1 ヒルダ・ミッシェル講座Ⅰ 第 7 回 一人になる時~孤独・誘惑~ 信仰者の立場から 2014年2月26日 パトリック 山田 益男 §1 人間の属性 今回のテーマ「一人になる時」を考えますと、私たちには、まず「一人ぼっち」、「孤独」という状況が思い浮かび ます。「大辞林」という辞書で「孤独」を引いてみると、「頼りになる人や心の通じあう人がなく、ひとりぼっちで寂し いこと(さま)」との説明がありました。 前回の講座で、人は他者との関係を絶って一人では生きていけない存在であるとお話しいたしまし た。事実、幼児期は誰しも全面的に大人の庇護のもとに生かされており、それを欠いては生きてゆ けません。何らかの事情で一人にさせられてしまった時、乳幼児は泣いて助けを求めますが、誰も 来てくれない場合、命に係わる危機となります。大人であっても、人里離れた山中で道に迷った場 合には、不安と恐怖に襲われ、何とかして人の居る場所にたどり着きたいと願います。人は本来的 に一人で居ると不安になるという習性が植え付けられているように思えます。 しかし、人は必ずしも深山幽谷にたった一人でいる場合だけではなく、大勢の人々の中にいても、誰からも受け 容れられていないとか、理解されていないと感じるときは孤独であるとの思いを持ちます。大辞林の説明にもある ように人が孤独であるという状態は物理的な孤立状態だけでなく、心情的な孤立状態のときにも感じるものである といえます。 アブラハム・マズロー(アメリカの心理学者:1908 年~1970 年)は欲求段階説なるものを唱えました。人間の欲 求は、5段階のピラミッドのようになっていて、底辺から始まって、1段階目の欲求が満たされると、1段階上の欲求 を志すというものです。その5段階とは、1)生理的欲求、2)安全の欲求、3)親和の欲求、4)自我の欲求、5)自己 実現の欲求とされています。人間の最も基本的な欲求は生理的欲求であって、のどが渇けば水を求め、空腹とな れば食物を求めるといったものです。二番目の安全の欲求は、危険な状態からの脱出を求めるもので、例えば、 災害や戦乱の中にあればそこでの危険から身を守りたいという欲求です。ここまでは人間に限らず動物たちにも 本能的に備えられた欲求のように思えます。三番目の親和の欲求とは、他者との関係の中で安心したいとか、他 者と同じような状態の中の存在でありたいなどの集団帰属の欲求です。次の四番目の自我の欲求は、自分が集 団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める認知欲求のことであり、五番目の自己実現の欲求とは、 自分の能力、可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のこととされています。今回のテ ーマ「一人になる時」「一人ぼっちの孤独」はまさに、第3番目の欲求「集団帰属の欲求」に関係し、人間が回避し たいと思う基本的な欲求に位置づけられています。仏教においても現世の地獄の中の一つに「孤独地獄」が挙げ られているとのことです。 私たちが「一人になる時」というのは一人ぼっちで孤独というだけでなく、他者の目が自分に注がれていない状 態でもあり、他者から監視をされていない解放されている時という側面を持ちます。人の目は自分に対する人物 2 評価と直結するため、人間は少なからず人の目を気にする存在であるといえます。これはマズローの第4段階の 認知欲求、「他者から価値ある人と認められたい」の思いに通じます。心の中ではやりたいと思っても人の目があ るから、やったら軽蔑されてしまうからできないということが私たちの心の中にはないでしょうか。このタガが外れる と誰も見ていないから、恥ずべきことだけれどやってしまおうという誘惑となります。また、人の目があったとしても 知ってる人はいないから、恥は一時のこと後を引くことはないからやってしまおうという誘惑、いやな言葉ですが、 所謂「旅の恥は掻き捨て」ということが起こりがちです。 また、人の目というよりは他人の存在が煩わしいと感じているときなど、一人になると、その静けさの中でホッとす るということがあります。そのようなときは、寂しいとか不安を感じるというようなことはなく、ゆっくり考え事ができる充 実した時ともなり、むしろ喜ばしいときと感じたりします。 以上のような人間の一般的な属性を心にとめつつ、主イエスの示された生き方に注目してみたいと存じます。 §2 主イエスが一人となられた時 1.荒野の誘惑 聖書には主イエスはヨルダン川で洗礼を受けられたのち、宣教活動に入られる前 40 日間、たった一人荒野に あって断食をして過ごされたとあります。マタイ福音書では 4:1 に「悪魔に試みられるため、霊に導かれて荒れ野 にいかれた。」と記されています。霊に導かれとあり、これはご自身の発意というよりは悪魔の誘惑にあわせようと いう父なる神様のご意志が聖霊を通して示され、それに主イエスが従われたものであったと解されます。ということ は、この出来事は父なる神様が主イエスに与えられた試練であったということになります。父なる神は御子イエス に何故そのような試練をお与えになったのでしょうか。神の子イエスには悪魔の誘惑なんて誘惑にもならず、即座 に退けられるはず、不必要な試験・訓練ではなかったのかと私たちは考えてしまいます。しかし、受肉なされた主 イエスは、今私たちが考察しました人間の属性をそのまま引き受けておられたことを忘れてはならないと思います。 受肉された主イエスは人間の弱さをも備えた「生身の人間イエス」であったことをしっかりと認識することが重要で あると思います。単純に神様の御子であるとして、人間とは別格の特別な存在と祀り上げることは主イエスを理解 する上で間違いの元となると思います。 神様が与えられた試練の経過を見てみまましょう。「40日間昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」とあり、この とき、悪魔の誘惑が始まりました。第一番目の誘惑は「飢え」に絡めてきました。マズローが挙げた人間の最も根 源的な生理的欲求の代表格です。「もし、あなたが神の子であるなら、この石をパンに変えよ」これが第一の誘惑 です。 サタンは地上の栄誉・栄華を掌握しています。人間は地上において生命を確保するためにまず肉体を養わなけ ればなりません。人間社会の歴史では権力者はまずパンを独占し、飢えた民衆を支配するのが常でした。主イエ スは、サタンによるこの第一の誘惑を「人はパンのみによって生きるのではなく、神のみ言によって生きる」と退けま した。 人間は霊と肉とからなるものとして神様に創造されましたが、神はその人間の霊に導きを与え、サタンは肉を通し て人を誘惑します。霊は人間の主体であって、肉は地上における霊の住まいです。地上の生活にパンは必要不 可欠なものですが、パンだけでは霊なる人間は養われないのです。主イエスは、神の形に作られた人間は霊が 主体であって、それを肉に隷属させてはならないと「申命記」の聖句を引用してサタンの誘惑を拒絶したのでし 3 た。 サタンの第二の誘惑はイエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 「もし、あなたが神の子なら、下に 飛びおりてごらんなさい。天使が支えるでしょう」と囁きました。この誘惑の内容は、神の子である証を見せなさい。 そうすれば私も人々もあなたが神の子であることを認めますということと解されます。神殿の頂上に立って、そこか ら飛び降りれば、天使がきて支えてくれるから怪我はしないでしょう。人々の注目を集める中で奇跡をおこなえば センセーショナルに神の子であることを皆に示せるではないかとサタンは主イエスを誘惑したのです。マズローが 第4段階とする認知欲求に絡めての誘惑です。メシアの出現は誰の目にも明らかな形でくるものと人々は期待し ますが、飼い葉桶に生まれ、大工の息子(庶民)として育った主イエスは、にぎにぎしく自らが神の子であることを 示すことをなさいません。「主なる神を試みてはならない」(申命記 6:16)とサタンの第二の誘惑を退けました。この 言葉は、イスラエルの荒野における四十年を振り返って語ったモーセの言葉です。神に信頼をおいて歩むことが 人の道であり、自分の願いや都合で特別な恵みを要求したりするものではないと、まして、自分が愛されている者 だからといってそれを確認するために神を試すなどもってのほかと、神の民イスラエルの歩みに重ねてはっきりと 宣言されました。 サタンの最後の試練はイエスを高い山に連れて行き、この世の栄華をことごとく見せてイエスに「もしあなたが、ひ れ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげよう」と誘惑しました。これが第三の試練です。これは 人間にとって最も大きな誘惑と思えます。地上に生活する人間にとって、この世の栄華、すなわち、富と権力を手 に入れることは、他者に影響されることなく、自由で安楽な生活を手にすることができることを意味し、地上の生涯 だけを考えればこれは大きな魅力となります。ですから、人間は躍起となって、栄華を求めます。しかし、富と権力 をひたすら求める社会には争いが絶えず、搾取と弾圧といった弱肉強食の状況が生まれます。これは「主の平和」 と対極にある状態といえます。神の目から見れば生きた人間とは、肉の欲を抑制し、霊を大事にする人であるとい えるでしょう。物質世界の栄華をすべて自分のものにしたとしても、サタンにひれ伏し、霊なる自分を放棄したなら、 いずれは朽ちてゆく肉体と共に死ぬ存在となります。 私にひれ伏せば、この世の栄華をお前に与えようというサタンの誘惑は、主イエスにとっても決して小さな誘惑で はなかったと思われます。メシアに対して人々が期待していた姿は、強大なローマ帝国を倒しユダヤを独立させ て、ダビデ・ソロモン時代を凌駕する繁栄した「神の王国を樹立させる英雄」でしたから、その期待に応えるには所 謂渡りに船の魅力的な話であったのです。しかし、神様から付託されたメシアとしての意識を強くもたれておられ た主イエスの選択は、人々の期待よりも父なる神のご意向に応えることでした。「主なる神を拝し、ただ神にのみ仕 えよ」とサタンの誘惑を敢然と拒んだのです。この言葉の原典は多分申命記 6.13「あなたの神、主を恐れてこれに 仕え(、その名をさして誓わ)なければならない。」ではないかと推定されます。この回答は、決して人の私心から は出てこないものです。自分のことを思えば、誰だって栄誉・栄華を手にしたいと思うはずです。これを拒絶できる 根拠は「神を主と仰いで信頼し、神様に聴き従って生きる」という信仰心以外には有り得ないものと思えます。 主イエスは、人のあるべき姿である「神様により頼む信仰者」として荒野でのすべての誘惑に対して、聖書の言葉 をもって打ち勝たれています。これは、サタンの誘惑に対して人間が立ち向かうときの模範を示されたものといえ るでしょう。しかし、サタンの誘惑に私たち人間が打ち勝つことは実際のところ難しいことです。それをよくご存知の 主イエスは「私たちを誘惑に陥らせずに、悪よりお救いください。」と神様に日々祈り、神様の助けによって克服す ることを教えられています。 4 2.祈りの時 主イエスは祈られるため、時折人々から離れ山にいかれたということが聖書に書かれています。主イエスは祈られ るとき意図的に一人になる環境を整えられたと思われます。 マタイ 14:23 には「祈るため、山に行かれた。」とあり、マルコ 1:35 には「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、 人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」と、そしてマルコ 6:46 には「群衆と別れてから、祈るため に山へ行かれた。」との記述があります。 人の存在は、祈りの場では邪魔となるということでしょう。祈りとは神様と対話をし、神様からのメッセージを聴き 取る作業であると言えます。その際に、人の存在が煩わしい雑音となることは想像に難くありません。主イエスご自 身が父なる神様に祈るときになさった、人から離れ一人になって祈る御姿はわたしたちに祈るときのよき環境設定 を示されているものと思います。 §3 主イエスの孤独 弟子たちをはじめ周りの人たちからご自分について誤解を受け、御心が理解されないことの多かったご生涯その ものが孤独であったといえるかもしれません。その中でも、主イエスが最も孤独をお感じになったときは、受難直前 のゲッセマネの園で祈られたときと、十字架上で「エロイ エロイ レマ サバクタニ」とのお言葉を発っせられた時 ではないかと推察いたします。 1.ゲッセマネの園における主イエスの孤独 マタイ 26:36~45 の記述は以下の通りです。 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに 座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少 し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださ い。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼 らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていら れなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に 向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行わ れますように。」 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、 また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなた がたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」 過ぎ越しを祝う時節、最後の晩餐を終えられ、いよいよ主イエスの時が到来し、主イエスはゲッセマネの園で悲 痛な祈りをささげられました。この時、ペトロとゼベダイの子すなわち、ヤコブとヨハネですが、三人の弟子を伴わ れておられます。この三人の弟子は以前、主イエスの変容貌の出来事の際に山に伴われた同じメンバーです。し かし、彼らはこの時の緊迫した状況を全く理解していないようです。父なる神様から委嘱されたメシアとしての務め の最終仕上げの時を迎えられて、悲しみもだえ始められた。そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、 わたしと共に目を覚ましていなさい。」と弟子たちに告げ、父なる神様に向かい合い、一心に祈られます。「父よ、 5 できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 と。弟子たちのところに来てみると弟子たちは目を覚ましておられずうたた寝をしていました。「誘惑に陥らぬよう、 目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と弟子たちを叱咤激励し、再び父に対面されました。 御父は意向を撤回することなく人間の罪をすべて負う神の小羊として十字架に死するようにと、御子イエスに強い 意を示されたものと推察されます。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御 心が行われますように。」と決意を固められました。そのような緊迫した時にも弟子たちには危機感はまるでなく、 また、眠り込んでいました。三年もの間生活を共にし、神様の愛を説いて示し、神様に聴き従って生きることを教え てきたお前たちでありながら、今の私の苦しみが少しも察しられないのかと、愛する弟子たちにすら全く理解され ない主イエスはこのとき一人であることを痛感してどんなにか寂しかったことでありましょう。しかし、弟子たちをしか ることなく、「立て、行こう。」と共に進むことを促されました。そして、その後、主イエスが祭司長たちの手のものに 捉えられるという事態が発生すると「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とマタイ 26:56 に記されています。 弟子たちのこの体たらくはまるで私たち自身の姿を見せつけられているようで、悲しくなります。 2.十字架上での主イエスの孤独 マルコ福音書第 15 章の記述を見てみましょう。 「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエス と一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。こうして、「その人は犯罪人の一人に数え られた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「お やおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律 法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシ ア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた 者たちも、イエスをののしった。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、 レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そば に居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海 綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、 イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 一般の犯罪人と一緒に刑に処せられた主イエス、その扱いはまさに犯罪人でありその罪状札には「ユダヤ人の 王」と表記されていたとのこと。午前 9 時に十字架に付けられ、午後3時に息を引き取られた。その間、人々のあざ けりを一身に受けながら、傷口から血がしたたり落ちて徐々に体力を消耗させられる中、6 時間もの間苦しみを味 あわされて亡くなられた。死の間際に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ば れたと記されております。人々に神様の愛を説き、神様を信頼し、神様に聴き従って生きることを教えられた主イ エスも、最後は神様から見捨てられ、失望の内に孤独な死を遂げられたのかと誤解されるようなお言葉です。この 言葉は詩編第 22:2 にある言葉で「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたし を遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」です。昔、ある先輩が、「この言葉は決して絶 望された主イエスの言葉ではない。詩編にある言葉で、この詩編の最後は主への賛美で終わっている。だから、 6 この主イエスの言葉は神様を賛美しているのだ。」と説明してくれました。確かにこの詩編 22 編は 23 節「わたしは 兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。」以下は神様への賛美が謳われています。しかし、 その先輩の説明には何かしっくりこないものを感じてきました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになった のですか」とのお言葉をそのまま受け止めれば、主イエスは十字架上で死の間際に父なる神様から切り離され見 捨てられたという実感を味わわれたのではないかと考える方が自然のように思えます。神の小羊とされたキリスト・ イエスの役割とは、人間のあらゆる罪をその身に負って処刑されるものである故に、ただ命をささげればよいという ものではなく、人々からは軽蔑の上に軽蔑を受け、神様からも断絶された中で死んでゆくことではなかったのでし ょうか。父なる神様の御意志に従い、愛する人々のため、身代わりとなって命をささげるのだという栄誉ある死に方 が、父なる神様の励ましと見守りの内に許されたのであれば、主イエスはここまで苦しまれることはなかったのでは ないでしょうか。日本にはかつて武士道というものが存在して「死の美学」を唱えていました。何らかの名目の下で、 その大義の下で、男たちは自らの命を散らせました。名誉ある死にざまに自らの存在価値をかけ、勇ましく誇らし く死んでいったのです。しかし、父なる神様は主イエスにはそのような自己満足的な誇り高き死に方を許されなか った。あくまでも人間のあらゆる罪を背負う大罪人として、神様から最も遠い存在に位置付けられて孤独のうちに 死んでゆくことが課せられた。それが主イエスの飲まれた杯であったのではないかと小生は推察致します。ですか ら、主イエスはゲッセマネの園で血の汗を流しながら、できることならこの盃を取り除けてくださいと祈られた後、揺 るがない父なる神様のご意向を受け止められ、「わたしの思いではなく、御心のままになさってください。」と、この 盃を飲む決意を固められたのではないでしょうか。物わかりの悪い弟子たちに理解されなくても、人々からどんな にひどく嘲られても主イエスにはさほど耐えられないことではなかった。しかし、常に一体である父なる神様から引 き裂かれ断絶されるという事態には耐えられなかったのではないかと。そのように考えますと、ゲッセマネでの主イ エスの孤独もさることながら、十字架上での孤独は絶対的なものであったと思われます。それがあの悲痛な叫び 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」となったのではないでしょうか。 §4 孤独への対処 主イエスのご生涯からも、人は孤独という状態に置かれることがどんなにか大変な苦しみであることがわかります。 たとえ、近くに人がいたとしても心が通じ合えない状態であるとき、人は孤独を感じます。存在を無視されたり、ひ どい侮辱を受けたりといった中で、疎外感をもたされた状態が長く続くと人は精神的に病んでしまうことがままあり ます。孤独という状態は人の健康をも害する好ましからざる状態であると言えます。神様は「人が一人でいるのは よくないと」と仰せられ、アダムにエバをお与えになったことからも、人は本来的に個としての存在ではなく共にあ る存在であるように作られていると考えられます。 主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ: 18-20)と仰せになりました。主イエスの名によって人が集まるところが「教会:エクレシア」ということになります。エ クレシアというギリシャ語は「呼び集められた者の群れ」という意味だそうです。教会は単なる人の集まりではなく、 主イエスに呼ばれて集まった者たちの群れです。その集団には群れの中心に主イエスがおられるという他の集団 とは異なる特徴点があります。人が孤独に陥らない環境は単に他者が近くにいるだけでは不十分で、互いに心が 通じ合えているという状態が必要です。主イエスが共におられない人の群れでは必ずしもその状態が確保できま せん。実際に私たちの社会では差別やいじめといったことが頻繁に起こっています。人の思いと人の思いがぶつ かるとき、人が傷つくという現象がまま生じます。その場に主イエスが共におられることによって、そのような事態が 7 回避できると私たち教会は考えています。人が傷つく際には傷付けた人又は傷つけられた人或はその双方の意 識に問題がある場合がありますが、主イエスが共におられることによってお互いの理解がはかられ、不幸な事態 が回避されたという経験を教会がしてきたからです。では、現実の教会、例えば、私たちの日本聖公会では人を 差別したり、蔑視したり、いじめなどは絶対に起こらないかといえば、そうとはいえません。残念なことですが、教会 と称する群れの中でもハラスメントは時折おこり、傷つく人が出ています。それは、現実の教会では主イエスを中 心ではなく隅に追いやって、自分たちにとって快適な集いの場、仲良しクラブ(サロン)化してしまうこともあり、そ のような群れでは自分たちにとって好ましくない人を排除しようとか、避けようとする人の思いが出てしまうからです。 そうなっては、もはやキリストの教会ではなくなってしまいます。私たちが教会に集うときには、まず、神様に前にひ ざまずき、日々の生活における思いと言葉と、行いの罪を懺悔し、お赦しと祝福を頂くこと、そして、人と接するとき には互いに不十分な者ではあるけれど神様に赦され生かされている者同士であるという兄弟の意識を失わないこ と、そして、互いに接するときには傍らには常に主イエスがおられるという意識をもつことが肝要であると存じます。 ところが、人間にはこれが難しいのです。すぐに主イエスの存在を忘れて人間同士が人の思いをぶつけあって しまうことが常です。しかし、弱いながらも信仰をもって教会に集う私たちは、不完全な者である故に、他者の悩み を聞かされてもその理解には限界があり、その悩みを解決してあげられる力がない現実があります。たとえそうで あっても、友が悩んでいる事実を真摯に受け止め、限界の中で理解しようとし、ともに神様の助けを祈ることを心が けたいと思います。教会がそのような群れであるならば、そこに集う私たちには主イエスが共にてくださり、救いよう のない孤独に陥ることはないものと信じます。 §5 誘惑への対処 一人でいる時は、人が誘惑に陥りやすい時であると先に人間の属性のところで申しました。人に見られていない から、良くないことだがやってしまおう。この思いは誰しも経験があると思います。信仰者であれば、神様が見てお られることを知っているから、悪いことはしないかといえば、そうではありません。信仰者であっても、神様に知られ るのは致し方ないが、人に知られなければまあいいか、という心が起きます。これはマズローの第4段階での躓き であり、神様よりも人の目を気にしていることになります。「神様は後で謝れば赦してくださる。人にわからなければ お前の名誉は保てるのだぞ。」これはまさに悪魔のささやきです。この誘惑を克服し、神の形に作られた霊なる存 在として永遠の命に至りたいという5番目の段階である自己実現の欲求へと進むことは人の力ではなかなか難し いように思われます。君子たる者はこうあるべしと道徳で律しようとしてもわれら凡人には容易ではありません。神 様の助けによらなければとてもこの誘惑を克服できそうにありません。 主イエスは、荒野での悪魔の誘惑に対して、聖書の言葉、神への信仰をもって打ち勝たれています。これは私 たち人間が悪魔の誘惑にさらされた時の模範として残してくださったものと理解できます。ですから、悪魔の誘惑 に打ち勝つには「神様により頼み、神様のみ言葉に聴き従って生きることだ」というのが主イエスのお答えであると 解されます。では、これをどうのようにしたら私たちの現実に結び付けることができるのでしょうか。神様への信仰を 確固たるものとすることは個人の努力ではなかなか難しいというより、むしろ不可能であると思われます。確かな信 仰は、個人で生きる中で育つものではなく、キリストの群れに組み入れられ、キリストが共におられる群れにあって 個々の人々が互いに支えられ、励まされる中で育てられ、強められていくものと存じます。悪魔の誘惑に打ち勝つ ことは個人の力では無理なことであり、キリスト者の群れの中にあって初めて可能となるのではないでしょうか。呼 び集められた者の群れ(エクレシア)は主イエスをその中心に置くことによりキリストの体(コルプスクリスチ)を構成 8 し、その群れは主イエスを中心とする聖なる交わり(コンムニオ・サンクトルム)の中で生かされ、キリストの教会とな ってゆくのでしょう。そして、私たち個々人はその教会にあって、キリストの体を構成する1細胞としてそれぞれの 役割を担うこと(主の宣教への参与)によって悪魔の誘惑に負けることなく、永遠の命に連なる者とされるのではな いでしょうか。ですから、私たちは教会を離れず、信仰者の群れとなって共に歩むことが大事なのだと思います。 §6 一人でいる時を「祈りの時」とする。 一人でいる時が孤独であれば、それは人間にとって好ましい環境ではありませんが、主イエスが共におられるな らば、それは誰にも邪魔をされない神様と対話する時となり、意味深き祈りの時となります。主イエスご自身も祈る ためによく一人で山に行かれました。私たちも一人になって祈るときを積極的に用い、大事にしたいと思います。 キリスト教が勧める祈りは神様にお願い(祈願)することではなく、神様の御心をお聴きすることです。神様の御心 を聴き取ることは決して簡単なことではなく、訓練が必要だと思います。幼児洗礼を受けて60年以上の教会生活 を送ってまいりました小生ですが、聖堂や自室で跪き祈る習慣を続けてきたものの、祈りの内に御心を聴き取るこ とは難しいです。御心を聴く基本は、神様に自分の思いをぶちまけることなく、先入観を取り除いた素直な心とな って静かに聴く姿勢で臨むことだと思いますが、これがなかなかできないのです。祈ろうとしても雑念が駆け巡っ て心の耳をふさぎ邪魔をします。また、聖公会は立派な祈祷書をもっており、中に素晴らしい祈祷文が沢山盛り 込まれているため、ついそれに頼って、自分の言葉で祈る訓練をおろそかにしてきました。たとえ言葉は拙くても 自分の言葉で神様に問いかけ、静かにお言葉を待つ訓練を大事にしたいと思います。 幸いなことに、いま私たちの澁谷聖公会聖ミカエル教会に牧師として遣わされている成司祭は霊性神学を専門に しておられる方であり、今般、ヒルダ・ミッシェル叢書として発行されたケネス・リーチ著、関先生ご夫妻翻訳の「魂 の同伴者」は霊性指導の古典といわれる名著です。この機会に私たちも「一人になって祈るとき」を大事にし、訓 練を重ねて神様に聴く術(すべ)を磨きたいと思います。勿論、その術とは特別なスキル(技術)を会得することで はなく、祈りの内に御心を聴き取る感性を養うことといえるでしょう。
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