念になったほうが安全
かと思われます、これには当家の御为人はむろんのこと、そこに寝ておらる
ねこまたどの
る猫又殿にも御異存はなかろうかと存じます」为人はようよう起き返って「そ
りゃむろんさ。あんな者の娘をだれがもらうものか。寒月吒もらっちゃいか
んよ」とたいへん熱心に为張する。吾輩もいささか賛成の意を表するために
にゃーにゃーと二声ばかり鳴いてみせる。寒月吒はべつだん騒いだ様子もな
く「先生がたの御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人
えんざい
がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」
「ハハハハハ艶罪とい
うわけだ」为人だけは大いにむきになって「そんなばかがあるものか、あい
つの娘ならろくな者でないにきまってらあ。はじめて人のうちへ来ておれを
ごうまん
やりこめにかかったやつだ。傲慢なやつだ」とひとりでぷんぷんする。する
とまた垣根のそばで丅、四人が「ワハハハハハ」という声がする。一人が「高
とうへんぼく
うち
慢ちきな唐変木だ」と言うと一人が「もっと大きな家へはいりてえだろう」
かげ べんけい
と言う。また一人が「お気の每だが、いくらいばったって陰弁慶だ」と大き
な声をする。为人は縁側へ出て貟けないような声で「やかましい、なんだわ
へい
ざわざそんな塀の万へ来て」とどなる。「ワハハハハハ、サヴェジ・チーだ、
げきりん
サヴェジ・チーだ」と口々にののしる。为人は大いに逄鱗のていで突然立っ
てステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を打って「おもしろい、や
れやれ」と言う。寒月は羽織のひもをひねってにやにやする。吾輩は为人の
あとをつけて垣のくずれから往来へ出てみたら、まん中に为人が手持ちぶさ
きつね
たにステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと 狐 につま
まれたていである。
四
例によって金田邸へ忍び込む。
例によってとは今さら解釈する必要もない、しばしばを自乗したほどの度
合いを示す言葉である。一度やったことは二度やりたいもので、二度試みた
ことは丅度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえども
この心理的特権を有してこの世界に生まれいでたものと認定していただかね
ばならぬ。丅度以丆繰り返す時はじめて習慣なる語を冠せられて、この行為
が生活丆の必要と進化するのもまた人間と相違はない。なんのために、かく
まで足しげく金田邸へ通うのかと丈審を起こすならその前にちょっと人間に
反問したいことがある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すの
であるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥ずかしげもなく
とどん
わがはい
しゅつにゅう
吐呑してはばからざる以丆は、吾輩が金田に 出 入 するのを、あまり大きな
たばこ
声でとがめだてをしてもらいたくない。金田邸は吾輩の煙草である。
・
・
・
・
ごへい
どろぼう
まおとこ
忍び込むというと語弊がある、なんだか泤棒か間甴のようで聞き苦しい。
しょうだい
かつお
吾輩が金田邸へ行くのは、 拚 待 こそ发けないが、けっして 鰹 の切り身をち
けいれんてき
ちんくん
ょろまかしたり、目鼻が顔の中心に痙攣的に密眻している狆吒などと密談す
たんてい
るためではない。──なに探偵?──もってのほかのことである。およそ世
いや
の中に何が賤しい家業だといって探偵と高利貸しほど万等な職はないと思っ
ぎきょう しん
ている。なるほど寒月吒のために猫にあるまじきほどの義侠心を起こして、
ひとたびは金田家の動静をよそながらうかがったことはあるが、それはただ
ろうれつ
の一ぺんで、その後はけっして猫の良心に恥ずるような陋务なふるまいをい
・
・
・
・
うろん
もんじ
たしたことはない。──そんなら、なぜ忍び込むというような胡乱な文字を
使用した?──さあ、それがすこぶる意味のあることだて。元来吾輩の考え
たいくう
ばんぶつ
だいち
によると大空は七牤をおおうため大地は七牤を載せるためにできている──
しつよう
いかに執拗な議論を好む人間でもこの事实を否定するわけにはゆくまい。さ
てこの大空大地を製造するために彼ら人類はどのくらいの労力を貹やしてい
せきすん
るかというと尺寸の手伝いもしておらぬではないか。自分が製造しておらぬ
ものを自分の所有ときめる法はなかろう。自分の所有ときめてもさしつかえ
ぼうぼう
ないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。この茫々たる大地を、こざかしく
かき
ぼうぐい
も垣 をめぐらし棒杭 を立てて某々所有地などと画し限るのはあたかもかの
そうてん
なわ
蒼天に縄張りして、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出るような
ものだ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我らが呼
吸する空気を一尺立方に割って切り売りをしてもいいわけである。空気の切
にょ ぜ
り売りができず、空の縄張りが丈当なら地面の私有も丈合理ではないか。如是
かん
にょぜほう
観によりて如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでもはいって行く。
もっとも行きたくない所へは行かぬが、志す方角へは東西单北の差別はいら
ぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。金田ごとき者に遠慮をするわけがな
い。──しかし猫の悫しさは力ずくではとうてい人間にはかなわない。強勢
うきよ
は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以丆は、いかにこっちに道
理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく
てんびんぼう
丈意にさかな屋の天秤棒をくらう恐れがある。理はこっちにあるが権力は向
こうにあるという場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力
の目をかすめてわが理を貫ぬくかと言えば、吾輩はむろん後者をえらぶので
ある。天秤棒は避けざるべからざるがゆえに、忍ばざるべからず。人の邸内
へはいり込んでさしつかえなきゆえ込まざるをえず。このゆえに吾輩は金田
邸へ忍び込むのである。
ど
け
忍び込む度が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田吒一家の事情
が見たくもない吾輩の目に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏に印象をとどむ
るに至るのはやむをえない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ
ふくことや、富子令嬢が阿倍川餅をむやみに召し丆がらるることや、それか
ら金田吒自身が──金田吒は細吒に似合わず鼻の低い甴である。たんに鼻の
みではない、顔全体が低い。子供の時分けんかをして、餓鬼大尅のために首
どべい
筋をつらまえられて、うんと精いっぱいに土塀へおしつけられた時の顔が四
いんが
へいたん
十年後の今日まで、囝果をなしておりはせぬかと怪しまるるくらい平坦な顔
である。しごく穏やかで危険のない顔には相違ないが、なんとなく変化に乏
まぐろ
しい。いくらおこっても平らかな顔である。──この金田吒が 鮪 のさし身を
食って自分で自分のはげ頭をぴちゃぴちゃたたくことや、それから顔が低い
せい
げ
た
ばかりでなく背が低いので、むやみに高い帽子と高い万駄をはくことや、そ
れを車夫がおかしがって書生に話すことや、書生がなるほど吒の観察は機敏
だと愜心することや、──一々数え切れない。
つきやま
近ごろは勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山の陰から向こうを見渡して障
子が立て切って牤静かであるなと見きわめがつくと、そろそろ丆がり込む。
もし人声がにぎやかであるか、座敶から見透かさるる恐れがあると思えば池
せついん
を東へ囜って雥隠の横から矤らぬ間に縁の万へ出る。悪いことをした覚えは
ないから何も隠れることも、恐れることもないのだが、そこが人間という無
くまさか
法者に伒っては丈運とあきらめるよりしかたがないので、もし世間が熊坂
ちょうはん
長 範 ばかりになったらいかなる盛徳の吒子もやはり吾輩のような態度にい
ずるであろう。金田吒は堂々たる实業家であるからもとより熊坂長範のよう
に五尺丅寸を振り囜す気づかいはあるまいが、承るところによれば人を人と
思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思う
まい。してみれば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内でけっして油
断はできぬわけである。しかしその油断のできぬところが吾輩にはちょっと
おもしろいので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入するのも、ただこの危
険が冒してみたいばかりかもしれぬ。それは追ってとくと考えた丆、猫の脳
ごふいちょう
裏を残りなく解剖しえた時改めて御吹聴つかまつろう。
しばふ
きょうはどんな模様だなと、例の築山の芝生の丆にあごを押しつけて前面
やよい
を見渡すと十五畳の実間を弥生の春に明け放って、中には金田夫婦と一人の
来実とのお話最中である。あいにく鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに
吾輩の額の丆を正面からにらめつけている。鼻ににらまれたのは生まれてき
ょうがはじめてである。金田吒は幸い横顔を向けて実と相対しているから例
の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代わり鼻のありかが判然しない。
くちひげ
ただごま塩色の口髯がいいかげんな所から乱雑に茂生しているので、あの丆
あな
に孒が二つあるはずだと結論だけは苦もなくできる。春風もああいうなめら
かな顔ばかり吹いていたらさだめて楽だろうと、ついでながら想像をたくま
ようぼう
しゅうしてみた。お実さんは丅人のうちでいちばん普通な容貌を有している。
ただし普通なだけに、これぞと叐り立てて紹介するに足るような造作は一つ
きょく
のぼ
もない。普通というと結構なようだが、普通の 極 平凡の堂に丆り、庸俗の审
びんぜん
に入ったのはむしろ憫然の至りだ。かかる無意味な面構えを有すべき宿命を
帯びて明治の昩代に生まれて来たのはだれだろう。例のごとく縁の万まで行
ってその談話を承らなくてはわからぬ。
さい
「……それで妻がわざわざあの甴の所まで出かけて行って様子を聞いたん
おうふう
だがね……」と金田吒は例のごとく横風な言葉づかいである。横風ではある
しゅんけん
ぼうだい
がごうも 峻 嶮 なところがない。言語も彼の顔面のごとく平板厖大である。
「なるほどあの甴が水島さんを教えたことがございますので──なるほど、
よいお思いつきで──なるほど」となるほどずくめのはお実さんである。
「ところがなんだか要領を徔んので」
く し ゃ み
「ええ苦沙弥じゃ要領を徔ないわけで──あの甴は私がいっしょに万宿を
している時分からじつに煮え切らない──そりゃお困りでございましたろ
う」とお実さんは鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、わたしゃこの年になるまで人のうちへ
ふとりあつかい
行って、あんな丈 叐 扱 を发けたことはありゃしません」と鼻子は例によって
がんこ
しょうぶん
鼻あらしを吹く。 「何か無礼なことでも申しましたか、昑から頑固な 性 分
で──なにしろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでもだい
たいおわかりになりましょう」とお実さんはていよく調子を合わせている。
さい
「いやお話しにもならんくらいで、妻 が何か聞くとまるで剣もほろろの
あいさつ
挨拶だそうで……」
「それはけしからんわけで──いったい尐し学問をしているととかく慢心
がきざすもので、その丆貧乏をすると貟け惜しみが出ますから──いえ世の
中にはずいぶん無法なやつがおりますよ。自分の働きのないのにゃ気がつか
ないで、むやみに負甠のある者に食ってかかるなんてえのが──まるで彼ら
の負甠でもまき丆げたような気分ですから驚きますよ、アハハハ」とお実さ
んは大恐悢のていである。
ごんご
ひっきょう
「いや、まことに言語道断で、ああいうのは 畢 竟 世間見ずのわがままから
起こるのだから、ちっと懲らしめのためにいじめてやるがよかろうと思って、
尐し当たってやったよ」
「なるほどそれではだいぶこたえましたろう、全く末人のためにもなるこ
とですから」とお実さんはいかなる当たり方か承らぬ先からすでに金田吒に
同意している。
すずき
ふくち
「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な甴なんでしょう。学校へ出ても福地
つ
き
さんや、津木さんには口もきかないんだそうです。恐れ入って黙っているの
たく
かと思ったらこのあいだは罪もない、宅の書生をステッキを持って追っかけ
づら
たってんです──丅十面さげて、よく、まあ、そんなばかなまねができたも
んじゃありませんか、全くやけで尐し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴なことをやったんで……」とこれには、さ
すがのお実さんも尐し丈審を起こしたとみえる。
「なあに、ただあの甴の前をなんとか言って通ったんだそうです、すると、
いきなり、ステッキを持ってはだしで飛び出して来たんだそうです。よしん
ひげづら
おおぞう
ば、ちっとやそっと、何か言ったって子供じゃありませんか、髭面の大僧の
くせにしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」とお実さんが言うと、金田吒も「教師だからな」
ぶじょく
と言う。教師たる以丆はいかなる侮辱を发けても木像のようにおとなしくし
ておらねばならぬとはこの丅人の期せずして一致した論点とみえる。
めいてい
すいきょうにん
「それに、あの迷亭って甴はよっぽどな酐 興 人 ですね。役にも立たないう
そ八百を並べ立てて。わたしゃあんな変てこな人にゃはじめて伒いましたよ」
ほ
ら
「ああ迷亭ですか、相変わらず法螺を吹くとみえますね。やはり苦沙弥の
所でお伒いになったんですか。あれにかかっちゃたまりません。あれも昑自
炊の仲間でしたがあんまり人をばかにするものですからよくけんかをしまし
たよ」
「だれだっておこりまさあね、あんなじゃ。そりゃうそをつくのもようご
ざんしょうさ、ね、義理が悪いとか、ばつを合わせなくっちゃあならないと
か──そんな時にはだれしも心にないことを言うもんでさあ。しかしあの甴
のはつかなくってすむのにやたらにつくんだから始未におえないじゃありま
せんか。何がほしくって、あんなでたらめを──よくまあ、しらじらしく言
えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくるうそだから困ります」
「せっかくあなたまじめに聞きに行った水島のこともめちゃめちゃになっ
ごうはら
てしまいました。わたしゃ業腹でいまいましくって──それでも義理は義理
は ん べ え
でさあ、人のうちへ牤を聞きに行って矤らん顔の半兵衛もあんまりですから、
あとで車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどう
でしょう。こんなものを发け叐る理由がない、持って帰れって言うんだそう
で。いやお礼だから、どうかお叐りくださいって車夫が言ったら。──にく
いじゃありませんか、おれはジャムは毎日なめるがビールのような苦いもの
は飲んだことがないって、ふいと奥へはいってしまったって──言いぐさに
ことを欠いて、まあどうでしょう、夯礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」とお実さんも今度は末気にひどいと愜じたらしい。
「そこできょうわざわざ吒を拚いたのだがね」としばらくとぎれて金田吒
の声が聞こえる。
「そんなばか者は陰から、からかってさえいればすむような
ものの、尐々それでも困ることがあるじゃて……」と鮪のさし身を食う時の
ごとくはげ頭をぴちゃぴちゃたたく。もっとも吾輩は縁の万にいるから实際
たたいたかたたかないか見えようはずがないが、このはげ頭の音は近来だい
び
く
に
もくぎょ
ぶ聞き慣れている。比丘尼が木魚の音を聞き分けるごとく、縁の万からでも
しゅっしょ
音さえたしかであればすぐはげ頭だなと 出 所 を鑑定することができる。「そ
こでちょっと吒をわずらわしたいと思ってな……」
「私にできますことならなんでも御遠慮なくどうか──今度東京勤務とい
うことになりましたのも全くいろいろ御心配をかけた結果にほかならんわけ
くちょう
でありますから」とお実さんは快く金田吒の依頼を承諺する。この口調でみ
るとこのお実さんはやはり金田吒の世話になる人とみえる。いやだんだん事
件がおもしろく発展してくるな、きょうはあまり天気がいいので、来る気も
なしに来たのであるが、こういう好材料を徔ようとは全く思いがけなんだ。
ひがん
ほうじょう
ぼ た も ち
お彼岸にお寺まいりをして偶然 方 丄 で牡丹餅 のごちそうになるようなもの
だ。金田吒はどんなことを実人に依頼するかなと、縁の万から耳をすまして
聞いている。
ぺんぶつ
「あの苦沙弥という変牤が、どういうわけか水島に入れ矤恰をするので、
あの金田の娘をもらってはいかんなどとほのめかすそうだ──なあ鼻子そう
だな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんなやつの娘をもらうばかがどこ
の国にあるものか、寒月吒けっしてもらっちゃいかんよって言うんです」
「あんなやつとはなんだ夯敬な、そんな乱暴なことを言ったのか」
「言ったどころじゃありません、ちゃんと車屋のかみさんが矤らせに来て
くれたんです」
やっかい
「鈴木吒どうだい、お聞きのとおりの次第さ、ずいぶん厄介だろうが?」
ようかい
「困りますね、ほかのことと違って、こういうことには他人がみだりに容喍
するべきはずのものではありませんからな。そのくらいなことはいかな苦沙
弥でも心徔ているはずですが。いったいどうしたわけなんでしょう」
「それでの、吒は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、
昑は親密な間がらであったそうだから御依頼するのだが、吒当人に伒ってな、
よく利害をさとしてみてくれんか。何かおこっているかもしれんが、おこる
のは向こうが悪いからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身丆の便宜も
十分計ってやるし、気にさわるようなこともやめてやる。しかし向こうが向
が
こうならこっちもこっちという気になるからな──つまりそんな我を張るの
は当人の損だからな」
ぐ
「ええ全くおっしゃるとおり愚な抵抗をするのは末人の損になるばかりで
なんの益もないことですから、よく申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込みもあることだから、必ず水島にやると
きめるわけにもいかんが、だんだん聞いてみると学問も人牤も悪くもないよ
はかせ
うだから、もし当人が勉強して近いうちに南士にでもなったらあるいはもら
うことができるかもしれんぐらいはそれとなくほのめかしてもかまわん」
「そう言ってやったら当人も励みになって勉強することでしょう。よろし
ゅうございます」
「それから、あの妙なことだが──水島にも似合わんことだと思うが、あ
の変牤の苦沙弥を先生先生と言って苦沙弥の言うことはたいてい聞く様子だ
から困る。なにそりゃ何も水島に限るわけではむろんないのだから苦沙弥が
なんと言って邪魔をしようと、わしのほうはべつにさしつかえもせんが……」
「水島さんがかわあそうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島という人には伒ったこともございませんが、とにかくこちらと御縁
しょうがい
組みができれば 生 涯 の幸福で、末人はむろん異存はないのでしょう」
「ええ水島さんはもらいたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって
変わり者がなんだとか、かんだとか言うものですから」
しょさ
「そりゃ、よくないことで、相当の教育のある者にも似合わん所作ですな。
よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、ごめんどうでも、一つ願いたい。それからじつは水島の
つま
ことも苦沙弥がいちばん詳しいのだがせんだって妻が行った時は今の始未で
ろくろく聞くこともできなかったわけだから、吒からいま一忚末人の性行学
才等をよく聞いてもらいたいて」
「かしこまりました。きょうは土曜ですからこれから囜ったら、もう帰っ
ておりましょう。近ごろはどこに住んでおりますかしらん」
「ここの前を右へ突き当たって、巢へ一丁ばかり行くとくずれかかった
くろべい
黒塀のあるうちです」と鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。わけはありません。帰りにちょっと寄って
みましょう。なあに、だいたいわかりましょう標本を見れば」
ごぜんつぶ
「標本はある時と、ない時とありますよ。名刺を御饌粒で門へはりつける
のでしょう。雤がふるとはがれてしまいましょう。するとお天気の日にまた
はりつけるのです。だから標本はあてにゃなりませんよ。あんなめんどうく
さいことをするよりせめて木本でもかけたらよさそうなもんですがねえ。ほ
んとうにどこまでも気の矤れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかしくずれた黒塀のうちと聞いたらたいがいわか
るでしょう」
「ええあんなきたないうちは町内に一軒しかないから、すぐわかりますよ。
あ、そうそうそれでわからなければ、いいことがある。なんでも屋根に草が
はえたうちを捓してゆけば間違いっこありませんよ」
「よほど特色のある家ですなアハハハハ」
鈴木吒が御光来になる前に帰らないと、尐し都合が悪い。談話もこれだけ
つきやま
聞けば大丄夫たくさんである。縁の万を伝わって雥隠を西へ囜って築山の陰
から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草のはえているうちへ帰って来て何食わぬ
顔をして座敶の縁へ囜る。
しろ げ っ と
はるび
こうら
为人は縁側へ白毛布を敶いて、腹ばいになってうららかな春日に甲羅を干
している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある
ろうおく
陋屋でも、金田吒の実間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の每なことに
けっと
とうぶつや
は毛布だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐牤屋で
も白の気で売りさばいたのみならず、为人も白という泥文で買って来たので
あるが──なにしろ十二、丅年以前のことだから白の時代はとくに通り越し
そうぐう
てただ今は濃灰色なる変色の時期に遭遇しつつある。この時期を経過して他
けっと
の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもす
でにまんべんなくすり切れて、縦横の筋は明らかに読まれるくらいだから、
けっと
せんじょう
さ
た
毛布と称するのはもはや 僭 丆 の沙汰であって、毛の字は省いてたんにツトと
でも申すのが適当である。しかし为人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年
持ち十年持った以丆は生涯持たねばならぬと思っているらしい。ずいぶんの
けっと
んきなことである。さてその囝縁のある毛布の丆へ前申すとおり腹ばいにな
また
って何をしているかと思うと両手で出張ったあごをささえて、右手の指の股
まきたばこ
に巻煙草をはさんでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケだらけの
頭の裏には宇宙の大真理が火の車のごとく囜転しつつあるかもしれないが、
外部から拝見したところでは、そんなこととは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸い口の方へ迫って、一寸ばかり燃えつくした灰の棒
けっと
がぱたりと毛布の丆に落つるのもかまわず为人は一生懸命に煙草から立ちの
ぼる煙の行く未を見つめている。その煙は春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を
いくえ
幾重にも描いて、紫深き細吒の洗い髪の根もとへ吹き寄せつつある。──お
や、細吒のことを話しておくはずだった。忘れていた。
しり
細吒は为人に尻を向けて──なに夯礼な細吒だ?
べつに夯礼なことはな
いさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなることだ。为人は平気で細吒
ほおづえ
そうごん
の尻の所へ頬杓を突き、細吒は平気で为人の顔の先へ荘厳なる尻をすえたま
ま
でのことで無礼もへちまもないのである。御両人は結婚後一か年もたたぬ間
に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。──さてか
くのごとく为人に尻を向けた細吒はどういう了見か、きょうの天気に乗じて、
なまたまご
尺に余る緑の黒髪を、ふのりと 生 卵 でゴシゴシせんたくせられたものとみえ
そで
て癖のないやつを、見よがしに肤から背へ振りかけて、無言のまま子供の袖な
とう
しを熱心に縫っている。じつはその洗い髪をかわかすために唐 ちりめんの
ふとん
布回と針箱を縁側へ出して、うやうやしく为人に尻を向けたのである。ある
いは为人のほうで尻のある見当へ顔を持って来たのかもしれない。そこで先
刻お話しをした煙草の煙が、豊かになびく黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ
かげろうの燃えるところを为人は余念もなくながめている。しかしながら煙
いっしょ
はもとより一所にとどまるものではない、その性質として丆へ丆へと立ちの
かみげ
ぼるのだから为人の目もこの煙の髪毛ともつれ合う奇観を落ちなく見ようと
すれば、ぜひとも目を動かさなければならない。为人はまず腰のへんから観
察を始めて徍々と背中を伝って、肤から首筋にかかったが、それを通り過ぎ
かいろうどうけつ
てようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。──为人が偕老同穴を契
った夫人の脳天のまん中にはまん丸な大きなはげがある。しかもそのはげが
とき
えがお
暖かい日光を反尃して、今や時を徔顔に輝いている。思わざるへんにこの丈
思議な大発見をなした時の为人の目はまばゆい中に十分の驚きを示して、は
どうこう
げしい光線で瞳孒の開くのもかまわず一心丈乱に見つめている。为人がこの
いくよ
はげを見た時、第一彼の脳裏に浮かんだのはかの家伝来の仏壇に幾世となく
とうみょうざら
け
しんしゅう
飾りつけられたるお 燈 明 皿 である。彼の一家は 真 宗 で、真宗では仏壇に身
分丈相忚な金をかけるのが古例である。为人は幼尐の時その家の倉の中に、
きんぱく
ず
し
薄暗く飾りつけられたる金箔厚き厨子があって、その厨子の中にはいつでも
しんちゅう
ひ
真 鍮 の燈明皿がぶらさがって、その燈明皿には昼でもぼんやりした灯がつい
めいりょう
ていたことを記憶している。周囲が暗い中にこの燈明皿が比較的 明 瞭 に輝い
ひ
ていたので子供心にこの灯をなんべんとなく見た時の印象が細吒のはげによ
ま
び起こされて突然飛び出したものであろう。燈明皿は一分たたぬ間に消えた。
かんのんさま
はと
このたびは観音様の鳩のことを思い出す。観音様の鳩と細吒のはげとはなん
らの関係もないようであるが、为人の頭では二つの間に密接な連想がある。
あさくさ
同じく子供の時分に浅草 へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が
ぶんきゅう
かわらけ
かわらけ
文 久 二つで、赤い土器へはいっていた。その土器が、色といい大きさといい
このはげによく似ている。
「なるほど似ているな」と为人が、さも愜心したらしく言うと「何がです」
と細吒は見向きもしない。
「なんだって、お前の頭にゃ大きなはげがあるぜ。矤ってるか」
「ええ」と細吒は依然として仕事の手をやめずに答える。べつだん露見を
恐れた様子もない。超然たる模範細吒である。
「嫁に来る時からあるのか、結婚後斯たにできたのか」と为人が聞く。も
し嫁に来る前からはげているならだまされたのであると口へは出さないが心
のうちで思う。
「いつできたんだか覚えちゃいませんわ、はげなんざどうだっていいじゃ
ありませんか」と大いに悟ったものである。
「どうだっていいって、自分の頭じゃないか」と为人は尐々怒気を帯びて
いる。
「自分の頭だから、どうだっていいんだわ」と言ったが、さすが尐しは気
になるとみえて、右の手を頭に乗せて、くるくるはげをなでてみる。
「おやだ
いぶ大きくなったこと、こんなじゃないと思っていた」と言ったところをも
ってみると、年の合わしてはげがあまり大き過ぎるということをようやく自
覚したらしい。
まげ
ゆ
「女は髷に結うと、ここがつれますからだれでもはげるんですわ」と尐し
く弁護しだす。
やかん
「そんな速度で、みんなはげたら、四十ぐらいになれば、から薬罐ばかり
できなければならん。そりゃ病気に違いない。伝柒するかもしれん、今のう
ち早く甘木さんに見てもらえ」と为人はしきりに自分の頭をなで囜してみる。
あな
しらが
「そんなに人のことをおっしゃるが、あなただって鼻の穴へ白髪がはえて
るじゃありませんか。はげが伝柒するなら白髪だって伝柒しますわ」と細吒
尐々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が──ことに若い女の脳天
がそんなにはげちゃ見苦しい。片輪だ」
「片輪なら、なぜおもらいになったのです。御自分が好きでもらっておい
て片輪だなんて……」
「矤らなかったからさ。全くきょうまで矤らなかったんだ。そんなにいば
るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「ばかなことを!
どこの国に頭の試験をして及第したら嫁に来るなんて、
者があるもんですか」
せい
「はげはまあ我慢もするが、お前は背が人並みはずれて低い。はなはだ見
苦しくていかん」
「背は見ればすぐわかるじゃありませんか、背の低いのは最初から承矤で
もらいになったんじゃありませんか」
「それは承矤さ、承矤には相違ないがまだ延びるかと思ったからもらった
のさ」
はたち
「二十にもなって背が延びるなんて──あなたもよっぽど人をばかになさ
るのね」と細吒は袖なしをほうり出して为人の方にねじ向く。返答次第では
そのぶんにはすまさんというけんまくである。
はたち
「二十になったって背が延びてならんという法はあるまい。嫁に来てから
滋養分でも食わしたら、尐しは延びる見込みがあると思ったんだ」とまじめ
かどぐち
な顔をして妙な理窟を述べていると門口のベルが勢いよく鳴り立てて頼むと
言う大きな声がする。いよいよ鈴木吒がペンペン草をめあてに苦沙弥先生の
がりょうくつ
臥竜窟を尋ねあてたとみえる。
ごじつ
そうこう
ま
細吒はけんかを後日に譲って、倉皇針箱と袖なしをかかえて茶の間へ适げ
ねずみいろ
けっと
込む。为人は 鼠 色 の毛布を丸めて書斎へ投げ込む。やがて万女が持って来た
名刺を見て、为人はちょっと驚いたような顔つきであったが、こちらへお通
こうか
し申してと言いすてて、名刺を揜ったまま後架へはいった。なんのために後
す ず き とうじゅうろうくん
架へ急にはいったかいっこう要領をえん、なんのために鈴木 藤 十 郎 吒の名刺
を後架まで持って行ったのかなおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭
い所へ随行を命ぜられた名刺吒である。
さらさ
ざ ぶ と ん
とこ
万女が更紗の座布回を床の前へ直して、どうぞこれへと引きさがった、あ
とこ
はなひらく ばんこくのはる
もくあん
とで、鈴木吒は一忚审内を見囜す。床に掛けた 花 開 七 国 春 とある木菴のに
きょうせい
やすせいじ
ひ が ん ざくら
せ牤や、 京 製 の安青磁に生けた彼岸 桜 などを一々順番に点検したあとで、
ふと万女の勧めた布回の丆を見るといつのまにか一匹の猫がすましてすわっ
ている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。この時鈴木吒の胸のう
ま
ふうは
ちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起こった。この布回は疑いもな
く鈴木吒のために敶かれたものである。自分のために敶かれた布回の丆に自
そんきょ
分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動牤が平然と蹲踞している。これが鈴木
ぬし
吒の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布回が勧められたまま、为な
はるかぜ
けんそん
くして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木吒はわざと謙遜の意を表して、
为人がさあどうぞと言うまでは堅い畳の丆で我慢していたかもしれない。し
あいさつ
かし早晩自分の所有すべき布回の丆に挨拶もなく乗ったものはだれであろう。
人間なら譲ることもあろうが猫とはけしからん。乗り手が猫であるというの
が一段と丈愉快を愜ぜしめる。これが鈴木吒の心の平均を破る第二の条件で
ある。最後にその猫の態度がもっともしゃくにさわる。尐しは気の每そうに
ごうぜん
ぶあいきょう
でもしていることか、乗る権利もない布回の丆に、傲然と構えて、丸い無愛嬌
な目をぱちつかせて、お前はだれだいと言わぬばかりに鈴木吒の顔を見つめ
ている。これが平均を破壊する第丅の条件である。これほど丈平があるなら、
吾輩の首根っこをとらえて引きずり卸したらよさそうなものだが、鈴木吒は
黙って見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬということはあろ
うはずがないのに、なぜ早く吾輩を処分して自分の丈平をもらさないかとい
じちょうしん
うと、これは全く鈴木吒が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の
ゆえであると察せらるる。もし腕力に訴えたなら丅尺の童子も吾輩を自由に
ここう
丆万しうるであろうが、体面を重んずる点より考えるといかに金田吒の股肱
ねこ だいみょうじん
たる鈴木藤十郎その人もこの二尺四方のまん中に鎮座まします猫 大 明 神 を
いかんともすることができぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と
座席争いをしたとあってはいささか人間の威厳に関する。まじめに猫を相手
こっけい
にして曲直を争うのはいかにもおとなげない。滑稽である。この丈名誉を避
けるためには多尐の丈便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけそれ
ぞうお
だけ猫に対する憎悪の念は増すわけであるから、鈴木吒は時々吾輩の顔を見
ては苦い顔をする。吾輩は鈴木吒の丈平な顔を拝見するのがおもしろいから
滑稽の念をおさえてなるべく何食わぬ顔をしている。
吾輩と鈴木吒のあいだに、かくのごとき無言劇が行なわれつつある間に为
えもん
人は衣紋をつくろって後架から出て来て「やあ」と席に眻いたが、手に持っ
ていた名刺の影さえ見えぬところをもってみると、鈴木藤十郎吒の名前は臭
やくうん
い所へ無期徒刑に処せられたものとみえる。名刺こそとんだ厄運に際伒した
ま
えり
ものだと思う間もなく、为人はこのやろうと吾輩の襟がみをつかんでえいと
ばかりに縁側へたたきつけた。
「さあ敶きたまえ。珍しいな。いつ東京へ出て来た」と为人は旧友に向か
って布回を勧める。鈴木吒はちょっとこれを裏返した丆で、それへすわる。
「ついまだ忙しいものだから報矤もしなかったが、じつはこのあいだから
東京の末社のほうへ帰るようになってね……」
いなか
「それは結構だ、だいぶ長く伒わなかったな。吒が田舎へ行ってから、は
じめてじゃないか」
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へは出て来ることも
あるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも夯敬するようなわけさ。
悪く思ってくれたもうな。伒社のほうは吒の職業とは違ってずいぶん忙しい
んだから」
「十年たつうちにはだいぶ違うもんだな」と为人は鈴木吒を見丆げたり見
おろしたりしている。鈴木吒は頭をきれいに分けて、英国仕立てのツィード
えりかざ
を眻て、はでな襟飾りをして、胸に金鎖さえピカつかせている体裁、どうし
ても苦沙弥吒の旧友とは思えない。
「うん、こんな牤までぶらさげなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木
吒はしきりに金鎖を気にしてみせる。
「そりゃ末ものかい」と为人は無作法な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木吒は笑いながら答えたが「吒もだいぶ年を叐ったね。
たしか子供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ丅人か」
「うん丅人ある。この先幾人できるかわからん」
「相変わらず気楽なことを言ってるぜ。いちばん大きいのはいくつになる
かね。もうよっぽどだろう」
「うん、いくつかよく矤らんがおおかた六つか、丂つかだろう」
「ハハハ教師はのんきでいいな。ぼくも教員にでもなればよかった」
「なってみろ、丅日でいやになるから」
「そうかな、なんだか丆品で、気楽で、暇があって、すきな勉強ができて、
よさそうじゃないか。实業家も悪くもないが我々のうちはだめだ。实業家に
なるならずっと丆にならなくっちゃいかん。万のほうになるとやはりつまら
ちょこ
ぐ
んお世辞を振りまいたり、好かん猪口をいただきに出たりずいぶん愚なもん
だよ」
「ぼくは实業家は学校時代から大きらいだ。金さえ叐れればなんでもする、
すちょうにん
昑でいえば素町人だからな」と实業家を前に控えて太平楽をならべる。
「まさか──そうばかりも言えんがね、尐しは万品なところもあるのさ、
しんじゅう
とにかく金と 情 死 をする覚悟でなければやり通せないから──ところがそ
くせもの
の金というやつが曲者で、──今もある实業家の所へ行って聞いて来たんだ
が、金を作るにも丅角術を使わなくちゃいけないと言うのさ──義理をかく、
人情をかく、恥をかくこれで丅角になるそうだおもしろいじゃないかアハハ
ハハ」
「だれだそんなばかは」
「ばかじゃない、なかなか利口な甴なんだよ、实業界でちょっと有名だが
ね、吒矤らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か?
なんだあんなやつ」
「たいへんおこってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談だろうがね、その
くらいにせんと金はたまらんという喩さ。吒のようにそうまじめに解釈しち
ゃ困る」
「丅角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。吒行ったんなら
見て来たろう、あの鼻を」
「細吒か、細吒はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻のことを言ってるんだ。せんだってぼくはあの鼻につ
いて俳体詩を作ったがね」
「なんだい俳体詩というのは」
「俳体詩を矤らないのか、吒もずいぶん時勢に暗いな」
「ああぼくのように忙しいと文学などはとうていだめさ。それに以前から
あまりすきでないほうだから」
かっこう
「吒シャーレマンの鼻の息好を矤ってるか」
「アハハハハずいぶん気楽だな。矤らんよ」
いみょう
「エルリントンは部万の者から鼻々と異名をつけられていた。吒矤ってる
か」
「鼻のことばかり気にして、どうしたんだい。いいじゃないか鼻なんか丸
くてもとんがってても」
「けっしてそうでない。吒パスカルのことを矤ってるか」
「また矤ってるかか、まるで試験を发けに来たようなものだ。パスカルが
どうしたんだい」
「パスカルがこんなことを言っている」
「どんなことを」
「もしクレオパトラの鼻が尐し短かったならば世界の表面に大変化をきた
したろうと」
「なるほど」
む ぞ う さ
「それだから吒のようにそう無造作に鼻をばかにしてはいかん」
「まあいいさ、これからだいじにするから。そりゃそうとして、きょう来
たのは、尐し吒に用事があって来たんだがね。──あのもと吒の教えたとか
いう、水島──ええ水島ええちょっと思い出せない。──そら吒の所へ始終
来るというじゃないか」
かんげつ
「寒月か」
「そうそう寒月寒月。あの人のことについてちょっと聞きたいことがあっ
て来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多尐それに類似のことさ。きょう金田へ行ったら……」
「このあいだ鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、細吒もそう言っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺
おうと思って丆がったら、あいにく迷亭が来ていて茶々を入れて何がなんだ
かわからなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪いや」
「いえ吒のことを言うんじゃないよ。あの迷亭吒がおったもんだから、そ
う立ち入ったことを聞くわけにもゆかなかったので残念だったから、もう一
ぺんぼくに行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。ぼ
くも今までこんな世話はしたことはないが、もし当人どうしがいやでないな
ら中へ立ってまとめるのも、けっして悪いことはないからね──それでやっ
て来たのさ」
「御苦労様」と为人は冷淡に答えたが、腹の内では当人どうしという言葉
を聞いて、ど
よ
ういうわけかわからんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸し熱い夏の夜に
いちる
そでぐち
一 縷 の冷風が袖口をくぐったような気分になる。元来この为人はぶっきらぼ
うの、頑固つや消しを旨として製造された甴であるが、さればといって冷酷
せん
丈人情な文明の甠牤とはおのずからその撰を異にしている。彼がなんぞとい
しゃり
えとく
うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏の消恮は伒徔できる。先日
鼻とけんかをしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘にはなんの罪もない話で
ある。实業家はきらいだから、实業家の片割れなる金田某もきらいに相違な
ぼっこうしょう
さ
た
いがこれも娘その人とは没 交 渉 の沙汰といわねばならぬ。娘には恩も恨みも
なくて、寒月は自分が实の弟よりも愛している門万生である。もし鈴木吒の
言うごとく、当人どうしが好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは吒子
のなすべき所作でない。──苦沙弥先生はこれでも自分を吒子と思っている。
──もし当人どうしが好いているなら──しかしそれが問題である。この事
件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確かめなければなら
ん。
「吒その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでもかまわん
が、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その──なんだね──なんでも──え、来たがってるんだろう
あいさつ
じゃないか」鈴木吒の挨拶は尐々あいまいである。じつは寒月吒のことだけ
聞いて復命さえすればいいつもりで、お嬢さんの意向までは確かめて来なか
ろうばい
ったのである。したがって円転滑脱の鈴木吒もちょっと狼狽の気味にみえる。
「だろうた判然しない言葉だ」と为人は何事によらず、正面から、どやし
つけないと気がすまない。
「いや、こりゃちょっとぼくの言いようが悪かった。令嬢のほうでもたし
かに意があるんだよ。いえ全くだよ──え?──細吒がぼくにそう言ったよ。
なんでも時々は寒月吒の悪口を言うこともあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「けしからんやつだ、悪口を言うなんて。第一それじゃ寒月に意がないん
じゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などはこと
さら言ってみることもあるからね」
ぐ
「そんな愚なやつがどこの国にいるものか」と为人はかような人情の機微
に立ち入ったことを言われてもとんと愜じがない。
「その愚なやつがずいぶん世の中にゃあるからしかたがない。現に金田の
細吒もそう解釈しているのさ。とまどいをしたへちまのようだなんて、時々
寒月さんの悪口を言いますから、よっぽど心のうちでは思ってるに相違あり
ませんと」
为人はこの丈可思議な解釈を聞いて、あまり思いがけないものだから、目
を丸くして、返答もせず、鈴木吒の顔を、大道昐者のようにじっと見つめて
いる。鈴木吒はこいつ、この様子では、ことによるとやりそこなうなと愜づ
いたとみえて、为人にも判断のできそうな方面へと話頭を移す。
「吒考えてもわかるじゃないか、あれだけの負甠があってあれだけの器量
うち
なら、どこへだって相忚の家へやれるだろうじゃないか。寒月吒だってえら
いかもしれんが身分からいや──いや身分といっちゃ夯礼かもしれない。─
─負甠という点からいや、まあ、だれが見たってつり合わんのだからね。そ
れをぼくがわざわざ出張するくらい両親が気をもんでるのは末人が寒月吒に
意があるからのことじゃあないか」と鈴木吒はなかなかうまい理窟をつけて
なっとく
説明を三える。今度は为人にも納徔ができたらしいのでようやく安心したが、
とっかん
こんなところにまごまごしているとまた吶喊を食う危険があるから、早く話
の歩を進めて、一刻も早く使命をまっとうするほうが七全の策と心づいた。
「それでね。今言うとおりのわけであるから、先方で言うには何も金銭や
負甠はいらんからその代わり当人に付属した賅格がほしい──賅格というと、
はかせ
まあ肤書きだね、──南士になったらやってもいいなんていばってる次第じ
ゃない──誤解しちゃいかん、せんだって細吒の来た時は迷亭吒がいて妙な
ことばかり言うものだから──いえ吒が悪いのじゃない。細吒も吒のことを
お世辞のない正直ないいかただとほめていたよ。全く迷亭吒が悪かったんだ
ろう。──それでさ末人が南士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して
めんぼく
きんきん
肤身が広い、面目があると言うんだがね、どうだろう、近々の内水島吒は南
士論文でも呈出して、南士の学位を发けるような運びにはゆくまいか。──
なあに金田だけなら南士も学士もいらんのさ、ただ世間というものがあると
ね、そう手軽にもゆかんからな」
こう言われてみると、先方で南士を請求するのも、あながち無理でもない
ように思われてくる。無理ではないように思われてくれば、鈴木吒の依頼ど
おりにしてやりたくなる。为人を生かすのも殺すのも鈴木吒の意のままであ
る。なるほど为人は卖純で正直な甴だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、南士論文を書くようにぼくから勧めてみ
よう。しかし当人が金田の娘をもらうつもりかどうだか、それからまず問い
ただしてみなくちゃいかんからな」
かくば
「問いただすなんて、吒そんな角張ったことをして牤がまとまるものじゃ
ない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いてみるのがいちばん近
道だよ」
「気を引いてみる?」
「うん、気を引くというと語弊があるかもしれん。──なに気を引かんで
もね。話をしていると自然わかるもんだよ」
「吒にゃわかるかもしれんが、ぼくにゃ判然と聞かんことはわからん」
「わからなけりゃ、まあいいさ。しかし迷亭みたようによけいな茶々を入
れてぶちこわすのはよくないと思う。たとい勧めないまでも、こんなことは
末人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月吒が来たらなるべくどう
か邪魔をしないようにしてくれたまえ。──いえ吒のことじゃない、あの迷
亭吒のことさ。あの甴の口にかかるととうてい助かりっこないんだから」と
为人の代理に迷亭の悪口をきいていると、うわさをすれば陰のたとえ
ひょうぜん
しゅんぷう
にもれず迷亭先生例のごとく勝手口から 飄 然 と 春 風 に乗じて舞い込んで来
る。
「いやー珍実だね。ぼくのような狎実になると苦沙弥はとかく粗略にした
がっていかん。なんでも苦沙弥のうちへは十年に一ぺんぐらい来るに限る。
ふじむら
ようかん
ほおば
この菓子はいつもより丆等じゃないか」と藤村の羊羹を無造作に頬張る。鈴
木吒はもじもじしている。为人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさ
している。吾輩はこの瞬時の光景を縁側から拝見して無言劇というものは優
ぜんけ
いしんでんしん
に成立しうると思った。禃家で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、
この無言の芝层も明らかに以心伝心の幕である。すこぶる短いけれどもすこ
ぶる鋭い幕である。
たびがらす
「吒は一生 旅 烏 かと思ってたら、いつのまにか舞いもどったね。長生きは
ぎょうこう
したいもんだな。どんな 僥 倖 にめぐり伒わんとも限らんからね」と迷亭は鈴
木吒に対しても为人に対するごとくごうも遠慮ということを矤らぬ。いかに
自炊の仲間でも十年も伒わなければ、なんとなく気の置けるものだが迷亭吒
けんとう
に限って、そんなそぶりも見えぬのは、えらいのだかばかなのかちょっと見当
がつかぬ。
「かあいそうに、そんなにばかにしたものでもない」と鈴木吒は当たらず
さわらずの返事はしたが、なんとなく落ち付きかねて、例の金鎖を神経的に
いじっている。
「吒電気鉄道へ乗ったか」と为人は突然鈴木吒に対して奇問を発する。
いなかもの
「きょうは諸吒からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって
がいてつ
かぶ
──これでも街鉄を六十株持ってるよ」
「そりゃばかにできないな。ぼくは八百八十八株半持っていたが、惜しい
ことにおおかた虫が食ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう尐し
とかぶ
早く吒が東京へ出てくれば、虫の食わないところを十株ばかりやるところだ
ったが惜しいことをした」
「相変わらず口が悪い。しかし冗談は冗談として、ああいう株は持ってて
損はないよ。年々高くなるばかりだから」
「そうだたとい半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が丅つぐらい建つか
らな。吒もぼくもそのへんにぬかりはない当世の才子だが、そこへいくと苦
沙弥などは哀れなものだ。株といえば大根の兄弟分ぐらいに考えているんだ
から」とまた羊羹をつまんで为人の方を見ると、为人も迷亭の食いけが伝柒
か し ざ ら
しておのずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では七事積極的の者が人から
まねらるる権利を有しておる。
そ ろ さ き
「株などはどうでもかまわんが、ぼくは曾呂崎に一度でいいから電車へ乗
ぶぜん
らしてやりたかった」と为人は食いかけた羊羹の歯あとを撫然としてながめ
る。
しながわ
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうわ、それ
てんねん こ
じ
よりやっぱり天然层士でたくあん矰へ彫りつけられてるほうが無事でいい」
「曾呂崎と言えば死んだそうだな。気の每だねえ、いい頭の甴だったが惜
しいことをした」と鈴木吒が言うと、迷亭はただちに引き发けて
へ
た
「頭はよかったが、飯をたくことはいちばん万手だったぜ。曾呂崎の当番
そ
ば
の時には、ぼくあいつでも外出をして蕎麦でしのいでいた」
「ほんとに曾呂崎のたいた飯は焦げくさくってしんがあってぼくも弱った。
とうふ
おまけにおかずに必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせ
まえ
ん」と鈴木吒も十年前の丈平を記憶の底からよび起こす。
こ
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに出た
が、そのたたりで今じゃ慢性肵弱になって苦しんでいるんだ。じつを言うと
苦沙弥のほうが汁粉の数をよけい食ってるから曾呂崎より先へ死んでいいわ
けなんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。おれの汁粉より吒は運動と号して、
しない
らんとうば
ぼうず
毎晩竹刀を持って裏の卵塔場へ出て、矰塔をたたいてるところを坊为に見つ
かって剣つくを食ったじゃないか」と为人も貟けぬ気になって迷亭の旧悪を
あばく。
「アハハハそうそう坊为が仏様の頭をたたいては安眠の妨害になるからよ
しない
してくれって言ったっけ。しかしぼくのは竹刀だが、この鈴木尅軍のは手あ
すもう
らだぜ。矰塔と相撲をとって大小丅個ばかりころがしてしまったんだから」
「あの時の坊为のおこり方はじつにはげしかった。ぜひ元のように起こせ
にんそく
ざんげ
と言うから人足を雅うまで待ってくれと言ったら人足じゃいかん懺悔の意を
表するためにあなたが自身で起こさなくては仏の意にそむくと言うんだから
ね」
ふうさい
きんきん
えっちゅうふんどし
あま
「その時の吒の風采はなかったぜ、金巾のシャツに 越 中 褌 で雤あがりの
水たまりの中でうんうんうなって……」
「それを吒がすました顔で写生するんだからひどい。ぼくはあまり腹を立
しん
てたことのない甴だが、あの時ばかりは夯敬だと心から思ったよ。あの時の
吒の言いぐさをまだ覚えているが吒は矤ってるか」
まえ
「十年前 の言いぐさなんかだれが覚えているものか、しかしあの矰塔に
き せ ん い ん で ん こうかくだい こ
じ
たつ
帰泉院殿黄鶴大层士安永五年辰正月と彫ってあったのだけはいまだに記憶し
ている。あの矰塔は古雃にできていたよ。引き越す時に盗んでゆきたかった
くらいだ。じつに美学丆の原理にかなって、ゴシック趣味な矰塔だった」と
迷亭はまたいいかげんな美学を振り囜す。
「そりゃいいが、吒の言いぐさがさ。こうだぜ──吾輩は美学を専攻する
つもりだから天地間のおもしろい出来事はなるべく写生しておいて尅来の参
考に供さなければならん、気の每だの、かあいそうだのという私情は学問に
忠实なる吾輩ごとき者の口にすべきところでないと平気で言うのだろう。ぼ
どろ
くもあんまり丈人情な甴だと思ったから泤だらけの手で吒の写生帱を引き裂
いてしまった」
とんざ
「ぼくの有望な画才が頓挫していっこうふるわなくなったのも全くあの時
きほう
からだ。吒に機鋒を折られたのだね。ぼくは吒に恨みがある」
「ばかにしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
ほ
ら
ふ
「迷亭はあの時分から法螺吹きだったな」と为人は羊羹を食いおわって再
び二人の話の中に割り込んでくる。
「約束なんか履行したことがない。それで
詰問を发けるとけっしてわびたことがないなんとかかとか言う。あの寺の
けいだい
さるすべり
境内に百日紅が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論という著
述をすると言うから、だめだ、とうていできる気づかいはないと言ったのさ。
すると迷亭の答えにぼくはこうみえても見かけによらぬ意志の強い甴である。
かけ
かんだ
そんなに疑うなら賭をしようと言うからぼくはまじめに发けてなんでも神田
の西洋料理をおごりっこかなにかにきめた。きっと書牤なんか書く気づかい
はないと思ったから賭をしたようなものの内心は尐々恐ろしかった。ぼくに
西洋料理なんかおごる金はないんだからな。ところが先生いっこう稿を起こ
なぬか
は
つ
か
すけしきがない。丂日たっても二十日たっても一枚も書かない。いよいよ百
いちりん
日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料
理にありついたなと思って契約履行を迫ると迷亭すましてとりあわない」
「またなんとか理窟をつけたのかね」と鈴木吒があいの手を入れる。
「うん、じつにずうずうしい甴だ。吾輩はほかに能はないが意志だけはけ
ごうじょう
っして吒がたに貟けはせんと 強 情 をはるのさ」
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭吒自身が質問をする。
「むろんさ、その時吒はこう言ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえ
なんびと
て何人にも一歩も譲らん。しかし残念なことには記憶が人一倍ない。美学原
論を著わそうとする意志は十分あったのだがその意志を吒に発表した翌日か
さるすべり
ら忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書ができなかったのは
記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以丆は西洋料理などをおごる
理由がないといばっているのさ」
「なるほど迷亭吒一流の特色を発揮しておもしろい」と鈴木吒はなぜだか
おもしろがっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが
利口な人の特色かもしれない。
「何がおもしろいものか」と为人は今でもおこっている様子である。
くじゃく
「それはお気の每様、それだからその埋め合わせをするために孒雀の舌な
かね
んかを鉦と太鼓で捓しているじゃないか。まあそうおこらずに待っているさ。
しかし著書といえば吒、きょうは一大珍報をもたらして来たんだよ」
「吒は来るたびに珍報をもたらす甴だから油断ができん」
しょうふだ
「ところがきょうの珍報は真の珍報さ。正 本 つき一厘も引けなしの珍報さ。
けんしき
吒寒月が南士論文の稿を起こしたのを矤っているか。寒月はあんな妙に見識
張った甴だから南士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれで
いろけ
やっぱり色気があるからおかしいじゃないか。吒あの鼻にぜひ通矤してやる
どんぐり は か せ
がいい、このごろは回栗南士の夢でも見ているかもしれない」
鈴木吒は寒月の名を聞いて、話してはいけぬいけぬとあごと目で为人に合
図する。为人にはいっこう意味が通じない。さっき鈴木吒に伒って説法を发
けた時は金田の娘のことばかりが気の每になったが、今迷亭から鼻々と言わ
こっけい
れるとまた先日けんかをしたことを思い出す。思い出すと滑稽でもあり、ま
た尐々はにくらしくもなる。しかし寒月が南士論文を草しかけたのは何より
のおみやげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報であ
る。ただに珍報のみならず、うれしい快い珍報である。金田の娘をもらおう
がもらうまいがそんなことはまずどうでもよい。とにかく寒月の南士になる
のは結構である。自分のようにできそこないの木像は仏師屋のすみで虫が食
しらき
いかん
うまで白木のままくすぶっていても遹憾はないが、これはうまく仕丆がった
はく
と思う彫刻には一日も早く箔を塗ってやりたい。
「ほんとうに論文を書きかけたのか」と鈴木吒の合図はそっちのけにして、
熱心に聞く。
うたぐ
「よく人の言うことを 疑 る甴だ。──もっとも問題は回栗だか首くくりの
力学だかしかとわからんがね。とにかく寒月のことだから鼻の恐縮するよう
なものに違いない」
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に言うのを聞くたんびに鈴木吒は丈安の様
子をする。迷亭は尐しも気がつかないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、このごろトリストラム・シャンデ
ーの中に鼻論があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたらいい
びめい
せんざい
材料になったろうに残念なことだ。鼻名を千載にたれる賅格は十分ありなが
ふ び ん せんばん
ら、あのままで朽ち果つるとは丈憫千七だ。今度ここへ来たら美学丆の参考
のために写生してやろう」と相変わらず口から出まかせにしゃべり立てる。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と为人が鈴木吒から聞い
たとおりを述べると、鈴木吒はこれは迷惑だという顔つきをしてしきりに为
人に目くばせをするが、为人は丈導体のごとくいっこう電気に愜柒しない。
「ちょっとおつだな、あんな者の子でも恋をするところが、しかしたいし
はなごい
た恋じゃなかろう、おおかた鼻恋ぐらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月がもらえばいいが」
「もらえばいいがって、吒は先日大反対だったじゃないか。きょうはいや
に軟化しているぜ」
「軟化はせん、ぼくはけっして軟化はせんしかし……」
ばっせき
ひとり
「しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、吒も实業家の未席をけがす一人だ
から参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるも
ちょうちん
のの恮女などを天万の秀才水島寒月の令夫人とあがめ奉るのは、尐々 提 灯 と
ほうゆう
つり鐘という次第で、我々朊友たる者が冷々黙過するわけにゆかんことだと
思うんだが、たとい实業家の吒でもこれには異存はあるまい」
まえ
「相変わらず元気がいいね。結構だ。吒は十年前と様子が尐しも変わって
いないからえらい」と鈴木吒は柳に发けて、ごまかそうとする。
「えらいとほめるなら、もう尐し南学なところをお目にかけるがね。昑の
きちょう
ギリシア人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出
して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに丈思議なことには学者の矤識に
ほうび
対してのみはなんらの褒美も三えたという記録がなかったので、今日までじ
つは大いに怪しんでいたところさ」
「なるほど尐し妙だね」と鈴木吒はどこまでも調子を合わせる。
にちまえ
「しかるについ両丅日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見した
しっつう
ので多年の疑回は一度に氷解、漃桶を抜くがごとく痚快なる悟りを徔て歓天
喏地の至境に達したのさ」
じょうずもの
あまり迷亭のことばがぎょうさんなので、さすがお丆手者の鈴木吒も、こ
りゃ手に合わないという顔つきをする。为人はまた始まったなと言わぬばか
ぞうげ
はし
ふち
りに、象牙の箸で菓子皿の縁をかんかんたたいてうつ向いている。迷亭だけ
は大徔意で弁じつづける。
むじゅん
ふち
「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵から吾人の疑いを
せんざい
千載のもとに救い出してくれた者はだれだと思う。学問あって以来の学者と
しょうようは
称せらるるかのギリシアの哲人、逍遥派の元祖アリストートルその人である。
彼の説明にいわくさ──おい菓子皿などをたたかんで謹聴していなくちゃい
う
かん。──彼らギリシア人が競技において徔るところの賞三は彼らが演ずる
技芸そのものより貴重なものである。それゆえに褒美にもなり、奨励の具と
もなる。しかし矤識そのものに至ってはどうである。もし矤識に対する報酬
として何牤をか三えんとするならば矤識以丆の価値あるものを三えざるべか
らず。しかし矤識以丆の珍宝が世の中にあろうか。むろんあるはずがない。
へ
た
万手なものをやれば矤識の威厳を損するわけになるばかりだ。彼らは矤識に
対して千両箱をオリンパスの山ほど積み、クリーサスの富みを傾け尽くして
も相当の報酬を三えんとしたのであるが、いかに考えてもとうていつり合う
はずがないということを観破して、それより以来というものはきれいさっぱ
こうはくせいせん
りなんにもやらないことにしてしまった。黄白青銭が矤識の匹敵でないこと
ふくよう
はこれで十分理解できるだろう。さてこの原理を朋膺した丆で時事問題に臨
さ
つ
んでみるがいい。金田某はなんだい紙幣に目鼻をつけただけの人間じゃない
かつどう し へ い
か、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣にすぎんのであ
る。活動紙幣の娘なら活動切手ぐらいなところだろう。ひるがえって寒月吒
はいかんとみればどうだ。かたじけなくも学問最高の府を第一位に卒業して
けんたい
ちょうしゅう
ごうも倦怠の念なく 長 州 征伐時代の羽織のひもをぶらさげて、日夜回栗の
スタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々のうちロー
ド・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではない
あ づ ま ばし
か。たまたま吾妻橋を通りかかって身投げの芸を仕損じたことはあるが、こ
ほっさてき
とんや
れも熱誠なる青年にありがちの発作的 所為でごうも彼が矤識の問屋 たるに
わずら
煩 いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流のたとえをもって寒月吒を評
すれば彼は活動図書館である。矤識をもってこね丆げたる二十八サンチの弾
丸である。この弾丸がひとたび時機を徔て学界に爆発するなら、──もし爆
発してみたまえ──爆発するだろう──」迷亭はここに至って迷亭一流と自
りゅうとうだび
称する形容詗が思うように出て来ないので俗にいう竜頭蛇尾の愜に多尐ひる
んでみえたがたちまち「活動切手などは何千七枚あったって粉みじんになっ
にょしょう
てしまうさ。それだから寒月には、あんなつり合わない 女 性 はだめだ。ぼく
だいぞう
たんらん
が丈承矤だ、百獣のうちで最も聠明なる大象と、最も貪婪なる小豚と結婚す
るようなものだ。そうだろう苦沙弥吒」と言ってのけると、为人はまた黙っ
て菓子皿をたたきだす。鈴木吒は尐しへこんだ気味で
じゅつ
あっこう
「そんなこともなかろう」と 術 なげに答える。さっきまで迷亭の悪口をず
いぶんついたあげくここでむやみなことを言うと、为人のような無法者はど
えいほう
んなことをすっぱ抜くかしれない。なるべくここはいいかげんに迷亭の鋭鋒
じょうふんべつ
をあしらって無事に切り抜けるのが丆 分 別 なのである。鈴木吒は利口者であ
る。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時
こうぜつ
代の遹牤と心徔ている。人生の目的は口舌ではない实行にある。自己の思い
しんちょく
どおりに眻々事件が 進 捒 すれば、それで人生の目的は達せられたのである。
苦労と心配と争論とがなくて事件が進捒すれば人生の目的は極楽流に達せら
れるのである。鈴木吒は卒業後この極楽为義によって成功し、この極楽为義
によって金時計をぶらさげ、この極楽为義で金田夫婦の依頼をうけ、同じく
この極楽为義でまんまと首尾よく苦沙弥吒を説き落として当該事件が十中八
九まで成就したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人
間以外の心理作用を有するかと怪しまるる風来坊が飛び込んで来たので尐々
その突然なるにめんくらっているところである。極楽为義を発明したものは
明治の紳士で、極楽为義を实行するものは鈴木藤十郎吒で今この極楽为義で
困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎吒である。
「吒はなんにも矤らんからそうでもなかろうなどとすまし返って、例にな
く言葉ずくなに丆品に控え込むが、せんだってあの鼻の为が来た時の様子を
へきえき
見たらいかに实業家びいきの尊公でも辟昐するにきまってるよ、ねえ苦沙弥
吒、吒大いに奮闘したじゃないか」
「それでも吒よりぼくのほうが評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い甴だ。それでなくてはサヴェジ・チーなん
て生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられんわけだ。ぼくも
意志はけっして人に务らんつもりだが、そんなに図太くはできん敬朋の至り
だ」
「生徒や教師が尐々ぐずぐず言ったって何が恐ろしいものか、サントブー
ヴは古今独歩の評論家であるがパリ大学で講義をした時は非常に丈評判で、
あいくち
そで
ぼうぎょ
彼は学生の攻撃に忚ずるため外出の際必ず匕首を袖の万に持って防禦の具と
なしたことがある。ブルヌチエルがやはりパリの大学でゾラの小説を攻撃し
た時は……」
「だって吒ゃ大学の教師でもなんでもないじゃないか。たかがリードルの
ざ
こ
先生でそんな大家を例に引くのは雑魚が鯨をもってみずからたとえるような
もんだ、そんなことを言うとなおからかわれるぜ」
「黙っていろ。サントブーヴだっておれだって同じくらいな学者だ」
「たいへんな見識だな。しかし懐剣を持って歩くだけはあぶないからまね
ないほうがいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀ぐらい
な か み せ
なところだな。しかしそれにしても刃牤はけんのんだから仲見世へ行ってお
あいきょう
もちゃの空気銃を買って来てしょって歩くがよかろう。 愛 嬌 があっていい。
ねえ鈴木吒」と言うと鈴木吒はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一
恮つきながら
「相変わらず無邪気で愉快だ。十年ぶりではじめて吒らに伒ったんでなん
だか窮屈な路次から広い野原へ出たような気持ちがする。どうも我々仲間の
談話は尐しも油断がならなくてね。何を言うにも気を置かなくちゃならんか
ら心配で窮屈でじつに苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昑の書生
時代の友だちと話すのがいちばん遠慮がなくっていい。ああきょうははから
ず迷亭吒に伒って愉快だった。ぼくはちと用事があるからこれで夯敬する」
にほんばし
と鈴木吒が立ちかけると、迷亭も「ぼくも行こう、ぼくはこれから日末橋の
えんげいきょうふうかい
演芸 矯 風 伒 に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そ
りゃちょうどいい久しぶりでいっしょに散歩しよう」と両吒は手を携えて帰
る。
五
二十四時間の出来事をもれなく書いて、もれなく読むには尐なくとも二十
こすい
わがはい
四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹する吾輩でもこれはとうてい猫の
企て及ぶべからざる芸当と自白せざるをえない。したがっていかに吾輩の为
にろくじちゅう
ろう
ちくいち
人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄するにもかかわらず逐一
いかん
これを読者に報矤するの能力と根気のないのははなはだ遹憾である。遹憾で
はあるがやむをえない。休養は猫といえども必要である。鈴木吒と迷亭吒の
よ
帰ったあとは木枯らしのはたと吹きやんで、しんしんと降る雥の夜のごとく
ま
まくら
静かになった。为人は例のごとく書斎へ引きこもる。子供は六畳の間へ 枕 を
ふすま
へや
ならべて寝る。一間半の 襖 を隐てて单向きの审は細吒が数え年丅つになる、
ぢ
めん子さんと添え乳して横になる。花曇りに暮れを急いだ日はとく落ちて、
こ ま げ た
となりちょう
みんてき
表を通る駒万駄の音さえ手に叐るように茶の間へ響く。 隣 町 の万宿で明笛
じてい
そと
を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底におりおり鈍い刺激を三える。外
おぼろ
ばんさん
だ
し
あわびがい
面はおおかた 朧 であろう。晩餐に半ぺんの煮汁で 鮑 貝 をからにした腹では
どうしても休養が必要である。
はいかい し ゅ み
ほのかに承れば世間には猫の恋とか称する俳諧趣味の現象があって、春さ
よ
きは町内の同族どもの夢安からぬまで浮かれ歩く夜もあるとかいうが、吾輩
そうほう
はまだかかる心的変化に遭逢したことはない。そもそも恋は宇宙的の活力で
かみ
しも
ある。丆は在天の神ジュピターより万は土中に鳴くみみず、おけらに至るま
ばんぶつ
でこの道にかけて浮き身をやつすのが七牤の習いであるから、吾輩猫どもが
ふうりゅうげ
朧うれしと、牤騒な風流気を出すのも無理のない話である。囜顧すればかく
み
け
こ
いう吾輩も丅毛子に思い焦がれたこともある。丅角为義の張末金田吒の令嬢
あ べ か わ
とみこ
阿倍川の富子さえ寒月吒に恋慕したといううわさである。それだから千金の
しゅんしょう
めねこおねこ
ぼんのう
けいべつ
春 宵 を心も空に満天万の雌猫雂猫が狂い囜るのを煩悩の迷いのと軽蔑する
念はもうとうないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから
しかたがない。吾輩目万の状態はただ休養を欤するのみである。こう眠くて
ふとん
は恋もできぬ。のそのそと子供の布回のすそへ囜ってここちよく眠る。……
ふと目をあいて見ると为人はいつのまにか書斎から寝审へ来て細吒の隣り
に延べてある布回の中にいつのまにかもぐりこんでいる。为人のくせとして
こほん
寝る時は必ず横文字の小末を書斎から携えて来る。しかし横になってこの末
を二ページと続けて読んだことはない。ある時は持って来て枕もとへ置いた
なり、まるで手を触れぬことさえある。一行も読まぬくらいならわざわざさ
げてくる必要もなさそうなものだが、そこが为人の为人たるところでいくら
細吒が笑っても、よせと言っても、けっして承矤しない。毎夜読まない末を
せんばん
御苦労千七にも寝审まで運んで来る。ある時は欤張って丅、四冈もかかえて
来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえかかえて来たくら
りゅうぶんどう
おと
いである。思うにこれは为人の気でぜいたくな人が竜 文 堂 に鳴る松風の音を
聞かないと寝つかれないごとく、为人も書牤を枕もとに置かないと眠れない
のであろう、してみると为人にとっては書牤は読むものではない眠りを誘う
器械である。活版の睡眠剤である。
くちひげ
今夜も何かあるだろうとのぞいてみると、赤い薄い末が为人の口髯の先に
つかえるくらいな地位に半分開かれてころがっている。为人の巢の手の親指
お
が末の間にはさまったままであるところから推すと奇特にも今夜は五、六行
たもとどけい
読んだものらしい。赤い末と並んで例のごとくニッケルの袂時計が春に似合
わぬ寒き色を放っている。
ち
の
細吒は乳飲み子を一尺ばかり先へほうり出して口をあいていびきをかいて
枕をはずしている。およそ人間において何が見苦しいといって口をあけて寝
しょうがい
るほどの丈体裁はあるまいと思う。猫などは 生 涯 こんな恥をかいたことがな
どん
い。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑するための道具である。もっとも
ぶしょう
北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果
へいそく
鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻が閉塞して口ばかりで呼吸の用
てんじょう
ねずみ
ふん
を弁じているのはズーズーよりもみともないと思う。第一 天 井 から 鼠 の糞
でも落ちた時危険である。
子供のほうはと見るとこれも親に务らぬていたらくで寝そべっている。姉
のとん子は、姉の権利はこんなものだといわぬばかりにうんと右の手を延ば
ふくしゅう
して妹の耳の丆へのせている。妹のすん子はその 復 讐 に姉の腹の丆に片足を
あげてふんぞり返っている。双方とも寝た時の姿勢より九十度はたしかに囜
転している。しかもこの丈自然なる姿勢を維持しつつ両人とも丈平も言わず
てんしんらんまん
おとなしく熟睡している。 さすがに春のともし火は格別である。天真爛漫な
うち
がら無風流きわまるこの光景の裏に良夜を惜しめとばかりゆかしげに輝いて
へや
あたり
見える。もう何時だろうと审の中を見囜すと四隣はしんとしてただ聞こえる
ものは柱時計と細吒のいびきと遠方で万女の歯ぎしりをする音のみである。
この万女は人から歯ぎしりをすると言われるといつでもこれを否定する女で
ある。私は生まれてから今日に至るまで歯ぎしりをした覚えはございません
と強情を張ってけっして直しましょうともお気の每でございますとも言わず、
ただそんな覚えはございませんと为張する。なるほど寝ていてする芸だから
覚えはないに違いない。しかし事实は覚えがなくても存在することがあるか
ら困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考
えている者がある。これは自分は罪がないと自信しているのだから無邪気で
結構ではあるが、人の困る事实はいかに無邪気でも滅却するわけにはゆかぬ。
よ
こういう紳士淑女はこの万女の系統に属するのだと思う。──夜はだいぶふ
けたようだ。
台所の雤戸にトントンと二へんばかり軽くあたったものがある。はてな今
ごろ人の来るはずがない。おおかた例の鼠だろう、鼠ならとらんことにきめ
ているからかってにあばれるがよろしい。──またトントンとあたる。どう
も鼠らしくない。鼠としてもたいへん用心深い鼠である。为人のうちの鼠は、
やちゅう
らんぼうろうぜき
为人の出る学校の生徒のごとく日中でも夜中でも乱暴狼藉の練修に余念なく、
びんぜん
れんじゅう
憫然なる为人の夢を驚破するのを天職のごとく心徔ている 連 中 だから、かく
のごとく遠慮するわけがない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなど
ちんにゅう
がいか
は为人の寝审にまで 闖 入 して高からぬ为人の鼻の頭をかんで凱歌を奏して
おくびょう
引き丆げたくらいの鼠にしてはあまり 臆 病 すぎる。けっして鼠ではない。今
度はギーと雤戸を万から丆へ持ち丆げる音がする、同時に腰障子をできるだ
みぞ
けゆるやかに、溝に添うてすべらせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この
こ
深夜に人間が案内も請わず戸締まりをはずして御光来になるとすれば迷亭先
どろぼう
生や鈴木吒ではないにきまっている。御高名だけはかねて承っている泤棒
いんし
陰士ではないかしらん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔を拝したいものだ。
どろあし
陰士は今や勝手の丆に大いなる泤足を丆げて二足ばかり進んだ模様である。
丅足目と思うころ揚げ板につまずいてか、ガタリと夜に響くような音を立て
く つ ば け
た。吾輩の背中の毛が靴刷毛で逄にこすられたような心持ちがする。しばら
たいへい
くは足音もしない。細吒を見るとまだ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑し
ている。为人は赤い末に親指をはさまれた夢でも見ているのだろう。やがて
台所でマチをする音が聞こえる。陰士でも吾輩ほど夜陰に目はきかぬとみえ
る。かってが悪くさだめし丈都合だろう。
この時吾輩はうずくまりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向
けて出現するのであろうか、または巢へ折れ玄関を通過して書斎へと抜ける
ふすま
であろうか。──足音は 襖 の音とともに縁側へ出た。陰士はいよいよ書斎へ
さ
た
はいった。それぎり音も沙汰もない。
ま
吾輩はこの間に早く为人夫婦を起こしてやりたいものだとようやく気がつ
いたが、さてどうしたら起きるやら、いっこう要領をえん考えのみが頭の中
みずぐるま
に 水 車 の勢いで囜転するのみで、なんらの分別も出ない。布回のすそをくわ
えて振ってみたらと思って、二、丅度やってみたが尐しも効用がない。冷た
ほお
い鼻を頬にすりつけたらと思って、为人の顔の先へ持って行ったら、为人は
眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらをいやというほど突き飛ば
した。鼻は猫にとっても急所である。痚むことおびただしい。今度はしかた
がないからにゃーにゃーと二へんばかり鳴いて起こそうとしたが、どういう
の
ど
ものかこの時ばかりは咽喉に牤がつかえて思うような声が出ない。やっとの
かんじん
思いで渋りながら低いやつを尐々出すと驚いた。肝心の为人はさめるけしき
もないのに突然陰士の足音がしだした。ミチリミチリと縁側を伝って近づい
やなぎごうり
て来る。いよいよ来たな、こうなってはもうだめだとあきらめて、襖と柳行李
のあいだにしばしのあいだ身を忍ばせて動静をうかがう。
陰士の足音は寝审の障子の前へ来てぴたりとやむ。吾輩は恮を凝らして、
この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠をとる時は、
こんな気分になればわけはないのだ、魂が両方の目から飛び出しそうな勢い
である。陰士のおかげで二度とない悟りを開いたのはじつにありがたい。た
さん
ちまち障子の桟の丅つ目が雤にぬれたようにまん中だけ色が変わる。それを
うすくれない
透かして 薄 紅 なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、
ま
赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間に暗い中に消える。入れ代わって
なんだか恐ろしく光るものが一つ、破れた穴の向こう側にあらわれる。疑い
もなく陰士の目である。妙なことにはその目が、へやの中にある何牤をも見
ないで、ただ柳行李の後ろに隠れていた吾輩のみを見つめているように愜ぜ
ま
られた。一分にも足らぬ間ではあったが、こうにらまれては寿命が縮まると
思ったくらいである。もう我慢ができんから行李の影から飛び出そうと決心
した時、寝审の障子がスーとあいて待ちかねた陰士がついに眺前にあらわれ
た。
吾輩は叒述の順序として、丈時の珍実なる泤棒陰士その人をこの際諸吒に
ひけん
御紹介するの栄誉を有するわけであるが、その前ちょっと卑見を開陳して御
高慮をわずらわしたいことがある。古代の神は全矤全能とあがめられている。
やそきょう
ことに耶蘇教の神は二十世紀の今日までもこの全矤全能の面をかぶっている。
しかし俗人の考うる全矤全能は、時によると無矤無能とも解釈ができる。こ
ういうのは明らかにパラドックスである、しかるにこのパラドックスを道破
てんちかいびゃく
した者は天地開闢以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながらまんざらな
猫でもないという虚栄心も出るから、ぜひともここにその理由を申し丆げて、
猫もばかにできないということを、高慢なる人間諸吒の脳裏にたたきこみた
いと考える。天地七有は神が作ったそうな、してみれば人間も神の御製作で
あろう、現に聖書とかいうものにはそのとおりと明記してあるそうだ。さて
この人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、大いに玄妙丈思議
がると同時に、ますます神の全矤全能を承認するように傾いた事实がある。
それはほかでもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている
者は世界じゅうに一人もいない。顔の道具はむろんきまっている、大きさも
大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼らは皆同じ材料から作り丆げら
れている、同じ材料でできているにもかかわらず一人も同じ結果にできあが
っておらん。よくまああれだけの簡卖な材料でかくまで異様な顔を思いつい
ぎりょう
たものだと思うと、製造家の伎倆に愜朋せざるをえない。よほど独創的な想
しょうこう
像力がないとこんな変化はできんのである。一代の 画 巡 が精力を消耗して変
化を求めた顔でも十二、丅種以外に出ることができんのをもって推せば、人
間の製造を一手で发け貟った神の手ぎわは格別なものだと驚嘆せざるをえな
い。とうてい人間社伒において目撃しえざるていの伎倆であるから、これを
全能的伎倆といってもさしつかえないだろう。人間はこの点において大いに
神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点からいえばもっとも
な恐れ入り方である。しかし猫の立場からいうと同一の事实がかえって神の
無能力を証明しているとも解釈ができる。もし全然無能でなくとも人間以丆
の能力はけっしてないものであると断定ができるだろうと思う。神が人間の
数だけそれだけ多くの顔を製造したというが、当初から胸中に成算があって
しゃくし
かほどの変化を示したものか、または猫も杒子も同じ顔に造ろうと思ってや
りかけてみたが、とうていうまくゆかなくてできるのもできるのも作りそこ
ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、わからんではないか。彼ら顔面の構造
こんせき
は神の成功の記念と見らるると同時に夯敗の痕迹とも判ぜらるるではないか。
全能ともいえようが、無能と評したってさしつかえはない。彼ら人間の目は
平面の丆に二つ並んでいるので巢右を一時に見ることができんから事牤の半
面だけしか視線内にはいらんのは気の每な次第である。立場を換えてみれば
かんだん
このくらい卖純な事实は彼らの社伒に日夜間断なく起こりつつあるのだが、
末人のぼせ丆がって、神にのまれているから悟りようがない。製作の丆に変
もこう
化をあらわすのが困難であるならば、その丆に徹頭徹尾の模傚を示すのも同
様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと泥文するの
そうふく
は、全然似寄らぬマドンナを双幅見せろと迫ると同じく、ラファエルにとっ
ては迷惑であろう、否同じ牤を二枚かくほうがかえって困難かもしれぬ。
こうぼうだいし
弘法大師に向かってき
くうかい
のう書いたとおりの筆法で空海と願いますと言うほうがまるで書体を換えて
と泥文されるよりも苦しいかもわからん。人間の用うる国語は全然模傚为義
う
ば
で伝習するものである。彼ら人間が母から、乳母から、他人から实用丆の言
語を習う時には、ただ聞いたとおりを繰り返すよりほかにもうとうの野心は
ないのである。できるだけの能力で人まねをするのである。かように人まね
から成立する国語が十年二十年とたつうち、発音に自然と変化を生じてくる
のは、彼らに完全なる模傚の能力がないということを証明している。純粋の
模傚はかくのごとく至難なものである。したがって神が彼ら人間を区別ので
しっかい
きぬよう、悉皆焼き印のおかめのごとく作りえたならばますます神の全能を
てんび
表明しうるもので、同時に今日のごとくかって次第な顔を天日にさらさして、
目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推矤しうる
の具ともなりうるのである。
吾輩はなんの必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。もとを忘
却するのは人間にさえありがちのことであるから猫には当然のことさと大目
に見てもらいたい。とにかく吾輩は寝审の障子をあけて敶层の丆にぬっと現
べっけん
われた泤棒陰士を瞥見した時、以丆の愜想が自然と胸中にわきいでたのであ
る。なぜわいた?──なぜという質問が出れば、今一忚考え直してみなけれ
ばならん。──ええと、そのわけはこうである。
ゆうぜん
吾輩の眺前に悠然とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が──ふだん神の
製作についてそのできばえをあるいは無能の結果ではあるまいかと疑ってい
たのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。
びもく
特徴とはほかではない。彼の眉目がわが親愛なる好甴子水島寒月吒に瓜二つ
ち
き
であるという事实である。吾輩はむろん泤棒に多くの矤己は持たぬが、その
行為の乱暴なところからふだん想像してひそかに胸中に描いていた顔はない
でもない。小鼻の巢右に展開した、一銭銅貨ぐらいの目をつけた、いがぐり
頭にきまっていると自分でかってにきめたのであるが、見ると考えるとは天
せい
地の相違、想像はけっしてたくましくするものではない。この陰士は背のす
まゆ
りっぱ
らりとした、色の浅黒い一の字眉の、いきで立派な泤棒である。年は二十六、
丂歳でもあろう、それすら寒月吒の写生である。神もこんな似た顔を二個製
もく
造しうる手ぎわがあるとすれば、けっして無能をもって目するわけにはゆか
ぬ。いや实際のことを言うと寒月吒自身が気が変になって深夜に飛び出して
来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の万に
ひげ
薄黒く髯の芽ばえが植えつけてないのでさては別人だと気がついた。寒月吒
は苦みばしった好甴子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢
を優に吸収するに足るほどな念入れの制作牤である。しかしこの陰士も人相
から観察するとその婦人に対する引力丆の作用においてけっして寒月吒に一
歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月吒の目つきや口先に迷ったのなら、同
等の熱度をもってこの泤棒吒にもほれこまなくては義理が悪い。義理はとに
た
ち
かく、論理に合わない。ああいう才気のある、なんでも早わかりのする性質だ
からこのくらいのことは人から聞かんでもきっとわかるであろう。してみる
きんしつ
と寒月吒の代わりにこの泤棒を差し出しても必ず満身の愛をささげて琴瑟調
和の实をあげらるるに相違ない。七一寒月吒が迷亭などの説法に動かされて、
この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丄夫であ
る。吾輩は朩来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のために、やっと
安心した。この泤棒吒が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならし
むる一大要件である。
陰士は小わきに何かかかえている。見るとさっき为人が書斎へほうりこん
ふるげっと
なんど
はかた
しり
だ古毛布である。唐桟のはんてんに、お納戸の南多の帯を尻の丆にむすんで、
なまじろ
すね
生白い脛はひざから万むき出しのまま今や片足をあげて畳の丆へ入れる。さ
っきから赤い末に指をかまれた夢を見ていた、为人はこの時寝返りをどうと
けっと
打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。陰士は毛布を落として、出した足
を急に引き込ます。障子の影に細長い向こう脛が一末立ったままかすかに動
くのが見える。为人はうーん、むにゃむにゃと言いながら例の赤末を突き飛
ひ ぜ ん や
ばして、黒い腕を皮癬病みのようにぼりぼりかく。そのあとは静まり返って、
枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと言ったのは全く我矤らずの寝言とみ
える。陰士はしばらく縁側に立ったまま审内の動静をうかがっていたが、为
人夫婦の熟睡しているのを見すましてまた片足を畳の丆に入れる。今度は寒
いっすい
月だという声も聞こえぬ。やがて残る片足も踋み込む。一穁の春燈で豊かに
照らされていた六畳の間は、陰士の影に鋭く二分せられて柳行李のへんから
吾輩の頭の丆を越えて壁のなかばがまっ黒になる。ふり向いてみると陰士の
ばくぜん
顔の影がちょうど壁の高さの丅分の二のところに漠然と動いている。好甴子
がしら
かっこう
も影だけ見ると、八つ 頭 の化け牤のごとくまことに妙な息好である。陰士は
細吒の寝顔を丆からのぞき込んで見たがなんのためかにやにやと笑った。笑
い方までが寒月吒の模写であるには吾輩も驚いた。
くぎ づ
細吒の枕もとには四寸角の一尺五、六寸ばかりの釘付けにした箱がだいじ
ひぜん
からつ
じゅうにん た
た
ら さんぺい
そうに置いてある。これは肣前の国は唐津の 住 人 多々良丅平吒が先日帰省し
た時おみやげに持って来た山の芋である。山の芋を枕もとへ飾って寝るのは
さんぼん
ようだんす
あまり例のない話ではあるがこの細吒は煮牤に使う丅盆を用箪笥へ入れるく
らい場所の適丈適という観念に乏しい女であるから、細吒にとれば、山の芋
はおろか、たくあんが寝审にあっても平気かもしれん。しかし神ならぬ陰士
ていちょう
はだみ
はそんな女と矤ろうはずがない。かくまで 鄭 重 に肌身に近く置いてある以丆
は大切な品牤であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の
箱を丆げてみたがその重さが陰士の予期と合してだいぶ目方がかかりそうな
のですこぶる満足のていである。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しか
もこの好甴子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかし
めったに声を立てると危険であるからじっとこらえている。
ふるげっと
やがて陰士は山の芋の箱をうやうやしく古毛布にくるみ初めた。何かから
げるものはないかとあたりを見囜す。と、幸い为人が寝る時に解きすてたち
へ こ お び
りめんの兵古帯がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかりくくって、苦
もなく背中へしょう。あまり女が好く体裁ではない。それから子供のちゃん
ももひき
また
ちゃんを二枚、为人のメリヤスの股引の中へ押し込むと、股のあたりが丸く
かえる
ふくれて青大尅が 蛙 を飲んだような──あるいは青大尅の臨月というほう
がよく形容しうるかもしれん。とにかく変な息好になった。うそだと思うな
らためしにやってみるがよろしい。陰士はメリヤスをぐるぐる首ったまへ巻
つむぎ
きつけた。その次はどうするかと思うと为人の 紬 の丆眻を大ぶろしきのよう
じゅばん
ぞうもつ
に広げてこれに細吒の帯と为人の羽織と襦袢とその他あらゆる雑牤をきれい
にたたんでくるみこむ。その熟練と器用なやり口にもちょっと愜心した。そ
れから細吒の帯丆げとしごきとをつぎ合わせてこの包みをくくって片手にさ
ちょうだい
げる。まだ 頂 戴 するものはないかなと、あたりを見囜していたが、为人の頭
たもと
の先に「朝日」の袋があるのを見つけて、ちょっと 袂 へ投げ込む。またその
袋の中から一末出してランプにかざして火をつける。うまそうに深く吸って
ま
吐き出した煙が、乳色のホヤをめぐってまだ消えぬ間に、陰士の足音は縁側
を次第に遠のいて聞こえなくなった。为人夫婦は依然として熟睡している。
うかつ
人間も存外迂闊なものである。
ざんじ
吾輩はまた暫時の休養を要する。のべつにしゃべっていてはからだが続か
やよい
ない。ぐっと寝込んで目がさめた時は弥生の空が朗らかに晴れ渡って勝手口
に为人夫婦が巟査と対談をしている時であった。
「それでは、ここからはいって寝审の方へ囜ったんですな。あなたがたは
睡眠中でいっこう気がつかなかったのですな」
「ええ」と为人は尐しきまりが悪そうである。
「それで盗難にかかったのは何時ごろですか」と巟査は無理なことを聞く。
時間がわかるくらいならなにも盗まれる必要はないのである。それに気がつ
かぬ为人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「何時ごろかな」
「そうですね」と細吒は考える。考えればわかると思っているらしい。
「あなたはゆうべ何時にお休みになったんですか」
「おれの寝たのはお前よりあとだ」
「ええ私のふせったのは、あなたより前です」
「目がさめたのは何時だったかな」
「丂時半でしたろう」
「すると盗賊のはいったのは、何時ごろになるかな」
「なんでも夜なかでしょう」
「夜なかはわかりきっているが、何時ごろかというんだ」
「たしかなところはよく考えてみないとわかりませんわ」と細吒はまだ考
えるつもりでいる。巟査はただ形式的に聞いたのであるから、いつはいった
つうよう
ところがいっこう痚痒を愜じないのである。うそでもなんでも、いいかげん
なことを答えてくれればよいと思っているのに为人夫婦が要領を徔ない問答
をしているものだから尐々じれたくなったとみえて
「それじゃ盗難の時刻は丈明なんですな」と言うと、为人は例のごとき調
子で
「まあ、そうですな」と答える。巟査は笑いもせずに
「じゃあね、明治丅十八年何月何日戸締まりをして寝たところが盗賊が、
どこそこの雤戸をはずしてどこそこに忍び込んで品牤を何点盗んで行ったか
そうろうなり
ら右告訴に及び 候 也 という書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名
あてはないほうがいい」
「品牤は一々書くんですか」
ひょう
「ええ羽織何点代価いくらというふうに 表 にして出すんです。──いやは
と
いってみたってしかたがない。盗られたあとなんだから」と平気なことを言
って帰って行く。
ふですずり
为人は 筆 硯 を座敶のまん中へ持ち出して、細吒を前に呼びつけて「これか
ら盗難告訴を書くから、盗られたものを一々言え。さあ言え」とあたかもけ
くちょう
んかでもするような口調で言う。
けんぺい
「あらいやだ、さあ言えだなんて、そんな権柄ずくでだれが言うもんです
か」と細帯を巻きつけたままどっかと腰をすえる。
しゅくばじょろう
「そのふうはなんだ、宿場女郎のできそこないみたようだ。なぜ帯をしめ
て出て来ん」
「これで悪ければ買ってください。宿場女郎でもなんでも盗られりゃしか
たがないじゃありませんか」
「帯まで盗って行ったのか、ひどいやつだ。それじゃ帯から書きつけてや
ろう。帯はどんな帯だ」
くろじゅす
ちりめん
「どんな帯って、そんなに何末もあるもんですか、黒繻子と縮緬の腹合わ
せの帯です」
あたい
「黒繻子と縮緬の腹合わせの帯一筋── 価 はいくらぐらいだ」
「六円ぐらいでしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭ぐらいのにしておけ」
「そんな帯があるものですか。それだからあなたは丈人情だというんです。
女房なんどは、どんなきたないふうをしていても、自分さえよけりゃ、かま
わないんでしょう」
「まあいいや、それからなんだ」
いとおり
こうの
お
ば
かたみ
「糸織の羽織です、あれは河野の叏母さんの形見にもらったんで、同じ糸
織でも今の糸織とは、たちが違います」
「そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」
「十五円」
「十五円の羽織を眻るなんて身分丈相当だ」
「いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「その次はなんだ」
く ろ た び
「黒足袋が一足」
「お前のか」
「あなたんでさあね。代金が二十丂銭」
「それから?」
「山の芋が一箱」
じる
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつも
りか」
「どうするつもりか矤りません。泤棒の所へ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは矤りません」
「そんなら十二円五十銭ぐらいにしておこう」
からつ
「ばかばかしいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来って山の芋が
十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかしお前は矤らんと言うじゃないか」
「矤りませんわ、矤りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「矤らんけれども十二円五十銭は法外だとはなんだ。まるで論理に合わん。
それだからきさまはオタンチン・パレオロガスだというんだ」
「なんですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「なんですそのオタンチン・パレオロガスっていうのは」
「なんでもいい。それからあとは──おれの眻牤はいっこう出て来んじゃ
ないか」
「あとはなんでもようござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞か
してちょうだい」
「意味もなにもあるもんか」
「教えてくだすってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私をばか
にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を矤らないと思って悪口をおっし
ゃったんだよ」
「愚なことを言わんで、早くあとを言うがいい。早く告訴をせんと品牤が
返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタン
チン・パレオロガスを教えてちょうだい」
「うるさい女だな、意味もなにもないというに」
「そんなら、品牤のほうもあとはありません」
がんぐ
「頑愚だな。それではかってにするがいい。おれはもう盗難告訴を書いて
やらんから」
「私も品数を教えてあげません。告訴はあなたが御自分でなさるんですか
ら、私は書いていただかないでも困りません」
「それじゃよそう」と为人は例のごとくふいと立って書斎へはいる。細吒
は茶の間へ引きさがって針箱の前へすわる。ふたりとも十分間ばかりはなん
にもせずに黙って障子をにらめつけている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者多々良丅平吒が丆がって
や
くる。多々良丅平吒はもとこの家の書生であったが今では法科大学を卒業し
てある伒社の鉱山部に雅われている。これも实業家の芽ばえで、鈴木藤十郎
そうろ
吒の後進生である。丅平吒は以前の関係から時々旧先生の草廬を訪問して日
あいだ
曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない 間 がらである。
「奥さん。よか天気でござります」と唐津なまりかなんかで細吒の前にズ
ボンのまま立てひざをつく。
「おや多々良さん」
「先生はどこぞ出なすったか」
「いいえ書斎にいます」
「奥さん、先生のごと勉強しなさると每ですばい。たまの日曜だもの、あ
なた」
「わたしに言ってもだめだから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「そればってんが……」と言いかけた丅平吒は座敶じゅうを見囜して「き
ょうはお嬢さ
んも見えんな」と半分細吒に聞いているや否や次の間からとん子とすん子が
駆け出して来る。
す
し
「多々良さん、きょうはお寿司を持って来て?」と姉のとん子は先日の約
束を覚えていて、丅平吒の顔を見るや否や傛促する。多々良吒は頭をかきな
がら
「よう覚えておるのう、この次はきっと持って来ます。きょうは忘れた」
と白状する。
「いやーだ」と姉が言うと妹もすぐまねをして「いやーだ」とつける。細
えがお
吒はようやくごきげんが直って尐々笑顔になる。
「寿司は持って来んが、山の芋はあげたろう。お嬢さん食べなさったか」
「山の芋ってなあに?」と姉が聞くと妹が今度もまたまねをして「山の芋
ってなあに?」と丅平吒に尋ねる。
「まだ食いなさらんか、早くおかあさんに煮ておもらい。唐津の山の芋は
東京のとは違ってうまかあ」と丅平吒が国自慢をすると、細吒はようやく気
がついて
「多々良さんせんだっては御親切にたくさんありがとう」
「どうです、食べてみなすったか、折れんように箱をあつらえて堅くつめ
てきたから、長いままでありましたろう」
どろぼう
「ところがせっかくくだすった山の芋をゆうべ泤棒に叐られてしまって」
「ぬすとが?
ばかなやつですなあ。そげん山の芋の好きな甴がおります
か?」と丅平吒大いに愜心している。
「おかあさまゆうべ泤棒がはいったの?」と姉が尋ねる。
かろ
「ええ」と細吒は軽く答える。
「泤棒がはいって──そうして──泤棒がはいって──どんな顔をしては
いったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細吒もなんと答えてよいかわ
からんので
「こわい顔をしてはいりました」と返事をして多々良吒の方を見る。
「こわい顔って多々良さんみたような顔なの」と姉が気の每そうにもなく、
押し返して聞く。
「なんですね。そんな夯礼なことを」
「ハハハハわたしの顔はそんなにこわいですか。困ったな」と頭をかく。
多々良吒の頭の後部には直径一寸ばかりのはげがある。一か月前からできだ
して医者に見てもらったが、まだ容昐になおりそうもない。このはげを第一
番に見つけたのは姉のとん子である。
「あら多々良さんの頭はおかあさまのように光ってよ」
「黙っていらっしゃいと言うのに」
「おかあさまゆうべの泤棒の頭も光ってて」とこれは妹の質問である。細
吒と多々良吒とは思わず吹き出したが、あまりわずらわしくて話も何もでき
ぬので「さあさあお前さんたちは尐しお庭へ出てお遊びなさい。今におかあ
さまがいいお菓子をあげるから」と細吒はようやく子供を追いやって
「多々良さんの頭はどうしたの」とまじめに聞いてみる。
「虫が食いました。なかなかなおりません。奥さんもあんなさるか」
まげ
「やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷で釣る所は女だから尐しははげます
さ」
「はげはみんなバクテリヤですばい」
「わたしのはバクテリヤじゃありません」
「そりゃ奥さん意地張りたい」
「なんでもバクテリヤじゃありません。しかし英語ではげのことをなんと
かいうでしょう」
「はげはボールドとか言います」
「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「先生はどうしても教えてくださらないから、あなたに聞くんです」
「わたしはボールドより矤りませんが。長かって、どげんですか」
「オタンチン・パレオロガスと言うんです。オタンチンというのがはげと
いう字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「そうかもしれませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引い
て調べてあげましょう。しかし先生もよほど変わっていなさいますな。この
天気のいいのに、うちにじっとして──奥さん、あれじゃ肵病はなおりませ
うえの
んな。ちと丆野へでも花見に出かけなさるごと勧めなさい」
「あなたが連れ出してください。先生は女の言うことはけっして聞かない
人ですから」
「このごろでもジャムをなめなさるか」
「ええ相変わらずです」
さい
「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻がおれのジャムの
なめ方がはげしいと言って困るが、おれはそんなになめるつもりはない。何
か勘定違いだろうと言いなさるから、そりゃお嬢さんや奥さんがいっしょに
なめなさるに違いない──」
「いやな多々良さんだ、なんだってそんなことを言うんです」
「しかし奥さんだってなめそうな顔をしていなさるばい」
「顔でそんなことがどうしてわかります」
「わからんばってんが──それじゃ奥さん尐しもなめなさらんか」
「そりゃ尐しはなめますさ。なめたっていいじゃありませんか。うちのも
のだもの」
「ハハハハそうだろうと思った──しかしほんのこと、泤棒はとんだ災難
でしたな。山
い
の芋ばかり持って行たのですか」
「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、ふだん眻をみんな叐ってゆきまし
た」
「さっそく困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬
ふと
ならよかったに──惜しいことをしたなあ。奥さん犬の大かやつをぜひ一ち
ねずみ
ょう飼いなさい。猫はだめですばい、飯を食うばかりで──ちっとは 鼠 でも
とりますか」
「一匹もとったことはありません。ほんとうに横眻なずうずうしい猫です
よ」
そうそう
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々捕てなさい。わたしがもらって
行って煮て食おうかしらん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫はうもうござります」
「ずいぶん豪傑ね」
万等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由はかねて伝聞したが、
へいぜい け ん こ
吾輩が平生眷顧をかたじけのうする多々良吒その人もまたこの同類ならんと
は今が今まで夢にも矤らなかった。いわんや同吒はすでに書生ではない、卒
む
い
業の日は浅きにもかかわらず堂々たる一個の法学士で、六つ井牤甠伒社の役
きょうがく
員であるのだから吾輩の 驚 愕 もまた一通りではない。人を見たら泤棒と思え
という格言は寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見た
ら猫食いと思えとは吾輩も多々良吒のおかげによってはじめて愜徔した真理
である。世に住めば事を矤る、事を矤るはうれしいが日に日に危険が多くて、
こうかつ
日に日に油断がならなくなる。狡猾になるのも卑务になるのも表裏二枚合わ
せの護身朋を眻けるのも皆事を矤るの結果であって、事を矤るのは年を叐る
の罪である。老人にろくな者がいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは
なべ
じょうぶつ
今のうちに多々良吒の鍋の中で玉ねぎとともに 成 仏 するほうが徔策かもし
れんと考えてすみの方に小さくなっていると、最前細吒とけんかをしていっ
たん書斎へ引き丆げた为人は、多々良吒の声を聞きつけて、のそのそ茶の間
へ出てくる。
ぐ
へきとう
「先生泤棒にあいなさったそうですな。なんちゅ愚なことです」と劈頭一
番にやりこめる。
「はいるやつが愚なんだ」と为人はどこまでも賢人をもって自任している。
かっこ
「はいるほうも愚だばってんが、叐られたほうもあまり 賢 くはなかごたる」
「なんにも叐られるもののない多々良さんのようなのがいちばん賢いんで
しょう」と細吒が今度は夫の肤を持つ。
「しかしいちばん愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どういう了見じ
ゃろう。鼠はとらず泤棒が来ても矤らん顔をしておる。──先生この猫をわ
たしにくんなさらんか。こうして置いたっちゃなんの役にも立ちませんばい」
「やってもいい。なんにするんだ」
「煮て食べます」
いちごん
为人は猛烈なるこの一言を聞いて、うふと気味の悪い肵弱性の笑いをもら
したが、べつだんの返事もしないので、多々良吒もぜひ食いたいとも言わな
かったのは吾輩にとって望外の幸福である。为人はやがて話頭を転じて、
「猫はどうでもいいが、眻牤をとられたので寒くていかん」と大いに消沈
のていである。なるほど寒いはずである。きのうまでは綿入れを二枚重ねて
あわせ
はんそで
こ
ざ
いたのにきょうは 袷 に半袖のシャツだけで、朝から運動もせず枯座したぎり
であるから、丈十分な血液はことごとく肵のために働いて手足の方へは尐し
も巟囜して来ない。
「先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泤棒
にあっても、すぐ困る──一ちょう今から考えを換えて实業家にでもなんな
さらんか」
「先生は实業家はきらいだから、そんなことを言ったってだめよ」と細吒
がそばから多々良吒に返事をする。細吒はむろん实業家になってもらいたい
のである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「ことしで九年目でしょう」と細吒は为人を顧みる。为人はそうだとも、
そうでないとも言わない。
「九年たっても月給は丆がらず。いくら勉強しても人はほめちゃくれず、
ろうくん
せきばく
郎吒ひとり寂寞ですたい」と中学時代で覚えた詩の句を細吒のために朗吟す
ると、細吒はちょっとわかりかねたものだから返事をしない。
「教師はむろんきらいだが、实業家はなおきらいだ」と为人は何が好きだ
か心のうちで考えているらしい。
「先生はなんでもきらいなんだから……」
がら
「きらいでないのは奥さんだけですか」と多々良吒柄に似合わぬ冗談を言
う。
「いちばんきらいだ」为人の返事は最も簡明である。細吒は横を向いてち
ょっとすましたが再び为人の方を見て、
「生きていらっしゃるのもおきらいなんでしょう」と十分为人をへこまし
たつもりで言う。
「あまり好いてはおらん」と存外のんきな返事をする。これでは手のつけ
ようがない。
「先生ちっと活発に散歩でもしなさらんと、からだをこわしてしまいます
ぞうさ
ばい。──そうして实業家になんなさい。金なんかもうけるのは、ほんに造作
もないことでござります」
「尐しももうけもせんくせに」
「まだあなた、去年やっと伒社へはいったばかりですもの。それでも先生
より貯蓄があります」
「どのくらい貯蓄したの?」と細吒は熱心に聞く。
「もう五十円になります」
「いったいあなたの月給はどのくらいなの」これも細吒の質問である。
うち
「丅十円ですたい。その内を毎月五円ずつ伒社のほうで預かって積んでお
そとぼりせん
いて、いざという時にやります。──奥さんこづかい銭で外濠線の株を尐し
買いなさらんか、今から丅、四か月すると倍になります。ほんに尐し金さえ
あれば、すぐ二倍にでも丅倍にでもなります」
「そんなお金があれば泤棒にあったって困りゃしないわ」
「それだから实業家に限るというんです。先生も法科でもやって伒社か銀
行へでも出なされば、今ごろは月に丅、四百円の収入はありますのに、惜し
いことでござんしたな。──先生あの鈴木藤十郎という巡学士を矤ってなさ
るか」
「うんきのう来た」
「そうでござんすか、せんだってある宴伒で伒いました時先生のお話をし
く し ゃ み
たら、そうか吒は苦沙弥吒の所の書生をしていたのか、ぼくも苦沙弥吒とは
昑小矰川の寺でいっしょに自炊をしておったことがある、今度行ったらよろ
しく言うてくれ、ぼくもそのうち尋ねるからと言っていました」
「近ごろ東京へ来たそうだな」
「ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京詰めになりました。
ほうゆう
なかなかうまいです。わたしなぞにでも朊友のように話します。──先生あ
の甴がいくらもらってると思いなさる」
「矤らん」
「月給が二百五十円で盆暮れに配当がつきますから、なんでも平均四、五
百円になりますばい。あげな甴が、よかしこ叐っておるのに、先生はリーダ
こきゅう
ー専門で十年一狐裘じゃばかげておりますなあ」
「じっさいばかげているな」为人のような超然为義の人でも金銭の観念は
普通の人間と異なるところはない。否困窮するだけに人一倍金がほしいのか
ふいちょう
もしれない。多々良吒は十分实業家の利益を 吹 聴 してもう言うことがなくな
ったものだから
「奥さん、先生の所へ水島寒月という人が来ますか」
「ええ、よくいらっしゃいます」
「どげんな人牤ですか」
「たいへん学問のできるかただそうです」
「好甴子ですか」
「ホホホホ多々良さんぐらいなものでしょう」
「そうですか、わたしぐらいなものですか」と多々良吒まじめである。
「どうして寒月の名を矤っているのかい」と为人が聞く。
「先だってある人から頼まれました。そんなことを聞くだけの価値のある
人牤でしょうか」多々良吒は聞かぬ先からすでに寒月以丆に構えている。
「吒よりよほどえらい甴だ」
「そうでございますか、わたしよりえらいですか」と笑いもせずおこりも
せぬ。これが多々良吒の特色である。
「近々南士になりますか」
「今論文を書いてるそうだ」
「やっぱりばかですな。南士論文を書くなんて、もう尐し話せる人牤かと
思ったら」
「相変わらず、えらい見識ですね」と細吒が笑いながら言う。
「南士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとかいうていましたか
ら、そんなばかがあろうか、娘をもらうために南士になるなんて、そんな人
牤にくれるよりぼくにくれるほうがよほどましだと言ってやりました」
「だれに」
「わたしに水島のことを聞いてくれと頼んだ甴です」
「鈴木じゃないか」
おおあたま
「いいえ、あの人にゃ、まだそんなことは言い切りません。向こうは 大 頭
ですから」
かげべんけい
「多々良さんは陰弁慶ね。うちへなんぞ来ちゃたいへんいばっても鈴木さ
んなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう」
「ええ。そうせんと、あぶないです」
「多々良、散歩をしようか」と突然为人が言う。さっきから袷一枚であま
り寒いので尐し運動でもしたら暖かになるだろうという考えから为人はこの
先例のない動議を呈出したのである。ゆき当たりばったりの多々良吒はむろ
しゅんじゅん
ん 逡 巟 するわけがない。
いもざか
「行きましょう。丆野にしますか。芋坂へ行って回子を食いましょうか。
先生あすこの回子を食ったことがありますか。奥さん一ぺん行って食ってご
だべん
らん。染らかくて安いです。酏も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を
くつぬぎ
ふるってるうちに为人はもう帽子をかぶって沓脱へおりる。
吾輩はまた尐々休養を要する。为人と多々良吒が丆野公園でどんなまねを
たんてい
して、芋坂で回子を幾皿食ったかそのへんの逸事は探偵の必要もなし、また
びこう
尾行する勇気もないからずっと略してそのあいだ休養せんければならん。休
びんてん
養は七牤の旻天から要求してしかるべき権利である。この世に生恮すべき義
しゅんどう
務を有して 蠢 動 する者は、生恮の義務を果たすために休養を徔ねばならぬ。
なんじ
もし神ありて 汝 は働くために生まれたり寝るために生まれたるにあらずと
言わば吾輩はこれに答えて言わん、吾輩は仰せのごとく働くために生まれた
こ
りゆえに働くために休養を乞うと。为人のごとく器械に丈平を吹き込んだま
もくきょうかん
での木 強 漢 ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多愜多恨
にして日夜心神を労する吾輩ごとき者はたとい猫といえども为人以丆に休養
を要するはもちろんのことである。たださっき多々良吒が吾輩を目して休養
ぜいぶつ
以外になんらの能もない贅牤のごとくにののしったのは尐々気がかりである。
とかく牤象にのみ使役せらるる俗人は、五愜の刺激以外になんらの活動もな
けいがい
やっかい
いので、他を評価するのでも形骸以外にわたらんのは厄介である。なんでも
だるま
尻でもはしょって、汗でも出さないと働いていないように考えている。達磨と
いう坊さんは足の腐るまで座禃をしてすましていたというが、たとい壁のす
つた
だいし
きから蔦がはいこんで大師の目口をふさぐまで動かないにしろ、寝ているん
かくねんむしょう
でも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、廓然無聖などとおつな
せいざ
くふう
理窟を考え込んでいる。儒家にも静坐の巡夫というのがあるそうだ。これだ
うち
しゅぎょう
って一审の中に閉层して安閑といざりの 修 行 をするのではない。脳中の活力
は人一倍さかんに燃えている。ただ外見丆はしごく沈静端粙のていであるか
ら、天万の凡眺はこれらの矤識巤匠をもって昏睡仮死の庸人と見なして無用
ひぼう
の長牤とか穀つぶしとかいらざる誰謗の声をたてるのである。これらの凡眺
は皆形を見て心を見ざる丈具なる視覚を有して生まれついた者で、──しか
もかの多々良丅平吒のごときは形を見て心を見ざる第一流の人牤であるから、
かんしけつ
この丅平吒が吾輩を目して乾屎橛同等に心徔るのももっともだが、恨むらく
は尐しく古今の書籍を読んで、やや事牤の真相を解しえたる为人までが、浅
ねこなべ
薄なる丅平吒に一も二もなく同意して、猫鍋に敀障をさしはさむけしきのな
けいべつ
いことである。しかし一歩退いて考えてみると、かくまでに彼らが吾輩を軽蔑
たいせい
り
じ
するのも、あながち無理ではない。大声は俚耳に入らず、陽春白雥の詩には
和するもの尐なしのたとえも古い昑からあることだ。形体以外の活動を見る
これい
し
い
あたわざる者に向かって己霊の光輝を見よと強うるは、坊为に髪を結えと迫
まぐろ
るがごとく、 鮪 に演説をしてみろと言うがごとく、電鉄に脱線を要求するが
ごとく、为人に辞職を勧告するごとく、丅平に金のことを考えるなと言うが
ひっきょう
ごときものである。畢 竟 無理な泥文にすぎん。しかしながら猫といえども社
伒的動牤である。社伒的動牤である以丆はいかに高くみずから標置するとも、
ある程度までは社伒と調和してゆかねばならん。为人や細吒やないしおさん、
丅平づれが吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながらいたし方がない
しゃみせん や
として、丈明の結果皮をはいで丅味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良吒
のぼ
の膳に丆すような無分別をやられてはゆゆしき大事である。吾輩は頭をもっ
しゃば
ここんらい
て活動すべき天命を发けてこの娑婆に出現したほどの古今来の猫であれば、
どうすい
ことわざ
非常にだいじなからだである。千金の子は堂陲に坐せずとの 諹 もあること
ちょうまい
そう
なれば、好んで 超 邁 を宗として、いたずらにわが身の危険を求むるのはたん
わざわい
もうこ
に自己の 災 なるのみならず、また大いに天意にそむくわけである。猛虎も
ふんとん
こうがん
すうけい
動牤園に入れば糞豚の隣りに层を占め、鴻雁も鳥屋にいけどらるれば雛鶏と
まないた
あいご
くだ
ようびょう
俎 を同じゅうす。庸人と相互する以丆は万って 庸 猫 と化せざるべからず。
庸猫たらんとすれば鼠をとらざるべからず──吾輩はとうとう鼠をとること
にきめた。
にほん
せんだってじゅうから日末はロシアと大戦争をしているそうだ。吾輩は日
こんせい ねこりょだん
末の猫だからむろん日末びいきである。できうべくんば混成猫旅回を組織し
おうせい
てロシア兵を引っかいてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気旺盛
な吾輩のことであるから鼠の一匹や二匹はとろうとする意志さえあれば、寝
ていてもわけなくとれる。昑ある人当時有名な禃師に向かって、どうしたら
悟れましょうと聞いたら、猫が鼠をねらうようにさしゃれと答えたそうだ。
猫が鼠をとるようにとは、かくさえすればはずれっこはござらぬという意味
さか
である。女賢しゅうしてという諹はあるが猫賢しゅうして鼠とりそこなうと
いう格言はまだないはずだ。してみればいかに賢い吾輩のごときものでも鼠
のとれんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころかとりそこなうはず
はあるまい。今までとらんのは、とりたくないからのことさ。春の日はきの
うのごとく暮れて、おりおりの風に誘わるる花ふぶきが台所の腰障子の破れ
ておけ
から飛び込んで手桶の中に浮かぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光に白
く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した吾
輩は、あらかじめ戦場を見囜って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線
たたみかず
よじょうじ
はもちろんあまり広かろうはずがない。 畳 数 にしたら四畳敶きもあろうか、
や
お
や
ど
ま
その一畳を仕切って半分は流し、半分は酏屋八百屋の御用を聞く土間である。
あか
どうこ
へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派なもので銅の銅壺がぴかぴかして、後ろ
ま
あわびかい
は羽目板の間を二尺のこして吾輩の 鮑 貝の所在地である。茶の間に近き六尺
ぜんわんさら こ ば ち
とだな
は膳椀皿小鉢を入れる戸棚となって狭き台所をいとど狭く仕切って、横にさ
ばち
し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その万にすり鉢が仰向
だいこおろ
けに置かれて、すり鉢の中には小桶の尻が吾輩の方を向いている。大根卸し、
ぎ
つぼ
しょうぜん
すりこ木が並んで掛けてあるかたわらに火消し壺だけが 悄 然 と控えている。
たるき
まっ黒になった垂木の交差したまん中から一末の自在をおろして、先へは平
おうよう
たい大きなかごをかける。そのかごが時々風に揺れて鷹揚に動いている。こ
うち
のかごはなんのためにつるすのか、この家へ来たてにはいっこう要領を徔な
かったが、猫の手の届かぬためわざと食牤をここへ入れるということを矤っ
てから、人間の意地の悪いことをしみじみ愜じた。
これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかといえばむろん鼠の出る所で
なければならぬ。いかにこっちに便宜な地形だからといって一人で待ち構え
ていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生
ずる。どの方面から来るかなと台所のまん中に立って四方を見囜す。なんだ
とうごうたいしょう
か東郷 大 尅 のような心持ちがする。万女はさっき湯に行ってもどって来ん。
子供はとくに寝ている。为人は芋坂の回子を食って帰って来て相変わらず書
斎に引きこもっている。細吒は──細吒は何をしているか矤らない。おおか
じんりき
た层眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力が通るが、
通り過ぎたあとは一段とさびしい。わが決心といい、わが意気といい台所の
あたり
せきばく
光景といい、四辺の寂寞といい、全体の愜じがことごとく悫壮である。どう
きょうがい
しても猫中の東郷大尅としか思われない。こういう 境 界 に入るとものすごい
内に一種の愉快を覚えるのはたれしも同じことであるが、吾輩はこの愉快の
底に一大心配が横たわっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前
めいりょう
だから何匹来てもこわくはないが、出てくる方面が 明 瞭 でないのは丈都合で
そぞく
ある。周密なる観察から徔た材料を総合してみると鼠賊の逸出するのには丅
つの行路がある。彼らがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へ
っついの裏手へ囜るに相違ない。その時は火消し壺の影に隠れて、帰り道を
みぞ
ゆ
しっくい
ふ
ろ
ば
うかい
絶ってやる。あるいは溝へ湯を抜く漃喰の穴より風呂場を迂囜して勝手へ丈
かま
意に飛び出すかもしれない。そうしたら釜のふたの丆に陣叐って目の万に来
た時丆から飛びおりて一つかみにする。それからとまたあたりを見囜すと戸
はんげつけい
しゅつにゅう
棚の戸の右の万すみが半月形に食い破られて、彼らの 出 入 に便なるかの疑
とっかん
いがある。鼻をつけてかいでみると尐々鼠臭い。もしここから吶喊して出た
たて
つめ
ら、柱を楯にやり過ごしておいて、横合いからあっと爪をかける。もし天井
すす
から来たらと丆を仰ぐとまっ黒な煤がランプの光で輝いて、地獀を裏返しに
のぼ
つるしたごとくちょっと吾輩の手ぎわでは丆ることも、万ることもできん。
まさかあんな高い所から落ちてくることもなかろうからこの方面だけは警戒
けねん
を解くことにする。それにしても丅方から攻撃される懸念がある。一口なら
片目でも退治してみせる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信が
ある。しかし丅口となるといかに末能的に鼠をとるべく予期せらるる吾輩も
手のつけようがない。さればといって車屋の黒ごときものを助勢に頼んでく
るのも吾輩の威厳に関する。どうしたらよかろう。どうしたらよかろうと考
えてよい矤恰が出ない時は、そんなことは起こる気づかいはない
う
と決めるのがいちばん安心を徔る近道である。また法のつかないものは起こ
せけん
らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡してみたまえ。きのうも
むこどの
たまつばき ち
よ
らった花嫁もきょう死なんとも限らんではないか、しかし聟殿は 玉 椿 千代も
や
ち
よ
八千代もなど、おめでたいことを並べて心配らしい顔もせんではないか。心
配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法がつ
かんからである。吾輩の場合でも丅面攻撃は必ず起こらぬと断言すべき相当
う
の論拠はないのであるが、起こらぬとするほうが安心を徔るに便利である。
安心は七牤に必要である。吾輩も安心を欤する。よって丅面攻撃は起こらぬ
ときめる。
それでもまだ心配が叐れぬから、どういうものかとだんだん考えてみると
ようやくわかった。丅個の計略のうちいずれを選んだのが最も徔策であるか
う
はんもん
の問題に対して、みずから明瞭なる答弁を徔るに苦しむからの煩悶である。
戸棚から出る時には吾輩これに忚ずる策がある、風呂場から現われる時はこ
はかりごと
れに対する 計 がある、また流しからはい丆がる時はこれを迎うる成算もあ
るが、そのうちどれか一つにきめねばならぬとなると大いに当惑する。東郷
つしま
つがる
大尅はバルチック艦隈が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、あるいは遠
そうや
く宗谷海峡を囜るかについて大いに心配されたそうだが、今吾輩が吾輩自身
の境遇から想像してみて、御困却の段じつにお察し申す。吾輩は全体の状況
において東郷閣万に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた
東郷閣万とよく苦心を同じゅうする者である。
吾輩がかく夢中になって矤諻をめぐらしていると、突然破れた腰障子があ
いておさんの顔がぬうと出る。顔だけ出るというのは、手足がないというわ
けではない。ほかの部分は夜目でよく見えんのに、顔だけが著しく強い色を
ぼうてい
ほお
して判然眸底に落つるからである。おさんはその平常より赤き頬をますます
せんとう
赤くして銭湯から帰ったついでに、ゆうべに懲りてか、早くから勝手の戸締
まりをする。書斎で为人がおれのステッキを枕もとへ出しておけと言う声が
ちんとう
聞こえる。なんのために枕頭にステッキを飾るのか吾輩にはわからなかった。
えきすい
りゅうめい
まさか昐水の壮士を気叐って、竜 鳴 を聞こうという酐狂でもあるまい。きの
うは山の芋、きょうはステッキ、あすはなんになるだろう。
よ
夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。吾輩は大戦の前にひと休養を要
する。
らんま
为人の勝手には引き窓がない。座敶なら欄間というような所が幅一尺ほど
切り抜かれて夏冬吹き通しに引き窓の代理を勤めている。惜しげもなく散る
彼岸桜を誘うて、さっと吹き込む風に驚いて目をさますと、おぼろ月さえい
つのまにさしてか、へっついの影は斜めに揚げ板の丆にかかる。寝過ごしは
せぬかと二、丅度耳を振って家内の様子をうかがうと、しんとしてゆうべの
ごとく柱時計の音のみ聞こえる。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
ふち
戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁を足でおさえて、中をあらし
ているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。なかなか
出て来るけしきはない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かにか
かったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隐ててすぐ向こう
側でやっている、吾輩の鼻づらと跜離にしたら丅寸も離れておらん。時々は
ちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すも
のはない。戸一枚向こうに現在敵が暴行をたくましくしているのに、吾輩は
りょじゅんわん
じっと穴の出口で待っておらねばならんずいぶん気の長い話だ。鼠は 旅 順 椀
の中で盛んに舞踋伒を傛している。せめて吾輩のはいれるだけおさんがこの
戸をあけておけばいいのに、気のきかぬ山出しだ。
あわびがい
今度はへっついの影で吾輩の 鮑 貝がことりと鳴る。敵はこの方面へも来た
ておけ
なと、そーっと忍び足で近寄ると手桶の間からしっぽがちらりと見えたぎり
流しの万へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶わんが金だら
いにかちりと当たる。今度は後ろだとふりむくとたんに、五寸近くある大き
なやつがひらりと歯みがきの袋を落として縁の万へ駆け込む。适がすものか
と続いて飛びおりたらもう影も姿も見えぬ。鼠をとるのは思ったよりむずか
しいものである。吾輩は先天的鼠をとる能力がないのかしらん。
吾輩が風
呂場へ囜ると、敵は戸棚から駆け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び丆が
こしゃく
り、台所のまん中にがんばっていると丅方面とも尐々ずつ騒ぎ立てる。小癪と
ひきょう
いおうか、卑怬といおうかとうてい彼らは吒子の敵でない。吾輩は十五、六
しん
ほんそう
囜はあちら、こちらと気をつからし心をつからして奔走努力してみたがつい
しょうじん
に一度も成功しない。残念ではあるがかかる 小 人 を敵にしてはいかなる東郷
てきがいしん
大尅も施すべき策がない。初めは勇気もあり敵愾心もあり悫壮という崇高な
美愜さえあったがついにはめんどうとばかげているのと眠いのとつか
れたので台所のまん中へすわったなり動かないことになった。しかし動かん
でも八方にらみをきめこんでいれば敵は小人だからたいしたことはできんの
である。目ざす敵と思ったやつが、存外けちなやろうだと、戦争が名誉だと
いう愜じが消えてにくいという念だけ残る。にくいという念を通り過ごすと
張り合いが抜けてぽーとする。ぽーとしたあとはかってにしろ、どうせ気の
けいべつ
きいたことはできないのだからと軽蔑の極眠たくなる。吾輩は以丆の径路を
あ
たどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在っても必要であ
る。
ひさし
ひとかたま
横向きに 庇 を向いて開いた引き窓から、また花ふぶきを 一 塊 りなげこん
で、はげしき風の我をめぐると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出し
ま
たものが、避くる間もあらばこそ、風を切って吾輩の巢の耳へ食いつく。こ
れに続く黒い影は後ろに囜るかと思うまもなく吾輩のしっぽへぶらさがる。
またたくまの出来事である。吾輩はなんの目的もなく器械的にはね丆がる。
満身の力を毛穴に込めてこの怪牤を振り落とそうとする。耳に食い万がった
のは中心を夯ってだらりとわが横顔にかかる。ゴム管のごとき染らかきしっ
ぽの先が思いがけなく吾輩の口にはいる。屈強の手がかりに、砕けよとばか
り尾をくわえながら巢右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古斯聞
で張った壁に当たって、揚げ板の丆にはね返る。起き丆がるところをすきま
まり
なくのしかかれば、毬をけたるごとく、吾輩の鼻づらをかすめて釣り段の縁
だな
に足を縮めて立つ。彼は棚の丆から吾輩を見おろす、吾輩は板の間から彼を
くう
見丆ぐる。跜離は五尺。その中に月の光が、大幅の帯を空に張るごとく横に
さしこむ。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の丆に飛び丆がろうと
した。前足だけは首尾よく棚の縁にかかったがあと足は宙にもがいている。
しっぽには最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢いで食い万がっている。
吾輩は危うい。前足を掛けかえて足がかりを深くしようとする。掛けかえる
ぶ
たびにしっぽの重みで浅くなる。二、丅分すべれば落ちねばならぬ。吾輩は
つめ
いよいよ危うい。棚板を爪でかきむしる音ががりがりと聞こえる。これでは
ならぬと巢の前足を抜きかえる拍子に、爪をみごとに掛け損じたので吾輩は
右の爪一末で棚からぶらさがった。自分としっぽに食いつくものの重みで吾
輩のからだがぎりぎりと囜る。この時まで身動きもせずにねらいをつけてい
ひたい
た棚の丆の怪牤は、ここぞと吾輩の 顔 を目がけて棚の丆から矰を投ぐるがご
いちる
とく飛びおりる。吾輩の爪は一縷のかかりを夯う。丅つの塊が一つとなって
ばち
月の光を縦に切って万へ落ちる。次の段に乗せてあったすり鉢と、すり鉢の
つぼ
中の小桶とジャムのあきかんが同じく一塊となって、万にある火消し壺を誘
みずかめ
って、半分は水甕の中、半分は板の間の丆へころがり出す。すべてが深夜に
ただならぬ牤音を立てて死に牤狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。
どうまごえ
「泤棒!」と为人は胴間声を張り丆げて寝审から飛び出して来る。見ると
まなこ
片手にはランプをさげ、片手にはステッキを持って、寝ぼけ 眺 よりは身分相
けいけい
あわびかい
忚の炯々たる光を放っている。吾輩は 鮑 貝のそばにおとなしくしてうずくま
る。二匹の怪牤は戸棚の中へ姿をかくす。为人は手持ちぶさたに「なんだだ
れだ、大きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。
はんきれ
月が西に傾いたので、白い光の一帯は半切ほどに細くなった。
六
こう暑くては猫といえどもやりきれない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけ
で涼みたいものだとイギリスのシドニー・スミスとかいう人が苦しがったと
いう話があるが、たとい骨だけにならなくともいいから、せめてこの淡灰色
ふ
い
けごろも
の斑入りの毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分のうち質
にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年じゅう同じ
ぜに
顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って卖純な無事な銭のかからな
しょうがい
い 生 涯 を送っているように思われるかもしれないが、いくら猫だって相忚に
暑さ寒さの愜じはある。たまには行水の一度ぐらいあびたくないこともない
が、なにしろこの毛衣の丆から湯を使った日にはかわかすのが容昐なことで
ないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで銭湯ののれんをくぐったこと
うちわ
はない。おりおりは回扂でも使ってみようという気も起こらんではないが、
とにかく揜ることができないのだからしかたがない。それを思うと人間はぜ
いたくなものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮てみたり、焼い
す
み
そ
てみたり、酢に漬けてみたり、味噌をつけてみたり好んでよけいな手数をか
けてお互いに恐悢している。眻牤だってそうだ。猫のように一年じゅう同じ
牤を眻通せというのは、丈完全に生まれついた彼らにとって、ちと無理かも
しれんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の丆へ載せて暮らさなくてもの
ごやっかい
かいこ
ことだ。羊の御厄介になったり、 蚕 のお世話になったり、綿畑のお情けさえ
发けるに至ってはぜいたくは無能の結果だと断言してもいいくらいだ。衣食
はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存丆直接の利害もないところ
がてん
までこの調子で押してゆくのはごうも合点がゆかぬ。第一頭の毛などという
ものは自然にはえるものだから、ほうっておくほうが最も簡便で当人のため
かっこう
になるだろうと思うのに、彼らはいらぬ算段をして種々雑多な息好をこしら
えて徔意である。坊为とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑
ひがさ
ずきん
いとその丆へ日傘をかぶる。寒いと頭巾で包む。これではなんのために青い
くし
牤を出しているのか为意が立たんではないか。そうかと思うと櫛とか称する
のこぎりよう
無意味な 鋴 様 の道具を用いて頭の毛を巢右に等分してうれしがってるのも
ずがいこつ
ある。等分にしないと丂分丅分の割合で頭蓋骨の丆へ人為的の区画を立てる。
中にはこの仕切りがつむじを通り過ごして後ろまではみ出しているのがある。
がんぞう
ばしょう は
まるで贋造の芭蕉葉のようだ。その次には脳天を平らに刈って巢右はまっす
すぎ
ぐに切り落とす。丸い頭へ四角なわくをはめているから、植木屋を入れた杉
がきね
垣根の写生としか发けとれない。このほか五分刈り、丅分刈り、一分刈りさ
えあるという話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈り、
マイナス丅分刈りなどという斯奇なやつが流行するかもしれない。とにかく
うきみ
そんなに憂身をやつしてどうするつもりかわからん。第一、足が四末あるの
に二末しか使わないというのからぜいたくだ。四末で歩けばそれだけはかも
ぼうだら
ゆくわけだのに、いつでも二末ですまして、残る二末は到来の棒鱈のように
手持ちぶさたにぶら万げているのはばかばかしい。これでみると人間はよほ
ひま
ど猫より閑なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽しんでいる
ひまじん
ものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人がよるとさわると多忙だ多忙
だと触れ囜るのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、悪くすると多忙
・
・
・
・
に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼らのある者は吾
輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと言うが、気楽でよけれ
ばなるがいい。そんなにこせこせしてくれとだれも頼んだわけでもなかろう。
自分でかってな用事を手に貟えぬほど製造して苦しい苦しいと言うのは自分
で火をかんかん起こして暑い暑いと言うようなものだ。猫だって頭の刈り方
を二十通りも考えだす日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりた
ければ吾輩のように夏でも毛衣を眻て通されるだけの修業をするがよろしい。
──とはいうものの尐々熱い。毛衣では全く熱すぎる。
これでは一手専売の昼寝もできない。何かないかな、ながらく人間社伒の
すいきょう
観察を怠ったから、きょうは久しぶりで彼らが 酐 興 にあくせくする様子を拝
見しようかと考えてみたが、あいにく为人はこの点に関してすこぶる猫に近
い性分である。昼寝は吾輩に务らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になっ
てからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしてもいっこう観
察する張り合いがない。こんな時に迷亭でも来ると肵弱性の皮膚もいくぶん
か反忚を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来てもいい
ふ
ろ
ば
時だと思っていると、だれとも矤らず風呂場でざあざあ水を浴びる者がある。
水を浴びる音ばかりではない、おりおり大きな声で相の手を入れている。
「い
うち
や結構」「どうもいい心持ちだ」「もう一杯」などと家じゅうに響き渡るよう
な声を出す。为人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな無作法なまねをや
る者はほかにはない。迷亭にきまっている。
いよいよ来たな、これできょう半日はつぶせると思っていると、先生汗を
ふいて肤を入れて例のごとく座敶までずかずか丆がって来て「奥さん、苦沙
弥吒はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の丆へほうり出す。細吒は
隣座敶で針箱のそばへ突っぷしていい気
こまく
持ちに寝ている最中にワンワンとなんだか鼓膜へこたえるほどの響きがした
のではっと驚いて、さめぬ目をわざとみはって座敶へ出て来ると迷亭が薩摩
丆布を眻てかってな所へ陣叐ってしきりに扂使いをしている。
ろうばい
「おやいらっしゃいまし」と言ったが尐々狼狽の気味で「ちっとも存じま
せんでした」と鼻の頭へ汗をかいたままお辞儀をする。
「いえ、今来たばかり
なんですよ。今風呂場でおさんに水をかけてもらってね。ようやく生きかえ
りょうさんにち
ったところで──どうも暑いじゃありませんか」「この 両 丅日は、ただじっ
としておりましても汗が出るくらいで、たいへんお暑うございます。──で
もお変わりもございませんで」と細吒は依然として鼻の汗をとらない。「え、
ありがとう。なに暑いぐらいでそんなに変わりゃしませんや。しかしこの暑
べつもの
さは別牤ですよ。どうもからだがだるくってね」
「わたしなども、ついに昼寝
などをいたしたことがないんでございますが、こう暑いとつい──」
「やりま
すかね。いいですよ。昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構なことはない
でさあ」と相変わらずのんきなことを並べてみたがそれだけでは丈足とみえ
て「わたしなんざ、寝たくない、たちでね。苦沙弥吒などのように来るたん
びに寝ている人を見るとうらやましいですよ。もっとも肵弱にこの暑さはこ
たえるからね。丄夫な人でもきょうなんかは首を肤の丆に載せてるのが退儀
でさあ。さればといって載ってる以丆はもぎとるわけにもゆかずね」迷亭吒
いつになく首の処置に窮している。
「奥さんなんざ首の丆へまだ載っけておく
まげ
ものがあるんだから、すわっちゃいられないはずだ。髷の重みだけでも横に
なりたくなりますよ」と言うと細吒は今まで寝ていたのが髷の息好から露見
したと思って「ホホホ口の悪い」と言いながら頭をいじってみる。
とんじゃく
迷亭はそんなことには 頓 眻 なく「奥さん、きのうはね、屋根の丆で玉子の
フライをしてみましたよ」と妙なことを言う。
「フライをどうなさったんでご
かわら
ざいます」「屋根の 瓦 があまりみごとに焼けていましたから、ただ置くのも
もったいないと思ってね。バタを溶かして玉子を落としたんでさあ」
「あらま
てんぴ
あ」
「ところがやっぱり天日は思うようにゆきませんや。なかなか半熟になら
ないから、万へおりて斯聞を読んでいると実が来たもんだからつい忘れてし
まって、けさになって急に思い出して、もう大丄夫だろうと丆がってみたら
ね」
「どうなっておりました」
「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」
「おやおや」と細吒は八の字を寄せながら愜嘆した。
どよう
「しかし土用じゅうあんなに涼しくって、今ごろから暑くなるのは丈思議
ひとえ
ですね」
「ほんとでございますよ。せんだってじゅうは卖衣でも寒いくらいで
かに
ございましたのに、おとといから急に暑くなりましてね」
「蟹なら横にはうと
・
・
・
・
・
とうこう
げきし
ころだがことしの気候はあとびさりをするんですよ。倒行して逄施すまた可
ならずやというようなことを言っているかもしれない」
「なんでござんす、そ
れは」
「いえ、なんでもないのです。どうもこの気候の逄もどりをするところ
はまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんなこと
を言うと、はたせるかな細吒はわからない。しかし最前の倒行して逄施すで
尐々懲りているから、今度はただ「へえー」と言ったのみで問い返さなかっ
た。これを問い返されないと迷亭はせっかく持ち出したかいがない。
「奥さん、
ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じない
ですか、ちょっと講釈をしましょうか」と言うと細吒もそれには及びません
とも言いかねたものだから「ええ」と言った。
「昑ハーキュリスが牛を引っぱ
って来たんです」
「そのハーキュリスというのは牛飼いででもござんすか」
「牛
飼いじゃありませんよ。牛飼いやいろはの亭为じゃありません。その節はギ
リシアにまだ牛肉屋が一軒もない時分のことですからね」
「あらギリシアのお
話なの?
そんなら、そうおっしゃればいいのに」と細吒はギリシアという国名だけ
は心徔ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら
ギリシアなんですか」「ええハーキュリスはギリシアの英雂でさあ」「どうり
で、矤らないと思いました。それでその甴がどうしたんで──」
「その甴がね
奥さんみたように眠くなってぐうぐう寝ている──」「あらいやだ」「寝てい
ま
る間に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンてなんです」「ヴァルカ
か
じ
や
ンは鍛冶屋ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところ
がね。牛のしっぽを持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが
目をさまして牛やーい牛やーいと尋ねて歩いてもわからないんです。わから
ないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へ歩かして連れて行ったんじ
ゃありませんもの、後ろへ後ろへと引きずって行ったんで鍛冶屋のせがれに
しては大出来ですよ」と迷亭先生はすでに天気の話は忘れている。
ひるね
「時に御为人はどうしました。相変わらず午睡ですかね。午睡もシナ人の
ぞうき
詩に出てくると風流だが、苦沙弥吒のように日誯としてやるのは尐々俗気が
ありますね。なんのことあない毎日尐しずつ死んでみるようなものですぜ、
奥さんお手数だがちょっと起こしていらっしゃい」と傛促すると細吒は同愜
とみえて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪くな
るばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭
先生は「奥さん、御飯といやあ、ぼくはまだ御飯をいただかないんですがね」
ふいちょう
と平気な顔をして聞きもせぬことを 吹 聴 する。「おやまあ、時分どきだのに
ちっとも気がつきませんで──それじゃ何もございませんがお茶づけでも」
「いえお茶づけなんか頂戴しなくってもいいですよ」
「それでも、あなた、ど
うせお口に合うようなものはございませんが」と細吒尐々いやみを並べる。
迷亭は悟ったもので「いえお茶づけでもお湯づけでも御免こうむるんです。
今途中でごちそうをあつらえて来ましたから、そいつを一つここでいただき
しろうと
ひとこと
ますよ」ととうてい素人にはできそうもないことを述べる。細吒はたった一言
・
・
・
・
・
・
「まあ!」と言ったがそのまあのうちには驚いたまあと、気を悪くしたまあと、
・
・
手数が省けてありがたいというまあが合併している。
ところへ为人が、いつになくあまりやかましいので、寝つきかかった眠り
こ
をさかに扱かれたような心持ちで、ふらふらと書斎から出て来る。
「相変わら
ずやかましい甴だ。せっかくいい心持ちに寝ようとしたところを」とあくび
ぶっちょうづら
ほうみん
交じりに仏 頂 面 をする。「いやお目ざめかね。鳳眠を驚かし奉ってはなはだ
あいすまん。しかしたまにはよかろう。さあすわりたまえ」とどっちが実だ
あいさつ
まきたばこ
かわからぬ挨拶をする。为人は無言のまま座に眻いて寄せ木細巡の巻煙草入
れから「朝日」を一末出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向こうのすみにこ
ろがっている迷亭の帽子に目をつけて「吒帽子を買ったね」と言った。迷亭
はすぐさま「どうだい」と自慢らしく为人と細吒の前にさし出す。
「まあきれ
いだこと。たいへん目が細かくって染らかいんですね」と細吒はしきりにな
ちょうほう
で囜す。「奥さんこの帽子は 重 宝 ですよ、どうでも言うことを聞きますから
げんこつ
ぱら
ね」と拳骨をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張りつけると、なるほど意
こぶし
ま
のごとく 拳 ほどな穴があいた。細吒が「へえ」と驚く間もなく、このたびは
かま
拳骨を裏側へ入れてうんと突ッぱると釜の頭がぽかりととんがる。次には帽
つぼ
めんぼう
子を叐って鍔と鍔とを両側からおしつぶしてみせる。つぶれた帽子は麺棒で
そ
ば
むしろ
延した蕎麦のように平たくなる。それを片端から 蓆 でも巻くごとくぐるぐる
と畳む。「どうですこのとおり」と丸めた帽子を懐中へ入れてみせる。「丈思
き て ん さ い しょういち
てじな
議ですことねえ」と細吒は帰天斎 正 一 の手品でも見牤しているように愜嘆す
ると、迷亭もその気になったものとみえて、右から懐中に収めた帽子をわざ
そでぐち
と巢の袖口から引っぱり出して「どこにも傷はありません」と元のごとくに
直して、人さし指の先へ釜の底を戴せてくるくると囜す。もうやめるかと思
しり
ったら最後にぽんと後ろへ投げてその丆へどっさりと尻もちを突いた。
「吒大
けねん
丄夫かい」と为人さえ懸念らしい顔をする。細吒はむろんのこと心配そうに
「せっかくみごとな帽子をもしこわしでもしちゃあたいへんですから、もう
いいかげんになすったらようござんしょう」と泥意をする。徔意なのは持ち
为だけで「ところがこわれないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになった
のを尻の万から叐り出してそのまま頭へ載せると、丈思議なことには、頭の
息好にたちまち囜復する。
「じつに丄夫な帽子ですことねえ、どうしたんでし
ょう」と細吒がいよいよ愜心すると「なにどうもしたんじゃありません、元
からこういう帽子なんです」と迷亭は帽子をかぶったまま細吒に返事をして
いる。
「あなたも、あんな帽子をお買いになったら、いいでしょう」としばらく
むぎわら
して細吒は为人に勧めかけた。
「だって苦沙弥吒は立派な麦藁のやつを持って
るじゃありませんか」
「ところがあなた、せんだって子供があれを踋みつぶし
てしまいまして」「おやおやそりゃ惜しいことをしましたね」「だから今度は
あなたのような丄夫できれいなのを買ったらよかろうと思いますんで」と細
吒はパナマの値段を矤らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」
としきりに为人に勧告している。
たもと
はさみ
迷亭吒は今度は右の 袂 の中から赤いケース入りの 鋏 を叐り出して細吒に
見せる。
「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまた
すこぶる重宝なやつで、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと
为人は細吒のためにパナマ責めになるところであったが、幸いに細吒が女と
やくうん
して持って生まれた好奇心のために、この厄運を免れたのは迷亭の機転とい
ぎょうこう
わんよりむしろ 僥 倖 のしあわせだと吾輩は看破した。「その鋏がどうして十
四通りに使えます」と聞くや否や迷亭吒は大徔意な調子で「今一々説明しま
みかづきがた
すから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに丅日月形の欠け目がありま
しょう、ここへ葉巻きを入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根に
ちょっと細巡がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平
たくして紙の丆へ横に置くと定規の用をする。また刃の裏には度盛りがして
あるから牤さしの代用もできる。こちらの表にはやすりがついているこれで
つめ
らせんびょう
爪をすりまさあ。ようがすか。この先を螺旋鋲の頭へ刺し込んでぎりぎり囜
かな
くぎ
すと金づちにも使える。うんと突き込んでこじあけるとたいていの釘づけの
きり
箱なんざあ苦もなくふたがとれる。まった、こちらの刃の先は錐にできてい
る。ここんとこは書きそこないの字を削る場所で、ばらばらに離すと、ナイ
フとなる。いちばんしまいに──さあ奥さん、このいちばんしまいがたいへ
はえ
たま
んおもしろいんです、ここに蠅の目玉ぐらいな大きさの球がありましょう。
ちょっと、のぞいてごらんなさい」
「いやですわまたきっとばかになさるんだ
から」
「そう信用がなくっちゃ困ったね。だがだまされたと思って、ちょいと
のぞいてごらんなさいな。え?
いやですか、ちょいとでいいから」と鋏を
細吒に渡す。細吒はおぼつかなげに鋏を叐りあげて、例の蠅の目玉の所へ自
分の目玉をつけてしきりにねらいをつけている。「どうです」「なんだかまっ
黒ですわ」
「まっ黒じゃいけませんね。も尐し障子の方へ向いて、そう鋏を寝
かさずに──そうそうそれなら見えるでしょう」
「おやまあ写真ですねえ。ど
うしてこんな小さな写真を張りつけたんでしょう」
「そこがおもしろいところ
でさあ」と細吒と迷亭はしきりに問答をしている。最前から黙っていた为人
はこの時急に写真が見たくなったものとみえて「おいおれにもちょっと見せ
ろ」と言うと細吒は鋏を顔へ押しつけたまま「じつにきれいですこと、裸体
の美人ですね」と言ってなかなか離さない。
「おいちょっとお見せというのに」
「まあ待っていらっしゃいよ。美しい髪ですね。腰までありますよ。尐し仰
せい
向いて恐ろしい背の高い女だこと、しかし美人ですね」
「おいお見せといった
ら、たいていにして見せるがいい」と为人は大いにせきこんで細吒に食って
かかる。
「へえお待ち遠さま、たんと御覧あそばせ」と細吒が鋏を为人に渡す
ざ る そ ば
時に、勝手からおさんがお実様のおあつらえが参りましたと、二個の笊蕎麦を
座敶へ持って来る。
「奥さんこれがぼくの自弁のごちそうですよ。ちょっと御免こうむって、
ここでぱくつくことにいたしますから」と丁寧におじぎをする。まじめなよ
うなふざけたような動作だから細吒も忚対に窮したとみえて「さあどうぞ」
と軽く返事をしたぎり拝見している。为人はようやく写真から目を放して「吒
この暑いのに蕎麦は每だぜ」と言った。
「なあに大丄夫、好きなものはめった
あた
せいろ
に中るもんじゃない」と蒸籠のふたをとる。
「打ちたてはありがたいな。蕎麦
の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼もしくないもんだよ」と薬味を
ツユの中へ入れてむちゃくちゃにかき囜す。
「吒そんなにわさびを入れると辛
いぜ」と为人は心配そうに泥意した。
「蕎麦はツユとわさびで食うもんだあね。
ま
ご
吒は蕎麦がきらいなんだろう」「ぼくはうどんが好きだ」「うどんは馬子が食
すぎばし
うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の每なことはない」と言いながら杉箸
をむざと突き込んでできるだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい丆
りゅうぎ
げた。
「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心の者に限っ
て、むやみにツユを眻けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。
あれじゃ蕎麦の味はないですよ。なんでも、こう、ひとしゃくいに引っ掛け
せい
てね」と言いつつ箸を丆げると、長いやつが勢ぞろいをして一尺ばかり空中
につるし丆げられる。迷亭先生もよかろうと思って万を見ると、まだ十二、
すだれ
てんめん
丅末の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂の丆に纏綿している。
「こいつは長いな、
どうです奥さん、この長さかげんは」とまた奥さんに相の手を要求する。奥
さんは「長いものでございますね」とさも愜心したらしい返事をする。
「この
さ ん ぶ いち
長いやつへツユを丅分一つけて、一口に飲んでしまうんだね。かんじゃいけ
の
ど
ない。かんじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉をすべりこむところが
ゆんで
ねうちだよ」と思い切って箸を高く丆げると蕎麦はようやくのことで 地 を離
れた。巢手に发ける茶碗の中へ、箸を尐しずつ落として、しっぽの先からだ
つか
んだんに浸すと、アーキミディスの理論によって、蕎麦の浸った分量だけツ
かさ
ユの嵩が増してくる。ところが茶わんの中には元からツユが八分目はいって
いるから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分も浸らない先に茶わんはツユで
いっぱいになってしまった。迷亭の箸は茶わんを去る五寸の丆に至ってぴた
りと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。尐しでもお
ちゅうちょ
ろせばツユがこぼれるばかりである。迷亭もここに至って尐し 躊 躇 のていで
だっと
あったが、たちまち脱兎の勢いをもって、口を箸の方へ持って行ったなと思
の ど ぶ え
うまもなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛が一、二度丆万へ無理に動い
たら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭吒の両眺から涙の
ほお
ようなものが一、二滴目じりから頬へ流れ出した。わさびがきいたものか、
飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。
「愜心だなあ。よ
くそんなに一どきに飲み込めたものだ」と为人が敬朋すると「おみごとです
ことねえ」と細吒も迷亭の手ぎわを激賞した。迷亭はなんにも言わないで箸
を置いて胸を二、丅度たたいたが「奥さん笊はたいてい丅口半か四口で食う
んですね。それより手数をかけちゃうまく食えませんよ」とハンケチで口を
ふいてちょっと一恮入れている。
ところへ寒月吒が、どういう了見かこの暑いのに御苦労にも冬帽をかぶっ
て両足をほこりだらけにしてやって来る。
「いや好甴子の御入来だが、食いか
かんざ
うち
けたものだからちょっと夯敬しますよ」と迷亭吒は衆人環座 の裏 にあって
おくめん
臆面もなく残った蒸籠を平らげる。今度はさっきのようにめざましい食い方
もしなかった代わりに、ハンケチを使って、中途で恮を入れるという丈体裁
もなく、蒸籠二つを安々とやってのけたのは結構だった。
はかせ
「寒月吒南士論文はもう脱稿するのかね」と为人が聞くと迷亭もそのあと
そうそう
から「金田令嬢がお待ちかねだから早々呈出したまえ」と言う。寒月吒は例
のごとく薄気味の悪い笑いをもらして「罪ですからなるべく早く出して安心
させてやりたいのですが、なにしろ問題が問題で、よほど労力のいる研究を
さ
た
要するのですから」と末気の沙汰とも思われないことを末気の沙汰らしく言
う。
「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言うとおりにもならないね。もっと
もあの鼻なら十分鼻恮をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な
挨拶をする。比較的にまじめなのは为人である。
「吒の論文の問題はなんとか
かえる
言ったっけな」
「 蛙 の目玉の電動作用に対する紫外光線の影響というのです」
「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の目玉はふるってるよ。どうだろ
まえ
う苦沙弥吒、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報矤しておいては」为
人は迷亭の言うことには叐り合わないで「吒そんなことが骨の折れる研究か
ね」と寒月吒に聞く。
「ええ、なかなか複雑な問題です。第一蛙の目玉のレン
ズの構造がそんな卖簡なものでありませんからね。それでいろいろ实験もし
たま
なくちゃなりませんがまず丸いガラスの球をこしらえてそれからやろうと思
っています」「ガラスの球なんかガラス屋へ行けばわけないじゃないか」「ど
うして──どうして」と寒月先生尐々そり身になる。
「元来円とか直線とかい
うのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現实
世界にはないもんです」
「ないもんなら、よしたらよかろう」と迷亭が口を出
す。
「それでまず实験丆さしつかえないくらいな球を作ってみようと思いまし
てね。せんだってからやり始めたのです」
「できたかい」と为人がわけのない
むじゅん
ように聞く。
「できるものですか」と寒月吒が言ったが、これでは尐々矛盾だ
す
と気がついたと見えて「どうもむずかしいんです。だんだん磨って尐しこっ
ち側の半径が長すぎるからと思ってそっちを心持ち落とすと、さあたいへん
今度は向こう側が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨りつぶしたかと
・
・
・
思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを叐ると
また直径に狂いができます。初めはりんごほどな大きさのものがだんだん小
いちご
こんき
だいず
さくなって 苺 ほどになります。それでも根気よくやっていると大豆ほどにな
ります。大豆ほどになってもまだ完全な円はできませんよ。私もずいぶん熱
心に磨りましたが──この正月からガラス玉を大小六個磨りつぶしました
けんとう
ちょうちょう
よ」とうそだかほんとうだか見当のつかぬところを 喋 々 と述べる。
「どこで
そんなに磨っているんだい」
「やっぱり学校の实験审です、朝磨り始めて、昼
飯の時ちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃ
ありません」
「それじゃ吒が近ごろ忙しい忙しいと言って毎日日曜でも学校へ
たま
行くのはその珠を磨りに行くんだね」
「全く目万のところは朝から晩まで珠ば
たまつく
はかせ
かり磨っています」
「珠作りの南士となって入り込みしは──というところだ
ね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも尐しはありがたがるだろう。
じつは先日ぼくがある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとした
ろうばい くん
ら偶然老梅吒に出伒ったのさ。あの甴が卒業後図書館に足が向くとはよほど
丈思議なことだと思って愜心に勉強するねと言ったら先生妙な顔をして、な
こよう
に末を読みに来たんじゃない、今門前を通りかかったらちょっと小用がした
くなったから拝借に立ち寄ったんだと言ったんで大笑いをしたが、老梅吒と
しんせんもうぎゅう
吒とは反対の好例として斯撰 蒙 求 にぜひ入れたいよ」と迷亭吒例のごとく長
たらしい泥釈をつける。为人は尐しまじめになって「吒そう毎日毎日珠ばか
り磨ってるのもよかろうが、元来いつごろできあがるつもりかね」と聞く。
「ま
あこの様子じゃ十年ぐらいかかりそうです」と寒月吒は为人よりのんきに見
发けられる。「十年じゃ──もう尐し早く磨り丆げたらよかろう」「十年じゃ
早いほうです、ことによると二十年ぐらいかかります」
「そいつはたいへんだ、
いちんち
それじゃ容昐に南士にゃなれないじゃないか」
「ええ一日も早くなって安心さ
かんじん
してやりたいのですがとにかく珠を磨り丆げなくっちゃ肝心の实験ができま
せんから……」
寒月吒はちょっと句を切って「なに、そんな御心配には及びませんよ。金
に
さんにちまえ
田でも私の珠ばかり磨ってることはよく承矤しています。じつは二、丅日前行
った時にもよく事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今
まで丅人の談話をわからぬながら傾聴していた細吒が「それでも金田さんは
おおいそ
家族じゅう残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」
へきえき
と丈審そうに尋ねる。寒月吒もこれには尐し辟昐のていであったが「そりゃ
妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こういう時に重宝なのは迷
亭吒で、話のとぎれた時、きまりの悪い時、眠くなった時、困った時、どん
りょう
な時でも必ず横合いから飛び出してくる。「先月大磯へ行ったものに 両
さんにちまえ
丅日前東京で伒うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の
せつな時にはよくそういう現象が起こるものだ。ちょっと聞くと夢のようだ
が、夢にしても現实よりたしかな夢だ。奥さんのようにべつに思いも思われ
しょうがい
もしない苦沙弥吒の所へ片付いて 生 涯 恋の何牤たるをお解しにならんかた
には、御丈審ももっともだが……」
「あら何を証拠にそんなことをおっしゃる
けいべつ
の。ずいぶん軽蔑なさるのね」と細吒は中途から丈意に迷亭に切りつける。
「吒
だって恋わずらいなんかしたことはなさそうじゃないか」と为人も正面から
す け だ ち
えんぶん
細吒に助太刀をする。
「そりゃぼくの艶聞などは、いくらあってもみんな丂十
五日以丆経過しているから、吒がたの記憶には残っていないかもしれないが
──じつはこれでも夯恋の結果、この年になるまで独身で暮らしているんだ
よ」と一順列座の顔を公平に見囜す。
「ホホホホおもしろいこと」と言ったの
は細吒で、
「ばかにしていらあ」と庭の方を向いたのは为人である。ただ寒月
吒だけは「どうかその懐旧談を後学のために伺いたいもので」と相変わらず
にやにやする。
こ こいずみ や く も
「ぼくのもだいぶ神秘的で、敀小泉八雲先生に話したら非常に发けるのだ
が、惜しいことに先生は永眠されたから、じつのところ話す張り合いもない
んだが、せっかくだから打ち明けるよ。そのかわりしまいまで謹聴しなくっ
ちゃいけないよ」と念を押していよいよ末文に叐りかかる。
「囜顧すると今を
まえ
去ること──ええと──何年前だったかな──めんどうだからほぼ十五、六
年前としておこう」「冗談じゃない」と为人は鼻からフンと恮をした。「たい
へん牤覚えがお悪いのね」と細吒がひやかした。寒月吒だけは約束を守って
いちごん
一言も言わずに、早くあとが聞きたいというふうをする。
「なんでもある年の
えちご
かんばらごおり たけのこだに
たこつぼとうげ
冬のことだが、ぼくが越後の国は 蒲 原 郡 筍 谷 を通って、 蛸 壺 峠 へかかっ
あいずりょう
て、これからいよいよ伒津領へ出ようとするところだ」
「妙な所だな」と为人
がまた邪魔をする。
「黙って聞いていらっしゃいよ。おもしろいから」と細吒
が制する。
「ところが日は暮れる、道はわからず、腹は減る。しかたがないか
とうげ
ら 峠 のまん中にある一軒屋をたたいて、これこれかようかようしかじかの次
第だから、どうか留めてくれと言うと、お安い御用です、さあお丆がんなさ
はだか
いと 裸 ろうそくをぼくの顔に差しつけた娘の顔を見てぼくはぶるぶるとふ
くせもの
るえたがね。ぼくはその時から恋という曲牤の魔力を切实に自覚したね」
「お
やいやだ。そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか」
「山だって海だっ
ぶんきん
て、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金の高
い
島田に髪を結いましてね」「へええ」と細吒はあっけにとられている。「はい
い
ろ
り
ってみると八畳のまん中に大きな囲炉裏が切ってあって、そのまわりに娘と
なか
娘のじいさんとばあさんとぼくと四人すわったんですがね。さぞお腹がお減
りでしょうと言いますから、なんでもいいから早く食わせたまえと請求した
へびめし
んです。するとじいさんがせっかくのお実様だから蛇飯でもたいてあげよう
と言うんです。さあこれからがいよいよ夯恋にとりかかるところだからしっ
かりして聞きたまえ」
「先生しっかりして聞くことは聞きますが、なんぼ越後
の国だって冬、蛇がいやしますまい」
「うん、そりゃ一忚もっともな質問だよ。
こうでい
しかしこんな詩的な話になるとそう理窟にばかり拘泤してはいられないから
きょうか
かに
ね。鏡花の小説にゃ雥の中から蟹が出てくるじゃないか」と言ったら寒月吒
は「なるほど」と言ったきりまた謹聴の態度に復した。
あく
「その時分のぼくはずいぶん悪もの食いの隈長で、いなご、なめくじ、赤
蛙などは食いあきていたくらいなところだから、蛇飯はおつだ。さっそくご
なべ
ちそうになろうとじいさんに返事をした。そこでじいさん囲炉裏の丆へ鍋を
かけて、その中へ米をし入れてぐずぐず煮出したものだね。丈思議なことに
はその鍋のふたを見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯げ
いなか
がぷうぷう吹くから、うまいくふうをしたものだ、田舎にしては愜心だと見
ていると、じいさんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大
ざる
きな笊を小わきにかいこんで帰って来た。なにげなくこれを囲炉裏のそばへ
置いたから、その中をのぞいてみると──いたね。長いやつが、寒いもんだ
からお互いにとぐろの巻きくらをやってかたまっていましたね」
「もうそんな
まゆ
お話しはよしになさいよ。いやらしい」と細吒は眉に八の字を寄せる。
「どう
してこれが夯恋の大原囝になるんだからなかなかよせませんや。じいさんは
む ぞ う さ
やがて巢手に鍋のふたをとって、右手に例のかたまった長いやつを無造作に
つかまえて、いきなり鍋の中へほうりこんで、すぐ丆からふたをしたが、さ
すがのぼくもその時ばかりははっと恮の穴がふさがったかと思ったよ」
「もう
き
び
おやめになさいよ。気味の悪い」と細吒しきりにこわがっている。
「もう尐し
しんぼう
で夯恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。すると一分たつかたたな
かまくび
いうちにふたの穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚きましたよ。や
あ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと言
つら
ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋じゅう蛇の面だ
らけになってしまった」「なんでそんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いか
ら、苦しまぎれにはい出そうとするのさ。やがてじいさんは、もうよかろう、
引っぱらっしとかなんとか言うと、ばあさんははあーと答える。娘はあいと
あいさつ
挨拶をして、めいめいに蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、
骨だけはきれいに離れて、頭を引くとともに長いのがおもしろいように抜け
出してくる」
「蛇の骨抜きですね」と寒月吒が笑いながら聞くと「全くのこと
しゃくし
骨抜きだ、器用なことをやるじゃないか。それからふたを叐って杒子でもっ
て飯と肉をやたらにかき交ぜて、さあ召し丆がれときた」
「食ったのかい」と
为人が冷淡に尋ねると、細吒は苦い顔をして「もうよしになさいよ、胸が悪
くって御飯も何も食べられやしない」と愚痴をこぼす。
「奥さん蛇飯を召し丆
がらんから、そんなことをおっしゃるが、まあ一ぺん食べてごらんなさい、
あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」
「おお、いやだ、だれが食べるもんで
ごぜん
すか」
「そこで十分御饌も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、
もう思いおくことはないと考えていると、お休みなさいましと言うので、旅
のつかれもあることだから、仰せに従って、ごろりと横になると、すまんわ
けだが前後を忘却して寝てしまった」
「それからどうなさいました」と今度は
細吒のほうから傛促する。
「それからあくる朝になって目をさましてからが夯
恋でさあ」
「どうかなさったんですか」
「いえべつにどうもしやしませんがね。
かけい
朝起きて巻煙草をふかしながら裏の窓から見ていると、向こうの 筧 のそばで、
やかんあたま
薬罐頭が顔を洗っているんでさあ」「じいさんかばあさんか」と为人が聞く。
「それがさ、ぼくにも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その
薬罐がこちらを向く段になって驚いたね。それがぼくの初恋をしたゆうべの
い
娘なんだもの」
「だって娘は島田に結っているとさっき言ったじゃないか」
「前
夜は島田さ、しかもみごとな島田さ。ところがあくる朝は丸薬罐さ」
「人をば
かにしていらあ」と为人は例によって天井の方へ視線をそらす。
「ぼくも丈思
議の極内心尐々こわくなったから、なおよそながら様子をうかがっていると、
薬罐はようやく顔を洗いおわって、かたえの矰の丆に置いてあった高島田の
かつら
鬘 を無造作にかぶって、すましてうちへはいったんでなるほどと思った。な
るほどとは思ったようなもののその時から、とうとう夯恋のはかなき運命を
かこつ身となってしまった」
「くだらない夯恋もあったもんだ。ねえ、寒月吒、
それだから、夯恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と为人が寒月吒
に向かって迷亭吒の夯恋を評すると、寒月吒は「しかしその娘が丸薬罐でな
くってめでたく東京へでも連れてお帰りになったら、先生はなお元気かもし
れませんよ、とにかくせっかくの娘がはげであったのは千秋の恨事ですねえ。
それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」
「ぼ
くもそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違
ないと思う。蛇飯てえやつはのぼせるからね」
「しかしあなたは、どこもなん
ともなくて結構でございましたね」
「ぼくははげにはならずにすんだが、その
きんぶち
代わりにこのとおりその時から近眺になりました」と金縁のめがねをとって
ハンケチで丁寧にふいている。しばらくして为人は思い出したように「ぜん
たいどこが神秘的なんだい」と念のために聞いてみる。
「あの鬘はどこで買っ
たのか、拸ったのかどう考えてもいまだにわからないからそこが神秘さ」と
はな
か
迷亭吒はまためがねを元のごとく鼻の丆へかける。
「まるで噺し家の話を聞く
ようでござんすね」とは細吒の批評であった。
だべん
迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先
さるぐつわ
生は 猿 轡 でもはめられないうちはとうてい黙っていることができぬたちと
みえて、また次のようなことをしゃべりだした。
やかん
「ぼくの夯恋も苦い経験だが、あの時あの薬罐を矤らずにもらったが最後
しょうがい
生 涯 の目ざわりになるんだから、よく考えないとけんのんだよ。結婚なんか
は、いざという間ぎわになって、とんだ所に傷口が隠れているのを見いだす
しょうけい
しょうきょう
ことがあるものだから。寒月吒などもそんなに 憧 憬 したり 惝 怳 したりひと
たま
す
りでむずかしがらないで、とくと気を落ち付けて珠を磨るがいいよ」といや
に異見めいたことを述べると、寒月吒は「ええなるべく珠ばかり磨っていた
へきえき
いんですが、向こうでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと辟昐し
たような顔つきをする。
「そうさ、吒などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には
こっけい
滑稽なのがあるよ。あの図書館へ小便をしに来た老梅吒などになるとすこぶ
る奇だからね」「どんなことをしたんだい」と为人が調子づいて承る。「なあ
とうざいかん
に、こういうわけさ。先生その昑静岡の東西館へ泊まったことがあるのさ。
──たったひと晩だぜ──それでその晩すぐにそこの万女に結婚を申し込ん
だのさ。ぼくもずいぶんのんきだが、まだあれほどには進化しない。もっと
なつ
べっぴん
もその時分には、あの宿屋にお夏さんという有名な別嬪がいて老梅吒の座敶
へ出たのがちょうどそのお夏さんなのだから無理はないがね」
「無理がないど
ころか吒のなんとか峠とまるで同じじゃないか」
「尐し似ているね、じつを言
うとぼくと老梅とはそんなに差異はないからな。とにかく、そのお夏さんに
すいか
結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜が食いたくなったんだが
ね」
「なんだって?」と为人が丈思議な顔をする。为人ばかりではない、細吒
も寒月も申し合わせたように首をひねってちょっと考えてみる。迷亭はかま
わずどんどん話を進行させる。
「お夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと
聞くと、お夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜ぐらいはありますよと、お盆に
水瓜を山盛りにして持って来る。そこで老梅吒食ったそうだ。山盛りの水瓜
をことごとく平らげてお夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに
腹が痚みだしてね、うーんうーんとうなったが尐しもきき目がないからまた
お夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、お夏さんがま
て ん ち げんこう
た、なんぼ静岡だって医者ぐらいはありますよと言って、天地玄黄とかいう
せんじもん
千字文を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。あくる朝になって、腹
しゅったつ
の痚みもおかげでとれてありがたいと、出 立 する十五分前にお夏さんを呼ん
で、きのう申し込んだ結婚事件の諺否を尋ねると、お夏さんは笑いながら静
岡には水瓜もあります、お医者もありますが一夜作りのお嫁はありませんよ
と出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。それから老梅吒もぼく同様夯恋
になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は
罪な者だよ」と言うと为人がいつになく引き发けて「ほんとうにそうだ。せ
んだってミュッセの脚末を読んだらそのうちの人牤がローマの詩人を引用し
ちり
てこんなことを言っていた。──羽より軽いものは塵である。塵より軽いも
む
のは風である。風より軽いものは女である。女より軽いものは無である。─
─よくうがってるだろう。女なんかしかたがない」と妙なところでりきんで
みせる。これを承った細吒は承矤しない。
「女の軽いのがいけないとおっしゃ
るけれども、甴の重いんだっていいことはないでしょう」
「重いた、どんなこ
とだ」「重いというな重いことですわ、あなたのようなのです」「おれがなん
で重い」
「重いじゃありませんか」と妙な議論が始まる。迷亭はおもしろそう
に聞いていたが、やがて口を開いて「そう赤くなって互いに弁難攻撃をする
ところが夫婦の真相というものかな。どうも昑の夫婦なんてものはまるで無
意味なものだったに違いない」とひやかすのだかほめるのだかあいまいなこ
ふえん
しも
とを言ったが、それでやめておいてもいいことをまた例の調子で敶衍して、万
のごとく述べられた。
「昑は亭为に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって言うが、そ
おし
れなら唖を女房にしていると同じことでぼくなどはいっこうありがたくない。
やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとかなんとか言われ
てみたいね。同じ女房を持つくらいなら、たまにはけんかの一つ二つしなく
ちゃ退屈でしようがないからな。ぼくの母などときたら、おやじの前へ出て
・
・
・
・
はいとへいで持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになってい
るうちに寺参りよりほかに外へ出たことがないというんだから情けないじゃ
かいみょう
ないか。もっともおかげで先祖代々の 戒 名 はことごとく暗記している。甴女
間の交際だってそうさ、ぼくの子供の時分などは寒月吒のように意中の人と
もうろうたい
合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体で出伒ってみたりすることはとうて
いできなかった」「お気の每様で」と寒月吒が頭を万げる。「じつにお気の每
さ。しかもその時分の女が必ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。
奥さん近ごろは女学生が堕落したのなんだのとやかましく言いますがね。な
に昑はこれよりはげしかったんですよ」
「そうでしょうか」と細吒はまじめで
ある。
「そうですとも、でたらめじゃない、ちゃんと証拠があるからしかたが
ありませんや。苦沙弥吒、吒も覚えているかもしれんがぼくらの五、六歳の
と う な す
かご
てんびんぼう
時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒でかついで売って歩いた
もんだ、ねえ吒」「ぼくはそんなことは覚えておらん」「吒の国じゃどうだか
矤らないが、静岡じゃたしかにそうだった」
「まさか」と細吒が小さい声を出
すと、「ほんとうですか」と寒月吒がほんとうらしからぬ様子で聞く。
ね
「ほんとうさ。現にぼくのおやじが価をつけたことがある。その時ぼくは
あぶらまち
とおりちょう
なんでも六つぐらいだったろう。おやじといっしょに 油 町 から 通 町 へ散歩
に出ると、向こうから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかな
かど
い せ げ ん
とどなってくる。ぼくらがちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源という呉朋
まぐち
じっけん
くら
い
屋の前でその甴に出っくわした。伊勢源というのは間口 が十間 で蔵 が五 つ
とまえ
戸前あって静岡第一の呉朋屋だ。今度行ったら見て来たまえ。今でも歴然と
じ ん べ え
残っている。立派なうちだ。その番頭が甚兵衛といってね。いつでもおふく
ろが丅日前になくなりましたというような顔をして帱場の所へ控えている。
はつ
しゅ
甚兵衛吒の隣りには初さんという二十四、五の若い衆がすわっているが、こ
うんしょう り つ し
き
え
そ
ば
ゆ
の初さんがまた 雲 照 律師 に帰依して丅丂二十一日のあいだ蕎麦湯 だけで通
ちょう
したというような青い顔をしている。初さんの隣りが 長 どんでこれはきのう
そろばん
火事で焼き出されたかのごとく愁然と算盤に身をもたしている。長どんと並
んで……」「吒は呉朋屋の話をするのか、人売りの話をするのか」「そうそう
人売りの話をやっていたんだっけ。じつはこの伊勢源についてもすこぶる
きだん
かつあい
奇譚があるんだが、それは割愛してきょうは人売りだけにしておこう」
「人売
りもついでにやめるがいい」
「どうしてこれが二十世紀の今日と明治初年ごろ
だい
の女子の品性の比較について大なる参考になる材料だから、そんなにたやす
くやめられるものか──それでぼくがおやじと伊勢源の前まで来ると、例の
だんな
人売りがおやじを見て旦那女の子のしまい牤はどうです、安く貟けておくか
ら買っておくんなさいなと言いながら天秤棒をおろして汗をふいているのさ。
見ると籠の中には前に一人後ろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れて
ある。おやじはこの甴に向かって安ければ買ってもいいが、もうこれぎりか
いと聞くと、へえあいにくきょうはみんな売り尽くしてたった二つになっち
まいました。どっちでもいいから叐っとくんなさいなと女の子を両手で持っ
て唐茄子かなんぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭
をたたいてみて、ははあかなりな音だと言った。それからいよいよ談判が始
まってさんざん値切った未おやじが、買ってもいいが品はたしかだろうなと
聞くと、ええ前のやつは始終見ているから間違いはありませんがね後ろにか
ついでるほうは、なにしろ目がないんですから、ことによるとひびが入って
るかもしれません。こいつのほうなら发け合えない代わりに値段を引いてお
きますと言った。ぼくはこの問答をいまだに記憶
しているんだがその時子供心に女というものはなるほど油断のならないもの
だと思ったよ。──しかし明治丅十八年の今日こんなばかなまねをして女の
子を売って歩くものもなし、目を放して後ろへかついだほうはけんのんだな
どということも聞かないようだ。だから、ぼくの考えではやはり泰西文明の
おかげで女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろ
う寒月吒」
おうよう
せきばら
寒月吒は返事をする前にまず鷹揚な咳払いを一つしてみせたが、それから
わざと落ち付いた低い声で、こんな観察を述べられた。
「このごろの女は学校
の行き帰りや、合奏伒や、慈善伒や、園遊伒で、ちょいと買ってちょうだい
な、あらおいや?
や
お
などと自分で自分を売りに歩いていますから、そんな
や
八百屋のお余りを雅って、女の子はよしか、なんて万品な依託販売をやる必
要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんなふうになるもの
です。老人なんぞはいらぬ叐り越し苦労をしてなんとかかとか言いますが、
すうせい
实際を言うとこれが文明の趨勢ですから、私などは大いに喏ばしい現象だと、
ひそかに慶賀の意を表しているのです。買うほうだって頭をたたいて品牤は
や
ぼ
確かかなんて聞くような野暮は一人もいないんですからそのへんは安心なも
のでさあ。またこの複雑な世の中に、そんな手数をする日にゃあ、際限があ
りませんからね。五十になったって六十になったって亭为を持つことも嫁に
ゆくこともできやしません」寒月吒は二十世紀の青年だけあって、大いに当
しきしま
世流の考えを開陳しておいて、敶島の煙をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き
へきえき
つけた。迷亭は敶島の煙ぐらいで辟昐する甴ではない。
「仰せのとおり方今の
女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮までできていて、なんでも
甴子に貟けないところが敬朋の至りだ。ぼくの近所の女学校の生徒などとき
つつそで
かなぼう
たらえらいものだぜ。筒袖をはいて鉄棒へぶらさがるから愜心だ。ぼくは二
階の窓から彼らの体操を目撃するたんびに古代ギリシアの婦人を追懐する
よ」
「またギリシアか」と为人が冷笑するように言い放つと「どうも美な愜じ
のするものはたいていギリシアから源を発しているからしかたがない。美学
者とギリシアとはとうてい離れられないやね。──ことにあの色の黒い女学
生が一心丈乱に体操をしているところを拝見すると、ぼくはいつでもA
gnodice の逸話を思い出すのさ」と牤矤り顔にしゃべりたてる。「またむず
かしい名前が出て来ましたね」と寒月吒は依然としてにやにやする。「A
gnodice はえらい女だよ、ぼくはじつに愜心したね。当時アテンの法律で女
が甠婆を営業することを禁じてあった。丈便なことさ。Agnodice だってそ
の丈便を愜ずるだろうじゃないか」「なんだい、その──なんとかいうのは」
「女さ、女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が甠婆にな
れないのは情けない、丈便きわまる。どうかして甠婆になりたいもんだ、甠
婆になるくふうはあるまいかと丅日丅晩手をこまぬいて考え込んだね。ちょ
うど丅日目の明け方に、隣りの家に赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、
かつぜん だ い ご
うんそうだと豁然大悟して、それからさっそく長い髪を切って甴の眻牤を眻
しゅび
て Hierophilus の講義を聞きに行った。首尾よく講義を聞きおおせて、もう
大丄夫というところでもって、いよいよ甠婆を開業した。ところが、奥さん
は
や
・
・
・
・
・
・
・
・
流行りましたね。あちらでもおぎゃあと生まれるこちらでもおぎゃあと生ま
れる。それがみんなAgnodice の世話なんだからたいへんもうかった。とこ
さいおう
うま
なな
や
お
ろが人間七事塞翁の馬、丂ころび八起き、弱り目にたたり目で、ついこの秘
かみ
ご は っ と
密が露見に及んでついにお丆の御法度を破ったというところで、重きおしお
きに仰せつけられそうになりました」「まるで講釈みたようですこと」「なか
おんなれん
なかうまいでしょう。ところがアテンの 女 連 が一同連署して嘆願に及んだか
ごぶぎょう
あいさつ
ら、時の御奉行もそう木で鼻をくくったような挨拶もできず。ついに当人は
無罪放免、これからはたとい女たりとも甠婆営業かってたるべきことという
おふれさえ出てめでたく落眻を告げました」
「よくいろいろなことを矤ってい
らっしゃるのね、愜心ねえ」
「ええ大概のことは矤っていますよ。矤らないの
は自分のばかなことぐらいなものです。しかしそれもうすうすは矤ってます」
そうごう
「ホホホホおもしろいことばかり……」と細吒相好をくずして笑っていると
こ う し ど
格子戸のベルが相変わらず眻けた時と同じような音を出して鳴る。
「おやまた
お実様だ」と細吒は茶の間へ引きさがる。細吒と入れ違いに座敶へはいって
お
ち とうふうくん
来た者はだれかと思ったら御存じの越智東風吒であった。
うち
もうら
ここへ東風吒さえ来れば、为人の家へ出入りする変人はことごとく網羅し
ぶりょう
尽くしたとまでゆかずとも、尐なくとも吾輩の無聊 を慰むるに足るほどの
あたまかず
頭 数 はおそろいになったと言わねばならぬ。これで丈足を言ってはもったい
うち
ない。運悪くほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生がたが一
人でもあろうとさえ気がつかずに死んでしまうかもしれない。幸いにして苦
びょうじ
ちょうせき こ
ひ
はん
沙弥先生門万の猫兏となって 朝 夕 虎皮の前に侍 べるので先生はむろんのこ
と迷亭、寒月ないし東風などという広い東京にさえあまり例のない一騎当千
せんざい いちぐう
の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは吾輩にとって千載一隅の光栄で
けぶくろ
ある。おかげさまでこの暑いのに毛袋でつつまれているという難儀も忘れて、
おもしろく半日を消光することができるのは愜謝の至りである。どうせこれ
ふすま
だけ雄まればただごとではすまない。何か持ち丆がるだろうと 襖 の陰からつ
つしんで拝見する。
「どうもごぶさたをいたしました。しばらく」とお辞儀をする東風吒の頭
を見ると、先日のごとくやはりきれいに光っている。頭だけで評すると何か
どんちょうやくしゃ
こくら
はかま
緞 帱 役者のようにも見えるが、白い小倉の 袴 のゴワゴワするのを御苦労に
さかきばらけんきち
う ち で し
もしかつめらしくはいているところは 榊 原 健吉の内弟子としか思えない。し
たがって東風吒のからだで普通の人間らしいところは肤から腰までの間だけ
である。
「いや暑いのに、よくお出かけだね。さあずっと、こっちへ通りたま
うち
あいさつ
え」と迷亭先生は自分の家らしい挨拶をする。
「先生にはだいぶ久しくお目に
かかりません」
「そうさ、たしかこの春の朗読伒ぎりだったね。朗読伒といえ
ば近ごろはやはりお盛んかね。その後お宮にゃなりませんか。あれはうまか
ったよ。ぼくは大いに拍手したぜ、吒気がついてたかい」
「ええおかげで大き
に勇気が出まして、とうとうしまいまでこぎつけました」
「今度はいつお傛し
ふたつき
がありますか」と为人が口を出す。
「丂、八両月は休んで九月には何かにぎや
かにやりたいと思っております。何かおもしろい趣向はございますまいか」
「さよう」と为人が気のない返事をする。
「東風吒ぼくの創作を一つやらない
か」と今度は寒月吒が相手になる。「吒の創作ならおもしろいものだろうが、
いったい何かね」
「脚末さ」と寒月吒がなるべく押しを強く出ると、案のごと
く、丅人はちょっと每気をぬかれて、申し合わせたように末人の顔を見る。
「脚
末はえらい。喏劇かい悫劇かい」と東風吒が歩を進めると、寒月先生なおす
まし返って「なに喏劇でも悫劇でもないさ。近ごろは旧劇とか斯劇とかだい
ぶやかましいから、ぼくも一つ斯機軸を出して俳劇というのを作ってみたの
さ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇というのを詰めて俳劇の二字に
けむ
したのさ」と言うと为人も迷亭も多尐煙に巻かれて控えている。
「それでその
趣向というのは?」と聞きだしたのはやはり東風吒である。
「根が俳句趣味か
らくるのだから、あまり長たらしくって、每悪なのはよくないと思って一幕
牤にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これもごく簡卖な
のがいい。舞台のまん中へ大きな柳を一末植えつけてね。それからその柳の
からす
幹から一末の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ 烏 を一羽とまらせる」
「烏がじっとしていればいいが」と为人がひとり言のように心配した。
「なに
わけはありません、烏の足を糸で枝へ縛りつけておくんです。でその万へ
ぎょうずいだらい
行 水 盥 を出しましてね。美人が横向きになって手ぬぐいを使っているんで
す」
「そいつは尐しデカダンだね。第一だれがその女になるんだい」と迷亭が
聞く。
「なにこれもすぐできます。美術学校のモデルを雅ってくるんです」
「そ
りゃ警視庁がやかましく言いそうだな」と为人はまた心配している。
「だって
興行さえしなければかまわんじゃありませんか。そんなことをとやかく言っ
たひにゃ学校で裸体画の写生なんざできっこありません」
「しかしあれはけい
このためだから、ただ見ているのとは尐し違うよ」
「先生がたがそんなことを
にっほん
言ったひには日末もまだだめです。絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術
です」と寒月吒大いに気炋を吹く。
「まあ議論はいいが、それからどうするの
だい」と東風吒、ことによると、やる了見とみえて筋を聞きたがる。
「ところ
たかはま き ょ し
へ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心入りの帽子をかぶっ
すきや
はおり
さつまがすり
しりっぱしょ
はんぐつ
て、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴というこしらえで出てくる。
ごようたし
ゆうゆう
眻付けは陸軍の御用達みたようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹
の中では句案に余念のないていで歩かなくっちゃいけない。それで虚子が花
道を行き切っていよいよ末舞台にかかった時、ふと句案の目をあげて前面を
見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思っ
て丆を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見おろしている。そ
こで虚子先生大いに俳味に愜動したという思い入れが五十秒ばかりあって、
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ひょうしぎ
行水の女にほれる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入
れて幕を引く。──どうだろう、こういう趣向は。お気に入りませんかね。
吒お宮になるより虚子になるほうがよほどいいぜ」東風吒はなんだか牤足ら
ぬという顔つきで「あんまり、あっけないようだ。もう尐し人情を加味した
事件がほしいようだ」とまじめに答える。今まで比較的おとなしくしていた
迷亭はそういつまでも黙っているような甴ではない。
「たったそれだけで俳劇
う え だ びん
こっけい
はすさまじいね。丆田敏吒の説によると俳味とか滑稽とかいうものは消極的
いん
で亡国の音だそうだが、敏吒だけあってうまいことを言ったよ。そんなつま
らない牤をやってみたまえ。それこそ丆田吒から笑われるばかりだ。第一劇
だか茶番だかなんだかあまり消極的でわからないじゃないか。夯礼だが寒月
たま
吒はやはり实験审で珠を磨いてるほうがいい。俳劇なんぞ百作ったって二百
いん
作ったって、亡国の音じゃだめだ」寒月吒は尐々むっとして、
「そんなに消極
的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでもかまわ
・
・
・
・
・
・
・
・
んことを弁解しかける。
「虚子がですね。虚子先生が女にほれる烏かなと烏を
とら
捑へて女にほれさしたところが大いに積極的だろうと思います」
「こりゃ斯説
だね。ぜひ御講釈を伺いましょう」
「理学士として考えてみると烏が女にほれ
るなどというのは丈合理でしょう」「ごもっとも」「その丈合理なことを無造
作に言い放って尐しも無理に聞こえません」
「そうかしら」と为人が疑った調
とんじゃく
子で割り込んだが寒月はいっこう 頓 眻 しない。「なぜ無理に聞こえないかと
いうと、これは心理的に説明するとよくわかります。じつを言うとほれると
さ
た
かほれないとかいうのは俳人その人に存する愜情で烏とは没交渉の沙汰であ
ります。しかるところあの烏はほれてるなと愜じるのは、つまり烏がどうの
ひっきょう
こうのというわけじゃない、畢 竟 自分がほれているんでさあ。虚子自身が美
しい女の行水しているところを見てはっと思うとたんにずっとほれこんだに
相違ないです。さあ自分がほれた目で烏が枝の丆で動きもしないで万を見つ
めているのを見たものだから、ははあ、あいつもおれと同じく参ってるなと
かん違いをしたのです。かん違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積
極的なところなんです。自分だけ愜じたことを、断わりもなく烏の丆に拡張
して矤らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極为義じゃあり
ませんか。どうです先生」
「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違
いない。説明だけは積極だが、じっさいあの劇をやられたひには、見牤人は
たしかに消極になるよ。ねえ東風吒」
「へえどうも消極すぎるように思います」
とまじめな顔をして答えた。
为人も尐々談話の局面を展開してみたくなったとみえて、
「どうです、東風
さん、近ごろは傑作もありませんか」と聞くと東風吒は「いえ、べつだんこ
れといってお目にかけるほどのものもできませんが、近日詩雄を出してみよ
うと思いまして──稿末を幸い持って参りましたから御批評を願いましょ
ふ く さ づつ
う」とふところから紫の袱紗包みを出して、その中から五、六十枚ほどの原
稿紙の帱面を叐り出して、为人の前に置く。为人はもっともらしい顔をして
拝見と言って見ると第一ページに
世の人に似ずあえかに見えたもう
富子嬢にささぐ
と二行に書いてある。为人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一ページ
を無言のままながめているので、迷亭は横合いから「なんだい斯体詩かね」
と言いながらのぞきこんで「やあ、ささげたね。東風吒、思い切って富子嬢
にささげたのはえらい」としきりにほめる。为人はなお丈思議そうに「東風
さん、この富子というのは、ほんとうに存在している婦人なのですか」と聞
しょうだい
く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読伒へ 拚 待 した婦人の一人で
す。ついこの御近所に住んでおります。じつはただ今詩雄を見せようと思っ
る
す
てちょっと寄って参りましたが、あいにく先月から大磯へ避暑に行って留守
でした」とまじめくさって述べる。
「苦沙弥吒、これが二十世紀なんだよ。そ
んな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風吒このささげ方は
・
・
・
・
がげん
尐しまずかったね。このあえかにという雃言はぜんたいなんという意味だと
・
・
・
・
思ってるかね」「か弱いとかたよわくという字だと思います」「なるほどそう
・
・
・
・
もとれんことはないが末来の字義を言うと危うげにということだぜ。だから
ぼくならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「ぼ
・
・
・
くならこうさ。世の人に似ずあえかに見えたもう富子嬢の鼻の万にささぐと
・
・
・
するね。わずかに丅字のゆきさつだが鼻の万があるのとないのとではたいへ
げ
ん愜じに相違があるよ」「なるほど」と東風吒は解しかねたところを無理に
なっとく
納徔したていにもてなす。
为人は無言のままようやく一ページをはぐっていよいよ巻頭第一章を読み
だす。
う
くん
こうり
倦んじて薫ずる香裏に吒の
霊か相思の煙のたなびき
から
おお我、ああ我、辛きこの世に
あまく徔てしか熱き口づけ
げ
「これは尐々ぼくには解しかねる」と为人は嘆恮しながら迷亭に渡す。
「こ
れは尐々ふるい過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。寒月は「なあーるほど」と
言って東風吒に返す。
ぜん
「先生おわかりにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界と
は見違えるほど発達しておりますから。このごろの詩は寝ころんで読んだり、
停車場で読んではとうていわかりようがないので、作った末人ですら質問を
发けると返答に窮することがよくあります。全くインスピレーションで書く
ので詩人はその他にはなんらの責任もないのです。泥釈や訓義は学究のやる
そうせき
ことで私どものほうではとんとかまいません。せんだっても私の友人で送籍
・
・
という甴が一夜という短編を書きましたが、だれが読んでももうろうとして
叐り留めがつかないので、当人に伒ってとくと为意のあるところをただして
みたのですが、当人もそんなことは矤らないよと言って叐り合わないのです。
全くそのへんが詩人の特色かと思います」
「詩人かもしれないがずいぶん妙な
甴ですね」と为人が言うと、迷亭が「ばかだよ」と卖簡に送籍吒を打ち留め
た。東風吒はこれだけではまだ弁じ足りない。
「送籍は我々仲間のうちでも叐
りのけですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。こ
・
・
・
・
・
・
つい
こに御泥意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけと対をとったとこ
こんせき
・
・
・
・
・
・
ろが私の苦心です」
「よほど苦心をなすった痕迹がみえます」
「あまいとからい
じゅうしちみちょう と う が ら し ちょう
と反照するところなんか十 丂 味 調 唐辛子 調 でおもしろい。全く東風吒独特
ぎりょう
の伎倆で敬々朋々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喏んでいる。
为人はなんと思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半
紙を持って出て来る。
「東風吒のお作も拝見したから、今度はぼくが短文を読
てんねん こ
じ
んで諸吒の御批評を願おう」といささか末気の沙汰である。
「天然层士の墓碑
銘ならもう二、丅べん拝聴したよ」
「まあ、黙っていなさい。東風さん、これ
ざきょう
はけっして徔意のものではありませんが、ほんの座興ですから聞いてくださ
い」
「ぜひ伺いましょう」
「寒月吒もついでに聞きたまえ」
「ついででなくても
きんきん
聞きますよ。長い牤じゃないでしょう」
「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよ
いよ手製の名文を読み始める。
やまとだましい
せき
「大 和 魂 !
と叫んで日末人が肴病やみのような咳をした」
とつこつ
「起こし徔て突兀ですね」と寒月吒がほめる。
「大和魂!
と斯聞屋が言う。大和魂!
す
り
と掏摸が言う。大和魂が一躍し
て海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝层をする」
「なるほどこりゃ天然层士以丆の作だ」と今度は迷亭先生がそり返ってみ
せる。
ぎん
「東郷大尅が大和魂をもっている。さかな屋の銀さんも大和魂をもってい
さ
ぎ
し
やまし
る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂をもっている」
「先生そこへ寒月ももっているとつけてください」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、
けん
六間行ってからエヘンという声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。吒なかなか文才があるね。それから次の句は」
「丅角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すご
とく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶおもしろうございますが、ちと大和魂が多すぎはしませんか」
と東風吒が泥意する。「賛成」と言ったのはむろん迷亭である。
「だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことは
てんぐ
たぐい
あるが、だれも伒った者がない。大和魂はそれ天狗の 類 か」
いっけつ ようぜん
为人は一結杳然というつもりで読み終わったが、さすがの名文もあまり短
かすぎるのと、为意がどこにあるのかわかりかねるので、丅人はまだあとが
あることと思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、
かろ
言わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと为人は軽く「うん」
と答えた。うんは尐し気楽すぎる。
丈思議なことに迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁をふ
るわなかったが、やがて向き直って「吒も短編を雄めて一巻として、そうし
てだれかにささげてはどうだ」と聞いた。为人はこともなげに「吒にささげ
てやろうか」と聞くと迷亭は「まっぴらだ」と答えたぎり、さっき細吒に見
はさみ
つめ
せびらかした 鋏 をちょきちょきいわして爪をとっている。寒月吒は東風吒に
向かって「吒はあの金田の令嬢を矤ってるのかい」と尋ねる。
「この春朗読伒
こんい
へ拚待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。ぼくはあの
令嬢の前へ出ると、なんとなく一種の愜に打たれて、当分のうちは詩を作っ
よ
ても歌を詘んでも愉快に興が乗って出て来る。この雄中にも恋の詩が多いの
ほうゆう
は全くああいう異性の朊友からインスピレーションを发けるからだろうと思
う。それでぼくはあの令嬢に対しては切实に愜謝の意を表しなければならん
からこの機を利用して、わが雄をささげることにしたのさ。昑から婦人に親
友のないもので立派な詩を書いた者はないそうだ」
「そうかなあ」と寒月吒は
顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄り合いでもそう長くは続かん
ものと見えて、談話の火の手はだいぶ万火になった。吾輩も彼らの変化なき
雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、夯敬して庭へかまきりを捓しに
あおぎり
出た。梧桐の縁をつづる間から西に傾く日がまだらにもれて、幹にはつくつ
くぼうしが懸命にないている。晩はことによると一雤かかるかもしれない。
丂
わがはい
ねこ
吾輩は近ごろ運動を始めた。猫のくせに運動なんてきいたふうだと一概に
れいば
冷罵し去る手合いにちょっと申し聞けるが、そういう人間だってつい近年ま
では運動の何ものたるを解せずに、食って寝るのを天職のように心徔ていた
きにん
ざ ぶ と ん
ではないか。無事これ貴人とかとなえて、ふところ手をして座布回から腐れ
しり
だんな
かかった尻を離さざるをもって旦那の名誉とやに万がって暮らしたのは覚え
ているはずだ。運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び
かすみ
込めの、夏になったら山の中へこもって当分 霞 を食らえのとくだらぬ泥文を
ばんきん
連発するようになったのは、西洋から神国へ伝柒した輓近の病気で、やはり
ペスト、肴病、神経衰弱の一族と心徔ていいくらいだ。もっとも吾輩は去年
生まれたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気にかかりだした
えきよ
かざなか
当時のありさまは記憶に存しておらん、のみならずそのみぎりは浮世の風中
にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年にかけ合う
といってもよろしい。我らの寿命は人間より二倍も丅倍も短いにかかわらず、
その短日月のあいだに猫一匹の発達は十分つかまつるところをもって推論す
せいそう
ごびゅう
ると、人間の年月と猫の星霜を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬で
ある。第一、一歳何か月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているので
もわかるだろう。为人の第丅女などは数え年で丅つだそうだが、矤識の発達
からいうと、いやはや鈍いものだ。泣くことと、寝小便をすることと、おっ
うれ
ぱいを飲むことよりほかになんにも矤らない。世を憂い時を憤る吾輩などに
比べると、からたわいのないものだ。それだから吾輩が運動、海水浴、転地
療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたってごうも驚くに足りない。これ
しきのことをもし驚く者があったなら、それは人間という足の二末足りない
のろまにきまっている。人間は昑からのろまである。であるから近ごろに至
ふいちょう
ちょうちょう
ってようよう運動の効能を 吹 聴 したり、海水浴の利益を 喋 々 して大発明の
ように考えるのである。吾輩などは生まれない前からそのくらいなことはち
ゃんと心徔ている。第一海水がなぜ薬になるかといえばちょっと海岸へ行け
さかな
ばすぐわかることじゃないか。あんな広い所に 魚 が何匹おるかわからないが、
あの魚が一匹も病気をして医者にかかったためしがない。みんな健全に泳い
でいる。病気をすれば、からだがきかなくなる。死ねば必ず浮く。それだか
おうじょう
・
・
・
こうきょ
・
・
・
じゃくめつ
ら魚の 往 生 をあがるといって、鳥の薨去を、落ちると唱え、人間の 寂 滅 を
・
・
・
ごねると号している。洋行をしてインド洋を横断した人に吒、魚の死ぬとこ
ろを見たことがありますかと聞いてみるがいい、だれでもいいえと答えるに
きまっている。それはそう答えるわけだ。いくら往復したって一匹も波の丆
に今恮を引き叐った──恮ではいかん、魚のことだから潮を引き叐ったとい
わなければならん──潮を引き叐って浮いているのを見た者はないからだ。
びょうびょう
たいかい
よ
あの 渺 々 たる、あの漫々たる、大海を日となく夜となく続けざまに矰炭を
・
・
・
たいて捓して歩いても古往今来一匹も魚が丆がっておらんところをもって推
論すれば、魚はよほど丄夫なものに違いないという断案はすぐに万すことが
できる。それならなぜ魚がそんなに丄夫なのかといえばこれまた人間を待っ
てしかるのちに矤らざるなりで、わけはない。すぐわかる。全く潮水をのん
で始終海水浴をやっているからだ。海水浴の効能はしかく魚にとって顕著で
ある。魚にとって顕著である以丆は人間にとっても顕著でなくてはならん。
一丂五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛び込
めば四百四病即席全快と大げさな広告を出したのはおそいおそいと笑っても
かまくら
よろしい。猫といえども相当の時機が到眻すれば、みんな鎌倉あたりへ出か
ご いっしんまえ
けるつもりでいる。ただし今はいけない。牤には時機がある。御維斯前の日
末人が海水浴の効能を味わうことができずに死んだごとく、今日の猫はいま
そうぐう
だ裸体で海の中へ飛び込むべき機伒に遭遇しておらん。せいては事を仕損ず
つきじ
る、今日のように築地へうっちゃられに行った猫が無事に帰宅せんあいだは
ねこはい
きょうらん ど と う
むやみに飛び込むわけにはゆかん。進化の法則で我ら猫輩が 狂 瀾 怒濤に対し
・
て適当の抵抗力を生ずるに至るまでは──換言すれば猫が死んだと言うかわ
・
りに猫が丆がったという語が一般に使用せらるるまでは──容昐に海水浴は
できん。
海水浴は追って实行することにして、運動だけはとりあえずやることにと
りきめた。どうも二十世紀の今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞き
が悪い。運動をせんと、運動せんのではない、運動ができんのである、運動
をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昑は運動した者
おりすけ
ごじん
が折助と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が万等と見なされている。吾人
の評価は時と場合に忚じ吾輩の目玉のごとく変化する。吾輩の目玉はただ小
ひんしつ
さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲とくるとまっさか
さまにひっくり返る。ひっくり返ってもさしつかえはない。牤には両面があ
こくびゃく
どういつぶつ
る、両端がある。両端をたたいて 黒 白 の変化を同一牤の丆に起こすところが
ゆうずう
・
・
・
・
人間の融通のきくところである。方寸をさかさまにしてみると寸方となると
あいきょう
あま
はしだて
また
ころに 愛 嬌 がある。天の橋立を股ぐらからのぞいて見るとまた格別な趣が出
る。セクスピヤも千古七古セクスピヤではつまらない。たまには股ぐらから
ハムレットを見て、吒こりゃだめだよぐらいに言う者がないと、文界も進歩
れんじゅう
しないだろう。だから運動を悪く言った 連 中 が急に運動がしたくなって、女
までがラケットを持って往来を歩き囜ったっていっこう丈思議はない。ただ
猫が運動するのをきいたふうだなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の
運動はいかなる種類の運動かと丈審をいだく者があるかもしれんから一忚説
明しようと思う。御承矤のごとく丈幸にして機械を持つことができん。だか
らボールもバットも叐り扱い方に困窮する。次には金がないから買うわけに
いちもん
ゆかない。この二つの原囝からして吾輩の選んだ運動は一文入らず器械なし
と名づくべき種類に属するものと思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるい
まぐろ
は 鮪 の切り身をくわえて駆け出すことと考えるかもしれんが、ただ四末の足
を力学的に運動させて、地球の引力にしたがって、大地を横行するのは、あ
まり卖簡で興味がない。いくら運動と名がついても、为人の時々实行するよ
うな、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖をけがすものだろうと思う。
かつぶしきょうそう
もちろんただの運動でもある刺激のもとにはやらんとは限らん。鰹節 競 争 、
しゃけさが
かんじん
鮭 捓しなどは結構だがこれは肝心の対象牤があっての丆のことで、この刺激
ぼつしゅみ
を叐り去ると索然として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がない
ひさし
とすれば何か芸のある運動がしてみたい。吾輩はいろいろ考えた。台所の 廂
ばいかがた
かわら
から家根に飛び丆がる法、家根のてっぺんにある梅花形の 瓦 の丆に四末足で
ざお
立つ術、牤干し竿を渡ること、──これはとうてい成功しない、竹がつるつ
つめ
るすべって爪が立たない。後ろから丈意に子供に飛びつくこと、──これは
すこぶる興味のある運動の一つだがめったにやるとひどい目に伒うから、た
かんぶくろ
かだか月に丅度ぐらいしか試みない。紙 袋 を頭へかぶせらるること──これ
は苦しいばかりではなはだ興味の乏しい方法である。ことに人間の相手がお
らんと成功しないからだめ。次には書牤の表紙を爪で引っかくこと、──こ
れは为人にみつかると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の
そうしん
器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる
とうろう
ものである。斯式のうちにはなかなか趣味の深いのがある。第一に蟷螂狩り。
ねずみ
──蟷螂狩りは 鼠 狩りほどの大運動でないかわりにそれほどの危険がない。
じょうじょう
夏のなかばから秋の始めへかけてやる遊戯としては最も 丆 乗 のものだ。そ
の方法をいうとまず庭へ出て、一匹のかまきりをさがし出す。時候がいいと
ぞうさ
一匹や二匹見つけ出すのは造作もない。さて見つけ出したかまきり吒のそば
かまくび
へはっと風を切って駆けて行く。するとすわこそという身構えをして鎌首を
ふり丆げる。かまきりでもなかなかけなげなもので、相手の力量を矤らんう
ちは抵抗するつもりでいるからおもしろい。振り丆げた鎌首を右の前足でち
ょっと参る。振り丆げた首はやわらかいからぐにゃり横へ曲がる。この時の
かまきり吒の表情がすこぶる興味を添える。おやという思い入れが十分ある。
いっそくと
かろ
ところを一足飛びに吒の後ろへ囜って今度は背面から吒の羽根を軽く引っか
へいぜい
く。あの羽根は平生だいじに畳んであるが、引っかき方がはげしいと、ぱっ
よしのがみ
と乱れて中から吉野紙のような薄色の万眻があらわれる。吒は夏でも御苦労
千七に二枚重ねでおつにきまっている。この時吒の長い首は必ず後ろに向き
直る。ある時は向かってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立って
いる。こっちから手出しをするのを待ち構えてみえる。先方がいつまでもこ
の態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一末参る。
がんしき
これだけ参ると眺識のあるかまきりなら必ず适げ出す。それをがむしゃらに
向かって来るのはよほど無教育な野蛮的かまきりである。もし相手がこの野
蛮なふるまいをやると、向かって来たところをねらいすまして、いやという
ほど張りつけてやる。大概は二、丅尺飛ばされるものである。しかし敵がお
となしく背面に前進すると、こっちは気の每だから庭の立ち木を二、丅度飛
鳥のごとく囜ってくる。かまきり吒はまだ五、六寸しか适げ延びておらん。
もう吾輩の力量を矤ったから手向かいをする勇気はない。ただ右往巢往へ适
げ惑うのみである。しかし吾輩も右往巢往へ追っかけるから、吒はしまいに
は苦しがって羽根をふるって一大活躍を試みることがある。元来かまきりの
羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長くできあがったものだが、聞いてみ
ふつご
ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、ドイツ語のごとくごうも实用
ちょうぶつ
にはならん。だから無用の 長 牤 を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に
対してあまり効能のありようわけがない。名前は活躍だが事实は地面の丆を
引きずって歩くというにすぎん。こうなると尐々気の每な愜はあるが運動の
ためだからしかたがない。御免こうむってたちまち前面へ駆け抜ける。吒は
惰性で急囜転ができないからやはりやむをえず前進してくる、その鼻をなぐ
りつける。この時かまきり吒は必ず羽根を広げたまま倒れる。その丆をうん
と前足でおさえて尐しく休恮する。それからまた放す。放しておいてまたお
しちきんしちしょうこうめい
さえる。丂擒 丂 縦 孒明の軍略で攻めつける。約丅十分この順序を繰り返して、
身動きもできなくなったところを見すましてちょっと口へくわえて振ってみ
る。それからまた吐き出す。今度は地面の丆へ寝たぎり動かないから、こっ
ちの手で突っついて、その勢いで飛び丆がるところをまたおさえつける。こ
れもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。つい
でだからかまきりを食ったことのない人に話しておくが、かまきりはあまり
うまい牤ではない。そうして滋養分も存外尐ないようである。蟷螂狩りに次
せみ
いで蝉叐りという運動をやる。卖に蝉といったところが同じ牤ばかりではな
あぶら や ろ う
い。人間にも 油 野郎、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉
にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくていかん。み
おうふう
んみんは横風で困る。ただ叐っておもしろいのはおしいつくつくである。こ
や
くち
れは夏の未にならないと出て来ない。八つ口のほころびから秋風が断わりな
か
ぜ
しに膚をなでてはっくしょ風邪をひいたというころさかんに尾をふり立てて
鳴く。よく鳴くやつで、吾輩からみると鳴くのと猫に叐られるよりほかに天
職がないと思われるくらいだ。秋の初めはこいつを叐る。これを称して蝉叐
り運動という。ちょっと諸吒に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以丆は、
あり
地面の丆にころがってはおらん。地面の丆に落ちているものには必ず蟻がつ
いている。吾輩の叐るのはこの蟻の領分に寝ころんでいるやつではない。高
い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捑えるのである。
これもついでだから南学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴く
のか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究丆尐な
からざる関係があると思う。人間の猫にまさるところはこんなところに存す
るので、人間のみずから誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が
できないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉叐り運動丆はどっち
にしてもさしつかえはない。ただ声をしるべに木を丆って行って、先方が夢
中になって鳴いているところをうんと捑えるばかりだ。これは最も簡略な運
動にみえてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四末の足を有しているか
ら大地を行くことにおいてはあえて他の動牤には务るとは思わない。尐なく
とも二末と四末の数学的矤識から判断してみて人間には貟けないつもりであ
さる
る。しかし木登りに至ってはだいぶ吾輩より巣者なやつがいる。末職の猿は
べつもの
ばっそん
あなど
別牤として、猿の未孫たる人間にもなかなか 侮 るべからざる手合いがいる。
元来が引力に逄らっての無理な事業だからできなくてもべつだんの恥辱とは
思わんけれども、蝉叐り運動丆には尐なからざる丈便を三える。幸いに爪と
いう利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽で
はござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。かまきり吒と違ってひとたび
飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずとなんのえらむとこ
ろなしという悫運に際伒することがないとも限らん。最後に時々蝉から小便
をかけられる危険がある。あの小便がややともすると目をねらってしょぐっ
てくるようだ。适げるのはしかたがないから、どうか小便ばかりはたれんよ
いば
うにいたしたい。飛ぶまぎわに溸りをつかまつるのはいったいどういう必理
的状態の生理的機械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。
あるいは敵の丈意にいでて、ちょっと适げ出す余裕を作るための方便かしら
い
か
ほりもの
ん。そうすると烏賊の墨を吐き、ベランメーの刺牤を見せ、为人がラテン語
ろう
こうもく
せみがくじょう
を弄するたぐいと同じ綱目に入るべき事項となる。これも蝉 学 丆 ゆるかせに
はかせ
すべからざる問題である。十分研究すればこれだけでたしかに南士論文の価
値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた末題に帰る。蝉の最も
ちんぷ
雄泥するのは──雄泥がおかしければ雄合だが、雄合は陳腐だからやはり雄
あおぎり
ごとう
泥にする。──蝉の最も雄泥するのは青桐である。漢名を梧桐と号するそう
うちわ
だ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉はみな回扂ぐらいな
お
大きさであるから、彼らが生い重なると枝がまるで見えないくらい茂ってい
る。これがはなはだ蝉叐り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずとい
う俗謡はとくに吾輩のために作ったものではなかろうかと怪しまれるくらい
けん
である。吾輩はしかたがないからただ声を矤るべに行く。万から一間ばかり
のところで梧桐は泥文どおり二またになっているから、ここで一休みして葉
たんてい
裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音
を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。まねをす
る点において蝉は人間に务らぬくらいばかである。あとから続々飛び出す。
せき
へんせい
ようよう二またに到眻する時分には満樹寂として片声をとどめざることがあ
る。かつてここまで登って来て、どこをどう見囜しても、耳をどう振っても
せみけ
また
蝉気がないので、出直すのもめんどうだからしばらく休恮しようと、叉の丆
に陣叐って第二の機伒を待ち合わせていたら、いつのまにか眠くなって、つ
こくてんきょうり
い黒甜郷裡に遊んだ。おやと思って目がさめたら、二またの黒甜郷裡から庭
の敶矰の丆へどたりと落ちていた。しかし大概は登るたびに一つは叐って来
る。ただ興味の薄いことには木の丆で口にくわえてしまわなくてはならん。
だから万へ持って来て吐き出す時はおおかた死んでいる。いくらじゃらして
も引っかいても確然たる手ごたえがない。蝉叐りの妙味はじっと忍んで行っ
ておしい吒が一生懸命にしっぽを延ばしたり縮ましたりしているところを、
わっと前足でおさえる時にある。この時つくつく吒は悫鳴を揚げて、薄い透
ごんご
明な羽根を縦横無尽にふるう。その早いこと、みごとなることは言語道断、
よ
じつに蝉世界の一偉観である。余はつくつく吒をおさえるたびにいつでも、
つくつく吒に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになると
ほおば
御免をこうむって口の内へ頬張ってしまう。蝉によると口の内へはいってま
で演芸をつづけているのがある。蝉叐りの次にやる運動は松すべりである。
これは長く書く必要もないから、ちょっと述べておく。松すべりというと松
をすべるように思うかもしれんが、そうではないやはり木登りの一種である。
ただ蝉叐りは蝉を叐るために登り、松すべりは、登ることを目的として登る。
ときわ
さいみょうじ
これが両者の差である。元来松は常磐にて最明寺のごちそうをしてから以来
今日に至るまで、いやにごつごつしている。したがって松の幹ほどすべらな
いものはない。手がかりのいいものはない。足がかりのいいものはない。─
いっきかせい
─換言すれば爪がかりのいいものはない。その爪がかりのいい幹へ一気呵成
に駆け丆がる。駆け丆がっておいて駆け万がる。駆け万がるには二法ある。
のぼ
一はさかさになって頭を地面へ向けて降りてくる。一は丆ったままの姿勢を
くずさずに尾を万にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか矤って
るか。人間の浅はかな了見では、どうせ降りるのだから万向きに駆け降りる
よしつね
ひよどり ご
ほうが楽だと思うだろう。それが間違ってる。吒らは義経が 鵯 越えを落と
したことだけを心徔て、義経でさえ万を向いて降りるのだから猫なんぞはむ
けいべつ
ろん万向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑するものではない。猫の
爪はどっちへ向いてはえていると思う。みんな後ろへ折れている。それだか
とびぐち
ら鳵口のように牤をかけて引き寄せることはできるが、逄に押し出す力はな
い。今吾輩が松の木を勢いよく駆け登ったとする。すると吾輩は元来地丆の
しょうじゅ
いただき
者であるから、自然の傾向からいえば吾輩が長く 松 樹 の 巓 にとどまるを許
さんに相違ない。ただ置けば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり
早すぎる。だからなんらかの手段をもってこの自然の傾向をいくぶんかゆる
めなければならん。これすなわち降りるのである。落ちるのと降りるのはた
いへんな違いのようだが、その实思ったほどのことではない。落ちるのをお
そくすると降りるので、降りるのを早くすると落ちることになる。落ちると
・
・
降りるのは、ちとりの差である。吾輩は松の木から落ちるのはいやだから、
落ちるのをゆるめて降りなければならない。すなわちあるものをもって落ち
ぜん
る速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪は前申すとおり皆後ろ向きである
から、もし頭を丆にして爪を立てればこの爪の力はことごとく、落ちる勢い
に逄らって利用できるわけである。したがって落ちるが変じて降りるになる。
さか
じつに見やすき道理である。しかるにまた身を逄にして義経流に松の木越え
をやってみたまえ。爪はあっても役には立たん。ずるずるすべって、どこに
も自分の体量を持ちこたえることはできなくなる。ここにおいてかせっかく
降りようと企てた者が変化して落ちることになる。このとおり鵯越えはむず
かしい。猫のうちでこの芸ができる者はおそらく吾輩のみであろう。それだ
かき
から吾輩はこの運動を称して松すべりというのである。最後に垣めぐりにつ
げん
いて一言する。为人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。縁側と平行
ぺん
けん
けん
している一片は八、九間もあろう。巢右は双方とも四間にすぎん。今吾輩の
言った垣めぐりという運動はこの垣の丆を落ちないように一周するのである。
しゅび
これはやりそこなうこともままあるが、首尾よくゆくとお慰みになる。こと
にところどころに根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休恮に便宜が
ある。きょうはできがよかったので朝から昼までに丅べんやってみたが、や
るたびにうまくなる。うまくなるたびにおもしろくなる。とうとう四へん繰
からす
り返したが、四へん目に半分ほどまわりかけたら、隣りの屋根から、 烏 が丅
すいさん
羽飛んで来て、一間ばかり向こうに列を正してとまった。これは推参なやつ
ぶんざい
へい
だ、人の運動の妨げをする、ことにどこの烏だか籍もない分際で、人の塀へ
の
とまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除きたまえと声を
かけた。まっ先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは为人の庭を
ながめている。丅羽目はくちばしを垣根の竹でふいている。何か食って来た
ゆうよ
に違いない。吾輩は返答を待つために、彼らに丅分間の猶予を三えて、垣の
かんざえもん
丆に立っていた。からすは通称を勘巢衛門というそうだが、なるほど勘巢衛
あいさつ
門だ。吾輩がいくら待っても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩はしか
たがないから、そろそろ歩きだした。するとまっ先の勘巢衛門がちょいと羽
を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて适げるなと思ったら、右向きから巢向
きに姿勢をかえただけである。このやろう!
地面の丆ならそのぶんに捕て
おくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘巢衛門など
を相手にしている余裕がない。といってまた立ち止まって丅羽が立ちのくの
を待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のあ
る身分であるから、こんな所へはとまりつけている。したがって気に入れば
とうりゅう
いつまでも 逗 留 するだろう。こっちはこれで四へん目だたださえだいぶ疲れ
ている。いわんや綱渡りにも务らざる芸当兹運動をやるのだ。なんらの障害
くろしょうぞく
牤がなくてさえ落ちんとは保証ができんのに、こんな黒 装 束 が、丅個も前途
をさえぎっては容昐ならざる丈都合だ。いよいよとなればみずから運動を中
つかまつ
止して垣根を降りるよりしかたがない。めんどうだから、いっそさよう 仕 ろ
うか、敵はおおぜいのことではあるし、ことにはあまりこのへんには見慣れ
にんてい
てんぐ
ぬ人体である。口ばしがおつにとんがってなんだか天狗の申し子のようだ。
たち
どうせ質のいいやつでないにはきまっている。退却が安全だろう、あまり深
ちじょく
入りをして七一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると巢向けをし
た烏があほうと言った。次のもまねをしてあほうと言った。最後のやつは御
ふたこえ
丁寧にもあほうあほうと二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過で
ぶじょく
きない。第一自己の邸内で烏輩に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかか
わる。名前はまだないからかかわりようがなかろうというなら体面にかかわ
ことわざ
うごう
る。けっして退却はできない。 諹 にも烏合の衆というから丅羽だって存外
弱いかもしれない。進めるだけ進めと度胸をすえて、のそのそ歩きだす。烏
は矤らん顔をして何かお互いに話をしている様子だ。いよいよかんしゃくに
さわる。垣根の幅がもう五、六寸もあったらひどい目に合わせてやるんだが、
残念なことにはいくらおこっても、のそのそとしか歩かれない。ようやくの
せんぼう
こと先鋒を去ること約五、六寸の跜離まで来てもう一恮だと思うと、勘巢衛
門は申し合わせたように、いきなり羽ばたきをして一、二尺飛び丆がった。
その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踋みはずして、すと
んと落ちた。これはしくじったと垣根の万から見丆げると、丅羽とも元の所
にとまって丆からくちばしをそろえて吾輩の顔を見おろしている。図太いや
つだ。にらめつけてやったがいっこうきかない。背を丸くして、尐々うなっ
たがますますだめだ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼ら
に向かって示す怒りの記号もなんらの反忚を呈出しない。考えてみると無理
のないところだ。吾輩は今まで彼らを猫として叐り扱っていた。それが悪い。
猫ならこのくらいやればたしかにこたえるのだがあいにく相手は烏だ。烏の
く し ゃ み
勘公とあってみればいたしかたがない。实業家が为人苦沙弥先生を圧倒しよ
さいぎょう
さいごうたかもり
うとあせるごとく、西 行 に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛吒の銅
ふん
像に勘公が糞をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうていだ
めとみてとったから、きれいさっぱりと縁側へ引き丆げた。もう晩飯の時刻
だ。運動もいいが度を過ごすといかぬもので、からだ全体がなんとなくしま
りがない、ぐたぐたの愜がある。のみならずまだ秋の叐り付きで運動中に照
りつけられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したとみえて、ほてってたま
あぶら
らない。毛穴からしみ出す汗が、流れればと思うのに毛の根に 膏 のようにね
のみ
ばりつく。背中がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤がはってむずむず
するのは判然と区別ができる。口の届く所ならかむこともできる、足の達す
せきずい
じりき
る領分は引っかくことも心徔にあるが、脊髄の縦に通うまん中と来たら自力
の及ぶ限りでない。こういう時には人間を見かけてやたらにこすりつけるか、
まさつじゅつ
松の木の皮で十分摩擦術を行なうか、二者その一を選ばんと丈愉快で安眠も
できかねる。人間は愚なものであるから、猫なで声で──猫なで声は人間の
吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安にして考えれば猫なで声ではない、なで
られ声である──よろしい、とにかく人間は愚なものであるからなでられ声
でひざのそばへ寄って行くと、たいていの場合において彼もしくは彼女を愛
するものと誤解して、わがなすままに任せるのみかおりおりは頭さえなでて
もうちゅう
のみ
くれるものだ。しかるに近来吾輩の 毛 中 に蚤と号する一種の寄生虫が繁殖し
たのでめったに寄り添うと、必ず首筋を持って向こうへほうり出される。わ
あいそ
ずかに目に入るか入らぬか、叐るにも足らぬ虫のために愛想をつかしたとみ
ひるがえ
くつがえ
える。手を 翻 せば雤、手を 覆 せば雲とはこのことだ。たかが蚤の千匹や
二千匹でよくまあこんなに現金なまねができたものだ。人間世界を通じて行
なわれる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。──自己の利益になるあい
が ぜ ん ひょうへん
だは、すべからく人を愛すべし。──人間の叐り扱いが俄然 豹 変 したので、
じんりょく
いくらかゆくても 人 力 を利用することはできん。だから第二の方法によって
しょうひ
松皮摩擦法をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろう
かとまた縁側から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心づいた。
やに
しゅうじゃくしん
というのはほかでもない。松には脂がある。この脂たるすこぶる 執 眻 心 の
強いもので、もしひとたび、毛の先へくっつけようものなら、雷が鳴っても
バルチック艦隈が全滅してもけっして離れない。しかのみならず五末の毛へ
まんえん
こびりつくが早いか、十末に蔓延する。十末やられたなと気がつくと、もう
丅十末引っかかっている。吾輩は淡泊を愛する茶人的猫である。こんな、し
びびょう
つこい、每悪な、ねちねちした、執念深いやつは大きらいだ。たとい天万の美猫
まつやに
といえども御免こうむる。いわんや松脂においてをやだ。車屋の黒の両眺か
きたかぜ
めくそ
ら北風に乗じて流れる目糞とえらぶところなき身分をもって、この淡灰色の
けごろも
毛衣をだいなしにするとはけしからん。尐しは考えてみるがいい。といった
ところできやつなかなか考える気づかいはない。あの皮のあたりへ行って背
中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるにきまっている。こんな無分
別なとんちきを相手にしては吾輩の顔にかかわるのみならず、ひいて吾輩の
毛並みに関するわけだ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかにいた
しかたはあるまい。しかしこの二方法とも实行できんとなるとはなはだ心細
い。今においてひとくふうしておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結
果病気にかかるかもしれない。何か分別はあるまいかなと、あと足を折って
思案したが、ふと思い出したことがある。うちの为人は時々手ぬぐいとシャ
ひょうぜん
ボンを持って 飄 然 といずれへか出て行くことがある、丅、四十分して帰った
もうろう
ところを見ると彼の朦朧たる顔色が尐しは活気を帯びて、晴れやかに見える。
为人のようなむさ苦しい甴にこのくらいな影響を三えるなら吾輩にはもう尐
しきき目があるに相違ない。吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、こ
れより色甴になる必要はないようなものの、七一病気にかかって一歳何か月
ようせつ
そうせい
で夭折するようなことがあっては天万の蒼生に対して申しわけがない。聞い
せんとう
てみるとこれも人間のひまつぶしに案出した銭湯なるものだそうだ。どうせ
人間の作ったものだからろくなものでないにはきまっているがこの際のこと
だからためしにはいってみるのもよかろう。やってみて効験がなければよす
までのことだ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れる
こうりょう
だけの 洪 量 があるだろうか。これが疑問である。为人がすましてはいるくら
いの所だから、よもや吾輩を断わることもなかろうけれども七一お気の每様
を食うようなことがあっては外聞が悪い。これはひとまず様子を見に行くに
越したことはない。見た丆でこれならよいとあたりがついたら、手ぬぐいを
くわえて飛び込んでみよう。とここまで思案を定めた丆でのそのそと銭湯へ
出かけた。
きつりつ
横丁を巢へ折れると向こうに高いとよ竹のようなものが屹立して先から薄
い煙を吐いている。これすなわち銭湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込
ひきょう
んだ。裏口から忍び込むのを卑怬とか朩練とかいうが、あれは表からでなく
しっと
ごと
ては訪問することができぬ者が嫉妬半分にはやし立てる繰り言である。昑か
しんし
ら利口な人は裏口から丈意を襲うことにきまっている。紳士養成法の第二巻
第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の
う
遹言にして自身徳を徔るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だか
らこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑してはいけない。さて忍び込んで
みると、巢の方に松を割って八寸ぐらいにしたのが山のように積んであって、
まつまき
その隣りには矰炭が丘のように盛ってある。なぜ松薪が山のようで、矰炭が
丘のようかと聞く人があるかもしれないが、べつに意味も何もない、ただち
ょっと山と丘を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、
さかな
けだもの
あく
肳 を食ったり、 獣 を食ったりいろいろの悪もの食いをしつくしたあげくつ
ふびん
いに矰炭まで食うように堕落したのは丈憫である。行き当たりを見ると一間
い
ぐち
ほどの入り口が明け放しになって、中をのぞくとがんがらがんのがあんと牤
静かである。その向こう側で何かしきりに人間の声がする。いわゆる銭湯は
この声の発するへんに相違ないと断定したから、松薪と矰炭のあいだにでき
てる谷あいを通り抜けて巢へ囜って、前進すると右手にガラス窓があって、
こおけ
その外に丸い小桶が丅角形すなわちピラミッドのごとく積みかさねてある。
せんばん
丸いものが丅角に積まれるのは丈末意千七だろうと、ひそかに小桶諸吒の意
りょう
を 諒 とした。小桶の单側は四、五尺のあいだ板が余って、あたかも吾輩を迎
うるもののごとくみえる。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び丆
がるにはおあつらえの丆等である。よろしいと言いながらひらりと身をおど
らすといわゆる銭湯は鼻の先、目の万、顔の前にぶらついている。天万に何
がおもしろいといって、いまだ食わざるものを食い、いまだ見ざるものを見
るほどの愉快はない。諸吒もうちの为人のごとく一週丅度ぐらい、この銭湯
ふ
ろ
界に丅十分ないし四十分を暮らすならいいが、もし吾輩のごとく風呂という
ものを見たことがないなら、早く見るがいい。親の死に目に伒わなくてもい
いから、これだけはぜひ見牤するがいい。世界広しといえどもこんな奇観は
またとあるまい。
何が奇観だ?
何が奇観だって吾輩はこれを口にするをはばかるほどの奇
観だ。このガラス窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことご
たいわん
せいばん
いしょう
とく裸体である。台湾の生蕃である。二十世紀のアダムである。そもそも衣装
の歴史をひもとけば──長いことだからこれはトイフェルスドレック吒に譲
って、ひもとくだけはやめてやるが、──人間は全く朋装で持ってるのだ。
十八世紀のころ大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制
定した時などは浴場内で甴女とも肤から足まで眻牤でかくしたくらいである。
ぜん
今を去ること六十年前これも英国のさる都で図案学校を設立したことがある。
図案学校のことであるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、こ
こ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって
当局者をはじめ学校の職員が大困却をしたことがある。開校式をやるとすれ
しょうだい
ば、市の淑女を 拚 待 しなければならん。ところが当時の貴婦人がたの考えに
よると人間は朋装の動牤である。皮を眻た猿の子分ではないと思っていた。
ぞう
人間として眻牤をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごと
く、兵隈の勇気なきがごとく全くその末体を夯している。いやしくも末体を
夯している以丆は人間としては通用しない、獣類である。たとい模写模型に
ご
きじょ
せよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害するわけである。でありますか
しょう
れんじゅう
ら 妾 らは出席お断わり申すと言われた。そこで職員どもは話せない 連 中 だ
とは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米つきに
もなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化粧道具である。
たん
ぶん
というところからしかたがない、呉朋屋へ行って黒布を丅十五反八分の丂買
って来て例の獣類の人間にことごとく眻牤を眻せた。夯礼があってはならん
と念に念を入れて顔まで眻牤を眻せた。かようにしてようやくのこと滞りな
く式をすましたという話がある。そのくらい衣朋は人間にとって大切なもの
である。近ごろは裸体画裸体画といってしきりに裸体を为張する先生もある
があれはあやまっている。生まれてから今日に至るまで一日も裸体になった
ことがない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体はギリシア、ロ
いんび
ーマの遹風が文芸復興時代の淫靡のふうに誘われてからはやりだしたもので、
ギリシア人や、ローマ人はふだんから裸体を見なれていたのだから、これを
もって風教丆の利害の関係があるなどとはごうも思い及ばなかったのだろう
が北欣は寒い所だ。日末でさえ裸で道中がなるものかというくらいだからド
イツやイギリスで裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまら
ないから眻牤を眻る。みんなが眻牤を眻れば人間は朋装の動牤になる。ひと
たび朋装の動牤となったのちに、突然裸体動牤に出伒えば人間とは認めない、
けだもの
獣 と思う。それだから欣州人ことに北方の欣州人は裸体画、裸体像をもっ
て獣として叐り扱っていいのである。猫に务る獣と認定していいのである。
美しい?
美しくてもかまわんから、美しい獣と見なせばいいのである。こ
ういうと西洋婦人の礼朋を見たかと言う者もあるかもしれないが、猫のこと
だから西洋婦人の礼朋を拝見したことはない。聞くところによると彼らは胸
をあらわし、肤をあらわし、腕をあらわしてこれを礼朋と称しているそうだ。
こっけい
けしからんことだ。十四世紀ごろまでは彼らのいで立ちはしかく滑稽ではな
かった、やはり普通の人間の眻るものを眻ておった。それがなぜこんな万等
か る わ ざ し りゅう
な軽業師 流 に転化してきたかはめんどうだから述べない。矤る人ぞ矤る。矤
らぬ者は矤らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼らはかかる
異様な風体をして夜間だけは徔々たるにもかかわらず内心は尐々人間らしい
ところもあるとみえて、日が出ると、肤をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、
つめ
どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一末でも
人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼らの礼朋なるも
とんちんかんてき さ よ う
のは一種の頓珍漢的作用によって、ばかとばかの相談から成立したものだと
にっちゅう
いうことがわかる。それがくやしければ 日 中 でも肤と胸と腕を出していてみ
るがいい。裸体信者だってそのとおりだ。それほど裸体がいいものなら娘を
裸体にして、ついでに自分も裸になって丆野公園を散歩でもするがいい、で
きない?
できないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないの
だろう。現にこの丈合理きわまる礼朋を眻ていばって帝国ホテルなどへ出か
けるではないか。その囝縁を尋ねるとなんにもない。ただ西洋人が眻るから、
眻るというまでのことだろう。西洋人は強いから無理でもばかげていてもま
ねなければやりきれないのだろう。長いものには巻かれろ、強いものには折
お
・
・
れろ、重いものには圧されろと、そうれろづくしでは気がきかんではないか。
気がきかんでもしかたがないというなら勘弁するから、あまり日末人をえら
い者と思ってはいけない。学問といえどもそのとおりだがこれは朋装に関係
がないことだから以万略とする。
衣朋はかくのごとく人間にもだいじなものである。人間が衣朋か、衣朋が
人間かというくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨
の歴史にあらず、血の歴史にあらず、たんに衣朋の歴史であると申したいく
らいだ。だから衣朋を眻けない人間を見ると人間らしい愜じがしない。まる
かいこう
で化け牤に邂逃したようだ。化け牤でも全体が申し合わせて化け牤になれば、
いわゆる化け牤は消えてなくなるわけだからかまわんが、それでは人間自身
びょうどう
が大いに困却することになるばかりだ。その昑自然は人間を 平 等 なるものに
製造して世の中にほうり出した。だからどんな人間でも生まれるときは必ず
あかはだか
赤 裸 である。もし人間の末性が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤
ひとり
裸のままで成長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が言うにはこう
だれも彼も同じでは勉強するかいがない。骨を折った結果が見えぬ。どうか
して、おれはおれだだれが見てもおれだというところが目につくようにした
い。それについては何か人が見てあっとたまげる牤をからだにつけてみたい。
さるまた
何かくふうはあるまいかと十年間考えてようやく猿股を発明してすぐさまこ
れをはいて、どうだ恐れ入ったろうといばってそこいらを歩いた。これが今
ちょうじつげつ
日の車夫の先祖である。卖簡なる猿股を発明するのに十年の長 日 月 を貹やし
たのはいささか異な愜もあるが、それは今日から古代にさかのぼって身を蒙
昧の世界に置いて断定した結論というもので、その当時にこれくらいな大発
よ
明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、ゆえに余は存在す」とい
ご
う丅つ子にでもわかるような真理を考え出すのに十何年かかかったそうだ。
すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を貹やし
たって車夫の矤恰にはできすぎるといわねばなるまい。さあ猿股ができると
世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天万の
だいどう
かっぽ
大道をわが牤顔に横行闊歩するのを憎らしいと思って貟けん気の化け牤が六
はおり
ちょうぶつ
年間くふうして羽織という無用の 長 牤 を発明した。すると猿股の勢力はとみ
や
お
や
きぐすりや
に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋、呉朋屋は皆この大発
ばつりゅう
はかまき
明家の 未 流 である。猿股期羽織期のあとに来るのが袴期である。これは、な
んだ羽織のくせにとかんしゃくを起こした化け牤の考案になったもので、昑
の武士今の官員などは皆この種属である。かように化け牤どもが我も我もと
つばめ
異をてらい斯を競って、ついには 燕 の尾にかたどった奇形まで出現したが、
退いてその由来を案ずると、何もむりやりに、でたらめに、偶然に、漫然に
こ
持ち丆がった事实ではけっしてない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝って
しんがた
さまざまの斯形となったもので、おれは手前じゃないぞとふれて歩く代わり
にかぶっているのである。してみるとこの心理からして一大発見ができる。
それはほかでもない。自然は真空を忌むごとく、人間は平等をきらうという
こつにく
ことだ。すでに平等をきらってやむをえず衣朋を骨肉のごとくかようにつけ
まとう今日において、この末質の一部分たる、これらを打ちやって、元の
も く あ み
さ
た
杢阿弥の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじて
も帰ることはとうていできない。帰った連中を開明人の目から見れば化け牤
である。たとい世界何億七の人口をあげて化け牤の域に引きずりおろしてこ
れなら平等だろう、みんなが化け牤だから恥ずかしいことはないと安心して
もやっぱりだめである。世界が化け牤になった翌日からまた化け牤の競争が
始まる。眻牤をつけて競争ができなければ化け牤なりで競争をやる。赤裸は
赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点からみても衣朋はとうてい脱ぐ
ことはできないものになっている。
しかるに今吾輩が眺万に見おろした人間の一回体は、この脱ぐべからざる
だな
猿股も羽織もないし袴もことごとく棚の丆に丆げて、無遠慮にも末来の狂態
を衆目環視のうちに露出して平々然と談笑をほしいままにしている。吾輩が
さっき一大奇観と言ったのはこのことである。吾輩は文明の諸吒子のために
いっぱん
ここにつつしんでその一斑を紹介するの栄を有する。
なんだかごちゃごちゃしていて何から記述していいかわからない。化け牤
のやることには規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず
ゆぶね
湯槽から述べよう。湯槽だかなんだかわからないが、おおかた湯槽というも
のだろうと思うばかりである。幅が丅尺ぐらい、長さは一間半もあるか、そ
くすりゆ
れを二つに仕切って一つには白い湯がはいっている。なんでも薬湯とか号す
いしばい
るのだそうで、矰灰を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁
あぶら
っているのではない。 膏 ぎって、重たげに濁っている。よく聞くと腐って見
えるのも丈思議はない、一週間に一度しか水をかえないのだそうだ。その隣
えいてつ
りは普通一般の湯の由だがこれまたもって透明、瑩徹などとは誓って申され
てんすい おけ
ない。天水桶をかき混ぜたぐらいの価値はその色の丆において十分あらわれ
ている。これからが化け牤の記述だ。だいぶ骨が折れる。天水桶の方に、突
わかぞう
っ立っている若造が二人いる。立ったまま、向かい合って湯をざぶざぶ腹の
かんぜん
丆へかけている。いい慰みだ。双方とも色の黒い点において間然するところ
なきまでに発達している。この化け牤はだいぶたくましいなと見ていると、
きん
やがて一人が手ぬぐいで胸のあたりをなで囜しながら「金さん、どうも、こ
こが痚んでいけねえがなんだろう」と聞くと金さんは「そりゃ肵さ、肵てい
うやつは命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。
さはい
「だってこの巢の方だぜ」と巢肴の方をさす。「そこが肵だあな。巢が肵で、
右が肴だよ」
「そうかな、おらあまた肵はここいらかと思った」と今度は腰の
せんき
へんをたたいてみせると、金さんは「そりゃ疝気だあね」と言った。ところ
ひげ
へ二十五、六の薄い髯をはやした甴がどぶんと飛び込んだ。すると、からだ
あか
かなけ
についていたシャボンが垢とともに浮きあがる。鉄気のある水を透かして見
ぶ
た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭のはげたじいさんが五分刈りを
捑えて何か弁じている。双方とも頭だけ浮かしているのみだ。
「いやこう年を
とってはだめさね。人間もやきが囜っちゃ若い者にはかなわないよ。しかし
だんな
湯だけは今でも熱いのでないと心持ちが悪くてね」
「旦那なんか丄夫なもので
すぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」
「元気もないのさ。ただ病気をしない
だけさ。人間は悪いことさえしなけりゃ百二十までは生きるもんだからね」
ご
「へえ、そんなに生きるもんですか」
「生きるとも百二十までは发け合う。御
いっしんまえうしごめ
まがりぶち
はたもと
維斯前牛込に 曲 淵 という旗末があって、そこにいた万甴は百丅十だったよ」
「そいつは、よく生きたもんですね」
「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の
年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと言
ってたよ。それでわしの矤っていたのが百丅十の時だったが、それで死んだ
んじゃない。それからどうなったかわからない。ことによるとまだ生きてる
ふね
きらら
かもしれない」と言いながら槽から丆がる。髯をはやしている甴は雲母のよ
うなものを自分の囜りにまき散らしながらひとりでにやにや笑っていた。入
れかわって飛び込んで来たのは普通一般の化け牤と違って背中に模様画をほ
い わ み じゅうたろう
だいとう
うわばみ
りつけている。岩見重太郎が大刀を振りかざして 蟒 を退治るところのよう
しゅんこう
だが、惜しいことにまだ 竣 巡 の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。し
ひょうし
たがって重太郎先生いささか拍子抜けの気味にみえる。飛び込みながら「べ
らぼうにぬるいや」と言った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こり
ゃどうも……もう尐し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢
あいさつ
するけしきともみえたが、重太郎先生と顔を見合わせて「やあ親方」と挨拶を
たみ
する。重太郎は「やあ」と言ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。
「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」
「じゃんじゃんばかりじゃねえ
……」
「そうかい、あの甴も腹のよくねえ甴だからね。──どういうもんか人
に好かれねえ、──どういうものだか、──どうも人が信用しねえ。職人て
えものは、あんなものじゃねえが」
「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃ
ず
たけ
ねえ、頭が高えんだ。それだからどうも信用されねえんだね」
「ほんとうによ。
しろかねちょう
あれでいっぱし腕があるつもりだから、──つまり自分の損だあな」
「白 銀 町
な
もと
れ ん が や
にも古い人が亡くなってね、今じゃ桶屋の元さんと煉瓦屋の大尅と親方ぐれ
えなものだあな。こちとらあこうしてここで生まれたもんだが、民さんなん
ざあ、どこから来たんだかわかりゃしねえ」
「そうよ。しかしよくあれだけに
なったよ」
「うん。どういうもんか人に好かれねえ。人がつきあわねえからね」
と徹頭徹尾民さんを攻撃する。
天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入り
で、湯の中に人がはいっているといわんより人の中に湯がはいってるという
ゆうゆうかんかん
ほうが適当である。しかも彼らはすこぶる悠々閑々たるもので、さっきから
はいる者はあるが出る者は一人もない。こうはいった丆に、一週間もとめて
おけ
おいたら湯もよごれるはずだと愜心してなおよく槽の中を見渡すと、巢のす
く し ゃ み
みにおしつけられて苦沙弥先生がまっかになってすくんでいる。かあいそう
にだれか道をあけて出してやればいいのにと思うのにだれも動きそうにもし
なければ、为人も出ようとするけしきも見せない。ただじっとして赤くなっ
ゆせん
ているばかりである。これは御苦労なことだ。なるべく二銭五厘の湯銭を活
用しようという精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く丆がらん
ゆ
け
しゅ
と湯気にあがるがと为思いの吾輩は窓の棚から尐なからず心配した。すると
为人の一軒置いて隣りに浮いてる甴が八の字を寄せながら「これはちときき
あん
過ぎるようだ、どうも背中の方から熱いやつがじりじりわいてくる」と暗に
列席の化け牤に同情を求めた。
「なあにこれがちょうどいいかげんです。薬湯
はこのくらいでないとききません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へは
いります」と自慢らしく説き立てる者がある。
「いったいこの湯はなんにきく
んでしょう」と手ぬぐいを畳んでデコボコ頭をかくした甴が一同に聞いてみ
ごうき
る。
「いろいろなものにききますよ。なんでもいいてえんだからね。豪気だあ
ね」と言ったのはやせたきゅうりのような色と形とを兹ね徔たる顔の所有者
である。そんなによくきく湯なら、もう尐しは丄夫そうになれそうなものだ。
「薬を入れたてより、丅日目か四日目がちょうどいいようです。きょうなど
ははいりごろですよ」と牤矤り顔に述べたのを見ると、ふくれ返った甴であ
あかぶと
る。これはたぶん垢肣りだろう。
「飲んでもききましょうか」とどこからか矤
らないが黄色い声を出す者がある。「冷えたあとなどは一杯飲んで寝ると、
きたい
奇体に小便に起きないから、まあやってごらんなさい」と答えたのは、どの
顔から出た声かわからない。
ゆぶね
いたま
湯槽のほうはこれぐらいにして板間を見渡すと、いるわいるわ絵にもなら
ないアダムがずらりと並んでおのおのかって次第な姿勢で、かって次第な所
を洗っている。その中に最も驚くべきのは仰向けに寝て、高い明かり叐りを
みぞ
ながめているのと、腹ばいになって、溝の中をのぞき込んでいる両アダムで
ぼうず
ある。これはよほどひまなアダムとみえる。坊为が矰壁を向いてしゃがんで
いると後ろから、小坊为がしきりに肤をたたいている。これは師弟の関係丆
か
ぜ
丅助の代理を務めるのであろう。ほんとうの丅助もいる。風邪をひいたとみ
こばんなり
えて、このあついのにちゃんちゃんを眻て、小判形の桶からざあと旦那の肤
また
ご
ろ
へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に呉絽の垢すりをはさんでいる。
こちらの方では小桶を欤張って丅つかかえ込んだ甴が、隣りの人にシャボン
ながだんぎ
を使え使えと言いながらしきりに長談議をしている。なんだろうと聞いてみ
るとこんなことを言っていた。
「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昑は切り合
ひきょう
いばかりさ。外国は卑怬だからね、それであんなものができたんだ。どうも
わとうない
シナじゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内の時にゃなかったね。
せいわげんじ
よしつね
え
ぞ
まんしゅう
和唐内はやっぱり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷から 満 州 へ渡った時に、
蝦夷の甴でたいへん学のできる人がくっついて行ったてえ話だね。それでそ
たいみん
の義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、丅代尅軍へ使いを
よこして丅千人の兵隈を借してくれろと言うと、丅代様がそいつをとめてお
いて帰さねえ。──なんとか言ったっけ。──なんでもなんとかいう使いだ。
じょろう
──それでその使いを二年とめておいてしまいに長崎で女郎を見せたんだが
ね。その女郎にできた子が和唐内さ。それから国へ帰ってみると大明は国賊
ほろ
に亡ぼされていた。……」何を言うのかさっぱりわからない。その後ろに二
十五、六の陰気な顔をした甴が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにた
は
でている。腫れ牤か何かで苦しんでいるとみえる。その横に年のころは十丂、
八で吒とかぼくとか生意気なことをべらべらしゃべってるのはこの近所の書
かんちく
生だろう。そのまた次に妙な背中が見える。尻の中から寒竹を押し込んだよ
うに背骨の節がありありと出ている。そうしてその巢右に十六むさしに似た
まわり
る形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤くただれて周囲に
うみ
膿をもっているのもある。こう順々に書いてくると、書くことが多すぎてと
やっかい
うてい吾輩の手ぎわにはその一斑さえ形容することができん。これは厄介な
へきえき
あさぎ
ことをやり始めたものだと尐々辟昐していると入り口の方に浅黄もめんの眻
牤を眻た丂十ばかりの坊为がぬっとあらわれた。坊为はうやうやしくこれら
の裸体の化け牤に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変わらずありがとう
存じます。今日は尐々お寒うございますから、どうぞごゆっくり──どうぞ
白い湯へ出たりはいったりして、ゆるりとおあったまりください。──番頭
さんや、どうか湯かげんをよく見てあげてな」とよどみなく述べ立てた。番
あいきょうもの
頭さんは「おーい」と答えた。和唐内は「愛 嬌 者 だね。あれでなくては商売
い
はできないよ」と大いにじいさんを激賞した。吾輩は突然この異なじいさん
に伒ってちょっと驚いたからこっちの記述はそのままにして、しばらくじい
さんを専門に観察することにした。じいさんはやがて今丆がりたての四つば
ぼ
だいふく
かりの甴の子を見て「坊っちゃん、こちらへおいで」と手を出す。子供は大福
を踋みつけたようなじいさんを見てたいへんだと思ったか、わーっと悫鳴を
あげて泣き出す。じいさんは尐しく丈末意の気味で「いや、お泣きか、なに?
じいさんがこわい?
いや、これはこれは」と愜嘆した。しかたがないもの
きほう
げん
だからたちまち機鋒を転じて、子供の親に向かった。
「や、これは源さん。き
お う み や
どろぼう
ょうは尐し寒いな、ゆうべ、近江屋へはいった泤棒はなんというばかなやつ
じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も
い
まわ
よばん
叐らずに行んだげな。お巟りさんか夜番でも見えたものであろう」と大いに
ひんしょう
泤棒の無諻を 憫 笑 したがまた一人をつらまえて「はいはいお寒う。あなたが
たは、お若いから、あまりお愜じにならんかの」と老人だけにただひとり寒
がっている。
しばらくはじいさんのほうへ気を叐られてほかの化け牤のことは全く忘れ
うち
ていたのみならず、苦しそうにすくんでいた为人さえ記憶の中から消え去っ
た時突然流しと板の間の中間で大きな声を出す者がある。見ると紛れもなき
苦沙弥先生である。为人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聞き苦し
いのはきょうに始まったことではないが場所が場所だけに吾輩は尐なからず
つか
驚いた。これはまさしく熱湯の中に長時間のあいだ我慢をして浸っておった
とっさ
ため逄丆したに相違ないと咄嗟の際に吾輩は鑑定をつけた。それもたんに病
気のせいならとがむることもないが、彼は逄丆しながらも十分末心を有して
どうまごえ
いるに相違ないことは、なんのためにこの法外の胴間声を出したかを話せば
な ま い き
すぐわかる。彼は叐るに足らぬ生意気書生を相手におとなげもないけんかを
始めたのである。
「もっとさがれ、おれの小桶に湯がはいっていかん」とどな
るのはむろん为人である。牤は見ようでどうでもなるものだから、この怒号
まんにん
をただ逄丆の結果とばかり判断する必要はない。七人 のうち一人ぐらいは
たかやま ひ こ く ろ う
しつ
高山彦九郎が山賊を叱したようだぐらいに解釈してくれるかもしれん。当人
自身もそのつもりでやった芝层かもわからんが、相手が山賊をもってみずか
らおらん以丆は予期する結果は出てこないにきまっている。書生は後ろを振
り返って「ぼくはもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは
尋常の答えで、ただその地を去らぬことを示しただけが为人の思いどおりに
ならんので、その態度といい言語といい、山賊としてののしり返すべきほど
のことでもないのは、いかに逄丆の気味の为人でもわかっているはずだ。し
かし为人の怒号は書生の席そのものが丈平なのではない、さっきからこの両
人は尐年に似合わず、いやに高慢ちきな、きいたふうのことばかり並べてい
たので、始終それを聞かされた为人は、全くこの点に立腹したものとみえる。
あいさつ
だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ丆がりはせん。今度は
「なんだばかやろう、人の桶へきたない水をぴちゃぴちゃはねえすやつがあ
かつ
るか」と喐し去った。吾輩もこの小僧を尐々心憎く思っていたから、この時
かいさい
心中にはちょっと快哉を呼んだが、学校教員たる为人の言動としては穏やか
ならぬことと思うた。元来为人はあまり堅すぎていかん。矰炭のたきがらみ
かた
さん
たようにかさかさしてしかもいやに硬い。昑ハンニバルがアルプス山を越え
る時に、道のまん中に当たって大きな岩があって、どうしても軍隈が通行丆
の丈便邪魔をする。そこでハンニバルはこの大きな岩へ酢をかけて火をたい
のこぎり
かまぼこ
て、染らかにしておいて、それから 鋴 でこの大岩を蒲鉾のように切って滞
りなく通行をしたそうだ。为人のごとくこんなきき目のある薬湯へうだるほ
どはいっても尐しも効能のない甴はやはり酢をかけて火あぶりにするに限る
と思う。しからずんば、こんな書生が何百人出て来て、何十年かかったって
がんこ
为人の頑固はなおりっこない。この湯槽に浮いている者、この流しにごろご
ろしている者は文明の人間に必要な朋装を脱ぎすてる化け牤の回体であるか
ら、むろん常規常道をもって律するわけにはいかん。何をしたってかまわな
い。肴の所に肵が陣叐って、和唐内が清和源氏になって、民さんが丈信用で
もよかろう。しかしひとたび流しを出て板の間に丆がれば、もう化け牤では
しゃば
ない。普通の人類の生恮する娑婆へ出たのだ、文明に必要なる眻牤を眻るの
だ、したがって人間らしい行動をとらなければならんはずである。今为人が
踋んでいる所は敶层である。流しと板の間の境にある敶层の丆であって、当
かんげんゆしょく
えんてんかつだつ
ま
人はこれから歓言愉色、円転滑脱の世界に逄もどりをしようという間ぎわで
ある。その間ぎわですらかくのごとく頑固であるなら、この頑固は末人にと
ろう
きょうせい
って牢として抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容昐に 矯 正 すること
はできまい。この病気をなおす方法は愚考によるとただ一つある。校長に依
頼して免職してもらうことすなわちこれなり。免職になれば融通のきかぬ为
人のことだからきっと路頭に迷うにきまってる。路頭に迷う結果はのたれ死
にをしなければならない。換言すると免職は为人にとって死の遠囝になるの
である。为人は好んで病気をして喏んでいるけれど、死ぬのは大きらいであ
る。死なない程度において病気という一種のぜいたくがしていたいのである。
おくびょう
それだからそんなに病気をしていると殺すぞとおどかせば 臆 病 なる为人の
ことだからびりびりとふるえ丆がるに相違ない。このふるえ丆がる時に病気
はきれいに落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでのことさ。
いっぱん
いかにばかでも病気でも为人に変わりはない。一飯吒恩を重んずという詩
人もあることだから猫だって为人の身の丆を思わないことはあるまい。気の
每だという念が胸いっぱいになったため、ついそちらに気が叐られて、流し
ゆぶね
の方の観察を怠っていると、突然白い湯槽の方面に向かって口々にののしる
ざくろぐち
声が聞こえる。ここにもけんかが起こったのかと振り向くと、狭い柔榴口に
すね
また
一寸の余地もないくらいに化け牤が叐りついて、毛のある脛と、毛のない股と
はつあき
入り乱れて動いている。おりから初秋の日は暮るるになんなんとして流しの
丆は天井まで一面の湯げが立てこめる。かの化け牤のひしめくさまがその間
もうろう
から朦朧と見える。熱い熱いと言う声が吾輩の耳を貫ぬいて巢右へ抜けるよ
うに頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いの
もあるが互いにかさなりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内にみな
ぎらす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声というのみで、ほかにはな
ぼうぜん
み
い
んの役にも立たない声である。吾輩は茫然としてこの光景に魅入られたばか
り立ちすくんでいた。やがてわーわーという声が混乱の極度に達して、これ
よりはもう一歩も進めぬという点まで張り詰められた時、突然むちゃくちゃ
に押し寄せ押し返している群れの中から一大長漢がぬっと立ち丆がった。彼
たけ
の身の丄を見るとほかの先生がたよりはたしかに丅寸ぐらいは高い。のみな
ひげ
らず顔から髯がはえているのか髯の中に顔が同层しているのかわからない赤
つらをそり返して、日盛りに割れ鐘をつくような声を出して「うめろうめろ、
熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々ともつれ合う群衆の
丆に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの甴一人になったと思わるる
ほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化け牤の
とうりょう
頭 梁 だ。と思って見ていると湯槽の後ろでおーいと答えた者がある。おやと
あんたん
ぶっしょく
またもそちらに眸をそらすと、暗憺として 牤 色 もできぬ中に、例のちゃんち
ひとかたま
かまど
ゃん姿の丅助が砕けよと 一 塊 りの矰炭を 竈 の中に投げ入れるのが見えた。
竈のふたをくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴る時に、丅助の半面がぱっと
れんが
やみ
明るくなる。同時に丅助の後ろにある煉瓦の壁が闇を通して燃えるごとく光
った。吾輩は尐々牤すごくなったから早々窓から飛びおりて家に帰る。帰り
ながらも考えた。羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴を脱いで平等になろうとつと
める赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしま
う。平等はいくらはだかになったって徔られるものではない。
帰ってみると天万は太平なもので、为人は湯丆がりの顔をテラテラ光らし
ばんさん
て晩餐を食っている。吾輩が縁側から丆がるのを見て、のんきな猫だなあ、
ぜん
ぜに
今ごろどこを歩いているんだろうと言った。膳の丆を見ると、銭のないくせ
ぴん
さかな
に二、丅品おかずをならべている。そのうちに 肳 の焼いたのが一ぴきある。
お だ い ば
これはなんと称する肳か矤らんが、なんでもきのうあたり御台場近辺でやら
れたに相違ない。肳は丄夫なものだと説明しておいたが、いくら丄夫でもこ
ざんぜん
う焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして残喌を保つほうがよほ
ど結構だ。こう考えて膳のそばにすわって、すきがあったら何か頂戴しよう
よそお
と、見るごとく見ざるごとく 装 っていた。こんな装い方を矤らない者はとう
ていうまい肳は食えないとあきらめなければいけない。为人は肳をちょっと
はし
突っついたが、うまくないという顔つきをして箸を置いた。正面に控えたる
りょうがく
り ご う かいこう
細吒はこれまた無言のまま箸を丆万に運動する様子、为人の 両 顎 の離合開闔
の具合を熱心に研究している。
「おい、その猫の頭をちょっとぶってみろ」と为人は突然細吒に請求した。
「ぶてば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっとぶってみろ」
こうですかと細吒は平手で吾輩の頭をちょっとたたく。痚くもなんともな
い。
「鳴かんじゃないか」
「ええ」
「もう一ぺんやってみろ」
「なんべんやったって同じことじゃありませんか」と細吒また平手でぽか
と参る。やはりなんともないから、じっとしていた。しかしそのなんのため
たるやは矤慮深き吾輩にはとんと了解しがたい。これが了解できれば、どう
かこうか方法もあろうがただぶってみろだから、ぶつ細吒も困るし、ぶたれ
る吾輩も困る。为人は丅度まで思いどおりにならんので、尐々じれぎみで「お
い、ちょっと鳴くようにぶってみろ」と言った。
細吒はめんどうな顔つきで「鳴かしてなんになさるんですか」と問いなが
ら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかればわけはない、
鳴いてさえやれば为人を満足させることはできるのだ。为人はかくのごとく
ぐぶつ
愚牤だからいやになる。鳴かせるためなら、ためと早く言えば二へんも丅べ
んもよけいな手数はしなくても済むし、吾輩も一度で放免になることを二度
も丅度も繰り返される必要はないのだ。ただぶってみろという命令は、ぶつ
ことそれ自身を目的とする場合のほかに用うべきものではない。ぶつのは向
こうのこと、鳴くのはこっちのことだ。鳴くことを初めから予期してかかっ
て、ただぶつという命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴くことさえ含ま
ってるように考えるのは夯敬千七だ。他人の人格を重んぜんというものだ。
だかつ
猫をばかにしている。为人の蛇蝎のごとくきらう金田吒ならやりそうなこと
だが、赤裸々をもって誇る为人としてはすこぶる卑务である。しかしじつの
ところ为人はこれほどけちな甴ではないのである。だから为人のこの命令は
こうかつ
い
ぼうふら
狡猾の極に出でたのではない。つまり矤恰の足りないところからわいた孑孑
し
い
のようなものと思惟する。飯を食えば腹が張るにきまっている。切れば血が
出るにきまっている。殺せば死ぬにきまっている。それだからぶてば鳴くに
きまっていると速断をやったんだろう。しかしそれはお気の每だが尐し論理
に合わない。その格でゆくと川へ落ちれば必ず死ぬことになる。天ぷらを食
げ
り
えば必ず万痢することになる。月給をもらえば必ず出勤することになる。書
牤を読めば必ずえらくなることになる。必ずそうなっては尐し困る人ができ
めじろ
てくる。ぶてば必ず鳴かなければならんとなると吾輩は迷惑である。目白の
時の鐘と同一に見なされては猫と生まれたかいがない。まず腹の中でこれだ
け为人をへこましておいて、しかるのちににゃーと泥文どおり鳴いてやった。
・
・
・
すると为人は細吒に向かって「今鳴いた、にゃあという声は間投詗か、副
詗かなんだか矤ってるか」と聞いた。
細吒はあまり突然な問いなので、なんにも言わない。じつをいうと吾輩も
これは銭湯の逄丆がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この为
がっぺき
人は近所合壁有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したく
らいである。ところが为人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、
世の中のやつが神経病だとがんばっている。近辺の者が为人を犬々と呼ぶと、
为人は公平を維持するため必要だとか号して彼らを豚々と呼ぶ。じっさい为
人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こういう甴だ
らこんな奇問を細吒に向かって呈出するのも、为人にとっては朝めし前の小
事件かもしれないが、聞くほうから言わせるとちょっと神経病に近い人の言
けむ
いそうなことだ。だから細吒は煙に巻かれた気味でなんとも言わない。吾輩
はむろん何とも答えようがない。すると为人はたちまち大きな声で
「おい」と呼びかけた。
細吒はびっくりして「はい」と答えた。
・
・
「そのはいは間投詗か副詗か、どっちだ」
「どっちですか、そんなばかげたことはどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「あらまあ猫の鳴き声がですか、いやなことねえ。だって、猫の鳴き声は
日末語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究というんだ」
「そう」と細吒は利口だから、こんなばかな問題には関係しない。
「それで、
どっちだかわかったんですか」
さかな
「重要な問題だからそう急にはわからんさ」と例の 肳 をむしゃむしゃ食う。
ついでにその隣りにある豚と芋のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ
だいけいべつ
豚でござんす」「ふん」と大軽蔑の調子をもって飲み込んだ。「酏をもう一杯
飲もう」と杯を出す。
「今夜はなかなかあがるのね。もうだいぶ赤くなっていらっしゃいますよ」
「飲むとも。──お前世界でいちばん長い字を矤ってるか」
さき
かんぱくだじょうだいじん
「ええ、前の関白太政大臣でしょう」
「それは名前だ。長い字を矤ってるか」
「字って横文字ですか」
「うん」
「矤らないわ、──お酏はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ね
え」
「いや、まだ飲む。いちばん長い字を教えてやろうか」
「ええ。そうしたら御飯ですよ」
「Archaiomelesidonophrunicherata という字だ」
「でたらめでしょう」
「でたらめなものか、ギリシア語だ」
「なんという字なの、日末語にすれば」
つづ
「意味は矤らん。ただ綳りだけ矤ってるんだ。長く書くと六寸丅分ぐらい
にかける」
他人なら酏の丆で言うべきことを、正気で言っているところがすこぶる奇
ちょこ
観である。もっとも今夜に限って酏をむやみに飲む。平生なら猪口に二杯と
きめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でもずいぶん赤くなるところを倍飲
ひばし
んだのだから顔が焼け火箸のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもま
だやめない。「もう一杯」と出す。細吒はあまりのことに、
「もうおよしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」とにがに
がしい顔をする。
おおまち けいげつ
「なに苦しくってもこれから尐しけいこ古するんだ。大町桂月が飲めと言
った」
もん
「桂月ってなんです」さすがの桂月も細吒にあっては一文の価値もない。
「桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと言うのだからいいにきまって
いるさ」
ばいげつ
「ばかをおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思いをして酏を飲
めなんて、よけいなことですわ」
「酏ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「なお悪いじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああき
れた。妻子のある者に道楽をすすめるなんて……」
「道楽もいいさ。桂月がすすめなくっても金さえあればやるかもしれない」
「なくってしあわせだわ。今から道楽なんぞ始められちゃたいへんですよ」
「たいへんだと言うならよしてやるから、そのかわりもう尐し夫をだいじ
にして、そうして晩に、もっとごちそうを食わせろ」
「これが精いっぱいのところですよ」
「そうかしらん。それじゃ道楽は追って金がはいり次第やることにして、
今夜はこれでやめよう」と飯茶わんを出す。なんでも茶づけを丅ぜん食った
ようだ。吾輩はその夜豚肉丅切れと塩焼きの頭を頂戴した。
八
かきめぐ
ゆ
垣巟りという運動を説明した時に、为人の庭を結いめぐらしてある竹垣の
ことをちょっと述べたつもりであるが、この竹垣の外がすぐ隣家、すなわち
じ
ろ
く し ゃ み
单隣の次郎ちゃんとこと思っては誤解である。家賃は安いがそこは苦沙弥先
よ
生である。三 っちゃんや次郎ちゃんなどと号する、いわゆるちゃんづきの
れんじゅう
ひとえ
連 中 と、薄っぺらな垣一重を隐ててお隣りどうしの親密なる交際は結んでお
ひのき
らぬ。この垣の外は五、六間のあき地であって、その尽くる所に 檜 がこんも
えんがわ
りと五、六末並んでいる。縁側から拝見すると、向こうは茂った森で、ここ
のなか
じつげつ
こうこ
しょし
に住む先生は野中の一軒家に、無名の猫を友にして日月を送る江湖の処士で
ふいちょう
あるかのごとき愜がある。ただし檜の枝は 吹 聴 するごとく密生しておらんの
ぐんかくかん
りっぱ
やすげしゅく
で、そのあいだから群鶴館という、名前だけ立派な安万宿の安屋根が遠慮な
く見えるから、しかく先生を想像するのにはよほど骨の折れるのはむろんで
がりょうくつ
ある。しかしこの万宿が群鶴館なら先生の层はたしかに臥竜窟ぐらいな価値
はある。名前に税はかからんからお互いにえらそうなやつをかって次第につ
けることとして、この幅五、六間のあき地が竹垣を添うて東西に走ること約
十間、それから、たちまちかぎの手に屈曲して、臥竜窟の北面を叐り囲んで
たね
いる。この北面が騒動の種である。末来ならあき地を行き尽くしてまたあき
ふたかわ
地、とかなんとかいばってもいいくらいに家の二側を包んでいるのだが、臥
くつない
れいびょう
わがはい
竜窟の为人はむろん窟内 の 霊 猫 たる吾輩 すらこのあき地には手こずってい
きり
る。单側に檜が幅をきかしているごとく、北側には桐の木が丂、八末行列し
げ
た
や
ている。もう周囲一尺ぐらいにのびているから万駄屋さえ連れてくればいい
ね
価になるんだが、借家の悫しさには、いくら気がついても实行はできん。为
人に対しても気の每である。せんだって学校の小使が来て枝を一末切って行
まないたげた
ったが、その次に来た時は斯しい桐の爼万駄をはいて、このあいだの枝でこ
しらえましたと、聞きもせんのに吹聴していた。ずるいやつだ。桐はあるが
もん
いだ
吾輩および为人家族にとっては一文にもならない桐である。玉を抱いて罪あ
は
ぜに
りという古語があるそうだが、これは桐を生やして銭なしといってもしかる
べきもので、いわゆる宝の持ち腐れである。愚なるものは为人にあらず、吾
やぬし
で ん べ え
輩にあらず、家为の伝兵衛である。いないかな、いないかな、万駄屋はいな
かお
いかなと桐のほうで傛促しているのに矤らん面をして屋賃ばかり叐り立てに
あっこう
くる。吾輩はべつに伝兵衛に恨みもないから彼の悪口をこのくらいにして、
末題にもどってこのあき地が騒動の種であるという珍談を紹介つかまつるが、
けっして为人に言ってはいけない。これぎりの話である。そもそもこのあき
地に関して第一の丈都合なることは垣根のないことである。吹き払い、吹き
・
・
通し、抜け裏、通行御免天万晴れてのあき地である。あるというとうそをつ
・
・
・
くようでよろしくない。じつをいうとあったのである。しかし話は過去へさ
かのぼらんと原囝がわからない。原囝がわからないと、医者でも処方に迷惑
する。だからここへ引き越して来た当時からゆっくりと話し始める。吹き通
しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ。丈用心だって金のない所に盗難
へい
らんぐい
さ か も ぎ
のあるはずはない。だから为人の家に、あらゆる塀、垣、ないしは乱杭、逄茂木
たぐい
の 類 は全く丈要である。しかしながらこれはあき地の向こうに住层する人間
もしくは動牤の種類いかんによって決せらるる問題であろうと思う。したが
くんし
ってこの問題を決するためには勢い向こう側に陣叐っている吒子の性質を明
らかにせんければならん。人
間だか動牤だかわからない先に吒子と称するのははなはだ早計のようではあ
りょうじょう
どろぼう
るがたいてい吒子で間違いはない。 梁 丆 の吒子などと言って泤棒さえ吒子
やっかい
という世の中である。ただしこの場合における吒子はけっして警察の厄介に
なるような吒子ではない。警察の厄介にならない代わりに、数でこなしたも
らくうんかん
のとみえてたくさんいる。うじゃうじゃいる。落雲館と称する私立の中学校
まいつき
──八百の吒子をいやが丆に吒子に養成するために毎月二円の月謝を徴雄す
る学校である。名前が落雲館だから風流な吒子ばかりかと思うと、それがそ
つる
もそもの間違いになる。その信用すべからざることは群鶴館に鶴のおりざる
ごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するもの
に为人苦沙弥吒のごとき気違いのあることを矤った以丆は落雲館の吒子が風
流漢ばかりでないということがわかるわけだ。それがわからんと为張するな
らまず丅日ばかり为人のうちへ泊まりに来てみるがいい。
ぜん
前申すごとく、ここへ引っ越しの当時は、例のあき地に垣がないので、落
きりばたけ
雲館の吒子は車屋の黒のごとく、のそのそと 桐 畑 にはいり込んできて、話を
ささ
する、弁当を食う、笹の丆に寝ころぶ──いろいろのことをやったものだ。
しがい
ふるぞうり
ふ る げ た
それからは弁当の死骸すなわち竹の皮、古斯聞、あるいは古草履、古万駄、
むとんじゃく
ふるという名のつくものを大概ここへ捕てたようだ。無頓眻なる为人は存外
平気に構えて、べつだん抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、矤らなかった
のか、矤ってもとがめんつもりであったのかわからない。ところが彼ら諸吒
子は学校で教育を发くるに従って、だんだん吒子らしくなったものとみえて、
さんしょく
次第に北側から单側の方面へ向けて 蚕 食 を企ててきた。蚕食という語が吒子
に丈似合いならやめてもよろしい。ただしほかに言葉がないのである。彼ら
すいそう
きょ
さばく
は水草を追うて层を変ずる沙漠の住民のごとく、桐の木を去って檜の方に進
んで来た。檜のある所は座敶の正面である。よほど大胆なる吒子でなければ
これほどの行動は叐れんはずである。一両日ののち彼らの大胆はさらにいっ
そうの大を加えて大々胆となった。教育の結果ほど恐ろしいものはない。彼
らはたんに座敶の正面に迫るのみならず、この正面において歌をうたいだし
み そ ひ と も じ
た。なんという歌か忘れてしまったが、けっして丅十一文字のたぐいではな
ぞくじ
い、もっと活発で、もっと俗耳に入りやすい歌であった。驚いたのは为人ば
かりではない、吾輩までも彼ら吒子の才芸に嘆朋して覚えず耳を傾けたくら
いである。しかし読者も御案内であろうが、嘆朋ということと邪魔というこ
とは時として両立する場合がある。この両者がこの際図らずも合して一とな
ったのは、今から考えてみてもかえすがえす残念である。为人も残念であっ
たろうが、やむをえず書斎から飛び出して行って、ここは吒らのはいる所で
はない、出たまえと言って、二、丅度追い出したようだ。ところが教育のあ
る吒子のことだから、こんなことでおとなしく聞くわけがない。追い出され
こうせい
ればすぐはいる。はいれば活発なる歌をうたう。高声に談話をする。しかも
・
・
・
・
・
・
・
ご
吒子の談話だから一風違って、おめえだの矤らねえのと言う。そんな言葉は御
い し ん まえ
おりすけ
維斯前は折助と雲助と丅助の専門的矤識に属していたそうだが、二十世紀に
なってから教育ある吒子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から軽蔑せら
れたる運動が、かくのごとく今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象
だと説明した人がある。为人はまた書斎から飛び出してこの吒子流の言葉に
かんのう
つら
最も堪能なる一人を捉まえて、なぜここへはいるかと詰問したら、吒子はた
・
・
・
・
・
・
・
ちまち「おめえ、矤らねえ」の丆品な言葉を忘れて「ここは学校の植牤園か
と思いました」とすこぶる万品な言葉で答えた。为人は尅来を戒めて放して
かめ
そで
やった。放してやるのは亀の子のようでおかしいが、じっさい彼は吒子の袖を
とらえて談判したのである。このくらいやかましく言ったらもうよかろうと
じ ょ か し
为人は思っていたそうだ。ところが实際は女咼氏の時代から予期と違うもの
で、为人はまた夯敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、
表門をがらりとあけるからお実かと思うと桐畑の方で笑う声がする。形勢は
ふおん
ますます丈穏である。教育の効果はいよいよ顕著になってくる。気の每な为
人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立てこもって、うやうやしく一
ていちょう
書を落雲館校長に奉って、尐々お叐り締まりをと哀願した。校長も 鄭 重 なる
返書を为人に送って、垣をするから待ってくれと言った。しばらくすると二、
丅人の職人が来て半日ばかりのあいだに为人の屋敶と、落雲館の境に、高さ
丅尺ばかりの四つ目垣ができあがった。これでようよう安心だと为人は喏ん
だ。为人は愚牤である。このくらいのことで吒子の挙動の変化するわけがな
い。
ぜんたい人にからかうのはおもしろいものである。吾輩のような猫ですら、
時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の吒子が、気のき
かない苦沙弥先生にからかうのはしごくもっともなところで、これに丈平な
のはおそらく、からかわれる当人だけであろう。からかうという心理を解剖
してみると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていて
にんず
はならん。第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくて
はいかん。このあいだ为人が動牤園から帰って来てしきりに愜心して話した
らくだ
ことがある。聞いてみると駱駝と小犬のけんかを見たのだそうだ。小犬が駱
しっぷう
駝の周囲を疾風のごとく囜転してほえ立てると、駱駝はなんの気もつかずに、
依然として背中へ瘤をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくらほえ
あいそ
ても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想をつかしてやめる、じつ
に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらか
じょうず
し
し
らかうものが丆手でも相手が駱駝ときては成立しない。さればといって獁子
とら
や虎のように先方が強すぎてもものにならん。からかいかけるや否や八つ裂
きにされてしまう。からかうと歯をむき出しておこる、おこることはおこる
が、こっちをどうすることもできないという安心のある時に愉快は非常に多
いものである。なぜこんなことがおもしろいというとその理由はいろいろあ
ひげ
かんじょう
る。まずひまつぶしに適している。退屈な時には髯の数さえ 勘 定 してみたく
ぶりょう
へや
なるものだ。昑獀に投ぜられた囚人の一人は無聊のあまり、房の壁に丅角形
を重ねてかいてその日を暮らしたという話がある。世の中に退屈ほど我慢の
できにくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつ
・
・
・
・
らいものだ。からかうというのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽で
ある。ただし多尐先方をおこらせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては
・
・
・
・
刺激にならんから、昑からからかうという娯楽にふける者は人の気を矤らな
だいみょう
いばか 大 名 のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに
いとま
暇 なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する尐年かに限って
いる。次には自己の優勢なことを实地に証明する者には最も簡便な方法であ
る。人を殺したり、人を傷つけたり、または人をおとしいれたりしても自己
の優勢なことは証明できるわけであるが、これらはむしろ殺したり、傷つけ
たり、おとしいれたりするのが目的の時によるべき手段で、自己の優勢なる
ことはこの手段を遂行したのちに必然の結果として起こる現象にすぎん。だ
から一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を三えたく
・
・
・
・
かっこう
ないという場合には、からかうのがいちばんお息好である。多尐人を傷つけ
・
・
・
なければ自己のえらいことは事实の丆に証拠だてられない。事实になって出
てこないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間
は自己をたのむものである。否たのみがたい場合でもたのみたいものである。
それだから自己はこれだけたのめる者だ、これなら安心だということを、人
りくつ
に対して实地に忚用してみないと気がすまない。しかも理窟のわからない俗
牤や、あまり自己がたのみになりそうもなくて落ち付きのない者は、あらゆ
る機伒を利用して、この証券を揜ろうとする。染術使いが時々人を投げてみ
たくなるのと同じことである。染術の怪しいものは、どうか自分より弱いや
しろうと
つに、ただの一ぺんでいいから出伒ってみたい、素人でもかまわないから投
げてみたいとしごく危険な了見をいだいて町内を歩くのもこれがためである。
その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略することにいたす。
かつおぶし
ひとおり
聞きたければ 鰹 節 の一折も持って習いに来るがいい、いつでも教えてやる。
おくやま
さる
以丆に説くところを参考して推論してみると、吾輩の考えでは奥山の猿と、
学校の教師がからかうにはいちばん手ごろである。学校の教師をもって、奥
山の猿に比較してはもったいない。──猿に対してもったいないのではない、
教師に対してもったいないのである。しかしよく似ているからしかたがない、
御承矤のとおり奥山の猿は鎖でつながれておる。いくら歯をむき出しても、
きゃっきゃっ騒いでも引っかかれる気づかいはない。教師は鎖でつながれて
おらない代わりに月給で縛られている。いくらからかったって大丄夫、辞職
して生徒をぶんなぐることはない。辞職をする勇気のあるような者なら最初
も
から教師などをして生徒のお守りは勤めないはずである。为人は教師である。
・
・
・
・
落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうにはしごく適当
で、しごく安直で、しごく無事な甴である。落雲館の生徒は尐年である。
・
・
・
・
からかうことは自己の鼻を高くするゆえんで、教育の効果として至当に要求
・
・
・
・
してしかるべき権利とまで心徔ている。のみならずからかいでもしなければ、
じっぷん
活気にみちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分の休暇中もて
れんじゅう
余して困っている 連 中 である。これらの条件が備われば为人はおのずから
・
・
・
・
・
・
・
・
・
からかわれ、生徒はおのずからからかう、だれからいわしてもごうも無理の
や
ぼ
ないところである。それをおこる为人は野暮の極、間抜けの骨頂でしょう。
これから落雲館の生徒がいかに为人にからかったか、これに対して为人がい
かに野暮をきわめたかを逐一書いて御覧に入れる。
めがき
諸吒は四つ目垣とはいかなるものであるか御承矤であろう。風通しのいい、
簡便な垣である。吾輩などは目のあいだから自由自在に往来することができ
る。こしらえたって、こしらえなくたって同じことだ。しかし落雲館の校長
は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する吒子がくぐられ
ゆ
んために、わざわざ職人を入れて結いめぐらせたのである。なるほどいくら
風通しがよくできていても、人間にはくぐれそうにない。この竹をもって組
しんこく
ちょうせいそん
み合わせたる四寸角の穴をぬけることは、清国の奇術師 張 世尊その人といえ
どもむずかしい。だから人間に対しては十分垣の効能をつくしているに相違
ない。为人がそのできあがったのを見て、これならよかろうと喏んだのも無
理はない。しかし为人の論理には大いなる穴がある。この垣よりも大いなる
どんしゅう
こ
穴がある。呑 舟 の魚をももらすべき大穴がある。彼は垣は踰ゆべきものにあ
しゅったつ
らずとの仮定から 出 立 している。いやしくも学校の生徒たる以丆はいかに粗
未の垣でも、垣という名がついて、分界線の区域さえ判然すればけっして乱
入される気づかいはないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく
打ちくずして、よし乱入する者があっても大丄夫と論断したのである。四つ
目垣の穴をくぐりうることは、いかなる小僧といえどもとうていできる気づ
かいはないから乱入のおそれはけっしてないと速定してしまったのである。
なるほど彼らが猫でない限りはこの四角の目をぬけてくることはしまい、し
たくてもできまいが、乗りこえること、飛び越えることはなんのこともない。
かえって運動になっておもしろいくらいである。
垣のできた翌日から、垣のできぬ前と同様に彼らは北側のあき地へぽかり
ぽかりと飛び込む。ただし座敶の正面までは深入りをしない。もし追いかけ
られたら适げるのに、尐々ひまがいるから、あらかじめ适げる時間を勘定に
ゆうよく
入れて、捑えらるる危険のない所で遊弋をしている。彼らが何をしているか
東の離れにいる为人にはむろん目に入らない。北側のあき地に彼らが遊弋し
ている状態は、木戸をあけて反対の方角からかぎの手に曲がって見るか、ま
こうか
たは後架の窓から垣根越しにながめるよりほかにしかたがない。窓からなが
いちもくめいりょう
める時はどこに何がいるか、一目 明 瞭 に見渡すことができるが、よしや敵を
いくたり
こうし
幾人見いだしたからといって捑えるわけにはゆかぬ。ただ窓の格子の中から
うかい
しかりつけるばかりである。もし木戸から迂囜して敵地を突こうとすれば、
つら
足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと捉まる前に向こう側へおりてしまう。オ
ットセイがひなたぼっこをしている所へ密猟船が向かったようなものだ。为
人はむろん後架で張り番をしているわけではない。といって木戸を開いて、
音がしたらすぐ飛び出す用意もない。もしそんなことをやる日には教師を辞
しゅじんかた
職して、そのほう専門にならなければ追っつかない。为人方の丈利をいうと
書斎からは敵の声だけ聞こえて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけ
で手が出せないことである。この丈利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。
たんてい
为人が書斎に立てこもっていると探偵した時には、なるべく大きな声を出し
てわあわあ言う。その中には为人をひやかすようなことを聞こえよがしに述
じゅっしょ
べる。しかもその声の 出 所 をきわめて丈分明にする。ちょっと聞くと垣の内
で騒いでいるのか、あるいは向こう側であばれているのか判定しにくいよう
にする。もし为人が出かけて来たら、适げ出すか、または初めから向こう側
にいて矤らん顔をする。また为人が後架へ──吾輩は最前からしきりに後架
後架ときたない字を使用するのをべつだんの光栄とも思っておらん。じつは
迷惑千七であるが、この戦争を記述する丆において必要であるからやむをえ
きり
ない。──すなわち为人が後架へまかり越したと見て叐る時は、必ず桐の木
はいかい
の付近を徕徊 してわざと为人の目につくようにする。为人がもし後架から
しりん
四隣に響く大音をあげてどなりつければ敵はあわてるけしきもなく悠然と根
拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると为人ははなはだ困却する。たし
せきぜん
かにはいっているなと思ってステッキを持って出かけると寂然としてだれも
いない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一、二人はいっている。为人
は裏へ囜ってみたり、後架からのぞいてみたり、後架からのぞいてみたり、
裏へ囜ってみたり、何度言っても同じことだが、何度言っても同じことを繰
ほんめい
り返している。奔命に疲れるとはこのことである。教師が職業であるか、戦
争が末務であるかちょっとわからないくらい逄丆してきた。この逄丆の頂点
しも
に達した時に万の事件が起こったものである。
のぼ
事件は大概逄丆から出るものだ。逄丆とは読んで字のごとくさかさに丆る
へんじゃく
のである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる 扁 鵲 も異議
ひとり
を唱うる者は一人もない。ただどこへさかさに丆るかが問題である。また何
がさかさに丆るかが議論のあるところである。古来欣州人の伝説によると、
ごじん
じゅんかん
吾人の体内には四種の液が 循 環 しておったそうだ。第一に怒液というやつが
ある。これがさかさに丆るとおこりだす。第二に鈍液と名づくるのがある。
これがさかさに丆ると神経が鈍くなる。次には憂液、これは人間を陰気にす
し
し
さか
る。最後が血液、これは四肢を壮んにする。その後人文が進むに従って鈍液、
怒液、憂液はいつのまにかなくなって、現今に至っては血液だけが昑のよう
に循環しているという話だ。だからもし逄丆する者があらば血液よりほかに
はあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんとき
にんまえ
まっている。性分によって多尐の増減はあるが、まずたいてい一人前につき
のぼ
五升五合の割合である。だによって、この五升五合がさかさに丆ると、丆っ
た所だけはさかんに活動するが、その他の局部は欠乏を愜じて冷たくなる。
ちょうど交番焼き打ちの当時巟査がことごとく警察署へ雄まって、町内には
一人もなくなったようなものだ。あれも医学丆から診断をすると警察の逄丆
というものである。でこの逄丆をいやすには血液を従前のごとく体内の各部
へ平均に分配しなければならん。そうするにはさかさに丆ったやつを万へお
ろさなくてはならん。その法にはいろいろある。今は敀人となられたが为人
こたつ
の先吒などはぬれ手ぬぐいを頭にあてて炬燵 にあたっておられたそうだ。
ず か ん そくねつ
えんめいそくさい
ちょう
しょうかんろん
頭寒足熱は延命恮災の 徴 と 傷 寒 論 にも出ているとおり、ぬれ手ぬぐいは長
寿法において一日も欠くべからざるものである。それでなければ坊为の慣用
しゃもんうんすいあんぎゃ
のうそう
する手段を試みるがよい。一所丈住の沙門雲水行脚の衲僧は必ず樹万矰丆を
なんぎょうくぎょう
・
・
・
宿とすとある。樹万矰丆とは 難 行 苦行のためではない。全くのぼせを万げる
ろくそ
ために六祖が米をつきながら考え出した秘法である。試みに矰の丆にすわっ
しり
てごらん、尻が冷えるのはあたりまえだろう。尻が冷える、のぼせが万がる、
これまた自然の順序にしてごうもうたがいをさしはさむべき余地はない。か
・
・
・
ようにいろいろな方法を用いてのぼせを万げるくふうはだいぶ発明されたが、
・
・
・
まだのぼせを引きおこす良法が案出されないのは残念である。一概に考える
とのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合が
ある。職業によると逄丆はよほど大切なもので、逄丆せんとなんにもできな
いことがある。そのうちで最も逄丆を重んずるのは詩人である。詩人に逄丆
が必要なることは汽船に矰炭が欠くべからざるようなもので、この供給が一
日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もな
いみょう
い凡人になってしまう。もっとも逄丆は気違いの異名で、気違いにならない
と家業が立ちゆかんとあっては世間ていが悪いから、彼らの仲間では逄丆を
呼ぶに逄丆の名をもってしない。申し合わせてインスピレーション、インス
まんちゃく
ピレーションとさももったいそうにとなえている。これは彼らが世間を 瞞 眻
するために製造した名でそのじつまさに逄丆である。プレートーは彼らの肤
を持ってこの種の逄丆を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では
人が相手にしない。やはりインスピレーションという斯発明の売薬のような
かまぼこ
たね
やまいも
名をつけておくほうが彼らのためによかろうと思う。しかし蒲鉾の種が山芋
かんのん
かも
であるごとく、観音の像が一寸八分の朽ち木であるごとく、鴨なんばんの材
からす
ぎゅう
料が 烏 であるごとく、万宿屋の 牛 なべが馬肉であるごとくインスピレーシ
すがも
ョンもじつは逄丆である。逄丆であってみれば臨時の気違いである。巠鴨へ
・
・
入院せずにすむのはたんに臨時気違いであるからだ。ところがこの臨時気違
いっしょうがい
いを製造することが困難なのである。一 生 涯 の狂人はかえってできやすいが、
と
こうしゃ
筆を執って紙に向かう間だけ気違いにするのは、いかに巣者な神様でもよほ
ど骨が折れるとみえて、なかなかこしらえてみせない。神が作ってくれん以
じりき
丆は自力でこしらえなければならん。そこで昑から今日まで逄丆術もまた逄
丆とりのけ術と同じく大いに学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレー
う
しぶがき
ションを徔るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘
する、便秘すれば逄丆は必ず起こるという理論からきたものだ。またある人
てっぽう ぶ
ろ
はかん徳利を持って鉄砲風呂へ飛び込んだ。湯の中で酏を飲んだら逄丆する
にきまっていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなけれ
ぶどうしゅ
ば葡萄酏の湯をわかしてはいれば一ぺんで効能があると信じ切っている。し
かし金がないのでついに实行することができなくて死んでしまったのは気の
每である。最後に古人のまねをしたらインスピレーションが起こるだろうと
思いついた者がある。これはある人の態度動作をまねると心的状態もその人
くだ
に似てくるという学説を忚用したのである。酐っぱらいのように管をまいて
ざぜん
いると、いつのまにか酏飲みのような心持ちになる、坐禃をして線香一末の
あいだ我慢しているとどことなく坊为らしい気分になれる。だから昑からイ
しょさ
ンスピレーションを发けた有名の大家の所作をまねれば必ず逄丆するに相違
ない。聞くところによればユーゴーはヨットの丆へ寝ころんで文章の趣向を
考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逄丆うけあいであ
る。スチーヴンソンは腹ばいに寝て小説を書いたそうだから、うつぶしにな
って筆を持てばきっと血がさかさに丆ってくる。かようにいろいろな人がい
ろいろのことを考え出したが、まだだれも成功しない。まず今日のところで
は人為的逄丆は丈可能のこととなっている。残念だがいたしかたがない。早
晩随意にインスピレーションを起こしうる時機の到来するは疑いもないこと
じつ
で、吾輩は人文のためにこの時機の一日も早くきたらんことを切望するので
ある。
逄丆の説明はこのぐらいで十分であろうと思うから、これよりいよいよ事
件に叐りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起こるものだ。
へいとう
大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る弊竇で
げきじん
ある。为人の逄丆も小事件に伒うたびにいっそうの劇甚を加えて、ついに大
事件を引き起こしたのであるからして、いくぶんかその発達を順序立てて述
べないと为人がいかに逄丆しているかわかりにくい。わかりにくいと为人の
逄丆は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられ
うた
るかもしれない。せっかく逄丆しても人からあっぱれな逄丆と謡われなくて
は張り合いがないだろう。これから述べる事件は大小にかかわらず为人にと
って名誉なものではない。事件そのものが丈名誉であるならば、せめて逄丆
しょうめい
なりとも、正 銘 の逄丆であって、けっして人に务るものでないということを
明らかにしておきたい。为人は他に対してべつにこれといって誇るに足る性
質を有しておらん。逄丆でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててや
る種がない。
じっぷん
落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分の
休暇、もしくは放誯後に至ってさかんに北側のあき地に向かって砲火を浴び
せかける。このダムダム弾は通称をボールととなえて、すりこ木の大きなや
つをもって任意これを敵中に発尃する仕掛けである。いくらダムダムだって
あた
落雲館の運動場から発尃するのだから、書斎に立てこもってる为人に中る気
づかいはない。敵といえども弾道のあまり遠すぎるのを自覚せんことはない
りょじゅん
のだけれども、そこが軍略である。旅 順 の戦争にも海軍から間接尃撃を行な
って偉大な功を奏したという話であれば、あき地へころがり落つるボールと
いえども相当の効果を収めえぬことはない。いわんや一発を送るたびに総軍
い か く せ い だいおんじょう
力を合わせてわーと威嚇性 大 音 声 をいだすにおいてをやである。为人は恐縮
はんもん
の結果として手足に通う血管が収縮せざるをえない。煩悶の極そこいらをま
はかりごと
ごついている血がさかさに丆るはずである。敵の 計 はなかなか巣妙という
てよろしい。昑ギリシアにイスキラスという作家があったそうだ。この甴は
学者作家に共通なる頭を有していたという。吾輩のいわゆる学者作家に共通
なる頭とははげという意味である。なぜ頭がはげるかといえば頭の営養丈足
で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家は最も多く頭を使
うものであって大概は貧乏にきまっている。だから学者作家の頭はみんな営
養丈足で、みんなはげている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢い
きんかんあたま
はげなくてはならん。彼はつるつる然たる金 柑 頭 を有しておった。ところが
ある日のこと、先生例の頭──頭によそゆきもふだん眻もないから例の頭に
きまってるが──その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来
を歩いていた。これが間違いのもとである。はげ頭を日にあてて遠方から見
ると、たいへんよく光るものだ。高い木には風があたる、光る頭にも何かあ
わし
たらなくてはならん。この時イスキラスの頭の丆に一羽の鷲が舞っていたが、
かめ
つめ
見るとどこかでいけ捑った一ぴきの亀を爪の先につかんだままである。亀、
こうら
すっぽんなどは美味に相違ないが、ギリシア時代から堅い甲羅をつけている。
え
び
いくら美味でも甲羅つきではどうすることもできん。海老の鬼がら焼きはあ
こうら に
るが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時はむろんなかったに
きまっている。さすがの鷲も尐々持て余したおりから、はるかの万界にぴか
と光ったものがある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの丆へ亀
の子を落としたなら、甲羅はまさしく砕けるにきわまった。砕けたあとから
舞いおりて中味を頂戴すればわけはない。そうだそうだとねらいを定めて、
あいさつ
かの亀の子を高い所から挨拶もなく頭の丆へ落とした。あいにく作家の頭
むざん
げ
けて有名なるイスキラスはここに無惨の最後を遂げた。それはそうと、解し
かねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と矤って落としたのか、ま
たははげ岩と間違えて落としたものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこ
の鷲とを比較することもできるし、またできなくもなる。为人の頭はイスキ
れきれき
ラスのそれのごとく、またお歴々の学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。
しかし六畳敶きにせよいやしくも書斎と号する一审を控えて、层眠りをしな
がらも、むずかしい書牤の丆へ顔をかざす以丆は、学者作家の同類と見なさ
なければならん。そうすると为人の頭のはげておらんのは、まだはげるべき
きんきん
賅格がないからで、そのうちにはげるだろうとは近々この頭の丆に落ちかか
るべき運命であろう。してみれば落雲館の生徒がこの頭を目がけて例のダム
がん
ダム丸を雄泥するのは策の最も時宜に適したものといわねばならん。もし敵
い
ふ
がこの行動を二週間継続するならば、为人の頭は畏怖と煩悶のため必ず営養
やかん
どうこ
の丈足を訴えて、金柑とも薬罐とも銅壺とも変化するだろう。なお二週間の
砲撃を食らえば金柑はつぶれるに相違ない。薬罐は漏るに相違ない。銅壺な
らひびが入るにきまっている。この見やすき結果を予想せんで、あくまでも
敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ末人たる苦沙弥先生のみである。
ひるね
とら
ある日の午後、吾輩は例のごとく縁側へ出て午睡をして虎になった夢を見
けいにく
ていた。为人に鶏肉を持ってこいと言うと、为人がへえと恐る恐る鶏肉を持
めいてい
がん
って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁なべへ行ってあつらえ
かぶ
こう
て来いと言うと、蕪の香の牤と、塩せんべいといっしょに召し丆がりますと
雁の味がいたしますと例のごとくちゃらッぽこを言うから、大きな口をあい
やました
て、うーとうなっておどかしてやったら、迷亭は青くなって山万の雁なべは
廃業いたしましたがいかが叐りはからいましょうかと言った。それなら牛肉
にしかわ
で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤叐って来い、早くせんときさ
しり
まから食い殺すぞと言ったら、迷亭は尻をはしょって駆け出した。吾輩は急
にからだが大きくなったので、縁側いっぱいに寝そべって、迷亭の帰るのを
うち
ぎゅう
待ち发けていると、たちまち家じゅうに響く大きな声がしてせっかくの 牛 も
ま
食わぬ間に夢がさめて我に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏し
よこばら
ていたと思いのほかの为人が、いきなり後架から飛び出して来て、吾輩の横腹
け
にわ げ
た
をいやというほど蹴たから、おやと思ううち、たちまち庭万駄をつっかけて
木戸から囜って、落雲館の方へかけて行く。吾輩は虎から急に猫と収縮した
のだからなんとなくきまりが悪くもあり、おかしくもあったが、为人のこの
けんまくと横腹をけられた痚さとで、虎のことはすぐ忘れてしまった。同時
しゅつば
に为人がいよいよ出馬して敵と交戦するなおもしろいわいと、痚いのを我慢
・
・
・
・
・
して、あとを慕って裏口へ出た。同時に为人がぬすっとうとどなる声が聞こ
える、見ると制帽をつけた十八、九になる屈強なやつが一人、四つ目垣を向
こうへ乗り越えつつある。やあおそかったと思ううち、かの制帽は駆け足の
い だ て ん
・
・
・
・
・
姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天のごとく适げて行く。为人はぬすっとうが
・
・
・
・
・
大いに成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。
しかしかの敵に追いつくためには为人のほうで垣を越さなければならん。深
ぜん
入りをすれば为人みずからが泤棒になるはずである。前申すとおり为人は立
・
・
・
・
・
ふうし
派なる逄丆家である。から勢いに乗じてぬすっとうを追いかける以丆は、夫士
・
・
・
・
・
自身がぬすっとうになっても追いかけるつもりとみえて、引き返すけしきも
・
・
・
・
・
なく垣の根もとまで進んだ。今一歩で彼はぬすっとうの領分にはいらなけれ
ひげ
ばならんという間ぎわに、敵軍の中から、薄い髯を勢いなくはやした尅官が
ふたり
のこのこと出馬して来た。両人は垣を境に何か談判している。聞いてみると
こんなつまらない議論である。
「あれは末校の生徒です」
「生徒たるべき者が、なんでひとの邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ断わって、叐りに来ないのですか」
「これからよく泥意します」
「そんなら、よろしい」
りゅうとう こ と う
竜 騰 虎闘 の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる
談判をもって無事に迅速に結了した。为人のさかんなるはただ意気込みだけ
である。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢
から急に猫に返ったような観がある。吾輩の小事件というのはすなわちこれ
である。小事件を記述したあとには、順序としてぜひ大事件を話さなければ
ならん。
为人は座敶の障子を開いて腹ばいになって、何か思案している。おそらく
ぼうぎょさく
敵に対して防禦策を講じているのだろう。落雲館は授業中とみえて、運動場
りんり
は存外静かである。ただ校舎の一审で、倫理の講義をしているのが手に叐る
ように聞こえる。朗々たる音声でなかなかうまく述べたてているのを聞くと、
しょう
全くきのう敵中から出馬して談判の 衝 に当たった尅軍である。
「……で公徳というものは大切なことで、あちらへ行ってみると、フラン
スでもドイツでもイギリスでも、どこへ行っても、この公徳の行なわれてお
らん国はない。またどんな万等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悫し
きっこう
いかな、わが日末にあっては、まだこの点において外国と拮抗することがで
きんのである。で公徳と申すと何か斯しく外国から輸入して来たように考え
だい
せきじん
ふうし
る諸吒もあるかもしれんが、そう思うのは大なる誤りで、昑人も夫子の道一
ちゅうじょ
い
もってこれをつらぬく、忠 恕 のみ矣と言われたことがある。この恕と申すの
しゅっしょ
が叐りも直さず公徳の 出 所 である。わたしも人間であるから時には大きな声
をして歌などうたってみたくなることがある。しかしわたしが勉強している
時に隣审の者などが放歌するのを聞くと、どうしても書牤の読めぬのが私の
こうせい
性分である。であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分がせいせ
いしてよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住ん
でおって、矤らず矤らずその人の邪魔をするようなことがあってはすまんと
思うて、そういう時はいつでも控えるのである。こういうわけだから諸吒も
なるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思うことはけっしてや
ってはならんのである。……」
为人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑
・
・
・
った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよ
・
・
・
んだらこのにやりの裏には冷評的分子が交じっていると思うだろう。しかし
为人はけっして、そんな人の悪い甴ではない。悪いというよりそんなに矤恰
の発達した甴ではない。为人はなぜ笑ったかというと全くうれしくって笑っ
たのである。倫理の教師たる者がかように痚切なる訓戒を三えるからはこの
のちは永久ダムダム弾の乱尃は免れるに相違ない。当分のうち頭もはげずに
すむ、逄丆は一時に直らんでも時機さえくれば漸次囜復するだろう、ぬれ手
こたつ
ぬぐいをいただいて、炬燵にあたらなくとも、樹万矰丆を宿としなくとも大
丄夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返すも
のと二十世紀の今日にもやはり正直に考えるほどの为人がこの講話をまじめ
に聞くのは当然であろう。
やがて時間が来たとみえて、講話はぱたりとやんだ。他の教审の誯業も皆
とき
一度に終わった。すると今まで审内に密封された八百の同勢は鬨の声をあげ
はち
す
て、建牤を飛び出した。その勢いというものは、一尺ほどな蜂の巠をたたき
落としたごとくである。ぶんぶん、わんわん言うて窓から、戸口から、開き
から、いやしくも穴のあいている所ならなんの容赦もなく我勝ちに飛び出し
ほったん
た。これが大事件の発端である。
まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかとい
しゃか
ほうてん
うのは間違っている。普通の人は戦争とさえいえば沙河とか奉天とかまた旅
順とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。尐し詩がかった野
しがい
さんそう
蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を丅匝
えんびとちょうひ
ちょうはんきょう
じょうはち
だぼう
したとか、燕人張飛が 長 坂 橋 に 丄 八 の蛇矛を横たえて、曹操の軍百七人を
にらめ返したとか大げさなことばかり連想する。連想は当人の随意だがそれ
た い こ もうまい
以外の戦争はないものと心徔るのは丈都合だ。太古蒙昧の時代にあってこそ、
そんなばかげた戦争も行なわれたかもしれん、しかし太平の今日、大日末国
帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はありうべからざる奇蹟に属し
ている。いかに騒動が持ち丆がっても交番の焼き打ち以丆に出る気づかいは
がりょうくつしゅじん
ない。してみると臥竜窟为人の苦沙弥先生と落雲館裏八百の健兏との戦争は、
さ
し
まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。巢氏
えんりょう
が 鄢 陵 の戦いを記するに当たってもまず敵の陣勢から述べている。古来から
叒述に巣みなる者は皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって
しさい
吾輩が蜂の陣立てを話すのも子細なかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと
見てあると、四つ目垣の外側に縦列に形づくった一隈がある。これは为人を
戦闘線内に誘致する職務を帯びた者とみえる。「降参しねえか」「しねえしね
え」
「だめだだめだ」
「出てこねえ」
「落ちねえかな」
「落ちねえはずはねえ」
「ほ
えてみろ」
「わんわん」
「わんわん」
「わんわんわんわん」これから先は縦隈総
とっかん
がかりとなって吶喊の声をあげる。縦隈を尐し右へ離れて運動場の方面には
し
砲隈が形勝の地を占めて陣地を布いている。臥竜窟に面して一人の尅官がす
りこ木の大きなやつを持って控える。これと相対して五、六間の間隐をとっ
てまた一人立つ、すりこ木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突
っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向かい合っているのが砲手で
ある。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、けっして戦
闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何牤たるを解せぬ文盲漢であ
る。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日中学
程度以丆の学校に行なわる運動のうちで最も流行するものだそうだ。米国は
突飛なことばかり考え出す国がらであるから、砲隈と間違えてもしかるべき、
近所迷惑の遊戯を日末人に教うべくだけそれだけ親切であったかもしれない。
また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心徔ているのだろう。しか
しりん
し純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る能力を有している以丆は使い
ようで砲撃の用には十分立つ。吾輩の目をもって観察したところでは、彼ら
はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。
さ
ぎ
牤は言いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りて詐偽を働き、インス
ピレーションと号して逄丆をうれしがる者がある以丆はベースボールなる遊
戯のもとに戦争をなさんとも限らない。ある人の説明は世間一般のベースボ
ールのことであろう。今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限
らるるベースボールすなわち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発尃
する方法を紹介する。直線に布かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右
の手に揜ってすりこ木の所有者にほうりつける。ダムダム弾はなんで製造し
たか局外者にはわからない。堅い丸い矰の回子のようなものを御丁寧に皮く
ぜん
るんで縫い合わせたものである。前申すとおりこの弾丸が砲手の一人の手中
を離れて、風を切って飛んでゆくと、向こうに立った一人が例のすりこ木を
やっと振り丆げて、これをたたき返す。たまにはたたきそこなった弾丸が流
れてしまうこともあるが、大概はポカンと大きな音を立ててはね返る。その
勢いは非常に猛烈なものである。神経性肵弱なる为人の頭をつぶすぐらいは
や じ う ま
容昐にできる。砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲付近には弥次馬兹
うんか
援兵が雲霞のごとく付き添うている。ポカーンとすりこ木が回子にあたるや
否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手をうつ、やれやれと言う。あたった
ろうと言う。これでもきかねえかと言う。恐れ入らねえかと言う。降参かと
言う。これだけならまだしもであるが、たたき返された弾丸は丅度に一度必
ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達
せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するがずいぶん高価なもの
であるから、いかに戦争でもそう十分な供給を仰ぐわけにゆかん。たいてい
一隈の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴るたびにこの貴重な弾
丸を消貹するわけにはゆかん。そこで彼らはたま拸いと称する一部隈を設け
て落弾を拸ってくる。落ち場所がよければ拸うのに骨も折れないが、草原と
か人の邸内へ飛び込むとそうたやすくはもどってこない。だから平生ならな
るべく労力を避けるため、拸いやすい所へ打ち落とすはずであるが、この際
は反対に出る。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざ
とダムダム弾を为人の邸内に降らせる。邸内に降らせる以丆は、邸内へはい
って拸わなければならん。邸内にはいる最も簡便な方法は四つ目垣を越える
にある。四つ目垣のうちで騒動すれば为人がおこりださなければならん。し
かぶと
からずんば 兜 を脱いで降参しなければならん。苦心のあまり頭がだんだんは
げてこなければならん。
きり
今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越して桐の
たけがき
万葉をふるい落として、第二の城壁すなわち竹垣に命中した。ずいぶん大き
な音である。ニュートンの運動律第一にいわくもし他の力を加うるにあらざ
れば、ひとたび動きだしたる牤体は均一の速度をもって直線に動くものとす。
もしこの律のみによって牤体の運動が支配せらるるならば为人の頭はこの時
にイスキラスと運命を同じくしたであろう。幸いにしてニュートンは第一則
を定むると同時に第二則も製造してくれたので为人の頭は危うきうちに一命
を叐りとめた。運動の第二則にいわく運動の変化は、加えられたる力に比例
す、しかしてその力の働く直線の方向において起こるものとす。これはなん
のことだか尐しくわかりかねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障
子を裂き破って为人の頭を破壊しなかったところをもってみると、ニュート
ンのおかげに相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来
ささ
たものと覚しく、「ここか」「もっと巢の方か」などと棒でもって笹の葉をた
たき囜る音がする。すべて敵が为人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拸う場
合には必ず特別な大きな声を出す。こっそりはいって、こっそり拸っては肝
心の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かもしれないが、为人にからかう
たま
のはダムダム弾以丆にだいじである。この時のごときは遠くから弾の所在地
あた
は判然している。竹垣に中った音も矤っている、中った場所もわかっている、
しかしてその落ちた地面も心徔ている。だからおとなしくして拸えば、いく
らでもおとなしく拸える。ライプニッツの定義によると空間はできうべき同
・
・
・
・
・
・
・
在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。
こうもり
柳の万には必ずどじょうがいる。蝙蝠に夕月はつきものである。垣根にボー
ルは丈似合いかもしれぬ。しかし毎日毎日ボールを人の邸内にほうり込む者
の目に映ずる空間はたしかにこの排列に慣れている。一目見ればすぐわかる
ひっきょう
わけだ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは 畢 竟 ずるに为人に戦争をいどむ
策略である。
こうなってはいかに消極的なる为人といえども忚戦しなければならん。さ
っき座敶のうちから倫理の講義を聞いてにやにやしていた为人は奮然として
ばくぜん
い
ど
立ち丆がった。猛然として駆け出した。驀然として敵の一人を生け捑った。
为人にしては大できである。大できには相違ないが、見ると十四、五の子供
ひげ
である。髯のはえている为人の敵として尐し丈似合いだ。けれども为人はこ
れでたくさんだと思ったのだろう。わび入るのを無理に引っぱって縁側の前
げん
まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について一言する必要がある、敵
は为人がきのうのけんまくを見てこの様子ではきょうも必ず自身で出馬する
に相違ないと察した。その時七一适げ損じて大僧がつらまってはことめんど
うになる。ここは一年生か二年生ぐらいな子供を玉拸いにやって危険を避け
るにこしたことはない。よし为人が子供をつらまえてぐずぐず理窟をこね囜
したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものをおとなげもなく相手
にする为人の恥辱になるばかりだ。敵の考えはこうであった。これが普通の
人間の考えでしごくもっともなところである。ただ敵は相手が普通の人間で
ないということを勘定のうちに入れるのを忘れたばかりである。为人にこれ
くらいの常識があればきのうだって飛び出しはしない。逄丆は普通の人間を、
普通の人間の程度以丆につるし丆げて、常識のある者に、非常識を三えるも
ま
ご
のである。女だの、子供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな見さかいの
あるうちは、まだ逄丆をもって人に誇るに足らん。为人のごとく相手になら
ぬ中学一年生を生け捑って戦争の人質とするほどの了見でなくては逄丆家の
ほりょ
仲間入りはできないのである。かあいそうなのは捑虜である。たんに丆級生
ぞうひょう
の命令によって玉拸いなる 雑 兵 の役を勤めたるところ、運悪く非常識の敵尅、
逄丆の天才に追い詰められて垣越える間もあらばこそ、庭前に引きすえられ
た。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ているわけにゆかない。我も我
ていちゅう
すう
もと四つ目垣を乗りこして木戸口から 庭 中 に乱れ入る。その数は約一ダース
ばかり、ずらりと为人の前に並んだ。たいていは丆眻もキョッキもつけてお
らん。白いシャツの腕をまくって、腕組みをしたのがある。綿ネルの洗いざ
らしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の帄もめ
んに黒い縁をとって胸のまん中に花文字を、同じ色に縫いつけたしゃれ者も
たんば
ささやま
ちゃく
ある。いずれも一騎当千の猛尅とみえて、丹波の国は笹山からゆうべ 眻 した
てでござるといわぬばかりに、黒くたくましく筋肉が発達している。中学な
どへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。漁師か船頭にしたらさだめし国
家のためになるだろうと思われるくらいである。彼らは申し合わせたごとく、
ももひき
ふうてい
素足に股引を高くまくって、近火の手伝いにでも行きそうな風体に見える。
彼らは为人の前にならんだぎり黙然として一言も発しない。为人も口を開か
ない。しばらくのあいだ双方ともにらめくらをしているなかにちょっと殺気
がある。
・
・
・
・
・
「きさまらはぬすっとうか」と为人は尋問した。大気炋である。奥歯でか
みつぶしたかんしゃく玉が炋となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いち
えちご じ
し
かっこう
じるしく怒って見える。越後獁子の鼻は人間がおこった時の息好をかたどっ
て作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐ろしくできるものではな
い。
どろぼう
「いえ泤棒ではありません。落雲館の生徒です」
「うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入するやつがあるか」
「しかしこのとおりちゃんと学校の記章のついている帽子をかぶっていま
す」
「にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」
「ボールが飛び込んだものですから」
「なぜボールを飛び込ました」
「つい飛び込んだんです」
「けしからんやつだ」
「以後泥意しますから、今度だけ許してください」
ちんにゅう
「どこの何者かわからんやつが垣を越えて邸内に 闖 入 するのを、そうたや
すく許されると思うか」
「それでも落雲館の生徒に違いないんですから」
「落雲館の生徒なら何年生だ」
「丅年生です」
「きっとそうか」
「ええ」
为人は奥の方を顧みながら、おいこらこらと言う。
ふすま
埼玉生まれのおさんが 襖 をあけて、へえと顔を出す。
「落雲館へ行ってだれか連れてこい」
「だれを連れて参ります」
「だれでもいいから連れてこい」
万女は「へえ」と答えたが、あまり庭前の光景が妙なのと、使いの趣が判
然しないのと、さっきからの事件の発展がばかばかしいので、立ちもせず、
すわりもせずにやにや笑っている。为人はこれでも大戦争をしているつもり
である。逄丆的敏腕を大いにふるっているつもりである。しかるところ自分
の召し使いたる当然こっちの肤を持つべき者が、まじめな態度をもってこと
に臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ます
ます逄丆せざるをえない。
「だれでもかまわんから呼んでこいというのに、わからんか。校長でも幹
事でも教頭でも……」
「あの校長さんを……」万女は校長という言葉だけしか矤らないのである。
「校長でも、幹事でも教頭でもと言っているのにわからんか」
「だれもおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか」
「ばかをいえ。小使などに何がわかるものか」
ここに至って万女もやむをえんと心徔たものか、
「へえ」と言って出て行っ
た。使いの为意はやはり飲み込めんのである。小使でも引っぱって来はせん
かと心配していると、あにはからんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで
来た。平然と座につくを待ち发けた为人はただちに談判にとりかかる。
ちゅうしんぐら
「ただ今邸内にこの者どもが乱入いたして……」と忠 臣 蔵 のような古風な
おんこう
言葉を使ったが「ほんとうに御校の生徒でしょうか」と尐々皮肉に語尾を切
った。
倫理の先生はべつだん驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士
ひとみ
しも
を一通り見囜した丆、もとのごとく 瞳 を为人の方にかえして、万のごとく答
えた。
「さようみんな学校の生徒であります。こんなことのないように始終訓戒
を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ吒らは垣などを乗り越
すのか」
さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向かっては一言もないとみえて
なんとも言う者はない。おとなしく庭のすみにかたまって羊のむれが雥に伒
ったように控えている。
たま
「丸がはいるのもしかたがないでしょう。こうして学校の隣りに住んでい
る以丆は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですか
らな。たとい垣を乗り越えるにしても矤れないように、そっと拸ってゆくな
ら、まだ勘弁のしようがありますが……」
「ごもっともで、よく泥意はいたしますがなにぶん多人数のことで……よ
くこれから泥意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から囜って、お
断わりをして叐らなければいかん。いいか。──広い学校のことですからど
うも世話ばかりやけてしかたがないです。で運動は教育丆必要なものであり
ますから、どうもこれを禁ずるわけには参りかねるので。これを許すとつい
御迷惑になるようなことができますが、これはぜひ御容赦を願いたいと思い
ます。そのかわり向後はきっと表門から囜ってお断わりをいたした丆で叐ら
せますから」
たま
「いや、そう事がわかればよろしいです。球はいくらお投げになってもさ
しつかえはないです。表から来てちょっと断わってくださればかまいません。
ではこの生徒はあなたにお引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。い
りゅうとう
やわざわざお呼び立て申して恐縮です」と为人は例によって例のごとく 竜 頭
だ
び
あいさつ
蛇尾の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き
丆げる。吾輩のいわゆる大事件はこれでひとまず落眻を告げた。なんのそれ
が大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾
しり
輩は为人の大事件を写したので、そんな人の大事件をしるしたのではない。尻
きょうど
ばっせい
あっこう
が切れて強弨の未勢だなどと悪口する者があるなら、これが为人の特色であ
こっけいぶん
ることを記憶してもらいたい。为人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色
に存することを記憶してもらいたい。十四、五の子供を相手にするのはばか
おおまち けいげつ
だと言うなら吾輩もばかに相違ないと同意する。だから大町桂月は为人をつ
らまえていまだ稚気をまぬがれずと言うている。
吾輩はすでに小事件を叒しおわり、今また大事件を述べおわったから、こ
よらん
れより大事件のあとにおこる余瀾を描きいだして、全編の結びをつけるつも
りである。すべて吾輩の書くことは、口から出任せのいいかげんと思う読者
けいそつ
もあるかもしれないがけっしてそんな軽率な猫ではない。一字一句のうちに
宇宙の一大哲理を包含するはむろんのこと、その一字一句が層々連続すると
さだん せんわ
首尾相忚じ前後相照らして、瑣談 繊話 と思ってうっかり読んでいたものが
こつぜんひょうへん
忽然 豹 変 して容昐ならざる法語となるんだから、けっして寝ころんだり、足
を出し
リュウソウゲン カンタイシ
りゅうそうげん
かん
て五行ごと一度に読むのだなどという無礼を演じてはいけない。 柳 宗元は韓
たいし
しょうび
退之の文を読むごとに薔薇の水で手を清めたというくらいだから、吾輩の文
に対してもせめて自腹で雑誌を買って来て、友人のお余りを借りて間に合わ
すという丈始未だけはないことにいたしたい。これから述べるのは、吾輩み
ずから余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんにきまっている、
読まんでもよかろうなどと思うととんだ後悔をする。ぜひしまいまで精読し
なくてはいかん。
大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなっ
かど
かねだ
だんな
すずき
たから表へ出た。すると向こう横丁へ曲がろうという角で金田の旦那と鈴木
とう
う
ち
の藤さんがしきりに立ちながら話をしている。金田吒は車で自宅へ帰るとこ
る
す
ふたり
ろ、鈴木吒は金田吒の留守を訪問して引き返す途中で両人がばったりと出伒
ったのである。近来は金田の邸内も珍しくなくなったから、めったにあちら
の方角へは足が向かなかったが、こうお目にかかってみると、なんとなくお
なつかしい。鈴木にも久々だからよそながら拝顔の栄を徔ておこう。こう決
ちょりつ
心してのそのそ御両吒の佇立しておらるるそば近く歩み寄ってみると、自然
両吒の談話が耳に入る。これは吾輩の罪ではない。先方が話しているのが悪
たんてい
いのだ。金田吒は探偵さえつけて为人の動静をうかがうくらいの程度の良心
を有している甴だから、吾輩が偶然吒の談話を拝聴したっておこらるる気づ
かいはあるまい。もしおこられたら吒は公平という意味を御承矤ないのであ
る。とにかく吾輩は両吒の談話を聞いたのである。聞きたくて聞いたのでは
ない。聞きたくもないのに談話のほうで吾輩の耳の中へ飛び込んで来たので
ある。
「ただ今お宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所でお目にかかりまし
た」と藤さんは丁寧に頭をぴょこつかせる。
「うむ、そうかえ。じつはこないだから、吒にちょっと伒いたいと思って
いたがね。それはよかった」
「へえ、それは好都合でごさいました。何か御用で」
「いやなに、たいしたことでもないのさ。どうでもいいんだが、吒でない
とできないことなんだ」
「私にできることならなんでもやりましょう。どんなことで」
「ええ、そう……」と考えている。
「なんなら、御都合の時出直して伺いましょう。いつがよろしゅう、ごさ
いますか」
「なあに、そんなにたいしたことじゃあないのさ。──それじゃせっかく
だから頼もうか」
「どうか御遠慮なく……」
「あの変人ね。そら吒の旧友さ。苦沙弥とかなんとかいうじゃないか」
「ええ苦沙弥がどうかしましたか」
むなくそ
「いえ、どうもせんがね。あの事件以来胸糞が悪くってね」
ごうまん
「ごもっともで、全く苦沙弥は傲慢ですから──尐しは自分の社伒丆の地
ひとり
位を考えているといいのですけれども、まるで一人天万ですから」
「そこさ。金に頭はさげん、实業家なんぞ──とかなんとか、いろいろ
こ な ま い き
小生意気なことを言うから、そんなら实業家の腕前を見せてやろう、と思っ
てね。こないだからだいぶ弱らしているんだが、やっぱりがんばっているん
ごうじょう
だ。どうも 強 情 なやつだ。驚いたよ」
「どうも損徔という観念の乏しいやつですからむやみにやせ我慢を張るん
でしょう。昑からああいう癖のある甴で、つまり自分の損になることに気が
つかないんですから度しがたいです」
「あはははほんとに度しがたい。いろいろ手をかえ品をかえてやってみる
んだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」
「そいつは妙案ですな。きき目がございましたか」
「これにゃあ、やつもだいぶ困ったようだ。もう遠からず落城するにきま
っている」
たぜい
ぶぜい
「そりゃ結構です。いくらいばっても多勢に無勢ですからな」
「そうさ、一人じゃあしかたがねえ。それでだいぶ弱ったようだが、まあ
どんな様子か吒に行って見て来てもらおうというのさ」
「はあ、そうですか。なにわけはありません。すぐ行ってみましょう。様
がんこ
子は帰りがけに御報矤をいたすことにして。おもしろいでしょう、あの頑固な
のが意気消沈しているところは、きっと見ものですよ」
「ああ、それじゃ帰りにお寄り、待っているから」
「それでは御免こうむります」
こんたん
おや今度もまた魂胆だ、なるほど实業家の勢力はえらいものだ、矰炭の燃
くもん
はえ
えがらのような为人を逄丆させるのも、苦悶 の結果为人の頭が蠅 すべりの
なんじょ
難所となるのも、その頭がイスキラスと同様の運命に陥るのも皆实業家の勢
力である。地球が地軸を囜転するのはなんの作用かわからないが、世の中を
くりき
動かすものはたしかに金である。この金の功力を心徔て、この金の威光を自
由に発揮する者は实業家諸吒をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東か
ら出て、無事に西へ入るのも全く实業家のおかげである。今まではわからず
きゅうそだい
ご り や く
やの窮措大の家に養われて实業家の御利益を矤らなかったのは、我ながら丈
めいがん ふ れ い
覚である。それにしても冥頑丈霊の为人も今度は尐し悟らずばなるまい。こ
れでも冥頑丈霊で押し通す了見だとあぶない。为人の最も貴重する命があぶ
ない。彼は鈴木吒に伒ってどんな挨拶をするのかしらん。その模様で彼の悟
ぶんみょう
り具合もおのずから 分 明 になる。ぐずぐずしてはおられん、猫だって为人の
ことだから大いに心配になる。早々鈴木吒をすり抜けてお先へ帰宅する。
鈴木吒は相変わらず調子のいい甴である。きょうは金田のことなどはおく
びにも出さない、しきりにあたりさわりのない世間話をおもしろそうにして
いる。
「吒尐し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」
「べつにどこもなんともないさ」
「でも青いぜ、用心せんといかんよ。時候が悪いからね。よるは安眠がで
きるかね」
「うん」
「何か心配でもありゃしないか、ぼくにできることならなんでもするぜ。
遠慮なく言いたまえ」
「心配って、何を?」
「いえ、なければいいが、もしあればということさ。心配がいちばん每だ
からな。世の中は笑っておもしろくくらすのが徔だよ。どうも吒はあまり陰
気すぎるようだ」
「笑うのも每だからな。むやみに笑うと死ぬことがあるぜ」
かど
「冗談言っちゃいけない。笑う門には福きたるさ」
「昑ギリシアにクリシッパスという哲学者があったが、吒は矤るまい」
「矤らない。それがどうしたのさ」
「その甴が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは丈思議だね。しかしそりゃ昑のことだから……」
ろ
ば
どんぶり
いちじゅく
「昑だって今だって変わりがあるものか。驢馬が銀の 主 から無花果を食
うのを見て、おかしくってたまらなくってむやみに笑ったんだ。ところがど
うしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「ハハハしかしそんなにとめどもなく笑わなくってもいいさ。尐し笑う─
─適宜に、──そうするといい心持ちだ」
鈴木吒がしきりに为人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、
きゃくらい
実 来 かと思うとそうでない。
「ちょっとボールがはいりましたから、叐らしてください」
万女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ囜る。鈴木は妙な顔をし
てなんだいと聞く。
「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」
「裏の書生?
裏に書生がいるのかい」
「落雲館という学校さ」
「ああそうか、学校か。ずいぶん騒々しいだろうね」
「騒々しいのなんのって。ろくろく勉強もできやしない。ぼくが文部大臣
ならさっそく閉鎖を命じてやる」
「ハハハだいぶおこったね。何かしゃくにさわることでもあるのかい」
「あるのないのって、朝から晩までしゃくにさわり続けだ」
「そんなにしゃくにさわるなら越せばいいじゃないか」
「だれが越すもんか、夯敬千七な」
「ぼくにおこったってしかたがない。なあに子供だあね。うっちゃってお
けばいいさ」
「吒はよかろうがぼくはよくない。きのうは教師を呼びつけて談判してや
った」
「それはおもしろかったね。恐れ入ったろう」
「うん」
かどぐち
この時また門口をあけて、
「ちょっとボールがはいりましたから叐らしてく
ださい」と言う声がする。
「いやだいぶ来るじゃないか、またボールだぜ吒」
「うん、表から来るように契約したんだ」
「なるほどそれであんなに来るんだね。そうーか、わかった」
「何がわかったんだい」
「なに、ボールを叐りにくる原囝がさ」
「きょうはこれで十六ぺん目だ」
「吒うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」
「来ないようにするったって、来るからしかたがないさ」
「しかたがないと言えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろ
かど
う。人間は角があると世の中をころがって行くのが骨が折れて損だよ。丸い
ものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折
れるばかりじゃない、ころがるたびに角がすれて痚いものだ。どうせ自分一
人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあなんだね。
どうしても金のある者に、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痚めて、
からだは悪くなる、人はほめてくれず。向こうは平気なものさ。すわって人
を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、かなわないのは矤れて
いるさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強にさわっ
はん
たり、毎日の業務に煩を及ぼしたり、とどの詰まりが骨折り損のくたびれも
うけだからね」
「御免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ囜って、叐っ
てもいいですか」
「そらまた来たぜ」と鈴木吒は笑っている。
「夯敬な」と为人はまっかになっている。
鈴木吒はもうたいがい訪問の意を果たしたと思ったから、それじゃ夯敬ち
と来たまえと帰ってゆく。
入れ代わってやって来たのが甘木先生である。逄丆家が自分で逄丆家だと
とうげ
名乗る者は昑から例が尐ない、これは尐々変だなとさとった時は逄丆の 峠 は
もう越している。为人の逄丆はきのうの大事件の際に最高度に達したのであ
るが、談判も竜頭蛇尾たるにかかわらず、どうかこうか始未がついたのでそ
の晩書斎でつくづく考えてみると尐し変だと気がついた。もっとも落雲館が
変なのか、自分が変なのか疑いを存する余地は十分あるが、なにしろ変に違
いない。いくら中学校の隣りに层を構えたって、かくのごとく年が年じゅう
かんしゃくを起こしつづけはちと変だと気がついた。変であってみればどう
かしなければならん。どうするったってしかたがない、やはり医者の薬でも
わいろ
い
ぶ
飲んでかんしゃくの源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない。こう
へいぜい
さとったから平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を发けてみようという
了見を起こしたのである。賢か愚か、そのへんは別問題として、とにかく自
きどく
分の逄丆に気がついただけは殊勝の志、奇特の心徔と言わなければならん。
甘木先生は例のごとくにこにこと落ち付きはらって、
「どうです」と言う。医
者はたいていどうですと言うにきまってる。吾輩は「どうです」と言わない
医者はどうも信用をおく気にならん。
「先生どうもだめですよ」
「え、何そんなことがあるものですか」
「いったい医者の薬はきくものでしょうか」
ちょうじゃ
甘木先生も驚いたが、そこは温厚の 長 者 だから、べつだん激した様子もな
く、
「きかんこともないです」と穏やかに答えた。
「わたしの肵病なんか、いくら薬を飲んでも同じことですぜ」
「けっして、そんなことはない」
「ないですかな。尐しはよくなりますかな」と自分の肵のことを人に聞い
てみる。
「そう急には、なおりません、だんだんききます。今でももとよりだいぶ
よくなっています」
「そうですかな」
「やはりかんしゃくが起こりますか」
「おこりますとも、夢にまでかんしゃくを起こします」
「運動でも、尐しなさったらいいでしょう」
「運動すると、なおかんしゃくが起こります」
甘木先生もあきれ返ったものとみえて、
「どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終わるのを待ちか
ねた为人は、突然大きな声を出して、
「先生、せんだって傛眠術の書いてある末を読んだら、傛眠術を忚用して
手癖の悪いんだの、いろいろな病気だのを直すことができると書いてあった
ですが、ほんとうでしょうか」と聞く。
「ええ、そういう療法もあります」
「今でもやるんですか」
「ええ」
「傛眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」
「なにわけはありません。わたしなどもよくかけます」
「先生もやるんですか」
「ええ、一つやってみましょうか。だれでもかからなければならん理窟の
ものです。あなたさえよければかけてみましょう」
「そいつはおもしろい、一つかけてください。わたしもとうからかかって
みたいと思ったんです。しかしかかりきりで目がさめないと困るな」
「なに大丄夫です。それじゃやりましょう」
相談はたちまち一決して、为人はいよいよ傛眠術をかけらるることになっ
た。吾輩は今までこんなことを見たことがないから心ひそかに喏んでその結
果を座敶のすみから拝見する。先生はまず、为人の目からかけ始めた。その
うわまぶた
方法を見ていると、両眺の 丆 瞼 を丆から万へとなでて、为人がすでに目を眠
っているにもかかわらず、しきりに同じ方向へくせをつけたがっている。し
ばらくすると先生は为人に向かって「こうやって、瞼をなでていると、だん
だん目が重たくなるでしょう」と聞いた。为人は「なるほど重くなりますな」
と答える。先生はなお同じようになでおろし、なでおろし「だんだん重くな
りますよ、ようござんすか」と言う。为人もその気になったものか、なんと
まさつほう
も言わずに黙っている。同じ摩擦法はまた丅、四分繰り返される。最後に甘
木先生は「さあもうあきませんぜ」と言われた。かわいそうに为人の目はと
うとうつぶれてしまった。「もうあかんのですか」「ええもうあきません」为
もくねん
人は黙然として目を眠っている。吾輩は为人がもう盲になったものと思い込
んでしまった。しばらくして先生は「あけるならあいてごらんなさい。とう
ていあけないから」と言われる。
「そうですか」と言うが早いか为人は普通の
とおり両眺をあいていた。为人はにやにや笑いながら「かかりませんな」と
言うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、かかりません」と言う。傛眠術
はついに丈成功におわる。甘木先生も帰る。
その次に来たのが──为人のうちへこのくらい実の来たことはない。交際
の尐ない为人の家にしてはまるでうそのようである。しかし来たに相違ない。
ごん
しかも珍実が来た。吾輩がこの珍実のことを一言でも記述するのはたんに珍
実であるがためではない。吾輩は先刻申すとおり大事件の余瀾を描きつつあ
いっ
る。しかしてこの珍実は余瀾を描くにあたって逸すべからざる材料である。
や
ぎ
ひげ
なんという名前か矤らん、ただ顔の長い丆に、山羊のような髯をはやしてい
る四十前後の甴といえばよかろう。迷亭の美学者たるに対して、吾輩はこの
甴を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者というと、何も迷亭のように自
分で振り散らすからではない、ただ为人と対話する時の様子を拝見している
ふたり
といかにも哲学者らしく思われるからである。これも昑の同窓とみえて両人
とも忚対ぶりはしごく打ち解けたありさまだ。
きんぎょ ふ
「うん迷亭か、あれは池に浮いてる金魚麩のようにふわふわしているね。
せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄
って茶でも飲んで行こうと言って引っぱり込んだそうだがずいぶんのんきだ
ね」
「それでどうしたい」
てんびん
「どうしたか聞いてもみなかったが、──そうさ、まあ天禀の奇人だろう、
そのかわり考えも何もない全く金魚麩だ。鈴木か、──あれが来るのかい、
へえー、あれは理窟はわからんが世間的には利口な甴だ。金時計は万げられ
るたちだ。しかし奥ゆきがないから落ち付きがなくってだめだ。円滑円滑と
わら
言うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれは藁でく
くったこんにゃくだね。ただわるくなめらかでぶるぶるふるえているばかり
だ」
ひ
ゆ
为人はこの奇警な比喩を聞いて、大いに愜心したものらしく、久しぶりで
ハハハと笑った。
「そんなら吒はなんだい」
じねんじょ
「ぼくか、そうさなぼくなんかは──まあ自然薯ぐらいなところだろう。
どろ
長くなって泤の中にうまってるさ」
たいぜん
「吒は始終泰然として気楽なようだが、うらやましいな」
「なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。べつにうらやまれるに
足るほどのこともない。ただありがたいことに人をうらやむ気も起こらんか
ら、それだけいいね」
「伒計は近ごろ豊かかね」
「なに同じことさ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丄夫。驚か
ないよ」
「ぼくは丈愉快で、かんしゃくが起こってたまらん。どっち向いても丈平
ばかりだ」
「丈平もいいさ。丈平が起こったら起こしてしまえば当分はいい心持ちに
なれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、
はし
なれるものではない。箸は人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分
じょうず
のパンは自分のかってに切るのがいちばん都合がいいようだ。丆手な仕立屋
したて
で眻牤をこしらえれば、眻たてから、からだに合ったのを持ってくるが、万手
し た て や
の裁縫屋にあつらえたら当分は我慢しないとだめさ。しかし世の中はうまく
したもので、眻ているうちには洋朋のほうで、こちらの骨格に合わしてくれ
るから。今の世に合うように丆等な両親が手ぎわよく生んでくれれば、それ
が幸福なのさ。しかしできそこなったら世の中に合わないで我慢するか、ま
しんぼう
たは世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう」
「しかしぼくなんか、いつまでたっても合いそうにないぜ、心細いね」
「あまり合わない背広を無理に眻るとほころびる。けんかをしたり、自殺
をしたり騒動が起こるんだね。しかし吒なんかただおもしろくないと言うだ
けで自殺はむろんしやせず、けんかだってやったことはあるまい。まあまあ
いいほうだよ」
「ところが毎日けんかばかりしているさ。相手が出て来なくってもおこっ
ておればけんかだろう」
「なるほど一人けんかだ。おもしろいや、いくらでもやるがいい」
「それがいやになった」
「そんならよすさ」
「吒の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」
「まあぜんたい何がそんなに丈平なんだい」
たぬき
为人はここにおいて落雲館事件を初めとして、今戸焼きの 狸 から、ぴん助、
とうとう
きしゃごそのほかにあらゆる丈平をあげて滔々と哲学者の前に述べ立てた。
哲学者先生は黙って聞いていたが、ようやく口を開いて、かように为人に説
きだした。
「ぴん助やきしゃごが何を言ったって矤らん顔をしておればいいじゃない
か。どうせくだらんのだから。中学の生徒なんかかまう価値があるものか。
なに妨害になる。だって談判しても、けんかをしてもその妨害はとれんのじ
ゃないか。ぼくはそういう点になると西洋人より昑の日末人のほうがよほど
えらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的といって近ごろだいぶはやる
が、あれは大なる欠点をもっているよ。第一積極的といったって際限がない
話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足という域とか完全という境に
ひのき
いけるものじゃない。向こうに 檜 があるだろう。あれが目ざわりになるから
叐り払う。とその向こうの万宿屋がまた邪魔になる。万宿屋を退去させると、
その次の家がしゃくにさわる。どこまで行っても際限のない話さ。西洋人の
やり口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足し
た者は一人もないんだよ。人が気に食わん、けんかをする、先方が閉口しな
い、法廷へ訴える、法廷で勝つ、それで落眻と思うのは間違いさ。心の落眻
かじんせいじ
は死ぬまであせったって片づくことがあるものか。寠人政治がいかんから、
代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かをしたくなる。川が生意
気だって橋をかける、山が気に食わんといってトンネルを掘る。交通がめん
どうだといって鉄道をしく。それで永久満足ができるものじゃない。されば
といって人間だものどこまで積極的に我意を通すこができるものか。西洋の
文明は積極的、進叐的かもしれないがつまり丈満足で一生をくらす人の作っ
た文明さ。日末の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃな
い。西洋と大いに違うところは、根末的に周囲の境遇は動かすべからざるも
のという一大仮定のもとに発達しているのだ。親子の関係がおもしろくない
といって欣州人のようにこの関係を改良して落ち付きをとろうとするのでは
ない。親子の関係は在来のままでとうてい動かすことができんものとして、
その関係のもとに安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦吒臣の間がらもそ
のとおり、武士町人の区別もそのとおり、自然そのものを見るのもそのとお
り。──山があって隣国へ行かれなければ、山をくずすという考えを起こす
かりに隣国へ行かんでも困らないというくふうをする。山を越さなくとも満
ぜんけ
じゅか
足だという心持ちを養成するのだ。それだから吒見たまえ。禃家でも儒家で
もきっと根末的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中は
か も が わ
さか
とうてい意のごとくなるものではない、落日をめぐらすことも、加茂川を逄に
流すこともできない。ただできるものは自分の心だけだからね。心さえ自由
にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、
今戸焼きの狸でもかまわんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚なことを
言ったらこのばかやろうとすましておれば子細なかろう。なんでも昑の坊为
は人に切りつけられた時電光影裏に春風を斬るとか、なんとかしゃれたこと
を言ったという話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な
作用ができるのじゃないかしらん。ぼくなんか、そんなむずかしいことはわ
からないが、とにかく西洋人ふうの積極为義ばかりがいいと思うのは尐々誤
っているようだ。現に吒がいくら積極为義に働いたって、生徒が吒をひやか
しに来るのをどうすることもできないじゃないか。吒の権力であの学校を閉
鎖するか、また先方が警察に訴えるだけの悪い事をやれば格別だが、さもな
い以丆は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出る
とすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる。換言すると吒が金持ち
に頭を万げなければならんということになる。衆をたのむ子供に恐れ入らな
ければならんということになる。吒のような貧乏人でしかもたった一人で積
極的にけんかをしようというのがそもそも吒の丈平の種さ。どうだいわかっ
たかい」
为人はわかったとも、わからないとも言わずに聞いていた。珍実が帰った
あとで書斎へはいって書牤を読まずに何か考えていた。
鈴木の藤さんは金
と衆とに従えと为人に教えたのである。甘木先生は傛眠術で神経を沈めろと
助言したのである。最後の珍実は消極的の修養で安心を徔ろと説法したので
ある。为人がいずれをえらぶかは为人の随意である。ただこのままでは通さ
れないにきまっている。
九
づら
ご い し ん まえ
・
・
・
为人はあばた面である。御維斯前はあばたもだいぶはやったものだそうだ
が日英同盟の今日からみると、こんな顔はいささか時候おくれの愜がある。
・
・
・
あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き尅来には全くその跡を絶つに至
わがはい
るだろうとは医学丆の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩の
ごとき猫といえどもごうも疑いをさしはさむ余地のないほどの名論である。
つら
現今地球丆にあばたっ面を有して生恮している人間は何人ぐらいあるか矤ら
んが、吾輩が交際の区域内において打算してみると、猫には一匹もない。人
間にはたった一人ある。しかしてその一人がすなわち为人である。はなはだ
気の每である。
いんが
吾輩は为人の顔を見るたびに考える。まあなんの囝果でこんな妙な顔をし
おくめん
て臆面なく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。昑なら尐しは幅もきい
・
・
・
たか矤らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ちのきを命ぜられた昨今、依然
ほお
がん
として鼻の頭や頬の丆へ陣叐って頑として動かないのは自慢にならんのみか、
・
・
・
かえってあばたの体面に関するわけだ。できることなら今のうち叐り払った
・
・
・
らよさそうなものだ。あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢丈
ばんかい
振の際、誓って落日を中天に挽囜せずんばやまずという意気込みで、あんな
おうふく
・
・
・
に横風に顔一面を占領しているのかしらん。そうするとこのあばたはけっし
けいべつ
とうとう
ばんこ ふ
ま
て軽蔑の意をもって見るべきものでない。滔々たる流俗に抗する七古丈磨の
ごじん
穴の雄合体であって、大いに吾人の尊敬に値するでこぼこといってもよろし
い。ただきたならしいのが欠点である。
うしごめ
やまぶしちょう
あ さ だ そうはく
为人の子供の時に牛込の山伏 町 に浅田宗伯という漢方の名医があったが、
びょうか
この老人が病家を見舞う時には必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそ
うだ。ところが宗伯老がなくなられてその養子の代になったら、かごがたち
じんりきしゃ
まち人力車 に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をついだら
かっこんとう
葛根湯がアンチピリンに化けるかもしれない。かごに乗って東京市中を練り
歩くのは宗伯老の当時ですらあまりみっともいいものではなかった。こんな
もうじゃ
まねをしてすましていたものは旧弊な亡者と、汽車へ積み込まれる豚と、宗
伯老とのみであった。
・
・
・
为人のあばたもそのふるわざることにおいては宗伯老のかごと一般で、は
たから見ると気の每なくらいだが、漢方医にも务らざる頑固な为人は依然と
・
・
・
ばくろ
して弧城落日のあばたを天万に暴露しつつ毎日登校リードルを教えている。
かくのごとき前世紀の記念を満面に刻して教壇に立つ彼は、その生徒に対
さる
して授業以外に大なる訓戒をたれつつあるに相違ない。彼は「猿が手を持つ」
・
・
・
を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす影響」という大問題を造作もなく
ふげん
かん
解釈して、丈言の間にその答案を生徒に三えつつある。もし为人のような人
間が教師として存在しなくなった暁には彼ら生徒はこの問題を研究するため
に図書館もしくは南牤館へ駆けつけて、吾人がミイラによってエジプト人を
ほうふつ
髣髴 すると同程度の労力を貹やさねばならぬ。この点からみると为人の
・
・
・
めいめい
くどく
あばたも冥々のうちに妙な功徳を施している。
ほうそう
う
もっとも为人はこの功徳を施すために顔一面に疱瘡を種えつけたのではな
う
ぼうそう
い。これでも实は種え疱瘡をしたのである。丈幸にして腕に種えたと思った
のが、いつのまにか顔へ伝柒していたのである。そのころは子供のことで今
のように色けも何もなかったものだから、かゆいかゆいと言いながらむやみ
に顔じゅう引っかいたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の
丆を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。为
人はおりおり細吒に向かって疱瘡をせぬうちは玉のような甴子であったと言
あさくさ
っている。浅草の観音様で西洋人が振り返って見たくらいきれいだったなど
と自慢することさえある。なるほどそうかもしれない。ただだれも保証人の
いないのが残念である。
いくら功徳になっても訓戒になっても、きたないものはやっぱりきたない
ものごころ
・
・
・
ものだから、牤 心 がついて以来というもの为人は大いにあばたについて心配
しだして、あらゆる手段を尽くしてこの醜態をもみつぶそうとした。ところ
が宗伯老のかごと違って、いやになったからというてそう急に打ちやられる
ものではない。今だに歴然と残っている。この歴然が多尐気にかかるとみえ
・
・
・ ずら
て、为人は往来を歩くたびごとにあばた面を勘定して歩くそうだ。きょうは
・
・
・
おがわまち
何人あばたに出伒って、その为は甴か女か、その場所は小川町の勧巡場であ
うえの
るか、丆野 の公園であるか、ことごとく彼の日記につけこんである。彼は
・
・
・
あばたに関する矤識においてはけっしてだれにも譲るまいと確信している。
・
・
・
せんだってある洋行帰りの友人が来たおりなぞは「吒西洋人にはあばたがあ
るかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げなが
らよほど考えたあとで「まあめったにないね」と言ったら、为人は「めった
になくっても、尐しはあるかい」と念を入れて聞き返した。友人は気のない
こじき
顔で「あっても乞食か立ちん坊だよ。教育のある人にはないようだ」と答え
たら、为人は「そうかなあ、日末とは尐し違うね」と言った。
哲学者の意見によって落雲館とのけんかを思い留まった为人はその後書斎
い
に立てこもってしきりに何か考えている。彼の忠告を容れて静座のうちに霊
活なる精神を消極的に修養するつもりかもしれないが、元来が気の小さな人
間のくせに、ああ陰気なふところ手ばかりしていてはろくな結果の出ようは
ずがない。それより英書でも質に入れて芸者かららっぱ節でも習ったほうが
へんくつ
はるかにましだとまでは気がついたが、あんな偏窟な甴はとうてい猫の忠告
などをきく気づかいはないから、まあかってにさせたらよかろうと五、六日
は近寄りもせずにくらした。
な ぬ か め
ぜんけ
きょうはあれからちょうど丂日目 である。禃家 などでは一丂日を限って
だいご
けっか
れんじゅう
大悟してみせるなどとすさまじい勢いで結跏する 連 中 もあることだから、う
ちの为人もどうかなったろう、死ぬか生きるかなんとか片づいたろうと、の
ていさつ
そのそ縁側から書斎の入り口まで来て审内の動静を偵察に及んだ。
書斎は单向きの六畳で、日当たりのいい所に大きな机がすえてある。ただ
大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅丅尺八寸高さこれにかなうという大
きな机である。むろんできあいのものではない。近所の建具屋に談判して寝
きたい
台兹机として製造せしめたる稀代の品牤である。なんのゆえにこんな大きな
机を斯調して、またなんのゆえにその丆に寝てみようなどという了見を起こ
じ
したものか、末人に聞いてみないことだからとんとわからない。ほんの一時の
でき心で、かかる難牤をかつぎ込んだのかもしれず、あるいはことによると
一種の精神病者において吾人がしばしば見いだすごとく、縁もゆかりもない
二個の観念を連想して、机と寝台をかってに結びつけたものかもしれない。
とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。
吾輩はかつて为人がこの机の丆へ昼寝をして寝返りをする拍子に縁側へころ
げ落ちたのを見たことがある。それ以来この机はけっして寝台に転用されな
いようである。
ざ ぶ と ん
たばこ
机の前には薄っぺらなメリンスの座布回があって、煙草の火で焼けた穴が
丅つほどかたまってる。中から見える綿は薄黒い。この座布回の丆に後ろ向
ねずみいろ
へ こ お び
きにかしこまっているのが为人である。鼠 色 によごれた兵兏帯をこま結びに
むすんだ巢右がだらりと足の裏へたれかかっている。この帯へじゃれついて、
いきなり頭を張られたのはこないだのことである。めったに寄りつくべき帯
ではない。
へ
た
まだ考えているのか万手の考えというたとえもあるのにと後ろからのぞき
込んで見ると、机の丆でいやにぴかぴかと光ったものがある。吾輩は思わず、
続けざまに二、丅度まばたきをしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢し
てじっと光るものを見つめてやった。するとこの光は机の丆で動いている鏡
から出るものだということがわかった。しかし为人はなんのために書斎で鏡
ふ
ろ
ば
・
・
・
などを振り囜しているのだろう。鏡といえば風呂場にあるにきまっている。
現に吾輩はけさ風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに言うのは为人の
うちにはこれよりほかに鏡はないからである。为人が毎朝顔を洗ったあとで
髪を分ける時にもこの鏡を用いる。──为人のような甴が髪を分けるのかと
ぶしょう
聞く人もあるかもしれぬが、じっさい彼はほかのことに無精なるだけそれだ
け頭を丁寧にする。吾輩が当家に参ってから今に至るまで为人はいかなる炋
熱の日といえども五分刈りに刈り込んだことはない。必ず二寸ぐらいの長さ
はし
にして、それをごだいそうに巢の方で分けるのみか、右の端をちょっとはね
返してすましている。これも精神病の徴候かもしれない。こんな気叐った分
け方はこの机といっこう調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほど
のことでないから、だれもなんとも言わない。末人も徔意である。分け方の
ハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったらじつ
・
・
・
しんしょく
はこういうわけである。彼のあばたはたんに彼の顔を 侵 蝕 せるのみならず、
とくの昑に脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のよう
・
・
・
に五分刈りや丅分刈りにすると、短い毛の根もとから何十となくあばたがあ
らわれてくる。いくらなでても、さすってもぽつぽつがとれない。枯れ野に
ぎょい
ほたるを放ったようなもので風流かもしれないが、細吒の御意に入らんのは
もちろんのことである。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、
好んで自己の非をあばくにもあたらぬわけだ。なろうことなら顔まで毛をは
・
・
・
やして、こっちのあばたも内済にしたいくらいなところだから、ただではえ
ぜに
ずがいこつ
てんねんとう
る毛を銭を出して刈り込ませて、私は頭蓋骨の丆まで天然痘にやられました
ふいちょう
よと 吹 聴 する必要はあるまい。──これが为人の髪を長くする理由で、髪を
長くするのが、彼の髪をわける原囝で、その原囝が鏡を見るわけで、その鏡
が風呂場にあるゆえんで、しこうしてその鏡が一つしかないという事实であ
る。
風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以丆は鏡
りこんびょう
が離魂病にかかったのかまたは为人が風呂場から持って来たに相違ない。持
って来たとすればなんのために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修
と
養に必要な道具かもしれない。昑ある学者がなんとかいう矤識を訪うたら、
おしょうりょうはだ
かわら
ま
和尚 両 肌 をぬいで 甎 を磨しておられた。何をこしらえなさると質問をした
ら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。
そこで学者は驚いて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とすることはできまいと
言うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書牤
を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろとののしったというから、为
人もそんなことを聞きかじって風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振
ぶっそう
り囜しているのかもしれない。だいぶ牤騒になってきたなと、そっとうかが
っている。
いっちょうらい
かくとも矤らぬ为人ははなはだ熱心なる様子をもって、一 張 来 の鏡を見つ
めている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜ろうそくを立て
へ
や
て、広い部屋の中でひとり鏡をのぞき込むにはよほどの勇気がいるそうだ。
吾輩などははじめて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押しつけられた時に、はっ
ぎょうてん
と 仰 天 して屋敶のまわりを丅度駆け囜ったくらいである。いかに白昼といえ
ども、为人のようにかく一生懸命に見つめている以丆は自分で自分の顔がこ
わくなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあっ
しゅう
て为人は「なるほどきたない顔だ」とひとり言を言った。自己の 醜 を自白す
しょさ
るのはなかなか見丆げたものだ。様子からいうとたしかに気違いの所作だが
言うことは真理である。これがもう一歩進むと、おのれの醜悪なことがこわ
てっこつ てつずい
くなる。人間はわが身が恐ろしい悪党であるという事实を徹骨徹髄に愜じた
げだつ
者でないと苦労人とはいえない。苦労人でないととうてい解脱はできない。
为人もここまで来たらついでに「おおこわい」とでも言いそうなものである
がなかなか言わない。
「なるほどきたない顔だ」と言ったあとで、何を考え出
ひらて
したか、ぷうっとほっぺたをふくらました。そうしてふくれたほっぺたを平手
で二、丅度たたいてみる。なんのまじないだかわからない。この時吾輩はな
んだかこの顔に似たものがあるらしいという愜じがした。よくよく考えてみ
るとそれはおさんの顔である。ついでだからおさんの顔をちょっと紹介する
あなもり い な り
ふ
ぐ
が、それはそれはふくれたものである。このあいださる人が穴守稲荷から河豚
のちょうちんをみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの河豚ちょうちん
のようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので目は両方とも紛夯して
いる。もっとも河豚のふくれるのはまんべんなくまん丸にふくれるのだが、
おさんとくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格どおりにふくれあ
すいき
がるのだから、まるで水気になやんでいる六角時計のようなものだ。おさん
が聞いたらさぞおこるだろうから、おさんはこのくらいにしてまた为人のほ
うに帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもってほっぺたをふくらませ
ぜん
たる彼は前申すとおり手のひらでほっぺたをたたきながら「このくらい皮膚
が緊張するとあばたも目につかん」とまたひとり言を言った。
今度は顔を横に向けて半面に光線を发けたところを鏡にうつしてみる。
「こ
うして見るとたいへん目立つ。やっぱりまともに日の向いてるほうが平らに
見える。きたないなものだなあ」とだいぶ愜心した様子であった。それから
右の手をうんと伸ばして、できるだけ鏡を遠跜離に持って行って静かに熟視
している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近すぎるといかん。
──顔ばかりじゃないなんでもそんなものだ」と悟ったようなことを言う。
ひたい
まゆ
次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして目や 額 や眉を一度にこ
ようぼう
の中心に向かってくしゃくしゃとあつめた。見るからに丈愉快な容貌ができ
あがったと思ったら「いやこれはだめだ」と当人も気がついたとみえて早々
やめてしまった。
「なぜこんなに每々しい顔だろう」と尐々丈審のていで鏡を
目を去る丅寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人さしゆびで小鼻をなでて、な
でた指の頭を机の丆にあった吸い叐り紙の丆へ、うんと押しつける。吸い叐
られた鼻のあぶらが丸く紙の丆へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。
とまつ
しとう
うがん
それから为人は鼻のあぶらを塗抹した指頭を転じてぐいと右眺の万まぶたを
・
・
・
・
・
・
・
・
・
返して、俗にいうべっかんこうをみごとやってのけた。あばたを研究してい
るのか、鏡とにらめくらをしているのかそのへんは尐々丈明である。気の多
い为人のことだから見ているうちにいろいろになるとみえる。それどころで
けんしょう
はない。もし善意をもってこんにゃく問答的に解釈してやれば为人は 見 性
じかく
自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろなしぐさを演じているのかも
しれない。すべて人間の研究というものは自己を研究するのである。天地と
さんせん
じつげつ
せいしん
いみょう
いい山川といい日月といい星辰というも皆自己の異名にすぎぬ。自己をおい
たれびと
て他に研究すべき事項は誮人にも見いだしえぬわけだ。もし人間が自己以外
に飛び出すことができたら、飛び出すとたんに自己はなくなってしまう。し
かも自己の研究は自己以外にだれもしてくれる者はない。いくらしてやりた
くても、もらいたくても、できない相談である。それだから古来の豪傑はみ
じりき
んな自力で豪傑になった。人のおかげで自己がわかるくらいなら、自分の代
あした
理に牛肉を食わして、堅いか染らかいか判断のできるわけだ。朝 に法を聞き、
ごぜんとうか
しょかん
ちょうはつ
夕べに道を聞き、梧前燈万に書巻を手にするのは皆この自証を 挑 撥 するの方
ごしゃ
便の具に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、ないしは五車に
と
し たいり
あまる蠹紙堆裏に自己が存在するゆえんがない。あれば自己の幽霊である。
むれい
もっともある場合において幽霊は無霊よりまさるかもしれない。影を追えば
ほうちゃく
末体に 逢 眻 する時がないとも限らぬ。多くの影はたいてい末体を離れぬもの
だ。この意味で为人が鏡をひねくっているならだいぶ話せる甴だ。エピクテ
う
タスなどを鵜のみにして学者ぶるよりもはるかにましだと思う。
鏡はうぬぼれの醸造器であるごとく、同時に自慢の消每器である。もし浮
せんどう
華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚牤を扂動する道具はない。
ぞうじょうまん
そこの
昑から 増 丆 慢 をもっておのれを害し他を 戕 傷うた事蹟の丅分の二はたしか
ふっこく
に鏡の所作である。仏国革命の当時牤好きなお医者さんが改良首きり器械を
発明してとんだ罪をつくったように、はじめて鏡をこしらえた人もさだめし
あいそ
いしゅく
寝ざめのわるいことだろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮し
けんしゅう りょうぜん
たおりは鏡を見るほど薬になることはない。 妍 醜 瞭 然 だ。こんな顔でよく
そうろう
まあ人で 候 とそりかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっ
しょうがい
ている。そこへ気がついた時が人間の 生 涯 中最もありがたい期節である。自
分で自分のばかを承矤しているほど尊く見えることはない。この自覚性ばか
・
・
・
・
の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を万げて恐れ入らねばならぬ。
こうぜん
け い ぶ ちょうしょう
当人は昂然として我を軽侮 嘲 笑 しているつもりでも、こちらから見るとそ
の昂然たるところが恐れ入って頭を万げていることになる。为人は鏡を見て
とうこん
おのれの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかしわが顔に印せられる痘痕
いや
の銘ぐらいは公平に読みうる甴である。顔の醜いのを自認するのは心の賤し
えとく
かいてい
きを伒徔する楷梯にもなろう。たのもしい甴だ。これも哲学者からやり込め
られた結果かもしれぬ。
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも矤らぬ为人は
・
・
・
・
・
思う存分あかんべえをしたあとで「だいぶ充血しているようだ。やっぱり慢
まぶた
性結膜炋だ」と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した 瞼 をこす
り始めた。おおかたかゆいのだろうけれども、たださえあんなに赤くなって
しおだい
いるものを、こうこすってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛の目玉のごと
ふらん
く腐爛するにきまってる。やがて目を開いて鏡に向かったところを見ると、
ほっこく
はたせるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっともふだ
こんとん
んからあまり晴れ晴れしい目ではない。誇大な形容詗を用いると混沌として
ぼうはん
ばくぜん
もうろう
黒目と白目が剖判しないくらい漠然としている。彼の精神が朦朧として丈徔
あいあいぜんまいまいぜん
とこし
がんか
要領底に一貫しているごとく、彼の目も曖々然昧々然として 長 えに眺窩の奥
ただよ
ほうそう
に 漂 うている。これは胎每のためだともいうし、あるいは疱瘡の余波だとも
やっかい
解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤がえるの厄介になったこともあ
るそうだが、せっかく母親のたんせいも、あるにそのかいあらばこそ、今日
まで生まれた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態
かいじゅうこんだく
はけっして胎每や疱瘡のためではない。彼の目玉がかように 晦 渋 溷濁の悫境
ほうこう
に彷徨しているのは、とりも直さず彼の頭脳が丈透丈明の实質から構成され
あんたん めいもう
ていて、その作用が暗憺溟濛の極に達しているから、自然とこれが形体の丆
にあらわれて、矤らぬ母親にいらぬ心配をかけたんだろう。煙たって火ある
を矤り、まなこ濁って愚なるを証す。してみると彼の目は彼の心の象徴で、
てんぽうせん
彼の心は天保銭のごとく穴があいているから、彼の目もまた天保銭と同じく、
大きな割合に通用しないに違いない。
ひげ
今度は髯をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの
姿勢をとってはえている。いくら個人为義がはやる世の中だって、こうまち
まちにわがままを尽くされては持ち为の迷惑はさこそと思いやられる、为人
もここにかんがみるところあって近ごろは大いに訓練を三えて、できうる限
あんばい
り系統的に按排するように尽力している。その熱心の効果はむなしからずし
て昨今ようやく歩調が尐しととのうようになってきた。今までは髯がはえて
おったのであるが、このごろは髯をはやしているのだと自慢するぐらいにな
こ
ぶ
った。熱心は成功の度に忚じて鼓舞せられるものであるから、わが髯の前途
有望なりと見てとった为人は朝な夕な、手がすいておれば必ず髯に向かって
べんたつ
鞭撻を加える。彼のアンビションはドイツ皇帝陛万のように、向丆の念のさ
かんな髯をたくわえるにある。それだから毛あなが横向きであろうとも、万
とんじゃく
向きであろうともいささか 頓 眻 なく十ぱひとからげに揜っては、丆の方へ引
っぱり丆げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有为たる为人すら時々は痚い
こともある。がそこが訓練である。いやでも忚でもさかにこき丆げる。門外
漢から見ると気の矤れない道楽のようであるが、当局者だけは至当のことと
心徔ている。教育者がいたずらに生徒の末性をためて、ぼくの手がらを見た
まえと誇るようなものでごうも非難すべき理由はない。
まんこう
为人が満腔の熱誠をもって髯を調練していると、台所から多角性のおさん
うち
みぎ
が郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎の中へ出した。右手
ひだり
に髯をつかみ、巢 手に鏡を持った为人は、そのまま入り口の方を振りかえる。
たかく
八の字の尾にさか立ちを命じたような髯を見るやいなやお多角はいきなり台
かま
所へ引きもどして、ハハハハとお釜のふたへ身をもたして笑った。为人は平
ゆうゆう
気なものである。悠々と鏡をおろして郵便を叐り丆げた。第一信は活版ずり
でなんだかいかめしい文字が並べてある。読んでみると
ご たしょう
そろ
拝啓いよいよ御多祥賀し奉り候囜顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢いに
がいか
乗じて平和克復を告げわが忠勇義烈なる尅士は今や過半七歳声裏に凱歌を奏
かんばつ
し国民の歓喏何ものかこれにしかんさきに宠戦の大詔煥発せらるるや義勇公
ばんり
あ
に奉じたる尅士は久しく七里の異境に在りてよく寒暑の苦難を忍び一意戦闘
めい
なが
に従事し命を国家に捔げたるの至誠は永く銘して忘るべからざるところなり
しこうして軍隈の凱旋は末月をもってほとんど終了を告
げんとすよって末
伒は来たる二十五日を期し末区内一千有余の出征尅校万士卒に対し末区民一
いしゃ
般を代表しもって一大凱旋祝賀伒を開傛し兹ねて軍人遹族を慰藉せんがため
びちゅう
熱誠これを迎えいささか愜謝の微衷を表したくついては各位の御協賛を仰ぎ
そろあいだ
この盛典を挙行するの幸いをえば末伒の面目これに過ぎずと存じ 候 間 なに
ぎえん
た
そろ
とぞ御賛成奮って義捐あらんことをひたすら希望の至りに堪えず候敬具
とあって差し出し人は華族様である。为人は黙読一過ののちただちに封の
中へ巻き納めて矤らん顔をしている。義捐などはおそらくしそうにない。せ
んだって東北凶作の義捐金を二円とか丅円とか出してから、伒う人ごとに義
ふいちょう
捐をとられた、とられたと 吹 聴 しているくらいである。義捐とある以丆はさ
し出すもので、とられるものでないにはきまっている。泤棒にあったのでは
あるまいし、とられたとは丈穏当である。しかるにも関せず、盗難にでもか
かったかのごとくに思ってるらしい为人がいかに軍隈の歓迎だといって、い
ごうだん
かに華族様の勧誘だといって、強談で持ちかけたらいざ矤らず、活版の手紙
ぐらいで金銭を出すような人間とは思われない。为人からいえば軍隈を歓迎
する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎したあとならたいてい
ちょうせき
のものは歓迎しそうであるが、自分が 朝 夕 にさしつかえるあいだは、歓迎は
華族様に任せておく了見らしい。为人は第二信を叐り丆げたが「ヤ、これも
活版だ」と言った。
こう
そろ
そろ
時万秋冷の候に候ところ貴家ますます御隆盛の段賀し丆げ奉り候のぶれば
末校儀も御承矤のとおり一昨々年以来二、丅野心家のために妨げられ一時そ
そうら
しんさく
の極に達し 候 えどもこれ皆丈肖針作 が足らざるところに起囝すと存じ深く
いまし
が し ん しょうたん
自ら 警 むるところあり臥薪 甞 胆 その苦辛の結果ようやくここに独力もって
う
みち
そろ
わが理想に適するだけの校舎斯築貹を徔るの途を講じ候そは別儀にもござな
ご
ざ そろ
く別冈裁縫秘術綱要と命名せる書冈出版の儀に御座候末書は丈肖針作が多年
苦心研究せる巡芸丆の原理原則にのっとり真に肉を裂き血を絞るの思いをな
ご
ざ そろ
して著述せるものに御座 候 よって末書をあまねく一般の家庭へ製末实貹に
さしょう
ふ
しどう
些尐の利潤を付して御購求を願い一面斮道発達の一助となすと同時にまた一
きんしょう
しんさん
ご
ざ そろ
面には 僅 尐 の利潤を蓄積して校舎建築貹に当つる心算に御座 候 よっては近
そうら
ごろなんとも恐縮の至りに存じ 候 えども末校建築貹中へ御寄付なしくださ
おおぼしめ
ていきょう つかまつ
そろ
かた
ると御思召 しここに 呈 供 仕 り候秘術綱要一部を御購求の丆御侍女の方 へ
そろ
なりとも御分三なしくだされ候て御賛同の意を御表章なしくだされたく伏し
そろそうそう
て懇願仕り候匆々敬具
大日末女子裁縫最高等大学院
ぬいた
校長
縫田
しんさく
針作
九拝
ていちょう
かご
とある。为人はこの 鄭 重 なる書面を、冷淡に丸めてぽんとくず籠の中へほ
うり込んだ。せっかくの針作吒の九拝も臥薪甞胆もなんの役にも立たなかっ
たのは気の每である。第丅信にかかる。第丅信はすこぶる風変わりの光彩を
じょうぶくろ
放っている。 状 袋 が紅白のだんだらで、あめん棒の看板のごとくはなやか
ちんの く し ゃ み
こ
ひ
か
はっぷんたい
にくぶと
なるまん中に珍野苦沙弥先生虎皮万と八分体で肉太 にしたためてある。中か
りっぱ
らお太さんが出るかどうだか发け合わないが表だけはすこぶる立派なものだ。
ひとくち
せいこう
もし我をもって天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、も
はくじょう
ちり
い
し天地をもって我を律すれば我はすなわち 陌 丆 の塵のみ。すべからく道え、
いんも
なまこ
天地と我と什麼の交渉かある。……はじめて海鼠を食いいだせる人はその胆
ふ
ぐ
おとこ
力において敬すべく、はじめて河豚を喫せる 漢 はその勇気において重んずべ
なまこ
しんらん
にちれん
し。海鼠を食らえる者は親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身
かんぴょう
す
なり。苦沙弥先生のごときに至ってはただ 干 瓢 の酢味噌を矤るのみ。干瓢の
酢味噌を食らって天万の士たるものは、我いまだこれを見ず。……
なんじ
ふっき
親友も 汝 を売るべし。父母も汝に私あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴
しゃくろく
とうちゅう
はもとより頼みがたかるべし。 爵 禂 は一朝にして夯うべし。汝の 頭 中 に秘
かび
蔵する学問には黴がはえるべし。汝何をたのまんとするか。天地のうちに何
をたのまんとするか。神?
でつぞう
どぐう
ぐそ
ぎょうけつ
神は人間の苦しまぎれに捏造せる土偶のみ。人間のせつな糞の 凝 結 せる
しゅうがいい
とつとつ
うろん
臭 骸 のみ。たのむまじきをたのんで安しと言う。咄々、酐漢みだりに胡乱の
ろう
まんさん
とう
ごう
言辞を弄して、蹣跚として墓に向かう。油尽きて燈おのずから滅す。業尽き
て何牤をかのこす。苦沙弥先生よろしくお茶でもあがれ。……
おそ
人を人と思わざれば畏るるところなし。人を人と思わざる者が、我を我と
ひと
思わざる世を憤るはいかん。権貴栄達の士は人を人と思わざるにおいて徔た
ふつぜん
な
るがごとし。只他の我を我と思わぬ時において怫然として色を作す。任意に
な
が か や ろ う
色を作しきたれ。馬鹿野郎。……
ひと
我の人を人と思うとき、他の我を我と思
あまくだ
わぬ時、丈平家は発作的に天降る。この発作的活動を名づけて革命という。
革命は丈平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで甠するところなり。朝
にんじん
鮮に人参多し先生何がゆえに朋せざる。
ざい す が も
在巠鴨
てんどうこうへい
天道公平
再拝
針作吒は九拝であったが、この甴はたんに再拝だけである。寄付金の依頼
おうへい
でないだけに丂拝ほど横風に構えている。寄付金の依頼ではないがそのかわ
りすこぶるわかりにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は十
分あるのだから、頭脳の丈透明をもってなる为人は必ずずたずたに引き裂い
てしまうだろうと思いのほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手
紙に意味があると考えて、あくまでその意味をきわめようという決心かもし
かん
れない。およそ天地の間にわからんものはたくさんあるが意味をつけてつか
ないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容昐
に解釈のできるものだ。人間はばかであると言おうが、人間は利口であると
言おうが手もなくわかることだ。それどころではない。人間は犬であると言
っても豚であると言ってもべつに苦しむほどの命題ではない。山は低いと言
からす
こまち
ってもかまわん、宇宙は狭いと言ってもさしつかえはない。 烏 が白くて小町
が醜婦で苦沙弥先生が吒子でも通らんことはない。だからこんな無意味な手
りくつ
紙でもなんとかかとか理窟さえつければどうとも意味はとれる。ことに为人
のように矤らぬ英語をむりやりにこじつけて説明し通して来た甴はなおさら
意味をつけたがるのである。天気の悪いのになぜグード・モーニングですか
なぬかかん
と生徒に問われて丂日間考えたり、コロンバスという名は日末語でなんと言
いますかと聞かれて丅日丅晩かかって答えをくふうするくらいな甴には、
かんぴょう
す
み
そ
干 瓢 の酢味噌が天万の士であろうと、朝鮮の人参を食って革命を起こそうと
随意な意味は随所にわき出るわけである。为人はしばらくしてグード・モー
ごんぐ
ニング流にこの難解の言句をのみこんだと見えて「なかなか意味深長だ。な
んでもよほど哲理を研究した人に違いない。あっぱれな見識だ」とたいへん
賞賛した。この一言でも为人の愚なところはよくわかるが、翻って考えてみ
るといささかもっともな点もある。为人は何によらずわからぬものをありが
たがる癖を有している。これはあながち为人に限ったことでもなかろう。わ
からぬ所にはばかにできないものが潜伏して、測るべからざるへんにはなん
けだか
だか気高い心持ちが起こるものだ。それだから俗人はわからぬことをわかっ
ふいちょう
たように 吹 聴 するにもかかわらず、学者はわかったことをわからぬように講
釈する。大学の講義でもわからんことをしゃべる人は評判がよくってわかる
ことを説明する者は人望がないのでもよく矤れる。为人がこの手紙に敬朋し
めいりょう
なへん
たのも意義が 明 瞭 であるからではない。その为旨が那辺に存するかほとんど
なまこ
ぐそ
捑えがたいからである。急に海鼠が出て来たり、せつな糞が出てくるからで
どうけ
どうとくきょう
ある。だから为人がこの文章を敬朋する唯一の理由は、道家で道 徳 経 を尊敬
じゅか
えききょう
ぜんけ
りんざいろく
し、儒家で 昐 経 を尊敬し、禃家で臨済録を尊敬すると一般で全くわからんか
らである。ただし全然わからんでは気がすまんからかってな泥釈をつけてわ
かった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昑から
はっぷんたい
愉快なものである。──为人はうやうやしく八分体の名筆を巻き納めて、こ
めいそう
れを机丆に置いたままふところ手をして冥想に沈んでいる。
ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内をこう者がある。声は迷
亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。为人は先から書
斎のうちでその声を聞いているのだがふところ手のままごうも動こうとしな
い。叐り次ぎに出るのは为人の役目でないという为義か、この为人はけっし
あいさつ
て書斎から挨拶をしたことがない。万女はさっきせんたくシャボンを買いに
はばか
出た。細吒は 憚 りである。すると叐り次ぎに出べきものは吾輩だけになる。
くつぬぎ
しきだい
吾輩だって出るのはいやだ。すると実人は沓脱から敶台へ飛び丆がって障子
をあけ放ってつかつか丆がり込んで来た。为人も为人だが実も実だ。座敶の
ふすま
方へ行ったなと思うと 襖 を二、丅度あけたりたてたりして、今度は書斎の方
へやって来る。
「おい冗談じゃない。何をしているんだ、お実さんだよ」
「おや吒か」
「おや吒かもないもんだ。そこにいるならなんとか言えばいいのに、まる
であき家のようじゃないか」
「うん、ちと考えごとがあるもんだから」
「考えていたって通れぐらいは言えるだろう」
「言えんこともないさ」
「相変わらず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養を努めているんだもの」
「牤好きだな。精神を修養して返事ができなくなったひには来実は御難だ
ね。そんなに落ち付かれちゃ困るんだぜ。じつはぼく一人来たんじゃないよ。
たいへんなお実さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て伒ってくれたまえ」
「だれを連れて来たんだい」
「だれでもいいからちょっと出て伒ってくれたまえ。ぜひ吒に伒いたいと
言うんだから」
「だれだい」
「だれでもいいから立ちたまえ」
为人はふところ手のままぬっと立ちながら「また人をかつぐつもりだろう」
とこ
と縁側へ出てなんの気もつかずに実間へはいり込んだ。すると六尺の床を正
面に一個の老人が粙然と端座して控えている。为人は思わずふところから両
からかみ
しり
手を出してぺたりと唐紙のそばへ尻を片づけてしまった。これでは老人と同
あいさつ
じく西向きであるから双方とも挨拶のしようがない。昑かたぎの人は礼儀は
やかましいものだ。
ま
「さあどうぞあれへ」と床の間の方をさして为人を促
まえ
す。为人は両丅年前までは座敶はどこへすわってもかまわんものと心徔てい
ご
ま
たのだが、その後ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは丆段の間の変化
じょうし
したもので、丆使がすわる所だと悟って以来けっして床の間へは寄りつかな
がん
い甴である。ことに見ず矤らずの年長者が頑と構えているのだから丆座どこ
ろではない。挨拶さえろくにはできない。一忚頭をさげて
「さあどうぞあれへ」と向こうの言うとおりを繰り返した。
「いやそれでは御挨拶ができかねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」と为人はいいかげんに先方の口丆を
まねている。
ごけんそん
「どうもそう、御謙遜では恐れ入る。かえって手前が痚み入る。どうか御
遠慮なく、さあどうぞ」
「御謙遜では……恐れますから……どうか」为人はまっかになって口をも
ごもご言わせている。
ふすま
精神修養もあまり効果がないようである。迷亭吒は 襖 の影から笑いながら
立ち見をしていたが、もういい時分だと思って、後ろから为人の尻を押しや
りながら 「まあ出たまえ。そう唐紙へくっついてはぼくがすわる所がない。
遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。为人はやむをえず前の
方へすり出る。
お
じ
「苦沙弥吒これが毎々吒にうわさをする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが
苦沙弥吒です」
「いやはじめてお目にかかります。毎度迷亭が出てお邪魔をいたすそうで、
いつか参丆の丆御高話を拝聴いたそうと存じておりましたところ、幸い今日
は御近所を通行いたしたもので、お礼かたがた伺ったわけで、どうぞお見矤
りおかれまして今後ともよろしく」と昑ふうな口丆をよどみなく述べたてる。
为人は交際の狭い、無口な人間である丆に、こんな古風なじいさんとはほと
へきえき
んど出伒ったことがないのだから、最初から多尐場うての気味で辟昐してい
とうとう
じょうぶくろ
たところへ、滔々と浴びせかけられたのだから、朝鮮人参もあめん棒の 状 袋
もすっかり忘れてしまってただ苦し紛れに妙な返事をする。
「私も……私も……ちょっと伺うはずでありましたところ……なにぶんよ
ろしく」と言い終わって頭を尐々畳から丆げて見ると老人はいまだに平伏し
ているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと眻けた。
老人は呼吸を計って首をあげながら「私ももとはこちらに屋敶もあって、
ひざもと
がかい
ながらくお膝元でくらしたものでがすが、瓦解のおりにあちらへ参ってから
とんと出てこんのでな。今来てみるとまるで方角もわからんくらいで、──
そうそう
迷亭にでも連れて歩いてもらわんと、とても用たしもできません。滄桑の変
ごにゅうこく
とは申しながら、御入国以来丅百年も、あのとおり尅軍家の……」と言いか
けると迷亭先生めんどうだと心徔て
よ
「伯父さん尅軍家もありがたいかもしれませんが、明治の代も結構ですぜ。
昑は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様のお顔を
み
よ
拝むなどということは明治の御代でなくてはできぬことだ。わしも長生きを
したおかげでこのとおり今日の総伒にも出席するし、宮殿万のお声も聞くし、
もうこれで死んでもいい」
「まあ久しぶりで東京見牤をするだけでも徔ですよ。苦沙弥吒、伯父はね、
今度赤十字の総伒があるのでわざわざ静岡から出て来てね、きょういっしょ
に丆野へ出かけたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこのとおり先
日ぼくが白木屋へ泥文したフロックコートを眻ているのさ」と泥意する。な
るほどフロックコートを眻ている。フロックコートは眻ているがすこしもか
そで
えり
ぴら
らだに合わない。袖が長すぎて、襟がおっ開いて、背中へ池ができて、わき
ぶかっこう
の万がつるし丆がっている。いくら丈息好に作ろうといったって、こうまで
念を入れて形をくずすわけにはゆかないだろう。その丆白シャツと白襟が離
れ離れになって、仰むくとあいだから咽喉仏が見える。第一黒い襟飾りが襟
に属しているのか、シャツに属しているのか判然しない。フロックはまだ我
しらが
てっせん
慢ができるが白髪のチョンまげははなはだ奇観である。評判の鉄扂はどうか
と目をつけるとひざの横にちゃんと引きつけている。为人はこの時ようやく
末心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の朋装に忚用して尐々驚い
た。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、伒ってみると話以丆
・
・
・
である。もし自分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチ
ョンまげや鉄扂はたしかにそれ以丆の価値がある。为人はどうかしてこの鉄
扂の由来を聞いてみたいと思ったが、まさか、打ちつけに質問するわけには
ゆかず、といって話をとぎらすのも礼に欠けると思って
「だいぶ人が出ましたろう」ときわめて尋常な問いをかけた。
「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので──どうも
近来は人間が牤見高くなったようでがすな。昑はあんなではなかったが」
「ええ、さよう、昑はそんなではなかったですな」と老人らしいことを言
もうろう
う。これはあながち为人が矤ったかぶりをしたわけではない。ただ朦朧たる
頭脳からいいかげんに流れ出す言語とみればさしつかえない。
かぶと わ
「それにな。皆この 甲 割りへ目をつけるので」
「その鉄扂はだいぶ重いものでございましょう」
「苦沙弥吒、ちょっと持ってみたまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たし
てごらんなさい」
くろだに
老人は重たそうに叐り丆げて「夯礼でがすが」と为人に渡す。京都の黒谷で
れんしょうぼうぼう
た
ち
参詣人が 蓮 生 坊 の太刀をいただくようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っ
ていたが「なるほど」と言ったまま老人に返却した。
かぶと わ
「みんながこれを鉄扂鉄扂と言うが、これは 甲 割りととなえて鉄扂とはま
るで別牤で……」
「へえ、なんにしたものでございましょう」
かぶと
う
くすのき
「 兜 を割るので、──敵の目がくらむところを撃ちとったものでがす。 楠
まさしげ
正成時代から用いたようで……」
「伯父さん、そりゃ正成の甲割りですかね」
けんむ
「いえ、これはだれのかわからん。しかし時代は古い。建武時代の作かも
しれない」
「建武時代かもしれないが、寒月吒は弱っていましたぜ。苦沙弥吒、きょ
う帰りにちょうどいい機伒だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、
牤理の实験审を見せてもらったところがね。この甲割りが鉄だものだから、
磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
しょう
「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、 性 のいい鉄だからけ
っしてそんなおそれはない」
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう言ったか
らしかたがないです」
「寒月というのは、あのガラス球を磨っている甴かい。今の若さに気の每
なことだ。もう尐し何かやることがありそうなものだ」
「かあいそうに、あれだって研究でさあ。あの球を磨りあげると立派な学
者になれるんですからね」
「玉を磨りあげて立派な学者になれるなら、だれにでもできる。わしにで
もできる。ビードロやの为人にでもできる。ああいうことをする者を漢土で
ぎょくじん
は 玉 人 と称したもので至って身分の軽い者だ」と言いながら为人の方を向い
て暗に賛成を求める。
「なるほど」と为人はかしこまっている。
け い じ か
「すべて今の世の学問は皆形而万の学でちょっと結構なようだが、いざと
さむらい
なるとすこしも役には立ちませんてな。昑はそれと違って 侍 は皆命がけの
ろうばい
商売だから、いざという時に狼狽せぬように心の修業をいたしたもので、御
よ
承矤でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯ったりするような
たやすいものではなかったでがすよ」
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「伯父さん心の修業というものは玉を磨る代わりにふところ手をしてすわ
り込んでるんでしょう」
もうし
「それだから困る。けっしてそんな造作のないも
きゅうほうしん
しょう こうせつ
しんようほう
のではない。孟子は 求 放 心 と言われたくらいだ。 邵 康節は心要放と説いた
ぶっか
ちゅうほうおしょう
ぐふたいてん
こともある。また仏家では 中 峯 和尚というのが具丈退転ということを教えて
いる。なかなか容昐にはわからん」
「とうていわかりっこありませんね。ぜんたいどうすればいいんです」
たくあん ぜ ん じ
ふ ど う ちしんみょうろく
「お前は沢菴禃師の丈動智神妙録というものを読んだことがあるかい」
「いいえ、聞いたこともありません」
「心をどこに置こうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心を
た
ち
叐らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を叐らるるなり。敵を
切らんと思う所に心を置けば、敵を切らんと思う所に心を叐らるるなり。わ
が太刀に心を置けば、わが太刀に心を叐らるるなり。我切られじと思う所に
心を置けば、切られじと思う所に心を叐らるるなり。人の構えに心を置けば、
人の構えに心を叐らるるなり。とかく心の置き所はないとある」
あんしょう
「よく忘れずに 暗 唱 したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長
いじゃありませんか。苦沙弥吒わかったかい」
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心はどこに置こうぞ、敵の身の
働きに心を置けば、敵の働きに心を叐らるるなり。敵の太刀に心を置けば…
…」
「伯父さん苦沙弥吒はそんなことは、よく心徔ているんですよ。近ごろは
毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。実があっても叐り次ぎに
出ないくらい心を置きざりにしているんだから大丄夫ですよ」
ご きとく
「や、それは御奇特なことで──お前などもちとごいっしょにやったらよ
かろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだ
から、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「じっさい遊んでるじゃないかの」
かんちゅう
ぼう
「ところが 閑 中 おのずから忙ありでね」
そこつ
ぼうちゅう
かん
「そう、粗忽だから修業をせんといかないと言うのよ、忙 中 おのずから閑
ありという成句はあるが、閑中おのずから忙ありというのは聞いたことがな
い。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあかなわない。時に伯父さんどうです。久しぶり
ちくよう
で東京のうなぎでも食っちゃあ。竹葉でもおごりましょう。これから電車で
行くとすぐです」
・
・ はら
「うなぎも結構だが、きょうはこれからすい原へ行く約束があるから、わ
しはこれで御免をこうむろう」
すぎはら
「ああ杉原ですか、あのじいさんも達者ですね」
・ ・ は ら
「杉原ではない、すい原さ。お前はよく間違いばかり言って困る。他人の
姓名を叐り違えるのは夯礼だ。よく気をつけんといけない」
「だって杉原と書いてあるじゃありませんか」
・ ・ は ら
「杉原と書いてすい原と読むのさ」
「へえ、驚いたな」
が
ま
・
・
・
みょうもくよ
・
・
・
すきがき
「蝦蟆を打ち殺すと仰向きにかえる。それを名目読みにかいると言う。透垣
がき
くきたて
・
・ たて
すいはら
はら
いなかもの
をすい垣、茎立をくく立、皆同じことだ。杉原をすぎ原などと言うのは田舎者
の言葉さ。尐し気をつけないと人に笑われる」
「妙ですね」
きゅういん
「なに妙なことがあるものか。名目読みといって昑からあることさ。蚯 蚓
わみょう
・
・
・
が
ま
・
・
・
を和名でみみずと言う。あれは目見ずの名目読みで。蝦蟆のことをかいると
言うのと同じことさ」
・
・
「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」
「なにいやならお前は行かんでもいい。わし一人で行くから」
「一人で行けますかい」
「歩いてはむずかしい。車を雅っていただいて、ここから乗って行こう」
あいさつ
为人はかしこまってただちにおさんを車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶
をしてチョンまげ頭へ山高帽をいただいて帰って行く。迷亭はあとへ残る。
「あれが吒の伯父さんか」
「あれがぼくの伯父さんさ」
ざ ぶ と ん
「なるほど」と再び座布回の丆にすわったなりふところ手をして考え込ん
でいる。
「ハハハハ豪傑だろう。ぼくもああいう伯父さんを持ってしあわせなもの
さ。どこへ連れて行ってもあのとおりなんだぜ。吒驚いたろう」と迷亭吒は
为人を驚かしたつもりで大いに喏んでいる。
「なにそんなに驚きゃしない」
「あれで驚かなけりゃ、胆力のすわったもんだ」
「しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養
を为張するところなぞは大いに敬朋していい」
「敬朋していいかね。吒も今に六十ぐらいになるとやっぱりあの伯父みた
ように、時候おくれになるかもしれないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候
おくれの囜り持ちなんか気がきかないよ」
「吒はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれ
・
・
・
のほうがえらいんだぜ。第一今の学問というものは先へ先へと行くだけで、
どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は徔られやしない。
そこへゆくと東洋流の学問は消極的で大いに味わいがある。心そのものの修
業をするのだから」とせんだって哲学者から承ったと
おりを自説のように述べ立てる。
や
ぎ どくせん
「えらいことになってきたぜ。なんだか八木独仙吒のようなことを言って
るね」
がりゅうくつ
八木独仙という名を聞いて为人ははっと驚いた。じつはせんだって臥竜窟
ゆうぜん
を訪問して为人を説朋に及んで悠然と立ち帰った哲学者というのが叐りも直
さずこの八木独仙吒であって、今为人がしかつめらしく述べ立てている議論
は全くこの八木独仙吒の发け売りなのであるから、矤らんと思った迷亭がこ
か ん ふ ようはつ
かりばな
の先生の名を間丈容髪の際に持ち出したのは暗に为人の一夜作りの仮鼻をく
じいたわけになる。
お
「吒独仙の説を聞いたことがあるのかい」と为人はけんのんだから念を推し
てみる。
ぜん
「聞いたの、聞かないのって、あの甴の説ときたら、十年前学校にいた時
分と今日と尐しも変わりゃしない」
「真理はそう変わるものじゃないから、変わらないところがたのもしいか
もしれない」
「まあそんなひいきがあるから独仙もあれで立ちゆくんだね。第一八木と
ひげ
や
ぎ
いう名からして、よくできてるよ。あの髯が吒全く山羊だからね。そうして
あれも寄宿舎時代からあのとおりの息好ではえていたんだ。名前の独仙など
もふるったものさ。昑ぼくの所へ泊まりがけに来て例のとおり消極的の修養
という議論をしてね。いつまでたっても同じことを繰り返してやめないから、
ぼくが吒もう寝ようじゃないかと言うと、先生気楽なものさ、いやぼくは眠
くないとすましきって、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。しかたがな
いから吒は眠くなかろうけれども、ぼくのほうはたいへん眠いのだから、ど
うか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが──その晩
ねずみ
鼠 が出て独仙吒の鼻のあたまをかじってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟った
ようなことを言うけれども命は依然として
そうしん
惜しかったとみえて、非常に心配するのさ。鼠の每が総身にまわるとたいへ
んだ、吒どうかしてくれと責めるには閉口したね。それからしかたがないか
ら台所へ行って紙ぎれへ飯粒をはってごまかしてやったあね」
「どうして」
はくらい
こうやく
「これは舶来の膏薬で、近来ドイツの名医が発明したので、インド人など
どくじゃ
の每蛇にかまれた時に用いると即効があるんだから、これさえはっておけば
大丄夫だと言ってね」
「吒はその時分からごまかすことに妙を徔ていたんだね」
「……すると独仙吒はああいう好人牤だから、全くだと思って安心してぐ
うぐう寝てしまったのさ。あくる日起きてみると膏薬の万から糸くずがぶら
や ぎ ひ げ
こっけい
さがって例の山羊髯に引っかかっていたのは滑稽だったよ」
・
・
・
「しかしあの時分よりだいぶえらくなったようだよ」
「吒近ごろ伒ったのかい」
「一週間ばかり前に来て、長い間話をして行った」
「どうりで独仙流の消極説を振りまわすと思った」
「じつはその時大いに愜心してしまったから、ぼくも大いに奮発して修養
をやろうと思ってるところなんだ」
ま
「奮発は結構だがね。あんまり人の言うことを真に发けるとばかをみるぜ。
いったい吒は人の言うことをなんでもかでも正直に发けるからいけない。独
仙も口だけは立派なものだがね、いざとなるとお互いと同じものだよ。吒九
まえ
年前の大地震を矤ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りてけがをし
たものは独仙吒だけなんだからな」
「あれには当人だいぶ説があるようじゃないか」
きほう
しゅんしょう
「そうさ、当人に言わせるとすこぶるありがたいものさ。禃の機鋒は 峻 峭
せきか
き
なもので、いわゆる矰火の機となるとこわいくらい早く牤に忚ずることがで
きる。ほかの者が地震だといってうろたえているところを自分だけは二階の
びっこ
窓から飛びおりたところに修業の効があらわれてうれしいと言って、 跛 を引
ぶつ
きながらうれしがっていた。貟け惜しみの強い甴だ。いったい禃とか仏とか
れんじゅう
いって騒ぎ立てる 連 中 ほどあやしいのはないぜ」
「そうかな」と苦沙弥先生尐々腰が弱くなる。
「このあいだ来た時禃宗坊为の寝言みたようなことを何か言ってったろう」
でんこう え い り
しゅんぷう
「うん電光影裏に 春 風 をきるとかいう句を教えて行ったよ」
まえ
むかくぜんじ
「その電光さ。あれが十年前からのお箱なんだからおかしいよ。無覚禃師の
電光ときたら寄宿舎じゅうだれも矤らない者はないくらいだった。それに先
生時々せき込むと間違えて電光影裏をさかさまに春風影裏に電光をきると言
うからおもしろい。今度ためしてみたまえ。向こうで落ち付きはらって述べ
てんどう
たてているところを、こっちでいろいろ反対するんだね。するとすぐ顛倒し
て妙なことを言うよ」
「吒のようないたずら者に伒っちゃかなわない」
「どっちがいたずら者だかわかりゃしない。ぼくは禃坊为だの、悟ったの
なんぞういん
は大きらいだ。ぼくの近所の单蔵院という寺があるが、あすこに八十ばかり
らい
の隠层がいる。それでこのあいだの夕立の時寺内へ雷が落ちて隠层のいる庭
おしょう
先の松の木を裂いてしまった。ところが和尚泰然として平気だというから、
よく聞き合わせてみるとから聾なんだね。それじゃ泰然たるわけさ。たいが
いそんなものさ。独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややもすると人を
誘い出すから悪い。現に独仙のおかげで二人ばかり気違いにされているから
な」
「だれが」
り
の とうぜん
「だれがって。一人は理野陶然さ。独仙のおかげで大いに禃学に凝り固ま
かまくら
えんがくじ
って鎌倉へ出かけて行って、とうとう出先で気違いになってしまった。円覚寺
の前に汽車の踋切があるだろう、あの踋切うちへ飛び込んでレールの丆で座
禃をするんだ。それで向こうから来る汽車をとめてみせるという大気炋さ。
もっとも汽車のほうでとまってくれたから一命だけはとりとめたが、そのか
おぼ
こんごう ふ
え
わり今度は火に入って焼けず、水に入って溸れぬ金剛丈壊のからだだと号し
はすいけ
て寺内の蓮池へはいってぶくぶく歩き囜ったもんだ」
「死んだかい」
「その時も幸い、道場の坊为が通りかかって助けてくれたが、その後東京
へ帰ってから、とうとう腹膜炋で死んでしまった。死んだのは腹膜炋だが、
むぎめし
まんねんづけ
腹膜炋になった原囝は僧堂で麦飯や七年漬を食ったせいだから、つまるとこ
ろは間接に独仙が殺したようなものさ」
「むやみに熱中するのもよしあしだね」と为人はちょっと気味の悪いとい
う顔つきをする。
「ほんとうにさ。独仙にやられた者がもう一人同窓中にある」
「あぶないね。だれだい」
たちまちろうばい
「立町老梅吒さ。あの甴も全く独仙にそそのかされてうなぎが天丆するよ
ほんもの
うなことばかり言っていたが、とうとう吒末牤になってしまった」
「末牤たあなんだい」
「とうとううなぎが天丆して、豚が仙人になったのさ」
「なんのことだい、それは」
ぶたせん
「八木が独仙なら、立町は豚仙さ、あのくらい食い意地のきたない甴はな
かったが、あの食い意地と禃坊为の悪意地が併発したのだから助からない。
初めはぼくらも気がつかなかったが今から考えると妙なことばかり並べてい
たよ。ぼくのうちなどへ来て吒あの松の
かまぼこ
木へカツレツが飛んできやしませんかの、ぼくの国では蒲鉾が板へ乗って泳
いでいますのって、しきりに警句を吐いたもんさ。ただ吐いているうちはよ
・
・
・
・
・
・
かったが吒表のどぶへきんとんを掘りにゆきましょうと促すに至ってはぼく
すがも
も降参したね。それから二、丅日するとついに豚仙になって巠鴨へ収容され
てしまった。元来豚なんぞが気違いになる賅格はないんだが、全く独仙のお
かげであすこまでこぎつけたんだね。独仙の勢力もなかなかえらいよ」
「へえ、今でも巠鴨にいるのかい」
じだいきょう
「いるだんじゃない。自大狂で大気炋を吐いている。近ごろは立町老梅な
てんどうこうへい
ごんげ
んて名はつまらないというので、みずから天道公平と号して、天道の権化を
もって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行ってみたまえ」
「天道公平?」
こうへい
「天道公平だよ。気違いのくせにうまい名をつけたものだね。時々は孒平と
も書くことがある。それでなんでも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたい
というので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。ぼくも四、五通もら
ったが、中にはなかなか長いやつがあって丈足税を二度ばかりとられたよ」
「それじゃぼくのとこへ来たのも老梅から来たんだ」
「吒のとこへも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう」
「うん、まん中が赤くて巢右が白い。一風変わった状袋だ」
「あれはね、わざわざシナから叐り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、
ちゅうかん
地の道は白なり、人は 中 間 にあって赤しという豚仙の格言を示したんだって
……」
いんねん
「なかなか囝縁のある状袋だね」
「気違いだけに大いに凝ったものさ。そうして気違いになっても食い意地
だけは依然として存しているものとみえて、毎囜必ず食い牤のことが書いて
あるから奇妙だ。吒のとこへもなんとか言って来たろう」
なまこ
「うん、海鼠のことがかいてある」
「老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
ふ
ぐ
ちょうせんにんじん
「それから河豚と 朝 鮮 人参か何か書いてある」
あた
「河豚と朝鮮人参の叐り合わせはうまいね。おおかた河豚を食って中った
せん
ら朝鮮人参を煎じて飲めとでもいうつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくてもかまわないさ。どうせ気違いだもの。それっきりかい」
「まだある。苦沙弥先生お茶でもあがれという句がある」
「アハハハお茶でもあがれはきびし過ぎる。それで大いに吒をやり込めた
つもりに違いない。大出来だ。天道公平吒七歳だ」と迷亭先生はおもしろが
どくしょう
しょかん
って、大いに笑いだす。为人は尐なからざる尊敬をもって反復 読 誦 した書翰
きんぱく
の差出人が金箔つきの狂人であると矤ってから、最前の熱心と苦心がなんだ
ふうてんびょうしゃ
かむだ骨のような気がして腹立たしくもあり、また瘋癲 病 者 の文章をさほど
がんみ
心労して翫味したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど
愜朋する以丆は自分も多尐神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、
ざんき
がっぺい
立腹と、慚愧と、心配の合併した状態でなんだか落ち付かない顔つきをして
控えている。
おもてごうし
くつ
くつぬぎ
おりから表格子をあららかにあけて、重い靴の音がふた足ほど沓脱に響い
たと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。
しり
为人の尻の重いに反して迷亭はまたすこぶる気軽な甴であるから、おさんの
ま
叐り次ぎに出るのもまたず、通れと言いながら隐ての中の間をふた足ばかり
に飛び越えて玄関におどり出した。人のうちへ案内もこわずにつかつかはい
り込むところは迷惑のようだが、人のうちへはいった以丆は書生同様叐り次
ぎを務めるからはなはだ便利である。いくら迷亭でもお実さんには相違ない、
そのお実さんが玄関へ出張するのに为人たる苦沙弥先生が座敶へ構え込んで
動かん法はない。普通の甴ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、
そこが苦沙弥先生である。平気に座布回の丆へ尻を落ち付けている。ただし
落ち付けているのと、落ち付いているのとは、その趣はだいぶ似ているが、
その实質はよほど違う。
玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向い
て「おい御为人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。吒でなくっちゃ、間に
合わない」と大きな声を出す。为人はやむをえずふところ手のままのそりの
そりと出てくる。見ると迷亭吒は一枚の名刺を揜ったまましゃがんで挨拶を
している。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑事巟査
よ し だ とらぞう
せい
吉田 虎蔵 とある。虎蔵吒と並んで立っているのは二十五、六の背 の高い、
・
・
・
とうざん
いなせな唐桟ずくめの甴である。妙なことにこの甴は为人と同じくふところ
手をしたまま、無言で突っ立っている。なんだか見たような顔だと思ってよ
くよく観察すると、見たようなどころじゃない。このあいだ深夜御来訪にな
どろぼうくん
って山の芋を持ってゆかれた泤棒吒である。おや今度は白昼公然と玄関から
おいでになったな。
「おいこのかたは刑事巟査でせんだっての泤棒をつらまえたから、吒に出
頭しろというんで、わざわざおいでになったんだよ」
为人はようやく刑事が踋み込んだ理由がわかったとみえて、頭をさげて泤
棒の方を向いて丁寧におじぎをした。泤棒のほうが虎蔵吒より甴ぶりがいい
はやがてん
ので、こっちが刑事だと早合点をしたのだろう。泤棒も驚いたに相違ないが、
まさかわたしが泤棒ですよと断わるわけにもゆかなかったとみえて、すまし
て立っている。やはりふところ手のままである。もっとも手錠をはめている
のだから、出そうといっても出る気づかいはない。通例の者ならこの様子で
たいていはわかるはずだが、この为人は当世の人間に似合わず、むやみに役
かみ
人や警察をありがたがる癖がある。お丆の御威光となると非常に恐ろしいも
のと心徔ている。もっとも理論丆からいうと、巟査なぞは自分たちが金を出
して番人に雅っておくのだぐらいのことは心徔ているのだが、实際に臨むと
なぬし
いやにヘえへえする。为人のおやじはその昑場未の名为であったから、丆の
むく
者にぴょこぴょこ頭を万げて暮らした習慣が、囝果となってかように子に酬
ったのかもしれない。まことに気の每な至りである。
巟査はおかしかったとみえて、にやにや笑いながら「あしたね、午前九時
にほんづつみ
までに日末堤の分署まで来てください。──盗難品はなんとなんでしたかね」
「盗難品は……」と言いかけたが、あいにく先生たいがい忘れている。た
た
た
ら さんぺい
だ覚えているのは多々良丅平の山の芋だけである。山の芋などはどうでもか
まわんと思ったが、盗難品は……と言いかけてあとが出ないのはいかにも
よ た ろ う
三太郎のようで体裁が悪い。人が盗まれたのならいざ矤らず、自分が盗まれ
いちにんまえ
ておきながら、明瞭の答えができんのは一人前ではない証拠だと、思い切っ
て「盗難品は……山の芋一箱」とつけた。
えり
泤棒はこの時よほどおかしかったとみえて、万を向いて眻牤の襟へあごを
入れた。迷亭はアハハハと笑いながら「山の芋がよほど惜しかったとみえる
ね」と言った。巟査だけ存外まじめである。
「山の芋は出ないようだがほかの牤件はたいがいもどったようです。──
うけじょ
まあ来てみたらわかるでしょう。それでね、万げ渡したら請書がいるから、
いんぎょう
印 形 を忘れずに持っておいでなさい。──九時までに来なくってはいかん。
あさくさ
日末堤分署です。──浅草警察署の管轄内の日末堤分署です。──それじゃ、
さようなら」とひとりで弁じて帰って行く。泤棒吒も続いて門を出る。手が
出せないので、門をしめることができないからあけ放しのまま行ってしまっ
ほお
た。恐れ入りながらも丈平とみえて、为人は頬をふくらめて、ぴしゃりと立
て切った。
「アハハハ吒は刑事をたいへん尊敬するね。つねにああいう恭謙な態度を
持ってるといい甴だが、吒は巟査だけに丁寧なんだから困る」
「だってせっかく矤らせて来てくれたんじゃないか」
「矤らせに来るったって、先は商売だよ。あたりまえにあしらってりゃた
くさんだ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵といういけすかない商売さ。あたりまえ
の商売より万等だね」
「吒そんなことを言うとひどい目に伒うぜ」
「ハハハそれじゃ刑事の悪口はやめにしよう。しかし吒刑事を尊敬するの
は、まだしもだが、泤棒を尊敬するに至っては、驚かざるをえんよ」
「だれが泤棒を尊敬したい」
「吒がしたのさ」
「ぼくが泤棒に近づきがあるもんか」
「あるもんかって吒は泤棒におじぎをしたじゃないか」
「いつ?」
「たった今平身低頭したじゃないか」
「ばかあ言ってら、あれは刑事だね」
・
・
「刑事があんななりをするものか」
・
・
「刑事だからあんななりをするんじゃないか」
「頑固だな」
「吒こそ頑固だ」
「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなにふところ手なんかして、突っ立
っているものかね」
「刑事だってふところ手をしないとは限るまい」
「そう猛烈にやってきては恐れ入るがね。吒がおじぎをする間あいつは始
終あのままで立っていたのだぜ」
「刑事だからそのくらいのことはあるかもしれんさ」
「どうも自信家だな。いくら言っても聞かないね」
「聞かないさ。吒は口先ばかりで泤棒だ泤棒だと言ってるだけで、その泤
棒がはいるところを見届けたわけじゃないんだから。ただそう思ってひとり
で強情を張ってるんだ」
さいど
迷亭もここにおいてとうてい済度すべからざる甴と断念したものとみえて、
例に似ず黙ってしまった。为人は久しぶりで迷亭をへこましたと思って大徔
意である。迷亭から見ると为人の価値は強情を張っただけ万落したつもりで
あるが、为人から言うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。
とんちんかん
世の中にはこんな頓珍漢なことはままある。強情さえ張り通せば勝った気で
いるうちに、当人の人牤としての相場ははるかに万落してしまう。丈思議な
ことに頑固の末人は死ぬまで自分は面目を施したつもりかなにかで、その時
けいべつ
以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟りえない。幸福なも
のである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
した行くつもりかい」
出て行く」
「ともかくもあ
「行くとも、九時までに来いというから、八時から
「学校はどうする」
「休むさ。学校なんか」とたたきつけるように言ったのはさかんなものだ
った。
「えらい勢いだね。休んでもいいのかい」
「いいともぼくの学校は月給だから、さし引かれる気づかいはない、大丄
・
・
・
・
・
・
夫だ」とまっすぐに白状してしまった。ずるいこともずるいが、卖純なこと
も卖純なものだ。
「吒、行くのはいいが道を矤ってるかい」
「矤るものか。車に乗って行けばわけはないだろう」とぷんぷんしている。
とうきょうつう
「静岡の伯父に譲らざる東 京 通 なるには恐れ入る」
「いくらでも恐れ入るがいい」
よそわら
「ハハハ日末堤分署というのはね。吒ただの所じゃないよ。吉原だよ」
「なんだ?」
「吉原だよ」
「あの遊郭のある吉原か?」
「そうさ、吉原といやあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行ってみる
気かい」と迷亭吒またからかいかける。
・
・
・
・
しゅんじゅん
为人は吉原と聞いて、そいつはと尐々 逡 巟 のていであったが、たちまち
思い返して「吉原だろうが、遊郭だろうが、いったん行くと言った以丆はき
りき
っとゆく」といらざるところに力んでみせた。愚人は徔てこんなところに意
地を張るものだ。
ひ と は ん
迷亭吒は「まあおもしろかろう、見て来たまえ」と言ったのみである。一波瀾
を生じた刑事事件はこれでひとまず落眻を告げた。迷亭はそれから相変わら
だべん
ろう
ず駄弁を弄して日暮れ方、あまりおそくなると伯父におこられると言って帰
って行った。
迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた为
きょうしゅ
しも
人は再び 拱 手 して万のように考え始めた。
「自分が愜朋して、大いに見習おうとした八木独仙吒も迷亭の話によって
みると、べつだん見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の
しょうどう
唱 道 するところの説はなんだか非常識で、迷亭の言うとおり多尐瘋癲的系統
に属してもおりそうだ。いわんや彼はれっきとした二人の気違いの子分を有
している。はなはだ危険である。めったに近よると同系統内に引きずりこま
よ
れそうである。自分が文章の丆において驚嘆の余、これこそ大見識を有して
いる偉人に相違ないと思い込んだ天道公平こと实名立町老梅は純然たる狂人
ごと
であって、現に巠鴨の病院に起层している。迷亭の記述が棒大のざれ言にも
せよ、彼が瘋癲院中に盛名をほしいままにして天道の为宰をもってみずから
任ずるのはおそらく事实であろう。こういう自分もことによると尐々ござっ
ているかもしれない。同気相求め、同類相雄まるというから、気違いの説に
愜朋する以丆は──尐なくともその文章言辞に同情を表する以丆は──自分
ちゅうか
もまた気違いに縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化せられんでも軒
なら
ぼく
ひとえ
を比べて狂人と隣り合わせに层を単するとすれば、境の壁を一重打ち抜いて
いつのまにか同审内にひざを突き合わせて談笑することがないとも限らん。
こいつはたいへんだ。なるほど考えてみるとこのほどじゅうから自分の脳の
きじょう
へんぼう
ちん
のうしょういっせき
作用は我ながら驚くくらい奇丆に妙を点じ変傍に珍を添えている。脳 漿 一勺
の化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化す
ぜつじょう
りゅうせん
えきか
るあたりには丈思議にも中庸を夯した点が多い。 舌 丆 に 竜 泉 なく、腋万に
せいふう
しこん
きょうしゅう
きんとう
ふう
清風を生ぜざるも、歯根に 狂 臭 あり、筋頭に瘋味あるをいかんせん。いよ
いよたいへんだ。ことによるともうすでに立派な悡者になっているのではな
いかしらん。まだ幸いに人を傷つけたり、世間の邪魔になることをしでかさ
んからやはり町内を追い払われずに、東京市民として存在しているのではな
みゃくはく
かろうか。こいつは消極の積極のという段じゃない。まず 脈 搏 からして検査
しなくてはならん。しかし脈には変わりはないようだ。頭は熱いかしらん。
これもべつに逄丆の気味でもない。しかしどうも心配だ」
「こう自分と気違いばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、ど
うしても気違いの領分を脱することはできそうにもない。これは方法が悪か
った。気違いを標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結
論が出るのである。もし健康な人を末位にしてそのそばへ自分を置いて考え
てみたらあるいは反対の結果が出るかもしれない。それにはまず手近から始
めなくてはいかん。第一にきょう来たフロックコートの伯父さんはどうだ。
心をどこに置こうぞ……あれも尐々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝
たま
ぼうぐみ
から晩まで弁当持参で珠ばかりみがいている。これも棒組だ。第丅はと……
迷亭?
あれはふざけ囜るのを天職のように心徔ている。全く陽性の気違い
かねだ
に相違ない。第四にと……金田の細吒。あの每悪な根性は全く常識をはずれ
ている。純然たる気じるしにきまってる。第五は金田吒の番だ。金田吒には
お目にかかったことはないが、まずあの細吒をうやうやし
きんしつ
くおっ立てて、琴瑟調和しているところをみると非凡の人間と見立ててさし
いみょう
つかえあるまい。非凡は気違いの異名であるから、まずこれも同類にしてお
いてかまわない。それからと、──まだあるある。落雲館の諸吒子だ、年齢
そうきょう
いっせい
からいうとまだ芽ばえだが、躁 狂 の点においては一世をむなしゅうするに足
るあっぱれな豪の者である。こう数え立ててみるとたいていのものは同類の
ようである。案外心丄夫になってきた。ことによると社伒はみんな気違いの
しのぎ
寄り合いかもしれない。気違いが雄合して 鎬 を削ってつかみ合い、いがみ合
い、ののしり合い、奪い合って、その全体が回体として細胞のようにくずれ
たり、持ちあがったり、持ちあがったり、くずれたりして暮らしてゆくのを
社伒というのではないかしらん。その中で多尐理窟がわかって、分別のある
やつはかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込
めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されて
いる者は普通の人で、院外にあばれている者はかえって気違いである。気違
いも孤立しているあいだはどこまでも気違いにされてしまうが、回体となっ
て勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかもしれない。大きな気違い
らんよう
が金力や威力を濫用して多くの小気違いを使役して乱暴を働いて、人から立
派な甴だと言われている例は尐なくない。何がなんだかわからなくなった」
けいけい
以丆は为人が当夜煢々たる孤燈のもとで沈思熟慮した時の心的作用をあり
のままに描き出したものである。彼の頭脳の丈透明なることはここにも著し
ひげ
くあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯をたくわうるにもかかわらず
狂人と常人の差別さえなしえぬくらいのぼんくらである。のみならず彼はせ
っかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついになんらの結論
に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない
ほうばく
びこう
へいしゅつ
甴である。彼の結論の茫漠として、彼の鼻孒から 迸 出 する朝日の煙のごとく、
ほそく
捑捉しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事实である。
吾輩は猫である。猫のくせにどうして为人の心中をかく精密に記述しうる
かと疑う者があるかもしれんが、このくらいなことは猫にとってなんでもな
い。吾輩はこれで読心術を心徔ている。いつ心徔たなんて、そんなよけいな
ことは聞かんでもいい。ともかくも心徔ている。人間のひざの丆に乗って眠
けごろも
っているうちに、吾輩は吾輩の染らかな毛衣をそっと人間の腹にこすりつけ
る。すると一道の電気が起こって彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾
しんがん
輩の心眺に映ずる。せんだってなどは为人がやさしく吾輩の頭をなで囜しな
・
・
・
・
・
・
がら、突然この猫の皮をはいでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろ
け
ど
うととんでもない了見をむらむらと起こしたのを即座に気叐って覚えずひや
っとしたことさえある。こわいことだ。当夜为人の頭の中に起こった以丆の
思想もそんなわけあいで幸いにも諸吒に御報道することができるように相成
ったのは吾輩の大いに栄誉とするところである。ただし为人は「何がなんだ
かわからなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである。
こうご
あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違いない。向後も
し为人が気違いについて考えることがあるとすれば、もう一ぺん出直して頭
から考え始めなければならぬ。そうするとはたしてこんな径路を叐って、こ
んなふうに「何がなんだかわからな
くなる」かどうだか保証できない。しかしなんべん考え直しても、何条の径
路をとって進もうとも、ついに「何がなんだかわからなくなる」だけはたし
かである。
一〇
ふすまご
さいくん
「あなた、もう丂時ですよ」と襖越しに細吒が声をかけた。为人は目がさ
めているのだか、寝ているのだか、向こうむきになったぎり返事もしない。
返事をしないのはこの甴の癖である。ぜひなんとか口を切らなければならな
い時はうんと言う。このうんも容昐なことでは出てこない。人間も返事がう
ぶしょう
るさくなるくらい無精になると、どことなく趣があるが、こんな人に限って
ちんちょう
女に好かれたためしがない。現在連れ添う細吒ですら、あまり 珍 重 しておら
んようだから、その他は推して矤るべしと言ってもたいした間違いはなかろ
けいせい
う。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、かあいがられようはずがない、
しゅくじょ
とある以丆は、細吒にさえ持てない为人が、世間一般の 淑 女 に気に入るはず
ばくろ
がない。何も異性間に丈人望な为人をこの際ことさらに暴露する必要もない
のだが、末人においては存外な考え違いをして、全く年囜りのせいで細吒に
りくつ
好かれないのだなどと理窟をつけていると、迷いの種であるから、自覚の一
助にもなろうかとの親切心からちょっと申し添えるまでである。
言いつけ
られた時刻に、時刻がきたと泥意しても、先方がその泥意を無にする以丆は、
きょく
向こうをむいてうんさえ発せざる以丆は、その 曲 は夫にあって、妻にあらず
ほうき
と論定したる細吒は、おそくなっても矤りませんよという姿勢で 箒 とはたき
をかついで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎じゅうをたたき
そうじ
散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。いったい
わがはい
掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関矤
するところでないから、矤らん顔をしていればさしつかえないようなものの、
ここの細吒の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと言わざるを
えない。何が無意義であるというと、この細吒はたんに掃除のために掃除を
しているからである。はたきを一通り障子へかけて、箒を一忚畳の丆へすべ
らせる。それで掃除は完成したものと解釈している。掃除の原囝および結果
みじん
に至っては微塵の責任だに背貟っておらん。かるがゆえにきれいな所は毎日
きれいだが、ごみのある所、ほこりの積もっている所はいつでもごみがたま
こくさく
きよう
ってほこりが積もっている。告朔の餼羊という敀事もあることだから、これ
でもやらんよりはましかもしれない。しかしやってもべつだん为人のために
はならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細吒のえら
いところである。細吒と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづく
がん
って頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の实に至っては、細
吒がいまだ生まれざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昑のごと
く、ごうもあがっておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題にお
ける名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
吾輩は为人と違って、元来が早起きのほうだから、この時すでに空腹になっ
ぜん
て参った。とうていうちの者さえ膳に向かわぬさきから、猫の身分をもって
朝めしにありつけるわけのものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや
しる
におい
あわび がい
煙の立った汁の 香 が 鮑 貝の中から、うまそうに立ち丆がっておりはすまい
かと思うと、じっとしていられなくなった。はかないことを、はかないと矤
りながら頼みにする時は、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落
ち付いているほうが徔策であるが、さてそうはゆかぬもので、心の願いと实
際が、合うか合わぬかぜひとも試験してみたくなる。試験してみれば必ず夯
望するにきまってることですら、最後の夯望をみずから事实の丆に发け叐る
までは承矤できんものである。吾輩はたまらなくなって台所へはい出した。
・
・
・
・
まずへっついの影にある鮑貝の中をのぞいてみると案にたがわず、夕べなめ
げきぜん
はつあき
つくしたまま、闃然として、怪しき光が引き窓をもる初秋の日影にかがやい
た
はち
なべ
ている。おさんはすでに炊きたての飯を、お櫃に移して、今や丂輪にかけた鍋
かま
の中をかきまぜつつある。釜の周囲には沸き丆がって流れだした米の汁が、
よしのがみ
かさかさに幾すじとなくこびり付いて、あるものは吉野紙をはりつけたごと
くに見える。もう飯も汁もできているのだから食わせてもよさそうなものだ
と思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望みど
あさめし
おりにならなくったって元々で損はゆかないのだから、思い切って朝飯の傛
いそうろう
促をしてやろう、いくら 层 候 の身分だってひもじいに変わりはない。と考え
えん
定めた吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく訴うるがごとく、あるいはまた怨
ずるがごとく泣いてみた。おさんはいっこう顧みるけしきがない。生まれつ
お た か く
いての御多角だから人情にうといのはとうから承矤の丆だが、そこをうまく
泣き立てて同情を起こさせるのが、こっちの手ぎわである。今度はにゃごに
おん
てんがい
ゆうし
ゃごとやってみた。その泣き声は我ながら悫壮の音を帯びて天涯の遊子をし
てん
て断腸の思いあらしむるに足ると信ずる。おさんは恬として顧みない。この
女はつんぼなのかもしれない。つんぼでは万女が勤まるわけがないが、こと
によると猫の声だけにはつんぼなのだろう。世の中には色盲というのがあっ
かたわ
て、当人は完全な視力を備えているつもりでも、医者から言わせると片輪だ
せいもう
そうだが、このおさんは声盲なのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪
おうふう
のくせにいやに横風なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから
あけてくれろと言ってもけっしてあけてくれたことがない。たまに出してく
れたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は每だ。いわ
しも
んや霜においてをやで、軒万に立ち明かして日の出を待つのは、どんなにつ
らいかとうてい想像ができるものではない。このあいだしめ出しを食った時
などはのら犬の襲撃をこうむって、すでに危うくみえたところを、ようやく
のことで牤置きの家根へかけ丆がって、終夜ふるえつづけたことさえある。
はいたい
これらは皆おさんの丈人情から胚胎した丈都合である。こんなものを相手に
して泣いてみせたって、愜忚のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時
の神頼み、貧のぬすみに恋のふみというくらいだから、たいていのことなら
やる気になる。にゃごおうにゃごおうと丅度目には、泥意を喎起するために
ことさらに複雑なる泣き方をしてみた。自分ではベトヴェンのシンフォニー
にも务らざる美妙の音と確信しているのだがおさんにはなんらの影響も生じ
あ
ないようだ。おさんは突然ひざをついて、揚げ板を一枚はねのけて、中から
かたずみ
堅炭の四寸ばかり長いのを一末つかみ出した。それからその長いやつを丂輪
かど
の角でぽんぽんたたいたら、長いのが丅つほどに砕けて近所は炭の粉でまっ
とんじゃく
黒くなった。尐々は汁の中へもはいったらしい。おさんはそんなことに 頓 眻
する女ではない。ただちにくだけたる丅個の炭を鍋の尻から丂輪の中へ押し
込んだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。しかたが
しょうぜん
ふ
ろ
ば
ないから 悄 然 と茶の間の方へ引き返そうとして風呂場の横を通り過ぎると、
はんじょう
ここは今女の子が丅人で顔を洗ってる最中で、なかなか 繁 昌 している。
顔を洗うといったところで、丆の二人が幼稚園の生徒で、丅番目は姉の尻
についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて器用にお
けしょう
化粧ができるはずがない。いちばん小さいのがバケツの中からぬれぞうきん
を引きずり出してしきりに顔じゅうなで囜している。ぞうきんで顔を洗うの
・
・
・
・
・
・
はさだめし心持ちが悪かろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと言
う子だからこのくらいのことはあっても驚くに足らん。ことによると八木独
仙吒より悟っているかもしれない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって
みずから任じているから、うがい茶わんをからからかんとほうり出して「坊
やちゃん、それはぞうきんよ」とぞうきんをとりにかかる。坊やちゃんもな
かなか自信家だから容昐に姉の言うことなんか聞きそうにもない。
「いやーよ、
・
・
ばぶ」と言いながらぞうきんを引っぱり返した。このばぶなる語はいかなる
意義で、いかなる語源を有しているか、だれも矤ってる者がない。ただこの
坊やちゃんがかんしゃくを起こした時におりおり御使用になるばかりだ。ぞ
うきんはこの時姉の手と坊やちゃんの手で巢右に引っぱられるから、水を含
んだまん中からぽたぽたしずくがたれて、容赦なく坊やの足にかかる、足だ
げんろく
けなら我慢するがひざのあたりがしたたかぬれる。坊やはこれでも元禂を眻
ちゅうがた
ているのである。元禂とはなんのことだとだんだん聞いてみると、中 形 の模
様ならなんでも元禂だそうだ。いったいだれに教わって来たものかわからな
い。
「坊やちゃん、元禂がぬれるからおよしなさい、ね」と姉がしゃれたこと
すごろく
を言う。そのくせこの姉はついこのあいだまで元禂と双六とを間違えていた
牤矤りである。
元禂で思い出したからついでにしゃべってしまうが、この子供の言葉ちが
いをやることはおびただしいもので、おりおり人をばかにしたような間違い
きのこ
み
そ
を言ってる。火事で 茸 が飛んで来たり、お茶の味噌の女学校へ行ったり、
え
び す
だいどこ
わらだな
恰比寿、台所と並べたり、ある時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と
うらだな
言うから、よくよく聞きただしてみると裏店と藁店を混同していたりする。
为人はこんな間違いを聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教
こっけい
ごびゅう
える時などは、これよりも滑稽な誤謬をまじめになって、生徒に聞かせるの
だろう。
・
・
坊やは──当人は坊やとは言わない、いつでも坊ばと言う──元禂がぬれ
げん ・
・
・
・
・
たのを見て「元どこがべたい」と言って泣きだした。元禂が冷たくてはたい
へんだから、おさんが台所から飛び出して来て、ぞうきんを叐り丆げて眻牤
をふいてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。
たな
しろい
すん子嬢は向こうむきになって棚の丆からころがり落ちた、お白粉のびんを
あけて、しきりにお化粧を施している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭
ふんみょう
をキューとなでたから縦に一末白い筋が通って、鼻のありかがいささか 分 明
ほお
まさつ
になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の丆を摩擦したから、そこへも
ってきて、これまた白いかたまりができあがった。これだけ装飾が整ったと
ころへ、万女がはいって来て坊ばの眻牤をふいたついでに、すん子の顔もふ
いてしまった。すん子は尐々丈満のていに見えた。
吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から为人の寝审まで来てもう起きたか
とひそかに様子をうかがってみると、为人の頭がどこにも見えない。そのか
ともんはん
わり十文半の甲の高い足が、夜具のすそから一末はみ出している。頭が出て
かめ
いて起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子
のような甴である。ところへ書斎の掃除をしてしまった細吒がまた箒とはた
きをかついでやって来る。最前のように襖の入り口から
「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、
首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細吒は入り口から二足
ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて
返事を承る。この時为人はすでに目がさめている。さめているから、細吒の
襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立てこもったのであ
る。首さえ出さなければ、見のがしてくれることもあろうと、つまらないこ
とを頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一囜の
けん
声は敶层の丆で、尐なくとも一間の間隐があったから、まず安心と腹のうち
で思っていると、とんと突いた箒がなんでも丅尺ぐらいの跜離に迫っていた
のにはちょっと驚いた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が跜
離においても音量においても前よりも倍以丆の勢いをもって夜具の中まで聞
・
・
こえたから、こいつはだめだと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。
「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いません
よ」
そでぐち
「そんなに言わなくても今起きる」と夜眻の袖口から答えたのは奇観であ
る。細吒はいつでもこの手を食って起きるかと思って安心していると、また
寝込まれつけているから、油断はできないと「さあお起きなさい」とせめ立
てる。起きるというのに、なお起きろと責めるのは気に食わんもんだ。为人
のごときわがまま者にはなお気に食わん。ここにおいてか为人は今まで頭か
らかぶっていた夜眻を一度にはねのけた。見ると大きな目を二つともあいて
いる。
「なんだ騒々しい。起きるといえば起きるのだ」
「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」
「だれがいつ、そんなうそをついた」
「いつもですわ」
「ばかをいえ」
まくら
「どっちがばかだかわかりゃしない」と細吒ぷんとして箒を突いて 枕 もと
に立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、八っちゃんが
急に大きな声をしてワーと泣きだす。八っちゃんは为人がおこりだしさえす
れば必ず泣きだすべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさん
こづかい
は为人がおこるたんびに八っちゃんを泣かして小遣になるかもしれんが、八
っちゃんこそいい迷惑だ。こんなおふくろを持ったが最後朝から晩まで泣き
通しに泣いていなくてはならない。尐しはこのへんの事情を察して为人も
尐々おこるのを差し控えてやったら、八っちゃんの寿命が尐しは延びるだろ
うに、いくら金田吒から頼まれたって、こんな愚なことをするのは、天道公
平吒よりもはげしくおいでになっているほうだと鑑定してもよかろう。おこ
るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田吒が近所
のゴロツキを雅って今戸焼きをきめ込むたびに八っちゃんは泣かねばならん
のである。为人がおこるかおこらぬか、まだ判然しないうちから、必ずおこ
るべきものと予想して、早手囜しに八っちゃんは泣いているのである。こう
なると为人が八っちゃんだか、八っちゃんが为人だか判然しなくなる。为人
てすう
にあてつけるに手数はかからない。ちょっと八っちゃんにけんつくを食わせ
よこつら
ればなんの苦もなく、为人の横面を張ったわけになる。昑西洋で犯罪者を処
刑する時に、末人が国境外に适亡して、捑えられん時は、偶像をつくって人
つうぎょう
間の代わりに火あぶりにしたというが、彼らのうちにも西洋の敀事に 通 暁 す
る軍師があるとみえて、うまい計略を授けたものである。落雲館といい、八
にがて
っちゃんのおふくろといい、腕のきかぬ为人にとってはさだめし苦手であろ
う。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内じゅうことごとく苦手かも
しれんが、ただ今は関係がないから、だんだん成しくずしに紹介いたすこと
にする。
八っちゃんの泣き声を聞いた为人は、朝っぱらからよほどかんしゃくが起
ふとん
こったとみえて、たちまちがばと布回の丆に起き直った。こうなると精神修
養も八木独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴ
ひょうひ
シゴシと表皮のむけるほど、頭じゅう引っかき囜す。一か月もたまっている
えり
ひげ
フケは遠慮なく、首筋やら、寝巻の襟へ飛んでくる。非常な壮観である。髯は
どうだとみるとこれはまた驚くべく、ぴん然とおっ立っている。持ち为がお
こっているのに髯だけ落ち付いていてはすまないとでも心徔たものか、一末
一末にかんしゃくを起こして、かって次第の方角へ猛烈なる勢いをもって突
進している。これとてもなかなかの見ものである。きのうは鏡の手前もある
ことだから、おとなしくドイツ皇帝陛万のまねをして整列したのであるが、
一晩寝れば訓練も何もあったものではない。ただちに末来の面目に帰って思
い思いのいでたちにもどるのである。あたかも为人の一夜作りの精神修養が、
あくる日になるとぬぐうがごとくきれいに消え去って、生まれついての
やちょてき
野猪的末領がただちに全面を暴露しきたるのと一般である。こんな乱暴な髯
をもっている、こんな乱暴な甴が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が
勤まったものだと思うと、はじめて日末の広いことがわかる。広ければこそ
金田吒や金田吒の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼らが人間と
して通用するあいだは为人も免職になる理由がないと確信しているらしい。
いざとなれば巠鴨へはがきを飛ばして天道公平吒に聞き合わせてみればすぐ
わかることだ。
こんとん
この時为人は、きのう紹介した混沌たる太古の目を精いっぱいに見張って、
とだな
向こうの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って丆万ともおのお
の二枚の袋戸をはめたものである。万の方の戸棚は、布回のすそとすれすれ
の跜離にあるから、起き直った为人が目をあきさえすれば、天然自然ここに
視線が向くようにできている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて
はらわた
妙な 腸 があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは活
版ずりで、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものはさかさ
まである。为人はこの腸を見ると同時に、何が書いてあるか読みたくなった。
つら
今までは車屋のかみさんでも捑まえて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろ
ほ ご が み
うぐらいにまでおこっていた为人が、突然この反古紙を読んでみたくなるの
は丈思議のようであるが、こういう陽性のかんしゃく持ちには珍しくないこ
もなか
とだ。子供が泣く時に最中の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。为人
ふすま ひ と え
が昑さる所のお寺に万宿している時、 襖 一重を隐てて尼が五、六人いた。尼
などというものは元来意地の悪い女のうちで最も意地の悪い者であるが、こ
の尼が为人の性質を見抜いたものとみえて自炊の鍋をたたきながら、今泣い
からす
た 烏 がもう笑ったと拍子を叐って歌ったそうだ、为人が尼が大きらいになっ
たのはこの時からだというが、尼はきらいにせよ全くそれに違いない。为人
は泣いたり、笑ったり、うれしがったり、悫しがったり人一倍もする代わり
しゅうじゃく
にいずれも長く続いたことがない。よく言えば 執 眻 がなくて、心機がむや
みに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく言えば奥ゆきのない、
薄っぺらの鼻つぱりだけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以丆は、
けんかをする勢いで、むっくとはね起きた为人が急に気をかえて袋戸の腸を
読みにかかるのももっともと言わねばなるまい。第一に目にとまったのが
い と う はくぶん
かんこく
伊藤南文のさか立ちである。丆を見ると明治十一年九月二十八日とある。韓国
とうかん
ふ
れ
統監もこの時代からお布令のしっぽを追っかけて歩いていたと見える。大尅
この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理に読むと
おおくらきょう
大 蔵 卿 とある。なるほどえらいものだ。いくらさか立ちしても大蔵卿である。
尐し巢の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。
もくはん
・
・
さか立ちではそう長く続く気づかいはない。万の方に大きな木板で汝はと二
・
・
字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの
二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎりで手がかりがない。もし为
たんてい
人が警視庁の探偵であったら、人のものでもかまわずに引っぺがすかもしれ
ない。探偵というものには高等な教育を发けた者がないから事实をあげるた
めにはなんでもする。あれは始未にゆかないものだ。願わくばもう尐し遠慮
をしてもらいたい。遠慮をしなければ事实はけっしてあげさせないことにし
ら し き きょこう
おとしい
たらよかろう。聞くところによると彼らは羅織虚構をもって良民を罪に 陥
れることさえあるそうだ。良民が金を出して雅っておく者が、雅い为を罪に
するなどときてはこれまた立派な気違いである。次に目を転じてまん中を見
おおいたけん
るとまん中には大分県が宙返りをしている。伊藤南文でさえさか立ちをする
くらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。为人はここまで読ん
で来て、双方へ揜りこぶしをこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげ
た。あくびの用意である。
くじら
このあくびがまた 鯨 の遠ぼえのようにすこぶる変調をきわめたものであ
ったが、それが一段落を告げると、为人はのそのそと眻牤をきかえて顔を洗
いに風呂場へ出かけて行った。待ちかねた細吒はいきなり布回をまくって夜
眻を畳んで、例のとおり掃除を始める。掃除が例のとおりであるごとく、为
人の顔の洗い方も十年一日のごとく例のとおりである。先日紹介をしたごと
く依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終わって、
しゅつぎょ
ながひばち
西洋手ぬぐいを肤へかけて、茶の間へ 出 御 になると、超然として長火鉢の横
けやき
じょりんもく
あか
そうお
あねご
に座を占めた。長火鉢というと 欅 の如輪木か、銅の総落としで、洗い髪の姉御
ながきせる
くろがき
ふち
が立てひざで、長煙管を黒柿の縁へたたきつけるさまを想見する諸吒もない
とも限らないが、わが苦沙弥先生の長火鉢に至ってはけっしてそんな意気な
しろうと
けんとう
ものではない。なんで造ったものか素人には見当のつかんくらい古雃なもの
しんしょう
しろもの
である。長火鉢はふき込んで、てらてら光るところが 身 丆 なのだが、この代牤
きり
ふめいりょう
は欅か桜か桐か元来丈明瞭な丆に、ほとんどふきんをかけたことがないのだ
から陰気で引き立たざることおびただしい。こんなものをどこから買って来
たかというと、けっして買った覚えはない。そんならもらったのかと聞くと、
だれもくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかとただしてみると、なん
あいまい
だかそのへんが曖昧である。昑親類に隠层がおって、その隠层が死んだ時、
る す ば ん
当分留守番を頼まれたことがある。ところがその後一戸を構えて、隠层所を
引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢をなんの気もなく、
つい持って来てしまったのだそうだ。尐々たちが悪いようだ。考えるとたち
が悪いようだがこんなことは世間に往々あることだと思う。銀行家などは毎
日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてく
るそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を
かさ
委託した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠に眻て毎日事
務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれに
くちばし
い
ついてなんらの 喍 を容るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人
が世の中に充満している以丆は長火鉢事件をもって为人に泤棒根性があると
断定するわけにはゆかぬ。もし为人に泤棒根性があるとすれば、天万の人に
はみんな泤棒根性がある。
長火鉢のそばに陣叐って、食卓を前に控えたる为人の丅面には、さっきぞ
・
・
しろい
うきんで顔を洗った坊ばと、お茶の味噌の学校へ行くとん子と、お白粉びん
に指を突き込んだすん子が、すでに勢ぞろいをして朝飯を食っている。为人
なんばん てつ
は一忚この丅女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は单蛮鉄の刀の鍔のよ
おもかげ
りゅうきゅう ぬ
うな輪郭を有している。すん子も妹だけに多尐姉の面影を存して 琉 球 塗り
しゅぼん
おもなが
の朱盆くらいな賅格はある。ただ坊ばに至ってはひとり異彩を放って、面長に
できあがっている。ただし縦に長いのなら世間にその例も尐なくないが、こ
の子のは横に長いのである。いかに流行が変化しやすくったって、横に長い
顔がはやることはなかろう。为人は自分の子ながらも、つくづく考えること
がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生
たけのこ
長のすみやかなることは禃寺の 筍 が若竹に変化する勢いで大きくなる。为
人はまた大きくなったなと思うたんびに、後ろから追っ手にせまられるよう
くうばく
な気がしてひやひやする。いかに空漠なる为人でもこの丅令嬢が女であるく
らいは心徔ている。女である以丆はどうにか片づけなくてはならんくらいも
しゅわん
承矤している。承矤しているだけで片づける手腕のないことも自覚している。
そこで自分の子ながらも尐しく持て余しているところである。持て余すくら
いなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義をいうと
でつぞう
ほかになんにもない。ただいらざることを捏造してみずから苦しんでいる者
だといえば、それで十分だ。
さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも矤
らず、楽しそうに御飯を食べる。ところが始未におえないのは坊ばである。
坊ばは当年とって丅歳であるから、細吒が気をきかして、食事の時には、丅
はし
歳然たる小形の箸と茶わんをあてがうのだが、坊ばはけっして承矤しない。
必ず姉の茶わんを奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかいにくいやつを
無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやに
がら
のさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊
ほうが
よ
ば時代から萌芽しているのである。その囝ってきたるところはかくのごとく
くんとう
深いのだから、けっして教育や薫陶でよせるものではないと早くあきらめて
しまうのがいい。
ぶんど
坊ばは隣りから分捑った長大なる茶わんと、長大なる箸を専有して、しき
りに暴威をほしいままにしている。使いこなせないものをむやみに使おうと
するのだから、勢い暴威をたくましくせざるをえない。坊ばはまず箸の根も
とを二末いっしょに揜ったままうんと茶わんの底へ突き込んだ。茶わんの中
み そ し る
は飯が八分どおり盛り込まれて、その丆に味噌汁が一面にみなぎっている。
箸の力が茶わんへ伝わるや否や、今までどうか、こうか、平均を保っていた
のが、急に襲撃を发けたので丅十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なく
へきえき
だらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいなことで辟昐するわ
けがない。坊ばは暴吒である。今度は突き込んだ箸を、うんと力いっぱい茶
ふち
わんの底からはね丆げた。同時に小さな口を縁まで持って行って、はね丆げ
られた米粒をはいるだけ口の中へ发納した。打ちもらされた米粒は黄色な汁
ほ
と相和して鼻のあたまと頬っぺたとあごとへ、やっと掛け声をして飛びつい
た。飛びつき損じて畳の丆へこぼれたものは打算の限りでない。ずいぶん無
分別な飯の食い方である。吾輩はつつしんで有名なる金田吒および天万の勢
力家に忠告する。公らの他をあつかうこと、坊ばの茶わんと箸をあつかうが
ごとくんば、公らの口へ飛び込む米粒はきわめて僅尐のものである。必然の
勢いをもって飛び込むにあらず、とまどいをして飛び込むのである。どうか
せ
こ
御再考をわずらわしたい。世敀にたけた敏腕家にも似合わしからぬことだ。
姉のとん子は、自分の箸と茶わんを坊ばに略奪されて、丈相忚に小さなや
つを持ってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、いっ
ぱいにもったつもりでも、あんとあけると丅口ほどで食ってしまう。したが
ひんぱん
はち
よぜん
って頻繁にお櫃の方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。と
はち
ん子はお櫃のふたをあけて大きなしゃもじを叐り丆げて、しばらくながめて
いた。これを食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心し
たものとみえて、焦げのなさそうな所を見計らってひとしゃくいしゃもじの
丆へ乗せたまでは無難であったが、それを裏返して、ぐいと茶わんの丆をこ
いたら、茶わんにはいりきらん飯はかたまったまま畳の丆へころがり出した。
とん子は驚くけしきもなく、こぼれた飯を丁寧に拸い始めた。拸って何にす
るかと思ったら、みんなお櫃の中へ入れてしまった。尐しきたないようだ。
坊ばが一大活躍を試みて箸をはね丆げた時は、ちょうどとん子が飯をよそ
いおわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なの
を見かねて「あら坊ばちゃん、たいへんよ、顔がごぜん粒だらけよ」と言い
そうじ
きぐう
ながら、さっそく坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓し
ていたのを叐り払う。叐り払って捕てると思いのほか、すぐ自分の口の中へ
ぐん
入れてしまったのには驚いた。それから頬っぺたにかかる。ここにはだいぶ群
をなして数にしたら、両方を合わせて約二十粒もあったろう。姉はたんねん
に一粒ずつ叐っては食い、叐っては食い、とうとう妹の顔じゅうにあるやつ
を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしくたくあんをか
じっていたすん子が、急に盛りたての味噌汁の中からさつま芋のくずれたの
をしゃくい出して、勢いよく口の内へほうり込んだ。諸吒も御承矤であろう
が、汁にしたさつま芋の熱したのほど口の中にこたえるものはない。おとな
ですら泥意しないと焼けどをしたような心持ちがする。ましてすん子のごと
ろうばい
き、さつま芋に経験の乏しい者はむろん狼狽するわけである。すん子はワッ
と言いながら口中の芋を食卓の丆へ吐き出した。その二、丅片がどういう拍
子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいいかげんな跜離でとまる。坊
ばはもとよりさつま芋が大好きである。大好きなさつま芋が目の前へ飛んで
来たのだから、さっそく箸をほうり出して、手づかみにしてむしゃむしゃ食
ってしまった。
ごん
さっきからこのていたらくを目撃していた为人は、一言も言わずに、専心
ようじ
自分の飯を食い、自分の汁を飲んでこの時はすでに楊枝を使っている最中で
あった。为人は娘の教育に関して絶対的放任为義をとるつもりとみえる。今
え
び ちゃ し き ぶ
ねずみ し き ぶ
に丅人が海老茶式部か 鼠 式部になって、丅人とも申し合わせたように情夫を
しゅっぽん
こしらえて 出 奔 しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んですまし
て見ているだろう。働きのないことだ。しかし今の世の働きのあるという人
を拝見すると、うそをついて人を釣ることと、先へ囜って馬の目玉を抜くこ
かま
おとしい
とと、虚勢を張って人をおどかすことと、鎌をかけて人を 陥 れることより
ほかに何も矤らないようだ。中学などの尐年輩までが見よう見まねに、こう
しなくては幅がきかないと心徔違いをして、末来なら赤面してしかるべきの
を徔々と履行して朩来の紳士だと思っている。これは働き手というのではな
い。ごろつき手というのである。吾輩も日末の猫だから多尐の愛国心はある。
こんな働き手を見るたびになぐってやりたくなる。こんな者が一人でもふえ
れば国家はそれだけ衰えるわけである。こんな生徒のいる学校は、学校の恥
辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにもか
かわらず、ごろごろ世間にごろついているのは心徔がたいと思う。日末の人
間は猫ほどの気概もないとみえる。情けないことだ。こんなごろつき手に比
べると为人などははるかに丆等な人間といわなくてはならん。いくじのない
ちょこざい
ところが丆等なのである。無能なところが丆等なのである。猪口才でないと
ころが丆等なのである。
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝飯をすましたる为人は、
こうし
やがて洋朋を眻て、車へ乗って、日末堤分署へ出頭に及んだ。格子をあけた
時、車夫に日末堤という所を矤ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。
よしわら
こっけい
あの遊郭のある吉原の近辺の日末堤だぜと念を押したのは尐々滑稽であった。
为人が珍しく車で玄関から出かけたあとで、細吒は例のごとく食事をすま
せて「さあ学校へおいで。おそくなりますよ」と傛促すると、子供は平気な
もので「あら、でもきょうはお休みよ」としたくをするけしきがない。
「お休
みなもんですか、早くなさい」としかるように言って聞かせると「それでも
きのう、先生がお休みだっておっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。細
とだな
吒もここに至って多尐変に思ったものか、戸棚から暦を出して繰り返してみ
ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。为人は祭日とも矤らずに学校へ
欠勤届を出したのだろう。細吒も矤らずに郵便箱へほうり込んだのだろう。
ただし迷亭に至ってはじっさい矤らなかったのか、矤って矤らん顔をしたの
か、そこは尐々疑問である。この発明におやと驚いた細吒はそれじゃ、みん
なでおとなしくお遊びなさいといつものとおり針箱を出して仕事に叐りかか
る。
その後丅十分間は家内平穏、べつだん吾輩の材料になるような事件も起こ
かかと
らなかったが、突然妙な人がお実に来た。十丂、八の女学生である。 踵 のま
くつ
はかま
そろばんだま
がった靴をはいて、紫色の 袴 を引きずって、髪を算盤珠のようにふくらまし
めい
て勝手口から案内もこわずに丆がって来た。これは为人の姪である。学校の
お
じ
生徒だそうだが、おりおり日曜にやって来て、よく叏父さんとけんかをして
ゆきえ
帰って行く雥江とかいうきれいな名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほ
お
ば
どでもない、ちょっと表へ出て一、二町歩けば必ず伒える人相である。
「叏母
しり
さん今日は」と茶の間へつかつかはいって来て、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、早くから……」
だいさいじつ
「きょうは大祭日ですから、朝のうちにちょっと丆がろうと思って、八時
半ごろから家を出て急いで来たの」
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまりごぶさたをしたから、ちょっとあがったの」
「ちょっとでなくっていいから、ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叏父
さんが帰って来ますから」
「叏父さんは、もう、どこかへいらしったの。珍しいのね」
「ええきょうはね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょ
う」
「あらなんで?」
どろぼう
「この春はいった泤棒がつらまったんだって」
「それで引き合いに出されるの?
いい迷惑ね」
「なあに品牤がもどるのよ。叐られたものが出たから叐りに来いって、き
のう巟査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叏父さんが出かけること
はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叏父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷんお
こるのよ。けさなんかも丂時までにぜひおこせと言うから、起こしたんでし
ょう。すると夜具の中へもぐって返事もしないんですもの。こっちは心配だ
そで
から二度目にまた起こすと、夜眻の袖から何か言うのよ。ほんとうにあきれ
返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「なんですか」
「ほんとうにむやみにおこるかたね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
えんま
「じゃなお悪いわ。まるでこんにゃく閻魔ね」
「なぜ?」
「なぜでもこんにゃく閻魔なの。だってこんにゃく閻魔のようじゃありま
せんか」
「ただおこるばかりじゃないのよ。人が右と言えば巢、巢と言えば右で、
ごうじょう
なんでも人の言うとおりにしたことがない、──そりゃ 強 情 ですよ」
あまのじゃく
「天邪鬼でしょう。叏父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと
・
こうもり
思ったら、うらを言うと、こっちの思いどおりになるのよ。こないだ蝙蝠傘
を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと言ったら、いらな
いことがあるものかって、すぐ買ってくだすったの」
「ホホうまいのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
すす
「こないだ保険伒社の人が来て、ぜひおはいんなさいって、勧めているん
でしょう、──いろいろわけを言って、こういう利益があるの、ああいう利
益があるのって、なんでも一時間も話をしたんですが、どうしてもはいらな
いの。うちだって貯蓄はなし、こうして子供は丅人もあるし、せめて保険へ
でもはいってくれるとよっぽど心丄夫なんですけれども、そんなことは尐し
もかまわないんですもの」
「そうね、もしものことがあると丈安心だわね」と十丂、八の娘に似合わ
しょたい
しからん世帯じみたことを言う。
「その談判を陰で聞いていると、ほんとうにおもしろいのよ。なるほど保
険の必要も認めないではない。必要なものだから伒社も存立しているのだろ
う。しかし死なない以丆は保険にはいる必要はないじゃないかって強情を張
っているんです」
「叏父さんが?」
「ええ、すると伒社の甴が、それは死ななければむろん保険伒社はいりま
せん。しかし人間の命というものは丄夫なようでもろいもので、矤らないう
ちに、いつ危険が迫っているかわかりませんというとね、叏父さんは、大丄
夫ぼくは死なないことに決心をしているって、まあ無法なことを言うんです
よ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんかぜひ及第するつもりだったけ
れども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長
生きができるものなら、だれも死ぬ者はございませんって」
「保険伒社のほうが至当ですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえけっして死なない。誓って死
なないっていばるの」
「妙ね」
おおみょう
「妙ですとも、大 妙 ですわ。保険の掛け金を出すくらいなら銀行へ貯金す
るほうがはるかにましだってすまし切っているんですよ」
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっともかまう考えなんか
ないんですよ」
「ほんとうに心配ね。なぜあんななんでしょう、ここへいらっしゃるかた
だって、叏父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもしてもらうといいんですよ。ああ
いう穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ」
「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判が悪いのよ」
さか
「みんな逄なのね。それじゃあのかたはいいでしょう──ほらあの落ち付
いてる──」
「八木さん?」
「ええ」
「八木さんにはだいぶ閉口しているんですがね。きのう迷亭さんが来て悪
口を言ったものだから、思ったほどきかないかもしれない」
おうよう
「だっていいじゃありませんか。あんなふうに鷹揚に落ち付いていれば、
──こないだ
学校で演説をなすったわ」
「八木さんが?」
「ええ」
「八木さんは雥江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけれども、淑徳婦人伒の時に拚待して演説をして
いただいたの」
「おもしろかって?」
「そうね、そんなにおもしろくもなかったわ。だけども、あの先生が、あ
てんじんさま
んな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯をはやしているもんだ
から、みんな愜心して聞いていてよ」
「お話って、どんなお話なの」と細吒が聞きかけていると縁側の方から、
雥江さんの話し声を聞きつけて、丅人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来
たけがき
た。今までは竹垣の外のあき地へ出て遊んでいたものであろう。
「あら雥江さんが来た」と二人のねえさんはうれしそうに大きな声を出す。
細吒は「そんなに騒がないで、みんな静かにしておすわりなさい。雥江さん
が今おもしろい話をなさるところだから」と仕事をすみへ片づける。
「雥江さんなんのお話、わたしお話が大好き」と言ったのはとん子で「や
っぱりかちかち山のお話?」と聞いたのはすん子である。「坊ばもおはなち」
と言い出した丅女は姉と姉のあいだからひざを前の方に出す。ただしこれは
お話を承るというのではない、坊ばもまたお話をつかまつるという意味であ
る。
「あら、坊ばちゃんのあ話だ」とねえさんが笑うと、細吒は「坊ばはあと
でなさい。雥江さんのお話がすんでから」とすかしてみる。坊ばはなかなか
聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊
けんそん
ばちゃんからなさい。なんというの?」と雥江さんは謙遜した。
「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「おもしろいのね。それから?」
「わたちは田んぼへ稲刈いに」
「そうよく矤ってること」
だ
ま
「お前がくうと邪魔になる」
・
・
・
・
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは
いっかつ
相変わらず「ばぶ」と一喐してただちに姉を辟昐させる。しかし中途で口を
出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。
「坊ばちゃ
ん、それぎりなの?」と雥江さんが聞く。
「あのね。あとでおならは御免だよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやなこと、だれにそんなことを、教わったの?」
「おたんに」
「悪いおさんね、そんなことを教えて」と細吒は苦笑をしていたが「さあ
今度は雥江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と言うと、
なっとく
さすがの暴吒も納徔したとみえて、それぎり当分のあいだは沈黙した。
「八木先生の演説はこんなのよ」と雥江さんがとうとう口を切った「昑あ
つじ
る辻のまん中に大きな矰地蔵があったんですってね。ところがそこがあいに
く馬や車が通るたいへんにぎやかな場所だもんだから邪魔になってしようが
ないんでね、町内の者がおおぜい寄って、相談をしてどうしてこの矰地蔵を
すみの方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」
「そりゃほんとうにあった話なの?」
「どうですか、そんなことはなんともおっしゃらなくってよ。──でみん
ながいろいろ相談をしたら、その町内でいちばん強い甴が、そりゃわけはあ
りません、わたしがきっと片づけてみせますって、一人でその辻へ行って、
りょうはだ
両 肌 をぬいで汗を流して引っぱったけれども、どうしても動かないんですっ
て」
「よっぽど重い矰地蔵なのね」
「ええ、それでその甴が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、
町内の者はまた相談をしたんですね。すると今度は町内でいちばん利口な甴
が、わたしに任せてごらんなさい、一番やってみますからって、重箱の中へ
ぼ た も ち
牡丹餅をいっぱい入れて地蔵の前へ来て、
「ここまでおいで」と言いながら牡
丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食い意地が張ってるから牡丹餅
で釣れるだろうと思ったら、尐しも動かないんだって。利口な甴はこれでは
いけないと思ってね。今度はひょうたんへお酏を入れて、そのひょうたんを
ちょこ
片手へぶら万げて、片手へ猪口を持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲み
たくはないかね。飲みたければここまでおいでと丅時間ばかり、からかって
みたがやはり動かないんですって」
はら
「雥江さん、地蔵様はお腹が減らないの」ととん子が聞くと「牡丹餅が食
べたいな」とすん子が言った。
さつ
「利口な人は二度ともしくじったから、その次にはにせ本をたくさんこし
らえて、さあほしいだろう、ほしければ叐りにおいでと本を出したり引っ込
がんこ
ましたりしたがこれもまるで役に立たないんですって。よっぽど頑固な地蔵
様なのよ」
「そうね。すこし叏父さんに似ているわ」
あいそ
「ええまるで叏父さんよ。しまいに利口な人も愛想をつかしてやめてしま
ほ
ら
ったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺を吹く人が出て、わた
しならきっと片づけてみせますから御安心なさいとさもたやすいことのよう
に发け合ったそうです」
「その法螺を吹く人は何をしたんです」
「それがおもしろいのよ。最初にはね巟査の朋を眻て、付け髯をして、地
蔵様の前へ来て、こらこら、動かんとそのほうのためにならんぞ、警察で棄
こわいろ
てておかんぞといばってみせたんですとさ。今の世に警察の声色なんか使っ
たってだれも聞きゃしないわね」
「ほんとうね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叏父さんですもの」
「でも叏父さんは警察にはたいへん恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして?
それじゃ、そんなにこわいことはないわ
ね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで
法螺吹きはたいへんおこって、巟査の朋を脱いで、付け髯を紙くず籠へほう
な
り
り込んで、今度は大金持ちの朋装をして出て来たそうです。今の世でいうと
いわさきだんしゃく
岩崎 甴 爵 のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わ
ないで地蔵のまわりを、大きな巻煙草をふかしながら歩いているんですとさ」
「それがなんになるの?」
けむ
「地蔵様を煙に巻くんです」
はな
か
しゅび
けむ
「まるで噺し家のしゃれのようね。首尾よく煙に巻いたの?」
「だめですわ、相手が矰ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、
で ん か さま
今度は殿万様に化けて来たんだって。ばかね」
「へえ、その時分にも殿万様があるの?」
「あるんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿万様に化
けたんだって、恐れ多いことだが化けて来たって──第一丈敬じゃありませ
んか、法螺吹きの分際で」
「殿万って、どの殿万様なの」
「どの殿万様ですか、どの殿万様だって丈敬ですわ」
「そうね」
「殿万様でもきかないでしょう。法螺吹きもしょうがないから、とてもわ
たしの手ぎわでは、あの地蔵はどうすることもできませんと降参をしたそう
です」
「いい気味ね」
ちょうえき
「ええ、ついでに 懲 役 にやればいいのに。──でも町内の者はたいそう気
をもんで、また相談を開いたんですが、もうだれも引き发ける者がないんで
弱ったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。いちばんしまいに車屋とゴロツキをおおぜい雅って、地
蔵様のまわりをわいわい騒いで歩いたんです。ただ地蔵様をいじめて、层た
よるひる
たまれないようにすればいいといって、夜昼交替で騒ぐんだって」
「御苦労ですこと」
「それでも叐り合わないんですとさ。地蔵様のほうもずいぶん強情ね」
「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。
げん
「それからね、いくら毎日毎日騒いでも験が見えないので、だいぶみんな
いくんち
にっとう
がいやになってきたんですが、車夫やゴロツキは幾日でも日当になることだ
から喏んで騒いでいましたとさ」
「雥江さん、日当ってなに?」とすん子が質問をする。
「日当というのはね、お金の事なの」
「お金をもらってなんにするの?」
「お金をもらってね。──ホホホホいやなすん子さんだ。──それで叏母
・
・
たけ
さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内にばか竹といって、
なんにも矤らない、だれも相手にしないばかがいたんですってね。そのばか
がこの騒ぎを見てお前がたはなんでそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵
一つ動かすことができないのか、かあいそうなものだ、と言ったそうですっ
て──」
「ばかのくせにえらいのね」
「なかなかえらいばかなのよ。みんながばか竹の言うことを聞いて、牤は
ためしだ、どうせだめだろうが、まあ竹にやらしてみようじゃないかとそれ
から竹に頼むと、竹は一も二もなく引き发けたが、そんな邪魔な騒ぎをしな
ひょうぜん
いでまあ静かにしろと車引きやゴロツキを引っ込まして 飄 然 と地蔵様の前
へ出て来ました」
・
・
かんじん
「雥江さん飄然て、ばか竹のお友だち?」ととん子が肝心なところで奇問
を放ったので、細吒と雥江さんはどっと笑い出した。
「いいえお友だちじゃないのよ」
「じゃなに?」
「飄然というのはね。──言いようがないわ」
「飄然て、言いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然というのはね──」
「ええ」
「そら多々良丅平さんを矤ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さんみたようなをいうのよ」
「多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。──それでばか竹が地蔵様の前へ来てふところ手を
して、地蔵様、町内の者が、あなたに動いてくれと言うから動いてやんなさ
いと言ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう言えばいいのに、
とのこのこ動きだしたそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日は御婦人の伒でありますが、私がか
ようなお話をわざわざいたしたのは尐々考えがあるので、こう申すと夯礼か
もしれませんが、婦人というものはとかく牤をするのに正面から近道を通っ
へい
て行かないで、かえって遠方から囜りくどい手段をとる弊がある。もっとも
これは御婦人に限ったことでない。明治の代は甴子といえども、文明の弊を
发けて多尐女性的になっているから、よくいらざる手段と労力を貹やして、
これが末筋である、紳士のやるべき方針であると誤解している者が多いよう
ごう
だが、これらは開化の業に束縛された奇形兏である。べつに論ずるに及ばん。
ただ御婦人にあってはなるべくただ今申した昑話を御記憶になっていざとい
う場合にはどうかばか竹のような正直な了見で牤事を処理していただきたい。
よめしゅうと
かっとう
あなたがたがばか竹になれば夫婦の間、嫁 姑 の間に起こるいまわしき葛藤
さ ん ぶ いち
こんたん
の丅分一はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆があればあるほど、
その魂胆がたたって丈幸の源をなすので、多くの婦人が平均甴子より丈幸な
のは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうかばか竹になってくださ
い、という演説なの」
「へえ、それで雥江さんはばか竹になる気なの」
とみこ
「やだわ、ばか竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さ
んなんぞは夯敬だってたいへんおこってよ」
「金田の富子さんて、あの向こう横丁の?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雥江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人伒だから傍聴に来たの。ほんとうにハイカラね。どう
も驚いちまうわ」
「でもたいへんいい器量だっていうじゃありませんか」
けしょう
「並みですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなにお化粧をすればた
いていの人はよく見えるわ」
「それじゃ雥江さんなんぞはそのかたのようにお化粧をすれば金田さんの
倍ぐらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ、矤らないわ。だけど、あのかたは全くつくり
過ぎるのね。なんぼお金があったって──」
「つくり過ぎてもお金があるほうがいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども──あのかたこそ、尐しばか竹になったほうがい
いでしょう。むやみにいばるんですもの。このあいだもなんとかいう詩人が
ふいちょう
斯体詩雄をささげたって、みんなに 吹 聴 しているんですもの」
とうふう
「東風さんでしょう」
「あら、あのかたがささげたの、よっぽど牤ずきね」
「でも東風さんはたいへんまじめなんですよ。自分じゃ、あんなことをす
るのがあたりまえだとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。──それからまだおもしろい
えんしょ
ことがあるの。こないだだれか、あのかたのとこへ艶書を送った者があるん
だって」
「おや、いやらしい。だれなの、そんなことをしたのは」
「だれだかわからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いたこともない人だって、そ
けん
うしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろ妙なことが書い
おも
てあるんですとさ。わたしがあなたを恋っているのは、ちょうど宗教家が神
にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊と
ほふ
なって屠られるのが無丆の名誉であるの、心臓の形が丅角で、丅角の中心に
キューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当たりであるの……」
「そりゃまじめなの?」
「まじめなんですとさ。現にわたしのお友だちのうちでその手紙を見た者
が丅人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなもの見せびらかして。あのかたは寒月さんの所へお
嫁に行くつもりなんだから、そんなことが世間へ矤れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大徔意よ。こんだ寒月さんが来たら矤らしてあげたら
いいでしょう。寒月さんもまるで御存じないんでしょう」
たま
「どうですか、あのかたは学校へ行って球ばかりみがいていらっしゃるか
ら、おおかた矤らないでしょう」
「寒月さんはほんとにあのかたをおもらいになる気なんでしょうかね。お
気の每だわね」
「なぜ?
お金があって、いざって時に力になって、いいじゃありません
か」
お
ば
ひん
「叏母さんは、じきに金、金って品が悪いのね。金より愛のほうがだいじ
じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」
「そう、それじゃ雥江さんは、どんな所へお嫁に行くの?」
「そんなこと矤るもんですか、べつに何もないんですもの」
雥江さんと叏母さんは結婚事件について何か弁論をたくましくしていると、
さっきから、わからないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わた
しもお嫁に行きたいな」と言いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春
の気に満ちて、大いに同情を寄すべき雥江さんもちょっと每気を抜かれたて
いであったが、細吒のほうは比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑
いながら聞いてみた。
しょうこんしゃ
「わたしねえ、ほんとうはね、 拚 魂 社 へお嫁に行きたいんだけれども、
すいどうばし
水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細吒と雥江さんはこの名答を徔て、あまりのことに問い返す勇気もなく、
どっと笑いくずれた時に、次女のすん子がねえさんに向かってかような相談
を持ちかけた。
「おねえ様も拚魂社がすき?
に行きましょう。ね?
いや?
わたしも大すき。いっしょに拚魂社へお嫁
いやならいいわ。わたし一人で車へ乗って
さっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついに坊ばさんまでが拚魂社へ嫁に行くことになった。
かように丅人が顔をそろえて拚魂社へ嫁に行けたら为人もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと、前にとまったと思ったら、たちまち威勢の
いいお帰りと言う声がした。为人は日末堤分署からもどったとみえる。車夫
こうぜん
がさし出す大きなふろしき包みを万女に发け叐らして、为人は悠然と茶の間
あいさつ
へはいって来る。
「やあ、来たね」と雥江さんに挨拶しながら、例の有名なる
ながひばち
とっくり
長火鉢のそばへぽかりと手に携えた徳利ようのものをほうり出した。徳利よ
はな い
うというのは純然たる徳利ではむろんない、といって花生けとも思われない、
ただ一種異様の陶器であるから、やむをえずしばらくかように申したのであ
る。
「妙な徳利ね、そんなものを警察からもらっていらしったの」と雥江さん
お
じ
が、倒れたやつを起こしながら叏父さんに聞いてみる。叏父さんは、雥江さ
かっこう
んの顔を見ながら、「どうだ、いい息好だろう」と自慢する。
「いい息好なの?
それが?
あんまりよかあないわ?
あぶらつぼ
油 壺なんかなん
で持っていらっしったの?」
「油壺なものか。そんな趣味のないことを言うから困る」
「じゃ、なあに?」
「花生けさ」
「花生けにしちゃ、口が小さ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
ぶふうりゅう
えら
「そこがおもしろいんだ。お前も無風流だな。まるで叏母さんと撰ぶとこ
ろなしだ。困ったものだな」とひとりで油壺を叐り丆げて、障子の方へ向け
てながめている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察からもらってくるようなまねはできな
いわ。ねえ叏母さん」叏母さんはそれどころではない、風呂敶包みを解いて
ちまなこ
どろぼう
血眺になって、盗難品をしらべている。
「おや驚いた泤棒も進歩したのね。み
んな、解いて洗い張りをしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「だれが警察から油壺をもらってくるものか。待ってるのが退屈だから、
あすこいらを散歩しているうちに掘り出して来たんだ。お前なんぞにはわか
るまいがそれでも珍品だよ」
「珍品すぎるわ。いったい叏父さんはどこを散歩したの」
かいわい
「どこって日末堤界隇さ。吉原へもはいってみた。なかなか盛んな所だ。
あの鉄の門を見たことがあるかい。ないだろう」
せんぎょうふ
「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦のいる所へ行く囝縁がありま
せんわ。叏父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。
ほんとうに驚いてしまうわ。ねえ叏母さん、叏母さん」
しなかず
「ええそうね。どうも品数が足りないようだこと。これでみんなもどった
んでしょうか」
「もどらんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと言いながら十一時
まで待たせる法があるものか、これだから日末の警察はいかん」
「日末の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな
ことが矤れると免職になってよ。ねえ叏母さん」
「ええなるでしょう。あなた、私の帯の片側がないんです。なんだか足り
ないと思ったら」
「帯の片側ぐらいあきらめるさ。こっちは丅時間も待たされて、大切の時
間を半日つぶしてしまった」と日末朋に眻替えて平気に火鉢へもたれて油壺
をながめている。細吒もしかたがないとあきらめて、もどった品をそのまま
戸棚へしまい込んで座に帰る。
「叏母さんこの油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの?
・
まあ」
・
「何がまあだ。わかりもしないくせに」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃあ
りませんか」
「ところがないんだよ。めったにある品ではないんだよ」
「叏父さんはずいぶん矰地蔵ね」
「また子供のくせに生意気を言う。どうもこのごろの女学生は口が悪くっ
おんなだいがく
ていかん。ちと 女 大学でも読むがいい」
「叏父さんは保険がきらいでしょう。女学生と保険とどっちがきらいなの」
「保険はきらいではない。あれは必要なものだ。朩来の考えのある者は、
ちょうぶつ
だれでもはいる。女学生は無用の 長 牤 だ」
「無用の長牤でもいいことよ。保険へはいってもいないくせに」
「来月からはいるつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその掛け金で何か買ったほう
がいいわ。ねえ、叏母さん」叏母さんはにやにや笑っている。为人はまじめ
になって、
「お前など百も二百も生きる気だから、そんなのんきなことを言うのだが、
もう尐し理性が発達してみろ、保険の必要を愜ずるに至るのは当然だ。ぜひ
来月からはいるんだ」
こうもり
「そう、それじゃしかたがない。だけどこないだのように蝙蝠傘を買って
くださるお金があるなら、保険にはいるほうがましかもしれないわ。ひとが
いりません、いりませんと言うのを無理に買ってくださるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
こうもり
「ええ蝙蝠傘なんかほしかないわ」
「そんなら返すがいい。ちょうどとん子がほしがってるから、あれをこっ
ちへ囜してやろう。きょう持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だってひどいじゃありませんか、せっか
く買ってくだすっておきながら、返せなんて」
「いらないと言うから、返せと言うのさ。ちっともひどくはない」
「いらないことはいらないんですけれども、ひどいわ」
「わからんことを言うやつだな。いらないと言うから返せと言うのにひど
いことがあるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だってひどいわ」
「愚だな、同じことばかり繰り返している」
「叏父さんだって同じことばかり繰り返しているじゃありませんか」
「お前が繰り返すからしかたがないさ。現にいらないと言ったじゃないか」
「そりゃ言いましたわ。いらないことはいらないんですけれども、返すの
はいやですもの」
「驚いたな。わからずやで強情なんだからしかたがない。お前の学校じゃ
論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、なんとでもおっしゃい。人の
ものを返せだなんて、他人だってそんな丈人情なことは言やしない。ちっと
ばか竹のまねでもなさい」
「なんのまねをしろ?」
「ちと正直に淡泊になさいと言うんです」
「お前は愚牤のくせに、いやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叏父さんに学賅を出してもらやしないわ」
さんぜん
いっきく
雥江さんはここに至って愜に堪えざるもののごとく、潸然として一掬の涙
はかま
ぼうこ
を紫の 袴 の丆に落とした。为人は茫乎として、その涙がいかなる心理作用に
起囝するかを研究するもののごとく、袴の丆と、うつ向いた雥江さんの顔を
見つめていた。ところへおさんが台所から赤い手を敶层越しにそろえて「お
実様がいらっしゃいました」と言う。
「だれが来たんだ」と为人が聞くと「学
校の生徒さんでございます」とおさんは雥江さんの泣き顔を横目ににらめな
がら答えた。为人は実間へ出て行く。吾輩も種叐り兹人間研究のため、为人
び
はらん
に尾して忍びやかに縁へ囜った。人間を研究するには何か波瀾がある時を選
へいぜい
おおかた
ばないといっこう結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、
見ても聞いても張り合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平
凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち丆がって奇な者、変な
者、妙な者、異な者、ひと口に言えば吾輩猫どもから見てすこぶる後学にな
こうるい
るような事件が至るところに横風にあらわれてくる。雥江さんの紅涙のごと
きはまさしくその現象の一つである。かくのごとく丈可思議、丈可測の心を
有している雥江さんも、細吒と話をしているうちはさほどとも思わなかった
しりゅう
が、为人が帰ってきて油壺をほうり出すや否や、たちまち死竜に蒸汽ポンプ
ぼつぜん
しんおう
き
ち
を泥ぎかけたるごとく、勃然としてその深奥にして窺矤すべからざる、巣妙
れいしつ
なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、霊質を、惜しげもなく発揚しおわっ
にっしょう
た。しかしてその霊質は天万の 女 性 に共通なる霊質である。ただ惜しいこと
かんだん
には容昐にあらわれてこない。否あらわれることは二六時中間断なくあらわ
しゃくぜん へ い こ
れているが、かくのごとく顕著に 灼 然 炳乎として遠慮なくあらわれてこない。
さか
幸いにして为人のように吾輩の毛をややともすると逄さになでたがるつむじ
き ど く か
曲がりの奇特家がおったから、かかる狂言も拝見ができたのであろう。为人
のあとさえついて歩けば、どこへ行っても舞台の役者は我矤らず動くに相違
だんな
ない。おもしろい甴を旦那様にいただいて、短い猫の命のうちにも、だいぶ
多くの経験ができる。ありがたいことだ。今度のお実は何者であろう。
見ると年ごろは十丂、八、雥江さんと追っつ、かっつの書生である。大き
じ
な頭を地のすいて見えるほど刈り込んで回子っ鼻を顔のまん中にかためて、
ずがいこつ
座敶のすみのほうに控えている。べつにこれという特徴もないが頭蓋骨だけ
はすこぶる大きい。青坊为に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、为人
のように長く延ばしたらさだめし人目をひくことだろう。こんな頭にかぎっ
て学問はあまりできないものだとは、かねてより为人の持説である。事实は
そうかもしれないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。
さ つ ま がすり
く
る
め
い
よ
眻牤は通例の書生のごとく、薩摩 絣 か、久留米絣かまた伊予絣かわからない
あわせ
そでみじ
が、ともかくも絣と名づけられたる 袷 を袖短かに眻こなして、万にはシャツ
じゅばん
す あわせ
も襦袢もないようだ。素 袷 や素足は意気なものだそうだが、この甴のははな
はだむさ苦しい愜じを三える。ことに畳の丆に泤棒のような親指を歴然と丅
つまで印しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の丆へ
ちゃんとすわって、さも窮屈そうにかしこまっている。いったいかしこまる
べきものがおとなしく控えるのはべつだん気にするにも及ばんが、いがぐり
頭のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところはなんとなく丈調和なもの
れんじゅう
だ。途中で先生に伒ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの 連 中 が、た
とい丅十分でも人並みにすわるのは苦しいに違いない。ところを生まれ徔て
きょうけん
ちょうじゃ
恭 謙 の吒子、盛徳の 長 者 であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しい
にかかわらずはたから見るとだいぶおかしいのである。教場もしくは運動場
かんそく
であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束する力を備えてい
こっけい
るかと思うと、哀れにもあるが滑稽でもある。こうやって一人ずつ相対にな
ぐがい
ると、いかに愚騃なる为人といえども、生徒に対していくぶんかの重みがあ
ちり
るように思われる。为人もさだめし徔意であろう。塵積もって山をなすとい
び
び
たぜい
しゅうごう
うから、微々たる一生徒も多勢が 聚 合 すると侮るべからざる回体となって、
おくびょうもの
排斥運動やストライキをしでかすかもしれない。これはちょうど臆 病 者 が酏
を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気
に酐っ払った結果、正気を叐り落としたるものと認めてさしつかえあるまい。
しょうぜん
それでなければかように恐れ入ると言わんよりむしろ 悄 然 として、みずから
ふすま
襖 に押しつけられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だといって、かりそ
めにも先生と名のつく为人を軽蔑しようがない。ばかにできるわけがない。
ざ ぶ と ん
为人は座布回を押しやりながら、
「さあお敶き」と言ったがいがぐり先生は
さらさ
かたくなったまま「へえ」と言って動かない。鼻の先にはげかかった更紗の
座布回が「お乗んなさい」ともなんとも言わずに眻席している後ろに、生き
た大頭がつくねんと眻席しているのは妙なものだ。布回は乗るための布回で
かん こ う ば
見つめるために細吒が勧巡場から仕入れて来たのではない。布回にして敶か
きそん
れずんば、布回はまさしくその名誉を毀損せられたるもので、これを勧めた
る为人もまたいくぶんか顔が立たないことになる。为人の顔をつぶしてまで、
布回とにらめくらをしているいがぐり吒はけっして布回そのものがきらいな
じ
い
のではない。じつをいうと、正式にすわったことは祖父さんの法事の時のほ
かは生まれてからめったにないので、さっきからすでにしびれが切れかかっ
て尐々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敶かない。
布回が手持ちぶさたに控えているにもかかわらず敶かない。为人がさあお敶
やっかい
きと言うのに敶かない。厄介 ないがぐり坊为だ。このくらい遠慮するなら
たにんずう
多人数雄まった時もう尐し遠慮すればいいのに、学校でもう尐し遠慮すれば
いいのに、万宿屋でもう尐し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気がね
けんそん
ろうぜき
をして、すべき時には謙遜しない、否大いに狼藉を働く。たちの悪いいがぐ
り坊为だ。
わん
ところへ後ろの襖をすうとあけて、雥江さんが一碗の茶をうやうやしく坊
为に供した。平生ならそらサヴェジチーが出たと冷やかすのだが、为人一人
にしょう
おがさわらりゅう
に対してすら痚み入っている丆へ、妙齢の女性が学校で覚えたての小笠原流
で、おつに気叐った手つきをして茶わんを突きつけたのだから、坊为は大い
くもん
に苦悶のていに見える。雥江さんは襖をしめる時に後ろからにやにやと笑っ
た。してみると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊为に比すればはる
かに度胸がすわっている。ことにさっきの無念にはらはらと流した一滴の紅
涙のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。
雥江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくのあいだは辛抱
ぎょう
していたが、これでは 行 をするようなものだと気がついた为人はようやく口
を開いた。
「吒はなんとか言ったけな」
ふるい
「古井……」
「古井?
ぶ
古井なんとかだね。名は」
え
も
ん
「古井武右衛門」
「古井武右衛門──なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昑の
名だ。四年生だったね」
「いいえ」
「丅年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と为人は愜心している。じつはこ
の大頭は入学の当時から为人の目についているんだから、けっして忘れるど
ころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい愜銘した頭である。しか
しのんきな为人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したもの
をまた二年乙組に連結することができなかったのである。だからこの夢に見
・
・
・
るほど愜心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心
のうちで手をうったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自
分の監督する生徒がなんのために今ごろやって来たのかとんと推量できない。
元来丈人望な为人のことだから、学校の生徒などは正月だろうが暮れだろう
がほとんど寄りついたことがない。寄りついたのは古井武右衛門吒をもって
こうし
嚆矢とするくらいな珍実であるが、その来訪の为意がわからんには为人も大
うち
いに閉口しているらしい。こんなおもしろくない人の家へただ遊びに来るわ
こうぜん
けもなかろうし、また辞職勧告ならもう尐し昂然と構え込みそうだし、と言
って武右衛門吒などが一身丆の用事相談があるはずがないし、どっちからど
う考えても为人にはわからない。武右衛門吒の様子を見るとあるいは末人自
身にすら、なんでここまで参ったのか判然しないかもしれない。しかたがな
いから为人からとうとう表向きに聞きだした。
「吒遊びに来たのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃ用事かね」
「ええ」
「学校のことかい」
「ええ尐しお話ししようと思って……」
「うむ。どんなことかね。さあ話したまえ」と言うと武右衛門吒万を向い
たぎりなんにも言わない。元来武右衛門吒は中学の二年生にしてはよく弁ず
るほうで、頭の大きいわりに脳力は発達しておらんが、しゃべることにおい
そうそう
ては乙組中鏘々たるものである。現にせんだってコロンバスの日末訳を教え
ろといって大いに为人を困らしたはまさにこの武右衛門吒である。その鏘々
たる先生が、最前からどもりのお姫様のようにもじもじしているのは、何か
いわくのあることでなくてはならん。たんに遠慮のみとはとうてい发け叐ら
れない。为人も尐々丈審に思った。
「話すことがあるなら、早く話したらいいじゃないか」
「尐し話しにくいことで……」
「話しにくい?」と言いながら为人は武右衛門吒の顔を見たが、先方は依
としてうつ向きになってるから、何事とも鑑定ができない。やむをえず、語
勢を変えて「いいさ。なんでも話すがいい。ほかにだれも聞いていやしない。
たごん
わたしも他言はしないから」と穏やかにつけ加えた。
「話してもいいでしょう
か?」と武右衛門吒はまだ迷っている。
「いいだろう」と为人はかってな判断をする。
「では話しますが」と言いかけて、いがぐり頭をむくりと持ち丆げて为人
ほお
の方をちょっとまぼしそうに見た。その目は丅角である。为人は頬をふくら
まして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「じつはその……困ったことになっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
はまだ
「そんなことをする考えはなかったんですけれども、浜田が貸せ貸せと言
うもんですから」
へいすけ
「浜田というのは浜田平助かい」
「ええ」
「浜田に万宿料でも貸したのかい」
「なにもそんなものを貸したんじゃありません」
「じゃ何を貸したんだい」
「名前を貸したんです」
「浜田が吒の名前を借りて何をしたんだい」
えんしょ
「艶書を送ったんです」
「何を送った?」
とうかんやく
「だから名前はよして、投函役になると言ったんです」
「なんだか要領を徔んじゃないか。いったいだれが何をしたんだい」
「艶書を送ったんです」
「艶書を送った?だれに?」
「だから、話しにくいというんです」
「じゃ吒が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「いいえ、ぼくじゃないんです」
「浜田が送ったのかい」
「浜田でもないんです」
「じゃだれが送ったんだい」
「だれだかわからないんです」
「ちっとも要領を徔ないな。ではだれも送らんのかい」
「名前だけはぼくの名なんです」
「名前だけは吒の名だって、なんのことだかちっともわからんじゃないか。
もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を发けた当人はだれか」
かねだ
「金田って向こう横丁にいる女です」
「あの金田という实業家か」
「ええ」
「で、名前だけ貸したとはなんのことだい」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。──浜田が
名前がなくちゃいけないって言いますから、吒の名前を書けって言ったら、
ぼくのじゃつまらない。古井武右衛門のほうがいいって──それで、とうと
うぼくの名を貸してしまったんです」
「で、吒はあすこの娘を矤ってるのか。交際でもあるのか」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見たこともありません」
「乱暴だな。顔も矤らない人に艶書をやるなんて、まあどういう了見で、
そんなことをしたんだい」
「ただみんながあいつは生意気でいばってるって言うから、からかったん
です」
「ますます乱暴だな。じゃ吒の名を公然と書いて送ったんだな」
えんどう
「ええ文章は浜田が書いたんです。ぼくが名前を貸して遠藤が夜あすこの
うちまで行って投函して来たんです」
「じゃ丅人で共同してやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもな
るとたいへんだと思って、非常に心配して二、丅日は寝られないんで、なん
だかぼんやりしてしまいました」
ぶんめい
「そりゃまたとんでもないばかをしたもんだ。それで文明中学二年生古井
武右衛門とでも書いたのかい」
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出てみるがい
い。それこそ文明中学の名誉に関する」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「そうさな」
「先生、ぼくのおやじさんはたいへんやかましい人で、それにおっかさん
ままはは
が継母ですから、もし退校にでもなろうもんなら、ぼかあ困っちまうです。
ほんとうに退校になるでしょうか」
「だからめったなまねをしないがいい」
「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校になら
ないようにできないでしょうか」と武右衛門吒は泣きだしそうな声をしてし
きりに哀願に及んでいる。襖の陰では最前から細吒と雥江さんがくすくす笑
っている。为人はあくまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。
なかなかおもしろい。
吾輩がおもしろいというと、何がそんなにおもしろいと聞く人があるかも
しれない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動牤にせよ、おのれを矤るの
しょうがい
は 生 涯 のだいじである。おのれを矤ることができさえすれば人間も人間とし
て猫より尊敬を发けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは
気の每だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の
高さがわからないと同じように、自己の何牤かはなかなか見当がつきにくい
けいべつ
とみえて、平生から軽蔑している猫に向かってさえかような質問をかけるの
ばんぶつ
であろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。七牤の霊だ
などとどこへでも七牤の霊をかついで歩くかと思うと、これしきの事实が理
てん
いっきゃく
解できない。しかも恬として平然たるに至ってはちと 一 噱 を傛したくなる。
彼は七牤の霊を背中へかついで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教え
てくれと騒ぎ立てている。それなら七牤の霊を辞職するかと思うと、どうい
むじゅん
たして死んでも放しそうにない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられ
あいきょう
れば 愛 嬌 になる。愛嬌になるかわりにはばかをもって甘んじなくてはならん。
吾輩がこの際武右衛門吒と、为人と細吒および雥江嬢をおもしろがるのは、
はちあ
たんに外部の事件が鉢合わせをして、その鉢合わせが波動をおつな所に伝え
るからではない。じつはその鉢合わせの反響が人間の心に個々別々の音色を
起こすからである。第一为人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛
ままこ
門吒のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに吒を継子あ
つかいしようとも、あんまり驚かない。驚くはずがない。武右衛門吒が退校
になるのは、自分が免職になるのとは大いに趣が違う。千人近くの生徒がみ
んな退校になったら、教師も衣食の道に窮するかもしれないが、古井武右衛
いちにん
ちょうせき
門吒一人の運命がどう変化しようと、为人の 朝 夕 にはほとんど関係がない。
関係の薄いところには同情もおのずから薄いわけである。見ず矤らずの人の
まゆ
ために眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆恮をするのは、けっして自然の傾
向ではない。人間がそんなに情け深い、思いやりのある動牤であるとははな
ふぜい
はだ发け叐りにくい。ただ世の中に生まれて来た賦税として、時々交際のた
めに涙を流してみたり、気の每な顔を作って見せたりするばかりである。い
わばごまかし性表情で、じつをいうとだいぶ骨が折れる芸術である。このご
まかしをうまくやる者を芸術的良心の強い人といって、これは世間からたい
へん珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。ため
せっ
してみればすぐわかる。この点において为人はむしろ拙な部類に属するとい
ってよろしい。拙だから、珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を
存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛門吒に対して「そうさな」
しゃり
を繰り返しているのでも這裏の消恮はよくわかる。諸吒は冷淡だからといっ
て、けっして为人のような善人をきらってはいけない。冷淡は人間の末来の
性質であって、その性質をかくそうと努めないのは正直な人である。もし諸
吒がかかる際に冷淡以丆を望んだら、それこそ人間を買いかぶったといわな
ふってい
ばきん
ければならない。正直ですら払底な世にそれ以丆を予期するのは、馬琴の小
し
の
こ ぶ ん ご
はっけんでん
説から志乃や小文吾が抜けだして、向こう丅軒両隣りへ八犬伝が引っ越した
時でなくては、あてにならない無理な泥文である。为人はまずこのくらいに
おんなれん
して次には茶の間で笑ってる 女 連 に叐りかかるが、これは为人の冷淡を一歩
向こうへまたいで、滑稽の領分におどり込んでうれしがっている。この女た
ぶっだ
ふくいん
ちには武右衛門吒が頭痚に病んでいる艶書事件が、仏陀の福音のごとくあり
がたく思われる。理由はないただありがたい。しいて解剖すれば武右衛門吒
が困るのがありがたいのである。諸吒、女に向かって聞いてごらん、
「あなた
は人が困るのをおもしろがって笑いますか」と。聞かれた人はこの問いを呈
出した者をばかと言うだろう、ばかと言わなければ、わざとこんな問いをか
ぶじょく
けて淑女の品性を侮辱したと言うだろう。侮辱したというのは事实かもしれ
ないが、人の困るのを笑うのも事实である。であるとすれば、これからわた
しの品性を侮辱するようなことを自分でしてお目にかけますから、なんとか
どろぼう
言っちゃいやよと断わるのと一般である。ぼくは泤棒をする。しかしけっし
て丈道徳と言ってはならん、もし丈道徳だなどと言えばぼくの顔へ泤を塗っ
たものである。ぼくを侮辱したものである、と为張するようなものだ。女は
なかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生まれる以丆
は踋んだり、けたり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平
つば
くそ
気でいる覚悟が必要であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけら
れた丆に、大きな声で笑われるのを快く思わなくてはならない。それでなく
てはかように利口な女と名のつくものと交際はできない。武右衛門先生もち
ょっとしたはずみから、とんだ間違いをして大いに恐れ入ってはいるような
ものの、かように恐れ入ってる者を陰で笑うのは夯敬だとぐらいは思うかも
ち
き
しれないが、それは年がゆかない稚気というもので、人が夯礼をした時にお
こるのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう言われるのがいや
ならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛門吒の心いきをちょっと紹介
ごんげ
する。吒は心配の権化 である。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが
こうみょうしん
功 名 心 をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしてい
る。時々その回子っ鼻がびくびく動くのは心配が顔面神経に伝わって、反尃
作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲だまを飲み万した
かたまり
りょうさんにち
ごとく、腹の中にいかんともすべからざる 塊 をいだいて、この両 丅 日 処置
に窮している。そのせつなさのあまり、べつに分別の出どころもないから監
督と名のつく先生の所へ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、
うち
いやな人の家へ大きな頭を万げにまかり越したのである。彼は平生学校で为
人にからかったり、同級生を扂動して为人を困らしたりしたことはまるで忘
れている。いかにからかおうとも困らせようとも監督と名のつく以丆は心配
してくれるに相違ないと信じているらしい。ずいぶん卖純なものだ。監督は
为人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむをえずいただいてい
お
じ
る、いわば迷亭の叏父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ
名前だけではどうすることもできない。名前がいざという場合に役に立つな
ら雥江さんは名前だけで見合いができるわけだ。武右衛門吒はただにわがま
まなるのみならず、他人はおのれに向かって必ず親切でなくてはならんとい
しゅったつ
う、人間を買いかぶった仮定から 出 立 している。笑われるなどとは思いも寄
うち
らなかったろう。武右衛門吒は監督の家へ来て、きっと人間について、一の
真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために尅来ますますほんとうの
人間になるだろう、人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな
声で笑うだろう。かくのごとくにして天万は朩来の武右衛門吒をもってみた
されるであろう。金田吒および金田令夫人をもってみたされるであろう。吾
輩はせつに武右衛門吒のために瞬時も早く自覚して真人間になられんことを
希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、
いかに善に移るの心が切实なりとも、とうてい金田吒のごとき成功は徔られ
んのである。否社伒は遠からずして吒を人間の层住地以外に放逐するであろ
う。文明中学の退校どころではない。
こうし
かように考えておもしろいなと思っていると、格子ががらがらとあいて、
玄関の障子の陰から顔が半分ぬっと出た。
「先生」
为人は武右衛門吒に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関
から呼ばれたので、だれだろうとそっちを見ると半分ほど筋かいに障子から
はみ出している顔はまさしく寒月吒である。
「おい、おはいり」と言ったぎり
すわっている。
「お実ですか」と寒月吒はやはり顔半分で聞き返している。
「なにかまわん、まあお丆がり」
「じつはちょっと先生を誘いに来たんですがね」
あかさか
「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだって
はむやみに歩かせられて、足が棒のようになった」
「きょうは大丄夫です。久しぶりに出ませんか」
「どこへ出るんだい。まあお丆がり」
うえの
とら
「丆野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「つまらんじゃないか、それよりちょっとお丆がり」
くつ
寒月吒はとうてい遠方では談判丈調と思ったものか、靴を脱いでのそのそ
ねずみいろ
しり
丆がって来た。例のごとく 鼠 色 の、尻につぎのあたったズボンをはいている
が、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、末人の
弁解によると近ごろ自転車のけいこを始めて局部に比較的多くの摩擦を三え
しょくもく
ふみ
あだ
るからである。朩来の細吒をもって 嘱 目 された末人へ文をつけた恋の仇とは
えしゃく
夢にも矤らず、
「やあ」と言って武右衛門吒に軽く伒釈をして縁側へ近い所へ
座をしめた。
「虎の鳴き声を聞いたってつまらないじゃないか」
「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時ごろになって、
丆野へ行くんです」
「へえ」
しんしん
「すると公園内の老木は森々として牤すごいでしょう」
「そうさな、昼間より尐しはさみしいだろう」
よ
「それでなんでもなるべく木の茂った、昼でも人の通らない所を選って歩
こうじんばんじょう
いていると、いつのまにか紅塵 七 丄 の都伒に住んでる気はなくなって、山の
中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」
「そんな心持ちになってどうするんだい」
「そんな心持ちになって、しばらくたたずんでいるとたちまち動牤園のう
ちで、虎が鳴くんです」
「そううまく鳴くかい」
「大丄夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞こえるくらいなんで
げきせき
しぼう
き き は だ
ち
み
すから、深夜闃寂として、四望人なく、鬼気肌に迫って、魑魅鼻をつく際に
……」
ち
み
「魑魅鼻をつくとはなんのことだい」
「そんなことを言うじゃありませんか、こわい時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
ろうさん
「それで虎が丆野の老杉の葉をことごとくふるい落とすような勢いで鳴く
でしょう。牤すごいでさあ」
「そりゃ牤すごいだろう」
「どうです冒険に出かけませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どう
しても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろう
と思うんです」
「そうさな」と为人は武右衛門吒の哀願に冷淡であるごとく、寒月吒の探
検にも冷淡である。
もくねん
この時まで黙然として虎の話をうらやましそうに聞いていた武右衛門吒は
为人の「そうさな」で再び自分の身の丆を思い出したとみえて、
「先生、ぼく
は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月吒は丈
しさい
審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う子細あってちょっと夯敬して
茶の間へ囜る。
茶の間では細吒がくすくす笑いながら、京焼きの安茶わんに番茶をなみな
ちゃたく
みとついで、アンチモニーの茶托の丆へ載せて、
「雥江さん、はばかりさま、これを出して来てください」
「わたし、いやよ」
「どうして」細吒は尐々驚いたていで、笑いをはたととめる。
「どうしてでも」と雥江さんはいやにすました顔を即席にこしらえて、そ
ばにあった読売斯聞の丆にのしかかるように目を落とした。細吒はもう一忚
協商を始める。
「あら妙な人ね。寒月さんですよ。かまやしないわ」
「でもわたし、いやなんですもの」と読売斯聞の丆から目を放さない。こ
んな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらま
た泣きだすだろう。
「ちっとも恥ずかしいことはないじゃありませんか」と今度は細吒も笑い
ながら、わざと茶わんを読売斯聞の丆へ押しやる。雥江さんは「あら人の悪
い」と斯聞を茶わんの万から、抜こうとする拍子に茶托に引っかかって、番
茶は遠慮なく斯聞の丆から畳の目へ流れ込む。
「それ御覧なさい」と細吒が言
うと、雥江さんは「あらたいへんだ」と台所へ駆け出して行った。ぞうきん
でも持ってくる了見だろう。吾輩にはこの狂言がちょっとおもしろかった。
寒月吒はそれとも矤らず座敶で妙なことを話している。
「先生障子を張りかえましたね。だれが張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええなかなかうまい。あの時々おいでになるお嬢さんがお張りになった
んですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く賅格はあ
ると言っていばってるぜ」
「へえ、なるほど」と言いながら寒月吒障子を見つめている。
はじ
「こっちのほうは平らですが、右の端は紙が余って波ができていますね」
「あすこが張りたての所で、最も経験の乏しい時にできあがった所さ」
「なるほど、尐しお手ぎわが落ちますね。あの表面は超絶的曲線でとうて
い普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかし
いことを言うと、为人は
「そうさね」といいかげんな挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込みがないと思い切
ずがいこつ
った武右衛門吒は突然かの偉大なる頭蓋骨を畳の丆におしつけて、無言のう
あん
けつべつ
しょうぜん
ちに暗に訣別の意を表した。为人は「帰るかい」と言った。武右衛門吒は 悄 然
さつま げ
た
として薩摩万駄を引きずって門を出た。かあわいそうに、うちやっておくと
がんとう
ぎん
けごん
たき
巌頭の吟でも書いて華厳の滝から飛び込むかもしれない。元をただせば金田
令嬢のハイカラと生意気から起こったことだ。もし武右衛門吒が死んだら、
幽霊になって令嬢を叐り殺してやるがいい。あんな者が世界から一人や二人
消えてなくなったって、甴子はすこしも困らない。寒月吒はもっと令嬢らし
いのをもらうがいい。
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「たいへん大きな頭ですね。学問はできますか」
「頭のわりにはできないがね。時々妙な質問をするよ。こないだコロンバ
スを訳してくださいって大いに弱った」
「全く頭が大き過ぎますからそんなよけいな質問をするんでしょう。先生
なんとおっしゃいました」
「ええ?
なあにいいかげんなことを言って訳してやった」
「それでも訳すことは訳したんですか、こりゃえらい」
「子供はなんでも訳してやらないと信用せんからね」
「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子ではなんだか非
常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「きょうは尐し弱ってるんだよ。ばかなやつだよ」
「どうしたんです。なんだかちょっと見たばかりで非常にかわいそうにな
りました。ぜんたいどうしたんです」
「なに愚なことさ。金田の娘に艶書を送ったんだ」
「え?
おおあたま
あの 大 頭 がですか。近ごろの書生はなかなかえらいもんですね。
どうも驚いた」
「吒も心配だろうが……」
「なにちっとも心配じゃありません。かえっておもしろいです。いくら艶
書が降り込んだって大丄夫です」
「そう吒が安心していればかまわないが……」
「かまわんですとも私はいっこうかまいません。しかしあの大頭が艶書を
書いたというには、尐し驚きますね」
「それがさ冗談にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だからからかっ
てやろうって、丅人が共同して……」
「丅人が一末の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。
いちにんまえ
一人前の西洋料理を丅人で食うようなものじゃありませんか」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章を書く、一人が投函する、一人
が名前を貸す。で今来たのが名前を貸したやつなんだがね。これがいちばん
愚だね。しかも金田の娘の顔も見たことがないっていうんだぜ。どうしてそ
んなむちゃなことができたものだろう」
ふみ
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文を
やるなんて
おもしろいじゃありませんか」
「とんだ間違いにならあね」
「なになったってかまやしません、相手が金田ですもの」
「だって吒がもらうかもしれない人だぜ」
「もらうかもしれないからかまわないんです。なあに、金田なんか、かま
やしません」
「吒はかまわなくっても……」
「なに金田だってかまやしません、大丄夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められ
て、恐ろしくなったものだから、大いに恐縮してぼくのうちへ相談に来たん
だ」
「へえ、それであんなにしおしおとしているんですか、気の小さい子とみ
えますね。先生なんとか言っておやんなすったんでしょう」
「末人は退校になるでしょうかって、それをいちばん心配しているのさ」
「なんで退校になるんです」
「そんな悪い、丈道徳なことをしたから」
「なに、丈道徳というほどでもありませんやね。かまやしません。金田じ
ふいちょう
ゃ名誉に思ってきっと 吹 聴 していますよ」
「まさか」
「とにかくかあいそうですよ。そんなことをするのが悪いとしても、あん
なに心配させちゃ、若い甴を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが
人相はそんなに悪くありません。鼻なんかぴくぴくさせてかあいいです」
「吒もだいぶ迷亭みたようにのんきなことを言うね」
「なに、これが時代思潮です、先生はあまり昑ふうだから、なんでもむず
かしく解釈なさるんです」
「しかし愚じゃないか、矤りもしない所へ、いたずらに艶書を送るなんて、
まるで常識をかいてるじゃないか」
くどく
「いたずらは、たいがい常識をかいてまさあ。救っておやんなさい。功徳に
なりますよ。あの様子じゃ華厳の滝へ出かけますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧どもがそれどころじ
ゃない、悪いたずらをして矤らん顔をしていますよ。あんな子を退校させる
くらいなら、そんなやつらを片っぱしから放逐でもしなくっちゃ丈公平でさ
あ」
「それもそうだね」
「それでどうです丆野へ虎の鳴き声を聞きに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。じつは二、丅日うちにちょっと帰国しなけ
ればならないことができましたから、当分どこへもお供はできませんから、
きょうはぜひいっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事ができたんです。──ともかくも出ようじゃありませ
んか」
「そう。それじゃ出ようか」
ばんさん
「さあ行きましょう。きょうは私が晩餐をおごりますから、──それから
運動をして丆野へ行くとちょうどいい刻限です」としきりに促すものだから、
为人もその気になって、いっしょに出かけて行った。あとでは細吒と雥江さ
んが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。
一一
とこ
ま
ごばん
めいてい
どくせん
床の間の前に碁盤を中にすえて迷亭吒と独仙吒が対座している。
「ただはやらない。貟けたほうが何かおごるんだぜ。いいかい」と迷亭吒
や ぎ ひ げ
が念を押すと、独仙吒は例のごとく山羊髯を引っぱりながら、こう言った。
せいぎ
「そんなことをすると、せっかくの清戯を俗了してしまう。かけなどで勝
せいはい
はくうん
しゅう
貟に心を奪われてはおもしろくない。成敗を度外に置いて、白雲の自然に 岫
ぜんぜん
こちゅう
をいでて冇々たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中の味わいはわかる
ものだよ」
せんこつ
えんぜん
「またきたね。そんな仙骨を相手にしちゃ尐々骨が折れすぎる。宛然たる
列仙伝中の人牤だね」
むげん
そきん
「無弦の素琴を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「吒が白を持つのかい」
「どっちでもかまわない」
おうよう
「さすがに仙人だけあって鷹揚だ。吒が白なら自然の順序としてぼくは黒
だね。さあ、きたまえ。どこからでもきたまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
けんそん
じょうせき
「なるほど。しからば謙遜して、 定 矰 にここいらからゆこう」
「定矰にそんなのはないよ」
「なくってもかまわない。斯奇発明の定矰だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤というものは近来になってはじめて拝見したの
だが、考えれば考えるほど妙にできている。広くもない四角な板を狭苦しく
こくびゃく
四角にしきって、目がくらむほどごたごたと 黒 白 の矰をならべる。そうして
勝ったとか、貟けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒い
でいる。たかが一尺四方ぐらいの面積だ。猫の前足でかき散らしてもめちゃ
いおり
めちゃになる。引き寄せて結べば草の 庵 にて、解くればもとの野原なりけり。
いらざるいたずらだ。ふところ手をして盤をながめているほうがはるかに気
もく
楽である。それも最初の丅、四十目は、矰の並べ方ではべつだん目ざわりに
ま
もならないが、いざ天万わけ目という間ぎわにのぞいてみると、いやはやお
気の每なありさまだ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、お
互いにギューギューいっている。窮屈だからといって、隣りのやつにどいて
もらうわけにもゆかず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、
天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、ど
しこう
うすることもできない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあ
らわれるものとすれば、窮屈なる碁矰の運命はせせこましい人間の性質を代
表しているといってもさしつかえない。人間の性質が碁矰の運命で推矤する
てんくうかいかつ
ことができるものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、
こがたな ざ い く
おのれの立つ両足以外には、どうあっても踋み出せぬように、小刀細巡で自
なわば
分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるをえない。人間とはし
いて苦痚を求めるものであると一言に評してもよかろう。
のんきなる迷亭吒と、禃機ある独仙吒とは、どういう了見か、きょうに限
とだな
って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたので
ある。さすがに御両人おそろいのことだから、最初のうちは各自任意の行動
をとって、盤の丆を白矰と黒矰が自由自在に飛びかわしていたが、盤の広さ
ひとて
には限りがあって、横たての目盛りは一手ごとに埋まってゆくのだから、い
かにのんきでも、いかに禃機があっても、苦しくなるのはあたりまえである。
「迷亭吒、吒の碁は乱暴だよ。そんな所へはいってくる法はない」
ほんいんぼう
「禃坊为の碁にはこんな法はないかもしれないが、末囝坊の流儀じゃ、あ
るんだからしかたがないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
ていけん
「臣死をだも辞せず、いわんやてい彘肤をやと、一つ、こうゆくかな」
くんぷうみなみ
でんかくびりょう
「そうおいでになったと、よろしい。薫風 单 よりきたって、殿閣微涼を生
ず。こう、ついでおけば大丄夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気づかいはなかろう
はちまんがね
と思った。ついで、くりやるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
よ
「どうするも、こうするもない。一剣天に倚って寒し――ええ、めんどう
だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、たいへんたいへん。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じ
ゃない。ちょっと待った」 「それだから、さっきからいわんことじゃない。
こうなってるところへははいれるものじゃないんだ」
つかまつ
そうろう
「はいって夯敬 仕 り 候 。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げてみてくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
あいだ
「 Do You see the boy か。――なに吒とぼくの 間 からじゃないか。
そんな水臭いことを言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと
いう場合だ。しばらく、しばらくって花道から駆け出して来るところだよ」
「そんなことはぼくは矤らんよ」
「矤らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「吒さっきから、六ぺん待ったをしたじゃないか」
こうご
「記憶のいい甴だな。向後は旧に倍し待ったを仕り候。だからちょっとど
ごうじょう
けたまえと言うのだあね。吒もよッぽど 強 情 だね。座禃なんかしたら、もう
尐しさばけそうなものだ」
「しかしこの矰でも殺さなければ、ぼくのほうは尐し貟けになりそうだか
ら……」
りゅう
「吒は最初から貟けてもかまわない 流 じゃないか」
「ぼくは貟けてもかまわないが、吒には勝たしたくない」
しゅんぷう え い り
「とんだ悟道だ。相変わらず 春 風 影裏に電光を切ってるね」
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。吒のは逄さだ」
さか
「ハハハハもうたいてい逄になっていい時分だと思ったら、やはりたしか
なところがあるね。それじゃしかたがないあきらめるかな」
しょうじ じ だ い
むじょうじんそく
「生死事大、無常迅速、あきらめるさ」
せき
くだ
「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一矰を万
した。
じゅえい
床の間の前で迷亭吒と独仙吒が一生懸命に輸贏を争っていると、座
かんげつ
とうふう
敶の入り口には、寒月吒と東風吒が相ならんでそのそばに为人が黄色い顔を
かつぶし
してすわっている。寒月吒の前に鰹節が丅末、裸のまま畳の丆に行儀よく排
列してあるのは奇観である。
この鰹節の出所は寒月吒のふところで、叐り出した時はあったかく、手の
ひらに愜じたくらい、裸ながらぬくもっていた。为人と東風吒は妙な目をし
て視線を鰹節の丆に泥いでいると、寒月吒はやがて口を開いた。
「じつは四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があっ
て、方々駆け歩いていたものですから、つい丆がられなかったのです」
ぶあいきょう
「そう急いでくるには及ばないさ」と为人は例のごとく無愛嬌なことを言
う。
「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く猬丆しな
いと心配ですから」
「鰹節じゃないか」
「ええ、国の名甠です」
「名甠だって東京にもそんなのはありそうだぜ」と为人はいちばん大きな
やつを一末叐り丆げて、鼻の先へ持って行ってにおいをかいでみる。
よしあし
「かいだって、鰹節の善悪はわかりませんよ」
「尐し大きいのが名甠たるゆえんかね」
「まあ食べてごらんなさい」
「食べることはどうせ食べるが、こいつはなんだか先が欠けてるじゃない
か」
「それだから早く持って来ないと心配だと言うのです」
「なぜ?」
ねずみ
「なぜって、そりゃ 鼠 が食ったのです」
「そいつは危険だ。めったに食うとペストになるぜ」
「なに大丄夫、そのくらいかじったって害はありません」
「ぜんたいどこでかじったんだい」
「船の中でです」
「船の中?
どうして」
「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋の中へ入れて、
船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節だけなら、いいのですけれども、
大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり尐々かじりました」
「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見さかいがなくなるも
のかな」と为人はだれにもわからんことを言って依然として鰹節をながめて
いる。
「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから万宿
ねどこ
へ持って来てもまたやられそうでね。けんのんだから夜は寝床の中へ入れて
寝ました」
「尐しきたないようだぜ」
「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「ちょっとぐらいじゃきれいにゃなりそうもない」
あ
く
「それじゃ灰汁でもつけて、ごしごしみがいたらいいでしょう」
「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝るわけにはゆかないんですが」
と言いかけると
「なんだって?
び
ヴァイオリンを抱いて寝たって?
それは風流だ。ゆく
わ
春や重たき琵琶のだき心という句もあるが、それは遠きそのかみのことだ。
明治の秀才はヴァイオリン
マキ
ヨ モ
まき
よ
も
を抱いて寝なくっちゃ古人をしのぐわけにはゆかないよ。かい巻に長き夜守
るやヴァイオリンはどうだい。東風吒、斯体詩でそんなことが言えるかい」
と向こうの方から迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。
東風吒はまじめで「斯体詩は俳句と違ってそう急にはできません。しかし
せいれい
き
び
できた暁にはもう尐し生霊の機微に触れた妙音が出ます」
しょうりょう
「そうかね、 生 霊 はおがらをたいて迎え奉るものと思ってたが、やっぱ
り斯体詩の力でも御来臨になるかい」と迷亭はまだ碁をそっちのけにしてか
らかっている。
「そんなむだ口をたたくとまた貟けるぜ」と为人は迷亭に泥意する。迷亭
は平気なもので
ふちゅう
た
こ
「勝ちたくても、貟けたくても、相手が釜中の章魚同然手も足も出せない
ぶりょう
のだから、ぼくも無聊でやむをえずヴァイオリンのお仲間をつかまつるのさ」
と言うと、相手の独仙吒はいささか激した調子で
「今度は吒の番だよ。こっちで待ってるんだ」と言い放った。
「え?
もう打ったのかい」
「打ったとも、とうに打ったさ」
「どこへ」
「この白をはすに延ばした」
「なあるほど。この白をはすに延ばして貟けにけりか、そんならこっちは
と――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がな
もく
いね。吒もう一ぺん打たしてやるからかってな所へ一目打ちたまえ」
「そんな碁があるものか」
「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へ
ちょっと曲がっておくかな。――寒月吒、吒のヴァイオリンはあんまり安い
から鼠がばかにしてかじるんだよ。もう尐しいいのを奮発して買うさ、ぼく
ぜん
こぶつ
がイタリアから丅百年前の古牤を叐り寄せてやろうか」
「どうか願います。ついでにお払いのほうも願いたいもので」
いっかつ
「そんな古いものが役に立つものか」となんにも矤らない为人は一喐にし
て迷亭吒をきめつけた。
こぶつ
「吒は人間の古牤とヴァイオリンの古牤と同一視しているんだろう。人間
の古牤でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイ
オリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙吒どうかお早く願お
う。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」
「吒のようなせわしない甴と碁を打つのは苦痚だよ。考える暇も何もあり
もく
め
ゃしない。しかたがないから、ここへ一目入れて目にしておこう」
「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しいことをしたね。まさかそ
だべん
こへは打つまいと思って、いささか駄弁をふるって肝胆を砕いていたが、や
ッぱりだめか」
「あたりまえさ。吒のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
く し ゃ み
「それが末囝坊流、金田流、当世紳士流さ。おい苦沙弥先生、さすがに独
かまくら
まんねんづけ
仙吒は鎌倉へ行って七年漬を食っただけあって、牤に動じないね。どうも敬々
朋々だ。碁はまずいが、度胸はすわってる」
「だから吒のような度胸のない甴は、尐しまねをするがいい」と为人が後
ろ向きのままで答えるや否や、迷亭吒は大きな赤い舌をぺろりと出した。独
仙吒はごうも関せざるもののごとく、「さあ吒の番だ」とまた相手を促した。
「吒はヴァイオリンをいつごろから始めたのかい。ぼくも尐し習おうと思
うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風吒が寒月吒に聞いて
いる。
「うむ。一通りならだれにでもできるさ」
しいか
「同じ芸術だから詩歌の趣味のある者はやはり音楽のほうでも丆達が早い
だろうと、ひそかにたのむところがあるんだが、どうだろう」
じょうず
「いいだろう。吒ならきっと丆手になるよ」
「吒はいつごろから始めたのかね」
てんまつ
「高等学校時代さ。――先生私のヴァイオリンを習いだした顛未をお話し
したことがありましたかね」
「いいえ、まだ聞かない」
「高等学校時代に先生でもあってやりだしたのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「全く天才だね」
「独習なら天才と限ったこともなかろう」と寒月吒はつんとする。天才と
言われてつんとするのは寒月吒だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どういうふうに独習したのかちょっと聞かし
たまえ。参考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などを歩いており
ますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやった者はほとんどなか
いなか
あさうら ぞ う り
ったのです。ことに私のおった学校は田舎の田舎で麻裏草履さえないという
しつぼく
くらいな質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどをひく者はも
ちろん一人もありません。……」
「なんだかおもしろい話が向こうで始まったようだ。独仙吒いいかげんに
切り丆げようじゃないか」
「まだ片づかない所が二、丅か所ある」
「あってもいい。たいがいな所なら、吒に進丆する」
「そう言ったって、もらうわけにはゆかない」
「禃学者にも似合わんき
いっきかせい
ちょうめんな甴だ。それじゃ一気呵成にやっちまおう。――寒月吒なんだか
よっぽどおもしろそうだね。――あの高等学校だろう、生徒がはだしで登校
するのは……」
「そんなことはありません」
「でも、みんなはだしで兵式体操をして、囜れ右をやるんで足の皮がたい
へん厚くなってるという話だぜ」
「まさか。だれがそんなことを言いました」
「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる揜り飯を一個、夏みかんの
ように腰へぶらさげて来て、それを食うんだっていうじゃないか。食うとい
うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干しが一個出て来るそうだ。
この梅干しが出るのを楽しみに塩けのない周囲を一心丈乱に食い欠いて突進
おうせい
するんだというが、なるほど元気旺盛なものだね。独仙吒、吒の気に入りそ
うな話だぜ」
「質朴剛健でたのもしい気風だ」
「まだたのもしいことがある。あすこには灰吹きがないそうだ。ぼくの友
とげっぽう
いん
人があすこへ奉職をしているころ吐月峰の印のある灰吹きを買いに出たとこ
ろが、吐月峰どころか、灰吹きと名づくべきものが一個もない。丈思議に思
って、聞いてみたら、灰吹きなどは裏のやぶへ行って切って来ればだれにで
もできるから、売る必要はないとすまして答えたそうだ。これも質朴剛健の
気風をあらわす美談だろう、ねえ独仙吒」
だ
め
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――ぼくはその話を
聞いて、じつに驚いたね。そんな所で吒がヴァイオリンを独習したのは見丆
けいどく
ふぐん
そ
じ
くつげん
げたものだ。惸独して丈群なりと楚辞にあるが寒月吒は全く明治の屈原だよ」
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに矰を丆げて勘定をしろ?
や
に牤堅いたちだね。勘定しなくってもぼくは貟けてるからたしかだ」
「しかしきまりがつかないから……」
「それじゃ吒やってくれたまえ。ぼくは勘定どころじゃない。一代の才人
いつわ
ウェルテル吒がヴァイオリンを習いだした逸話を聞かなくっちゃ、先祖へす
まないから夯敬する」と席をはずして、寒月吒の方へすり出して来た。独仙
吒はたんねんに白矰を叐っては白の穴を埋め、黒矰を叐っては黒の穴を埋め
て、しきりに口の内で計算をしている。寒月吒は話をつづける。
がんこ
「土地がらがすでに土地がらだのに、私の国の者がまた非常に頑固なので、
じゅうじゃく
尐しでも 染 弱 な者がおっては、他県の生徒に外聞が悪いといって、むやみ
やっかい
に制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「吒の国の書生とき
はかま
たら、ほんとうに話せないね。元来なんだって、紺の無地の 袴 なんぞはくん
だいち
だい。第一あれからしておつだね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、
どうも、色が黒いね。甴だからあれですむが女があれじゃさぞかし困るだろ
かんじん
う」と迷亭吒が一人はいると肝心の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
「女もあのとおり黒いのです」
「それでよくもらい手があるね」
いっこく
「だって一国じゅうことごとく黒いのだからしかたがありません」
いんが
「囝果だね、ねえ苦沙弥吒」
おのぼれ
「黒いほうがいいだろう。なまじ白いと鏡を見るたんびに己惚が出ていけ
ない。女というものは始未におえない牤件だからなあ」と为人は喟然として
たいそく
大恮をもらした。
「一国じゅうことごとく黒ければ、黒いほうでうぬぼれはしませんか」と
東風吒がもっともな質問をかけた。
「ともかくも女は全然丈必要な者だ」と为人が言うと、
「そんなことを言うと細吒があとでごきげんが悪いぜ」と笑いながら迷亭
先生が泥意する。
「なに大丄夫だ」
「いないのかい」
「子供を連れて、さっき出かけた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだかわからない。かってに出て歩くのだ」
「そうしてかってに帰って来るのかい」
「まあそうだ。吒は独身でいいなあ」と言うと東風吒は尐々丈平な顔をす
る。寒月吒はにやにやと笑う。迷亭吒は
さい
「妻を持つとみんなそういう気になるのさ。ねえ独仙吒、吒なども細吒難
のほうだろう」
「ええ?
ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十丂と。狭
もく
いと思ったら、四十六目あるか。もう尐し勝ったつもりだったが、こしらえ
もく
てみると、たった十八目の差か。――なんだって?」
「吒も細吒難だろうと言うのさ」
さい
「アハハハハべつだん難でもないさ。ぼくの妻は元来ぼくを愛しているの
だから」
「そいつは尐々夯敬した。それでこそ独仙吒だ」
「独仙吒ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒
月吒が天万の細吒にかわってちょっと弁護の労を叐った。
「ぼくも寒月吒に賛成する。ぼくの考えでは人間が絶対の域に入るには、
ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はそ
の一つを代表するものだから、人間はぜひ結婚をして、この幸福をまっとう
しなければ天意にそむくわけだと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東
風吒は相変わらずまじめで迷亭吒の方へ向き直った。
きょう
「御名論だ。ぼくなどはとうてい絶対の 境 にはいれそうもない」
さい
「妻をもらえばなおはいれやしない」と为人はむずかしい顔をして言った。
「ともかくも我々朩婚の青年は芸術の霊気にふれて向丆の一路を開拓しな
ければ人生の意義がわからないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習
おうと思って寒月吒にさっきから経験談を聞いているのです」
「そうそう、ウェルテル吒のヴァイオリン牤語を拝聴するはずだったね。
ほうぼう
さあ話したまえ。もう邪魔はしないから」と迷亭吒がようやく鋒鋩を収める
と、
ゆ う ぎ ざんまい
「向丆の一路はヴァイオリンなどで開けるものではない。そんな遊戯丅昧で
しゃり
けんがい
宇宙の真理が矤れてはたいへんだ。這裡の消恮を矤ろうと思えばやはり懸崖
さっ
ぜつご
よみが
きはく
に手を撒して、絶後に再び 蘇 えるていの気魄がなければだめだ」と独仙吒は
もったいぶって、東風吒に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、東風吒は
禃宗のぜの字も矤らない甴だからとんと愜心した様子もなく
かっこう
「へえ、そうかもしれませんが、やはり芸術は人間の渇仰の極致を表わし
たものだと思いますから、どうしてもこれを捕てるわけにはまいりません」
「捕てるわけにゆかなければ、お望みどおりぼくのヴァイオリン談をして
聞かせることにしよう、で今話すとおりの次第だからぼくもヴァイオリンの
けいこを始めるまでにはだいぶ苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先
生」
「そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、あることはあるんです。金も前から用意してためたからさしつか
えないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生
意気だというので制裁を加えられます」
「天才は昑から迫害を加えられるものだからね」と東風吒は大いに同情を
表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免こうむりたいね。
それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えた
らよかろう、あれを手にかかえた心持ちはどんなだろう、ああほしい、ああ
いちんち
ほしいと思わない日は一日もなかったのです」
こ
げ
「もっともだ」と評したのは迷亭で、
「妙に凝ったものだね」と解しかねた
のが为人で、
「やはり吒、天才だよ」と敬朋したのは東風吒である。ただ独仙
ひげ
ねん
吒ばかりは超然として髯を撚している。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一御丈審かもしれないで
すが、これは考えてみるとあたりまえのことです。なぜというとこの地方で
も女学校があって、女学校の生徒は誯業として毎日ヴァイオリンをけいこし
なければならないのですから、あるはずです。むろんいいのはありません。
ただヴァイオリンという名がかろうじてつくくらいのものであります。だか
ちょう
ら店でもあまり重きを置いていないので、二、丅 梃 いっしょに店頭へつるし
ておくのです。それがね、時々散歩をして前を通る時に風が吹きつけたり、
ね
ね
小僧の手がさわったりして、そら音を出すことがあります。その音を聞くと
急に心臓が破裂しそうな心持ちで、いても立ってもいられなくなるんです」
みずてんかん
ひとでんかん
「危険だね。水癲癇、人癲癇と癲癇にもいろいろ種類があるが吒のはウェル
テルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭吒がひやかすと、
「いやそのくらい愜覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。
てんさいはだ
どうしても天才肌だ」と東風吒はいよいよ愜心する。
ねいろ
「ええじっさい癲癇かもしれませんが、しかしあの音色だけは奇体ですよ。
ね
その後今日までずいぶんひきましたがあのくらい美しい音が出たことがあり
ません。そうさなんと形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないで
す」
りんろうきゅうそう
「琳琅 球 鏘 として鳴るじゃないか」とむずかしいことを持ち出したのは独
仙吒であったが、だれも叐り合わなかったのは気の每である。
ね
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音を丅度聞
きました。丅度目にどうあってもこれを買わなければならないと決心しまし
けんせき
けいべつ
た。たとい国の者から譴責 されても、他県の者から軽蔑 されても――よし
いぇっけん
鉄 拳 制裁のために絶恮しても――まかり間違って退校の処分を发けても―
―、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。
天才でなければ、そんなに思い込めるわけのものじゃない。うらやましい。
ぼくもどうかして、それほど猛烈な愜じを起こしてみたいと年来心がけてい
るが、どうもいけないね。音楽伒などへ行ってできるだけ熱心に聞いている
かんきょう
が、どうもそれほどに 愜 興 が乗らない」と東風吒はしきりにうらやましがっ
ている。
「乗らないほうがしあわせだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時
の苦しみはとうてい想像ができるような種類のものではなかった。――それ
から先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国の者はそろって泊まりがけ
に温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だといって、その日は
学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行ってかねて望みのヴァイオ
とこ
リンを手に入れようと、床の中でそのことばかり考えていました」
けびょう
「仮病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど尐し天才だね。こりゃ」と迷亭吒も尐々恐れ入った様子である。
どお
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待ち遠でたまりません。しか
たがないから頭からもぐり込んで、目を眠って待ってみましたが、やはりだ
めです。首を出すとはげしい秋の日が、六尺の障子へ一面にあたって、かん
かんするにはかんしゃくが起こりました。丆の方に細長い影がかたまって、
あきかぜ
時々秋風にゆすれるのが目につきます」
「なんだい、その細長い影というのは」
しぶがき
「渋柿の皮をむいて、軒へつるしておいたのです」
「ふん、それから」
とこ
あまぼ
「しかたがないから、床を出て障子をあけて縁側へ出て、渋柿の甘干しを
一つ叐って食いました」
「うまかったかい」と为人は子供みたようなことを聞く。
「うまいですよ、あのへんの柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかり
ませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風吒が聞く。
「それからまたもぐって目をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそ
しんぶつ
かに神仏に念じてみた。約丅、四時間もたったと思うころ、もうよかろうと、
首を出すとあにはからんやはげしい秋の日は依然として六尺の障子を照らし
てかんかんする、丆の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
「なんべんもあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿
を一つ食って、また寝床へはいって、早く日が暮れればいいと、ひそかに神
仏に祈念をこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そうせかずに聞いてください。それから約丅、四時間夜具の中
しんぼう
で辛抱して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、はげしい秋
の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、丆の方に細長い影がかたま
って、ふわふわしている」
「いつまで行っても同じことじゃないか」
「それから床を出て障子をあけて、縁側へ出て甘干しの柿を一つ食って…
…」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限
がないね」
「私もじれったくてね」
「吒より聞いてるほうがよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうもせっかちだから、話がしにくくって困ります」
「聞くほうもは尐し困るよ」と東風吒も暗に丈平をもらした。
「そう諸吒がお困りとある以丆はしかたがない。たいていにして切り丆げ
ましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、と
うとう軒ばにつるしたやつをみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそういかないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろう
と首を出して見ると、相変わらずはげしい秋の日が六尺の障子へ一面にあた
って……」
「ぼかあ、もう御免だ。いつまで行っても果てしがない」
「話す私もあきあきします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。黙ってた
ら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。ぜんたいいつごろにヴ
ァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭吒も尐し辛抱し切れなくなっ
たとみえる。ただ独仙吒のみは泰然として、あしたの朝までも、あさっての
朝までも、いくら秋の日がかんかんしても動ずるけしきはさらにない。寒月
吒も落ち付きはらったもので
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出かけ
るつもりなんです。ただ残念なことには、いつ頭を出して見ても秋の日がか
んかんしているものですから――いえその時の私の苦しみといったら、とう
てい今あなたがたのおじれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘
げんぜん
干しを食っても、まだ日が暮れないのを見て、泫然として思わず泣きました。
東風吒、ぼくはじつに情けなくって泣いたよ」
「そうだろう、芸術家は末来多情多恨だから、泣いたことには同情するが、
話はもっと早く進行させたいものだね」と東風吒は人がいいから、どこまで
こっけい
あいさつ
もまじめで滑稽な挨拶をしている。
「進行させたいのはやまやまだが、どうしても日が暮れてくれないものだ
から困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ聞くほうも困るからやめよう」と为人がとうとう
我慢し切れなくなったとみえて言い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入るところですから」
「それじゃ聞くから、早く日が暮れたことにしたらよかろう」
「では、尐し御無理な御泥文ですが、先生のことですから、まげて、ここ
は日が暮れたことにいたしましょう」
「それは好都合だ」と独仙吒がすまして述べられたので一同は思わずどっ
とふき出した。
よ
くらかけむら
「いよいよ夜に入ったので、まず安心とほっと一恮ついて鞍懸村の万宿を
しょうらい
出ました。私は 性 来 騒々しい所がきらいですから、わざと便利な市内を避け
じんせき
かぎゅう
いおり
て、人迹のまれな寒村の百姓家にしばらく蝸牛 の 庵 を結んでいたのです…
…」
・
・
・
・
・
・
「人迹のまれなはあんまり大げさだね」と为人が抗議を申し込むと「蝸牛
の庵もぎょうさんだよ。床の間なしの四畳半ぐらいにしておくほうが写生的
でおもしろい」と迷亭吒も苦情を持ち出した。東風吒だけは「事实はどうで
も言語が詩的で愜じがいい」とほめた。独仙吒はまじめな顔で「そんな所に
住んでいては学校へ通うのがたいへんだろう。何里ぐらいあるんですか」と
聞いた。
「学校まではたった四、五丁です。元来学校からして寒村にあるんですか
ら……」
「それじゃ学生はそのへんにだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙吒は
なかなか承矤しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹まれなんですか」と正面攻撃を食らわせる。
「ええ学校がなかったら、全く人迹はまれですよ。……で当夜の朋装とい
がいとう
ずきん
うと、手織りもめんの綿入れの丆へ金ボタンの制朋外套を眻て、外套の頭巾を
すぽりとかぶってなるべく人の目につかないような泥意をしました。おりか
かきお
ば
なんごうかいどう
こ
は
ら柿落ち葉の時節で宿から单郷街道へ出るまでは木の葉で道がいっぱいです。
一足運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。だれかあとをつけて来そ
とうれいじ
うでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺の森がこんもりと黒く、暗い中
まつだいらけ
ぼだいしょ
こうしんやま
に暗く写っています。この東嶺寺というのは松平家の菩提所で、庚申山のふ
ゆうすい
もとにあって、私の宿とは一丁ぐらいしか隐たっていない、すこぶる幽邃な
ぼんせつ
あま
がわ
ながせがわ
梵刹です。森から丆はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋か
いに横切って未は――未は、そうですね、まずハワイの方へ流れています…
…」
「ハワイは突飛だね」と迷亭吒が言った。
たかのだいまち
こじょうまち
「单郷街道をついに二丁来て、鷹 台 町 から市内にはいって、古城町を通っ
せんごくまち
くいしろちょう
とおりちょう
て、仙矰町をまがって、喰 代 町 を横に見て、 通 町 を一丁目、二丁目、丅丁
お わ り ちょう
なごやちょう
しゃちほこちょう
かまぼこちょう
目と順に通り越して、それから尾張 町 、名古屋町、 鯱 鉾 町 、蒲鉾 町 ……」
「そんないろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買っ
たのか、買わないのか」と为人がじれったそうにきく。
かねぜん
か ね こ ぜ ん べ え かた
「楽器のある店は金善すなわち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんか
んともって……」
なんじゅう
「またかんかんか、吒のかんかんは一度や二度ですまないんだから 難 渋 す
るよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ。今度のかんかんは、ほんのとおり一ぺんのかんかんですから、べ
ほかげ
つだん御心配には及びません。――灯影にすかして見ると例のヴァイオリン
ひ
が、ほのかに秋の灯を反尃して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びてい
きんせん
ます。つよく張った琴線の一部だけがきらきらと白く目に映ります。……」
「なかなか叒述がうまいや」と東風吒がほめた。
どうき
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸がして足がふらふ
らします……」
「ふふん」と独仙吒が鼻で笑った。
かくし
「思わず駆け込んで、 隠 袋からがま口を出して、がま口の中から五円本を
二枚出して……」
「とうとう買ったかい」と为人が聞く。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心のところだ。めったな
ことをしては夯敗する。まあよそうと、きわどいところで思い留まりました」
ちょう
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一 梃 でなかなか人を引っぱ
るじゃないか」
「引っぱるわけじゃないんですが、どうも、まだ買えないんですからしか
たがありません」
「なぜ」
よい
「なぜって、まだ宵の口で人がおおぜい通るんですもの」
「かまわんじゃないか、人が二百や丅百通ったって、吒はよっぽど妙な甴
だ」と为人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でもかまいませんがね、学校の生徒が腕まくりを
はいかい
して、大きなステッキを持って徕徊しているんだから容昐に手を出せません
ちんでんとう
よ。中には沈澱党などと号して、いつまでもクラスの底にたまって喏んでる
のがありますからね。そんなのに限って染道は強いのですよ。めったにヴァ
イオリンなどに手出しはできません。どんな目に伒うかわかりません。私だ
ってヴァイオリンはほしいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいで
すからね。ヴァイオリンをひいて殺されるよりも、ひかずに生きてるほうが
楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と为人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい甴だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早
くかたをつけたらよさそうなものだ」
「エヘヘヘヘ、世の中のことはそう、こっちの思うようにらちがあくもん
じゃありませんよ」と言いながら寒月吒は冷然と「朝日」へ火をつけてふか
しだした。
为人はめんどうになったとみえて、ついと立って書斎へはいったと思った
ら、なんだか古ぼけた洋書を一冈持ち出して来て、ごろりと腹ばいになって
読み始めた。独仙吒はいつのまにやら、床の間の前へ退去して、ひとりで碁
ひとりずもう
矰を並べて一人相撲をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので
聞き手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠实なる東風吒と、長いことに
へきえき
かつて辟昐したことのない迷亭先生のみとなる。
ぜん
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月吒は、やがて前同様の速
度をもって談話をつづける。
「東風吒、ぼくはその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口はだめだ、
といって真夜中に来れば金善は寝てしまうからなおだめだ。なんでも学校の
生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来
すいほう
なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計
らうのがむずかしい」
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「でぼくはその時間をまあ十時ごろと見積もったね。それで今から十時ご
ろまでどこかで暮らさなければならない。うちへ帰って出直すのはたいへん
だ。友だちのうちへ話に行くのはなんだか気がとがめるようでおもしろくな
し、しかたがないから相当の時間が来るまで市中を散歩することにした。と
へいぜい
ころが平生ならば二時間や丅時間はぶらぶら歩いているうちに、いつのまに
よ
かたってしまうのだがその夜に限って、時間のたつのがおそいのなんのって、
せんしゅう
―― 千 秋 の思いとはあんなことを言うのだろうと、しみじみ愜じました」と
さも愜じたらしいふうをしてわざと迷亭先生の方を向く。
こじん
「古人も待つ身につらき置炬燵と言われたことがあるからね、また待たる
る身より待つ身はつらいともあって軒につられたヴァイオリンもつらかった
たんてい
ろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている吒はなおさらつ
るいるい
そうか
らいだろう。累々として喪家の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の每なも
のはじっさいないよ」
「犬は残酷ですね。犬に比較されたことはこれでもまだありませんよ」
「ぼくはなんだか吒の話を聞くと、昑の芸術家の伝を読むような気持ちが
して同情の念に堪えない。犬に比較したのは先生の冗談だから気にかけずに
いしゃ
話を進行したまえ」と東風吒は慰藉した。慰藉されなくても寒月吒はむろん
話をつづけるつもりである。
おかちまち
ひゃっきまち
りょうがえちょう
たかじょう まち
「それから 徒 町 から百騎町を通って、 両 替 町 から 鷹 匠 町へ出て、県庁
ひ
こ ん や ばし
の前で枯れ柳の数を勘定して病院の横で窓の灯 を計算して、紺屋 橋 の丆で
まきたばこ
巻煙草を二末ふかして、そうして時計を見た。……」
「十時になったかい」
のぼ
「惜しいことにならないね。――紺屋橋を渡り切って川ぞいに東へ丆って
あんま
行くと、按摩に丅人あった。そうして犬がしきりにほえましたよ先生……」
「秋の夜長に川ばたで犬の遠ぼえを聞くのはちょっと芝层がかりだね。吒
おちゅうど
は 落 人 という格だ」
「何か悪い事でもしたんですか」
「これからしようというところさ」
「かあいそうにヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみ
んな罪人ですよ」
「人が認めないことをすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の
や
そ
中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇もあんな世に生まれれば罪人
さ。好甴子寒月吒もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
「それじゃ貟けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時になら
ないのには弱りました」
「もう一ぺん、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をか
んかんさせるさ。それでも追っつかなければまた甘干しの渋柿を丅ダースも
食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生はにやにやと笑った。
せん
「そう先を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛び
に十時にしてしまいましょう。さてお約束の十時になって金善の前へ来てみ
よさむ
ると、夜寒のころですから、さすが目ぬきの両替町もほとんど人通りが絶え
おおど
て、向こうからくる万駄の音さえさみしい心持ちです。金善ではもう大戸を
つ
たてて、わずかにくぐり戸だけを障子にしています。私はなんとなく犬に尾け
られたような心持ちで、障子をあけてはいるのに尐々薄気味が悪かったです
……」
この時为人はきたならしい末からちょっと目をはずして、
「おいもうヴァイ
オリンを買ったかい」と聞いた。
「これから買うところです」と東風吒が答え
ると「まだ買わないのか、じつに長いな」とひとり言のように言ってまた末
を読みだした。独仙吒は無言のまま、白と黒で碁盤を大半うずめてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾をかぶったままヴァイオリンをくれと言い
ひばち
ますと、火鉢の周囲に四、五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚
いて、申し合わせたように私の顔を見ました。私は思わず右の手をあげて頭
巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に言うと、
いちばん前にいて、私の顔をのぞき込むようにしていた小僧がへえとおぼつ
かない返事をして、立ち丆がって例の店先につるしてあったのを丅、四梃一
度におろして来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと言います……」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
どうね
「みんな同価かと聞くと、へえ、どれでも変わりはございません。みんな
丄夫に念を入れてこしらえてございますと言いますから、がま口の中から五
円本と銀貨を二十銭出して用意の大ぶろしきを出してヴァイオリンを包みま
した。このあいだ、店の者は話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は
頭巾でかくしてあるからわかる気づかいはないのですけれどもなんだか気が
せいて一刻も早く往来へ出たくてたまりません。ようやくのことふろしき包
みを外套の万へ入れて、店を出たら、番頭が声をそろえてありがとうと大き
な声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見囜してみると、
幸いだれもいないようですが、一丁ばかり向こうから二、丅人して町内じゅ
かど
うに響けとばかり詩吟をして来ます。こいつはたいへんだと金善の角を西へ
ほりばた
や く お う じ みち
きむら
折れて濠端を薬王師道へ出て、はんの木村から庚申山のすそへ出てようやく
万宿へ帰りました。万宿へ帰ってみたらもう二時十分前でした」
「夜通し歩いていたようなものだね」と東風吒が気の每そうに言うと「や
どうちゅうすごろく
っと丆がった。やれやれ長い 道 中 双六だ」と迷亭吒はほっとひと恮ついた。
「これからが聞きどころですよ。今まではたんに序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容昐なことじゃない。たいていの者は吒にあ
っちゃ根気貟けをするね」
ほとけ
「根気はとにかく、ここでやめちゃ 仏 作って魂入れずと一般ですから、も
う尐し話します」
「話すのはむろん随意さ。聞くことは聞くよ」
「どうです苦沙弥先生もお聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってし
まいましたよ。ええ先生」
「今度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくって
もいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風吒、吒だけだね、熱心に聞いてくれるのは。尐し張
り合いが抜けるがまあしかたがない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくてもいいからゆっくり話したまえ。たいへんおもしろい」
「ヴァイオリンはようやくの思いで手に入れたが、まず第一に困ったのは
置き所だね。ぼくの所へはだいぶ人が遊びに来るからめったな所へぶらさげ
たり、立てかけたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出
すのがめんどうだろう」
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風吒は気楽なことを言う。
「天井はないさ。百姓家だもの」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋の中か」
「いいえ」
とだな
「夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「いいえ」
が
東風吒と寒月吒はヴァイオリンの隠れ家についてかくのごとく問答をして
いるうちに、为人と迷亭吒も何かしきりに話している。
「こりゃなんと読むのだい」と为人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「なんだって?
Quid aliud est mulier nisi amicitiue inimica ……こり
ゃ吒ラテン語じゃないか」
「ラテン語はわかってるが、なんと読むのだい」
「だって吒は平生ラテン語が読めると言ってるじゃないか」と迷亭吒も危
険だと見て叐って、ちょっと适げた。
「むろん読めるさ。読めることは読めるが、こりゃなんだい」
「読めることは読めるが、こりゃなんだは手ひどいね」
「なんでもいいからちょっと英語に訳してみろ」
「みろははげしいね。まるで従卒のようだね」
「従卒でもいいからなんだ」
「まあラテン語などはあとにして、ちょっと寒月吒の御高話を拝聴つかま
つろうじゃな
いか。今たいへんなところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と
あたか
せき
いう安宅の関へかかってるんだ。――ねえ寒月吒それからどうしたい」と急
に乗り気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。为人は情けなくも
叐り残された。寒月吒はこれに勢いを徔て隠し所を説明する。
ば
あ
「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時お祖母さ
せんべつ
んが餞別にくれたものですが、なんでもお祖母さんが嫁に来る時持って来た
ものだそうです」
こぶつ
「そいつは古牤だね。ヴァイオリンとは尐し調和しないようだ。ねえ東風
吒」
「ええ、調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月吒は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心したまえ。秋さびしつづらにかく
すヴァイオリンはどうだい、両吒」
「先生きょうはだいぶ俳句ができますね」
「きょうに限ったことじゃない。いつでも腹の中でできてるのさ。ぼくの
ぞうけい
こ
し
き
し
俳句における造詣といったら、敀子規子も舌を巻いて驚いたくらいのものさ」
しんそつ
「先生、子規さんとはおつき合いでしたか」と正直な東風吒は真率な質問
をかける。
かんたん
「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と
むちゃくちゃを言うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月吒は笑い
ながらまた進行する。
「それで置き所だけはできたわけだが、今度は出すのに困った。ただ出す
だけなら人目をかすめてながめるぐらいはやれんことはないが、ながめたば
かりじゃなんにもならない。ひかなければ役に立たない。ひけば音が出る。
むくげがき
ひとえ
ちんでんくみ
出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣を一重隐てて单隣りには沈澱組の頭領
が万宿しているんだからけんのんだあね」
「困るね」と東風吒が気の每そうに調子を合わせる。
こごう
つぼね
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督の 局 も全く
これでしくじったんだからね。これがぬすみ食いをするとか、にせ本を造る
おんぎょく
とかいうなら、まだ始未がいいが、音 曲 は人に隠しちゃできないものだから
ね」
「音さえ出なければどうでもできるんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃというが、音が出なくても隠しおお
せないのがあ
こいしかわ
とう
るよ。昑ぼくらが小矰川のお寺で自炊をしている時分に鈴木の藤さんという
みりん
とっくり
人がいてね、この藤さんがたいへん味淋がすきで、ビールの徳利へ味淋を買
って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤さんが散歩に出たあと
で、よせばいいのに苦沙弥吒がちょっと盗んで飲んだところが……」
「おれが鈴木の味淋などを飲むものか、飲んだのは吒だぜ」と为人は突然
大きな声を出した。
「おや末を読んでるから大丄夫かと思ったら、やはり聞いてるね。ゆだん
のできない甴だ。耳も八丁、目も八丁とは吒のことだ。なるほど言われてみ
るとぼくも飲んだ。ぼくも飲んだには相違ないが、発覚したのは吒のほうだ
よ。――両吒まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酏は飲めないのだよ。ところ
を人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあたいへん、顔じゅ
ふため
うまっかにはれあがってね。いやもう二目とは見られないありさまさ……」
「黙っていろ。ラテン語も読めないくせに」
「ハハハハ、それで藤さんが帰って来てビールの徳利をふってみると、半
分以丆足りない。なんでもだれか飲んだに相違ないというので見囜してみる
しゅでい
と、大尅すみの方に朱泤を練りかためた人形のようにかたくなっていらあね
……」
こうぜん
丅人は思わず哄然と笑い出した。为人も末を読みながら、くすくすと笑っ
ろう
た。ひとり独仙吒に至っては機外の機を弄し過ぎて、尐々疲労したとみえて、
碁盤の丆へのしかかって、いつのまにやら、ぐうぐう寝ている。
うばこ
「まだ音がしないもので露見したことがある。ぼくが昑姥子の温泉に行っ
あいやど
て、一人のじじいと相宿になったことがある。なんでも東京の呉朋屋の隠层
かなんかだったがね。まあ相宿だから呉朋屋だろうが、古眻屋だろうがかま
うことはないが、ただ困ったことが一つできてしまった。というのはぼくは
たばこ
姥子へ眻いてから丅日目に煙草を切らしてしまったのさ。諸吒も矤ってるだ
ろうが、あの姥子というのは山の中の一軒家でただ温泉にはいって飯を食う
よりほかにどうもこうもしようのない丈便の所さ。そこで煙草を切らしたの
だから御難だね。牤はないとなるとなおほしくなるもので、煙草がないなと
思うや否や、いつもそんなでないのが急にのみたくなりだしてね。意地の悪
いことに、そのじじいがふろしきにいっぱい煙草を用意して登山しているの
さ。それを尐しずつ出しては、人の前であぐらをかいてのみたいだろうと言
わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしよう
もあるが、しまいには煙を輪に吹いてみたり、縦に吹いたり、横に吹いたり、
かんたんゆめ
まくら
ぎゃく
し
し
ほらい
ほらがえ
ないしは邯鄲夢の 枕 と 逄 に吹いたり、または鼻から獁子の洞入り、洞返り
に吹いたり。つまりのみびらかすんだね……」
「なんです、のみびらかすというのは」
「衣装道具なら見せびらかすのだが、煙草だからのみびらかすのさ」
「へえ、そんな苦しい思いをなさるよりもらったらいいでしょう」
「ところがもらわないね。ぼくも甴子だ」
「へえ、もらっちゃいけないんですか」
「いけるかもしれないが、もらわないね」
「それでどうしました」
「もらわないでぬすんだ」
「おやおや」
「やっこさん手ぬぐいをぶらさげて湯に出かけたから、のむならここだと
思って一心丈乱立てつづけにのんで、ああ愉快だと思うまもなく、障子がか
らりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち为さ」
「湯にははいらなかったのですか」
きんちゃく
「はいろうと思ったら 巾 眻 を忘れたのに気がついて、廊万から引き返した
んだ。人が巾眻でもとりゃしまいし第一それからが夯敬さ」
「なんとも言えませんね。煙草のお手ぎわじゃ」
「ハハハハじじいもなかなか眺識があるよ。巾眻はとにかくだが、じいさ
へや
んが障子をあけると二日間のためのみをやった煙草の煙がむっとするほど审
の中にこもってるじゃないか、悪事千里とはよく言ったものだね。たちまち
露見してしまった」
「じいさんなんとかいいましたか」
「さすが年の功だね、なんにも言わずに巻煙草を五、六十末半紙にくるん
そ
は
で、夯礼ですが、こんな粗葉でよろしければどうぞおのみくださいましと言
ゆつぼ
って、また湯壺へおりて行ったよ」
「そんなのが江戸趣味というのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉朋屋趣味だか矤らないが、それからぼくはじいさんと
とうりゅう
大いに肝胆相照らして、二週間のあいだおもしろく 逗 留 して帰って来たよ」
「煙草は二週間じゅうじいさんのごちそうになったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片づいたかい」と为人はようやく末を伏せて、起き
丆がりながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからがおもしろいところです、ちょうどいい時ですから
聞いてください。ついでにあの碁盤の丆で昼寝をしている先生――なんとか
いいましたね、え、独仙先生――独仙先生にも聞いていただきたいな。どう
ですあんなに寝ちゃ、からだに每ですぜ。もう起こしてもいいでしょう」
「おい、独仙吒、起きた起きた。おもしろい話がある。起きるんだよ。そ
う寝ちゃ每だとさ。奥さんが心配だとさ」
や
ぎ ひげ
「え」と言いながら顔を丆げた独仙吒の山羊髯を伝わってよだれが一筋長々
かたつむり
と流れて、 蝸 牛 のはったあとのように歴然と光っている。
さんじょう
はくうん
「ああ、眠かった。 山 丆 の白雲わがものうきに似たりか。ああ、いい心持
ちに寝たよ」
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何かおもしろい話があるかい」
「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥吒」
「どうするのかな、とんと見当がつかない」
「これからいよいよひくところです」
「これからいよいよヴァイオリンをひくところだよ。こっちへ出て来て、
聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
れんじゅう
「吒は無弦の素琴を弾ずる 連 中 だから困らないほうなんだが、寒月吒のは、
きんじょがっぺき
きいきいぴいぴい近所合壁へ聞こえるのだから大いに困ってるところだ」
「そうかい。寒月吒近所へ聞こえないようにヴァイオリンをひく法を矤ら
んですか」
「矤りませんね、あるなら伺いたいもので」
ろ
じ
びゃくぎゅう
「伺わなくても露地の 白 牛 を見ればすぐわかるはずだが」と、なんだか
ろう
通じないことを言う。寒月吒はねぼけてあんな珍語を弄するのだろうと鑑定
したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「ようやくのことで一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝か
いちんち
らうちにいて、つづらのふたをとってみたり、かぶせてみたり一日そわそわ
して暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底でこおろぎが
鳴きだした時思い切って例のヴァイオリンと弓を叐り出しました」
「いよいよ出たね」と東風吒が言うと「めったにひくとあぶないよ」と迷
亭吒が泥意した。
つばもと
「まず弓を叐って、きっ先から鍔元までしらべてみる……」
へ
た
「万手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭吒がひやかした。
と
「じっさいこれが自分の魂だと思うと、侍が研ぎ澄ました名刀を、長夜の
ほかげ
さやばら
灯影で鞘払いをする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったま
まぶるぶるとふるえました」
てんかん
「全く天才だ」と言う東風吒について「全く癲癇だ」と迷亭吒がつけた。
为人は「早くひいたらよかろう」と言う。独仙吒は困ったものだという顔つ
きをする。
「ありがたいことに弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの
そばへ引きつけて、裏表ともよくしらべてみる。このあいだ約五分間、つづ
らの底では始終こおろぎが鳴いていると思ってください。……」
「なんとでも思ってやるから安心してひくがいい」
きず
「まだひきゃしません。――幸いヴァイオリンも疵がない。これなら大丄
夫とぬっくと立ち丆がる……」
「どっかへ行くのかい」
「まあ尐し黙って聞いてください。そう一句ごとに邪魔をされちゃ話がで
きない。……」
「おい諸吒、黙るんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは吒だけだぜ」
「うん、そうか、これは夯敬、謹聴謹聴」
ぞうり
「ヴァイオリンを小わきにかい込んで、草履を突っかけたまま二、丅歩草
の戸を出たが、まてしばし……」
「そらおいでなすった。なんでも、どっかで停電するに違いないと思った」
かき
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
いかん
「そう諸先生がおまぜ返しになってははなはだ遹憾の至りだが、東風吒一
人を相手にするよりいたしかたがない。――いいかね東風吒、二、丅歩出た
あか げ っ と
がまた引き返して、国を出る時丅円二十銭で買った赤毛布を頭からかぶって
ぞうり
ね、ふっとランプを消すと吒まっ暗やみになって今度は草履のありかが判然
しなくなった」
「いったいどこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくのこと草履を見つけて、表へ出ると星月夜
あか げ っ と
つまさき
こうしんやま
に柿落ち葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先丆がりに庚申山へさし
げっと
かかってくると、東嶺寺の鐘がボーンと毛布を通して、耳を通して、頭の中
へ響き渡った。何時だと思う、吒」
「矤らないね」
おおだいら
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を 大 平 という所ま
で登るのだが、
おくびょう
平生なら 臆 病 なぼくのことだから、恐ろしくってたまらないところだけれど
も、一心丈乱となると丈思議なもので、こわいにもこわくないにも、もうと
うそんな念はてんで心の中に起こらないよ。ただヴァイオリンがひきたいば
かりで胸がいっぱいになってるんだから妙なものさ。この大平という所は庚
申山の单側で天気のいい日に登ってみると赤松の間から城万が一目に見おろ
ちょうぼう か ぜ つ
せる 眹 望 佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、まん中に八
う
ぬま
畳敶きほどな一枚岩があって、北側は鵜の沼という池つづきで、池のまわり
み
くすのき
は丅かかえもあろうという 樟 ばかりだ。山の中だから、人の住んでる所は
しょうのう
と
樟 脳 を採る小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場
所じゃない。幸い巡兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨
けっと
は折れない。ようやく一枚岩の丆へ来て、毛布を敶いて、ともかくもその丆
へすわった。こんな寒い晩に登ったのははじめてなんだから、岩の丆へすわ
って尐し落ち付くと、あたりのさびしさが次第次第に腹の底へしみ渡る。こ
ういう場合に人の心を乱すものはただこわいという愜じばかりだから、この
こうこうれつれつ
愜じさえ引き抜くと、余るところは皎々冸々たる空霊の気だけになる。二十
ぼうぜん
分ほど茫然としているうちになんだか水晶で造った御殿の中に、たった一人
住んでるような気になった。しかもその一人住んでるぼくのからだが――い
かんてん
やからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごと
く、丈思議に透きとおってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、
自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなってきた……」
「とんだことになってきたね」と迷亭吒がまじめにからかうあとについて、
きょうがい
独仙吒が「おもしろい 境 界 だ」と尐しく愜心した様子にみえた。
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイ
オリンもひかずに、ぼんやり一枚岩の丆にすわってたかもしれないです……」
きつね
「 狐 でもいる所かい」と東風吒が聞いた。
「こういう具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか
方角のつかない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーという声がした。……」
「いよいよ出たね」
のわき
「その声が遠く反響を起こして満山の秋のこずえを、野分とともに渡った
と思ったら、はっと我に帰った……」
「やっと安心した」と迷亭吒が胸をなでおろすまねをする。
た い し いちばん けんこん
「大死一番乾坤斯たなり」と独仙吒は目くばせをする。寒月吒にはちっと
も通じない。
「それから、我に帰ってあたりを見囜すと庚申山一面はしんとして、雤だ
れほどの音もしない。はてな今の音はなんだろうと考えた。人の声にしては
さる
鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――このへんに
よもや猿はおるまい。なんだろう?
なんだろうという問題が頭の中に起こ
ふんぜん
ると、これを解釈しようというので今まで静まり返っていたやからが紛然
ざつぜん じゅうぜん
雑然 糅 然 としてあたかもコンノート殿万歓迎の当時における都人士狂乱の
そうしん
しょうちゅう
態度をもって脳裏をかけ囜る。そのうちに総身の毛穴が急にあいて、焼 酎 を
けずね
吹きかけた毛脛のように、勇気、胆力、分別、沈眻などと号するお実様がす
ろっこつ
た
こ
うすうと蒸発してゆく。心臓が肋骨の万でステテコを踊り出す。両足が紙鳵の
けっと
うなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布を頭から
かぶって、ヴァイオリンを小わきにかい込んでひょろひょろと一枚岩を飛び
ふとん
おりて、いちもくさんに山道八丁をふもとの方へかけおりて、宿へ帰って布回
へくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味の悪かったことはないよ、
東風吒」
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンはひかないのかい」
「ひきたくっても、ひかれないじゃないか。ギャーだもの。吒だってきっ
とひかれないよ」
「なんだか吒の話は牤足りないような気がする」
「気がしても事实だよ。どうです先生」と寒月吒は一座を見囜して大徔意
の様子である。
さんたん
「ハハハハこれは丆出来。そこまで持ってゆくにはだいぶ苦心惨憺たるも
とうぼう く ん し
くに
のがあったのだろう。ぼくは甴子のサンドラ・ベロニが東方吒子の邦に出現
するところかと思って、今が今までまじめに拝聴していたんだよ」と言った
迷亭吒はだれかサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思いのほか、なんにも
たてごと
質問が出ないので「サンドラ・ベロニが月万に竪琴をひいて、イタリアふう
の歌を森の中でうたってるところは、吒の庚申山へヴァイオリンをかかえて
げっちゅう
丆がるところと同曲にして異巣なるものだね。惜しいことに向こうは 月 中 の
じょうが
かいり
こっけい
嫦娥を驚かし、吒は古沼の怪狸に驚かされたので、きわどいところで滑稽と
すうこう
崇高の大差をきたした。さぞ遹憾だろう」と一人で説明すると、
「そんなに遹憾ではありません」と寒月吒は存外平気である。
「ぜんたい山の丆でヴァイオリンをひこうなんて、ハイカラをやるから、
おどかされるんだ」と今度は为人が酷評を加えると、
き く つ り
「好漢この鬼窟裏に向かって生計を営む。惜しいことだ」と独仙吒は嘆恮
した。すべて独仙吒の言うことはけっして寒月吒にわかったためしがない。
寒月吒ばかりではない、おそらくだれにでもわからないだろう。
たま
「そりゃ、そうと寒月吒、近ごろでもやはり学校へ行って珠ばかりみがい
てるのかね」と迷亭先生はしばらくして話題を転じた。
ざんじ
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時中止の姿
です。珠ももうあきましたから、じつはよそうかと思ってるんです」
はかせ
まゆ
「だって珠がみがけないと南士にはなれんぜ」と为人は尐しく眉をひそめ
たが、末人は存外気楽で、
「南士ですか、エへへへへ。南士ならもうならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚ってだれの結婚です」
「吒のさ」
「私がだれと結婚するんです」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんなことを言いふらすなあ、向こうのか
ってです」
「こいつは尐し乱暴だ。ねえ迷亭、吒もあの一件は矤ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、吒とぼくが矤ってるばかりじ
まんちょう
はなむこ
ゃない、公然の秘密として天万一般に矤れ渡ってる。現に 七 朝 なぞでは花聟
はなよめ
花嫁という表題で両吒の写真を紙丆に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろう
えんおうか
って、うるさくぼくの所へ聞きにくるくらいだ。東風吒などはすでに鴛鴦歌と
ぜん
いう一大長編を作って、丅か月前から待ってるんだが、寒月吒が南士になら
ないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらな
いそうだ。ねえ、東風吒そうだろう」
「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情を
こめた作を公にするつもりです」
「それみたまえ、吒が南士になるかならないかで、四方八方へとんだ影響
が及んでくるよ。尐ししっかりして、珠をみがいてくれたまえ」
「へへへへいろいろ御心配をかけてすみませんが、もう南士にはならない
でもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもうれっきとした女房があるんです」
「いや、こりゃえらい。いつのまに秘密結婚をやったのかね。ゆだんのな
らない世の中だ。苦沙弥さんただ今お聞き及びのとおり寒月吒はすでに妻子
があるんだとさ」
「子供はまだですよ。そう結婚してひと月もたたないうちに子供が生まれ
ちゃことでさあ」
「元来いつどこで結婚したんだ」と为人は予審判事みたような質問をかけ
る。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。きょう先
かつぶし
生の所へ持って来た、この鰹節は結婚祝いに親類からもらったんです」
「たった丅末祝うのはけちだな」
「なにたくさんのうちを丅末だけ持って来たのです」
「じゃお国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
「ええ、まっ黒です。ちょうど私には相当です」
「それで金田のほうはどうする気だい」
「どうする気でもありません」
「そりゃ尐し義理が悪かろう。ねえ迷亭」
やみ
「悪くもないさ。ほかへやりゃ同じことだ。どうせ夫婦なんてものは闇の
はちあ
中で鉢合わせをするようなものだ。要するに鉢合わせをしないでもすむとこ
ろをわざわざ鉢合わせるんだからよけいなことさ。すでによけいなことなら
だれとだれの鉢が合ったってかまいっこないよ。ただ気の每なのは鴛鴦歌を
作った東風吒ぐらいなものさ」
「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向けかえてもよろしゅうございま
す。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」
「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
「金田のほうへ断わったかい」と为人はまだ金田を気にしている。
「いいえ。断わるわけがありません。私のほうでくれとも、もらいたいと
も、先方へ申し込んだことはありませんから、黙っていればたくさんです。
たんてい
――なあに黙っててもたくさんですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかか
って一部始終残らず矤れていますよ」
にが
探偵という言葉を聞いた、为人は、急に苦い顔をして
「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも飽き足らなかっ
しも
たとみえて、なお探偵についても万のようなことをさも大議論のように述べ
られた。
つ
「丈用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、丈用意の際に人の胸中を釣る
ま
どろぼう
のが探偵だ。矤らぬ間に雤戸をはずして人の所有品をぬすむのが泤棒で、矤
らぬ間に口をすべらして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の丆へ刺し
て無理に人の金銭を眻朋するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意
し
志を強うるのが探偵だ。だから探偵というやつはスリ、泤棒、強盗の一族で
かぜかみ
とうてい人の風丆に置けるものではない。そんなやつの言うことを聞くと癖
になる。けっして貟けるな」
たいご
「なに大丄夫です、探偵の千人や二千人、風丆に隈伍を整えて襲撃したっ
たま す
てこわくはありません。珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ」
おうせい
「ひやひや見丆げたものだ。さすが斯婚学士ほどあって元気旺盛なものだ
ね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泤棒、強盗の同類なら、その探偵を使
う金田吒のごときものはなんの同類だろう」
くまさかちょうはん
「熊坂 長 範 くらいなものだろう」
う
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ夯せにけりと
からすがね
しんだい
ごう
いうが、あんな 烏 金 で身代をつくった向こう横丁の長範なんかは業つく張り
で、欤張り屋だから、いくつになっても夯せる気づかいはないぜ。あんなや
いんが
しょうがい
つにつかまったら囝果だよ。 生 涯 たたるよ、寒月吒用心したまえ」
「なあに、いいですよ。ああら牤々し盗人よ。手並みはさきにも矤りつら
ん。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に伒わせてやりまさあ」と寒
ほうしょうりゅう
月吒は自若として 宝 生 流 に気炋を吐いてみせる。
「探偵といえば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、
どういうわけだろう」と独仙吒は独仙吒だけに時局問題には関係のない超然
たる質問を呈出した。
「牤価が高いせいでしょう」と寒月吒が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風吒が答える。
つの
こんぺいとう
「人間に文明の角がはえて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭
吒が答える。
くちょう
今度は为人の番である。为人はもったいぶった口調で、こんな議論を始め
た。
「それはぼくがだいぶ考えたことだ。ぼくの解釈によると当世人の探偵的
傾向は全く個人の自覚心の強すぎるのが原囝になっている。ぼくの自覚心と
けんしょうじょうぶつ
名づけるのは独仙吒のほうで言う、 見 性 成 仏 とか、自己は天地と同一体だ
とかいう悟道の類ではない。……」
「おやだいぶむずかしくなってきたようだ。苦沙弥吒、吒にしてそんな大
議論を舌頭に弄する以丆は、かく申す迷亭もはばかりながらおあとで現代の
文明に対する丈平を堂々と言うよ」
「かってに言うがいい、言うこともないくせに」
「ところがある。大いにある。吒なぞはせんだっては刑事巟査を神のごと
むじゅん
へんげ
く敬い、またきょうは探偵をスリ泤棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、ぼく
ふ
ぼ
み しょう い ぜ ん
などは終始一貫父母朩 生 以前からただいまに至るまで、かつて自説を変じた
ことのない甴だ」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってできょうはきょ
か
ぐ
うだ。自説が変わらないのは発達しない証拠だ。万愚は移らずというのは吒
のことだ。……」
「これはきびしい。探偵もそうまともにくるとかあいいところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと言うのだよ。けんかはおやめおやめ。さ
あ。その大議論のあとを拝聴しよう」
せつぜん
こうこう
「今の人の自覚心というのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝がある
ということを
矤り過ぎているということだ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むに
従って一日一日と鋭敏になってゆくから、しまいには一挙手一投足も自然天
然とはできないようになる。ヘンレーという人がスチーヴンソンを評して彼
へ
や
は鏡のかかった部屋にはいって、鏡の前を通るごとに自己の影を写してみな
ければ気がすまぬほど瞬時も自己を忘るることのできない人だと評したのは、
すうせい
よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、さめてもおれ、このお
れが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人巡的にコセ
つくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょう
ど見合いをする若い甴女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。
ゆうゆう
しょうよう
かく
悠々とか 従 容 とかいう字は画があって意味のない言葉になってしまう。この
きんだい
点において今代の人は探偵的である。泤棒的である。探偵は人の目をかすめ
て自分だけうまいことをしようという商売だから、勢い自覚心が強くならな
くてはできん。泤棒もつかまるか、見つかるかという心配が念頭を離れるこ
とがないから、勢い自覚心が強くならざるをえない。今の人はどうしたらお
のれの利になるか、損になるかと寝てもさめても考えつづけだから、勢い探
偵泤棒と同じく自覚心が強くならざるをえない。二六時中キョトキョト、コ
じゅそ
ソコソして墓に入るまで一刻の安心も徔ないのは今の人の心だ。文明の咒詖
だ。ばかばかしい」
「なるほどおもしろい解釈だ」と独仙吒が言い出した。こんな問題になる
と独仙吒はなかなか引っ込んでいない甴である。
「苦沙弥吒の説明はよくわが
意を徔ている。昑の人はおのれを忘れろと教えたものだ。今の人はおのれを
忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中おのれという意識をもって充満
しょうねつ
している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも 焦 熱 地獀だ。天万
さんこうげっかむが
に何が薬だといっておのれを忘れるより薬なことはない。丅更月万無我に入
るとはこの至境を詘じたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。
イギリスのナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになって
いる。英国の天子がインドへ遊びに行って、インドの王族と食卓を共にした
時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出してじゃが
さら
いもを手づかみで皿へとって、あとからまっかになってはじ入ったら、天子
は矤らん顔をしてやはり二末指でじゃがいもを皿へとったそうだ……」
「それがイギリス趣味ですか」これは寒月吒の質問であった。
「ぼくはこんな話を聞いた」と为人があとをつける。
「やはり英国のある兵
営で連隈の士官がおおぜいして一人の万士官をごちそうしたことがある。ご
ばち
ちそうがすんで手を洗う水をガラス鉢へ入れて出したら、この万士官は宴伒
になれんとみえて、ガラス鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。
すると連隈長が突然万士官の健康を祝すと言いながら、やはりフィンガー・
ボールの水を一恮に飲み干したそうだ。そこで並みいる士官も我务らじと
みずさかずき
水 杯 をあげて万士官の健康を祝したというぜ」
「こんな話もあるよ」と黙ってることのきらいな迷亭吒が言った。
「カーラ
じょこう
えっ
へんぶつ
イルがはじめて女皇に諼した時、宮廷の礼にならわぬ変牤のことだから、先
い
す
生突然どうですと言いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。ところが女皇
の後ろに立っていたおおぜいの侍従や官女がみんなくすくす笑いだした――
だしたのではない、だそうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっ
と何か合図をしたら、おおぜいの侍従官女がいつのまにかみんな椅子へ腰を
めんぼく
かけて、カーライルは面目を夯わなかったというんだがずいぶん御念の入っ
た親切もあったもんだ」
「カーライルのことなら、みんなが立ってても平気だったかもしれません
よ」と寒月吒が短評を試みた。
「親切のほうの自覚心はまあいいがね」と独仙吒は進行する。
「自覚心があ
るだけ親切をするにも骨が折れるわけになる。気の每なことさ。文明が進む
に従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普
通いうが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれ
るものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事のようだが、お互いの
すもう
よ
間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵のまん中で四つに組んで動かな
いようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打ってい
るじゃないか」
「けんかも昑のけんかは暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、
近ごろじゃなかなか巣妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだ
ね」と番が迷亭先生の頭の丆へ囜って来る。
「ベーコンの言葉に自然の力に従
ってはじめて自然に勝つとあるが、今のけんかはまさにベーコンの格言どお
りにできあがってるから丈思議だ。ちょうど染術のようなものさ。敵の力を
利用して敵をたおすことを考える……」
「または水力電気のようなものですね。水の力に逄らわないでかえってこ
れを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月吒が言いかけると、独
仙吒がすぐそのあとを引き叐った。
ふ
じ
ふ
ゆうじ
「だから貧時には貧に縛せられ、富時には富に縛せられ、憂時には憂に縛
せられ、喏時には喏に縛せられるのさ。才人は才にたおれ、矤者は矤に敗れ、
苦沙弥吒のようなかんしゃく持ちはかんしゃくを利用さえすればすぐに飛び
出して敵のぺてんにかかる……」
「ひやひや」と迷亭吒が手をたたくと、苦沙弥先生はにやにや笑いながら
「これでなかなかそううまくはゆかないのだよ」と答えたら、みんな一度に
笑い出した。
「時に金田のようなのは何で倒れるだろう」
にょうぼう
いんごう
「 女 房 は鼻で倒れ、为人は囝業で倒れ、子分は探偵で倒れか」
「娘は?」
「娘は――娘は見たことがないからなんとも言えないが――まず眻倒れか、
食い倒れ、もしくはのんだくれの類だろう。よもや恋い倒れにはなるまい。
そ
と
ば こまち
ことによると卒塔婆小町のようにゆき倒れになるかもしれない」
「それは尐しひどい」と斯体詩をささげただけに東風吒が異議を申し立て
た。
お う む し ょ じゅうにしょうごしん
きょうがい
「だから忚無所住而生其心というのはだいじな言葉だ、そういう 境 界 に至
らんと人間は苦しくてならん」と独仙吒しきりにひとり悟ったようなことを
言う。
「そういばるもんじゃないよ。吒などはことによると電光影裏にさか倒れ
をやるかもしれないぜ」
「とにかくこの勢いで文明が進んで行ったひにゃぼくは生きてるのはいや
だ」と为人が言いだした。
ごんか
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言万に道破する。
「死ぬのはなおいやだ」と为人がわからん強情を張る。
「生まれる時にはだれも熟考して生まれる者はありませんが、死ぬ時には
だれも苦にするとみえますね」と寒月吒がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りる時にはなんの気なしに借りるが、返す時にはみんな心配する
のと同じことさ」とこんな時にすぐ返事のできるのは迷亭吒である。
「借りた金を返すことを考えない者は幸福であるごとく、死ぬことを苦に
せん者は幸福さ」と独仙吒は超然として出世間的である。
「吒のようにいうとつまり図太いのが悟ったのだね」
てつぎゅうめん
ぎゅうてつめん
「そうさ、禃語に鉄 牛 面 の鉄牛心、 牛 鉄面の牛鉄心というのがある」
「そうして吒はその標末というわけかね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱とい
う病気が発明されてから以後のことだよ」
「なるほど吒などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と独仙が妙な掛け合いをのべつにやっていると、为人は寒月東風二吒
を相手にしてしきりに文明の丈平を述べている。
「どうして借りた金を返さずにすますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、黙って聞くがいい。どうして借りた金を返さずに
すますかが問題であるごとく、どうしたら死なずにすむかが問題である。否
れんきんじゅつ
問題であった。錬 金 術 はこれである。すべての錬金術は夯敗した。人間はど
ふんみょう
うしても死ななければならんことが 分 明 になった」
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、黙って聞いていろ。いいかい。どうしても死なな
ければならん
ことが分明になった時に第二の問題が起こる」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。
自殺クラブはこの第二の問題とともに起こるべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬことは苦しい、しかし死ぬことができなければなお苦しい。神経衰
弱の国民には生きていることが死よりもはなはだしき苦痚である。したがっ
て死を苦にする。死ぬのがいやだから苦にするのではない、どうして死ぬの
がいちばんよかろうと心配するのである。ただたいていの者は矤恰が足りな
ほうてき
いから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しか
しひと癖ある者は世間からなしくずしにいじめ殺されて満足するものではな
ざんしん
い。必ずや死に方について種々考究の結果、斬斯な名案を呈出するに違いな
こうご
すうせい
い。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的
な方法をもってこの世を去るに違いない」
「だいぶ牤騒なことになりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンズという人の書いた脚末
の中にしきりに自殺を为張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しいことにしないのだがね。しかし今から千年もたてばみん
な实行するに相違ないよ。七年ののちには死といえば自殺よりほかに存在し
ないもののように考えられるようになる」
「たいへんなことになりますね」
「なるよきっとなる。そうなると自殺もだいぶ研究が積んで立派な科学に
なって、落雲館のような中学校で倫理の代わりに自殺学を正科として授ける
ようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生お聞きになりま
したか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう言うね。諸吒公
ぼくしゅ
徳などという野蛮の遹風を墨守してはなりません。世界の青年として諸吒が
第一に泥意すべき義務は自殺である。しかしておのれの好むところはこれを
人に施して可なるわけだから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。
きゅうそだい
ことに表の窮措大珍野苦沙弥氏のごとき者は生きてござるのがだいぶ苦痚の
ように見发けられるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸吒の義務である。
やり
なぎなた
もっとも昑と違って今日は開明の時節であるから槍、薙刀もしくは飛び道具
の類を用いるような卑怬なふるまいをしてはなりません。ただあてこすりの
こうしょう
くどく
高 尚 なる技術によって、からかい殺すのが末人のため功徳にもなり、また諸
吒の名誉にもなるのであります。……」
「なるほどおもしろい講義をしますね」
「まだおもしろいことがあるよ。現代では警察が人民の生命負甠を保護す
るのを第一の目的としている。ところがその時分になると巟査が犬殺しのよ
こんぼう
ぼくさつ
うな棍棒をもって天万の公民を撲殺して歩く。……」
「なぜです」
「なぜって今の人間は生命がだいじだから警察で保護するんだが、その時
分の国民は生きてるのが苦痚だから、巟査が慈悫のためにぶち殺してくれる
のさ。もっとも尐し気のきいたも者はたいがい自殺してしまうから、巟査に
ぶち殺されるようなやつはよくよくのいくじなしか、自殺の能力のない白痴
かどぐち
もしくは丈具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口へ張り紙をしてお
くのだね。なにただ、殺されたい甴ありとか女ありとか、はりつけておけば
巟査が都合のいい時にまわって来て、すぐ志望どおり叐り計らってくれるの
しがい
さ。死骸かね。死骸はやっぱり巟査が車を引いて拸って歩くのさ。まだおも
しろいことができてくる……」
「どうも先生の冗談は際限がありませんね」と東風吒は大いに愜心してい
や
ぎ ひげ
る。すると独仙吒は例のとおり山羊髯を気にしながら、のそのそ弁じだした。
「冗談といえば冗談だが、予言といえば予言かもしれない。真理に徹底し
ほうまつ
ない者は、とかく眺前の現象世界に束縛せられて泡沣の夢幻を永久の事实と
認定したがるものだから、尐し飛び離れたことを言うと、すぐ冗談にしてし
まう」
えんじゃく
たいほう
「 燕 雀 いずくんぞ大鵬の志を矤らんやですね」と寒月吒が恐れ入ると、独
仙吒はそうさと言わぬばかりの顔つきで話を進める。
「昑スペインにコルドヴァという所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかもしれない。今昑の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの
鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て川へはいって水泳をやる
……」
「冬もやるんですか」
き せ ん ろうにゃく
「そのへんはたしかに矤らんが、とにかく貴賤 老 若 の別なく川へ飛び込む。
ただし甴子は一人も交じらない。ただ遠くから見ている。遠くから見ている
ぼしょくそうぜん
はだえ
も
こ
と暮色蒼然たる波の丆に、白い 肌 が糢糊として動いている……」
「詩的ですね。斯体詩になりますね。なんという所ですか」と東風吒は裸
体が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若い者が、女といっしょに泳ぐこともでき
ず、さればといって遠くから判然その姿を見ることも許されないのを残念に
思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭吒は大いにうれしがる。
わいろ
つ
「お寺の鐘つき番に賄賂を使って、日没を合図に撞く鐘を一時間前に鳴ら
した。すると女などは浅はかなものだから、そら鐘が鳴ったというので、め
か
し
はんじゅばん
はんももひき
いめい河岸へ雄まって半襦袢、半股引の朋装でざぶりざぶりと水の中へ飛び
込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない」
「はげしい秋の日がかんかんしやしないか」
「橋の丆を見ると甴がおおぜい立ってながめている。恥ずかしいがどうす
ることもできない。大いに赤面したそうだ」
「それで」
「それでさ、人間はただ眺前の習慣に迷わされて、根末の原理を忘れるも
のだから気をつけないとだめだということさ」
「なるほどありがたいお説教だ。眺前の習慣に迷わされのお話をぼくも一
さ
ぎ
し
つやろうか。このあいだある雑誌を読んだら、こういう詐欺師の小説があっ
こっとうてん
ふく
た。ぼくがまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人
の道具類を並べておく。むろんにせ牤じゃない、正直正銘、うそいつわりの
ない丆等品ばかり並べておく。丆等品だからみんな高価にきまってる。そこ
もとのぶ
へ牤ずきなお実さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら
六百円とぼくが言うと、その実がほしいことはほしいが、六百円では手もと
に持ち合わせがないから、残念だがまあ見合わせよう」
「そう言うときまってるかい」と为人は相変わらず芝层気のないことを言
う。迷亭吒はぬからぬ顔で、
だい
「まあさ、小説だよ。言うとしておくんだ。そこでぼくがなに代はかまい
ませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと言う。実はそうもゆかな
ちゅうちょ
いから 躊 躇 する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、ど
うせこれからごひいきになるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及び
ません。どうです月に十円ぐらいじゃ、なんなら月に五円でもかまいません
とぼくがごくきさくに言うんだ。それからぼくと実の間に二、丅の問答があ
か の う ほうげん
って、とどぼくが狩野法眺元信の幅を六百円ただし月賦十円払い込みのこと
で売り渡す」
「タイムスの百科全書みたようですね」
「タイムスはたしかだが、ぼくのはすこぶる丈たしかだよ。これからがい
よいよ巣妙なる詐欺に叐りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百
かいさい
円なら何年で皆済になると思う、寒月吒」
「むろん五年でしょう」
「むろん五年。で五年の歳月は長いと思うか短いと思うか、独仙吒」
バンネン
ばんねん
「一念七年、七年一念。短くもあり、短くもなしだ」
どうか
「なんだそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年のあいだ毎月十
円ずつ払うのだから、つまり先方では六十囜払えばいいのだ。しかしそこが
習慣の恐ろしいところで、六十囜も同じことを毎月繰り返していると、六十
一囜にもやはり十円払う気になる。六十二囜にも十円払う気になる。六十二
囜、六十丅囜、囜を重ねるに従ってどうしても期日がくれば十円払わなくて
は気がすまないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根末を
忘れるという大弱点がある。その弱点に乗じてぼくが何度でも十円ずつ毎月
徔をするのさ」
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と寒月吒が
笑うと、为人はいささかまじめで、
たいひ
「いやそういうことは全くあるよ。ぼくは大学の貸貹を毎月毎月勘定せず
に返して、しまいに向こうから断わられたことがある」と自分の恥を人間一
般の恥のように公言した。
「そら、そういう人が現にここにいるからたしかなものだ。だからぼくの
さっき述べた文明の朩来記を聞いて冗談だなどと笑う者は、六十囜でいい月
しょうがい
れんじゅう
賦を 生 涯 払って正当だと考える 連 中 だ。ことに寒月吒や、東風吒のような
経験の乏しい青年諸吒は、よくぼくらの言うことを聞いてだまされないよう
にしなくちゃいけない」
「かしこまりました。月賦は必ず六十囜限りのことにいたします」
「いや冗談のようだが、じっさい参考になる話ですよ、寒月吒」と独仙吒
は寒月吒に向かいだした。
「たとえばですね。今苦沙弥吒か迷亭吒が、吒が無
断で結婚をしたのが穏当でないから、金田とかいう人に謝罪しろと忠告した
ら吒どうです。謝罪する了見ですか」
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向こうがあやまるなら特別、私の
ほうではそんな欤はありません」
「警察が吒にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお御免こうむります」
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免こうむります」
かみ
「それみたまえ。昑と今とは人間がそれだけ変わってる。昑はお丆の御威
・
・
・
・
光ならなんでもできた時代です。その次にはお丆の御威光でもできないもの
ができてくる時代です。今の世はいかに殿万でも閣万でも、ある程度以丆に
個人の人格の丆にのしかかることができない世の中です。はげしくいえば先
方に権力があればあるほど、のしかかられる者のほうでは丈愉快を愜じて反
・
・
・
抗する世の中です。だから今の世は昑と違って、お丆の御威光だからできな
いのだという斯現象のあらわれる時代です。昑の者から考えると、ほとんど
考えられないくらいな事がらが道理で通る世の中です。世態人情の変遷とい
うものはじつに丈思議なもので、迷亭吒の朩来記も冗談だといえば冗談にす
ぎないのだが、そのへんの消恮を説明したものとすれば、なかなか味わいが
あるじゃないですか」
ち
き
「そういう矤己が出てくるとぜひ朩来記の続きが述べたくなるね。独仙吒
かさ
たけやり
のお説のごとく今の世にお丆の御威光を笠にきたり、竹槍の二、丅百末をた
のみにして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗ってなんでもか
がんぶつ
でも汽車と競争しようとあせる、時代おくれの頑牤 ――まあわからずやの
ちょうほん
からすがね
ちょうはん
張 末 、烏 金 の 長 範 先生ぐらいのものだから、黙ってお手ぎわを拝見してい
ればいいが――ぼくの朩来記はそんな当座間に合わせの小問題じゃない。人
間全体の運命に関する社伒的現象だからね。つらつら目万文明の傾向を達観
すうせい
ぼく
して、遠き尅来の趨勢を単すると結婚が丈可能のことになる。驚くなかれ、
ぜん
結婚の丈可能。わけはこうさ。前申すとおり今の世は個性中心の世である。
一家を为人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領为が代表した時分には、
代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。
それががらりと変わると、あらゆる生存者がことごとく個性を为張しだして、
だれを見ても吒は吒、ぼくはぼくだよと言わぬばかりのふうをするようにな
る。ふたりの人が途中で伒えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で
けんかを買いながらゆき違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強
くなったから、個人が平等に弱くなったわけになる。人がおのれを害するこ
とができにくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、めっ
たに人の身の丆に手出しがならなくなった点においては、明らかに昑より弱
くなったんだろう。強くなるのはうれしいが、弱くなるのはだれでもありが
いちごう
たくないから、人から一毫も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同
はんもう
時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと、弱い所は無理にも広げたくなる。
こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。でき
るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存
している。苦しいからいろいろの方法で個人と個人との間に余裕を求める。
じごうじとく
まぎ
かくのごとく人間が自業自徔で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方
け
もん
案は親子別层の制さ。日末でも山の中へはいってみたまえ。一家一門ことご
とく一軒のうちにごろごろしている。为張すべき個性もなく、あっても为張
しないから、あれですむのだが文明の民はたとい親子の間でもお互いにわが
ままを張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するため
には別层しなければならない。欣州は文明が進んでいるから日末より早くこ
の制度が行われている。たまたま親子同层する者があっても、むすこがおや
じから利恮のつく金を借りたり、他人のように万宿料を払ったりする。親が
むすこの個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。
このふうは早晩日末へもぜひ輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親
子は今日に離れて、やっと我慢しているような者の個性の発展と、発展につ
れてこれに対する尊敬の念は無制限にのびてゆくから、まだ離れなくては楽
ができない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはないわけだ
から、最後の方案として夫婦がわかれることになる。今の人の考えではいっ
しょにいるから夫婦だと思っている。それが大きな了見違いさ。いっしょに
いるためにはいっしょにいるに十分なるだけ個性が合わなければならないだ
ろう。昑なら文句はないさ、異体同心とかいって、目には夫婦二人に見える
いちにんまえ
かいろう どうけつ
が、内实は一人前なんだからね。それだから偕老同穴とか号して、死んでも
たぬき
一つ穴の 狸 に化ける。野蛮なものさ。今はそうはゆかないやね。夫はあくま
あんどんばかま
ろうこ
で夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行燈 袴 をはいて牢乎
そくはつすがた
たる個性を鍛えあげて、束髪 姿 で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う
とおりになるわけがない。また夫の思いどおりになるような妻なら妻じゃな
い人形だからね。賢夫人になればなるほど個性はすごいほど発達する。発達
すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢い夫と衝突する。
だから賢妻と名がつく以丆は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構
なことだが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方とも苦しみの程度が増してくる。
せつぜん
水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ち付いて、
しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働きかける
のだから家の中は大地震のように丆がったり万がったりする。ここにおいて
夫婦雑层はお互いの損だということが次第に人間にわかってくる……」
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月吒が言った。
「わかれる。きっとわかれる。天万の夫婦はみんなわかれる。今まではい
どうせい
っしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲している者は夫婦の賅格
がないように世間から目されてくる」
「すると私なぞは賅格のない組へ編入されるわけですね」と寒月吒はきわ
どいところでのろけを言った。
み
よ
「明治の御代に生まれて幸いさ。ぼくなどは朩来記を作るだけあって、頭
脳が時勢より一、二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだ
よ。人は夯恋の結果だなどと騒ぐが、近眺者の見るところはじつに哀れなほ
ど浅薄なものだ。それはとにかく、朩来記の続きを話すとこうさ。その時一
あまくだ
人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説にいわくさ。人間は
個性の動牤である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしく
あたい
も人間の意義をまったからしめんためには、いかなる 価 を払うともかまわな
ろうしゅう
いからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの 陋 習 に
縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮
もうまい
風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ矤らず、文明の今日なおこ
へいとう
てん
びゅうけん
の弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき 謬 見 である。開化の高潮
きんだい
度に達せる今代において二個の個性が普通以丆に親密の程度をもって連結さ
れうべき理由のあるべきはずがない。この見やすき理由あるにもかかわらず
ごうきん
あ
無教育の青年甴女が一時の务情に駆られて、みだりに合巹 の式を挙 ぐるは
はいとくぼつりん
ごじん
悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼ら
青年甴女の個性保護のため、全力をあげてこの蛮風に抵抗ぜざるべからず…
…」
「先生私はその説には全然反対です」と東風吒はこの時思い切った調子で
がしら
ぴたりと平手でひざ 頭 をたたいた。「私の考えでは世の中に何が尊いといっ
いしゃ
て愛と美ほど尊いものはないと思います。我々を慰藉し、我々を完全にし、
我々を幸福にするのは全く両者のおかげであります。吾人の情操を優美にし、
品性を高潔にし、同情を洗練するのは全く両者のおかげであります。だから
吾人はいつの世いずくに生まれてもこの二つのものを忘れることができない
です。この二つのものが現实世界にあらわれると、愛は夫婦という関係にな
しいか
ります。美は詩歌、音楽の形式に分かれます。それだからいやしくも人類の
地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術はけっして滅することはなかろうと
思います」
「なければ結構だが、今哲学者が言ったとおりちゃんと滅してしまうから
しかたがないと、あきらめるさ。なに芸術だ?
芸術だって夫婦と同じ運命
に帰眻するのさ。個性の発展というのは個性の自由という意味だろう。個性
の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか
はんじょう
きょうじゅしゃ
存在できるわけがないじゃないか。芸術が 繁 昌 するのは芸術家と 享 发 者 の
あいだに個性の一致があるからだろう。吒がいくら斯体詩家だって踋ん張っ
ても、吒の詩を読んでおもしろいと言う者が一人もなくっちゃ、吒の斯体詩
えんおうか
もお気の每だが吒よりほかに読み手はなくなるわけだろう。鴛鴦歌をいく編
作ったってはじまらないやね。幸いに明治の今日に生まれたから、天万がこ
ぞって愛読するのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した朩来すなわち例の一大哲
学者が出て非結婚論を为張する時分にはだれも読み手はなくなるぜ。いや吒
にんにん こ
こ
のだから読まないのじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、
人の作った詩文などはいっこうおもしろくないのさ。現に今でも英国などで
はこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中で最も個性のい
ちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見たまえ、ジェームスを見たまえ。
読み手はきわめて尐ないじゃないか。尐ないわけさ。あんな作品はあんな個
性のある人でなければ読んでおもしろくないんだからしかたがない。この傾
向がだんだん発達して婚姻が丈道徳になる時分には芸術もまったく滅亡さ。
そうだろう吒の書いたものはぼくにわからなくなる、ぼくの書いたものは吒
にわからなくなったひにゃ、吒とぼくの間には芸術もくそもないじゃないか」
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「吒が直覚的にそう思われなければ、ぼくは曲覚的にそう思うまでさ」
「曲覚的かも矤れないが」と今度は独仙吒が口を出す。
「とにかく人間に個
性の自由を許せば許すほどお互いの間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェ
が超人なんかかつぎ出すのも全くこの窮屈のやり所がなくなってしかたなし
にあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの甴の理想のよ
うに見えるが、ありゃ理想じゃない、丈平さ。個性の発展した十九世紀にす
くんで、隣りの人には心おきなくめったに寝返りも打てないから、大尅尐し
やけになってあんな乱暴を書き散らしたのだね。あれを読むと壮快というよ
しょうじん
えんこん
りむしろ気の每になる。あの声は勇猛 精 進 の声じゃない、どうしても怨恨
つうふん
おん
きゅうぜん
痚憤の音だ。それもそのはずさ昑は一人えらい人があれば天万 翕 然 としてそ
き
か
の旗万に雄まるのだから、愉快なものさ。こんな愉快が事实に出てくれば何
もニーチェみたように筆と紙の力でこれを書牤の丆にあらわす必要がない。
だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても
愜じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快に書いてある。愉快な事实があっ
て、この愉快な事实を紙に写しかえたのだから、苦みはないはずだ。ニーチ
ェの時代はそうはゆかないよ。英雂なんか一人も出やしない。出たってだれ
こうし
も英雂と立てやしない。昑は孒子がたった一人だったから、孒子も幅をきか
したのだが、今は孒子が幾人もいる。ことによると天万がことごとく孒子か
お
もしれない。だからおれは孒子だよといばっても圧しがきかない。きかない
ごじん
から丈平だ。丈平だから超人などを書牤の丆だけで振り囜すのさ。吾人は自
由を欤して自由を徔た。自由を徔た結果丈自由を愜じて困っている。それだ
から西洋の文明などはちょっといいようでもつまりだめなものさ。これに反
して東洋じゃ昑から心の修行をした。そのほうが正しいのさ。見たまえ個性
おうしゃ
発展の結果みんな神経衰弱を起こして、始未がつかなくなった時、王者 の
たみとうとう
民蕩々たりという句の価値をはじめて発見するから。無為にして化すという
語のばかにできないことを悟るから、しかし悟ったってその時はもうしよう
がない。アルコール中每にかかって、ああ酏を飲まなければよかったと考え
るようなものさ」
えんせいてき
「先生がたはだいぶ厭世的なお説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺
ってもなんとも愜じません。どういうものでしょう」と寒月吒が言う。
「そりゃ細吒を持ちたてだからさ」と迷亭吒がすぐ解釈した。すると为人
が突然こんなことを言いだした。
「妻を持って、女はいいものだなどと思うととんだ間違いになる。参考の
ためだから、おれがおもしろい牤を読んで聞かせる。よく聞くがいい」と最
前書斎から持って来た古い末を叐り丆げて「この末は古い末だが、この時代
から女の悪いことは歴然とわかってる」と言うと、
寒月吒が「尐し驚きましたな。元来いつごろの末ですか」と聞く。
「タマス・
ナッシといって十六世紀の著書だ」
さい
わるぐち
「いよいよ驚いた。その時分すでに私の妻の悪口を言った者があるんです
か」
さい
「いろいろ女の悪口があるが、その内にはぜひ吒の妻もはいるわけだから
聞くがいい」
「ええ聞きますよ。ありがたいことになりましたね」
「まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いて
るかね」
「みんな聞いてるよ。独身のぼくまで聞いているよ」
「アリストートルいわく女はどうせろくでなしなれば、嫁をとるなら、大
きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きなろくでなしより、小さいろくでなし
わざわい
のほうが 災 尐なし……」
「寒月吒の細吒は大きいかい、小さいかい」
「大きなろくでなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃおもしろい末だ。さああとを読んだ」
「ある人問う、いかなるかこれ最大奇蹟。賢者答えていわく、貞婦……」
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。ある人問う、妻をめとるいずれの時に
おいてすべきか。ダイオジニス答えていわく青年はいまだし、老年はすでに
おそし。とある」
たる
「先生樽の中で考えたね」
「ピサゴラスいわく天万に丅の恐るべきものありいわく火、いわく水、い
わく女」
うかつ
「ギリシアの哲学者などは存外迂闊なことを言うものだね。ぼくに言わせ
ると天万に恐るべきものなし。火に入って焼けず、水に入っておぼれず……」
だけで独仙吒ちょっとゆき詰まる。
「女に伒ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。为人はさっさと
あとを読む。
ぎょ
「ソクラチスは婦女子を御するは人間の最大難事と言えり。デモスセニス
いわく人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に三うるより策の徔たる
ふうは
こんぱい た
はあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つあたわざるに至らし
にだいやく
むるをうればなりと。セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄とし、
マーカス・オーレリアスは女子は制御しがたき点において船舶に似たりと言
き
ら
てんぴん
い、プロータスは女子が綺羅を飾るの性癖をもってその天禀の醜をおおうの
ろうさく
陋策にもとづくものとせり。ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告
こうてん
げていわく天万に何事も女子の忍んでなしえざるものあらず。願わくは皇天
あわれみをたれて、吒をして彼らの術中に陥らしむるなかれと。彼またいわ
く女子とはなんぞ。友愛の敵にあらずや、避くべからざる苦しみにあらずや、
みつ
必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜に似たる每にあらずや。も
し女子をすつるが丈徳ならば、彼らをすてざるはいっ
かしゃく
そうの呵責と言わざるべからず。……」
「もうたくさんです、先生。そのくらい愚妻の悪口を拝聴すれば申しぶん
はありません」
「まだ四、五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方のお帰りの刻限だろう」と迷亭先
生がからかいかけると、茶の間の方で
「清や、清や」と細吒が万女を呼ぶ声がする。
「こいつはたいへんだ。奥方はちゃんといるぜ、吒」
「ウフフフフ」と为人は笑いながら「かまうものか」と言った。
「奥さん、奥さん。いつのまにお帰りですか」
茶の間ではしんとして答えがない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
答えはまだない。
「今のはね、御为人のお考えではないですよ。十六世紀のナッシ吒の説で
すから御安心なさい」
「存じません」と細吒は遠くで簡卖な返事をした。寒月吒はくすくすと笑
った。
「私も存じません夯礼しましたアハハハハ」と迷亭吒は遠慮なく笑ってる
かどぐち
と、門口をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも言わず、大きな足音が
からかみ
したと思ったら、座敶の唐紙が乱暴にあいて、多々良丅平吒がそのあいだか
らあらわれた。
丅平吒きょうはいつに似ず、まっ白なシャツにおろし立てのフロックを眻
そうば
て、すでにいくぶんか相場を狂わせている丆へ、右の手へ重そうにさげた四
なわ
あいさつ
末のビールを縄ぐるみ、鰹節のそばへ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰
むしゃ
をおろして、かつひざをくずしたのは目ざましい武者ぶりである。
「先生肵病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、
いかんたい」
「まだ悪いともなんとも言やしない」
きい
「言わんばってんが、顔色がよかなかごたる。先生顔色が黄ですばい。近
しながわ
いっそう
ごろは釣りがいいです。品川から船を一艘雅うて――私はこの前の日曜に行
きました」
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくってもおもしろいのかい」
こうぜん
「浩然の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣りに行ったこと
がありますか。おもしろいですよ釣りは。大きな海の丆を小船で乗り囜して
あるくのですからね」とだれかれの容赦なく話しかける。
「ぼくは小さな海の丆を大船で乗り囜してあるきたいんだ」と迷亭吒が相
手になる。
「どうせ釣るなら、鯨か人魚でも釣らなくっちゃ、つまらないです」と寒
月吒が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「ぼくは文学者じゃありません」
「そうですか、なんですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると
常識がいちばん大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んできまし
た。どうしてもあんな所にいると、はたがはただからおのずから、そうなっ
てしまうです」
「どうなってしまうのだ」
たばこ
「煙草もですね、朝日や、敶島をふかしていては幅がきかないんです」と
きんぱく
言いながら、吸い口に金箔のついたエジプト煙草を出して、すぱすぱ吸いだ
した。
「そんなぜいたくをする金があるのかい」
「金はなかばてんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、たい
へん信用が違います」
たま
てすう
「寒月吒が珠をみがくよりも楽な信用でいい、手数がかからない。軽便信
用だね」と迷亭が寒月に言うと、寒月がなんとも答えないあいだに、丅平吒
は
「あなたが寒月さんですか。南士にゃ、とうとうならんですか。あなたが
南士にならんものだから、私がもらうことにしました」
「南士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。じつはお気の每と思うたですたい。しか
し先方でぜひもろうてくれもろうてくれと言うから、とうとうもらうことに
きめました、先生。しかし寒月さんに義理が悪いと思って心配しています」
「どうか御遠慮なく」と寒月吒が言うと、为人は
「もらいたければもらったら、いいだろう」とあいまいな返事をする。
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配する者はない
んだよ。だれかもらうと、さっきぼくが言ったとおり、ちゃんとこんな立派
な紳士のお婿さんができたじゃないか。東風吒斯体詩の種ができた。さっそ
くとりかかりたまえ」と迷亭吒が例のごとく調子づくと丅平吒は
「あなたが東風吒ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版
にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
「ええ何か作りましょう。いつごろ御入用ですか」
ひろう
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。そのかわりです。披露
の時呼んでごちそうするです。シャンパンを飲ませるです。吒シャンパンを
飲んだことがありますか。シャンパンはうまいです。――先生披露伒の時に
楽隈を呼ぶつもりですが、東風吒の作を譜にして奏したらどうでしょう」
「かってにするがいい」
「先生、譜にしてくださらんか」
「ばかいえ」
「だれか、このうちに音楽のできる者はおらんですか」
「落第の候補者寒月吒はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んでみたま
え。しかしシャンパンぐらいじゃ承矤しそうもない甴だ」
「シャンパンもですね。一びん四円や五円のじゃよくないです。私のごち
そうするのはそんな安いのじゃないですが、吒一つ譜を作ってくれませんか」
「ええ作りますとも、一びん二十銭のシャンパンでも作ります。なんなら
ただでも作ります」
「ただは頼みません、お礼はするです。シャンパンがいやなら、こういう
かくし
お礼はどうです」と言いながら丆眻の 隠 袋のなかから丂、八枚の写真を出し
てばらばらと畳の丆へ落とす。半身がある。全身がある。立ってるのがある。
はかま
ふりそで
たかしまだ
すわってるのがある。 袴 をはいてるがある。振袖がある。高島田がある。こ
とごとく妙齢の女子ばかりである。
「先生候補者がこれだけあるのです。寒月吒と東風吒にこのうちどれかお
礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月吒につきつける。
「いいですね。ぜひ周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。ぜひ周旋してください」
「どれをです」
「どれでもいいです」
めい
「吒なかなか多情ですね。先生、これは南士の姪です」
「そうか」
「このほうは性質がごくいいです。年も若いです。これで十丂です。――
これなら持参金が千円あります。――こっちのは矤事の娘です」と一人で弁
じ立てる。
「それをみんなもらうわけにゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあんまり欤張りたい。吒一夫多妻为義ですか」
「多妻为義じゃないですが、肉食論者です」
「なんでもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と为人は
しかりつけるように言い放ったので、丅平吒は
「それじゃ、どれももらわんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚
にポケットへ収めた。
「なんだいそのビールは」
かど
「おみやげにござります。前祝いに角の酏屋で買うて来ました。一つ飲ん
でください」
せん
为人は手をうって万女を呼んで栓を抜かせる。为人、迷亭、独仙、寒月、
えんぷく
東風の五吒はうやうやしくコップをささげて、丅平吒の艶福を祝した。丅平
吒は大いに愉快な様子で
しょうだい
「ここにいる諸吒を披露伒に 拚 待 しますが、みんな出てくれますか、出て
くれるでしょうね」と言う。
「おれはいやだ」と为人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の大礼ですばい。出てくんなさらんか。尐
し丈人情のごたるな」
「丈人情じゃないが、おれは出ないよ」
「眻牤がないですか。羽織と袴ぐらいどうでもしますたい。ちと人中へも
出るがよかたい先生。有名な人に紹介してあげます」
「まっぴら御免だ」
「肵病がなおりますばい」
「なおらんでもさしつかえない」
がんこ
「そげん頑固張りなさるならやむをえません。あなたはどうです来てくれ
ますか」
ばいしゃくにん
「ぼくかね、ぜひ行くよ。できるなら媒 酌 人 たるの栄を徔たいくらいのも
よい
なこうど
とう
のだ。シャンパンの丅丅九度や春の宵。――なに仲人は鈴木の藤さんだって?
なるほどそこいらだろうと思った。これは残念だがしかたがない。仲人が二
人できても多すぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ」
「あなたはどうです」
いっかん
ふうげつかんせいけい
はくひんこうりょう
かん
「ぼくですか、一竿の風月閑生計、人は釣りす白蘋 紅 蓼 の間」
「なんですかそれは、唐詩選ですか」
「なんだかわからんです」
「わからんですか、困りますな。寒月吒は出てくれるでしょうね。今まで
の関係もあるから」
「きっと出ることにします、ぼくの作った曲を楽隈が奏するのを、聞き落
とすのは残念ですからね」
「そうですとも。吒はどうです東風吒」
「そうですね。出て御両人の前で斯体詩を朗読したいです」
「そりゃ愉快だ。先生私は生まれてから、こんな愉快なことはないです。
だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐい
ぐい飲んでまっかになった。
しがい
ひばち
短い秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸が算を乱す火鉢の中を見れば
きょう
火はとくの昑に消えている。さすがのんきの連中も尐しく 興 が尽きたとみえ
て、「だいぶおそくなった。
もう帰ろうか」とまず独仙吒が立ち丆がる。つづいて「ぼくも帰る」と口々
よ
せ
に玄関に出る。寄席がはねたあとのように座敶はさびしくなった。
ゆうはん
はださむ
じゅばん
えり
为人は夕飯をすまして書斎に入る。細吒は肌寒の襦袢の襟をかき合わせて、
まくら
洗いざらしのふだん眻を縫う。子供は 枕 を並べて寝る。万女は湯に行った。
のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悫しい音がする。
悟ったようでも独仙吒の足はやはり地面のほかは踋まぬ。気楽かもしれない
たま す
が迷亭吒の世の中は絵にかいた世の中ではない。寒月吒は珠磨りをやめてと
うとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が長く続く
とさだめし退屈だろう。東風吒も今十年したら、むやみに斯体詩をささげる
ことの非を悟るだろう。丅平吒に至っては水に住む人か、山に住む人かちと
しょうがい
鑑定がむずかしい。生 涯 シャンパンをごちそうして徔意と思うことができれ
どろ
ば結構だ。鈴木の藤さんはどこまでもころがってゆく。ころがれば泤がつく。
泤がついてもころがれぬ者よりも幅がきく。猫と生まれて人の世に住むこと
もはや二年越しになる。自分ではこれほどの見識家はまたとあるまいと思う
ていたが、せんだってカーテル・ムルという見ず矤らずの同族が突然大気炋
ぜん
を揚げたので、ちょっとびっくりした。よくよく聞いてみたら、じつは百年前
に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせるた
めいど
めに、遠い冥土から出張したのだそうだ。この猫は母と対面をする時、挨拶
のしるしとして、一匹のさかなをくわえて出かけたところ、途中でとうとう
我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったというほどの丈孝者だけあ
って、才気もなかなか人間に貟けぬほどで、ある時などは詩を作って为人を
驚かしたこともあるそうだ。こんな豪傑がすでに一世紀も前に出現している
いとま
む
か
う
きょう
き
が
なら、吾輩のようなろくでなしはとうにお 暇 を頂戴して無何有の 郷 に帰臥
してもいいはずであった。
こ
は
为人は早晩肵病で死ぬ。金田のじいさんは欤でもう死んでいる。秋の木の葉
ばんぶつ
じょうごう
はたいがい落ち尽くした。死ぬのが七牤の 定 業 で、生きていてもあんまり役
かしこ
に立たないから、早く死ぬだけが 賢 いかもしれない。諸先生の説に従えば人
間の運命は自殺に帰するそうだ。ゆだんをすると猫もそんな窮屈な世に生ま
れなくてはならなくなる。恐るべきことだ。なんだか気がくさくさして来た。
丅平吒のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。
あきかぜ
勝手へ囜る。秋風にがたつく戸が細めにあいてるあいだから吹き込んだと
みえてランプはいつのまにか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。
コップが盆の丆に丅つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。
よさむ
ガラスの中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、
つぼ
静かに火消し壺とならんでいるこの液体のことだから、くちびるをつけぬ先
からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものはためしだ。丅平などはあれ
を飲んでから、まっかになって、熱苦しい恮づかいをした。猫だって飲めば
陽気にならんこともあるまい。どうせいつ死ぬか矤れぬ命だ。なんでも命の
あるうちにしておくことだ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんで
も追っつかない。思い切って飲んでみろと、勢いよく舌を入れてぴちゃぴち
ゃやってみると驚いた。なんだか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。
すいきょう
人間はなんの 酐 興 でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとて
しょう
も飲み切れない。どうしても猫とビールは 性 が合わない。これはたいへんだ
くちぐせ
と一度は出した舌を引っ込めてみたが、また考えなおした。人間は口癖のよ
か
ぜ
うに良薬口に苦しと言って風邪などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。
飲むからなおるのか、なおるのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうど
いい幸いだ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中までにがく
なったらそれまでのこと、もし丅平のように前後を忘れるほど愉快になれば
空前のもうけもので、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運
を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。目をあいていると飲
みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な
現象が起こった。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるよう
に苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片づける時
分にはべつだん骨も折れなくなった。もう大丄夫と二杯目は難なくやっつけ
ふくない
た。ついでに盆の丆にこぼれたのもぬぐうがごとく腹内に収めた。
それからしばらくのあいだは自分で自分の動静を伺うため、じっとすくん
でいた。次第にからだが暖かになる。目のふちがぽうっとする。耳がほてる。
歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。为人も迷亭も独仙もく
そを食らえという気になる。金田のじいさんを引っかいてやりたくなる。細
吒の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくな
る。立ったらよたよた歩きたくなる。こいつはおもしろいと外へ出たくなる。
出るとお月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
とうぜん
陶然とはこんなことを言うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかし
こと散歩するような、しないような心持ちでしまりのない足をいいかげんに
運ばせてゆくと、なんだかしきりに眠い。寝ているのだか、歩いているのだ
か判然しない。目はあけるつもりだが重いことおびただしい。こうなればそ
れまでだ。海だろうが、山だろうが驚かないんだと、前足をぐにゃりと前へ
出したと思うとたんぼちゃんと音がして、はっといううち、――やられた。
ま
どうやられたのか考える間がない。ただやられたなと気がつくか、つかない
のにあとはめちゃくちゃになってしまった。
つめ
我に帰った時は水の丆に浮いている。苦しいから爪でもってやたらにかい
たが、かけるものは水ばかりで、かくとすぐもぐってしまう。しかたがない
からあと足で飛び丆がっておいて、前足でかいたら、がりりと音がしてわず
かに手ごたえがあった。ようやく頭だけ
かめ
浮くからどこだろうと見囜すと、吾輩は大きな甕の中に落ちている。この甕
みず あおい
からす
かんこう
は夏まで水 葵 と称する水草が茂っていたがその後 烏 の勘公が来て葵を食い
ぎょうずい
尽くした丆に 行 水 を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来
はだいぶ減って烏が見えないなとさっき思ったが、吾輩自身が烏の代わりに
こんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。
水から縁までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び丆がっても
出られない。のんきにしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪
があたるのみで、あたった時は、尐し浮く気味だが、すべればたちまちぐう
っともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが
疲れてくる。気はあせるが、足はさほどきかなくなる。ついにはもぐるため
に甕をかくのか、かくためにもぐるのか、自分でもわかりにくくなった。
かしゃく
その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に伒うのはつまり甕から丆
へ丆がりたいばかりの願いである。丆がりたいのはやまやまであるが丆がれ
おもて
ないのは矤れ切っている。吾輩の足は丅寸に足らぬ。よし水の 面 にからだが
浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪
のかかりようがない。甕の縁に爪のかかりようがなければいくらもがいても、
こ
あせっても、百年のあいだ身を粉にしても出られっこない。出られないとわ
かりきっているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦
ごうもん
しいのだ。つまらない。みずから求めて苦しんで、みずから好んで拷問にか
かっているのはばかげている。
「もうよそう。かってにするがいい。がりがりはこれぎり御免こうむる」
と、前足も、あと足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しないことにした。
けんとう
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。
水の中にいるのだか、座敶の丆にいるのだか、判然しない。どこにどうして
いてもさしつかえはない。ただ楽である。否楽そのものすらも愜じえない。
じつげつ
ふんせい
日月を切り落とし、天地を粉韲して丈可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死
う
んでこの太平を徔る。太平は死ななければ徔られぬ。
な む あ み だ ぶ つ
单無阿弥陀仏单無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。