期は、鎌倉時代∼室町時代前期に集中しており、現 蓮田の地名の初めての登場 在知られる板碑では埼玉県熊谷市 ( 旧江南町 ) 須賀広 永仁 2 年 (1294)11 月 11 日「伊賀頼泰譲状案」には、伊賀頼 発見の嘉禄 3 年 (1227) のものが最も古く、埼玉県内 泰が子供光貞へ譲り渡す領地のなかに、「うるうと ( 閏戸 ) の村」 「まこめ ( 馬込 )」や、 「あらいにしひがし」と黒浜新井と考えら に古い板碑が集中している傾向が認められます。市 れる地名が登場します。また、正和 4 年 (1315)4 月 13 日「伊 内では、弘安 8 年 (1285) 銘が最も古く、新しいもの 賀頼泰譲状写」には、これ以外に「駒前 ( 駒崎 )」 、「はす田」が は永禄元年 (1558) で、全体的な傾向と同様に 14 ∼ 記載されています。伊賀氏は鎌倉幕府でも重要な地位にあり、 13 世紀後半から 14 世紀初頭には、蓮田市域の多くを伊賀氏が 15 世紀が中心となります。特に「寅子石」と呼ばれ 所領していたと考えられます。 る「延慶 4 年 (1311) 銘板碑」( 大字馬込字辻谷 ) は、 高さ 4m、寅子伝説ともあいまって大切に保存供養さ 埼玉県内には、鎌倉街道 ( 上道・中道 ) が並列して れていたため保存状態も良く、埼玉県の指定有形文 南北に走っています。この街道が経済や文化伝播の 化財となっています。 上でも重要な役割を担っていた証として、県内の中 宝篋印塔は、墓塔・ 世遺跡からは遠くから運ばれた焼き物 ( 常滑焼、瀬戸 供養塔などに使われ 焼 ) や銭などが出土しています。 る主に石製の仏塔で 蓮田市周辺では、鎌倉街道ははっきりしていませ す。鎌 倉 中 期 以 降、 ん。ただ、中世後半から末期に成立したと推定され 全国に広まりまし る「市場の祭文」( 武州文書 ) には、列記されている た。市内では、星久 33か所の市のなかに、蓮田市域の黒浜や上平野の 院の宝篋印塔は江戸時代のものですが、市内最大の 地名が見られます。「祭文」とは市が開かれるにあた 大きさを誇ります。貝塚の宝篋印塔は一部が中世の り、市場の神様の前で山伏によって読み上げられた もので、市指定文化財となっています。 ものですが、中世社会の中で蓮田の地でも市が開か また、鎌倉時代末の正和 3 年 (1314) 銘が刻まれた れ、商業活動が行われていたと思われます。 鋳銅製の「鰐口」( 個人蔵 ) が江ヶ崎の久伊豆神社周 ほうきょういんとう 宝篋印塔 とらこいし 特に「寅子石」と呼ばれる「延慶 4 年 (1311) 」銘 辺から出土しています。こ 板碑 ( 大字馬込字辻谷 ) に代表される板碑は、使用さ の鰐口 ( 神社の鐘 ) には「檀 れている石材からも、他の地域との文化・物資の交 那江崎沙弥行蓮敬白」の銘 流があったことがわかります。 が刻まれ、在地領主である また、市内 23 ヵ所の中世遺跡のうち、江ヶ崎城跡 江崎 ( 江ヶ崎 ) 氏が奉納した ( 江ヶ崎 ) は、鎌倉時代後半の館跡として唯一残って と考えられます。周辺には わにぐち 鰐口 おり、県指定旧跡となっています。 最大の板碑であった「寅子石」そして流通品 ◆中世の信仰◆ −板碑・宝篋印塔・鰐口− 通称「寅子石」と呼ばれる「延慶 4 年 (1311) 銘板石塔婆」 は、高さ約 4mを測ります。最大の秩父郡長瀞町野上下郷 板碑とは、鎌倉時代後期から戦国時代にかけて、 所在の「応安 2 年(1369)銘 主に死者の供養のために作られた石製の塔で、 「板石 釈迦一尊種子板石塔婆」は約 塔婆」とも呼ばれます。蓮田市内では、現在までに 5mの高さですが、約 58 年も 174 点確認されています。 新しく、この間は国内最大で 関東地方を中心とする武蔵型板碑は、秩父産の緑 大の秩父の板碑は緑泥片岩の あった時代がありました。最 泥片岩を加工して造られるため「青石塔婆」とも呼 原産地、秩父長瀞に近いのに 対 し、馬 込 の「寅 子 石」は 直 ばれ、県内には現在、約 2 万基の板碑があり、質・ 線距離でも約 50 ㎞離れてい 量ともに全国一の規模を誇っています。 ます。舟運により運ばれたも 分布域は関東を中心に日本全国ですが、鎌倉武士 のと考えられますが、流通品 として捉えた場合、やはり河 本貫 ( 居住・本籍 ) 地とその所領に限られ、鎌倉武士 川との関わりは無視できない の信仰に強く関連すると考えられています。設立時 のではないでしょうか。 9 寅子石 江ヶ崎城も存在し、鰐口とほぼ同時期の館跡でもあ :平源寺蔵 り、関連性が推測されます。市内では非常に数の少 ない中世の文字資料でもあり、鰐口としては県内最 古の資料です。 ◆戦国大名北条氏の支配◆ −戦国時代の蓮田− 戦国時代中頃の蓮田には、黒浜郷・蓮田郷・閏戸郷・ 平野郷と呼ばれる村々がありました。蓮田地域には 大規模な城館跡もなく、騎西城 ( 私市城ともいう : 加 おおたうじふさせいさつ しんじょうじぞう 太田氏房制札(1588 年 :真浄寺蔵) 須市 )・忍城 ( 行田市 )、岩付城 ( さいたま市岩槻区 ) のせめぎあいの場となって、有力な武将が存在しな より関東に領地を与えられた徳川家康は、川越や忍・ い 地 域 で あ っ た よ う で す。市 内 で は 伝 承 も 含 め て 岩槻など県内の諸城に徳川家譜代の有力な家臣を配 8 ヶ所の館跡が確認されていますが、多くは方形館や 置し、その他は直轄領や中小の家臣(旗本)の領地 自然地形を利用した小規模なものです。発掘された としました。神社仏閣には朱印状などを発行して所 館跡の堀からも鉄砲玉などの出土例はなく小規模な 領を安堵したり、寄進したりして寺社の権利を認め 戦で見られる投石の石が発見されるのみです。 つつ支配していきます。市内でも平源寺 ( 上平野 ) に 1520 年代以降、岩付城では、城 天正 18 年 (1590) に全阿弥 ( 家康の身の回りの世話 主太田氏と小田原を拠点として武蔵 や寺社行政を担当した ) が書いた所領を認める書状 国進出を目論む北条氏の間で、攻防 や、後の江戸時代の将軍による朱印状 ( 朱印を押した 戦が繰り広げられていました。天文 文書。江戸時代は将軍のみが使用でき、絶対的な力 18 年 (1549) 白岡町忠恩寺「太田資 を持った ) が残されています。 正判物」などのように、岩付城主太 この後、慶長 田氏は北条氏に対抗して、周辺へ土 地の所有を認める安堵状を発行し、 中世館跡の溝 5 年 (1600) (宿下遺跡) 関ヶ原の合戦に 人心掌握に努めていたようです。後に資正は子供に 勝利した徳川家 よって追放され、太田氏は北条氏側につきますが、 康 は、慶 長 8 豊臣秀吉による北条征伐にあたり、岩付城主太田氏 年 (1603) に江 房は、天正 16 年 (1588) 黒浜真浄寺に制札 ( 禁止事 戸に幕府を開 項などを記して道路の脇などに建てた札 ) を送り、 「同 き、以後明治維 ぜんあみしょじょう へいげんじぞう 全阿弥書状 (1590 年:平源寺蔵) 寺における法会の聴衆の喧嘩口論の禁止、寺内の竹 新 ま で の 約 木の伐採禁止」を指示しています。これは豊臣氏と 260 年間が江戸時代となります。 の攻防戦に備えた民衆掌握と防衛資材確保を意図し 江戸時代の蓮田の村々は、岩槻藩や川越藩・忍藩、 たものと考えられます。 旗本 ( 将軍直属の家臣 ) の領地、幕府の直轄地でした。 しかし、岩付城は天正 18 年 (1590)5 月 20 日に浅 こうした村々を支配していた領主は、支配にあた 野長政、木村常陸介らに攻められ 22 日には開城、7 り名主・組頭・百姓代といわれる村役人を置き、年 月 6 日に小田原城に立てこもった北条氏が降伏して、 貢の徴収や治安維持などを行わせました。また領主 北条氏は滅亡しました。 は江戸を中心とする城下町に住んでいることが多く、 領主からの年貢の請求や様々な命令は、年貢割付状 ◆江戸時代◆ −農地開発と増える村むら − や御用状などの文書により村々に伝えられました。 天正 18 年 (1590)、戦国大名北条氏 ( 後北条氏 ) を 領主が複数の村に同じ内容を伝達する場合、村か 滅ぼした豊臣秀吉は、10 日後最後に残った忍城 ( 行 ら村へと回覧する廻状が利用される場合もありまし 田市 ) を攻略して、全国を統一しました。秀吉の命に た。村では名主が、こうした御用状や廻状などの内 10 18 年 (1590) 関東代官頭に任じられ、河川の開削や 築堤、用水を溜めておく溜井の造成などに力を注ぎ ました。この忠次によって造られたものの一つが『備 前堤』です。備前堤は高虫村と小針領家村 ( 桶川市 ) との間に築かれた堤防で、慶長期 (1596 ∼ 1615) に 造られたといわれています。 ところが、備前堤より下流の村々は、増水時に堤 防が切れると洪水などの大きな被害を受けました。 それに対し上流の村々では、増水時に堤防のために 江戸時代の村 水が溜まりやすくなり作物が水腐れになるなどの被 容を村人に伝達し、また記録に書き留めました。江 害を受けることがありました。このように利害が対 戸時代はこうして様々な文書により支配が行われた 立する下流村々と上流村々とは、備前堤の高さを巡 ことが特徴で、こうした文書のやり取りが、江戸時 りしばしば激しく争いました。こうした争いが幕府 代の庶民の識字率を上昇させる原因の一つになった の評定所 ( 当時の最高裁判 と言われています。 所 ) で取り上げられること 江 戸 時 代、蓮 田 市 域 の 村 の 数 は、慶 安 2,3 年 も あ り、裁 判 の 結 果、文 (1649,1650) 頃には、市内の村は 13 か村程でしたが、 政 10 年 (1827) には堤の その後、新田開発で新しい村ができたり、大きい村 高 さ が 決 め ら れ ま し た。 が分かれたりして村数が増加し、元禄期 (1688 ∼ その時に決められた高さ 1703) 頃には 20 か村となり、明治時代の初めまで続 の杭が「お定杭」として現在も堤防上に残っています。 きました。 備前堤のお定杭 ◆江戸時代◆ −新田開発と見沼代用水舟運、河岸場− また、江戸時代は新田の開発が盛んに行われた時 代です。このため蓮田市域でも田が増加しました。 江戸時代後期幕府の財政は窮乏し、8 代将軍徳川吉 ただ、他の地域にくらべると蓮田の村々は比較的畑 宗は幕府財政の建て直しを図るため「享保の改革」 作が多く行なわれ、大豆や大麦・小麦・稗・粟・木綿・ を行いました。この改革の重要な柱の一つが新田開 紅花などの他、近世後期からは甘藷 ( サツマイモ ) の 発です。見沼代用水は、この新田開発のために享保 栽培が始まったようです。明治の初め頃には市域全 13 年 (1728) に 6 ヶ月という短い期間で造られた灌 体で甘藷が 漑用の用水で、下中条村 ( 行田市 ) で利根川から水を 栽培されて 引き、見沼新田 ( さいたま市 ) まで引かれました。 おり、やが この工事を指揮したのは井沢弥惣兵衛為永です。 て鉄道が開 為永は紀州 ( 和歌山 ) 藩士で、紀州でも優れた土木技 通 す る と、 術者として実績を上げ、徳川吉宗が将軍になると幕 蓮田駅から 府に登用されました。見沼代用水には様々な工夫が 多量の甘藷 が出荷され みられ、用水路が元荒川と交差する柴山 ( 蓮田市・白 ばんしょかい 岡市境 ) では、元荒川の下に用水を潜らせるため、元 蕃薯解(篠崎家文書) るようになりました。 ◆江戸時代◆ −新田開発と備前堤− 荒川の河床下に木製の樋を埋め込みました。これを 『柴山伏越』といいます。樋は明治 22 年 (1889) に煉 瓦製、昭和 3 年 (1928) にコンクリート製になりまし 江戸時代は、新田開発に必要な水源や排水路を整 たが、現在でも見沼代用水は元荒川の下を潜って流 える必要があり、田畑や周辺地域への水害を防ぐた れています。さらに下流の上瓦葺村 ( 上尾市 ) で綾瀬 めに大規模な河川の工事が行われました。 川と交差します。ここでは伏越のように川の下を潜 伊奈備前守忠次は、徳川家康の関東入国後、天正 らせるのではなく、綾瀬川の上に木製の樋を通す掛 11 になると、通船は衰退していき、昭和 6 年 (1931) に 通船事業は幕を閉じました。 流通が盛んになると、農村でも鍛冶・髪結いなど の職人や、農業の合間に商業を営む者が出てきます。 幕末期になると、上平野村では質屋や干菓子商売、 居酒屋、上蓮田村の穀物取引、馬込村の醤油醸造販 売などの記録が残っています。また、下蓮田村では 幕末期には質屋・穀物の取引・酒の小売と並行して しばやま ふ こ 医業が営まれており、多くの商取引や医業・薬の文 柴山の伏せ越し (埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵) 渡井が造られました。これは見沼通船に支障をきた 書が残されています。 さないように配慮したことや、掘削によって水位が 他にも、建前・婚礼や帯解 ( 現代の七五三 ) などの 低くなりすぎるのを避けるためなどと推測されてい 祝い事や葬儀などの不祝儀の際には、魚やかまぼこ、 ます。その後、掛渡井は明治 41 年 (1908) に煉瓦と 砂糖、酒、着物、化粧品などを広く購入した様々な 鉄製の掛樋井へ、昭和 36 年 (1961) にはコンクリー 記録が蓮田市域に残っています。 ト製の伏越に改築され現在に至っていますが、煉瓦 ◆江戸時代◆ 製の掛渡井が今も当時の面影を残しています。 −村むらの信仰と文化・教育、そして娯楽− 見沼代用水が開削されると、その後通船にも利用 されるようになり、柴山伏越より下流で通船が行わ 江戸時代は、庶民の信仰が様々な形で栄えました。 れました。通船区間の最北端にあたる上平野村には、 村人の信仰の中心は寺院と神社ですが、市域には古 運賃の徴収や運送事務を扱う会所が設けられ、主に、 くからいくつかの寺院があり、江戸時代以前に開か 用水路沿岸周辺村々の年貢米が運搬されました。ま れた由緒をもつ寺院もあります。江戸時代の寺院は た、市内では、見沼代用水・綾瀬川・元荒川で通船 菩提寺としての役割が大きかったようです。これに が行われ、荷物の積み下ろしを行う河岸が設置され 対して神社は、由緒を伝える例は少ないものの、江 ました。見沼代用水沿いには「積場」と呼ばれる河 戸時代後期には市域に 93 もの神社があり、四季折々 岸が設けられ、川島には江戸時代∼明治初期に河岸 の神事や祭礼の場として活用されていました。市内 があったという記録もあります。さらに、大字馬込 に残る民俗行事の県指定民俗文化財「閏戸の式三番」 八番には「帆立山」という呼称が残っており、ここ は、秋の豊年 ( 豊作 )、繁栄を祝い愛宕神社に奉納さ にも河岸があった可能性があります。 れるものです。 明治時代に入り、鉄道が開通すると舟運が衰退し また、市指定文化財の「伊豆島の大蛇」や高虫・ 河岸が姿を消すようになりましたが、見沼代用水は 循環型先進都市江戸と蓮田 東北本線と高崎線の中間を流れていたため、鉄道開 江戸時代の稲作技術発達で忘れてはならないのが、肥料とし 通の影響を直には受けず、平野河岸などではしばら ての人の糞尿の利用です。江戸時代、下肥 ( つまり人間の排泄物 ) く通船が続けられました。しかし、陸上交通が活発 を肥料にして田畑に返す、という循環システムが既に定着して いました。下肥は有機肥料であり、藁などと混ぜて発酵させて 土作りをすることで、長年使い続けても土壌への悪影響が無かっ たようです。 下肥は慢性的に不足がちで、しばしば大根などと現物交換し て集められるほどに貴重な商品でした。蓮田にとって利便性が 高かった点としては、江戸に様々な作物を運んだ帰りに下肥を 積んで帰ることで無駄を省いたことでしょう。ちなみに当時、 江戸と並ぶ大都市であったパリやロンドンでは排泄物の処理が 大変な問題で、川などに直接流すという方法もとられていたよ うです。江戸が循環型先進都市であるために、蓮田の村々も協 かわらぶき かけ ど い 力していたことになります。 瓦葺の掛樋井 (埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵) 12 上平野・井沼・駒崎・根金・閏戸で行われる「お獅子様」 うな遠方へも参詣することがありました。遠方への ( 春 ) と「天王様」は、村内の悪魔払い、疫病除け、 参詣は費用がかかるため、生活に余裕がある人々だ 五穀豊穣などを祈るものです。こうした祭礼は、現 けが行ったようです。 在でも江戸時代の村があった地域ごとに行われてい 上平野村の人々が伊勢や西国へ行ったときの日記 るところが多く、江戸時代からずっと続けられてき をみると、旅行の日程は 71 日にも及び、途中、富士 たことがうかがえます。また、神社には「力石」が 山に登り、熊野 ( 和歌山県・三重県 ) や大坂・奈良・ 残されていたりします。これも農閑期の祭りの時に 京都を廻り、金毘羅 ( 香川県 )・天橋立 ( 京都府 )・善 力比べなどを行なっていたことでしょう。 光寺 ( 長野県 ) などを巡っています。村の人々も行き 江戸時代は、庶民の教育が盛んになりました。そ は原市まで見送り、帰りは鴻巣まで迎えに行き、旅 れ以前と比べ、年貢や村政、訴訟のためなど、たく 行者も礼として、茶漬けをふるまい、土産を買うな さんの文書が作られたため、こうした文書を理解し、 ど村にとっても大きな出来事であったようです。 年貢を納めたり、権利を主張するために、文書を読 ◆明治から昭和へ (1)◆ んだり書いたりする機会が増えました。さらに、農 −明治維新と埼玉県、新しい村々の誕生− 作業の方法を解説した農書を読む必要があったこと も、読み書きが求められる原因となりました。 慶應 4 年 (1868)1月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が 庶民の教育機関として代表的なものは寺子屋です。 敗れ、これを期に時代は明治へと変わります。 江戸時代中期以降、各地に寺子屋が開設され、子供 上平野・上蓮田・川島村は、最後の将軍一橋慶喜 達に読み・書き・そろばんを教えました。市内にも の所領であったため、この時期、これらの村民は幕 松齢堂 ( 井沼 )、南学院 ( 江ケ崎 ) などに寺子屋が存 府側の御用人足 ( 歩兵としての役割を持つ ) としての 在し、僧侶や農民の師匠が筆子 ( 寺子屋の教え子 ) の 割り当てがあり、京都に赴いた者もいました。 教育にあたりました。師匠が亡 慶応 4 年 (1868) 7 月、新政府は江戸を「東京」と くなると、筆子たちが師匠を慕っ 改称し、9 月には年号を「明治」と改元しました。 て供養塔を建てることがありま 政府は明治 2 年 (1869) に版籍奉還を行い、各藩主に し た。こ の 供 養 塔 の こ と を「筆 対し、支配していた領地と人民を奉還させ、旧藩主 子 塚」と い い ま す。筆 子 塚 は 市 を元の藩の知藩事に任命しました。 内でも江ヶ崎久伊豆神社など数 か所に残されています。 市内にも数多く残される円空仏 南江筆塚碑 円空は、江戸時代前期の寛永 9 年 (1632) 美濃国(現岐阜県) 江戸時代の中・後期になると、庶民の旅行も盛ん 生まれの行脚僧で、全国に木彫りの「円空仏」と呼ばれる独特 になりました。庶民の旅が盛んになったことは、そ の作風を持った仏像を残したことで知られています。円空は生 れまでに比べて生活に余裕が出てきた証拠と言える 涯に 12 万体の仏像を彫ったと伝えられていますが、これは元 でしょう。江戸時代の農民は、自分の村から自由に 禄 3 年 (1690) に岐阜県高山市で製作した今上皇帝像の背面に、 「十マ仏作己」(10 万体造顕を達成した)と記されていたため 移動することは原則禁止されていましたが、寺社へ 通説になっています。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、 の参詣は信心ということで比較的簡単に許可が下り 南は三重県・奈良県まで及んでいます。全 ていました。参詣には講と呼ばれる組織をつくり、 国では約 4,500 体以上が現存し、中でも岐 金銭を積み立てたお金で代表者が参詣 ( 代参 ) しまし 阜県飛騨・美濃地方、愛知県尾張地方には、 た。代表者は、神社で他の人の分もお札をもらって 円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数 多く残され、愛知県(約 3,000 体)、岐阜 帰りましたが、代表者の選び方は順番だったり、く 県内(1,000 体以上)に次いで埼玉県内で じ引きだったりと様々でした。 の確認数が多く、155 体を数えます。蓮田 市内では御嶽講や大山講などが組織され、御嶽山 市内では現在までに 24 体が確認されてお ( 東京都 : 御嶽神社 ) や大山 ( 神奈川県 : 阿夫利神社 ) り、このうち矢島家円空仏群は 18 体を数 え、県内でも 2 番目の数であり、市指定勝 などに参詣していました。 家円空仏は大型のもの 3 体で構成されます。 また、関東近辺だけでなく、出羽三山や伊勢のよ 13 ふどうみょうおうざぞう 不動明王座像 江戸時代にもある貝塚 さまざまな生活行事 江戸時代の宿下遺跡・閏戸足利遺跡 ( 大字閏戸字足利 ) などで - 江戸時代前後から続く様々な生活行事 - オオタニシの貝塚が発見されています。このように蓮田市域の 農作業の合間に、蓮田市域では昭和三十年代ごろまで、様々 先人達は、海があった海水産貝類だけでなく海が退いた後の淡 な農業や生活にまつわる行事が行われていました。村単位で行 水産貝類も食し、周辺地域では見られないほどの水との関わり われる行事については、江戸時代末期の村単位で行われること 方が発見事例から推測されます。 が多いようです。 《春》 春の稲作前には、村の厄除け行事などと共に様々な代参 府知事・県知事 ( 県令 ) を置きました。7 月の廃藩置 講が行われ、五穀豊穣や種々の安全が祈願されました。蓮田市 県では全国に 3 府 302 県が設置され、現在の埼玉県 域では『榛名講 ( 群馬県榛名神社 )』( 雹・嵐除け )、 『雷電講 ( 群 馬県板倉雷電神社 )』( 雷除け・氷嵐除け・豊作祈願・厄除け )、 『秋 域は岩槻県・浦和県・忍県の 3 県に管轄されましたが、 葉講 ( 大宮秋葉神社 )』( 火防 )、『大山講 ( 神奈川県大山阿夫利神 11 月には府県が整理統合され、全国で 3 府 72 県に 社 )』( 五穀豊穣・雨乞い )、『大杉講 ( 茨 なりました。現在の埼玉県域では埼玉県と入間県が 城県大杉神社 )』( 五穀豊穣・疱瘡など疫 誕生し、蓮田市域はすべて埼玉県に管轄されました。 病除け ) などです。市内のほとんどの地 区で行われていた行事ですが、昭和 30 その後、入間県の廃止や熊谷県の設置・廃止などが 年代以降は少なくなっています。代表者 ありましたが、埼玉県は明治 9 年 8 月の時点で、ほ は作業が忙しくなる前のこの時期に参詣 ぼ現在と同じ県域となっています。 し、神社でもらったお札が配られると、 蓮田市域の村々は、明治 7 年 (1874) には黒浜村が 村境や田んぼ、畑に立てたり、お札によっ ては家に貼ったりしました。 岡泉村半蔵受日川新田・日川新田・長崎村と合併し 伊豆島の大蛇 この他にも民俗行事として閏戸や南新宿より北部で行われて 黒浜村に、上蓮田村・下蓮田村が合併し蓮田村に、 いる『お獅子様』や伊豆島で行われている市指定文化財『伊豆 上閏戸村・中閏戸村・下閏戸村が合併し閏戸村に、 だいじゃ 島の大蛇』も、これにあたり、村の四隅 ( 東西南北 : 伊豆島では 根金村・根金新田村が合併し根金村になりました。 西側が川のため 3 方向 ) にお札や大蛇を立て、疫病を防ぐと共 明治 22 年 (1889) の町村制施行に併せ、高虫村・上 に豊作を祈願していたようです。 《夏》 夏には稲も安定し一時の余暇を与えてくれます。7 月 1 平野村・駒崎村・井沼村・根金村が合併して平野村が、 日には「初山」と呼ばれる子供の成長を祈る行事、 「七夕」や「富 閏戸村・蓮田村・貝塚村が合併して綾瀬村が、南新 士講 ( 榛名講 )」、「愛宕講」の他の講行事が行なわれました。村 宿村・城村・黒浜村・江ケ崎村・笹山村が合併して 単位では、お獅子様や 14 日の天王様が黒浜地区や蓮田地区で行 われ、疫病退散を祈願しました。 「天王様」は牛頭天王のことで、 黒浜村が誕生しました。その後、昭和 9 年 (1934) に 京都の祇園祭のように山車や屋台を曳いて村中をめぐったり、 は綾瀬村が町制を施行し蓮田町となりました。 獅子頭を持って各家庭を巡ったりしました。 《秋》 秋には、旧暦 10 月 10 日 ( 現在の 11 月 10 日 ) に行なわ ◆明治から昭和へ (2)◆ れる十日夜があります。昭和三十年代ころまで蓮田市域の各村 −蓮田駅の開業と幻の武州鉄道− で行なわれていました。おはぎなどを作って秋の実りをお祝い し、子供たちは芋がらを中に入れて藁で束ねたもの ( 芋がら鉄砲・ 蓮田駅の開業は古く、明治 18 年 (1885) 私設鉄道 藁鉄砲 ) で地面を叩きながら、モグラ除けの決まった文句を叫び の日本鉄道第二区線 ( 現JR宇都宮線 ) の大宮・宇都 ます。各家庭では参加した子供たちにお菓子をあげることもあ 宮駅間開業と同時に出来ました。これは停車場敷地 りました。 《冬》 年末年始にかけては新年を迎えるための様々な行事が各 (512 歩 :1,700 ㎡ ) の寄付を伴う駅誘 家庭・村で行われました。現在では行われなくなったものも多 致運動により実現したものです。これ くありますが、初詣や注連縄、お供えなどは現在も広く行われ を記念して建立されたのが「蓮田車站 ています。2 月初午の日に行われる稲荷講ではスミツカリ ( 大豆 記念碑」です。 をつぶしたものと大根を混ぜて煮たもの ) や赤飯などを作った り、子供だけで稲荷社に籠ったりしました。また、神社の境内 蓮田駅の乗降客数は、明治 20 年 などで、牛馬に飾り付けをしてお参りをする馬寄せや雛市が行 (1887) 時点で 7,000 人前後、旅客運 われました。 賃収入は 1,621 円でしたがその後急 激に増加し、大正 6 年 (1917) には乗 さらに、明治 4 年 (1871)7 月、政府は廃藩置県を 降客数約 58,000 人、旅客運賃収入は 断行し、新しく設置された府県には政府が任命する 13,461 円になっています。蓮田から はすだしゃたんきねんひ 14 蓮田車站記念碑 上野までの 以上が応召し、日露戦争時には 70 名が出征していま 所要時間は、 す。出征兵士の送迎や戦死者の葬儀、出征兵士やそ 明 治 22 年 の家族への慰問援助等、村々の果たす役割は大きい の時刻表に ものでした。また、この時期には各地に戦没者の記 よると1時 念碑・忠魂碑などが作られましたが、それらは在郷 間 10 分 程 軍人 ( 兵役を終了したが戦争等の際には召集される民 間人 ) の団体が作ったものです。 度要してい たようです。 蓮田駅西口(昭和 8 年) また、日本は急峻な地形により古代から水害を受 また、当時の利用は、旅客だけではなく、岩槻町・ けてきました。市内でも文政 6 年(1823)の水害に 菖蒲町などから集積される貨物の取扱量も多く、明 ついて初めての記録が残されていますが、明治年間 治 20 年時点での貨物運賃収入は 1,105 円であったも に は 何 度 も 大 水 害 を 受 け ま し た。特 に 明 治 43 年 の が、大 正 6 年 (1917) 時 点 で は 旅 客 運 賃 以 上 に (1910) の水害は寛保 2 年 (1742) 以来の大水害で決 25,697 円と一気に増加しています。 壊した県内の堤防は 314 か所、死者は 324 人があり、 明治 10 年代末から私鉄起業熱が高まり、各地で私 元荒川・綾瀬川・見沼代用水路の堤防は決壊し、江 鉄敷設が相次ぎました。埼玉の私鉄ブームは明治 20 戸川・中川・荒川の改修工事が 年代後半から見られ、東武鉄道など数多くの鉄道建 国の直轄で行われました。また、 設が計画されました。 作物のほとんどが収穫できない 埼玉の鉄道網は、首都東京と埼玉とを南北放射状 状態となり、多くの人が県の罹 に結ぶ鉄道がまず敷設されましたが、この時期には 災援助を受けています。各村で 県内を東西に横断する鉄道も計画されるようになり は、この災害による歳入不足を ました。その一つが武州鉄道です。川口から春岡 ( さ 起債で補わなくてはならず、財 いたま市見沼区 ) までの敷設を計画していた中央鉄道 政を圧迫しました。これらの各 株式会社は、明治 45 年 (1912) 岩槻から蓮田を経て 村役場に残る行政資料だけでな 行田までの線路延長を決定しました。中央鉄道は後 く「堤防修築碑」が閏戸に残さ に武州鉄道と改め、大正 13 年 (1924) には蓮田∼岩 れています。 槻間 6.4 ㎞を ◆昭和◆ − 第二次世界大戦と戦後復興 − ていぼうしゅうちくひ 堤防修築碑 開業しました。 武州鉄道はそ 軍の一部は満州 ( 中国東北部 ) などの利権を守るた の後、神根 ( 川 め中国進出に動き、昭和 6 年 (1931) の満州事変から 口市 ) まで延 日中戦争へと軍国主義の道を歩み始めました。昭和 伸しましたが、 11 年以降には満蒙開拓が進められ、埼玉県内からも 利用客減少等 中川村開拓団など 7 団と 1,387 名の満蒙開拓青少年 の業績不振に 義勇軍が送られました。蓮田市域からも参加した記 武州鉄道 悩み、昭和 13 年 (1938) 会社は解散しました。今は 録が残っています。やがて中国問題でアメリカと対 幻の鉄道ですが、駅東口側の中央公民館脇に線路跡 立、昭和 16 年 (1941) 太平洋戦争が勃発すると、長 の面影を偲ぶことが出来ます。 引く戦争で戦時体制が強化され、国民は否応なく戦 争に動員されていきました。蓮田市域からも多くの ◆明治から昭和へ (3)◆ 兵士が出征し、中国北部や内モンゴル、満州等にも −第一次世界大戦そして第二次世界大戦へ 様々な災害と復興へ− 派遣されていきました。犠牲になった人も多く、終 明治 27 年 (1894)8 月からの日清戦争、同 37 年 戦までの戦没者は 400 名以上に上ります。 (1904)2 月からの日露戦争と明治時代には 2 度の戦 一般生活でも様々な形で戦争の影響を受け、満州 争がありました。日清戦争時には蓮田市域から 20 名 事変後に防護団 ( のちに消防組と統合し警防団とな 15 る ) が作られ防空演習を行ったり、本土を離れた兵士 和の大合併」と呼ばれる合併ブームが全国で起こり のために、慰問袋を作成したり、兵士の留守宅の手 ました。それに伴い、昭和 29 年 (1954)5 月 3 日、 助けをしたりしました。また、農村から多くの兵士 蓮田町・黒浜村・平野村の 3 町村が合併して、新しい 『蓮 が出征したため食料不足が深刻となり、工業も軍需 田町』が誕生しました。その後、岩槻市大字川島、 生産中心となったため生活必需品も不足しました。 馬込の一部を編入する等の編入・分離を行いながら、 このため、様々な物資が配給制となり、配給量も少 昭和 47 年 (1972)10 月 1 日に市制を施行し『蓮田市』 ないものでした。 が誕生しました。 埼玉県内には軍事施設や工場が多く造られ、学童 戦後の県民生活は、様々 の集団疎開地にもなりました。蓮田市域では妙楽寺 な困難を経て次第に多くの ( 高虫 ) に全国で初めての「疎開保育園」が設けられ 人口が流入し、県南を中心 ました。この保育園は「ケンちゃんとトシせんせい」 に大型団地が建設され、工 という童話となり、多くの人たちに読まれています。 場が誘致されて、農業県か また、熊谷は終戦前夜に最後の空襲被害を受けまし ら工業県へと脱皮していき た。 ました。昭和 30 年代から 昭和 20 年 (1945)8 月 15 日、日本政府は「ポツダ の高度経済成長の中で、安 ム宣言」を受諾し、アメリカ等の連合国に降伏し太 い土地と労働力を求めて商工業は地方に進出し、各 平洋戦争は終結しました。 GHQ( 連合国軍最高司令 地で大規模な住宅団地・工業団地・商業団地などが 官総司令部 ) が日本に進駐し、軍国主義を一掃し日本 造成されました。また、大都市近郊の農業は立地条 の民主化を進めました。その結果、婦人参政権の実現・ 件を活かして稲作中心から商品作物中心へと変貌し、 農地改革の実施・労働組合の助長・学校教育の民主 蓮田市域で梨の栽培がさかんに行なわれるようにな 化等の政策が進められました。 りました。ただ、鉄道・道路交通網の整備や教育・ 埼玉県には昭和 20 年 11 月までに約 1 万 7 千人の 文化の充実がなされる一方で、環境の悪化と公害、 米国軍兵士が進駐し、県の占領行政を担当する埼玉 過密と過疎化など様々な社会問題も表面化してきた 軍政部が昭和 24 年 10 月まで存続しました。その間 時代でもありました。 に民主化政策、米の供出・ヤミ撲滅運動、インフレ 埼玉県の人口は、昭和 20 年 (1945) に 200 万人、 防止の貯蓄運動、明治 43 年を上回る被害を出したカ 40 年に 301 万人、50 年に 482 万人、60 年に 586 スリン台風 ( 昭和 22 年 ) 支援等を行い、県民生活の 万人と急増しました。特に 40 年代の増加は、社会増 向上に多くの役割を果たしました。 は 113 万人で東京からの転入が 7 割近くを占めてい 合併記念アーチ(昭和 29 年) ます。 ◆昭和から平成へ◆ 昭和 31 年 (1956) の大宮・西本郷団地を皮切りに、 −戦後復興への動き復興から開発・人口増加へ− 日本住宅公団による賃貸方式の大規模団地、工業団 多くの都市は空襲により一面の焼け野原となり、 地も大宮・深谷・川越・狭山と造成されました。鉄 人々はバラック小屋で風雨を凌ぎ、国民の生活は破 道は東武東上線の複線化、京浜東北線の三複線化、 壊されました。工業生産は落ち込み、海外からの兵 武蔵野線開通などがあり、緑多い田園風景を都市的 士の復員や人々の引き揚げで人口は増加しましたが、 な景観に変えました。 逆に失業者が急増しました。昭和 24 年 (1949) まで 蓮田市でも昭和 30 年代後半には、民間事業による 日本経済はインフレ、不況に苦しみましたが、昭和 団地造成が行われ始めましたが、規模は 5ha 未満の 25 年 (1950) の朝鮮戦争で米軍の特殊需要により特 小規模な開発がほとんどでした。昭和 40 年代後半に 需景気が起こり、工業生産は戦前水準まで回復しま は椿山団地建設、蓮田市施工による南新宿土地区画 した。 整理事業が行われ、昭和 50 年代には日本住宅公団 ( 現 行政では、昭和 28 年 (1953)10 月 1 日「町村合併 都市再生機構 ) が、蓮田駅東側の帝国ヒューム管跡地 促進法」が 3 年間の時限立法として施行され、後に「昭 に駅前団地の建設、蓮田市施工による馬込・下蓮田 16 土地区画整理事業、黒浜土地区画整理事業、民間に 京に最も近いサービスエリアで、現在でもその利用 よる小規模開発などにより人口が増加し、昭和 55 年 度は関東周辺では 2 番目に高く賑わっています。 (1980) に は 人 口 が 4 万 5 千 を 超 え、平 成 3 年 さいたま新都心構想は、旧国鉄大宮操車場の廃止 (1991) には人口が 6 万を超えました。 が決定した昭和 59 年度 (1984) に跡地利用事業とし 住民の中には、東京への通勤者も多く駅の利用客 てプロジェクトが発足し、平成 12(2000) 年 5 月 5 も増加し、JR東日本 ( 旧日本国有鉄道 ) は市制施行 日に " 街開き " をしました。現在では、さいたま新都 と同じ昭和 47 年 (1972) に、線路の上に改札口があ 心駅の西口に官公庁や企業の高層ビルが建ち並び、 る橋上式駅舎に改築し、同時にそれまで西口のみで 東口は民間の商業地区として大規模開発が進み日々 あったものに東口が新たに開設されました。市制施 変貌を遂げています。この新都心街開きにおいては、 行の翌日 10 月 2 日のことでした。また、この年には 無形民俗文化財 ( 国選択保存、埼玉県指定 ) である「閏 東北縦貫自動車道も開通した記念すべき年でした。 戸の式三番」が上演されました。 平成 14 年 (2002)6 月には日本と大韓民国による大 ◆平成から未来へ受け渡す様々な財産◆ 会史上初めての 2 カ国協同開催となった FIFA ワール −21 世紀の蓮田、新たな時代の始まりへ− ドカップが埼玉県 ( 埼玉スタジアム 2002) でも開催 20 世紀末、世界は不透明な新秩序形成の元で大き され、準決勝も行われました。平成 16 年 (2004) には、 な転換期となり、地球規模の環境問題も発生してい 埼玉県で 2 回目の開催となる「彩の国まごころ国体」 ます。日本もバブル崩壊以降の複合不況の中で、質 が熊谷をメイン会場に開催され、蓮田市でも総合市 の高い民主主義と、真の豊かさを実感できる国民生 民体育館でフェンシングが開催されました。 活の実現が求められています。 平成 18 年 (2006)7 月 28 日には市役所に隣接する このような中、平成 13 年に 21 世紀の扉が開き、 黒浜貝塚が、埼玉県内では 22 年ぶりに国指定史跡に 2005 年 5 月に打ち上げられた『はやぶさ』がアポロ 指定されました。市内にはこれにより、国指定 1 件、 群の小惑星「イトカワ」に到達、その表面を詳しく観 国選択 1 件、県指定 9 件(国選択含む )、市指定 21 測してサンプル採集を試みた後、2010 年 6 月 13 日 件の貴重な指定文化財 ( 平成 24 年 10 月 1 日現在 ) に 60 億 km の旅を終え、地球に大気圏再突入しまし があります。 た。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸して、 また、蓮田市では総合振興計画により、様々な都 世界で初めてサンプルを持ち帰ったのです。 市整備が将来に向けて進められています。蓮田サー 埼玉県の人口は、昭和 25 年 (1950) に 215 万人弱 ビスエリア内には、平成 24 年 (2012)2 月 4 日には、 でしたが、平成 24 年 4 月 1 日現在 720 万人を超え 東京方面への入口(上り線)、東京方面からの出口(下 ています。蓮田市では、昭和 25 年 (1950) に人口が り線)の限定ですが、蓮田スマートインターチェン 19,280 人でしたが、 昭和 40 年 (1965) には 25,070 人、 ジが開通しました。また、ネクスコ東日本により新 昭和 45 年 (1970) に 31,935 人と 3 万人を超え、平 蓮田サービスエリア計画(上り線)が現在進められ 成 3 年 (1991) には人口が 60,112 人と初めて 6 万人 ており、慢性的な渋滞が解消され、蓮田産品などの を超えました。現在は少子高齢化の傾向から若干の 販売も促進されるものとなるでしょう。 減少傾向に転じ、平成 24 年 10 月 1 日現在 63,478 そして、平成 24 年 (2012)10 月 1 日に市制施行 人を数えます。 40 周 年 を 迎 埼玉県は関越・東北自動車道や東北・上越新幹線 えました。 など全国交通体系の枢要な位置にあり、首都圏中央 この他の事 連絡自動車道など物資輸送を含めた交通網の整備が 業 と し て は、 進められ、首都機能を分担する役割が期待されるよ 西口再開発事 うになっています。市内では東北自動車道が昭和 47 業 は 平 成 26 年 (1972)11 月に開通 ( 岩槻−宇都宮間 ) し、蓮田サー 年 (2015) の ビスエリアも同時に建設されました。蓮田SAは東 完成を目指 17 蓮田スマートインターチェンジ し、総合文化会館の建設計画なども進められていま 千歳、翁、三番叟や、笛、 す。これらの計画の一つには国指定史跡黒浜貝塚の 大鼓、小鼓の人達 8 名を役 公有地化と整備計画も含まれており、これらの様々 者と呼び、その他の若衆は な計画は現在に生きる私達が未来の蓮田へとつなぐ 地謡にまわります。また先 事業として将来へと受け渡すこととなるでしょう。 代の役者を親、先々代をオ また、高速鉄道東京 7 号線(地下鉄 7 号線)延伸を ジイサンと呼びます。親は 目指して計画が進められています。 役者の指導に当たり、立役 ( 翁・千歳・三番叟 ) の親 ( 先 せんざい 千歳の舞 代の演じて ) は当日舞台に控えて介添え役をし、千歳 ◆閏戸の式三番◆ −受け継がれる伝統 国選択・県指定無形民俗文化財− の親は「面さばき」、三番叟の親は「足つけ」と称し 式三番とは、能楽の『翁』から起こったもので「豊 ます。舞台の座席順は舞台に向かって右側奥に翁、 年を祈り」「繁栄を祝う」めでたい舞で、白い面の翁 その手前に千歳、両者の後にそれぞれの親、これに と面をつけない千歳、黒い翁面をつけた三番叟が次々 対座して翁の真向かいに三番叟、その手前にやや下 に舞います。初めに、翁が出て儀礼的・呪術的な舞 がって足つけ ( 先代 ) 、大鼓の親、大鼓が並びます。翁、 を行い、その後に三番叟が砕けた調子で面白く演じ 千歳の後には各々の親 ( 先代 ) が座り、舞台正面奥の て、わかりやすく説明して見せます。豊年や繁栄を 囃子座には向かって左側から はやし ざ からすと 願うものにふさわしく、種まきや烏跳びなどが舞の 小鼓、頭取、小鼓、笛の順に 中に含まれます。式三番は能が成立する以前の翁猿 並び、幕の後ろに地謡が位置 楽の様式を留める芸能と言われています。8 世観世鐵 します。 之丞によると、元々は五穀豊穣を祈る農村行事であ 舞台は、①囃子が始まり翁と り、翁は集落の長の象徴、千歳は若者の象徴、三番 地謡の謡。 ②「鳴るは滝の水…」 叟は農民の象徴であるとされています。翁芸は能楽 と謡いながら千歳が登場し、 の中でも特に神聖視される舞で、種々な形で神事や 千歳の舞。 ③千歳の舞が終わる 芸能として伝承されていま と、翁 と 地 謡 の 謡。そ の 後、 す。また、能楽の「翁」は歌 翁が立ち上がり歩き出すと、同時に三番叟も立って 舞伎舞踊にもなっており、 『三 歩き出し、両者向かい合って一礼。 ④一礼の後、翁は 番叟もの』と云われるもので、 正面に進み出て舞い始める。 ⑤翁の舞が終了すると、 祝儀用として新春などに上演 大鼓が登場。 ⑥三番叟が立ち上がり、舞い始める(面 されます。閏戸の式三番は能 は着けていない : 揉みの段)。⑦素面の舞が終わり、一 楽系統の古い形を残している 端座に戻った三番叟が面をつけて再登場。千歳も再 貴重なものと考えられます。 さんばそう 三番叟の舞 登場し、舞台正面で両者の問答。 ⑧問答の後、千歳か おきな 地元の伝承以外に式三番の由 ら鈴を受け取った三番叟が、再び舞を始める ( 鈴の 翁の舞 来を伝える記録の類は残っておらず、それによると 段 )。そして、この舞の終了と共に終わります。 「宝永年間 (1704 年∼ 1710 年 ) に閏戸の秀源寺の僧 復活してから 300 年以上も続く閏戸の式三番も、 が、愛宕明神を祀ったとき、五能三番の舞を復活した」 未来へと引き継がれる貴重な財産の一つです。 と言い伝えられています。 2012 市制施行 40 周年記念企画展 蓮田の生い立ち ‐いにしえの足跡から市制施行 40 周年まで‐ 編 集 蓮田市文化財展示館 埼玉県蓮田市大字黒浜 2801−1 発行者 蓮田市教育委員会 発行日 平成 24 年 10 月 30 日 印 刷 たつみ印刷 ( 株 ) 毎年 10 月第 2 土曜日 ( 以前は 10 月 14 日、それ 以前は 9 月 14 日 )、上閏戸村の鎮守愛宕神社の秋祭 りに行われます。昭和 30 年 (1955)11 月 1 日に埼玉 県指定無形民俗文化財 ( 昭和 52 年 3 月 29 日指定替 え )、昭和 47 年 (1972)8 月 5 日に国選択民俗文化財 に指定されています。 18
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