第3章 ベルクソンの手 III:(非)有機的生気論(『創造的進化』第三章の読解)

第3章 ベルクソンの手 III:(非)有機的生気論(『創造的進化』第三章の読解)
§73. いかなる生気論か? ベルクソンにおける手の範例性
『創造的進化』とそのメジャーな概念であるエラン・ヴィタルを駆動するマイナーな論理を探
究する私たちにとって、「技術 technique」「テクノロジー technologie」と「目的論 téléologie」
の本質的連関を理解することが鍵であるように思われた。そこで第一章では、まずベルクソン
的な目的論の根本特徴を捉えようとし、それを生気論との分離不可能性に見出した。そして
次に、第二章では、その目的論=生気論を、技術の問いとの関連において見たのであった。
本章では、この両者を結合させるのが『創造的進化』第三章の目的であるという観点で読み
解いていく。
まずもって言っておかねばならないのは、ベルクソンが生気論者であるかどうかを知ること
が重要なのではないということである。仮に生気論が、生命現象の物理化学的現象への還元
不可能性を強調しつつ、生命現象の背後に、物質を、有機組織化され生きた物質とする「生
命の根源的な力」のような実在を前面に押し出す理論として定義されうるとすれば、そしてベ
ルクソンにとって「生命」が「何よりもなまの物質に働きかける傾向」(97/577)であり、「エラン・
ヴィタル」が「生命が己のうちに持つ――諸傾向の不安定な均衡による――爆発的な力」
(98/577)であることを考慮に入れるとすれば、ベルクソン哲学にある種の生気論が見られる
ことは疑う余地がない。重要なのは、したがって、ベルクソンが生気論者なのだとして、どのよ
うなタイプの生気論に属するのかを知ることである。この問題に取り組むために、つまりは、
『創造的進化』における生命と物質、精神と身体、有機的なものと無機的なものの関係を考え
るために、私たちは、ベルクソンが用いる「器官=機関」(organe)という語に注目することにし
たい。様々な意味を結合させつつ、ギリシア語 ὄργανον で「(作るための)仕事道具・機関」を
意味していたこの語は、少なくともフランス語において、人工の機械(装置・機構・部品)と有機
的肉体(器官)、個人の身体と社会体(国家・企業の機関・機構)、発声器官と声の響きを――
或る個人の物理的な肉声であれ、或る人民の精神的な声であれ――、交錯させている。例え
ば、フランス語で「或る歌手や演説家の organe bien timbré」と言えば、「響きのよい声」とい
う意味であり、「或る政党の organe」と言えば「機関紙」のことであり、「裁判官は法の organe
である」と言えば「代弁者(スポークスマン)の声」のこと、といった具合である。後に詳しく見る
ことになるが、ベルクソン最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、「われわれの身体諸器官が
自然の手になる道具と言えるとすれば、われわれの手になる道具は、当然人工の身体器官
だということになる。職人の使う道具は、彼の腕の引き続きだと言えよう。してみれば、人類の
道具制作は、自分の身体の延長である」(DS IV, 330)という、『創造的進化』においてすでに
確認される技術哲学的観点をさらに発展させ、キリスト教神秘家たちをはじめとする偉大な道
徳家たちを、「見事なまでに強靭な鋼で出来た、ある途方もない努力のために構築された機
械」、神秘家たちの魂を「驚嘆すべき道具」(instrument merveilleux)と捉える(DS, III,
245/1171-1172)。人間を existence(実存)ではなく、いわば écho-sistence(響存)と捉える『二
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源泉』の眼差しの萌芽は、すでにこの『創造的進化』の器官=機関学のうちに現れている。
かくして、『創造的進化』において生命論が不可避的に認識論を呼び求めるように、ベルク
ソンの特異な生気論において、organe は固有の道具・機関・声の響きを蔵している。より一般
的に言えば、「器官=機関」(organe)、「有機体」(organisme)、「組織体」(organisation)、ま
た「オルガン」(orgue)や中世の多声楽曲である「オルガヌム」(organum)、さらにはオーガズ
ム(orgasme)ないし法悦の秘儀(orgiasme)――シェリングは『諸世界時代』(Die Weltalter)
において「諸力のオーガズム」(Orgasmus der Kräfte)について語っていたし、ドゥルーズは、
有機的表象が法悦的・秘儀的状態へと向かって飽和し逸脱していくプロセスを「オルジック」
(orgique)と名付けてもいた――といった一連の語が織りなす、広大でありながら根茎のよう
に複雑に絡み合った諸概念の布置とその意味論的体系全体を、〈org〉という、語ですらない、
哲学素で代表させることにすれば、〈org〉は生気論の伝統的な問題構成において決定的な
役割を果たしている。はっきりさせておこう。〈org〉の問題系を紋切型の organicisme(有機体
論・社会有機体説・器質病説)に落とし込んで切り捨て、単純に〈非有機的なもの〉〈機械的な
もの〉を称揚して何かを言ったような気になるのはいささか素朴にすぎる見方である。そうでは
なくむしろ〈org〉のうちに、直接性の核心そのものに持ち込まれたある種の媒介性・仲介性・
解釈性によって特徴づけられる何かを見て取らねばならず、生/死、身体/機械、有機/無
機といった諸価値の伝統的な配分様態を顛倒するよう、幾人かの生気論者をそそのかしさえ
する何かを見て取らねばならないのだ。
以上のように素描された〈org〉の問題系の中に置き入れたとき、ベルクソンの生気論は素
朴な有機体論の見かけを棄て、その真の姿を現すことになる。このことを示すために、意外に
思われるかもしれないが、〈手〉のモチーフに着目することにしよう。より正確に言えば、努力
する手ないし腕のモチーフである。この努力する〈手〉ないし〈腕〉のモチーフは実際、ベルクソ
ンの著作全体を貫いている。『試論』冒頭付近で登場し、筋肉努力のカテゴリーですでにその
働きを見せていた〈手〉は、ある一点から別の一点へともたらされる〈手〉の不可分の身振り、
一にして多なる運動という、ベルクソンの著作に繰り返し登場するモチーフを経て、先ほども
登場した『二源泉』の機械に延長される〈手〉まで続いていく。
もちろん、次のような反論は十分予想される。(1)概念などの分かりやすい理論的要素で
メタファー
はなく、単なる隠喩ないし類比にすぎない以上、なぜ〈手〉のモチーフのようなものにこれほど
の重要性を認めるのか。それに、(2)仮に隠喩や類比に注目するにしても、最も目立つ例を
挙げるのであれば、〈手〉よりも〈目〉ではないのか? そういった反論も予想される。実際、こ
れら二つの反論に答えることはそれ自体、争点となることである。なぜなら、現在の哲学研究
は、概念的なレベルで著作の論の流れをより精緻に理解することが哲学の課題だと思い込ん
でいるからである。
(1)そこでまずは、序論で意を尽くして強調したことではあるが、もう一度思い起こしておこ
う。ベルクソンの哲学は、概念をつなぎ合わせていけばその全容が明らかになる類のもの―
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―仮にそのような哲学があるとしての話だが――ではない。ベルクソンは、隠喩や類比といっ
たイメージ的な言語に対して、抽象的な言語にはない或る力を認めている。隠喩という語を通
常の意味ではなく、語源的な意味で――μεταφορά は移動〔手段〕・運送・転移を意味する―
―、つまり表象するものと表象されるもの、表象可能なものと表象不可能なものの間での意
味の転移ないし意味の変調と捉えつつ、ベルクソンは私たちに「見かけに騙される者」
(dupes des apparences)にならないよう戒めている。「イメージ的言語のほうが明晰に文字
通り語る場合もあれば、抽象的言語のほうが無意識的に比喩で語っている場合もある」(PM
42/1285)。精神的・生命的・形而上学的領域においては、人が日常的言語や科学的言語で
は言い表しきれないものを示唆してくれる隠喩や類比に依拠するのは、回り道をし、迂回路を
ヴィジョン
経ることではなく、逆に、諸々のイメージがもたらす「直接的な視覚」によって私たちをそこへと
導く目的地へとまっすぐに向かっていくものだ。ベルクソンの言説戦略に特徴的な、この隠喩
的=移動的論理は、ベルクソンの〈手〉の中、至るところで作動している。要するに、手、腕、
握り拳、指などは、たしかに例にすぎない。だが、重要なのは、それらが単なる例にすぎない
と切って捨てることではなく、それらがいかなる範例性を行使しているのかを知ることである。
〈手〉は、ベルクソン哲学全体のではないとしても、少なくとも彼の生気論の決定的な諸問題に
取り組むことを可能にしてくれるという意味で、特権的な例であり、すぐれて例示的、範例的な
例ですらある。範例性のさまざまな価値の中にあって〈手〉は、 したがって、何かしらの
パラダイム
( quelconque ) 見 本 ( 触 覚 器 官 の 無 造 作 な 一 例 と し て の 手 ) と 、 枠組み を 与 え る
(paradigmatique)範例性(他の諸器官とは比べ物にならない最良の例、存在‐目的論的ヒ
メタファー
エラルキーの頂点にある人間存在を特徴づける隠喩としての手)との間で揺れ動いている。
さらに、これら二つの極の間に潜む見本のシミュラークルのごときものは、また別の目的論を
秘めてもいる。それによれば〈手〉は、他にも多くある諸例のうちの一例というのでもなければ、
規範的なパラダイムを提供するというのでもなく、相補的な〈触れる-触れられる〉関係にある
メトニミー
諸対象同様、他のさまざまな身体的〈場所〉の最良の換喩として機能する。ベルクソンにおけ
る〈手〉の例がこれらの意味の間を両義的に揺れ動くさまを、ごく簡潔にではあるが、観察して
いくことにしよう。
(2)次に、〈手〉のモチーフ自体についてであるが、これは〈触覚〉とはっきり区別しておかな
ければならない。なぜなら触覚は、直観の〈直接的視覚〉や〈目〉と緊密な同盟関係を結んで
おり、あまりにしばしばベルクソンに帰される〈直観的=触覚的現象学〉の第一公理として、直
接性や連続性を表象し代表するものだからである。少なくともプラトン以来、直観の座として
特権視されてきたのは視覚であり、一種の触覚的感覚としての視覚、光の触覚としての視覚
である。逆に、ベルクソンの〈手〉は、そのような触覚としての視覚に対して、さらには直観主
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義としての哲学、ないしは θεωρία そのものの触覚モデルに対して、ほとんど哲学史全体を通
して認められてきた優位に抵抗する。連続性の中の不連続性を試み、無媒介のただ中にお
いて媒介に触れつつ、ベルクソンの〈手〉は、〈身体〉と〈機械〉に向かって、τέχνη と義肢的延
長に場を与える限りにおいて、〈持続〉や〈記憶〉、〈エラン・ヴィタル〉といったメジャーな概念に
劣らず、また〈努力〉(effort)や〈傾向〉(tendance)、〈未規定性〉(indétermination)などと同
様、ベルクソン的生気論を理解するにあたって不可欠のものとなっている。〈努力する手〉は、
かくしてベルクソン哲学にとって、彼が「媒介的イメージ(……)――まだ見ることができるとい
う点ではほとんど物質と言っていいのですが、もう触れることができないという点では精神的
と言っていいもの、――学説の周りを回っている私たちに憑きまとう亡霊、決定的な合図、取
るべき態度や見るべきポイントへの指示を得るために、それにどうしても依拠せねばならない
亡霊」(PM 130/1355)と呼んでいるものの特権的な例、範例的な例を構成しているのである。
以上の二点を十分に確認したうえで、『創造的進化』の中で、この〈手〉の例がいかに主要
なテーマに私たちを導くのか、生命と物質、精神と身体、身体と機械、「人工的なものから神
へ」(J.-P. セリス)の諸関係、そしてそれらを通して、「努力」「傾向」「未規定性」「使命」が織り
なす概念布置を描き出していくことにしよう。ベルクソンの生気論を規定し駆動するマイナー
な論理は、人間の〈手〉、哲学者の〈手〉、神の〈手〉という三つのタイプの〈手〉のモチーフを通
して現れる。(続く)
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