ガールセンター - Sunday Night Removers 前橋梨乃の女装小説

ガールセンター
~フェイスの冒険~
GIRL Center - A Leap of Faith
カレン・エリザベス・L 作
前橋梨乃 訳
ハリーと僕は、まるで兄弟のように
育った無二の親友だ。
小さい頃からいつもいっしょに遊ん
でいたし、学校へ通うのもいっしょだ
った。もちろん、たいていの男の子同
様、ふたりで「悪さ」もした。
ただ、僕らの場合、ちょっと度が過
ぎたようだ。僕らにしてみれば、単な
るいたずらに過ぎなかったのだが、親
や教師、それに世間の大人たちは、そ
うは見てくれなかった。
最初、他愛ないピンポンダッシュや
いたずら電話だったものが、そのうち、
万引きとかに発展していったのもたし
かだ。でも、それにしたって、そんな
に高価な物を盗ったわけじゃない。せ
いぜい、お菓子とか雑誌とか、その程
度だった。でも、親や大人たちの基準
では、それは、まぎれもない「非行」
1/806
だったのだろう。
ことにハリーの「悪さ」はますます
度を超していき、母親をひどく悩ませ
ることになった。
あれは、僕らが8年生になったばか
りの頃(※)だ。
(※訳注
アメリカの初等教育の制度は州や地
域によってちがうので何とも言えないが、後の
ストーリーから考えると13歳になって間もなく
だと思われる)
学校をサボったハリーは、近所にジ
ャガーが停まっているのを見つけ、こ
れをちょっと借りてドライブしたら楽
しいだろうと考えた。
僕だって、もしその場にいたなら、
たぶんノッていただろう。車を――そ
れもジャガーを――運転できるチャン
スなんて、そうそうあるもんじゃない。
でも残念ながら、その日僕は、インフ
2/806
ルエンザにかかって家で寝ていた。だ
から、そんな面白そうなことに参加で
きなかったわけだ。
たしかに、それは面白かったにちが
いない。でも、時速70マイル(約110キ
ロ)を超えた時点で、急ハンドルとと
もに、その面白さは大きく横すべりし
た。そして、その暴走車を追っていた
パトカーの警官たちは、それをけっし
て面白いことだとは考えてくれなかっ
た。さらに言えば、彼らはフェンスに
ぶつかって数千ドルの被害をこうむっ
たジャガーの所有者でもなかった。だ
から、示談ですませてくれるようなこ
ともなく、ハリーは、その場で現行犯
逮捕されてしまったのだ。
すぐさま地方裁判所に送致されたハ
リーは、そこで非行歴を調べられ、そ
の結果、2年間の更正教育という判決
を下された。そして、グレート・イン
3/806
ディアン・リバー・ラーニング・セン
ター(Great Indian River Learning C
enter)という更正施設を兼ねた寄宿学
校に送られてしまったのだ。
それからしばらくすると、僕のもと
に、そのグレート・インディアン・リ
バーからひんぱんに手紙が届くように
なった。もちろん、ハリーからだ。
その手紙で、ハリーは、この学校の
名前は、収容生にとって悪い冗談みた
いなものだとさかんに書いていた。僕
には何のことかよくわからなかったの
だが、どうやら、やつはこの学校でひ
どい目に遭っているらしかった。それ
についても詳しく書いてあったわけで
はないが、何度も、ここから救い出し
てほしいと言ってきた。
一度など、もうこれ以上我慢できな
いから、本気で脱走するつもりだと書
4/806
いてきた。それで僕は、手助けしたい
のはやまやまだけれど僕では何の力に
もなれないと、わびの手紙を返さなけ
ればならなかった。
すると、そのあと3ヵ月ほど、ハリ
ーからの便りがぱたりと途絶えた。そ
れで僕は、もしかしたらやつは、首尾
よく脱走できたのかもしれないと思っ
た。
ところが、実際は逆だったようだ。
脱走に失敗して連れ戻され、罰として、
外部との接触を絶たれたということら
しい。
3ヵ月後に届いた手紙で、やつは、
やっとその懲罰期間が終わったと嬉し
そうに知らせてきた。しかし、それだ
けではなかった。その文面は、前と比
べるとずいぶん穏やかな感じになって
いた。学校への不平が、いっさいなく
なっているのだ。
5/806
その手紙によると、ハリーは、最近
成績が上がったという。それに、ガー
ルフレンドができたとも書いてあっ
た。どうやら、そのガールフレンドと
やらが、学校になじめるようにあれこ
れ世話をやいてくれていて、その結果、
やつは、自分の置かれた環境が前ほど
いやだと感じなくなったということら
しかった。
それ以降、ハリーの手紙の文面から
は、次第に、グレート・インディアン
・リバーにいることが幸せだという感
じが伝わってくるようになった。その
くせ僕には、こんな学校に送られるよ
うな悪いことはするなと、さかんに書
いてくる。
僕には、ハリーがそんなふうに僕の
ことを心配し、警告してくる真意がさ
っぱりわからなかった。だいいち、そ
6/806
の学校がひどいところだというなら、
判決で言い渡された期間が過ぎたとい
うのに、そこにとどまりつづけている
理由が説明できないじゃないか。
そうなのだ。すでにハリーのグレー
ト・インディアン・リバーでの生活は
3年目に入っていた。その上どうやら、
卒業までそこで学びつづける決心をし
たらしかった。
ハリーがそこに送られるまで、僕ら
は最高の友達だった。でも、2年もた
つと、そんな記憶がだんだんと薄れて
くる。これ以上離れていたらいよいよ
疎遠になっていく気がして、僕はなん
だかさみしかった。
いや、それ以上に腹も立った。
悪いことをするな‥‥だって? え
らそうに。
それが、盗んだジャガーを時速75マ
イルで飛ばした末、ぶっ壊したやつの
7/806
言うことか?
もし、兄弟のように感じているハリ
ーでなかったら、とうの昔に、こっち
から縁を切っているところだ。
母さんから、ハリーの母親が再婚す
るというニュースを聞かされたのは、
ちょうどその頃だった。
夫に先立たれ独り身だったハリーの
母親は、転校した一人息子を追うよう
にグレート・インディアン・リバーの
近くに引っ越していた。そして、そこ
で再婚相手を見つけたらしい。わが家
にも、その結婚式の招待状が届いたの
だ。それで母さんは、僕にもいっしょ
に行こうと誘ってきた。
ふつうなら、誰のであろうと、結婚
式なんて出る気はない。そんなものは、
ペンキが乾くのを見ているより退屈だ
ろう。でも、ハリーも出席するはずだ
8/806
と聞き、俄然、行く気になった。
教会での式は、思ったとおり退屈だ
った。母さんをはじめ、女の人たちは
泣いていたけれど、男たちはみんな、
あくびをかみ殺していた。
僕も居眠りしそうになったのだが、
花嫁とともに入ってきたブライドメイ
ドのひとりを見たとたん、目が冴えた。
その赤毛の女の子は、びっくりするほ
どかわいかった。しかも、見つめる僕
の視線に気づいたようで、ほほえみ返
してくれた。
僕らの席から彼女のいるところまで
は距離があり、はっきりとはわからな
かったが、なんだか彼女は、僕に気が
あるようにさえ思えた。僕がもう一度
見返すと、さらにうれしそうな笑顔が
返ってきたのだ。
式が終わりに近づき、彼女は、退場
9/806
する新郎新婦に付き添って通路を歩い
てきた。そして、僕の席のそばを通る
ときには、はっきりとこちらに目を向
け、笑いかけてきた。
僕は、彼女と話すために、早くパー
ティ会場に行きたかった。
新郎新婦やその付き添いは、控え室
からなかなか出てこなかった。それで
僕は、会場のあちこちを歩きまわり、
ハリーの姿を探した。でも、どこにも
見あたらない。
新婦の息子なのだから、付き添いの
ひとりに選ばれている可能性はある
が、さっき教会の通路を行く中に、ハ
リーはいなかったはずだ。僕は、首を
かしげるしかなかった。母親の結婚式
に来て、パーティに出ないなどという
ことがあるのだろうか?
しばらくして、やっと新郎新婦の一
10/806
行が入ってきた。もちろん、その中に
は例の彼女もいた。その姿を見つけ、
僕は、彼女こそ理想の女の子だという
気がした。教会の時より近くで見て、
そのかわいさに、ますます惹かれた。
つややかな長い髪も、抜群のスタイル
も、そして、あいかわらず僕に投げか
けてくるその笑顔も、信じられないく
らいすてきだった。
さっそく話しかけようと近づいてい
くと、彼女の方から、まず列席者に挨
拶してまわらなければいけないとわび
てきた。
「あとで、ね」
心地よく響く声でそう言うと、彼女
は、パーティの人垣の間を巡りはじめ
た。
僕は、その姿を目で追っていた。顔
はもちろんだが、その後ろ姿も本当に
かわいい。
11/806
しばらくぼーっとしていた後、やっ
と、ここに来た本来の目的を思い出し
た僕は、また、ハリーを探して会場内
をまわった。
途中、ウエディングドレス姿のハリ
ーの母親に出くわした。彼女の新しい
夫が、友人に新婦を紹介するすきをみ
つけ、僕は、ハリーのことをきいてみ
た。すると、彼女は笑顔でこう言った。
「あら? さっきからずっと、その辺
にいるはずよ」
その言葉に、僕はきょろきょろ見ま
わしたのだが、やはり、その姿はどこ
にも見あたらない。
「誰か、探してるの?」
突然、背後から、声がした。
振り向くと、例の女の子だった。僕
の心は、たちまち浮き立った。
その瞬間、もう、ハリーのことはど
うでもよくなっていた。こんなかわい
12/806
い女の子に見つめられては、他のこと
なんて考えてる余裕はないだろう。で
も、せっかくの会話をつづけたいと思
い、取り繕うように言った。
「あ、ああ。友だちが来てるはずなん
だ。なにしろ、2年ぶりだからな」
「それは、すてきだわ」
彼女はまた、魅力的な笑顔を輝かせ
ながらそう口にした。
「じゃあ、どうしても会わなきゃね」
「ああ。子供の頃からずっと仲のいい
親友なんだ。でも、見つからなくて‥
‥。やつだって、会いたがってるはず
なんだけどな」
僕はそう言って、肩をすくめてみせ
た。
そのあと、手近な椅子に座って彼女
とおしゃべりするうち、僕は完全に恋
に落ちた。
13/806
ホリー(※)と名乗ったその新しい友
人は、男にとって、まさに理想的な彼
女だといえた。かわいくて美人で、そ
の上、僕が語るハリー(※)との思い出
話を、興味津々という感じで楽しそう
に聞いてくれるのだ。
(※訳注 ‘Holly’,‘Harry’ ‘l’と‘r’の
区別が明確なアメリカ人にとって、カタカナ表
記ほど似ているわけではないので、気づかない
主人公を馬鹿にしてはいけない)
頃を見計らって、いよいよ電話番号
を聞き出そうとした時、ちょうどダン
スタイムが始まり、まずは新郎新婦の
ダンスが披露された。
彼女がふたりのダンスに熱心に見入
っているので、僕は、はやる気持ちを
抑えた。こんな時、相手を無視してガ
ツガツするようでは、男としていいポ
イントは得られないだろう。
そのダンスが終わり、ビンクラー夫
14/806
妻があらためて紹介されると、彼女は
お祝いの言葉とともに大きな拍手を贈
り、僕はまた、おとなしくそんな彼女
の横顔ばかり見ていた。
と、そこで司会者が、それぞれの付
き添いの中心となった新郎新婦の友人
たちを紹介した。次は付き添いをふく
めたダンスという段取りらしい。さら
にもう一組、ビンクラー氏の子供たち
も踊りに参加するようだ。
そのカップルが呼ばれたところで、
僕は、あんぐりと口を開けた。
ロバート・ビンクラーと‥‥ホリー
・ビンクラー?
司会の紹介に、にっこりと席を立っ
た彼女の後ろ姿を、僕はまるで、その
かわいいお尻に催眠術をかけられたよ
うに見送った。
つい今しがたまでおしゃべりし、恋
に落ちたあの少女は、つまりは、ハリ
15/806
ーの義理の妹だったわけだ。そんなこ
と、なにも言ってなかったのに‥‥。
パートナーである兄のリードにみご
とに合わせて踊る彼女の姿は、まるで、
ダンスが生まれついての天分だといわ
んばかりの優雅さだった。
兄と談笑して踊りながらも、彼女は
時たま僕の方に目を走らせ、笑いかけ
てきた。その笑顔と目が合うごとに、
僕の心はさらに浮き立ち、幸せな気分
になった。彼女には、僕がこれまで知
り合った誰よりも、僕を惹きつけるな
にかがあった。
「ねえ、さっき僕がハリーの話をした
とき、どうして義理の兄貴だって言っ
てくれなかったんだ?」
踊り終わって戻ってきた彼女に、僕
はすぐさまきいた。
「うふ、そんなことより」
彼女は、そう言ってにっこり笑うと、
16/806
僕の手をとった。
「踊りましょ!」
彼女が踊る姿を見ているだけで夢心
地だったのに、自分の腕に抱いて踊れ
るなんて、もう、この世の天国だ。
彼女は、そのパーティドレスが驚く
ほど似合っていた。白い薄手の手袋と
ともに、上半身はぴったりと体の線に
沿い、大きく開いたネックラインから
は、魅力的な乳房の上の部分が顔をの
ぞかせている。それは僕を、全身で興
奮させた。
僕らはあきらかに、他の人々からお
似合いのカップルだと見られているよ
うだった。僕の母さんや親父も、それ
に、ホリーの家族たちも、僕らが踊る
姿をほほ笑ましそうに見ていた。僕は、
そんな視線に照れながらも笑い返し、
ちょっと誇らしいような気分になっ
た。
17/806
僕らは、バンドが演奏するあらゆる
曲をふたりで踊り通した。スローな曲
も、アップテンポな曲も、それに、ガ
キっぽい曲やオジンくさい曲も。ほん
とのことを言えば、僕はこんなかった
るい音楽は嫌いだし、これまでこんな
曲でダンスしようなどと思ったことは
ない。でも、パーティドレスの裾から
伸びるホリーの魅力的な脚は、そんな
ことを忘れさせるだけの価値があっ
た。
要するに、ホリーといっしょにする
のなら、どんなことだって、いやだと
は感じないのだ。
パーティが終わったところで、僕は
やっと、彼女の電話番号をきいた。
すると彼女は、ほほ笑みながら僕の
ほおにキスし、長距離電話はゆっくり
話せないし、よかったら手紙を書きた
18/806
いと言った。
「住所は、ハリーが知ってるでしょ。
あたしの住所は、その手紙に書いてお
くから」
将来結婚したいとまで感じる女の子
から届く、初めての手紙を待つのもい
いかと思い、僕はうなずいた。まあ、
ハリーが義理の兄貴になるというの
は、ちょっと気に入らないが。
ところが、それから何週間待っても、
ホリーからの手紙は来なかった。
あの結婚式では、お互いマジだった
はずなのに、なにが起きたのだろうと、
僕はちょっと不安になった。
彼女だって、僕に惹かれていたのは
まちがいない。たぶん、彼女は今、何
かしなければいけないことがあって、
手紙を書く暇もないのだろうと、僕は
むりやり自分を納得させた。
19/806
もちろん、僕にだってしなければな
らないことはある。このところ、ホリ
ーのことばかり考えていて、悪さする
のをすっかり怠けていたのだ。僕のい
たずら心が、また、むずむずとうずき
はじめた。
ある夜、学校の理科室に忍び込んだ
僕は、そこに発煙筒を仕掛け、おまけ
に出入り口のドアを強力な接着剤で固
めてしまった。
煙を見て駆けつけた町の消防隊が、
中に入れなくておたおたする姿や、苦
労して入ったあげく、火元が小さな発
煙筒だったことを発見して腹を立てる
姿を見て、笑おうと思ったのだ。
ところが、ことは僕の考えどおりに
は進まなかった。
発煙筒から出た火花が、近くにあっ
た紙に引火し、燃える紙は実験テーブ
20/806
ルに引火し、理科室全体が燃えだした
のだ。
やって来た消防隊は、中に入って消
化するために、ドアを斧で壊さなけれ
ばならなかった。
僕は、集まりだした野次馬の人垣か
らこっそり抜け出そうとした。しかし、
そこで誰かが叫んだ。
「放火犯はあいつだ。さっき、あいつ
が学校を出てくるのを見たんだ」
群衆の中をすり抜ける前に、僕の腕
は警官に捕まれ、手首には手錠がかけ
られていた。そして、パトカーに押し
込まれた。
僕は、罰せられずにはすまないこと
を覚悟した。たとえ、今ここで暴れて
逃げ出せたとしても、その瞬間に、僕
の命はないだろう。
両親は、減刑嘆願さえしてくれなか
21/806
った。
「フランク、お前は、男としての責任
をとらなければならない」
親父は、そう言い放った。
「判事に、厳格な判決をお願いした」
そして、その判事も、僕の反省と改
悛の言葉を信じてはくれなかった。あ
の発煙筒による被害は、最終的に5万
ドル以上に及び、僕にはそれに見合っ
た罰が与えられるべきだと述べたあ
と、こう言った。
「これまでの非行歴も考え合わせれば、
君のご両親は、君を市民社会にとって
有益な人間に育てることに失敗したと
言わざるを得ない」
判事は、僕をにらみつけながらつづ
けた。
「このまま放置すれば、近い将来、君
は、君自身を傷つけるか、そうでなけ
れば他人を傷つけることになるだろ
22/806
う。社会の人々は、君が厳罰に処せら
れ、今、君自身が傷ついてくれた方が
安心できるのかもしれない。しかし、
私はそれをよしとしない。学校当局や
警察、そして君のご両親と検討した結
果、君を、2年の間、グレート・イン
ディアン・リバー・ラーニング・セン
ターに送ることとする。そこで過ごす
ことで、数年後、君がまったくちがう
人間になっている可能性を信じたい」
判事と両親は、僕が打ちひしがれ、
許しを請うとでも思ったのだろうか。
どうやら彼らは、グレート・インディ
アン・リバーに、大親友のハリーがい
ることを知らないらしい。
それなら、なにも言わない方がいい
だろう。
僕は内心ほくそ笑みながら、しおら
しくうなずき、恐ろしい罪を言い渡さ
れてしょげているふりをした。
23/806
「きっと、お前にとっては、つらい毎
日になるだろう」
グレート・インディアン・リバーへ
向かう車を運転しながら、親父が言っ
た。
「言っておくが、母さんも私も、けっ
してこれを喜んでるわけじゃない。し
かし、こうするしかなかったんだ。た
ぶんお前はこれから、たいへんな変化
を迫られるはずだ。でも、あそこの教
育方針は、お前のような問題児に100
パーセントの効果を発揮するという話
だ」
到着すると、僕らはすぐに校長室に
案内され、校長のミセス・ウイリアム
ズから簡単な説明を受けた。
毎日の授業は制服で受けるのが決ま
りだが、それ以外の時間は、特別な行
24/806
事などを除きカジュアルウェアでよ
い。ただし、そうした時間も、生活態
度や行儀などは厳しく指導される。
校則違反は、どんな場合も厳罰に処
せられ、場合によっては退学となる。
その場合は、少年刑務所に送られ、18
歳になるまでそこで過ごすことにな
る。‥‥。
「まずは、私や先生方を信頼し、素直
に従うこと」
ミセス・ウイリアムズは、思わず震
え上がるような厳めしい声で言った。
「あなたが、今のような男の子である
うちは、ここのやり方に異を唱えるこ
とは許されません。いずれにせよ、こ
こにいるかぎり、あなたはそんな男の
子でいつづけることはできないでしょ
う。少なくともすぐに、たったひとつ
の選択を迫られるはずです」
‥‥たったひとつ? それを、選択
25/806
というのか? いったいなにが言いた
いんだ?
僕がそれを聞き返そうとする前に、
母さんがキスしてきた。
「先生方の言うことをよくきいて、う
まくやるのよ」
親父も、僕を軽く抱くようにして言
った。
「あとは、ミセス・ウイリアムズが案
内してくださる。お前がここの暮らし
に慣れるまで、私たちとは接触できな
いことになってるんだ」
そして、ふたりは出て行った。
そのあと僕は、ミセス・ウイリアム
ズに連れられ、今後暮らすことになる
寮の部屋まで行った。見ると、ベッド
の上には、親父が置いていったらしい
スーツケースがひとつ、運び込まれて
いた。
26/806
「校則を守って、規律正しく暮らすこ
と。脱走などということは、いっさい
考えないように。あなただって、罰を
受けるのはいやでしょう」
彼女はまず、そう釘を刺した。
「もうじき、ルームメイトが戻ってき
ます。それまでに、荷物をかたづけて
おきなさい。彼女がいろいろ世話して
くれるはずです。彼女にきいて着替え
なさい。それがすんだら、もう一度、
私の部屋まで来るように」
表情も変えずそれだけ言うと、ミセ
ス・ウイリアムズはくるりと向きを変
え、さっさと出て行ってしまった。そ
の後ろ姿を見送りながら、僕は、あの
女は、世界でいちばん冷酷な人間にち
がいないと思った。
でも一方で、ここは意外に自由で進
んだ学校なのかもしれないと感じてい
た。だって、ミセス・ウイリアムズは
27/806
今、ルームメイトのことを「彼女」と
言ったじゃないか。
あらためて見まわすと、室内はかな
り広かった。ベッド、机、テーブル、
そしてウォークイン・クローゼットま
で、すべてふたつずつ揃っている。
どうやらこの部屋は、これまで、女
の子2人で使っていたようだ。クロー
ゼットを開けてみると、どちらにも、
女の子用の服が隙間なく掛かってい
た。それにしても、前の子は、自分の
荷物を残したまま出て行ったのだろう
か?
さらに部屋の中を見まわしている
と、片一方の机の上に何枚かの写真が
飾られているのに気がついた。それを
もっとをよく見ようと近づき、そこで
僕は息をのんだ。
その写真立ての中から笑いかけてい
るのは、どれもみんな、ホリー‥‥あ
28/806
の、ハリーの義理の妹、あの、結婚式
で知り合ったホットな女の子‥‥ホリ
ーだったのだ。
つまり、僕のルームメイトは、ホリ
ーだってことか?
もし、そうだとしたら、僕は自分で
も気づかないうちに死んだのかもしれ
ない。だって、ここは天国だ。
なるほど‥‥。彼女が住所を教えた
がらなかったのは、ここに入れられて
いることを隠したかったからだと考え
れば、納得がいく。
そう思いながら、それらの写真を眺
めているうち、僕はまた首をかしげる
ことになった。そこには、不思議なこ
とがいろいろあったのだ。
写真のほとんどは家族写真で、彼女
が、父や兄、それに義理の母親といっ
しょに撮ったものだ。しかし、ハリー
といっしょに写ったものは一枚もなか
29/806
った。
それに、父や兄だけと撮った写真さ
えない。父の再婚以前、彼女は彼らの
中で育ってきたのだから、そんな小さ
い頃の写真が一枚くらいあってもよさ
そうなのに。
ところが、ハリーの母親とふたりで
写った写真はあった。しかも、この写
真がいちばんうち解けた表情をしてい
る。ホリーが義理の母親と知り合った
のは、そんなに前ではないだろう。な
のに、写真の中のふたりは、いかにも
親密そうに寄り添っていた。
さらに僕を驚かせたのは、そこに、
僕自身の写真があったことだ。そして
そこには、ハリーも写っていた。何年
か前、ハリーといっしょに撮った写真
だ。たしかこの写真は、ハリーの母親
のお気に入りで、いつもハリーの家の
暖炉の上に飾ってあったはずだ。それ
30/806
が、どうしてここにあるんだ?
もしかしてホリーは、僕の写真がほ
しくて、義理の母にむりやりねだった
のかもしれない。
そんな想像をしている時だった。
「もう、ここに送られるようなまねは
するなって、あれほど言ったのに。こ
のヌケサクが」
後ろから、明るい声がした。
「ま、たしかにヌケてるわよね。あの
結婚式の時、よくわかったわ」
振り向いた先には、デニムのミニス
カートとTシャツ――胸には“Boy To
y”の文字が入っていた――を着たホ
リーが立っていた。
「久しぶり、ね」
彼女は、ちょっとからかうような口
ぶりで言った。
「ああ。まるで、天国に来たような気
分だよ」
31/806
僕は、もう一度彼女の姿を上から下
まで眺めながらほほ笑んだ。
「それにしても、あの判事もまぬけだ
よな。罰として僕をここに送ったはず
なのに、そこで僕を待っていたルーム
メイトは、こんなすてきな女の子なん
だから」
「それは、どうかな?」
ホリーはほほ笑みながらも、今度は
あきれたように首を振った。
「たぶん、その判事はまちがってない
と思うわ。あなたは、罰を受けてるの
よ。まあ、すてきな女の子って言って
くれたのはうれしいけどね、ヌケサク」
「えっ、ヌケサク‥‥? なんか、な
つかしい響きだなあ。‥‥ああ、そう
か。僕のことだ」
僕は子供の頃のことを思い出してい
た。それは、ハリーがつけて、よく呼
んでいた僕のあだ名だった。
32/806
「ふふ、君の兄貴は、僕のこと、そん
なふうに呼べって教えたのか?」
僕は、それでもいいかなと思った。
彼女から呼ばれるんなら、そんなあだ
名も心地よい。
「あたしの兄さんは、あの結婚式で初
めてあなたに会ったはずよ。だから、
それは無理だと思うな」
彼女はなんだか、これまでにない馬
鹿っぽい表情で言った。そして僕は、
その表情を、前に見たおぼえがある気
がした。
「いや、君の兄さんと僕は、ほとんど
いっしょに育ってきたんだぜ。まるで
兄弟みたいに」
「ちがうわよ。悪いけどやっぱりヌケ
サクね。いっしょに育ってきたのは、
あなたとあたしでしょ。まあ、これか
らは、兄弟とは言えなくなるんだろう
けど」
33/806
彼女は笑い声を立ててそう言い、ベ
ッドに腰を落とした。
その顔には、またからかうような笑
みが浮かんでいる。
「もう、かわいい顔して、からかうの
はよせよ」
僕も、からかいモードで言った。
「ここがトワイライト・ゾーンでもな
いかぎり、僕らが初めて会ったのは、
君の父さんがハリーの母さんと結婚し
た時のはずだぜ」
「ううん、初めて会ったのは、クラフ
トン・ハイツ幼稚園よ。それに、あた
しのパパは、あたしが11歳の時に死ん
じゃったし」
さすがに僕も、少し腹が立ってきた。
「もうやめないか、ホリー。そんなジ
ョークは、ちっとも面白くないよ」
「まだ、わかんないの?」
ホリーはまた、あきれたように笑っ
34/806
た。
「いいわ、やりながら説明するから。
気の短いミセス・ウイリアムズを、待
たせとくわけにもいかないし」
そして、シャワールームを指さしな
がらつづけた。
「服を脱いでシャワー室に行って。そ
こに脱毛クリームがあるから、それで
目立つすね毛を脱毛するの。腋の下は、
カミソリで剃ってね。その間に、あた
しが、服を選んどいてあげるから」
「ふざけてるのか!」
僕は、その言葉を遮るように大きな
声で言った。
「まったく、わけわかんないよ。僕は、
変な更正施設に放り込まれて、ルーム
メイトだという女の子から、どう考え
ても筋の通らない話ばっかりされて
る。その上その子は、シャワーを浴び
て、すね毛や腋毛を剃れなんて言う。
35/806
この状況について、誰かさんがちゃん
と説明してくれるまで、僕はなんにも
する気はないからな」
引き出しから服を出し始めていたホ
リーは、首を振りながら言った。
「相変わらずね、フランク。だからあ
たしは、手紙で、ここに来るようなこ
とはするなって忠告したのよ。でも、
来ちゃった以上、あなた自身で変わら
ざるを得ないのよ」
「もう、よさないか、そんな話」
僕はいらいらしながら言った。
「僕は、君に手紙をもらった覚えなん
てない。約束したのに、君は出してく
れなかったじゃないか。それに、ハリ
ーの母親の結婚式以前に、君に会った
覚えもない。ましてや、君といっしょ
に幼稚園に通ったことなんてない」
ホリーはため息をついて、引き出し
から出した衣類を床に置いた。そして
36/806
いきなり、僕が過ごしてきた日々のデ
ィテールを次から次へと話し始めた。
それに、僕はあ然とした。
ハリーと僕がどんなふうに出会い、
どんなことをしてきたのか、彼女はす
べて知っていた。むかし、ハリーにだ
けは打ち明けた、好きだった女の子の
名前までふくめ、なにからなにまで。
「‥‥あ、ああ。君がすばらしい記憶
力の持ち主だっていうのは認めるよ。
そのおかげで、このドッキリがそれな
りにうまくいったって、ハリーに伝え
といてくれ。だけど僕は、そんなこと
じゃだまされないさ」
僕は、強がるように言っていた。
「もう、しかたないわね。じゃあ、こ
れを見て」
ホリーは、別の引き出しを開けると、
そこから手紙の束を取り出し、僕の方
に投げてよこした。
37/806
「どう? それなら納得する? あた
しが‥‥ハリーだってこと」
彼女は、はっきりとそう言った。
「あなたの手紙は、全部そこにあるわ。
ハリー宛、つまり、あたし宛のね」
ちらりと見ただけで、それが彼女の
言うとおりのものだというのはわかっ
た。でも、目の前のかわいい女の子が
言い張っていることは、わかりたくな
かった。
「あ、ああ、まちがいないよ。要する
に、ハリーがこれを君に預けたってわ
けだ。こんなことで君がハリーだって
証明になるなら、僕はビル・ゲイツ
か?」
じつはかなり動揺していたのだが、
僕は、彼女のかわいく上を向いた鼻に
気づき、鬼の首を取ったようつづけた。
「僕は、君が思ってるほど馬鹿じゃな
いさ。たとえ、ハリーのやつが、女装
38/806
好きのオカマだったとしても、あの大
きな団子っ鼻はごまかしようがない。
君の鼻は、はっきりとちがうじゃない
か」
と、彼女の口調が、いきなり感情的
になった。
「いい? あたしのことを、二度とオ
カマなんて言わないで! あたしは、
れっきとした女の子。女装男なんかじ
ゃないわ。よく覚えといて!」
「だろ。君は女の子。それでいいじゃ
ないか。変な錯覚を起こさせないでく
れよ」
僕の頭の中で、先刻から、トワイラ
イト・ゾーンのテーマ曲が流れている
のはたしかだ。でも、彼女が始めたこ
の薄気味悪いゲームに、これ以上巻き
込まれるのはごめんだった。
ところが彼女は、そんな決着では許
してくれなかった。
39/806
「この鼻は、新しいパパのおかげよ」
ホリーはまた、もとの落ち着きを取
り戻し言った。
「整形外科への申し込みからなにから、
パパが、全部手はずを整えてくれたの
よ。自分のかわいい娘を、みんなに自
慢したいからなんですって。ほんとに、
やさしくていい人。あたし、パパのこ
とが大好きになっちゃった」
僕は、そんなホリーの姿にハリーを
重ねようと、じっと見つめてみた。
でも、2分後には、それをあきらめ
た。たしかに、ハリーの面影がないわ
けじゃない。でも、どこをどう見たっ
て、彼女をハリーだと思うことなんて、
できるわけがない。
「‥‥ふ、まだ、ダメみたいね」
ホリーはそう言って笑うと、どこか
から1冊のアルバムを引っ張り出して
来て、僕に手渡した。
40/806
「自分が物わかりが悪いってこと、も
う少し自覚した方がいいわよ。いい?
あなたの親友のハリーは、ちょっと
いたずらが過ぎて、この学校に送られ
てきました。彼は、最初、自分がひど
い目に遭ってると感じて、そのことを
手紙に書き、その後も、あなたが混乱
するような目に遭わないようにと、こ
こへ送られるようなことはするなと忠
告しつづけました。その頃、例の結婚
式があって、そこであなたは、ハリー
を探したけれど見つからず、代わりに、
偶然にもハリーと同じ両親を持つホリ
ーという女の子に出会いました。そし
て今、その同じ女の子が、他人は知る
わけがない、あなたとハリーについて
の詳しい物語を語ってみせました。‥
‥さあ、そこで、あなたが意外と賢い
ことを証明するための、最後のヒント
ね。あなたは今日、ここへ来てから、
41/806
ひとりでも男の子を見かけた?」
僕は、ちょっと考えてから、肩をす
くめた。
「いや、女の子しか見なかったけど‥
‥。でも、それが、どういう関係があ
るんだ?」
「もお、勝手にして。さっさと、その
いやなアルバムを開いて、自分の目で
確かめなさいよ」
彼女は、本当に腹を立てているよう
だった。
僕は、首をかしげながら手にしたア
ルバムを開いた。その1ページ目には、
ハリーの写真があった。例の団子っ鼻
で、こちらに笑いかけている。
ページを繰ると、そこでも、ハリー
が情けなさそうに笑っていた。でも、
その目には、なぜかブルーのアイシャ
ドーが塗られていた。
さらにページを繰るごとに、ハリー
42/806
の服が変わっていき、化粧も手が込み、
ホリーと同じ鼻になり、長くなった髪
が女の子のようにカールされ‥‥。
そこからあとのページには、完全に
メイクした顔と長い髪で、さまざまな
服を着た写真がつづいた。制服、スカ
ート、ワンピース‥‥。
そんなふうにページを繰りながら見
ていくのは、ちょっと気味悪い感じだ
った。どの写真も、直前の写真と比べ、
少しずつ変わっていく。1枚ごとにハ
リーが消え、ホリーが現れてくる。
そして最後のページに、その写真は
あった。
結婚式用のパーティドレスを着たホ
リーだ。
髪は、あの夜のようにきちんとセッ
トをしているわけではないし、メイク
も、あの時ほどゴージャスなものでは
ない。でも、それは、まぎれもなくあ
43/806
のホリーだった。
そして同時に、今や、それがハリー
であること――少なくとも、ハリーで
あったこと――は明白だった。
僕は、もう一度ページを戻し、最初
のハリーの写真と、最後のホリーの写
真を、代わる代わる見比べた。そして、
奈落の底まで落ち込んだ。
つまり僕は、大親友の‥‥男に恋し
てたんだ。
「‥‥ハ、ハリー?」
もうわかりきっているというのに、
僕は恐る恐るきいた。
「今、見たとおりよ」
彼女は、ほほえみ返しながら、大き
くうなずいた。
「いったい、どうなってるんだ? そ
んな格好で暮らしてて、平気なのか?
ここに入ってる他の男たちは、お前
の正体に気がついてないのか?」
44/806
考えてみれば、この状況は問題があ
りすぎる。
さっきまで理想の女の子だと思って
いたルームメイトは、今や、長年のツ
レに変わっていた。
どうして、よりにもよって、こいつ
とルームメイトなんだ?
もし、他の連中がこいつの正体を知
ってるとすれば、僕まで変質者かなに
かのように見られるじゃないか。
「‥‥ふう。やっぱり、まだわかって
ないんじゃない。馬鹿みたい」
僕の顔を見ていた彼女は、そうつぶ
やきながら、クローゼットの片方を開
けた。他の家具の配置から見て、たぶ
ん僕のクローゼットだ。でも、女物し
か掛かっていない。
「いい? ここは、あなたが思ってる
ような、共学校じゃないのよ。あたし
の格好を冷やかす男なんて、ここには
45/806
1人もいないの。前に、手紙に書いた
こと、覚えてる? この学校の名前は、
悪い冗談みたいだって。グレート・イ
ンディアン・リバー・ラーニング・セ
ンター(Great Indian River Learning
Center)。略してGIRLセンター、ガー
ルセンターよ。だから、ここには、女
の子しかいないの。来た時は男の子だ
としても、ここで、女の子につくりか
えられるってわけ。じゃあ、また問題
です。ここにずらっと並んでるかわい
い服は、いったい誰が着るんでしょ
う? ‥‥ね、もうわかったでしょ」
僕は、そのクローゼットを見つめな
がら、彼‥‥いや、彼女?‥‥とにか
く、こいつが、完全にイカれてしまっ
たのではないかと思い、自分自身、気
が狂いそうな気がしてきた。
なにより、こいつが、なぜ女の子に
なりたいなんて考えるようになったの
46/806
か、それがわからない。
まあ、唯一救いがあるとすれば、僕
自身には、こいつが進める狂ったゲー
ムに参加したいなどという欲望が、み
じんもないことだ。
と、彼女がまた、バスルームの方向
を身振りで示した。
「さあ、早くシャワーを浴びて。30分
以内に校長室に行かないと、しびれを
きらしたミセス・ウイリアムズの方か
らやってくるわよ。彼女に手伝っても
らいたくないなら、急いだ方がいいわ」
僕はまだ混乱していて、これ以上こ
とを進めてしまっていいものかどうか
迷っていた。ただ、あの校長に体を洗
われている図を想像し、それがいやだ
ということについては、迷いはなかっ
た。
「脱いだものは、ドアの外に放り投げ
て。着てきた男物の服は、学校に預け
47/806
ることになってるの。ここを出て行く
時には、返してくれるはずよ」
シャワー室に入った僕がドアを閉め
かけたところで、ホリーがそう呼びか
けた。
「そこにあるピンクの瓶のクリームを
脚に塗って。そのあと、シャワーで流
すのね」
ドアの鍵をかける前に、僕は、パン
ツ、シャツ、ソックス、下着を脱ぎ、
外のホリーに渡した。そして、そのど
ろどろした液体を、両脚に塗った。
15分後、毛のなくなった脚をピンク
でふわふわのバスローブに包み、ベッ
ドに座った僕は、体をこわばらせなが
ら、ホリーに、マニキュアやペディキ
ュアを塗られていた。
「‥‥えっ? これは‥‥、やだよ、
許してくれよ」
48/806
爪が終わって、ナイロンパンティを
渡されたところで、僕はホリーに懇願
していた。
「他のことはともかく、これだけはい
やだよ」
「理科室に放火した時から、あなたに
は逃げ道はなかったんでしょ。それは
今も変わってないのよ。早く、履いち
ゃいなさい。そしたら次は、ブラのホ
ックのとめ方を教えてあげるから。さ
もないと、ミセス・ウイリアムズの手
を借りることになるわ」
先刻からずっと、この言葉で動かさ
れていた。誰かになにかを手伝っても
らう必要があるとしても、ミセス・ウ
イリアムズだけはごめんだ。それほど、
あの女の雰囲気は恐ろしいのだ。
僕は渋々うなずき、パンティをはき、
ホリーに教えられたとおりにブラを着
け、それから、パンスト、ワンピース、
49/806
最後に平靴と、次々に身に着けさせら
れていた。
「知ってた? あなたって、けっこう
美人よ」
ホリーは、僕の髪を女の子のように
セットしながら、からかってきた。
「きっと、そのうち、男の子たちの気
持ちをズタズタにしちゃうような女の
子になるわね」
「知ってた? 君って、そうとうイカ
れてるな」
校長室に向かいながら、僕は、ホリ
ーに言い返した。
「こんなの、どう見たって、男にしか
見えないだろ。だいいち僕は、女に見
られたいなんて思わないし、ましてや、
誰かさんみたいに女になりたいなんて
思ってないんだから」
「知ってた?」
50/806
職員室に入りながら、ホリーがささ
やいた。
「じつはあたしも、おんなじこと言っ
てたのよ」
そんなくだらない冗談に、僕がこれ
以上乗る気がないのがわかったらし
く、彼女は、今度は僕の手をぎゅっと
握ってきた。
「だいじょぶ。ここでは、みんながあ
なたの味方よ。あたしも、ずっとそば
についててあげるしね。あなたは、い
い娘になれるわ」
ホリーは僕を、タイムマシンにでも
乗せるつもりらしいが、僕は、そんな
ものなくても、やり直せる。
ここから抜け出して戻れるなら、僕
は、想像もつかないほど善良な人間に
なろう。ちゃんと学校にも行って、一
生懸命勉強しよう。礼儀正しく、人に
好かれる人間になろう。そこにいるこ
51/806
とさえ誰も気がつかないくらいおとな
しく、あらゆる面でヤバいことには近
づかない、そういう人間になろう。
僕は、そんな覚悟で校長室のドアを
くぐった。
「そこに掛けなさい、お嬢さんたち」
ミセス・ウイリアムズは、自分の机
の前に置かれた2脚の椅子を示しなが
ら言った。
「フェイス、初めてだとは思えないほ
どよく似合ってます。もしかして、こ
れまでにも、女の子の服を着たことが
あるんですか?」
僕は、彼女が誰と話しているのかと
思い、きょろきょろした。
「フェイス、人が話しているときは、
よそ見をするもんじゃありません。こ
とに、目上の相手に対しては、なおさ
らです」
彼女が話しかけている人間は、どう
52/806
やら彼女に目を向けず、きょろきょろ
しているらしい。そして、彼女の前に
は、今、ホリーと僕しかいないようだ。
ということは、彼女がさっきから呼び
かけている「フェイス」というちょっ
と恐ろしげな響きの言葉(※)は、僕の
ことを指しているわけだ。
(※訳注
‘Faith’
「信頼」「信念」という
意だが、大文字で始まる場合は「信仰」
「聖約」
を表す宗教用語ともなる。 ちなみに、ホリー
‘Holly’も「聖-」の意の接頭辞。どちらも、
女性名としては「清楚で純潔な女性」という語
感がある)
と、ホリーが、それを確認するよう
に肘で小突いてきた。僕はあわてて、
ミセス・ウイリアムズの方を見た。
「よろしい。今後も気をつけてくださ
い、フェイス」
彼女はそう言ってほほ笑んでみせた
が、それは彼女の厳めしさを少しも和
53/806
らげはしなかった。その微笑に、僕は
かえって震え上がった。
「それで。あなたはこれまで、女の子
の服を着た経験はないんですね?」
「んな! 当ったり前だろ」
と、ミセス・ウイリアムズの片方の
眉がつり上がり、鋭い眼光が僕を射す
くめた。スカートの中で、思わず膝が
震えた。
「若い娘がなんですか、その言葉づか
いは」
「あ、その‥‥、は‥‥はい、お、お
っしゃるとおりです」
僕は、とりあえず彼女をこれ以上怒
らせないよう、言葉を選んで言い直し
た。
「よろしい。で、初めて着てみて、ど
う感じましたか?」
「マジ、キモい‥‥あっ」
思わず口走り、それに気づいたとき
54/806
には遅かった。今度こそ、ひっぱたか
れるにちがいない。
しかし、ミセス・ウイリアムズは、
今度はにらみつけたりせず、僕の反応
にほほ笑んだ。
「フェイス、あなたがそう感じるのは
理解できます。でも、それは最初だけ
です。すぐにあなたは慣れて、やがて、
それが当たり前のようになるはずで
す。そして、そんな服装をしているこ
とで、あなたは、否応なく、若い女性
のように行動し、若い女性のように考
えはじめるでしょう」
僕は、ひどくみじめな気分になって
いた。こんなふうに女の服を着て座り、
女名前で呼ばれるだけでも、じゅうぶ
んに気味が悪いのに、自分の考えが女
のように変わっていくなんて、耐えら
れない。そのみじめな思いから、僕の
目には涙がたまり、あふれてきた。
55/806
「お願いです。こんなことは、もうや
めさせてください。僕は、女の子にな
んて、なりたくありません。反省しま
す。おとなしく暮らします。だから、
帰らせてください」
僕は、泣きだしていた。
「フェイス、今のあなたにそれを言う
資格はありません」
ミセス・ウイリアムズは、そう言っ
て首を振った。そして、机の上に置い
たファイルにちらりと目を落とした。
「あなたが今ここにいるのは、すべて、
あなた自身が招いた結果です。あなた
の非行歴を見るかぎり、あなたはこれ
まで何度も、反省し更正するチャンス
を与えられてきました。でも、そのた
びにあなたは、それを鼻で笑い、そん
な機会を捨ててきたのです。そして、
そのたびに、あなたの非行は深刻度を
増していった。もしここに来たくなか
56/806
ったと言うのなら、あなたには、これ
以前に、もっととるべき道があったは
ずです」
「いえ、僕だって、まじめにならなき
ゃいけないと思ってました。そうする
つもりでした」
僕は、誓いを立てようとした。
「もう一度チャンスをもらえれば、今
度こそ‥‥」
「いいえ」
ミセス・ウイリアムズの厳めしい声
が、それを遮った。
「あなたに残されたチャンスは、ここ
で2年間の更正プログラムを終えるこ
とだけです。それを終えれば、あとは
自由です。男に戻って家に帰ることも
できます。もちろん、ホリーのように
ここに残って学業をつづけることも可
能です。このグレート・インディアン
・リバーには、大学受験のための優れ
57/806
た教育プログラムも用意されていま
す。実際、毎年、少なくない数の卒業
生たちが、全国の一流大学に合格して
います」
「で、でも、僕をむりやり女にするな
んてこと、許されていいはずがありま
せん。まちがってます」
僕は、さらに涙を流し、叫ぶように
言った。
「法廷が判決を下したということは、
それがまちがっていないということで
す。そしてそれは、実績によっても裏
付けられています。過去20年間、何百
人ものあなたのような重犯少年がこの
グレート・インディアン・リバーに送
られてきました。そして、ここにいる
間、若い女性として暮らすことで更正
していきました。彼らのほとんどが、
当初は、今のあなたのように、このプ
ログラムはまちがっているとののしり
58/806
ました。でも、今ではみんな、立派な
夫や父親として、安定した精神状態で
社会生活を送っています。一流企業の
幹部になっている人も少なくありませ
ん。そして、彼らの誰ひとりとして、
ここで送った数年間を後悔していませ
ん」
「だけど」
僕は、声を振り絞って言った。
「どうして女になんか、ならなきゃい
けないんですか?」
「ひと言で言ってしまえば、支配欲の
排除ということです。あなたのような
脱法少年に関する長年の研究から、あ
なた方には、人を支配し、なにかを征
服したいという欲求が人一倍強いこと
がわかっています。粗暴で無軌道な振
る舞いは、そんな支配欲の表れに他な
らないわけです。それなら、そんな欲
望を取り除いてやればいい。男である
59/806
ことをいったんやめ、女になる経験は、
そのために非常に有効に働きます。若
いレディとして暮らすことで、あなた
方は、人を支配するための方法ではな
く、人から愛され大切にされるための
方法を学ぶようになります。奪うこと
でなく、与えることを学びます。あな
たが得た知識や能力を、力を誇示する
ために使うのではなく、あなたの生活
を豊かにするために使うようになりま
す。手がつけられないほど粗暴な少年
たちが、女性の衣服と、たった数週間
の行動の規制で、性格がよくてかわい
い女の子としての自分を受け入れてい
くのを見ていると、面白いことに気づ
きます」
そこで一息ついて、彼女はつづけた。
「不思議なことに、より粗暴な少年ほ
ど、その転換は目を見張るものとなる
のです。どうやら、やたら強がってい
60/806
ばってみせたり、ひどい非行に走る男
の子ほど、心の内に『女の子らしさ』
と言われるもの、いわゆる『お砂糖と
スパイスとすてきなものすべて』(※)
を秘めているようなのです。粗暴にな
るのは、それが大きすぎて、抑え込む
ためには『男らしさ』、つまり支配欲
や征服欲を強めざるを得ないからなん
でしょう。だから、いったん女の子で
あることを強制されたとたん、心の奥
に秘めていたそんな資質が溢れ出しま
す。かつて不良グループのリーダーだ
った子が、驚くほど女らしい美人にな
ったりします。この学校で、歴代、最
もきれいで最もかわいらしかった女の
子たちは、たいてい、もとは、ふだつ
きの不良でした」
(※訳注
‘sugar and spice and all everyth
ing nice’英語圏でよく使われる「女の子らし
さ」「女の子のもと」を表す成句
61/806
『マザーグ
ース』の中に、それらを混ぜ合わせると女の子
ができあがるという詩がある
「シュガー・ア
ンド・スパイス」と略されて使われることが多
い)
「そ、それはつまり、薬かなんかで洗
脳するってことなんでしょ」
逃げ出すための口実を探して、僕は
叫んだ。
「ふふふ、スパイ小説の読み過ぎです
よ、フェイス」
ミセス・ウイリアムズが声に出して
笑ったのは、これが初めてだった。で
も、その笑いすら、冷淡な感じしかし
ない。
「もし、あなたの言うような馬鹿げた
方法をとるとしたら、かえって莫大な
経費や労苦が必要になるでしょう。い
ずれにせよ、数週間後には、あなたは、
女の子でいることは、意外に簡単で楽
しいことだと気づくはずです。さあ、
62/806
それじゃあ、受講可能な授業と実習の
カリキュラムについて説明しましょ
う」
それから30分ほど、僕はそこに座っ
て、今年度、僕が受けることになる授
業の説明を聞いた。
「代数」「英語」「歴史」‥‥、それ
らに加え、ファッションやメイク、ヘ
アケアなどを学ぶ「グルーミング」、
そして、さまざまなマナーや立ち居振
る舞いを学ぶ「修身」‥‥この2教科
は、グレート・インディアン・リバー
では、全生徒が受けなければならない
必修科目なのだそうだ。ここの生徒た
ちは、自分の更正の成果を示すために、
地域の人々と積極的に交わることが推
奨されている。女の子として町に出る
ためにも、その2教科の修得が必須な
のだという。
63/806
「えっ、町に‥‥出る?」
僕は、恐怖感とともにきいた。
「こんな格好で、外へ出るなんて、僕
はぜったいいやです」
「あなたが望むか否かに関わりなく、
この1ヵ月間は、そんなことは許され
ません」
ミセス・ウイリアムズは、釘を指す
ように言った。
「基礎訓練期間である最初の1ヵ月間
は、校外に出ることはいっさい禁止で
す。その期間が終わったら、外出する
もしないもあなたの自由です。そのた
めに、町の中心部へのシャトルバスが、
毎夕1往復出ています。週末には増便
して1日数往復しています」
「あなただってそのうち、一人で部屋
にいるのはさみしいって思うようにな
るわ。みんな、町へ出かけるんだもん」
ホリーが、熱のこもった口調で追加
64/806
した。
「町のモールには、ショッピングにぴ
ったりのお店がたくさんあるし、フー
ドコートやシネコンだってあるわ。そ
れに、週末には未成年者OKってクラ
ブだってあるのよ。だから、ダンスだ
って楽しめるの」
「すべての新入生には、在校生の中か
ら選ばれた生徒がひとり、ビッグシス
ター――お姉さんとしてつくことにな
っています」
ミセス・ウイリアムズは、ホリーの
方にちらりと目をやりながら言った。
「ホリーは、あなたのビッグシスター
になることを、自ら志願してくれまし
た。あなたがここでの生活に慣れるた
めにいろいろな手助けをしてくれるは
ずです。しばらくは、彼女の言うこと
をなんでもきくこと。もし、彼女では
手に負えない問題が生じた場合は、い
65/806
つでもこの部屋を訪ねてくれてけっこ
うです。授業は月曜の8時に始まりま
す。この週末は、まず、ここになじむ
ことに努めてください」
そのあと、時間割を組むための講義
リストを手渡されたところで、面談は
唐突に終わった。
廊下を行くと、あちこちから物珍し
そうな視線が投げかけられた。あきら
かにそれは、在校生の女の子たちが転
校生の女の子に向ける目だ。そのこと
で僕は、自分が今、ここの「女の子」
たちの一員に加えられたのだというこ
とを悟った。
でも、そうはいくか。今回について
はすぐに、グレート・インディアン・
リバーの失敗事例として記録されるこ
とになるだろう。
僕は、やつらに取り込まれたりしな
66/806
い。
すでにこんなみっともない格好はさ
せられているが、僕は、男だ。やつら
の思い通りになんて、なってたまるも
んか。
部屋に戻ったところで、僕はホリー
に、すぐにも脱走するつもりだと打ち
明け、協力を頼んだ。
「お前が力を貸してくれれば、ぜった
いうまくいくよ。いっしょに逃げよう。
こんな動物園にいつまでもいられるも
んか」
「いやよ。あたしは、どこにも行く気
なんてないわ」
ホリーは、断固とした口調で言った。
「3年前とはちがうのよ。あたしは今、
ここでの暮らしに満足してるわ。ここ
にはお友だちもたくさんいるし、卒業
後、州立大学に行くための奨学金資格
67/806
だって取れたし」
「正直に言えよ。要するに、あのウイ
リアムズってババアを怖がってるんだ
ろ。捕まったら、なにされるかわから
ないって。でも、あいつには手が出せ
ないさ。お前の母さんは、お前をここ
に戻したりしないはずだ。ここがどれ
ほどめちゃくちゃなとこか、僕がちゃ
んと話して説得するから」
「ミセス・ウイリアムズが規律を乱し
た生徒にどんな罰を下すか、あたしは
よく知ってるわ。覚えてるでしょ。あ
たしは、前に一度、脱走に失敗したん
だから。あたしは今、これまでに得た
優等生としての特典を取り上げられた
くはないし、あの時みたいなみじめな
思いは二度とごめんだわ。それに、あ
たしのママとパパも、あたしがここの
暮らしを気に入っていることをよく知
ってるのよ」
68/806
僕は、いったいなにがハリーをここ
まで変えてしまったのかと、あきれて
いた。
僕の親友、かつてのハリーは、いつ
でも、新たな冒険に挑戦する勇気を持
っていたし、何ものをも恐れなかった。
ところが、今のハリーは、せっかくの
チャンスを前にして震えている、か弱
い女の子なのだ。
「ここの暮らしが好きだって? お前
がそんな人間じゃないことは、お前自
身がいちばんわかってるはずだ。うそ
はやめろよ」
僕は強い口調で主張した。
「それとも、やっぱり洗脳されたって
ことか? 前に捕まった時、やつらは
お前を洗脳して、自分のことを女だと
思いこませた。そういうことなんだ
な?」
すると、ホリーはあきれたように首
69/806
を振り、ため息をついた。
「洗脳なんて、されてないわよ。今の
あたしは、本当にここが好きなの。そ
れに、思いこんでるわけじゃなくて、
今のあたしは、本当に女の子よ」
その言葉とともに、なんと彼女は、
上着とスカートを脱ぎ捨てた。
「見てよ。‥‥どう?」
彼女はどこか誇らしげに、胸を突き
出すようにして言った。
「こんなおっぱいを持ってる男の子な
んて、いる? あたしは毎日、32イン
チBカップのブラを着けてるわ。もち
ろん、パッドなしでね」
次に彼女は、手をパンティで覆われ
たヒップにあて、そこを示しながらつ
づけた。
「こんなまあるいお尻をした男の子、
見たことある? もし、あたしと同じ
ようなラインの15歳の男の子がいた
70/806
ら、教えてほしいわ」
たしかに、パンティの前のかすかな
出っ張りさえなかったら、僕は、目の
前にいるのは女の子だと言うだろう。
それにしても、やつらは、僕の親友
になんてことをしたんだ!
「おかしいじゃないか。さっきの話だ
と、ここでは、服とかだけで、体をい
じったりしないんしゃないのか? 親
はこのことを知ってるのか? 息子が
こんな目に合わされたんだ。すぐにで
も、訴えるべきだ」
「あんたって、救いようがない馬鹿ね、
フェイス・ジョーダン!」
彼女は、憤慨したように言った。
「これは、全部、あたし自身の意志で
したことなの。2年前、13歳の終わり
頃、あたしは女の子になろうって決意
した。ママは、あたしを精神科に連れ
て行ってくれて、そこでテストした上
71/806
で、ミセス・ウイリアムズもふくめて
相談したの。彼女は、手術については、
判決で決められた更正期間が終了して
からって条件を出した。それであたし
は、とりあえずホルモン投与だけを始
めたの。もう更正期間は終わったから、
卒業までにはすべてのオペを終えるつ
もりよ」
「そ、そんなこと、せったいにダメ
だ!」
僕は叫んでいた。
「お前は僕の親友、ハリーだ。いちば
ん仲のいい男なんだ。やっぱりやつら
は、お前がそんな馬鹿なことを考える
ように誘導したんだな」
「忘れたの? あたしの名前はホリー
よ。あたし、もうこれまでに、何人も
の男の子とデートだってしてるわ。そ
んな時、ひとつになるくらい体をくっ
つけたりしたけど、あたしがホリーだ
72/806
ってことを疑った人なんて一人もいな
かったわ」
彼女はスカートと上着をふたたび身
につけながら、くすっと笑った。
「あなただって、あの結婚式の時、あ
たしを男の子だなんて、これっぽっち
も思ってなかったじゃない」
僕は打ちのめされていた。
僕の親友は、今や女の子の世界に浸
りきり、僕といっしょに元の世界に戻
る気はないようだ。
一方で僕は、あの結婚式の時のかわ
いい女の子の姿を思い出していた。あ
のドレスがどれほど似合っていたか、
その仕草や口ぶりがどれほど愛らしか
ったか、彼女を腕の中に抱きダンスし
ていたときの僕が、どれほど浮き立っ
ていたか、そして、どれほど彼女にキ
スしたいと願っていたか。
そんなイメージが浮かんだせいだろ
73/806
う。僕は突然、あることに気づいた。
僕は、勃起していた!
パンティの中のものがむくむくと首
をもたげ、ワンピースの前を押し上げ
ている。意志の力では、もうどうにも
ならなくなっていた。
「ふふ、やんちゃ坊主さん」
彼女も、それに気づいたらしく、そ
のあたりを見て、くすっと笑った。
「結婚式の時の話は、しない方がよか
った?」
僕は、恥ずかしさに、返事もできな
かった。
‥‥というか、親友である男に向か
って、抱きしめたいとか、キスさせて
くれなんて、言えるわけがない。
と、まるでそれがわかったように、
ホリーはほほ笑みながら僕のほおにキ
スしてきた。
「ありがと。あたしのこと、そんなふ
74/806
うに思ってくれるのは、うれしいわ」
どうやら、期待してはいけないよう
だ。僕の親友は、もういない。
でも、だからこそ僕は、この狂気の
館から早く逃げ出さなければならない
と思った。やつらがハリーにしたのと
同じことを僕にする前に、なんとか、
僕ひとりで逃げきる道を見つけてや
る。今のところは、やつらに従うふり
をするしかないにしても。
もちろん、ハリーを連れて行けない
のは残念だけれど、ホリーが行かない
のは、もはやはっきりしていた。
残念‥‥。そう、こんなかわいい子
と別れなきゃならないのは、ほんとに
残念だ。たとえば、このままここにい
れば、僕は彼女とひとつの部屋で、毎
晩‥‥。
‥‥えっ? なに考えてるんだ。い
くらかわいい女の子に見えたとして
75/806
も、彼女は男、僕とおんなじ男なんだ。
でも、さっきの胸やお尻は、どう見て
も男には見えなかったけど‥‥。
ホリーの説得をあきらめ、でも、混
乱した僕は、落ち着くために、とりあ
えずスーツケースの中のものをかたづ
けようと思った。
そして、その留め金をはずし、中を
開けたところで、死ぬほど驚いた。
そこに詰め込まれていたのは、パン
ティ、スリップ、ブラジャー、パンス
ト、さらに化粧品の類まであった。
それらの上に、ピンクの封筒がのっ
ているのに気づき、僕はあわてて封を
切った。と、そこから、手書きの手紙
が出てきた。親父の字だ。
「親愛なるフェイス
母さんと私は、これが、お前を立ち
直らせるための最後の希望だと思って
いる。ふたりで悩み、苦しみ抜いた末
76/806
の結論だ。わかってくれ。他に道はな
かったんだ。
これを読んでいるお前は、すでに、
おおよそのことは聞いていると思う。
その上で、そこに身を置くしかないこ
とを賢く判断してくれたと思う。どう
か、周りの人たちの言うことをよくき
いて、まちがっても逃げようなどとは
考えないでほしい。
母さんと私は、できるかぎり早く、
また、お前の顔が見たいと思っている。
そのためにも、自らを変える努力をし
てくれることを願っている。
それから、ホリーに、私たちが心か
ら感謝していると伝えてほしい。彼女
は、自分がまずい立場になるのも顧み
ず、お前の面倒を見たいと申し出てく
れたのだから。」
その手紙には、最後に、こうサイン
されていた。
77/806
「愛する娘へ――ママとパパより」
「ママとパパ」‥‥だって?
母さんも親父も、なに考えてるんだ。
これまで「パパ」なんて気持ち悪い呼
び方、したこともなかったのに。
「わかったでしょ。あなたのパパとマ
マも、ここがどんなとこなのか、よく
知ってるのよ」
ホリーは、当然だと言わんばかりの
口調で言った。
「せっかくママがそろえてくれたんだ
もん、それ、早く着こなせるようにな
らなきゃね。でも、だいじょうぶよ。
ここの女の子たちは、みんなやってる
ことだから」
「やめろよ。なんで女の子なんて、言
うんだ!」
僕はいらつきながら言った。
「さっき、ここの生徒は男だけだって、
言ったじゃないか」
78/806
「だって、あたしたちみんな、自分の
ことを女の子だって思ってるんだも
ん」
ホリーはまた、それが当たり前だと
いうように肩をすくめた。
「あなただって、すぐそう感じるよう
になるわよ」
僕はもう、反論する気も失せ、スー
ツケースの中のものをかたづけること
にした。
「それにしても、ブリーフの2枚でも、
入れといてくれればいいのに」
「わかるわ。あたしも、最初の日にお
んなじことを言ってたもん。だけど、
パンティにしてもなんにしても、すぐ
平気になるわよ。だいいち、ブリーフ
なんかより、ずっと履き心地がいいし
ね」
彼女は、こんな言葉に、僕がどれほ
どいらつくか、わかっているんだろう
79/806
か?
あたしもそう思った、あたしもそう
感じた、あたしもそう言った‥‥つま
り、僕が、同じ道を進んでるってか?
誰か、彼女に言ってやってくれない
か?
着るものなんかで、気持ちが変わる
わけがないって。こんなツルツルでペ
ラペラの下着が、コットンブリーフの
さわやかさに取って代わることはでき
ないんだって。
「なあ、そのおしゃべり、人からウザ
いって言われたこと、ないか?」
僕は、端的に指摘した。
「お前がなにを思おうが、なにを感じ
ようが、それは勝手だ。でも、黙って
てくれないか。ほっといてくれ」
と、ホリーは、セクシーな脚を組み、
ちょっとの間、僕をにらみつけたあと、
まくし立てた。
80/806
「あんた、ほんとに、なんにもわかっ
てないわよ! 人の気も知らないで!
いい? ふつう、高等部の1年じゃ
あ、ビッグシスターにはなれないのよ。
それをあたしは、無理言って、あんた
のお姉さん役にしてもらったんじゃな
い。やっぱり、先生たちの言うとおり、
あんたを上級生に預けるべきだった
わ。そしたらきっと、あんたは今ごろ、
ひらひらのいっぱいついたベビードー
ルかなんか着せられてるんでしょう
ね。網タイツをガーターベルトでとめ
て、プッシュアップ・ブラに、いかに
もにせ物って感じのおっぱいつめて、
じつは女装者しか履かないような6イ
ンチのヒールで、よたよた歩かされて
るはずよ」
「君が急にヒステリックになったのは、
もしかして、パンティがよじれてるせ
いかい? かわい子ちゃん」
81/806
僕は、持てるかぎりのコメディセン
スを発揮し、ジョークを言った。
「ひどいッ! よくそんなことが言え
るわね!」
彼女は、泣き叫んでいた。
「いいわ。あたし、今すぐミセス・ウ
イリアムズのところに行って、お姉さ
ん役を代えてくれって頼むわ。あんた
なんて、あんたなんて、思いっきりケ
バい格好で学校じゅうを歩かされて、
死ぬほど恥ずかしいを思いすればいい
のよ」
こんなふうに荒れ狂うハリーは見た
ことがない。まるで、女の子だ。
「わ、わかったよ、ハリー。そんなに
怒らせるつもりはなかったんだ」
僕は、あえて男名前を使い、落ち着
かせようとした。
彼女は、今にも僕に飛びかかり、首
を絞めそうに見えた。ところがいきな
82/806
り、その顔つきが変わり、にっこりと
笑った。
「そっか。あなたに、あたしの最初の
日を、見せてあげればいいんだ」
ホリーは、今度は、なんだかにやに
や笑って言うと、机まで行って何か取
り出した。
そして、僕のベッドのところまで来
ると、スカートをなでつけながら、隣
に座った。彼女が開いたのは、先刻と
はまたちがうアルバムだった。
「あたしのビッグシスターだった先輩
からの、入所祝いよ」
僕の顔のすぐそばでそう言って笑い
かけた彼女に、僕はまた、体の一部が
むずむずするのを感じた。
でも、そのアルバムの写真を見たと
たん、興奮はしぼみ、そこは萎えた。
写真の中で、親友のハリーは、思い
っきり厚化粧されていた。あまりにご
83/806
てごて塗りたくっているせいで、その
下の恐怖の表情すらよくわからなくな
っている。まぶた全体に真っ青なアイ
シャドーが広がり、唇には真っ赤な口
紅が塗られ‥‥。
次の2枚は全身写真で、1枚は男物
の服を脱いでいるところ、もう1枚は、
ピンクのブラやガーターベルト、網タ
イツを着けているところ。
次のページにあったのは、それらの
下着の上にピンクのベビードールを着
せられた写真だった。それは、パンテ
ィをかろうじて隠すくらいの丈しかな
い。
そんな姿で、ハリーは寮の廊下を歩
いていた。写真には写っていなかった
が、そのまわりで他の生徒たちがはや
し立てていることは、屈辱的な表情か
らよくわかった。
次の写真でも、ハリーはパンティが
84/806
見えそうな極端に短いスカートを履か
されていた。厚化粧といかにもパッド
でふくらませた感じの大きな胸は、彼
を安っぽい売春婦のように見せてい
た。
さらに写真はつづき、その中でハリ
ーはさまざまな服を着せられていた
が、どれもみんな恥ずかしいものばか
りだった。
「最初の2週間、毎日、授業の時まで
ふくめて、あたしはそんな格好をさせ
られてたのよ」
ホリーは、ちょっと口をとがらせて
そう説明した。
「悔しくて悲しかったわ。だからあた
しは、いくら新入生をおとなしくさせ
るための荒療治だっていっても、こん
な風習はやめるべきだって直訴した
の。それで、あなたのお姉さん役にな
ることを申し出た。でも、無駄だった
85/806
みたいね。やっぱり、男がここの暮ら
しに慣れるには、あたしみたいな思い
をしなきゃいけないようね。あなたも、
そう思ってるんでしょ。それなら、ミ
セス・ウイリアムズのところに行っ
て、そう言うしかないわ」
立ち上がりドアに向かう彼女をあわ
てて追いかけた僕は、ノブにかけたそ
の手をつかんだ。
「ど、どうやら僕は、ドジったみたい
だ」
僕は、口の中でもぐもぐ言った。
「ん? よく聞こえなかったわ、お嬢
さん。なんておっしゃったのかしら?」
ハリーにはもう、僕に逃げ道がない
ことがわかっているはずだ。でも、ホ
リーは、さらに僕を追いつめようとし
ていた。ハリーならぜったいしないよ
うな、女の子だけに許されるやり方で。
「いや、だから、その‥‥僕は、ドジ
86/806
を踏んじゃったって‥‥」
「ごめんなさい」
彼女は自分のアドバンテージを、さ
らに拡大しようというのだろう。
「おっしゃってる意味が、よくわかり
ませんわ。素直でかわいい女の子なら、
自分の思ってることを、もっと正直に
言うものでしょ」
「も、もう、いい加減にしろよ、ハリ
ー!」
僕は、思わず怒声をあげていた。
でも、これは、やめておくべきだっ
た。僕はさっきから、つい言ってしま
った言葉尻をとらえられては、どんど
ん追い込まれているのだから。
「えっ、ハリー? まあ、それはたい
へんだわ」
ホリーは、今度はちょっと怯えるよ
うな声で言ってみせた。
「この寮は、男子禁制なのよ。あなた
87/806
が男の子を見かけたのなら、すぐミセ
ス・ウイリアムズに報告に行かなくっ
ちゃ」
ふたたびドアノブにかけた彼女の手
を、僕はあわててとめた。
「も、もう、いいだろ」
僕は、頼むような口調で言っていた。
「許してくれよ」
「あたしは、許したいのよ。でも、そ
うさせてくれないのは、あなたの方で
しょ」
ホリーは、その目に意地悪そうな光
をたたえてつづけた。
「まず、ちゃんと謝って、そのあと、
あたしにお姉さんでいてくれって、頼
めばいいだけでしょ。じゃなきゃ、あ
たしは、ここから出てくわ」
「わ、わかったよ。ごめん‥‥なさい。
お姉さんでいてください」
「もっと、ちゃんと」
88/806
「お願いします。どうかずっと、僕の
お姉さんでいてください」
「これからは、もっと素直な女の子に
なって、あたしの言うこと、なんでも
きく?」
女の子の要求って、ひとつ許すと、
どうしてこう次々に拡大してくんだ。
きっと数秒後には、僕は彼女の前にひ
ざまずいているにちがいない。
「そ、それは、内容にも‥‥」
言いかけると、すかさず彼女はドア
を開けた。それを閉めさせ、彼女を座
らせるには、言うしかなかった。
「わ、わかったよ。なんでも、君の言
うとおりするよ」
僕は降伏した。そして、彼女にもそ
れがわかったようだ。
いきなり、僕に抱きついてきた。
「‥‥ちょ、ちょっと! そんな‥‥、
よせよ」
89/806
僕はあせって言った。
「どうして? 結婚式でダンスしたと
きは、うれしそうにしてたじゃない」
「そ、そりゃ、君のこと、男だなんて
思ってなかったから」
と、彼女は、いきなり両腕を僕の首
にまわし、甘えるような表情で見つめ
てきた。そして、その唇を僕の唇に押
しつけてきた。
僕は、思わず、全身をこわばらせて
いた。
さらに、抵抗する間もなく、彼女の
舌が口の中に入ってきた。
僕はそれに、ただ、固くなってどぎ
まぎした。
「ねえ、これでもまだ、あたしのこと、
男だなんて思う?」
やっと口を離したところで言った彼
女の鼻声は、ティーンエージャーのも
のだとは思えなかった。
90/806
「‥‥も、もう、二度とするなよ」
それだけ言うのが、やっとだった。
「あら、ごめんなさい」
ホリーは、僕の胸に指を這わせなが
ら、今度は、ほおにキスしてきた。
「あたしったら、いけない子ね」
僕は、なんだかわけのわからない困
惑の中で、彼女を突き放すことすらで
きなかった。
そして一方で、僕のスカートの中で
進行していることを彼女に覚られた
ら、生きていけないと感じていた。
「ねえ、まだ、答えを聞いてないんだ
けど」
彼女は、僕の耳もとでささやいた。
「あたしのこと、まだ、男だと思って
る?」
「そ、そりゃ、もちろん‥‥」
僕が必死の思いで言いかけると、彼
女は、さらに体を密着させてきた。そ
91/806
の腰がセクシーに揺れた。
もう遅すぎた。
彼女の体に触れている、僕のスカー
トの一部が大きく出っ張っていた。
「んふ、どうやら、やんちゃ坊主さん
は、あたしのこと、女の子だって思っ
てるみたいよ」
くすっと笑ったホリーは、かすかに
腰をこすりつけるようにして、そこを
示した。
「あら、彼ったら、あたしのこと、好
きみたい」
彼女の腕がふたたび僕の首にまわさ
れ、引き寄せてきたとき、僕はなんと
か抵抗しようとした。でも、唇どうし
が触れた瞬間、それはあえなく失敗し
た。僕の腕は彼女の体にまわり、僕の
舌は彼女の舌とからみ合った。
そのキスは、長い時間つづいた。
美人の女の子を抱きしめ、情熱的な
92/806
キスをしていることで、僕は天国にい
るような幸せを感じていた。
でもそれは、僕の年頃の男にとって、
うまくやりこなせるようなことではな
かった。
体を離すと、僕のスカートの前にシ
ミができ、それが広がりつづけていた。
「あたし、この2年間、ずっとこんな
日を夢見てきたのよ」
彼女は、そう言ってほほえんだ。
「女の子になるって決めたときから、
いつかあなたに抱きしめてもらって、
キスしてもらおうって」
僕は、驚いて彼女を見つめた。
ところがホリーは、さっさと僕から
離れ、ヘアブラシをとって髪の乱れを
直しはじめた。
そして、ふたたび笑いかけると、こ
う言った。
「でも、誤解しないでね。もう一度、
93/806
あなたが今みたいなキスをしようとし
たら、ひっぱたくから」
ハリーが女の子になったということ
に、もはや疑いの余地はなかった。
「君はまちがいなく女の子だよ」
僕は、ため息混じりに言った。
「ハリーならぜったい、こんな、いん
ちきなトリックは使わないだろうか
ら」
「ほんとにごめんね。でも、あたし、
どうしても知りたかったの」
彼女は、ちょっと神妙な顔でわびた。
「ホルモンをはじめた時から、いつか
はあなたで試したいって思ってたの
よ。他でもないあなたが、あたしのこ
とを女の子だと思うなら、まちがいな
いでしょ」
「でも、どうして僕がそう思ったって
言えるんだ? まだ、なんの返事もし
てないぜ。悪いけど僕は、本物の女の
94/806
子の方がいいさ」
「あら、あたしが、その本物だってこ
とは、結婚式の時だけでも、じゅうぶ
ん証明されたんじゃない。その上、今
‥‥、それは、まちがいなく本物でし
ょ」
ホリーはくすくす笑いながら、僕の
スカートのシミを指さした。
「それ、着替えなきゃね。30分後に、
美容室の予約が入れてあるから」
彼女はそう言うと、さっそく、ピン
クのデニムスカートと新しいパンティ
を渡してよこした。そして、バスルー
ムに行くように指し示した。
「美容室の予約って、髪の毛をいじる
ってことか?」
バスルームでワンピースを脱ぎなが
ら、僕は聞き返した。
「僕はこうして、言われたとおり、女
95/806
の子の服を着てるんだ。これ以上、必
要ないだろ」
「必要、あるのよ」
ドアの向こうから、ホリーはなんだ
かうれしそうな声で返事してきた。
「校則で、ちゃんと決まってるんだも
ん。さっき、ミセス・ウイリアムズに
渡されたでしょ。学生生活ハンドブッ
ク。そこに載ってるわ。‥‥すべての
生徒は、美容室を利用し、ヘア、ネイ
ル、ボディをつねに美しく保たなけれ
ばならない。‥‥それから‥‥、すべ
ての生徒は、いかなる時も、その場に
ふさわしい服装をしなければならな
い。つまり、自由時間はスラックスと
かジーンズでもいいけど、授業中は制
服で、特別な行事にはドレスを着るっ
てことね」
「えっ? ジーンズでもいいのか?
なら、なんで僕はスカートなんだ?」
96/806
僕は、パンツをはきたいと思ってき
いた。たとえ、それがどんなパンツだ
としても、スカートよりはましだろう。
「あなたはまだ、基礎訓練期間中だか
らよ。それが終われば、なにを着ても
よくなるわ。1ヵ月後ね。それまでは、
スカートかワンピースって決まってる
の」
僕は、パンティを替え、スカートを
履いたところで、今回はストッキング
がないことに気がついた。
それで、バスルームを出ながら、そ
のことをホリーにきいてみた。
「ああ、あれは、ミセス・ウイリアム
ズに、あなたのきれいな脚を見てもら
いたかったからよ」
ホリーは、そう言って笑った。
「デニムのスカートの時は、ストッキ
ングなんて履かないものなの。合わな
いでしょ」
97/806
僕は、ちょっと不安になってきいた。
「その1ヵ月間、毎日の服を決めるの
は、どっちなのかな? 君? それと
も僕?」
「あら、あたしのセンスを疑ってるわ
け?」
彼女は、冗談まじりに、プライドを
傷つけられたことを怒ってみせたあ
と、つづけた。
「自分の着るものだもん、あなたが選
んでいいわよ。あたしも、アドバイス
くらいはするけどね。決めるのはあな
た。服も、ヘアスタイルも、メイクも
ね。‥‥どう? それでいい?」
そう言ったあと、彼女はもう一度、
口をとがらせてつけ加えた。
「だいたい、あたしが、あなたに恥ず
かしい思いをさせるようなもの、選ぶ
と思うの?」
僕は、新しいスカートに手をやり、
98/806
言った。
「でも、これだって‥‥」
「もう、ほんとに手間の掛かる人ね」
彼女は、笑いながらため息をついた。
「おんなじようなこと、何度も言わせ
ないでよ。いい? あなたはなにより、
女の子としての生活を経験するため
に、ここに送られてきたのよ。あなた
を悪くするだけで、なんの役にも立た
ないマッチョな考え方を捨てるために
ね。それより大事なのは、親切で、思
いやりがあって、思慮深い人間になる
ことでしょ。これまで、世の中があな
たに押しつけてきた、つまんない『男
らしさ』なんてもの、ここでは、全部
捨てちゃいなさい。これからの2年間、
あなたは、泣きたかったら遠慮なく泣
けばいい。友だちとじゃれ合いながら
くすくす笑ったって、気持ち悪いなん
て言われない。人から弱いやつだって
99/806
見られることにびくびくする必要もな
い。雄犬みたいに振る舞わなくてもい
い。つまり、自分の縄張りを広げるた
めに、そこら中におしっこしてまわら
なくてもいいってことね。肩の力を抜
いた生き方を覚えれば、あなたが見て
きたのとはちがう世界が開けるはず
よ。これまで持ってきた無意味な闘争
心を勉強に向ければ、一流大学にだっ
て入れるわ。学問の世界は、男か女か
なんて関係ないしね。ここで女の子と
して生きてる間は、男の子では経験で
きなかったことが、いろいろ経験でき
る。ここでの時間が終わったら、前と
はまったくちがうタイプの男として、
社会に戻れるはずよ」
もちろん僕は、問いたださなければ
ならなかった。
「じゃあ、どうして君は、そうしな
い?」
100/806
と、彼女は、笑って肩をすくめた。
「あたしの場合は、どうも、女の子で
いる方が、しっくりくるみたいなの。
自分がきれいなことや、かわいいって
ことをうれしく感じてる自分を発見し
てしまった。もちろん、誰にも強制さ
れてないわ。じっくり考えて、私にと
って、女の子でいることの方が正しい
って思えたの。あなたに話しても理解
してもらえないのは、わかってたわ。
だから、手紙には『H』としか署名し
なかったでしょ。自分で覚悟を決めて、
親に相談して、ホルモンを始めて、鼻
の整形をして‥‥あとは、もう知って
るわね」
そこで、立ち上がった彼女は、一足
のスリッポン・シューズをトスしてき
た。
「さあ、もう時間がないわ」
僕は、その靴に両足を入れたところ
101/806
で、ぐらついた。
「こんな高いヒールなんて、無理だよ」
「あなたは今、女の子なんでしょ。慣
れなきゃだめよ。だってそれ、女の子
の靴としては、ごくふつうの高さよ。
ハイヒールとも言えないわ。で、あな
たは女の子なんだから、ヘアスタイル
もちゃんとしなきゃね」
「だけど、美容室なんて、やっぱりや
だよう」
その泣き言は、なんだか甘えたトー
ンで響いた。もしかしたら、パンティ
で過ごした2時間が、もう僕を変えは
じめているのかもしれないと感じた。
「ねえ、ここの生徒たちを見て、一人
でも、女装した男の子だって感じた子、
いた?」
僕は、今日ここへ来てから見かけた
生徒たちを思い出しながら、首を振っ
た。
102/806
「じゃあ、ここの生徒たちの中に、一
人だけ、女装した男の子が混じってた
としたら、どう思う?」
ホリーが僕のことを言っているのは
わかったが、だからこそ、僕は首を振
った。
「それなら、ちゃんと女の子に見える
ように、ヘアスタイルも変えなきゃ、
ね」
「‥‥わ、わかったよ。行けばいいん
でしょ」
その言葉も、単にすねているだけで
なく、甘えた感じになった。
「じゃあ、ちゃんと女の子に見えるよ
うに、歩き方とかも気をつけてね」
部屋を出て、足早に廊下を行きなが
ら、ホリーは笑った。
「いずれ町に出たとき、あなたがから
かわれるのを見たくなんてないから」
僕は、あわてて彼女を追おうとした
103/806
が、靴がいうことをきかない。
「ずるいよ。そっちはヒールに慣れて
るんだから」
置いて行かれそうになった僕は、叫
んでいた。
立ち止まって笑いながら僕を見てい
たホリーは、足を一直線上に出し、腰
をちょっと振るようにするといいとア
ドバイスしてくれた。
そんな歩き方はいやだったが、言わ
れたとおりやってみると、たしかに歩
きやすくなった。
校内の美容室には、すべての準備が
整えられていた。水色の化繊のスモッ
クに着替えさせられ、椅子に座ると、
その背もたれがシンクの上に後ろ向き
に倒された。
そのあと、シャンプーされて、なん
だか気持ちよくなってきた僕は、髪を
104/806
いじられるうちに、いつの間にか眠っ
てしまった。
眉を引っ張られる痛みを感じて目を
覚ますと、ひとりの女の子が僕の方を
じっと見つめていた。明るい茶髪が肩
に掛かり、眉はきれいなアーチ型にな
りかけている。
「‥‥えっ、ぼ、僕に、なにをした?」
それが鏡に映った自分だと気づいた
ところで、僕は悲鳴に近い声を上げて
いた。
「落ち着いてよ。そんなに取り乱さな
いで」
ここの専属らしい美容師が言った。
「最初は違和感があったとしても、見
慣れれば、ぜったい気に入るわ。だっ
て、ほんとに、すごくかわいいんだも
ん。自分が、これほどの美人だってこ
と、知ってた?」
105/806
「そ、そんなこと、言われたこともな
い」
「じゃあ、それにも慣れなきゃね。こ
れからは、いやというほど言われるは
ずよ」
彼女は、気軽な口調でそう言ったが、
僕はひどく憂鬱になった。
その部屋に入って2時間で、僕の姿
はすっかり変わっていた。
エクステンションを着けて長くなっ
た茶色の髪、抜かれて形を整えられた
眉、カールされ、その上マスカラで長
さとボリュームを増したまつげ、チー
クはペールピンクで、口紅はそれより
も濃いピンクだった。その口紅と色を
合わせた両手のつけ爪は、1インチも
あり、指先から突き出ていた。
鏡の中のその姿が、いくらかわいか
ったとしても、そんなことで僕の憂鬱
106/806
が晴れるものではない。
「じゃあ、最後ね」
美容師はそう言うと、備え付けの電
子レンジから平たい容器を取り出し
た。
「スカートを脱いでくれる?」
「えっ?」
何が始まるのかわからず、ホリーを
うかがうように見ると、彼女はうなず
きながら答えた。
「ワックス脱毛よ。もっときちんと脱
毛しといた方がいいでしょ」
そして、後ろの椅子に座るように視
線で示した。
薄っぺらなパンティで冷たい椅子に
腰掛けるのはまだがまんできたが、そ
のワックスの熱さはかなりのものだっ
た。さらに、美容師が固まったそれを
引っぺがした時には、僕は悲鳴を上げ
ていた。
107/806
「これでいいわ。今後2週間は、すべ
すべで、毛のまったくない脚でいられ
るはずよ」
美容師は、自分の仕事の成果を誇る
ように言った。
「あなたはもう、どこに出しても恥ず
かしくない、かわいくて、可憐で、誰
より脚のきれいな女の子よ」
「ほんと。うらやましいわ」
ホリーがからかうような視線を向け
てきた。
「たった1回のワックスでこんなにな
れるなんて、あたしの2年間のホルモ
ンはなんだったの?」
「もう‥‥いい加減にしてよ」
僕は、ぼそぼそと言った。
「もう、戻ろうよ」
部屋に戻るやいなや、僕は、スカー
トとトップスを脱ぎ、壁に投げつけた。
108/806
「見ろよ! いったい、僕をどうした
いんだ!」
そして、さっきから言いたかったこ
とを、大声でぶちまけた。
「この髪、この顔、この脚。これじゃ、
どう見たって‥‥」
「メジャー・リーグ・ベイブ(※)よね」
(※訳注
‘Major League Babe’メジャー・リ
ーガーが恋人にするような超美人)
ホリーは、そうからかってきた。
「あなた、そうとしか見えないわよ」
「ありがとう‥‥って言うとでも思っ
てるのか? クソ! 女の服着せられ
て、女のまねさせられて、その上もう、
すっかりそう見える。もし、このまま
家に帰って仲間と会ったら、やつらが
どう思うか、考えただけで、ぞっとす
る!」
「言ってあげましょうか?」
ホリーは、満面の笑みで言った。
109/806
「女の子にはからきし奥手だったバリ
ーは、あなたを見たとたん、もじもじ
顔を赤くするでしょうね。ジェイクは、
あなたの裸を思い浮かべてニヤニヤす
るはずよ。自信家のトムは、すかさず
ナンパしてくると思うわ。『君こそ運
命の人だ』なんてね。他の連中も、だ
いたい、あなたの想像してるとおりよ」
「‥‥想像? なんで僕が、そんなこ
と想像してるって思うんだ?」
「だって」
ホリーは、また笑いながら言った。
「あなたみたいな美人でかわいい子っ
て、じつはいつだって、男の子たちか
らどう見られてるのか、気にしてるも
のよ。ふふ、『考えただけで、ぞっと
する』とか言っちゃってさ。うそつき」
「じょ、冗談じゃない。僕は男だって
言ってるだろうが」
なんで彼女は、そんな馬鹿なことを
110/806
考えるんだろう? ホルモンのせい
で、脳に副作用でも出てるのか?
頭に来た僕は、彼女の首に手を伸ば
し、絞めようとした。と、その時、廊
下からなんだか騒がしい声が聞こえて
きた。
僕の手からすり抜けたホリーは、ド
アまで走り、そこを開けた。
と、そこには、何人かの女の子たち
‥‥と言っていいのかどうか‥‥が立
っていて、こちらをのぞき込んでいた。
「新しい子が入ったんでしょ? 彼
女?」
一人がきいた。
「ふたりが美容室を出てくるとこを見
た子がいて、すっごいかわいい子だっ
たって言うから‥‥」
もう一人が言った。
「ワ~オ、ほんとだぁ!」
三人目が、僕の体に目を走らせなが
111/806
ら歓声を上げた。
その視線に、僕はやっと、ベッドの
上で裸になっている‥‥いや、ブラと
パンティを身に着けている自分の姿に
気がついた。その恥ずかしさに、あわ
てて毛布をつかみ、胸から下を隠して
いた。
「ふふ、ここには女の子しかいないの
よ」
また別の子が言った。
「女の子どうしなんだもん、恥ずかし
がらなくたっていいわ」
興味津々という顔で迫ってくる女の
子の集団に抗うことなんて、たぶん、
誰にもできないだろう。
僕が何か言う前に、彼女たちは、そ
れぞれ自分の名を口にしながら、部屋
の中になだれ込んできた。
ベッキー、スーザン、メアリー、キ
ャシー、カーラ‥‥、僕はすぐに、誰
112/806
が誰だかわからなくなった。
「何をやって、ここに入れられたの?」
いきなり、きかれた。
「新入生なのに、なんでそんなにかわ
いいの? 経験でもあるの?」
僕が答える前に、次から次へと質問
が浴びせられた。僕自身がいったん、
それを区切って、いくつかの質問にま
とめて答えなければならなかった。
僕を取り囲む女の子たちの関心は、
次第にディテールに入り込み、ハリー
と僕の物語や理科室放火事件につい
て、根掘り葉掘りきいてきた。
彼女たち全員が、ホリーと僕が幼な
じみだということに興味を示した。
「じゃあ、もしかしてあなたが、ホリ
ーの言ってた結婚式の時の男なの?」
一人がきいた。
「でも、ホリーは、あなたがここに来
ないようにって、何度も手紙に書いた
113/806
んでしょ。それなのに、どうして?」
それが、二人目の疑問だった。
「基礎訓練期間が終わったら、早く誰
かとデートしたいでしょ?」
三人目は、ちょっとちがう種類の質
問をしてきた。
「ああ。僕が、その結婚式の時の男だ
よ。たぶん」
僕は照れ笑いしながらそう言って、
そこで、自分の着けているブラとパン
ティを見下ろした。
「ホリーの手紙にそう書いてあったの
はたしかだけど、まさか、こんな格好
させられるとは思ってなかったから
ね。それから、デートしたいのはやま
やまだけど、こんな格好のやつとデー
トしてくれる女の子なんて、まずいな
いんじゃないかな」
「えっ? ちがうわよ。あたしは、男
とデートしたいかってきいたのよ」
114/806
三人目の質問者がそう言った。
「まさか」
僕は、あわてて首を振った。
「相手は、女の子じゃなきゃやだよ」
「忘れたの? あなたが、その女の子
なのよ」
僕にそのことを思い出させ、念を押
すように、一人が言った。
「あなたなら、男がほっとかないはず
よ」
「でも、あんまりたきつけない方がい
いかもね。この子が、男なんか興味な
いって言っててくれた方が、あたした
ちにめぐってくるチャンスは多いって
もんでしょ」
他の一人が、笑いながらつづけた。
「もし、彼女がその気になったら、い
い男がみんななびいて、いきなり男ひ
でりよ」
「ちょ、ちょっと待って。ってことは、
115/806
みんな、いつも男とデートなんかして
るのか?」
僕は、信じられない思いできいた。
「ええ、ボーイフレンドたちは、あた
したちのことを、完全に女の子として
扱ってくれるわ。男の人にぎゅーっと
抱きしめられて『かわいいよ』って言
われるのって、すごくすてきよ。どの
みちあたしたち、ここでは女の子やっ
てなきゃいけないんだから、どうせな
ら、思いっきり楽しんだ方がトクでし
ょ」
僕は、思わず頭を振っていた。これ
は、現実なのか?
「マジで言ってるわけ? だって、こ
の町の男たちは、君たちの正体を知っ
てるんだろ。やつらは、それでも平気
なのか?」
「このグレート・インディアン・リバ
ーって、そういうことに、すごくリベ
116/806
ラルな町なのね。まあ、20年前にこの
学校ができたおかげなんだけど」
ホリーは、そんなふうに説明しはじ
めた。
「それ以来、ここに入っている子の家
族たちが、新しい娘にいつでも会える
ようにって、次々に引っ越してきたの。
それに、この学校を卒業して大学へ行
った人たちも、学校を出たあと、この
町に帰ってくることが多いのね。だか
ら、町全体が、この学校の方針に理解
があるの。たとえば、自分の兄弟とか
息子が、ここの女の子たちとつき合っ
てたって、それをとやかく言う人はい
ないわ。あたしたちが、女の子らしく
振る舞ってるかぎり、町の人たちは、
あたしたちのことを女の子として接し
てくれる。町のモールで女の子として
バイトしてる子もいるし、女物の服な
んかも、みんな、そこで買ってるのよ。
117/806
それに、たいていの子は男の子とデー
トしてるし、特定の彼氏のいる子だっ
て少なくないわ」
「いったん慣れちゃうと、女の子でい
ることって、ほんとに楽しいわよ」
僕の隣にいた子が、興奮気味に言っ
た。
「かわいい女の子のためなら、男って、
たいていのことはしてくれるんだも
ん。あたしたちがしなきゃいけないの
は、きれいでいることと、頼るふりし
て彼を立ててあげることだけ。あたし
たちが甘えれば甘えるほど、男って、
自分は強くて、この子を守ってやって
るんだって気になるのね、きっと。あ
なた、これまで、女の子をデートに誘
う時って、ものすごく不安になったで
しょ。女の子なら、それもないわ。決
定権を握ってるのは、あなたよ。誘っ
てきたのがかっこいい男なら、いっし
118/806
ょに出かければいい。デートの最中、
彼は、あなたの気持ちをつかもうと必
死になるわ。あなたは、ただ、笑いか
けさえすればいいの。食事の支払いか
ら、何から何まで、全部彼がやってく
れるから」
「でも、もちろんあなたにだって、そ
んな彼の努力に対する支払いの義務は
あるけどね」
僕の後ろにいた女の子が、くすっと
笑いながらつけ加えた。
「感謝を込めて、彼のほおにチュッっ
てしてあげるの。もし、彼がほんとに
かっこよくて、デートが楽しかったの
なら、彼の舌が口に入ってくるのくら
いは、許してあげてもいいかな」
他の男の舌が、自分の口に差し込ま
れているというイメージに、僕は胸が
むかつく思いがした。
と、そこで、ホリーと視線が合った。
119/806
彼女は僕に、意味ありげな笑顔を向け
ていた。
‥‥そうか。他の男の舌が、僕の口
の中に入ってきたことは、もう、ある
んだ。その時、僕も、自分の舌を、他
の男の口の中に入れたんだ。
僕は、今日の昼間、この部屋で、ホ
リーとしていたことをなんとか忘れよ
うと、自分の方からホリーに話を振っ
た。
「だけど、ホリー。前、手紙に、ガー
ルフレンドができたって書いて来なか
ったか?」
「そうよ、今ここにいる子たちは、み
んな、あたしの大切なお友だちよ。彼
女たちは、落ち込んでるあたしの話を
聞いてくれて、髪の毛のセットのしか
たとかいろんなことを親切に教えてく
れたわ。最初の頃のつらかった時期を
乗り越えられたのは、みんな、この子
120/806
たちのおかげよ」
ホリーは、他の女の子たちの顔を順
に見ながら言った。
「あの時、あたしが書いたのは、そう
いう意味だったの。たぶん、あなたに
は、伝わらないと思ってたけどね。そ
れに、はっきり書けなかった事情もあ
るんだけどね。更正期間が終わって元
に戻る場合も考えて、ここであたした
ちが女の子になってることは、以前の
知り合いには話しちゃいけないことに
なってるの」
「それは、僕も話さないって誓えるな」
僕は、ちょっと笑いながら十字を切
ってみせた。
「まあ、自慢して話すようなことじゃ
ないわけだし」
「ねえ、ホリー、あなたが彼女のお姉
さん役になったって、ほんと?」
ジェニーという名らしい女の子が、
121/806
ホリーにきいた。
「すごいわ」
「うん、ミセス・ウイリアムズにいろ
んな約束をさせられたけど、無理を言
って頼んだの。フェイスが意地悪な先
輩に当たって、ひどい目に遭うのを見
るのはいやだったから」、
「えっ、彼女、フェイスっていうの?
かわいい名前ね。いいな」
ホリーがさっきメアリーと呼んだ女
の子が言った。
「メアリーなんて、どうしようもなく
平凡でしょ。うちの両親も、あなたの
ママやパパみたいに、もっとかわいい
名前を考えてくれたらよかったのに」
僕は、ここでの女名前も、入所時に
親がつけるらしいことを納得しなが
ら、冗談を言った。
「もし、僕をここから逃がしてくれる
なら、この名前、あげてもいいよ」
122/806
「フェイス、そんなこと、言うもんじ
ゃないわ」
彼女は、急に真剣な顔になって言っ
た。
「捕まって、連れ戻されたあと、どん
な目に遭うか知らないから言えるの
よ」
「だけど、もし、捕まらなかったら?」
僕が強い調子で聞き返すと――
「無理よ、ぜったい」
女の子たち全員が、同時に、声をそ
ろえて同じことを言った。
ホリーは、洗脳なんかしていないと
言ったはずなのに‥‥。
僕は、彼女たちのそんな反応に怖れ
を感じたが、そのことが逆に、僕の決
心を固めさせた。
チャンスをつかみ次第、僕はここを
脱走する。帰ったら、両親が折れるま
で許しを請い、説得するつもりだ。
123/806
やはりやつらは、ハリーをホリーに
変え、その上、彼に、あたかもそれが
自分の意志であるかのように思いこま
せたのだ。やつらがそれを、僕にしか
けて来る前に、逃げ出さなければなら
ない。
女の子たちのおしゃべりはその後も
つづき、彼女たちがそれぞれの部屋へ
戻って行ったのは、夜も更けてからだ
った。それまでに、彼女たちは僕に、
脱走を考えることなどよせと念を押
し、ミセス・ウイリアムズに渡された
ハンドブックをよく読めと約束させ
た。
それに、まだ話し足りないから、今
後、朝食の時は、このグループで集ま
ろうとも約束した。
彼女たちが出て行くと、ホリーはメ
イクを落とす方法を教えてくれ、その
124/806
あと、シルクのパジャマを差し出した。
「ネグリジェは、まだ無理だと思って」
そのパジャマはピンク色で、薄手の
布で作られた袖も、ズボンも、丈が短
い。しかも、袖口や裾まわりが大きな
白いレースで飾られていた。
「まあ、いい方に考えとくよ。ひらひ
らがこの程度なのは、きっと神のご加
護にちがいない」
そのズボンを履きながら、僕は、ぶ
つぶつ文句を言った。
「これなら誰も、僕のことを女の子だ
と思ったりしないって、神様は考えた
んだろうな」
でも、ホリーは、僕の皮肉のあしら
い方をよく知っていた。
「ええ、それは大事なことよね」
彼女は大げさにうなずいてみせた。
「フェイス、もし、男の子とまちがえ
られるのを心配してるなら、あたしが
125/806
着てるこのかわいらしいベビードール
を貸すわよ」
「いつも、いろいろ気を使ってくれて
ありがとう」
パジャマの襟の下に入った長い髪を
外に出しながら、僕も言い返した。
「僕の成長過程は、まだ、トムボーイ
(訳注 おてんば) 段階だからね。でも、
ボーイであるうちは、なんの問題もな
いよ」
「そんなに、くよくよしないで」
ベッドに体をすべり込ませた彼女
も、さらに反撃してきた。
「2週間うちには、あなたのことを男
の子だなんて、誰も言わなくなるわよ。
あなた自身もふくめてね」
ホリーは単にからかっているだけだ
と思いながらも、彼女の最後の言葉が
耳について、僕はその夜、なかなか寝
126/806
つけなかった。
何度も寝返りを打ち、やっと眠りに
落ちると、今度はおかしな夢を見た。
夢の中で僕は、前の学校に戻って、
そこで生活している。なのに、なぜか
みんなからフェイスと呼ばれている。
朝、シャワーのあと、ジーンズをは
いてTシャツを着たつもりなのに、鏡
を見ると、それが、チェックのスカー
トと白いブラウスの女の子の制服に変
わっている。
母さんも親父も、友だちや先生も、
みんな、ずっと僕をフェイスと呼びつ
づけ、女の子のように扱う。
トイレに行きたくなって、学校の廊
下を急ぎ、駆け込もうとドアに手を伸
ばした瞬間、「男子トイレ」のプレー
トが「女子トイレ」に変わる。あわて
てもう片方のドアを見ると、こちらも
「女子」のままだ。けっきょく「女子
127/806
トイレ」に入るしかないのだと覚悟を
決め、思い切ってドアを押す。
そこで僕を迎えたのは、大きな鏡と
棚のついたシンク。小用の便器はもち
ろんない。
しかたなく個室に飛び込んだ僕は、
まるで生まれてからずっとそうしてき
たとでもいうように、ごく自然にスカ
ートをたくし上げ、パンティを下ろす。
「よかった、ここは、まだそのままだ」
座った僕は、股間を見ながらそう思
う。
でも、両脚の間に引っかかっている
のは、ピンクのレースのパンティだ。
朝、シャワーのあとにはいたのは、
白のブリーフだったのに、いつの間に
変わったんだろう?
僕は今朝、まちがいなく、ブリーフ
とジーンズ、Tシャツを着たはずだ。
それなのに今着ているのは、チェック
128/806
のスカートに白のブラウス、レースの
パンティ、それに白いスリップ‥‥こ
の、胸を締め付けてくる感覚からする
と、ブラもつけているようだ。
「なにかが、まちがってる」
個室から出たところで、シンクのコ
ーナーに愛用のリュックを置きなが
ら、僕は首をかしげる。
手を洗って目を上げると、さらに悪
いことが起こっていた。鏡の中にいる
のは、長い髪の女の子。男の子だった
時の黒っぽくて短い髪でなく、ライト
ブラウンの長い髪が揺れる女の子にな
っているのだ。
驚きながら、さっき置いたリュック
に手を伸ばすと、今度はそれが小さな
ピンク色のものに変わっている。かろ
うじてリュックらしいデザインはとど
めているが、これはどう見ても、女の
子たちがハンドバッグとして持つもの
129/806
だ。
でも、それだけではすまなかった。
その時、いきなり背後のドアが開いて、
女の子たちの一群が入って来た。
女子トイレにいたことを、どう言い
逃れしようとおたおたしていると、彼
女たちは、鏡越しに僕に笑いかけて通
り過ぎる。
「ハーイ、フェイス」
そして、何ごともないように個室に
消えて行く。‥‥。
その夜、僕は何度も目覚めた。そし
て、ふたたび眠りにつくと、一時停止
していたビデオが再スタートするよう
に、同じ夢のつづきを見た。
トイレから出た僕は、スカートのし
わを気にしながら、廊下を歩く。
教室に入ると、ごく自然にスカート
の後ろをなでつけながら席に着き、バ
130/806
ッグを傍らに置くと、斜め前の席のか
っこいい男子生徒に笑いかける。
学校にいる間中、クラスメイトたち
は、僕をフェイスと呼び、僕はそれに
ほほえみ返す。
クラスの男たちは、みんな、僕にち
ょっかいを出してきて、僕も、それを
上手にあしらう。
気味悪いことに、そんなふうにしな
がら僕は、男たちが僕のことをかわい
いと思っているのを感じて、密かにそ
のスリルを楽しんでいるのだ。
当然、目覚めたときの気分は最悪だ
った。でも、そんなことは、ホリーに
は口が裂けても言えない。
もしかして、ハリーにだったら話し
たかもしれない。彼は、いつだって信
頼できた。だけど、ホリーはちがう。
もし彼女に、僕が女の子に変わってい
131/806
く夢を見たなどと言えば、彼女は飛び
上がって面白がり、すぐ、友だちのと
ころに行って、言いふらすにちがいな
い。なにしろ彼女たちはみんな、現実
に、僕を女の子にしたがっているのだ
から。
「さあ起きて、お寝坊さん」
僕はまだまどろみの中にいたいの
に、ホリーが呼びかけてきた。
「シャワーを浴びるわよ。髪をセット
して、メイクして、服を着て、90分以
内に朝食に行かなきゃいけないのよ」
「だけど、今日はまだ日曜だろ。休み
じゃないのか」
僕は、なんだか妙に張り切っている
ルームメイトに言った。
「休みは休みよ。でも、日曜の朝食だ
けは全員でとることになってるの。校
則読まなかったの?」
「ゆうべは、読むには気が散りすぎて
132/806
さ」
僕は、ベッドを出て、バスルームに
向かいながらつぶやいた。
「なにしろ、おしゃべりな女の子たち
が、ずーっといっしょにいたんだから」
「朝食のあと、時間をとって、読みな
さいね」
ホリーは、そう言いながら、僕につ
づいてバスルームに入ってきた。
「ちょ、ちょっと。いっしょに使うつ
もりなのか?」
僕は、彼女が目の前にいるのが信じ
られない思いで言った。
「いけない? あたし、あなたが何を
持ってるか、知ってるわよ。あたしと
おんなじでしょ」
「ま、だいたいはね」
僕は、皮肉を込めて、まず、そう言
った。
「だけど君は、女の子じゃなかったの
133/806
か?」
「そうよ。あなたも、でしょ」
「ま、まあ、多少は。もちろん僕自身
は、そのつもりはないけど」
僕は今や、彼女から目をそらし、壁
に向かって話していた。ところが、彼
女の方は、それにおかまいなしにベビ
ードールとパンティを脱いでいき、シ
ャワーを浴びはじめた。
「早くいらっしゃいよ」
彼女はまるで、飲み物でも勧めるよ
うに、シャワーの中から呼びかけた。
「ふたりいっしょの方が手間も省ける
し、お互いの背中も流せるでしょ」
「い、いや、僕は、あとでいいよ」
もし今、シャワーの中に入ったりし
たら、どう隠しても、彼女に恥ずかし
い状態を見られるのははっきりしてい
た。
いったいどういう心境になれば、大
134/806
きなお尻とおっぱいのある昔からの親
友を、冷静に眺められるというのだ。
「ま、好きにして。そうだ。その間に、
あなたが着る服、なにかかわいいのを
選んどいてよ。日曜の朝食は、全員ド
レスアップするのが決まりなの。変な
もの選んじゃダメよ。あなただって、
ミセス・ウイリアムズがご機嫌ななめ
になるのはいやでしょ」
そう、もちろん僕だって、親愛なる
ミセス・ウイリアムズのご機嫌はとっ
ておきたい。脱走したとき、拷問台に
連れ戻されないためにも。まあ、あの
女が推し進める、少年をおとなしい少
女に変えるなんてこと自体が、いちば
んひどい拷問なのだが。
「なにかかわいいの、って言われても
‥‥」
僕は、彼女のおっぱいを見ないよう
にしながらきいた。
135/806
「かわいい妹に、もう少しヒントをく
れないかな‥‥お姉さん」
「そうね、あなたが女の子を見る時、
いちばん気を引かれる服装を思い出し
てみたら」
シャワーの音にかき消されそうにな
りながら、ホリーの声が届いた。
いったい、彼女はわかっているんだ
ろうか? 僕がいちばん気を引かれる
女の子の服装というのは、今の彼女の
状態だということを。
自分のクローゼットを開けた僕は、
そこに吊された服をじっと見つめた。
なにかかわいいもの‥‥あらためて
考えてみると、何をもってかわいいと
いうのか、その手がかりすら持ち合わ
せていなかった。
選ばなければいけないのは、たぶん、
ワンピースか、それとも、スカートと
136/806
トップスの組み合わせなのだろうが‥
‥。
色は? 女の子たちは、靴と服を合
わせるとかいうし‥‥考えれば考える
ほどややこしそうだ。
「もお、子供じゃないんだから、それ
くらいできないの?」
バスルームから出てきたホリーが、
背後で言った。
「きのう、自分で選びたいって言った
のはあなたでしょ。そうね、そのブル
ーのワンピにしたら? それなら、あ
なたの目の色にも合ってるわ。その下
に何を着けたらいいかくらいは、自分
で考えなさい」
僕は、そのワンピースをベッドの上
に広げ、それに合うと思われる無難な
ランジェリー類を選び出した。白のコ
ットンパンティ、ブラ、ハーフスリッ
プ、それに肌色のパンストだ。
137/806
女の子用の下着とかを身につけなけ
ればならないにしても、僕は、ひらひ
らの着いたものや、色つきのもの――
何を思ってるのか、母さんが用意した
ほとんどは、そんなものだった――は
選びたくなかった。
どうやらコットンパンティは2枚し
かないようだから、僕は毎日、下着を
洗わなければならないだろう。それで
も、その方がましだ。
僕がシャワーを浴び戻ってくると、
ホリーは僕を座らせ、髪をセットしは
じめた。
「よく見てるのよ、フェイス。女の子
は、いつも自分をきれいに見せてなき
ゃいけないの。ずっと、あたしがやっ
てあげるわけにはいかないんだから
ね」
クソ、僕は、子供みたいに扱われる
138/806
のは好きじゃない。ましてやこんな、
ちっちゃな女の子みたいに。
逃げ出すチャンスをのんびり待って
いる暇などない気がした。こんなこと
をつづけていたら、僕は、いつの間に
か、どうしたらかわいく見えるかとか、
この服とこの靴は合っているかとか、
そんなことばかり考えるようになって
しまいそうだ。
すぐにでも、こんな状況から脱出す
る方法を見つけたいと思った。
ホリーは、僕の髪をカールし、簡単
なメイクをした。もちろん、美容室で
やってもらった昨日のメイクに比べれ
ば見劣りするものだったが、それでも
僕は、自分の顔にもともと、魅力的な
女の子になる可能性が潜んでいること
に気づかざるを得なかった。たとえ、
それがにせ物にすぎないとしても。
いや、だからこそ、やつらが僕を本
139/806
物に変えてしまうのを、断固阻止しな
ければならないのだ。
「あなたって、ほんとに、化粧映えの
する女の子よね」
自分自身がそう感じていたからこ
そ、ホリーの言葉に反射するように、
僕は叫んでいた。
「そんなふうに言うな! 僕は男だ。
男であることが好きだし、それを捨て
るつもりなんてない。誰も、僕を変え
ることなんてできないんだ。君だって、
それに、あの校長室のババアだって!」
こちらが激昂すれば、ふつうの人間
ならたじろいで会話の方向を変えよう
とするだろう。でも、ホリーは、ふつ
うの人間ではなかったようだ。
「くだらない愚痴を並べる前に、パン
ティをきちんとはくことを覚えなさ
い! フェイス・ジョアンヌ・ジョー
ダン!」
140/806
ホリーは、命令するように言った。
「いい? あたしは、あなたのためを
思って言ってるのよ。はっきり言って、
あなたは、男の子としてはたいした取
り柄もないわ。でも、見てよ。あなた
は、たいていの女の子が夢見てるよう
なものをいっぱい持ってるのよ。肌は
すべすべだし、髪は、カールがよく似
合う。まつげも長くてかわいいわ。あ
なたに似合わない服を探す方が難しい
くらいよ」
「君はほめてるつもりかもしれないけ
ど、そんなこと言われて、男がどれほ
ど傷つくのか、わかってるのか? こ
れまで誰かに、面と向かってそんな侮
辱を受けたことは一度もないね。それ
を平然と言える君という人間を疑う
よ。僕のことを、いつからそんな目で
見てた? だいいち君は、女の子にな
りたいんじゃないのか? 男からも、
141/806
ちゃんと女の子として見られたいんだ
ろ? それなら、男に対して、そんな
失礼な言い方はしない方がいいと思う
けどな」
「安心して。あなたはもう、そういう
対象からははずれてるから」
彼女は、肩をすくめて言った。
「たしかに、あなたと再会するまでは、
いろいろ期待や不安もあったわ。あな
たが、あたしをちゃんと女の子として
認めてくれるかどうか、それに、もし
かしたら、二人の関係が、友情とはち
がう方向に発展しちゃうんじゃないの
かって。きのうキスしたのは、その2
つを確かめたかったからよ。でも、2
つめも心配なかったわ。だって、あた
しは、あなたに何も興奮しなかったん
だもん。つまり、あたしたちの友情は
変わらないってことね。で、女どうし
の親友として言わせてもらえば、さっ
142/806
きからあなたの言ってることは、贅沢
な愚痴にしか聞こえないのよ」
「ああ、僕だって、君に興奮なんてし
なかったさ」
僕は、悔し紛れに口走っていた。
「そうよね」
ホリーは、笑いながら言った。
「あなたは興奮なんてしなかった。た
だ、スカートとパンティを汚しただけ
よね」
「もう黙れ」
僕は、そう言って、話題を変えた。
「遅くなれば、あのドラゴンレディが
探しに来るんじゃないのか。さっさと、
その朝食とやらに行こう」
「ミセス・ウイリアムズは、すごく優
しい人よ。あなたにも、そのうち、わ
かるわ」
いったい、あの魔女は、ホリーにど
んな魔法をかけたのだろう。なにしろ、
143/806
あの悪ガキを、すっかり女の子に変え
てしまったのだ。そうとうな魔力にち
がいない。
ヒールを履いていることで、僕の歩
き方は、スローペースになったし、い
つもとちがうものにもなった。
バランスをとって歩こうとすると、
足を、もうひとつの足の真ん前に出し、
一直線上を進むようにしなければなら
ない。それ自体はさほど難しいことで
はないのだが、そんなふうに足を送る
と、どうしてもお尻が左右にスイング
する。なんだか、一歩ごとに、自分の
体に女の子の感覚が刻まれていくよう
な気がするのだ。きっとこれも、僕を
女の子に変える卑劣な陰謀にちがいな
い。
「いつも、ヒールを履いてなきゃいけ
ないのか?」
144/806
僕は、文句を言った。
「ずっとこんな歩き方しかできないな
んて、最悪だ」
「だからもう、つまんない愚痴はやめ
てよ」
彼女も、そうとういらだっているよ
うに見えた。でも、そんなこと知っち
ゃいない。
彼女がいくら、女の子になることは
すばらしいとか言っても、僕にはまっ
たく理解できない。この靴にしてもな
んにしても、がらくたとしか思えない。
ましてや、女の子らしくほほえみ返す
なんて、ぜったいにいやだ。
「こんな気の狂った場所からは、すぐ
にでも逃げ出してやるさ」
僕は吐き捨てた。彼女が敵意を向け
るなら、こっちだってそうするまでだ。
朝食の席でも、僕らの間には険悪な
145/806
空気がただよいつづけた。
そのせいかどうか、部屋に戻ると、
彼女はどこかへ出かけると言いだし
た。そして、留守の間に、校則をしっ
かり読んでおけと言った。
朝までは(脱走のためにも)彼女に学
校内を案内してもらいたいと思ってい
たのだが、頭に来ていた僕は、彼女が
早く出て行ってくれることを願った。
「ふ、大事なデートってか?」
僕は、いやみを込めて言った。
ホリーは、そんな挑発にはのりたく
ないという感じで、グリーンのリボン
を使って、髪をポニーテールにまとめ、
すました顔で答えた。
「いいえ、お友だち二人と町へ行くだ
けよ。男の子を引っかけにね。いい娘
にしてたら、あなたもそのうち連れて
ったげるわ」
朝食会用のワンピースを脱いだ彼女
146/806
は、腰に張りつくほどタイトな黒のミ
ニスカートに着替えた。
「これで、今日も大漁よ」
そう言ってほほえむと、ショルダー
バッグをかけた彼女は、あ然とする僕
を尻目に、さっさと出て行った。
僕の親友は、自分のことを女の子だ
と思っている。彼は女の子の服を着て、
メイクしている。彼のルックスは、並
みの女の子ではかなわないくらいかわ
いい。彼のキスは、僕が経験したどの
女の子とのキスより、僕を興奮させた。
そして僕は、この狂気の館で、2年
間、女の子として暮らすことを強要さ
れている。このままでいれば、いつの
間にか、僕自身も、自分を女の子だと
思うようになるのだろうか?。
もし、逃げ出すチャンスが見つから
なかったとしたらどうする?
ホリーのように狂ってしまう前に、
147/806
たぶん僕は自殺するだろう。
僕は、ベッドの上でくつろいで――
少なくとも、ワンピースとストッキン
グが許す範囲でくつろいで――、校則
を読み始めた。
服装についての規定は、おおよそホ
リーの言っていたとおりだった。
毎日の学校生活では、全生徒が制服
を着用する。スカートとブラウス、そ
して白のニーソックスだ。下着につい
ての規定もあり、それにふさわしいラ
ンジェリー、つまり、パンティ、ブラ、
スリップを着けることになっていた。
軽い化粧とコロンは許される。髪は華
美にならない程度のセットに心がけ
る。必要以上のアクセサリーは禁止だ。
自由時間については、カジュアルウ
ェアでいいが、グレート・インディア
ン・リバーに来て1ヵ月に満たない生
148/806
徒は、スカートかワンピースに限られ
る。スラックスやジーンズ、ショート
パンツがOKになるのは、その期間を
過ぎてからだ。メイクやアクセサリー
については、各自の判断に任される。
日曜の朝食会のような特別な行事の
際は、ドレスアップした服装をしなけ
ればならない。ワンピースにしても、
スカートとブラウスの組み合わせにし
ても、ドレッシーなものを選ぶことが
決められている。逆に、金曜日につい
ては、授業時間中も制服でなくてよく、
カジュアルウェアの着用が許されてい
る。
衛生の項目も、微に入り細にわたっ
ていた。
すべての生徒は、洗髪やブラッシン
グなど髪の手入れを怠らず、いつも清
潔に保っていなければならない。ヘア
スタイルは決まった形はないが、長い
149/806
髪にする場合は前髪を切り、顔が隠れ
るような髪型はしない。
爪についてもいつも手入れし、マニ
キュアすることが決められていた。エ
ナメルの色や種類の選択は、各自の自
由だ。
また、むだ毛処理についても一項が
設けられていた。周期的な脱毛に心が
け、いつも、余分な体毛のない状態に
しておくことが決められている。
要するに、女の子が日頃やるような
ことについては、すべてやらなければ
いけないということだ。
新入生に魔法をかけるらしい例の1
ヵ月間は、基本的に外出禁止だが、そ
れを過ぎれば、外出簿にサインをする
だけで外出できる。ただし、アルバイ
トの可否や、門限の時間は、それぞれ
の学業成績に応じて段階的に定められ
ている。
150/806
その門限以上にキャンパスを離れた
場合は、脱走と見なされ、連れ戻され
たあと、罰を受ける。そして、成績な
どに応じて与えられていたすべての特
典を、3週間剥奪される。さらに、二
度脱走を繰り返した場合は、直ちに裁
判所に逆送致されることになってい
た。その場合は、あらためて、以前犯
した犯罪に見合った刑が言い渡され、
執行される。
僕は、脱走したあと、親に泣きつけ
ばなんとかなると思っていたのだが、
この逆送致の規定はちょっとやっかい
かもしれない。判事――特に、少年を
こんな学校に送るような判事――を言
いくるめるのは、簡単ではないだろう。
でも、どうにかするしかない。
校則の規定は、他にも、ここでの生
活のあらゆる面におよんでいた。
授業とカリキュラムについて、自由
151/806
時間について、服装について、報奨特
典――たとえば、オリンピックサイズ
のプールの使用特権まで含まれていた
――について、手紙など外部との通信
について、家族の訪問について‥‥。
成績など条件を満たせば、長期休暇
の間、帰郷することも、週末、家族と
いっしょに過ごすことも許されてい
た。
それを読んで、あることに気づいた
僕は、自分は、あの親父や母さんと休
暇を楽しむことなどないだろうと感じ
た。
あることというのは、例の結婚式の
ことだ。
あの時ホリーは、この規定により、
家に帰っていたにちがいない。そして
たぶん、僕の親父や母さんは、そのこ
とを知っていた。あの女の子の正体を
知っていながら、僕には教えず、息子
152/806
が女装した男友だちと恋に落ちるのを
見て笑いものにしたのだ。
脱走のため、この家族休暇の規定は
利用できると思ったが、そうやって家
に帰ったとしても、僕は両親を許すこ
となどできないだろう。
校則を読み終わったところで、僕は
ベッドを出て、あらためてクローゼッ
トの中を調べてみた。
たしかにそこには、あらゆる種類の
女の子用の服が並んでいた。制服らし
いブラウスとスカート、カジュアルな
もの、ドレッシーなもの、そして、そ
のそれぞれに合わせた靴。僕が女の子
として暮らしていく上で必要なもの
は、おおかた揃っているようだった。
ただし、パンツの類は一着もない。広
いクローゼットのどこを探しても、ジ
ーンズなどは見あたらなかった。
153/806
ドレッサーの引き出しの中ももう一
度見てみたが、こっちはもっと悪い。
数多くのパンティ、ストッキング、
ブラ、スリップは、セットで揃えたも
のが多いらしく何系統かの色やデザイ
ンに統一され、そのたいていのものが
レースで満たされていた。
それを確かめながら、不覚にも僕は
興奮していた。男の子にはふつう、こ
んなものを手にする機会はない。同じ
年頃の女の子のアウターについてはあ
る程度知っていたとしても、その下に、
こんなにセクシーなものを隠している
なんて、想像もしていないのだ。
それにしても、この下着類は母さん
が揃えたはずだ。母さんは、女の子と
しての僕に、こんなものを着させたい
のだろうか?
夕方遅くなって、ホリーが帰ってき
154/806
た時、僕はまた下着の引き出しを開け、
その中からなんとか着られそうなもの
をより分けていた。
「ふふ、女の子が、そんなにすごいも
のを着けてるなんて知らなかったでし
ょ」
彼女はからかうように言いながら、
ブラウスのボタンをはずし、スカート
を脱いだ。
「おい、よせよ。恥ずかしくないのか?
そういうことは、もっと見えないと
こでやれよ」
服を脱ぐ姿などを見て僕がどれほど
興奮するか、彼女はわかってるんだろ
うか?
「こっちだって、その‥‥落ち着かな
いだろうが」
「どうして? 子供の頃は、そんなこ
と、なんにも気にしてなかったじゃな
い。お互い下着姿で、いっしょに寝た
155/806
こともあるしさ」
彼女はそう言って肩をすくめると、
スリップを脱ぎ、ブラまではずし始め
た。
「あの頃と今と、なにかちがうの?」
「あの頃、君は男だった」
彼女のブラからこぼれ出てきた胸に
目がいってしまうのを、どうしてもと
められない。
「そうね」
パンティだけの姿で立った彼女が、
くすっと笑ったせいで、胸が揺れた。
「あたしにとって最悪の日々。女の子
になれて、ほんとによかったわ」
そう言いながら自分の引き出しを開
け、かきまわしていた彼女は、そこか
ら、ベビードールタイプのネグリジェ
を取り出した。
そのあと、僕の目の前でパンティま
で脱いで、新しいのと履き替えた彼女
156/806
は、そのネグリジェを頭からかぶった。
体をすべって落ちてきた裾は、やっと
太腿の真ん中くらいまでしかない。
「どう? 似合う?」
ホリーは、実際の年齢とは思えない
色っぽい声と仕草できいてきた。
僕の「やんちゃ坊主」が、またむく
むくと首をもたげていた。
「あ、ああ。気持ち悪いくらいに」
僕は、そんなホリーから目を離せず、
つぶやくように言った。
「だけど、どこからどう見ても、あの
ハリーだとは思えないよな。いったい
どうやったら、気持ちまで、そんなふ
うに変われるのかね」
「それは、あたしが、ほんとに女の子
になったからよ」
彼女はちょっとしんみりした調子で
言った。
「ねえ、フェイス。あなたの旧友のハ
157/806
リーは、もうこの世にはいないの。そ
ろそろそれを、認めてもいいんじゃな
い」
「その前に、正直に答えてくれないか。
それは、僕に対しても計画されてるこ
となのか? 僕もいつかは、ホルモン
を始めて、女の子に変わることになっ
てるのか?」
「あなたに対して決められてることは、
ここで校則に従って2年間過ごすって
こと。それ以外には何もないはずよ、
フェイス。その2年が終われば、フラ
ンクは家に帰れる。そこでは、フェイ
スのことを知ってる人は誰もいない。
それがすべてよ。でも、もしその間に、
あなたが、フランクに戻ることを喜ん
でいない自分を見つけたとしたら、そ
の時はあたしに相談して。それは、軽
はずみに決めちゃいけないことよ。あ
たしも、あなたにとっていちばんいい
158/806
と思える道をいっしょに考えるわ。た
だかわいく見せたいだけなら、べつに
性転換までは必要ないんだしね」
「まあ、あんまり僕に期待しないでほ
しいな。僕は並みのコースだけでじゅ
うぶんだよ」
自分が納得した中身をできるだけ正
確に伝えようと考え、僕は言った。
「まだ何もしてないうちから、そう決
めるのは早いと思うな。あなたが、ミ
セス・ウイリアムズの言ってたような
ものを持ってる男の子なのかどうか‥
‥例の
『シュガー・アンド・スパイス』
ね‥‥そんな子なのかどうかは、今の
ところ、誰にもわからないわ」
「僕は、ちがうさ!」
僕は、強く主張した。
「未だに僕は、自分のことを男だと思
ってるよ。女の子のものを身につける
のが好きになるなんて、これからも、
159/806
絶対ないね」
「じゃ、賭ける?」
ホリーは、いたずらっぽい顔になり、
きいてきた。
「あたしはあなたに、女の子の服を着
るのが好きだって言わせてみせるわ」
その表情は気に入らなかったが、彼
女に馬鹿げた賭けをしたことを悟らせ
る役目は、僕しかいなかった。
「で、僕は何をすればいい?」
「いい娘ね」
彼女は、そう言ってにやりと笑った。
「まずは、今夜、あたしはあなたをか
わいくドレスアップするわ。明日、あ
なたが着ていく制服の下に着ける下着
も選ばせてね。それから、明日の放課
後着る服もあたしが選ぶ。つまりあな
たは、まる一日をフリフリの服で過ご
す。思いっきり女の子っぽい女の子で
あることを受け入れてね。その上であ
160/806
なたが、女の子の服を着ることや、か
わいいって言われることが好きになっ
て、それを楽しんでいるようならあた
しの勝ちよ」
「そんなことなのか? なんかチョロ
い気がする。で、君が負けたら、僕は
何をもらえるんだ?」
「そうね、きのうのキス、なんてど
う?」
ホリーがほほ笑みながら言った。
「新しいパンティを用意しとかなきゃ
ね。で、もし、あたしが勝ったら、あ
なたは、もう1週間、あたしのいうと
おりの服で過ごす。これでどう?」
僕が勝つのは目に見えていた。だか
ら僕は、賭け金をつり上げることにし
た。
「そっちが1週間なら、こっちも1週
間だ。君が負けたら、1週間、毎晩、
僕にお休みなさいのキスをする」
161/806
「マジで? あたし、あなたとキスし
ても、なんにも興奮しないって言った
でしょ」
彼女は顔をしかめて言った。
「それなのに、なんで1週間も、おや
すみのキスをしつづけなきゃいけない
のよ」
「決めるのは君だ。キスがいやなら、
賭けはなし」
僕はニヤニヤ笑いながら言った。ど
うやら主導権は、こっちが握ったよう
だ。
「あたしのキス1週間分は、あなたの
努力1週間分に相当すると思わな
い?」
ホリーは、こちらの抵抗のすべてを
溶かしてしまいそうな笑顔を向けてき
た。
「こういうのはどう? 1日だけじゃ
なく、1週間、あなたはあたしの言う
162/806
とおりに女の子っぽい女の子として過
ごす。それでも、それが好きになれな
いというなら、あたしは、その次の1
週間毎日、お休みなさいのキスと、そ
れにおはようのキスもするわ」
僕は銃を構えたまま「1日だけ」と
いう条件を固守すべきだったかもしれ
ない。でも、彼女の笑顔があまりにか
わいかったのと、例の「やんちゃ坊主」
が、これはいい賭けだとさかんにささ
やきかけてくるので、ついうなずいて
いた。
と、彼女は、僕の同意を熱狂的な歓
迎で迎えた。
「思いっきりかわいくなって、うれし
そうに笑っているあなたのリアクショ
ンが早く見たいわ。あたしの新しい大
親友、ミス・フェイス・ジョーダンの
写真を撮るのが、待ちきれない」
「みじめな女装男の写真が、なんでそ
163/806
んなにほしいのか、よくわからんな」
「みじめなんかじゃないわ。フェイス、
あなたは今、戦いに挑む偉大な勇者よ。
でも、思いっきりかわいく着飾ったあ
なたは、もっとかわいくしてほしいっ
て、あたしにおねだりすることになる
でしょうけどね」
「んな、馬鹿な!」
僕は、のけぞって笑っていた。
と、ホリーは、ドレッサーの引き出
しを開け、その中から何かの瓶を取り
出した。
「さあ、まずはお風呂の時間よ、お嬢
さん」
間もなく僕は、いい匂いの泡に包ま
れ、バスタブの中に座っていた。
「女の子になるための第一歩は、自分
の体をかわいがってあげることよ」
服を選んでいるらしいホリーの声
164/806
が、バスルームの外から届いた。
「いいって言うまで、そこに入ってて
ね」
バスタブのへりに体をもたせかけ、
じつは僕は、その時間ができるだけ長
引けばいいと思っていた。バブルバス
に入るのは、小さい頃以来、ほんとに
久しぶりだ。それが、こんなに気持ち
いいものだということを、僕はすっか
り忘れていた。
そんな気持ちよさに浸っているう
ち、僕はいつの間にか、ホリーのおや
すみのキスを夢見ながら、眠りに落ち
た。
もちろん、ホリーが男であることは
わかっている。でも、僕の脳裏に浮か
ぶホリーの姿は、今やとびきりかわい
い女の子でしかない。あの結婚式の時
の僕に抱かれた姿、きのうのキス、そ
して、さっき見たばかりの形よくはず
165/806
む乳房‥‥。ホリーほどかわいく、女
の子っぽい存在を、とても男だなんて
感じられない。そんなホリーのキスへ
の期待は、僕にハリーのことをすっか
り忘れさせた。
「フェイス、ドレスアップの時間よ」
ホリーの声が、僕を夢から呼び戻し
た。
「あたしが選んだ衣装を、気に入って
くれるといいけど」
立ち上がり、バスタブから出たとこ
ろで目に入ったのは、テーブルの上に
置かれたパンティだった。それをしっ
かり見てしまったことで、せっかくお
風呂でリラックスした気分も、いっぺ
んに憂鬱なものになった。
それは、レース以外の何ものでもな
かった。薄くてピンクのレース、前も
後ろも、ほとんどがそればかりと言っ
166/806
ていい。前の部分に少しだけ、薄い布
があるが、それはほんとに小さい。
「何考えてるんだよ、ホリー」
僕は、バスルームの外に向かって叫
んでいた。
「こんなの、本気で履かせるつもり
か?」
「あら、フェイス。もうタオルを投げ
るの? それを履くのが怖いんでし
ょ。履いたとたん、自分の気持ちが、
すごく女の子っぽくなっちゃうような
気がして」
「そ、そんなことないさ。要するに、
ちょっと慣れないだけさ」
そう言い返したところで、僕は大き
く深呼吸し、そのパンティを取り上げ
て足を通した。とたん、何かが背筋を
駆け上り、それが体全体に広がって僕
は体を震わせていた。
それは、この2日間履いていたコッ
167/806
トンパンティとはあきらかにちがって
いた。見かけも、肌触りも、デザイン
も。
「なにしろ、こんなの履くなんて、考
えたこともなかったから」
さっきまでのパンティは、なにより
機能性を重視したものだった。ふつう
の白で、レースもなく、前が開かない
のをべつにすればブリーフと見なすこ
とだってできた。
でも、今履いているのは、あきらか
に女の子っぽい感覚を持たせることを
目的としてデザインされたものだ。そ
してその効果は、僕自身にもいかんな
く発揮されていた。
いや、もっと正確に言えば、女の子
っぽい感覚というよりもっといけない
感覚‥‥そう、たとえば、とんでもな
い悪さを働いている時にある感じ‥‥
罪の意識を感じているくせに、だから
168/806
こそ、それにワクワクするような、そ
んな感じだった。
ドアについた姿見に映ったお尻が目
に入り、僕は、いつの間にホリーが入
ってきたのかと勘違いした。すべすべ
ですらりとした脚、セクシーなパンテ
ィで縁取られたかわいいお尻‥‥それ
が自分自身のものだと認識する前に、
僕は興奮していた。
思わず片手をお尻に当て、そこをな
で、パンティを通して手とお尻の両方
が感じる感触に我を忘れそうになり、
そこで、もう片方の手も、いつの間に
か前の「やんちゃ坊主」をなでている
のに気がついた。
「あら、もう楽しんでるの?」
ドアの向こうから、まるで僕のして
いることが見えているようなホリーの
声が聞こえた。
「せっかくのパンティなんだから、汚
169/806
さないでね。もう少し、きれいなまま
にしといてほしいんだけど」
彼女は透視能力でもあるんだろう
か?
そう考えたことで、興奮は、とりあ
えず、風船のようにしぼんだ。
それで、腰にタオルを巻きながら、
僕はドアを開けた。
「これじゃ、どう見ても変態だよ」
「そんなことないわ。ふつうよ。そん
なパンティの感触は、女の子なら、誰
でも好きよ」
彼女はそう言いながら、僕のタオル
を、女の子のスタイルに巻き直した。
「女の子は、こうやって、胸から隠す
ものでしょ」
僕は、そこで、ホリーの鏡台のとこ
ろまで連れて行かれ、座らされた。
「あなたは、すごくかわいくなるはず
よ」
170/806
彼女は、何度もそう繰り返しながら、
僕の髪にカーラーを巻いていった。
「あとで、明日、学校でいい子に見え
るようにセットし直すつもりだけど、
まずは、思い切りホットな女の子の髪
にするわね。あなたがすっかりその気
になっちゃうような」
「ねえ、これから僕は、カーラーを巻
いたまま寝ることになるのかな? や
だな。わざわざそんな痛い思いしたく
ないよ」
カーラーを手に取り、髪束の先と合
わせて、それをくるくると巻いてピン
でとめる‥‥彼女は、そのリズムを崩
さず、答えた。
「わざわざじゃないわよ。必要なこと
なの。2年間、女の子でいつづけるた
めには、あなたはどうしてもそれに慣
れなきゃいけないの」
「前にも言ったけど、僕は、チャンス
171/806
さえあれば、ここから逃げ出すつもり
なんだぜ。それがいつになるかはわか
らないけど、2年よりは確実に短いと
思うよ」
「お願いだから、そんなつまんないこ
と考えるのはやめて。あなたは逃げき
れないし、逃げてもなんの得にもなら
ないわ。ここにいることは、あなたが
思ってるほど恐ろしいことじゃないの
よ。そりゃ、最初は、気味が悪い感じ
がするかもしれないけど、すぐ慣れる
わ。逃げて捕まった末に、もう一度裁
判にかけられて刑務所に入れられるよ
りは、ずっといいってこと、すぐにわ
かるはずよ。さっきも言ったけど、時
が来れば、フェイスのことは誰にも知
られずに、フランクに戻れるんだしね」
その口調から、彼女が親身になって
言ってくれているのがわかり、僕はな
んだか、彼女に悪いことをしているよ
172/806
うな気がしてきた。
でも、僕の決心を変えることはでき
ない。
「そんなことより、今は賭けの最中だ
ろ。君が僕に、情熱的なおやすみのキ
スをする姿が目に見えるよ」
「ねえ、ひとつだけ約束して。逃げる
ことを決めたら、私にだけは教えてほ
しいの。その前にもう一度だけ、あな
たを説得するチャンスがほしいから」
「ああ、君には話すことにするよ。で
も、ウイリアムズにチクったら、一生、
許さないからな」
「約束するわ」
ホリーは、その小さな譲歩に満足し
たようで、楽しそうに、僕を女の子に
する作業をつづけた。
髪が終わると、彼女は僕の顔にリキ
ッドのファンデーションを塗り、小さ
なスポンジであちこちに手を入れ、そ
173/806
の上から、さまざまなパウダーやチー
クをのせていった。
「最初の衣装は、ママの結婚式であた
しが着てたパーティドレスにするつも
りよ、フェイス。あなたとあたしは、
サイズもだいたい同じだし、あの色な
らあなたの肌の色にも合うと思うの。
だから、あのドレスに合わせて、ピン
クのチークと、ピーチのアイシャドー
を選んだのよ」
彼女は、次々に手際よく進め、それ
はまるで、僕を等身大のバービーちゃ
んだと思っているかのように楽しそう
だった。
「あなたの髪が、あの時のあたしみた
いにセットできるまで、もう少しかか
るから、その間に、ドレスに合うマニ
キュアに塗り替えるわね。きっとあな
たは、女の子でいることが大好きにな
るわ」
174/806
「いや、そんなことは絶対ないね。だ
いいち僕は、君ほどかわいくなんてな
れないだろうし、女の子にさえ見えな
いよ」
僕は、彼女を地獄に落とすのはいや
だと思いながら言ったのだが、彼女は
逆に成層圏まで舞い上がり、僕の変身
の過程について説明する言葉の間に、
確認の言葉をはさんだ。
「心配しなくていいわよ」
その口調はなんだか、自信と余裕い
っぱいという感じだ。
「もし万が一、あたしが負けたら、ち
ゃんとキスしてあげるから」
「1週間、毎晩」
僕も、彼女がつまらない賭けを挑ん
だことを悟らせるために、取り決めの
細部を確認した。
ホリーは、それには答えず、楽しそ
うな顔で、僕を女の子にするための作
175/806
業に集中していた。
鏡越しにそんな表情を眺めながら、
僕はちょっと首をかしげざるを得なか
った。
負けるとわかっている賭けに、どう
してこれほど一生懸命になれるのだろ
う?
「せっかくメイクしたんだから、気を
つけてね」
僕の頭のカーラーをはずしながら、
ホリーは言った。
「髪を下ろしたらランジェリーを着け
て、最後にドレスを着てもらうわ。そ
の時に、顔をこすってお化粧を台無し
にしないでってこと」
カーラーのはずれた髪が頭を取りま
き、ブラシをかけたところで、ホリー
はニヤニヤ笑いを浮かべて、何かを出
してきた。その両手に、なんだか奇妙
なものがのっている。肌色の、ふたつ
176/806
一組の‥‥。
「えっ? な、なんだ、それ? まる
でおっぱい‥‥みたい‥‥」
「ピンポーン」
ホリーは笑いながら、何かのチュー
ブからねばねばのものをしぼり出し、
そのふたつのおっぱいの裏側に塗って
いった。
「ブレストフォームっていうの。まだ
自分の胸がない頃、あたしが使ってた
ものよ。これから1週間は、あなたの
おっぱいね」
僕の目は、それに釘付けになってい
た。おっぱいが独立して、人の手に持
たれている光景というのは気味悪すぎ
る。
「マ、マジかよ。でも、なんでそんな、
にせ物のおっぱいがいるんだ? これ
までだって、ブラの中にはパッドを入
れてたわけだし」
177/806
ホリーは、それには答えず、胸から
巻いた僕のタオルをはずすと、そこに
ふたつのおっぱいをあて、押しつけた。
「ちょっとの間、自分で押さえててく
れる?」
そう言いながら、彼女は僕の両手を
とり、そこにあてさせた。
「接着剤が肌になじむまで、30秒くら
いはかかるから」
「えっ、接着剤? そんな‥‥。うそ
だろ」
僕は、驚いて言った。
「今も言ったけど、ブラの中にパッド
を入れればすむことじゃないか」
「これが、その理由よ」
彼女は笑いながら、今履いているパ
ンティとおそろいのブラをぶら下げ
た。やはり、全体がレースでできてい
る。
「パッドじゃ、透けて見えちゃうでし
178/806
ょ。よく聞いて、これから、ちゃんと
した着け方を教えるから。全部、自分
でやってみて」
新しくできた乳房から手を離し、僕
は、ホリーの指示に従ってブラを着け
ていった。まず背中側からまわして、
前で両端のホックをとめる。それをぐ
るっとまわして、ふたつのカップが、
乳房の真下に来るように合わせる。そ
れから、カップが乳房を包むように注
意深くストラップを肩にかける。
「そこまで慎重にやらなくてもいいわ
よ」
ホリーが笑いながら言った。
「そのベイビーたちは、剥離剤を使わ
ないかぎり、かんたんにはとれないか
ら。胸の重みに早く慣れてね」
僕は、鏡の中の自分から目をそらそ
うとした。でも、ブラとパンティ以外
なにも着けない姿で、僕をじっと見返
179/806
してくるその小悪魔から視線をはずす
ことなど、できるわけがなかった。
もちろん、そんなことは口には出さ
なかったが、ホリーが僕に施したその
魔法に、僕はドキドキしていた。
目はパッチリと印象的で、ほおはす
べすべとなめらか。言ってみれば、夏
の太陽の下でいっときを過ごす、ビー
チでいちばん目立つ女の子というタイ
プなのだ。
その唇は、いかにもキスされるのを
待っているように見える。そして、ブ
ラからのぞくふたつの胸は、男の舌に、
そこを旅することを夢見させるもの
だ。
僕は内心、ホリーにもうここでやめ
てくれと頼みたい気分になっていた。
もし、彼女がこれ以上、僕をかわいく
していったら、僕は、男としてのアイ
デンティティに疑問を持ち始めるにち
180/806
がいない。そうなれば当然、彼女はさ
らに、僕を女の子にしていこうとする
だろう。そして、そうなれば僕は、彼
女からのダブルデートの誘いに、簡単
にのってしまいそうだ。
もしかすると僕は、何回かのキスの
ために、とんでもない罠にはまったの
かもしれない。
と、ホリーが、僕の肩を軽く揺すっ
た。
「しっかりして、フェイス。まだ終わ
ってないのよ。これを腰に巻いて、と
めてくれる?」
まだぼーっとしながら、僕は、ホリ
ーから渡されたものを見た。
それは、ブラやパンティーとそろい
のレースでできていて、一見パンティ
のようにも見えるが股の部分はなく、
数本のストラップが垂れ下がってい
た。
181/806
「ストッキングを履くためのガーター
ベルトね」
僕の顔に浮かぶ混乱がわかったのだ
ろう。ホリーはわざわざ説明した。
「ストラップは、パンティの下に通し
てね」
「でも‥‥、パンストをこれにとめる
の?」
言われたとおり、ストラップをパン
ティの下に通しながら、僕はきいた。
「女の子のくせに、お馬鹿さんね。パ
ンストのわけないでしょ。これよ」
そう言うと彼女は、脚の部分だけの
パンスト(?)を取り上げた。
「シルクのストッキング。薄くて、す
べすべで、女の子であることを神に感
謝したくなるはずよ」
おどおどとそのストッキングを受け
取った僕は、彼女の指示に従って、く
るくると丸めたそれに足先を入れ、脚
182/806
の肌の上に慎重に伸ばしていった。
そして、ガーターベルトのストラップ
にそれをとめた。
両脚を履き終わったあと、僕は、立
ってそれを見下ろした。そこには、女
の子にしか感じたことのないセクシー
さを持つ脚があった。履いていること
さえわからないほど薄い繊維で包まれ
たその脚は、すべすべと形よく、魅惑
的だった。
「片手で足首を軽く握って、そこから
そーっと上げてきてごらんなさい」
ホリーが、ちょっとからかうように
言った。
「気が狂いそうになるから」
彼女が何を狙っているのかがわから
ないまま、僕はまた、まんまと彼女の
罠にはまっていた。
その手が腿に達するまでに、僕は、
完全に勃起していた。
183/806
「どう? いい感触でしょ? あなた
は女の子でいることがきっと好きにな
るって、あたし、言わなかったっけ?」
「べ、べつに、女の子の格好してるこ
とが好きなわけじゃないよ。ストッキ
ングの感触がたまらなかっただけで。
よ、要するに、素材の問題だろ。僕自
身がそれを履いてるかどうかじゃなく
て」
「なるほど。ま、今は、そういうこと
にしといてあげるわ」
彼女は笑いながら言った。
「どっちにしても、週末には答えが出
るわけだしね」
例のパーティドレスで完全にドレス
アップした僕の姿は、本当にホリーの
妹のようだった。
鏡の中の自分自身を見ているはずな
のに、それが女の子にしか見えないと
184/806
いうのは、奇妙な感覚だ。顔のつくり
そのものは、たしかになじみがあるの
に、それが、どう見ても男の顔には見
えないのだ。だいいち、ドレスのネッ
クラインからおっぱいがのぞいている
男の子なんて、どこを探してもいない
だろう。
いろんなアングルから見るために、
僕をゆっくりターンさせながら、ホリ
ーは惜しみない称賛の言葉を浴びせて
きた。
「すごいわ、フェイス! そのドレス、
あたしより似合ってるくらい!」
うれしそうなその声は、叫びに近か
った。
彼女の言うことはまちがいない。僕
は、それを否定できなかった。
今の僕は、どこから見ても彼女の妹
だ。それは恐ろしいほどの真実だった。
もしかして、男の子は、長い髪とメ
185/806
イクと、女物の服を受け入れさえすれ
ば、簡単に女の子になれるということ
なのだろうか?
「両手をお尻の後ろで組んで、ちょっ
と首をかしげてみて」
ホリーが言った。
さっきから、命令されることに慣れ
てしまっていた僕は、すぐに彼女の言
ったとおりにした。
と、そこで、フラッシュが光った。
見ると、彼女はデジタルカメラを掲げ、
こちらに向けていた。
それに気づき、僕は、いきなりパニ
ックに陥った。
「や、やめろよ。写真を撮っていいな
んて、言ってないだろ。もし、誰かに
見られたら、なんて思われるか」
「なんて思うわけ?」
ホリーは、肩をすくめてそう言うと、
カメラの液晶画面を僕に見せた。
186/806
「これを、フランク・ジョーダンだと
思う人は、まずいないと思うな。誰が
どう見ても、きれいなドレスを着た美
少女でしょ」
その小さな窓を見つめ、僕は、ホリ
ーの見解を否定しようとしたのだが、
それは無駄な試みだった。そこにいる
のは、まぎれもなく、ダンスパーティ
のためにドレスアップした魅力的な女
の子なのだ。
この女の子から実際の僕を想像でき
る人間は、この地球上に一人もいない
にちがいない。
そう思ったことが、僕を狂わせた!
僕は、カメラを構えるホリーに言わ
れるままに、さまざまなポーズをとっ
ていた。
誰も僕だと気づかないんなら、べつ
に何をやったっていいじゃないか。
ホリーはいかにも楽しそうで、途中、
187/806
二度もほおにキスしてくれたりしたの
で、僕もすっかりいい気持ちになり、
女の子気分で彼女に協力していた。
やさしく無垢な表情で、純情な女の
子のカットを何枚か。次には、スカー
トの裾を持ち上げてちょっと脚を見せ
たり、ネックラインをずらして胸をの
ぞかせたり、そんなセクシーショット
を何枚か。‥‥。
「イエーイ。すごいわ。あなたの秘密
をもっと見せて」
ブラックドレスを着た僕がセクシー
なポーズをとると、ホリーはさらに煽
った。
「そう、こっちに向かって、もっと『い
けない女の子』の顔をして」
頭を前に傾けた僕は、真っ赤な口紅
の唇をすぼめ、そこに人差し指をあて
て、上目遣いにカメラを見た。
188/806
「うーん、その目、すごーく色っぽい。
すてきよ」
ホリーもノリノリで、僕も、まるで
グラビアモデルかなにかにでもなった
気になり、完全に別の世界に入り込ん
でいた。
気楽に話せそうな近所の女の子タイ
プ、男のだれもが気を引かれるちょい
ワル美人‥‥僕であることがわからな
いかぎり、写真の中で、僕はどんな女
の子にもなれた。
ホリーも、それにワクワクしている
ようだ。上手にやれば、また、キスの
ご褒美だってもらえるかもしれない。
「あ~、このドレスが、あたしをもっ
とセクシーにする~」
ブラがのぞく挑発的な赤いベルベッ
ト・ドレスを着た僕は、ついに歌い出
していた。
189/806
ホリーの方も、デジタルカメラをハ
ンディカムに持ち替え、僕のパフォー
マンスを撮りつづけている。
「あ~、あたしはセクシー・ウーマン」
そのドレスを、足もとへと滑り落と
し、黒いレースのブラをあらわにしな
がら、それに見合ったかすれ声で、僕
は歌った。
ホリーはこらえられないように笑
い、ベッドに倒れて転げ回った。
「あなたって、すごいわ」
僕がドレスをクローゼットに戻し、
ランジェリーを脱いでいる間、ホリー
は何度もそう言った。
「ねえ、もう、1週間も待つこともな
いでしょ。あなたが、女の子でいるの
が好きだってことを認めちゃいなさい
よ。これだけかわいくってきれいで、
どの服も完璧に似合うんだもん。拒否
190/806
する理由なんてないんじゃない?」
「言わせてもらうけど、今のはジョー
クみたいなもんさ。まあ、僕もノッて
たのは認めるよ。でもそれは、君がキ
スしてくれたからやっただけ。べつに
女装そのものを楽しんでたわけじゃな
い。女の子になりきるなんてことは、
やっぱり好きになれないよ。それは、
これからもずっと変わらないと思う
な」
ハリーなら、これで納得させられた
のだろう。でも、ホリーでは、そうは
いかないようだ。
「まだそう言い張るわけね。ま、いい
わ」
彼女は、まるで僕の本心を知ってい
るとでもいうようにくすくす笑った。
「今夜は、とりあえず、ここまでにし
ときましょ。もう寝る時間だし」
「ナイトウェアも、君の言うとおりに
191/806
しなきゃいけないんだよね」
その言葉に、彼女がにんまりするの
を見て、僕は賭けをしたことを後悔し
はじめていた。
彼女が引き出しから出してきたの
は、思ったとおり、ベビードールタイ
プのネグリジェと、そろいのパンティ
だった。しかも、フリルでいっぱいだ。
「またあ。そんなの、やだよ」
「ううん、これを、着るのよ」
彼女は、小さい子を諭すような言い
方で言った。
「いい娘だから、言うとおりになさい」
「もう一回キスしてくれたら、言うこ
ときいてもいいけど」
と、にっこり笑いながら近づいてき
たホリーは、僕のあごに手をかけてち
ょっと持ち上げた上で、おでこにチュ
ッとキスした。
「そういう意味じゃ、ないよぉ」
192/806
僕は、ついつい甘え声で言っていた。
「ふふ、かわいい子ね」
彼女は笑いながら、そのネグリジェ
を差し出した。
「さあ、女の子なんだから、寝る前に
しなきゃいけないことが、いろいろあ
るでしょ」
メイクを落とし、もう一度カーラー
で髪をセットされたあと、僕は、ちょ
っと情けない思いでベッドに座った。
ベッドに触れる僕のお尻は、ペール
ピンクのフリルがいっぱいついたパン
ティで覆われている。上半身は、シル
キーでネックが大きく開いた、おそろ
いのベビードールだ。レースで縁取ら
れたその裾は、やっとパンティが隠れ
るくらいしかない。
と、ホリーが、口笛を吹いた。
「すてきなおっぱい! これだけホッ
193/806
トな子が、まだ彼氏もいないなんて、
信じられな~い」
「君は、男を傷つけるものの言い方を、
ほんとによく知ってるよ。デートの相
手(dates)に対しても、いつもそんな
ふうに自信満々なんだろうね」
僕は、ぐるりと取りまくきついカー
ラーを気にしながら、枕の上に頭をの
せた。
ホリーもベッドに入りながら、ほほ
笑み、ペロリと舌を出した。
「この賭けはあなたの負けだろうけど、
あなたの言ってることは正しいわ。あ
たしは、賭けの期限(a date)に自信を
持ってるもの」
もちろん、彼女が旧友のハリーであ
ることはわかっている。でも、彼女の
ほほ笑みには勝てそうにない。恐ろし
いことだが、僕はやはり、彼女に恋し
てるようだ。
194/806
カーラーの痛さに耐え、なんとか眠
りにつくことはできたものの、たいし
た睡眠時間もとれないうちに、僕はラ
ジオの音で起こされた。
「まだ6時半じゃないか。なんでこん
な時間にタイマーをセットしたんだ
よ」
僕は、はっきりしない頭で抗議した。
「学校が始まるのは8時なんだろ。教
室までは、歩いて5分もかからないん
だし。いい子だから、7時半にセット
し直してよ」
「男の子なら、7時半に起きて8時の
授業に間に合うわ。でも、あたしたち
は男の子じゃないのよ。忘れたの?
髪の毛をセットして、メイクして、そ
れから、7時15分過ぎには、この前の
女の子たちとカフェテリアで落ち合う
約束よ」
195/806
「ふー、あのおしゃべりが、毎朝、ず
っと続くわけね」
そう言いながら、僕はパンティで包
まれたお尻をもぞもぞと動かし、起き
あがった。
‥‥あっ、神様! お尻でサテンが
こすれるとき、僕はヨルダン(Jordan)
を渡ります。
自分がそんなふうに感じたのに驚
き、僕、ジョーダン(Jordan)は、ハッ
と目覚めた。(※)
(※訳注
聖書の『出エジプト記』では、ヨル
ダン川の向こうに「約束の地」があるとされる
主人公の姓と綴りが同じ)
起き出した僕は、とぼとぼとバスル
ームへと入り、小用を足した。
ゆうべ、あんなファッションショー
を経験しているというのに、両腿の間
にからみつくフリルだらけのパンティ
196/806
や、その向こうにかいま見えるペディ
キュアされた爪には、やはりどぎまぎ
する。
‥‥いや、わざわざきかなくてもい
い。その前に白状しよう。腿にかかっ
たパンティや足の指が目に入っている
ということは、僕は、座った姿勢でお
しっこしているということだ。
僕はもうすでに、これが習慣になっ
ていた。もし、立ってしていようもの
なら、ノックが習慣になっていないら
しいホリーが入ってきた時、また、ぶ
ちぶち言われるからだ。
「どう? よく眠れた?」
ほら、やっぱりホリーは、ノックな
しで入ってきた。
こちらの方がそれに文句を言いたい
のはやまやまだが、そんなことを言え
ば今度は、「だって、女の子どうしで
しょ」とかいう言葉が返ってくるのも
197/806
目に見えていた。
たしかに、彼女は今や女の子かもし
れないし、じつは僕も、そう思いたが
っているところがある。でも、僕自身
はそうじゃない。そんな言葉を聞くの
は耐えられないのだ。
「あんまりよくは眠れなかったけど、
カーラーに枕をどうあてたらいいのか
だけはわかったよ」
歯を磨きはじめたホリーに、僕は愚
痴った。
神よ、歯磨きとともに揺れる彼女の
胸から目が離せない僕をお許しくださ
い。
「それにしても、これは、毎晩、がま
んしなきゃいけないことなのかな?」
「そうでもないわよ。たとえば、親に
ねだって、ホットカーラーを買っても
らえばいいわ。もっと短い時間でセッ
トができるはずよ。それとも、思い切
198/806
って、パーマをかけるとかね」
「パーマ? それって、パーマネント
の短いのだよね?」(※)
わかっているが、きいておかなけれ
ばならない。
(※訳注
短縮形であるという意味と、‘parman
ent’=「永遠」より短いという両方の意味で
きいている)
「そうね、パーマネントって言っても、
実際には永遠じゃないわね。かければ、
スタイリングも簡単になるし、型くず
れもしなくなるけど、もつのはだいた
い2ヵ月くらいかな。どっちにしても、
あなたがここにいる期間よりは、ずっ
と短いわ」
「すごい、僕は女の子の服に縛りつけ
られるだけじゃないんだ。最後は、シ
ャーリー・テンプル(※)みたいになっ
ちゃうわけだ」
(※訳注
1930年代のアメリカ映画の名子役
199/806
髪はくりんくりんの天然パーマ)
「馬鹿ね、なんにも知らないのね」
ホリーは、そう言って笑った。
「スタイルもウエーブの大きさも望み
どおりの形にできるわよ。あたしも結
婚式の前にかけたけど、あたし、シャ
ーリー・テンプルに見えた?」
たしかに、あの夜のホリーは、シャ
ーリー・テンプルより数段魅力的だっ
た。
カーラーで痛む頭皮をなでながら、
僕は、一度試してみようかと思った。
‥‥えっ、何考えている? 女装で
過ごしたこの悲惨な2日間のせいで、
僕は、女の子のように考えはじめてる
のか?
そう思い、あわてて頭から手を離し
た。
「まあ、いいや。自分でなんとかする
よ」
200/806
僕はぶっきらぼうに言った。
「これ以上、女の子っぽいものの中に
首を突っ込みたくないからさ」
「何を逃げてるのよ。ここにいるかぎ
り、逃げられないのは、もうわかって
るでしょ」
彼女も、僕と同じくらいぶっきらぼ
うに反論した。
「逃げてれば、けっきょくは、自分が
たいへんな思いをするだけよ」
これ以上口論しても無駄だろう。こ
んな言い争いは、いつも、僕がこの状
況の中に縛られていることがはっきり
するだけで、僕自身が落ち込む結果に
しかならない。
僕は肩をすくめ、自分の歯を磨いて
から、ホリーが僕の制服を準備してく
れるのをおとなしく待った。
グレーのプリーツスカート、白のブ
201/806
ラウス、えび茶色のジャケット、ロー
ヒールの黒いローファー、そして、白
のニーソックスという制服は、いかに
も「女学校」らしい清純さだった。で
も、その下に着けるためにホリーが選
んだ下着類からは、彼女の意図が見て
取れた――白いサテンのパンティは腿
のまわりをレースで取りまき、ブラも、
ウエディングドレスなみにレースが使
われていた。
「1週間は、あたしの選んだ服を着る
のよね」
彼女は、楽しそうに確認した。
「そして、あたしの妹は、女の子その
ものになる」
僕は、そのパンティに足を通しなが
ら、ホリーの目の前で勃起しないこと
を祈った。次のブラは、僕のにせ物の
おっぱいをしっかり支えてくれる感じ
で、着け心地は悪くなかった。僕がき
202/806
のう学んだことを覚えていて、手助け
なしでそれを着けたことを、ホリーは
喜んだようだ。
「これは、スカートがまとわりつくの
を防いでくれるわ」
ホリーはそう説明しながら、裾の部
分を数インチのレースで取りまいた白
いハーフスリップを手渡した。
僕は、ゆうべのファッションショー
ですでにスリップを着ていたから、迷
うこともなくすぐに身につけ、ソック
スを履くために椅子に座った。
ただ、そこで、スリップがパンティ
の上をなでた。どうやら、その時の僕
の反応を、ホリーにしっかり見られた
ようだ。
「ふふ、その感触、好きなんでしょ?」
彼女はくすっと笑った。
「今、体がぴくんと震えたもんね」
「さ、さあ、なんのことだか」
203/806
僕はそれを無視しようとした。でも、
それはあえなく失敗した。冷静に振る
舞おうとしていたにもかかわらず、僕
自身が、スリップの生地を通した肌の
感触が味わいたくて、その上から腿の
あたりをなでていた。そして、ホリー
はそれを、やはりめざとく見た。1000
分の1秒単位の一瞥だった。
「ふふ、どうやらこの町にまた一人、
女の子っぽい女の子が誕生したみたい
ね」
僕が自分のしたことを取り繕ってい
ると、彼女はそう言って笑った。
「今週の終わりまでには、あなたは、
フランクとかなんとかいう男のこと
を、すっかり忘れてるはずよ」
「そ、そんなこと、ないよ」
僕は、ブラウスのボタンをかけ、制
服のスカートを履きながら、虚勢を張
った。
204/806
「体の反応がすべてを表すってわけじ
ゃないだろ。とにかく僕は、オカマの
仲間なんかには、入りたくないんだか
ら」
と、ホリーは、僕の体に腕をまわし
抱いてきた。
「心配しないで。あなたはちゃんと女
の子になれるわ。オカマなんかじゃな
くね」
彼女は勇気づけるとでもいう口調で
言った。
「実際の体がどうであろうと、これか
ら2年間、あなたは、好きなだけ女の
子になっていいのよ。誰もあなたを笑
いはしないし、誰も正体を暴いたりし
ない。それが、グレート・インディア
ン・リバー教の美徳よ(※)。武骨な男
らしさなんて捨てて、リラックスして
楽しむの」
(※訳注
原文は“That's the beauty of Grea
205/806
t Indian River Faith”「グレート・インディ
アン・リバーを代表する美人よ、フェイス」と
も読める)
「たしかに、女の子になりきれば楽し
めるのかもしれないけど」
本当はそのまま抱かれていたかった
のだが、僕は彼女から身を離した。
「残念ながら、僕は、女の子になんか
なりたくないんだ」
「もう一度だけ言うわね、お馬鹿さん。
誰もあなたに、将来にわたって、女の
子になれなんて言ってないのよ。たと
え、あなたが女の子の服を着るのが好
きになったとしても、それは一生女の
子になるってことじゃない。ここでは、
男はみんな女の子の服を着て、女の子
のように振る舞ってるけど、実際に、
私みたいに性転換まで考える人は多く
ないわ」
「もう聞きたくないよ、そんな話」
206/806
僕は、同じようなことばかり言って
いる彼女に、本当にいらだっていた。
毎日毎日、僕は女の子であるべきだと
繰り返されるなんて、もう、うんざり
だ。
ホリーは、その顔に寛容のほほ笑み
を浮かべて言った。
「あたしはちょっと、背中を押してあ
げようと思ってるだけ」
女の子として学校に行くということ
は、多くの新しい習慣を身につけると
いうことだった。
僕は、教科書を胸のあたりに抱えて
歩き、腰掛けるときはいつでもスカー
トの後ろをなでつけた。もちろん、ホ
リーから、何度も、女らしく行動しろ
と言われたからでもあった。
最初、教師から「フェイス」とか「お
嬢さん」とか呼びかけられたときは、
207/806
顔が火照る思いだった。でも、一日の
終わりまでには、それにも慣れていた。
午後の最初の授業で出席をとられた
時、にっこりほほ笑んで手を挙げたの
には、自分自身驚いた。
授業が終わり、ひとり部屋に戻った
ところで、僕はすぐに宿題をやり始め
ていた。他にやることがなかったから
ではあるが、こんなことは初めてだっ
た。
じつはその前に制服を着替えようか
とも思ったのだが、なんだか、このま
までいる方が快適な気がした。それに、
例の賭けでは、僕の着るものを決める
のはホリーということになっているの
だ。勝手に服を選ぶわけにはいかない。
僕は、決めた事は守る人間だ。
いずれにせよ、こんな「女子校」に
閉じこめられ、女の子の制服を着て過
ごすとなると、自由時間と言ったって、
208/806
やれそうなことはほとんどない。だか
らこそ、気が散らないで宿題に集中で
きるのかもしれない。
ホリーが部屋に戻ってきた時までに
は、僕は2教科の宿題をかたづけ、お
まけに、明日の授業すべての予習まで
すませていた。
「あたしたちって、こんなにまじめな
子だったっけ?」
明日の授業の教科書がすでにカバン
の中に揃えられているのを見て、ホリ
ーがからかった。
「うん、なんだか変なんだ。宿題を全
部かたづけて、予習までしちゃったん
だから」
僕はほほ笑みながら、肩をすくめた。
「前にはこんなこと、ぜったいなかっ
たのに。授業も、そんなにむずかしい
感じがしなかったし」
「もしかしてそれは、あなたが初めて、
209/806
ワルであることのプレッシャーから解
放されたからじゃない?」
ホリーは、そうコメントした。
「あたしも、今の方が格段に成績いい
のよね。ずっと勉強好きになってるし」
「ワルであることのプレッシャー」
というのは、変な言い方だと思ったが、
ここにはそんなプレッシャーがないと
いう彼女の見方は、なんだか当たって
いるような気がした。
以前、僕は、授業中にふざけて授業
をめちゃくちゃにしてしまうのが常だ
った。でも、それは、ある種、みんな
が僕に期待する役割を演じていただけ
だった気もする。今日は、女の子の一
人として一日を過ごし、授業中に叫声
を上げたり、板書する教師の背後で紙
飛行機を飛ばしたりということを、誰
からも期待されてはいなかった。その
代わり、先生のいうことに集中し、そ
210/806
のおかげで、授業の内容にも興味を持
てたのだ。
「うん、それ、あたってる気がする。
今日は、本当にどの授業も面白かった
もん」
僕が肩をすくめると、ホリーは驚い
た顔で見た。
「授業に集中してたから、着てるもの
のこともあんまり気にならなかったん
だ」
「女の子の格好してるのを忘れてたっ
ていうこと?」
彼女はさらに驚いたようにきいた。
「まあ、席を立って、教室を移動する
時以外はね」
僕は、口の中でもぐもぐ言った。顔
がちょっと火照った。
「動くと、どうしても、スリップとか
のせいであそこが‥‥。それで授業中
は、そのことを忘れるためにも、じっ
211/806
と集中してたんだ」
「そういえば、あたしがここに来たば
っかりの時も、おんなじ思いをしたわ」
彼女は、同情するように笑った。
「ストッキングで脚を組めるようにな
るまで待って。それだったら、一気に
イケるから」
その言葉に僕らは笑い合い、そこか
ら、ホリーがここに来た当時の話にな
った。どうやら彼女も、今の僕と同じ
ような問題を抱えていたらしい。
そんな話をしながら、僕は、制服の
スカートとブラウスをクローゼットに
掛け、パンストを履き、それから、ネ
ックラインをラッフルで飾ったライト
ブルーのワンピースを着た。そのあと
ホリーは、白いハイヒールを用意して
くれ、メイク直しもしてくれた。
「うん、悪くないわね。じゃあ、かわ
いい妹に、学校の中を案内してあげよ
212/806
うかな? 行かない?」
ホリーとともに外に出かけるか、そ
れとも、ひとり部屋の中で退屈な時間
を過ごすか、そのどちらかを選ばなけ
ればならないということだろう。
もう宿題も全部終わっているし‥
‥、だけど、制服以外の女の子の服で
部屋を出て行くのは何だか恥ずかしい
し‥‥。
「これだけおめかししてるんだもん、
どこかに行きたいってことでしょ」
ホリーは、そうからかってきた。
「だけど、それには、もうワンアイテ
ム必要よね」
「ワンアイテム? ワンピースは着て
るし、メイクやマニキュアもしてるし、
髪もきれいにしてるし、他に何がいる
の?」
ホリーは、にっこり笑うと、青いリ
ボンを取り出し、僕の髪をポニーテー
213/806
ルにまとめてくれた。
鏡で見たその姿は、前の学校の女の
子たちが、なにか特別の日にしていた
服装と同じだった。
「どう? 気に入った?」
ホリーは、鏡に見入る僕にきいた。
なんと答えたらいいんだろう?
正直、この格好が好きなのかきらい
なのか、よくわからない。
だだ、この服装が体に伝えてくる感
覚は、ふわふわと軽い。ワンピースを
着、ブラとスリップを着け、パンスト
とパンティを履いているのに、肌をく
すぐるそんな感覚が、体自体を軽く感
じさせるのだ。それは、たしかに心地
よかった。
ホリーはすでに、僕がスリップとパ
ンティがこすれる感触を楽しんでいた
のを知っている。それ以外の衣服を気
持ちいいと感じることを話したところ
214/806
で、今さら、さほどのちがいもないだ
ろう。
僕は、思い切って飛んでみることに
した。あとは、彼女が僕のことをわか
ってくれる友人であることを願うのみ
だ。
「うん」
僕は、彼女に笑い返し、ポニーテー
ルが揺れる感触を確かめながら、うな
ずいた。
「これ、すごく、かわいい‥‥気がす
る」
とたん、ホリーは、僕をきつくハグ
し、ほっぺたにキスしてきた。
「女の子ね、フェイス」
その声は、うれしそうに弾んでいた。
「そうよね。女の子でいたいんなら、
こんな服が似合う子がいちばんよね」
「い、いや、まだ、そこまでは‥‥」
「あら、またいつもの文句? そんな
215/806
ことばっかり言ってると、愚痴をひと
つ言うごとに、約束のキスを1回ずつ
減らしちゃうわよ。あなたが勝ったら
って話だけど」
「い、言わないよ。約束する」
僕は肩をすくめた。
「もちろん、勝つのはこっちなんだか
ら」
彼女がそう思っていないのは、僕に
もよくわかった。でも、彼女が反論し
てくる前に、ドアをノックする音が響
き、会話は中断した。
ホリーは、ほほ笑んでドアを開けた。
入ってきたのはあの女‥‥ドラゴン
レディ‥‥ミセス・ウイリアムズだっ
た。
僕は、とたんに緊張した。
「こんばんは、お嬢さんたち」
そう言って彼女はほほ笑んだ。彼女
の微笑を見たのは、最初の日以来二度
216/806
目だが、やはり微笑という感じはしな
い。
「二人とも、今夜はすごくかわいいで
すよ」
「ありがとうございます、ミセス・ウ
イリアムズ」
ホリーはにっこり笑ってそう言い、
僕をつついた。
「あ、は、はい。ありがとう‥‥とい
うか‥‥」
「ホリー、あなたはフェイスのビッグ
シスターとしてすばらしい働きをして
いますね。私は非常に感銘を受けてい
ます」
ミセス・ウイリアムズは、プライド
が高そうな姿勢を崩さず言った。
そして、僕の方を向いて、ふたたび
微笑した。
「さっき、あなたの授業を受け持った
先生方と話しました。彼らは、彼らの
217/806
新しい生徒についてほめていました
よ。私も、それを聞いてとても喜んで
います。私は、あなたがここにうまく
適応できるかどうか、多少心配してい
ました。でも、それは取り越し苦労だ
ったようですね」
「彼女、授業が楽しかったそうです。
‥‥ね、そうでしょ」
ホリーは、今度は、僕がよろめくほ
どつついてきた。
それを見て、ミセス・ウイリアムズ
は思わず声を出して笑った。
「ホリー、彼女は自分で答えられると
思いますよ」
もちろん、僕は答えられたはずだ。
ドラゴンレディのほほ笑みを二度も見
たことで、舌がこわばってさえいなけ
れば。
「えっ、あ、は、はい、た、た、楽し
‥‥かったです」
218/806
僕は、彼女の微笑の方が、しかめ面
より怖かった。すぐにでも、とって食
われそうな気がする。たぶん彼女は、
こちらを油断させて、すきをうかがっ
ているにちがいない。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ、
フェイス。私は、あなたが思っている
ほど、陰険な人間ではないのですから」
「い、いえ、ちょ、ちょっとヒールが
‥‥」
僕はごまかした。
「ヒールに慣れないんで、足が痛くて。
それだけです」
「わかりますよ」
彼女は、またほほ笑んだが、今度の
微笑はちょっと暖かいものに思えた。
「あなたたちの女の子っぽい姿を見て
いるのは、とてもすてきです。これか
らも、今の調子でつづけてくださいね、
ホリー」
219/806
それだけ言って出て行ったミセス・
ウイリアムズを見送ったところで、僕
はささやいた。
「いったいなにかと思ったよ。でも、
思ったよりやさしかったね。まだ、信
用はできないけど‥‥」
「あなたは、わかってないのよ」
レクリエーション・エリアへ向かう
途中、ホリーが言った。
「そのうち、気がつくわ。ミセス・ウ
イリアムズはとても心が広くて思いや
り深い人だって」
レクリエーション・センターは巨大
な施設だった。
バスケットボールのコートやプール
などスポーツ施設の他、ゲームルーム
やビリヤード台まであった。
「ハーイ、フェイス。すてきな服ね」
昼間、授業でいっしょになり、顔だ
220/806
けは覚えている女の子が近づいてき
て、ワンピースをほめてくれた。
「ありがと」
僕は、思わずほほえみ返し、お礼を
言っていた。
「ねえ、ホリーから聞いたんだけど、
ビリヤードが得意なんでしょ。いっし
ょにやらない?」
彼女はビリヤード台を示しながら誘
ってきた。
「ワンピースとヒールでなんて、一度
もしたことないけど‥‥」
僕はビリヤード台に近づきながら、
笑って言った。
「それはそれで、ちょっと新鮮かも」
「今のあなたにとって、女の子の服で
やることは、なんだって新鮮だと思う
わ」
彼女もそう言って笑い、球を打ち始
めた。
221/806
「まあ、すぐに慣れて、新鮮味はなく
なるけどね」
「だけど、やっぱり、そんな簡単には
慣れそうにないみたい」
ヒールのせいでバランスを崩しミス
ショットした僕は、悔し紛れに、そう
言い訳した。
ジルというその新しい友だちは、む
ずかしいショットをいとも簡単に入れ
てみせた。でも――言い訳がましいか
もしれないけれど――、彼女は僕とち
がい、平靴とショートパンツなのだ。
「もっと、ショットに集中しなきゃ。
服のことなんか気にしなくてもいいの
よ。ここでは誰も、あなたの格好をじ
ろじろ見たりしないから。町では、女
の子の服だとどうしても気が散っちゃ
うけどね。デートでビリヤードをやる
時なんて、彼がタフ・ショットを打っ
たあととかに、ビリヤード台の縁にお
222/806
尻をのせて、わざとらしくない程度に
脚を見せたりしなきゃいけないから」
「女の子がそんなつもりでいるなんて、
考えてもみなかったよ」
僕は、首を振りながら笑った。
「何度も言うけど、なにしろ、女の子
の服とヒールで、ビリヤードなんてや
ったことないから」
ジルと僕はすぐにうち解けて、笑い
合い、愉快な時間を過ごした。僕は気
楽にビリヤードを楽しみ、ジルの方は、
スコアが開きすぎないよう、簡単なシ
ョットをわざとミスしてくれていたよ
うだ。
数時間のうちに、僕は、自分が女の
子をやっていることすら忘れていた。
しかし、部屋に戻るとすぐ、ホリー
は、意外な事実を教えてくれた。それ
は、僕の置かれている状況を思い出さ
ざるを得ないものだった。
223/806
「ジルも、親がここに連れてくる前は、
ずいぶんな問題児だったそうよ。学校
をさぼってケンカばかりして、ロサン
ゼルスでいちばん凶暴なストリートギ
ャングの一味に片足突っ込んでたんだ
から」
僕は、ホリーの言葉が信じられなか
った。あのジル‥‥僕とのゲームをつ
づけるために、わざわざミスショット
してくれた女の子‥‥すべての母親が
思い描く理想の娘といってもいい‥‥
あのジルが、そんなふうだったなんて、
とても想像できない。
「それってほんとに、さっきまでいっ
しょにビリヤードをやってたあの子の
ことなんだよね? 彼女は、世界でも
何人もいないくらいやさしい人だと思
うんだけど」
「今度、彼女に聞いてみるといいわ。
3人の男をぶちのめして、病院送りに
224/806
しちゃった話を」
「えっ? だって彼女って‥‥、身長
5フィート(約152センチ)くらいだよ。
暴れん坊のハムスターをやっつけたっ
て話だって信じられないよ」
僕は思わず笑ってしまった。実際、
相手が誰であれ何であれ、あのジルが
戦っているところを想像すること自体
がむずかしかった。
「3人の年上の男の子たちに重傷を負
わせたその暴れん坊の12歳は、じつは、
彼自身の心の中に潜む思いを必死に隠
すために暴れてたらしいのね。女の子
のかわいい服を着てみたいって抑えが
たい気持ちを、誰かに見破られるんじ
ゃないかって、それを恐れてね。ある
時、彼の両親が、彼をカウンセリング
に連れて行った。そこで彼らは、面白
いものを見ることになった。カウンセ
ラーの指導に従って、彼の妹のかわい
225/806
いドレスやペチコートやパンティを身
につけさせたとたん、これまでさんざ
ん手を焼いてきた男の子が、素直でか
わいいレディになっていた。とはいえ、
彼の両親は、もし、近所の人にそんな
姿を見られ冷やかされたら、彼がその
相手を殺しかねないということもよく
わかっていた。そこで両親は、彼が気
兼ねなく女の子でいられるようにっ
て、ここへ連れて来たってわけ」
「ふうん。でも、面白いよね。むかし、
彼から逃げまわってた男の子たちだっ
て、今はきっと、彼女に近づきたくて
必死になるよ」
ホリーの話は、作り話ではないだろ
う。僕がジルに確かめることは簡単だ。
そんなうそをつけば、ホリーは僕の信
頼を失い、ビッグシスターでいること
だってできなくなるのだから。
「だけど、ジルや君みたいな子はそれ
226/806
でいいとして、僕みたいな男の子‥‥
つまり、実際は女の子になりたいわけ
じゃないって子たちは、どうなのか
な? 本当にここを、男として出てい
くの?」
それは、ここの女の子たちを見て、
ずっと持っていた疑問だった。
「去年、ここを卒業した女の子は25人
いるのね」
ホリーは、まずそう説明した。
「そのうち、24人の男が大学へ行った。
つまり、フルタイムの女の子にとどま
ったのは1人だけよ。これまで何度も
言ったでしょ。もし、あなたが望まな
いんなら、ずっと女の子でいつづける
必要なんてないんだって」
「でも、そこが怖いんだ。もし、ここ
にいる間になにかが起きて、本当の女
の子になりたいって気になっちゃった
ら‥‥」
227/806
と、ホリーは僕の隣に座って、僕の
体を抱いてきた。
「それは、あなたが思ってるほど簡単
なことじゃないのよ」
彼女はそう言いながら、僕のほおを
なでるようにした。
「あたしを例にとって話すわね。あた
しが自分は女の子になりたいんだと気
づいたあとも、それが簡単に許された
わけじゃないの。たくさんの心理テス
トと医学検査を受けて、そのすべてを
パスしなければならなかった。2年前
にその決定が下されて、今は性転換手
術を待ってるわけだけど、その決定が
出たあと、あたしは、完全に女の子と
して生きることが義務づけられた。服
装、行動、学校へ行くことや働くこと、
そのすべてにおいてね。それに、かつ
て自分が男だったことを忘れる努力も
必要だった。あたしは今、毎分毎秒、
228/806
1日1日、できるかぎり女の子であろ
うとしてるわ。ホルモンは、あたしを
女の子に見えるようにはしてくれるけ
ど、それだけでどうなるものでもない
の。女の子としてきちんと適合できる
かどうかは、あたしの努力にかかって
るのよ。自分がその気にならなきゃぜ
ったいに無理。本物の女の子になるっ
て事は、他の誰かが力ずくで強制して
できるようなことじゃないわ」
「信じていい?」
僕は、鼻をすすり上げながらきいた。
「ええ、信じて」
彼女は、僕のほおにキスした。
「さあ、そろそろ、寝る前の準備を始
めなきゃね」
僕は、バブルバスがすっかり気に入
ってしまった。
バスタブにもたれ、お湯の中に体を
229/806
浮かせていると、これまで思い煩って
いたことから解放されていく気がす
る。
女の子でいなければいけないのは、
一生ってわけじゃない。いずれここを
出れば男に戻れるのに、なにも今、急
いで逃げ出す必要もない。‥‥。
1時間後、ホリーは僕の肩を揺すり、
起きろと告げた。
「このまま、入ってちゃだめ? もの
すごく気持ちいいんだもん」
僕は、甘えた声で言っていた。
「お願い。明日の朝まで、ここで寝か
せといて」
「ダメよ。寝る前に髪をセットしなき
ゃいけないのよ。この湿気の中に朝ま
でいたら、スタイリングもうまくいか
ないし、すぐ崩れるわ」
その言葉にいやいやバスタブを出た
僕は、バスタオルをとると、何の気な
230/806
しに、それを胸のところから巻いてい
た。
「いいわよ、フェイス」
バスルームを出たところで、ホリー
が手をたたくようにした。
「あなた、女の子ね」
「えっ? あ‥‥、な、なんで、こん
なふうにしちゃったんだろう?」
僕はおどおどつぶやいた。
「なんか、僕、おかしくなってる」
「たぶん、あなたの中でなにかが起き
てるのよ、フェイス」
ホリーは、そう言ってほほ笑みかけ
てきた。
「他の女の子たちを見たり、あなた自
身が人から見られることで、少しずつ、
女らしい仕草や行動が身についてきて
るのね。たとえば、腰掛けるときはス
カートの後ろをなでつけて、座ったあ
とも膝をきちっと揃えてるでしょ。そ
231/806
れは、まわりの女の子たちがそうして
るから。そして、あなたも自分自身そ
の一人だと感じてるから。あなたは他
の女の子たちを見て、どうしたらあん
な髪型になるのかとか、どうやったら
あんな服が着こなせるのかとか、考え
はじめてるんじゃない?」
「そ、そんなこと、考えてないよ‥‥
考えるわけない、だろ。だ、だって、
僕は、男なんだから」
僕は、なんだか自分が壊れていくよ
うな気がした。そして、そのせいで、
急に涙が溢れ出した。
「泣かないで、かわいい子ね」
ベッドで僕の隣に腰掛けた彼女は、
やさしい声でなだめるように言った。
「2年後に、あなたはここからいなく
なる。その時は、スカートのこともヘ
アスタイルのことも、忘れられるのよ」
「で、でも、もし忘れられなかった
232/806
ら?」
僕は、自分が女の子であることが好
きかもしれないという恐れの最も深い
部分をさらけ出しながら泣いていた。
「そしたら僕は、どうなっちゃうの?」
ホリーは、僕のことをきつく抱いて、
頭にキスしてきた。
彼女は僕を、まるで小さい子供のよ
うに扱っていた。でも僕は、それに少
しも腹が立たなかった。逆に、自分が
大切にされているという感覚に、心地
よさを感じていた。
「もし、あなたがそれを忘れられない
とすれば、それは、あなたが忘れるこ
とを望まないからでしょ。その時は、
あなた自身で選べばいいの。たぶん、
疑問の余地なく選べるはずよ。パート
タイムの女の子として、ときどき女装
を楽しむか、それとも、自分らしく生
きるために性転換するか? どっちを
233/806
選んだとしても、あたしは、妹の選択
を心から応援するわ」
ホリーの腕の中で、僕は自分が暖か
くて安全な場所に守られていると感じ
ていた。そして、これはまちがいなく、
彼女が女の子であることの証しだろう
とも思った。
僕は顔を上げ、笑いかけた。
「ホリー、君はきっと、いいママにな
れるね」
「ふふ、それじゃあ、あたしのかわい
い妹に、おやすみ前の準備をしてあげ
ましょうね」
彼女はほほ笑み、もう一度キスして
くれた。
「忘れないでね。賭けはまだ進行中よ。
あたしは、週末までに、あなたを女の
子っぽい女の子にしなきゃいけないん
だから。もう、それだけの時間は必要
ない気もするけどね。あなたが、自分
234/806
は女の子だって言う時が待ちきれない
わ」
僕はまた、そんなことはありえない
と反論しようかと思った。でも、僕の
中のなにかが、それをためらわせた。
ことに、ホリーが白いシルクのベビ
ードールを差し出した時には、僕の信
念は完全に揺らいでいた。そのベビー
ドールは、そで口も裾も数インチのレ
ースで縁取りされ、繊細なピンクのリ
ボンがネックラインに沿った形で通さ
れ蝶々結びされていた。
パンティの方は、さっきまで履いて
いたのと同じサテンだったが、通常の
デザインとはちょっとちがっていた。
上の部分に着けられたゴムバンドから
生地がふくらみ、お尻を丸く包んで、
両脚のつけ根あたりを囲むレースのと
ころですぼまっている。もちろん、お
尻の部分にも、三段のレースのラッフ
235/806
ルがつけられていた。
それを見た瞬間から、僕が、早く着
たいと思ったのを、ホリーは気づいた
ろうか? まあ、奪うように受け取り、
あわててタオルをはずして洗濯かごに
放り込んだんだのだから、バレバレだ
ったにちがいない。
僕は、パンティを履くときにその生
地が脚の肌をすべる感触や、頭からか
ぶったネグリジェが体を下りてくる感
触が好きだ。それは、僕の体の中の神
経繊維1本1本を細かく震わせる!
鏡の前に立った僕は、髪をふわっと
持ち上げ、さまざまなポーズをとって
いた。
「ふふ、自分のことを、ものすごく女
の子っぽい女の子だって感じてるんで
しょ?」
背後から、ホリーがきいてきた。
236/806
振り向いた僕は、照れ笑いした。
「女の子だって感じてるわけじゃない
よ。この感触が好きなだけ。そうさ、
それだけだよ」
「それが、すべての始まりなのよ」
彼女はそう言って笑った。
「次には、かわいいドレスを選んだり
お化粧したりすることが好きになる。
その次はなんだかわかる? 町で、男
たちを狂わすのに心ときめかすように
なるの」
「そんな‥‥、ありえないよ」
僕は、もう一度鏡を見ながら言った。
そこに映る姿に、ちょっとワクワクし
たのはたしかだ。
「今も言ったけど、僕は、こんな服の
感触を気に入ってるんだ。それで終わ
り。それより先には行かないよ」
「ほら、見て、フェイス。あなたは男
の子でいるには、かわいすぎるでしょ。
237/806
あなたの中に、女の子の気持ちが芽生
えてきてるはずよ。あなたは、それを
受け入れるのが怖いだけなんじゃな
い?」
「なにも、怖がってなんかいないよ」
僕はほほ笑みながら、ベビードール
の裾の乱れを直し、きれいなレースが
よく見えるようにした。
「僕がシルクの生地から受ける感触を
楽しんでることは認めるよ。でも、こ
れは、女の子になりたいって気持ちと
はぜったいにちがうよ」
「あたしも、3年前は、そう思ってた
わ」
ホリーは、ほほ笑みながらうなずい
た。
「でも、このごろよく思うのは、どう
せなら、もっと小さい頃から女の子と
して育ちたかったってことね。たとえ
ばね‥‥、ちっちゃな女の子のあたし
238/806
はパフスリーブのかわいいパーティド
レスを着てるの。細いウエストに巻い
たサッシュが背中で大きくリボン結び
されてる。スカートをふくらませてる
ペチコートは、全部シルク製で、1枚
1枚の裾にもシルクのレースが着いて
るのよ。その下に履いたパンティもシ
ルクでラッフルがいっぱい。そこから
出たかわいい脚に履いてるのは、足首
にレースの折り返しがあるソックス
と、ぴかぴかに磨いた小さなバックル
シューズ。ね、かわいいと思わない?」
その言葉に導かれるように、僕の心
の中でもイメージが浮かび上がってい
た。
僕は、キュートで小さな女の子。髪
は、ドレスとおそろいのかわいいリボ
ンで結われ、頭の両側で2本のポニー
テールにまとめられている。
ドレスがうれしくてくるくるまわる
239/806
僕の姿を、ママとパパは、どこか誇ら
しげに見つめている。
スカートがふわっと広がったせい
で、その下から、レースで縁取られた
ペチコートやパンティがのぞく。
なんの罪もない平和な家族写真。そ
の中で僕は、初めてのパーティのため
に着たドレスの、柔らかですべすべし
た感触に幸せを感じて、にっこりとほ
ほ笑んでいる。
僕は、パパのちっちゃな恋人、ママ
の大切な宝物。
‥‥。
僕の顔に、思わずほほ笑みが浮かん
だ。しかし次の瞬間、そんなイメージ
が吹き飛んだ。なんと、僕の例のやん
ちゃ坊主が、むくむくと首をもたげは
じめたのだ。
そしてホリーは、そんな僕の変化を
見逃してはくれなかった。
240/806
「ふふ、どうやら誰かさんは、自分が
女の子だって考えることが好きみた
い」
彼女は、僕のパンティの一部が大き
く出っ張ってくるのを見つめながら、
くすっと笑った。
僕は、そのやんちゃ坊主をもう一度
眠りにつかせようと、必死になにか他
のことを考えようとした。でもホリー
は、僕のそんな思いに気づいたらしく、
ふたたびそのイメージの中に僕を引き
込んだ。
「その誕生日パーティのドレスを買い
に、あたしは、ママといっしょにおめ
かししてお買い物に行ったはずよ。そ
れもきっとすてきだったでしょうね。
あたしは、かわいらしいピンクのパン
ティを履くの。いつも履いてるのとは
ちがう、お出かけ用にとっておいたや
つ。すべすべのナイロンでできてて、
241/806
足の出るところにひらひらのレースが
縫いつけてあるのよ。それがあんまり
すてきだから、あたしはお気に入りの
サンドレスを着ることにしたわ。もの
すごくキュートなストラップのついて
るやつね。折り返しがレースになった
ソックスを履いて、靴は白のメリー・
ジェーン。ちっちゃなバックルがかわ
いくって、前からお友達に自慢してた
の。あたしがずっといい子にしてたか
ら、そのごほうびに、ママが初めて口
紅を塗ってくれたわ。それで町を歩く
と、みんなからお姉さんに見られてる
気がして、ワクワクするのよ」
‥‥クソッ。その話のせいで僕は、
部屋の温度が急に上がったように感じ
ていた。実際、額にビーズのような汗
が浮いていた。
僕は、自分がこれ以上恥ずかしい状
態に陥る前に、逃げ出したいと思って
242/806
いた。それなのにホリーは、ただ言葉
だけで、僕をとりこにしていた。
「マミーとあたしは、家の近くの大き
なデパートに行くの。たしか、ディロ
ンズ(※)って名前よ。そのデパートに
入っていくと、あたしみたいなちっち
ゃい女の子にぴったりの、かわいい服
やかわいい小物がいっぱいあるの。あ
たしは夢中になって駆けていって、夢
のようなドレスをふたつ選ぶの。それ
を試着して出てくると、マミーも店員
さんたちも、なんてかわいいんでしょ
うって言ってくれて、いい子だってほ
めてくれるのよ」
(※訳注
‘Dillons’デパートというより、さ
まざまなインショップが入ったスーパーチェー
ン
小さい女の子なのでそれをデパートだと思
っている)
僕はただおろおろしていた。
パンティに手を伸ばし、そのやんち
243/806
ゃ坊主を楽にしてやりたいという思い
はやまやまなのに、もしそんなことを
すれば、ホリーは飛び上がって喜び、
僕に、自分が女の子だと思うことが好
きだと認めさせるにちがいなかった。
僕はきょろきょろと目を動かし、バ
スルームに駆け込むすきをうかがっ
た。ところが、それを察したらしいホ
リーは、僕とバスルームの間に立って
しまった。
「も、もうやめようよ、ホリー」
許しを請うその声が、苦しみにもが
くようなものになっていた。
僕は、下半身にたまってくるうずき
を解放してやらなければならなかっ
た。でも、バスルームとの間に彼女が
いるかぎり、そのチャンスは得られそ
うにない。
「フェイス、あたし、なにかあなたを
困らせてる?」
244/806
ホリーは、あきらかにおためごかし
にきいてきた。
「ごめんなさい。ちょっと夢中になっ
ちゃったみたいね。自分がちっちゃな
女の子だったって考えるのが、あんま
りすてきだったから。でも、そんなこ
と考えてもしょうがないわね。今のあ
たしにはもう無理なんだから。もっと
前向きにならなきゃね。これからの夢
だったら、いくら持ってもいいでしょ。
どんな女性になりたいかってこと。女
であるってことは、すごくすてきなこ
とよ。自分がセクシーで女らしいって
感じられる、いろんな種類の服が思う
存分着られるのよ。ここへ来た頃、ど
うしてあんなに、女の子であることを
いやがったのか、今考えるとよくわか
らないわ。おろかだったのね。でも、
それは長くはつづかなかった。かわい
い服やセクシーなランジェリーを毎日
245/806
着てると、それがどんどん好きになっ
ていった。だけど、ほんとに、もう男
の子には戻りたくないって思ったの
は、初めてのデートの時ね。男の子の
強い腕があなたの体を包むの。彼は、
あなたがどんなにかわいいか、いっぱ
い言ってくれるはずよ。そのうち彼の
腕があなたを強く引き寄せる。あなた
の唇が彼の唇と触れたとき、この世で
いちばん幸せな感覚があなたの体をつ
つむの」
「あたし」の話だったはずなのに、
その瞬間を語る時は、「あなた」に変
わっていた。僕はそれにつられて、男
からそんなふうにされているイメージ
を心に抱いていた。先に女の子として
育ったイメージができあがっているせ
いか、僕はそれを気味悪いとも感じす、
逆に、興奮をますます募らせていた。
「あたし、結婚する日が来るのが待ち
246/806
どおしくてたまらないの。もう、その
時着るウエディングドレスだって選ん
であるのよ。すごくかわいいの。もち
ろん白で、レースがいっぱい使ってあ
るの。ローカットで肩を大きく出すデ
ザインだから、あたしの白い胸がちょ
っとのぞいてて、それを見たあたしの
新しい旦那様はもうメロメロ。その下
には、前のところもレースになった真
っ白なサテンのパンティを履くの。お
そろいのブラのカップは、あたしの胸
をやさしく包んで持ち上げてくれる
わ。ガーターベルトもおそろいで、や
わらかなレースでできてる。そのスト
ラップにつるのは、もちろん、極薄の
シルクストッキングね」
ホリーは、夢見るような顔でさらに
つづけた。
「あたしは、パパに連れられて、バー
ジンロードを歩いていく。ママは、も
247/806
う涙でぐしょぐしょになって、こんな
にかわいい花嫁は見たことがないって
言ってくれるのよ。通路の先では、彼
が、あたしの花嫁姿をじっと見つめて、
こんなきれいな女性を妻に迎える幸せ
をかみしめてるわ。祭壇の前に並んだ
あたしたちは、永遠の愛を誓い合った
あと、指輪を交換する。それから彼が、
キスするためにあたしのベールをそっ
と持ち上げる。キスする寸前に、彼は
もう一度、あたしをどれほど愛してる
か、どれほどこの日が待ち遠しかった
かをささやくの」
僕はその話を、完全に花嫁の立場で
聞いていた。新郎からキスされる瞬間、
僕の体は震え、それが僕を、さらに緊
迫した状況に導いた。
「式が終わったあと、ホテルの部屋で、
あたしは真っ白なネグリジェに着替え
るの。それはまるで、これを着て育っ
248/806
てきたというほど、あたしの体にぴっ
たり。あたしのセクシーなボディライ
ンが、すべすべしたサテンの中で動く
のが、外からでもよくわかるの。前も
後ろも、ネックラインが深くて、おま
けに両サイドがレースになっているか
ら、どうしても、その下で揺れるあた
しの胸に、彼の視線を惹きつけてしま
う。ベッドの上であたしは、これまで
感じたことのないその幸せな感触が、
ネグリジェのせいなのか、あたしの体
の上を動く彼の手のせいなのか、よく
わからなくなってしまう‥‥」
もう、がまんの限界だった。
僕は、すぐにでもバスルームに駆け
込まなければならなかった。
ところがホリーは、その前に立ちは
だかり、そこをブロックしていた。
「ほら、あなたは、女の子っぽい女の
子でしょ。正直にそう言って」
249/806
彼女は、にやにや笑いを浮かべ、言
った。
「言わなきゃ、ここ、通してあげない
わよ」
「頼むよ、ホリー。僕はどうしてもそ
こに入らなきゃいけない。わかるだ
ろ?」
僕は、泣き出しそうな声でそう言い
ながら、なんとかすり抜けられないか
と必死にすきをうかがった。
「さあ、よくわからないわ。あたしは、
この2年間、勃起なんてしてないもの」
ホリーは、今度はいたずらっぽい笑
顔で言った。
「べつに平気よ。どうせ、もう使わな
いんだし」
「お願いだよ、ホリー。もう許して。
これがどのくらい苦しいか、覚えてな
いわけないだろ」
「あなたの方が、どうすればいいか、
250/806
わかってるでしょ」
これ以上ないくらいの笑顔で、彼女
は言った。
「あたしの思ってるとおりだって正直
に告白すれば、あなたのいけない衝動
を解決できるのにな」
「わ、わかったよ。そ、そうさ、僕は
‥‥あたしは、女の子っぽい女の子、
よ」
僕は、叫びながら、ドアノブに飛び
ついていた。
「思いっきりかわいい服を着て、強く
てハンサムな男の子の前でお尻を振る
のが、待ち遠しくてたまらない、わよ」
「ほら、思った通りね」
彼女は勝ち誇ったように言うと、身
を引き、僕をバスルームに通してくれ
た。
「あなたは、できるだけ早くホルモン
を始めたいって、親に言うべきよ」
251/806
ドアが閉まる途中、親だとかホルモ
ンだとかという言葉が聞こえたが、僕
の下半身は、それどころでないほど切
迫していた。
数分後、パンティを上げ、ネグリジ
ェを直していると、ドアが開き、にこ
にこ顔のホリーが入ってきた。
「あなたは、自分が女の子っぽい女の
子であることを認めた。だから、賭け
はあたしの勝ち。よって、キスはなし
‥‥ってことでいいのね?」
「あんな拷問での結果なんて、ノーカ
ウントだよ」
僕は強く主張した。
「あんなことで、僕がなにかを認めた
とは言えないんじゃないかな」
しかし、そこで僕は、肩をすくめ、
ネグリジェのシルキーな生地をつまん
だ。
252/806
「だけど、こうは言ってもいいよ。僕
が『あたしは女の子っぽい女の子よ』
って言っちゃったのは事実だ。だから
もう、キスはあきらめるよ。でも、そ
の代わり‥‥、このネグリジェ、これ
からも着ていい?」
「ふふ、なんであたしにそんなこと頼
むの? そんな必要ないのに」
彼女は笑いながら言った。
「だって、それ、もともとあなたのだ
もん」
「えっ? 僕の? どういう意味?
こんな女の子っぽいものなんて‥‥。
えっ? もしかして、きのうから僕が
着せられてたのは‥‥」
ホリーは、おかしな視線で僕を見て
いた。まるで、子供から初めて鳥とミ
ツバチのちがいについてきかれた時の
親のような。
「そうよ。あたしのじゃなくて、全部
253/806
あなたのものよ。だって、あなたのマ
マは、あなたが着るための服をずっと
前から準備してたんだもん。あなたの
親たちは、例の理科室放火事件の前か
ら、あなたをここに入れることを考え
てたの。彼らは、もう何ヵ月か前にミ
セス・ウイリアムズと相談して手続き
をとってた。だから、すべての服を買
いそろえて、あの事件より前にここに
送ってたの」
僕は、大きなショックを受けていた。
「じょ、冗談だろ? マジで?」
きいてみたが、彼女の表情がすべて
を物語っていた。その顔は大まじめだ
った。
「つまり、僕が火をつける前から、う
ちの親たちは、僕をここに入れる計画
に燃えてたってわけか?」
僕は、すべてを悪い冗談にしてしま
おうと思ったのだが、彼女はそれに、
254/806
ほほ笑みさえしなかった。
「黙っててごめんね。ほんとは、あん
な事件の前に、あなたのママがちゃん
と話してればよかったんでしょうけど
ね。でも、あなたが素直に言うことき
くとは思えなかった。それで、タイミ
ングを見計らってるときに、あなたは
あんなことをしてしまった。そういう
ことなの」
彼女は、ちょっと同情するような顔
で言った。
「僕が、親にとって手に負えない子供
だったことはたしかだよ。でも、僕は、
まさか、女の子として暮らさなきゃい
けなくなるとは思ってなかった。もし、
両親がここに入れようとしてることを
知ってたなら、僕は、もっとまじめに
なってたかもしれない。いや、たぶん、
まちがいないよ。でも、今はもう、ど
うしようもないってこと?」
255/806
僕は肩を落としてたずねた。
「ええ。だけど、親があなたをここに
入れる手続きを進めてたおかげで、あ
なたは助かったとも言えるのよ。でな
かったら、あなたは刑務所に送られて
いたはずだもん。それに比べれば、2
年間女の子でいることは、けっして悪
い話じゃないわ。あたしなんて、3年
そうしてるわけだしね。あたしはもう、
演じてるわけじゃないけど」
「そ、それにしても、あの放火事件と
は関係なく、僕をここに入れる計画が
されてたなんて‥‥」
僕は、まだ納得できない思いで首を
振った。
「だけど、僕って、そんなにワルだっ
たのかな?」
と、ホリーは苦笑するという感じで
うなずいた。
「あたしのママは、あなたの両親が、
256/806
あなたをなんとかまともにしようとし
て、気が狂う寸前まで努力したって言
ってたわ」
僕は、返事もできないほど驚いてい
た。
僕は、自分が、家族にとってそれほ
どやっかいな存在になっていたことを
なにもわかっていなかった。僕は単に、
自分が楽しいから、いたずらをしてい
るという程度の感覚だった。どうやら、
それが、どれほど現実に悪いことなの
か、ちゃんと理解していなかったよう
だ。
「親を困らせた埋め合わせだけは、し
なきゃいけないみたいだね」
僕は、静かに言った。
「ええ、もう脱走なんて、言っちゃダ
メよ」
「ああ、わかった。ここで暮らすよ」
僕は、一方で親に裏切られたという
257/806
心の痛みとともにつぶやいた。
「こんなめちゃくちゃなこと、うまく
やってける自信はないけど、なんとか
乗り切るよ」
「ねえ、もっと元気を出して」
ホリーは、そう言って僕のほおにキ
スした。
「2年は、一生よりもずっと短いわ」
たぶん、ホリーの言うとおりなのだ
ろう。
でも僕は、この間、彼女にいろいろ
な女の子の服を着せられたことで自分
自身の中に生まれてしまったものが怖
かった。
これまで僕は、たとえば母さんの服
を着てみたいなどと思ったことは一度
もなかった。それなのに、たったこの
3日間で、ホリーは僕を、女の子っぽ
い女の子でいるためにはどうしたらい
258/806
いかなどと考える人間に変えてしまっ
たのだ。
たしかに、僕の中のなにかが、シル
クの服を着るたびに喜びにふるえてい
た。その肌触りが好きだったし、たと
え恥ずかしいと思っても、それを拒絶
することはできなかった。
ホリーは僕を、等身大のバービー人
形のように扱い、僕はそれにワクワク
していた。ホリーから、柔らかくてす
べすべのものを渡されるたびに、僕の
鼓動は高鳴り、僕の手は震えた。
そして、彼女の言うがままに、自分
が女の子でいるのが好きだということ
を受け入れてしまった。
しかし、もちろんそれは、大きな問
題をはらんでいる。
僕は、そんなかわいい服が着られな
くなった時、いったいどうするのだろ
う? 果たして、ふつうの男に戻れる
259/806
のだろうか?
たった3日で、シンデレラ志願者に
なってしまったのだ。その上、この先
2年間、女の子を演じつづけるのだ。
その2年が終わった時、僕はいったい、
どんな人間になっているのだろう?
ドレスを着た男を恋人にしたいなど
と思う女性は、どこにもいないだろう。
一方で僕は、男とつき合う気など毛頭
ない。
この狂った3日間は、僕の人生を台
無しにしてしまったのかもしれない。
‥‥いや、待てよ。
よく考えてみれば、僕がきれいなこ
とを、けっしていやがらず、むしろ喜
んでくれる女の子が一人いるじゃない
か。
僕が気にしていたことなど、彼女の
ちょっとした欠陥に過ぎない。彼女は、
きれいで、かわいくて、僕がこれまで
260/806
知り合ったすべての人の中で、最も気
の合う人物だ。幼なじみの大親友であ
ることは、障害どころか、むしろ大き
な利点だろう。
そう考えてしまえば、僕がしなけれ
ばいけないことはただひとつ。彼女に
もっと気に入ってもらって、彼女が僕
に恋するように仕向けることだ。僕が
歩くバービードールになることさえが
まんすれば、彼女は僕の最高の恋人に
なるはずだ。
翌朝、僕は、なんとかアラームが鳴
る前に起きることに成功した。
歯を磨いている時、ふと気がつくと、
バスルームのドアについた姿見に、僕
自身のすてきな姿が映っていた。
歯磨きを終えた僕は、姿見の前に立
ち、ほほ笑んでみた。そして、短いネ
グリジェの裾をやさしくつまみ、それ
261/806
を前後に揺すってみた。
サテンのネグリジェと脚の素肌がふ
れあう微妙な感触が、僕の全身を駆け
めぐった。
そんなふうに鏡を見つめながら裾を
揺すっているうち、この2年間が、僕
の人生にとって、かけがえのないもの
になるかもしれないという確信のよう
なものが湧いてきた。
洗顔を終え、バスルームを出た僕は、
今日身につけるものを自分で選ぼうと
考えた。
引き出しを開けた時、僕はまるで、
クリスマスツリーの下に並べられたプ
レゼントを見ている小さな子供のよう
な気分になった。こうして見ると、ど
れもこれもかわいいものばかりで、迷
ってしまう。
最終的に選んだのは、女の子向けだ
262/806
けれど、ボクサーパンツのような形を
したものだった。ふつうのパンティよ
り丈が長く、腿のまわりをきれいなレ
ースがぐるっと取りまいている。信じ
られないほど軽くてデリケート、それ
に、見た瞬間に履きたいと思うほどか
わいかった。
僕は、ホリーを起こさないよう、そ
っとネグリジェを脱ぎ、パンティを履
き替え、ブラを着け、その上から、サ
テンのアンダーシャツのようなものを
着て、それとお揃いらしい薄いペチコ
ートを履いた。
こんなすてきなものを身につけるこ
とを嫌っていたのは、いったいどこの
誰なんだろう? 自分の体に手を這わ
せながら、僕はそれを、不思議にさえ
思った。
それらは、軽くて、ソフトで、もの
すごくかわいい。下着そのものもだけ
263/806
れど、それを着けた僕自身がかわいい
と思えるのだ。
「ねえ、一日中寝てるつもり?」
僕は、ホリーに向かって、大きな声
で呼びかけた。
「ゆうべはカーラーせずに寝たから、
僕の髪をやるのに時間がかかるんじゃ
なかったの? それなのに、そんな大
いびきなんかかいて」
とたん、枕が空を切り、僕の顔めが
けて飛んできた。僕はそれをあやうく
よけながら言った。
「とても朝型人間とは言えない僕が、
もう起きてるのに」
そして、彼女の上にかがみ込んでさ
さやいた。
「どう? かわいい?」
「‥‥ん? あなたが、あたしより先
に起きてる? しかも、フリフリの下
着なんか着て? その上、なんだかル
264/806
ンルンで‥‥」
ぶつぶつ言っていたホリーは、うな
った。
「うーむ。世界は一挙に、新時代に突
入?」
「ねえ、かわいい妹のことをほめてく
れないの?」
僕はからかいながら、下着姿がしっ
かり見えるように、くるっとまわって
みせた。
「引き出しの中から、自分で選んだん
だよ」
「それは、タップ・パンツっていうの
よ。そのキャミソールもペチコートも、
全部、自分で着たの?」
彼女はやっと目覚めたようで、起き
あがりながらくすっと笑った。
「すごい。そんなのが好きだなんて、
あなたってけっきょく、ものすごく女
の子っぽい女の子なんじゃない」
265/806
「キスはもうあきらめたけど、そのぶ
ん、こんなにかわいくなれたから、い
いことにしたの」
「ほんとに、かわいいわ! だけど、
本気? フランクは、どこに行っちゃ
ったの?」
「フランクはね、ちょっとの間、休み
をとりたいって。だから、中で寝てて
もらうことにしたの。僕‥‥あたしの
名前は、フェイス‥‥よ」
僕はそう言いながら、ペチコートの
裾をなでつけて腰掛け、ニーソックス
を履いた。と、持ち上げた腿の上をサ
テンのペチコートが滑り、僕は思わず
震えていた。
今日もきっと、授業に集中できるに
ちがいない。
ホリーが僕の髪を仕上げ、すてきな
緑のリボンを結ぶまで、心配したほど
266/806
の時間はかからなかった。
でも、その作業の間ずっと、彼女は、
僕が新たに発見した「かわいくなりた
い」という願望を拡大するための会話
をつづけた。
「これが、あたしにとってどれほどす
ごいことか、あなた、わかってる?」
僕の髪にカーラーを巻きながら、彼
女は興奮気味に言った。
「たしかに、この痛みはすごいよね」
僕は、髪を引っ張るカーラーに顔を
しかめながら答えた。
「だけど、かわいくなれるんだもん、
がまんする‥‥わ」
「ふふ、全部、姉さんに任せなさい。
思いっきりかわいくしてあげるから」
ホリーは、ほほ笑みながら、さらに
カーラーを巻いていった。
「いつか二人で、ダブル・ウエディン
グができるかもね」
267/806
ダブル・ウエディングは、もちろん、
僕がめざしているものとはちがう。
僕がめざすウエディングは、ゆうべ
僕を苦しめた、ホリーの将来の夢だ。
そこですてきなウエディングドレスを
着るのは、当然、夢の持ち主。僕はや
っぱり、タキシードがいい。
「ホリーならきっと、かわいい花嫁さ
んになれる‥‥わね」
僕は、女性どうしが話している時、
よく耳にする言葉を選んで言ってみ
た。
「ふふ、その言葉づかい、すてきよ」
彼女は、くすくす笑いながら、そう
言った。
「もし、あなたが、ほんとにパスした
いと思うなら、女の子らしい言葉づか
いは大事よ」
「えっ? 女の子らしく話せば、試験
をパスできるってこと?」
268/806
それは、なんだか奇妙な判定基準だ
と思えた。でも、ここでならあるのか
もしれない。なにしろここでは、みん
な女の子の服を着て、女の子を演じて
いるのだから。
「バカね、ちがうわよ」
ホリーはくすくす笑いをつづけなが
ら、僕のカーラーをとめるために、何
本かのクリップをまとめてとった。
「女の子としてパスできるっていうの
は、みんなが、あなたを女の子として
認めてくれるってこと。あなたが本物
の女の子のように振る舞い通せば、み
んなだって自然に、あなたのことを女
の子だと思えるでしょ」
「わかった。そうする‥‥わ」
鏡の中に現れた、頭いっぱいにカー
ラーを巻いた姿に似合うよう、僕はか
わいらしく肩をすくめてみせた。
だけど、本当に、彼女の言うところ
269/806
のパスができるようになるのだろう
か?
これまで僕は、人に対して、自分を
自分以外のものに見せる努力なんて、
したことがない。だけど‥‥いや、だ
からこそ、自分を‥‥。
「それは、たしかに大事なこと‥‥ね。
ぼ‥‥あたしだって、男の子だなんて、
思われたくないもん」
「ふふ、まあ、そんなにに心配するこ
ともないと思うけどね」
彼女は、クリップを口にくわえてい
るせいで、ちょっともごもごと言った。
「もうかなり前から、あなたを男の子
だって間違える人はいなくなってるは
ずよ。だって、こんなにかわいいんだ
もん。あなたも、それほど苦労するこ
とないわよ」
喜んでいいのか悲しむべきか、これ
をどう思えばいいんだろう?
270/806
ホリーは僕を、かわいいと思ってい
る。
正確に言えば、これは、女の子がボ
ーイフレンドに抱く感情とはちがうだ
ろう。
でも僕には、それを修正することは
できそうにない。
たとえば今、このカーラーを全部引
っぺがして、男の子の服を探すことは
できるかもしれない。でも、その結果
は‥‥。
だいいち、この学校のどこを探して
も、男物の服なんて見つけられないだ
ろう。それに今や僕は、あのかわいい
ベビードールとかパンティとかを手放
したくないとすら思っている。
男の子をかわいくてきれいな女の子
に変えるというここのやり方に拘束さ
れ、その上今や、僕自身が、それを進
んでやろうとしているのだ。
271/806
けっきょく今の僕にできることは、
にっこりほほ笑んで座っていることだ
けだった。その間にホリーは、僕の顔
にメイクし、カーラーをはずした。
そして、彼女がすべての作業を終え
た時、そこにいたのは、登校の準備を
終えた、ひとりのティーンエージャー
の女の子だった。
あまりにも簡単にこの学校に適応し
ていくことに、僕自身が驚いていた。
当初、僕は、ぜったいに屈服しない
つもりだったし、自分から進んで女の
子の服を着ることなどないと思ってい
た。もちろん、誰にも、僕のことを女
の子として扱わせるつもりはなかっ
た。
ところが、2日後にはもう、僕は、
制服のよく似合う女子高生になってい
た。プリーツスカート、白いブラウス、
272/806
ニーソックス、サドルシューズ、その
下には、ふつうの男の子ならぜったい
に着ようとはしない下着までつけてい
る。
僕は先生の言うことをよくきき、授
業をぶちこわすようなことはなかっ
た。それどころか、僕は、授業を楽し
んでいた。
何日かの間に、僕にはたくさんの女
友だちができた。そのうち、いちばん
の友だちを、僕は愛してさえいた。
そう。それは、まちがいなく愛だっ
た。
まぎれもなく、完全に、狂わんばか
りに、深遠に、いついかなる時も‥‥
それは、愛と呼べるものだ。
その、僕の理想の女の子は、最高の
女性だった。かわいくて、やさしくて、
頭がよくて、美人‥‥男が女の子に求
273/806
めるものすべてを持っていた。
彼女にとっても僕は最高の友だちだ
った。でも、友だちでしかなかった。
それは、彼女が子供たった頃から今ま
で、ずっと変わらないことだ。
ある時僕らは、毎日いっしょに暮ら
すことになった。
そこで僕の――片思いの――恋人
は、僕に行儀よくしろと言い、その上、
女の子でいろという。
その結果、ホリーを愛していること
と、セクシーな下着を愛していること
は、僕にとってほとんど同じことにな
っていった。
話を戻そう。
僕が、非常にまじめな女学生として、
授業にもまじめに臨んでいたことはた
しかだが、誰よりも僕自身が驚いたの
は、その2週間のうちに行われたいく
274/806
つかの小テストすべてで、僕が「A」
評価を受けたことだった。
当初、僕は、とらなければいけない
授業の中に「化学」と「幾何」がある
のを見つけ、おぞけを震ったのだが、
やがて信じられないことが起きた。僕
は、それらの授業が楽しみでしかたな
くなっている自分を発見したのだ。
授業中、僕はしっかりノートをとり、
先生の話に集中し、宿題が出ると、す
すんでそれに取り組むようになってい
た。
その結果、さほどの時間も経たない
うちに、僕は、勉強のことで、他の生
徒の相談を受けるまでになった。
僕にとってこれは、なんだか夢を見
ているような感じだった。
以前の僕は、学校なんて、ただ時間
をつぶすだけの場所だと思っていた。
授業は苦痛だったし、もし僕が宿題な
275/806
んかやって行こうものなら、教師はシ
ョック死したにちがいなかった。
ところがここでは、以前の学校の誰
もが僕にはついていけるはずもないと
言うようなむずかしい授業をとり、し
かも、そのすべてで「A」をとってい
た。
僕は授業が好きだったし、宿題すら
面白かった。テストも、なんの苦痛も
なくこなせるようになっていた。
中でもいちばんうれしかったのは、
そんな僕に対するホリーの反応だっ
た。
僕が中間テストの成績を見せると、
彼女は飛び上がって喜び、僕に抱きつ
き、部屋中をダンスしだした。二人で
笑い合って踊っているうち、彼女は何
度も、僕のほおにキスしてくれた。
「ねえ、ホリー。あたし、こんな成績
276/806
とったんだから、もっとちゃんとした
キスをしてくれてもいいんじゃな
い?」
ホリーはこれだけ喜んでくれている
のだから、僕は、それをねだってもい
いだろうと思った。ところが‥‥。
「ごめんね、フェイス。あたし、女の
子とキスするつもりはないわ」
彼女はなんのためらいもなくそう言
いきり、僕の希望を砕いた。
「だけど、例の賭けで、もしあたしが
勝ってたら、あなたはキスしなきゃい
けなかったのよ」
「もし、あなたが勝ったなら、その時
あなたは、女の子じゃないってことに
なるわけでしょ」
彼女はそう説明したあと、つけ加え
た。
「あの1週間で、あたしが証明したか
ったのは、あなたが女の子であること
277/806
を好きかどうかだけじゃなかったの
よ。あなたが『お砂糖とスパイスとす
てきなものすべて』でできているかど
うか、つまり、女の子っぽい女の子か
どうかを確かめたかったの。けっきょ
く、1週間もかからなかったけどね。
たった3日で、あなたは、学校に行く
ために、サテンとレースでいっぱいの
キャミソールや、ブラやパンティを、
自分から着けてたわ。『シュガー・ア
ンド・スパイス』そのものでしょ。ね、
フェイス」
クソっ! 記憶力のいいやつなん
て、大っきらいだ! ‥‥いや、大好
きだけど。
とはいえ、この、ワルからプリンセ
スへの劇的な変身を忘れてくれという
方が、どだい無理かもしれない。だっ
て僕は今、ロングスカートに明るいピ
ンクのノースリーブ、それにヒールの
278/806
高いサンダルという姿で彼女の前に立
っているのだから。
髪は、かわいいフレンチブレード
(※) に結っているし、マニキュアや口
紅も明るいピンクで、トップスとのコ
ーディネイトも完璧だ。もっと白状す
れば、僕の首筋からは香水の香りが立
ちのぼっているし、かわいいゴールド
のループイヤリングだって、とても言
い訳はできない。
(※訳注
後頭部の上の方からバックの髪全体
を1本に結う大きな三つ編み)
「だけど、あたしがこんなふうになっ
たのは、あなたのせいでしょ」
僕に対する罪悪感からでもいいか
ら、彼女がキスしてくれないかと思い、
言ってみた。
「あなたと再会するまで、あたしはご
くふつうの男だったのよ。あのベビー
ドールを着せられるまでは、自分から
279/806
女装してみようなんて、考えもしなか
ったんだから」
「へえ、あたしがあなたの頭にピスト
ルを突きつけて、脅迫したとでもいう
わけ?」
彼女はそうからかってきた。
「あなたの引き出しには、コットンの
パジャマだってあったわ。あたしにノ
ーと言い張ることだってできたはず
よ。でも、そうしないだろうと思った
わ。あなたの中に女の子が隠れてる気
がしたから。結果は、そのとおりだっ
たじゃない」
「どっちにしても、あたしを罠にかけ
たのはたしかでしょ。そのおわびとし
て、キスしてくれてもいいんじゃな
い?」
「ほお、罠にかけた? よく言うわね」
彼女は、声を出して笑った。
「あたしはほんのちょっとエサを仕掛
280/806
けただけよ。それにすぐ食いついたの
は、あなたの方でしょ。その上、この
ごろじゃあ、その先まで食べ尽くして
るみたいだし。その髪型は、いったい
誰に教えてもらったのかしら? その
メイクはどう? あたしがあなたにメ
イクしてあげたのは、最初の1週間だ
けよ。もちろん、いろんなシャドーを
ブレンドして使うなんてワザ、教えた
覚えはないわ。あなたが、他の女の子
の部屋に集まって、熱心にヘアやメイ
クのやりっこしてるの、知らないとで
も思った?」
そこまでバレていては、やっぱり、
もう、キスはあきらめるしかない。こ
れもまた、言い訳の立たないことだっ
た。
かわいい下着を着けるのが好きにな
ったのと同じように、いつの間にか僕
は、髪をいじるのも、お化粧するのも
281/806
大好きになっていた。
あれは、ホリーが町に出かけた晩だ
った。手持ちぶさただった僕は、なに
か読む本でも探そうと図書館をぶらぶ
らしていた。そこで、ヘアケアとメイ
クについて書いた本を何冊か見つけ、
ぱらぱらとめくってみた。そこには、
その時まで僕がしていたのとはちがう
ヘアスタイルがいくつも載っていて、
やり方が詳しく書かれていた。
放課後は暇だったし、僕にもできそ
うな気がしたので、僕はそれらの本を
借り出し、いろいろ試してみることに
した。そして、1日か2日後には、そ
れに夢中になっていた。
エレガントなフレンチブレイドから
エンジェルウイング(※)まで、僕は今、
たいていのヘアスタイルが自分ででき
る。
282/806
(※訳注
日本では「ツインテール」と呼ばれ
る、頭の両サイドをポニーテールにする髪型)
何人かの他の女の子を誘って、彼女
たちを実験台にして試させてもらった
りもした。かなりのショートヘアでも
かわいくて印象的にまとめる僕のスタ
イリングに、みんな喜んでくれた。す
ぐに僕は、女の子たちが大事なデート
に出かける時や実家に帰る時、髪型の
相談を受けるようになった。
メイクの方は、いわば、ヘアスタイ
ルへの関心に付随してうまくなったよ
うなものだ。
どうやら僕は、もともと色とかに対
するセンスのようなものを持っていた
らしい。図書館でいっしょに借りてき
たメイクの本を一晩かけて最初から最
後まで読んだだけで、アーティスティ
ックなメイクを仕上げるコツをつかん
でいた。
283/806
そして、僕自身が、そのスキルの歩
く広告塔になったようで、女の子たち
の間で評判が立った。僕が新たに開発
したその才能を求め、もっと女らしく
て印象的になりたいのにブルーのアイ
シャドーをつけることしか知らない女
の子たちが、僕のところにいろいろき
きに来るようになっていた。
「やっぱり、キスはダメ?」
僕は、上目づかいにホリーを見て、
彼女の心の中の氷山をなんとか溶かせ
ないかと試みた。
「ちょっとするだけでも?」
その言葉に、彼女は何秒間か僕の顔
を見つめたあと、ほほ笑んだ。
そのほほ笑みには、覚えがあった。
あれは、僕を女の子っぽい女の子に
するための賭けを持ちかけた時だ。ど
うもこれは、よくない兆候だ。
284/806
「ちょっとだけなら、してもいいかな」
彼女は、いたずらっぽい目で見てき
た。
「それには、ちょっとだけ条件がある
んだけどね」
ほら来た。もちろん、条件はあるの
だろう。ホリーがなにかを持ちかける
時は、いつだって条件つきなのだから。
彼女の数回のキス欲しさに、僕は、
ふわふわしたフリルでいっぱいの存在
に変えられてしまった。それはまあ、
彼女ばかりでなく僕にも予想外の幸せ
をもたらした。
でも、ふわふわしたフリルでいっぱ
いの存在になった今、彼女はこれ以上、
どんな条件をつけてくるのだろう?
「あなた、ここに来てから、まだ一度
も、親と連絡をとってないでしょ」
彼女はにっこりとほほ笑みながら、
「ちょっと外宇宙まで旅行してくれ
285/806
る?」とでもいう決断を迫ってきた。
これがいつものホリーのスタイル
だ。いわば、典型的な女の子のやり口
だった。
かつての僕の親友は
「その缶ソーダ、
ひと口だけ飲ませてくれよ」という以
上のややこしい要求はしてこなかっ
た。それが、この3年の間に180度変
わってしまった。そして今、彼女は、
気まぐれにも、僕に、天と地をひっく
り返せと言ってきているわけだ。
いちばん悪いのは、彼女が、自分の
頼んだことなら僕が断るはずがないと
信じていることだった。要求さえすれ
ば、そのあと彼女は、ただほほ笑んで
いればいいのだ。
たしかに、彼女がキスを約束するな
ら、僕は、疑いもなく、一瞬の躊躇も
なく、なんでも言うことをきくだろう。
そして、僕がそう思っているだけでな
286/806
く、彼女自身にもそれがよくわかって
いるのだ。
‥‥で、僕はどうする?
僕のルームメイトは、世界一の美人
だ。かわいくて、賢くて、面白くて、
いっしょにいることが楽しい。彼女は
僕のことを、あれこれ気にかけてもく
れる。だから‥‥。
いや、わかってる。それは彼女にと
って、いわば姉妹愛でしかないのだ。
そして僕は、このジェンダーのトワイ
ライトゾーンで罠にはまっている存在
だ。それでも‥‥。
「あたしは、ここに入れられたことに
ついては、まだ親を許してないのよ」
僕は、できるだけ感情的にならない
よう、静かな口調に心がけた。
「女の子として生活することを受け入
れることは、けっしてかんたんなこと
じゃなかった。それを内緒にしたまま
287/806
ここに入れたんだから、ひどい親だと
思ってるわ」
「それはちがうわよ、フェイス。ひど
いのはあなたでしょ。たとえ、親が先
に計画してたんだとしても、あなたは、
他の誰でもなく、あなた自身がしたこ
とでここに入れられたのよ。理科室に
放火したのは、あなたの親じゃない。
あなたでしょ。変なわだかまりは捨て
て、まずは、そのことを親に謝るべき
じゃない?」
「それは、そのとおりよ。いちばんひ
どいのは、あたしよ」
僕は、しかたなく認めた。
「でも、どうしてここじゃなきゃいけ
ないの? あの人たちがあたしを追い
払ってここに入れようとしてたってい
うのは、あたしを嫌ってたってことで
しょ。現実のあたしを殺して、別の人
間に作りかえようとしたってことじゃ
288/806
ないの?」
「あなたの両親は、あなたを落ち着か
せたいと思ってたでしょうし、馬鹿な
ことをやめておとなしくなってほしい
と思ってたでしょうね。でも、すぐに
ここに入れたわけじゃない。あの放火
事件まで、二人とも迷ってたのよ。な
のに、あなたはあんなことをしてしま
った。考えてもみて。あの事件、実際
には理科室が燃えただけだったけど、
もし火事が学校の外へ広がってたらど
うなったと思う? 何軒の家が焼けた
かわからないし、何人の人が着の身着
のままで焼け出されたかわからない
わ。けが人や死人だって出たかもしれ
ない。あなたがしたのは、そういうこ
となのよ」
おお、神よ、もしかして彼女は、こ
れまで、それがわかっていながら、僕
が罪悪感に落ち込むのを防いでいてく
289/806
れていたのですね。
僕が面白がってやったことは、学校
の近くに住む家族を悲惨な目に遭わせ
た可能性もあったのだ。誰かに重傷を
負わせるようなことになっていたかも
しれない。
それなのに僕は、消防車がサイレン
を鳴らし、緊急灯を点滅させて飛んで
きた末、火元が小さな発煙筒だったの
を発見するということくらいしか想像
していなかった。
消火しようとした人がけがをする可
能性や、それ以上に、火事が手に負え
なくなって、多くのものや人が失われ
る可能性には、まったく考えがおよば
なかった。
僕は、ホリーの目がまともに見られ
なかった。
「あたし、馬鹿だった。どうしようも
ないほど馬鹿だったのね。親に嫌われ
290/806
ても、しょうがないってことね」
と、ホリーが、僕のそばに駆け寄り、
その手を僕の体にまわした。
「誰もあなたのことを嫌ったりなんか
してないわよ、フェイス。あなたはま
ちがったことをした。でも、実際には、
けが人が出たわけじゃない。あの事件
のあと、あなたの両親は、あなたと心
を通わすためにも、あなたが他人に対
する思いやりを持つためにも、ここに
入るのが最善の方法だって決心した
の。判事の言うとおり、あなたを少年
刑務所に送ることもできたはずよ。で
も、ここに入れることを条件に、必死
にあなたを守ろうとしたの。もし、刑
務所に送られてたら、あなたはきっと、
もっとひどい目に遭ってたわ。体が小
さくてかわいいあなたは、いろんな意
味で、他の連中の餌食になってたでし
ょうしね」
291/806
彼女は、僕の頭にキスし、その指を、
僕の髪の中に這わせた。
「どうか、両親を許してあげて。あな
たのパパもママも、あなたが大好きよ。
いつも、あなたを助けたいと思ってる
のよ」
「でも、こんなふうで、どうやって会
えっていうの?」
僕は、自分の服を示しながらきいた。
「こんな服を着てるところを親に見ら
れるなんて、死ぬほど恥ずかしいわ」
「あなたの親は、ここがどんなところ
か知ってて、あなたを入れたのよ。も
ちろん、あなたがどんな格好をしてる
か知ってるし、驚いたりしないわよ」
「それは、そのとおりかもしれないけ
ど、こんなあたしを見て親たちが何を
思うかって考えると、あたしだってま
ともに顔も合わせられない。父さんは
気が狂ったようになるだろうし、そう
292/806
なったら、あたしだって‥‥」
ホリーは、僕が親と会うということ
が、どれくらいたいへんなことなのか、
わかっていないのだ。
もう、親へのわだかまりはおおかた
消えていたが、こんなふうに女装して、
彼らの前にふつうに座り、平生を装っ
て会話するなんて、とてもできるもの
じゃない。
と、ホリーは首を振り、僕を抱きし
めてきた。
「あなたのママとパパは、今のあなた
がどんなふうに見えるのか、よく知っ
てるわ。だって、何度も見てるんだか
ら。会っても驚かないと思うわよ。実
際、二人とも、今のあなたのことを、
きれいでかわいいって書いてきてる
し」
「えっ? どういう、こと‥‥」
言いかけたところで、僕は、ホリー
293/806
がいつも手元に置いているデジカメの
ことを思い出した。そういえば、彼女
の机の上には、パソコンだってあるの
だ。
ここに来て最初の週にやった例のフ
ァッションショー以来、ホリーは、毎
週何枚も僕の写真を撮っていた。制服
姿から彼女に借りたパーティドレスま
で、何メガバイトもの僕を、彼女は保
存しているはずだった。
「えーっ、ひどい人ッ! あなたの撮
った写真を、無断で送ってたのね」
「有罪を認めるわ」
彼女は笑って、肩をすくめてみせた。
「でも、あなたのパパのせいよ。あな
たのパパが、あたしをどれだけ困らせ
たか、知ってる? ほぼ一日おきに、
あなたの様子を知らせてほしいって、
メールが入ってたんだから。あなたを
ここに置いていったあと、あなたのパ
294/806
パもママも、あなたがここになじめる
かどうか、ほんとに心配してたのよ。
それであたしは、ミセス・ウイリアム
ズと相談して、あなたの家族を元気づ
けるには、あなたがどれほどうまくや
ってるかを知らせるしかないって結論
に達したわけ」
あの親父が、僕のことを‥‥心配?
なんだかわけのわからない幸福感
が、僕の体全体にわき上がってきた。
僕は、親父が、僕のことを、オカマ
のようなものに落とし込め、切り捨て
たにちがいないと思っていた。彼が僕
のことを気にかけているなどとは、思
ったこともなかった。
でも、そんな疑念は、その幸福感が
湧き出すと同時に、氷解していった。
ところが、それとはちがう、氷のよ
うな冷や汗が一挙に吹き出した。
「えっ? ま、まさか、ベビードール
295/806
や下着の写真は、送ってないでしょう
ね!」
「安心して。あなたのパンティは、誰
にも見せてないわよ、フェイスちゃん」
彼女は、そう言って笑った。
「だって、あなたとあたしは一蓮托生。
そんなの送ったら、あたしまでオカマ
だと思われちゃうじゃない」
「なに、その言い方。あたしだって、
オカマなんかじゃないわ」
僕は、跳ね上がるように立って、異
議を唱えた。思わず、胸を突き出して
いた。
「だけど、あなたは、フリルだらけの
ベビードールや、レースがいっぱいの
下着が大好きなんでしょ。だとしたら、
あなたは、女の子か、そうでなかった
らオカマか、そのどっちかよね」
彼女は、悪魔の微笑を潜ませて言っ
た。
296/806
僕には、彼女がどこに導こうとして
いるか、正確にわかっていた。そして、
彼女が僕をラッピングして、クリスマ
スツリーの下のギフトにしてしまおう
と考えているのもわかっていた。
「で、あなたはどっちなの? オカマ?
それとも、女の子?」
「ばかばかしい! ‥‥早く、両親に
連絡しなきゃ」
僕は、話の方向を変えることなど無
理だと知っていながら、無駄な抵抗を
試みた。
「ねえ、あなたは女の子、それともオ
カマ?」
やはりホリーは、僕を無視してつづ
けた。
「わかったわよ。あたしは、女の子で
す」
僕は、彼女が勝利を宣言して、次の
話題に移ることを期待しながらもごも
297/806
ご言った。
でも、ホリーはそれで終えてはくれ
なかった。
「まちがいなく?」
「まちがいなく」
僕は、もう一度彼女がここで終える
ことを願い、こくんとうなずいた。
「で、あなたはどんな女の子かな?
もしかして、女の子っぽい女の子?」
なんで僕は、こんな意地悪な子に恋
してるんだろう?
「ええ、あたしは、女の子っぽい女の
子よ!」
僕はもうやけくそで、叫ぶように言
っていた。
「かわいい服と、メイクと、あたしの
髪と、バブルバスが大好き! あたし
は、女の子であることを、愛してる
わ!」
「そう? やっぱりね。思ったとおり
298/806
だわ」
ホリーは、笑い声を立てながら、僕
のほおにキスした。
「じゃあ、あなたがしてほしかったキ
スって、これよね」
「ううん、あたしがしてほしいのは、
あの賭けで負けたらしてくれるはずだ
った、最初の晩にしてくれた、本物の
キスよ」
いくらなんでも、これはフェアじゃ
ないだろう。彼女は僕に、輪くぐりを
させておいて、そのごほうびもくれな
いのだ。サーカスの動物だって、もっ
と大事に扱われている。
「ごめんね。でも、さっきも言ったよ
うに、あたしがそんなキスをするのは
男の子とだけなの」
彼女はにこっと笑って、髪の乱れを
直すように掻き上げた。
「ただ単に女の子っていうだけじゃな
299/806
く、『女の子っぽい女の子』って言わ
れて、その上、『女の子であることを
愛してる』とまで言われて、あたしは
いったい、あなたにどんなキスをして
あげればいいの?」
「このインチキ女!」
僕は、彼女を告発した。
「全然フェアじゃないわよ。あなたは
あたしにキスの借りができたわ」
「借り? じゃあ、こういう返済契約
はどう? あなたの更正期間が終わっ
た時、もしあなたが男の子に戻るのな
ら、キスだけじゃなく、デートだって
してあげるわ」
「ううん、たぶん、あなたは、もっと
先まで行くことになるわ」
今度は僕が、ほくそ笑みながら言っ
た。
「あなたはその時、キスだけじゃなく、
あたしの結婚の申し込みに『イエス』
300/806
って言うの」
「あたしたちの未来には、大きな可能
性が広がってるってわけね」
彼女は笑いながらも、僕の顔をまじ
まじと見た。
「あなたは、男としてもけっして悪く
はないけど、女の子としては完璧よ。
お人形みたいにかわいいわ。本当にフ
ランクが戻ってくるかどうか多分に疑
わしいと思うけど、でも、もし彼が戻
ってくるなら、その時はあたしも、真
剣に考えてみるわ」
「それは、あなたが幸せな一生を送る
ためにも、いい契約だと思うわ」
僕は、誓いを込めて言った。
「さて、じゃあ、あなたの両親を新し
い娘に引き合わせる段取りを考えなき
ゃね」
ホリーの笑顔は、僕が重大事に直面
する勇気を促し、僕の考えを聞きたい
301/806
と語っていた。その笑顔を消さないた
めにも、僕自身が行動を起こさなけれ
ばならないことはたしかだった。
「パソコン、借りてもいい?」
僕は、彼女にほほえみ返した。
「気が変わる前に、今やっちゃいたい
から」
「いい娘ね、フェイス」
彼女は、パソコンの前に座った僕を
応援するように言った。
「なんだか、ワクワクするわ」
そこで僕は、父親あてのメールに、
今心に抱いている気持ちを素直に打ち
込んでいった。
かつて自分がやってきたことを本当
に申し訳なく思っているということ、
グレート・インディアン・リバーに入
れられたいきさつについては、もうわ
だかまりはなにもないということ、授
業をはじめ学校生活は驚くほど順調だ
302/806
ということ、友だちもたくさんできた
こと、そして、ずっと会えなかったこ
とをさみしく思っているということ、
だから、ぜひ会いに来てほしいという
こと。
メールの「送信」ボタンを押したと
ころで、僕はあることに気づき、また
冷や汗の出る思いがした。その文面で、
僕は、父親のことを「パパ」と呼んで
いたのだ。もちろん、もう取り消すこ
ともできず、僕は肩をすくめるしかな
かった。
いつかホリーが言っていた、環境が
考え方にも影響するというのは、どう
やら本当のようだ。
僕は今、自分がかわいく見えるとい
うことにプライドのようなものを持っ
ているし、女の子のように考え、女の
子のようにしゃぺりはじめていた。
もし、更正期間が終わったあと、ホ
303/806
リーにプロポーズするつもりなら、こ
の新しいパーソナリティが本来の自分
を追いやってしまわないように、気を
つけなければならないだろう。
いや、そんなことより‥‥。僕にと
っての当面の大問題は、両親がいつ会
いに来るのか、その時僕は、どんな服
を着て、どんなふうに振る舞うのかと
いうことだった。
それは、考えれば考えるほど妙な感
じだったが、少なくとも僕は、両親が
今の自分を気に入ってくれることを強
く望んでいたし、その最初の感想が
「か
わいい」であってほしいと思っていた。
パパからの返信メールは、新記録樹
立とも言える10分足らずの速さで届い
た。僕のメールが届いたとき、おそら
くパパは、パソコンの前に座り、ママ
とおしゃべりしていたにちがいない。
304/806
パパは、会いたいという僕のメッセ
ージがよほどうれしかったらしく、2
週間後にはママといっしょにたずねる
と弾んだ文面で書いていた。
つまり僕には、両親にとっていい娘
になるための2週間の猶予が与えられ
たわけだ。賢くて、かわいくて、幸せ
そうな、そんな女の子に、この2週間
のうちにならなければいけない。
ホリーをはじめ、友だちは、女の子
らしく見せるためにはどう歩いたらい
いか、どう振る舞えばいいかというア
ドバイスを、山のようにくれた。背筋
を伸ばし顔を上げ気味にする、肩を後
ろに引く、腰を揺すりながら一直線上
を歩く、ものを拾うときは両膝を揃え
て曲げる、いつもほほ笑みを絶やさな
い‥‥。
どこに行くときも何をするときも、
305/806
僕は自分の動きを意識し、練習に心が
けた。その結果、僕は、生まれついて
の女性と同様の自然さで歩けるように
なり、それどころか、まるでファッシ
ョンショーのモデルのような身のこな
しまでできるようになった。
もちろん、それにはたいへんな努力
が必要だったのだが、それをしながら
も一方で僕は、2年後のことも気にな
っていた。いったん身についてしまっ
た動きをそぎ落とすには、これ以上の
努力が必要だろう。男の時の僕は、セ
クシーに腰を振る歩き方など、そもそ
も知らなかったわけだ。果たしてそん
な状態に戻れるのだろうか。
しかし、この間、それ以上に困惑さ
せられたのは、ホリーがそんな僕をさ
かんにからかってきたことだった。
彼女は、折に触れて、他の女の子た
ちといっしょに町に遊びに行こうと誘
306/806
ってきた。そして、町に出れば、僕が
いかに男の子たちを引きつける磁石の
ような存在になれるかを言い立てた。
射止めた男の子にとって、僕は「トロ
フィー・ガールフレンド」(※)になる
はずだとも言って煽った。
(※訳注
他の男たちに自慢できるナンバー1
のガールフレンド)
おかげで僕は、何度も彼女に、僕が
他のティーンエージャーの女の子と同
じように歩き、行動し、話すのは2年
限定なのだということを再確認しなけ
ればならなかった。
僕は、これ以上の愚かなゲームに参
加する気はないし、磁石やトロフィー
なんかにはなりたくないのだ。
2年間はかわいいフェイス・ジョー
ダンでいるつもりだが、それが終われ
ば、フランク・ジョーダンに戻って、
ガールフレンドのホリー・ビンクラー
307/806
をフィアンセにする努力をするつもり
だ。
両親がやってくる予定の週、僕はず
っと、ひどくナーバスになっていた。
ありがたいことに、先生たちはそん
な事情をわかってくれていて、僕が授
業中まで昼休みのようにぼーっとして
いるのを、大目に見てくれた。あとで、
お詫びとお礼をするつもりだ。
両親は日曜日に来ることになってい
たので、土曜日の午後、僕は美容室に
予約を入れた。
ここへ来るのは、グレート・インデ
ィアン・リバーに入って以来2度目、
そしてもちろん、自分一人で、かつ自
分の意志で来るのは初めてだった。
予約していたのは、脚と腕のワック
ス脱毛、眉の手入れ、さらに今回は、
308/806
ワックス後の痛みを取るマッサージも
追加した。
そして、マッサージの至福の世界に
ただよい着いたとき、僕はいつの間に
か、つけ爪のすすめにも同意していた。
自分がスイートで従順な女の子に変
えられていく感覚はこんなにすてきな
のに、この前は、なんであんなにいや
だと思ったんだろう。もちろん今回は、
そんな嫌悪感はいっさいなく、僕は、
自分がきれいになっていく一瞬一瞬を
存分に楽しんだ。
翌朝、僕は、起きた時からそわそわ
と落ち着かなかった。
今日着る服は、もうずっと前に、ホ
リーといっしょに選んでいた。
キュートなブラウンのレザースカー
トは、僕の脚のきれいさを目立たせる
くらいには短く、でも、パパが見てや
309/806
きもきしないくらいには長いものだ。
袖の部分に透け感のある黄色いシルク
のブラウスは、このスカートといっし
ょに着ると驚くほど映える。薄いシル
クのパンストを履き、靴は、茶色いス
エードでできたひざ丈のブーツ。2イ
ンチのヒールが、レディらしい歩き方
を演出してくれる。
下着は、ペールイエローのサテンで
できたブラ、スリップ、パンティのセ
ット。これを身につけたとき、僕は一
瞬、自分がどうして男の子に戻ろうな
どと思っているのか、わからなくなっ
た。
髪とメイクは、すべて自分でやった。
ヘアスタイルは、お気に入りのフレン
チ・ブレイド。全体にシックで洗練さ
れたこの髪型は、いつものティーンエ
ージャースタイルに比べ、ちょっとお
姉さんふうの女性らしさを醸し出して
310/806
くれる。
姿見の前で最終チェックをしている
とき、僕は、ピアスをあけていなかっ
たことを悔やんでいた。今つけている
クリップ式のイヤリングでは、耳たぶ
が痛くなり、数時間が限度だ。僕自身
のためにも、それにホリーに喜んでも
らうためにも、女の子でいつづける以
上、僕は最高にきれいな自分を見せて
いたいと思う。それに、僕くらいの年
頃の女の子に似合うかわいいイヤリン
グは、ピアス式の方が多い。月曜日の
放課後、宿題を終えたら、さっそく美
容室に駆け込んで、ピアスをあけても
らうことに決めた。
最後の仕上げとして、ホリーが、お
気に入りのコロンを吹きかけてくれ
た。そのすてきな香りに、僕もママに
ねだって買ってもらおうと思った。
そこで、僕の膝が、まるでドラムの
311/806
連打のように速くて強烈なリズムを刻
みだした。ホリーは、そんな僕の手を
とり、僕の両親が待つラウンジへと向
かって部屋を出た。
「会いたかったわ」
僕は、ちょっとはにかみながら、呆
然とこちらを見ている両親のもとに近
づいていった。
「あたし、ふたりがどれほどあたしの
ことを心配してくれてたのか、ずっと、
わかってなかったみたい。ごめんなさ
い」
「フェイス?」
ママは、僕の顔を呆然と見つめ、そ
のあと服に目をやり、口をもつれさせ
ながら、なにか言いかけた。
「ま、まさか、こんなに‥‥」
僕は、恥ずかしさもあって、そんな
ママをちょっとからかうように言っ
312/806
た。
「この服、あたしに似合うと思って、
ママが選んでくれたんでしょ。どう?
ママが思ってたように、ちゃんと似
合ってる?」
「す、すごく! かわいいよ」
ママが言うより先に、パパが叫んだ。
「信じられない。い、いや、つまり‥
‥」
じつは、この2週間で、パパに対す
る僕の認識は、がらりと変わっていた。
僕は、彼が、ママの反対を押し切っ
て、むりやり僕をここに入れたのだと
思っていた。たぶん、元海兵隊員とい
うパパの基準から見て、僕はまったく
男らしくなく、そんな息子に対する腹
いせからだろうと。だから僕は、彼を
ひどい人間で最低なやつで、できるこ
となら二度と顔を見たくないとさえ思
っていた。
313/806
でも、彼が僕のことを心配しつづけ
ていたのだと知ったとき、これまで見
ていなかった彼の一面が突然見えてき
た。僕を心から愛し、僕を立ち直らせ
るにはどうしたらいいかと真剣に考え
てくれた、やさしくて思いやり深い人。
ママが恋に落ちたのも不思議ではない
男。
彼は、頑固で冷淡な鬼などではなく、
家族を愛し、僕を苦難から救い出すこ
とだけを願っていた。そして彼は、僕
のために苦しい決断を迫られ、僕のた
めに何が最善かを考えて、それを決断
した。
その決断が正しかったと確信したこ
とが、僕に向ける彼の顔からわかった。
彼が僕に対して持っていた夢は、いさ
さか狂気じみた方向でそれを飛び越え
て実現していた‥‥乱暴で手がつけら
れない、問題ばかり起こす息子ではな
314/806
く、やさしくて、かわいくて、愛らし
い娘として。
僕は、パパが僕のことをかわいいと
思ってくれていることにワクワクして
いた。パパにキスしなければいけない
と思った。
少し前ならぜったいにありえないこ
とだったが、でも今、パパに対するの
感謝の気持ちを表すには、その方法が
ベストだと思えた。
「パパ、ありがとう」
僕はほほ笑みながら彼に近づき、そ
のほおにキスした。
「大好きよ、パパ」
瞬きする間さえなく、僕はその太い
腕に抱きしめられていた。その圧倒的
に守られているという感覚に驚きなが
ら、僕も、彼の背中に腕をまわしてい
た。
「‥‥ん? パパ?」
315/806
しばらくして、彼は、笑顔の中に困
惑をまじえた顔で繰り返した。
「私は今、パパなのかい?」
「いけない? だって、パパとママは、
あたしに女の子になってほしかったん
でしょ。それが、あたしがここに来た
理由じゃないの?」
「すまない。他に方法がなかったんだ」
パパはちょっと深刻な顔になり、深
いため息をついた。
「最初聞いたときは、狂った話だと思
ったよ。でも、ママやホリーのご家族
から説得されて、最後の手段としては、
やってみる価値があると納得したん
だ。お前には、つらい思いをさせてし
まったのかもしれない」
「だいじょうぶよ、パパ。あたしは、
パパとママが、ずっとあたしのことを
心配してくれてたのがなによりうれし
いの」
316/806
僕がもう一度ほおにキスすると、パ
パはちょっと体を緊張させた。
ママとホリーはほほ笑みを浮かべ、
それぞれに持ったカメラのシャッター
を押すのも忘れて、こちらを見つめて
いた。
「私も、ほんとにうれしいわ。なんだ
か夢みたい」
ママが、満面の笑みで言った。
「私たちは、あなたが脱走するんじゃ
ないか、私たちにもう二度と会ってく
れないんじゃないかって、そればかり
心配してたの。あなたが、ここで、こ
んなにうまくやっていけるなんて、考
えてもみなかったわ」
「ここは、最初に思ってたような、嫌
なところじゃなかったわ」
僕は、ホリーの方をちらりと見てつ
づけた。
「メールにも書いたけど、お友達もた
317/806
くさんできたし、それに、ほんとにす
てきなルームメイトだっているし。パ
パとママも、しばらくの間、娘を持っ
たことに、もっと慣れなきゃだめよ」
「ああ、なんの文句もないよ」
パパは、今度はリラックスした感じ
で、もう一度抱きしめてくれた。
「私は、世界中でいちばんきれいな女
性のうち2人を、家族に持ってるんだ」
それを聞いて僕は、パパの脇腹に軽
くパンチを入れた。
「いちばんきれいな女性2人、でしょ。
『のうち』はいらないわ」
「お前は本当に、私たちが1ヵ月かそ
こら前に、ここに置いていった子供な
のかい?」
思ってもいなかった攻撃から立ち直
ったところで、パパは言った。
「さあ、それはどうかしら?」
僕は、いたずらっぽい目でパパを見
318/806
上げた。
「パパとママが置いてったのは、フラ
ンクって名前の男の子でしょ。今ここ
に、男の子なんて、いる?」
「いや、ひとりも」
パパは笑い返し、僕のほおをくわえ
るようにキスしてきた。
「ここにいるのは、2人のきれいなレ
ディだけだ」
「うぉっほん、2人のきれいなレディ
だけ?」
パパの後ろに立っていたホリーが口
をはさんだ。
ふり返ったパパは、彼女に笑い返し
た。
「いや、3人と言いたかったんだ。で
も、もし君をふくめたら、妻と娘がや
きもちをやくんじゃないかと思って
ね」
「彼女なら、がまんするわ」
319/806
ママが、笑いながら約束した。
「ふふ、あたしもよ」
僕も同意した。
「だってホリーは、けっきょくは、家
族の一員なんだから」
その言葉に肩をすくめたホリーを見
て、ママが笑いかけた。
「あなたもそう思ってくれるとうれし
いわ、ホリー」
「ふふ、話を先に進め過ぎじゃない?
フェイス」
ホリーは、ちょっと僕をにらむよう
にした。。
「あたしをその気にさせられるかどう
かは、あなたがここを出てからでしょ」
「だいじょぶよ」
僕は確信に満ちて言った。
「あなたは、あたしの魅力にまいっち
ゃうはずよ」
と、パパはママと目を合わせたあと、
320/806
僕の方にどこか不安そうな視線を走ら
せた。
僕には、パパの気持ちが手に取るよ
うにわかった。彼は、自分が一生、娘
の父親でいる覚悟をすべきかどうか、
迷っているのだ。
「心配しないで、パパ」
僕は、そんなパパの考えを中断させ
た。
「これからも驚くようなことが、いろ
いろ起こるとは思うけどね」
「あ、ああ、それはそうだろうね」
パパは、自分が口をはさんでもどう
なるものでもないと思ったらしく、静
かに言った。
「こうして、目の前の女の子を見てい
るだけでも、じゅうぶん驚いてるんだ
から」
そして、急いで話題を変えた。
「そうそう。車に、いいものが積んで
321/806
あるんだ」
いいもの――段ボール箱についたブ
ランドマークから、それが最新式のパ
ソコンであることがわかった。
「代金は、メールで払ってくれればい
い」
パパは、笑いをこらえ、まじめくさ
った顔で言った。
「もし、1週間に1通もメールが届か
なかったら、これは、他の、もっとふ
さわしい女の子に譲り渡そうと思う」
「何かあるごとに、1日何回でも書く
わ」
僕はそう言って、大きくうなずいた。
「ママとパパも、1ヵ月に一度は会い
に来てね。だって、女の子は、ママと
パパがそばにいてくれなきゃ、すごく
心細いんだから」
その言葉に泣きそうになったママ
322/806
は、いきなり僕の腕をとって引き寄せ
ると、抱きしめることで涙を隠した。
こんな両親を持った僕は、世界一幸
せな女の子だと思えた。
パパは、新しいパソコンをセットア
ップするのを手伝ってくれた。でも、
そこで、ママに部屋から追い払われた。
「機械コッコはそれくらいにして」
ママは笑いながら言った。
「娘と私をふたりだけにしてくれる?
女どうしの秘密の話だってあるんだ
から」
パパは、自分が必要なくなったこと
を悟ったらしい。ママと僕にキスした
あと、ホリーの案内で、ラウンジまで
ワールドシリーズを見に行った。
「いったい、何が起きたの?」
パパとホリーの後ろでドアが閉まる
と同時に、ママがきいてきた。
323/806
「最初は私だって、あなたみたいな子
にとって、これは悪い冗談にしかなら
ないと思ってたのよ。それがどう?
今、目の前にいる私の息子は、まるで、
ジュニアミスコンの優勝者みたいな美
人なのよ。その上、あっという間に父
親を手なずけちゃうんだもの」
「ほんとのことを言うと、冗談どころ
じゃなかったのよ」
僕は、首を振りながら言った。
「最初はほんとにどうしたらいいかわ
からなかったんだから。ホリーは、マ
マが買ったかわいいものの中に、いき
なりあたしを放り込んだの。で、気が
ついたら、あたしはその罠にかかって
た。ふふ、これを見れば、その被害の
進行状況がわかるわ」
僕は、ホリーのパソコンの前に座り、
彼女が撮った僕の写真を何枚も呼び出
した。細心の注意を払い、ランジェリ
324/806
ーでポーズをとっている写真や、ベビ
ードールを着た写真は避けたが。
「これが、すべての始まり。でも、そ
のあとは、まわりにいる非現実的な女
の子たち(※1)の影響が強いわね。彼女
たちと毎日いっしょに暮らしてると、
知らず知らずのうちにそれがふつうに
なってくる。気がつくと、あたしも他
の子たちと同じように感じて、同じよ
うに振る舞ってるの。あたし、3週間
前にスラックスが許されたんだけど、
まだ一度も履こうって気にならないの
よ。だって、スカートやワンピの方が
好きなんだもん。ホリーは最初、あた
しなら1週間で女の子っぽい女の子に
なるって言ってたけど、実際には『ス
ネーク・アンド・スネール』(※2)から
『シュガー・アンド・スパイス』に変
わるのに3日しかかからなかったわ」
(※1訳注
‘unreal girls’口語では「(現実
325/806
とは思えないほど)すてきな女の子たち」とい
う意味に使うが、文字通り読めばもちろん「本
物ではない少女たち」)
(※2訳注
タツムリ」
‘snake and snail’=「ヘビとカ
「シュガー・アンド・スパイス」
と同じマザーグースの詩に出てくる「男の子の
もと」
より正確には「ヘビとカタツムリと子
犬のしっぽ」が男の子の成分だと歌われる
ち
なみに、この詩はもともと、イギリスの女の子
たちが男の子をからかうわらべ歌)
「じつは前から、私はあなたに、なに
かを感じてたのよね」
ママは、さまざまな服を着た僕の写
真を次々にクリックしながら、ほほ笑
んだ。
「いつも見せてたマッチョな顔は、あ
なたの一面でしかない。乱暴で手に負
えない男の子とはちがうなにかが、あ
なたの中にあるって気がしてたの」
「だけどママ、あたしは、本当には女
326/806
の子っぽい女の子にはなりきらないつ
もりよ。これはまあ、ショーみたいな
ものだと思ってるの。ホリーを喜ばせ
るためのね。あたしは、ホリーに恋し
てるの。だからここでは、彼女の好き
な女の子っぽい女の子になってるけ
ど、ここを出たら、彼女が求めるタイ
プの男になるつもりよ。彼女を愛して、
彼女を守っていける男にね」
ママは、ちょっと首を振りながら、
ほほえみ返した。
「それはすてきだと思うわ、フェイス。
うまくいくといいわね。でも、もし、
彼女を守るんじゃなくて、彼女と同じ
生き方をしたいってあなたが言い出し
たとしても、ママはなにも驚かないわ
よ。だって、こうして見てると、あな
たって、男を幸せにするいいお嫁さん
になれそうだもの」
僕は、ママに向かってあわてて首を
327/806
振ることで、そんな気はないことを伝
えた。でも、それをあえて口には出さ
なかった。なにか言えば、僕の心の中
にある恐れが伝わりそうだったから
だ。ホリーと同じ生き方をするという
ことは、今の暮らしがつづけられると
いうこと。この幸せな毎日を手放した
くないという気持ちが、僕の中にはた
しかにあった。
「それはそうと」
ママは、いかにも女どうしの会話と
いう感じで、唐突に話の方向を変えた。
「あたしもあなたに、ちょっとした贈
り物があるのよ。パソコンほど精密な
ものじゃないけど、きっと気に入ると
思うわ」
そんな言葉とともにバッグを開けた
ママは、ちょっとの間がさごそやった
あと、なにかを取り出して僕に手渡し
た。
328/806
見ると、「フェイス・ジョーダン」
名義のマスターカードだった。
「まだ、あなたといっしょにショッピ
ングに行ったことがないから、お気に
入りのお店とか知らないでしょ。だか
ら、これがベストかと思って」
「わあ、ママこそ、ペストなママだ
わ!」
僕は思わず黄色い声を上げていた。
「あたし、まだ、ショッピングに行く
のは怖いけど、これだったら、通販で
も、かわいい服が買えるもんね」
「えっ? 本気で言ってるの?」
ママは、笑い声を立てながら言った。
「自尊心のある女の子は、ショッピン
グを怖がったりしないものよ。特にあ
なたみたいに、ほんとにきれいな娘は
ね。通販は、時間やお金のない時には
たしかに便利だけど、若い女の子にと
っては無難な流行遅れの品揃えばかり
329/806
よ。じつはね、私たち、今週いっぱい、
こっちに残って、ホリーのお宅に泊め
てもらうことになったの。で、ホリー
のママといっしょに、明日の放課後、
母娘ふた組でのショッピングを計画し
てるのよ。女の子として暮らしていく
上で必要なものを、もっと揃えとかな
きゃいけないしね。試着もすると思う
から、あんまりごてごてした下着はさ
けてね」
その言葉に僕は、呆然と立ちつくし
た。
この間、ホリーや友だちは、いつも
いっしょにショッピングに行こうと誘
ってくれるが、僕はずっとそれを逃げ
てきた。
でも、ママのなんだか浮き浮きした
様子を見ていると、今回はそうもいき
そうにない。だいいち、ショッピング
を否定することは、彼女の生き方その
330/806
ものを否定することにもなりかねな
い。
見ていると、ママは、僕のクローゼ
ットや引き出しを勝手に開け、何を持
っていて何を買わなければいけないか
を、チェックしはじめた。
ときどき、追加しなければならない
スカートの種類だとか、ワンピースの
スタイルだとかをつぶやいていたが、
やがてランジェリーの引き出しを調べ
たところで、なんだか感極まったとい
う感じの声を上げた。
「フェイス、私がかわいいと思って選
んだものを、ちゃんと使ってくれてる
のね」
ママは、顔を輝かせて笑いかけてき
た。
「ちょっとやり過ぎたかと思って心配
してたんだけど、この引き出しの様子
を見てると、あなたがこれを好きにな
331/806
ってくれて、喜んで着けてくれてるの
がよくわかるわ」
僕は、そんなチャンスを与えてくれ
たママに、感謝のハグをしなければな
らなかった。
「うん、ありがとう、ママ。ほんとの
こというと、最初は怒ってたのよ。で
も、今はみんな、あたしの宝物。かわ
いいし、着けたときの感じも大好き」
「やさしくて、やわらかくて、とろけ
そうなものに包まれてる感じって、最
高の女の幸せって気がするでしょ。男
の人にはぜったいわからないわよね」
「うん、堅苦しくてダサい制服でも、
その下にセクシーな下着を着けてる
と、それだけでワクワクするもん」
僕は、制服の下にレースのパンティ
を着けている時の気持ちを思い出しな
がら言った。
「あたしが、ここになじめたいちばん
332/806
の理由は、そんな感覚がわかったから
だと思うわ。かわいいものを着けてる
と、男の子だってことをすっかり忘れ
られるの」
「ふふ、女の子ってね、大人になれば
なるほど、そんな楽しみが増えていく
ものなのよ」
もう一度ハグし合った時、ママは、
秘密を打ち明けるとでも言うように耳
打ちしてきた。
「小さな頃は、パーティドレスの下に、
ファンシーなペチコートやラッフルの
いっぱいついたパンティを履くのがう
れしいのね。ちょっと大きくなるとス
トッキングが履けるようになるの。あ
なたのようにティーンエージャーにな
れば、もっと女っぽいランジェリーが
着られる。レースやサテンを使ったね。
それに、ブラは、成長したあなたの胸
をすてきな形に包んでくれる。ハネム
333/806
ーンでは、そのサテンやレースがなり
たての夫の心を完全に虜にするの。そ
のあとは、黒のレースやガーターベル
トが、彼を夢中にさせつづける。思い
っきりセクシーなブラで、彼を手なず
けるの。男の人は、力で世界を支配で
きるって考えるのが好きみたいだけ
ど、本当のこと言えば、そんな男を操
ってるのは誘惑のしかたを知ってる女
の方よね。セクシーなランジェリーは、
パワフルな男をまるで子供みたいにし
ちゃう。そうなれば、こっちの思うつ
ぼ」
「ふふ、あたしがそんなことを知っち
ゃうと、ホリーは結婚したあと、その
トリックが使えないわね」
「でも、あなたは、トリックを使う側
にまわってるかもしれないわよ」
「そりゃあ、先のことは、どうなるか
わからないけど‥‥」
334/806
僕は、ナーバスな笑いとともに、消
極的にそれを認めた。
「だってあたし、まさか母親と、かわ
いくって女っぽい下着を着る楽しさを
話すことになるなんて、思ってもみな
かったわけだし‥‥」
それにしても、もしかしてママは、
僕が男の子に戻らない方がいいとでも
思ってるんだろうか?
「でも、あたしは、誰より、ホリーと
いっしょにいたいの。だから‥‥」
するとママは、にっこり笑ってうな
ずき、子供の頃から慣れ親しんだキス
をしてくれた。
僕は、僕の未来について、母と娘の
会話をもっとつづけるつもりだったの
だが、ママの考えはちがったようだ。
「明日の夜はすてきな時間にしましょ
うね。あなたと私、ホリーと彼女のマ
マ。男の子は閉め出した女の子だけの
335/806
夜の外出よ! 私にとっても初めての
ことだから、なんだかワクワクしちゃ
うわ。かわいい服を山のように試着し
てもらうつもりだから、脱いだり着た
りが簡単なものを着てきてね。そうそ
う、スラックスがオーケーになったん
なら、それも買わなきゃね」
「ママはあたしに、スラックスを履い
てほしいの?」
僕は、スラックスについての不本意
な気持ちを顔に浮かべながら言った。
「あたし、スカートの方が好きだわ。
スラックスは、かわいくないもの」
「だいじょうぶよ。あなたなら、スラ
ックスでもジーンズでも、お気に入り
のワンピースと同じようにかわいく見
えるから。かわいいかどうかは、服で
決まるんじゃないわ。その服を着る女
の子で決まるのよ」
「ほんとにそうなら、いいけど‥‥。
336/806
まだ人の多いところに出たことなんて
ないから、あたし、死ぬほど怖いのよ。
指さされて笑われるんじゃないかって
‥‥。スカートとかワンピとかを着て、
きちんとメイクしてれば、少しは女の
子らしく見えるって気はするけど‥
‥」
と、ママは、僕を鏡台の前に座らせ、
ヘアブラシをとって、僕の髪をブラッ
シングしはじめた。
「そんな心配いらないわよ。大事な娘
を笑うような人は、私が許さないから。
それに、これだけかわいければ、笑う
どころか、町中の男があなたに振り向
いてもらいたくて、視線を送ってくる
わ。あなただって、そのワクワクする
ような気分にすぐ気づくはずよ。でね、
それがあなたを、もっともっとかわい
くしていくの」
337/806
次の日の夕方、ママたちは約束通り
の時間にやってきた。
僕は、デニムのミニスカートとプル
オーバーを着、スニーカーを履いてい
た。髪はポニーテールで、メイクも最
小限にとどめている。
正直言って、僕はまるで裸をさらし
ているような気がしていた。
本当は、誰からも疑いの視線を投げ
かけられないように、クローゼットの
中で最も女らしいドレスを着たかった
のだけれど、ホリーがそれを許してく
れなかったのだ。
「イブニングドレスでショッピングに
行く女の子が、どこの世界にいるのよ」
僕がしぶしぶそのドレスをあきら
め、スカートを履いていると、ホリー
はまた、あきれたように首を振った。
「これから、楽しいことをしに行くん
でしょ。そんな暗い顔しないの」
338/806
「でも、どうすればいいのよ」
僕は、おろおろと主張した。
「こんな服じゃあ、きっと、誰もあた
しのことを女の子だって思ってくれな
いわ。服とヘアスタイルとメイク以外、
あたしは女の子に見せる方法を知らな
いのよ。それを取り上げられちゃった
ら、どうしたらいいの? ドレスはあ
たしの救命胴衣みたいなもんなんだか
ら。それがなくて、どうやって女の子
らしく振る舞えっていうの?」
「ねえ、お願いだから落ち着いて」
ホリーは深いため息をついた。
「何度言ったらわかるの? 今のあな
たのどこを見ても、男の子だって思え
るとこなんてないわよ。逆に、あなた
のことを男の子だって、人に納得させ
る方がずっと難しいわ。あなたは今、
大好きなピンクのパンティを履いてる
んでしょ」
339/806
「う、うん、ブラもおそろい」
僕は肩をすくめた。
「それが、なんなの?」
「ほら、ごらんなさい。もしあなたが、
ほんとに自分のことを男の子だって感
じてるなら、最初の日みたいに、なん
の飾りもないコットンのパンティを選
んだんじゃない?」
「やよ、あんなの」
僕はすかさず言っていた。
「全然かわいくないんだもん」
「ほらね。あなたは、あたしからジー
ンズを借りることだってできた。サイ
ズはほとんどいっしょなんだからね。
でも、あなたはスカートを履いてるわ。
ね、わかったでしょ。あなたはもう、
中身まで女の子なの。いい加減、それ
を認めなさい。もう、話はおしまい。
早くしないと、ママたちが待ちくたび
れちゃうわ」
340/806
ホリーは、ジャケットとバッグを投
げてよこすと、ラウンジに向かい、む
りやり僕を連れ出した。
「ほんとにあなたの言うとおりね」
ホリーのママが、僕のママに言うの
が聞こえた。
「ものすごくかわいらしいわ」
「あたしも、彼女はお人形さんみたい
だって言ったでしょ」
近づきながら、ホリーがつけ加えた。
「それなのに、この子ったら、町で男
の子だって思われるんじゃないかって
心配してるのよ」
「まあ、フェイス。あなたがそう見ら
れるより、私が男だと思われる確率の
方がずっと高いと思うわよ」
ミセス・ビンクラーは、そう言って
笑いかけてきた。
「あなたはほんとにかわいいレディよ。
341/806
今夜はきっと、楽しくなるわ」
そんなふうに言われたのがうれしく
て、顔を赤らめていると、いつの間に
か、ホリーとママが両腕を固め、僕は
建物の外に連れ出されていた。
「‥‥ねえ、聞いてる?。通販カタロ
グにだって、着やすそうですてきな服
はいっぱい載ってるのよ。やっぱり、
ショッピングなんて、必要ないわよ。
それに‥‥そう、やり残した宿題があ
るような気がするし」
さっきからつづけている僕の抗議は
完全に無視され、車はすでに、モール
の駐車場に乗り入れていた。
「そうよ、宿題が‥‥」
車からむりやり降ろされながら、僕
は泣き声を出していた。
「よく言うわね。あなたのことだから、
今週分の宿題は、先に全部かたづけち
342/806
ゃってるんでしょ」
「で、でも、もう一度見直しておかな
いと‥‥」
「ミセス・ジョーダン、あなたのかわ
いい娘さんは、今や全教科でAをとっ
てる優等生なのよ。そんな子が、宿題
をし忘れてると思います?」
「えっ? 全教科で‥‥A!?」
ママは、驚きで引きつったような声
をあげた。
「う、うそでしょ?」
「今学期の優等表彰は、たぶん、彼女
にまちがいないわ」
ご親切にも、ホリーはそうつけ加え
た。部屋に帰ったら、忘れずに絞め殺
してやる!
僕はなんとか、僕に向けられた視線
から逃れたいと思った。
「話すつもりだったのよ。でも、この
ショッピングのごたごたで、つい‥‥」
343/806
「あなたは、私があなたの年頃だった
頃より、ずっと美人だわ。その上、学
年一の優等生?」
僕は、ママがこれ以上興奮したら、
気が狂ってしまうのではないかと心配
になった。それで、ちょっとだけ訂正
した。
「優等表彰は、まだ発表がないからわ
からないわ。まあ、クラスでいちばん
成績がいいことはたしかだけど」
「クラスどころじゃないでしょ。あの
呪われた学園一の成績じゃない」
ホリーはからかうような口調で言っ
た。
「ほんと、あたし、いつの間に追い越
されちゃったのかしら?」
「あなたはいったい誰なの? 私の息
子をどうしちゃったの?」
ママも、ジョークできいてきた。
「ママとパパが、息子を女の子にしち
344/806
ゃったって記憶が正しいとすれば、た
ぶんあたしは、殺人はしてないわ」
どう、ママ? お利口な答えでし
ょ!
「だけど、パパにこれを信じさせるの
は、至難の業ね」
「もうじき、成績通知票が出るから、
それを見せればわかるはずよ」
「ああ、全能なる神よ」
ママの感謝の祈りはつぶやきのつも
りだったようだが、しっかり聞こえて
いた。
そこで、モールの入り口にたどりつ
いたことに気づいた僕は、叫んでいた。
「マ、ママ、お願い。もう一回、お祈
りして!」
ついに、ティーンエージャーの女の
子としての、世の中へのデビューの時
が来てしまった。
345/806
おおよそ1時間、次から次へと服を
試着したところで、ママはいったん休
憩しようと決めたようだ。
お店を出たママが、あとの3人を従
えるようにどんどん歩いていくのを見
て、僕は最初、フードコートへでも行
くつもりかと思った。
とりあえずここまではなんの問題も
起きていなかったので、正直、僕はち
ょっと安心していた。というか、自分
が男の子だということを忘れ、ショッ
ピングを楽しみはじめていた。でも、
ママが向かっている先が女子トイレだ
ったことがわかったところで、僕はま
たパニックに陥った。
「だ、だめよ、ママ。こんなとこ、入
れないわ。ばれたら逮捕されちゃう」
と、そこで、目の前のスイングドア
が左右に揺れ、くすくす笑い合いなが
ら、女の子の一団が出てきた。
346/806
それに緊張し、あわてて目を伏せる
と、女の子のうちのひとりが、そんな
僕に近づき、踊るようにしながら抱き
しめてきた。そして、聞き覚えのある
声で僕の名を呼んだ。
「まあ、フェイスじゃない。超まじめ
で優等生な家庭教師も、ついにこんな
とこに来られるようになったのね」
その声と女の子っぽいはしゃぎぶり
で思い当たるのは一人しかいない。
「えっ、ジル?」
顔を上げた僕は、ホリーの方をちら
りと見ながら言い訳した。
「どうも、あたしの“元”親友が、母
親ふたりをけしかけて、あたしを連れ
出したってことみたい」
「いいじゃない。ショッピングは楽し
いわよ。ボーイフレンドとのビリヤー
ド・デートには負けるけど」
ジルは声を立てて笑い、つづけた。
347/806
「だって、あたしが勝った点差の分だ
け、彼にキスしてもらえるのよ」
ひとしきり笑った彼女は、僕たちを
見て、どっちが僕のママかきいてきた。
僕は、簡単に紹介しながら、ママに
これ以上あれこれ知られる前に、ジル
がもう少しテンションを下げてくれな
いかと思った。
「ミセス・ジョーダン、あなたの娘さ
んって、ほんとにすごいのよ」
やめてくれという視線を送っている
にもかかわらず、ジルは僕をべたぼめ
しはじめた。
「かわいくてきれいだし、その上、頭
がいいし。あたしが幾何の授業で落第
せずにすんだのは、フェイスのおかげ。
他にも何人もの女の子が、彼女の家庭
教師のおかげで、救われてるわ」
ママの顔がさらに輝きだし、それを
見て、僕はますます憂鬱になった。
348/806
「さっきから聞かされてる娘について
の話は、驚くことばっかりよ。今夜、
帰ってから、パパのちっちゃな恋人が
どれほどすばらしい娘か、話して聞か
せるのが待ちきれないわ」
「ワオ、フェイス、あなたって、パパ
のちっちゃな恋人?」
ジルは、かん高い声で叫んだ。
「すてき! きっとパパの財布には、
あなたの写真が入ってるわね」
「そ、そんなこと、まさか‥‥」
「財布だけじゃないわ。あの人はもう、
寝室の壁にも額入りの写真を飾ってる
わよ」
ママは、にっこり笑ってつづけた。
「パパは、そのちっちゃな恋人にずい
ぶん期待してたのよ。でも、彼女はも
う、その期待を完全に超えちゃったみ
たい」
「ええ、ほんとにそう」
349/806
ジルといっしょにいた別の女の子が
口をはさんできた。この子も、時々勉
強の相談にのってあげている子だ。
「フェイスと知り合えたのは、あたし
がグレート・インディアン・リバーに
来てから3年間のうちで、ベストワン
の出来事よ。彼女に化学を教えてもら
ったとたん、あれだけ苦手だったのが、
わかるようになったんだもん」
「これまで気がつかなかったんだけど、
あたし、もともと人に教えたりするの
が好きみたい」
ママの誇らしげな視線に、僕は肩を
すくめながら、また言い訳した。
「どういうわけか、みんな、あたしの
教え方はわかりやすいって言うし」
その禁じられた領域、女子トイレへ
の小旅行もなんの問題もなく果たし、
そこでママは、ランジェリーショップ
350/806
へ行こうと言いだした。
「ハニー、あなたが持ってないもので、
買っといた方がいいと思うものがある
のよ。ちょっと男の子っぽいものだけ
ど、あなたなら変じゃないと思うから」
男の子っぽいもの? ランジェリー
売場に?
男の子が女の子の服を着て、女の子
として暮らす奇妙な学校があるくらい
だから、ついに世の中では、男の子用
のランジェリーを売り出したのだろう
か?
「ほら、これよ。ローライズのジーン
ズを履くときには、いいと思わない?」
ママはそう言って、一枚のパンティ
を手に取った。それは確かに、男の子
用と同じようなぴっちりしたフルカッ
トの下履きだった。でも、上のへりが
ヒップの真ん中くらいまでしかなく、
しかも、全体が黒いレースでできてい
351/806
た。
「ボーイカットだけど、これなら、い
やじゃないでしょ?」
こんなすてきなものをいやだなんて
言ったら、ぜったい、ばちがあたる!
僕は、ママが最初に揃えてくれたか
わいいパンティが好きだけれど、今、
手にしているこれは、もう死んでもい
いくらい、セクシーだし、女っぽい。
「毎日毎日、おんなじようなパンティ
を履いてちゃだめよ。女の子は、持っ
てる服に合わせて、下着もいろんなの
を揃えとかなきゃね。他にも好きなの
があったら、買ってあげるから、1枚
か2枚選びなさい」
「ママ、すてき! あたし、これまで
に、ママのこと大好きって言ったこと
あったっけ?」
「九つくらいが最後だったかしら?
そのあとの男の子って、母親にそんな
352/806
こと言うもんじゃないって思うみたい
ね」
「じゃ、あたしは言ってもいいわね。
ママ、あたし、ママのこと、ほんとに、
ほんとに、ほんとに大ッ好き!」
僕はそう言ってママに抱きついてか
ら、僕のコレクションに入れたいパン
ティを取っていった。ピンクのと、ブ
ルーのと、白いのと、クリームのと、
もひとつブルーのと‥‥。
そして、言った。
「ねえ、ママぁ、おそろいのブラも、
あった方がいいと思わない?」
幸運なことに、僕の選んだパンティ
には、すべてペアのブラが品揃えされ
ていた。
こうして僕は、たとえ2週間洗濯し
ないでも、毎日ちがうパンティとブラ
を着けられる女の子になった。
353/806
寮の部屋に戻り、ゆっくりとバブル
バスにつかった後、僕は、これまで履
いたうちで最もワクワクするパンティ
を身につけた。もちろん、僕のコレク
ションに初めて加わった黒いボーイカ
ットパンティだ。
おかしなもので、「ボーイカット」
というその呼び名が、僕に、女の子っ
ぽい、もっと言えば、大人の女になっ
たような気分をもたらしてくれた。
ママとパパが家に帰る前日の土曜
日、僕はふたりとすてきな高級レスト
ランにディナーに行くことになった。
パパを驚かせるために、ママと僕は
示し合わせて、おそろいの服を着るこ
とにした。この前の週末ショッピング
でいっしょに買った黒のミニドレス
だ。ノースリーブで、僕の方はその上
に、ピンクのジャケットを羽織った。
354/806
襟の折り返しだけ黒になったかわいい
デザインだ。ママのジャケットは、全
体が黒でピンクのアクセントが入って
いる。
僕らは、髪型も似たものにし、さら
に完璧にするために、おそろいの黒ス
エードのブーツも買っていた。
僕は、ふたりを見たパパの顔を想像
しワクワクした。そして、パパが、自
分が連れたふたりの女性を自慢に感じ
てくれたらうれしいと思った。
実際にレストランに行くまで、僕は
わりと平然とし、自信満々に見せてい
た。でも、その入り口を入ったとたん、
まるでホラー映画を見ている小さな子
供のように、がたがたぶるぶると震え
だしていた。
学校ではもう、2ヵ月以上、女の子
の服で過ごしているが、よく考えたら、
355/806
それ以外で多くの人の目が集中する場
所に行ったことがない。この前のショ
ッピングは、ずっと歩いていたのだし、
周囲の人も自分の買い物の方に気を取
られていた。でも、今回は、あの時と
はちがう。
実際、レストランの中に入って予約
したテーブルに案内される途中、店内
の人々がこちらに顔を向け、僕らに‥
‥というか、どうやら僕に視線を注い
できた。
パパは、僕がびくついているのにす
ぐに気づき、僕の手をとり、自分の腕
で包むようにしてくれた。ママも、反
対側の腕に手を絡めてくれた。
ウエイターについて歩きながら、パ
パは、すべてうまくいっているという
表情でうなずいた。
「落ち着いて、フェイス」
そして、テーブルに近づいたところ
356/806
で、まだ小刻みに震えている僕にささ
やいた。
「みんな、パパを見てうらやましがっ
てるのさ。どうやったら、あんな美人
をふたりもディナーに連れて来られる
のかってね」
僕はそこで、ママをまね、それに、
映画で見たシーンとかを思い出し、ウ
エイターが椅子を引いてくれるのを待
った。そして、注意深くスカートの裾
をなでつけ、腰掛けた。
ママは、そんな僕の作法をそっとほ
めてくれた。
食事が始まると、パパは、僕のこと
をきれいだとかかわいいとか言いつづ
けた。それがあんまりつづくので、僕
はパパに、ほめ言葉を待っている女性
がもう一人いることを、それとなく諭
さなければならなかった。
そんなふうに、ことは順調に進み、
357/806
そのせいで僕は、最初持っていた警戒
心をすっかり忘れていた。そして、ウ
エイターに向かい、ソフトドリンクの
おかわりを頼んでいた。
とたん、僕は、テーブルの下に隠れ
たくなった。
おそらく、なんの警戒もせずに発し
た僕の声で、ウエイターは、こちらの
正体に気づいたにちがいなかった。こ
の若いレディが、じつは男だと知って、
大声で笑い出すにちがいないと感じ
た。
ところが彼は、驚きの瞬きひとつせ
ず、にっこり笑い返し給仕してくれた。
「ほらね、フェイス。なんの心配もい
らないでしょ」
ママが、やさしい声で言った。
「あなたは、誰が見ても、若くてきれ
いなレディにしか見えないのよ。もっ
とリラックスして、それを楽しみなさ
358/806
い」
それは、実際、楽しかった。それに
ついて、僕はなんの異議もない。
ウエイターは、僕がまるでプリンセ
スでもあるかのように、うやうやしく
接してくれた。
パパに連れられダンスフロアに出る
と、多くのほほ笑みと賛美のまなざし
が集まってきた。
たとえ、そのうちの誰かが、僕のこ
とをドレスを着た男の子ではないかと
疑っていたとしても、それがなんだと
いうのだろう。
なにより僕自身が、自分のことを、
パパとダンスするかわいい女の子だと
感じているのだ。
それは、すごくすてきなことだった。
学校にいる時と同じように、街なか
のこんな場所でも、僕は女の子でいら
れる。なんだか、夢の中にいるような
359/806
気がした。
僕はもう、フランクではない。あの
腐ったような目をして、まともに口も
きけないガキ、いつも問題ばかり起こ
し、両親を震え上がらせていたあのど
うしようもない男の子ではないのだ。
僕は、フェイス。やさしくて、賢く
て、かわいくて、誰からも好かれ、両
親にも心から愛されている女の子なの
だ。
僕は心に誓っていた。
将来、家に帰っても、僕は、両親が
誇りに思えるような子供でいつづけよ
う。かつて両親が感じつづけていた不
名誉を、自らの行いで償い、ぬぐい去
ろう、と。
もちろん、僕が帰れば、かつての仲
間たちが、かつてのフランクを期待し
て集まってくるだろう。でも、彼らは
そこで、悔い改めた新しいフランクと
360/806
会うことになるのだ。礼儀正しくて、
頭がよくて、そして、見たこともない
ような美人のガールフレンド、ホリー
を連れた。
心の中でそう誓ってさえいれば、未
だ多少残っている女の子でいることへ
の抵抗感をすっかり捨ててしまっても
かまわないだろう。
あの古き良き女子校「グレート・イ
ンディアン・リバー」――そこにいる
女の子たちの言い方で言えば「ガール
センター」――での残りの暮らしを、
めいっぱい楽しんでもいいだろう。
ママの後について女性用トイレに入
るのにも、今回は、なんのためらいも
なかった。
メイク直しやヘアスタイルのチェッ
クをしながら、僕は、ママとパパが、
僕をガールセンターに入れてくれたこ
361/806
とを感謝していると伝えた。
ママは、うれしそうな顔をしたが、
一方でちょっと戸惑ったようにきいて
きた。
「つまりそれは、もう、タオルを投げ
るってこと? ホリーの影響力が、あ
なたに最大限に働いたってことな
の?」
「そんなんじゃないわよ、ママ」
口紅を塗り直したところで、僕は言
った。
「タオルを投げるつもりはないの。で
も、この2年の間は、タオルをきちん
とたたんで、引き出しの奥にしまって
おこうって思ったの。もちろん、ママ
とパパがそれでいいのなら、だけど」
いきなり、息ができなくなるほど抱
きしめられていた。
「ママ、落ち着いて。そんなきつく抱
かれたら、あたし、死んじゃうわ」
362/806
「あっ、ごめんね。パパと私は、あな
たがこんなにいい子になってくれたこ
とに、いちいち感動してしまうの。こ
こで本当にやっていけるんだろうかっ
て、すごく心配してたから」
「あたしだって、自分に起こったこと
が、未だに信じられないんだもん。で
もねママ、女の子になってみたことは、
あたしにとってまちがってなかったと
思うの。少なくとも、今はね。もちろ
ん、将来は元に戻って、ホリーと結婚
したいって気持ちは、変わってないの
よ」
「それは、すてきだと思うわ。ホリー
は気だてのいい女の子だし、パパも私
も、彼女のことが大好きよ。でも、こ
こ何日か、あなたといっしょに過ごし
て、将来、あなたが男の子に戻るって
気持ちを持ち続けるかどうかは、よく
わからないって感じたわ」、
363/806
ママはけっして押しつけがましくは
ない口調で、でも、その目の中に、マ
マなりの思惑があることを示しながら
言った。
「あなたの年頃の女の子ってみんな、
女であることの意味を少しずつ学びな
がら成長しているんだと思うのね。あ
なたを見てて、それと、どこがちがう
のかなって感じがするの。若い女性と
して学びながら毎日を過ごしたあなた
が、もう一度男の子になりたいと思う
かどうか、パパとママは、何も言わず
にずっと見守ってるわ」
「ママ、あたしずっと、それが怖かっ
たし、今も怖いの。でも、その怖さっ
て、今は、ジェットコースターに乗る
時の怖さみたいな気もしてるのよ。あ
たし自身も、どこかでそれを、楽しん
でる気がする」
364/806
ママは、どちらかといえば、僕に女
の子でいつづけてほしいと思っている
気がしたが、そのことを、それ以上言
い立てることはなかった。
その代わり、ディナーの帰りに、何
冊かの女性雑誌を買ってくれた。同じ
年頃の女の子の気持ちがわかるように
ということらしい。
帰って読んでみたが、おおかたの特
集は、どうしようもなくくだらないも
のに思えた。カレが大親友と浮気した
だとか、ダンスパーティまでにニキビ
をなくす方法だとか、好きな男の子の
前に出ると何も言えなくなるだとか、
そんなことばかりが書かれていた。
ただし、いくつかの特集‥‥最新の
ヘアスタイルだとかファッションだと
かは、とても参考になった。自分自身
でやってみるために、また、通販でオ
ーダーをする候補として、僕は気に入
365/806
ったページに印を付けた。
11月初旬、正式な成績通知票が出た。
僕は、学年で一位の成績をとってい
た。一生懸命勉強したのが実ったのは
確かだった。
全教科のテストがA評価で、学科平
均値が4.0ポイント。これはもちろん、
僕がこれまでとった成績のうちいちば
んいいものだ。なにしろ、前の学校の
成績より2.5ポイント高い。
以前はクラスの道化でトラブルメー
カーだった人間が、全校一期待される
存在になったというのは、これはこれ
で、慣れるのがたいへんなことだ。
言うまでもなく、僕はすぐに、ママ
とパパに報告した。
この2ヵ月間で得られたママとパパ
からの信頼は、僕にとって最も大事だ
と思えるものになっていた。この成績
366/806
は、さらにそれを確かなものにしてく
れた。
パパはまた、愛する妻と娘をお祝い
のディナーに連れて行くと約束し、マ
マは、僕のおねだりショッピングにつ
き合うことを約束してくれた。
とはいえ、この前両親がたずねてき
た時以来、僕は一度も寮から外へ出て
いなかった。
自分が女の子としてパスできないの
ではないかという僕の不安は、そうと
う根深く、この前のショッピングやデ
ィナーだけでは、とてもぬぐい去るこ
とができないものだった。
もちろん、この前、なんの問題もな
かったのはわかっているし、僕のやさ
しい助言者ホリーは、僕が不安を語る
たびに、この頃では「もういい加減に
しなさい」と言う。それでも僕は外出
367/806
に自信がない。授業中のように、うま
くパスできるとはとうてい思えない。
学校では「できる子」になった自信が
あるから、なんとか女の子らしく振る
舞えているにすぎない気がするのだ。
僕がこんなに不安なのは、女の子と
いうものを知れば知るほど、男の子と
のちがいに気づくからかもしれない。
そのちがいは、けっして服やルックス
だけでごまかせるものではない。女の
子と男の子は、行動がまるでちがうの
だ。
たとえば、僕が男の子だった時、他
の男の子と会うと、たいてい握手して
いた。ところが女の子どうしの場合は、
かん高い声を上げ、抱き合うことにな
る。このガールセンターに来て3ヵ月
がたつというのに、僕はまだそれにな
じめないでいる。
ジルなどは、僕がそれに慣れるよう
368/806
にと、僕を見つけるとわざとそうして
くるのだが、それでも、そんな時、僕
はちょっと引いてしまう。
もちろん、ジルは本当にいい子だ。
それ以外に、彼女のことを表現する言
葉なんてない。
キュートで、男の子にモテて、いつ
も服のセンスがいい。でも、彼女の良
さはそんなことだけじゃない。それら
すべてを兼ね備えながら、なにより、
思いやりがあって面倒見がいいのだ。
もし、この学校でいちばん性格のいい
子は誰かという投票をしたら、必ずジ
ルが一位になるだろう。
なにか個人的に困った問題が起こる
と、みんながジルに相談する。家族と
の問題でも、男の子との問題でも、ジ
ルは親身になって聞いてくれ、気持ち
が楽になるアドバイスをしてくれる。
369/806
もし、ある女の子が特別なデートに
着ていくための服に困ったら、ジルに
頼めばいい。まちがいなく、その子に
いちばん似合う服が手に入るだろう。
そう、ジルはいい子だ。でもそれだ
けじゃない。その表情の下には、無尽
蔵の愛情のエネルギーを発する原子炉
が隠されている。
だから、彼女はハグが好きなのだ。
あのモールの女子トイレで僕を見つけ
た時のように、ハグしながら、まるで
踊るように飛び跳ねる。
相手の体がどれだけ大きくても、そ
して、彼女が飛び抜けて小柄であるに
もかかわらず、その抱擁は、相手を大
きく包んでしまう。
話を僕のことに戻そう。
とにかく僕は、自分が男の子だと見
破られることを死ぬほど恐れていた。
370/806
それは、言ってみれば、思春期拒食症
とかと同じようなレベルに達してい
た。
友だちはみんな、僕のことをかわい
いと言ってくれるけれど、僕は、自分
の姿を鏡で見ている時、そこにどうし
ても男の子が見えてきてしまう。たと
え、いちばんかわいい服を着ていても、
ヘアやメイクに何時間かけたとして
も、そんな恐怖をぬぐい去ることがで
きない。
ママとショッピングに行ったとき
も、ママやパパとのディナーでも、そ
の時点では楽しいと思えたのだが、帰
った時にはぐったりと疲れ切ってい
た。その間ずっと、女の子ならこんな
時どうするのかと考え緊張しつづけて
いたからにちがいなかった。
学校では、まあ、うまくやっている。
教室にいる時、僕は、自分をまったく
371/806
女の子だと感じている。
ところが、町に出たりすると、とた
んに僕は、強風の中の木の葉のように
震え出す。町行く人すべてから、男の
子だと見抜かれているような気がして
しかたがないのだ。
もちろん、ルックスにだってまだ問
題は多い。たしかに、上半身だけなら、
今の僕は女の子以外の何ものにも見え
ないだろう。口幅ったい言い方をすれ
ば、かなりかわいい子の部類だという
気もする。
でも‥‥。
たとえバストはにせ物でごまかせた
としても、全身に目を移せば、そうは
いかない。僕の体型が同じ年頃の女の
子とちがうことは、すぐわかるはずだ。
ヒップはボリュームがなさ過ぎるし、
女の子のお尻独特の丸みもないから
だ。
372/806
スカートなら、体型をあらわにしな
いものも多いからごまかしもきくが、
パンツではそんな弱点をもろにさらし
てしまう。スラックスを履いて女の子
らしく見せるには、もっとヒップの横
幅や丸みが必要なのだ。
ここに来たばかりの頃、よくホリー
が、ついつい仲間と自分を比べて落ち
込むことがあると話していた。
その頃の僕は、自分がそんなことに
思い煩うとは考えてもみなかった。そ
もそも、女の子として本気でパスした
いなどとは思っていなかったのだ。女
の子として暮らし、学校へ行くことに
抵抗を感じていたのだから、他の誰か
のようになりたいなどと思わないの
は、当然だろう。
でも、3ヵ月が過ぎた今、僕は、ホ
リーのことをうらやましくてしかたな
い。彼女のように、スラックスの似合
373/806
う幅のあるヒップや丸いお尻がほしい
と切実に思うのだ。
そんな僕の悩みに、救いの手をさし
のべてくれたのは、他ならぬホリーだ
った。
約束の両親とのディナーの日、僕は、
できれば、この前ママに買ってもらっ
たレザーのパンツ姿で行きたいと思っ
た。でも、この体型ではとても無理だ
とホリーに話した。
すると彼女は、そういうことならい
い解決策があると、いきなり自分のク
ローゼットの奥に首を突っ込み、そこ
に積まれたいくつかの箱の中をがさご
そ探し出した。
彼女がそこから持ち出してきたの
は、1枚のパンティのようなものだっ
た。他に、ラバーフォームでできた奇
妙な形のピースがいくつかセットにな
374/806
っていた。
「ホルモンの効果が出はじめるまで、
あたしが使ってたものよ」
ホリーはまず、そう説明した。
「特製のパンティガードルと、それに
入れるパッド。これで、キュートなお
尻ができるわ。最初は、お尻のまわり
に変な圧迫感があって、着け心地はよ
くないかもしれないけど、すぐに慣れ
るわ。鏡の前で着けてみて。きっと気
に入ると思うから」
彼女は、僕にパンティだけになるよ
うに言い、その間に、ガードルのサイ
ドやバックの内側にあるポケットに、
パッドを挿入した。
「あなたのものをきちんとタックして、
パンティをきつく引っ張り上げてくれ
る?」
「タック‥‥? なんのこと?」
僕は、愚かなことをきいたようだ。
375/806
そう、それはほんとに愚かなことだ
った。そこで、あきれたように首を振
ったホリーは、次には僕の顔を哀れそ
うに見つめ‥‥そしていきなり‥‥パ
ンティの中に手を突っ込み‥‥タマタ
マを体の中に押し込み‥‥小さくなっ
たウインナーを腿の間に折り曲げ‥‥
パンティの縁をつかみ‥‥あごにも届
かんばかりの勢いで引き上げた。
「‥‥ウッ!」
「次、ガードル! 履いたら同じよう
に引き上げる!」
僕が苦しみにもだえるすきを与えな
いよう、彼女は、海軍の指導兵が訓練
兵に示す種類のやさしさで言った。
「ア、アイアイサー」
僕は、下腹部につづけざまにくわえ
られた驚きと苦しさに息も絶え絶えに
なりながら答えた。
「できたら、鏡に向かって、まわれ右
376/806
ッ!」
そのやさしい指導兵ルームメイトの
命令どおり、ガードルを履いて引っ張
り上げた僕は、鏡を見た。
そして次の瞬間、ジルが見たらきっ
と喜ぶにちがいないやり方で、ホリー
を抱きしめ、飛び跳ねていた。
「すごーい! ウソみたい!」
僕はそう繰り返しながら、ホリーの
手を取り、部屋中を踊りまわった。
「これなら、あのスラックスが似合う
わ。早く見てみたーい!」
「そう、よかったわね。もうわかった
から、あたしの手を離して、さっさと
履いてみなさいよ」
ホリーは、僕のせいで目がまわった
らしく、うめくように言った。
「まったく、あなたったら、ジルの影
響、受け過ぎよ」
僕はあわててクローゼットに走り、
377/806
急いで新品のスラックスを引っ張り出
し、そそくさと足を通し、あせってフ
ァスナーを上げた。
「オー、イエイ、ベイビー。あたしっ
て、かっこいいぜい!」
鏡を見ながら、僕は自分の新しい体
型にワクワクしながら叫んだ。
「ほらね、女の子が本気になれば、男
の子はすごすご引っ込まざるを得ない
のよ。ルックスでも、知恵でも、それ
に、慎み深さでもね」
「ありがと、ホリー」
僕はそう言って、彼女のほおに姉妹
としてのキスを贈った。
「あなたはいつだって、あたしのいち
ばんの相談相手だわ」
その茶色のレザーパンツにぴったり
の白いシルクのブラウスを合わせたと
ころで、僕は、ベッドの下に手を伸ば
し、履いていく予定の靴を引っ張り出
378/806
した。3インチのとがったヒールのつ
いたパンプスだ。
「えっ? そんなの、履いてくつもり
なの?」
僕がストッキングの足をその靴に入
れるのを驚いたように見つめながら、
ホリーが言った。
「あなた、死ぬわよ」
「だいじょぶよ。じつはこの2週間、
あなたのいない時に、こっそり練習し
てたの」
僕はそう言って胸を張り、部屋を横
切ったところでくるっとターンしてみ
せた。
「この自然にお尻が揺れる感じ、すて
き」
「そんなふうに町を歩いたら、すれち
がう男の子たちがどんなふうになる
か、わかってるの?」
ホリーはからかうように言った。
379/806
「もしかして、前にあなたがディープ
キスした時の、あたしみたいになるっ
てこと?」
僕は、まつげにマスカラを塗りなが
ら、笑い返した。
「だってあたし、ちゃんとパスしたい
んだもん。誰かに男の子じゃないかっ
て疑われるくらいなら、その方がずっ
とましよ」
ホリーは、あきれたように小さく口
笛を吹いた。
「お姉ちゃんの言うこと、ぜんぜん信
用してないのね、この妹は。そこまで
やらなくたって、あなたはもう、まち
がいなく女の子よ」
ママとパパは、僕の着てきたものを
見て、ちょっと驚いたようだ。
「へえ、今夜は、スラックスなのか
い?」
380/806
パパがからかうように言った。
「この前はたしか、スカートかドレス
しか着ないって言ってたと思うけど」
僕は、パパを抱きしめ、キスしなが
ら言った。
「パパって、意地悪ね。せっかく、マ
マに買ってもらったかわいい服を見て
もらいたくて着てきたのに」
「ねえ、あなた。フェイスにすごく似
合うと思わない?」
ママが自慢げに言った。
「私もこれだけきれいならいいのにっ
て、自分の娘ながら妬けてきちゃうわ」
「あたしのママなんだもん、ママだっ
て、あたしの年頃にはそうだったでし
ょ。もちろん、今だってすごい美人だ
けど」
「うむ、頭がよくて、美人で、気だて
もいい。うちの子は、娘としての理想
像がワンパックになってるってわけ
381/806
だ」
パパは、そう言って笑った。
「こんな愛らしい娘が、前はどんなだ
ったか、もう私たちにも思い出せない
よ」
「ママ、パパ、大好きよ」
僕は、ちょっとうつむきながら言っ
た。
「それなのに、ひどいことばっかりし
てて、ごめんなさい。あたし、もう、
二度とあんなふうにはならない。約束
するわ」
「ママとパパも、君のことを心から愛
してるよ、フェイス」
パパは僕にキスしながら言った。
「こんな子供を持てたことは、私たち
のなによりもの誇りなんだから」
まるで魔法のような夜だった。
食事は、この前と同じようにおいし
382/806
くて、パパとのダンスは、この前以上
にすてきだった。踊っている間中、僕
は、自分のことを、本物の女の子だと
感じていた。
寮に帰った後、僕はホリーといっし
ょに写真を撮った。もし将来、なにか
つらいことがあったりしたら、この写
真を見てこの夜のことを思い出せば、
それだけで勇気が出る気がしたから
だ。
次の朝、ショッピングに行くために、
ママが迎えに来た。
服はもう十分にあったので、この日
は、ジュエリーショップでパパのお金
を使うことに決めた。
「わあ、ママ、それ、すごくかわいい」
ママの持ったネックレスを見て、僕
は思わず歓声を上げていた。細いチェ
383/806
ーンにぶら下がったエメラルドのまわ
りを小さなダイヤが取りまいている。
「でも、ちょっと高すぎない?」
「平気よ」
ママは、平然と言った。
「ほら、グリーンのワンピースがあっ
たでしょ。あれと合うと思わない?」
「え? ああ、あの、ママが買ってく
れた白いえりの?」
「そう、あなたの脚が、すごくきれい
に見えるやつ。あんなのでヒールを履
いて歩いたら、男の子たちはみんな、
のぼせ上がるわよ」
僕は、自分が、そのグリーンのミニ
のワンピースを着ているところを想像
し、ママの言うとおりだと思った。そ
の姿は、ものすごくかわいく、僕自身
の経験から言っても、あんな服を男の
子は大好きなものだ。
「で、でも、なんか怖いわ。あたし、
384/806
男の子をのぼせ上がらせたくなんか、
ないもん」
「それは、どうしようもないことなの
よ、フェイス」
ママは、そのネックレスと、ペアの
イアリングをお店の人に差し出しなが
ら言った。
「あなたは、これだけ魅力的な娘なん
だもん。男の子たちは、あなたのこと
を知りたくて、どうしたって近づいて
くるわ。それにね、そんな経験が、女
の子が大人になることのすべてだって
言ってもいいくらいなのよ」
「でもママ、あたしは、女の子として
大人になる気はないのよ。男の大人に
なって、ホリーと結婚するんだから」
「それはそれで、すてきなプランだと
思うわよ」
ママは、今度はレディスウォッチと
ブレスレットを見ながら言った。
385/806
「でも、あなたは、ここにいる2年の
間、デートもしないつもり? それは
あなたの年頃として、けっして健康な
ことじゃないわ。ホリーに聞いたんだ
けど、あそこの女の子たちは、たいて
い、このあたりの男の人とデートして
るんでしょ。中には、本当に女性にな
って結婚しちゃったカップルまである
っていうじゃない。もちろん、ママと
パパは、そこまでは望まないけど、あ
なたに、もっと若者らしい楽しみも持
ってほしいと思ってるのよ」
ここでママと論争してみても、得な
ことは何もないだろう。要するにママ
の言っていることは、2年間女の子で
いるのなら、その役を楽しんでほしい
ということにすぎない。
もちろん僕は、男とデートする気な
んてさらさらない。ても、この場でそ
れを言い立てて、せっかくのご機嫌を
386/806
損ねたくはない。そう考えた僕は、マ
マの言い分を聞いたふりをしておこう
と思った。
「うん、考えてみるわ、ママ」
僕は、とりあえず約束した。
「そんなに、いやがることじゃないの
かもね」
いや、ぜったいに、いやだ!
僕はやっぱり、女の子が好きだ。つ
まり、その、本物の女の子が‥‥そう、
ホリーこそ、僕にとっての本物の女の
子なのだ。
2年間、僕自身が女の子でいなけれ
ばならないのはしかたないとしても、
そのせいで、男とデートしたくなった
り、神様の禁じているようなことをし
たくなったりはしないはずだ。
「わかってくれたのね。いい娘よ、フ
ェイス。ところで、これとこれ、どっ
ちの腕時計が欲しいの?」
387/806
それに、僕の思っていることは、マ
マの思いとそんなにかけ離れているわ
けでもない。
一時的であるにしろ、僕は今女の子
だ。女の子らしいデートをしろという
なら、してもいい。ただしそれは、ホ
リーを誘っての女の子どうしのデート
という意味でだが。
少なくとも、ママにまったくのウソ
をついたわけではない。
ところが、寮まで送ってきてくれた
ところで、ママは、僕のそんな思惑を、
みごとに打ち砕いてしまった。
「フェイスは、さみしい思いはしたく
ないんですって」
部屋までついてきたママは、中に入
るなり、ホリーに声をかけた。
「男の子とのおつきあいに慣れるまで、
ダブルデートとかに誘ってくれるとう
388/806
れしいんだけど」
その言葉にこちらを向いたホリー
も、一瞬にして僕の思惑を見抜いたよ
うだ。
「ええ、あたしも大賛成だわ。彼女は
これだけかわいいんだもん。目の前に
楽しいことがあるのに、部屋に一人で
引きこもってるなんて、もったいない
わ。彼女が気に入るような男の子2人、
心当たりもあるし」
「ありがとう、ホリー、よろしくお願
いね」
もしホリーがもう少し近くにいたな
ら、そして、ママがもう少しドアの外
にいたなら、すぐにホリーに仕返しし
てやるところだ。
「感謝してるわ。あなただけが頼りよ」
ママは、にっこりと笑って出て行き
ながら、さらにつけ加えた。
「何かあったら、報告してね」
389/806
「よろこんで。ミセス・ジョーダン」
ホリーは、ママの後ろ姿に向かって
そう叫んだ。
「‥‥ふふ、ママの言葉は取り消せな
いわよね」
ドアが閉まったところでホリーはに
んまりと笑った。
「つまり、あなたが思ってたほど、マ
マは馬鹿じゃなかったってことでし
ょ」
「ね、ねえ、あたしと男をくっつける
なんてこと、マジで考えてるわけじゃ
ない‥‥でしょ?」
「あなたのママとの約束だもん。あた
しだって破れないわ。それに、あなた
としても困るんじゃない? だって、
あなたとあたしが結婚したら、お母様
はお姑さんだもの」
「そ、それはべつに気にしなくていい
んじゃないかな」
390/806
「でも、あなたがデートを断りつづけ
るとしたら、それはそれで、ママにも
報告しなきゃいけないわけだしぃ」
ホリーは、そう脅してきた。
「ふふ、もう、あきらめたら? たぶ
ん、ママがこの話を持ち出した時点で、
あなたは負けてたのよ」
ホリーの言うとおりなのだろう。
ママは、もっと前からこんな成り行
きを考えていたにちがいない。そして、
すべてを読んでいたのだ。僕がどんな
反応をし、どうごまかすかまで。要す
るに、全部が、ママの策略だったとい
うことだ。
僕をショッピングに連れ出し、気軽
な感じでデートの話を持ち出す。その
あと、寮に戻ったところで、小さな罠
を仕掛ける。すべて読みどおりだ。
彼女は自軍の目的達成のためなら、
どんな障害でも乗り越える能力を持っ
391/806
た優秀な将軍なのだ。彼女が指揮して
いたなら、第二次大戦も1ヵ月でかた
がついたにちがいない。敵方は、ママ
のやり方を目にしたとたん、戦う気を
削がれ、降伏しただろう。
「お願いだから、忘れて」
僕は、嘆願していた。
「もし、男にキスなんかされたら、あ
たし‥‥僕、気が狂っちゃうよ」
僕は、この時、必死の思いで本音を
吐露していた。
おそらく、そんな切実さが伝わった
のだろう。ホリーはそこで話をやめ、
その後も、デートの件は持ち出さなか
った。もちろん僕も、そんな話題には
触れないよう心がけた。
そのせいで、僕らの間には、どこか
気まずい雰囲気が漂った。でも、そん
な雰囲気にせよなんにせよ、つづけて
392/806
やって来た感謝祭シーズンは、ものご
とが一巡し、新たな物語が始まる1年
の節目だ。
その連休中、僕らふた家族は、ホリ
ーの実家でパーティをし、いっしょに
過ごすことになった。
都合のよいことに、どうやらママは、
この前の成り行きを忘れているよう
で、僕は、ホリーのママが料理したお
いしい七面鳥を安心して満喫すること
ができた。
七面鳥に限らず、すべての料理がお
いしかった。そのせいで僕は、自分の
皿に取り分けたぶんをあっという間に
平らげてしまった。
そして、料理を追加しようと手を伸
ばしかけた時だった。
「ダメよ。そんなガツガツするなんて、
女の子らしくないでしょ。それに、こ
393/806
れ以上食べたらブタになるわ」
そんな声が、どこからともなく聞こ
えた。
どきりとして手を引っ込めた僕は、
今のは誰だったのかときょろきょろし
た末、それが、自分自身の心の声だっ
たことに気づき、愕然とした。
外泊許可をもらって学校を離れ、し
かも、自分が本当は男の子だというこ
とを知っている人たちに囲まれている
というのに、僕には、男の子に戻って
くつろぐことができなくなっているの
だ。
数ヵ月、女の子を演じつづけてきた
ことで、それがすっかり身についてし
まっている。どうやらもう、それ以外
のものとして振る舞えなくなっている
らしい。
「フェイス、君はほんとにいいお嬢さ
394/806
んだね」
食後のかたづけを手伝ってテーブル
を拭いていると、ホリーのパパが声を
かけてきた。
「学校の成績もいいんだってね」
「ありがとうございます」
ほめてもらえたのがうれしくて、僕
はにっこりと笑い返した。
「たぶん、授業が面白いからだと思い
ます。先生の教え方がいいのかしら。
幾何だって、全然むずかしいって思わ
ないんです」
「ママから聞いたでしょ。フェイスは
学年でトップなのよ」
皿をかたづけていたホリーが言っ
た。
「幾何なんて、彼女に教えてもらって
る子たちがいっぱいいるんだから」
「へえ、そんなに幾何が得意なの?」
ホリーの兄、ロバートがきいてきた。
395/806
僕は、ついつい自慢したくなって言
った。
「今ホリーが言ったように、いちおう
学年でいちばんよ。全教科A評価」
「えっ、幾何もAなの?」
その驚きようから、彼がそれを苦手
にしているらしいのがわかった。
「じつは前に、どんなものかと思って、
ホリーの教科書を見せてもらったこと
があるんだ。君は、あんなのが理解で
きるわけ? 僕の教科書より、ずっと
むずかしかったぜ」
「さあ、それは、よく知らないけど‥
‥」
僕は笑いながら、肩をすくめた。
「あたしは、そんなにむずかしいと感
じないわ」
「あのさ、人にこんなこと頼むのは、
あんまり好きじゃないんだけど、じつ
は来週、幾何の大事なテストがあるん
396/806
だ。困っててさ。もし、いやじゃなか
ったら、ちょっと教えてくれないか
な?」
ロバートは、本当に困り果てている
ようだ。学校で、僕を頼ってきた女の
子たちと同じ顔をしていた。
「いいわよ。じゃ、デザートのあとで
ね」
そこで、ミセス・ビンクラーのアッ
プルパイが出てきた。たっぷりのホイ
ップクリームとひとさじのアイスクリ
ームがトッピングされた、小さい頃、
ハリーの家でよくごちそうになった味
だった。
それを食べ終わったところで、ロブ
と僕は、幾何の勉強をはじめた。
「君って、ほんとに幾何が好きなんだ
ね」
僕が、問題を解くためのウラ技をい
くつか披露したところで、ロブが言っ
397/806
た。
「まさか、こんなやり方があったなん
て!」
「幾何なんて、ややこしく考えなくて
もいいのよ」
僕は笑いながら言った。
「すじみち立てていけば、全部解ける
わ。あとは、基本的な定理だけ、サボ
らずに覚えておくことね」
僕は、そのあともいくつかの例題を
解いてみせ、それから、ロブ自身に問
題をやらせていった。彼は、自分だけ
で問題が解けたことに、うれしそうな
顔をした。
「君たちの学校って、やっぱり先生が
いいんだな」
半ダースほどの問題を解いたところ
で、ロブが笑いながら言った。
「僕も、転校しようかな?」
その言葉に、僕は、彼の顔を見なが
398/806
ら大笑いしてしまった。
身長6フィート2インチ(約188セン
チ)、広い肩幅、男っぽい顔つき‥‥
それが、プリーツスカートを履き、か
わいらしいブラウスを着ている姿を想
像したからだ。
「うちの学校が、あなたに向くとは、
ちょっと思えないけど」
やっと笑いを納め、僕は言った。
と、そこに、ホリーが口をはさんで
きた。
「べつに、先生のおかげじゃないわよ。
だって、彼女とあたしは同じ授業を受
けてるのよ。それなのに、あたしは、
テストの前になると、彼女に教えても
らってるの。結局、あたしたちの目の
前にいるのは、天才ってことよ」
その言葉に、僕は顔を赤らめていた。
そして、ロブが、そんな僕をじっと見
つめているのに気がついた。
399/806
「君って、すごいヤツなんだね」(※)
ロブが言った。
そのとたん、ミセス・ビンクラーが
激昂した。
「ロバート、そんな失礼なこと、言う
もんじゃありません!」
(※訳注
原文は"You're a guy, aren't you?"
‘guy’は、単数では通常、男にしか使わな
い
しかし、若者言葉では「すごいヤツ」「か
っこいいヤツ」という敬意を込めた‘a guy’
を女性に対して使うこともある
ロバートはそ
のつもりで言ったのだが、母親の世代には「君
って男だね」としか聞こえなかったわけだ)
「こんなすてきなお嬢さんに、なんて
こと言うんですか。すぐ謝りなさい」
「ご、ごめん、フェイス。そういう意
味で言ったんじゃないんだ。君の教え
方が、ほんとにうまかったから‥‥。
それに君は、僕がこれまで聞いてたこ
とから想像してたのと、全然ちがう人
400/806
だったから‥‥。いや、つまり、その
‥‥、理科室に放火した悪ガキだとか、
昔ホリーといっしょにぐれてたとか‥
‥」
「ええ、そのとおりよ」
僕は、自分の顔が、また火照るのを
感じた。
「というか、そのとおり、だったわ。
今はちがう‥‥つもりだけど」
ロブの目の中の何かに、僕は怯えて
いた。
いや、彼が僕を傷つけたりしないの
はよくわかっていた。でも、なにか遠
いものでも見つめるようなそのまなざ
しに、彼が僕に対して何を思っている
のかが、やたら気になった。
「もしそれがほんとだとしても、きっ
と、ずーっと昔のことだね」
「もしかして‥‥前世?」
気がつくと僕は、彼を見返し、かわ
401/806
いらしく笑っていた。
なにかが、起こっていた。
この男は僕にエサをちらつかせ、僕
はそれにぱくりと食いついていた。
「生まれ変わるのは、たいへんだった
んだろうね」
ロブが向けてきたほほ笑みに、僕は
奇妙な感覚を抱いた。何か暖かいもの
が、僕を包み込んでいくような‥‥。
僕もそれにほほえみ返し、それから
僕らは、会話に没頭した。
ふと気がつくと、すでに30分くらい
がたち、ホリーもふくめ、僕らのまわ
りから人がいなくなっていた。
そのあとも、僕は、ロブとの楽しい
時間を過ごし、ふたりで笑い合いなが
ら話をつづけた。
彼は、その妹と同じくらい面白くて
すてきな人だった。こんなに楽しい人
となら、僕は一生つき合っていけるだ
402/806
ろうと感じた。
ホリーと結婚して、義理の兄弟にな
ったあとも。
翌朝、ふた家族いっしょに朝食をと
っている時、ロブが、町でクリスマス
セールが始まっているから、もしホリ
ーと僕が行きたいなら、車に乗せて行
くと言いだした。
僕はもちろん遠慮しようとしたのだ
が、すかさずロブが笑いかけ、何も心
配はいらないと言った。
「たとえば僕の友だちに君を紹介して、
本当は男なんだと言ったとしても‥‥
もちろん、そんなこと、ぜったいしな
いけど‥‥、いくら僕が一生懸命説明
したところで、そいつは信じないだろ
うね。君はほんとにかわいいし、表情
や仕草だって、僕が知ってるどんな女
の子より女の子っぽいんだもん。君自
403/806
身は自信がないみたいだけど、君はど
っから見ても女の子そのものだよ」
ママからも同じようなことを何百回
となく言われ、そのたびに僕は、それ
を強く否定してきた。でも、ロブに言
われ、僕はただ顔を赤くして、笑い返
しただけだった。
彼の声の中にあるなにかが、それに
彼のほほ笑みが、僕を安心させてくれ
る気がした。それにしても、なぜ、彼
が僕のことを女の子だと思ってくれて
いることが、こんなにうれしいんだろ
う?
実際の話、僕が迷いを捨てて出かけ
る決心をしたのは、そのうれしさのせ
いだったと思う。ロブば、女の子なら
誰でも好意を抱くにちがいないかっこ
いい男だ。そんな人から、女の子、そ
れもかわいい女の子と言われれば、や
っぱり悪い気はしない。
404/806
僕は、急いでバッグとコートをつか
み、ホリーといっしょにセールに出か
けた。
服についてはもう十分に持っている
ので、当初、買うつもりはなかった。
でも、もうすぐやってくるクリスマス
休暇にぴったりのドレスが目にとま
り、試着してみた。
真っ赤なベルベットでハイウエス
ト。白いレースの胸当てがつき、半袖
のまわりにもレースのアクセントがつ
けられている。
ただ、残念だったのは、スカートの
丈が太腿の真ん中くらいまでしかない
ことだ。これほどのミニでなければ、
完璧なドレスなのに‥‥。
「あら? それ、買わないの?」
僕がそのドレスを、ハンガーラック
に戻していると、ホリーが言った。
405/806
「うそでしょ、あんなに似合ったのに」
「こんなの着たら、ひどい風邪ひいち
ゃうわよ」
笑いながらも僕は、ホリーがそう言
ってくれたことがうれしかった。こん
なに肌を露出する服でも、僕は似合う
んだ。
「ほんとに、本気かなあ?」
彼女は、からかうような目で見てき
た。
「たとえば、クリスマスの日にドレス
アップしたあなたを想像してみて。ヘ
アスタイルやメイクはいつもどおり完
璧ね。で、このドレスを着たあなたは、
セクシーな脚やお尻を、みんなに見せ
びらかすの。靴は、あの茶色のとおん
なじようなパンプスの赤ね。あなたは
きっと、ほんとにきれいに見えるでし
ょうね。でも、もっと大事なことは、
そんなふうにすることで、あなた自身
406/806
が、自分がきれいだって思えることよ。
そしたら、あなたはもう、自分のこと
を、女装したティーンエージャーの男
の子だなんて思えなくなるはず。他の
人があなたを見るのと同じように、き
れいで、自信に満ちて、エレガントな
若い女性だって感じるんじゃないか
な」
「あたしがそんなふうになれたら、マ
マはきっと、すごく喜ぶわね」
僕は、まずなにより、それを強調し
た。
「ママったら、あたしがここにいる間
は、女の子のすることならなんでもし
て欲しいって思ってるみたいなの。あ
なたと同じように、外に出かけろって
しつこいし。メイクでも、セクシーな
衣装でも、似合いそうなものならなん
でも試せって。ティーンエージャーじ
ゃなくて、もっと大人の女になったあ
407/806
たしを、ママはきっと見たいでしょう
ね」
「そうよそうよ、フェイス。あなたが
着たいわけじゃないとしても、ママを
喜ばせるために着てあげれば?」
「そうね。あなたの説得力には負ける
わ」
僕は、くすっと笑って、買いものの
山に、そのドレスを追加した。
「あたしは、あなたに強く勧められて、
これを買ったってことにしといてよ。
それにしても、娘に甘いママとパパを
持ってるって、幸せね」
「ふふ、それを着た瞬間から目つきが
変わって、すっかりその気だったなん
て、あたし、ぜったい言わないわ」
「さあ、なんのことかしら?」
僕は、試着室の中で見た自分の姿を
思い出し、ついつい顔がほころんだ。
408/806
そのあと僕らは相談し、けっきょく、
ホリーも同じデザインのドレスを買う
ことになった。ただし、色ちがいのグ
リーンだ。クリスマスパーティでは、
家族たちの前に、本当の姉妹のような
おそろいの服で出て行こうと決めたの
だ。
そのために僕らは、そのドレスに合
うかわいいランジェリーと、極薄でシ
ルキーな高級パンストも選んだ。これ
は、僕たちを、思い切りセクシーでフ
ェミニンな気分にしてくれるはずだ。
たぶん、ホリーの両親は、ホリーが
そんな格好をしてもあまり驚かないは
ずだ。それに、僕のママも、僕の格好
にびっくりしたりはしないだろう。
でも僕は、うまくいけば、みんなの
注目の的になれるかもしれないと思っ
た。両方の家族の男たちが、僕を見て
どう思うか、それが楽しみだ。特に、
409/806
ロブがどんな顔をするのかと思うと、
その日が待ちきれない気がした。
結局はめいっぱい買ってしまったそ
のショッピングを終え、ホリーの家に
戻ったところで、ロブが、僕とホリー
に「トリビアゲーム」(※)をやろうと
言ってきた。
(※訳注
いわゆる「雑学クイズ」形式のパソ
コンゲーム
時間内に何問できるかを競う
ア
メリカでは、市販品だけでなく、さまざまな分
野のトリビアゲームソフトがネット上で配布さ
れている)
それで、3人でゲームを始めたのだ
が、そのうち僕は、ロブの関心が、ゲ
ーム自体より僕に向いているらしいこ
とに気がついた。
「ショッピングは、どうだった?」
ロブは、ゲームを始めるとすぐにき
いてきた。
410/806
「なにか、気に入ったものがあった?」
「ええ、楽しかったわ」
僕は、彼がゲームに集中するよう、
微笑とともに社交辞令的な答えをし
た。
「おかげで、すてきなものがいっぱい
買えたわ。どうもありがとう」
それで、ロブの気を削いだつもりで
いたのだが、10分もしないうちに、ま
たこんなことをきいてきた。
「どう? 学期末の優等表彰を受けら
れそう?」
「そんなこと、今は関係ないでしょ」
僕はそう答えたが、ちょっと侮辱さ
れたような気もしてつづけた。
「もうこれまでの3ヵ月間で、自分で
も信じられないくらいの成績を取って
きたのよ。それでも、あたしにはその
資格がないかしら?」
「あっ、ごめん。そういう意味じゃな
411/806
くて、プレッシャーとかあって大変だ
ろうなって。いや、もちろん僕は、君
こそ、ぴったりの人だと思ってるよ」
ロブは、その最後の部分を、なぜか
僕の目を真正面から見つめ、ほほ笑み
かけながら言った。
‥‥ん? ぴったり‥‥って? も
しかして今のは、成績の話じゃない
の?
僕はどこかで、彼がそこに別の意味
を込めたのに気がついていた。そのせ
いで、心の中がざわめくのを感じた。
僕は、話題をゲームに戻そうと思っ
た。それなのに、そのブルーの目に引
き込まれるように見入っていた。僕の
目に向かって注ぎ込まれるそのほほ笑
みから目がはなせなくなっていた。
結局、僕にできたことは、顔を赤ら
めながらかわいらしくほほえみ返し、
「ありがとう」と言うだけだった。
412/806
クソ! こいつはまちがいなく僕の
ことを女の子として扱っている。
そして、またしても僕は、そのエサ
に食らいつき、それをおいしく食べて
いた。
と、ロブは、そのほほ笑みを僕の視
線からはずし、やっとゲームに戻った。
僕はそれにほっとしたのだが、一方
でそれがなんだか悲しいことのような
気もした。
さっきからロブが僕にばかり興味を
示すことに腹を立てながらも、僕の中
のなにかが、確実にそれを期待してい
た。
彼が、「君こそ、ぴったりの人」と
言った時、僕はそれを、優等表彰の話
などではなく、彼からのある種の告白
としてとらえていた。そして、そのメ
ッセージをうれしいと感じている自分
がまちがいなくいた。
413/806
今、ロブはまたゲームに集中してい
たが、それを見て、僕はなんだか置い
てけぼりにされたような気持ちになっ
た。彼がまた、僕に顔を向けてくれた
らいいのにと感じた。
それで、彼が話しかけてくるように、
僕の方から彼に関することを話題にし
てみようと思った。
「ねえ、ホリーに聞いたんだけど、あ
なたって、映画ファンなんでしょ?」
僕は、安っぽく見えないように気を
つけながら、やわらかいほほ笑みを彼
に向けた。
「じゃあ、今の『風と共に去りぬ』の
問題なら、簡単にわかったんじゃない」
「ああ、そうなんだけどさ、ど忘れし
たんだ」
彼は、そう言って肩をすくめた。
「ちょっと他のことが気になってるせ
いかな、集中力が欠けてるんだ。君が
414/806
さっき、60年代ファッションの問題で
まちがえたのと同じだよ」
「だって、あたし、60年代なんてまだ
生まれてないんだもん。それに、ファ
ッションが得意分野ってわけでもない
のよ」
僕はそう言って、ほほ笑みながら、
髪を掻き上げていた。
‥‥えっ? 僕は、なにやってるん
だ?
無意識にしたことではあったが、今
のがあきらかに男の気を引くための仕
草であることに気づき、僕はおろおろ
した。
でも、幸いなことに(えっ?)、ロブ
もすぐにその仕草の意味に気づいてく
れたようで、僕を見る目つきが変わっ
た。
そう、確かに僕は今、彼の気を引こ
うとした。でもそれは、頭で考えてや
415/806
ったことではないのだ。これはどうや
ら、このいまわしい3ヵ月間、女の子
としてものを見、女の子として行動し、
女の子として扱われてきた経験から自
然に身についてしまったものらしい。
そしてそれは、考え方や、感じ方にま
でおよんでいるようだ。
僕はふたたび、僕に向けられた青く
て大きい瞳やすてきなほほ笑みに、吸
い込まれるように見入っていた。
「でも、最新ファッションの問題だっ
たら、強いんじゃない?」
ロブはやはり、会話をつづけてきた。
「君を見てると、その分野だったら得
意だなって、よくわかるよ」
「ふふ、ありがとう。あなたの得意分
野は、きっとスポーツね。なんだか、
見るからにジョック ( ※ ) って感じだ
し」
(※訳注
‘jock’
アスリート‘athlete’と
416/806
ほぼ同じ意味で使う口語だが、
「スポーツ馬鹿」
的なニュアンスもある)
「ちぇっ、幾何ができないからって、
馬鹿だって思わないで欲しいな」
ちょっとまずったかもしれない。冗
談めかしていながらも、彼の声には、
あきらかにプライドを傷つけられたと
いう響きが混じっていた。
僕は、けっして馬鹿にするつもりな
どなかった。むしろ、彼をほめたかっ
たのに‥‥。
「なんでそんなふうにとるの? あた
しは、寮でも他の女の子たちの勉強を
よく見てあげるけど、彼女たちのこと
を、馬鹿だなんて思ったこと、一度も
ないわ」
「う、うん、今のこそ、まさにジョッ
クの劣等感まる出しだったかも‥‥」
「だから、馬鹿だなんて思ってないっ
てば。スポーツが得意そうな男らしい
417/806
人だって言いたかっただけ。実際に、
なにかやってるんでしょ?」
それにしても、なぜ僕は、彼の機嫌
をとることに、こんなに一生懸命にな
っているんだろう? なぜ彼に、もう
一度ほほ笑んで欲しいと思ってるんだ
ろう?
「ホリーから聞いてない? 学校の野
球部では、いちおうレギュラーで2塁
を守ってるんだ」
どうやらロブは、そのポジションに
誇りを持っているように見えた。ここ
は、もっと掘り下げるべきだ。
「へえ、初めて知ったわ。ホリーった
ら、そんなことなんにも言わないのよ。
もしかして、MVPだって獲ったこと
あるんじゃない?」
と、彼の口の端が見る見る上がって、
その目が輝きだした。
大正解! 天は我に味方した。
418/806
僕が待っていたのは、こんなすてき
なほほ笑み‥‥よ。
「入学した年にね」
ロブは、胸を張って言った。
「1年生がタイトルを獲ったのは、学
校設立以来初めてのことなんだって
さ」
「へえ、すご~い。打率はどのくらい
だったの?」
野球は、かつて僕の好きな話題だっ
たが、今はそんなに関心があるわけじ
ゃない。でも、もしそれで、ロブが気
持ちよくなってくれるなら、僕はもっ
とつづけたいと思った。
「あのシーズンも、そんなに悪くはな
かったな。3割2分3厘だったかな」
ロブは、自分の成し遂げた成果を、
あきらかに謙遜していた。1年生でM
VP、しかも打率3割2分3厘って‥
‥すごい。
419/806
「ロブは今、照れて言わなかったけど、
今シーズンもMVPだったのよ。一試
合3打点ってゲームが何度もあった
し、通算出塁率は3割9分7厘!」
ホリーが脇から言った。彼女が、兄
のことを誇りに思っていることはまち
がいなかった。
「あたし、ロブを応援するために、今
シーズン、ホームゲームは全部行った
のよ」
「あっ、いいな。あたしも、見に行き
た~い」
僕は、実際にも、この男に畏敬の念
を持ち始めていた。野球のことなら知
っているし、その数字を聞けば、この
男に輝かしい才能があるのは、よくわ
かった。
「来シーズンは、君にも試合の予定表
を送るよ」
彼は、すかさずそう申し出た。
420/806
「スタンドにこんな美人ファンが2人
も来てたら、チームの連中に、うらや
ましがられちゃうな」
「ほんとに送ってね。ぜったい行くか
ら。あたし、野球、だ~い好き!」
‥‥ん? 今、僕は、野球が「だ~
い好き」って言ったか?
たしかに子供の頃から、野球はよく
やってたし、大リーグの中継だってよ
く見た。でも、僕はいつから、野球が
「だ~い好き」になったんだ?
しかも、もっと悪いことには、その
「だ~い好き」が、野球そのものに対
してではなく、今、僕のことを「美人」
と言ってくれた人に対して言ったよう
に聞こえたことだった。
僕は本当に野球が見たいのだという
ことを、ちゃんと伝えなければいけな
い。でも‥‥。
彼が、僕のことをかわいいと思って
421/806
くれてるんなら、わざわざそれを訂正
する必要もないし‥‥。
今やロブは、まるで、欲しくてしょ
うがなかったおもちゃを手に入れた子
供のように、目を輝かせていた。
もしかしたら‥‥いや、たぶん、そ
のおもちゃというのは、僕なんだ!
胃のあたりで、不吉な予感のような
ものが渦巻いていた。
それにしても、なんでこうなっちゃ
ったんだろう?
僕は、友だちと、その兄貴といっし
ょに、他愛ないゲームをしているだけ
のつもりだったのに、いつの間にか、
その兄貴の方といちゃつくような会話
を交わしている。
僕は、男になんて興味はないはずだ
った。僕が求めていたのはホリーだっ
たはずなのに、気がつけば、その兄の
方に顔を向けていた。
422/806
幸いなことに、そんなことをしてい
るうちに夜も更け、僕は、ロブからの
プロポーズを聞かずにすんだ。
「さっきのは、いったい何だったの?」
ホリーのベッドルームで寝る仕度を
調えながら、僕は彼女にきいた。
「あなたの兄さんが、羊の皮をかぶっ
た狼だってこと、なんで教えてくれな
かったの?」
「ロブは、狼なんかじゃないわ」
ホリーはまず、それを厳密に訂正し
た。
「彼は、まちがいなく、あなたのこと
をかわいいと思ってるし、あたしの見
るところ、近いうちにデートに誘うつ
もりよ。もし、いやなら、断ればいい
わ。兄さんの学校には、少なく見積も
っても20人は、あなたの代わりになり
たがってる女の子がいるんだから」
423/806
「よかった。それなら、断るとき、胸
が痛まないわ」
「あっ、それはちょっとひどいんじゃ
ない? もしつき合うつもりがないん
なら、なんであんな、期待を持たせる
ようなことしたのよ」
僕がネグリジェをかぶったところ
で、彼女は言った。
「そう仕向けてたのは、どう見てもあ
なたの方でしょ」
「べ、べつにあたしは、仕向けてなん
かいないわよ」
僕は、ヒップに引っかかったネグリ
ジェを整えながら、反論した。
「彼の方から野球の話を始めて、試合
を見に来てくれと言ったのよ。彼はほ
んとにすごい選手らしいから、試合を
見れば、あたしもきっとファンになる
でしょうけど、それにしたって、あた
しはなんの誘導もしてないわ」
424/806
「野球の話が出る前にちょっかいを出
して、話をそっちに持ってったのは
誰?」
ホリーは、こちらの目をのぞき込む
ようにしてきいてきた。
「ジョックとか言っちゃってさ」
「だって、いかにもジョックって感じ
がしたんだもん。背は高いし、がっち
りしてるし、筋肉もよくしまってるし
‥‥」
「へえ、彼の筋肉をチェックしてたわ
けね」
ホリーは、今度はからかうように僕
の方を見てきた。
「あなたはずっと、あたしのことが好
きなんだと思ってたんだけどなあ。き
っとあなたも、野球をしたらいい選手
になれるわね。最高のスイッチヒッタ
ー」
「も、もちろん、あたしが好きなのは、
425/806
あなたよ!」
僕は、彼女の笑い声にちょっといら
つきながら言った。
「あたし、あなたの兄さんにしても、
他の男の子にしても、そういう目で見
たことなんてないもん」
「そうだ。あなたのママとの約束、ロ
ブで試せばいいじゃない。どうして、
そうしないの?」
「どうしてって、そりゃあ、彼は男だ
からよ。そして、あたしもそうだから」
僕は、強く主張した。
「あたしが、男の子なんかに興味を持
ってないってことは、この前納得した
んじゃなかったの?」
「この前はね。でも、もう信じてない
わ。要するに、あなたはまた怖がって
るだけね。女の子でいることが好きだ
って認めたがらなかった時とおんな
じ」
426/806
「あの時だって、あたしは、怖がって
なんていないって言ったでしょ。今だ
って‥‥」
「じゃあ、どうして、兄さんとつき合
おうとしないの? それとも彼は、魅
力がないってこと?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あなたは、
いろんなことをごっちゃにしてるわ」
僕は、飛躍の多い彼女の言い分を、
順にかたづけていこうと思った。
「あたしは、そんなこと、ひと言も言
ってないでしょ」
「そうよね。つまり、結論としては‥
‥あなたは女の子でいることが好き。
そして、ロブに魅力を感じている。こ
れでいい?」
どう考えても彼女は混乱している
が、彼女の中では、勝手に結論が出て
しまったようだ。
僕は、あきらめて寝ることにした。
427/806
4連休の3日目、僕は、一日のんび
りとテレビを見たり読書したりして過
ごそうと決めた。
ホリーとミセス・ビンクラー、それ
に僕のママは、またショッピングに出
かけようとしていたが、僕は、それを
断った。きのう、ホリーにモールの人
混みの中を連れまわされ、疲れていた
からだ。
「ロブと二人きりになっちゃうけど、
だいじょうぶ?」
出かけるための着替えを手伝ってい
る時、ママがきいてきた。
「パパとミスター・ビンクラーは、い
っしょに釣りに行くとか言ってるし」
「だいじょぶよ」
ママが僕のことをそんなふうに心配
しているのが、ちょっとおかしいよう
なうれしいような気がした。
428/806
「ロブは、いい人だし、一緒にいても
いやな思いなんてしないわ」
「いってきます」のいくつかのキス
を残し、ショッパホリック (訳注 買い
物中毒者)たちが出かけると、つづけて、
魚を捕るためなら凍えることをもいと
わない勇者たちが出発して行った。
「凍った魚が欲しいなら、スーパーマ
ーケットで買えばいいのに」
パパたちの車が出て行くのを見送り
ながら、ロブが皮肉った。
「なんで、わざわざそんなことするの
かな」
「そこには、大きなちがいがあるのよ。
凍った魚はスーパーにいるけど、凍っ
た釣り人はいないもの」
僕の受け答えは、なかなかいい線行
っていたんだろう。ロブもそう感じた
にちがいない。だって、これだけ大受
429/806
けしているんだから。
「君って、ほんとに面白いね」
やっと笑いがおさまったところで、
ロブが言った。
「ねえ、またトリビアゲームでもやろ
うか? 1対1でも、それなりには楽
しめるだろ」
「トリビア(※)であるかぎりはいいわ。
それ以上なら、わからないけど」
(※訳注
「ささいなこと」つまり、重大事で
なければいいと言っている)
「君は、テレビに出られるよ」
ロブはゲームを立ち上げながら言っ
た。
「そのへんのコメディアンより、ずっ
と面白いもん」
ロブと僕は、ゲームをしている間中、
そんなふうにジョークをかわし合って
いた。それが終わる頃には、僕は彼の
ことを、これまで会った人たちの中で
430/806
も最高に楽しい人だと感じていた。
彼は僕を笑わせつづけ、特に、僕が
勝ちそうになると、顔を寄せて「プー」
と言ったり、他にも馬鹿なことばかり
して、僕の気を散らそうとしてきた。
僕は当然、そんな不正行為に抗議した
のだが、そうするまでもなく、彼は負
けつづけた。まあ、当然の報いだ。
「ねえ、明日、この町でグローブトゥ
ロッターズ (※)の試合があるの、知っ
てる?」
ゲームを終了しながら、ロブは何気
ない調子できいてきた。
(※訳注
“Harlem Globetrotters”アリゾナ
州フェニックスを本拠地とするプロバスケット
ボールチーム
かつてのニグロリーグから発展
した独立リーグ所属でNBAチームではないが、
歴史があり、試合でのパフォーマンスが派手な
ことから人気が高い)
431/806
「あたしがファンだって、ホリーから
聞いたの?」
僕は、笑いながら言った。
「あの子ったら、あたしのこと、なん
でもしゃべってるのね」
「まあ、君がかわいいとは聞いてたけ
ど、こんなにかわいいとは聞いてなか
ったな。あと、こんなに面白いことも、
こんなに頭がいいことも。それに、グ
ローブトゥロッターズについても、彼
女は何も言ってなかったよ。ファンな
の?」
「ええ、最初はテレビで見て好きにな
ったんだけど」
僕はうなずき、偉大なるハーレム・
グローブトゥロッターズに敬意を込め
て、ネット検索するのに最適な特徴を
並べた。
「選手がファンキーだし、それに、ト
リッキーな個人技がすごいでしょ」
432/806
「僕、チケットを2枚手に入れたんだ。
ベンチのすぐ後ろの席」
ロブはまた、何気ない口調で言った。
「えーっ? どういうコネ?」
僕は驚きながらきいた。
「そんないい席、簡単にはとれないん
じゃないの?」
「親父が昔、メドーラーク・レモン(※)
を後援してたことがあってさ。こっち
で試合をやるときは、チケットを送っ
てくれるんだ」
(※訳注
グローブトゥロッターズの1980年代
のスタープレーヤー)
「ラッキーね。その席だと、選手と話
したりできるんでしょ」
「君だって、できるよ」
ロブはまた、高ぶりのない口調で言
った。
「いっしょに、行かない?」
「えっ? どこへ?」
433/806
僕も、時には、馬鹿にだってなれる。
「だから、明日、その試合に」
彼は、今度は、はっきりとした口調
で言った。
「いいだろ?」
「だ、だめよ、ロブ。誘ってくれたの
はうれしいけど、行けないわ」
「でも、グローブトゥロッターズが好
きなんだろ。チケットは2枚あるんだ
し」
「他にもいっしょに行ってくれる友だ
ちとか、ガールフレンドとか、いっぱ
いいるんでしょ」
「そりゃ、誘えば来るやつは、何人か
いるさ。でも、すごくかわいくて、い
っしょにいてこれほど楽しい人なん
て、他にはいないよ。お願いだから」
彼は、真剣に頼んできた。
「でも、どうしてあたし? ホリーじ
ゃだめなの?」
434/806
僕は、次々に他の人間を挙げていた。
でも彼の視線は、ぜったいに僕を連れ
て行くと語っていた。
「ああ、君だ。ホリーが、野球とバス
ケットのちがいを知らないとでもいう
なら、つれてって教えてもいいけど」
正直、僕は迷っていた。
グローブトゥロッターズのナマの試
合を見られるチャンスなんて、そうそ
うあるもんじゃない。ただナマという
だけじゃなく、ベンチの後ろの席だ。
それこそ夢の実現だ。‥‥ただし、男
とデートするという悪夢の中での。
僕の気持ちは、降伏しろとささやい
ていた。グローブトゥロッターズは、
僕のアイドルだ。でも、僕の理性は、
戦いつづけろと言っていた。
「行きたいのはやまやまだけど、やっ
ぱり行けないわ。だって、あさってか
ら学校が始まるもん。明日には戻らな
435/806
きゃいけないのよ」
そう、学校は完璧な論拠だ。反論の
余地はないだろう。
「ゲーム開始は昼の1時だよ。途中、
延びても5時には終わってるはずだ。
6時には学校まで送り届けられるよ。
君がこっちへ持ってきている荷物は、
ホリーに頼んでおけば、持って帰って
くれるだろ。僕が彼女より1歳上で、
免許証を持っているのも知ってるよ
ね」
彼の笑顔が、すべてを物語っていた。
王手! つみ! 投了!
「僕らは明日、親友として、バスケッ
トのゲームを見に行く。いいね?」
「ほんとは、これが、ゲームなんでし
ょ?」
僕は、笑いとともに、無意味な抵抗
をしながら降参した。‥‥どうやら僕
は、男とデートするらしい。
436/806
「いや、マジさ。ゲームじゃない。だ
いいち、勝敗の行方は最初から見えて
たしね。あえて言えば、君が負けを認
めるのに要したゲーム時間は、きっか
り2分だったよ。ま、それはともかく、
僕は、バスケットボールをいっしょに
見に行く親友には、できるだけかわい
い服を着てきて欲しいな」
その言葉にふくれて、彼をたたこう
としたまさにその時、彼の方から顔を
近づけ「プー」と言った。そのせいで
僕は、床に笑い崩れていた。
たとえ僕がまだ、男とのデートなん
て100パーセントないと心に決めてい
たとしても、事実として、僕は口説き
落とされていた。
そして、いちばん問題なのは、僕自
身が、その過程のすべてをけっこう楽
しんでいたことだ。
437/806
「あたし、ぜったいに、あなたは落ち
ると思ってたわ。ことに、ロブ相手な
らね」
ことの成り行きを報告すると、ホリ
ーはうれしそうに言った。
「女の子としてデートする味を一度覚
えちゃったら、あなたは、もう後戻り
できなくなるわ。男の子が、あなたの
楽しみのすべてになるのよ」
「そんな‥‥。これは、まあ、一時的
なことだから。あたしは、女の子とし
て一生を送るつもりはないんだし」
くすくす笑いつづけるホリーに、僕
はそう主張した。
「へえ、つもり? じゃあきくけど、
あなたは、自分がそんなにかわいくな
るつもりはあった? セクシーなラン
ジェリーやかわいいドレスを楽しむつ
もりはあった? あたしの兄さんと、
デートするつもりはあった? つもり
438/806
はないのに、全部そうなってるじゃな
い」
こんな思いやりある友人を持つこと
は、けっして幸せなことじゃない。僕
が忘れたいことまで、いつまでもちゃ
んと覚えていてくれるんだから。
「つまり、あたしには、自分の人生を
コントロールできてない。だから、い
ずれ、本物の女の子になる運命だ、と
か言いたいわけ?」
「まあ、だいたいわね」
ホリーは、肩をすくめて笑った。
「ふふ、ほんとのところはどうなるか
わかんないけど、結局、流れに任せて
楽しんじゃうしかないでしょ」
「あのさ、ロブにはぜったいないしょ
にして欲しいんだけど‥‥」
ホリーの言葉に、僕は打ち明ける気
になった。
「あたし、ほんとは、明日が待ち遠し
439/806
いの。だって彼って、けっこうすてき
だし、かなりかっこいいし、そばにい
るだけで、なんだか楽しいし‥‥」
「もちろん。そんなこと、すぐには言
うわけないわ。もし彼が、相手の女の
子からすてきでかっこいいなんて思わ
れてるって知ったら、きっと、がまん
できなくなっちゃうだろうから」
「えっ? ‥‥あっ。すてきでかっこ
いいは、なかったことにして。今言っ
たこと、全部忘れて」
「それは無理ね、かわいい妹のフェイ
スちゃん」
彼女は、ちょっと意地悪そうに笑っ
た。
「あたしは今後、それを、あなたを操
る脅しのネタとして使うわけだし」
「もう、絶交よ」
僕の脅しのネタは、それくらいしか
ない。
440/806
「それも一生無理だと思うな。だって、
そのうちあたしたちは、義理の姉妹に
なるわけでしょ」
僕が投げつけた枕を、首をすくめて
ひょいとよけ、ホリーは灯りを消した。
もうじき、明日がやってくる。僕の、
女の子としての初デートの日が。
その初デートの衣装として、僕は、
黒のベルベットのスラックスを選ん
だ。それに、赤のタートルネックセー
ター。足もとは、黒いなめし革の足首
までのブーツだ。
行き先がスポーツ観戦だったからス
カートは避けたのだが、そのぶん、自
分を女の子っぽく感じるために、パン
ティとブラは思いっきりホットなもの
を選んだ。
髪は、セーターに合わせて赤いリボ
ンで結ったポニーテール。
441/806
赤のイヤリングと、真っ赤な口紅、
そして同じ色のマニキュア、これでカ
ラーコーディネイトも完璧だ。
鏡の前でかわいく着飾った自分を点
検しながら、ロブも気に入ってくれれ
ばいいけれどと考えている時、僕が最
高に興奮していたことは、否定しよう
もない。
玄関で、ロブが僕の肩にジャケット
を着せかけるのを、ママは満面の笑み
で見ていた。
「楽しんでらっしゃい」
そして、外に出ると、背後から叫ん
だ。
「あとで、聞かせてね」
きっとママは、僕とゆっくり話す時
間をつくるだろう。そして、僕の初デ
ートの中身をこと細かに聞き出そうと
するだろう。どれほど楽しかったか、
442/806
次はいつ行くのか‥‥。
ママは、娘を持ったことに酔いしれ
ていた。ママが質問を始めたとたん、
新米の娘である僕は、なにもかも白状
させられるにちがいない。
ロブは僕のスタイルを思い切りほめ
てくれ、僕はその言葉に頭がぼーっと
なるほどの喜びを感じた。そして、ス
ラックスの下のパンティガードルに感
謝した。
ロブは車の助手席のドアを開け、僕
が乗るのを待ってからやさしく閉じ
た。会場の駐車場で降りる時もまた、
外をまわってドアを開けてくれた。
凍った地面のせいで、僕がちょっと
足をすべらすと、彼は僕の自我の崩壊
を防ぐため、すかさずつかみやすそう
なところに腕を差し出した。僕は、自
分のすべてが女の子だと感じることが
443/806
でき、その腕に、素直に僕の腕をすべ
り込ませた。
そのとたん、僕は、自分が安全に守
られているのだという感覚に包まれ
た。
その「席」には、本当に驚かされた。
ロブの言葉どおりベンチの真後ろと
いうだけでなく、どうやら選手たちは
ロブと顔見知りらしく、一人一人握手
してきたのだ。
「やあ、ロブ。元気かい?」
カーリー・ジョンソンがきいた。
「親父さんは、どうしてる?」
「ええ、親父も僕も調子よくやってま
すよ、カーリー。チームの調子はどう
ですか?」
僕はショックを受けていた。これま
で、ほとんど神だとあがめていた男た
ちが、まるでふつうの人間のように、
444/806
ロブと挨拶を交わしているのだ。
ロブが選手たちと話しているのを見
つけ、コーチの一人、テックスもコー
トの反対側から駆けてきた。
僕は、自分のほっぺたをつねりたく
なったが、もしこれが夢だったら、醒
めた時の失望があまりにも大きいと思
い、やめておいた。
試合もすばらしいものだった。選手
たちは、いつもどおり驚くようなワザ
を見せ、観客たちは、そのひとつひと
つに盛大な拍手喝采を送った。
ハーフタイムの時、ロブが僕をつつ
き、壁の大型スクリーンを指さした。
と、そこには、なんと僕たちがアッ
プで映っていた。顔を寄せてほほ笑ん
でいるその姿は、恋人どうしのカップ
ルにしか見えなかった。
それに驚いていると、今度は、片手
445/806
にさっきまで使っていたボールをつか
んだカーリー・ジョンソンがつかつか
と近づいてきた。そしていきなり、僕
の名前をきいた。
「フェ‥‥フェ‥‥フェイス。フェイ
ス・ジョーダンです」
僕は、口をもつれさせながら答えて
いた。
神なるグローブトゥロッターズの一
人が話しかけてくれるなんて、これほ
ど幸せなことが他にあるだろうか?
しかし、幸せはそれだけではなかっ
た。カーリー・ジョンソンは、コーチ
からフェルトペンをひったくると、持
っていたボールの上にサインしたの
だ。
「おい、お前らも来いよ」
さらに彼は、他のチームメンバーも
呼んだ。
「このかわいいヤングレディに、俺た
446/806
ちの名前を覚えてもらおうぜ」
すぐに、コーチたちをふくめ、グロ
ーブトゥロッターズの全メンバーが、
そのボールにサインしだした。
それが一巡すると、カーリーはにっ
こり笑い、うやうやしく、そのボール
を僕に差し出した。
「このサインボールと、君のキスとを
交換しよう」
彼はおどけた感じでそう言うと、片
方のほおをこちらに向けた。
僕は、もっとためらうべきだったか
もしれない。でも、彼の手の中にある
のは、チーム全員のサイン入り公式ボ
ールなのだ。
僕は、つま先立ちして、彼のほおに
キスしていた。
そして、気がつくと、チーム全員が、
おどけた笑いを浮かべ彼の後ろに列を
つくっていた。
447/806
それを見て喜ぶ観客の歓声の中、選
手とコーチひとりひとりが平等に報酬
を受け、僕の手元にはボールが残った。
これはまちがいなく、最高の取引だろ
う。
「これまで生きてきたうちで、いちば
んの出来事だわ!」
車に戻ったところで、僕はロブに言
っていた。
「だって、サイン入りの公式ゲームボ
ールよ。信じられない!」
ロブは、ちょっと首を振りながら笑
った。
「僕には、君が全員にキスしたのが信
じられなかったよ。もしかして、会場
にいた男の全員が、そのあとに並ぶん
じゃないかと思った」
「でも、あたしがキスしたのはチーム
のメンバーだけよ。他の人にはしなか
448/806
ったわ」
僕は、まだワクワクしながら答えた。
「君にキスしてもらえなかったやつを、
僕もひとり知ってるけど」
その言葉に僕は、キスしたものかど
うかちょっと迷いながら、彼の方を見
やった。
べつに、それをしたからと言って、
なにかが起こるわけでもないだろう。
それに今、感謝の気持ちを表すとした
ら、それこそ最適な方法なのだろう。
なにしろ、彼がいなければ、こんな貴
重なボールを手にすることは一生でき
なかったのだから。
「ごめんね、ロブ。あなたのことを忘
れてちゃいけないわね」
僕はちょっと席をずれ、彼のほおに
キスした。
「すてきな時間をありがとう」
「また、今度、誘ってもいい?」
449/806
ロブはすかさず、僕の顔を真剣な表
情で見つめながらきいてきた。
「だけどあなたは、男とデートなんか
して、楽しいの?」
僕は、彼の思っていることがわから
ず、そう聞き返した。
「僕は、男となんかデートしてるつも
りはないよ!」
ロブは、きっぱりと言った。
「男は君ほどきれいじゃないし、男は
君ほどかわいくもない。それに、男は、
グローブトゥロッターズのメンバーに
キスしたりしないだろ。ねえ、フェイ
ス。君は本当に、自分のことを男だと
思ってるの?」
僕は、深く息を吸い、自分の思いを
確かめた。
「自分自身が何者なのか、自分でもよ
くわからなくなってるみたい」
まず、それを認めた。
450/806
「正直言って、この何ヵ月間か女の子
をやってきて、つらいことも多かった
のよ。ときどき、自分はものすごく不
幸だって感じたし、時には、死にたい
ほど怖くなったわ。ひどい時は、それ
が両方いっぺんにやってきた」
「それは、ほんとにつらいんだろうね」
ロブは、そう言ってうなずいた。
「僕も、ホリーの時のことを思い出す
よ。彼女も最初は、そうとう大変そう
だった。僕が初めて会ったのは、彼女
が判決を受けてガールセンターに入っ
たちょっと後だけど、君とおんなじ問
題に直面してたみたいだ。むりやり女
の子の服を着せられて、女の子みたい
に振る舞って、正直、見てて、ちょっ
と気味悪い気もしたよ」
「きっと、あなたには想像もできない
わ」
僕は、いくら話してみても、僕の考
451/806
えていることや感じていることは、伝
わらないだろうと思いながら言った。
でも、そこで、彼の顔を見た。そこ
には、ただやさしさだけがあった。
なにかが僕に、彼ならわかってくれ
ると言っていた。
それで僕は、ガールセンターに送ら
れて以降、僕の身に起こった驚くよう
な出来事を話し始めていた。そこで親
友と再会できると思っていたこと。と
ころが、その親友がかわいい女の子に
変わっていたこと。それを知った時の
ショック、その後の混乱‥‥。
「女の子の服を着ることに、どれくら
いで慣れたの?」
たぶん、それに答える前に、もう少
し慎重に考えるべきだったのだろう。
でも、ロブとの間にできたなにかが、
僕を無防備にさせていた。
「3日」
452/806
言ってからしまったと思い、彼がそ
の答えをしっかり聞いていなかったこ
とを願った。
「えっ、3日?」
でも彼は、そう繰り返した。
「ホリーの時は、1ヵ月以上かかった
と思うけど‥‥」
ロブは意外そうに言ったが、その口
調の中に、けっして馬鹿にする響きが
ないことに、僕はちょっと安心した。
「なんて言ったらいいのか、つまり、
あたしは、学習能力が高いのね」
僕は、そう言って冗談めかしてから、
つづきを話した。
「要するにホリーのせいなの。彼女は、
あたしが本当は女の子っぽい女の子
で、これまで男の子のふりをしてただ
けなんだというようなことを、何度も
言ったの。あたしはそれに煽られて、
彼女と賭けをした。1週間以内に、あ
453/806
たしを女の子っぽい女の子にできなか
ったら、そのあと1週間おやすみのキ
スをするって。そしたら彼女は、あた
しをいきなり、考えられるかぎりの女
の子っぽいものの中に放り込んだ。思
いっ切りかわいくて、思いっ切りシル
キーなね。どういうわけか、あたしは
それを、うれしいって感じちゃった。
‥‥で、3日で降参」
「つまり、君は今、女の子っぽい女の
子ってこと?」
ロブは、今度は、ちょっとからかう
ようにきいてきた。
「君は、お砂糖とスパイスとすてきな
ものすべてで、できてる?」
「‥‥え、ええ。自分では、そうだと
思ってる」
僕は、顔を赤らめ、小声で言ってい
た。
僕は、ロブも同じように感じてくれ
454/806
ればいいがと強く思った。
でもまだ、僕の中のなにかが、彼に
甘えることを許してはいなかった。
「だけど、それは、判決で決まった更
正期間が明けるまでね」
僕は、あわててそうつけ加えていた。
たとえ、彼といっしょにいることが
どんなに楽しくても、僕が永遠に女の
子っぽい女の子でいたいと考えている
なんて、思われたくはなかった。
ロブはちょっとの間、僕の顔を見つ
めていた。
それは、僕がもう一度「でも、じつ
は‥‥」と言い出すのを待っているよ
うに見えた。
しかし、僕が黙っていると‥‥。
「腹減ってないか、なにか食いにでも
行こうか?」
彼は突然、口調を変えた。
「ま、男同士だし、デートとか、そん
455/806
なんでもないわけだしな」
「ど、どうして、そんなこと言うの?
今、あたしは、女の子っぽい女の子
なんだって、言ったばかりじゃない。
あたし、サテンやレースを着るのが大
好きよ。あたしは全部、シュガー・ア
ンド・スパイスでできてるわ。それな
のに、まだあなたは、あたしのこと、
男だって思ってたの? さっき、男と
デートしてるつもりはないって言って
くれたじゃない」
僕は、ロブに裏切られたような気が
し、けっきょく彼も、女の気持ちなん
てなんにもわかっていない男なんだと
感じた。
ところが、次の瞬間、僕の予期して
いなかったことが起こった。彼の手が
伸びてきて、僕の手をそっと握ったの
だ。
「うれしかったよ、フェイス。ほんと
456/806
のことを言えば、僕は君を男だなんて
思ったことは一度もないんだ。会った
瞬間からずっと、君のことを女の子だ
と思ってる。君自身もおんなじように
考えててくれて、よかった」
「も、もう、あたし、なにがなんだか
‥‥」
僕は、彼の手を握り返していた。そ
して、ささやいた。
「でも、あたしも‥‥。自分が今、心
からそう言えたことが、すごくうれし
い。こんな気持ちになるなんて‥‥」
ロブが車を停めたのは、ファミリー
向けの落ち着いた感じのレストランだ
った。車を降りると、彼は急いでまわ
りこみ、僕の側のドアを開けてくれた。
降りたところで、僕は、彼の目の中
を探るように見た。
「あなたって、ほんとにやさしい人ね」
457/806
彼に寄り添いながら言った。
「この前、幾何の勉強を手伝ってあげ
たでしょ。だから、あたしもひとつだ
けお願いしてもいい?」
「ああ、フェイス。どんなことでも」
ロブは、僕の手をとりながらうなず
いた。
「あたしはずっと、男の子とキスする
なんて、いやだと思ってたの。でもさ
っき、自分は女の子っぽい女の子だっ
て言っちゃったでしょ。もしかすると、
男の子とキスするのがいやじゃなくな
ってるかもしれない。どう思う?」
僕は、まるで小さい女の子のような、
ちょっと甘えた感じの声で言ってい
た。
「そういえば、僕もこれまで、本物の
女の子っぽい女の子とキスしたことな
んてないなあ」
彼も、ちょっといたずらっぽい顔で
458/806
答えた。
「だから、ただの女の子とどう違うの
か、試してみたいな。どうやら、お互
い、思ってることはいっしょだね」
僕は目を閉じ、彼の首に両腕をまわ
した。
‥‥どうか、すてきでありますよう
に。
彼は両腕に力を込め、でもやさしく
抱きしめてくれた。そして、その顔が
近づいてくる気配があり‥‥。
‥‥‥‥。
「‥‥んふ、どうだった? 答えは出
た?」
唇が離れたところで、僕は、彼に抱
かれたままきいた。
「女の子っぽい女の子とキスするのは、
好き?」
「ああ、僕は、この、女の子っぽい女
の子とキスするのが大好きみたいだ」
459/806
ロブはまた、僕を引き寄せ、もう一
度キスしてきた。
大好きな人にきつく抱きしめられて
キスされるのって、なんてすごいんだ
ろう。僕の全身が、自然に震えた。
と、彼の舌の先が、僕の唇の間に押
しつけられた。僕はそこを開き、入っ
てきた彼の舌を、自分の舌で出迎えた。
僕は、ちょっとしたキスならたまに
はするし、フレンチキスだって、何回
かはある。でも、ロブの舌が僕の口の
中を動くことで体じゅうを走るこの感
覚は、これまで一度も経験しなかった
ものだ。
そのキスが終わったとき、僕は、激
しい鼓動とともに、まるでマラソンを
走り終えたような息をしていた。
「こんなキス、どこで覚えたの?」
荒い息とともに、僕はきいた。
「これまで、ホリーとしたキスが最高
460/806
だと思ってたけど、それより、ずーっ
とすごかった」
「ふふ、ほめ言葉だと受け取っとこう」
笑いながら見つめてきたそのすてき
なブルーの瞳に、僕は見入っていた。
彼の中に、僕の全存在が吸い込まれて
いってしまうように感じた。たぶん、
この男は、僕の将来をめちゃくちゃに
してしまうだろう。それでもいいと思
った。
そこには、疑いのかけらすらなかっ
た。このキスがずっとつづけられるの
なら、男の子に戻る計画にも、ホリー
と結婚する夢にも、簡単にさよならが
言える。この男に抱かれてキスされる
ことで感じる幸福感や安堵感は、そん
なことをずっと越えていた。
僕の奥深くで、真実の愛を見つけた
のだという声が聞こえていた。
この2度目のキスで、僕には、この
461/806
男と永遠の愛を誓い、この男の世話を
し、この男の子供を持つための心の準
備が、すべて整っていた。
あとは、彼がプロポーズするのを待
つだけだ。
「こんなとこにいたら、風邪ひいちゃ
うよ」
天使の声が、僕の夢を中断させた。
「あったかいとこに入って、なにかお
腹に入れよう」
それは、天使の声にしてはあまりに
日常的で、僕は、将来の夫にそんなつ
まらない男にはなって欲しくないと思
った。
「お願い。もう一回、キスして」
僕は、恥ずかしげもなく口をとがら
せて甘えた。
「そうしてくれなきゃ、あたし、やだ
もん」
「ふふ、じつは僕も今、そう思ってた
462/806
とこなんだ」
ロブは、くすくす笑いながら言った。
「じゃあ、君のぶんと僕のぶん、合わ
せてもう二回キスしてからね」
「賛成!」
こんなにおいしいキスを、さらに二
度も味わえるのなら、もちろん僕には
何の不満もない。
その二回のキスが終わったところ
で、僕は、駐車場の凍った地面に足を
すべらす心配をしなくていいことを知
った。レストランの入り口まで、僕の
足が地面につくことはなかったのだ。
ロブは僕の体を離したくなかったよう
だし、僕を危険な目にさらすつもりも
なかった。
それは天国だった。
僕は彼の体に身を預け、安全に守ら
れていた。
彼の青い瞳を見上げながら、僕は、
463/806
女として生きていく上で、これ以上の
幸せなんてあるんだろうかと思った。
僕たちはそこで、すてきな食事の時
間を過ごし、お互いのことをさらに深
く知り合うことができた。ロブは、僕
のことを、女の子を演じている男の子
などとはつゆほども思っていないよう
で、心から、世界で一番かわいい女の
子だと言ってくれた。まちがいなく、
彼は僕に恋していた。
「今日はほんとにすてきだったわ、ロ
ブ。あたし、今日のことは一生忘れな
いと思う」
「また、誘ってもいいんだよね?」
それでも彼は、僕が拒絶するのでは
ないかと、不安そうだった。
「お願いだから」
「そんな、お願いなんて、しなくてい
いわ」
464/806
僕は、彼の手を握りながら言った。
「でも、次は、親友なんかじゃなく、
最初から女の子で来たいな」
「もちろん。君がずっと女の子でいて
くれるなら、もっと楽しいよ」
ロブは即座にうなずいた。
「女の子っぽく、ドレスとか着た君が
見たいな」
「ええ、ものすごくかわいいのを着て
くるわね。そういえば、クリスマス用
にもすてきなドレスを買ったのよ。ほ
んとにかわいくって、あなたも気に入
ると思うわ。ママたちが、クリスマス
にもパーティを開くって言ってたでし
ょ。その時着るつもりなの。ああ、あ
なたに見てもらうのが待ちきれない」
今は、僕の方が、おもちゃを手に入
れた子供のように見えたかもしれな
い。でも、そんなことは少しも気にな
らなかった。
465/806
僕も、ロブに恋していた。本当に、
こんな瞬間は、これまでの人生の中で
初めてだった。
「今でも最高にかわいいと思うのに、
そんなドレスを着た君を見たら、僕は
どうなっちゃうんだろう」
こんな男と恋に落ちるほど、簡単な
ことはないのかもしれない。
「ふふ、わかってる? あなたくらい、
あたしの人生をややこしくしちゃった
人はいないのよ」
僕は、デザートをすくったスプーン
を、彼の口に持っていきながら言った。
「あたしは今、女の子としての生活に
慣れきってるわ。かわいい服を着て、
髪をセットして、メイクして、ママと
買い物して、他にもいろいろ‥‥。で
もね、2年間そんな暮らしをつづけた
としても、本当の自分を見失いたくな
いって、ずっと思ってたの。判決で決
466/806
まった更正期間が終わったら、女装な
んてやめて、実家に帰ってホリーを待
とうって。あたしが、あなたの妹に、
ものすごく恋してたの、知ってる?」
僕は、もう一度キスしたいと思いな
がら、指先で、彼の唇についたアイス
クリームをぬぐい取った。
「あたしは、ずっと前から、ホリーこ
そ、理想の女の子だと思ってたの。で
も、彼女は、あたしに女の子らしい女
の子であることを望んだ。だからあた
しは、彼女を喜ばすために、こんなふ
うになったのよ」
ロブは、僕が言ったことに、混乱し
動揺しているようだった。
「ごめん、フェイス。僕は、君が本気
で女の子でいたいんだと思ってたん
だ。僕は引き下がるよ。そうすれば、
君はホリーを選べるだろ。君の義理の
兄貴になるのは、なんだかすごくつら
467/806
い気がするけど‥‥」
その言葉に、今度は僕の方が動揺し、
次のアイスクリームをすくったスプー
ンを、彼の鼻にぶつけてしまった。
「もう、そうじゃないったら!」
僕は、彼の顔からしたたり落ちるひ
とかたまりのアイスクリームに、思わ
ず笑いながら言った。
「あたしは、あなたに引き下がってな
んか欲しくないの。もう、ホリーなん
か選びたくないもん。もちろん、あな
たの義理の弟になんかなりたくない
わ。あたしは、あなたの彼女になりた
いの。それに、いつかは、あなたの‥
‥奥さんに」
一瞬にして、ロブのすてきな顔に、
ほほ笑みが戻ってきた。その顔に、僕
はますます彼が好きになっていくのを
感じた。
「ホリーは、悔しがるだろうね。未来
468/806
の夫を、永遠に他の男に獲られちゃっ
たんだから」
「それは、ちょっとちがうわ。彼女は
未来の夫を失ったけど、その代わりに、
すてきなお義姉さんを手に入れたんだ
から」
「ねえ、いつ、みんなに婚約を発表し
よう?」
僕の未来の夫は、すでに夢うつつだ
った。
「まだ早すぎるって言われそうな気も
するけど」
「ロブ、あたしだって、せっかくのい
いニュースをぶちこわされたくない
わ。だいじょぶよ。あたしは、そんな
に結婚をあせってないから。あなたの
未来の妻で、あなたの子供の未来の母
親は、法的にはまだ15歳の男の子で、
高校生だってこと、忘れないで。ホリ
ーの話だと、それを変えるにはずいぶ
469/806
ん手間がかかるみたいだし、あたし、
大学にも行きたいし」
そこでロブは、しばらく何も言わず
に、僕のことを見つめた。そのせいで、
僕はちょっと不安になった。
「どうかしたの? マスカラがおかし
い?」
僕は、あわててバッグの中からミラ
ーを出そうとした。じつは今日、これ
まで使っていたマスカラが切れて、そ
れと同じくらい強力だという別のブラ
ンドに変えていたのだ。
「いや、君は完璧だよ、フェイス。だ
から、見てたんだ。こんな姿を毎日見
てて、どうして君は、自分のことを男
の子だなんて疑うのかな」
「そうね‥‥。いくらかわいい服を着
るのが好きだと感じても、どうしても
自信が持てなかったのは、いつかは男
の子に戻らなきゃいけないと思ってた
470/806
からなんだと思うわ。でも今は、ちが
う。あなたがいるから、もうそんなふ
うには思わない。あたしは、女の子。
女の子でいることが大好きな女の子
よ」
ロブは僕を抱きしめ、どれほど僕を
愛しているか語った。そして、僕が女
の子になったことを、ぜったいに後悔
させないとも。
僕は、何の疑いもなく、その言葉を
信じることができた。
食事のあと、僕たちは手をつないで
車に戻った。
学校に着くとまた、彼は寮の入り口
まで歩いて送ってくれ、僕はそこで、
彼にほおずりした。
すると彼は、自分がはめていたクラ
スリング(※)をはずし、僕に手渡した。
(※訳注
卒業や学年の修了を記念する指輪
471/806
アメリカの私立高校などでは、証書に添えて渡
すところも多い)
「これは、とりあえずってことだよ」
彼は、僕にキスしながら言った。
「君が望む時に、僕はそれを、ダイヤ
モンドと取り替えるつもりだ」
僕は、両腕を彼の首にまわし、その
契約への印章代わりに、長くて官能的
なキスをした。
「次のデートの時は、もっとすごいの
をするわね」
僕は、そうささやいた。
「だから、あたしにも、いっぱいして
ね」
その夜、ベッドの準備をしながら、
ホリーは、さかんにロブとのデートが
どうだったか、聞きたがった。
僕は、ただ楽しかったとだけ答え、
サイン入りのバスケットボールを見
472/806
せ、自慢した。
「でもまあ、一度女の子としてのデー
トを経験したんだから、もう、ダブル
デートを断る理由もなくなっちゃった
わね」
彼女は、ほくそ笑むように言った。
「ううん、あたしは、そうは思わない
わ。やっぱり、それが正しいことだと
は思えないもん」
もちろん、未来の夫を裏切ることは、
正しいことじゃないだろう。
でも、ホリーがその理由を知るまで
には、もう少し努力してもらわなけれ
ばならない。僕が並べるパズルのピー
スを組み立て終えたとき、彼女に死ぬ
ほど驚いてもらうためにも。
「心配しないで。ロブと同じくらいに
は、かっこいい男の子を紹介するから」
「そんなの、いやよ。興味ないもん」
僕は、それを強く拒否するように言
473/806
った。それに、ホリーはちょっとむき
になったようだ。
「じゃあ、こういうのはどう?」
そして彼女は、こう提案してきた。
「もし、男といっしょに出掛けること
を納得してくれたら、あたしがキスし
てあげる」
僕は、ちょっとの間、それを考える
ふりをしたあと、首を振った。
「ううん、やっぱりいいわ。それも、
興味ないから」
ホリーはその言葉に驚いたようだ。
「それって、あたしのキスを断るって
こと? 頭でも打ったの? 前は、あ
れほどキスして欲しがってたのに。あ
なた自身が、何度もそう言ったじゃな
い」
僕は、彼女が落ち着くのを待ってか
ら、言った。
「ごめんね、ホリー。ほんとに、もう
474/806
その気がなくなっちゃったの。だって、
あなたよりキスの上手な人を見つけち
ゃったんだもん」
「えっ、あたしより上手?」
彼女は、不思議そうな顔で言った。
「だって、あなたには、あたし以外の
人と、キスする機会なんて‥‥」
彼女の頭になにかがひらめいたよう
だが、すぐにはそれが、言葉にならな
かった。
「えーっ、うそーっ。そんな‥‥、ま
さか‥‥」
そんなホリーを見ているのは気持ち
よかった。
これまですべてを計画し、思い通り
運んできたきたつもりだろうが、初め
てその制御権を失って、おろおろして
いるのだ。
「ふふふ」
僕はミステリアスに笑ってみせた。
475/806
「あたし、ロブとキスしたわ。何回も、
何回も。すてきだったわよ。あなたの
兄さんが、あんなテクニシャンだって
こと、どうしてもっと早く教えてくれ
なかったの? 彼ったら、キスのチャ
ンピオンじゃない」
「あなた、ロブにキスさせたの? ほ
んとに? マジで? ‥‥そ、そうな
んだ。あたし、あなたの顔を見れば、
うそついてるかどうかはすぐわかるか
ら‥‥」
僕は、僕のパソコンのところまでつ
かつか歩き、メーラーを立ち上げた。
と、予想どおり、ロブからのメールが
届いていた。
「フェイス、愛してる!」
それは、極端に短い文面だったが、
そのぶん逆に、僕の笑顔は大きなもの
になった。
「ロブ、あたしも!」
476/806
僕がそう返信するのを見ながら、ホ
リーはさらに驚いた顔をした。
彼女の方をふり返った僕は、テレビ
のメロドラマの主役のような顔で言っ
た。
「許して。悪いのはあたしなの。でも
他に、どうしても好きな人ができちゃ
ったの。だから、もう、結婚はあきら
めて」
すると、ホリーは、僕をベッドの上
に突き飛ばした。
「さあ、そこに座って。今夜は長くな
るわよ。何があったのか、お姉ちゃん
に全部話してちょうだい」
「それも、ちょっとちがうわよ。あな
たの方が妹。これが証拠よ」
そう言って僕は、ロブからもらった
指輪を見せた。
「何年か後に、彼はこれをダイヤモン
ドと交換するって約束してくれたわ」
477/806
ホリーには、自分の方からききたい
ことが何百とあるようだったが、明日
の授業のこともあるので、おとなしく
ベッドに腰掛け、僕が話すのを聞いて
いた。僕がどうやってロブとの恋に落
ちたのか、そして、ふたりが将来どう
したいと思っているのか‥‥。
話し終わったときには、どちらから
ともなく抱き合い、ふたりとも涙を流
していた。
僕は彼女に、しばらくの間、家族た
ちには、このことを内緒にしておいて
欲しいと頼んだ。ロブと僕は、クリス
マスパーティの席で、親たちに報告し、
彼らを驚かせようと考えていたから
だ。
ホリーは、もう二度と、僕に男を紹
介するつもりはないと約束した。
僕はロブの恋人、そして、将来のホ
リーの義姉。そんなすてきな関係をこ
478/806
わしたくないからだと、ホリーは言っ
た。
その最初のデートのあと、ロブと僕
は、毎週末、どこかに出掛けるように
なった。時には映画を見に行くことも
あったし、時には、学校のキャンパス
で静かな場所を見つけ、そこに腰掛け、
話し、お互いの体をまさぐり合うよう
なこともあった。
僕は、大切なボーイフレンドのため
に、いつもかわいく着飾って出掛けた。
彼も、そんな僕を見てうれしそうな
顔をした。そしていつも、その服がど
れほど似合うか、その服で僕がどれほ
どかわいく見えるかを言ってくれた。
そのひとことひとことで、僕は、ます
ます女の子になっていく気がした。
彼と知り合ったことで、僕の人生は、
まちがいなくより生き生きとし、より
479/806
幸せなものになった。
ロブは、少なくとも一日一回はメー
ルをくれ、そこには、僕と会えなくて
さみしいとか、週末が待ち遠しいとか
書いてあった。
それで僕は、ホリーのカメラで、持
っているほとんどすべての服を着た写
真を撮ってもらい、それを彼へのメー
ルに添付した。彼が、他の女の子と浮
気しないよう、その中には何枚か、ベ
ビードールを着た写真も紛れ込ませ
た。
彼は、左手でクリックしなければい
けないから大変だと言っていた。
その変化に最初に気づいたのは、や
はりホリーだった。
「あなた、ロブとつき合うようになっ
て、変わったわ」
480/806
ある日、彼女が言った。
「前だって問題なく女の子に見えたけ
ど、最近は、仕草とか、すごく女っぽ
くなったもん」
「うん、わかってるわ」
僕も、くすっと笑ってうなずいた。
「ロブとデートしてる時に、あたし自
身も感じるもの。歩いたり座ったりす
るのが、意識してるわけじゃないのに、
自然と女っぽくなってるの。彼は、声
も変わったみたいだって言ってくれた
わ」
「そうね」
ホリーも、それにうなずいた。
「しゃべり方がやわらかくなって、前
より女の子っぽい声に聞こえるのよ
ね」
「ほんとに、わざとやってるわけじゃ
ないのよ」
僕は、自分でも不思議な気がして言
481/806
った。
「自分のことを、自然に、女の子だっ
て思えるの。ロブのおかげね。クリス
マスには、いつも以上のキスをしてあ
げなきゃ」
ロブといっしょにいることで、自分
がそんなふうに変わっていくことが、
僕にはうれしかった。
ロブを好きになるのとほぼ同時に、
服やメイクに対して多少残っていた違
和感もすべて消えてしまった。僕の中
から、男の子だという自意識はなくな
り、自分がかわいい女の子であること
を、なにより、ロブのようなかっこい
いボーイフレンドを持つ女の子である
ことを、心から喜べるようになってい
た。
僕は、ふたりのことを、親に理解し
てもらいたいと思っていた。
482/806
ロブと僕は、急いで結婚することを
望んではいなかった。
悲しいことに、どんな自己イメージ
を持っていようが、僕はまだ、肉体的
には男の子なのだ。そして今後、肉体
を女性に変えたとしても、その時、た
ぶん僕は18歳。そこでもまだ、結婚は
早いだろう。
僕も彼も、進学を希望している。彼
は工学部志望だが、僕は、いろんな条
件を考え、秘書コースとかへ進むつも
りだ。
たぶん、就職して数年後に、僕たち
は結婚し、しばらくして、1人か2人、
赤ちゃんを養子にすることになるだろ
う。かわいい子どもたちにとってよい
母親になるためなら、僕は、キャリア
をあきらめてもいい。
自分の思い描く将来像が、妻や母親
に変わってしまったことを、親にどう
483/806
説明したらいいのか見当がつかなかっ
たが、でも、今の僕には、できるかぎ
りよい妻であり、よい母親となること
が、ベストな人生だと思えた。
僕は、ロブからもらった指輪をチェ
ーンに通し、ペンダントのようにして、
いつも肌身離さず持ち歩いていた。そ
して、学校の女の子たちに、それを見
せて自慢するのが好きだった。
ロブは毎週末、僕を迎えに来ていた
から、彼女たちの多くは、彼を見たこ
とがある。彼女たちは僕に、最高の男
をつかまえたと言ってくれた。
でも、僕が将来彼と結婚するつもり
だということまで打ち明けたのは、今
のところ、ホリーとジルだけだ。
もちろんジルは、ホリー同様、その
ことを心から喜んでくれた。
ある日の放課後、僕は、ジルを自分
484/806
の部屋に誘い、それを伝えたのだ。
「すご~い。すてき~」
ジルは、まるで自分のことのように
かん高い声を上げ、狂喜した。
「あたし、ほんとにうれしいわ」
僕たちは、まるで、小さい女の子が
ふたり、遊び場で踊るように、手を取
り合って部屋中をくるくるまわった。
その途中、ホリーが戻ってきて、い
ったいなにをやっているのかときいた
が、僕たちはすぐ、そんなホリーをも
即興ダンスの輪に巻き込んでしまっ
た。ホリーが、いやみのひとつも言わ
ずにそれに加わったのは初めてのこと
だ。これは、僕とロブの関係にとって、
よい兆候にちがいない。
僕たちの関係をクリスマスまで親に
知られず、ロブとホリーと僕だけの秘
密にしておけるか、じつは心配してい
たのだが、ホリーは、完全に僕たちの
485/806
味方になってくれていた。それに、例
のデートのあと、ママと話す時間があ
まりなかったのも、なんとか秘密を守
り通せた理由だった。
クリスマスの3日前。
この日から年明けまでが、グレート
・インディアン・リバーの正式なクリ
スマス休暇だ。
女の子たちはみんな、朝から休暇の
ための荷造りをした。僕は、友だちや
勉強を見てあげている子たちが、みん
な、親元で幸せなクリスマスと新年を
迎えることを願った。
僕たちふた家族は、またホリーの家
で過ごすことになっていた。帰るため
に、ホリーと僕は、ふたりともローラ
イズのジーンズを選んだ。僕はその上
に長袖の白いブラウスを着て、黒のな
めし革のブーツを履いた。ホリーは、
486/806
タートルネックセーターとスニーカー
だ。
僕たちをビンクラー家まで連れ帰る
役割を、ロブが買って出ていた。あと
で聞いたところによると、親たちに内
心を隠してそれを言い出すのに、彼は
かなり神経を使ったらしい。
ラウンジで顔を合わせたとたん、ロ
ブは僕の体をつり上げるようにしてキ
スしてきた。そのせいで、僕の足は完
全に床から離れた。
しばらくしたところで、それを見か
ねたホリーが止めた。
「ロブ、フェイスの息がつまっちゃう
わよ」
彼女は、はやるロブに正気を取り戻
させようと、背中をつつきながら言っ
た。
「か弱い女の子なのよ。もっとやさし
く扱ってあげなきゃ」
487/806
「あ、ああ。でも、会いたかったから」
やっと口を離した彼は、ちょっと恥
ずかしそうに言った。
「まあ、それはわかるけどね」
ホリーは笑いながら答えた。
「この子だって、毎日、会いたい会い
たいって、そればっかり。うるさいっ
たらないんだから」
僕が彼の首に腕をまわすのが癖にな
っているせいで、最初の時から僕たち
のキスがこんなふうになるのは、ホリ
ーには話したはずだ。要するに、身長
差がありすぎて、熱烈なキスをすると、
僕の足は、いつも宙に浮くのだ。
「だけど、そんなキスは、新婚初夜ま
でとっておいた方がいいんじゃない」
ホリーは笑いながらからかった。
「ふたりとも、いつもそんな、愛に飢
えた子どもみたいなキスしてるの?
ちょっと馬鹿に見えるわよ」
488/806
「でも、がまんできないのよ」
僕は肩をすくめた。
「だって、あなたのお兄さんったら、
こんなに魅力的で、セクシーで、世界
でいちばんかっこいい男なんだもん」
「できたらそれを、彼の前で言わない
で欲しかったな」
ホリーはため息をついた。
「あたしがこの何年か、彼の自意識が
ふくらまないように努力してきたこと
が、すべて水の泡だわ」
「ごめんね、でも、しょうがないの」
僕はまた、肩をすくめて言った。
「彼は、ミセス・ウイリアムズができ
なかったことを、あたしにしたのよ。
あたしを女の子としてかわいがってく
れて、あたしを女の子の気分にさせて
くれて、女の子であることの幸せを教
えてくれたわ。なにより、彼の女の子
であることのね」
489/806
「だけど、クリスマスに親たちをびっ
くりさせるために、この2日間は、ち
ょっとおとなしくしてないとな」
ロブが言った。
「えーっ? それまで、キスはおあず
け? そんなの、やだ」
それはつらいことだ。だって、2日
もずっとそばにいて、1回もキスして
もらえないなんて‥‥。
「ときどきは、目を盗んでしてみるよ。
いや、必ずする」
ロブはその約束の印として、また熱
烈なキスをしてくれた。
「あーあ、ロブのキスがそんなにいい
んなら、あたしが先につばつけとくん
だったな」
ホリーは、僕たちが長い間そうして
いるのを見て、あきれたように笑った。
「残念ながら、気づくのがちょっと遅
すぎたね」
490/806
ロブが笑い返した。
「僕は、世界でいちばんすてきな女の
子を見つけちゃったんだ。もう、僕の
気持ちは、誰にも変えられないさ」
その言葉に、僕は胸が熱くなる思い
がし、実際、涙があふれてきた。
僕は、小さい頃からあまり泣かない
子だったのに、この頃は、泣いてばか
りいる。
「ん? どうしたんだい?」
ロブはあわてて僕を引き寄せ、その
涙をぬぐってくれた。
「僕が、なにか気に障ることを言っ
た?」
「だいじょぶよ、ロブ」
ホリーがやさしい口調で説明した。
「彼女は、ある線を越えちゃったのよ。
もう、彼女が男の子に戻るようなこと
は、ぜったいないわ。彼女は、すべて
の男が望むような、やさしくてかわい
491/806
い女の子よ。そして、そのうち、想像
以上のいい奥さんになるわ」
「ああ、それはもう、よくわかってる
さ」
ロブはもう一度抱きしめ、キスして
くれた。
「親に話すのが待ちきれないよ」
それを待つことは、本当につらかっ
た。
大好きな人がすぐそばにいるという
のに、抱きしめることも、キスするこ
とも、愛を語ることも簡単にはできな
いのだ。
こんなふうで僕は、クリスマスまで
生きていけるのだろうかと、不安にな
ったほどだ。
その重大な日が、ついにやってきた。
ホリーと僕は、前から決めていたと
492/806
おり、同じデザインの色違いのドレス
を着て、髪型も同じにすることにした。
じつは、もうすでに寮の部屋で一度試
してみたのだが、その姿は、本当に双
子の姉妹のように見えた。
僕たちは、まず、着ける予定の下着
をベッドの上に並べた。
僕はホリーを説き伏せ、以前ママに
教えてもらったセクシーなボーイカッ
トスタイルを選んでいた。ホリーはグ
リーンのドレスを着るので、下着はミ
ントグリーン。僕の方は、ライトピン
クだ。ドレスが赤だということもある
が、なによりこの色は、自分自身をか
わいく、また女らしく感じさせてくれ
る。
時間を節約するため、僕たちは、い
っしょにシャワーを浴びた。
彼女の胸やお尻がうらやましいとい
うことを除けば、いっしょに裸でいる
493/806
ことに、僕はもう、何のためらいも感
じなかった。だって、ふたりとも、女
の子なんだから。
僕は、パンティを身につける前に、
ガフという、ベルトが組み合わさった
ような下着を着けた。ママが、インタ
ーネットの女装者向けサイトで見つ
け、僕のために買ってくれたものだ。
それは、最初は、けっして着け心地
がいいとは言えないものだった。生殖
器を下腹部に押し込むのは、もうパン
ティガードルで経験ずみだったが、こ
のガフは、その部分をさらにきつく絞
めつけ、着けている間はまちがっても
元に戻らないように固めてしまう。
通常は、スラックスを履く時にしか
着けないのだが、ロブのそばに近づく
ことがわかっている時は、スカートの
前が持ち上がったりしないように、こ
れを着けていた。
494/806
数ヵ月前、まだ女物の服を身につけ
るのを嫌っていた時、僕は、コットン
のパンティと何の飾りもないブラしか
着けないと心に誓ったものだ。
それなのに今、寮の僕の引き出しは、
まるまる二段、女の子だけが買うこと
を許されたかわいいシルクの下着で埋
め尽くされている。そのうちの多くは、
自分自身で買ったものだ。
今ではもう、ダサい制服のスカート
とブラウスの下にさえ、かわいいシル
クの下着が欠かせない。
そして僕は今、好きな男の前で、か
わいくて女らしい気分を持ち続けたい
からこそ、そんな下着を身につけてい
る。だからこそ、彼は僕のことをかわ
いいと言ってくれるし、たくさん抱き
しめ、たくさんキスしてくれるのだと
信じている。
495/806
そして僕は、それこそ女の子の喜び
だと心から感じている。
ドレスアップして、鏡の前に並んだ
ホリーと僕は、本当に完璧だった。
僕は、ホリーの髪もフレンチブレー
ドに結った。ただし、その大きな三つ
編みの中に、ホリーはグリーンの、僕
は赤のリボンを編み込んだ。
ふたりとも、休みに入る前にワック
ス脱毛もすませていたから、脚もすべ
すべで、薄いパンストがよりセクシー
に見えた。
僕たちは、やはりおそろいで色違い
のヒールを履き、メイクをもう一度チ
ェックし合い、ふたり揃って、驚きの
視線の中へと出ていった。
「まあ、あなたたち、なんてかわいら
しいの!」
496/806
それぞれにプレゼントを用意した家
族たちの前に出たとたん、ママが感極
まった声で叫んだ。
「ほんとに、姉妹みたいだわ」
ホリーと僕は、ふたりで顔を見あせ
てくすくす笑った。まだママは、やが
てそれが真実になることを知らない。
と、ロブが、がまんできないという
ようにコメントをつけ加えた。
「そんなドレスを着られたら、どっち
が自分の妹か見分けがつかないよ」
すると、彼のパパが、笑って言った。
「恋人と妹の区別がつかないようじゃ
あ、いろいろ問題が起きるんじゃない
のか」
えっ、恋人‥‥?
今確かに、彼はそう言った‥‥!
「恋人?」
ロブも聞き返していた。
「いつから、そんな‥‥?」
497/806
「だから、この前彼女がうちに泊まっ
て、お前がバスケットの試合に連れて
った時からだろ」
僕はびっくりして、その場に立ちつ
くした。
「あたしは無実よ。何もしゃべってな
いわ」
ホリーがあわてて叫んだ。
「で、でも、どうしてバレちゃった
の?」
「ふふ、走行距離さ」
ロブのパパは、そう言ってほくそ笑
んだ。
「週末にロブに車を貸すと、距離メー
ターが、いつも必ず93マイル(約150キ
ロ)ほど進んでた。1回目か2回目で、
すぐ気がついたよ。うちから学校まで
は、46マイルと少しだ。往復すれば、
93マイルだろ。毎週、妹のところへ行
くとも思えないし、だとしたら相手は
498/806
フェイス以外にあり得ない」
「フェイス、女の子でしょ。何をみっ
ともなく口を開けてるの」
ママが、からかってきた。
「あなたの彼氏は、さっきからヤドリ
ギの下(※)に立ってるのよ。あなたの
キスを待ってるわ」
(※訳注
欧米では、クリスマスにヤドリギの
小枝を飾る風習がある
その下でキスした恋人
たちは、幸せになれると言い伝えられている)
「ロブ、いつまでも突っ立ってないで、
早くキスしてあげなさい」
ロブのママも、けしかけた。
「こんなかわいい娘さんなんだもの。
照れてなんかいたら、すぐ誰かにとら
れちゃうわよ」
ロブは肩をすくめながら、僕を見た。
僕たちの努力は、まったくの徒労だっ
たわけだ。
僕は、そのヤドリギの下に歩み寄り、
499/806
ロブは、すてきなボーイフレンドなら
みんなそうするようにキスしてきた。
僕は彼の首に、彼は僕のウエストに、
それぞれの腕をまわし、僕たちは、こ
の間のがまんを埋め合わせるような熱
烈なキスをし、家族たちはそれを拍手
と歓声で見守ってくれた。
そのあと、ロブは、僕を部屋の真ん
中まで連れ出し、きれいにラッピング
されたプレゼントを手渡した。
「母さん、父さん、紹介します。僕が
結婚したいと思ってる女性、フェイス
・ジョーダンです」
「私たちはみんな、君たちの幸せを喜
んでいるよ。ただ、結婚はそんな軽々
しく考えてはいけないことじゃないの
かい」
僕のパパが言った。パパとしては当
然の言葉だろう。僕が一生、女の子と
して生きていくことを危惧したにちが
500/806
いなかった。
「もちろん、ふたりが大学を出てから
って考えてるのよ」
そのゴールドとダイヤのすてきなネ
ックレスへの感謝を込め、ロブを抱き
しめながら、僕はあわてて、そう説明
した。
「あたしたちには、他にも、解決しな
ければいけない問題がたくさんあるも
の」
「いい子ね、フェイス」
ママがほほ笑んだ。
「あせらずに、じっくり考えて解決し
ていってね」
「約束するわ、ママ」
それから全員がクリスマスプレゼン
トを交換し合い、その後、会話は、ど
うしても僕とロブの将来についての話
題になった。
501/806
親たちは、僕たちがつき合っていた
ことは知っていても、さすがに結婚ま
で考えているとは思わず、驚いたよう
だ。でも、僕たちが、まだ数年先と言
ったことに安心した。
「たしかに、まだちょっと先よね」
僕はロブの手を握ってほほ笑んだ。
「でも、必ずするつもりよ。自分の将
来について、こんなにはっきり見えた
ことって、これまでなかったし、その
目標をぜったいに見失いたくないって
感じてるの」
「あなたは、これから自分がどんなこ
とをしようとしてるのか、ちゃんとわ
かってるわね?」
ママが確認するようにきいた。
「どっちにしても、近いうちにホルモ
ンを摂り始めなければならないでし
ょ。そしたら、二度と男の子には戻れ
なくなるのよ。それでもいいのね。後
502/806
悔はしない?」
「ええ、ママ。よくわかってるわ」
僕は、かみしめるように言った。
「今思えば、あたしが女の子になりた
いって考え始めたのは、ロブと出会う
よりずっと前だったの。ロブはそれに
はっきりと気づかせててくれただけ。
彼を愛することで、やっと女の子とし
て生きていけるって自信が持てたの」
「えーっ、前から、女の子になりたか
ったの?」
ホリーが驚いたようにきいた。
「じゃあ、どうして、あたしと結婚す
るなんて言ってたの?」
「うーん、うまく言えないんだけど‥
‥。最初はもちろん、女の子になんて
なりたくなかったし、服も、メイクも、
全部いやだったわ。でも、あなたに、
それを楽しんでもいいんだって教えら
れた時から、もう、自分でも止められ
503/806
なくなっちゃったの。かわいい服を着
たり、メイクしたり、髪の毛をいじっ
たり、あたしは、そんなことが大好き
だった。だけど、自分が女の子でいる
ことで、何が起こるのかわからなくて、
それが怖かったのね。だから、どこか
でブレーキをかけようとして、あんな
こと言ってたんだと思うわ。ロブが現
れてはじめて、あたしは女の子でいい
んだって、素直になれたってこと」
ホリーは、僕のほおにキスしながら
言った。
「わかるわ、フェイス。あたしも経験
者だから。それに、あたしだって、義
理の妹の方が、ずっと居心地がいいも
ん」
「ロブ、お前が、彼女をしっかり支え
ていってやらなきゃいけないんだぞ。
わかってるな?」
ロブのパパが言った。
504/806
「彼女はこれから、大変な思いをしな
ければならないんだから」
「ああ、父さん。よくわかってるよ」
ロブは、強い口調でうなずいた。
「彼女がそうして欲しいときには、僕
はいつでもそばにいるつもりだよ」
僕はもう、それ以上こらえきれなく
なり、ロブの体に身を寄せ、赤ん坊の
ように泣き出していた。
「だいじょうぶだからね、フェイス」
ロブは、僕の体を抱き、何度も繰り
返した。
「愛してるよ」
僕も、ロブの目を見上げ、涙声でつ
ぶやいていた。
「あたしも。愛してるわ、ロブ」
次の週、ロブと僕は、ほとんどの時
間をいっしょに過ごした。
彼は、親しい友人のすべてに僕を紹
505/806
介し、いっしょに映画を2本見に行き、
ホリーとのショッピングにも運転手と
してついてきた。
どうやら彼は、そのショッピングに
対して、隠れた動機を持っていたよう
だ。要するに、僕がかわいい服をいろ
いろ着たところを見たかったらしい。
もちろん、僕としては、そんなうれし
いことはない。
ママの提案で、ふた家族揃って、ニ
ュー・イヤーズ・イブを豪勢に送ろう
ということになった。この地区で最高
のレストランを予約し、そこにドレス
アップして繰り出そうというわけだ。
ママは、そのために、僕が着るドレ
スももう見つけてあるのだと言った。
ママは、一生忘れられないような大晦
日にするのだと張り切っていた。
その準備のためにみんなで町に出
506/806
て、男性陣がタキシードを借りにいっ
ている間、僕たち女性もドレスとアク
セサリー類を選んだ。
「じつは、あなたが女の子になるって
決まった時から、一度着せたいと思っ
てたドレスなの。これを着れば、若い
娘としての喜びがわかると思ったか
ら。でも、あなたはもう、これを、彼
のために着るのよね。思い切りきれい
で魅力的な女の子になって、驚かせて
あげましょ。彼がつかまえたのがどれ
だけすごい女の子なのかってことを、
思い知らせるのよ」
たしかに、そのドレスを見るなり、
僕は夢中になった。
深いワインレッドの生地のトップラ
インから裾に向かって金糸の刺繍が渦
を巻くように入ったそのロングドレス
は、細いストラップで吊るオープント
ップで、膝より上までスリットが入っ
507/806
ていた。
これは、どんな女の子にも似合うと
いうものではないだろう。女らしく優
雅に着こなさなければ、みっともなく
見えてしまうはずだ。
でも僕は、そんなに恐れてはいなか
った。この数ヶ月、明けても暮れても、
女らしさを表現する実践を積んできた
のだ。肉体的にはもちろんまだ、さま
ざまな補正が必要になるにしても、メ
ンタリティの面では、今や自分を女だ
と思っていたし、女としての自信もつ
いてきた。
とはいえ、そのストラップとスリッ
トを見て、僕は、べつのことが不安に
なった。
「すごくすてき! でも、こんなの着
たら、凍えて死んじゃいそう」
「心配することないわ。こういうドレ
スを着て来るのは、あなただけじゃな
508/806
いんだから」
ママは、そんな僕の心配を一蹴した。
「寒くなんかないわよ。私たちが行く
のは、ピクニックじゃなくて、四つ星
レストランなのよ」
ママはそのドレスを買ったあと、ラ
ンジェリー売り場へと急かせた。そし
て、そこで、スリットの入ったロング
ペチコートを選んだ。スリットが、レ
ースで縁取られているものだ。
「このドレスには、濃い赤か黒のラン
ジェリーがぴったりよ」
ママはそう教えてくれた。
「男って、ぜったいにスリットをちら
ちら見るものよ。その気にさせるには、
レースが多い方がいいわ」
「かわいそうなロブ。自分にどんな罠
が仕掛けられてるか、何も知らないの
ね」
僕がセクシーな赤いペチコートを体
509/806
に当てて長さをチェックしていると、
ホリーがそう言って笑った。
「あわれな男の子は、その罠にかかっ
て、一晩中、彼女を口説きつづけるっ
てわけね」
「あなただって、今夜、じろじろ見て
くる男たちを、ぜったいにがっかりさ
せないと思うわ」
ホリーが試着した悩殺的なブルーの
ベルベットドレスに感心しながら、僕
は言った。
「あら、あたしを見る男たちは、いつ
だって、がっかりなんかしないわよ」
ホリーは、すぐにそう訂正してきた。
「なにしろ、男の子たちをその気にさ
せる実践は、あなたなんかよりずっと
積んでるんですからね。あたしの方が
上手よ」
「ふふ、言ってなさい」
僕は、寮の部屋でからかわれつづけ
510/806
てきたことを思い出し、仕返ししてや
ろうと思った。
「あたしには、あなたとちがって、ち
ゃんとしたカレがいるんだもん。もう
そんな必要ないのよ」
「そりゃ、よかったわね」
ホリーは、笑いながら言い返した。
「要するにあなたは、男として時間を
浪費してたから、女の子としてはウブ
なまんまなのよね。まあ、妹としては、
ロブに身持ちの堅い女の子を選んで欲
しいと思ってたから、ちょうどいいん
だけどね。あたしのお兄ちゃんは、た
しかに最高の選択をしたと思うわ」
僕は、彼女の肩に腕をまわし、抱き
しめていた。
「あたし、あなたのお兄ちゃんをずー
っと大切にするわ」
僕は、みんなの髪のセットアップを
511/806
買って出たのだが、ママは、4人分や
るには時間がなさすぎると言って、近
くの美容院に予約を入れていた。
ママの話によると、僕の学校の子た
ちもよく来る美容院だから、僕たちの
ような女の子にも慣れていて、他の女
の子たちと同じように扱ってくれると
いうことだった。
学校の美容室できれいにしてもらう
ことが大好きになっていた僕には、も
ちろん何の異存もない。
それにしても、僕についてくれた美
容師のジャニーは、僕の学校生活につ
いて、しきりに聞きたがった。学校が
好きかどうか、成績はどうだったのか、
卒業まで在学するつもりか、学校を出
たあとはどうしたいのか‥‥。
彼女は、やさしくていい人そうだっ
たので、僕もすぐにうち解け、いろい
ろ話していた。理科室放火事件のこと
512/806
から、ハリー/ホリーとのいきさつ、
それに、成績についてのちょっとした
自慢まで。
「へえ、転校した学期に、優等表彰を
受けたの? すごいわ」
彼女は、カーラーを巻きながら驚い
たように言った。
「あたしなんて、あそこに在学中、B
よりいい成績とったことないのに」
その言葉に驚いて、僕が振り向いた
せいで、巻きかけていたカーラーが飛
んでしまった。
こんなに女っぽくてきれいな美容師
が、ガールセンターの生徒だったこと
が信じられなかった。
「グレート・インディアンの卒業生な
の?」
僕は、まだ呆然としたままきいた。
「そうよ。卒業してから5年になるわ。
ガールセンターをね‥‥今でも、生徒
513/806
たちはそう呼んでるんでしょ?」
彼女は僕の驚く顔を見ながら、ほほ
笑んだ。
「11歳で入って、あそこが好きだった
から、ずっといたの。あなたとホリー
を見てると、今でも、かわいい子がい
っぱいいるみたいね」
「あなたこそ、すごくきれいでかわい
いじゃない」
僕は、心から感嘆していた。
「それにしても、まさか、うちの卒業
生だとは思わなかったわ」
「ありがとう。あたしも、ホリーと彼
女のママのことを知らなかったら、あ
なたがあそこの在校生だなんて気がつ
かなかったでしょうね」
「でも、11歳って、いったい何をやっ
て入れられたの?」
その年でひどい非行に走るには、幼
すぎる気がして、僕は首をかしげた。
514/806
ホリーにしても、12歳までは、あそこ
に送られるほどの問題は起こしてなか
ったはずだ。
「誰が、非行で入れられたって言っ
た?」
彼女は、僕の髪にまたカーラーを巻
きながらくすっと笑った。
「あたしが、隠れてママの服とかで遊
びだしたのは、8歳くらいの時だった
かな。すぐ両親に見つかっちゃったん
だけど、そこで、両親はあたしを叱っ
たりしなかった。それどころか、かわ
いいって言ってくれたの。そのあとも、
あたしに女の子の服を着ることを許し
てくれて、娘としてかわいがってくれ
るようになった。ママは、かわいらし
い服をいっぱい買ってくれたし、パパ
は、あたしの部屋をちっちゃな女の子
の部屋のように改装してくれたわ。お
休みの時なんて、ジャニーとして家族
515/806
旅行にも連れてってくれた。あたしが、
ティムとしてよりジャニーとして過ご
す方がうれしそうなのを見て、両親は、
その方があたしにとって幸せなんだっ
て思ったのね。たまたま両親がグレー
ト・インディアンのことをよく知って
たこともあって、あたしを連れて行っ
てくれた。その時から、あたしは男の
子の服を全部捨てて、完全にジャニー
になったのよ」
「あたし、うちの学校に入るのは、非
行少年ばっかりだと思ってたわ」
きつく巻かれたカーラーがヘアピン
で固定されるのを感じながら、僕は言
った。
「そうじゃないのよ。毎年、何人かは、
あたしみたいに自分の希望で入ってく
る子たちがいるの。あたしは、男の子
でいるより女の子でいる方が好きだっ
た。両親は、試しに入れてみようと思
516/806
ったらしいけど、あたしにとっては、
これ以上ないほど、居心地のいい環境
だったの」
そんな話を聞いても、僕には、この
美容師が、かつて男だったとは信じら
れない思いがした。もっとも、この数
ヵ月間、学校で知り合ったかわいい女
の子たちのほとんどが、かつて男の子
だったなんて信じられないのだが。
「ところで、あなたも、あたしのパパ
に初めて会った時、怖いと思った?」
「えっ? 何のこと? あたし、あな
たのパパになんて、会ったことないわ
よ」
彼女が浮かべるにやにや笑いの意味
がわからず、僕は聞き返した。
「じゃあ、ヒントね。あたしの姓はウ
イリアムズっていうのよ。で、あたし
のパパは、グレート・インディアンで
働いているの。‥‥ふふ」
517/806
うちの学校で、ウイリアムズという
名の教員や職員は一人しかいなかっ
た。あの魔女‥‥校長だ。
僕には、ジャニーが、まるでコメデ
ィ・セントラル(※)の出演者のように
見えた。ジャニー自身もおかしそうに
笑い、そのせいで、手にしたカーラー
を何本か落とした。
(※訳注
アメリカのコメディ専門ケーブルテ
レビ局)
「そう、あたしのパパは、あの校長な
のよ」
彼女は、カーラーを拾い上げながら、
さらに笑った。
「えっ? あなたのパパって、女?」
「んなわけ、ないでしょ。あなたにど
う見えたかはべつにして、パパはれっ
きとした男よ」
「そんな。うそでしょ」
僕がまた急に振り向いたせいで、彼
518/806
女は、ふたたびカーラーを落とした。
「ほんとよ。これじゃ、仕事が進めら
れないわ。ちゃんと説明するから、少
しじっとしててくれる? 寝癖みたい
な頭にはなりたくないでしょ」
彼女は、そう言ってから父親の話を
してくれた。つまり、グレート・イン
ディアン・リバー・ラーニング・セン
ターの厳格なる校長、ミセス・ウイリ
アムズの話を。
自分の父親にも女装の趣味があった
ことを、子供の頃、ジャニーは知らな
かったのだという。ところがある日、
母親が、突然、ビッキーおばさんと名
乗る女性を連れてきた。そこで初めて、
父親の秘密を聞かされた。
父は、自分もやはり、子供の頃から、
女の子の服を着るのが好きだったのだ
と打ち明けた。小さな頃から、ときど
519/806
き、女装して楽しんでいたのだと。そ
して、大人になった彼は、彼の趣味を
認めてくれる珍しいタイプの女性と出
会った。女性の方は、どんなに長時間
でもショッピングにつき合ってくれ
て、洋服についてアドバイスしてくれ
るボーイフレンドに夢中になった。そ
して、ふたりは結婚し、ジャニーが生
まれたのだ。
一方、父親は、長年の教員生活で、
いずれは校長になることを目指してい
た。ところが、彼が関わる特殊な政治
活動のせいで、どれだけキャリアを積
んでも、出世の道は閉ざされたままだ
った。何人もの後輩に追い抜かれてい
た。
そんなある時、当の政治団体――女
装者の権利を守る支援グループ――か
ら、思ってもいなかった誘いが舞い込
む。トランスジェンダーの団体が共同
520/806
で、実験的に私立学校を開校するとい
うのだ。彼は、その学校、グレート・
インディアン・リバー・ラーニング・
センターの校長になることで、長年の
夢を叶えた。しかし、それは同時に、
彼が女性校長になることをも意味して
いたというわけだ。
「ふふ、どうやらあなたは、パパのお
気に入りみたいよ」
ジャニーは、そう言って笑った。
「じつは、あなたの名前は、パパから
さんざん聞かされてたの。ガールセン
ター開校以来、いちばん成績優秀な女
の子だって」
「まさか、そんな、お気に入りなんて
‥‥。でも、あたしって、そういうの
に鈍いところがあるからな‥‥」
それは、認めざるを得ないだろう。
だって‥‥。
521/806
「自分の父親のことだって、誤解して
たんだもの。あたしはずっと、パパか
ら嫌われてガールセンターに放り込ま
れたって恨んでたの。でも、じつは、
パパがずっとあたしのことを心配して
くれていて、ホリーにあれこれ頼んで
たことを聞かされた。それでやっと、
両親に会う気になったのよ。今では、
あたし、パパのことが大好き。厳密に
言えば、あたしはまだ本物の女の子じ
ゃないけど、今は、パパの娘として生
まれたことを誇りに思ってるわ。だけ
ど、あなたのパパについては‥‥、彼
女‥‥っていうか、彼のことを、ずっ
と魔女だなんて思ってたし‥‥。今で
も、顔を見ると、恐ろしくて震え上が
っちゃうもの」
「パパは、ほんとは、すごくやさしい
人よ。でも、非行少年を女装させるこ
とで更正させるっていう理論と実践
522/806
に、強い使命感を持ってるの。反抗的
な男の子たちを受け身の立場に変えさ
せて管理していくには、どうしても、
あんなふうな厳めしさを装わなきゃい
けないのよ。わかってあげて。あなた
がみごとに適応して、優秀な成績を上
げてることを、パパはいつも、学校の
誇りだって言ってるんだから」
この地球上で、最もひどい生き物だ
と思ってきた女が、誰かの親だったと
いうことすら信じられないのだから、
それが、やさしくて思いやりある男で、
非行少年たちをぎりぎりのところで救
おうという使命感に燃えている人だと
認識するのは、そんな簡単なことじゃ
ない。
でも、彼は、家族に自慢するほど、
僕のことを評価してくれているらし
い。
卑劣で冷酷な魔女などというイメー
523/806
ジは捨てて、彼女に感謝のキスを送る
べきなんだろうか?
ジャニーや他の美容師たちの作業が
すべて終わったところで、僕は声も出
ないほど驚いていた。
緩やかにカールした僕の髪が、肩の
上で弾んでいた。バレッタでとめられ
ほどよく後ろにまわされたサイドの髪
が、やわらかな顔の輪郭を引き立てて
いた。
前に、ヘアスタイルブックで見ては
いたが、試したことのなかったそのス
タイルは、シンプルだけれどエレガン
トで、僕に本当によく似合っていた。
鏡を見るなり、僕は、ぜったいにこの
スタイリングを覚えようと思った。こ
んな髪型の僕を見たら、ロブは喜んで、
また、おいしいキスをいっぱいしてく
れるにちがいない。
524/806
じつは、こんなところが、僕が女の
子でいることに大きな魅力を感じる点
なのだ。すてきな女の子でいるという
ことは、ある意味、矛盾に満ちたこと
だ。たとえば、その「シンプル、だけ
れどエレガント」ということ。
このヘアスタイルには、他とはちが
うなにかがあるにもかかわらず、あく
までシンプルに見える。そしてじつは、
そんなシンプルさをつくり出すために
は、普通に髪を洗ってリンスしセット
するだけでなく、優に20分以上は余分
に時間をかける必要があるのだ。
今夜のドレスだって、矛盾だらけだ。
冬の寒い日だというのに、パーティ仕
様の僕は、わざわざ、細いストラップ
だけで胸の上から肩までを裸同然にさ
らしている。
もっと言えば、毎朝しているメイク
525/806
だって矛盾でいっぱいだ。僕は毎朝30
分以上かけて、その日の服に合わせた
“ナチュラル”メイクをしているのだ。
思うに、女の子が毎日の生活の中に
抱えるそんな矛盾こそ、男が女に惹か
れる理由だという気がする。
僕の持つそんなミステリアスな不可
解さこそが、ロブの気持ちを引きつけ、
彼がそれにわくわくすることで、僕も
幸せを感じるのだ。
夕方になり、いったんホリーの家に
戻って着付けをした時は、ちょっと奇
妙な感じだった。
男性陣が客室で着替えたのに対し、
僕たち女性陣は、ビンクラー夫妻の寝
室でその作業をした。
僕のママとミセス・ビンクラーは、
やはりどこかに、息子たちに見られて
いるという意識があったのだろう。裸
526/806
になったあと、ちょっとあせったよう
に、ブラやパンティを着けた。
こちらの側にも、下着姿の母親を見
ているという落ち着かない感じはあっ
たものの、結局、ホリーと僕がブラと
パンティ姿になったところで、母と息
子という雰囲気は完全に消え、あとは
お互い、わいわい言いながらきれいな
ランジェリーを着け、ガーターベルト
にストッキングをとめた。
すべて着終わった時、僕は大きな胸
のときめきを覚えていた。
美しいドレス、セクシーな下着、こ
れまで着けたうちで最もすべすべのス
トッキング、ヘアスタイルもメイクも
完璧だ。僕はそれに、3インチの細い
ヒールがついた黒いベルベットのパン
プスを履いた。
すぐに部屋を出て、ロブに見てもら
いたいと行きかけたところで思い出
527/806
し、クリスマスに彼からもらったかわ
いい金のハート型ネックレスをつけ
た。
「ワーオ、なんてきれいなんだ!」
ロブは叫ぶような声で、僕の努力に
ちゃんと答えてくれた。
「ねえ、写真撮らせてよ。僕にはこん
なガールフレンドがいるんだって、学
校で自慢するんだから」
「ママ、見て。彼ってほんとにすてき。
世界中でいちばんかっこいいわ」
そのかっこよさは、当然、甘いキス
に値した。僕は背伸びして、彼の首に
腕をまわし、思いっきり甘えたキスを
した。
彼は、僕の体をぎゅっと抱いてぶら
下げるようにし、僕がどれくらい愛し
ているかを言うまで、そして、必ず結
婚するともう一度約束するまで、下ろ
528/806
してくれなかった。
もちろん彼だって、僕を地面に立た
せたままでキスできるのだが、僕は全
然かまわない。だって僕は、彼のこと
をほんとに愛しているし、ぜったい彼
と結婚するんだから。
ロブはタキシードが驚くほど似合っ
た。広い肩幅と厚い胸板は、本当にタ
キシードを立派に見せる。
じつは、僕も2年ほど前、親戚の結
婚式か何かでタキシードを着せられた
ことがあるが、その時のみじめさった
らなかった。
それに比べてロブは、タキシードを
着るために生まれてきたような体つき
をしている。この貸衣装屋は、ロブが
着てくれたことに対し、逆にお金を払
うべきだとさえ思えた。
その夜は、完璧にすばらしいものだ
529/806
った。
ロブは、ウエーターを押さえて、僕
の椅子を引いてくれ、食事中もずっと
気遣ってくれ、僕のグラスのダイエッ
トコーラがカラになるとすぐに注文し
てくれた。
ダンスタイムが始まると、僕たちは
何曲も何曲も踊りつづけ、僕はまるで、
ダンスマラソンの出場者のような気分
になってきた。ほら、古いニュース映
画とかで、疲れ切った女性を引きずる
ようにして踊る男の映像‥‥あれを思
い出したのだ。
じつは2曲目が終わった頃にはも
う、僕のヒールの足は、そうとう痛み
出していた。きれいなロングドレスに
似合うこの靴は大好きだし、これを履
いていることで、歩幅の小さな女らし
いステップを強いられる感覚も嫌いじ
ゃない。でも、これでダンスフロアに
530/806
いつづけるのは、やはりつらい。こと
に、こんなエネルギーのつきることの
ない男のパートナーとして踊るのは、
本当につらいのだ。
それで僕は、ホリーにステディなボ
ーフレンドがいないことをいいこと
に、ときどきロブを貸してあげて、ダ
ンスを休んで息をついた。
でも、彼女にロブをとられるのでは
ないかと、やきもちをやく心配はいら
なかった。レストランには、家族とと
もに年越しに来ている同年代の男の子
たちがけっこういて、ホリーの姿は、
当然彼らの目にとまっていた。その天
使のような女の子に特定のパートナー
がいないことがわかると同時に、彼ら
は、自分がその特定の一人になりたく
て彼女を取り囲んだのだ。
零時が近づいたところで、僕は、ロ
ブの腕をしっかりとつかまえ、その腕
531/806
の中に僕が抱かれるような体勢をつく
った。他の女の子たちに、新年のキス
のチャンスを与えないためだ。
カウントダウンが始まると、僕を抱
く彼の力が強まり、僕たちは、徐々に
唇を近づけていった。そして、新年の
カウントとともに、熱烈なキスを交わ
した。
それは、ほんとにファンタスチック
だった。僕たちは、クラッカーやホー
ンや歓声が鳴り響く中、唇を合わせ、
きつく抱きしめ合っていた。
「ワオ! なんてすてきなの」
そのキスが終わったところで、僕は
叫んでいた。
「みんな、あたしたちのキスを祝って
くれてるわ」
「ほんとにかわいいね、フェイス。で
も、意外とお馬鹿さんかな」
ロブはそう言って笑った。
532/806
「新年のお祝いだろ」
「そんなこと、わかってるわ」
僕は、にっこり笑って言った。
「でも、ほんとにそうかどうか、もう
一度キスして試してみましょ」
「うん、いい考えだ」
ロブは、すかさず賛成した。
「君とのキスなら、1年中しててもい
いよ」
その夜、僕は、ロブの腕の中に包ま
れた夢を見ながら、まるで赤ん坊のよ
うに安らかに眠った。
夢の中でも、ロブは、僕のことを世
界でいちばんかわいい女の子だと何度
も言ってくれた。そして、その言葉以
上のやり方で、僕のことを愛してくれ
た。
そんな夢を見たということは、僕の
中にもう、自分を男の子だと思う余地
533/806
がいっさいなくなったということだろ
う。
何日か後、僕は両親といっしょに、
ミセス・ウイリアムズと面談した。僕
が女の子になる治療を開始するための
相談だった。
僕は、まるでハリケーンの中の木の
葉のように震えていた。この前、美容
師のジャニーから、彼女の「パパ」に
ついての話を聞いてはいたが、この校
長の前に出ると、どうしても虫けらみ
たいに踏みつぶされそうな恐怖を感じ
るのだ。
その上今日は、大事な話をしに来て
いるのだから、緊張はなおさらだ。今
日の話の目的は、なにより、この学校
に卒業までいることを許可してもらう
ことだった。
たとえ更正期間が終わったとして
534/806
も、僕がもう、前の学校に戻れないの
は明らかだ。男に戻るには、すでに僕
は、女の子としての濃密な時間を過ご
しすぎていた。この間、十代の女の子
として暮らし、会話し、行動してきた
ことは、僕の心に究極の変化をもたら
している。僕は今、実際に自分自身を
十代の女の子だと感じ、その上、女の
子として一人の男の子に恋さえしてい
るのだ。
そんな僕が、男のふりをして前の学
校に戻ったとしても、さまざまな問題
が起こることは目に見えていた。昔の
仲間と話すには、自分自身を押し殺す
ことが必要だし、たとえそれができた
としても、知らず知らずのうちに、女
の子のように髪を後ろにまとめる仕草
をしたりするだろう。歩くときは、男
の子ならふつう体の脇で持つはずの教
科書を、胸の前に抱えるようにしてし
535/806
まうはずだ。教室に入った僕が、腰掛
けながら、履いてもいないスカートの
裾をなでつける仕草をしたとしたら、
みんなはどう思うだろう?
いや、そんなことは些末なことだ。
僕にとってもっと重大なのは、まだ15
歳だとはいえ、僕がすでに人生を賭け
たいと思う人に出会ってしまったこと
だ。将来、ロバート・ビンクラーの妻
になるという以外の人生は、僕にはも
う考えられない。
両親は、すべての事情をミセス・ウ
イリアムズに説明した。僕が女の子と
して生きる決意を固めていること、ロ
ブに恋していること、そして、グレー
ト・インディアンにとどまり、この学
校に卒業までいたいと願っているこ
と。
ミセス・ウイリアムズは時折メモを
とりながらほほ笑んだりしたが、それ
536/806
でも、厳めしさが染みついたその顔か
らは、話の内容をどう受け取っている
のか、まったくうかがい知れることが
できなかった。この人は、どうしてい
つも、こんな冷酷な表情をしているん
だろう?
両親の説明がすべて終わったところ
で、ミセス・ウイリアムズは、僕の方
に顔を向け、笑いかけてきた。
「そう言えば、娘のジャニーに会った
そうですね」
僕は、そのほほ笑みにもやはり恐ろ
しさしか感じられず、ただうなずいた。
「娘は、あなたの言葉を一生懸命否定
しなければならなかったと言ってまし
たよ。私がけっして、あなたの思って
いるような恐ろしい‥‥魔女ではない
って」
彼女は、まるで昔からの友人に冗談
を言うように、おかしそうに笑った。
537/806
「い、いえ‥‥その‥‥、あたしは、
けっして‥‥」
僕は、口をもつれさせながら、なん
とか言い逃れようとした。
誰だって、校長先生のことを魔女な
んて言ったことを、校長本人に知られ
たくはないだろう。たとえ、それが事
実だとしても。
「フェイス、それは別に、あなただけ
じゃないんのよ。非行でここに送られ
てきた子たちは、みんな、私のことを
そう思うみたいね」
彼女はそう言ってまた笑った。
「でも、それでいいんですよ。新入生
たちを管理するには、そう思っていて
くれた方が都合がいいんだから。ジャ
ニーも、そう言ってなかった?」
彼女は、今度はちょっといたずらっ
ぽそうな顔でほほ笑んだ。
「ジャニーは、私が、彼女のパパだっ
538/806
てことまでバラしたんでしょ」
「は、はい、そう、うかがいました」
僕は、ていねいな言葉づかいを崩さ
ないようにして、答えた。
「それなら、話が早いわね。私は、そ
のことをよく考えてほしいと思ってい
ます。私は女性として暮らし仕事して
いますが、同時に彼女のパパでもある。
つまり、何を言いたいかと言えば、肉
体上の性転換と、女性らしい生き方を
することとは、必ずしもイコールでは
ないということです。もしあなたが、
女の子の服を着ることや女の子として
振る舞うことが好きだというだけな
ら、なにも性転換は必要ありません。
同じように、男の子に恋していること
だけが理由なら、私は手術をすすめま
せん。もし将来、彼と別れるようなこ
とになったとしたら、軽はずみに体を
変えてしまったことを後悔しないとも
539/806
かぎらないからです」
「あたしは、軽はずみに決めようなん
て、思ってません」
僕は、自分でも驚くほど大きな声で
言っていた。
「それまで目をそらしてきたあたし自
身の気持ちに、本気で向かい合うきっ
かけになったのは、たしかにロブです。
そのおかげで今、あたしたちふたりは
愛し合っています。でも、あたしたち
は、それに目を奪われて、わけもわか
らず突き進もうとするほど愚かじゃあ
りません。あたしは、ロブと出会う以
前から、もう変わっていました。うま
く説明はできないけれど、ここに来た
時から、あたしの中に隠れていたなに
かがどんどん大きくなっていって、気
がついた時には、もう、後戻りできな
くなっていたんです」
「わかります。そのなにかがあったか
540/806
らこそ、あなたは、少年刑務所でなく
ここに送られてきたのですからね」
ミセス・ウイリアムズは、やさしい
声音で言った。
「あの判決が下される前に、心理テス
トを受けさせられたでしょ。そのテス
トの結果は、あなたが社会的不適応で
あることを示していました。もっと正
確に言えば、社会が求める男性役割に
不適応であることをね。あなたがとっ
ていた無謀な行動は、あなた自身がそ
れにむりやり適応しようとした過剰反
応だったようですね。あのテストによ
れば、あなたの資質は、そんな行動と
は裏腹に、やさしくて女性的な側面の
方が強いものでした。それなら、そん
な女性的な部分への抑圧を取り払い、
もっと自由に伸ばしていける環境にお
けば、あなたはより良い人間になるの
ではないか。あの判決の裏には、そん
541/806
な判断があったのです」
「つまり、あたしは、女の子になるこ
とを望むように仕組まれてたというこ
とですか? いわば計画どおりに」
「いいえ、それはちがいますよ。ここ
には、そんな計画なんてありません。
ここに送られてきた少年たちのほとん
どは、より穏やかで精神的に安定した
青年としてここを旅立っていきます。
あくまで、青年としてね。この学校の
目的は、元来、少年なら誰もが持って
いる女性的な側面を伸ばすことで、よ
りバランスのとれた人間をつくるとい
うことです。けっしてそれ以上ではあ
りません。でも中には、そのバランス
が、完全に女性になることでとれる人
たちもいます。そういう人には、その
決定を支持し応援するというのがこの
学校の立場です」
「で、あたしは、本物の女の子になれ
542/806
るでしょうか?」
僕は、すがるようにきいていた。そ
の瞬間、話している相手が、この世で
いちばんきらいな人間だということも
忘れていた。
「フェイス、その決定を下すのは私で
はないのよ」
そう言ったミセス・ウイリアムズの
声音は、やさしく、いたわりのこもっ
たもので、僕は、その顔から魔女の面
影が消えていくような気がした。
「まず、ご両親といっしょに専門医の
ところに行って、診察を受けて。そこ
で性的不適合の診断が下れば、すぐに
ホルモン治療が始まるはずよ。あなた
の体の男性としての発育を抑えて、若
い女性らしい体型をつくるためのね。
ただ、完全に体を変えるのは、成人す
るまで待つべきだと私は思ってるわ。
もっとも、私が言うまでもなく、あな
543/806
たは賢明な判断を下すでしょうけど
ね。たぶん、ジャニーはそれもしゃべ
ったと思うけど、私はつねづね、あな
たのことを、開校以来いちばん優秀で
賢い女の子だと思っているのよ」
「あの、それで、あたしは、卒業まで
ここにいてもいいんでしょうか?」
「あなたのように成績優秀でいい子が
転校してしまうなんて、むしろ、この
学校にとっての損失よ」
ミセス・ウイリアムズは、そう言っ
て笑いかけた。
「それに、あなたがここの卒業生だっ
てことを、私は人に自慢したいもの」
その瞬間、幸福感に包まれた僕は、
思わず席を立っていた。そして、彼女
のもとに駆け寄り、その体を抱きしめ
ていた。
「まあ、ジャニーやホリーの言うとお
りね。あなたって、ほんとに素直でか
544/806
わいい女の子」
その感謝の抱擁から腕をといたとこ
ろで、僕に向かい、ミセス・ウイリア
ムズは、またいたずらっぽい笑顔で言
った。
「私がほんとはこんな人間だってこと、
他の生徒には内緒よ」
2週間ほどのち、両親と僕は、今度
は専門医のもとを訪ね、ふたたび、僕
が本物の女の子になりたいと考えるに
至った経緯について話した。
その女医は、僕と両親が話す内容を
こと細かに書き取り、カルテを見直し
てから、僕にいくつかの心理テストを
受けてくれと言った。
すべてのテストが終わったところ
で、採血をされ、そこで女医は、検査
の結果は2週間後に出ると告げた。
545/806
その2週間は、本当に長かった。も
う一度その診察室を訪ねる時には、僕
が本当の女の子になれるのかどうかが
決まってしまうのだ。僕は毎日、不安
にさいなまれながら過ごした。あんな
日々は、もう二度とごめんだ。
もし、検査の結果が「ノー」と出た
ら、その時僕はどうなるのか?
ロブはゲイなどではなく、女の子と
しての僕を愛している。だとしたら、
僕らは一生、デート以上のことはでき
ないということだ。だいいち、デート
のたびにひげを剃らなければならない
女の子を、ロブは愛しつづけられるだ
ろうか?
その検査結果次第で、僕の人生すべ
てが台無しになるのだ。僕はどうして
も女の子になりたかった。ロブなしの
人生なんて、もう考えられないのだか
ら。
546/806
その日、僕はピンクのスカートと白
いブラウスを着た。女子高生らしいか
わいい格好で行けば、医者の採点が多
少甘くなるような気がしたからだ。そ
の下に着けているのが、持っているう
ちでいちばん女っぽいブラとパンティ
とハーフスリップだと知ったら、さら
に高いポイントがもらえるかもしれな
い。僕が、医者にそれを見せようと思
っていると言うと、ママがとめた。
「先生は専門家なのよ、フェイス。あ
なたがかわいいランジェリーを着けて
いるからって、診断が変わるようなこ
とはないわ。この前、あなたを診た結
果を、公正に伝えてくださるはずよ」
医師は、検査結果のすべてをもう一
度見直し、そのあと、何枚かの書類に
目を通していた。
547/806
待たされている間、椅子に浅く腰掛
けた僕は、その書類を取り上げ、むり
やりにでもひとつの答えを言わせたい
という衝動に駆られた。
と、書類を机に戻した医師が、僕に
目を向けた。
「おめでとう、フェイス」
彼女はそう言ってほほ笑んだ。
「すべての検査結果が、あなたが精神
的にも安定した魅力的な若い女性にな
れることを示しています。それに、あ
なたの体内のテストステロンの分泌量
は、同年代の少年と比べてきわめて低
いレベルです。つまり、そもそも、男
性の体を作っていくホルモンがそれほ
ど多くないのね。これから、女性ホル
モンの投与プログラムをはじめること
になりますが、このテストステロンの
量から見て、その効果は、きわめて速
く現れると思います。2ヵ月後に、進
548/806
行度を診るための再検査をしましょう
ね」
僕は、完全に我を失っていた。ひと
こと目を聞いた瞬間から、声を出して
泣きつづけていた。
「早くロブに知らせたいわ」
僕は鼻をすすりながら言った。
「ああ、あたしって、なんて幸せな女
の子なの」
「じつは、もうひとつ、考慮に入れて
いただきたいご提案があります」
医師は、両親に向かって言った。
「もちろん、ご両親の同意の上でとい
うことですが、暫定的な外科手術をさ
れてみてはいかがでしょう。成長過程
での女性化をめざす娘さんのようなケ
ースでは、本格的な性転換手術はまだ
おすすめできませんが、その代わりに、
女性としての生活に抵抗なく適応して
いくために効果があるといわれている
549/806
方法です」
やっと泣きやんだ僕は、医師の説明
を食い入るように聞いた。
その手術とは、僕の現在の生殖器を
腹腔の中に押し込んで縫合し、外見上
は女性器と変わらない状態をつくると
いうものだった。
つまり、その手術を受ければ、ぴっ
ちりしたスラックスも履けるし、ビキ
ニだって着られる、裸に近い姿でも平
気だということだ。詳しい身体検査で
もされないかぎり、誰からも、どんな
場所でも女性として見られるわけだ。
僕は、例のパンティガードルなしで
タイトなスラックスを履いた自分の姿
を想像し、ワクワクした。いや、それ
以上に、ビキニが着られるということ
に有頂天になった。
一度走り出した僕のイマジネーショ
ンは止めどなく暴走し、すでに頭の中
550/806
には、セクシーな白いビキニでデッキ
チェアに寝そべり、日光浴する自分の
姿が浮かんでいた。ちらちら盗み見る
ようにしていた男たちの視線は、けっ
きょくはすべてそのボディラインに釘
付けになる。
小さなブラが僕の胸を形よくもり上
げ、かわいいお尻にはやっとカバーで
きる程度の弾力ある生地が張りつく。
その前の部分には、もはや武骨にもっ
こりした固まりなどなく、ゆるやかな
丘がやさしい曲線を描いている。ああ
‥‥。
もし、両親がその手術に同意してく
れるなら、僕は思いっきりいい子にな
ろう。まるでちっちゃな女の子のよう
によく言うことをきいて、毎日きちん
とお薬を飲もう。そして、女の子とし
ての成長過程をたどるのだ。そしてそ
して、夏までには、素敵なボディを手
551/806
に入れるのだ。あわれなボーイフレン
ドを一発で悩殺してしまうようなナイ
スなボディを。ああ‥‥。
「そっちの若い方のレディ、なにのぼ
せてるんだ。お行儀よくしなさい」
パパのひと言が、やっと僕に正気を
取り戻させた。それにしても、パパは
どうして僕の考えていることがわかっ
たんだ?
「今のあなたの顔、見え見えだったわ
よ」
きくまでもなく、ママが説明してく
れた。
と、そこで、パパが医師に向かい口
を開いた。
「彼女は今後、性行為は可能なのでし
ょうか?」
その言葉に、医師は一瞬パパを見返
したが、すぐにうなずいた。
「ええ、もう少し成長したのち、もっ
552/806
と本格的な手術をすることで可能にな
ります。女性としての悦びも、まちが
いなく得られるはずです。ただし、今
提案した処方の段階では、膣がありま
せんから、まだ性交はできません。ペ
ッティング程度ならできますが」
その言葉に、パパが僕の目をじっと
見つめてきた。
「‥‥あ、あたし、そんなこと、しな
いわ」
僕はあわてて、誓いを立てた。
「あたし、いい子でしょ。ママもパパ
も、信じて」
と、ママが先に折れて、パパを説得
しはじめた。
「あなた、この子が女の子としてちゃ
んと大人になるためにも、思うとおり
にしてあげましょ」
パパはまだ迷っているようで、医師
に向かってさらにきいた。
553/806
「女性ホルモンを始めると、この子は
ずいぶん変わってしまうんでしょう
か。たとえば、性格までも」
「ええ、大いに変わると思います」
医師は、僕が望んでいなかった答え
を口にした。
「遺伝子上のマンスリーサイクルが働
き出す結果として、いわゆるお天気屋
といわれる性格が現れる‥‥つまり、
周期的に感情の起伏が激しくなるはず
です。でもそれは、この年頃の女の子
なら誰もが多かれ少なかれ経験するこ
とで、性的に成熟するためにはむしろ
自然なことだと言えます。その過程で
は、これまでに経験したことのない衝
動が起こることもあるでしょう。でも、
彼女が新しく手に入れた体が、それを
乗り切らせてくれるはずです。これま
でも、女性としての性衝動に駆られが
ちな患者さんは何人もいましたが、少
554/806
なくとも体が変わっているかぎり、そ
の衝動を解決するための最大の障害は
取り払われているわけですから」
医師の言葉に、パパはしばらく目を
白黒させていた。その言葉は、彼の女
性観の無防備な部分に突き刺さったに
ちがいない。
「‥‥わ、わかりました」
ずいぶん間の開いた後、パパはうな
ずいた。そして、僕に向かって確かめ
るように言った。
「どうか、ママとパパを悲しませるよ
うな、いけない子にはならないでおく
れ」
そのお小言ともに、僕の手術は、春
休みに行われることが決まった。
その手術をはさみ、夏までには、摂
りはじめたホルモンが、僕の体に、年
頃にふさわしい女の子っぽいカーブを
555/806
つくってくれるだろう。あとは、ほん
のちょっとだけパッドの助けを借りれ
ば、ロブを、幸せな道化者にしてしま
えるわけだ。
僕はやっぱりいい子だった。言われ
た処方をきちんと守り、毎日忘れずに
ホルモンを摂っている。始めたばかり
の頃は、吐き気に悩まされたりもした
けれど、それもふくめて、僕は、日々
ワクワクして過ごしていた。
それに関しては、ホリーと僕の間で、
新たな儀式ができた。
朝食の時、いっしょにカウントダウ
ンし、ふたり同時にエストロゲンの錠
剤を口の中に放り込み、ジュースで飲
み下すのだ。
ほどなく、ホリーと僕には、あらゆ
る面で、前ほどのちがいがなくなって
いった。
556/806
それは、ホリーと僕が本物の姉妹に
なれたような感覚だった。僕の体は、
お姉ちゃんの後を追うように、キュー
トで曲線的に発育していくのだ。
ロブが、彼の学校のバレンタインパ
ーティに誘ってくれた時、もちろん僕
は即座にオーケーした。
ロブはホリーも誘い、そのパートナ
ーとして友達を一人用意してあると言
った。その友達には、ホリーと僕は双
子みたいなものだと伝えてあるのだそ
うだ。
それで僕は最初、クリスマスの時に
着たホリーとおそろいのドレスを着て
行こうかと思った。あの赤いベルベッ
ドのミニドレスだ。
でも、あれではちょっと時季はずれ
のような気もした。あれは、いかにも
クリスマスという感じだ。ちっちゃい
557/806
女の子のようにかわいらしくて「シュ
ガー・アンド・スパイス」そのものと
言っていい。
今度、誘われているのは、なんと言
ってもバレンタインデー‥‥恋人たち
の日なのだ。「シュガー・アンド・ス
パイス」なんかでなく、もっと大人っ
ぽい服を着たい。
じつはロブも、あの赤いベルベット
を着て来てほしいと言い、あれこれ理
由を並べた。
「あの服は本当に似合うし、君のきれ
いな脚を引き立てる」「赤は、まさに
バレンタインデーの色だ」「友達は、
まだあの服を着た君を見ていないか
ら、僕はそんな君をみんなに見せびら
かしたい」‥‥。
やっぱりロブは男の子だ。女の子の
ファッションも、女の子の気持ちもぜ
んぜんわかっていない。
558/806
僕はロブにキスして「心配しなくて
いいから、あたしに任せて」と言った。
僕は、誰よりロブに見てもらいたい
のだし、ロブに驚いてもらいたいのだ。
彼がもっと僕に夢中になるような服
を、探さなければいけない。
僕はすぐに、ホリーを巻き込み、い
っしょにドレスを買いに出かけた。
そして、いろいろ見た末、ついに気
に入ったドレスを見つけた。
やはり赤だが、ボディコンシャスな
つくりで、これまで着たどんな服より
ミニでタイトだ。これなら、最近大き
く変わってきた僕の体型を、隠すとこ
ろなく見せられるにちがいない。サン
キュー、女性ホルモン。
試着室を出てきた僕に、ホリーは息
をのんだ。
「そんなの見たら、あなたのパパ、心
559/806
臓が止まるわ!」
「パパに見せるんじゃないもの。見る
のはカレよ。彼にとって、一生忘れら
れないような思い出にしたいの」
僕は、鏡の前であれこれポーズをと
りながら、新しい自分の体に手を這わ
せた。
「そうね、それならロブは、ぜったい
忘れないわ」
ホリーはにやにやしながら言った。
「自分の部屋に帰ったらすぐに思い出
して、激しい運動をするはずよ」
パーティの準備を終えたホリーと僕
は、自分で言うのもなんだけれど、驚
くほどの美人に見えた。
ホリーが選んだのは、太腿の真ん中
くらいの丈の赤いスリップドレス。僕
のより、ちょっとだけ長い。僕らはそ
れに極薄の黒のストッキングを履い
560/806
た。下に着けているのは、もちろん最
高にセクシーな黒のランジェリーだ。
控えめに表現するとしても、パート
ナーたちは、僕らを「あがめる」にち
がいない。
思ったとおり、ロブも、それにホリ
ーのパートナーであるジョーも、僕ら
を見たとたん、目を見張った。それだ
けでなく、パーティ会場に入っていく
と、そこにいた男の全員が僕らのこと
を目で追った。それはまちがいなく、
ロブとジョーのプライドをくすぐった
はずだ。
僕はロブと何曲か踊り、そのあと、
ホリーとパートナーを交換して踊っ
た。
と、それを合図にするように、一人
で来ていた男たちが、次々にダンスを
申し込んできた。
561/806
ロブもジョーも、それをいやがらな
かった。
他の男たちが自分の腕に抱いて踊る
ことで、ホリーと僕がいかに女らしく
て、かわいくて、セクシーかを知れば
知るほど、学校内での、彼らの序列が
上がるということだろう。
パーティが終わるまでに、ホリーと
僕は、連れのいない男のほとんどと踊
っていた。それどころか、ボーイフレ
ンドが僕らと踊りたがったせいで、ダ
ンスフロアに取り残されてしまった女
の子たちも何人かいた。もちろん僕ら
は、そんな女の子たちを傷つけないた
めに、ためらうことなくロブとジョー
を差し出した。いずれにしても、最後
の曲では、みんなもとのパートナーの
ところに戻り、すべては丸く収まった。
その最後のダンスは、最高に素敵だ
った。ロブは、僕がこのパーティ会場
562/806
でいちばんかわいい女の子だと何度も
繰り返し、その太い腕にきつく抱かれ
た僕は、まるでふわふわと宙に浮くよ
うな高揚感を味わっていた。もっとも
それは、僕の中で例のお天気屋現象‥
‥ホルモンによる感情の高ぶりが起こ
っていたからでもあった。
そう、そのお天気屋現象‥‥という
か、情緒不安定の症状についても、話
しておいた方がいいだろう。
ものすごく幸せだと感じている何秒
後かに、急に涙が溢れ出したりする。
最近では、そんなことがよく起こるの
だ。
たとえばロマンチックな映画を見て
いる時なら、それも悪くない。でも、
バッグスバニーのようなマンガを見て
いる時にさえ起きるのは、ちょっと困
りものだ。
563/806
検診の時、そのことを報告すると、
医師は「苦しいなら、女性ホルモンの
量を減らしましょうか?」と提案して
きた。でも僕は、即座にそれを断った。
自分の体が変わっていくことに、僕
は喜びを感じている。くびれていくウ
エスト、かわいい丸みを増すお尻、ふ
くらみはじめた胸‥‥本物の女の子へ
と変身していく過程を少しでも押しと
どめるようなことは、ぜったいにいや
だった。
ロブに抱かれ、キスされ、最高の女
の子だと言われることに価値を見いだ
せなくなったというなら話は別だが、
今の僕は、ますますそれを望んでいる。
そのためには、どんな苦しさだって耐
えられる。
じつは、例の手術について、僕はロ
ブに詳しいことは話していなかった。
564/806
何日間か入院することは伝えてあった
が、彼はそれを女性化の進度を確かめ
るための検査入院だと思っている。
でも、ホリーは当然、知っている。
それどころか、彼女は僕といっしょに
入院し、同じ手術を受けることになっ
た。
そう、同時に、同じ手術を。僕がそ
の手術の話をした時から、彼女は親に
頼み、さんざんねだったあげく、つい
には同意を取りつけていた。
小さな頃からの親友であり、未来の
義理の妹でもある人といっしょにそん
な手術に臨めるなんて、なんて素敵な
ことなんだろう。夏には、おそろいの
小さなビキニでプールサイドに寝そべ
り、ボーイフレンドたちにサンオイル
を塗ってもらえるのだ。
その手術が行われる予定の春休みま
での間、ホリーと僕は、心弾む思いで
565/806
ふざけ合ってばかりいた。
僕は、彼女が、僕の成績に追いつけ
ないだろうと、さかんにけしかけた。
その結果――微積分とフランス語の小
テストの前にはちょっと勉強を見てあ
げたこともあり――、彼女はこれまで
になくいい成績をとった。
愛する娘の評価がいきなりCからA
に上がったことに、彼女の両親はたい
へん喜び、もし今学期の成績がよかっ
たら、僕に何かお礼をしたいと言った。
僕は、それに感謝しながらも今はいい
と断った。僕が彼らからもらいたいも
のは、ひとつしかない。彼らの息子だ
けだ。
ともかく、そんなふうにいい成績を
保ちながらも、ホリーと僕は、毎日を
浮かれて過ごし、その大改造の日を迎
えた。
566/806
春休みに入った天気のいい月曜の
朝、僕ら2人は両親に連れられ、入院
した。
病室に入るとすぐに、看護士からカ
ミソリを手渡され、バスルームでシェ
ービングしてくるように言われた。
僕はホルモンを始める前からひげが
薄く、剃らなければならないほど生え
ないと言うと、その看護士は大笑いし
た。
‥‥ん? なんか、変なこと言っ
た?
戸惑う僕に、看護士は耳打ちし、そ
の「シェービング」の意味を教えてく
れた。僕は顔を真っ赤にしてカミソリ
を受け取り、バスルームに駆け込んだ。
とはいえ僕は、その部分の毛も薄く、
剃るのに手間取ったわけではない。2
分後には、夢の国への出発準備がすべ
て整っていた。
567/806
「また、あとでね」
看護士が僕の腕に慎重に針を刺すの
を見ながら、ホリーが声をかけてきた。
「あたし、ビキニを着るのが待ちきれ
なかったの」
ストレッチャーの上に身を横たえな
がら、僕はそう答えた。
「だから‥‥」
そのあと、すでに白いビキニを注文
ずみだという話をしようと思ったのだ
が、その言葉の途中で、僕のまわりを
暗闇が包んだ。
看護士の声が僕の名を呼び、具合は
どうかときいているのはわかってい
た。
でも僕はその時、素敵な夢を見てい
る真っ最中だったので、それには答え
なかった。
568/806
‥‥プールサイドに腹ばいに寝そべ
った僕‥‥おっぱいとお尻には、ちっ
ちゃな白いビキニ‥‥ローションを塗
ってくれているロブの手が、背中や腿
の上をやさしくすべり‥‥その唇が、
首の後ろにそっと触れる‥‥。
目を開けたところで、僕はがっかり
した。
僕の着ているのはビキニではなく、
白は白でも病院のガウンだった。背中
をなでさすっていたのも、ロブではな
くパパだったのだ。
「だいじょうぶ、フェイス?」
ママの声が聞こえた。
「つらくない?」
「‥‥かな‥‥しい。あたし‥‥、か
なしい」
僕はつぶやくように言った。素敵な
夢から覚めてしまったことが、本当に
悲しかったからだ。
569/806
「フェイス、でも、これは、お前が望
んだことだったんだろ?」
困惑したパパの声が、どこか遠くか
らのように聞こえてきた。
「今さらそんなことを言っても‥‥。
それに、ロブのことだって‥‥」
「ちが‥‥う。そう‥‥じゃ‥‥なく
‥‥」
僕は、その誤解を解こうとしたのだ
が、まだ意識がはっきりせず、言葉が
うまくつかまえられない感じだった。
「ロブ‥‥愛してくれる‥‥うれしい
‥‥夢が‥‥」
「体を起こさせた方がいいわね」
看護士の声がして、その看護士とパ
パが両側から僕の背中を支え、ベッド
の上に座らせた。
「もう十分に回復したでしょ。目を覚
ます時間よ」
起きあがってからもしばらくは、ぼ
570/806
ーっとしたまままわりを眺めていたの
だが、そこで突然、目の焦点が合った。
隣のベッドがからになっていることに
気づいたからだ。
「ホ、ホリーは? ホリーは‥‥ど、
どこ?」
その、ホリーのベッドを指さし、ま
だもつれる舌と必死に戦いながら言っ
ていた。
「ホリーは、まだ手術室よ」
ママが言った。
「あなたのがすんだあと、彼女の方に
かかったんだから」
僕を取りまいていた霧が次第に晴れ
ていき、舌のもつれもなくなってきて、
やっと、言葉が思考に追いついてきた。
僕は、見ていた夢のことを話し、さ
っき「悲しい」と言ったのは、目を覚
ました時、背中をなでていたのが、ロ
ブでなくパパだったからだと説明し
571/806
た。
もう一度、看護士に具合をきかれ、
僕は、脚のつけ根あたりに鈍い痛みを
感じる他は、別にどこもおかしいとこ
ろはないと伝えた。看護士はそこで、
何錠かの錠剤を飲ませ、ナースコール
のボタンの説明をした。
「手術はすべて順調にいったそうよ」
ママはそう言いながら僕の髪をな
で、パパは僕の肩を抱きしめてくれた。
「しばらくの間、乗馬とかバイクは禁
止だって。でも、この夏、ロブにあな
たを見せて喜んでもらうぶんには、な
んの支障もないわね」
「ええ、暴走族やカウボーイになるの
は、あきらめるわ」
僕は、笑いながらそう答えた。
「カウボーイにかぎらず、ボーイに戻
ることも、もうできませんよ」
病室に入ってきた執刀医らしい医師
572/806
が言った。
「もともとテストステロンの生成能力
が低かったあなたの睾丸は、大量の女
性ホルモンを浴びて、すでに機能しな
くなっていました。それで、ご両親の
許可をいただいた上で、この際、切除
した方がいいと判断しました」
「ええ、今のあたしにとっては、なん
の未練もないものです」
僕はそう言って、彼にほほえみ返し
た。
「自分が男の子だったということすら、
思い出せないくらいですし」
「本来なら、術前にご本人におことわ
りするべぎでしたが、術中にそれがわ
かったものですから」
医師はそうわびたあと、つづけた。
「去勢したわけですから、今後、女性
ホルモンの効き目はさらに高まるはず
です」
573/806
「もっと早くそれを聞いていれば、そ
の時点でお願いしたのに」
そしたら、今でも、もっと大きな胸
になってたにちがいない。
「まあ、いずれにしても、手術は大成
功でした」
医師はそう言いながら、カルテに何
か書き込んだ。
「もう、明日には退院していいでしょ
う。傷も1週間うちには回復して、普
通に生活できるようになると思いま
す」
「ついでに、夏も早く来ればいいのに」
僕は、満面の笑みで言った。
「早くホットパンツがはきたいから」
「もし、僕がもう少し若ければ、すぐ
にでも君のボーイフレンドのところに
行って、大金を渡して、君を譲れって
言うのに」
医師はそうからかってきた。
574/806
「もし、彼と別れるようなことがあっ
たら、いつでも連絡して」
「先生は素敵な男性だと思うわ。でも、
それは無理ね。だって、ロブにとって
は、お金よりなにより、あたしが大事
なんだから」
「こんなかわいい女の子をつかまえた
なんて、なんて幸せなやつだって、彼
に伝えといて」
医師の言葉どおり、僕は翌日退院し、
新学期までの1週間を自宅で過ごし
た。
言うまでもなく、その間僕は、1日
に何度も、ガーゼを変えるふりをして
新しい股間を確かめた。かつて、あの
やんちゃ坊主がいた場所に、ぷっくり
とした「唇」があるのを見るたびに、
僕は死ぬほどワクワクした。
ある日、そんな「点検作業」の真っ
575/806
最中に部屋のドアがノックされた。マ
マだ。何か持ってきたとか言っている。
あせった僕は、急いでパンティとス
ラックスを上げたが、その途中で入っ
てきたママは、何をしていたか気づい
たかも知れない。
「じつはね、新しいパンティを買って
きたのよ」
ママはそう言いながら、「ビクトリ
アズ・シークレット」というロゴの入
った紙袋を差し出した。
「これまでのは、ちょっと変なところ
が伸びちゃってるでしょ。それに、も
しかしたら、今のあなたは、もっとセ
クシーなのが履きたいんじゃないかな
と思って」
「セクシー? そんなこと、思ってな
いけど‥‥」
ママには純情な娘だと思っていても
らいたかったし、それに、ママの言う
576/806
セクシーなんてたかが知れているだろ
うとも思い、僕はそう言った。
ところが、袋の中をのぞいた瞬間、
僕は言葉を失った。そこにはたしかに、
セクシーとしか言いようのないパンテ
ィが10枚以上も入っていた。
「えーっ、うっそー!?」
その新しい下着をベッドの上に並べ
ながら、僕はさらに息をのんだ。
「これ、マジで? パパが見たら、心
臓が止まるわ」
そこには、ブリーフは言うまでもな
く、コットン・パンティすらなかった。
かのリチャード・ニクソンが死んで
以来、この惑星上で最も保守的だと思
っていたママが買ってきたのは、なん
と、20枚以上のひもパンだったのだ。
あ然としてその顔を見やると、ウイ
ンクしたママは、なぜかドアの鍵をか
けた。
577/806
「ずいぶん高かったのよ。ねえ、履い
てみせてよ」
ママは、ニコニコと笑いながら言っ
た。
「恥ずかしがらなくてもいいわ。母親
として、かわいい娘がどれほど成長し
たか、見たいだけなんだから」
笑ってはいるが、何だか有無を言わ
せぬ口調だ。
とはいえ、僕の方も、拒否する気は
なかった。
正直に言えば、ロブとつきあい始め
た頃からずっと、僕は、こんなパンテ
ィを履くことを夢見ていた。
たとえばロブとのデートで体を寄せ
合っているような時、僕の心の中で、
誰かが、「いい子」であることから思
い切って踏み出せとささやく。このま
まロブが「いけないところ」に連れて
行ってくれたらいいのにと、密かに望
578/806
んでいたりする。
だから、こんなパンティの広告を見
かけると、心が騒ぐ。店で、実際に手
に取ったことも何度かある。でも、い
つも買う寸前で思いとどまっていた。
恐かったのだ。
もしこんなのを履いたら、そのとた
ん、僕は、欲望の中におぼれていきそ
うな気がした。せっかく僕のことを大
事にしてくれている理想の男性の前
に、自ら身を投げ出し、彼をその欲望
の中に巻き込んでしまいそうな気がし
たのだ。
でも今、ママのお許しが出た。
僕はさっそくスラックスを脱ぎ、も
はやダサいとしか思えなくなったパン
ティを、さっさと下ろした。
「最初は、これね」
ママはまた、もう決めているという
口調で言い、薄い黒レースのひもパン
579/806
を渡してくれた。
それに足を通し、やさしくずりあげ、
長さを調整してひもを結び直す。
ああ、こんな超セクシーなものを身
につけた感覚を、いったいどう表現し
たらいいんだろう。
全身の末端神経から悦びの信号が駆
け上り、僕の意識をはるか高みまで押
し上げる。今、言うべき言葉があると
したら、それは、恍惚という以外ない。
「かわいかったあなたも、いよいよ女
ね」
鏡の中の僕の姿を、ママは、本当に
若い女性として見つめてくれていた。
「上着とブラもとってみて。胸がどの
くらい大きくなったか見たいの」
その言葉にも、僕は何の躊躇もなく
従った。ママの前でパンティひとつに
なり胸をチェックされることに、不思
議と照れはなかった。というより、ふ
580/806
くらみつづけている胸を、母親に自慢
したいような気持ちになっていた。
「ふふ、私が同じ年頃だった頃よりは
小さいわね。でも、私は最初から女の
子だったんだから、そのぶん、ハンデ
をあげなきゃね」
ママはそう言って笑いながら、なん
と自分も、履いていたショートパンツ
を脱ぎ始めた。
驚いたことに、ママはその下に、僕
とおそろいの、でも色違いの白いひも
パンを履いていた。
「えーっ! ママが、そんな大胆なの
履くなんて、思わなかった」
僕は笑いながら言った。
「だいいち、自分をセクシーに見せた
いなんて、考えない人だと思ってたも
ん」
「失礼ね。ママだって女よ」
ママは、そう反論し、怒った顔をし
581/806
てみせた。
「セクシーに見せたくない女なんて、
いるわけないじゃない」
さらにママは、自分も上着を脱ぎ、
ブラまでとってしまった。
「どう? 年の割には、いい線行って
るでしょ」
たしかに、ママの言うとおりだった。
その胸は僕より数段大きく、しかも、
未だ張りがあって形もいい。
「期待してていいわよ。うちの家系は、
みんな大きいし、セクシーでかっこい
いおっぱいなんだから」
「ああ、あたしも、早く大っきくなら
ないかな」
僕は、ママの均整のとれたボディに
見とれながら言った。
「ママみたいになれたら、きっとロブ
は、もっと夢中になってくれるわ」
582/806
他にも何枚かのパンティを試したあ
と、僕らは服を着て、夕食の仕度のた
めにキッチンに向かった。
ママが、僕のことを、一人前の女と
して‥‥年若い同性として接してくれ
たことが、僕にはすごくうれしかった。
そのおかげで僕は、自分がまだ男の子
なんじゃないかとか、女の子としては
未完成なんじゃないかとか、そんなこ
とを思い煩わなくてすんだ。
ホリーと僕が術後の副作用もなく回
復し、学校に戻ってきたことを、ミセ
ス・ウイリアムズは喜んでくれた。病
院からの申し送り書面を見た彼女は、
僕らに、通院の必要があるうちは体育
の授業を免除すると言った。
ふたたび始まった学校生活は楽しか
ったが、僕らにはそれがちょっと不満
だった。
583/806
体育館での着替えがないぶん、変わ
った体をみんなに見せびらかすチャン
スがなかったからだ。まあ、僕につい
ては、みんなをうらやましがらせるに
は、もう少し体型が変化してからの方
がいいのだろうが。
とはいえ、学年末(※)までには、ホ
リーと僕が獲得した下半身の構造やカ
ーブに富んだ体型は、全校生徒に知れ
わたっていた。さらに男の子たちにモ
テる要素を手に入れたことで、僕らは
羨望の的となった。。
(※訳注
7月初旬
9月に始まるアメリカの
学年は夏休み前に終わる)
長い冬の間、僕は、タートルネック
セーターやジーンズやブーツに全身を
包まれていた。
でも、夏がやってきた今、女の子な
らではの格好が思いっきりできる。ぴ
584/806
ちぴちのホットパンツ、ミニスカート、
サンダル、肩やおへそを出したトップ
ス‥‥。そんなのを、いっぱい着るつ
もりだ。
なんと言っても、
「持ってるもんは、
見せなきゃソン」。そして今、僕は、
まちがいなくそれを持っているのだか
ら。
男の子の僕は、背の低いやせっぽち
でしかなかった。でも、それはもう過
去の話。今の僕は、同世代の女の子た
ちに負けないだけの立派な肉体を持っ
た若い女性だ。めいっぱい見せびらか
してやろう。
夏休み中、僕には、何週間かキャン
パスを離れ、家族と過ごす許可が出た。
僕は、その期間を最大限に生かす計画
を立てていた。
この春から夏にかけて、僕の衣服の
585/806
下に入れているパッドの量がどんどん
減っていることを、ロブはまだ知らな
い。そんなロブを驚かせてやるための
計画だ。
その帰省期間に入る前、僕はホリー
を誘い、毎日ショッピングに出かけた。
そして、ミニスカートや、ぴちぴちの
トップスや、思いっきり短いホットパ
ンツなどを買いあさった。
もちろん、そんな服がパパにショッ
クを与えることはわかっている。でも、
もうパパも、そろそろわかっていいこ
ろだ。パパのちっちゃな娘は、すでに
一人前の女になっていることを。そし
て、いくらパパでも、それを押しとど
めることなんてできないのだというこ
とを。
案の定、休みに入って最初のデート
に出かけようとする僕のホットパンツ
586/806
姿に、パパはキレた。
「まさか、そんな格好で、どこかに出
て行くんじゃないだろうな!」
ロブの到着を待とうとリビングに入
っていくなり、パパは言った。
「もうじき、ロブが迎えに来てくれる
の。ピザレストランへ行って、そのあ
と映画を見るんですって」
パパの首筋の血管がぴくぴく動いて
いるのに気づいてはいたが、僕は平静
を装い、いつもの調子で返事した。
「そんなものを着てか?」
「え? ああ、これ? 今日は暑くな
りそうだし、買ったばっかりのこのホ
ットパンツがちょうどいいかなと思っ
て」
「いったいなに考えてるんだ。お前は、
パンティで外を歩くつもりか?」
僕が今履いているパンティはもっと
ずっと短くて、生地も思い切り小さい
587/806
んだと言ってやりたくなったが、パパ
に脳卒中でも起こされたら困ると思
い、やめておいた。代わりに、立ち上
がって、ヒップのあたりをなでながら、
笑いかけた。
「なに言ってるの、パパ。これはパン
ティじゃないわよ。女の子なら、みん
な履いてるわ。いくらでも見かけるで
しょ」
「あいにく、ティーンエージャーの娘
たちの着ているものに、関心なんてな
いんでな」
パパは腹立たしげに言った。
「ただし、自分の娘となれば話は別だ。
そんないかがわしい女のような格好で
町を歩くなんて、ぜったい許さん!」
「あら、そう。じゃあ、あの頃、あな
たは私のことをいかがわしい女だと思
ってたわけね」
ママが、パパの脳卒中を遅らそうと、
588/806
いたずらっぽい顔を向けた。
「若い頃、デートの時、私もよくホッ
トパンツを履いたわよ。忘れたの?」
パパはなにか言いかけたが、そこで
言葉をとめ、思い出すようにしたあと、
ちょっとにやけた顔になった。
「ああ、たしかに君は、ホットパンツ
がよく似合ってたよ」
「でしょ。私はよくて、フェイスはだ
めなわけ?」
「そ、そりゃ‥‥。この子は大切な娘
だ。娘のデート相手に、あの時の私の
ような感情を抱いてほしくはないだろ
う」
言ってから、パパはしまったという
顔をした。でも、言ってしまったもの
は、もうどうしようもない。
「へえ、あの時、あなたはどんな感情
を抱いてたのかしら?」
ママは、勝ち取った主導権をたしか
589/806
なものにするように、迫った。
「と、ともかく‥‥」
パパは口ごもるように言った。
「私は、この子がこんな格好で男と会
うなんて、いいことだとは思えない」
「この子はもう、なんだってできるわ。
実際にするかどうかは別にしてね。そ
れに、本当のところ、そうしたいとい
う気持ちだってあるでしょうしね」
ママは、その論争にとどめを刺そう
としていた。
「フェイスはもう、一人前の女よ。女
として、セックスにどう対処して、新
しい自分の体を守っていくのか。親が
口出すんじゃなくて、自分自身で学ば
なければいけない時期だと思うわ」
「だから私は、なにより、それが心配
で‥‥」
パパは、ため息をつくようにぶつぶ
つ言い、敗北を認めた。
590/806
パパの心配に反し、迎えに来たロブ
は完全に紳士的に振る舞った。
ただしそれは、家を出るまではとい
うことだ。車の近くまで行ったところ
で、ロブは、こらえきれないように、
僕がどれほど素敵に見えるかを語りは
じめ、その数秒後には僕を抱きしめ、
これまでに経験したうちでも最高のキ
スをしてくれた。
ロブは、こんな僕を、知り合いすべ
てに紹介したいと言った。ロブの友人
たちとは、ほとんど冬の間に会ってい
た。でも、こんなふうになった僕を、
彼は自慢したいのだろう。もちろん、
僕に異存はない。
僕も、ロブの友だちに見られるのが
好きだ。彼らと会うと、たいてい、冗
談めかして、僕にデートを申し込んで
きた。そのたび、僕は感謝のほほ笑み
591/806
とともに、僕がロブの彼女であること
をあらためて伝えた。
あとからロブに聞いた話によれば、
彼らは、さかんにロブをうらやましが
り、もしロブが僕を大事にしなかった
ら、すぐにでも奪い取ると言ったそう
だ。もちろん、そんな可能性はほとん
どなかったが、僕はそんなふうに言わ
れてわくわくした。
2週間が過ぎ、学校に戻らなければ
ならない時が近づくと、僕は、悲しく
て仕方なかった。それほどこの休暇は
楽しいことばかりだったのだ。
毎日、最高に素敵なカレといっしょ
に過ごし、新学期用に着るかわいい服
をママと買いに行き、毎日、最高に素
敵なカレといっしょに過ごす。
‥‥ん? 今、同じことを二回言っ
た?
592/806
でも、しかたない。だって、僕にと
ってそれは、これまでの人生で最高に
素敵な時間だったんだから。
たとえば僕は、ロブに、僕が育った
町を案内した。
かつて、ホリーと僕がハリーとフラ
ンクだった頃、ふたりで遊んだ場所も
巡り、僕らがつくって「女の子立入禁
止」を宣言していた木の上の要塞も見
せた。
もちろん、僕が理科室に火をつけた
学校にも行った。ある意味、あの事件
がなければ、ふたりがこんなふうに出
会うこともなかったのだから。
それらすべての光景は、短い間にす
っかり変わってしまっていた。いや、
すべては、あの頃と同じようにそこに
あったのだが、僕には変わって見えた。
手のつけられない問題児の男の子と
して見るのと、恋する女の子の目から
593/806
見るのとでは、世界は違って見えるの
だ。
そこには、前は気がつかなかった素
敵なものがいっぱいあった。学校の花
壇にはかわいい花がいっぱい咲いてい
たし、ロブといっしょにシートを広げ
て時間を過ごした町の公園も、以前は
こんなにいいところだとは思わなかっ
た。公園で遊ぶ人々を眺めていると、
彼らもまた、僕らのことを若くてほほ
えましいカップルという目で見て、笑
い返してくれた。
もうひとつ、けっして忘れられない
ことがある。ロブの家のプールへ初め
て泳ぎに行った時の、彼の顔だ。
それは、この春から僕がずっと待ち
望んでいた瞬間だった。いよいよ、本
当に女の子っぽい女の子に変わった僕
を見てもらうのだ。
594/806
そのイベントにあたり、僕はちょっ
ともったいぶって、ロブに先に着替え
させ、彼が水泳用のトランクスで出て
くるのを、プールサイドで待った。
でも、そのトランクス姿を見た瞬間、
僕の方がまずのぼせ上がった。筋肉の
盛り上がった毛深い腕や脚、そして胸
毛。出会って以来初めて、僕は、彼の
体から目が離せなくなった。特に、ト
ランクスの前のごつい盛り上がりか
ら。
僕は、あわててその場を離れ、着替
えに走った。そうでもしないと、すぐ
に彼を部屋に誘い、ベッドの上に押し
倒して、むしゃぶりつきそうな気がし
たからだ。
ママやパパにいい子でいることを約
束して来ている以上、そんな考えは、
むりやりにでも捨てなければならな
い。そう思いながら、僕はホットパン
595/806
ツとトップスを脱ぎ、ビキニに着替え
た。
髪を整え、ポニーテールにまとめて、
白いシフォンのスカーフで結う。その
あと、唇にちょっとグロスを塗り、ビ
ーチサンダルを履く。
そんな姿で僕は、今度こそロブをの
ぼせ上がらせるために外へ出た。
「おお、神よ‥‥」
できるかぎりのセクシーさで腰をス
イングさせながら近づいていくと、ロ
ブはそうつぶやいた。
「いったい、なんて‥‥なんて君は‥
‥まるで‥‥夢みたいに‥‥」
「どうしたの、坊や?」
僕は、いたずらっぽく笑いかけなが
ら、彼の首に腕ををまわし、その顔を
引き寄せようとした。
キスというものがどれほど雄弁か、
本当によくわかった。
596/806
なにも言わなくても、2フィート(約
60センチ)ほど宙に浮いた僕には、彼
の言いたいことがはっきり伝わってき
た。
「君こそ、世界中でいちばんセクシー
な女の子だ!」
そう、僕がどれほどホットな女の子
かは、そのままふたりでプールに飛び
込んだ瞬間、蒸気が立ちのぼったよう
な気がしたことでもわかる。
彼は、そんなセクシーでかわいいボ
ディにありとあらゆる素敵なことをし
たいようだった。
いや、もっと正直に言おう。
ロブの言いたいことや考えているこ
とが、キスだけで伝わってきたわけじ
ゃない。ことに、彼が何をしたがって
いるかという部分については、彼のあ
る部分が、僕の体に強く押し当てられ
たことでわかったのだ。
597/806
それは、女の子の服を着始めた時か
ら、僕が密かに持っていた夢だった。
男の子がこうなるということは、ただ
単にかわいいと思っているだけじゃな
いだろう。僕を性の対象として、つま
り本物の女として認めているというこ
とに他ならない。
ロブの手は、僕のウエストからお尻
へと移動し、そこをなでるように揉む
ように動いた。そのことで、僕の体の
中から、大きな悦びがわき上がってき
た。
ただ、悲しかったのは、あの手術が、
これ以上の悦びを想定したものではな
かったことだ。そう思うと同時に、僕
は、自分の中に、彼とのセックスを待
ち望む衝動がまちがいなくあるのを感
じた。
そして、さらに不幸なことは、僕ら
がふたりとも「いい子」だったことだ。
598/806
出かけていた彼の両親が間もなく帰っ
てくることはわかっていたから、ふた
りとも、プールの水で火照った体を冷
ますしかなかった。
「えっ? 君はもう、ほんとの女の子
になったの?」
プールから上がったところで、ロブ
は、僕の股間を見つめながら言った。
「あら、失礼ね。あたしはずっと昔か
ら女の子よ」
僕は、そんな彼のほおをたたく真似
をしながら言った。
「ただ、これまでよりもっと女の子に
なっただけ。まだ、先はあるけどね。
で、ここまでのところ、あなたは気に
入ってくれた?」
言葉を浪費しないボーイフレンドを
持つのは、素敵なことだ。ロブは、言
葉よりキスの方が効率がいいことをよ
く知っている。
599/806
あと2日で学校に戻るという日、マ
マとパパは、僕に大きなサプライズを
用意していた。
その夕方、ロブと僕は、やはり1日
デートして帰ってきたところだった。
僕は、ロブがお気に入りのピンクのサ
ンドレスを着ていた。ロブの方は、筋
肉や胸毛が素敵に見える短パンとタン
クトップだった。
ふたりでキッチンに入っていくと、
そこで待っていたママが、なんだか公
式文章っぽい封筒をさし出した。
「ミセス・ウイリアムズが転送してく
ださったのよ」
彼女は、つづけてこう説明した。
「あなたに判決を下した判事からです
って」
「そんな、心配そうな顔しないで」
僕は、じつは、自分でもちょっと心
600/806
配しながら言った。
「判事が、あたしに男の子に戻れとで
も言うの? そんなこと、ぜったいで
きないはずよ」
僕は肩をすくめながら、32インチB
カップの胸を示すジェスチャーをして
いた。
その手紙を読み始めたところで、僕
はちょっと違和感を感じた。深刻そう
な顔をしていたママが、くすくす笑い
始めたのだ。
そして、数分後にはその理由がわか
った。
裁判所からの命令という形をとった
その手紙は、僕の更正についてミセス
・ウイリアムズから聴取した結果、減
刑に値するとして、判決の期間短縮に
よる執行終了を宣言していた。つまり、
僕の行動に加えられたあらゆる制限が
解除され、望むなら、このまま、グレ
601/806
ート・インディアン・リバーに帰らず
自宅で暮らしてもよいということだ。
犯歴としても残らないという。
「あたし、戻らなくてもいいのね」
僕は、興奮しながら言った。
「やったー!」
「えっ? あなたは、グレート・イン
ディアンを卒業したいんじゃなかった
の?」
ママが、不思議そうな顔できいた。
「フェイスになったあなたが、前の学
校にもとどおり通うのはつらいと思う
んだけど」
「ちがうわよ、ママ」
僕は説明した。
「あたしはもとどおり、大好きなガー
ルセンターに帰るわ。お友達と別れた
くないし、それにも増して、ミセス・
ウイリアムズと別れたくないもの。あ
たしは、自由の身になれたのがうれし
602/806
いの。これで、会いたい時にはいつで
もロブに会えるし、帰りたい時にはい
つでも家に帰れるわ。あたしは、何に
も束縛されない自由な女の子になれた
のよ。もう、ぜったいに男の子に戻ら
なくてもいいってこと」
「おめでとう、フェイス」
ロブが、僕を抱き寄せ、キスしなが
ら言った。
「これで僕も、前科者の女の子と結婚
する心配をしなくていいわけだ」
「それについては、じつはもう一通、
裁判所の決定が添えられてたのよ」
ママは、何だか思わせぶりな笑顔で
テーブルの上からもう一通の書面を取
り上げた。
「さあ、いったい、どんなことが書い
てあるのかしら?」
その書類をひったくるように取って
目を通した僕は、あまりの驚きに、思
603/806
わずそれを落としそうになった。
今、僕の手の中にあるのは、1通の
出生証明書。偶然にも僕と同じ日、同
じ時間に、同じ両親から生まれた‥‥
フェイス・ジョアンナ・ジョーダンと
いう‥‥女性の出生証明書 ( ※ ) だっ
た。
(※訳注
戸籍制度のないアメリカでは、これ
が性別の法的根拠となる
というか、「戸籍」
という封建制度が残っているのは日本と韓国く
らい)
「あ、あたし‥‥、ほんとに本物の女
の子!」
僕は叫びながら、飛び跳ねていた。
「女の子、女の子、女の子。ね、素敵
な響きだと思わない?」
「僕もうれしいよ」
ロブは最大の笑顔で答えてくれた。
「もっとも、それを疑ったことなんて、
一度もなかったけどね」
604/806
「おめでとう、フェイス」
ずっと笑って見ていたパパも言って
くれた。
「これで私も、公式に女の子のパパっ
てわけだ」
パパの祝福は、外食につながったが、
行ったのはピザレストランだった。
僕は、かわいい衣装とヒールに着替
え、ちゃんとしたレストランに行きた
かったのだが、短パン姿のロブがいや
がったからだ。いったん帰って着替え
てくるには、家が遠すぎるとロブはご
ねた。
きれいに着飾って素敵になること
に、男の人って、どうしてこう熱心に
なれないのだろう?
そう思ったことで、僕は自分が、か
わいい服や素敵なランジェリーを着る
ことがなにより大好きになっているこ
605/806
とを再認識した。
神よ、僕に女の子の楽しみを教えて
くれたホリーに、最高の祝福を!
制限を解かれた僕は、さっそくミセ
ス・ウイリアムズに電話し、外泊をも
う1週間伸ばすと申し出た。その週に
僕の16回目の誕生日が来る。その日を、
ロブといっしょに祝いたかったから
だ。でも、それが終わったら、急いで
学校に戻る約束もした。その頃には、
何人か、新入生の女の子たちが送致さ
れてくることになっている。その子た
ちの面倒を見たいと思ったのだ。
自分の経験から言っても、男の子が
女の子として暮らさなければいけなく
なる最初の数週間が最もきつい。僕の
時にホリーや他の女の子たちがしてく
れたことを、僕もその子たちにしてあ
げたいと思っていた。
606/806
僕の16歳の誕生パーティは、すばら
しいものになった。会場として、ロブ
の両親が、プールを使わせてくれたの
だ。
そのおかげで、学校から近いことも
あり、友達すべてを招待できた。ロブ
の方も、自分の学校から、野球部やア
メフト部や陸上部の男の子たちを呼ん
でいた。
その日は太陽が照りつける暑い一日
で、プールパーティには、うってつけ
だった。
女の子たちはかわいい水着を着て、
男の子たちのうち、かっこいい何人か
のまわりをワクワクしながらうろつき
まわった。
男の子たちはみんな、いわば典型的
なティーンエージャーの男という感じ
で、女の子の気を引くために、他の男
607/806
の目の前に裸のお尻を突き出したりし
て、ふざけ合った。そのあと、かわり
ばんこに水に飛び込んで遊んでいた彼
らは、やがて、もっと幸せな気分を味
わいたくなったらしく、水上騎馬戦を
提案し、それぞれに僕ら女の子を肩車
して戦った。
ロブは、誕生日プレゼントとして、
かわいいロケットをくれた。その中に
入っていたのが、あのグローブトゥロ
ッターズの試合を見に行った日に撮っ
た写真であることが、僕にはすぐわか
った。
その写真の意味に、僕は泣き出して
いた。それは、僕が女の子になること
を決意した夜、そして、ロブと恋に落
ちた夜だった。
僕は、そのロケットを、一生身につ
けると誓った。
608/806
パーティの翌々日には、僕はガール
センターに戻っていた。
と、寮の部屋のドアに、ミセス・ウ
イリアムズからのメモが貼ってあっ
た。頼みたいことがあるから、荷物を
かたづけたら、すぐに校長室まで来て
くれということだった。
僕はもう、ミセス・ウイリアムズを
恐いと思ってはいなかった。それどこ
ろか、彼女から頼りにされているらし
いことを喜んでいた。
それにしても、頼みたいことって何
だろうと思いながら、スーツケースを
ベッドの上に置き、髪とメイクを直す
と、すぐに校長室に向かった。ミセス
・ウイリアムズの頼みなら、できるこ
とは何でもするつもりだった。
「フェイス、戻って来てくれてありが
とう」
609/806
僕が席に着くなり、ミセス・ウイリ
アムズはそう笑いかけた。
「前にも言ったけれど、私はあなたを、
グレート・インディアン開校以来の優
秀な生徒だと思ってるのよ。あなたの
ことを、どれくらい誇りに思っている
か、わかってくれるわね」
僕は、何だか居心地悪い感じがして
いた。いや、恐れなどではなく、照れ
くさかったのだ。
「無理なお願いだと思うかもしれない
けれど、ひとつ、助けてほしいことが
あるの。大変なことだけれど、あなた
ならうまくやれると思うわ。もし気が
進まないなら、遠慮なく断ってくれて
いいのよ。だからって、あなたの評価
が変わることはないから」
「今のところ、断る理由が見つかりま
せん。何を言われてるのか、さっぱり
わかりませんから」
610/806
僕は、からかうような口調で言って
いた。
そんなふうに、彼女に向かって冗談
めかした会話ができるなんて、ちょっ
と信じられない気がした。去年の今ご
ろは、彼女の前で笑っただけで洗脳さ
れるにちがいないと感じていたのだか
ら。
「じつは、あなたに、ある新入生のビ
ッグシスターになってほしいと思って
るの」
ミセス・ウイリアムズはほほ笑みか
けながら言ったのだが、そのほほ笑み
が僕の驚きを和らげることにはならな
かった。
僕が‥‥ビッグシスター?
僕にはまだ、そんな心の準備はでき
ていなかった。
僕が、この学校の方針に反発して、
女の子のように行動するのをいやがっ
611/806
ていたのは、そんなに昔のことじゃな
い。たしかに今、僕は、カレさえいる
女の子っぽい女の子になっているかも
しれない。でも、他の男の子が、僕と
同じ苦痛を味わう過程を、平然と推し
進めることができるだろうか?
「本気でおっしゃってるんですか?
あたし自身、まだ、女の子になって日
が浅いんですよ」
「私の判断は、まちがいないと思いま
すよ」
彼女は確信を込めて言った。
「その新入生は、あなたと同じクラス
です。彼女は、自分を見失っている子
で、そういう子には、友人の援助が大
きな力になります。あなたこそその友
人に最適だと、私は確信しています」
僕には、この学校とミセス・ウイリ
アムズに大きな借りがある。もし彼女
がその返済を望んでいるなら、断って
612/806
はいけないと感じた。
「あたしにできることなら、やってみ
ます」
「うれしいわ、フェイス。あなたなら、
この新人のレディにとって、最高のお
姉さんになれるはずよ。ちょっと、彼
女について、説明しておきましょうね」
僕の新しい「妹」は、ラリーという
名だった。
彼は、あるストリートギャングのグ
ループとつるんで、町をうろつきまわ
っていた。そのグループは、せいぜい
万引きやひったくりをする程度だった
のだが、最近になってその段階を「卒
業」し、ついには、コンビニ強盗まで
働くようになっていた。あるコンビニ
を襲撃した際、ほとんどが逮捕された
のだが、その時には、メンバーの一人
が射殺された。ラリー自身も危うく撃
613/806
たれるところだったようだ。
その裁判の過程で、彼の両親はガー
ルセンターのことを知った。両親は即
座に入所を申請をし、結果、ここへの
送致という判決が出た。
裁判後、両親はまず、ラリーを隣人
の目から隠し、叔母のところに連れて
行った。
そこで、父親に見張られながら、彼
は母と叔母から採寸された。
彼はそれが、新しく入る学校の制服
のためだと聞かされていた。つまり、
彼が送られるのは、一般より校則の厳
しい寄宿学校だということだけを知ら
されているわけだ。
2日後、ふてくされた顔の14歳の男
の子が校長室に座っていた。
彼の両親は、今後1ヵ月間は、息子
とは面会謝絶だと言い渡された。
614/806
彼らは、息子に別れを告げ、先生た
ちの言うことをよく聞くようにと言い
残し、息子が何かを言いかけるより先
にそそくさと部屋を出た。
ラリーの両親が学校を去るのが、僕
が校長室に入る合図だった。
「この若い女性は、フェイスといいま
す。ここでは、彼女が、あなたのビッ
グシスター、つまりお姉さんになりま
す」
ミセス・ウイリアムズは、僕が初め
て会った時と同じ、冷淡な声音で告げ
た。
「フェイスは、あなたのルームメイト
であり、アドバイザーであり、あなた
さえそう望めば、最高の友人にもなる
でしょう。あなたが、このグレート・
インディアン・リバーでの生活に慣れ
るよう、彼女がいろいろと面倒を見て
615/806
くれるはずです。彼女なら、勉強も教
えてくれるでしょうし、同様に、ここ
での決まりや習慣についても親身にな
って教えてくれます。あなたが反抗的
な態度をとって、彼女の言うことをき
かないとか、あるいは、彼女が、あな
たの更正はこの学校では無理だと判断
した時、彼女は私にそれを通告するこ
とになっています。その場合、あなた
は、少年刑務所に送られ、18歳までそ
こで過ごすことになります」
まだ幼さを残すその男の子が、内心、
震えていることは、僕にはよくわかっ
た。しかし、彼は、それを隠すように
かたくなな態度をとりつづけた。
「へん! こんなネエちゃんの言うこ
となんか、誰が聞くか」
彼は、そう毒づいた。
「こんなとこ、すぐにでも出てってや
る」
616/806
「そうしたいんなら、してみなさい!」
ミセス・ウイリアムズは、一喝した。
「出て行った結果、何が待っているか
は、わかっているんでしょうね。ここ
にいるのは女ふたりだから、そこまで
強がっていられるんでしょうが、あな
たより何インチも大きくて、体重が倍
もあるような男に向かって、あなたが
どこまで虚勢を張れるか、ぜひ見てみ
たいものです。ここの代わりにあなた
が送られるところには、そんな男がう
じゃうじゃいるんですよ。彼らが、あ
なたのような小柄でかわいい男の子に
対して、どんなことをするのか、知っ
ていますか? あなたはそこで、『ネ
コ』と呼ばれる役回りをすることにな
るはずです。その言葉の意味が、わか
りますか?」
ラリーの強がりの姿勢は、一転して
怯えに変わった。彼は、その言葉をじ
617/806
ゅうぶんに理解したようだ。もし少年
刑務所に送られたら、自分がどんな目
に遭うのかも。
それでも、ミセス・ウイリアムズは、
あわれな少年への追及の手をゆるめな
かった。
「さあ、さっさと出て行きなさい!」
彼女は冷たく言いはなった。
「私は、すぐに対抗手段をとります。
言うまでもなく、警察に通報するとい
うことです。町に出る前に、あなたは
また逮捕されるでしょう。そしてあな
たは、何人もの男の慰み者になる。あ
なたがそんなふうにかわいがられるこ
とを、ご両親は喜ぶかしら?」
ラリーの目から、突然、大粒の涙が
溢れ出した。そして、むせるように嗚
咽しだした。僕は、彼が、本当に嘔吐
するのではないかと思った。
「それでも、あなたは出て行きます
618/806
か?」
ミセス・ウイリアムズは、そう問い
つめた。
「早く答えなさい。私には、まる1日
待つような暇はないのですよ」
「ここで‥‥暮らします」
彼は、声をつまらせながら言った。
「ここに‥‥おいてください」
「これからは、どんな時も、いうこと
をききますか?」
ラリーは、それにうなずいた。
「もう二度と、逃げるなどとは言いま
せんか?」
それにも、うなだれるように同意し
た。
「人が話している時は、ちゃんと目を
見なさい、ティファニー」
ミセス・ウイリアムズが誰に語りか
けたのかと、ラリーは、周りを見まわ
した。それは、僕が初めてフェイスと
619/806
呼ばれた時と同じだった。
「あなたに言っているんです、ティフ
ァニー。聴覚に障害でもあるんです
か?」
「‥‥僕?」
ラリーは、おどおどとつぶやいた。
「僕のことですか?」
「決まってるじゃないですか!」
その声音に、僕は、僕自身がラリー
の立場にいた時のことを思い出し、思
わず身震いしていた。この冷酷で底意
地の悪そうな女は、本当に、僕の知っ
ている、あのやさしくて寛容な人物な
のだろうか?
「その‥‥僕だとは、思わなかったん
で‥‥」
「もう、わかりましたね」
その声がまた、冷淡に響いた。
「フェイスが、部屋まで案内してかた
づけを手伝ってくれます。今、午前11
620/806
時です。3時ちょうどにもう一度この
部屋に来なさい。秋からの授業の説明
をします。それまでに、この学校の生
徒にふさわしい服装に着替えること。
さっき、何でもいうことをきくと言っ
たことを忘れないように」
「あ‥‥ああ」
「そんな言葉づかいは、二度と聞きた
くありません!」
ミセス・ウイリアムズは、またきつ
い調子で言った。
「今後、言葉づかいも、この学校の生
徒にふさわしいものに改めるように」
「‥‥はい」
ラリーは、小さな声でつぶやいた。
「誰に言ってるんですか?」
「は、はい、先生」
すでに彼の涙は枯れ果てているらし
く、ただ、鼻をすすっただけだった。
「よろしい」
621/806
ミセス・ウイリアムズは、そう言っ
て、その泣きべその顔にほほ笑みかけ
たのだが、彼の目にはそうは見えなか
ったらしく、困惑の表情が浮かんだ。
と、ミセス・ウイリアムズは、僕に
かすかな目配せを送ってきた。僕は、
オスカー級の演技力に感嘆しながら、
うなずき返した。
そして、ラリーにやさしく手を添え、
校長室から連れ出した。
寮の部屋まで行く間、ラリーはずっ
と口をつぐんでいた。その表情は、恐
れの中ですっかり我を失っている感じ
だ。ただ、今後4年間、自分を拘束し
ようとしているあの冷酷な女の目の前
から離れられたことだけは、とりあえ
ず安堵しているように見えた。
「ここが、あたしたちの部屋よ」
622/806
僕はほほ笑みかけながら、ラリーを
部屋に導き入れた。
テーブルの花、クリーム色のカーテ
ン、花柄ボーダーのライトピンクの壁
紙‥‥そんな室内の様相が目に入った
ところで、彼は戸惑った顔でしばし黙
り込んだ。
「ここは‥‥女の子用の部屋だろ」
やっとのことで、そう口を開いた。
「どうして僕が、こんな部屋に? し
かも、ルームメイトも女の子だってい
うし‥‥」
「他にどんな部屋があるっていうの?
ここは女学校なのよ」
僕は、彼が馬鹿な質問をしたという
ように、肩をすくめてみせた。
「さあ、さっさとかたづけちゃいまし
ょ。もう一度ミセス・ウイリアムズの
ところに行くまでに、やらなきゃいけ
ないことがいっぱいあるんだから」
623/806
「女学校‥‥? なんだそれ? なん
で、僕がそんなところに?」
そう言うラリーを無視して、僕は、
彼の両親が置いていったスーツケース
を開けた。そこに目を落とし、中に入
っていた白いブラウスと制服のスカー
トを見た瞬間の彼の顔に、僕は、カメ
ラを持っていないことを悔やんだ。
「さあ‥‥」
僕は、あたかも当たり前のことをし
ているという感じで、彼に2着のブラ
ウスを手渡しながら言った。
「あなたの制服を、さっさとかたづけ
て。他にもしまわなければいけないも
のが、山ほどあるのよ」
しかし、そのブラウスは、彼の手か
ら滑り落ちていた。
「わざわざ実験しなくても、地球には
引力があるわよ。ティファニー」
「誰の‥‥ものだって?」
624/806
ラリーは、足もとでしわくちゃにな
った服を見つめながらきいた。
「『もの』じゃなく、ブラウス。あな
たの、制服の、ブラウスでしょ。ミセ
ス・ウイリアムズの手を借りたくない
んなら、さっさと自分で拾いなさい」
その言葉に、彼は、反射的にそれを
拾い上げた。
「だけど、こんなの、僕は‥‥」
その言葉に重ねるように、僕は言っ
た。
「着るの! あたしたちは、毎日着て
るわ」
僕は、彼の持つブラウスの上に、さ
らにスカートを置きながら言った。
「だって、ここの制服なんだから」
「そりゃ、あんたはいいよ。でも、僕
は女なんかじゃない」
ラリーは、まるで保守的な老人のよ
うなことを言った。
625/806
「いい? じゃあ、あなたの親は、な
んであなたをここに入れたの? ここ
が女学校だってことは知ってたはず
よ。もしあなたが女の子じゃないとし
たら、このスーツケースの中にいっぱ
いつまってるパンティやブラはなにか
しら? こっちのドレスは、誰の?」
僕は、他のスーツケースも開けなが
らきいた。
「し、知らないよ」
ラリーは、ショックを隠しながら言
った。
「僕はホモじゃないんだ。そんなもん、
着るかよ」
「あのね、ここにはホモなんて一人も
いないのよ。あなたはここに入ってき
た他の男の子たちと同じように、ここ
で、ちゃんとした女の子になるの」
僕はラリーにハンガーを渡し、彼が
それにブラウスを掛けるのを見守っ
626/806
た。
その顔は、彼が今、僕の言ったこと
を理解しようと猛然と頭を働かせるこ
とを物語っていた。
「‥‥えーっ? じゃあ、あんたは‥
‥」
「ストップ。次の言葉は『からかって
るのか』くらいにしといて。それ以外
のことを言ったら、怒るわよ」
僕はまず、そう釘を刺してからつづ
けた。
「だけどまあ、あなたの推測は正しい
わ。ここにはたしかに、ふつうの意味
での女の子はいない。生まれついての
女の子は、ってことね。ここにいる子
たちのほとんどは、ここに送られてき
た時、今のあなたと同じだった。生活
はめちゃくちゃに崩れて、家族も手に
負えないほどすさんでいた。このグレ
ート・インディアン・リバーは、そん
627/806
なあたしたちにとって、刑務所に入ら
ずに自分を立て直す最後のチャンスな
のよ。あたしたちはみんな、力を誇示
しなければ自分を守れないという愚か
な強迫観念を持って育ってしまった。
でもここで、もっとやさしい生き方だ
ってあるんだということを学ぶの。自
分が美しくなることを楽しんだり、泣
きたい時は人目を気にせず泣いたり‥
‥っていうね」
見ると、ラリーには、僕の言いたい
ことが少なからず伝わったようだ。で
も一方で、それとはちがう怯えのよう
なものが、目の中で揺れていた。
「でも、そんな格好をしたら、人から
オカマって言われる‥‥」
「さっき、初めて会った時、あなたは、
あたしのことをオカマだと思った?」
どうやら、次へのとっかかりが見え
た気がして、僕はきいた。
628/806
「チッ、あんたを見たとたん、すぐに
も一発やりたいって思ったよ」
「ありがとう。あたしのカレは喜ばな
いでしょうけどね」
僕は、そう言ってほほえみ返した。
なんであれ、かわいいと思われている
のはうれしい。
「だけと、あんたは、ほんとは男なん
だろ」
ラリーの顔には、今度は僕のことを
警戒するような色が見てとれた。
「心配しないで。あなたに対して、そ
んな気は起きないから」
その警戒を解くために、僕は笑いな
がら首を振った。
「あなたと同じような意味での男だっ
たのは、せいぜい、去年のクリスマス
までね。肉体的には、今もまだ多少、
男の部分が残ってるけど、それも、あ
とほんのちょっとしたことで、完全に
629/806
変わるわ」
ラリーがわけがわからなくなってい
ることに乗じて、僕は、彼の新たな衣
装をクローゼットに掛けさせていっ
た。
やがて、服が入っていたスーツケー
スがからになり、残すは、下着類の入
ったものだけになった。
「こんなの、やだよ」
そこからパンティの類を取り上げた
ようとしたところで、ラリーは体を震
わせながら言った。
「知ってるでしょ。あなたには2つの
選択肢しかないのよ。4年間、ここで
女の子として暮らすか、それとも、刑
務所で誰かの『女』になるか。ここに
いれば、ちゃんとした教育だって受け
られるし、あなたなりの未来が見つか
るわ。さあ、あなたの下着なんだから、
あなたがちゃんとかたづけなさい、テ
630/806
ィフ。その間に、あたしがお風呂の用
意をしてあげるから」
何枚かのパンティを彼の手に渡し、
僕は、新しい妹のために、素敵なバブ
ルバスの準備をすることにした。
どうやら、ミセス・ウイリアムズが
使った手を真似たのが功を奏したらし
い。突然、新しい自分の名を呼ばれた
彼は、混乱し、疑問を差し挟む余地さ
え失ったようだ。
バスルームに入りながら肩越しに見
やると、当惑したままの少年がひとり、
まるで危険物でも扱うように、新品の
かわいらしい下着類を引き出しにしま
っていた。
すべての準備が整ったところで、僕
は、まだ混乱した表情を浮かべている
妹に、服を脱いで、バスタブに入るよ
う命じた。
631/806
ズボンを脱ぎかけたところで、彼は
ちょっとためらうようにこちらをうか
がった。それで僕は、彼をさらに混乱
させるように振る舞った。
「あたしたち、ふたりとも女の子でし
ょ。ああ、手伝ってほしいのね」
僕は、彼のベルトに手をかけながら
言った。
「い、いや、自分でできるよ」
彼はうめくように言い、バックルを
はずした。
「見てなきゃ、いけないのか?」
「ふふ、それに慣れなきゃね。だって、
今も言ったように、あたしたち、女の
子どうしよ。それに、これから2年間、
お互いのものを毎日見るわけだしね」
僕は、そう笑いかけた。
「あなたがお風呂に入ってるうちに、
あたしが着るものを用意しておくわ」
さらにそう言って、僕は、彼が脱い
632/806
でいく服を受け取った。
「どんな服が、お好み?」
「今、あんたが持ってるやつ」
「馬鹿なこと言わないで。あなたみた
いにかわいい女の子が、こんな男の子
みたいなものを着るの? クローゼッ
トの中には、かわいい服がいっぱいあ
るっていうのに」
漂ってきた入浴剤の香りに、彼がま
んざらでもない顔をするのを見なが
ら、僕はからかった。
新しい妹のために僕が選んだのは、
デニムのスカートと、ライトブルーの
Tシャツだった。僕らの年頃の女の子
が着る夏服としては、きわめて平凡な
組み合わせだが、ティフなら、これで
じゅうぶんにかわいく見えるはずだ。
下着については、最初ということも
あり、できるだけ抵抗の少ないものが
633/806
いいと思ったのだが、彼女のパンティ
は、最もシンプルなものでも、ウエス
トまわりにたっぷりレースが使われた
白いナイロン製だった。しかたなく、
僕はそれとともに、ローティーン用の
トレーニングブラを選んだ。こちらも、
カップ全体をレースが覆っている。
あとは、服に合わせ、ライトブルー
のソックスと白のスニーカーをそろえ
た。
そんな服のコーディネイトをしなが
ら、僕は、小さい女の子がバービーち
ゃん遊びに夢中になる理由がわかった
気がした。乱暴者の男の子を、かわい
くてきれいな女の子に変えるというこ
とに、僕は、正直、浮き浮きと興奮し
ていた。きれいなドレスやかわいい下
着を身につけた彼の姿を早く見たいと
思った。
つい、そんな期待を抱いてしまうの
634/806
は、彼の外見のせいでもあった。男の
子にしてはかわいいすぎる顔。くすん
ではいるが長めのブロンドの髪。それ
らの特徴からは、人をどきりとさせる
ほどかわいい女の子の姿が、容易に想
像できた。
あれだけかわいい顔をしながら、彼
は、荒っぽい世界に身を投じて育って
きたのだ。このまま年を重ねたとして
も、けっして楽な生き方はできないに
ちがいない。
あんな女の子っぽい見かけで、どう
やって男の役割を全うしようというの
か? 早い話、人からはしょっちゅう
女の子とまちがわれるだろうし、自分
よりかわいく見えてしまうのでは、デ
ートの相手だって引くだろう。
彼は自分が、そのままでも、ふつう
の女の子よりきれいだということをわ
かっているのだろうか?
635/806
気がつくと、時間が少なくなってい
た。それで、僕は自分の考えをとりあ
えず保留し、僕の妹の最初の冒険旅行、
つまり、彼女を美容室へ連れて行く準
備にかかった。
僕が選んだ服をバスルームに持ち込
むと、彼女はすでに観念しているよう
に見えた。
「は~ん、そんな服を着なきゃいけな
いわけね」
彼女は、それにため息をついた。
「そうよ。それと、ミセス・ウイリア
ムズに言われる前に、その『は~ん』
とかいう口癖、直しなさい」
僕は、そう警告した。
「もしかするとあなたは、中等部の『基
礎英語』クラスで、もっと小さな女の
子たちと勉強した方がいいかもね。き
っと、おさげが似合うわよ」
636/806
「そんなのは、もうすんだよ」
彼女は不機嫌そうに言い、パンティ
を手に取った。
「服を着る間のプライバシーもないの
か?」
「ひとりで、できるの?」
「決まってるだろ」
ティフはかみつきそうな顔で言っ
た。
僕はベッドルームへ出て待ちなが
ら、これだけ敵意むき出しの人間に、
どうアプローチしたものかと考えた。
しかし、ほどなくある考えが浮かび、
僕はほくそ笑んだ。とりあえず、やら
してみればいいのだ。レースやリボン
いっぱいの中で、彼女がどこまでやれ
るのかを見てやろう。彼女はすぐに音
を上げるはずだ。そしたら僕はすかさ
ずミセス・ウイリアムズに電話する。
その手で、妹を手なずけることができ
637/806
るにちがいない。
「こんなもの、馬鹿馬鹿しくてつける
気にならないよ」
しばらくしたところで、彼女はそう
言いながらドアを開けて出てきた。上
着は着ているが、その手にはブラが握
られている。
「まあ、いいわ」
僕は、それに、おうように笑ってみ
せた。
「じゃあ、行きましょ、ティフ。美容
室に予約が入れてあるから」
「美容室? 冗談じゃない。髪の毛を
いじる必要なんてないね」
「そんなこと言ってると、ミセス・ウ
イリアムズに髪を剃られるわよ」
僕は、脅すように言った。
「いいから、黙ってついてきなさい」
「やだね。僕はこの部屋から出て行く
気なんてないよ」
638/806
彼女は薄ら笑いを浮かべていた。自
分の方が優勢だと言わんばかりに。
そして、その手に拳をつくりながら
言った。
「へん、あんたには、僕をここから連
れ出すことなんてできないだろ」
「試すまでもないわ」
僕の方も笑いながら、受話器を取り、
校長室のナンバーを押した。
「もしもし、ミセス・ウイリアムズ?
フェイスです。‥‥ええ、彼女は、
部屋から動こうとしないんです。あた
しの言うことはききたくないと。‥‥
ええ、わかりました。ありがとうござ
います。‥‥じゃ、またあとで」
僕は、平然と微笑したまま、電話を
切った。
「どうせ、ハッタリだろ。そんな見え
見えのハッタリに、だまされるもんか」
彼女の声が、ちょっと裏返っていた。
639/806
彼女は、今のがハッタリであってほ
しいと思っているにちがいない。でも、
もしマジだったらどうしようと怯えて
いるのだ。
僕は、ほほ笑みを保ったまま、自分
のデスクに腰掛け、本を開いて読み始
めた。
「ど、どこか、行かなきゃいけないん
じゃないのか?」
2・3分もしないうちに、彼女は耐
えられなくなったようにきいてきた。
「美容室の予約とかなんとか、言って
なかったか?」
「いいえ、もう、どこに行く必要もな
いわ」
僕は、本に目を向けたまま、肩をす
くめた。
「あなたは出て行くことになると思う
けどね。ミセス・ウイリアムズが、警
察に連絡したはずだから」
640/806
「あ、あのババアは、そんなことでき
ないさ。僕を、刑務所送りにするなん
て、そんなこと‥‥」
彼女は、僕の予想どおり、切迫した
声を上げた。
「ええ、できないわね。刑務所へ行く
には、あなたは幼すぎるもの。まずは、
お子様向けの牢屋ね。本格的な刑務所
送りになるのは18になってからでしょ
うね。コンビニ強盗に殺人未遂までか
らんだんじゃあ、合わせて10年てとこ
かな。ここにいれば、4年間の間にい
ろんな知識が吸収できるっていうの
に、あなたは10年の間、毎日ひざまず
いて、別のものを吸収しつづけるって
わけね」
僕はそう言いながら、彼女の顔に目
を向けた。どうやら「10年間、ひざま
ずいて、吸収するもの」の意味もわか
ったようだ。
641/806
「ねえ、もう一度、電話してくれない
か? たのむよ」
彼女はついに、嘆願し始めた。
「なんでもいうことをきくからさ。こ
こに、いさせてくれよ」
「言葉に注意して。人に本気でものを
頼むときは、疑問形は正しくないわ」
「心から、お願いします。どうか、も
う一度電話してください」
ティフの瞳には、すでに涙がたまっ
ていた。彼女自身が思っているほど、
彼女は強くないのだ。
「さっき、あなたは、校長室でも同じ
ことを約束したわよね」
僕は、彼女をもう少し追いつめる必
要を感じていた。
「信用できないわ」
と、彼女は、僕に向かってにじり寄
ってきた。
「やめなさい。今、あたしに乱暴すれ
642/806
ば、たとえあたしが命を落とさなかっ
たとしても、もう2年はかたいでしょ
うね」
僕は、冷たい声で言いはなった。
「さあ、そこに座って、お行儀よくし
てなさい」
「そ、そんなつもりじゃないよ」
彼女は、すすり泣き始めていた。
「ぼ、僕を警察になんか、引き渡さな
いで。お願いです。ぜったいに、約束
するから。おとなしくするよ。おとな
しくて、いい‥‥女の子になるから」
僕は、ちょっと人がよすぎるのかも
知れない。たしかに彼女は、僕の前で
涙を流して立ちつくしている。でも、
おそらくこれは、半分は芝居だろう。
それにしても、僕は彼女との間に、早
く何らかの関係を築かなければならな
いのだ。彼女が、いい女の子になると
いう意志を見せたということで、今は
643/806
このくらいにしておこうと思った。
僕はうなずき、ふたたび受話器を取
った。
「ミセス・ウイリアムズ? 申し訳あ
りませんけど、もう一度、警察に断り
の電話を入れていただけます?」
僕は、ミセス・ウイリアムズがけっ
して警察に通報などしていないことを
知っていながら頼んだ。彼女はさっき
すでに、それを僕に任せてくれていた。
ティフニーの信頼を得るための方法や
決断は、すべて僕が選択すればいいと
言ってくれたのだ。
「いい? 自分の言ったことは、守る
ように」
ミセス・ウイリアムズには遠くおよ
ばないものの、僕は、できるかぎりの
高圧的な言い方で、宣言した。
「あたしは、ミセス・ウイリアムズに、
あなたを必ずいい女の子にすると約束
644/806
したわ。だからあたしは、彼女と同じ
くらい、あなたに厳しく接するつもり
よ」
「いい女の子になるって、約束するよ」
彼女は、もう一度、泣き声とともに
繰り返した。
「僕は、あんた‥‥あなたの言うこと
なら、なんでもきく。あなたは、僕に
どんなことでも要求できる。それで、
いいでしょ」
「ここのみんながあなたに要求してる
のは、あなたがまっとうな人間になっ
て出て行くことだけよ」
僕は、彼女の体に腕をまわしながら
言った。
「ここを出れば、前科もきれいになる
わ。確実に、もう一度やり直せるはず
よ」
「つまり、女の子として?」
ティフは、鼻をすすり上げながら僕
645/806
を見上げた。
「それは、あなた次第よ。でも、たい
ていの生徒は、そうしないわね。ここ
を出たあとも女装して生活する人は、
多くないわ。いずれにしても、それは、
完全に本人の意志にまかされてるの
よ」
僕はティッシュを取ってティフの涙
を拭いてやり、そのあと、ブラをつけ
るのを手伝い、美容室へと向かった。
「ハーイ、アンネ」
僕は、女性美容師に声をかけながら、
美容室の中に入った。
「あたしの新しい妹、ティファニーよ。
彼女に、あなたの魔法をかけてあげて」
アンネは、素敵な笑顔とともにその
女の子を招き入れ、真正面から顔を見
た。
「こんなにかわいい子なら、魔法なん
646/806
て必要ないでしょ」
さらに、ティフに笑いかけながら言
った。
「いつからうちの学校は、もともとの
女子生徒を入れるようになったの?」
「僕は、男だよ」
ティフはほほ笑みながら、あわてて
訂正した。
えっ? ‥‥ほほ笑みながら?
それどころか、ティフは、アンネの
ほめ言葉に、まるで女の子のように赤
面していた。
「ぎりぎりそう言えるのも、今のうち
よ、ハニー」
アンネはティフに更衣室を示しなが
ら言った。
「上着とスカートを脱いで、このスモ
ックに着替えてくれる? あなたな
ら、すごい美人になれるわ」
見ていると、もう一度同じことが起
647/806
こった。ティフは、その言葉に顔を赤
く染めたのだ。そして、思わずほほ笑
みそうになるのを必死でこらえている
ように見えた。
「彼女、まるでお人形さんね」
ティフが更衣室に入ったところで、
アンネがささやいてきた。
「もっと年がいけば、まちがいなく超
美人になるはずよ」
「あたしも、そう思うわ」
僕もそれに同意した。
「彼女自身は、そう見られたくなくっ
て必死になってるみたいだけど、無駄
な努力ね」
「ええ、あれだけ素材がいいと、私は
楽だけど、仕上げたあと、彼女自身が
どうなっちゃうかは責任もてないわ。
だって、男の子をやりつづけようとす
るには、彼女、最初からかわいすぎる
んだもん。これまでそれに気づかない
648/806
で男をやって来たんだとしたら、自分
のとんでもないかわいらしさに動転す
るでしょうね」
アンネの言葉は、けっして冗談では
なかった。
すべてが終わったとき、僕の妹、テ
ィフは、完全にかわいい女の子になっ
ていた。ブリーチして輝きを増したブ
ロンドの巻き毛と前髪が、彼女の顔を、
まるで、ティーンエージャー向け雑誌
の表紙モデルのように見せていた。
鏡の前に立った彼女は、そんな自分
の姿を見つめて、熱に浮かされたよう
に、口の中でぶつぶつ言っていた。
僕は、アンネにお礼を言い、そんな
彼女の手をとった。
「急いで、ティフ。ミセス・ウイリア
ムズのところに行く前に、着替えなき
ゃいけないのよ。彼女は、待たされる
649/806
のが好きじゃないわ」
ティフは、未だ呆然とした顔でうな
ずき、僕に引っ張られるままに、寮の
部屋へと歩いた。
「‥‥僕、まるで女の子みたいだ」
ティフがやっとそうつぶやいたの
は、部屋に戻り、僕が上着を脱がして
いる時だった。
「アンネは、僕を、女の子に見えよう
にしちゃった」
それは、あきらかに控えめな表現と
言えた。
正確に言えば、ティフは女の子のよ
うには見えない。天使のように見える
のだ!
アンネが施したメイクは、ティフが
もともと持っていた特長――ぱっちり
した茶色い瞳、キュートに上を向いた
鼻、透き通るような肌の色、長いブロ
650/806
ンドの髪――の魅力をさらに引き出し
ていた。そこにいるのは、極寒の日さ
え、ほほ笑みひとつで暖かく変えてし
まうような女の子だった。
そんな彼女を一目見るだけで、はっ
きりと言えることがある。
もし、彼女が女の子になるのを望ん
でいないのだとしたら――じつのとこ
ろ、この「もし」はかなり疑わしい気
もしてきたのだが――、彼女にとって
は、一生、地獄の日々が続くことにな
るだろう。だって、次々に言い寄る男
たちから逃げつづけなければならない
のだから。
ただ、彼女の反応の中にあるなにか
が、僕に疑念を抱かせていた。彼女は、
本当はこんなふうに見える自分が好き
で、それを必死に押し隠しているだけ
なのではないか。もしそうなら、いっ
たん、彼女の信頼を勝ち取ってさえし
651/806
まえば、彼女は大きく変わるはずだ。
「そうね、あなたって、本当にかわい
いわ」
僕は、あらためて彼女に保証した。
「さあ、着るものを選びましょ」
まだなんだかぼーとしている感じの
ティフは、上着とスカートを脱がせた
あとも、僕が手渡すものを素直に着て
いった‥‥白いハーフスリップ、広が
った裾とネックラインの鳩目がかわい
い白のサンドレス、ヌードカラーのパ
ンスト、2インチのヒールの白いパン
プス。
彼女が正気を取り戻す前に、僕は、
コロンの一吹きまで完了していた。
「‥‥え? な、なにするんだ?」
そこで突然、ティフはコロンの匂い
にむせる素振りをした。
「こんな匂い、まるで、オカマじゃな
いか」
652/806
「あなたはオカマなんかじゃないでし
ょ」
僕は、それを訂正した。
「あなたは、すごくかわいいレディよ。
レディは、大事な席にはコロンをつけ
て行くものよ」
「ぼ、僕は、レディなんかじゃないよ」
その声音には、あまり説得力を感じ
なかった。抵抗はしているものの、さ
ほど強く反発しているようにも見えな
いのだ。
「僕は男だよ。男はこんな服や香水な
んて‥‥」
「あなたは、ここを出て行くまで、テ
ィファニー・リンという名の女の子な
のよ。女の子の服を着て、女の子とし
て振る舞う。それが約束でしょ。その
約束をすべて果たせば、女の子として
とどまるのも、男に戻るのも、それは
あなたの自由よ」
653/806
「本当に、女の子でいつづけることを
強制されない? つまり、現実に戻る
時に」
彼女は、姿見を見つめながらきいた。
「あたしが、女の子でいつづけること
を決めたのは、完全に自分の意志よ。
誰からも無理強いされてないし、誰か
から助言があったわけでもないわ。な
にしろあたしは、それまで、男に戻っ
て、前のルームメイトをお嫁さんにす
るなんて言ってたんだから」
「えっ、ほんとに? じゃあ、なにが
きっかけで気持ちが変わったの?」
彼女は、自身の殻からちょっと顔を
出すような感じできいてきた。
「そのルームメイトのお兄さん!」
僕は、思わず笑いながら言った。
「彼と出会ったことで、あたしが無理
して乱暴で粗野な振る舞いをしてきた
ことに気づいたの。本当はすごく女っ
654/806
ぽい感覚を持ってる人間なのに、それ
を人に知られたくなくて、必死になっ
て隠してた。自分にはそんなものはな
いんだって思おうとしてたのね」
ティフの目の中で、なにかが揺らめ
いた。僕の話に、思い当たる節があっ
たにちがいない。かすかではあったが、
彼女はうなずきさえした。
「‥‥そ、そう言えば、どこかへ行か
なきゃいけないんでしょ」
彼女はそこで、突然目をそらし、ス
カートのしわを伸ばしながら言った。
「ミセス・ウイリアムズは待たされる
のが嫌いとか、言ってなかった?」
「いいえ、彼女は待ってくれるわ」
僕は、ほほ笑みながら言った。彼女
が唐突に話を変えたことで、僕の観測
が正しかったことを確信し、話をつづ
けようと思ったのだ。
おそらくティフは、本心では女の子
655/806
になりたがっている。強制されたり、
おびやかされていると感じれば、その
心を閉ざすだろうが、穏やかに解きほ
ぐしていけば、そんな自分をもっと見
せてくれるはずだ。すべては、僕の持
っていき方次第というわけだ。
たぶん、ロブに頼めば、ティフと同
い年の、かっこいい男だって紹介して
くれるだろうし‥‥。
そんなふうに思ったことで、僕はあ
ることを思いついた。
「近いうちに、あたしのカレを紹介す
るわね」
僕は、冗談めかして言った。
「でも、その前に約束して。カレを盗
らないって」
こんな言葉に対して、もし男らしさ
を核心に持つ男なら、ボーイフレンド
を盗るような欲望はないと、言下に否
定するだろう。
656/806
ところが‥‥
「あなたの方がずっとかわいいんだか
ら、そんな心配いらないでしょ」
ティフは、そう言った。
そして、そのあと、気づいたように、
あわててつけ加えた。
「い、いや、つまり、僕は彼とおんな
じ男なんだし‥‥」
「そうよね」
僕は、そんな彼女にほくそ笑むよう
に笑いかけた。
「彼とおんなじ、ね」
たぶん、彼女の片方の理想としては。
と、そこで彼女は、姿見をちらりと
見た。その一瞬、彼女の顔にほほ笑み
が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
「行くの?」
僕がドアを開けたので、彼女は言っ
た。
「じゃ、こんな話は、これでおしまい
657/806
ってことで」
ティフとともに校長室に向かう間
も、僕は、まるで彼女の中でなにかの
スイッチが入ったように感じていた。
彼女は、その服にさほどの違和感もな
いようだった。裾の扱いなども、初め
てスカートを履いた男の子にしては、
みっともなさがまるでない。あの、姿
見を盗み見るような一瞥といい、自分
の新しい姿に対するどこか弱々しい抗
議といい、僕は、さっき彼女の目の中
に見たなにかの存在を、より強く確信
していた。
校長室に入り椅子にかける時も、テ
ィフは、スカートの後ろをなでつける
動作をした。ミセス・ウイリアムズが
ちょっと驚いた視線を送ってきたとこ
ろを見ると、彼女も、それを見逃さな
658/806
かったようだ。その動作は、わざとら
しくなく、しごく自然で、優雅でさえ
あった。
ミセス・ウイリアムズは、ティフに
対し、入所時の規則説明を淡々とすす
めていった。最初の1ヵ月間の外出制
限、制服規定、授業のシステム、そし
て、規則を破った際の罰則‥‥。
その間、ティフは、時折うなずきな
がら静かに聞いていた。その手は膝の
上にきちっとそろえられ、両脚をしっ
かりと閉じ、どの瞬間も、ふつうの十
代の女の子に見えていた。
唯一、ティフが特別な反応を示した
のは、提示された彼女用の時間割の中
に「中級代数学」の授業があるのを見
つけた時だ。
「これは、無理です」
彼女は、それに不満を言った。
「この手の授業で、合格できた試しが
659/806
ないんです。もっと簡単なのにしても
らえませんか?」
「あなたのプレースメント・テスト
(※)の結果は、これより簡単な授業は、
あなたにとって時間の浪費であること
を示しています」
ミセス・ウイリアムズは、そう言っ
てほほ笑みかけた。
(※訳注
クラス分けテスト
アメリカの学校
のclassは、日本の「学級」とはちがい、まさ
に「級」を表す
プレースメント・テストで判
定した学力クラスにより、とれる授業が決まっ
てくるわけだ。だから、飛び級ということも起
こる
ティフはフェイスの2歳下なのに、ミセ
ス・ウイリアムズが「同じクラス」と言ってい
たのは学年が同じという意味ではない)
「あなたは、これまでなぜか、自分を
能なしのワルと見せることに力を尽く
してきたようですね。でも、実際のあ
なたがそうでないことは、私たちには
660/806
わかっています。あなたの前の学校の
成績記録を詳しく調べさせてもらいま
した。たしかにあなたは、各学年の多
くの授業で落第している。ところが、
落第点をとっているのは、必ず、最終
判定が下されるテストだけです。しか
も、その点数は、いつも、及第点の95
パーセント以上にそろえている。本当
の落ちこぼれには、こんな器用な真似
はぜったいにできません。あなたは
『上
級世界史』や『高等英語』とともに、
『中級代数』をとるべきです。問題な
く理解できるはずです」
それを聞いたティフの顔が、すべて
を物語っていた。彼女はどうやら、前
の学校で、なにかに反抗するために、
ゲームをやっていたのだ。ところが、
ミセス・ウイリアムズは、その手の内
をすべて読んでいた。ゲーム・イズ・
オーバー。
661/806
「わかりました。その授業を受けます」
ティフは、静かにうなずいた。
その面談がすべて終わり、ティフと
僕が帰りかけたところで、ミセス・ウ
イリアムズは、ティフの後ろ姿に向か
って呼びかけた。
「ティファニー、そのドレス、よく似
合いますよ」
「ありがとうございます」
彼女は反射的にそう言ったところ
で、なにかに気づいたように、あわて
てつけ加えた。
「だ、だけど、なんだか、馬鹿みたい」
「だいじょうぶ。あなたはすぐに、こ
この暮らしに慣れますよ」
「さあ、どうだか」
ティフが、さらにつぶやくように言
ったので、僕は彼女を肘で小突いた。
662/806
部屋に帰ったあとも、ティフは、着
ている服を脱ごうとはしなかった。ベ
ッドに腰掛けて、先刻渡された時間割
をじっと見つめていた。
「ミセス・ウイリアムズにすっかり見
抜かれちゃったわね、ティフ。あの人
は、人が見逃しているところまで、よ
く見えてる人だから」
「ああ、たしかによく見えてるよ」
ティフは、皮肉な感じの表情になり
言った。
「めがねを修理するか、新しいのに変
えた方がいいね」
僕はそれを無視し、電話に手を伸ば
した。
本来ならホリーの部屋に電話したい
ところだが、彼女は夏休みいっぱいを
自宅で過ごすらしく、戻るのは2週間
先だ。それで僕は、ティフを紹介する
のに最もふさわしい人物の部屋を呼び
663/806
出した。あの、愛の原子炉、ジルだ。
2分後、突然、廊下が騒がしくなっ
た。
僕には、ジルとともに10人あまりの
女の子たちが部屋になだれ込んでくる
のを、くい止めるいとまもなかった。
ティフもまた、逃げ出すいとまなく、
新入生の女の子に対する好奇心でいっ
ぱいの、幸せそうな女の子たちの笑顔
に囲まれていた。
「わあ、お人形さんみたい」
あ然とするティフに向かい、ジルは
いきなり核心をついた。
「これまでも、何度もそう言われたで
しょ」
「ああ、今日、2度ほど」
ティフはまた、皮肉っぽいまなざし
で答えた。
「ほめられてるとは思えないけどね」
664/806
「ううん、ジルの言うとおりよ」
マリアンヌという別の女の子が言っ
た。
「もとがいいのね。あたし、毎日、メ
イクに30分以上かけてるのよ。でも、
あなたみたいな顔だったら、きっと1
秒ですむわ」
「ねえ、どんな授業をとることになっ
たの?」
下級生の女の子たちが、口々に言っ
た。
「あたしたちといっしょになるのも、
あるんでしょ」
僕にも覚えがあることだから、ティ
フの気持ちはよくわかった。女の子の
集団の熱狂的なおしゃべりは、抵抗す
る気力を越えている。次々に浴びせか
けられる質問は、その答えの中に、自
分が男であるというイメージを投影す
るひまさえ与えないのだ。
665/806
「
『中級代数』をとらされたんだ」
ティフは、嘆くように言った。
「無理だって言ったのに、ミセス・ウ
イリアムズは、僕ならできるとか言っ
て」
「あなたのビッグシスターはフェイス
なんでしょ。じゃあ、心配ないわよ」
ひとりの女の子が言った。
「フェイスは、いつも、この学校でい
ちばんの成績をとってるのよ。みんな
彼女に、勉強を見てもらってるの」
「そうよ、あたしなんて、彼女のおか
げで『幾何』がBだったんだから」
もう一人の女の子も、口をはさんで
きた。
「フェイスが来る前は、Dよりいい成
績なんてとったことなかったのに」
「彼女のおかげで『英語』がパスでき
ただけじゃなくて、彼女に教えてもら
ったヘアスタイルのおかげで、カレに
666/806
かわいいって言ってもらえたのよ」
クラスメイトのジャネットもつけ加
えた。
「彼女って、ほんと、最高!」
「ふ、みんなけっきょく、だまされて
るんじゃないのか!」
ティフが急に、とげどけしい口調で
言った。
「友だちみたいな顔して親切そうに近
づいてくるけど、じつは、ミセス・ウ
イリアムズの犬なんだろ。あのババア
の言うことならなんでもきいて、なん
でもチクるペットなのさ」
僕は、あ然として、言葉さえ出なか
った。
僕に向けられた突然の敵意に、いっ
たい、なぜ彼女がそんなことを言い出
したのかさえ、まともには考えられな
かった。
次の瞬間だった。ジルがティフを突
667/806
き飛ばし、さらに、ベッドの上に仰向
けに倒れたその体の上に馬乗りになっ
た。
「そんなことを、あたし‥‥いや、俺
の前で、二度と言うな!」
ジルは、ティフに強く迫った。
「フェイスは、ここにいるみんなに、
他の誰もできなかったことをしてくれ
たんだ。彼女が来る前は、テストで落
第してたやつがたくさんいた。なんと
か受かったやつも、みんなゾンビみた
いになってたよ。彼女は、ここの生徒
全員から信頼されてる最高の友人だ。
人の秘密を、ぜったいチクったりしな
い。ミセス・ウイリアムズにであろう
と、誰にであろうとな」
「あたしの大事な友人に、すぐ謝りな
さい」
別の女の子が、ティフの顔に自分の
顔を突きつけるようにして言った。
668/806
「そうしなかったら、あたしも、女を
やめるわよ」
「ふ、ふん、お前らみたいなオカマ野
郎が、恐いとでも思ってるのか!」
ティフは、それでもせせら笑ってい
た。
「僕は、町でいちばん強いストリート
ギャングのチームに入ってたんだぞ。
お前らなんか、すぐに全員ぶちのめし
てやる」
彼女はそう言いながら、腹の上のジ
ルを払いのけようと、背中を弓なりに
反らせた。しかしジルは、ティフの体
をがっちりと押さえ、見下ろしていた。
「ふふ、偶然の一致ってやつか? 俺
とよく似た話だぜ」
ジルは見くだすように笑った。
「俺がクリップス(※)に入ったのは、
10歳の時だった。ここに送られたのは、
3人の男に重傷を負わせたからだ。1
669/806
人は鼻の骨が砕けて、唇が避けた。あ
と2人は歯が何本か折れただけだが、
その代わり、両方とも、もう父親には
なれないそうだ。3人のうちで、いち
ばん小さかったやつでも、お前より50
ポンドは重かったと思うぜ」
(※訳注
‘the Crips'
全米に知られるロサ
ンジェルス最大のストリートギャング団)
「殴れるなら殴ってみろよ。刑務所入
りだぜ」
ティフは怒鳴るように言い返した。
「お前みたいなチビでかわいいやつは、
さぞ、みんなからかわいがられ‥‥!」
目にもとまらぬほどの平手打ちが、
ティフの言葉を途切れさせた。
「平気さ。俺は、友人があれほど侮辱
されて、知らん顔できるような人間じ
ゃないんだ」
「もし、これで、ジルが刑務所送りで
もになったら、あんたは、自分が代わ
670/806
りに行っとけばよかったって思いをす
ることになるわよ」
上級生の1人が、強い口調で言った。
「あたしはあんたを許さない。あんた
のここでの暮らしを、すてきな悪夢に
してあげるわ。ちっちゃい女の子みた
いなパーティドレスとおむつカバー
で、町をパレードするなんてのは、ど
う?」
「きっとかわいいでしょうね、3歳の
ティファニーちゃん。ちっちゃくてキ
ュートなドレス、おしゃぶり、おむつ
‥‥、ぜーんぶそろえてあげるわよ」
トニーという名の女の子も、そう煽
った。
それはささいな変化だった。でもた
しかに僕は、その時ティフの顔に、言
いようのない恐怖の影が走るのに気が
ついた。殴られ痛めつけられることに
対しては強がっていたティフが、小さ
671/806
な女の子のパーティドレスという言葉
には、死ぬほど恐ろしそうに顔をゆが
めたのだ。
「やめて、ジル。彼女を放してあげて」
僕は、そう言っていた。
「もう、じゅうぶんでしょ」
「こいつが謝れば、すぐにでも放して
やるよ」
ジルは、ティフの腹に軽くパンチを
入れたあと、その腕をとって強くひね
った。
「だめ、ジル!」
僕は、ティフの腕を、ジルから奪い
返すようにしながら叫んだ。
「ティフを、起こしてあげて。今すぐ
に!」
その言葉に、ジルは、首を振りなが
らも、ゆっくりとベッドから降りた。
「こんなくそったれガキのために、な
んで‥‥」
672/806
「彼女は、あたしの妹よ。妹が痛めつ
けられるのなんて、見てられないわ。
みんな、もう、やめてね」
僕はそう言いながら、取り囲む女の
子たちを見まわした。
女の子たちは、渋々という感じでう
なずいた。
それで僕は、ねじられた腕をさすり
ながら涙ぐんでいるティフの方を向い
た。
「あなたがさっき言ったことを、聞き
流すわけにはいかないわ。まず、それ
をはっきりさせましょ。いいわね?
あたしは、誰の犬でもないし、そうな
りたいとも思わないわ。あたしは、こ
の夏休み、カレと、もっと楽しい時間
を過ごすこともできた。でも、あたし
は、ミセス・ウイリアムズに恩返しし
たいと思って、早めに戻ってきたの。
もちろん、ビッグシスターになんて、
673/806
なりたくなかったわ。あたしは、妹の
立場でいる方が、ずっと幸せだったん
だから。でも、今言ったように、ミセ
ス・ウイリアムズから受けた恩に答え
ようと思って、いわば、しかたなく引
き受けたのよ。もし、あなたが、あた
しのことを信用できないんだったら、
ミセス・ウイリアムズにそう言えばい
いわ。すぐ、別の人をあなたの担当に
してくれるはずよ。あなたも、その方
がいいでしょうし、あたしだって、そ
の方がいいわ。それに、これは確実に
言えることだけど、あたしのカレだっ
て、その方がぜったいに喜ぶわ」
「僕がどう言おうが、このあと、みん
なで僕をリンチするんだろ」
ティフは、未だ彼女に鋭い目を向け
る女の子たちを見て、すすり上げた。
「誰も、もう殴ったりしないわ。あた
しが保証する」
674/806
僕はまた、みんなの顔を見まわして
言った。
「いいわね?」
女の子たちはまた、渋々ながらうな
ずいた。
「ちょっとの間、あたしとティフをふ
たりだけにしてくれる?」
僕がそう頼むと、女の子たちはみん
な、肩をすくめ、ドアに向かった。
「もし、俺‥‥あたしが必要だったら、
大きな声で叫んでね。すぐに駆けつけ
るわ」
最後になったジルが、ドアを閉めな
がら言った。
僕はそこで、まだ腕をさすっている
ティファニーに顔を向けた。
「ティフ、あなたが決めて。あたしは、
決められた役割は果たすわ。でも、あ
なたが他の子の方がいいというなら、
そう言えばいい」
675/806
「まだ本気で、僕のビッグシスターを
やりたいと思ってるのか?」
ティフは、そうきいてきた。
「僕が、あんなこと言ったあとでも?」
「さあ、やりたいわけじゃないわ。で
も‥‥」
僕は肩をすくめた。
「ミセス・ウイリアムズは、あたしな
らできるって言ったわ。まあ、あなた
の『中等数学』と同じよ」
「で、そんなことして、なんのトクが
あるんだ?」
彼女は僕を、疑わしそうな目で見た。
「『いい子』だって言われたいからか?
それとも、頭をなでて‥‥」
「いい加減にしなさい! また、ジル
を呼んでほしいの?」
僕は、彼女が言い切る前に警告した。
「あなたに、人を尊敬する気持ちって
いうのを知ってほしかったんだけど、
676/806
どうやら、それが理解できるほど賢く
ないみたいね。あたしは、なにかの特
典がほしいわけじゃないわ。だいいち、
ずっと一番をとってきて、学校からい
ろんな特典を与えられてるんだから、
これ以上必要だと思う? もうひと
つ、あなたのために教えといてあげれ
ば、この夏で、あたしの更正期間は終
わったのよ。ミセス・ウイリアムズが
期間短縮を働きかけてくれて、裁判所
が同意したの。だから、あたしは、い
つでもここを出て行ける。でも、あた
しはここに残って、ここを卒業するつ
もりよ。ビッグシスターの話を持ちか
けられたときは、それに挑戦する義務
みたいなものを感じたわ」
ティフは、じっと僕の顔を見つめて
いた。たぶん、僕のことを頭がおかし
いとでも思っているのだろう。でも、
そんなことは気にならなかった。
677/806
「話を進めましょ」
黙ったまま考え込んでしまったティ
フを何分か待ったあと、僕は言った。
「遠慮することないわ。他の人に変わ
ってもらいなさい。あたしは、ミセス
・ウイリアムズに、ビッグシスターに
なるには、まだ力不足だったって言う
から」
「やめ‥‥ないで」
ティフは、静かに言った。
「お願いです。そのままでいてくださ
い。僕のビッグシスターで。お願い。
だめ?」
僕は、何だか幻想でも見ている気が
して、ちょっと首を振った。
「素直でいい子になります。約束しま
す」
彼女はすがるように言った。
「お願い。僕を、ひとりにしないで」
僕は、そんなティフの目を見つめ返
678/806
していた。と、その瞳の中に誰かがい
る気がした。僕のことを必死に求めて
いる誰か‥‥迷子になった女の子。本
当の自分に直面したくないがために、
無理矢理にタフであろうとし、その結
果、置き去りにされ途方に暮れている
‥‥心やさしい、ちっちゃな女の子。
「やめないわ」
僕は、ティフにほほ笑みかけた。
「あたしこれまで、一度も妹を持った
ことがないの。だから、きっと楽しい
わね」
そして、彼女を抱きしめた。
「お姉さんとして、第一にやらなけれ
ばいけないことは、妹にこの学校を案
内してあげることね」
僕はティフにそう言った。
「それにはまず、そのドレスとストッ
キングを脱がなきゃね。もっと楽な服
679/806
に着替えましょ」
「僕は、このまま、このドレスを着て
たいんだけど」
彼女は、なんだか恥ずかしそうな表
情で言った。
「‥‥いや、つまり、さっき、ミセス
・ウイリアムズがこのドレスのことを
ほめてくれたから。彼女のご機嫌を悪
くしたくないでしょ」
「そうね。あなたは、1日目にしてず
いぶんいろんなトラブル起こしてるし
ね」
僕は笑いながら言った。
「でも、その服だけは、なんの問題も
なく、よく似合ってるもんね」
ティフはそのほめ言葉を受け流した
が、すぐに、またミセス・ウイリアム
ズをダシにして、乱れた髪のブラッシ
ングを要求してきた。
「ねえ、ほんとにみんな、僕に仕返し
680/806
しないかな?」
ブラッシングの途中、彼女はちょっ
と不安そうにきいた。
「さっき、みんな、そんなことしない
って約束してくれたでしょ」
「だけど、それを、ほんとに信じてる
の?」
「あのね、ひとつ、あなたに言っとか
なきゃいけないことがあるわ」
僕は、厳しい口調で言った。
「ここでは、あなたがなにか約束した
ら、誰もそれを疑おうとしないわ。こ
この女の子たちは、人に対して、やる
と言ったことは必ずやる。やらないと
言ったことは、ぜったいしない。覚え
といて」
僕のことを「犬」と呼ぶことは許せ
ない。でも、それ以上に許せないのは、
僕の友だちを疑うことだ。
ティフは、深くため息をつき、うな
681/806
ずいた。
「ごめんなさい。どうも僕って、そう
いうのに慣れてないみたいだ」
「つまりそれが、人を尊敬するってこ
とよ」
僕は、さっき伝わらなかったことを、
もう一度説明した。
「たぶんそれが、あなたがここで学ぶ、
いちばん大事なことね。それを知るこ
とがあなたの人生に大きな影響を与え
るはずよ。男の子だとか女の子だとか、
そんなことは重要じゃない。重要なの
は、他の人に対して自分が負う責任を
自覚するってこと。グレート・インデ
ィアン・リバーの卒業生たちが、社会
的に評価されてるのも、そんな自覚を
持ってるからよ。あなたの言うことや
やることには、誰より、あなた自身が
責任を持たなければいけない。誰もあ
なたに、こうしろとは言わない。それ
682/806
は、あなたが、ほんとはもう、どうす
るのが正しいのかを知っているから
よ。あなたが正しいと思うことをすれ
ばいいの。それは、ここでの暮らしの
すべてに当てはまることよ。あなたは、
ミセス・ウイリアムズに、自分のベス
トを尽くすと約束した。それが、ここ
であなたが期待されていることのすべ
てよ。あなたの言うベストがどんなも
のなのか、それを証明していくのがあ
なたの責任ね」
「僕はこれまで、そんなこと、あんま
り深く考えたことなかったよ。こんな
感じを持ったのも、たぶん初めてだ」
僕は、考え込んでしまったティフの
気持ちを、少し楽にしてやろうと思い、
笑いかけた。
「ふふ、その感じ、あたしにもよくわ
かるわ。だって、あたしにも覚えがあ
るんだもん。そんな感じが持てなかっ
683/806
たら、たぶん今、あたしはここにはい
ないでしょうね。それに、地球上でい
ちばんすてきな人に恋することもなか
ったと思うわ」
ティフをラウンジに連れ出すまで
に、さほどの時間はいらなかった。そ
して、それは当然、さっき部屋にいた
女の子たちを含むたくさんの女の子を
呼び寄せることにもなった。
そんな中、ティフの顔が、急に緊張
した。
「平気よ。リラックスして」
ジルが近づいてきているのに気づ
き、僕は彼女に耳打ちした。
「もう、わかった?」
ティフの前まで来たジルは、笑顔と
ともにきいた。
「あたし、そんなかわいいドレス、血
まみれにするのはいやよ」
684/806
「うん、まちがってたのは僕だ。ごめ
んなさい」
なんの挑発の声音もなく、ティフは
素直に謝った。
「あたしたち、友だち?」
ジルはほほ笑み、手をさしのべた。
「‥‥あっ、それも大まちがいよ!」
言おうと思ったが、もう遅かった。
手を握るなり、ジルはティフを引っ
張り、ぐるぐる回して、例の即興ダン
スに巻き込んでいた。
数分後、すっかり混乱した表情のテ
ィフが戻ってきた。
「最初は、殺されるのかと思ったよ」
「まさか」
僕は、笑いながら説明した。
「彼女の愛情表現よ。あれをするのは、
あなたが好きになった証拠」
「それはよかった。僕はこれで、彼女
が他の人になにをするのか、全部わか
685/806
ったわけだ」
数分の間にすべては水に流され、テ
ィフは、急速に女の子の1人として受
け入れられていった。
みんなが笑い合い、女の子らしく騒
ぎ合う時間が過ぎていった。
その間に、ジルとティフは、また何
回か例のダンスを踊り、ティフは、顔
や服について、山のような称賛を浴び
た。
「このままいけば、彼女はまちがいな
く、鼻持ちならない大女優になるわね」
そんなほめ言葉にうれしそうにして
いる彼女を見ながら、僕は心の中でつ
ぶやいた。彼女には男の子の方が向い
ているなどと言う人は、もうすでに、
どこにもいないだろう。
その1日目の夜から、ティフはどん
686/806
どん環境になじみ、ここの女の子らし
くなっていった。
他の女の子たちにもすぐとけ込んだ
が、ことにジルにはすっかりなついて
しまい、いっしょにいることが多かっ
た。僕は密かに、彼女のことを「もう
一人のジル」と呼んでいた。
ジルとティフが二人でいる光景は、
端から見ていて、なんだかほほえまし
いものだった。それは、訳あって離れ
ばなれに育った姉妹が、ついに再会で
きたという感じに見えるのだ。
ジルとティフが親しくなったことに
ついては、もうひとつ、いいことがあ
った。ティフを寮に残していくことに
後ろめたさを感じることなく、ロブと
会えるようになったのだ。
僕がティフのビッグシスターになっ
てからのまるまる3週間、僕はロブに
687/806
会っていなかった。もちろん、ロブに
も友だちはいるし、僕のまわりにもた
くさんの女の子たちがいる。でも、僕
らはさみしかった。
ロブの家に行くために、彼が車で迎
えに来たとき、僕は彼を窒息させるほ
どのキスをした。
ロブの両親は、僕との再会を喜び、
僕のことを、まるで家族の一員のよう
に扱ってくれた。僕は、ロブの両親に、
ロブと僕がけっして別れたりしないと
いうことを、確信してほしいと思った。
いずれ、大学を出たら、僕たちふたり
は盛大な結婚式をやるつもりだ。その
時、僕は、最高にゴージャスなウエデ
ィングドレスを着るのだ。
この日は、ホリーも、今つき合って
いるボーイフレンドを家に招いてい
た。彼女と僕は、男たちに、彼らのガ
688/806
ールフレンドがいかにセクシーかを思
い知らせるため、ふたりそろってビキ
ニを着た。けっきょくのところ、ビキ
ニの最大の役割というのは、ボーイフ
レンドのご機嫌を取り、気持ちよくさ
せ、さらには、その心を乱すことにあ
るのだから。
ホリーと僕は、男たちと素敵な時間
を過ごした。プールの中でバレーボー
ルをしたのだ。彼らに肩車されてビー
チボールをつくのは大変だったが、水
に落とされるたびに、僕らは彼らにキ
スを要求した。もちろん時には、キス
したくなった男たちが、あきらかにわ
ざと落とすようなこともあった。でも、
そんなことをされた時は、すぐに、ホ
リーと僕でうなずき合い、2人いっし
ょに水に落ちて男たちに償いのキスを
させた。
いずれにしても、キスしてくれるロ
689/806
ブのほほ笑みが近づいてくる瞬間ほ
ど、自分のことを女だと感じられる時
はない。女らしく、かわいい存在であ
ることの幸せが、僕の体全体を包み込
むのだ。
こんな光景を家の中から見ていたロ
ブの両親が、僕らふたりの愛を疑うよ
うなことは、けっしてないだろう。
その夜、寮に帰った時、僕の気分は
まだ浮き立っていた。恋人とのファン
タスティックな1日を過ごした女の子
が、そうなっているのはしかたないだ
ろう。
ベッドのティフはもう寝ているよう
だったので、僕は大きな音を立てない
ようにシャワーを使い、そのあと、買
ったばかりのフリルいっぱいのベビー
ドールを身につけた。それは僕をます
ます女の子っぽい気分にさせてくれ、
690/806
さっきまでの素敵なディナーの記憶と
も相まって、僕はすぐに甘い夢の世界
へと漂いはじめた。
ティフのベッドからすすり泣く声が
聞こえてきたのは、そんなふうにうと
うとしかけた時だった。その泣き声か
ら判断して、ティフはなにかつらい夢
でも見ているようだ。僕は、彼女の心
の奥底でなにかが起こっていると感じ
た。
起き出し、ティフのベッドサイドま
で行った僕は、その肩をそっと揺すっ
てみた。
「どうしたの、ティフ?」
と、目を覚ました彼女は、その涙を
隠すとでもいうように目をこすった。
「ううん、なんでも‥‥」
「いらっしゃい、あたしたちは姉妹で
しょ。忘れたの? 泣いたっていいの
691/806
よ」
僕はそう言いながら彼女の体に手を
まわし、引き寄せた。
すると、ティフは、僕の胸に顔を埋
め、しくしくと泣き始めた。
「僕‥‥僕‥‥わからない‥‥どうし
たら、いいの? ‥‥あんなつもりじ
ゃ、なかったのに‥‥」
「話して、ティフ。力になれると思う
わ」
僕は、ベッドサイドの灯りをつけ、
ティッシュを何枚か取って、彼女の涙
を拭いた。
ティフは、数回首を振ったすえ、し
ぼり出すように話しはじめた。
「僕、逃げたかったんだ。でも、無理
だった。どこまでいっても、逃げ切れ
なかった」
「逃げるって、どこから? いったい
なにから、逃げようとしたの?」
692/806
僕は、できるかぎりのやさしい声で、
でも、断固とした思いできいた。彼女
を苦しみから救うために、これは、ど
うしてもきいておかなければならない
ことだという気がした。
「ママから。‥‥ママの、ちっちゃな
女の子から」
ティフは、泣き声を上げながら言っ
た。
「だから僕は、ギャングの仲間に入っ
たんだ。だけど、そこでも僕は、女の
子みたいに弱虫だって思われてた。な
んとかしたかったんだ、フェイス。必
死だったんだ。でも、最後まで僕は弱
虫だった。僕はずっと、ちっちゃな女
の子みたいに弱虫なんだ」
なぜ彼女は、ミセス・ウイリアムズ
でなく、今、僕に話すのか? そして、
なぜ僕は今、決められたとおりカウン
セラーに電話しようとしないのか?
693/806
それは、僕が彼女のビッグシスター
だからだ。そして、ミセス・ウイリア
ムズも、僕にそれを期待しているから
だ。
「もっと、ちゃんと話して」
僕はティフに、懇願するように言っ
ていた。
ティフはまず、ずっと心の内に秘め
ていた、小さかった頃のことを、延々
と語った。
ティフは、生まれたばかりの赤ん坊
だった頃から、女の子だとまちがわれ
たらしい。ティフの母親が道を歩いて
いると、人々は彼女を呼び止め、彼女
が連れた赤ん坊がいかにかわいいかを
ほめ、こんなにかわいらしい娘を持て
た母の幸せを称えた。そんなことが毎
日、幾度となくつづくうち、母親は、
そのまちがいを訂正するのをあきらめ
694/806
てしまった。いちいち言い立てて、な
んだか気まずい思いをするより、女の
子としてのティフをほめてもらった方
がいいと感じたのだ。その方が、善良
な人々に対して素直に感謝の気持ちを
持てる。
母親が、外出の時などに、ティフに
女の子っぽいベビー服を着せるように
なるのに、さほどの時間はかからなか
った。もちろん、どの服も、ティフの
やわらかいブロンドの髪や愛らしい顔
によく似合った。ティフは、どこに行
っても、その場でいちばんかわいい赤
ん坊としてもてはやされた。
そんな称賛やほめ言葉を浴びて物心
ついたティフが、それをうれしいと感
じ、やみつきになったとしてもなんの
不思議もない。
ほどなく彼女は、母親が遠くへショ
ッピングに行く時、かわいいドレスや、
695/806
ペチコートや、ラッフルのいっぱいつ
いたパンティを着せてくれるのを待ち
わびるようになった。
近所の公園などへ行く時は、さすが
にズボンとシャツを着るのだが、そん
な時も、遊び相手はほとんど女の子だ
った。女の子と遊ぶのは楽しかったけ
れど、他の子と同じかわいいものを着
ていたならもっと楽しいのにと、いつ
も思った。
ティフの父親は、息子が女の子の服
を着るのが好きなことに、当然、気づ
いていた。それに、妻が、息子をかわ
いく装わせることに夢中になっている
ことにも。
でも、女の子になったティフを誰も
傷つける様子がないのを見て、それを
許した。それどころか、時には、自ら
妻に勧めてティフを女装させ、ディナ
ーに出かけた。美人の妻と娘を人々に
696/806
見せびらかせる男の幸せを味わいたか
ったのだろう。
こうしてティフは、母親にとっては
パートタイムの娘として、父親にとっ
ては秘蔵の宝物として育った。
もし、人にきかれたような場合、母
は、女の子になったティフのことを自
分の姪だと紹介した。その場合、ラリ
ーは、大好きな叔母さんのところに行
っていることになった。代わりに、そ
この娘であるティフが遊びに来ている
というわけだ。
ティフの両親は、その矛盾をごまか
すため、ラリーとティファニーの写真
をそれぞれ撮って、パソコンを使って
合成さえした。素敵なパーティドレス
を着たティファニーと子供用のスーツ
とネクタイ姿のラリーが並んで立って
いる写真をでっち上げたのだ。この合
成写真は、リビングルームに飾られ、
697/806
そのまわりには「2人の子供」の成長
を示す写真が並んでいった。
学校へ行くようになると、ティフに
はつらいことがいろいろ起こった。彼
女は当然、女の子と遊ぶことを好み、
そのことで男の子たちからいじめられ
た。毎日、早く学校が終わらないかと
願った。家に帰れば、「ママのちっち
ゃな女の子」になり、パパのために夕
食をつくるお手伝いができるのだか
ら。
夏休みだけは、大好きだった。家族
旅行では、ママとおそろいのかわいい
水着を着て、パパを砂の中に埋めたり、
波と戯れたりできた。
体が小さかったことと、男の子の遊
びの経験がなかったことで、バスケッ
トボールやフットボールでは、さんざ
んみじめな思いをした。たしかに、男
の子たちの間では、それらが「人気の
698/806
あるゲーム」だったが、ティフにとっ
ては、かわいい女の子として「人気を
得るゲーム」の方がずっと簡単な気が
した。
つまり、ティフはもともと、ラリー
という名の男の子であるより、ティフ
ァニーという名の女の子だったのだ。
彼が、そんな自分に疑問を持ち、テ
ィファニーであることに居心地悪さを
感じ始めたのは、せいぜい1年とちょ
っと前のことだ。彼は、そんな自分を
ぶちこわし、ふつうの男の子になりた
いという衝動にかられた。
彼の母親は、娘がいなくなったこと
に失望したが、息子をいつまでも、ブ
ロンドのカールの中に押しとどめてお
くべきでないこともわかっていた。
ところが、不幸なことに、彼の「ふ
つうの男の子」への挑戦は、それを越
えて暴走せざるを得なかった。かわい
699/806
い服や、お気に入りのお人形や、ママ
といっしょのショッピングへの憧憬を
彼方へと葬り去るには、その対極へと
走り、そこに身を投ずるしかなかった
のだ。
こうして彼は、ストリートギャング
と関わりを持ち、不良になることで、
本来の姿であるはずの男になろうとし
た。
「でも、そこであなたの身になにが起
こるのか、考えてみなかったの? コ
ンビニで逮捕された時、射殺されなか
っただけでも運がよかったのよ」
「ううん、運が悪かったんだよ。撃た
れてれば、男として死ねたのに」
ティフは、そうつぶやいた。
「馬鹿なこと、言わないで!」
僕は思わず声を荒げていた。
「男として死ぬ? まだ、まともに生
700/806
きてさえいないのに、そんなこと言う
もんじゃないわ。男として死ぬなんて
ことに、なんの意味があるの? あな
たの人生を意味あるものにするのは、
生きて、本当のあなた自身になること
でしょ」
「本当の僕自身になる?」
彼女は、そう言いながら、ふたたび
泣き始めていた。
「だから、それができなかったんじゃ
ないか。僕は、男にはなれなかったん
だ。強くなろうとしたさ。なのに、だ
めだった。あの時、僕が銃を撃つのを
ためらったせいで、ヴィニーは殺され
たんだ」
「ちがうわ。あなたは賢かったのよ。
もし、あなたが銃を使おうとしてたら、
たぶん、あなたも撃たれてたはずよ」
「なんにもわかってないくせに。僕が
腰抜けだったから、仲間が撃たれたん
701/806
だ。僕は、あの男が銃を出してヴィニ
ーを狙うのをただ驚いて見てたんだ。
ほんとの仲間なら、ヴィニーが撃たれ
る前に、僕がそいつを撃たなきゃいけ
なかったのに」
「ううん、わかってないのはあなたよ。
あたしは、ミセス・ウイリアムズから、
あなたの逮捕記録を見せてもらってる
のよ。あなたたちが脅したレジの男は、
おとりの警官だったの。その上、天井
裏にも警官が隠れていて、そのショッ
トガンは、あなたに向けられてたのよ。
その時、あなたがぴくりとでも動いて
いれば、あなたの頭は吹っ飛んでたは
ずよ」
「だ、だけど‥‥」
「だけど、じゃないでしょ!」
僕は強い調子でティフの言葉を押し
戻した。
「あなた、いったい、なに考えてるの
702/806
よ! だいたい、銃を持って歩いてる
ような連中とつるんで、なにがしたか
ったのよ?」
「だから、さっきも言っただろ。本物
の男になりたかったんだ。そんな強い
ギャングに入れば、弱虫じゃなくなる
って思ったんだ」
「ジルが通った道とおんなじね。彼女、
ギャング団の入団の儀式とやらで、肋
骨を2本折られたって言ってたわ。肋
骨を折ることが、なんで強さを示すこ
とになるんだか」
と、その言葉に、突然ティフが嗚咽
しはじめた。
僕は、なにかまずいことを言ったの
だろうか?
「どうしたの、ティフ? あなたも、
そのギャング団に入るとき、ひどい目
にあったの?」
僕を見つめるティフの顔が、これま
703/806
で見たこともないほど悲しみに歪ん
だ。
「僕は、その儀式をやらせてもらえな
かったんだ。そりゃ、僕だって、やれ
ばできたさ。でも、ヴィニーが、僕は
いいって。僕には、ロープと車の試練
を課さなかったんだ」
「えっ? 何の‥‥しれん? いった
い、何のこと?」
僕は、わけがわからずきいた。
「2台の車の間のロープを飛び越える
んだよ」
「まだ、言ってることがよく見えない
んだけど。2台の車とロープで、何を
するわけ?」
「だから、入団の儀式だよ」
ティフは、僕のことを、物を知らな
いやつという目で見た。
「2台の車にロープを張るんだ。試練
を受けるやつは、そこから離れた場所
704/806
に立つ。で、自分に向かって全速力で
走ってくる車の間のロープを跳ぶん
だ。それを3回クリアすれば、入団が
決まる。ジルはきっと、入団するまで
に何度か失敗したんだと思うよ」
なるほど。それで、僕のことを物を
知らないやつと思ったわけか。
「ティフ、あたしは、あなたがそんな
馬鹿なことしなくて、ほんとによかっ
たと思ってるわ。でもね、ギャング団
の入団の儀式っていうのは、他のメン
バー全員に、何分間も殴られたり蹴ら
れたりすることだって聞いてるわよ。
逃げずに耐えられたら、入団が決まる
って。ロープも、車も、使わずにね。
メンバーが疲れるか、本人が逃げ出す
かしないかぎり、気を失うまで痛めつ
けられるそうね。ジルが肋骨を折った
のも、それだって言ってたわ。ヴィニ
ーが、あなたにそれをさせなかったの
705/806
は、まあ、運がよかったってことだろ
うけど」
ティフは何か気づいたように息を飲
んだ。愕然と開かれたその目と口が、
震えていた。
「そ‥‥そんなこと、なんにも‥‥」
やっとのことで、つぶやくように言
った。
「僕は、からかわれてた‥‥? や、
やつら、それをネタにして、僕のこと、
笑ってた‥‥?」
「もう、わかったでしょ、ティフ。ヴ
ィニーは死んだ。他の連中は逮捕され
たか、どこかに雲隠れしてしまった。
こうして生き残ってるあなたは、ラッ
キーだってことよ」
「殴られつづけるなんて、きっと僕に
は耐えられなかった」
彼女は、僕の言ったことを反芻する
とでも言うように、数回首を振った。
706/806
「たぶん、すぐに逃げてたよ」
彼女の声は、悲しげだった。
「やつらいつも、僕のことをフロイド
って呼んでたんだ。けっきょく僕は、
ずっと、そんなふうに見られてたんだ
ね」
「フロイド?」
僕は、その言葉とともに彼女が身震
いしたのが気になり、きいた。
「『プリティ・ボーイ・フロイド(※)』
‥‥って」
彼女は、消え入りそうな声で言った。
(※訳注
‘Pretty Boy Floyd’
1930年代、
中西部で名をはせた伝説的銀行強盗
の名をとった西海岸のヘビメタバンド
また、そ
ギャン
グ団のメンバーは、その名に引っかけ“プリテ
ィ・ボーイ”ティフをからかったわけだ)
「さっきも言ったように、やつら、僕
のことを弱虫だって知ってた。女の子
みたいだって思ってたんだ。その儀式
707/806
もなしで僕を仲間に入れたのは、たぶ
ん‥‥ヴィニーの『女』としてだね」
「ねえ、フェイス、お願いがあるんだ
けど」
自分の物語を語り終え、しばらく黙
っていたティフは、なにかを吹っ切る
ように顔を上げた。
「僕を‥‥あたしを、もっとかわいく
して。ヘアセットのやり方とかも教え
て。そしたらあたし、あなたみたいに
きれいになれると思うの。来週、ママ
とパパが来るのよ。その時に着る服の
相談にものってね。ママとパパに、あ
たしが今幸せだって思ってほしいの。
いい娘になって、もう二度と困らせる
ようなことはしないって、信じてほし
いの」
「ティフ、あなたは今、自分の言って
ることを、ちゃんとわかって言って
708/806
る?」
僕は、ティフの望みが、本心からの
ものだと確信したくてきいた。
「あたしは、あなたにやけになってほ
しいわけじゃないのよ。あなたの顔と
体格なら、完璧な女の子になれるって
ことは保証するけどね」
「あたしは、ちょっと他へ行ってただ
け。もともと、ここにいたの」
彼女は、解放されたような愛らしい
笑顔を向けてきた。
「まわり道しちゃったけど、戻って来
られたんだもん、もう、どこにも行き
たくないわ」
「‥‥そうね」
僕はそう言って、彼女のおでこにキ
スした。
「じゃあ、明日の朝から、ふたりで、
これまで誰も会ったことがないような
かわいい女の子づくりをはじめまし
709/806
ょ。でも、そのためには、もう寝た方
がいいわ」
ティフは、両手を僕の体にまわし、
抱きしめてきた。
「ああ、ワクワクするわ。あたし、こ
こへ来て最初の日に着たあのサンドレ
スが大好き。あんなお姉さんっぽい服
は、これまで一度も着たことなかった
から。ママったら、あたしを、いつま
でもちっちゃな女の子だと思ってるの
よ。だから、いつも、まるで8歳の女
の子みたいな服ばっかり着せられてた
の。あたし、けっきょく、それがいや
だったんだと思うわ。あたしだって、
いつまでも子供じゃないんだもん。ね
え、今度、ママとパパが来る時、思い
っきりドレッシーな服で会うっていう
のはどうかしら?」
「だからね、それは明日、相談しまし
ょ。きれいになるためにも、睡眠は必
710/806
要よ」
僕の言葉に、ティフはその話をつづ
けるのはあきらめたようだが、また、
なにか別のことを思いついた顔をし
た。
「ねえ、あなたのピンクのネグリジェ
を貸してって言ったら、いや?」
彼女は、希望を込めた声できいてき
た。
「あの、パンティつきの、短めのやつ」
「ああ、この前、あなたがひとりの時
に、こっそり着てみてたやつね」
僕は、彼女の言葉を補足した。
「えーっ? 知ってたの?」
ティフは笑いながらも、うかがうよ
うに僕を見た。
「ふふ、ネグリジェを着てたのも、と
きどき、あたしの服を試してるのも、
全部知ってるわよ。それに、あたしの
化粧品でメイクの練習してるのもね」
711/806
「あの‥‥、怒って‥‥ない?」
「妹は、こっそりとお姉ちゃんの化粧
品を使うものでしょ。姉はそれを、見
て見ぬふりするものよ。だって、妹が、
ちっちゃな女の子から、かわいくてき
れいな本物の女の子に変わっていくの
がうれしいんだもの」
ティフは、すぐにドレッサーのとこ
ろに駆けていき、迷うことなく引き出
しを開けた。それは、正確に彼女の言
っていたネグリジェが入っている引き
出しだった。1秒もかからずに目的の
ものを引っ張り出した彼女は、すぐさ
まコットンパンティと長めのナイティ
を脱ぎ、それに着替えた。
ベビードールの薄くて透けた生地
が、彼女の絹のようなお尻の肌をすべ
って揺れた。
翌朝、ティフは、朝早くから起き出
712/806
した。
それはいいのだが、問題は、彼女が
僕にも早く起きることを期待したこと
だった。
彼女は、ヘアスタイリングに関する
最初のレッスンが待ちきれなかったよ
うだ。それを早めにはじめ、そのあと、
できればメイクのレッスンもしてほし
いと思ったらしい。もちろん、下着や
服選びのコツも、早く身につけたいと
いうことだろう。
たしかにティフは、いい生徒だった。
彼女は、僕の説明や手の動きを、ひ
とつも聞き逃すまい見落とすまいと集
中しつづけ、その間、ヘアスタイルに
関する山のような質問を浴びせてき
た。そのあとも‥‥アイメイクはどん
な色の取り合わせがベストか、授業の
時にはどこまでのメイクが許されるの
か、自分にはどんな種類の服が似合う
713/806
か、自分の年齢で高いヒールを履いて
もおかしくないか‥‥と、次から次へ
と質問してきた。
僕は、それに答えることを、少しも
面倒だとは思わなかった。というより、
彼女こそ、女の子にとっての夢の実現
だった。生きている等身大バービー・
ドール‥‥僕が手を入れ、着飾らせる
ことで、彼女は確実にきれいになり、
僕はそれにワクワクしつづけた。これ
まで彼女が身につけたことのない服や
小物をなにかひとつ加えるだけで、彼
女はよりかわいくなった。ほんのちょ
っとしたメイクを施すだけで、彼女の
顔は信じられないほど輝きを増すの
だ。
大人の女へと変わりはじめた瞬間の
少女だけが持つ、その息をのむような
美しさは、まさに一枚の完璧な絵だっ
た。そのかわいらしさは、彼女が出会
714/806
うすべての人を、虜にしてしまうにち
がいない。
ティフは、例の白いサンドレスを着
たがったのだが、僕は彼女のクローゼ
ットから、別のものを選んだ。ぴった
りと体の線に沿ったベース生地の上
に、ライラックカラーの花柄がプリン
トされた薄布が、レイヤーとして取り
まいているドレスだ。
僕はそれに合わせて、引き出しから
は、やはりライラックカラーのスリッ
プ、ブラ、パンティのセットを出した。
あとは、薄い白のパンストと、ローテ
ィーンの妹のお出かけにふさわしい、
あまりヒールの高くない白のサンダル
を選んだ。
その、おそろいのスリップとブラと
パンティを見た時のティフの表情は、
本当にかわいかった。クリスマスプレ
715/806
ゼントの包みを開けた子供だって、こ
こまで幸せそうな顔はしないだろう。
「これ、きれい!」
彼女は、満面の笑顔で言った。
「ママは、こんなのいっぱい持ってた
わ。あたしも、同じようなのを着けた
いって思ってたこと、知ってたのね?」
「ふふ、お子様向けじゃないお姉さん
用の下着ね」
僕は、そう言って笑った。
「ほらね。ママだってもう、あなたに
レディらしい服を着てほしいと思って
るのよ。いつまでも、ちっちゃな女の
子用じゃなくね」
「あたしは、あのかわいらしいパーテ
ィドレスやペチコートとさよならしな
きゃいけないのね」
ティフは、ネグリジェを脱ぎながら、
そう言ってほほ笑んだ。
「だけど、こんな下着の方が、このす
716/806
てきな髪型には似合うわね。ママは、
いつも、おさげにしか結ってくれなか
ったのよ」
「レディはおさげ髪はしないわ。そし
て、小さな女の子は、こんな高価なラ
ンジェリーは着けない。ママが、これ
だけお金を使ったのは、自分の娘に、
こんなすてきなランジェリーの価値が
わかる女の子に成長してほしいと思っ
たからでしょ」
「あたし、そんな女の子になるわ。ぜ
ったい、なる」
彼女は、そう約束しながら、なんの
ためらいもなくブラのホックを前でと
め、それをくるっとまわしてストラッ
プを肩にかけた。さらにパンストを手
早くくるくると巻き込むと、そこに足
を通し、きれいに脚の上に延ばした。
スリップも、いつも僕がやってあげて
いるのと同様の手慣れた感じで身につ
717/806
けた。
「どう? ほんとのこと言うと、ちっ
ちゃい頃から、ママのでこっそり練習
してたの。まちがってないでしょ」
その手際の良さに驚いている僕に、
彼女は、そう笑ってみせた。セクシー
なブラを着けることにも、レースでい
っぱいのシルキーなパンティにも、何
のためらいもない。
これが、何日か前まで、粗野で乱暴
に見せようとしていたのと同じ人間だ
ろうか?
そのランジェリーに嬉しそうにして
いる姿を見たら、彼女が、基本的には
男の子として育ったと言っても、誰も
信じないだろう。
「あんたって、とんだインチキ野郎ね。
ここへ来た時は、そんなこと、おくび
にも出さなかったくせに。男になりた
い? 強くなりたい? 嘘つき! ほ
718/806
んとは、か弱く見せることが大好きな
んじゃない」
「インチキ野郎? ひどーい」
彼女は怒った顔をしてみせた。
「まあ、かわいいインチキ女くらいな
ら、妥協してもいいけど」
僕は、がまんしきれず、彼女を抱き
しめていた。
「それは正しくないわ。かわいいどこ
ろじゃなくて、あなたって、世界でい
ちばんのお人形さんよ」
「だけど、あたし、気味悪くない?」
突然、ティフがちょっと心配げにき
いてきた。
「あたしずっと、気味悪いオカマだな
んて思われたくなかったの。でも、ど
うしてもそうなっちゃう。ママのかわ
いい女の子でいることが大好きだった
あたしには、一生、男の子は無理なの
ね」
719/806
僕は、難しい選択を迫られていた。
彼女が男の子として大人になる姿を
想像できないという本心を語るべき
か、それとも、いつかは、ドレスやラ
ンジェリーやメイクを忘れ、誰からも
男だと思われて暮らせる日がくると、
嘘をつくべきか。
そんなことを平然とした顔で言える
ほど、僕は不正直ではない。たとえ、
ジーンズにライダースブーツ、革ジャ
ン姿だったとしても、ティファニーは
女の子にしか見えないだろう。
「もちろん、オカマになんか見えない
わ、ティフ」
僕は、彼女を見つめて言った。
「もし、気に障ったらごめんね。でも、
こんなにかわいくて女の子っぽいあな
たを見てると、そもそも男の子に生ま
れてきたのがまちがいだったって気が
するの」
720/806
と、彼女は僕を見返し、ニッコリと
笑った。
「気に障る? とんでもない。あたし、
今は、女の子であることを、誰からも
疑われたくないの。まちがっても、男
の子だなんて思われたくない。あたし
は、二度と男の子に見られたいなんて
思わないわ。だって、小さい頃から、
男の子の自分が好きだったことなん
て、一度もないんだもん。女の子の格
好が好きだったし、女の子といっしょ
に遊ぶのが好きだった。ままごとをや
ってる時だって、他の女の子は、とき
どき男の子やパパをやりたがったけ
ど、あたしは、ママしかやらなかった
もん」
そう言いながら、準備したドレスを
ハンガーからはずしたティフは、背中
のジッパーを頭が入るのにじゅうぶん
なとこまで上げてから、それをかぶっ
721/806
た。
「あたし、いつも、ママがドレスを着
るのを見てるのが大好きだったの」
ドレスの裾が下まで降りたところ
で、彼女は、途中まで上がったジッパ
ーを、首の後ろまで引っ張り上げなが
ら笑った。
「だから、やり方は全部知ってるのよ。
こうすれば、あなたに手伝ってもらわ
なくても、ジッパーが閉められるのよ
ね」
僕は、感心しながらそれを見ていた。
僕の妹は、すぐに、立派な誘惑者に
なるだろう。
僕には、気を引こうとして自転車で
近づいてきた男の子たちが、彼女が笑
いかけたとたん、バランスを失って転
ぶ姿が、容易に想像できた。
「コロンもつけてみる?」
僕は、お気に入りのコロンを手渡し
722/806
ながら言った。
「大好きな香りの中にいると、男の子
だった時のこと、すっかり忘れられる
わよ」
「わかるわ。でも、あたしは、男の子
だったことを忘れるっていうより、マ
マに、あたしにもつけてっておねだり
してた時のことを思い出すわ」
「そうか。あなたはずっと、ママみた
いになりたかったのよね」
僕も、それにうなずいた。
「それを知ったら、ママもきっと喜ぶ
わ」
「ほんと、あたしのママって、最高な
のよ」
ティフは、何の屈託もなく言った。
「頭がいいし、ほんとにきれいだし。
あたしもいつか、ママみたいな大人に
なりたいな」
「あなたなら、ママよりきれいになれ
723/806
るかも知れないわよ。頭の方はまだわ
からないけど」
僕はそうからかった。
「あたし、他の子よりいい成績とるわ
よ」
彼女は、そう宣言した。
「ミセス・ウイリアムズも、あたしは
賢いんだって言ってくれたでしょ」
「もうじき、新学期が始まるから、そ
うすればわかるわ。さあ、準備ができ
たら、そのドレス、みんなに見てもら
いに行きましょ」
僕はそう言って、彼女の肩に手を添
え、ドアの外に導いた。
ティフが、将来も女の子でいつづけ
るつもりだと語ったことに、他の女の
子たちはみんなわきたった。ジルはも
ちろん、ティフの手をとり、例のダン
スを踊った。ティフも、ジルに負けず
724/806
に飛び跳ねた。
「あたし、これまでで、こんなに幸せ
だったことってないわ」
ティフは、叫ぶような声を上げた。
「ここに来て、初めてほんとの友だち
ができたの。それも、こんなにたくさ
ん。みんな、大好き!」
「いったい、なにを騒いでるの?」
背後から、よく知っている声が響い
た。
振り向くと、ラウンジの入り口にホ
リーが立っていた。
「あっ、帰ってたのね。早くこっちへ
来て。話したでしょ。あたしの妹よ」
僕はすぐに、ホリーを輪の中に招き
入れた。
「見て、すごくかわいいでしょ。まあ、
あたしと同じくらい」
そう言ってから、僕はふたりを紹介
した。
725/806
「ティファニー・リン・モリソンよ。
こっちは、あたしのビッグ・シスター、
ホリー・リン・ビンクラー」
「わあ、すてき! ミドルネームがお
んなじ!」
ティフはうれしそうに言うと、ホリ
ーが身を引くより早くその手をとっ
た。とたん、ホリーはダンスに巻き込
まれ、ティフに振り回された。
「ふー、彼女、ジルの影響をもろに受
けちゃったってわけね」
ダンスからやっと解放されたところ
で、ホリーはあきれたように肩をすく
めた。
「オー、神よ。ついにわれわれは、2
台の小型永久運動装置を手に入れまし
た。その名は、ジルとジル・ジュニア」
と、その時、ホリーのそばに誰かが
駆け寄った。声を聞きつけ、人垣の中
からジルが飛び出したのだ。当然、彼
726/806
女はすぐに、ホリーの手をとった。
僕は、姉だけがふたたび、ジルとジ
ル・ジュニアの儀式に巻き込まれるを
黙って見ているわけにもいかず、あわ
ててジルとティフの間に割り込んだ。
「姉妹でしょ。仲間はずれはなしよ!」
僕ら4人は、笑いながら部屋の中を
ぐるぐる回っていた。他の女の子たち
は最初、あきれたように見ていたが、
やがて勢いに飲まれ、その輪に加わっ
てきた。
★
その集まりが解散した後も、ホリー
は僕らの部屋までついてきた。、ティ
フのことをもっと知りたいからという
ことだった。いや、少なくとも口では
727/806
そう言っていた。
ところが、部屋に入るやいなや、ホ
リーはティフに、僕がたった3日間で
女の子っぽい女の子になってしまった
てんまつを話しはじめ、僕は恥ずかし
い思いをすることになった。
「ふん。もし、あの結婚式の時、ロブ
があんなにすてきな人だって知ってた
ら、あたしは、あなたなんかでなく、
彼と踊ってたもん! とにかく、彼の
キスはすてきなんだから」
「へえ、そう。グローブトゥロッター
ズのキスよりも?」
ホリーは、意地悪な笑いを浮かべ、
僕をからかいつづけている。
「ねえ、ティフ、あなたのお姉さんか
ら、グローブトゥロッターズのチーム
全員とキスした話は、もう聞いた?」
「あれは、サイン入りボールのため
よ!」
728/806
僕はそう言って、彼女にイーッと舌
を出した。
「あなたって、あたしにフラれたこと
を、そうとう根に持ってるのね」
「えっ? あっ、そうかあ!」
ティフが笑いながら言った。
「さっき、紹介されたときは、そこま
で頭が回らなかったけど、フェイスが
結婚しようと思ってたのって、ホリー
なのよね。ねえねえ、妹からフラれる
って、どんな感じ? きっと、すっご
くつらかったでしょうね」
「ううん、すっごく面白かったわ」
ホリーも、笑いながら答えた。
「だって、熱くなってたのはこの子だ
けで、あたしには、そんなつもり全然
なかったんだもん。この子が女の子っ
ぽい女の子だってことは、最初からわ
かってたし」
僕は、肩をすくめた。
729/806
「ふん、言ってなさい。あたしには、
世界一すてきなカレがいるんだもん、
平気よ。お互い、心から愛し合ってる
し、必ず結婚するんだから」
「もう、すぐこれよ。最後は全部おの
ろけ」
ホリーは、そう言って、肩をすくめ
た。
「そうだ。それより、もっと面白いこ
としない?」
そして、ティフの方を見て、また、
なにかたくらんでいるような笑いを浮
かべた。
「ティフ、あなたって、ほんとにかわ
いいわ。お人形さんみたいよ。だけど、
もっと本物の女の子になりたくない?
自分がどこまで色っぽくなれるか、
見てみたいでしょ?」
「色っぽい‥‥って」
ティフは、どこか不安げにほほ笑み
730/806
ながら言った。
「あたしには、まだちょっと無理だと
思うけど‥‥」
「だいじょぶよ! あなたなら、男の
子たちを一発でノックアウトしちゃう
くらい色っぽくなれるわ」
ホリーは、さらにからかうようにテ
ィフを見た。
「想像してみて。あなたは、セクシー
という言葉がぴったりな大人の女にな
るのよ。もう、ちっちゃな女の子なん
かじゃなくね」
「あたし、ちっちゃな女の子なんかじ
ゃないわ」
ティフは、半ば笑いながらも、ちょ
っとムキになって言った。
「いいわ。セクシーな女って、楽しそ
う」
「サイズは、あたしと同じくらいよね」
ホリーの方は、ちょっとにやにやし
731/806
ながらティフを立たせた。
「あたしの部屋に行って、3人で服を
選びましょ」
ホリーの部屋、つまり僕がこの前ま
でいた部屋は、やはり居心地がいい。
もちろん、今のティフには何の文句も
ないけれど、ホリーといつもいっしょ
にいられないのは、やっぱりさみしい
のだ。もとの僕のベッドに腰を落とし
ながら、僕は思わずため息をついてい
た。
「ごめんね、フェイス。ミセス・ウイ
リアムズは、今学期中に、あたしにま
た、新しい妹を担当させるつもりらし
いの。3人部屋でもあればいいのにね」
ホリーもちょっとさみしげに言い、
自分のクローゼットや引き出しを物色
しはじめた。
「そしたら、あなたにビッグシスター
732/806
の仕事を手伝ってもらえるでしょ。だ
ってあなたは、こんなに短い間に、テ
ィフをここまでにしちゃったんだも
ん」
「あたしは、そんなにたいしたことを
やってないわよ。タイミングがよかっ
ただけ。ティフはちょうど、女々しい
男の子であることから抜け出したくて
もがいてたんだから」
「じゃあ、これを履いて、また、女々
しい男の子に戻ってもらおうかな?」
ティフに向かい、いたずらっぽい顔
でそう言いながらホリーが差し出した
のは、レースでいっぱいのボーイカッ
トパンティだった。
ティフはそれを、まるで神聖な宝物
ででもあるかのように受け取った。コ
ットン製なら話は別だが、ピンクで、
しかもレース以外の何ものでもないそ
れを、断る理由はないだろう。
733/806
「それから、この際、パンストもダメ
よ」
ホリーはそう言いながら、今度はガ
ーターベルトとストッキングを手渡し
た。
「あーっ」
それを見たティフは、震えるような
声を上げた。
「ママは、特別なお出かけとかには、
これを履くのよ。あたしも履かせてっ
て言ったら、まだ早すぎるって」
「ここには、ママはいないわ」
僕は笑いながら言った。
「これは、あたしたち、女の子だけの
ないしょのパーティでしょ」
ティフがそれにうなずくと、ホリー
は、次に、パンティとおそろいのブラ、
ピンクのハーフスリップを手渡した。
最後に渡された黒のミニスカート
と、シースルーのブラウスを見た時に
734/806
は、ティフの呼吸は、すでにそうとう
速まっていた。
彼女は、急いで着ているものを脱ぐ
と、あわててパンティに足を通した。
「そんな、あせらないの」
僕は、そんな彼女に言った。
「レディは、そんなに急いで服を着な
いものよ。ドレスを着る前に、ランジ
ェリーの肌触りをめいっぱい楽しまな
きゃ。どう? そのパンティの軽くて
肌にフィットする感じ。まるで、何も
着けてないみたいでしょ。次は、その
ガーターベルトをして、ストラップを
パンティの下に通すの。そのあとは、
ストッキングの楽しみが待ってるわ。
忘れないで。レディは、着ることをた
っぷりと楽しむの」
「ええ、あたし、楽しんでるわ。ほん
とにワクワクするもの」
ティフは夢見るように言い、くるく
735/806
ると丸めたストッキングを、脚の上に
すべらせていった。
「こんな気持ち、味わうのは初めて。
子供向けのパーティドレスやペチコー
トとは全然ちがう」
「おっぱいも、入れてみる?」
ホリーはそう言いながら、ティフの
ブラのカップに、ブレストフォームを
挿入した。
「本物のおっぱいができる前に、あた
しが使ってたものよ」
「わあ、すごーい」
ティフはちょっと恥ずかしそうに笑
いながら、大きくふくらんだ自分の胸
のあたりを見下ろした。
「あたし、そのうち、ほんとにこんな
ふうになるのね」
「自分の胸をふくらませる唯一の方法
は、ホリーやあたしみたいに、女性ホ
ルモンを摂ることだけど‥‥」
736/806
僕は、ティフの今言ったことの意味
をきちんと説明しておこうと思った。
さまざまな影響も含めて、正確に理解
しておいてもらいたかったのだ。
「でも、じゅうぶんに胸がふくらむと
ころまで女性ホルモンをつづけた場
合、その時点でもう、あなたの体の男
の子の機能はダメになってるはずよ。
あとは、女の子として生きていくしか
なくなるのよ」
その言葉にティフはちょっと考え込
む表情をしたが、それは10秒ほどだっ
た。顔を上げた彼女は、ニッコリとほ
ほ笑んで言った。
「それで、何の問題もないと思うわ。
女の子になることが、あたしの望みだ
もの。よく考えると、子供の頃から今
まで、ずっとそうだったんだと思うわ。
そりゃ、一度はそこから逃げようとし
て、無理して男の子をやろうとしたけ
737/806
ど、それはやっぱりほんとのあたしじ
ゃなかった。あたしは、生まれる前か
らずっと女の子だったの。それがなに
かのまちがいで、男の子になってただ
けだと思うから」
ティフは、スリップを身につけ、体
にフィットさせながらつづけた。
「ママもパパも、あたしが女の子でい
る方が幸せなことを、ずっと知ってた
んだと思うわ。あたしが、もう男の子
のふりをして生きるのをやめるって言
ったら、きっと喜んでくれるはずよ」
「体のテストとか心理テストとか、い
ろいろすることになるわよ」
僕は、彼女の選択は正しいと思って
いたが、その決意が早計すぎるような
気がして確認した。
「女の子になるっていうのは、あなた
の気まぐれで決められるようなことじ
ゃないんだから」
738/806
「知ってるわ。前に、ちゃんと本で調
べたもん」
ホリーが手渡したミニスカートをは
きながら、ティフはそう答えた。
「あたしは、テストでもお医者さんと
の面談でもべつに平気よ。女の子にな
りたいっていうあたしの気持ちは、本
物だと思うから」
体にぴっちり沿ったブラウスを着た
あと、中に入った髪をまとめて跳ね上
げるティフの仕草を見て、僕は、「こ
の色っぽさは、たしかに、とても14歳
の男の子だなんて思えない」と、あら
ためて感じた。
この上、ホリーがメイクやヘアスタ
イルまで仕上げたら、ティフの姿は、
大学生の男が夢精の時に夢見る女の子
そのものになってしまうだろう。
「すてきよ、ティフ!」
ホリーが選んだ茶色のサンダルを履
739/806
くティフに、僕は口笛を吹いた。
「これであなたは、ちっちゃな女の子
時代を完全に卒業ね。ようこそ、メジ
ャー・リーグへ!」
「なんか、あたし、すごくセクシーで
きれいになれた気分!」
その高いヒールの感触を確かめなが
ら、ティフはくすくすと笑った。
「やっぱり、前に着てたかわいらしい
ドレスとは、全然ちがうわ」
「今、フェイスも言ったでしょ。あな
たはもう、子供じゃないんだから」
ホリーは、ティフをメーキャップテ
ーブルの前に座らせながらほほ笑みか
けた。
「さあ、あなたがここを卒業する時、
どんな女の子になってるか、見せてあ
げるわね」
ホリーはそう言うと、ティフの顔に、
シャドーやチークやマスカラやアイラ
740/806
イナーを次々に入れていき、最後に口
紅で仕上げた。その顔からは、子供っ
ぽいイメージがすっかり消え、これか
ら夜遊びに出かける女子大生という感
じの表情が現れた。
「ワオ!」
姿見の前でその姿を確かめたティフ
は、大きな声で叫んだ。
「こんなあたし、ママに見せてあげた
いわ」
「見せられるわよ」
ホリーはそう言うと、例の愛用のデ
ジカメを持ち出し、ティフにあれこれ
ポーズをとらせ、シャッターを押しは
じめた。
「娘のそんな写真見せられたら、どこ
の親もぶっ飛ぶわ」
カメラの前であられもないポーズを
とるティフを見ながら、僕は笑った。
その後も、僕らは、ティフに何着か
741/806
の大人っぽい服を着せ、ヘアスタイル
やメイクもさまざまに変えて、何十枚
もの写真を撮った。
「どれもみんな、すごくすてきよ。で
もあたし、ママが買ってくれたお洋服
の写真もちゃんと撮っておきたいわ」
5着目の服が終わったところで、テ
ィフが言った。
「だって、あたし、ママやパパに、い
かがわしい女になったなんて思われた
くないもん。そりゃ、もうちっちゃな
女の子みたいなのはいやだけど、でも、
背伸びしすぎるのもやっぱりよくない
と思う」
こんなに賢くて家族思いの女の子で
遊んでしまうなんて、本当にいけない
姉たちだ。
ティフと僕はいったん部屋に帰り、
かわいい衣装を何着かとってくると、
メイクや髪ももとに戻して、そのあと
742/806
の撮影をつづけた。とはいえ、最小限
のメイクと年相応のヘアスタイルだけ
でも、彼女が将来、誰もが息をのんで
ふり返るような美人になることは、容
易に想像できた。
さっき彼女が言っていたとおり、彼
女はもともと女の子なのだろう。そこ
にはもう、男の子を感じさせるものは
なにもなかった。
もちろん、ミセス・ウイリアムズも、
そしてティフの両親も、変わったティ
ファニーの姿を大きな驚きと喜びで見
つめた。そしてその場で、彼女がすで
に女性になる決意を固めたことを聞か
された。
その瞬間、ティフの両親がミセス・
ウイリアムズの方に視線を送り、軽く
うなずいたのを見て、僕は彼らの真意
に気づいた。両親は、そもそも彼女を
743/806
ここに送った時点から、そのつもりだ
ったにちがいない。たぶんずっと、彼
女が、男の子としてでなく女の子とし
て成長する方が幸せなことを知ってい
たのだろう。
両親が訪ねてきたその週末をもっ
て、ティフの基礎訓練期間は終わった。
ティフは、2日間とも、大好きなマ
マといっしょに、久しぶりの母娘とし
てのショッピングを楽しんだ。ティフ
の父親は、娘を美人にしてくれたお礼
だと言って、ホリーと僕もディナーに
招待してくれた。
父親の腕に手を絡めてレストランに
入っていくティフは、僕が知り合って
からのこの1ヵ月で、最も幸せそうな
顔をしていた。
そんな輝くような美少女の姿に、レ
ストランじゅうの若い男の目が注がれ
ていた。
744/806
ディフのパパは、今のうちから、が
んじょうな棍棒でも用意しておいた方
がいいだろう。彼女がもう少し成長し
たら、親の目を盗んでデートに誘い出
そうとする男が押し寄せるにちがいな
い。
すでにティフは、デートで僕を迎え
にきたロブと何度か顔を合わせてい
る。そんなこともあり、ロブの試合の
応援に、僕はティフを誘った。
外出できるようになった彼女が、女
の子としての社会経験を積むのにちょ
うどいい機会だと思ったし、ティフの
変化をロブに見せて、僕の「成果」を
自慢したい気もあったのだ。
と、それを聞きつけたジルが、自分
も退屈だから――要するに、今つき合
っているボーイフレンドたちに飽きた
という意味かも知れないが――いっし
745/806
ょに行きたいと言い出した。でも彼女
は、自分のこともよくわかっていて、
はしゃぎやすい自分が行くことで、試
合のじゃまになるのではないかと心配
もしていた。
「あたしのカレ」は、やっぱり馬鹿
じゃない。電話で相談したその答えは
明確だった。
スタンドにジルがいれば、チームメ
イトは喜ぶにちがいない。たしかに気
が散るかも知れないけれど、そんな選
手たちを試合に集中させるのは監督の
仕事だ。観客が気にすることはないと
いうのだ。
僕は、自分が彼のチームの監督でな
くてよかったと思った。ジルにじゃま
されずに試合を成立させるため、彼は
忙しい一日になるだろう。
試合の日、僕らの部屋に現れたジル
746/806
を見て、僕は目を疑った。にやにや笑
いを浮かべたその顔は、ティフの顔に
浮かぶ笑いと一致していた。
偶然にも(?)ふたりは、まったく同
じ衣装を着ていた。お腹の出た白のち
びTシャツ、極端に短いピンクのホッ
トパンツ、ひもがピンクのスニーカー。
同じようにポニーテールにし、ピンク
のスカーフで結んでいる。ただしジル
は、いつもの男を釣るための濃いめの
メイクを控え、ティフに合わせた薄化
粧だ。
そんなふたりを見て、僕は思わず笑
ってしまった。
「ホリーの言うとおりね。ジルとジル
・ジュニア」
僕は急いでホリーの部屋に電話し
た。
「すぐに来て。面白いものが見られる
わよ」
747/806
ホリーは、ふたりを見るなりあきれ
たように言った。
「こんな女の子たちがスタンドにいた
んじゃあ、今日の試合は凡打やエラー
の山ね」
「このガフっていうの、きつくて、が
まんできないわ」
ティフは、女の子らしい股間を見下
ろしながら、うなるように言った。
「‥‥でも、やっぱりがまんしよ」
けっきょくは、姿見に映った自分の
姿をうっとりと見つめながら、納得し
たようだ。
僕らが球場内に入ったとたん、そこ
にいたすべての男たちが、観客席に向
かう2人のホットなベイビーを目で追
った。ティフもジルも、じゅうぶんに
それらの視線を意識しているようで、
ふだんよりずっと、ヒップをスイング
748/806
しながら歩いている。かつて、マッチ
ョなワルをめざしていたはずのティフ
は、今や、ひとひらの可憐な花びらの
ように見えた。
2対0のビハインドでむかえた三回
裏の攻撃。ロブのチームは、ここまで
ヒットに恵まれなかった。と、ジルが、
打席に向かうかっこいいバッターの名
をきいてきた。
「マイクよ」
僕は答え、さらにこうつけ加えた。
「打率は2割8分、今日はあたってな
いけどね」
「じゃあ、応援しなきゃね」
ジルは、弾んだ声でそう言うと、テ
ィフになにか耳打ちした。くすっと笑
った2人は、席を立つと、観客席のフ
ェンスのところまで駆けていった。
「マイクーっ。ホームランよーっ」
ジルは、黄色い叫びを上げた。
749/806
「あたしたちのために、かっ飛ばして
ー」
観客席から声援を送るかわいい女の
子2人に気づき、うれしそうに笑い返
しながら、マイクは打席に立った。そ
して、ライトフェンスの方向をバッド
の先で指し示した。
そんなクラシックな挑戦をあざ笑う
かのように首を振ったピッチャーは、
振りかぶると、内角低めにかまえたキ
ャッチャーのミッドに向かい、こん身
の一球を投げ降ろした。
しかし、そのボールがミットの中に
入ることはなかった。振り切ったマイ
クのバットが快音を発すると、次の瞬
間、ボールは、予告どおりライトフェ
ンスを大きく越えていた。
ジルとティフは、手に手をとって、
マイクの名前を絶叫しながら、くるく
ると踊り出した。
750/806
ダイヤモンドをまわってホームイン
すると、マイクはジルとティフの近く
まで来て、オーバーにお辞儀してみせ
た。ダッグアウトに戻るその後ろ姿は、
まるでスキップでもするようだった。
その後もティフとジルは応援とダン
スをつづけ、けっきょくチームは全員
安打、ロブも3打点を上げた。2点差
はあっという間に無になり、試合が終
わったときのスコアは、8対2になっ
ていた。
「みんな、君たちのかわいい応援のお
かげだって言ってるよ」
マイクは、ジルに自己紹介した後、
そう言った。
「アイスクリームとピザ、どっちがい
い?」
ジルとティフは、いつしか、ロブの
チームのメンバーたちから、スヌーピ
751/806
ー・ツインズと呼ばれるようになっ
た。例のダンスが、漫画「ピーナッツ」
に出てくるスヌーピーの動きに似てい
るからだ。彼女たちは、そのシーズン、
残りのすべての試合に応援に出かけ、
ロブのチームはプレイオフに進出した
のみならず、リーグ優勝を果たした。
それは、スヌーピー・ツインズの活
躍によるところも大きいのだ。<br>
わがチームの攻撃になると、僕が持
って行っているポータブルCDプレイ
ヤーから「ルーシー・アンド・ライナ
ス」という曲が流れる。アニメの「チ
ャーリー・ブラウン」で、スヌーピー
のダンスのバックにかかるあれだ。ツ
インズは、それに合わせて踊るのだ。
シーズン最後の頃になると、相手チー
ムは、その曲が始まったとたん、うん
ざりした顔をした。そのダンスととも
に、こちらのチームメンバーが俄然元
752/806
気づくからだ。
1年後、僕はグレートインディアン
校での最後の年を迎えていた。他の生
徒たちの勉強を見る役割を担ってきた
僕がいなくなった後のことがずっと心
配だったのだけれど、その頃にはもう、
心おきなく卒業できる状況になってい
た。後継者ができたからだ。
ティフは、ミセス・ウイリアムズの
指示に従いレベルの高い授業をこな
し、どの学期も、僕と同じくらい優秀
な成績をとっていた。彼女は8年生に
して、高等部1年の授業を全Aで合格
し、高等部2年に進級した。(※)
(※訳注
「8年生」というのは、小学校に入
学してからの通算
日本で言えば中2で高1を
終えたことになる
つまり、飛び級している)
これは、グレート・インディアン・
リバー設立以来の快挙だという。
753/806
僕は、各学年の成績のいい子たちを
あつめ、落ちこぼれている子やつまず
いている子たちに勉強を教えるグルー
プをつくっていった。ティフはいわば
僕の助手として、それを手伝ってくれ
た。
高等部の1年生が、ほとんどの授業
で全員B以上の成績をとったのは、テ
ィフと何人かの生徒が、教師役を買っ
て出てくれたおかげだ。成績発表の時、
ミセス・ウイリアムズはうれしそうに
そう言った。
もちろん、ティフが僕の後継者だと
いうのは、勉強の面だけではない。彼
女は、落ち込んでいる子たちの相談に
のり、女の子としての暮らしにとまど
う新入生たちの面倒を積極的にみてい
る。
これも、ミセス・ウイリアムズを感
心させたことだが、もしティフがいな
754/806
かったなら、何人かの新入生は確実に
ここから逃げ出し、刑務所送りになっ
ていただろう。
ここに来た新入生たちのほとんど
は、毎日女物の服を着て女の子として
振る舞うというやり方に反発し、混乱
する。ティフは、そんな新入生たちに、
ここに送られたのは、罰やはずかしめ
を受けるためではなく、人生を立て直
すためなのだということを根気よく納
得させた。僕がホリーから学んだよう
に、彼女は僕から学び、新入生たちを
ここの暮らしにとけ込ませ、トンネル
の向こうに光明があることを理解させ
るすべを身につけていた。
僕自身は、そんな幸せな少女時代か
ら旅立とうとしていた。
僕はここで、人生を大きく変え、自
分の弱さを克服して、よりよい人格を
755/806
つくることができた。
そんな希望にあふれた将来をもたら
してくれたグレート・インディアン校
とミセス・ウイリアムズに、心から感
謝していた。
だからこそ、ここに送られ、自分を
見失っている後輩たちを支援するため
のネットワークを、卒業までにつくっ
ておきたかったのだ。
僕の卒業後、何年かはティフがそれ
を引き継いでくれるだろう。そして、
ティフはまた、そのネットワークを育
てていく後継者を見つけるはずだ。
道に迷った問題児の男の子たちが、
その人生をを立て直すために、このガ
ールセンターが、より良い学校になっ
ていくことを、僕は心から願っている。
ロブと出会って以来、僕の将来の望
みは、なにより妻になり、できれば母
756/806
になりたいということだったから、今
後の進路は、大学に行くにしても、地
方の単科大学で教養課程だけを学ぶ
(※)つもりだった。
(※訳注
アメリカの大学制度は、単科大学‘c
ollege’で教養課程を修め、それから総合大学
‘university’に進み、修士課程を修めるとい
うのが一般的
collegeだけでやめる学生も少
なくない)
でも、思い返してみると、ホリーと
結婚したいなどと言っていた頃、僕は
それとはちがうことを考えていた。グ
レート・インディアンに来た高1の頃
は、総合大学に直結した有名単科大学
(※)への進学を夢見ていたのだ。
(※注釈 有力なuniversityは、傘
下に数校のcollegeを持ち、そこから
の進学が圧倒的に多い)
じつはそれをあきらめたのは、我が
家に、その授業料をまかなうだけの経
757/806
済的余裕がないせいでもあった。たと
え奨学金を受けられたとしても、まだ
年に何千ドルも足りないのだ。
でも、僕はそれが残念だと思っては
いなかった。
卒業後、多少は外で働くとしても、
けっきょくは専業主婦になるのだ。夫
を仕事に送り出し、子供が学校に行っ
たあと、家事をするその家の壁に、子
供の写真と並んで修士号の証書がかか
っていようがいまいが、大したちがい
はないだろう。
そんなふうに思っていた最終学年
の、ある午後のことだった。
校長室から呼び出しがあった。ミセ
ス・ウイリアムズが、なにか大事な話
があるというのだ。
校長室に向かいながら、僕は、いつ
かのことを思い出していた。
758/806
あの日僕は、コンビニ強盗を働き、
このグレート・インディアン校での5
年の更正教育を言い渡された不良少
年、ラリー・モリソンのビッグ・シス
ターになってくれと言われたのだ。ミ
セス・ウイリアムズは、僕ならできる
と言ってくれたが、そんな自信はまっ
たくなく、僕は、尻込みしたものだ。
それが今や、その少年は、自分の人
生を大きく変えただけでなく、他の生
徒を更正させるために中心となって動
いている。僕自身が、その成果に大き
な驚きを感じていた。
とはいえ、僕がまたビッグ・シスタ
ーとして他の子の面倒をみるには、も
う時間がなさ過ぎた。いったい、ミセ
ス・ウイリアムズの話というのは、ど
んなことなのだろう?
首をかしげながら校長室に入ってい
759/806
くと、そこにはなんと、当のティフと、
その両親が待っていた。
ティフはもちろん、もうずっと前か
らミセス・ウイリアムズといい関係に
なっていたが、今日はことに、その横
にうれしそうな顔で並んで僕を迎え入
れた。
「フェイス、私たちは君を、娘の大恩
人だと思ってるんだ」
僕が腰掛けると、ミスター・モリソ
ンが笑顔で切り出した。
「もし君がいなかったら、私たちは、
この子を失っていたかもしれない。も
ちろん、ここに入れたことで淡い希望
は抱いていた。でもまさか、こんな優
等生の娘として、私たちのもとに戻っ
てくるとは思ってもみなかったよ。そ
の上、一時は手がつけられないほどぐ
れていたこの子が、今では、他の子た
ちの手本になっているというじゃない
760/806
か」
「あたしは、お姉さんの真似をしただ
けよ」
ティフが、照れくさそうに言った。
「フェイスこそ、あたしのお手本だも
の」
「フェイス、あなたは、いわば悪魔に
取り憑かれたひとりの少年に戦い方を
示して、悪魔を祓う力を授けたってこ
とね」
ミセス・ウイリアムズがそんなふう
につけ加えた。
「私の見込みは、まちがっていません
でしたよ」
「今、うちの人が言った、この子を失
うっていうのは、けっして大げさな言
い方ではないのよ」
さらに、ミセス・モリソンがつづけ
た。
「この子が、悪い連中とつき合いだし
761/806
たのを知ったとき、私たちはなにより、
この子の命が心配だったの。もともと
は親の私たちが悪かったにしても、こ
の子は、ただ家から逃げたい一心で、
わけもわからずそんな世界に飛び込ん
でしまった。あの夜、家にやってきた
警官が、武装ギャング団の一味にうち
の子が加わっていたと言ったとき、ど
れほど恐ろしかったか。しかも、現場
で銃撃があったというし。その警官が、
死体の身元確認をしてくれと言い出す
んじゃないかって、身の縮む思いだっ
たのよ」
「だから、裁判所でグレート・インデ
ィアン校の話が出たときは、わらにも
すがる思いだったんだ。私たちの望み
は、やさしかったこの子が戻ってくる
ことだけだった。すさんで、荒れ狂っ
た状態から目を覚ましてさえくれれ
ば、それが男の子であろうが女の子で
762/806
あろうが、そんなことは問題じゃない。
ただ、ミセス・ウイリアムズから、君
がビッグ・シスターとして面倒をみる
と聞かされたときは、正直言って、ち
ょっと不安だったんだ。この子とそん
なに年の違わない君に、いったいなに
ができるのかってね。でも、ミセス・
ウイリアムズは、もしティファニーを
よみがえらせられる人間がいるとする
なら、それはフェイスしかないと、確
信を持っておっしゃった」
ミスター・モリソンはそう言ってひ
とつうなずき、僕に笑いかけた。
「実際、君は、私たちにも、それに、
ティファニーが面接したカウンセラー
の誰ひとりにもできなかったことを、
成し遂げてくれた。まさに、ティファ
ニーの悪魔祓いをしてくれたんだ」
「そんな‥‥。あたしは、たまたま、
それに立ち合ったってだけです。ミス
763/806
ター・モリソン」
たいしたことをしたつもりはないの
に、みんな、僕のことを買いかぶって
いる気がして、僕は言った。
「ティファニー自身がもうわかってい
たんです。なにも恐れる必要なんてな
いってことを。必要だったのは、そば
にいて、それにうなずいてくれる人だ
けだった。彼女が恐れていたのは、灯
りがつけば消えてなくなるような自分
の影にすぎなかった。その灯りのスイ
ッチを入れたのも、あたしではなく彼
女です。ティファニーは、なにが正し
いことか、自分がどうすればいいかを
よく知っている、賢くてやさしい子で
すから」
「そんなふうに謙遜するところが、ま
すます君らしいね、フェイス」
ミスター・モリソンは、さらにそう
言った。
764/806
「でも、目の前の現実がすべてを物語
っている。もし君がいなかったら、こ
の子はたぶん、刑務所送りになってい
たと思うよ。そうなれば、こんないい
娘が、私たちの目の前にいることはけ
っしてなかったはずだ。君に対する私
たちの感謝の気持ちは、ただ、お礼を
言うだけでは、とても表せるものでは
ない。だから‥‥」
と、ミスター・モリソンの目配せで、
ティフが、一通の封筒を差し出した。
「開けてみて」
ティフの両親はわざわざお礼の手紙
を書いてくれたのかと思いながら、取
り出した書面に目を通し、そこで僕は
呆然とした。
それは契約書のような書類で、僕が
大学へ行くための経費すべてを奨学金
として提供するとあった。
読みながら、涙があふれてくるのを
765/806
感じた。
「そんな‥‥。いけません。こんな多
額なお金、受け取れません」
「心配しなくていいのよ」
ティフのママが笑いかけながら言っ
た。
「あなたを援助するくらいの余裕はあ
るんだから。それにね、もう少し使え
る余裕もあるの。続きを読んでみて」
詳しく読むと、その書面には、新た
な奨学基金制度の創設がうたわれてい
た。この学校で、仲間たちの面倒をよ
く見て、多大な影響を与えたことが認
められる生徒に贈られるというその奨
学金は、本人が選んだ分野の修士課程
が修了するまで、授業料や書籍代すべ
てを援助するというものだ。そして、
その「リープ・オブ・フェイス」奨学
金制度(※)の最初の受給者が僕だとい
うことだった。
766/806
(※訳注
‘“Leap of Faith”scholarship’
この小説の副題にもなっている‘a leap of fa
ith’は「安全性を確かめないでとる行動」と
いう意味の成句
そこから「自己犠牲精神に贈
られる奨学金」という意味になると思われる
また‘leap’には「跳躍」とか「急激な変化(好
転)」という意味もあり、「フェイスの躍進」奨
学金、あるいは「フェイスの変身」奨学金とい
う意味にもとれる)
「その名前つけたの、もちろん、あた
しよ」
まだ呆然としている僕を抱きしめな
がら、ティフが誇らしげに言った。
「今、パパとママが言ったことはまち
がってないわ。もしあなたがいなかっ
たら、あたしは今ごろ、この世にいな
かったと思うもの。あなたがあたしに
してくれたことは、これからもぜった
いに忘れないわ。自信がなくてふらふ
らしてたあたしに、本当の自分を直視
767/806
する意味を教えてくれたのは、あなた
よ。あなたにとってはなんの見返りも
ないのに、ふてくされて文句ばっかり
言っているどうしようもないガキに真
正面から向き合ってくれて、立ち直ら
せてくれたんだもん。この感謝の気持
ちをどうやって伝えようかと思ってた
ところで、あなたが、第一志望をあき
らめたんだって話を聞いたの。あたし
はもう、前みたいに甘やかされて育っ
ただけの女の子じゃないわ。でも、こ
れに関しては、親に甘えてもいいかな
と思ったの。うちには出せるお金があ
るし、あなたには一流大学に行くだけ
の能力がある。その両方を活かすんだ
もん、これ以上いいことはないでしょ。
それに、この奨学金があれば、あなた
とあたしがつくってきた困ってる子た
ちを助けてあげる伝統を、この学校に
根づかせることだってできると思う
768/806
の」
僕は涙をこらえようとしたのだが、
とても無理だった。感情のままに泣き
ながら、僕はティフを抱きしめた。
「感謝しなきゃいけないのは、あたし
の方よ」
僕は泣き叫ぶように言っていた。
「あなたは、お金以上のものを、あた
しにくれたわ!」
「ねえ、それはそうと、ミセス・ウイ
リアムズからも、あなたになにか提案
があるんですって」
ティフは、僕の体から手を離しなが
ら、なんだか含みのある顔で言った。
その言葉に振り向くと、ミセス・ウ
イリアムズもまた、含み笑いを浮かべ
ていた。
「あなたたちほど賢い女の子は、これ
まで、ここの生徒にはいなかったわ」
ミセス・ウイリアムズは、まずそう
769/806
切り出した。
「フェイスが卒業して、いずれティフ
ァニーも卒業していなくなるのは、こ
の学校にとって、大きな損失だって思
ってるのよ。さっき、そのことをティ
ファニーと話したの。彼女は、大学卒
業後、この学校にカウンセラーとして
戻ってくれると約束してくれたわ。そ
こで、あなたにもお願いがあるんだけ
ど‥‥」
「座って聞きましょ、フェイス」
ティフが言った。
「あなたもきっと、驚くわ」
僕がふたたび腰掛けると、ミセス・
ウイリアムズは、ひとつ咳払いしたあ
と、あらたまった口調でつづけた。
「じつはもう、理事会にも提案して、
合意を得ているのですが、将来的に、
私の仕事を補佐してくれる役職を設け
ることにしました。毎日起こるさまざ
770/806
まな問題を処理し、生徒たちに最適な
手をさしのべるには、私だけではもう
手いっぱいです。ところが、教育と更
正を両立させるというこの学校に対す
る社会の要請は、ますます高まってき
ています。その期待に応えるためにも、
生徒たちの毎日の生活に目配せした施
策を、今まで以上に充実させていかな
ければなりません。生活指導と学科教
育の両面に渡ってそれを成し遂げるに
は、どうしても有能な人材が必要です。
今も言ったように、ティファニーは、
大学卒業後、ここでカンセラーの職に
就くことをめざしてくれるそうです。
でも、まだ足りません。私を補佐し、
学校全体を見てくれる副管理者、こと
に、あなた方ふたりがこの間つくりあ
げてきた生徒たちの自助の精神を育
て、発展させることができる副管理者
を置きたいと考えています。まだ今の
771/806
段階では、明確な答えは出せないかも
しれないけれど、フェイス、私は、ぜ
ひあなたにその仕事をやってもらいた
いと思っているんです」
「どう、フェイス? あたしとあなた、
姉妹そろって、世の中のために働ける
のよ」
ティフが、目を輝かせながら言った。
その瞬間に、僕の将来は決まった。
僕は、世界的にも高名な大学に入り、
教養課程を修めるだけでなく、修士課
程として私立学校の経営管理学を学ぶ
ことになるだろう。
卒業後は、高収入が保障された、ま
さに僕向きの仕事に就くのだ。しかも、
なによりすてきなのは、これまで出会
ったうちで最も賢く、最も気心の知れ
た友人と働けるのだ。お互いに願望や
夢を共有できる仲間と仕事ができるな
772/806
んて、こんなすばらしいことはないだ
ろう。
ただ、大学に入る前に、僕にはどう
してもしておかなければならないこと
があった。
グレート・インディアン校の卒業式
が近づいたある日、僕は、ロブに頼ん
で、以前通っていた学校まで車で連れ
て行ってもらった。
学校に着くと、まっすぐ職員室に向
かい、校長との面会を申し込んだ。
「以前、あたしがおかけしたご迷惑の
数々をお詫びしたくて、まいりました」
校長室に通された僕は、まず、そう
話した。
「あの頃のあたしは、本当に、なにも
わかっていなかったんです」
「いや、私も今、よくわかっていない
のですが‥‥」
773/806
校長は、取り次いでくれた人が書い
たらしい机の上のメモを見ながら礼儀
正しい微笑を向けてきた。
「ここの在校生だったということです
が、どうしても思い出せないんですよ、
ミス・ジョーダン」
「どうか、フェイスと呼んでください、
トーングル先生」
僕は、校長の驚きを少しでも和らげ
ようと、そう言ってから一拍おいた。
そして、ニッコリと笑ってつづけた。
「でも、先生がご存じのあたしは、フ
ランク・ジョーダンといいました。あ
の、理科室放火事件の」
僕はこれまで、誰かがこれほど速く
瞬きを繰り返すのを見たことがない。
ミスター・トーングルが、僕の正体に
気がついたことが、それでわかった。
ただ、彼の名誉のために言っておけば、
彼は、表面上、プロの教育者としての
774/806
冷静さを保っていた。
「見るところ、君の人生には、少なか
らぬ変化があったようだね」
彼は、やっと笑顔になるとそう言っ
た。
「ふむ、どうやら、この学校にいた時
より、幸せになったことはまちがいな
いようだ」
「ええ、ここにいた時は、本当にどう
しようもない人間だったと思います。
ご存じのように、あたしはグレート・
インディアン・リバー・ラーニング・
センターに送られました。あたしにと
っては、それがよかったんだと思いま
す。よろしかったら、これをご覧にな
ってください」
僕はそう言って、バッグの中から、
成績表と大学の合格通知を取り出し
た。
「おめでとう。この成績もすばらしい
775/806
が、君はきっと、これ以上にすばらし
いものを前から持っていたんだろう。
君がここにいるうちに、それに気づい
てあけられればよかったと思うよ」
僕らはそれから、1時間近く談笑し
た。成績のこと、ガールセンターで僕
らが組織した個人教師プログラムのこ
と、僕が受けることになった奨学金制
度のこと‥‥。
「大学を出たあと、いい仕事に就ける
といいね。就職活動は大変だろうが、
初志を貫き通してほしい。君なら、か
ならずできるはずだ」
そんな言葉に、僕は言わずにいられ
なかった。
「じつは、もう決まってるんです。修
士過程を終えたら、グレート・インデ
ィアン校の副管理者として迎えてもら
えるって」
「君の果たした変身を一目見ただけで、
776/806
その仕事にぴったりなのがよくわかる
よ、フェイス」
立ち上がったミスター・トーングル
は、そう言って握手を求めてきた。
「君自身が生徒たちのすばらしい見本
となるわけだ。たいていの学校では、
管理者は引退した教師がなっている。
すでに情熱も枯れて、抜け殻になった
ようなね。でも、本来は、君のような
生徒たちに近い存在が必要だ。生徒た
ちの気持ちがよくわかっている君な
ら、必ずいい学校がつくれるはずだ。
もし、私に協力できることがあれば、
いつでも電話してくれたまえ」
ミスター・トーングルは、僕を学校
の玄関まで送ってくれた。
そこで待っていたロブを、僕は彼に
紹介した。
ロブは、かつて僕を追放したはずの
校長と僕がまるで古くからの友人のよ
777/806
うに話しているのに、ちょっと不思議
そうな顔をした。
ミスター・トーングルは、それに笑
って応え、こんなにすてきな恋人を持
ったのだから、大切にするようにと言
った。
たしかに、校長先生と仲よく話すな
んて、かつての僕なら考えられないこ
とだ。でも、これが初めてのことじゃ
ない。僕はすでに、グレート・インデ
ィアンでも同じ経験をしていた。自分
ながら、人間というのは変われば変わ
るものだと思う。
大学へ入った僕は、教養課程および
教育経営学の修士課程を、きっちり4
年で修了した。大学生活を楽しんでの
んびり過ごしていれば、たぶん5年か
かったのだろうが、そうはいかない事
情があった。年下の競争相手に追い上
778/806
げられていたのだ。
そう、ご想像通り、わが愛しの妹、
ティフだ。僕の翌年、グレート・イン
ディアン校を卒業したティフは、僕を
追うように同じ大学に入ってきた。そ
して、一年前の姉同様、学年一の成績
で優等表彰を受けて教養課程を終え、
心理学の修士課程へと進級した。
ただし、総合点では、僕の方が1ポ
イントだけ勝っていた。この点だけは、
一生、ティフに忘れさせないつもりだ。
もちろん、だからといって、2年で高
校を終え、4年で大学を終えた女の子
の実績に傷がつくものではない。
もし、叶わないと思っていた願いが
すべて叶ってしまったら、あなたなら
どうする?
あとはもう、世界一ハンサムで、世
界一やさしくて、世界一セクシーな男
779/806
と結婚するしかないだろう。
じつは、大学に入学する前の夏休み、
僕はすでに最終的な手術を受けてい
た。術後は死ぬほど痛い思いもしたけ
れど、この痛みが、やがてはすてきな
夫との愛の交歓に取って代わるのだと
思えば、平気で耐えられた。
僕らが結婚したのは、ロブが大学の
修士課程を終え、原子力発電所設計の
仕事に就いて間もなくだった‥‥と、
こう書くと、僕が大学を出てすぐ結婚
したように聞こえるかもしれないが、
じつはそうじゃない。僕もできるかぎ
りの援助はしたのだけれど、ロブは修
士をとるのに5年半かかってしまった
のだ。
いや、彼が頭が悪かったわけじゃな
い。彼が選んだ、原子物理学という学
問が難しすぎるのだ。
780/806
結婚式は待たされたというものの、
それは、将来にわたって僕を大事にす
るためにも、確固としたものを持ちた
いという、ロブの気持ちの表れだった。
もちろん、花嫁の付き添いはホリー
に頼んだ。そして、ジルとティフも、
ブライドメイドとしてついてくれた。
ロブのメインの付き添いは、彼の高
校の友だちであり、ホリーのフィアン
セでもあるジャック。他に、ロブの高
校時代の野球部の同僚、マイクと、そ
の弟のマーティーも付き添いになっ
た。じつは、このふたりも、いずれは
ジルとティフの夫になりそうだ。マイ
クは、例のスヌーピー・ツインズのデ
ビュー戦の時からずっとジルとつき合
っているし、その1年後に、弟とティ
フを引き合わせたというわけだ。
781/806
この日のために、ママは雪のように
白いランジェリー買ってくれた。その
ランジェリーが肌をすべる感触は、本
当に心地よい。レースのパンティは、
柔らかな毛に包まれた僕のかわいい割
れ目をぴったりと覆い、長年がまんし
てきた新郎へのそのごほうびを、まる
で額縁にでもはめるように、ガーター
ベルトが囲んでいた。
手に持ってもかすかな重みも感じな
いほど薄いそのストッキングは、はい
てみると、官能的に脚の肌に張りつい
た。
時間の浪費だと思えるほど着付けに
手間がかかるからこそ、これらの衣装
は、こんなに美しいのだろう。そして、
けっきょくはあとで、ロブに脱がされ
るのだと思うからこそ、こんなにワク
ワクするのだろう。
形のよいふたつの胸がサテン地のブ
782/806
ラカップの中に固定されるのを見つめ
ながら、僕は、女性ホルモンを摂りは
じめた頃さんざん苦しめられた吐き気
や情緒不安定さえ、懐かしい思い出と
してふり返っていた。僕の胸は今、や
わらかく弾力があり、ことが終わった
あと、身をあずけてきたロブの頬をや
さしく包むだろう。
豊胸手術をすることもできたのだ
が、僕は、ホルモンだけでゆっくと自
分の胸を育ててきた。その結果、今、
36インチCカップの胸を持っている。
もしかしたら、豊胸ならもっと大きく
できたかもしれないけれど、僕は、新
妻として、大事な人に「ホームメイド」
のものを食べてほしいのだ。‥‥わか
るでしょ?
ホリーとティフは、ペチコートをは
くのを手伝ってくれ、きれいに形を整
えてくれた。僕の選んだウェディング
783/806
ドレスは、裾が長くスカートのボリュ
ームのあるものだったから、細いウエ
ストから大きくふくらんだペチコート
が必要だった。
「ちっちゃい頃のこと、思い出しちゃ
うわ」
ほほ笑みながらティフが言った。
「パーティドレスを着てくるくるまわ
ると、広がったスカートの下から、ペ
チコートがのぞくのよ。もう、あんな
ことできないと思うと、ちょっとさみ
しいな。あたしの結婚式も、こんなウ
エディングドレスにしよ。そしたらま
た、こんなペチコートが履けるもんね」
白いサテンにレースがいっぱいのそ
のウエディングドレスを着ると、ジル
がジッパーを上げ、ボタンをとめてく
れた。
僕は、鏡の中の魅惑的な女性から目
が離せなくなっていた。
784/806
完璧なヘアスタイル、透き通るよう
に白い肌、キスを待ちわびる唇、そし
て、愛する人にかき抱かれ、愛撫され
る準備がすべて整った体。
その愛らしい姿に、僕自身、かつて
自分が男だったとは思えなかった。
僕にとって、かつて自分がすさんだ
問題児の男の子だったことなんて、な
んの意味もない。大事なのは、僕が変
わったということだ。
いや、肉体の変化のことだけじゃな
い。もっと僕のコアの部分にあるもの
が変わったのだ。
ガールセンターは、僕自身さえ気づ
かなかった資質に気づかせてくれ、そ
れを育ててくれた。人のことを思いや
れるいい人間になりたいという願望
や、逆に、他の人からやさしくしても
らいたいなどという気持ちが自分の中
785/806
にあるなんて、かつての僕は思っても
いなかった。
ロブは、すぐに僕のそんな資質を見
破った。ホリーも、僕の中にそれを見
つけた。もちろん、ミセス・ウイリア
ムズが見ていたのも、僕のそんな部分
なのだろう。たぶん、気がついていな
かったのは僕だけなのだ。
いや、本当のことをいえば、僕だっ
て、自分にそんなところがあるのはわ
かっていた。ただ、強い男になりたい
と思い、そのためには、自分のそんな
部分がじゃまになると感じていた。そ
して、そんなものはないのだと思いこ
もうとしていた。
僕の本質を見つめてくれて、僕の中
から、それを引き出してくれた人たち
に感謝したい。そして、僕のまわりに
そんな人たちをもたらしてくれた神様
にも、最大限の感謝を捧げたい。
786/806
もし、あんなすてきな人たちがいな
かったらと思うと、恐ろしくなる。た
ぶん今ごろ僕は、せいぜい自転車便で
小遣いを稼ぐとか、悪くすれば、もっ
といかがわしいことをしていたにちが
いない。
でも、すてきな人たちに出会えたお
かげで、僕は今、学校の副管理者とし
て、かつての僕と同じような問題児を
更正させ、まともな人間として――男
としてであれ、女としてであれ――社
会復帰させる仕事をしていられるの
だ。
へたをすれば僕は、完全な敗北者に
なっていた可能性だってある。いつま
でも親のやっかいになり、まともな大
学に入れるような成績もとれず、ちゃ
んとした人間関係さえ築けずに次々に
悪い仲間の間を渡り歩く‥‥そんな人
生だってあり得たのだ。
787/806
でも、今の僕は、一流大学の卒業生
だ。卒業の際には、主席として、大学
が与えるうちでも最高の表彰を受けて
いる。しかも今、僕は、美貌と実力を
兼ね備えたレディ。そして、女なら誰
もがあこがれるような最高の男性に身
を捧げる、幸せな花嫁だ。
これ以上を望んだら、ばちがあたる
というものだろう。
聖歌の演奏が始まるとともに、僕は
パパの腕に手をかけた。
「こんなきれいな花嫁をもらえるなん
て、やつは、なんて幸せな花婿なんだ」
祭壇に向かって歩き出すと同時に、
パパはそうささやいた。
「ママやパパと離れるのは、さみしい
わ」
僕も、そうささやき返した。
「いろんなこと、全部、ありがとう」
788/806
「べつに、そんなに遠くに嫁に行くわ
けじゃないだろ。きっと、年寄りの男
がひとり、しょっちゅう、新婚家庭を
じゃましに行くと思うよ」
パパは、なにかをこらえるように冗
談めかした。
僕は、パパの腕をぎゅっと握り、言
った。
「ママとパパの娘に生まれてよかった
って、ママにも伝えといて」
いよいよ、その時が来た。
僕らは、バージンロードの終点まで
たどり着いていた。目の前には祭壇、
そして、横にはロブがいる。
パパは、僕のベールをちょっと持ち
上げて頬にキスし、「幸せに」とつぶ
やくと、僕の手をロブの腕へと移した。
それは、あっという間に終わってし
まった。というより、たぶん、僕が呆
然としていたのだろう。
789/806
牧師の言葉が始まったところまでは
覚えている。
「フェイス・ジャアンナ・ジョーダン。
あなたは‥‥」
そのあと、なにを言われているのか
よくわからないまま、僕の頭の中で、
ずっと夢見つづけていた言葉がはじけ
た。
びくりとした僕は、なんだか背伸び
でもするような格好で愛しい人の方を
向き、その言葉を大声で言っていた。
「誓います!」
ロブの番になり、彼もまた、牧師の
言葉が終わるか終わらないうちに、僕
に笑いかけながら言った。
「誓います」
ロブが、僕の指にリングをすべらせ、
ベールを持ち上げ‥‥そして、待ちこ
がれる僕の唇に、自分の唇を重ねてき
た。
790/806
それは、本当に不思議なことだった。
その時、僕の耳に聞こえてきたウエ
ディングベルや口笛の音を、僕はもう
何年も前に聞いていた。あれは、グロ
ーブトゥロッターズの試合を見たあ
と、ロブが始めてキスしてきた時だ。
今のは、まちがいなくあの時の音だっ
た。
ロブと僕が教会の通路を戻り、外に
出て、そこに停められたリムジンのと
ころまで歩く間、僕らのまわりではず
っと、嵐のような拍手と歓声がつづい
ていた。その黄色い歓声のほとんどは、
グレート・インディアンの友人たちに
よるものだったが、僕らの家族も、け
っしてその輪からはずれてはいなかっ
た。僕のママは、手を痛めるのではな
いかと心配になるほど拍手していた
し、ロブのママは、自分の流す涙にお
791/806
ぼれそうだった。
場所を変えて行われた結婚披露パー
ティは、計画どおりすばらしいものに
なった。
グレート・インディアンの友人たち
は全員参加していたし、ロブの野球チ
ームのメンバーたちもみんな来てい
た。バスケットボールファンの参加者
を喜ばせたのは、ちょうどこの地方で
試合があったハーレム・グローブトゥ
ロッターズのメンバーが、お祝いに駆
けつけたことだ。もちろん彼らは、新
郎新婦席の前に列をつくり、花嫁のキ
スを受けようとした。自分の番が終わ
ったあと、もう一度列に並び直したメ
ンバーも含め、僕は喜んで、全員にキ
スした。
すべてが、ほぼ慣わしどおりに進ん
だ。会を始める前に参加者全員で記念
792/806
写真を撮り、新郎新婦のダンスと付き
添いも含めたダンスを披露したあとパ
ーティに移り、ロブには、おきまりの
「ケーキ・イン・ザ・フェース」(※)
もあった。
(※訳注
‘Cake in the Face’
誕生パーテ
ィや結婚パーティで、会の主役がだまされて、
ケーキに顔を突っ込まれるイベント)
もちろんそれも、予定されていたこ
とだ。すべてがプランどおりに進んで
いた。ただ、進行が、予定よりちょっ
と遅れていた。新婚旅行のハワイ便の
搭乗時刻が迫っているのだ。
そろそろ、お開きの時間だった。
「皆さん、今日はどうもありがとう」
バンドが並ぶステージに立って、ロ
ブが呼びかけた。
「愛する妻と僕は、来てくださった皆
さんに、心から感謝しています。おか
げで、今日は、僕らにとって忘れられ
793/806
ない一日になりました。フェイスと僕
は、皆さんにとっても、今日が忘れら
れない日となってくれたらうれしいと
思っています。そこで‥‥」
そこまで言って、ロブは、マイクを
僕に渡した。
「ミス・ジル・カフリーとミス・ティ
ファニー・モリソン、ちょっと、ダン
ス・フロアの真ん中まで出てくれ
る?」
僕の呼びかけに、不可解そうな顔の
ジルとティフが、それぞれのパートナ
ーを残して、フロアに出てきた。それ
に合わせて、参加者たちが場所を空け、
ふたりを取り囲んだ。
「レディス・アンド・ジェントルメン、
あたしのかけがえない友人であるふた
りのすてきな女性をご紹介します。こ
こにいる多くの方はすでにご存じでし
ょうが、彼女たちこそ、愛のかたまり。
794/806
そのあふれるほどの愛をごらんいただ
けることを、私は心からうれしく思い
ます。さあ、ご紹介しましょう。スヌ
ーピー・ツインズ!」
その言葉の途中で、ロブはバンドの
方を向いた。
「例のやつ、頼むよ」
合図とともにバンドが演奏し始めた
のは、
「ライナス・アンド・ルーシー」
だ。
あっけにとられていたジルとティフ
は、僕の方を向いてニッコリ笑うと、
例のダンスを始めた。
数分うちには、そこに、僕が加わり、
ロブが加わり、ホリーが加わって、や
がて、ダンスフロアー全体が、熱狂的
に踊り出した。
そんな盛り上がりの中、僕らは、こ
のパーティが参加者全員にとって忘れ
られないものになったことを確信し
795/806
て、空港へと向かった。
ホテルの部屋で、ロブは、ウエディ
ングドレスのジッパーをやさしく下ろ
し、僕がドレスとペチコートを脱ぐの
を手伝った。
「こんな時が来るのを、ずっと待って
たんだ」
僕がウエディングドレスをハンガー
に掛けながら、ちょっとお尻を振って
みせたのを見て、ロブは口笛を吹きな
がら言った。
「これからずっと、君を見ていられる
んだね」
近寄ったロブは、僕を振り向かせ、
抱きしめキスしてくれた。
「あたしだって、待ち遠しかったわ」
僕は、そう言いながら、ロブのズボ
ンのベルトをはずし、ジッパーを下ろ
した。
796/806
「だからもう、1秒だって待つのはい
や。キスしたままベッドにつれてって」
それに対してロブもなにか言った
が、すでにお互いの唇を強く押し付け
合い、舌をからめている状態では、よ
くわからなかった。でも、下に落ちた
ズボンから足を抜いたロブが、僕の背
中にまわした手でブラのホックをはず
そうとしていることで、その思いはじ
ゅうぶんに伝わってきた。
彼がそれに苦労しているようだった
ので、僕の方がそれとなくベッドまで
誘導し、ブラのホックがはずれたとこ
ろで、ロブの体をそっと押してベッド
に仰向けに倒した。そして僕は、その
体の上に身を投げ出した。
それから20秒のうちに、僕らは残っ
た衣類をはぎ取りながら、お互いの体
をまさぐり合った。
全身の肌をえもいわれぬ感覚が走っ
797/806
たあと、僕の脳裏に、例のベルと口笛
の音がよみがえり、つづけて、何発も
の花火がうち上がった。
ロブはうめくような声を上げ、僕は、
怒張して硬くなった彼のものが股の間
で動くのを感じた。そして、その鼓動
が、僕の中に入ってきた。
ベルや口笛の音はさらに高鳴り、打
ち上げ花火がつづけざまに開いた。
言うまでもなくそれは、僕がこれま
で生きてきたうちで、最高の出来事だ
った。
ロブは、僕の体を操る達人だった。
ロブによって僕は、何度も何度も、こ
れまで経験したことのない高みまで連
れて行かれた。
僕の夫が、僕を喜ばせる言葉の使い
手であることは、もちろん前から知っ
ていた。でも、その舌に、他にもこん
なにたくさんの使い道があり、こんな
798/806
にすてきな思いにさせてくれるワザが
あったなんて知らなかった。僕は、そ
の悦びに、ただただ酔いしれた。
もちろん僕だって、これまで、そん
な性の技法に無関心だったわけじゃな
い。
その手の小説はけっこう読んでいる
し、カナダの放送局制作の、ずばりそ
の名のとおり「サンデー・ナイト・セ
ックス・トーク」という番組が好きで
よく見ている。司会の、ちょっと頭の
空っぽそうなお姉さんも大好きだ。
でも、社会に出るまでずっと女子寮
生活を送っていた僕には、あの番組で
話される内容がすべて理解できていた
わけではない。まあ、要するに、ひと
りでするのでは、実感にも限界がある
ということだ。
ただ、基本的に勉強家の優等生であ
799/806
る僕は、結婚したあとのことも考え、
あの番組の出演者たちが指し示した要
点について、ちゃんと整理してある。
やっぱり、あのメモが役立った。
ロブは今、強烈に天井を指し示して
いた。
次の朝、あの番組で勉強した方法で
ロブを起こそうと考えた僕は、毛布の
下に潜り込み、ロブのものを口に含ん
だ。
すると、とたんにそれは、岩のよう
に硬くそびえ立ったのだ。
少しして、体をびくりと震わせなが
ら目を覚ましたロブは、あわてて僕の
体を起こそうとした。でも僕は、それ
を拒否し、大好きな人のものをくわえ
つづけた。
たとえその人本人にだって、せっか
くの実験をじゃまされたくはない。
800/806
数秒後、僕の口の中に、温かくて濃
い液体が、強烈なリズムとともに吹き
出してきた。それがすべて終わるのを
待って、ロブのものを唇できれいにぬ
ぐい取ってから、僕は口の中のものを
をごくんと呑み込んだ。
「ふふふ、実験成功!」
毛布から顔を出し、僕はニッコリ笑
って言った。
「やっぱり、パイナップル味だったわ。
次は、チェリーを試しましょうね」
ロブは、あきれたように首を振り言
った。
「そうか、それでゆうべ、僕にあんな
にパイナップルを食べさせたんだな」
「ねえ、朝食を頼まない? なにかシ
リアルと、それに、あなたはバナナ?」
僕は、話を変えて言った。
「それがいやなら、アップル風味のベ
ーグルっていうのも、メニューにあっ
801/806
たわよ」
ロブはけっきょく、ルームサービス
に、バナナとアップル・ジャック・シ
リアル(※)を頼み、さらに、チェリー
をひと皿注文した。
(※注釈
‘Apple Jack’はアメリカでよく食
べられるリング状のシリアルのブランド
べつ
にリンゴ味というわけではない)
「ふふ、バナナとアップルだけじゃた
りなくて、けっきょくチェリーもほし
いのね」(※)
僕は、ベッドに戻ってきたロブに言
った。
「えっ? なんだ、さっきチェリーっ
て言ったのは、そのチェリーじゃない
のか? もしかして、ここにある、こ
れのこと?」
そう、僕は悪い子だ。僕が言ったの
はもちろん、今、ロブが手を置いたそ
れのことだ。
802/806
ロブの舌が、ふたたびそのチェリー
を食べたとき、僕は、至福の悦びにう
ち震えた。あー‥‥愛してる。
(※訳注
言うまでもなく‘banana’も‘cherr
y’も‘apple’も男女の性器や乳房を表す隠語
フェイスは、朝食の話のように見せかけて、
けっきょくはねだっていたわけだ)
でも、僕が基本的に無知だというの
がよくわかったこともある。
おっぱいというのは、赤ちゃんに授
乳するためと、男たちの気を引くため
に使うものだと思っていたのだが、そ
れは認識不足だったようだ。たとえ寝
ている時でも、セクシーな男に吸われ
ると、乳首は、まるでそれ自体が意識
を持っているかのように立ち上がり、
応えている。僕はそれに、文字通り目
を覚まされた。
そうそう、バナナやチェリーだけで
803/806
なく、柑橘系の果物のおいしさをも、
僕らは存分に楽しんだ。ふたり同時に、
お互いの果汁をすすり合い、その味に
体を震わせたりもしたのだ。
2週間の新婚旅行中、僕らはハワイ
のすべての島の観光スポットをまわ
り、あのテレビ番組で紹介されていた
よりさらに多くの体位を試した。
僕らは今、グレート・インディアン
校から10マイル(約16キロ)ほど離れた
場所に住んでいる。
僕は仕事に打ち込み、ミセス・ウイ
リアムズも、その仕事ぶりを喜んでく
れている。
生徒たちはみんな、小さな体に愛を
あふれさせた新任カウンセラー、ティ
フが大好きだ。
ロブの職場も近くて高給。経済的に
も時間的にも余裕ある僕ら夫婦は、近
804/806
いうちに、赤ちゃんを養子にもらおう
と考えている。
ロブも僕も、できれば、かわいい服
がいっぱい着せられる女の子の方がい
いと思っているが、べつに男の子でも
かまわない。
ティフやジルを見ていると、男の子
とペチコートという取り合わせも、ス
ープにサンドイッチを合わせるという
くらいのちぐはぐさでしかない気がす
る。というか、チェリーとバナナか?
とはいえ、そんなに軽々しく決めて
しまってはいけないことだろう。
最終的には、わが家は男の子と女の
子ふたりの養子を迎えることになるの
かもしれない。
いずれにせよ、うちの子たちは、わ
がままな甘えん坊になりそうだ。
なにしろ、親ふたりに加え、4人の
祖父母、ホリー叔母さん、そして、ス
805/806
ヌーピー・ツインズと呼ばれる2人の
女性の愛を、一身に受けて育つのだか
ら。
CopyRight(C)2003 by Karen Elizabeth L.
Based on the text FictionMania
Translated by Rino Maebashi
この『ガール・センター
~ フェイスの冒険 ~』は、
カレン・エリザベス・Lさんのオンライン小説“GIRL C
enter
- A Leap of Faith”を、前橋梨乃が日本語訳し
たものです。原作著作権はカレン・エリザベス・Lさん
が、翻訳著作権は前橋が保持します。個人で楽しむ以外、
無断でのコピーを禁止します。
806/806