ガールセンター ~フェイスの冒険~ GIRL Center - A Leap of Faith カレン・エリザベス・L 作 前橋梨乃 訳 ハリーと僕は、まるで兄弟のように 育った無二の親友だ。 小さい頃からいつもいっしょに遊ん でいたし、学校へ通うのもいっしょだ った。もちろん、たいていの男の子同 様、ふたりで「悪さ」もした。 ただ、僕らの場合、ちょっと度が過 ぎたようだ。僕らにしてみれば、単な るいたずらに過ぎなかったのだが、親 や教師、それに世間の大人たちは、そ うは見てくれなかった。 最初、他愛ないピンポンダッシュや いたずら電話だったものが、そのうち、 万引きとかに発展していったのもたし かだ。でも、それにしたって、そんな に高価な物を盗ったわけじゃない。せ いぜい、お菓子とか雑誌とか、その程 度だった。でも、親や大人たちの基準 では、それは、まぎれもない「非行」 1/806 だったのだろう。 ことにハリーの「悪さ」はますます 度を超していき、母親をひどく悩ませ ることになった。 あれは、僕らが8年生になったばか りの頃(※)だ。 (※訳注 アメリカの初等教育の制度は州や地 域によってちがうので何とも言えないが、後の ストーリーから考えると13歳になって間もなく だと思われる) 学校をサボったハリーは、近所にジ ャガーが停まっているのを見つけ、こ れをちょっと借りてドライブしたら楽 しいだろうと考えた。 僕だって、もしその場にいたなら、 たぶんノッていただろう。車を――そ れもジャガーを――運転できるチャン スなんて、そうそうあるもんじゃない。 でも残念ながら、その日僕は、インフ 2/806 ルエンザにかかって家で寝ていた。だ から、そんな面白そうなことに参加で きなかったわけだ。 たしかに、それは面白かったにちが いない。でも、時速70マイル(約110キ ロ)を超えた時点で、急ハンドルとと もに、その面白さは大きく横すべりし た。そして、その暴走車を追っていた パトカーの警官たちは、それをけっし て面白いことだとは考えてくれなかっ た。さらに言えば、彼らはフェンスに ぶつかって数千ドルの被害をこうむっ たジャガーの所有者でもなかった。だ から、示談ですませてくれるようなこ ともなく、ハリーは、その場で現行犯 逮捕されてしまったのだ。 すぐさま地方裁判所に送致されたハ リーは、そこで非行歴を調べられ、そ の結果、2年間の更正教育という判決 を下された。そして、グレート・イン 3/806 ディアン・リバー・ラーニング・セン ター(Great Indian River Learning C enter)という更正施設を兼ねた寄宿学 校に送られてしまったのだ。 それからしばらくすると、僕のもと に、そのグレート・インディアン・リ バーからひんぱんに手紙が届くように なった。もちろん、ハリーからだ。 その手紙で、ハリーは、この学校の 名前は、収容生にとって悪い冗談みた いなものだとさかんに書いていた。僕 には何のことかよくわからなかったの だが、どうやら、やつはこの学校でひ どい目に遭っているらしかった。それ についても詳しく書いてあったわけで はないが、何度も、ここから救い出し てほしいと言ってきた。 一度など、もうこれ以上我慢できな いから、本気で脱走するつもりだと書 4/806 いてきた。それで僕は、手助けしたい のはやまやまだけれど僕では何の力に もなれないと、わびの手紙を返さなけ ればならなかった。 すると、そのあと3ヵ月ほど、ハリ ーからの便りがぱたりと途絶えた。そ れで僕は、もしかしたらやつは、首尾 よく脱走できたのかもしれないと思っ た。 ところが、実際は逆だったようだ。 脱走に失敗して連れ戻され、罰として、 外部との接触を絶たれたということら しい。 3ヵ月後に届いた手紙で、やつは、 やっとその懲罰期間が終わったと嬉し そうに知らせてきた。しかし、それだ けではなかった。その文面は、前と比 べるとずいぶん穏やかな感じになって いた。学校への不平が、いっさいなく なっているのだ。 5/806 その手紙によると、ハリーは、最近 成績が上がったという。それに、ガー ルフレンドができたとも書いてあっ た。どうやら、そのガールフレンドと やらが、学校になじめるようにあれこ れ世話をやいてくれていて、その結果、 やつは、自分の置かれた環境が前ほど いやだと感じなくなったということら しかった。 それ以降、ハリーの手紙の文面から は、次第に、グレート・インディアン ・リバーにいることが幸せだという感 じが伝わってくるようになった。その くせ僕には、こんな学校に送られるよ うな悪いことはするなと、さかんに書 いてくる。 僕には、ハリーがそんなふうに僕の ことを心配し、警告してくる真意がさ っぱりわからなかった。だいいち、そ 6/806 の学校がひどいところだというなら、 判決で言い渡された期間が過ぎたとい うのに、そこにとどまりつづけている 理由が説明できないじゃないか。 そうなのだ。すでにハリーのグレー ト・インディアン・リバーでの生活は 3年目に入っていた。その上どうやら、 卒業までそこで学びつづける決心をし たらしかった。 ハリーがそこに送られるまで、僕ら は最高の友達だった。でも、2年もた つと、そんな記憶がだんだんと薄れて くる。これ以上離れていたらいよいよ 疎遠になっていく気がして、僕はなん だかさみしかった。 いや、それ以上に腹も立った。 悪いことをするな‥‥だって? え らそうに。 それが、盗んだジャガーを時速75マ イルで飛ばした末、ぶっ壊したやつの 7/806 言うことか? もし、兄弟のように感じているハリ ーでなかったら、とうの昔に、こっち から縁を切っているところだ。 母さんから、ハリーの母親が再婚す るというニュースを聞かされたのは、 ちょうどその頃だった。 夫に先立たれ独り身だったハリーの 母親は、転校した一人息子を追うよう にグレート・インディアン・リバーの 近くに引っ越していた。そして、そこ で再婚相手を見つけたらしい。わが家 にも、その結婚式の招待状が届いたの だ。それで母さんは、僕にもいっしょ に行こうと誘ってきた。 ふつうなら、誰のであろうと、結婚 式なんて出る気はない。そんなものは、 ペンキが乾くのを見ているより退屈だ ろう。でも、ハリーも出席するはずだ 8/806 と聞き、俄然、行く気になった。 教会での式は、思ったとおり退屈だ った。母さんをはじめ、女の人たちは 泣いていたけれど、男たちはみんな、 あくびをかみ殺していた。 僕も居眠りしそうになったのだが、 花嫁とともに入ってきたブライドメイ ドのひとりを見たとたん、目が冴えた。 その赤毛の女の子は、びっくりするほ どかわいかった。しかも、見つめる僕 の視線に気づいたようで、ほほえみ返 してくれた。 僕らの席から彼女のいるところまで は距離があり、はっきりとはわからな かったが、なんだか彼女は、僕に気が あるようにさえ思えた。僕がもう一度 見返すと、さらにうれしそうな笑顔が 返ってきたのだ。 式が終わりに近づき、彼女は、退場 9/806 する新郎新婦に付き添って通路を歩い てきた。そして、僕の席のそばを通る ときには、はっきりとこちらに目を向 け、笑いかけてきた。 僕は、彼女と話すために、早くパー ティ会場に行きたかった。 新郎新婦やその付き添いは、控え室 からなかなか出てこなかった。それで 僕は、会場のあちこちを歩きまわり、 ハリーの姿を探した。でも、どこにも 見あたらない。 新婦の息子なのだから、付き添いの ひとりに選ばれている可能性はある が、さっき教会の通路を行く中に、ハ リーはいなかったはずだ。僕は、首を かしげるしかなかった。母親の結婚式 に来て、パーティに出ないなどという ことがあるのだろうか? しばらくして、やっと新郎新婦の一 10/806 行が入ってきた。もちろん、その中に は例の彼女もいた。その姿を見つけ、 僕は、彼女こそ理想の女の子だという 気がした。教会の時より近くで見て、 そのかわいさに、ますます惹かれた。 つややかな長い髪も、抜群のスタイル も、そして、あいかわらず僕に投げか けてくるその笑顔も、信じられないく らいすてきだった。 さっそく話しかけようと近づいてい くと、彼女の方から、まず列席者に挨 拶してまわらなければいけないとわび てきた。 「あとで、ね」 心地よく響く声でそう言うと、彼女 は、パーティの人垣の間を巡りはじめ た。 僕は、その姿を目で追っていた。顔 はもちろんだが、その後ろ姿も本当に かわいい。 11/806 しばらくぼーっとしていた後、やっ と、ここに来た本来の目的を思い出し た僕は、また、ハリーを探して会場内 をまわった。 途中、ウエディングドレス姿のハリ ーの母親に出くわした。彼女の新しい 夫が、友人に新婦を紹介するすきをみ つけ、僕は、ハリーのことをきいてみ た。すると、彼女は笑顔でこう言った。 「あら? さっきからずっと、その辺 にいるはずよ」 その言葉に、僕はきょろきょろ見ま わしたのだが、やはり、その姿はどこ にも見あたらない。 「誰か、探してるの?」 突然、背後から、声がした。 振り向くと、例の女の子だった。僕 の心は、たちまち浮き立った。 その瞬間、もう、ハリーのことはど うでもよくなっていた。こんなかわい 12/806 い女の子に見つめられては、他のこと なんて考えてる余裕はないだろう。で も、せっかくの会話をつづけたいと思 い、取り繕うように言った。 「あ、ああ。友だちが来てるはずなん だ。なにしろ、2年ぶりだからな」 「それは、すてきだわ」 彼女はまた、魅力的な笑顔を輝かせ ながらそう口にした。 「じゃあ、どうしても会わなきゃね」 「ああ。子供の頃からずっと仲のいい 親友なんだ。でも、見つからなくて‥ ‥。やつだって、会いたがってるはず なんだけどな」 僕はそう言って、肩をすくめてみせ た。 そのあと、手近な椅子に座って彼女 とおしゃべりするうち、僕は完全に恋 に落ちた。 13/806 ホリー(※)と名乗ったその新しい友 人は、男にとって、まさに理想的な彼 女だといえた。かわいくて美人で、そ の上、僕が語るハリー(※)との思い出 話を、興味津々という感じで楽しそう に聞いてくれるのだ。 (※訳注 ‘Holly’,‘Harry’ ‘l’と‘r’の 区別が明確なアメリカ人にとって、カタカナ表 記ほど似ているわけではないので、気づかない 主人公を馬鹿にしてはいけない) 頃を見計らって、いよいよ電話番号 を聞き出そうとした時、ちょうどダン スタイムが始まり、まずは新郎新婦の ダンスが披露された。 彼女がふたりのダンスに熱心に見入 っているので、僕は、はやる気持ちを 抑えた。こんな時、相手を無視してガ ツガツするようでは、男としていいポ イントは得られないだろう。 そのダンスが終わり、ビンクラー夫 14/806 妻があらためて紹介されると、彼女は お祝いの言葉とともに大きな拍手を贈 り、僕はまた、おとなしくそんな彼女 の横顔ばかり見ていた。 と、そこで司会者が、それぞれの付 き添いの中心となった新郎新婦の友人 たちを紹介した。次は付き添いをふく めたダンスという段取りらしい。さら にもう一組、ビンクラー氏の子供たち も踊りに参加するようだ。 そのカップルが呼ばれたところで、 僕は、あんぐりと口を開けた。 ロバート・ビンクラーと‥‥ホリー ・ビンクラー? 司会の紹介に、にっこりと席を立っ た彼女の後ろ姿を、僕はまるで、その かわいいお尻に催眠術をかけられたよ うに見送った。 つい今しがたまでおしゃべりし、恋 に落ちたあの少女は、つまりは、ハリ 15/806 ーの義理の妹だったわけだ。そんなこ と、なにも言ってなかったのに‥‥。 パートナーである兄のリードにみご とに合わせて踊る彼女の姿は、まるで、 ダンスが生まれついての天分だといわ んばかりの優雅さだった。 兄と談笑して踊りながらも、彼女は 時たま僕の方に目を走らせ、笑いかけ てきた。その笑顔と目が合うごとに、 僕の心はさらに浮き立ち、幸せな気分 になった。彼女には、僕がこれまで知 り合った誰よりも、僕を惹きつけるな にかがあった。 「ねえ、さっき僕がハリーの話をした とき、どうして義理の兄貴だって言っ てくれなかったんだ?」 踊り終わって戻ってきた彼女に、僕 はすぐさまきいた。 「うふ、そんなことより」 彼女は、そう言ってにっこり笑うと、 16/806 僕の手をとった。 「踊りましょ!」 彼女が踊る姿を見ているだけで夢心 地だったのに、自分の腕に抱いて踊れ るなんて、もう、この世の天国だ。 彼女は、そのパーティドレスが驚く ほど似合っていた。白い薄手の手袋と ともに、上半身はぴったりと体の線に 沿い、大きく開いたネックラインから は、魅力的な乳房の上の部分が顔をの ぞかせている。それは僕を、全身で興 奮させた。 僕らはあきらかに、他の人々からお 似合いのカップルだと見られているよ うだった。僕の母さんや親父も、それ に、ホリーの家族たちも、僕らが踊る 姿をほほ笑ましそうに見ていた。僕は、 そんな視線に照れながらも笑い返し、 ちょっと誇らしいような気分になっ た。 17/806 僕らは、バンドが演奏するあらゆる 曲をふたりで踊り通した。スローな曲 も、アップテンポな曲も、それに、ガ キっぽい曲やオジンくさい曲も。ほん とのことを言えば、僕はこんなかった るい音楽は嫌いだし、これまでこんな 曲でダンスしようなどと思ったことは ない。でも、パーティドレスの裾から 伸びるホリーの魅力的な脚は、そんな ことを忘れさせるだけの価値があっ た。 要するに、ホリーといっしょにする のなら、どんなことだって、いやだと は感じないのだ。 パーティが終わったところで、僕は やっと、彼女の電話番号をきいた。 すると彼女は、ほほ笑みながら僕の ほおにキスし、長距離電話はゆっくり 話せないし、よかったら手紙を書きた 18/806 いと言った。 「住所は、ハリーが知ってるでしょ。 あたしの住所は、その手紙に書いてお くから」 将来結婚したいとまで感じる女の子 から届く、初めての手紙を待つのもい いかと思い、僕はうなずいた。まあ、 ハリーが義理の兄貴になるというの は、ちょっと気に入らないが。 ところが、それから何週間待っても、 ホリーからの手紙は来なかった。 あの結婚式では、お互いマジだった はずなのに、なにが起きたのだろうと、 僕はちょっと不安になった。 彼女だって、僕に惹かれていたのは まちがいない。たぶん、彼女は今、何 かしなければいけないことがあって、 手紙を書く暇もないのだろうと、僕は むりやり自分を納得させた。 19/806 もちろん、僕にだってしなければな らないことはある。このところ、ホリ ーのことばかり考えていて、悪さする のをすっかり怠けていたのだ。僕のい たずら心が、また、むずむずとうずき はじめた。 ある夜、学校の理科室に忍び込んだ 僕は、そこに発煙筒を仕掛け、おまけ に出入り口のドアを強力な接着剤で固 めてしまった。 煙を見て駆けつけた町の消防隊が、 中に入れなくておたおたする姿や、苦 労して入ったあげく、火元が小さな発 煙筒だったことを発見して腹を立てる 姿を見て、笑おうと思ったのだ。 ところが、ことは僕の考えどおりに は進まなかった。 発煙筒から出た火花が、近くにあっ た紙に引火し、燃える紙は実験テーブ 20/806 ルに引火し、理科室全体が燃えだした のだ。 やって来た消防隊は、中に入って消 化するために、ドアを斧で壊さなけれ ばならなかった。 僕は、集まりだした野次馬の人垣か らこっそり抜け出そうとした。しかし、 そこで誰かが叫んだ。 「放火犯はあいつだ。さっき、あいつ が学校を出てくるのを見たんだ」 群衆の中をすり抜ける前に、僕の腕 は警官に捕まれ、手首には手錠がかけ られていた。そして、パトカーに押し 込まれた。 僕は、罰せられずにはすまないこと を覚悟した。たとえ、今ここで暴れて 逃げ出せたとしても、その瞬間に、僕 の命はないだろう。 両親は、減刑嘆願さえしてくれなか 21/806 った。 「フランク、お前は、男としての責任 をとらなければならない」 親父は、そう言い放った。 「判事に、厳格な判決をお願いした」 そして、その判事も、僕の反省と改 悛の言葉を信じてはくれなかった。あ の発煙筒による被害は、最終的に5万 ドル以上に及び、僕にはそれに見合っ た罰が与えられるべきだと述べたあ と、こう言った。 「これまでの非行歴も考え合わせれば、 君のご両親は、君を市民社会にとって 有益な人間に育てることに失敗したと 言わざるを得ない」 判事は、僕をにらみつけながらつづ けた。 「このまま放置すれば、近い将来、君 は、君自身を傷つけるか、そうでなけ れば他人を傷つけることになるだろ 22/806 う。社会の人々は、君が厳罰に処せら れ、今、君自身が傷ついてくれた方が 安心できるのかもしれない。しかし、 私はそれをよしとしない。学校当局や 警察、そして君のご両親と検討した結 果、君を、2年の間、グレート・イン ディアン・リバー・ラーニング・セン ターに送ることとする。そこで過ごす ことで、数年後、君がまったくちがう 人間になっている可能性を信じたい」 判事と両親は、僕が打ちひしがれ、 許しを請うとでも思ったのだろうか。 どうやら彼らは、グレート・インディ アン・リバーに、大親友のハリーがい ることを知らないらしい。 それなら、なにも言わない方がいい だろう。 僕は内心ほくそ笑みながら、しおら しくうなずき、恐ろしい罪を言い渡さ れてしょげているふりをした。 23/806 「きっと、お前にとっては、つらい毎 日になるだろう」 グレート・インディアン・リバーへ 向かう車を運転しながら、親父が言っ た。 「言っておくが、母さんも私も、けっ してこれを喜んでるわけじゃない。し かし、こうするしかなかったんだ。た ぶんお前はこれから、たいへんな変化 を迫られるはずだ。でも、あそこの教 育方針は、お前のような問題児に100 パーセントの効果を発揮するという話 だ」 到着すると、僕らはすぐに校長室に 案内され、校長のミセス・ウイリアム ズから簡単な説明を受けた。 毎日の授業は制服で受けるのが決ま りだが、それ以外の時間は、特別な行 24/806 事などを除きカジュアルウェアでよ い。ただし、そうした時間も、生活態 度や行儀などは厳しく指導される。 校則違反は、どんな場合も厳罰に処 せられ、場合によっては退学となる。 その場合は、少年刑務所に送られ、18 歳になるまでそこで過ごすことにな る。‥‥。 「まずは、私や先生方を信頼し、素直 に従うこと」 ミセス・ウイリアムズは、思わず震 え上がるような厳めしい声で言った。 「あなたが、今のような男の子である うちは、ここのやり方に異を唱えるこ とは許されません。いずれにせよ、こ こにいるかぎり、あなたはそんな男の 子でいつづけることはできないでしょ う。少なくともすぐに、たったひとつ の選択を迫られるはずです」 ‥‥たったひとつ? それを、選択 25/806 というのか? いったいなにが言いた いんだ? 僕がそれを聞き返そうとする前に、 母さんがキスしてきた。 「先生方の言うことをよくきいて、う まくやるのよ」 親父も、僕を軽く抱くようにして言 った。 「あとは、ミセス・ウイリアムズが案 内してくださる。お前がここの暮らし に慣れるまで、私たちとは接触できな いことになってるんだ」 そして、ふたりは出て行った。 そのあと僕は、ミセス・ウイリアム ズに連れられ、今後暮らすことになる 寮の部屋まで行った。見ると、ベッド の上には、親父が置いていったらしい スーツケースがひとつ、運び込まれて いた。 26/806 「校則を守って、規律正しく暮らすこ と。脱走などということは、いっさい 考えないように。あなただって、罰を 受けるのはいやでしょう」 彼女はまず、そう釘を刺した。 「もうじき、ルームメイトが戻ってき ます。それまでに、荷物をかたづけて おきなさい。彼女がいろいろ世話して くれるはずです。彼女にきいて着替え なさい。それがすんだら、もう一度、 私の部屋まで来るように」 表情も変えずそれだけ言うと、ミセ ス・ウイリアムズはくるりと向きを変 え、さっさと出て行ってしまった。そ の後ろ姿を見送りながら、僕は、あの 女は、世界でいちばん冷酷な人間にち がいないと思った。 でも一方で、ここは意外に自由で進 んだ学校なのかもしれないと感じてい た。だって、ミセス・ウイリアムズは 27/806 今、ルームメイトのことを「彼女」と 言ったじゃないか。 あらためて見まわすと、室内はかな り広かった。ベッド、机、テーブル、 そしてウォークイン・クローゼットま で、すべてふたつずつ揃っている。 どうやらこの部屋は、これまで、女 の子2人で使っていたようだ。クロー ゼットを開けてみると、どちらにも、 女の子用の服が隙間なく掛かってい た。それにしても、前の子は、自分の 荷物を残したまま出て行ったのだろう か? さらに部屋の中を見まわしている と、片一方の机の上に何枚かの写真が 飾られているのに気がついた。それを もっとをよく見ようと近づき、そこで 僕は息をのんだ。 その写真立ての中から笑いかけてい るのは、どれもみんな、ホリー‥‥あ 28/806 の、ハリーの義理の妹、あの、結婚式 で知り合ったホットな女の子‥‥ホリ ーだったのだ。 つまり、僕のルームメイトは、ホリ ーだってことか? もし、そうだとしたら、僕は自分で も気づかないうちに死んだのかもしれ ない。だって、ここは天国だ。 なるほど‥‥。彼女が住所を教えた がらなかったのは、ここに入れられて いることを隠したかったからだと考え れば、納得がいく。 そう思いながら、それらの写真を眺 めているうち、僕はまた首をかしげる ことになった。そこには、不思議なこ とがいろいろあったのだ。 写真のほとんどは家族写真で、彼女 が、父や兄、それに義理の母親といっ しょに撮ったものだ。しかし、ハリー といっしょに写ったものは一枚もなか 29/806 った。 それに、父や兄だけと撮った写真さ えない。父の再婚以前、彼女は彼らの 中で育ってきたのだから、そんな小さ い頃の写真が一枚くらいあってもよさ そうなのに。 ところが、ハリーの母親とふたりで 写った写真はあった。しかも、この写 真がいちばんうち解けた表情をしてい る。ホリーが義理の母親と知り合った のは、そんなに前ではないだろう。な のに、写真の中のふたりは、いかにも 親密そうに寄り添っていた。 さらに僕を驚かせたのは、そこに、 僕自身の写真があったことだ。そして そこには、ハリーも写っていた。何年 か前、ハリーといっしょに撮った写真 だ。たしかこの写真は、ハリーの母親 のお気に入りで、いつもハリーの家の 暖炉の上に飾ってあったはずだ。それ 30/806 が、どうしてここにあるんだ? もしかしてホリーは、僕の写真がほ しくて、義理の母にむりやりねだった のかもしれない。 そんな想像をしている時だった。 「もう、ここに送られるようなまねは するなって、あれほど言ったのに。こ のヌケサクが」 後ろから、明るい声がした。 「ま、たしかにヌケてるわよね。あの 結婚式の時、よくわかったわ」 振り向いた先には、デニムのミニス カートとTシャツ――胸には“Boy To y”の文字が入っていた――を着たホ リーが立っていた。 「久しぶり、ね」 彼女は、ちょっとからかうような口 ぶりで言った。 「ああ。まるで、天国に来たような気 分だよ」 31/806 僕は、もう一度彼女の姿を上から下 まで眺めながらほほ笑んだ。 「それにしても、あの判事もまぬけだ よな。罰として僕をここに送ったはず なのに、そこで僕を待っていたルーム メイトは、こんなすてきな女の子なん だから」 「それは、どうかな?」 ホリーはほほ笑みながらも、今度は あきれたように首を振った。 「たぶん、その判事はまちがってない と思うわ。あなたは、罰を受けてるの よ。まあ、すてきな女の子って言って くれたのはうれしいけどね、ヌケサク」 「えっ、ヌケサク‥‥? なんか、な つかしい響きだなあ。‥‥ああ、そう か。僕のことだ」 僕は子供の頃のことを思い出してい た。それは、ハリーがつけて、よく呼 んでいた僕のあだ名だった。 32/806 「ふふ、君の兄貴は、僕のこと、そん なふうに呼べって教えたのか?」 僕は、それでもいいかなと思った。 彼女から呼ばれるんなら、そんなあだ 名も心地よい。 「あたしの兄さんは、あの結婚式で初 めてあなたに会ったはずよ。だから、 それは無理だと思うな」 彼女はなんだか、これまでにない馬 鹿っぽい表情で言った。そして僕は、 その表情を、前に見たおぼえがある気 がした。 「いや、君の兄さんと僕は、ほとんど いっしょに育ってきたんだぜ。まるで 兄弟みたいに」 「ちがうわよ。悪いけどやっぱりヌケ サクね。いっしょに育ってきたのは、 あなたとあたしでしょ。まあ、これか らは、兄弟とは言えなくなるんだろう けど」 33/806 彼女は笑い声を立ててそう言い、ベ ッドに腰を落とした。 その顔には、またからかうような笑 みが浮かんでいる。 「もう、かわいい顔して、からかうの はよせよ」 僕も、からかいモードで言った。 「ここがトワイライト・ゾーンでもな いかぎり、僕らが初めて会ったのは、 君の父さんがハリーの母さんと結婚し た時のはずだぜ」 「ううん、初めて会ったのは、クラフ トン・ハイツ幼稚園よ。それに、あた しのパパは、あたしが11歳の時に死ん じゃったし」 さすがに僕も、少し腹が立ってきた。 「もうやめないか、ホリー。そんなジ ョークは、ちっとも面白くないよ」 「まだ、わかんないの?」 ホリーはまた、あきれたように笑っ 34/806 た。 「いいわ、やりながら説明するから。 気の短いミセス・ウイリアムズを、待 たせとくわけにもいかないし」 そして、シャワールームを指さしな がらつづけた。 「服を脱いでシャワー室に行って。そ こに脱毛クリームがあるから、それで 目立つすね毛を脱毛するの。腋の下は、 カミソリで剃ってね。その間に、あた しが、服を選んどいてあげるから」 「ふざけてるのか!」 僕は、その言葉を遮るように大きな 声で言った。 「まったく、わけわかんないよ。僕は、 変な更正施設に放り込まれて、ルーム メイトだという女の子から、どう考え ても筋の通らない話ばっかりされて る。その上その子は、シャワーを浴び て、すね毛や腋毛を剃れなんて言う。 35/806 この状況について、誰かさんがちゃん と説明してくれるまで、僕はなんにも する気はないからな」 引き出しから服を出し始めていたホ リーは、首を振りながら言った。 「相変わらずね、フランク。だからあ たしは、手紙で、ここに来るようなこ とはするなって忠告したのよ。でも、 来ちゃった以上、あなた自身で変わら ざるを得ないのよ」 「もう、よさないか、そんな話」 僕はいらいらしながら言った。 「僕は、君に手紙をもらった覚えなん てない。約束したのに、君は出してく れなかったじゃないか。それに、ハリ ーの母親の結婚式以前に、君に会った 覚えもない。ましてや、君といっしょ に幼稚園に通ったことなんてない」 ホリーはため息をついて、引き出し から出した衣類を床に置いた。そして 36/806 いきなり、僕が過ごしてきた日々のデ ィテールを次から次へと話し始めた。 それに、僕はあ然とした。 ハリーと僕がどんなふうに出会い、 どんなことをしてきたのか、彼女はす べて知っていた。むかし、ハリーにだ けは打ち明けた、好きだった女の子の 名前までふくめ、なにからなにまで。 「‥‥あ、ああ。君がすばらしい記憶 力の持ち主だっていうのは認めるよ。 そのおかげで、このドッキリがそれな りにうまくいったって、ハリーに伝え といてくれ。だけど僕は、そんなこと じゃだまされないさ」 僕は、強がるように言っていた。 「もう、しかたないわね。じゃあ、こ れを見て」 ホリーは、別の引き出しを開けると、 そこから手紙の束を取り出し、僕の方 に投げてよこした。 37/806 「どう? それなら納得する? あた しが‥‥ハリーだってこと」 彼女は、はっきりとそう言った。 「あなたの手紙は、全部そこにあるわ。 ハリー宛、つまり、あたし宛のね」 ちらりと見ただけで、それが彼女の 言うとおりのものだというのはわかっ た。でも、目の前のかわいい女の子が 言い張っていることは、わかりたくな かった。 「あ、ああ、まちがいないよ。要する に、ハリーがこれを君に預けたってわ けだ。こんなことで君がハリーだって 証明になるなら、僕はビル・ゲイツ か?」 じつはかなり動揺していたのだが、 僕は、彼女のかわいく上を向いた鼻に 気づき、鬼の首を取ったようつづけた。 「僕は、君が思ってるほど馬鹿じゃな いさ。たとえ、ハリーのやつが、女装 38/806 好きのオカマだったとしても、あの大 きな団子っ鼻はごまかしようがない。 君の鼻は、はっきりとちがうじゃない か」 と、彼女の口調が、いきなり感情的 になった。 「いい? あたしのことを、二度とオ カマなんて言わないで! あたしは、 れっきとした女の子。女装男なんかじ ゃないわ。よく覚えといて!」 「だろ。君は女の子。それでいいじゃ ないか。変な錯覚を起こさせないでく れよ」 僕の頭の中で、先刻から、トワイラ イト・ゾーンのテーマ曲が流れている のはたしかだ。でも、彼女が始めたこ の薄気味悪いゲームに、これ以上巻き 込まれるのはごめんだった。 ところが彼女は、そんな決着では許 してくれなかった。 39/806 「この鼻は、新しいパパのおかげよ」 ホリーはまた、もとの落ち着きを取 り戻し言った。 「整形外科への申し込みからなにから、 パパが、全部手はずを整えてくれたの よ。自分のかわいい娘を、みんなに自 慢したいからなんですって。ほんとに、 やさしくていい人。あたし、パパのこ とが大好きになっちゃった」 僕は、そんなホリーの姿にハリーを 重ねようと、じっと見つめてみた。 でも、2分後には、それをあきらめ た。たしかに、ハリーの面影がないわ けじゃない。でも、どこをどう見たっ て、彼女をハリーだと思うことなんて、 できるわけがない。 「‥‥ふ、まだ、ダメみたいね」 ホリーはそう言って笑うと、どこか から1冊のアルバムを引っ張り出して 来て、僕に手渡した。 40/806 「自分が物わかりが悪いってこと、も う少し自覚した方がいいわよ。いい? あなたの親友のハリーは、ちょっと いたずらが過ぎて、この学校に送られ てきました。彼は、最初、自分がひど い目に遭ってると感じて、そのことを 手紙に書き、その後も、あなたが混乱 するような目に遭わないようにと、こ こへ送られるようなことはするなと忠 告しつづけました。その頃、例の結婚 式があって、そこであなたは、ハリー を探したけれど見つからず、代わりに、 偶然にもハリーと同じ両親を持つホリ ーという女の子に出会いました。そし て今、その同じ女の子が、他人は知る わけがない、あなたとハリーについて の詳しい物語を語ってみせました。‥ ‥さあ、そこで、あなたが意外と賢い ことを証明するための、最後のヒント ね。あなたは今日、ここへ来てから、 41/806 ひとりでも男の子を見かけた?」 僕は、ちょっと考えてから、肩をす くめた。 「いや、女の子しか見なかったけど‥ ‥。でも、それが、どういう関係があ るんだ?」 「もお、勝手にして。さっさと、その いやなアルバムを開いて、自分の目で 確かめなさいよ」 彼女は、本当に腹を立てているよう だった。 僕は、首をかしげながら手にしたア ルバムを開いた。その1ページ目には、 ハリーの写真があった。例の団子っ鼻 で、こちらに笑いかけている。 ページを繰ると、そこでも、ハリー が情けなさそうに笑っていた。でも、 その目には、なぜかブルーのアイシャ ドーが塗られていた。 さらにページを繰るごとに、ハリー 42/806 の服が変わっていき、化粧も手が込み、 ホリーと同じ鼻になり、長くなった髪 が女の子のようにカールされ‥‥。 そこからあとのページには、完全に メイクした顔と長い髪で、さまざまな 服を着た写真がつづいた。制服、スカ ート、ワンピース‥‥。 そんなふうにページを繰りながら見 ていくのは、ちょっと気味悪い感じだ った。どの写真も、直前の写真と比べ、 少しずつ変わっていく。1枚ごとにハ リーが消え、ホリーが現れてくる。 そして最後のページに、その写真は あった。 結婚式用のパーティドレスを着たホ リーだ。 髪は、あの夜のようにきちんとセッ トをしているわけではないし、メイク も、あの時ほどゴージャスなものでは ない。でも、それは、まぎれもなくあ 43/806 のホリーだった。 そして同時に、今や、それがハリー であること――少なくとも、ハリーで あったこと――は明白だった。 僕は、もう一度ページを戻し、最初 のハリーの写真と、最後のホリーの写 真を、代わる代わる見比べた。そして、 奈落の底まで落ち込んだ。 つまり僕は、大親友の‥‥男に恋し てたんだ。 「‥‥ハ、ハリー?」 もうわかりきっているというのに、 僕は恐る恐るきいた。 「今、見たとおりよ」 彼女は、ほほえみ返しながら、大き くうなずいた。 「いったい、どうなってるんだ? そ んな格好で暮らしてて、平気なのか? ここに入ってる他の男たちは、お前 の正体に気がついてないのか?」 44/806 考えてみれば、この状況は問題があ りすぎる。 さっきまで理想の女の子だと思って いたルームメイトは、今や、長年のツ レに変わっていた。 どうして、よりにもよって、こいつ とルームメイトなんだ? もし、他の連中がこいつの正体を知 ってるとすれば、僕まで変質者かなに かのように見られるじゃないか。 「‥‥ふう。やっぱり、まだわかって ないんじゃない。馬鹿みたい」 僕の顔を見ていた彼女は、そうつぶ やきながら、クローゼットの片方を開 けた。他の家具の配置から見て、たぶ ん僕のクローゼットだ。でも、女物し か掛かっていない。 「いい? ここは、あなたが思ってる ような、共学校じゃないのよ。あたし の格好を冷やかす男なんて、ここには 45/806 1人もいないの。前に、手紙に書いた こと、覚えてる? この学校の名前は、 悪い冗談みたいだって。グレート・イ ンディアン・リバー・ラーニング・セ ンター(Great Indian River Learning Center)。略してGIRLセンター、ガー ルセンターよ。だから、ここには、女 の子しかいないの。来た時は男の子だ としても、ここで、女の子につくりか えられるってわけ。じゃあ、また問題 です。ここにずらっと並んでるかわい い服は、いったい誰が着るんでしょ う? ‥‥ね、もうわかったでしょ」 僕は、そのクローゼットを見つめな がら、彼‥‥いや、彼女?‥‥とにか く、こいつが、完全にイカれてしまっ たのではないかと思い、自分自身、気 が狂いそうな気がしてきた。 なにより、こいつが、なぜ女の子に なりたいなんて考えるようになったの 46/806 か、それがわからない。 まあ、唯一救いがあるとすれば、僕 自身には、こいつが進める狂ったゲー ムに参加したいなどという欲望が、み じんもないことだ。 と、彼女がまた、バスルームの方向 を身振りで示した。 「さあ、早くシャワーを浴びて。30分 以内に校長室に行かないと、しびれを きらしたミセス・ウイリアムズの方か らやってくるわよ。彼女に手伝っても らいたくないなら、急いだ方がいいわ」 僕はまだ混乱していて、これ以上こ とを進めてしまっていいものかどうか 迷っていた。ただ、あの校長に体を洗 われている図を想像し、それがいやだ ということについては、迷いはなかっ た。 「脱いだものは、ドアの外に放り投げ て。着てきた男物の服は、学校に預け 47/806 ることになってるの。ここを出て行く 時には、返してくれるはずよ」 シャワー室に入った僕がドアを閉め かけたところで、ホリーがそう呼びか けた。 「そこにあるピンクの瓶のクリームを 脚に塗って。そのあと、シャワーで流 すのね」 ドアの鍵をかける前に、僕は、パン ツ、シャツ、ソックス、下着を脱ぎ、 外のホリーに渡した。そして、そのど ろどろした液体を、両脚に塗った。 15分後、毛のなくなった脚をピンク でふわふわのバスローブに包み、ベッ ドに座った僕は、体をこわばらせなが ら、ホリーに、マニキュアやペディキ ュアを塗られていた。 「‥‥えっ? これは‥‥、やだよ、 許してくれよ」 48/806 爪が終わって、ナイロンパンティを 渡されたところで、僕はホリーに懇願 していた。 「他のことはともかく、これだけはい やだよ」 「理科室に放火した時から、あなたに は逃げ道はなかったんでしょ。それは 今も変わってないのよ。早く、履いち ゃいなさい。そしたら次は、ブラのホ ックのとめ方を教えてあげるから。さ もないと、ミセス・ウイリアムズの手 を借りることになるわ」 先刻からずっと、この言葉で動かさ れていた。誰かになにかを手伝っても らう必要があるとしても、ミセス・ウ イリアムズだけはごめんだ。それほど、 あの女の雰囲気は恐ろしいのだ。 僕は渋々うなずき、パンティをはき、 ホリーに教えられたとおりにブラを着 け、それから、パンスト、ワンピース、 49/806 最後に平靴と、次々に身に着けさせら れていた。 「知ってた? あなたって、けっこう 美人よ」 ホリーは、僕の髪を女の子のように セットしながら、からかってきた。 「きっと、そのうち、男の子たちの気 持ちをズタズタにしちゃうような女の 子になるわね」 「知ってた? 君って、そうとうイカ れてるな」 校長室に向かいながら、僕は、ホリ ーに言い返した。 「こんなの、どう見たって、男にしか 見えないだろ。だいいち僕は、女に見 られたいなんて思わないし、ましてや、 誰かさんみたいに女になりたいなんて 思ってないんだから」 「知ってた?」 50/806 職員室に入りながら、ホリーがささ やいた。 「じつはあたしも、おんなじこと言っ てたのよ」 そんなくだらない冗談に、僕がこれ 以上乗る気がないのがわかったらし く、彼女は、今度は僕の手をぎゅっと 握ってきた。 「だいじょぶ。ここでは、みんながあ なたの味方よ。あたしも、ずっとそば についててあげるしね。あなたは、い い娘になれるわ」 ホリーは僕を、タイムマシンにでも 乗せるつもりらしいが、僕は、そんな ものなくても、やり直せる。 ここから抜け出して戻れるなら、僕 は、想像もつかないほど善良な人間に なろう。ちゃんと学校にも行って、一 生懸命勉強しよう。礼儀正しく、人に 好かれる人間になろう。そこにいるこ 51/806 とさえ誰も気がつかないくらいおとな しく、あらゆる面でヤバいことには近 づかない、そういう人間になろう。 僕は、そんな覚悟で校長室のドアを くぐった。 「そこに掛けなさい、お嬢さんたち」 ミセス・ウイリアムズは、自分の机 の前に置かれた2脚の椅子を示しなが ら言った。 「フェイス、初めてだとは思えないほ どよく似合ってます。もしかして、こ れまでにも、女の子の服を着たことが あるんですか?」 僕は、彼女が誰と話しているのかと 思い、きょろきょろした。 「フェイス、人が話しているときは、 よそ見をするもんじゃありません。こ とに、目上の相手に対しては、なおさ らです」 彼女が話しかけている人間は、どう 52/806 やら彼女に目を向けず、きょろきょろ しているらしい。そして、彼女の前に は、今、ホリーと僕しかいないようだ。 ということは、彼女がさっきから呼び かけている「フェイス」というちょっ と恐ろしげな響きの言葉(※)は、僕の ことを指しているわけだ。 (※訳注 ‘Faith’ 「信頼」「信念」という 意だが、大文字で始まる場合は「信仰」 「聖約」 を表す宗教用語ともなる。 ちなみに、ホリー ‘Holly’も「聖-」の意の接頭辞。どちらも、 女性名としては「清楚で純潔な女性」という語 感がある) と、ホリーが、それを確認するよう に肘で小突いてきた。僕はあわてて、 ミセス・ウイリアムズの方を見た。 「よろしい。今後も気をつけてくださ い、フェイス」 彼女はそう言ってほほ笑んでみせた が、それは彼女の厳めしさを少しも和 53/806 らげはしなかった。その微笑に、僕は かえって震え上がった。 「それで。あなたはこれまで、女の子 の服を着た経験はないんですね?」 「んな! 当ったり前だろ」 と、ミセス・ウイリアムズの片方の 眉がつり上がり、鋭い眼光が僕を射す くめた。スカートの中で、思わず膝が 震えた。 「若い娘がなんですか、その言葉づか いは」 「あ、その‥‥、は‥‥はい、お、お っしゃるとおりです」 僕は、とりあえず彼女をこれ以上怒 らせないよう、言葉を選んで言い直し た。 「よろしい。で、初めて着てみて、ど う感じましたか?」 「マジ、キモい‥‥あっ」 思わず口走り、それに気づいたとき 54/806 には遅かった。今度こそ、ひっぱたか れるにちがいない。 しかし、ミセス・ウイリアムズは、 今度はにらみつけたりせず、僕の反応 にほほ笑んだ。 「フェイス、あなたがそう感じるのは 理解できます。でも、それは最初だけ です。すぐにあなたは慣れて、やがて、 それが当たり前のようになるはずで す。そして、そんな服装をしているこ とで、あなたは、否応なく、若い女性 のように行動し、若い女性のように考 えはじめるでしょう」 僕は、ひどくみじめな気分になって いた。こんなふうに女の服を着て座り、 女名前で呼ばれるだけでも、じゅうぶ んに気味が悪いのに、自分の考えが女 のように変わっていくなんて、耐えら れない。そのみじめな思いから、僕の 目には涙がたまり、あふれてきた。 55/806 「お願いです。こんなことは、もうや めさせてください。僕は、女の子にな んて、なりたくありません。反省しま す。おとなしく暮らします。だから、 帰らせてください」 僕は、泣きだしていた。 「フェイス、今のあなたにそれを言う 資格はありません」 ミセス・ウイリアムズは、そう言っ て首を振った。そして、机の上に置い たファイルにちらりと目を落とした。 「あなたが今ここにいるのは、すべて、 あなた自身が招いた結果です。あなた の非行歴を見るかぎり、あなたはこれ まで何度も、反省し更正するチャンス を与えられてきました。でも、そのた びにあなたは、それを鼻で笑い、そん な機会を捨ててきたのです。そして、 そのたびに、あなたの非行は深刻度を 増していった。もしここに来たくなか 56/806 ったと言うのなら、あなたには、これ 以前に、もっととるべき道があったは ずです」 「いえ、僕だって、まじめにならなき ゃいけないと思ってました。そうする つもりでした」 僕は、誓いを立てようとした。 「もう一度チャンスをもらえれば、今 度こそ‥‥」 「いいえ」 ミセス・ウイリアムズの厳めしい声 が、それを遮った。 「あなたに残されたチャンスは、ここ で2年間の更正プログラムを終えるこ とだけです。それを終えれば、あとは 自由です。男に戻って家に帰ることも できます。もちろん、ホリーのように ここに残って学業をつづけることも可 能です。このグレート・インディアン ・リバーには、大学受験のための優れ 57/806 た教育プログラムも用意されていま す。実際、毎年、少なくない数の卒業 生たちが、全国の一流大学に合格して います」 「で、でも、僕をむりやり女にするな んてこと、許されていいはずがありま せん。まちがってます」 僕は、さらに涙を流し、叫ぶように 言った。 「法廷が判決を下したということは、 それがまちがっていないということで す。そしてそれは、実績によっても裏 付けられています。過去20年間、何百 人ものあなたのような重犯少年がこの グレート・インディアン・リバーに送 られてきました。そして、ここにいる 間、若い女性として暮らすことで更正 していきました。彼らのほとんどが、 当初は、今のあなたのように、このプ ログラムはまちがっているとののしり 58/806 ました。でも、今ではみんな、立派な 夫や父親として、安定した精神状態で 社会生活を送っています。一流企業の 幹部になっている人も少なくありませ ん。そして、彼らの誰ひとりとして、 ここで送った数年間を後悔していませ ん」 「だけど」 僕は、声を振り絞って言った。 「どうして女になんか、ならなきゃい けないんですか?」 「ひと言で言ってしまえば、支配欲の 排除ということです。あなたのような 脱法少年に関する長年の研究から、あ なた方には、人を支配し、なにかを征 服したいという欲求が人一倍強いこと がわかっています。粗暴で無軌道な振 る舞いは、そんな支配欲の表れに他な らないわけです。それなら、そんな欲 望を取り除いてやればいい。男である 59/806 ことをいったんやめ、女になる経験は、 そのために非常に有効に働きます。若 いレディとして暮らすことで、あなた 方は、人を支配するための方法ではな く、人から愛され大切にされるための 方法を学ぶようになります。奪うこと でなく、与えることを学びます。あな たが得た知識や能力を、力を誇示する ために使うのではなく、あなたの生活 を豊かにするために使うようになりま す。手がつけられないほど粗暴な少年 たちが、女性の衣服と、たった数週間 の行動の規制で、性格がよくてかわい い女の子としての自分を受け入れてい くのを見ていると、面白いことに気づ きます」 そこで一息ついて、彼女はつづけた。 「不思議なことに、より粗暴な少年ほ ど、その転換は目を見張るものとなる のです。どうやら、やたら強がってい 60/806 ばってみせたり、ひどい非行に走る男 の子ほど、心の内に『女の子らしさ』 と言われるもの、いわゆる『お砂糖と スパイスとすてきなものすべて』(※) を秘めているようなのです。粗暴にな るのは、それが大きすぎて、抑え込む ためには『男らしさ』、つまり支配欲 や征服欲を強めざるを得ないからなん でしょう。だから、いったん女の子で あることを強制されたとたん、心の奥 に秘めていたそんな資質が溢れ出しま す。かつて不良グループのリーダーだ った子が、驚くほど女らしい美人にな ったりします。この学校で、歴代、最 もきれいで最もかわいらしかった女の 子たちは、たいてい、もとは、ふだつ きの不良でした」 (※訳注 ‘sugar and spice and all everyth ing nice’英語圏でよく使われる「女の子らし さ」「女の子のもと」を表す成句 61/806 『マザーグ ース』の中に、それらを混ぜ合わせると女の子 ができあがるという詩がある 「シュガー・ア ンド・スパイス」と略されて使われることが多 い) 「そ、それはつまり、薬かなんかで洗 脳するってことなんでしょ」 逃げ出すための口実を探して、僕は 叫んだ。 「ふふふ、スパイ小説の読み過ぎです よ、フェイス」 ミセス・ウイリアムズが声に出して 笑ったのは、これが初めてだった。で も、その笑いすら、冷淡な感じしかし ない。 「もし、あなたの言うような馬鹿げた 方法をとるとしたら、かえって莫大な 経費や労苦が必要になるでしょう。い ずれにせよ、数週間後には、あなたは、 女の子でいることは、意外に簡単で楽 しいことだと気づくはずです。さあ、 62/806 それじゃあ、受講可能な授業と実習の カリキュラムについて説明しましょ う」 それから30分ほど、僕はそこに座っ て、今年度、僕が受けることになる授 業の説明を聞いた。 「代数」「英語」「歴史」‥‥、それ らに加え、ファッションやメイク、ヘ アケアなどを学ぶ「グルーミング」、 そして、さまざまなマナーや立ち居振 る舞いを学ぶ「修身」‥‥この2教科 は、グレート・インディアン・リバー では、全生徒が受けなければならない 必修科目なのだそうだ。ここの生徒た ちは、自分の更正の成果を示すために、 地域の人々と積極的に交わることが推 奨されている。女の子として町に出る ためにも、その2教科の修得が必須な のだという。 63/806 「えっ、町に‥‥出る?」 僕は、恐怖感とともにきいた。 「こんな格好で、外へ出るなんて、僕 はぜったいいやです」 「あなたが望むか否かに関わりなく、 この1ヵ月間は、そんなことは許され ません」 ミセス・ウイリアムズは、釘を指す ように言った。 「基礎訓練期間である最初の1ヵ月間 は、校外に出ることはいっさい禁止で す。その期間が終わったら、外出する もしないもあなたの自由です。そのた めに、町の中心部へのシャトルバスが、 毎夕1往復出ています。週末には増便 して1日数往復しています」 「あなただってそのうち、一人で部屋 にいるのはさみしいって思うようにな るわ。みんな、町へ出かけるんだもん」 ホリーが、熱のこもった口調で追加 64/806 した。 「町のモールには、ショッピングにぴ ったりのお店がたくさんあるし、フー ドコートやシネコンだってあるわ。そ れに、週末には未成年者OKってクラ ブだってあるのよ。だから、ダンスだ って楽しめるの」 「すべての新入生には、在校生の中か ら選ばれた生徒がひとり、ビッグシス ター――お姉さんとしてつくことにな っています」 ミセス・ウイリアムズは、ホリーの 方にちらりと目をやりながら言った。 「ホリーは、あなたのビッグシスター になることを、自ら志願してくれまし た。あなたがここでの生活に慣れるた めにいろいろな手助けをしてくれるは ずです。しばらくは、彼女の言うこと をなんでもきくこと。もし、彼女では 手に負えない問題が生じた場合は、い 65/806 つでもこの部屋を訪ねてくれてけっこ うです。授業は月曜の8時に始まりま す。この週末は、まず、ここになじむ ことに努めてください」 そのあと、時間割を組むための講義 リストを手渡されたところで、面談は 唐突に終わった。 廊下を行くと、あちこちから物珍し そうな視線が投げかけられた。あきら かにそれは、在校生の女の子たちが転 校生の女の子に向ける目だ。そのこと で僕は、自分が今、ここの「女の子」 たちの一員に加えられたのだというこ とを悟った。 でも、そうはいくか。今回について はすぐに、グレート・インディアン・ リバーの失敗事例として記録されるこ とになるだろう。 僕は、やつらに取り込まれたりしな 66/806 い。 すでにこんなみっともない格好はさ せられているが、僕は、男だ。やつら の思い通りになんて、なってたまるも んか。 部屋に戻ったところで、僕はホリー に、すぐにも脱走するつもりだと打ち 明け、協力を頼んだ。 「お前が力を貸してくれれば、ぜった いうまくいくよ。いっしょに逃げよう。 こんな動物園にいつまでもいられるも んか」 「いやよ。あたしは、どこにも行く気 なんてないわ」 ホリーは、断固とした口調で言った。 「3年前とはちがうのよ。あたしは今、 ここでの暮らしに満足してるわ。ここ にはお友だちもたくさんいるし、卒業 後、州立大学に行くための奨学金資格 67/806 だって取れたし」 「正直に言えよ。要するに、あのウイ リアムズってババアを怖がってるんだ ろ。捕まったら、なにされるかわから ないって。でも、あいつには手が出せ ないさ。お前の母さんは、お前をここ に戻したりしないはずだ。ここがどれ ほどめちゃくちゃなとこか、僕がちゃ んと話して説得するから」 「ミセス・ウイリアムズが規律を乱し た生徒にどんな罰を下すか、あたしは よく知ってるわ。覚えてるでしょ。あ たしは、前に一度、脱走に失敗したん だから。あたしは今、これまでに得た 優等生としての特典を取り上げられた くはないし、あの時みたいなみじめな 思いは二度とごめんだわ。それに、あ たしのママとパパも、あたしがここの 暮らしを気に入っていることをよく知 ってるのよ」 68/806 僕は、いったいなにがハリーをここ まで変えてしまったのかと、あきれて いた。 僕の親友、かつてのハリーは、いつ でも、新たな冒険に挑戦する勇気を持 っていたし、何ものをも恐れなかった。 ところが、今のハリーは、せっかくの チャンスを前にして震えている、か弱 い女の子なのだ。 「ここの暮らしが好きだって? お前 がそんな人間じゃないことは、お前自 身がいちばんわかってるはずだ。うそ はやめろよ」 僕は強い口調で主張した。 「それとも、やっぱり洗脳されたって ことか? 前に捕まった時、やつらは お前を洗脳して、自分のことを女だと 思いこませた。そういうことなんだ な?」 すると、ホリーはあきれたように首 69/806 を振り、ため息をついた。 「洗脳なんて、されてないわよ。今の あたしは、本当にここが好きなの。そ れに、思いこんでるわけじゃなくて、 今のあたしは、本当に女の子よ」 その言葉とともに、なんと彼女は、 上着とスカートを脱ぎ捨てた。 「見てよ。‥‥どう?」 彼女はどこか誇らしげに、胸を突き 出すようにして言った。 「こんなおっぱいを持ってる男の子な んて、いる? あたしは毎日、32イン チBカップのブラを着けてるわ。もち ろん、パッドなしでね」 次に彼女は、手をパンティで覆われ たヒップにあて、そこを示しながらつ づけた。 「こんなまあるいお尻をした男の子、 見たことある? もし、あたしと同じ ようなラインの15歳の男の子がいた 70/806 ら、教えてほしいわ」 たしかに、パンティの前のかすかな 出っ張りさえなかったら、僕は、目の 前にいるのは女の子だと言うだろう。 それにしても、やつらは、僕の親友 になんてことをしたんだ! 「おかしいじゃないか。さっきの話だ と、ここでは、服とかだけで、体をい じったりしないんしゃないのか? 親 はこのことを知ってるのか? 息子が こんな目に合わされたんだ。すぐにで も、訴えるべきだ」 「あんたって、救いようがない馬鹿ね、 フェイス・ジョーダン!」 彼女は、憤慨したように言った。 「これは、全部、あたし自身の意志で したことなの。2年前、13歳の終わり 頃、あたしは女の子になろうって決意 した。ママは、あたしを精神科に連れ て行ってくれて、そこでテストした上 71/806 で、ミセス・ウイリアムズもふくめて 相談したの。彼女は、手術については、 判決で決められた更正期間が終了して からって条件を出した。それであたし は、とりあえずホルモン投与だけを始 めたの。もう更正期間は終わったから、 卒業までにはすべてのオペを終えるつ もりよ」 「そ、そんなこと、せったいにダメ だ!」 僕は叫んでいた。 「お前は僕の親友、ハリーだ。いちば ん仲のいい男なんだ。やっぱりやつら は、お前がそんな馬鹿なことを考える ように誘導したんだな」 「忘れたの? あたしの名前はホリー よ。あたし、もうこれまでに、何人も の男の子とデートだってしてるわ。そ んな時、ひとつになるくらい体をくっ つけたりしたけど、あたしがホリーだ 72/806 ってことを疑った人なんて一人もいな かったわ」 彼女はスカートと上着をふたたび身 につけながら、くすっと笑った。 「あなただって、あの結婚式の時、あ たしを男の子だなんて、これっぽっち も思ってなかったじゃない」 僕は打ちのめされていた。 僕の親友は、今や女の子の世界に浸 りきり、僕といっしょに元の世界に戻 る気はないようだ。 一方で僕は、あの結婚式の時のかわ いい女の子の姿を思い出していた。あ のドレスがどれほど似合っていたか、 その仕草や口ぶりがどれほど愛らしか ったか、彼女を腕の中に抱きダンスし ていたときの僕が、どれほど浮き立っ ていたか、そして、どれほど彼女にキ スしたいと願っていたか。 そんなイメージが浮かんだせいだろ 73/806 う。僕は突然、あることに気づいた。 僕は、勃起していた! パンティの中のものがむくむくと首 をもたげ、ワンピースの前を押し上げ ている。意志の力では、もうどうにも ならなくなっていた。 「ふふ、やんちゃ坊主さん」 彼女も、それに気づいたらしく、そ のあたりを見て、くすっと笑った。 「結婚式の時の話は、しない方がよか った?」 僕は、恥ずかしさに、返事もできな かった。 ‥‥というか、親友である男に向か って、抱きしめたいとか、キスさせて くれなんて、言えるわけがない。 と、まるでそれがわかったように、 ホリーはほほ笑みながら僕のほおにキ スしてきた。 「ありがと。あたしのこと、そんなふ 74/806 うに思ってくれるのは、うれしいわ」 どうやら、期待してはいけないよう だ。僕の親友は、もういない。 でも、だからこそ僕は、この狂気の 館から早く逃げ出さなければならない と思った。やつらがハリーにしたのと 同じことを僕にする前に、なんとか、 僕ひとりで逃げきる道を見つけてや る。今のところは、やつらに従うふり をするしかないにしても。 もちろん、ハリーを連れて行けない のは残念だけれど、ホリーが行かない のは、もはやはっきりしていた。 残念‥‥。そう、こんなかわいい子 と別れなきゃならないのは、ほんとに 残念だ。たとえば、このままここにい れば、僕は彼女とひとつの部屋で、毎 晩‥‥。 ‥‥えっ? なに考えてるんだ。い くらかわいい女の子に見えたとして 75/806 も、彼女は男、僕とおんなじ男なんだ。 でも、さっきの胸やお尻は、どう見て も男には見えなかったけど‥‥。 ホリーの説得をあきらめ、でも、混 乱した僕は、落ち着くために、とりあ えずスーツケースの中のものをかたづ けようと思った。 そして、その留め金をはずし、中を 開けたところで、死ぬほど驚いた。 そこに詰め込まれていたのは、パン ティ、スリップ、ブラジャー、パンス ト、さらに化粧品の類まであった。 それらの上に、ピンクの封筒がのっ ているのに気づき、僕はあわてて封を 切った。と、そこから、手書きの手紙 が出てきた。親父の字だ。 「親愛なるフェイス 母さんと私は、これが、お前を立ち 直らせるための最後の希望だと思って いる。ふたりで悩み、苦しみ抜いた末 76/806 の結論だ。わかってくれ。他に道はな かったんだ。 これを読んでいるお前は、すでに、 おおよそのことは聞いていると思う。 その上で、そこに身を置くしかないこ とを賢く判断してくれたと思う。どう か、周りの人たちの言うことをよくき いて、まちがっても逃げようなどとは 考えないでほしい。 母さんと私は、できるかぎり早く、 また、お前の顔が見たいと思っている。 そのためにも、自らを変える努力をし てくれることを願っている。 それから、ホリーに、私たちが心か ら感謝していると伝えてほしい。彼女 は、自分がまずい立場になるのも顧み ず、お前の面倒を見たいと申し出てく れたのだから。」 その手紙には、最後に、こうサイン されていた。 77/806 「愛する娘へ――ママとパパより」 「ママとパパ」‥‥だって? 母さんも親父も、なに考えてるんだ。 これまで「パパ」なんて気持ち悪い呼 び方、したこともなかったのに。 「わかったでしょ。あなたのパパとマ マも、ここがどんなとこなのか、よく 知ってるのよ」 ホリーは、当然だと言わんばかりの 口調で言った。 「せっかくママがそろえてくれたんだ もん、それ、早く着こなせるようにな らなきゃね。でも、だいじょうぶよ。 ここの女の子たちは、みんなやってる ことだから」 「やめろよ。なんで女の子なんて、言 うんだ!」 僕はいらつきながら言った。 「さっき、ここの生徒は男だけだって、 言ったじゃないか」 78/806 「だって、あたしたちみんな、自分の ことを女の子だって思ってるんだも ん」 ホリーはまた、それが当たり前だと いうように肩をすくめた。 「あなただって、すぐそう感じるよう になるわよ」 僕はもう、反論する気も失せ、スー ツケースの中のものをかたづけること にした。 「それにしても、ブリーフの2枚でも、 入れといてくれればいいのに」 「わかるわ。あたしも、最初の日にお んなじことを言ってたもん。だけど、 パンティにしてもなんにしても、すぐ 平気になるわよ。だいいち、ブリーフ なんかより、ずっと履き心地がいいし ね」 彼女は、こんな言葉に、僕がどれほ どいらつくか、わかっているんだろう 79/806 か? あたしもそう思った、あたしもそう 感じた、あたしもそう言った‥‥つま り、僕が、同じ道を進んでるってか? 誰か、彼女に言ってやってくれない か? 着るものなんかで、気持ちが変わる わけがないって。こんなツルツルでペ ラペラの下着が、コットンブリーフの さわやかさに取って代わることはでき ないんだって。 「なあ、そのおしゃべり、人からウザ いって言われたこと、ないか?」 僕は、端的に指摘した。 「お前がなにを思おうが、なにを感じ ようが、それは勝手だ。でも、黙って てくれないか。ほっといてくれ」 と、ホリーは、セクシーな脚を組み、 ちょっとの間、僕をにらみつけたあと、 まくし立てた。 80/806 「あんた、ほんとに、なんにもわかっ てないわよ! 人の気も知らないで! いい? ふつう、高等部の1年じゃ あ、ビッグシスターにはなれないのよ。 それをあたしは、無理言って、あんた のお姉さん役にしてもらったんじゃな い。やっぱり、先生たちの言うとおり、 あんたを上級生に預けるべきだった わ。そしたらきっと、あんたは今ごろ、 ひらひらのいっぱいついたベビードー ルかなんか着せられてるんでしょう ね。網タイツをガーターベルトでとめ て、プッシュアップ・ブラに、いかに もにせ物って感じのおっぱいつめて、 じつは女装者しか履かないような6イ ンチのヒールで、よたよた歩かされて るはずよ」 「君が急にヒステリックになったのは、 もしかして、パンティがよじれてるせ いかい? かわい子ちゃん」 81/806 僕は、持てるかぎりのコメディセン スを発揮し、ジョークを言った。 「ひどいッ! よくそんなことが言え るわね!」 彼女は、泣き叫んでいた。 「いいわ。あたし、今すぐミセス・ウ イリアムズのところに行って、お姉さ ん役を代えてくれって頼むわ。あんた なんて、あんたなんて、思いっきりケ バい格好で学校じゅうを歩かされて、 死ぬほど恥ずかしいを思いすればいい のよ」 こんなふうに荒れ狂うハリーは見た ことがない。まるで、女の子だ。 「わ、わかったよ、ハリー。そんなに 怒らせるつもりはなかったんだ」 僕は、あえて男名前を使い、落ち着 かせようとした。 彼女は、今にも僕に飛びかかり、首 を絞めそうに見えた。ところがいきな 82/806 り、その顔つきが変わり、にっこりと 笑った。 「そっか。あなたに、あたしの最初の 日を、見せてあげればいいんだ」 ホリーは、今度は、なんだかにやに や笑って言うと、机まで行って何か取 り出した。 そして、僕のベッドのところまで来 ると、スカートをなでつけながら、隣 に座った。彼女が開いたのは、先刻と はまたちがうアルバムだった。 「あたしのビッグシスターだった先輩 からの、入所祝いよ」 僕の顔のすぐそばでそう言って笑い かけた彼女に、僕はまた、体の一部が むずむずするのを感じた。 でも、そのアルバムの写真を見たと たん、興奮はしぼみ、そこは萎えた。 写真の中で、親友のハリーは、思い っきり厚化粧されていた。あまりにご 83/806 てごて塗りたくっているせいで、その 下の恐怖の表情すらよくわからなくな っている。まぶた全体に真っ青なアイ シャドーが広がり、唇には真っ赤な口 紅が塗られ‥‥。 次の2枚は全身写真で、1枚は男物 の服を脱いでいるところ、もう1枚は、 ピンクのブラやガーターベルト、網タ イツを着けているところ。 次のページにあったのは、それらの 下着の上にピンクのベビードールを着 せられた写真だった。それは、パンテ ィをかろうじて隠すくらいの丈しかな い。 そんな姿で、ハリーは寮の廊下を歩 いていた。写真には写っていなかった が、そのまわりで他の生徒たちがはや し立てていることは、屈辱的な表情か らよくわかった。 次の写真でも、ハリーはパンティが 84/806 見えそうな極端に短いスカートを履か されていた。厚化粧といかにもパッド でふくらませた感じの大きな胸は、彼 を安っぽい売春婦のように見せてい た。 さらに写真はつづき、その中でハリ ーはさまざまな服を着せられていた が、どれもみんな恥ずかしいものばか りだった。 「最初の2週間、毎日、授業の時まで ふくめて、あたしはそんな格好をさせ られてたのよ」 ホリーは、ちょっと口をとがらせて そう説明した。 「悔しくて悲しかったわ。だからあた しは、いくら新入生をおとなしくさせ るための荒療治だっていっても、こん な風習はやめるべきだって直訴した の。それで、あなたのお姉さん役にな ることを申し出た。でも、無駄だった 85/806 みたいね。やっぱり、男がここの暮ら しに慣れるには、あたしみたいな思い をしなきゃいけないようね。あなたも、 そう思ってるんでしょ。それなら、ミ セス・ウイリアムズのところに行っ て、そう言うしかないわ」 立ち上がりドアに向かう彼女をあわ てて追いかけた僕は、ノブにかけたそ の手をつかんだ。 「ど、どうやら僕は、ドジったみたい だ」 僕は、口の中でもぐもぐ言った。 「ん? よく聞こえなかったわ、お嬢 さん。なんておっしゃったのかしら?」 ハリーにはもう、僕に逃げ道がない ことがわかっているはずだ。でも、ホ リーは、さらに僕を追いつめようとし ていた。ハリーならぜったいしないよ うな、女の子だけに許されるやり方で。 「いや、だから、その‥‥僕は、ドジ 86/806 を踏んじゃったって‥‥」 「ごめんなさい」 彼女は自分のアドバンテージを、さ らに拡大しようというのだろう。 「おっしゃってる意味が、よくわかり ませんわ。素直でかわいい女の子なら、 自分の思ってることを、もっと正直に 言うものでしょ」 「も、もう、いい加減にしろよ、ハリ ー!」 僕は、思わず怒声をあげていた。 でも、これは、やめておくべきだっ た。僕はさっきから、つい言ってしま った言葉尻をとらえられては、どんど ん追い込まれているのだから。 「えっ、ハリー? まあ、それはたい へんだわ」 ホリーは、今度はちょっと怯えるよ うな声で言ってみせた。 「この寮は、男子禁制なのよ。あなた 87/806 が男の子を見かけたのなら、すぐミセ ス・ウイリアムズに報告に行かなくっ ちゃ」 ふたたびドアノブにかけた彼女の手 を、僕はあわててとめた。 「も、もう、いいだろ」 僕は、頼むような口調で言っていた。 「許してくれよ」 「あたしは、許したいのよ。でも、そ うさせてくれないのは、あなたの方で しょ」 ホリーは、その目に意地悪そうな光 をたたえてつづけた。 「まず、ちゃんと謝って、そのあと、 あたしにお姉さんでいてくれって、頼 めばいいだけでしょ。じゃなきゃ、あ たしは、ここから出てくわ」 「わ、わかったよ。ごめん‥‥なさい。 お姉さんでいてください」 「もっと、ちゃんと」 88/806 「お願いします。どうかずっと、僕の お姉さんでいてください」 「これからは、もっと素直な女の子に なって、あたしの言うこと、なんでも きく?」 女の子の要求って、ひとつ許すと、 どうしてこう次々に拡大してくんだ。 きっと数秒後には、僕は彼女の前にひ ざまずいているにちがいない。 「そ、それは、内容にも‥‥」 言いかけると、すかさず彼女はドア を開けた。それを閉めさせ、彼女を座 らせるには、言うしかなかった。 「わ、わかったよ。なんでも、君の言 うとおりするよ」 僕は降伏した。そして、彼女にもそ れがわかったようだ。 いきなり、僕に抱きついてきた。 「‥‥ちょ、ちょっと! そんな‥‥、 よせよ」 89/806 僕はあせって言った。 「どうして? 結婚式でダンスしたと きは、うれしそうにしてたじゃない」 「そ、そりゃ、君のこと、男だなんて 思ってなかったから」 と、彼女は、いきなり両腕を僕の首 にまわし、甘えるような表情で見つめ てきた。そして、その唇を僕の唇に押 しつけてきた。 僕は、思わず、全身をこわばらせて いた。 さらに、抵抗する間もなく、彼女の 舌が口の中に入ってきた。 僕はそれに、ただ、固くなってどぎ まぎした。 「ねえ、これでもまだ、あたしのこと、 男だなんて思う?」 やっと口を離したところで言った彼 女の鼻声は、ティーンエージャーのも のだとは思えなかった。 90/806 「‥‥も、もう、二度とするなよ」 それだけ言うのが、やっとだった。 「あら、ごめんなさい」 ホリーは、僕の胸に指を這わせなが ら、今度は、ほおにキスしてきた。 「あたしったら、いけない子ね」 僕は、なんだかわけのわからない困 惑の中で、彼女を突き放すことすらで きなかった。 そして一方で、僕のスカートの中で 進行していることを彼女に覚られた ら、生きていけないと感じていた。 「ねえ、まだ、答えを聞いてないんだ けど」 彼女は、僕の耳もとでささやいた。 「あたしのこと、まだ、男だと思って る?」 「そ、そりゃ、もちろん‥‥」 僕が必死の思いで言いかけると、彼 女は、さらに体を密着させてきた。そ 91/806 の腰がセクシーに揺れた。 もう遅すぎた。 彼女の体に触れている、僕のスカー トの一部が大きく出っ張っていた。 「んふ、どうやら、やんちゃ坊主さん は、あたしのこと、女の子だって思っ てるみたいよ」 くすっと笑ったホリーは、かすかに 腰をこすりつけるようにして、そこを 示した。 「あら、彼ったら、あたしのこと、好 きみたい」 彼女の腕がふたたび僕の首にまわさ れ、引き寄せてきたとき、僕はなんと か抵抗しようとした。でも、唇どうし が触れた瞬間、それはあえなく失敗し た。僕の腕は彼女の体にまわり、僕の 舌は彼女の舌とからみ合った。 そのキスは、長い時間つづいた。 美人の女の子を抱きしめ、情熱的な 92/806 キスをしていることで、僕は天国にい るような幸せを感じていた。 でもそれは、僕の年頃の男にとって、 うまくやりこなせるようなことではな かった。 体を離すと、僕のスカートの前にシ ミができ、それが広がりつづけていた。 「あたし、この2年間、ずっとこんな 日を夢見てきたのよ」 彼女は、そう言ってほほえんだ。 「女の子になるって決めたときから、 いつかあなたに抱きしめてもらって、 キスしてもらおうって」 僕は、驚いて彼女を見つめた。 ところがホリーは、さっさと僕から 離れ、ヘアブラシをとって髪の乱れを 直しはじめた。 そして、ふたたび笑いかけると、こ う言った。 「でも、誤解しないでね。もう一度、 93/806 あなたが今みたいなキスをしようとし たら、ひっぱたくから」 ハリーが女の子になったということ に、もはや疑いの余地はなかった。 「君はまちがいなく女の子だよ」 僕は、ため息混じりに言った。 「ハリーならぜったい、こんな、いん ちきなトリックは使わないだろうか ら」 「ほんとにごめんね。でも、あたし、 どうしても知りたかったの」 彼女は、ちょっと神妙な顔でわびた。 「ホルモンをはじめた時から、いつか はあなたで試したいって思ってたの よ。他でもないあなたが、あたしのこ とを女の子だと思うなら、まちがいな いでしょ」 「でも、どうして僕がそう思ったって 言えるんだ? まだ、なんの返事もし てないぜ。悪いけど僕は、本物の女の 94/806 子の方がいいさ」 「あら、あたしが、その本物だってこ とは、結婚式の時だけでも、じゅうぶ ん証明されたんじゃない。その上、今 ‥‥、それは、まちがいなく本物でし ょ」 ホリーはくすくす笑いながら、僕の スカートのシミを指さした。 「それ、着替えなきゃね。30分後に、 美容室の予約が入れてあるから」 彼女はそう言うと、さっそく、ピン クのデニムスカートと新しいパンティ を渡してよこした。そして、バスルー ムに行くように指し示した。 「美容室の予約って、髪の毛をいじる ってことか?」 バスルームでワンピースを脱ぎなが ら、僕は聞き返した。 「僕はこうして、言われたとおり、女 95/806 の子の服を着てるんだ。これ以上、必 要ないだろ」 「必要、あるのよ」 ドアの向こうから、ホリーはなんだ かうれしそうな声で返事してきた。 「校則で、ちゃんと決まってるんだも ん。さっき、ミセス・ウイリアムズに 渡されたでしょ。学生生活ハンドブッ ク。そこに載ってるわ。‥‥すべての 生徒は、美容室を利用し、ヘア、ネイ ル、ボディをつねに美しく保たなけれ ばならない。‥‥それから‥‥、すべ ての生徒は、いかなる時も、その場に ふさわしい服装をしなければならな い。つまり、自由時間はスラックスと かジーンズでもいいけど、授業中は制 服で、特別な行事にはドレスを着るっ てことね」 「えっ? ジーンズでもいいのか? なら、なんで僕はスカートなんだ?」 96/806 僕は、パンツをはきたいと思ってき いた。たとえ、それがどんなパンツだ としても、スカートよりはましだろう。 「あなたはまだ、基礎訓練期間中だか らよ。それが終われば、なにを着ても よくなるわ。1ヵ月後ね。それまでは、 スカートかワンピースって決まってる の」 僕は、パンティを替え、スカートを 履いたところで、今回はストッキング がないことに気がついた。 それで、バスルームを出ながら、そ のことをホリーにきいてみた。 「ああ、あれは、ミセス・ウイリアム ズに、あなたのきれいな脚を見てもら いたかったからよ」 ホリーは、そう言って笑った。 「デニムのスカートの時は、ストッキ ングなんて履かないものなの。合わな いでしょ」 97/806 僕は、ちょっと不安になってきいた。 「その1ヵ月間、毎日の服を決めるの は、どっちなのかな? 君? それと も僕?」 「あら、あたしのセンスを疑ってるわ け?」 彼女は、冗談まじりに、プライドを 傷つけられたことを怒ってみせたあ と、つづけた。 「自分の着るものだもん、あなたが選 んでいいわよ。あたしも、アドバイス くらいはするけどね。決めるのはあな た。服も、ヘアスタイルも、メイクも ね。‥‥どう? それでいい?」 そう言ったあと、彼女はもう一度、 口をとがらせてつけ加えた。 「だいたい、あたしが、あなたに恥ず かしい思いをさせるようなもの、選ぶ と思うの?」 僕は、新しいスカートに手をやり、 98/806 言った。 「でも、これだって‥‥」 「もう、ほんとに手間の掛かる人ね」 彼女は、笑いながらため息をついた。 「おんなじようなこと、何度も言わせ ないでよ。いい? あなたはなにより、 女の子としての生活を経験するため に、ここに送られてきたのよ。あなた を悪くするだけで、なんの役にも立た ないマッチョな考え方を捨てるために ね。それより大事なのは、親切で、思 いやりがあって、思慮深い人間になる ことでしょ。これまで、世の中があな たに押しつけてきた、つまんない『男 らしさ』なんてもの、ここでは、全部 捨てちゃいなさい。これからの2年間、 あなたは、泣きたかったら遠慮なく泣 けばいい。友だちとじゃれ合いながら くすくす笑ったって、気持ち悪いなん て言われない。人から弱いやつだって 99/806 見られることにびくびくする必要もな い。雄犬みたいに振る舞わなくてもい い。つまり、自分の縄張りを広げるた めに、そこら中におしっこしてまわら なくてもいいってことね。肩の力を抜 いた生き方を覚えれば、あなたが見て きたのとはちがう世界が開けるはず よ。これまで持ってきた無意味な闘争 心を勉強に向ければ、一流大学にだっ て入れるわ。学問の世界は、男か女か なんて関係ないしね。ここで女の子と して生きてる間は、男の子では経験で きなかったことが、いろいろ経験でき る。ここでの時間が終わったら、前と はまったくちがうタイプの男として、 社会に戻れるはずよ」 もちろん僕は、問いたださなければ ならなかった。 「じゃあ、どうして君は、そうしな い?」 100/806 と、彼女は、笑って肩をすくめた。 「あたしの場合は、どうも、女の子で いる方が、しっくりくるみたいなの。 自分がきれいなことや、かわいいって ことをうれしく感じてる自分を発見し てしまった。もちろん、誰にも強制さ れてないわ。じっくり考えて、私にと って、女の子でいることの方が正しい って思えたの。あなたに話しても理解 してもらえないのは、わかってたわ。 だから、手紙には『H』としか署名し なかったでしょ。自分で覚悟を決めて、 親に相談して、ホルモンを始めて、鼻 の整形をして‥‥あとは、もう知って るわね」 そこで、立ち上がった彼女は、一足 のスリッポン・シューズをトスしてき た。 「さあ、もう時間がないわ」 僕は、その靴に両足を入れたところ 101/806 で、ぐらついた。 「こんな高いヒールなんて、無理だよ」 「あなたは今、女の子なんでしょ。慣 れなきゃだめよ。だってそれ、女の子 の靴としては、ごくふつうの高さよ。 ハイヒールとも言えないわ。で、あな たは女の子なんだから、ヘアスタイル もちゃんとしなきゃね」 「だけど、美容室なんて、やっぱりや だよう」 その泣き言は、なんだか甘えたトー ンで響いた。もしかしたら、パンティ で過ごした2時間が、もう僕を変えは じめているのかもしれないと感じた。 「ねえ、ここの生徒たちを見て、一人 でも、女装した男の子だって感じた子、 いた?」 僕は、今日ここへ来てから見かけた 生徒たちを思い出しながら、首を振っ た。 102/806 「じゃあ、ここの生徒たちの中に、一 人だけ、女装した男の子が混じってた としたら、どう思う?」 ホリーが僕のことを言っているのは わかったが、だからこそ、僕は首を振 った。 「それなら、ちゃんと女の子に見える ように、ヘアスタイルも変えなきゃ、 ね」 「‥‥わ、わかったよ。行けばいいん でしょ」 その言葉も、単にすねているだけで なく、甘えた感じになった。 「じゃあ、ちゃんと女の子に見えるよ うに、歩き方とかも気をつけてね」 部屋を出て、足早に廊下を行きなが ら、ホリーは笑った。 「いずれ町に出たとき、あなたがから かわれるのを見たくなんてないから」 僕は、あわてて彼女を追おうとした 103/806 が、靴がいうことをきかない。 「ずるいよ。そっちはヒールに慣れて るんだから」 置いて行かれそうになった僕は、叫 んでいた。 立ち止まって笑いながら僕を見てい たホリーは、足を一直線上に出し、腰 をちょっと振るようにするといいとア ドバイスしてくれた。 そんな歩き方はいやだったが、言わ れたとおりやってみると、たしかに歩 きやすくなった。 校内の美容室には、すべての準備が 整えられていた。水色の化繊のスモッ クに着替えさせられ、椅子に座ると、 その背もたれがシンクの上に後ろ向き に倒された。 そのあと、シャンプーされて、なん だか気持ちよくなってきた僕は、髪を 104/806 いじられるうちに、いつの間にか眠っ てしまった。 眉を引っ張られる痛みを感じて目を 覚ますと、ひとりの女の子が僕の方を じっと見つめていた。明るい茶髪が肩 に掛かり、眉はきれいなアーチ型にな りかけている。 「‥‥えっ、ぼ、僕に、なにをした?」 それが鏡に映った自分だと気づいた ところで、僕は悲鳴に近い声を上げて いた。 「落ち着いてよ。そんなに取り乱さな いで」 ここの専属らしい美容師が言った。 「最初は違和感があったとしても、見 慣れれば、ぜったい気に入るわ。だっ て、ほんとに、すごくかわいいんだも ん。自分が、これほどの美人だってこ と、知ってた?」 105/806 「そ、そんなこと、言われたこともな い」 「じゃあ、それにも慣れなきゃね。こ れからは、いやというほど言われるは ずよ」 彼女は、気軽な口調でそう言ったが、 僕はひどく憂鬱になった。 その部屋に入って2時間で、僕の姿 はすっかり変わっていた。 エクステンションを着けて長くなっ た茶色の髪、抜かれて形を整えられた 眉、カールされ、その上マスカラで長 さとボリュームを増したまつげ、チー クはペールピンクで、口紅はそれより も濃いピンクだった。その口紅と色を 合わせた両手のつけ爪は、1インチも あり、指先から突き出ていた。 鏡の中のその姿が、いくらかわいか ったとしても、そんなことで僕の憂鬱 106/806 が晴れるものではない。 「じゃあ、最後ね」 美容師はそう言うと、備え付けの電 子レンジから平たい容器を取り出し た。 「スカートを脱いでくれる?」 「えっ?」 何が始まるのかわからず、ホリーを うかがうように見ると、彼女はうなず きながら答えた。 「ワックス脱毛よ。もっときちんと脱 毛しといた方がいいでしょ」 そして、後ろの椅子に座るように視 線で示した。 薄っぺらなパンティで冷たい椅子に 腰掛けるのはまだがまんできたが、そ のワックスの熱さはかなりのものだっ た。さらに、美容師が固まったそれを 引っぺがした時には、僕は悲鳴を上げ ていた。 107/806 「これでいいわ。今後2週間は、すべ すべで、毛のまったくない脚でいられ るはずよ」 美容師は、自分の仕事の成果を誇る ように言った。 「あなたはもう、どこに出しても恥ず かしくない、かわいくて、可憐で、誰 より脚のきれいな女の子よ」 「ほんと。うらやましいわ」 ホリーがからかうような視線を向け てきた。 「たった1回のワックスでこんなにな れるなんて、あたしの2年間のホルモ ンはなんだったの?」 「もう‥‥いい加減にしてよ」 僕は、ぼそぼそと言った。 「もう、戻ろうよ」 部屋に戻るやいなや、僕は、スカー トとトップスを脱ぎ、壁に投げつけた。 108/806 「見ろよ! いったい、僕をどうした いんだ!」 そして、さっきから言いたかったこ とを、大声でぶちまけた。 「この髪、この顔、この脚。これじゃ、 どう見たって‥‥」 「メジャー・リーグ・ベイブ(※)よね」 (※訳注 ‘Major League Babe’メジャー・リ ーガーが恋人にするような超美人) ホリーは、そうからかってきた。 「あなた、そうとしか見えないわよ」 「ありがとう‥‥って言うとでも思っ てるのか? クソ! 女の服着せられ て、女のまねさせられて、その上もう、 すっかりそう見える。もし、このまま 家に帰って仲間と会ったら、やつらが どう思うか、考えただけで、ぞっとす る!」 「言ってあげましょうか?」 ホリーは、満面の笑みで言った。 109/806 「女の子にはからきし奥手だったバリ ーは、あなたを見たとたん、もじもじ 顔を赤くするでしょうね。ジェイクは、 あなたの裸を思い浮かべてニヤニヤす るはずよ。自信家のトムは、すかさず ナンパしてくると思うわ。『君こそ運 命の人だ』なんてね。他の連中も、だ いたい、あなたの想像してるとおりよ」 「‥‥想像? なんで僕が、そんなこ と想像してるって思うんだ?」 「だって」 ホリーは、また笑いながら言った。 「あなたみたいな美人でかわいい子っ て、じつはいつだって、男の子たちか らどう見られてるのか、気にしてるも のよ。ふふ、『考えただけで、ぞっと する』とか言っちゃってさ。うそつき」 「じょ、冗談じゃない。僕は男だって 言ってるだろうが」 なんで彼女は、そんな馬鹿なことを 110/806 考えるんだろう? ホルモンのせい で、脳に副作用でも出てるのか? 頭に来た僕は、彼女の首に手を伸ば し、絞めようとした。と、その時、廊 下からなんだか騒がしい声が聞こえて きた。 僕の手からすり抜けたホリーは、ド アまで走り、そこを開けた。 と、そこには、何人かの女の子たち ‥‥と言っていいのかどうか‥‥が立 っていて、こちらをのぞき込んでいた。 「新しい子が入ったんでしょ? 彼 女?」 一人がきいた。 「ふたりが美容室を出てくるとこを見 た子がいて、すっごいかわいい子だっ たって言うから‥‥」 もう一人が言った。 「ワ~オ、ほんとだぁ!」 三人目が、僕の体に目を走らせなが 111/806 ら歓声を上げた。 その視線に、僕はやっと、ベッドの 上で裸になっている‥‥いや、ブラと パンティを身に着けている自分の姿に 気がついた。その恥ずかしさに、あわ てて毛布をつかみ、胸から下を隠して いた。 「ふふ、ここには女の子しかいないの よ」 また別の子が言った。 「女の子どうしなんだもん、恥ずかし がらなくたっていいわ」 興味津々という顔で迫ってくる女の 子の集団に抗うことなんて、たぶん、 誰にもできないだろう。 僕が何か言う前に、彼女たちは、そ れぞれ自分の名を口にしながら、部屋 の中になだれ込んできた。 ベッキー、スーザン、メアリー、キ ャシー、カーラ‥‥、僕はすぐに、誰 112/806 が誰だかわからなくなった。 「何をやって、ここに入れられたの?」 いきなり、きかれた。 「新入生なのに、なんでそんなにかわ いいの? 経験でもあるの?」 僕が答える前に、次から次へと質問 が浴びせられた。僕自身がいったん、 それを区切って、いくつかの質問にま とめて答えなければならなかった。 僕を取り囲む女の子たちの関心は、 次第にディテールに入り込み、ハリー と僕の物語や理科室放火事件につい て、根掘り葉掘りきいてきた。 彼女たち全員が、ホリーと僕が幼な じみだということに興味を示した。 「じゃあ、もしかしてあなたが、ホリ ーの言ってた結婚式の時の男なの?」 一人がきいた。 「でも、ホリーは、あなたがここに来 ないようにって、何度も手紙に書いた 113/806 んでしょ。それなのに、どうして?」 それが、二人目の疑問だった。 「基礎訓練期間が終わったら、早く誰 かとデートしたいでしょ?」 三人目は、ちょっとちがう種類の質 問をしてきた。 「ああ。僕が、その結婚式の時の男だ よ。たぶん」 僕は照れ笑いしながらそう言って、 そこで、自分の着けているブラとパン ティを見下ろした。 「ホリーの手紙にそう書いてあったの はたしかだけど、まさか、こんな格好 させられるとは思ってなかったから ね。それから、デートしたいのはやま やまだけど、こんな格好のやつとデー トしてくれる女の子なんて、まずいな いんじゃないかな」 「えっ? ちがうわよ。あたしは、男 とデートしたいかってきいたのよ」 114/806 三人目の質問者がそう言った。 「まさか」 僕は、あわてて首を振った。 「相手は、女の子じゃなきゃやだよ」 「忘れたの? あなたが、その女の子 なのよ」 僕にそのことを思い出させ、念を押 すように、一人が言った。 「あなたなら、男がほっとかないはず よ」 「でも、あんまりたきつけない方がい いかもね。この子が、男なんか興味な いって言っててくれた方が、あたした ちにめぐってくるチャンスは多いって もんでしょ」 他の一人が、笑いながらつづけた。 「もし、彼女がその気になったら、い い男がみんななびいて、いきなり男ひ でりよ」 「ちょ、ちょっと待って。ってことは、 115/806 みんな、いつも男とデートなんかして るのか?」 僕は、信じられない思いできいた。 「ええ、ボーイフレンドたちは、あた したちのことを、完全に女の子として 扱ってくれるわ。男の人にぎゅーっと 抱きしめられて『かわいいよ』って言 われるのって、すごくすてきよ。どの みちあたしたち、ここでは女の子やっ てなきゃいけないんだから、どうせな ら、思いっきり楽しんだ方がトクでし ょ」 僕は、思わず頭を振っていた。これ は、現実なのか? 「マジで言ってるわけ? だって、こ の町の男たちは、君たちの正体を知っ てるんだろ。やつらは、それでも平気 なのか?」 「このグレート・インディアン・リバ ーって、そういうことに、すごくリベ 116/806 ラルな町なのね。まあ、20年前にこの 学校ができたおかげなんだけど」 ホリーは、そんなふうに説明しはじ めた。 「それ以来、ここに入っている子の家 族たちが、新しい娘にいつでも会える ようにって、次々に引っ越してきたの。 それに、この学校を卒業して大学へ行 った人たちも、学校を出たあと、この 町に帰ってくることが多いのね。だか ら、町全体が、この学校の方針に理解 があるの。たとえば、自分の兄弟とか 息子が、ここの女の子たちとつき合っ てたって、それをとやかく言う人はい ないわ。あたしたちが、女の子らしく 振る舞ってるかぎり、町の人たちは、 あたしたちのことを女の子として接し てくれる。町のモールで女の子として バイトしてる子もいるし、女物の服な んかも、みんな、そこで買ってるのよ。 117/806 それに、たいていの子は男の子とデー トしてるし、特定の彼氏のいる子だっ て少なくないわ」 「いったん慣れちゃうと、女の子でい ることって、ほんとに楽しいわよ」 僕の隣にいた子が、興奮気味に言っ た。 「かわいい女の子のためなら、男って、 たいていのことはしてくれるんだも ん。あたしたちがしなきゃいけないの は、きれいでいることと、頼るふりし て彼を立ててあげることだけ。あたし たちが甘えれば甘えるほど、男って、 自分は強くて、この子を守ってやって るんだって気になるのね、きっと。あ なた、これまで、女の子をデートに誘 う時って、ものすごく不安になったで しょ。女の子なら、それもないわ。決 定権を握ってるのは、あなたよ。誘っ てきたのがかっこいい男なら、いっし 118/806 ょに出かければいい。デートの最中、 彼は、あなたの気持ちをつかもうと必 死になるわ。あなたは、ただ、笑いか けさえすればいいの。食事の支払いか ら、何から何まで、全部彼がやってく れるから」 「でも、もちろんあなたにだって、そ んな彼の努力に対する支払いの義務は あるけどね」 僕の後ろにいた女の子が、くすっと 笑いながらつけ加えた。 「感謝を込めて、彼のほおにチュッっ てしてあげるの。もし、彼がほんとに かっこよくて、デートが楽しかったの なら、彼の舌が口に入ってくるのくら いは、許してあげてもいいかな」 他の男の舌が、自分の口に差し込ま れているというイメージに、僕は胸が むかつく思いがした。 と、そこで、ホリーと視線が合った。 119/806 彼女は僕に、意味ありげな笑顔を向け ていた。 ‥‥そうか。他の男の舌が、僕の口 の中に入ってきたことは、もう、ある んだ。その時、僕も、自分の舌を、他 の男の口の中に入れたんだ。 僕は、今日の昼間、この部屋で、ホ リーとしていたことをなんとか忘れよ うと、自分の方からホリーに話を振っ た。 「だけど、ホリー。前、手紙に、ガー ルフレンドができたって書いて来なか ったか?」 「そうよ、今ここにいる子たちは、み んな、あたしの大切なお友だちよ。彼 女たちは、落ち込んでるあたしの話を 聞いてくれて、髪の毛のセットのしか たとかいろんなことを親切に教えてく れたわ。最初の頃のつらかった時期を 乗り越えられたのは、みんな、この子 120/806 たちのおかげよ」 ホリーは、他の女の子たちの顔を順 に見ながら言った。 「あの時、あたしが書いたのは、そう いう意味だったの。たぶん、あなたに は、伝わらないと思ってたけどね。そ れに、はっきり書けなかった事情もあ るんだけどね。更正期間が終わって元 に戻る場合も考えて、ここであたした ちが女の子になってることは、以前の 知り合いには話しちゃいけないことに なってるの」 「それは、僕も話さないって誓えるな」 僕は、ちょっと笑いながら十字を切 ってみせた。 「まあ、自慢して話すようなことじゃ ないわけだし」 「ねえ、ホリー、あなたが彼女のお姉 さん役になったって、ほんと?」 ジェニーという名らしい女の子が、 121/806 ホリーにきいた。 「すごいわ」 「うん、ミセス・ウイリアムズにいろ んな約束をさせられたけど、無理を言 って頼んだの。フェイスが意地悪な先 輩に当たって、ひどい目に遭うのを見 るのはいやだったから」、 「えっ、彼女、フェイスっていうの? かわいい名前ね。いいな」 ホリーがさっきメアリーと呼んだ女 の子が言った。 「メアリーなんて、どうしようもなく 平凡でしょ。うちの両親も、あなたの ママやパパみたいに、もっとかわいい 名前を考えてくれたらよかったのに」 僕は、ここでの女名前も、入所時に 親がつけるらしいことを納得しなが ら、冗談を言った。 「もし、僕をここから逃がしてくれる なら、この名前、あげてもいいよ」 122/806 「フェイス、そんなこと、言うもんじ ゃないわ」 彼女は、急に真剣な顔になって言っ た。 「捕まって、連れ戻されたあと、どん な目に遭うか知らないから言えるの よ」 「だけど、もし、捕まらなかったら?」 僕が強い調子で聞き返すと―― 「無理よ、ぜったい」 女の子たち全員が、同時に、声をそ ろえて同じことを言った。 ホリーは、洗脳なんかしていないと 言ったはずなのに‥‥。 僕は、彼女たちのそんな反応に怖れ を感じたが、そのことが逆に、僕の決 心を固めさせた。 チャンスをつかみ次第、僕はここを 脱走する。帰ったら、両親が折れるま で許しを請い、説得するつもりだ。 123/806 やはりやつらは、ハリーをホリーに 変え、その上、彼に、あたかもそれが 自分の意志であるかのように思いこま せたのだ。やつらがそれを、僕にしか けて来る前に、逃げ出さなければなら ない。 女の子たちのおしゃべりはその後も つづき、彼女たちがそれぞれの部屋へ 戻って行ったのは、夜も更けてからだ った。それまでに、彼女たちは僕に、 脱走を考えることなどよせと念を押 し、ミセス・ウイリアムズに渡された ハンドブックをよく読めと約束させ た。 それに、まだ話し足りないから、今 後、朝食の時は、このグループで集ま ろうとも約束した。 彼女たちが出て行くと、ホリーはメ イクを落とす方法を教えてくれ、その 124/806 あと、シルクのパジャマを差し出した。 「ネグリジェは、まだ無理だと思って」 そのパジャマはピンク色で、薄手の 布で作られた袖も、ズボンも、丈が短 い。しかも、袖口や裾まわりが大きな 白いレースで飾られていた。 「まあ、いい方に考えとくよ。ひらひ らがこの程度なのは、きっと神のご加 護にちがいない」 そのズボンを履きながら、僕は、ぶ つぶつ文句を言った。 「これなら誰も、僕のことを女の子だ と思ったりしないって、神様は考えた んだろうな」 でも、ホリーは、僕の皮肉のあしら い方をよく知っていた。 「ええ、それは大事なことよね」 彼女は大げさにうなずいてみせた。 「フェイス、もし、男の子とまちがえ られるのを心配してるなら、あたしが 125/806 着てるこのかわいらしいベビードール を貸すわよ」 「いつも、いろいろ気を使ってくれて ありがとう」 パジャマの襟の下に入った長い髪を 外に出しながら、僕も言い返した。 「僕の成長過程は、まだ、トムボーイ (訳注 おてんば) 段階だからね。でも、 ボーイであるうちは、なんの問題もな いよ」 「そんなに、くよくよしないで」 ベッドに体をすべり込ませた彼女 も、さらに反撃してきた。 「2週間うちには、あなたのことを男 の子だなんて、誰も言わなくなるわよ。 あなた自身もふくめてね」 ホリーは単にからかっているだけだ と思いながらも、彼女の最後の言葉が 耳について、僕はその夜、なかなか寝 126/806 つけなかった。 何度も寝返りを打ち、やっと眠りに 落ちると、今度はおかしな夢を見た。 夢の中で僕は、前の学校に戻って、 そこで生活している。なのに、なぜか みんなからフェイスと呼ばれている。 朝、シャワーのあと、ジーンズをは いてTシャツを着たつもりなのに、鏡 を見ると、それが、チェックのスカー トと白いブラウスの女の子の制服に変 わっている。 母さんも親父も、友だちや先生も、 みんな、ずっと僕をフェイスと呼びつ づけ、女の子のように扱う。 トイレに行きたくなって、学校の廊 下を急ぎ、駆け込もうとドアに手を伸 ばした瞬間、「男子トイレ」のプレー トが「女子トイレ」に変わる。あわて てもう片方のドアを見ると、こちらも 「女子」のままだ。けっきょく「女子 127/806 トイレ」に入るしかないのだと覚悟を 決め、思い切ってドアを押す。 そこで僕を迎えたのは、大きな鏡と 棚のついたシンク。小用の便器はもち ろんない。 しかたなく個室に飛び込んだ僕は、 まるで生まれてからずっとそうしてき たとでもいうように、ごく自然にスカ ートをたくし上げ、パンティを下ろす。 「よかった、ここは、まだそのままだ」 座った僕は、股間を見ながらそう思 う。 でも、両脚の間に引っかかっている のは、ピンクのレースのパンティだ。 朝、シャワーのあとにはいたのは、 白のブリーフだったのに、いつの間に 変わったんだろう? 僕は今朝、まちがいなく、ブリーフ とジーンズ、Tシャツを着たはずだ。 それなのに今着ているのは、チェック 128/806 のスカートに白のブラウス、レースの パンティ、それに白いスリップ‥‥こ の、胸を締め付けてくる感覚からする と、ブラもつけているようだ。 「なにかが、まちがってる」 個室から出たところで、シンクのコ ーナーに愛用のリュックを置きなが ら、僕は首をかしげる。 手を洗って目を上げると、さらに悪 いことが起こっていた。鏡の中にいる のは、長い髪の女の子。男の子だった 時の黒っぽくて短い髪でなく、ライト ブラウンの長い髪が揺れる女の子にな っているのだ。 驚きながら、さっき置いたリュック に手を伸ばすと、今度はそれが小さな ピンク色のものに変わっている。かろ うじてリュックらしいデザインはとど めているが、これはどう見ても、女の 子たちがハンドバッグとして持つもの 129/806 だ。 でも、それだけではすまなかった。 その時、いきなり背後のドアが開いて、 女の子たちの一群が入って来た。 女子トイレにいたことを、どう言い 逃れしようとおたおたしていると、彼 女たちは、鏡越しに僕に笑いかけて通 り過ぎる。 「ハーイ、フェイス」 そして、何ごともないように個室に 消えて行く。‥‥。 その夜、僕は何度も目覚めた。そし て、ふたたび眠りにつくと、一時停止 していたビデオが再スタートするよう に、同じ夢のつづきを見た。 トイレから出た僕は、スカートのし わを気にしながら、廊下を歩く。 教室に入ると、ごく自然にスカート の後ろをなでつけながら席に着き、バ 130/806 ッグを傍らに置くと、斜め前の席のか っこいい男子生徒に笑いかける。 学校にいる間中、クラスメイトたち は、僕をフェイスと呼び、僕はそれに ほほえみ返す。 クラスの男たちは、みんな、僕にち ょっかいを出してきて、僕も、それを 上手にあしらう。 気味悪いことに、そんなふうにしな がら僕は、男たちが僕のことをかわい いと思っているのを感じて、密かにそ のスリルを楽しんでいるのだ。 当然、目覚めたときの気分は最悪だ った。でも、そんなことは、ホリーに は口が裂けても言えない。 もしかして、ハリーにだったら話し たかもしれない。彼は、いつだって信 頼できた。だけど、ホリーはちがう。 もし彼女に、僕が女の子に変わってい 131/806 く夢を見たなどと言えば、彼女は飛び 上がって面白がり、すぐ、友だちのと ころに行って、言いふらすにちがいな い。なにしろ彼女たちはみんな、現実 に、僕を女の子にしたがっているのだ から。 「さあ起きて、お寝坊さん」 僕はまだまどろみの中にいたいの に、ホリーが呼びかけてきた。 「シャワーを浴びるわよ。髪をセット して、メイクして、服を着て、90分以 内に朝食に行かなきゃいけないのよ」 「だけど、今日はまだ日曜だろ。休み じゃないのか」 僕は、なんだか妙に張り切っている ルームメイトに言った。 「休みは休みよ。でも、日曜の朝食だ けは全員でとることになってるの。校 則読まなかったの?」 「ゆうべは、読むには気が散りすぎて 132/806 さ」 僕は、ベッドを出て、バスルームに 向かいながらつぶやいた。 「なにしろ、おしゃべりな女の子たち が、ずーっといっしょにいたんだから」 「朝食のあと、時間をとって、読みな さいね」 ホリーは、そう言いながら、僕につ づいてバスルームに入ってきた。 「ちょ、ちょっと。いっしょに使うつ もりなのか?」 僕は、彼女が目の前にいるのが信じ られない思いで言った。 「いけない? あたし、あなたが何を 持ってるか、知ってるわよ。あたしと おんなじでしょ」 「ま、だいたいはね」 僕は、皮肉を込めて、まず、そう言 った。 「だけど君は、女の子じゃなかったの 133/806 か?」 「そうよ。あなたも、でしょ」 「ま、まあ、多少は。もちろん僕自身 は、そのつもりはないけど」 僕は今や、彼女から目をそらし、壁 に向かって話していた。ところが、彼 女の方は、それにおかまいなしにベビ ードールとパンティを脱いでいき、シ ャワーを浴びはじめた。 「早くいらっしゃいよ」 彼女はまるで、飲み物でも勧めるよ うに、シャワーの中から呼びかけた。 「ふたりいっしょの方が手間も省ける し、お互いの背中も流せるでしょ」 「い、いや、僕は、あとでいいよ」 もし今、シャワーの中に入ったりし たら、どう隠しても、彼女に恥ずかし い状態を見られるのははっきりしてい た。 いったいどういう心境になれば、大 134/806 きなお尻とおっぱいのある昔からの親 友を、冷静に眺められるというのだ。 「ま、好きにして。そうだ。その間に、 あなたが着る服、なにかかわいいのを 選んどいてよ。日曜の朝食は、全員ド レスアップするのが決まりなの。変な もの選んじゃダメよ。あなただって、 ミセス・ウイリアムズがご機嫌ななめ になるのはいやでしょ」 そう、もちろん僕だって、親愛なる ミセス・ウイリアムズのご機嫌はとっ ておきたい。脱走したとき、拷問台に 連れ戻されないためにも。まあ、あの 女が推し進める、少年をおとなしい少 女に変えるなんてこと自体が、いちば んひどい拷問なのだが。 「なにかかわいいの、って言われても ‥‥」 僕は、彼女のおっぱいを見ないよう にしながらきいた。 135/806 「かわいい妹に、もう少しヒントをく れないかな‥‥お姉さん」 「そうね、あなたが女の子を見る時、 いちばん気を引かれる服装を思い出し てみたら」 シャワーの音にかき消されそうにな りながら、ホリーの声が届いた。 いったい、彼女はわかっているんだ ろうか? 僕がいちばん気を引かれる 女の子の服装というのは、今の彼女の 状態だということを。 自分のクローゼットを開けた僕は、 そこに吊された服をじっと見つめた。 なにかかわいいもの‥‥あらためて 考えてみると、何をもってかわいいと いうのか、その手がかりすら持ち合わ せていなかった。 選ばなければいけないのは、たぶん、 ワンピースか、それとも、スカートと 136/806 トップスの組み合わせなのだろうが‥ ‥。 色は? 女の子たちは、靴と服を合 わせるとかいうし‥‥考えれば考える ほどややこしそうだ。 「もお、子供じゃないんだから、それ くらいできないの?」 バスルームから出てきたホリーが、 背後で言った。 「きのう、自分で選びたいって言った のはあなたでしょ。そうね、そのブル ーのワンピにしたら? それなら、あ なたの目の色にも合ってるわ。その下 に何を着けたらいいかくらいは、自分 で考えなさい」 僕は、そのワンピースをベッドの上 に広げ、それに合うと思われる無難な ランジェリー類を選び出した。白のコ ットンパンティ、ブラ、ハーフスリッ プ、それに肌色のパンストだ。 137/806 女の子用の下着とかを身につけなけ ればならないにしても、僕は、ひらひ らの着いたものや、色つきのもの―― 何を思ってるのか、母さんが用意した ほとんどは、そんなものだった――は 選びたくなかった。 どうやらコットンパンティは2枚し かないようだから、僕は毎日、下着を 洗わなければならないだろう。それで も、その方がましだ。 僕がシャワーを浴び戻ってくると、 ホリーは僕を座らせ、髪をセットしは じめた。 「よく見てるのよ、フェイス。女の子 は、いつも自分をきれいに見せてなき ゃいけないの。ずっと、あたしがやっ てあげるわけにはいかないんだから ね」 クソ、僕は、子供みたいに扱われる 138/806 のは好きじゃない。ましてやこんな、 ちっちゃな女の子みたいに。 逃げ出すチャンスをのんびり待って いる暇などない気がした。こんなこと をつづけていたら、僕は、いつの間に か、どうしたらかわいく見えるかとか、 この服とこの靴は合っているかとか、 そんなことばかり考えるようになって しまいそうだ。 すぐにでも、こんな状況から脱出す る方法を見つけたいと思った。 ホリーは、僕の髪をカールし、簡単 なメイクをした。もちろん、美容室で やってもらった昨日のメイクに比べれ ば見劣りするものだったが、それでも 僕は、自分の顔にもともと、魅力的な 女の子になる可能性が潜んでいること に気づかざるを得なかった。たとえ、 それがにせ物にすぎないとしても。 いや、だからこそ、やつらが僕を本 139/806 物に変えてしまうのを、断固阻止しな ければならないのだ。 「あなたって、ほんとに、化粧映えの する女の子よね」 自分自身がそう感じていたからこ そ、ホリーの言葉に反射するように、 僕は叫んでいた。 「そんなふうに言うな! 僕は男だ。 男であることが好きだし、それを捨て るつもりなんてない。誰も、僕を変え ることなんてできないんだ。君だって、 それに、あの校長室のババアだって!」 こちらが激昂すれば、ふつうの人間 ならたじろいで会話の方向を変えよう とするだろう。でも、ホリーは、ふつ うの人間ではなかったようだ。 「くだらない愚痴を並べる前に、パン ティをきちんとはくことを覚えなさ い! フェイス・ジョアンヌ・ジョー ダン!」 140/806 ホリーは、命令するように言った。 「いい? あたしは、あなたのためを 思って言ってるのよ。はっきり言って、 あなたは、男の子としてはたいした取 り柄もないわ。でも、見てよ。あなた は、たいていの女の子が夢見てるよう なものをいっぱい持ってるのよ。肌は すべすべだし、髪は、カールがよく似 合う。まつげも長くてかわいいわ。あ なたに似合わない服を探す方が難しい くらいよ」 「君はほめてるつもりかもしれないけ ど、そんなこと言われて、男がどれほ ど傷つくのか、わかってるのか? こ れまで誰かに、面と向かってそんな侮 辱を受けたことは一度もないね。それ を平然と言える君という人間を疑う よ。僕のことを、いつからそんな目で 見てた? だいいち君は、女の子にな りたいんじゃないのか? 男からも、 141/806 ちゃんと女の子として見られたいんだ ろ? それなら、男に対して、そんな 失礼な言い方はしない方がいいと思う けどな」 「安心して。あなたはもう、そういう 対象からははずれてるから」 彼女は、肩をすくめて言った。 「たしかに、あなたと再会するまでは、 いろいろ期待や不安もあったわ。あな たが、あたしをちゃんと女の子として 認めてくれるかどうか、それに、もし かしたら、二人の関係が、友情とはち がう方向に発展しちゃうんじゃないの かって。きのうキスしたのは、その2 つを確かめたかったからよ。でも、2 つめも心配なかったわ。だって、あた しは、あなたに何も興奮しなかったん だもん。つまり、あたしたちの友情は 変わらないってことね。で、女どうし の親友として言わせてもらえば、さっ 142/806 きからあなたの言ってることは、贅沢 な愚痴にしか聞こえないのよ」 「ああ、僕だって、君に興奮なんてし なかったさ」 僕は、悔し紛れに口走っていた。 「そうよね」 ホリーは、笑いながら言った。 「あなたは興奮なんてしなかった。た だ、スカートとパンティを汚しただけ よね」 「もう黙れ」 僕は、そう言って、話題を変えた。 「遅くなれば、あのドラゴンレディが 探しに来るんじゃないのか。さっさと、 その朝食とやらに行こう」 「ミセス・ウイリアムズは、すごく優 しい人よ。あなたにも、そのうち、わ かるわ」 いったい、あの魔女は、ホリーにど んな魔法をかけたのだろう。なにしろ、 143/806 あの悪ガキを、すっかり女の子に変え てしまったのだ。そうとうな魔力にち がいない。 ヒールを履いていることで、僕の歩 き方は、スローペースになったし、い つもとちがうものにもなった。 バランスをとって歩こうとすると、 足を、もうひとつの足の真ん前に出し、 一直線上を進むようにしなければなら ない。それ自体はさほど難しいことで はないのだが、そんなふうに足を送る と、どうしてもお尻が左右にスイング する。なんだか、一歩ごとに、自分の 体に女の子の感覚が刻まれていくよう な気がするのだ。きっとこれも、僕を 女の子に変える卑劣な陰謀にちがいな い。 「いつも、ヒールを履いてなきゃいけ ないのか?」 144/806 僕は、文句を言った。 「ずっとこんな歩き方しかできないな んて、最悪だ」 「だからもう、つまんない愚痴はやめ てよ」 彼女も、そうとういらだっているよ うに見えた。でも、そんなこと知っち ゃいない。 彼女がいくら、女の子になることは すばらしいとか言っても、僕にはまっ たく理解できない。この靴にしてもな んにしても、がらくたとしか思えない。 ましてや、女の子らしくほほえみ返す なんて、ぜったいにいやだ。 「こんな気の狂った場所からは、すぐ にでも逃げ出してやるさ」 僕は吐き捨てた。彼女が敵意を向け るなら、こっちだってそうするまでだ。 朝食の席でも、僕らの間には険悪な 145/806 空気がただよいつづけた。 そのせいかどうか、部屋に戻ると、 彼女はどこかへ出かけると言いだし た。そして、留守の間に、校則をしっ かり読んでおけと言った。 朝までは(脱走のためにも)彼女に学 校内を案内してもらいたいと思ってい たのだが、頭に来ていた僕は、彼女が 早く出て行ってくれることを願った。 「ふ、大事なデートってか?」 僕は、いやみを込めて言った。 ホリーは、そんな挑発にはのりたく ないという感じで、グリーンのリボン を使って、髪をポニーテールにまとめ、 すました顔で答えた。 「いいえ、お友だち二人と町へ行くだ けよ。男の子を引っかけにね。いい娘 にしてたら、あなたもそのうち連れて ったげるわ」 朝食会用のワンピースを脱いだ彼女 146/806 は、腰に張りつくほどタイトな黒のミ ニスカートに着替えた。 「これで、今日も大漁よ」 そう言ってほほえむと、ショルダー バッグをかけた彼女は、あ然とする僕 を尻目に、さっさと出て行った。 僕の親友は、自分のことを女の子だ と思っている。彼は女の子の服を着て、 メイクしている。彼のルックスは、並 みの女の子ではかなわないくらいかわ いい。彼のキスは、僕が経験したどの 女の子とのキスより、僕を興奮させた。 そして僕は、この狂気の館で、2年 間、女の子として暮らすことを強要さ れている。このままでいれば、いつの 間にか、僕自身も、自分を女の子だと 思うようになるのだろうか?。 もし、逃げ出すチャンスが見つから なかったとしたらどうする? ホリーのように狂ってしまう前に、 147/806 たぶん僕は自殺するだろう。 僕は、ベッドの上でくつろいで―― 少なくとも、ワンピースとストッキン グが許す範囲でくつろいで――、校則 を読み始めた。 服装についての規定は、おおよそホ リーの言っていたとおりだった。 毎日の学校生活では、全生徒が制服 を着用する。スカートとブラウス、そ して白のニーソックスだ。下着につい ての規定もあり、それにふさわしいラ ンジェリー、つまり、パンティ、ブラ、 スリップを着けることになっていた。 軽い化粧とコロンは許される。髪は華 美にならない程度のセットに心がけ る。必要以上のアクセサリーは禁止だ。 自由時間については、カジュアルウ ェアでいいが、グレート・インディア ン・リバーに来て1ヵ月に満たない生 148/806 徒は、スカートかワンピースに限られ る。スラックスやジーンズ、ショート パンツがOKになるのは、その期間を 過ぎてからだ。メイクやアクセサリー については、各自の判断に任される。 日曜の朝食会のような特別な行事の 際は、ドレスアップした服装をしなけ ればならない。ワンピースにしても、 スカートとブラウスの組み合わせにし ても、ドレッシーなものを選ぶことが 決められている。逆に、金曜日につい ては、授業時間中も制服でなくてよく、 カジュアルウェアの着用が許されてい る。 衛生の項目も、微に入り細にわたっ ていた。 すべての生徒は、洗髪やブラッシン グなど髪の手入れを怠らず、いつも清 潔に保っていなければならない。ヘア スタイルは決まった形はないが、長い 149/806 髪にする場合は前髪を切り、顔が隠れ るような髪型はしない。 爪についてもいつも手入れし、マニ キュアすることが決められていた。エ ナメルの色や種類の選択は、各自の自 由だ。 また、むだ毛処理についても一項が 設けられていた。周期的な脱毛に心が け、いつも、余分な体毛のない状態に しておくことが決められている。 要するに、女の子が日頃やるような ことについては、すべてやらなければ いけないということだ。 新入生に魔法をかけるらしい例の1 ヵ月間は、基本的に外出禁止だが、そ れを過ぎれば、外出簿にサインをする だけで外出できる。ただし、アルバイ トの可否や、門限の時間は、それぞれ の学業成績に応じて段階的に定められ ている。 150/806 その門限以上にキャンパスを離れた 場合は、脱走と見なされ、連れ戻され たあと、罰を受ける。そして、成績な どに応じて与えられていたすべての特 典を、3週間剥奪される。さらに、二 度脱走を繰り返した場合は、直ちに裁 判所に逆送致されることになってい た。その場合は、あらためて、以前犯 した犯罪に見合った刑が言い渡され、 執行される。 僕は、脱走したあと、親に泣きつけ ばなんとかなると思っていたのだが、 この逆送致の規定はちょっとやっかい かもしれない。判事――特に、少年を こんな学校に送るような判事――を言 いくるめるのは、簡単ではないだろう。 でも、どうにかするしかない。 校則の規定は、他にも、ここでの生 活のあらゆる面におよんでいた。 授業とカリキュラムについて、自由 151/806 時間について、服装について、報奨特 典――たとえば、オリンピックサイズ のプールの使用特権まで含まれていた ――について、手紙など外部との通信 について、家族の訪問について‥‥。 成績など条件を満たせば、長期休暇 の間、帰郷することも、週末、家族と いっしょに過ごすことも許されてい た。 それを読んで、あることに気づいた 僕は、自分は、あの親父や母さんと休 暇を楽しむことなどないだろうと感じ た。 あることというのは、例の結婚式の ことだ。 あの時ホリーは、この規定により、 家に帰っていたにちがいない。そして たぶん、僕の親父や母さんは、そのこ とを知っていた。あの女の子の正体を 知っていながら、僕には教えず、息子 152/806 が女装した男友だちと恋に落ちるのを 見て笑いものにしたのだ。 脱走のため、この家族休暇の規定は 利用できると思ったが、そうやって家 に帰ったとしても、僕は両親を許すこ となどできないだろう。 校則を読み終わったところで、僕は ベッドを出て、あらためてクローゼッ トの中を調べてみた。 たしかにそこには、あらゆる種類の 女の子用の服が並んでいた。制服らし いブラウスとスカート、カジュアルな もの、ドレッシーなもの、そして、そ のそれぞれに合わせた靴。僕が女の子 として暮らしていく上で必要なもの は、おおかた揃っているようだった。 ただし、パンツの類は一着もない。広 いクローゼットのどこを探しても、ジ ーンズなどは見あたらなかった。 153/806 ドレッサーの引き出しの中ももう一 度見てみたが、こっちはもっと悪い。 数多くのパンティ、ストッキング、 ブラ、スリップは、セットで揃えたも のが多いらしく何系統かの色やデザイ ンに統一され、そのたいていのものが レースで満たされていた。 それを確かめながら、不覚にも僕は 興奮していた。男の子にはふつう、こ んなものを手にする機会はない。同じ 年頃の女の子のアウターについてはあ る程度知っていたとしても、その下に、 こんなにセクシーなものを隠している なんて、想像もしていないのだ。 それにしても、この下着類は母さん が揃えたはずだ。母さんは、女の子と しての僕に、こんなものを着させたい のだろうか? 夕方遅くなって、ホリーが帰ってき 154/806 た時、僕はまた下着の引き出しを開け、 その中からなんとか着られそうなもの をより分けていた。 「ふふ、女の子が、そんなにすごいも のを着けてるなんて知らなかったでし ょ」 彼女はからかうように言いながら、 ブラウスのボタンをはずし、スカート を脱いだ。 「おい、よせよ。恥ずかしくないのか? そういうことは、もっと見えないと こでやれよ」 服を脱ぐ姿などを見て僕がどれほど 興奮するか、彼女はわかってるんだろ うか? 「こっちだって、その‥‥落ち着かな いだろうが」 「どうして? 子供の頃は、そんなこ と、なんにも気にしてなかったじゃな い。お互い下着姿で、いっしょに寝た 155/806 こともあるしさ」 彼女はそう言って肩をすくめると、 スリップを脱ぎ、ブラまではずし始め た。 「あの頃と今と、なにかちがうの?」 「あの頃、君は男だった」 彼女のブラからこぼれ出てきた胸に 目がいってしまうのを、どうしてもと められない。 「そうね」 パンティだけの姿で立った彼女が、 くすっと笑ったせいで、胸が揺れた。 「あたしにとって最悪の日々。女の子 になれて、ほんとによかったわ」 そう言いながら自分の引き出しを開 け、かきまわしていた彼女は、そこか ら、ベビードールタイプのネグリジェ を取り出した。 そのあと、僕の目の前でパンティま で脱いで、新しいのと履き替えた彼女 156/806 は、そのネグリジェを頭からかぶった。 体をすべって落ちてきた裾は、やっと 太腿の真ん中くらいまでしかない。 「どう? 似合う?」 ホリーは、実際の年齢とは思えない 色っぽい声と仕草できいてきた。 僕の「やんちゃ坊主」が、またむく むくと首をもたげていた。 「あ、ああ。気持ち悪いくらいに」 僕は、そんなホリーから目を離せず、 つぶやくように言った。 「だけど、どこからどう見ても、あの ハリーだとは思えないよな。いったい どうやったら、気持ちまで、そんなふ うに変われるのかね」 「それは、あたしが、ほんとに女の子 になったからよ」 彼女はちょっとしんみりした調子で 言った。 「ねえ、フェイス。あなたの旧友のハ 157/806 リーは、もうこの世にはいないの。そ ろそろそれを、認めてもいいんじゃな い」 「その前に、正直に答えてくれないか。 それは、僕に対しても計画されてるこ となのか? 僕もいつかは、ホルモン を始めて、女の子に変わることになっ てるのか?」 「あなたに対して決められてることは、 ここで校則に従って2年間過ごすって こと。それ以外には何もないはずよ、 フェイス。その2年が終われば、フラ ンクは家に帰れる。そこでは、フェイ スのことを知ってる人は誰もいない。 それがすべてよ。でも、もしその間に、 あなたが、フランクに戻ることを喜ん でいない自分を見つけたとしたら、そ の時はあたしに相談して。それは、軽 はずみに決めちゃいけないことよ。あ たしも、あなたにとっていちばんいい 158/806 と思える道をいっしょに考えるわ。た だかわいく見せたいだけなら、べつに 性転換までは必要ないんだしね」 「まあ、あんまり僕に期待しないでほ しいな。僕は並みのコースだけでじゅ うぶんだよ」 自分が納得した中身をできるだけ正 確に伝えようと考え、僕は言った。 「まだ何もしてないうちから、そう決 めるのは早いと思うな。あなたが、ミ セス・ウイリアムズの言ってたような ものを持ってる男の子なのかどうか‥ ‥例の 『シュガー・アンド・スパイス』 ね‥‥そんな子なのかどうかは、今の ところ、誰にもわからないわ」 「僕は、ちがうさ!」 僕は、強く主張した。 「未だに僕は、自分のことを男だと思 ってるよ。女の子のものを身につける のが好きになるなんて、これからも、 159/806 絶対ないね」 「じゃ、賭ける?」 ホリーは、いたずらっぽい顔になり、 きいてきた。 「あたしはあなたに、女の子の服を着 るのが好きだって言わせてみせるわ」 その表情は気に入らなかったが、彼 女に馬鹿げた賭けをしたことを悟らせ る役目は、僕しかいなかった。 「で、僕は何をすればいい?」 「いい娘ね」 彼女は、そう言ってにやりと笑った。 「まずは、今夜、あたしはあなたをか わいくドレスアップするわ。明日、あ なたが着ていく制服の下に着ける下着 も選ばせてね。それから、明日の放課 後着る服もあたしが選ぶ。つまりあな たは、まる一日をフリフリの服で過ご す。思いっきり女の子っぽい女の子で あることを受け入れてね。その上であ 160/806 なたが、女の子の服を着ることや、か わいいって言われることが好きになっ て、それを楽しんでいるようならあた しの勝ちよ」 「そんなことなのか? なんかチョロ い気がする。で、君が負けたら、僕は 何をもらえるんだ?」 「そうね、きのうのキス、なんてど う?」 ホリーがほほ笑みながら言った。 「新しいパンティを用意しとかなきゃ ね。で、もし、あたしが勝ったら、あ なたは、もう1週間、あたしのいうと おりの服で過ごす。これでどう?」 僕が勝つのは目に見えていた。だか ら僕は、賭け金をつり上げることにし た。 「そっちが1週間なら、こっちも1週 間だ。君が負けたら、1週間、毎晩、 僕にお休みなさいのキスをする」 161/806 「マジで? あたし、あなたとキスし ても、なんにも興奮しないって言った でしょ」 彼女は顔をしかめて言った。 「それなのに、なんで1週間も、おや すみのキスをしつづけなきゃいけない のよ」 「決めるのは君だ。キスがいやなら、 賭けはなし」 僕はニヤニヤ笑いながら言った。ど うやら主導権は、こっちが握ったよう だ。 「あたしのキス1週間分は、あなたの 努力1週間分に相当すると思わな い?」 ホリーは、こちらの抵抗のすべてを 溶かしてしまいそうな笑顔を向けてき た。 「こういうのはどう? 1日だけじゃ なく、1週間、あなたはあたしの言う 162/806 とおりに女の子っぽい女の子として過 ごす。それでも、それが好きになれな いというなら、あたしは、その次の1 週間毎日、お休みなさいのキスと、そ れにおはようのキスもするわ」 僕は銃を構えたまま「1日だけ」と いう条件を固守すべきだったかもしれ ない。でも、彼女の笑顔があまりにか わいかったのと、例の「やんちゃ坊主」 が、これはいい賭けだとさかんにささ やきかけてくるので、ついうなずいて いた。 と、彼女は、僕の同意を熱狂的な歓 迎で迎えた。 「思いっきりかわいくなって、うれし そうに笑っているあなたのリアクショ ンが早く見たいわ。あたしの新しい大 親友、ミス・フェイス・ジョーダンの 写真を撮るのが、待ちきれない」 「みじめな女装男の写真が、なんでそ 163/806 んなにほしいのか、よくわからんな」 「みじめなんかじゃないわ。フェイス、 あなたは今、戦いに挑む偉大な勇者よ。 でも、思いっきりかわいく着飾ったあ なたは、もっとかわいくしてほしいっ て、あたしにおねだりすることになる でしょうけどね」 「んな、馬鹿な!」 僕は、のけぞって笑っていた。 と、ホリーは、ドレッサーの引き出 しを開け、その中から何かの瓶を取り 出した。 「さあ、まずはお風呂の時間よ、お嬢 さん」 間もなく僕は、いい匂いの泡に包ま れ、バスタブの中に座っていた。 「女の子になるための第一歩は、自分 の体をかわいがってあげることよ」 服を選んでいるらしいホリーの声 164/806 が、バスルームの外から届いた。 「いいって言うまで、そこに入ってて ね」 バスタブのへりに体をもたせかけ、 じつは僕は、その時間ができるだけ長 引けばいいと思っていた。バブルバス に入るのは、小さい頃以来、ほんとに 久しぶりだ。それが、こんなに気持ち いいものだということを、僕はすっか り忘れていた。 そんな気持ちよさに浸っているう ち、僕はいつの間にか、ホリーのおや すみのキスを夢見ながら、眠りに落ち た。 もちろん、ホリーが男であることは わかっている。でも、僕の脳裏に浮か ぶホリーの姿は、今やとびきりかわい い女の子でしかない。あの結婚式の時 の僕に抱かれた姿、きのうのキス、そ して、さっき見たばかりの形よくはず 165/806 む乳房‥‥。ホリーほどかわいく、女 の子っぽい存在を、とても男だなんて 感じられない。そんなホリーのキスへ の期待は、僕にハリーのことをすっか り忘れさせた。 「フェイス、ドレスアップの時間よ」 ホリーの声が、僕を夢から呼び戻し た。 「あたしが選んだ衣装を、気に入って くれるといいけど」 立ち上がり、バスタブから出たとこ ろで目に入ったのは、テーブルの上に 置かれたパンティだった。それをしっ かり見てしまったことで、せっかくお 風呂でリラックスした気分も、いっぺ んに憂鬱なものになった。 それは、レース以外の何ものでもな かった。薄くてピンクのレース、前も 後ろも、ほとんどがそればかりと言っ 166/806 ていい。前の部分に少しだけ、薄い布 があるが、それはほんとに小さい。 「何考えてるんだよ、ホリー」 僕は、バスルームの外に向かって叫 んでいた。 「こんなの、本気で履かせるつもり か?」 「あら、フェイス。もうタオルを投げ るの? それを履くのが怖いんでし ょ。履いたとたん、自分の気持ちが、 すごく女の子っぽくなっちゃうような 気がして」 「そ、そんなことないさ。要するに、 ちょっと慣れないだけさ」 そう言い返したところで、僕は大き く深呼吸し、そのパンティを取り上げ て足を通した。とたん、何かが背筋を 駆け上り、それが体全体に広がって僕 は体を震わせていた。 それは、この2日間履いていたコッ 167/806 トンパンティとはあきらかにちがって いた。見かけも、肌触りも、デザイン も。 「なにしろ、こんなの履くなんて、考 えたこともなかったから」 さっきまでのパンティは、なにより 機能性を重視したものだった。ふつう の白で、レースもなく、前が開かない のをべつにすればブリーフと見なすこ とだってできた。 でも、今履いているのは、あきらか に女の子っぽい感覚を持たせることを 目的としてデザインされたものだ。そ してその効果は、僕自身にもいかんな く発揮されていた。 いや、もっと正確に言えば、女の子 っぽい感覚というよりもっといけない 感覚‥‥そう、たとえば、とんでもな い悪さを働いている時にある感じ‥‥ 罪の意識を感じているくせに、だから 168/806 こそ、それにワクワクするような、そ んな感じだった。 ドアについた姿見に映ったお尻が目 に入り、僕は、いつの間にホリーが入 ってきたのかと勘違いした。すべすべ ですらりとした脚、セクシーなパンテ ィで縁取られたかわいいお尻‥‥それ が自分自身のものだと認識する前に、 僕は興奮していた。 思わず片手をお尻に当て、そこをな で、パンティを通して手とお尻の両方 が感じる感触に我を忘れそうになり、 そこで、もう片方の手も、いつの間に か前の「やんちゃ坊主」をなでている のに気がついた。 「あら、もう楽しんでるの?」 ドアの向こうから、まるで僕のして いることが見えているようなホリーの 声が聞こえた。 「せっかくのパンティなんだから、汚 169/806 さないでね。もう少し、きれいなまま にしといてほしいんだけど」 彼女は透視能力でもあるんだろう か? そう考えたことで、興奮は、とりあ えず、風船のようにしぼんだ。 それで、腰にタオルを巻きながら、 僕はドアを開けた。 「これじゃ、どう見ても変態だよ」 「そんなことないわ。ふつうよ。そん なパンティの感触は、女の子なら、誰 でも好きよ」 彼女はそう言いながら、僕のタオル を、女の子のスタイルに巻き直した。 「女の子は、こうやって、胸から隠す ものでしょ」 僕は、そこで、ホリーの鏡台のとこ ろまで連れて行かれ、座らされた。 「あなたは、すごくかわいくなるはず よ」 170/806 彼女は、何度もそう繰り返しながら、 僕の髪にカーラーを巻いていった。 「あとで、明日、学校でいい子に見え るようにセットし直すつもりだけど、 まずは、思い切りホットな女の子の髪 にするわね。あなたがすっかりその気 になっちゃうような」 「ねえ、これから僕は、カーラーを巻 いたまま寝ることになるのかな? や だな。わざわざそんな痛い思いしたく ないよ」 カーラーを手に取り、髪束の先と合 わせて、それをくるくると巻いてピン でとめる‥‥彼女は、そのリズムを崩 さず、答えた。 「わざわざじゃないわよ。必要なこと なの。2年間、女の子でいつづけるた めには、あなたはどうしてもそれに慣 れなきゃいけないの」 「前にも言ったけど、僕は、チャンス 171/806 さえあれば、ここから逃げ出すつもり なんだぜ。それがいつになるかはわか らないけど、2年よりは確実に短いと 思うよ」 「お願いだから、そんなつまんないこ と考えるのはやめて。あなたは逃げき れないし、逃げてもなんの得にもなら ないわ。ここにいることは、あなたが 思ってるほど恐ろしいことじゃないの よ。そりゃ、最初は、気味が悪い感じ がするかもしれないけど、すぐ慣れる わ。逃げて捕まった末に、もう一度裁 判にかけられて刑務所に入れられるよ りは、ずっといいってこと、すぐにわ かるはずよ。さっきも言ったけど、時 が来れば、フェイスのことは誰にも知 られずに、フランクに戻れるんだしね」 その口調から、彼女が親身になって 言ってくれているのがわかり、僕はな んだか、彼女に悪いことをしているよ 172/806 うな気がしてきた。 でも、僕の決心を変えることはでき ない。 「そんなことより、今は賭けの最中だ ろ。君が僕に、情熱的なおやすみのキ スをする姿が目に見えるよ」 「ねえ、ひとつだけ約束して。逃げる ことを決めたら、私にだけは教えてほ しいの。その前にもう一度だけ、あな たを説得するチャンスがほしいから」 「ああ、君には話すことにするよ。で も、ウイリアムズにチクったら、一生、 許さないからな」 「約束するわ」 ホリーは、その小さな譲歩に満足し たようで、楽しそうに、僕を女の子に する作業をつづけた。 髪が終わると、彼女は僕の顔にリキ ッドのファンデーションを塗り、小さ なスポンジであちこちに手を入れ、そ 173/806 の上から、さまざまなパウダーやチー クをのせていった。 「最初の衣装は、ママの結婚式であた しが着てたパーティドレスにするつも りよ、フェイス。あなたとあたしは、 サイズもだいたい同じだし、あの色な らあなたの肌の色にも合うと思うの。 だから、あのドレスに合わせて、ピン クのチークと、ピーチのアイシャドー を選んだのよ」 彼女は、次々に手際よく進め、それ はまるで、僕を等身大のバービーちゃ んだと思っているかのように楽しそう だった。 「あなたの髪が、あの時のあたしみた いにセットできるまで、もう少しかか るから、その間に、ドレスに合うマニ キュアに塗り替えるわね。きっとあな たは、女の子でいることが大好きにな るわ」 174/806 「いや、そんなことは絶対ないね。だ いいち僕は、君ほどかわいくなんてな れないだろうし、女の子にさえ見えな いよ」 僕は、彼女を地獄に落とすのはいや だと思いながら言ったのだが、彼女は 逆に成層圏まで舞い上がり、僕の変身 の過程について説明する言葉の間に、 確認の言葉をはさんだ。 「心配しなくていいわよ」 その口調はなんだか、自信と余裕い っぱいという感じだ。 「もし万が一、あたしが負けたら、ち ゃんとキスしてあげるから」 「1週間、毎晩」 僕も、彼女がつまらない賭けを挑ん だことを悟らせるために、取り決めの 細部を確認した。 ホリーは、それには答えず、楽しそ うな顔で、僕を女の子にするための作 175/806 業に集中していた。 鏡越しにそんな表情を眺めながら、 僕はちょっと首をかしげざるを得なか った。 負けるとわかっている賭けに、どう してこれほど一生懸命になれるのだろ う? 「せっかくメイクしたんだから、気を つけてね」 僕の頭のカーラーをはずしながら、 ホリーは言った。 「髪を下ろしたらランジェリーを着け て、最後にドレスを着てもらうわ。そ の時に、顔をこすってお化粧を台無し にしないでってこと」 カーラーのはずれた髪が頭を取りま き、ブラシをかけたところで、ホリー はニヤニヤ笑いを浮かべて、何かを出 してきた。その両手に、なんだか奇妙 なものがのっている。肌色の、ふたつ 176/806 一組の‥‥。 「えっ? な、なんだ、それ? まる でおっぱい‥‥みたい‥‥」 「ピンポーン」 ホリーは笑いながら、何かのチュー ブからねばねばのものをしぼり出し、 そのふたつのおっぱいの裏側に塗って いった。 「ブレストフォームっていうの。まだ 自分の胸がない頃、あたしが使ってた ものよ。これから1週間は、あなたの おっぱいね」 僕の目は、それに釘付けになってい た。おっぱいが独立して、人の手に持 たれている光景というのは気味悪すぎ る。 「マ、マジかよ。でも、なんでそんな、 にせ物のおっぱいがいるんだ? これ までだって、ブラの中にはパッドを入 れてたわけだし」 177/806 ホリーは、それには答えず、胸から 巻いた僕のタオルをはずすと、そこに ふたつのおっぱいをあて、押しつけた。 「ちょっとの間、自分で押さえててく れる?」 そう言いながら、彼女は僕の両手を とり、そこにあてさせた。 「接着剤が肌になじむまで、30秒くら いはかかるから」 「えっ、接着剤? そんな‥‥。うそ だろ」 僕は、驚いて言った。 「今も言ったけど、ブラの中にパッド を入れればすむことじゃないか」 「これが、その理由よ」 彼女は笑いながら、今履いているパ ンティとおそろいのブラをぶら下げ た。やはり、全体がレースでできてい る。 「パッドじゃ、透けて見えちゃうでし 178/806 ょ。よく聞いて、これから、ちゃんと した着け方を教えるから。全部、自分 でやってみて」 新しくできた乳房から手を離し、僕 は、ホリーの指示に従ってブラを着け ていった。まず背中側からまわして、 前で両端のホックをとめる。それをぐ るっとまわして、ふたつのカップが、 乳房の真下に来るように合わせる。そ れから、カップが乳房を包むように注 意深くストラップを肩にかける。 「そこまで慎重にやらなくてもいいわ よ」 ホリーが笑いながら言った。 「そのベイビーたちは、剥離剤を使わ ないかぎり、かんたんにはとれないか ら。胸の重みに早く慣れてね」 僕は、鏡の中の自分から目をそらそ うとした。でも、ブラとパンティ以外 なにも着けない姿で、僕をじっと見返 179/806 してくるその小悪魔から視線をはずす ことなど、できるわけがなかった。 もちろん、そんなことは口には出さ なかったが、ホリーが僕に施したその 魔法に、僕はドキドキしていた。 目はパッチリと印象的で、ほおはす べすべとなめらか。言ってみれば、夏 の太陽の下でいっときを過ごす、ビー チでいちばん目立つ女の子というタイ プなのだ。 その唇は、いかにもキスされるのを 待っているように見える。そして、ブ ラからのぞくふたつの胸は、男の舌に、 そこを旅することを夢見させるもの だ。 僕は内心、ホリーにもうここでやめ てくれと頼みたい気分になっていた。 もし、彼女がこれ以上、僕をかわいく していったら、僕は、男としてのアイ デンティティに疑問を持ち始めるにち 180/806 がいない。そうなれば当然、彼女はさ らに、僕を女の子にしていこうとする だろう。そして、そうなれば僕は、彼 女からのダブルデートの誘いに、簡単 にのってしまいそうだ。 もしかすると僕は、何回かのキスの ために、とんでもない罠にはまったの かもしれない。 と、ホリーが、僕の肩を軽く揺すっ た。 「しっかりして、フェイス。まだ終わ ってないのよ。これを腰に巻いて、と めてくれる?」 まだぼーっとしながら、僕は、ホリ ーから渡されたものを見た。 それは、ブラやパンティーとそろい のレースでできていて、一見パンティ のようにも見えるが股の部分はなく、 数本のストラップが垂れ下がってい た。 181/806 「ストッキングを履くためのガーター ベルトね」 僕の顔に浮かぶ混乱がわかったのだ ろう。ホリーはわざわざ説明した。 「ストラップは、パンティの下に通し てね」 「でも‥‥、パンストをこれにとめる の?」 言われたとおり、ストラップをパン ティの下に通しながら、僕はきいた。 「女の子のくせに、お馬鹿さんね。パ ンストのわけないでしょ。これよ」 そう言うと彼女は、脚の部分だけの パンスト(?)を取り上げた。 「シルクのストッキング。薄くて、す べすべで、女の子であることを神に感 謝したくなるはずよ」 おどおどとそのストッキングを受け 取った僕は、彼女の指示に従って、く るくると丸めたそれに足先を入れ、脚 182/806 の肌の上に慎重に伸ばしていった。 そして、ガーターベルトのストラップ にそれをとめた。 両脚を履き終わったあと、僕は、立 ってそれを見下ろした。そこには、女 の子にしか感じたことのないセクシー さを持つ脚があった。履いていること さえわからないほど薄い繊維で包まれ たその脚は、すべすべと形よく、魅惑 的だった。 「片手で足首を軽く握って、そこから そーっと上げてきてごらんなさい」 ホリーが、ちょっとからかうように 言った。 「気が狂いそうになるから」 彼女が何を狙っているのかがわから ないまま、僕はまた、まんまと彼女の 罠にはまっていた。 その手が腿に達するまでに、僕は、 完全に勃起していた。 183/806 「どう? いい感触でしょ? あなた は女の子でいることがきっと好きにな るって、あたし、言わなかったっけ?」 「べ、べつに、女の子の格好してるこ とが好きなわけじゃないよ。ストッキ ングの感触がたまらなかっただけで。 よ、要するに、素材の問題だろ。僕自 身がそれを履いてるかどうかじゃなく て」 「なるほど。ま、今は、そういうこと にしといてあげるわ」 彼女は笑いながら言った。 「どっちにしても、週末には答えが出 るわけだしね」 例のパーティドレスで完全にドレス アップした僕の姿は、本当にホリーの 妹のようだった。 鏡の中の自分自身を見ているはずな のに、それが女の子にしか見えないと 184/806 いうのは、奇妙な感覚だ。顔のつくり そのものは、たしかになじみがあるの に、それが、どう見ても男の顔には見 えないのだ。だいいち、ドレスのネッ クラインからおっぱいがのぞいている 男の子なんて、どこを探してもいない だろう。 いろんなアングルから見るために、 僕をゆっくりターンさせながら、ホリ ーは惜しみない称賛の言葉を浴びせて きた。 「すごいわ、フェイス! そのドレス、 あたしより似合ってるくらい!」 うれしそうなその声は、叫びに近か った。 彼女の言うことはまちがいない。僕 は、それを否定できなかった。 今の僕は、どこから見ても彼女の妹 だ。それは恐ろしいほどの真実だった。 もしかして、男の子は、長い髪とメ 185/806 イクと、女物の服を受け入れさえすれ ば、簡単に女の子になれるということ なのだろうか? 「両手をお尻の後ろで組んで、ちょっ と首をかしげてみて」 ホリーが言った。 さっきから、命令されることに慣れ てしまっていた僕は、すぐに彼女の言 ったとおりにした。 と、そこで、フラッシュが光った。 見ると、彼女はデジタルカメラを掲げ、 こちらに向けていた。 それに気づき、僕は、いきなりパニ ックに陥った。 「や、やめろよ。写真を撮っていいな んて、言ってないだろ。もし、誰かに 見られたら、なんて思われるか」 「なんて思うわけ?」 ホリーは、肩をすくめてそう言うと、 カメラの液晶画面を僕に見せた。 186/806 「これを、フランク・ジョーダンだと 思う人は、まずいないと思うな。誰が どう見ても、きれいなドレスを着た美 少女でしょ」 その小さな窓を見つめ、僕は、ホリ ーの見解を否定しようとしたのだが、 それは無駄な試みだった。そこにいる のは、まぎれもなく、ダンスパーティ のためにドレスアップした魅力的な女 の子なのだ。 この女の子から実際の僕を想像でき る人間は、この地球上に一人もいない にちがいない。 そう思ったことが、僕を狂わせた! 僕は、カメラを構えるホリーに言わ れるままに、さまざまなポーズをとっ ていた。 誰も僕だと気づかないんなら、べつ に何をやったっていいじゃないか。 ホリーはいかにも楽しそうで、途中、 187/806 二度もほおにキスしてくれたりしたの で、僕もすっかりいい気持ちになり、 女の子気分で彼女に協力していた。 やさしく無垢な表情で、純情な女の 子のカットを何枚か。次には、スカー トの裾を持ち上げてちょっと脚を見せ たり、ネックラインをずらして胸をの ぞかせたり、そんなセクシーショット を何枚か。‥‥。 「イエーイ。すごいわ。あなたの秘密 をもっと見せて」 ブラックドレスを着た僕がセクシー なポーズをとると、ホリーはさらに煽 った。 「そう、こっちに向かって、もっと『い けない女の子』の顔をして」 頭を前に傾けた僕は、真っ赤な口紅 の唇をすぼめ、そこに人差し指をあて て、上目遣いにカメラを見た。 188/806 「うーん、その目、すごーく色っぽい。 すてきよ」 ホリーもノリノリで、僕も、まるで グラビアモデルかなにかにでもなった 気になり、完全に別の世界に入り込ん でいた。 気楽に話せそうな近所の女の子タイ プ、男のだれもが気を引かれるちょい ワル美人‥‥僕であることがわからな いかぎり、写真の中で、僕はどんな女 の子にもなれた。 ホリーも、それにワクワクしている ようだ。上手にやれば、また、キスの ご褒美だってもらえるかもしれない。 「あ~、このドレスが、あたしをもっ とセクシーにする~」 ブラがのぞく挑発的な赤いベルベッ ト・ドレスを着た僕は、ついに歌い出 していた。 189/806 ホリーの方も、デジタルカメラをハ ンディカムに持ち替え、僕のパフォー マンスを撮りつづけている。 「あ~、あたしはセクシー・ウーマン」 そのドレスを、足もとへと滑り落と し、黒いレースのブラをあらわにしな がら、それに見合ったかすれ声で、僕 は歌った。 ホリーはこらえられないように笑 い、ベッドに倒れて転げ回った。 「あなたって、すごいわ」 僕がドレスをクローゼットに戻し、 ランジェリーを脱いでいる間、ホリー は何度もそう言った。 「ねえ、もう、1週間も待つこともな いでしょ。あなたが、女の子でいるの が好きだってことを認めちゃいなさい よ。これだけかわいくってきれいで、 どの服も完璧に似合うんだもん。拒否 190/806 する理由なんてないんじゃない?」 「言わせてもらうけど、今のはジョー クみたいなもんさ。まあ、僕もノッて たのは認めるよ。でもそれは、君がキ スしてくれたからやっただけ。べつに 女装そのものを楽しんでたわけじゃな い。女の子になりきるなんてことは、 やっぱり好きになれないよ。それは、 これからもずっと変わらないと思う な」 ハリーなら、これで納得させられた のだろう。でも、ホリーでは、そうは いかないようだ。 「まだそう言い張るわけね。ま、いい わ」 彼女は、まるで僕の本心を知ってい るとでもいうようにくすくす笑った。 「今夜は、とりあえず、ここまでにし ときましょ。もう寝る時間だし」 「ナイトウェアも、君の言うとおりに 191/806 しなきゃいけないんだよね」 その言葉に、彼女がにんまりするの を見て、僕は賭けをしたことを後悔し はじめていた。 彼女が引き出しから出してきたの は、思ったとおり、ベビードールタイ プのネグリジェと、そろいのパンティ だった。しかも、フリルでいっぱいだ。 「またあ。そんなの、やだよ」 「ううん、これを、着るのよ」 彼女は、小さい子を諭すような言い 方で言った。 「いい娘だから、言うとおりになさい」 「もう一回キスしてくれたら、言うこ ときいてもいいけど」 と、にっこり笑いながら近づいてき たホリーは、僕のあごに手をかけてち ょっと持ち上げた上で、おでこにチュ ッとキスした。 「そういう意味じゃ、ないよぉ」 192/806 僕は、ついつい甘え声で言っていた。 「ふふ、かわいい子ね」 彼女は笑いながら、そのネグリジェ を差し出した。 「さあ、女の子なんだから、寝る前に しなきゃいけないことが、いろいろあ るでしょ」 メイクを落とし、もう一度カーラー で髪をセットされたあと、僕は、ちょ っと情けない思いでベッドに座った。 ベッドに触れる僕のお尻は、ペール ピンクのフリルがいっぱいついたパン ティで覆われている。上半身は、シル キーでネックが大きく開いた、おそろ いのベビードールだ。レースで縁取ら れたその裾は、やっとパンティが隠れ るくらいしかない。 と、ホリーが、口笛を吹いた。 「すてきなおっぱい! これだけホッ 193/806 トな子が、まだ彼氏もいないなんて、 信じられな~い」 「君は、男を傷つけるものの言い方を、 ほんとによく知ってるよ。デートの相 手(dates)に対しても、いつもそんな ふうに自信満々なんだろうね」 僕は、ぐるりと取りまくきついカー ラーを気にしながら、枕の上に頭をの せた。 ホリーもベッドに入りながら、ほほ 笑み、ペロリと舌を出した。 「この賭けはあなたの負けだろうけど、 あなたの言ってることは正しいわ。あ たしは、賭けの期限(a date)に自信を 持ってるもの」 もちろん、彼女が旧友のハリーであ ることはわかっている。でも、彼女の ほほ笑みには勝てそうにない。恐ろし いことだが、僕はやはり、彼女に恋し てるようだ。 194/806 カーラーの痛さに耐え、なんとか眠 りにつくことはできたものの、たいし た睡眠時間もとれないうちに、僕はラ ジオの音で起こされた。 「まだ6時半じゃないか。なんでこん な時間にタイマーをセットしたんだ よ」 僕は、はっきりしない頭で抗議した。 「学校が始まるのは8時なんだろ。教 室までは、歩いて5分もかからないん だし。いい子だから、7時半にセット し直してよ」 「男の子なら、7時半に起きて8時の 授業に間に合うわ。でも、あたしたち は男の子じゃないのよ。忘れたの? 髪の毛をセットして、メイクして、そ れから、7時15分過ぎには、この前の 女の子たちとカフェテリアで落ち合う 約束よ」 195/806 「ふー、あのおしゃべりが、毎朝、ず っと続くわけね」 そう言いながら、僕はパンティで包 まれたお尻をもぞもぞと動かし、起き あがった。 ‥‥あっ、神様! お尻でサテンが こすれるとき、僕はヨルダン(Jordan) を渡ります。 自分がそんなふうに感じたのに驚 き、僕、ジョーダン(Jordan)は、ハッ と目覚めた。(※) (※訳注 聖書の『出エジプト記』では、ヨル ダン川の向こうに「約束の地」があるとされる 主人公の姓と綴りが同じ) 起き出した僕は、とぼとぼとバスル ームへと入り、小用を足した。 ゆうべ、あんなファッションショー を経験しているというのに、両腿の間 にからみつくフリルだらけのパンティ 196/806 や、その向こうにかいま見えるペディ キュアされた爪には、やはりどぎまぎ する。 ‥‥いや、わざわざきかなくてもい い。その前に白状しよう。腿にかかっ たパンティや足の指が目に入っている ということは、僕は、座った姿勢でお しっこしているということだ。 僕はもうすでに、これが習慣になっ ていた。もし、立ってしていようもの なら、ノックが習慣になっていないら しいホリーが入ってきた時、また、ぶ ちぶち言われるからだ。 「どう? よく眠れた?」 ほら、やっぱりホリーは、ノックな しで入ってきた。 こちらの方がそれに文句を言いたい のはやまやまだが、そんなことを言え ば今度は、「だって、女の子どうしで しょ」とかいう言葉が返ってくるのも 197/806 目に見えていた。 たしかに、彼女は今や女の子かもし れないし、じつは僕も、そう思いたが っているところがある。でも、僕自身 はそうじゃない。そんな言葉を聞くの は耐えられないのだ。 「あんまりよくは眠れなかったけど、 カーラーに枕をどうあてたらいいのか だけはわかったよ」 歯を磨きはじめたホリーに、僕は愚 痴った。 神よ、歯磨きとともに揺れる彼女の 胸から目が離せない僕をお許しくださ い。 「それにしても、これは、毎晩、がま んしなきゃいけないことなのかな?」 「そうでもないわよ。たとえば、親に ねだって、ホットカーラーを買っても らえばいいわ。もっと短い時間でセッ トができるはずよ。それとも、思い切 198/806 って、パーマをかけるとかね」 「パーマ? それって、パーマネント の短いのだよね?」(※) わかっているが、きいておかなけれ ばならない。 (※訳注 短縮形であるという意味と、‘parman ent’=「永遠」より短いという両方の意味で きいている) 「そうね、パーマネントって言っても、 実際には永遠じゃないわね。かければ、 スタイリングも簡単になるし、型くず れもしなくなるけど、もつのはだいた い2ヵ月くらいかな。どっちにしても、 あなたがここにいる期間よりは、ずっ と短いわ」 「すごい、僕は女の子の服に縛りつけ られるだけじゃないんだ。最後は、シ ャーリー・テンプル(※)みたいになっ ちゃうわけだ」 (※訳注 1930年代のアメリカ映画の名子役 199/806 髪はくりんくりんの天然パーマ) 「馬鹿ね、なんにも知らないのね」 ホリーは、そう言って笑った。 「スタイルもウエーブの大きさも望み どおりの形にできるわよ。あたしも結 婚式の前にかけたけど、あたし、シャ ーリー・テンプルに見えた?」 たしかに、あの夜のホリーは、シャ ーリー・テンプルより数段魅力的だっ た。 カーラーで痛む頭皮をなでながら、 僕は、一度試してみようかと思った。 ‥‥えっ、何考えている? 女装で 過ごしたこの悲惨な2日間のせいで、 僕は、女の子のように考えはじめてる のか? そう思い、あわてて頭から手を離し た。 「まあ、いいや。自分でなんとかする よ」 200/806 僕はぶっきらぼうに言った。 「これ以上、女の子っぽいものの中に 首を突っ込みたくないからさ」 「何を逃げてるのよ。ここにいるかぎ り、逃げられないのは、もうわかって るでしょ」 彼女も、僕と同じくらいぶっきらぼ うに反論した。 「逃げてれば、けっきょくは、自分が たいへんな思いをするだけよ」 これ以上口論しても無駄だろう。こ んな言い争いは、いつも、僕がこの状 況の中に縛られていることがはっきり するだけで、僕自身が落ち込む結果に しかならない。 僕は肩をすくめ、自分の歯を磨いて から、ホリーが僕の制服を準備してく れるのをおとなしく待った。 グレーのプリーツスカート、白のブ 201/806 ラウス、えび茶色のジャケット、ロー ヒールの黒いローファー、そして、白 のニーソックスという制服は、いかに も「女学校」らしい清純さだった。で も、その下に着けるためにホリーが選 んだ下着類からは、彼女の意図が見て 取れた――白いサテンのパンティは腿 のまわりをレースで取りまき、ブラも、 ウエディングドレスなみにレースが使 われていた。 「1週間は、あたしの選んだ服を着る のよね」 彼女は、楽しそうに確認した。 「そして、あたしの妹は、女の子その ものになる」 僕は、そのパンティに足を通しなが ら、ホリーの目の前で勃起しないこと を祈った。次のブラは、僕のにせ物の おっぱいをしっかり支えてくれる感じ で、着け心地は悪くなかった。僕がき 202/806 のう学んだことを覚えていて、手助け なしでそれを着けたことを、ホリーは 喜んだようだ。 「これは、スカートがまとわりつくの を防いでくれるわ」 ホリーはそう説明しながら、裾の部 分を数インチのレースで取りまいた白 いハーフスリップを手渡した。 僕は、ゆうべのファッションショー ですでにスリップを着ていたから、迷 うこともなくすぐに身につけ、ソック スを履くために椅子に座った。 ただ、そこで、スリップがパンティ の上をなでた。どうやら、その時の僕 の反応を、ホリーにしっかり見られた ようだ。 「ふふ、その感触、好きなんでしょ?」 彼女はくすっと笑った。 「今、体がぴくんと震えたもんね」 「さ、さあ、なんのことだか」 203/806 僕はそれを無視しようとした。でも、 それはあえなく失敗した。冷静に振る 舞おうとしていたにもかかわらず、僕 自身が、スリップの生地を通した肌の 感触が味わいたくて、その上から腿の あたりをなでていた。そして、ホリー はそれを、やはりめざとく見た。1000 分の1秒単位の一瞥だった。 「ふふ、どうやらこの町にまた一人、 女の子っぽい女の子が誕生したみたい ね」 僕が自分のしたことを取り繕ってい ると、彼女はそう言って笑った。 「今週の終わりまでには、あなたは、 フランクとかなんとかいう男のこと を、すっかり忘れてるはずよ」 「そ、そんなこと、ないよ」 僕は、ブラウスのボタンをかけ、制 服のスカートを履きながら、虚勢を張 った。 204/806 「体の反応がすべてを表すってわけじ ゃないだろ。とにかく僕は、オカマの 仲間なんかには、入りたくないんだか ら」 と、ホリーは、僕の体に腕をまわし 抱いてきた。 「心配しないで。あなたはちゃんと女 の子になれるわ。オカマなんかじゃな くね」 彼女は勇気づけるとでもいう口調で 言った。 「実際の体がどうであろうと、これか ら2年間、あなたは、好きなだけ女の 子になっていいのよ。誰もあなたを笑 いはしないし、誰も正体を暴いたりし ない。それが、グレート・インディア ン・リバー教の美徳よ(※)。武骨な男 らしさなんて捨てて、リラックスして 楽しむの」 (※訳注 原文は“That's the beauty of Grea 205/806 t Indian River Faith”「グレート・インディ アン・リバーを代表する美人よ、フェイス」と も読める) 「たしかに、女の子になりきれば楽し めるのかもしれないけど」 本当はそのまま抱かれていたかった のだが、僕は彼女から身を離した。 「残念ながら、僕は、女の子になんか なりたくないんだ」 「もう一度だけ言うわね、お馬鹿さん。 誰もあなたに、将来にわたって、女の 子になれなんて言ってないのよ。たと え、あなたが女の子の服を着るのが好 きになったとしても、それは一生女の 子になるってことじゃない。ここでは、 男はみんな女の子の服を着て、女の子 のように振る舞ってるけど、実際に、 私みたいに性転換まで考える人は多く ないわ」 「もう聞きたくないよ、そんな話」 206/806 僕は、同じようなことばかり言って いる彼女に、本当にいらだっていた。 毎日毎日、僕は女の子であるべきだと 繰り返されるなんて、もう、うんざり だ。 ホリーは、その顔に寛容のほほ笑み を浮かべて言った。 「あたしはちょっと、背中を押してあ げようと思ってるだけ」 女の子として学校に行くということ は、多くの新しい習慣を身につけると いうことだった。 僕は、教科書を胸のあたりに抱えて 歩き、腰掛けるときはいつでもスカー トの後ろをなでつけた。もちろん、ホ リーから、何度も、女らしく行動しろ と言われたからでもあった。 最初、教師から「フェイス」とか「お 嬢さん」とか呼びかけられたときは、 207/806 顔が火照る思いだった。でも、一日の 終わりまでには、それにも慣れていた。 午後の最初の授業で出席をとられた 時、にっこりほほ笑んで手を挙げたの には、自分自身驚いた。 授業が終わり、ひとり部屋に戻った ところで、僕はすぐに宿題をやり始め ていた。他にやることがなかったから ではあるが、こんなことは初めてだっ た。 じつはその前に制服を着替えようか とも思ったのだが、なんだか、このま までいる方が快適な気がした。それに、 例の賭けでは、僕の着るものを決める のはホリーということになっているの だ。勝手に服を選ぶわけにはいかない。 僕は、決めた事は守る人間だ。 いずれにせよ、こんな「女子校」に 閉じこめられ、女の子の制服を着て過 ごすとなると、自由時間と言ったって、 208/806 やれそうなことはほとんどない。だか らこそ、気が散らないで宿題に集中で きるのかもしれない。 ホリーが部屋に戻ってきた時までに は、僕は2教科の宿題をかたづけ、お まけに、明日の授業すべての予習まで すませていた。 「あたしたちって、こんなにまじめな 子だったっけ?」 明日の授業の教科書がすでにカバン の中に揃えられているのを見て、ホリ ーがからかった。 「うん、なんだか変なんだ。宿題を全 部かたづけて、予習までしちゃったん だから」 僕はほほ笑みながら、肩をすくめた。 「前にはこんなこと、ぜったいなかっ たのに。授業も、そんなにむずかしい 感じがしなかったし」 「もしかしてそれは、あなたが初めて、 209/806 ワルであることのプレッシャーから解 放されたからじゃない?」 ホリーは、そうコメントした。 「あたしも、今の方が格段に成績いい のよね。ずっと勉強好きになってるし」 「ワルであることのプレッシャー」 というのは、変な言い方だと思ったが、 ここにはそんなプレッシャーがないと いう彼女の見方は、なんだか当たって いるような気がした。 以前、僕は、授業中にふざけて授業 をめちゃくちゃにしてしまうのが常だ った。でも、それは、ある種、みんな が僕に期待する役割を演じていただけ だった気もする。今日は、女の子の一 人として一日を過ごし、授業中に叫声 を上げたり、板書する教師の背後で紙 飛行機を飛ばしたりということを、誰 からも期待されてはいなかった。その 代わり、先生のいうことに集中し、そ 210/806 のおかげで、授業の内容にも興味を持 てたのだ。 「うん、それ、あたってる気がする。 今日は、本当にどの授業も面白かった もん」 僕が肩をすくめると、ホリーは驚い た顔で見た。 「授業に集中してたから、着てるもの のこともあんまり気にならなかったん だ」 「女の子の格好してるのを忘れてたっ ていうこと?」 彼女はさらに驚いたようにきいた。 「まあ、席を立って、教室を移動する 時以外はね」 僕は、口の中でもぐもぐ言った。顔 がちょっと火照った。 「動くと、どうしても、スリップとか のせいであそこが‥‥。それで授業中 は、そのことを忘れるためにも、じっ 211/806 と集中してたんだ」 「そういえば、あたしがここに来たば っかりの時も、おんなじ思いをしたわ」 彼女は、同情するように笑った。 「ストッキングで脚を組めるようにな るまで待って。それだったら、一気に イケるから」 その言葉に僕らは笑い合い、そこか ら、ホリーがここに来た当時の話にな った。どうやら彼女も、今の僕と同じ ような問題を抱えていたらしい。 そんな話をしながら、僕は、制服の スカートとブラウスをクローゼットに 掛け、パンストを履き、それから、ネ ックラインをラッフルで飾ったライト ブルーのワンピースを着た。そのあと ホリーは、白いハイヒールを用意して くれ、メイク直しもしてくれた。 「うん、悪くないわね。じゃあ、かわ いい妹に、学校の中を案内してあげよ 212/806 うかな? 行かない?」 ホリーとともに外に出かけるか、そ れとも、ひとり部屋の中で退屈な時間 を過ごすか、そのどちらかを選ばなけ ればならないということだろう。 もう宿題も全部終わっているし‥ ‥、だけど、制服以外の女の子の服で 部屋を出て行くのは何だか恥ずかしい し‥‥。 「これだけおめかししてるんだもん、 どこかに行きたいってことでしょ」 ホリーは、そうからかってきた。 「だけど、それには、もうワンアイテ ム必要よね」 「ワンアイテム? ワンピースは着て るし、メイクやマニキュアもしてるし、 髪もきれいにしてるし、他に何がいる の?」 ホリーは、にっこり笑うと、青いリ ボンを取り出し、僕の髪をポニーテー 213/806 ルにまとめてくれた。 鏡で見たその姿は、前の学校の女の 子たちが、なにか特別の日にしていた 服装と同じだった。 「どう? 気に入った?」 ホリーは、鏡に見入る僕にきいた。 なんと答えたらいいんだろう? 正直、この格好が好きなのかきらい なのか、よくわからない。 だだ、この服装が体に伝えてくる感 覚は、ふわふわと軽い。ワンピースを 着、ブラとスリップを着け、パンスト とパンティを履いているのに、肌をく すぐるそんな感覚が、体自体を軽く感 じさせるのだ。それは、たしかに心地 よかった。 ホリーはすでに、僕がスリップとパ ンティがこすれる感触を楽しんでいた のを知っている。それ以外の衣服を気 持ちいいと感じることを話したところ 214/806 で、今さら、さほどのちがいもないだ ろう。 僕は、思い切って飛んでみることに した。あとは、彼女が僕のことをわか ってくれる友人であることを願うのみ だ。 「うん」 僕は、彼女に笑い返し、ポニーテー ルが揺れる感触を確かめながら、うな ずいた。 「これ、すごく、かわいい‥‥気がす る」 とたん、ホリーは、僕をきつくハグ し、ほっぺたにキスしてきた。 「女の子ね、フェイス」 その声は、うれしそうに弾んでいた。 「そうよね。女の子でいたいんなら、 こんな服が似合う子がいちばんよね」 「い、いや、まだ、そこまでは‥‥」 「あら、またいつもの文句? そんな 215/806 ことばっかり言ってると、愚痴をひと つ言うごとに、約束のキスを1回ずつ 減らしちゃうわよ。あなたが勝ったら って話だけど」 「い、言わないよ。約束する」 僕は肩をすくめた。 「もちろん、勝つのはこっちなんだか ら」 彼女がそう思っていないのは、僕に もよくわかった。でも、彼女が反論し てくる前に、ドアをノックする音が響 き、会話は中断した。 ホリーは、ほほ笑んでドアを開けた。 入ってきたのはあの女‥‥ドラゴン レディ‥‥ミセス・ウイリアムズだっ た。 僕は、とたんに緊張した。 「こんばんは、お嬢さんたち」 そう言って彼女はほほ笑んだ。彼女 の微笑を見たのは、最初の日以来二度 216/806 目だが、やはり微笑という感じはしな い。 「二人とも、今夜はすごくかわいいで すよ」 「ありがとうございます、ミセス・ウ イリアムズ」 ホリーはにっこり笑ってそう言い、 僕をつついた。 「あ、は、はい。ありがとう‥‥とい うか‥‥」 「ホリー、あなたはフェイスのビッグ シスターとしてすばらしい働きをして いますね。私は非常に感銘を受けてい ます」 ミセス・ウイリアムズは、プライド が高そうな姿勢を崩さず言った。 そして、僕の方を向いて、ふたたび 微笑した。 「さっき、あなたの授業を受け持った 先生方と話しました。彼らは、彼らの 217/806 新しい生徒についてほめていました よ。私も、それを聞いてとても喜んで います。私は、あなたがここにうまく 適応できるかどうか、多少心配してい ました。でも、それは取り越し苦労だ ったようですね」 「彼女、授業が楽しかったそうです。 ‥‥ね、そうでしょ」 ホリーは、今度は、僕がよろめくほ どつついてきた。 それを見て、ミセス・ウイリアムズ は思わず声を出して笑った。 「ホリー、彼女は自分で答えられると 思いますよ」 もちろん、僕は答えられたはずだ。 ドラゴンレディのほほ笑みを二度も見 たことで、舌がこわばってさえいなけ れば。 「えっ、あ、は、はい、た、た、楽し ‥‥かったです」 218/806 僕は、彼女の微笑の方が、しかめ面 より怖かった。すぐにでも、とって食 われそうな気がする。たぶん彼女は、 こちらを油断させて、すきをうかがっ ているにちがいない。 「そんなに緊張しなくてもいいですよ、 フェイス。私は、あなたが思っている ほど、陰険な人間ではないのですから」 「い、いえ、ちょ、ちょっとヒールが ‥‥」 僕はごまかした。 「ヒールに慣れないんで、足が痛くて。 それだけです」 「わかりますよ」 彼女は、またほほ笑んだが、今度の 微笑はちょっと暖かいものに思えた。 「あなたたちの女の子っぽい姿を見て いるのは、とてもすてきです。これか らも、今の調子でつづけてくださいね、 ホリー」 219/806 それだけ言って出て行ったミセス・ ウイリアムズを見送ったところで、僕 はささやいた。 「いったいなにかと思ったよ。でも、 思ったよりやさしかったね。まだ、信 用はできないけど‥‥」 「あなたは、わかってないのよ」 レクリエーション・エリアへ向かう 途中、ホリーが言った。 「そのうち、気がつくわ。ミセス・ウ イリアムズはとても心が広くて思いや り深い人だって」 レクリエーション・センターは巨大 な施設だった。 バスケットボールのコートやプール などスポーツ施設の他、ゲームルーム やビリヤード台まであった。 「ハーイ、フェイス。すてきな服ね」 昼間、授業でいっしょになり、顔だ 220/806 けは覚えている女の子が近づいてき て、ワンピースをほめてくれた。 「ありがと」 僕は、思わずほほえみ返し、お礼を 言っていた。 「ねえ、ホリーから聞いたんだけど、 ビリヤードが得意なんでしょ。いっし ょにやらない?」 彼女はビリヤード台を示しながら誘 ってきた。 「ワンピースとヒールでなんて、一度 もしたことないけど‥‥」 僕はビリヤード台に近づきながら、 笑って言った。 「それはそれで、ちょっと新鮮かも」 「今のあなたにとって、女の子の服で やることは、なんだって新鮮だと思う わ」 彼女もそう言って笑い、球を打ち始 めた。 221/806 「まあ、すぐに慣れて、新鮮味はなく なるけどね」 「だけど、やっぱり、そんな簡単には 慣れそうにないみたい」 ヒールのせいでバランスを崩しミス ショットした僕は、悔し紛れに、そう 言い訳した。 ジルというその新しい友だちは、む ずかしいショットをいとも簡単に入れ てみせた。でも――言い訳がましいか もしれないけれど――、彼女は僕とち がい、平靴とショートパンツなのだ。 「もっと、ショットに集中しなきゃ。 服のことなんか気にしなくてもいいの よ。ここでは誰も、あなたの格好をじ ろじろ見たりしないから。町では、女 の子の服だとどうしても気が散っちゃ うけどね。デートでビリヤードをやる 時なんて、彼がタフ・ショットを打っ たあととかに、ビリヤード台の縁にお 222/806 尻をのせて、わざとらしくない程度に 脚を見せたりしなきゃいけないから」 「女の子がそんなつもりでいるなんて、 考えてもみなかったよ」 僕は、首を振りながら笑った。 「何度も言うけど、なにしろ、女の子 の服とヒールで、ビリヤードなんてや ったことないから」 ジルと僕はすぐにうち解けて、笑い 合い、愉快な時間を過ごした。僕は気 楽にビリヤードを楽しみ、ジルの方は、 スコアが開きすぎないよう、簡単なシ ョットをわざとミスしてくれていたよ うだ。 数時間のうちに、僕は、自分が女の 子をやっていることすら忘れていた。 しかし、部屋に戻るとすぐ、ホリー は、意外な事実を教えてくれた。それ は、僕の置かれている状況を思い出さ ざるを得ないものだった。 223/806 「ジルも、親がここに連れてくる前は、 ずいぶんな問題児だったそうよ。学校 をさぼってケンカばかりして、ロサン ゼルスでいちばん凶暴なストリートギ ャングの一味に片足突っ込んでたんだ から」 僕は、ホリーの言葉が信じられなか った。あのジル‥‥僕とのゲームをつ づけるために、わざわざミスショット してくれた女の子‥‥すべての母親が 思い描く理想の娘といってもいい‥‥ あのジルが、そんなふうだったなんて、 とても想像できない。 「それってほんとに、さっきまでいっ しょにビリヤードをやってたあの子の ことなんだよね? 彼女は、世界でも 何人もいないくらいやさしい人だと思 うんだけど」 「今度、彼女に聞いてみるといいわ。 3人の男をぶちのめして、病院送りに 224/806 しちゃった話を」 「えっ? だって彼女って‥‥、身長 5フィート(約152センチ)くらいだよ。 暴れん坊のハムスターをやっつけたっ て話だって信じられないよ」 僕は思わず笑ってしまった。実際、 相手が誰であれ何であれ、あのジルが 戦っているところを想像すること自体 がむずかしかった。 「3人の年上の男の子たちに重傷を負 わせたその暴れん坊の12歳は、じつは、 彼自身の心の中に潜む思いを必死に隠 すために暴れてたらしいのね。女の子 のかわいい服を着てみたいって抑えが たい気持ちを、誰かに見破られるんじ ゃないかって、それを恐れてね。ある 時、彼の両親が、彼をカウンセリング に連れて行った。そこで彼らは、面白 いものを見ることになった。カウンセ ラーの指導に従って、彼の妹のかわい 225/806 いドレスやペチコートやパンティを身 につけさせたとたん、これまでさんざ ん手を焼いてきた男の子が、素直でか わいいレディになっていた。とはいえ、 彼の両親は、もし、近所の人にそんな 姿を見られ冷やかされたら、彼がその 相手を殺しかねないということもよく わかっていた。そこで両親は、彼が気 兼ねなく女の子でいられるようにっ て、ここへ連れて来たってわけ」 「ふうん。でも、面白いよね。むかし、 彼から逃げまわってた男の子たちだっ て、今はきっと、彼女に近づきたくて 必死になるよ」 ホリーの話は、作り話ではないだろ う。僕がジルに確かめることは簡単だ。 そんなうそをつけば、ホリーは僕の信 頼を失い、ビッグシスターでいること だってできなくなるのだから。 「だけど、ジルや君みたいな子はそれ 226/806 でいいとして、僕みたいな男の子‥‥ つまり、実際は女の子になりたいわけ じゃないって子たちは、どうなのか な? 本当にここを、男として出てい くの?」 それは、ここの女の子たちを見て、 ずっと持っていた疑問だった。 「去年、ここを卒業した女の子は25人 いるのね」 ホリーは、まずそう説明した。 「そのうち、24人の男が大学へ行った。 つまり、フルタイムの女の子にとどま ったのは1人だけよ。これまで何度も 言ったでしょ。もし、あなたが望まな いんなら、ずっと女の子でいつづける 必要なんてないんだって」 「でも、そこが怖いんだ。もし、ここ にいる間になにかが起きて、本当の女 の子になりたいって気になっちゃった ら‥‥」 227/806 と、ホリーは僕の隣に座って、僕の 体を抱いてきた。 「それは、あなたが思ってるほど簡単 なことじゃないのよ」 彼女はそう言いながら、僕のほおを なでるようにした。 「あたしを例にとって話すわね。あた しが自分は女の子になりたいんだと気 づいたあとも、それが簡単に許された わけじゃないの。たくさんの心理テス トと医学検査を受けて、そのすべてを パスしなければならなかった。2年前 にその決定が下されて、今は性転換手 術を待ってるわけだけど、その決定が 出たあと、あたしは、完全に女の子と して生きることが義務づけられた。服 装、行動、学校へ行くことや働くこと、 そのすべてにおいてね。それに、かつ て自分が男だったことを忘れる努力も 必要だった。あたしは今、毎分毎秒、 228/806 1日1日、できるかぎり女の子であろ うとしてるわ。ホルモンは、あたしを 女の子に見えるようにはしてくれるけ ど、それだけでどうなるものでもない の。女の子としてきちんと適合できる かどうかは、あたしの努力にかかって るのよ。自分がその気にならなきゃぜ ったいに無理。本物の女の子になるっ て事は、他の誰かが力ずくで強制して できるようなことじゃないわ」 「信じていい?」 僕は、鼻をすすり上げながらきいた。 「ええ、信じて」 彼女は、僕のほおにキスした。 「さあ、そろそろ、寝る前の準備を始 めなきゃね」 僕は、バブルバスがすっかり気に入 ってしまった。 バスタブにもたれ、お湯の中に体を 229/806 浮かせていると、これまで思い煩って いたことから解放されていく気がす る。 女の子でいなければいけないのは、 一生ってわけじゃない。いずれここを 出れば男に戻れるのに、なにも今、急 いで逃げ出す必要もない。‥‥。 1時間後、ホリーは僕の肩を揺すり、 起きろと告げた。 「このまま、入ってちゃだめ? もの すごく気持ちいいんだもん」 僕は、甘えた声で言っていた。 「お願い。明日の朝まで、ここで寝か せといて」 「ダメよ。寝る前に髪をセットしなき ゃいけないのよ。この湿気の中に朝ま でいたら、スタイリングもうまくいか ないし、すぐ崩れるわ」 その言葉にいやいやバスタブを出た 僕は、バスタオルをとると、何の気な 230/806 しに、それを胸のところから巻いてい た。 「いいわよ、フェイス」 バスルームを出たところで、ホリー が手をたたくようにした。 「あなた、女の子ね」 「えっ? あ‥‥、な、なんで、こん なふうにしちゃったんだろう?」 僕はおどおどつぶやいた。 「なんか、僕、おかしくなってる」 「たぶん、あなたの中でなにかが起き てるのよ、フェイス」 ホリーは、そう言ってほほ笑みかけ てきた。 「他の女の子たちを見たり、あなた自 身が人から見られることで、少しずつ、 女らしい仕草や行動が身についてきて るのね。たとえば、腰掛けるときはス カートの後ろをなでつけて、座ったあ とも膝をきちっと揃えてるでしょ。そ 231/806 れは、まわりの女の子たちがそうして るから。そして、あなたも自分自身そ の一人だと感じてるから。あなたは他 の女の子たちを見て、どうしたらあん な髪型になるのかとか、どうやったら あんな服が着こなせるのかとか、考え はじめてるんじゃない?」 「そ、そんなこと、考えてないよ‥‥ 考えるわけない、だろ。だ、だって、 僕は、男なんだから」 僕は、なんだか自分が壊れていくよ うな気がした。そして、そのせいで、 急に涙が溢れ出した。 「泣かないで、かわいい子ね」 ベッドで僕の隣に腰掛けた彼女は、 やさしい声でなだめるように言った。 「2年後に、あなたはここからいなく なる。その時は、スカートのこともヘ アスタイルのことも、忘れられるのよ」 「で、でも、もし忘れられなかった 232/806 ら?」 僕は、自分が女の子であることが好 きかもしれないという恐れの最も深い 部分をさらけ出しながら泣いていた。 「そしたら僕は、どうなっちゃうの?」 ホリーは、僕のことをきつく抱いて、 頭にキスしてきた。 彼女は僕を、まるで小さい子供のよ うに扱っていた。でも僕は、それに少 しも腹が立たなかった。逆に、自分が 大切にされているという感覚に、心地 よさを感じていた。 「もし、あなたがそれを忘れられない とすれば、それは、あなたが忘れるこ とを望まないからでしょ。その時は、 あなた自身で選べばいいの。たぶん、 疑問の余地なく選べるはずよ。パート タイムの女の子として、ときどき女装 を楽しむか、それとも、自分らしく生 きるために性転換するか? どっちを 233/806 選んだとしても、あたしは、妹の選択 を心から応援するわ」 ホリーの腕の中で、僕は自分が暖か くて安全な場所に守られていると感じ ていた。そして、これはまちがいなく、 彼女が女の子であることの証しだろう とも思った。 僕は顔を上げ、笑いかけた。 「ホリー、君はきっと、いいママにな れるね」 「ふふ、それじゃあ、あたしのかわい い妹に、おやすみ前の準備をしてあげ ましょうね」 彼女はほほ笑み、もう一度キスして くれた。 「忘れないでね。賭けはまだ進行中よ。 あたしは、週末までに、あなたを女の 子っぽい女の子にしなきゃいけないん だから。もう、それだけの時間は必要 ない気もするけどね。あなたが、自分 234/806 は女の子だって言う時が待ちきれない わ」 僕はまた、そんなことはありえない と反論しようかと思った。でも、僕の 中のなにかが、それをためらわせた。 ことに、ホリーが白いシルクのベビ ードールを差し出した時には、僕の信 念は完全に揺らいでいた。そのベビー ドールは、そで口も裾も数インチのレ ースで縁取りされ、繊細なピンクのリ ボンがネックラインに沿った形で通さ れ蝶々結びされていた。 パンティの方は、さっきまで履いて いたのと同じサテンだったが、通常の デザインとはちょっとちがっていた。 上の部分に着けられたゴムバンドから 生地がふくらみ、お尻を丸く包んで、 両脚のつけ根あたりを囲むレースのと ころですぼまっている。もちろん、お 尻の部分にも、三段のレースのラッフ 235/806 ルがつけられていた。 それを見た瞬間から、僕が、早く着 たいと思ったのを、ホリーは気づいた ろうか? まあ、奪うように受け取り、 あわててタオルをはずして洗濯かごに 放り込んだんだのだから、バレバレだ ったにちがいない。 僕は、パンティを履くときにその生 地が脚の肌をすべる感触や、頭からか ぶったネグリジェが体を下りてくる感 触が好きだ。それは、僕の体の中の神 経繊維1本1本を細かく震わせる! 鏡の前に立った僕は、髪をふわっと 持ち上げ、さまざまなポーズをとって いた。 「ふふ、自分のことを、ものすごく女 の子っぽい女の子だって感じてるんで しょ?」 背後から、ホリーがきいてきた。 236/806 振り向いた僕は、照れ笑いした。 「女の子だって感じてるわけじゃない よ。この感触が好きなだけ。そうさ、 それだけだよ」 「それが、すべての始まりなのよ」 彼女はそう言って笑った。 「次には、かわいいドレスを選んだり お化粧したりすることが好きになる。 その次はなんだかわかる? 町で、男 たちを狂わすのに心ときめかすように なるの」 「そんな‥‥、ありえないよ」 僕は、もう一度鏡を見ながら言った。 そこに映る姿に、ちょっとワクワクし たのはたしかだ。 「今も言ったけど、僕は、こんな服の 感触を気に入ってるんだ。それで終わ り。それより先には行かないよ」 「ほら、見て、フェイス。あなたは男 の子でいるには、かわいすぎるでしょ。 237/806 あなたの中に、女の子の気持ちが芽生 えてきてるはずよ。あなたは、それを 受け入れるのが怖いだけなんじゃな い?」 「なにも、怖がってなんかいないよ」 僕はほほ笑みながら、ベビードール の裾の乱れを直し、きれいなレースが よく見えるようにした。 「僕がシルクの生地から受ける感触を 楽しんでることは認めるよ。でも、こ れは、女の子になりたいって気持ちと はぜったいにちがうよ」 「あたしも、3年前は、そう思ってた わ」 ホリーは、ほほ笑みながらうなずい た。 「でも、このごろよく思うのは、どう せなら、もっと小さい頃から女の子と して育ちたかったってことね。たとえ ばね‥‥、ちっちゃな女の子のあたし 238/806 はパフスリーブのかわいいパーティド レスを着てるの。細いウエストに巻い たサッシュが背中で大きくリボン結び されてる。スカートをふくらませてる ペチコートは、全部シルク製で、1枚 1枚の裾にもシルクのレースが着いて るのよ。その下に履いたパンティもシ ルクでラッフルがいっぱい。そこから 出たかわいい脚に履いてるのは、足首 にレースの折り返しがあるソックス と、ぴかぴかに磨いた小さなバックル シューズ。ね、かわいいと思わない?」 その言葉に導かれるように、僕の心 の中でもイメージが浮かび上がってい た。 僕は、キュートで小さな女の子。髪 は、ドレスとおそろいのかわいいリボ ンで結われ、頭の両側で2本のポニー テールにまとめられている。 ドレスがうれしくてくるくるまわる 239/806 僕の姿を、ママとパパは、どこか誇ら しげに見つめている。 スカートがふわっと広がったせい で、その下から、レースで縁取られた ペチコートやパンティがのぞく。 なんの罪もない平和な家族写真。そ の中で僕は、初めてのパーティのため に着たドレスの、柔らかですべすべし た感触に幸せを感じて、にっこりとほ ほ笑んでいる。 僕は、パパのちっちゃな恋人、ママ の大切な宝物。 ‥‥。 僕の顔に、思わずほほ笑みが浮かん だ。しかし次の瞬間、そんなイメージ が吹き飛んだ。なんと、僕の例のやん ちゃ坊主が、むくむくと首をもたげは じめたのだ。 そしてホリーは、そんな僕の変化を 見逃してはくれなかった。 240/806 「ふふ、どうやら誰かさんは、自分が 女の子だって考えることが好きみた い」 彼女は、僕のパンティの一部が大き く出っ張ってくるのを見つめながら、 くすっと笑った。 僕は、そのやんちゃ坊主をもう一度 眠りにつかせようと、必死になにか他 のことを考えようとした。でもホリー は、僕のそんな思いに気づいたらしく、 ふたたびそのイメージの中に僕を引き 込んだ。 「その誕生日パーティのドレスを買い に、あたしは、ママといっしょにおめ かししてお買い物に行ったはずよ。そ れもきっとすてきだったでしょうね。 あたしは、かわいらしいピンクのパン ティを履くの。いつも履いてるのとは ちがう、お出かけ用にとっておいたや つ。すべすべのナイロンでできてて、 241/806 足の出るところにひらひらのレースが 縫いつけてあるのよ。それがあんまり すてきだから、あたしはお気に入りの サンドレスを着ることにしたわ。もの すごくキュートなストラップのついて るやつね。折り返しがレースになった ソックスを履いて、靴は白のメリー・ ジェーン。ちっちゃなバックルがかわ いくって、前からお友達に自慢してた の。あたしがずっといい子にしてたか ら、そのごほうびに、ママが初めて口 紅を塗ってくれたわ。それで町を歩く と、みんなからお姉さんに見られてる 気がして、ワクワクするのよ」 ‥‥クソッ。その話のせいで僕は、 部屋の温度が急に上がったように感じ ていた。実際、額にビーズのような汗 が浮いていた。 僕は、自分がこれ以上恥ずかしい状 態に陥る前に、逃げ出したいと思って 242/806 いた。それなのにホリーは、ただ言葉 だけで、僕をとりこにしていた。 「マミーとあたしは、家の近くの大き なデパートに行くの。たしか、ディロ ンズ(※)って名前よ。そのデパートに 入っていくと、あたしみたいなちっち ゃい女の子にぴったりの、かわいい服 やかわいい小物がいっぱいあるの。あ たしは夢中になって駆けていって、夢 のようなドレスをふたつ選ぶの。それ を試着して出てくると、マミーも店員 さんたちも、なんてかわいいんでしょ うって言ってくれて、いい子だってほ めてくれるのよ」 (※訳注 ‘Dillons’デパートというより、さ まざまなインショップが入ったスーパーチェー ン 小さい女の子なのでそれをデパートだと思 っている) 僕はただおろおろしていた。 パンティに手を伸ばし、そのやんち 243/806 ゃ坊主を楽にしてやりたいという思い はやまやまなのに、もしそんなことを すれば、ホリーは飛び上がって喜び、 僕に、自分が女の子だと思うことが好 きだと認めさせるにちがいなかった。 僕はきょろきょろと目を動かし、バ スルームに駆け込むすきをうかがっ た。ところが、それを察したらしいホ リーは、僕とバスルームの間に立って しまった。 「も、もうやめようよ、ホリー」 許しを請うその声が、苦しみにもが くようなものになっていた。 僕は、下半身にたまってくるうずき を解放してやらなければならなかっ た。でも、バスルームとの間に彼女が いるかぎり、そのチャンスは得られそ うにない。 「フェイス、あたし、なにかあなたを 困らせてる?」 244/806 ホリーは、あきらかにおためごかし にきいてきた。 「ごめんなさい。ちょっと夢中になっ ちゃったみたいね。自分がちっちゃな 女の子だったって考えるのが、あんま りすてきだったから。でも、そんなこ と考えてもしょうがないわね。今のあ たしにはもう無理なんだから。もっと 前向きにならなきゃね。これからの夢 だったら、いくら持ってもいいでしょ。 どんな女性になりたいかってこと。女 であるってことは、すごくすてきなこ とよ。自分がセクシーで女らしいって 感じられる、いろんな種類の服が思う 存分着られるのよ。ここへ来た頃、ど うしてあんなに、女の子であることを いやがったのか、今考えるとよくわか らないわ。おろかだったのね。でも、 それは長くはつづかなかった。かわい い服やセクシーなランジェリーを毎日 245/806 着てると、それがどんどん好きになっ ていった。だけど、ほんとに、もう男 の子には戻りたくないって思ったの は、初めてのデートの時ね。男の子の 強い腕があなたの体を包むの。彼は、 あなたがどんなにかわいいか、いっぱ い言ってくれるはずよ。そのうち彼の 腕があなたを強く引き寄せる。あなた の唇が彼の唇と触れたとき、この世で いちばん幸せな感覚があなたの体をつ つむの」 「あたし」の話だったはずなのに、 その瞬間を語る時は、「あなた」に変 わっていた。僕はそれにつられて、男 からそんなふうにされているイメージ を心に抱いていた。先に女の子として 育ったイメージができあがっているせ いか、僕はそれを気味悪いとも感じす、 逆に、興奮をますます募らせていた。 「あたし、結婚する日が来るのが待ち 246/806 どおしくてたまらないの。もう、その 時着るウエディングドレスだって選ん であるのよ。すごくかわいいの。もち ろん白で、レースがいっぱい使ってあ るの。ローカットで肩を大きく出すデ ザインだから、あたしの白い胸がちょ っとのぞいてて、それを見たあたしの 新しい旦那様はもうメロメロ。その下 には、前のところもレースになった真 っ白なサテンのパンティを履くの。お そろいのブラのカップは、あたしの胸 をやさしく包んで持ち上げてくれる わ。ガーターベルトもおそろいで、や わらかなレースでできてる。そのスト ラップにつるのは、もちろん、極薄の シルクストッキングね」 ホリーは、夢見るような顔でさらに つづけた。 「あたしは、パパに連れられて、バー ジンロードを歩いていく。ママは、も 247/806 う涙でぐしょぐしょになって、こんな にかわいい花嫁は見たことがないって 言ってくれるのよ。通路の先では、彼 が、あたしの花嫁姿をじっと見つめて、 こんなきれいな女性を妻に迎える幸せ をかみしめてるわ。祭壇の前に並んだ あたしたちは、永遠の愛を誓い合った あと、指輪を交換する。それから彼が、 キスするためにあたしのベールをそっ と持ち上げる。キスする寸前に、彼は もう一度、あたしをどれほど愛してる か、どれほどこの日が待ち遠しかった かをささやくの」 僕はその話を、完全に花嫁の立場で 聞いていた。新郎からキスされる瞬間、 僕の体は震え、それが僕を、さらに緊 迫した状況に導いた。 「式が終わったあと、ホテルの部屋で、 あたしは真っ白なネグリジェに着替え るの。それはまるで、これを着て育っ 248/806 てきたというほど、あたしの体にぴっ たり。あたしのセクシーなボディライ ンが、すべすべしたサテンの中で動く のが、外からでもよくわかるの。前も 後ろも、ネックラインが深くて、おま けに両サイドがレースになっているか ら、どうしても、その下で揺れるあた しの胸に、彼の視線を惹きつけてしま う。ベッドの上であたしは、これまで 感じたことのないその幸せな感触が、 ネグリジェのせいなのか、あたしの体 の上を動く彼の手のせいなのか、よく わからなくなってしまう‥‥」 もう、がまんの限界だった。 僕は、すぐにでもバスルームに駆け 込まなければならなかった。 ところがホリーは、その前に立ちは だかり、そこをブロックしていた。 「ほら、あなたは、女の子っぽい女の 子でしょ。正直にそう言って」 249/806 彼女は、にやにや笑いを浮かべ、言 った。 「言わなきゃ、ここ、通してあげない わよ」 「頼むよ、ホリー。僕はどうしてもそ こに入らなきゃいけない。わかるだ ろ?」 僕は、泣き出しそうな声でそう言い ながら、なんとかすり抜けられないか と必死にすきをうかがった。 「さあ、よくわからないわ。あたしは、 この2年間、勃起なんてしてないもの」 ホリーは、今度はいたずらっぽい笑 顔で言った。 「べつに平気よ。どうせ、もう使わな いんだし」 「お願いだよ、ホリー。もう許して。 これがどのくらい苦しいか、覚えてな いわけないだろ」 「あなたの方が、どうすればいいか、 250/806 わかってるでしょ」 これ以上ないくらいの笑顔で、彼女 は言った。 「あたしの思ってるとおりだって正直 に告白すれば、あなたのいけない衝動 を解決できるのにな」 「わ、わかったよ。そ、そうさ、僕は ‥‥あたしは、女の子っぽい女の子、 よ」 僕は、叫びながら、ドアノブに飛び ついていた。 「思いっきりかわいい服を着て、強く てハンサムな男の子の前でお尻を振る のが、待ち遠しくてたまらない、わよ」 「ほら、思った通りね」 彼女は勝ち誇ったように言うと、身 を引き、僕をバスルームに通してくれ た。 「あなたは、できるだけ早くホルモン を始めたいって、親に言うべきよ」 251/806 ドアが閉まる途中、親だとかホルモ ンだとかという言葉が聞こえたが、僕 の下半身は、それどころでないほど切 迫していた。 数分後、パンティを上げ、ネグリジ ェを直していると、ドアが開き、にこ にこ顔のホリーが入ってきた。 「あなたは、自分が女の子っぽい女の 子であることを認めた。だから、賭け はあたしの勝ち。よって、キスはなし ‥‥ってことでいいのね?」 「あんな拷問での結果なんて、ノーカ ウントだよ」 僕は強く主張した。 「あんなことで、僕がなにかを認めた とは言えないんじゃないかな」 しかし、そこで僕は、肩をすくめ、 ネグリジェのシルキーな生地をつまん だ。 252/806 「だけど、こうは言ってもいいよ。僕 が『あたしは女の子っぽい女の子よ』 って言っちゃったのは事実だ。だから もう、キスはあきらめるよ。でも、そ の代わり‥‥、このネグリジェ、これ からも着ていい?」 「ふふ、なんであたしにそんなこと頼 むの? そんな必要ないのに」 彼女は笑いながら言った。 「だって、それ、もともとあなたのだ もん」 「えっ? 僕の? どういう意味? こんな女の子っぽいものなんて‥‥。 えっ? もしかして、きのうから僕が 着せられてたのは‥‥」 ホリーは、おかしな視線で僕を見て いた。まるで、子供から初めて鳥とミ ツバチのちがいについてきかれた時の 親のような。 「そうよ。あたしのじゃなくて、全部 253/806 あなたのものよ。だって、あなたのマ マは、あなたが着るための服をずっと 前から準備してたんだもん。あなたの 親たちは、例の理科室放火事件の前か ら、あなたをここに入れることを考え てたの。彼らは、もう何ヵ月か前にミ セス・ウイリアムズと相談して手続き をとってた。だから、すべての服を買 いそろえて、あの事件より前にここに 送ってたの」 僕は、大きなショックを受けていた。 「じょ、冗談だろ? マジで?」 きいてみたが、彼女の表情がすべて を物語っていた。その顔は大まじめだ った。 「つまり、僕が火をつける前から、う ちの親たちは、僕をここに入れる計画 に燃えてたってわけか?」 僕は、すべてを悪い冗談にしてしま おうと思ったのだが、彼女はそれに、 254/806 ほほ笑みさえしなかった。 「黙っててごめんね。ほんとは、あん な事件の前に、あなたのママがちゃん と話してればよかったんでしょうけど ね。でも、あなたが素直に言うことき くとは思えなかった。それで、タイミ ングを見計らってるときに、あなたは あんなことをしてしまった。そういう ことなの」 彼女は、ちょっと同情するような顔 で言った。 「僕が、親にとって手に負えない子供 だったことはたしかだよ。でも、僕は、 まさか、女の子として暮らさなきゃい けなくなるとは思ってなかった。もし、 両親がここに入れようとしてることを 知ってたなら、僕は、もっとまじめに なってたかもしれない。いや、たぶん、 まちがいないよ。でも、今はもう、ど うしようもないってこと?」 255/806 僕は肩を落としてたずねた。 「ええ。だけど、親があなたをここに 入れる手続きを進めてたおかげで、あ なたは助かったとも言えるのよ。でな かったら、あなたは刑務所に送られて いたはずだもん。それに比べれば、2 年間女の子でいることは、けっして悪 い話じゃないわ。あたしなんて、3年 そうしてるわけだしね。あたしはもう、 演じてるわけじゃないけど」 「そ、それにしても、あの放火事件と は関係なく、僕をここに入れる計画が されてたなんて‥‥」 僕は、まだ納得できない思いで首を 振った。 「だけど、僕って、そんなにワルだっ たのかな?」 と、ホリーは苦笑するという感じで うなずいた。 「あたしのママは、あなたの両親が、 256/806 あなたをなんとかまともにしようとし て、気が狂う寸前まで努力したって言 ってたわ」 僕は、返事もできないほど驚いてい た。 僕は、自分が、家族にとってそれほ どやっかいな存在になっていたことを なにもわかっていなかった。僕は単に、 自分が楽しいから、いたずらをしてい るという程度の感覚だった。どうやら、 それが、どれほど現実に悪いことなの か、ちゃんと理解していなかったよう だ。 「親を困らせた埋め合わせだけは、し なきゃいけないみたいだね」 僕は、静かに言った。 「ええ、もう脱走なんて、言っちゃダ メよ」 「ああ、わかった。ここで暮らすよ」 僕は、一方で親に裏切られたという 257/806 心の痛みとともにつぶやいた。 「こんなめちゃくちゃなこと、うまく やってける自信はないけど、なんとか 乗り切るよ」 「ねえ、もっと元気を出して」 ホリーは、そう言って僕のほおにキ スした。 「2年は、一生よりもずっと短いわ」 たぶん、ホリーの言うとおりなのだ ろう。 でも僕は、この間、彼女にいろいろ な女の子の服を着せられたことで自分 自身の中に生まれてしまったものが怖 かった。 これまで僕は、たとえば母さんの服 を着てみたいなどと思ったことは一度 もなかった。それなのに、たったこの 3日間で、ホリーは僕を、女の子っぽ い女の子でいるためにはどうしたらい 258/806 いかなどと考える人間に変えてしまっ たのだ。 たしかに、僕の中のなにかが、シル クの服を着るたびに喜びにふるえてい た。その肌触りが好きだったし、たと え恥ずかしいと思っても、それを拒絶 することはできなかった。 ホリーは僕を、等身大のバービー人 形のように扱い、僕はそれにワクワク していた。ホリーから、柔らかくてす べすべのものを渡されるたびに、僕の 鼓動は高鳴り、僕の手は震えた。 そして、彼女の言うがままに、自分 が女の子でいるのが好きだということ を受け入れてしまった。 しかし、もちろんそれは、大きな問 題をはらんでいる。 僕は、そんなかわいい服が着られな くなった時、いったいどうするのだろ う? 果たして、ふつうの男に戻れる 259/806 のだろうか? たった3日で、シンデレラ志願者に なってしまったのだ。その上、この先 2年間、女の子を演じつづけるのだ。 その2年が終わった時、僕はいったい、 どんな人間になっているのだろう? ドレスを着た男を恋人にしたいなど と思う女性は、どこにもいないだろう。 一方で僕は、男とつき合う気など毛頭 ない。 この狂った3日間は、僕の人生を台 無しにしてしまったのかもしれない。 ‥‥いや、待てよ。 よく考えてみれば、僕がきれいなこ とを、けっしていやがらず、むしろ喜 んでくれる女の子が一人いるじゃない か。 僕が気にしていたことなど、彼女の ちょっとした欠陥に過ぎない。彼女は、 きれいで、かわいくて、僕がこれまで 260/806 知り合ったすべての人の中で、最も気 の合う人物だ。幼なじみの大親友であ ることは、障害どころか、むしろ大き な利点だろう。 そう考えてしまえば、僕がしなけれ ばいけないことはただひとつ。彼女に もっと気に入ってもらって、彼女が僕 に恋するように仕向けることだ。僕が 歩くバービードールになることさえが まんすれば、彼女は僕の最高の恋人に なるはずだ。 翌朝、僕は、なんとかアラームが鳴 る前に起きることに成功した。 歯を磨いている時、ふと気がつくと、 バスルームのドアについた姿見に、僕 自身のすてきな姿が映っていた。 歯磨きを終えた僕は、姿見の前に立 ち、ほほ笑んでみた。そして、短いネ グリジェの裾をやさしくつまみ、それ 261/806 を前後に揺すってみた。 サテンのネグリジェと脚の素肌がふ れあう微妙な感触が、僕の全身を駆け めぐった。 そんなふうに鏡を見つめながら裾を 揺すっているうち、この2年間が、僕 の人生にとって、かけがえのないもの になるかもしれないという確信のよう なものが湧いてきた。 洗顔を終え、バスルームを出た僕は、 今日身につけるものを自分で選ぼうと 考えた。 引き出しを開けた時、僕はまるで、 クリスマスツリーの下に並べられたプ レゼントを見ている小さな子供のよう な気分になった。こうして見ると、ど れもこれもかわいいものばかりで、迷 ってしまう。 最終的に選んだのは、女の子向けだ 262/806 けれど、ボクサーパンツのような形を したものだった。ふつうのパンティよ り丈が長く、腿のまわりをきれいなレ ースがぐるっと取りまいている。信じ られないほど軽くてデリケート、それ に、見た瞬間に履きたいと思うほどか わいかった。 僕は、ホリーを起こさないよう、そ っとネグリジェを脱ぎ、パンティを履 き替え、ブラを着け、その上から、サ テンのアンダーシャツのようなものを 着て、それとお揃いらしい薄いペチコ ートを履いた。 こんなすてきなものを身につけるこ とを嫌っていたのは、いったいどこの 誰なんだろう? 自分の体に手を這わ せながら、僕はそれを、不思議にさえ 思った。 それらは、軽くて、ソフトで、もの すごくかわいい。下着そのものもだけ 263/806 れど、それを着けた僕自身がかわいい と思えるのだ。 「ねえ、一日中寝てるつもり?」 僕は、ホリーに向かって、大きな声 で呼びかけた。 「ゆうべはカーラーせずに寝たから、 僕の髪をやるのに時間がかかるんじゃ なかったの? それなのに、そんな大 いびきなんかかいて」 とたん、枕が空を切り、僕の顔めが けて飛んできた。僕はそれをあやうく よけながら言った。 「とても朝型人間とは言えない僕が、 もう起きてるのに」 そして、彼女の上にかがみ込んでさ さやいた。 「どう? かわいい?」 「‥‥ん? あなたが、あたしより先 に起きてる? しかも、フリフリの下 着なんか着て? その上、なんだかル 264/806 ンルンで‥‥」 ぶつぶつ言っていたホリーは、うな った。 「うーむ。世界は一挙に、新時代に突 入?」 「ねえ、かわいい妹のことをほめてく れないの?」 僕はからかいながら、下着姿がしっ かり見えるように、くるっとまわって みせた。 「引き出しの中から、自分で選んだん だよ」 「それは、タップ・パンツっていうの よ。そのキャミソールもペチコートも、 全部、自分で着たの?」 彼女はやっと目覚めたようで、起き あがりながらくすっと笑った。 「すごい。そんなのが好きだなんて、 あなたってけっきょく、ものすごく女 の子っぽい女の子なんじゃない」 265/806 「キスはもうあきらめたけど、そのぶ ん、こんなにかわいくなれたから、い いことにしたの」 「ほんとに、かわいいわ! だけど、 本気? フランクは、どこに行っちゃ ったの?」 「フランクはね、ちょっとの間、休み をとりたいって。だから、中で寝てて もらうことにしたの。僕‥‥あたしの 名前は、フェイス‥‥よ」 僕はそう言いながら、ペチコートの 裾をなでつけて腰掛け、ニーソックス を履いた。と、持ち上げた腿の上をサ テンのペチコートが滑り、僕は思わず 震えていた。 今日もきっと、授業に集中できるに ちがいない。 ホリーが僕の髪を仕上げ、すてきな 緑のリボンを結ぶまで、心配したほど 266/806 の時間はかからなかった。 でも、その作業の間ずっと、彼女は、 僕が新たに発見した「かわいくなりた い」という願望を拡大するための会話 をつづけた。 「これが、あたしにとってどれほどす ごいことか、あなた、わかってる?」 僕の髪にカーラーを巻きながら、彼 女は興奮気味に言った。 「たしかに、この痛みはすごいよね」 僕は、髪を引っ張るカーラーに顔を しかめながら答えた。 「だけど、かわいくなれるんだもん、 がまんする‥‥わ」 「ふふ、全部、姉さんに任せなさい。 思いっきりかわいくしてあげるから」 ホリーは、ほほ笑みながら、さらに カーラーを巻いていった。 「いつか二人で、ダブル・ウエディン グができるかもね」 267/806 ダブル・ウエディングは、もちろん、 僕がめざしているものとはちがう。 僕がめざすウエディングは、ゆうべ 僕を苦しめた、ホリーの将来の夢だ。 そこですてきなウエディングドレスを 着るのは、当然、夢の持ち主。僕はや っぱり、タキシードがいい。 「ホリーならきっと、かわいい花嫁さ んになれる‥‥わね」 僕は、女性どうしが話している時、 よく耳にする言葉を選んで言ってみ た。 「ふふ、その言葉づかい、すてきよ」 彼女は、くすくす笑いながら、そう 言った。 「もし、あなたが、ほんとにパスした いと思うなら、女の子らしい言葉づか いは大事よ」 「えっ? 女の子らしく話せば、試験 をパスできるってこと?」 268/806 それは、なんだか奇妙な判定基準だ と思えた。でも、ここでならあるのか もしれない。なにしろここでは、みん な女の子の服を着て、女の子を演じて いるのだから。 「バカね、ちがうわよ」 ホリーはくすくす笑いをつづけなが ら、僕のカーラーをとめるために、何 本かのクリップをまとめてとった。 「女の子としてパスできるっていうの は、みんなが、あなたを女の子として 認めてくれるってこと。あなたが本物 の女の子のように振る舞い通せば、み んなだって自然に、あなたのことを女 の子だと思えるでしょ」 「わかった。そうする‥‥わ」 鏡の中に現れた、頭いっぱいにカー ラーを巻いた姿に似合うよう、僕はか わいらしく肩をすくめてみせた。 だけど、本当に、彼女の言うところ 269/806 のパスができるようになるのだろう か? これまで僕は、人に対して、自分を 自分以外のものに見せる努力なんて、 したことがない。だけど‥‥いや、だ からこそ、自分を‥‥。 「それは、たしかに大事なこと‥‥ね。 ぼ‥‥あたしだって、男の子だなんて、 思われたくないもん」 「ふふ、まあ、そんなにに心配するこ ともないと思うけどね」 彼女は、クリップを口にくわえてい るせいで、ちょっともごもごと言った。 「もうかなり前から、あなたを男の子 だって間違える人はいなくなってるは ずよ。だって、こんなにかわいいんだ もん。あなたも、それほど苦労するこ とないわよ」 喜んでいいのか悲しむべきか、これ をどう思えばいいんだろう? 270/806 ホリーは僕を、かわいいと思ってい る。 正確に言えば、これは、女の子がボ ーイフレンドに抱く感情とはちがうだ ろう。 でも僕には、それを修正することは できそうにない。 たとえば今、このカーラーを全部引 っぺがして、男の子の服を探すことは できるかもしれない。でも、その結果 は‥‥。 だいいち、この学校のどこを探して も、男物の服なんて見つけられないだ ろう。それに今や僕は、あのかわいい ベビードールとかパンティとかを手放 したくないとすら思っている。 男の子をかわいくてきれいな女の子 に変えるというここのやり方に拘束さ れ、その上今や、僕自身が、それを進 んでやろうとしているのだ。 271/806 けっきょく今の僕にできることは、 にっこりほほ笑んで座っていることだ けだった。その間にホリーは、僕の顔 にメイクし、カーラーをはずした。 そして、彼女がすべての作業を終え た時、そこにいたのは、登校の準備を 終えた、ひとりのティーンエージャー の女の子だった。 あまりにも簡単にこの学校に適応し ていくことに、僕自身が驚いていた。 当初、僕は、ぜったいに屈服しない つもりだったし、自分から進んで女の 子の服を着ることなどないと思ってい た。もちろん、誰にも、僕のことを女 の子として扱わせるつもりはなかっ た。 ところが、2日後にはもう、僕は、 制服のよく似合う女子高生になってい た。プリーツスカート、白いブラウス、 272/806 ニーソックス、サドルシューズ、その 下には、ふつうの男の子ならぜったい に着ようとはしない下着までつけてい る。 僕は先生の言うことをよくきき、授 業をぶちこわすようなことはなかっ た。それどころか、僕は、授業を楽し んでいた。 何日かの間に、僕にはたくさんの女 友だちができた。そのうち、いちばん の友だちを、僕は愛してさえいた。 そう。それは、まちがいなく愛だっ た。 まぎれもなく、完全に、狂わんばか りに、深遠に、いついかなる時も‥‥ それは、愛と呼べるものだ。 その、僕の理想の女の子は、最高の 女性だった。かわいくて、やさしくて、 頭がよくて、美人‥‥男が女の子に求 273/806 めるものすべてを持っていた。 彼女にとっても僕は最高の友だちだ った。でも、友だちでしかなかった。 それは、彼女が子供たった頃から今ま で、ずっと変わらないことだ。 ある時僕らは、毎日いっしょに暮ら すことになった。 そこで僕の――片思いの――恋人 は、僕に行儀よくしろと言い、その上、 女の子でいろという。 その結果、ホリーを愛していること と、セクシーな下着を愛していること は、僕にとってほとんど同じことにな っていった。 話を戻そう。 僕が、非常にまじめな女学生として、 授業にもまじめに臨んでいたことはた しかだが、誰よりも僕自身が驚いたの は、その2週間のうちに行われたいく 274/806 つかの小テストすべてで、僕が「A」 評価を受けたことだった。 当初、僕は、とらなければいけない 授業の中に「化学」と「幾何」がある のを見つけ、おぞけを震ったのだが、 やがて信じられないことが起きた。僕 は、それらの授業が楽しみでしかたな くなっている自分を発見したのだ。 授業中、僕はしっかりノートをとり、 先生の話に集中し、宿題が出ると、す すんでそれに取り組むようになってい た。 その結果、さほどの時間も経たない うちに、僕は、勉強のことで、他の生 徒の相談を受けるまでになった。 僕にとってこれは、なんだか夢を見 ているような感じだった。 以前の僕は、学校なんて、ただ時間 をつぶすだけの場所だと思っていた。 授業は苦痛だったし、もし僕が宿題な 275/806 んかやって行こうものなら、教師はシ ョック死したにちがいなかった。 ところがここでは、以前の学校の誰 もが僕にはついていけるはずもないと 言うようなむずかしい授業をとり、し かも、そのすべてで「A」をとってい た。 僕は授業が好きだったし、宿題すら 面白かった。テストも、なんの苦痛も なくこなせるようになっていた。 中でもいちばんうれしかったのは、 そんな僕に対するホリーの反応だっ た。 僕が中間テストの成績を見せると、 彼女は飛び上がって喜び、僕に抱きつ き、部屋中をダンスしだした。二人で 笑い合って踊っているうち、彼女は何 度も、僕のほおにキスしてくれた。 「ねえ、ホリー。あたし、こんな成績 276/806 とったんだから、もっとちゃんとした キスをしてくれてもいいんじゃな い?」 ホリーはこれだけ喜んでくれている のだから、僕は、それをねだってもい いだろうと思った。ところが‥‥。 「ごめんね、フェイス。あたし、女の 子とキスするつもりはないわ」 彼女はなんのためらいもなくそう言 いきり、僕の希望を砕いた。 「だけど、例の賭けで、もしあたしが 勝ってたら、あなたはキスしなきゃい けなかったのよ」 「もし、あなたが勝ったなら、その時 あなたは、女の子じゃないってことに なるわけでしょ」 彼女はそう説明したあと、つけ加え た。 「あの1週間で、あたしが証明したか ったのは、あなたが女の子であること 277/806 を好きかどうかだけじゃなかったの よ。あなたが『お砂糖とスパイスとす てきなものすべて』でできているかど うか、つまり、女の子っぽい女の子か どうかを確かめたかったの。けっきょ く、1週間もかからなかったけどね。 たった3日で、あなたは、学校に行く ために、サテンとレースでいっぱいの キャミソールや、ブラやパンティを、 自分から着けてたわ。『シュガー・ア ンド・スパイス』そのものでしょ。ね、 フェイス」 クソっ! 記憶力のいいやつなん て、大っきらいだ! ‥‥いや、大好 きだけど。 とはいえ、この、ワルからプリンセ スへの劇的な変身を忘れてくれという 方が、どだい無理かもしれない。だっ て僕は今、ロングスカートに明るいピ ンクのノースリーブ、それにヒールの 278/806 高いサンダルという姿で彼女の前に立 っているのだから。 髪は、かわいいフレンチブレード (※) に結っているし、マニキュアや口 紅も明るいピンクで、トップスとのコ ーディネイトも完璧だ。もっと白状す れば、僕の首筋からは香水の香りが立 ちのぼっているし、かわいいゴールド のループイヤリングだって、とても言 い訳はできない。 (※訳注 後頭部の上の方からバックの髪全体 を1本に結う大きな三つ編み) 「だけど、あたしがこんなふうになっ たのは、あなたのせいでしょ」 僕に対する罪悪感からでもいいか ら、彼女がキスしてくれないかと思い、 言ってみた。 「あなたと再会するまで、あたしはご くふつうの男だったのよ。あのベビー ドールを着せられるまでは、自分から 279/806 女装してみようなんて、考えもしなか ったんだから」 「へえ、あたしがあなたの頭にピスト ルを突きつけて、脅迫したとでもいう わけ?」 彼女はそうからかってきた。 「あなたの引き出しには、コットンの パジャマだってあったわ。あたしにノ ーと言い張ることだってできたはず よ。でも、そうしないだろうと思った わ。あなたの中に女の子が隠れてる気 がしたから。結果は、そのとおりだっ たじゃない」 「どっちにしても、あたしを罠にかけ たのはたしかでしょ。そのおわびとし て、キスしてくれてもいいんじゃな い?」 「ほお、罠にかけた? よく言うわね」 彼女は、声を出して笑った。 「あたしはほんのちょっとエサを仕掛 280/806 けただけよ。それにすぐ食いついたの は、あなたの方でしょ。その上、この ごろじゃあ、その先まで食べ尽くして るみたいだし。その髪型は、いったい 誰に教えてもらったのかしら? その メイクはどう? あたしがあなたにメ イクしてあげたのは、最初の1週間だ けよ。もちろん、いろんなシャドーを ブレンドして使うなんてワザ、教えた 覚えはないわ。あなたが、他の女の子 の部屋に集まって、熱心にヘアやメイ クのやりっこしてるの、知らないとで も思った?」 そこまでバレていては、やっぱり、 もう、キスはあきらめるしかない。こ れもまた、言い訳の立たないことだっ た。 かわいい下着を着けるのが好きにな ったのと同じように、いつの間にか僕 は、髪をいじるのも、お化粧するのも 281/806 大好きになっていた。 あれは、ホリーが町に出かけた晩だ った。手持ちぶさただった僕は、なに か読む本でも探そうと図書館をぶらぶ らしていた。そこで、ヘアケアとメイ クについて書いた本を何冊か見つけ、 ぱらぱらとめくってみた。そこには、 その時まで僕がしていたのとはちがう ヘアスタイルがいくつも載っていて、 やり方が詳しく書かれていた。 放課後は暇だったし、僕にもできそ うな気がしたので、僕はそれらの本を 借り出し、いろいろ試してみることに した。そして、1日か2日後には、そ れに夢中になっていた。 エレガントなフレンチブレイドから エンジェルウイング(※)まで、僕は今、 たいていのヘアスタイルが自分ででき る。 282/806 (※訳注 日本では「ツインテール」と呼ばれ る、頭の両サイドをポニーテールにする髪型) 何人かの他の女の子を誘って、彼女 たちを実験台にして試させてもらった りもした。かなりのショートヘアでも かわいくて印象的にまとめる僕のスタ イリングに、みんな喜んでくれた。す ぐに僕は、女の子たちが大事なデート に出かける時や実家に帰る時、髪型の 相談を受けるようになった。 メイクの方は、いわば、ヘアスタイ ルへの関心に付随してうまくなったよ うなものだ。 どうやら僕は、もともと色とかに対 するセンスのようなものを持っていた らしい。図書館でいっしょに借りてき たメイクの本を一晩かけて最初から最 後まで読んだだけで、アーティスティ ックなメイクを仕上げるコツをつかん でいた。 283/806 そして、僕自身が、そのスキルの歩 く広告塔になったようで、女の子たち の間で評判が立った。僕が新たに開発 したその才能を求め、もっと女らしく て印象的になりたいのにブルーのアイ シャドーをつけることしか知らない女 の子たちが、僕のところにいろいろき きに来るようになっていた。 「やっぱり、キスはダメ?」 僕は、上目づかいにホリーを見て、 彼女の心の中の氷山をなんとか溶かせ ないかと試みた。 「ちょっとするだけでも?」 その言葉に、彼女は何秒間か僕の顔 を見つめたあと、ほほ笑んだ。 そのほほ笑みには、覚えがあった。 あれは、僕を女の子っぽい女の子に するための賭けを持ちかけた時だ。ど うもこれは、よくない兆候だ。 284/806 「ちょっとだけなら、してもいいかな」 彼女は、いたずらっぽい目で見てき た。 「それには、ちょっとだけ条件がある んだけどね」 ほら来た。もちろん、条件はあるの だろう。ホリーがなにかを持ちかける 時は、いつだって条件つきなのだから。 彼女の数回のキス欲しさに、僕は、 ふわふわしたフリルでいっぱいの存在 に変えられてしまった。それはまあ、 彼女ばかりでなく僕にも予想外の幸せ をもたらした。 でも、ふわふわしたフリルでいっぱ いの存在になった今、彼女はこれ以上、 どんな条件をつけてくるのだろう? 「あなた、ここに来てから、まだ一度 も、親と連絡をとってないでしょ」 彼女はにっこりとほほ笑みながら、 「ちょっと外宇宙まで旅行してくれ 285/806 る?」とでもいう決断を迫ってきた。 これがいつものホリーのスタイル だ。いわば、典型的な女の子のやり口 だった。 かつての僕の親友は 「その缶ソーダ、 ひと口だけ飲ませてくれよ」という以 上のややこしい要求はしてこなかっ た。それが、この3年の間に180度変 わってしまった。そして今、彼女は、 気まぐれにも、僕に、天と地をひっく り返せと言ってきているわけだ。 いちばん悪いのは、彼女が、自分の 頼んだことなら僕が断るはずがないと 信じていることだった。要求さえすれ ば、そのあと彼女は、ただほほ笑んで いればいいのだ。 たしかに、彼女がキスを約束するな ら、僕は、疑いもなく、一瞬の躊躇も なく、なんでも言うことをきくだろう。 そして、僕がそう思っているだけでな 286/806 く、彼女自身にもそれがよくわかって いるのだ。 ‥‥で、僕はどうする? 僕のルームメイトは、世界一の美人 だ。かわいくて、賢くて、面白くて、 いっしょにいることが楽しい。彼女は 僕のことを、あれこれ気にかけてもく れる。だから‥‥。 いや、わかってる。それは彼女にと って、いわば姉妹愛でしかないのだ。 そして僕は、このジェンダーのトワイ ライトゾーンで罠にはまっている存在 だ。それでも‥‥。 「あたしは、ここに入れられたことに ついては、まだ親を許してないのよ」 僕は、できるだけ感情的にならない よう、静かな口調に心がけた。 「女の子として生活することを受け入 れることは、けっしてかんたんなこと じゃなかった。それを内緒にしたまま 287/806 ここに入れたんだから、ひどい親だと 思ってるわ」 「それはちがうわよ、フェイス。ひど いのはあなたでしょ。たとえ、親が先 に計画してたんだとしても、あなたは、 他の誰でもなく、あなた自身がしたこ とでここに入れられたのよ。理科室に 放火したのは、あなたの親じゃない。 あなたでしょ。変なわだかまりは捨て て、まずは、そのことを親に謝るべき じゃない?」 「それは、そのとおりよ。いちばんひ どいのは、あたしよ」 僕は、しかたなく認めた。 「でも、どうしてここじゃなきゃいけ ないの? あの人たちがあたしを追い 払ってここに入れようとしてたってい うのは、あたしを嫌ってたってことで しょ。現実のあたしを殺して、別の人 間に作りかえようとしたってことじゃ 288/806 ないの?」 「あなたの両親は、あなたを落ち着か せたいと思ってたでしょうし、馬鹿な ことをやめておとなしくなってほしい と思ってたでしょうね。でも、すぐに ここに入れたわけじゃない。あの放火 事件まで、二人とも迷ってたのよ。な のに、あなたはあんなことをしてしま った。考えてもみて。あの事件、実際 には理科室が燃えただけだったけど、 もし火事が学校の外へ広がってたらど うなったと思う? 何軒の家が焼けた かわからないし、何人の人が着の身着 のままで焼け出されたかわからない わ。けが人や死人だって出たかもしれ ない。あなたがしたのは、そういうこ となのよ」 おお、神よ、もしかして彼女は、こ れまで、それがわかっていながら、僕 が罪悪感に落ち込むのを防いでいてく 289/806 れていたのですね。 僕が面白がってやったことは、学校 の近くに住む家族を悲惨な目に遭わせ た可能性もあったのだ。誰かに重傷を 負わせるようなことになっていたかも しれない。 それなのに僕は、消防車がサイレン を鳴らし、緊急灯を点滅させて飛んで きた末、火元が小さな発煙筒だったの を発見するということくらいしか想像 していなかった。 消火しようとした人がけがをする可 能性や、それ以上に、火事が手に負え なくなって、多くのものや人が失われ る可能性には、まったく考えがおよば なかった。 僕は、ホリーの目がまともに見られ なかった。 「あたし、馬鹿だった。どうしようも ないほど馬鹿だったのね。親に嫌われ 290/806 ても、しょうがないってことね」 と、ホリーが、僕のそばに駆け寄り、 その手を僕の体にまわした。 「誰もあなたのことを嫌ったりなんか してないわよ、フェイス。あなたはま ちがったことをした。でも、実際には、 けが人が出たわけじゃない。あの事件 のあと、あなたの両親は、あなたと心 を通わすためにも、あなたが他人に対 する思いやりを持つためにも、ここに 入るのが最善の方法だって決心した の。判事の言うとおり、あなたを少年 刑務所に送ることもできたはずよ。で も、ここに入れることを条件に、必死 にあなたを守ろうとしたの。もし、刑 務所に送られてたら、あなたはきっと、 もっとひどい目に遭ってたわ。体が小 さくてかわいいあなたは、いろんな意 味で、他の連中の餌食になってたでし ょうしね」 291/806 彼女は、僕の頭にキスし、その指を、 僕の髪の中に這わせた。 「どうか、両親を許してあげて。あな たのパパもママも、あなたが大好きよ。 いつも、あなたを助けたいと思ってる のよ」 「でも、こんなふうで、どうやって会 えっていうの?」 僕は、自分の服を示しながらきいた。 「こんな服を着てるところを親に見ら れるなんて、死ぬほど恥ずかしいわ」 「あなたの親は、ここがどんなところ か知ってて、あなたを入れたのよ。も ちろん、あなたがどんな格好をしてる か知ってるし、驚いたりしないわよ」 「それは、そのとおりかもしれないけ ど、こんなあたしを見て親たちが何を 思うかって考えると、あたしだってま ともに顔も合わせられない。父さんは 気が狂ったようになるだろうし、そう 292/806 なったら、あたしだって‥‥」 ホリーは、僕が親と会うということ が、どれくらいたいへんなことなのか、 わかっていないのだ。 もう、親へのわだかまりはおおかた 消えていたが、こんなふうに女装して、 彼らの前にふつうに座り、平生を装っ て会話するなんて、とてもできるもの じゃない。 と、ホリーは首を振り、僕を抱きし めてきた。 「あなたのママとパパは、今のあなた がどんなふうに見えるのか、よく知っ てるわ。だって、何度も見てるんだか ら。会っても驚かないと思うわよ。実 際、二人とも、今のあなたのことを、 きれいでかわいいって書いてきてる し」 「えっ? どういう、こと‥‥」 言いかけたところで、僕は、ホリー 293/806 がいつも手元に置いているデジカメの ことを思い出した。そういえば、彼女 の机の上には、パソコンだってあるの だ。 ここに来て最初の週にやった例のフ ァッションショー以来、ホリーは、毎 週何枚も僕の写真を撮っていた。制服 姿から彼女に借りたパーティドレスま で、何メガバイトもの僕を、彼女は保 存しているはずだった。 「えーっ、ひどい人ッ! あなたの撮 った写真を、無断で送ってたのね」 「有罪を認めるわ」 彼女は笑って、肩をすくめてみせた。 「でも、あなたのパパのせいよ。あな たのパパが、あたしをどれだけ困らせ たか、知ってる? ほぼ一日おきに、 あなたの様子を知らせてほしいって、 メールが入ってたんだから。あなたを ここに置いていったあと、あなたのパ 294/806 パもママも、あなたがここになじめる かどうか、ほんとに心配してたのよ。 それであたしは、ミセス・ウイリアム ズと相談して、あなたの家族を元気づ けるには、あなたがどれほどうまくや ってるかを知らせるしかないって結論 に達したわけ」 あの親父が、僕のことを‥‥心配? なんだかわけのわからない幸福感 が、僕の体全体にわき上がってきた。 僕は、親父が、僕のことを、オカマ のようなものに落とし込め、切り捨て たにちがいないと思っていた。彼が僕 のことを気にかけているなどとは、思 ったこともなかった。 でも、そんな疑念は、その幸福感が 湧き出すと同時に、氷解していった。 ところが、それとはちがう、氷のよ うな冷や汗が一挙に吹き出した。 「えっ? ま、まさか、ベビードール 295/806 や下着の写真は、送ってないでしょう ね!」 「安心して。あなたのパンティは、誰 にも見せてないわよ、フェイスちゃん」 彼女は、そう言って笑った。 「だって、あなたとあたしは一蓮托生。 そんなの送ったら、あたしまでオカマ だと思われちゃうじゃない」 「なに、その言い方。あたしだって、 オカマなんかじゃないわ」 僕は、跳ね上がるように立って、異 議を唱えた。思わず、胸を突き出して いた。 「だけど、あなたは、フリルだらけの ベビードールや、レースがいっぱいの 下着が大好きなんでしょ。だとしたら、 あなたは、女の子か、そうでなかった らオカマか、そのどっちかよね」 彼女は、悪魔の微笑を潜ませて言っ た。 296/806 僕には、彼女がどこに導こうとして いるか、正確にわかっていた。そして、 彼女が僕をラッピングして、クリスマ スツリーの下のギフトにしてしまおう と考えているのもわかっていた。 「で、あなたはどっちなの? オカマ? それとも、女の子?」 「ばかばかしい! ‥‥早く、両親に 連絡しなきゃ」 僕は、話の方向を変えることなど無 理だと知っていながら、無駄な抵抗を 試みた。 「ねえ、あなたは女の子、それともオ カマ?」 やはりホリーは、僕を無視してつづ けた。 「わかったわよ。あたしは、女の子で す」 僕は、彼女が勝利を宣言して、次の 話題に移ることを期待しながらもごも 297/806 ご言った。 でも、ホリーはそれで終えてはくれ なかった。 「まちがいなく?」 「まちがいなく」 僕は、もう一度彼女がここで終える ことを願い、こくんとうなずいた。 「で、あなたはどんな女の子かな? もしかして、女の子っぽい女の子?」 なんで僕は、こんな意地悪な子に恋 してるんだろう? 「ええ、あたしは、女の子っぽい女の 子よ!」 僕はもうやけくそで、叫ぶように言 っていた。 「かわいい服と、メイクと、あたしの 髪と、バブルバスが大好き! あたし は、女の子であることを、愛してる わ!」 「そう? やっぱりね。思ったとおり 298/806 だわ」 ホリーは、笑い声を立てながら、僕 のほおにキスした。 「じゃあ、あなたがしてほしかったキ スって、これよね」 「ううん、あたしがしてほしいのは、 あの賭けで負けたらしてくれるはずだ った、最初の晩にしてくれた、本物の キスよ」 いくらなんでも、これはフェアじゃ ないだろう。彼女は僕に、輪くぐりを させておいて、そのごほうびもくれな いのだ。サーカスの動物だって、もっ と大事に扱われている。 「ごめんね。でも、さっきも言ったよ うに、あたしがそんなキスをするのは 男の子とだけなの」 彼女はにこっと笑って、髪の乱れを 直すように掻き上げた。 「ただ単に女の子っていうだけじゃな 299/806 く、『女の子っぽい女の子』って言わ れて、その上、『女の子であることを 愛してる』とまで言われて、あたしは いったい、あなたにどんなキスをして あげればいいの?」 「このインチキ女!」 僕は、彼女を告発した。 「全然フェアじゃないわよ。あなたは あたしにキスの借りができたわ」 「借り? じゃあ、こういう返済契約 はどう? あなたの更正期間が終わっ た時、もしあなたが男の子に戻るのな ら、キスだけじゃなく、デートだって してあげるわ」 「ううん、たぶん、あなたは、もっと 先まで行くことになるわ」 今度は僕が、ほくそ笑みながら言っ た。 「あなたはその時、キスだけじゃなく、 あたしの結婚の申し込みに『イエス』 300/806 って言うの」 「あたしたちの未来には、大きな可能 性が広がってるってわけね」 彼女は笑いながらも、僕の顔をまじ まじと見た。 「あなたは、男としてもけっして悪く はないけど、女の子としては完璧よ。 お人形みたいにかわいいわ。本当にフ ランクが戻ってくるかどうか多分に疑 わしいと思うけど、でも、もし彼が戻 ってくるなら、その時はあたしも、真 剣に考えてみるわ」 「それは、あなたが幸せな一生を送る ためにも、いい契約だと思うわ」 僕は、誓いを込めて言った。 「さて、じゃあ、あなたの両親を新し い娘に引き合わせる段取りを考えなき ゃね」 ホリーの笑顔は、僕が重大事に直面 する勇気を促し、僕の考えを聞きたい 301/806 と語っていた。その笑顔を消さないた めにも、僕自身が行動を起こさなけれ ばならないことはたしかだった。 「パソコン、借りてもいい?」 僕は、彼女にほほえみ返した。 「気が変わる前に、今やっちゃいたい から」 「いい娘ね、フェイス」 彼女は、パソコンの前に座った僕を 応援するように言った。 「なんだか、ワクワクするわ」 そこで僕は、父親あてのメールに、 今心に抱いている気持ちを素直に打ち 込んでいった。 かつて自分がやってきたことを本当 に申し訳なく思っているということ、 グレート・インディアン・リバーに入 れられたいきさつについては、もうわ だかまりはなにもないということ、授 業をはじめ学校生活は驚くほど順調だ 302/806 ということ、友だちもたくさんできた こと、そして、ずっと会えなかったこ とをさみしく思っているということ、 だから、ぜひ会いに来てほしいという こと。 メールの「送信」ボタンを押したと ころで、僕はあることに気づき、また 冷や汗の出る思いがした。その文面で、 僕は、父親のことを「パパ」と呼んで いたのだ。もちろん、もう取り消すこ ともできず、僕は肩をすくめるしかな かった。 いつかホリーが言っていた、環境が 考え方にも影響するというのは、どう やら本当のようだ。 僕は今、自分がかわいく見えるとい うことにプライドのようなものを持っ ているし、女の子のように考え、女の 子のようにしゃぺりはじめていた。 もし、更正期間が終わったあと、ホ 303/806 リーにプロポーズするつもりなら、こ の新しいパーソナリティが本来の自分 を追いやってしまわないように、気を つけなければならないだろう。 いや、そんなことより‥‥。僕にと っての当面の大問題は、両親がいつ会 いに来るのか、その時僕は、どんな服 を着て、どんなふうに振る舞うのかと いうことだった。 それは、考えれば考えるほど妙な感 じだったが、少なくとも僕は、両親が 今の自分を気に入ってくれることを強 く望んでいたし、その最初の感想が 「か わいい」であってほしいと思っていた。 パパからの返信メールは、新記録樹 立とも言える10分足らずの速さで届い た。僕のメールが届いたとき、おそら くパパは、パソコンの前に座り、ママ とおしゃべりしていたにちがいない。 304/806 パパは、会いたいという僕のメッセ ージがよほどうれしかったらしく、2 週間後にはママといっしょにたずねる と弾んだ文面で書いていた。 つまり僕には、両親にとっていい娘 になるための2週間の猶予が与えられ たわけだ。賢くて、かわいくて、幸せ そうな、そんな女の子に、この2週間 のうちにならなければいけない。 ホリーをはじめ、友だちは、女の子 らしく見せるためにはどう歩いたらい いか、どう振る舞えばいいかというア ドバイスを、山のようにくれた。背筋 を伸ばし顔を上げ気味にする、肩を後 ろに引く、腰を揺すりながら一直線上 を歩く、ものを拾うときは両膝を揃え て曲げる、いつもほほ笑みを絶やさな い‥‥。 どこに行くときも何をするときも、 305/806 僕は自分の動きを意識し、練習に心が けた。その結果、僕は、生まれついて の女性と同様の自然さで歩けるように なり、それどころか、まるでファッシ ョンショーのモデルのような身のこな しまでできるようになった。 もちろん、それにはたいへんな努力 が必要だったのだが、それをしながら も一方で僕は、2年後のことも気にな っていた。いったん身についてしまっ た動きをそぎ落とすには、これ以上の 努力が必要だろう。男の時の僕は、セ クシーに腰を振る歩き方など、そもそ も知らなかったわけだ。果たしてそん な状態に戻れるのだろうか。 しかし、この間、それ以上に困惑さ せられたのは、ホリーがそんな僕をさ かんにからかってきたことだった。 彼女は、折に触れて、他の女の子た ちといっしょに町に遊びに行こうと誘 306/806 ってきた。そして、町に出れば、僕が いかに男の子たちを引きつける磁石の ような存在になれるかを言い立てた。 射止めた男の子にとって、僕は「トロ フィー・ガールフレンド」(※)になる はずだとも言って煽った。 (※訳注 他の男たちに自慢できるナンバー1 のガールフレンド) おかげで僕は、何度も彼女に、僕が 他のティーンエージャーの女の子と同 じように歩き、行動し、話すのは2年 限定なのだということを再確認しなけ ればならなかった。 僕は、これ以上の愚かなゲームに参 加する気はないし、磁石やトロフィー なんかにはなりたくないのだ。 2年間はかわいいフェイス・ジョー ダンでいるつもりだが、それが終われ ば、フランク・ジョーダンに戻って、 ガールフレンドのホリー・ビンクラー 307/806 をフィアンセにする努力をするつもり だ。 両親がやってくる予定の週、僕はず っと、ひどくナーバスになっていた。 ありがたいことに、先生たちはそん な事情をわかってくれていて、僕が授 業中まで昼休みのようにぼーっとして いるのを、大目に見てくれた。あとで、 お詫びとお礼をするつもりだ。 両親は日曜日に来ることになってい たので、土曜日の午後、僕は美容室に 予約を入れた。 ここへ来るのは、グレート・インデ ィアン・リバーに入って以来2度目、 そしてもちろん、自分一人で、かつ自 分の意志で来るのは初めてだった。 予約していたのは、脚と腕のワック ス脱毛、眉の手入れ、さらに今回は、 308/806 ワックス後の痛みを取るマッサージも 追加した。 そして、マッサージの至福の世界に ただよい着いたとき、僕はいつの間に か、つけ爪のすすめにも同意していた。 自分がスイートで従順な女の子に変 えられていく感覚はこんなにすてきな のに、この前は、なんであんなにいや だと思ったんだろう。もちろん今回は、 そんな嫌悪感はいっさいなく、僕は、 自分がきれいになっていく一瞬一瞬を 存分に楽しんだ。 翌朝、僕は、起きた時からそわそわ と落ち着かなかった。 今日着る服は、もうずっと前に、ホ リーといっしょに選んでいた。 キュートなブラウンのレザースカー トは、僕の脚のきれいさを目立たせる くらいには短く、でも、パパが見てや 309/806 きもきしないくらいには長いものだ。 袖の部分に透け感のある黄色いシルク のブラウスは、このスカートといっし ょに着ると驚くほど映える。薄いシル クのパンストを履き、靴は、茶色いス エードでできたひざ丈のブーツ。2イ ンチのヒールが、レディらしい歩き方 を演出してくれる。 下着は、ペールイエローのサテンで できたブラ、スリップ、パンティのセ ット。これを身につけたとき、僕は一 瞬、自分がどうして男の子に戻ろうな どと思っているのか、わからなくなっ た。 髪とメイクは、すべて自分でやった。 ヘアスタイルは、お気に入りのフレン チ・ブレイド。全体にシックで洗練さ れたこの髪型は、いつものティーンエ ージャースタイルに比べ、ちょっとお 姉さんふうの女性らしさを醸し出して 310/806 くれる。 姿見の前で最終チェックをしている とき、僕は、ピアスをあけていなかっ たことを悔やんでいた。今つけている クリップ式のイヤリングでは、耳たぶ が痛くなり、数時間が限度だ。僕自身 のためにも、それにホリーに喜んでも らうためにも、女の子でいつづける以 上、僕は最高にきれいな自分を見せて いたいと思う。それに、僕くらいの年 頃の女の子に似合うかわいいイヤリン グは、ピアス式の方が多い。月曜日の 放課後、宿題を終えたら、さっそく美 容室に駆け込んで、ピアスをあけても らうことに決めた。 最後の仕上げとして、ホリーが、お 気に入りのコロンを吹きかけてくれ た。そのすてきな香りに、僕もママに ねだって買ってもらおうと思った。 そこで、僕の膝が、まるでドラムの 311/806 連打のように速くて強烈なリズムを刻 みだした。ホリーは、そんな僕の手を とり、僕の両親が待つラウンジへと向 かって部屋を出た。 「会いたかったわ」 僕は、ちょっとはにかみながら、呆 然とこちらを見ている両親のもとに近 づいていった。 「あたし、ふたりがどれほどあたしの ことを心配してくれてたのか、ずっと、 わかってなかったみたい。ごめんなさ い」 「フェイス?」 ママは、僕の顔を呆然と見つめ、そ のあと服に目をやり、口をもつれさせ ながら、なにか言いかけた。 「ま、まさか、こんなに‥‥」 僕は、恥ずかしさもあって、そんな ママをちょっとからかうように言っ 312/806 た。 「この服、あたしに似合うと思って、 ママが選んでくれたんでしょ。どう? ママが思ってたように、ちゃんと似 合ってる?」 「す、すごく! かわいいよ」 ママが言うより先に、パパが叫んだ。 「信じられない。い、いや、つまり‥ ‥」 じつは、この2週間で、パパに対す る僕の認識は、がらりと変わっていた。 僕は、彼が、ママの反対を押し切っ て、むりやり僕をここに入れたのだと 思っていた。たぶん、元海兵隊員とい うパパの基準から見て、僕はまったく 男らしくなく、そんな息子に対する腹 いせからだろうと。だから僕は、彼を ひどい人間で最低なやつで、できるこ となら二度と顔を見たくないとさえ思 っていた。 313/806 でも、彼が僕のことを心配しつづけ ていたのだと知ったとき、これまで見 ていなかった彼の一面が突然見えてき た。僕を心から愛し、僕を立ち直らせ るにはどうしたらいいかと真剣に考え てくれた、やさしくて思いやり深い人。 ママが恋に落ちたのも不思議ではない 男。 彼は、頑固で冷淡な鬼などではなく、 家族を愛し、僕を苦難から救い出すこ とだけを願っていた。そして彼は、僕 のために苦しい決断を迫られ、僕のた めに何が最善かを考えて、それを決断 した。 その決断が正しかったと確信したこ とが、僕に向ける彼の顔からわかった。 彼が僕に対して持っていた夢は、いさ さか狂気じみた方向でそれを飛び越え て実現していた‥‥乱暴で手がつけら れない、問題ばかり起こす息子ではな 314/806 く、やさしくて、かわいくて、愛らし い娘として。 僕は、パパが僕のことをかわいいと 思ってくれていることにワクワクして いた。パパにキスしなければいけない と思った。 少し前ならぜったいにありえないこ とだったが、でも今、パパに対するの 感謝の気持ちを表すには、その方法が ベストだと思えた。 「パパ、ありがとう」 僕はほほ笑みながら彼に近づき、そ のほおにキスした。 「大好きよ、パパ」 瞬きする間さえなく、僕はその太い 腕に抱きしめられていた。その圧倒的 に守られているという感覚に驚きなが ら、僕も、彼の背中に腕をまわしてい た。 「‥‥ん? パパ?」 315/806 しばらくして、彼は、笑顔の中に困 惑をまじえた顔で繰り返した。 「私は今、パパなのかい?」 「いけない? だって、パパとママは、 あたしに女の子になってほしかったん でしょ。それが、あたしがここに来た 理由じゃないの?」 「すまない。他に方法がなかったんだ」 パパはちょっと深刻な顔になり、深 いため息をついた。 「最初聞いたときは、狂った話だと思 ったよ。でも、ママやホリーのご家族 から説得されて、最後の手段としては、 やってみる価値があると納得したん だ。お前には、つらい思いをさせてし まったのかもしれない」 「だいじょうぶよ、パパ。あたしは、 パパとママが、ずっとあたしのことを 心配してくれてたのがなによりうれし いの」 316/806 僕がもう一度ほおにキスすると、パ パはちょっと体を緊張させた。 ママとホリーはほほ笑みを浮かべ、 それぞれに持ったカメラのシャッター を押すのも忘れて、こちらを見つめて いた。 「私も、ほんとにうれしいわ。なんだ か夢みたい」 ママが、満面の笑みで言った。 「私たちは、あなたが脱走するんじゃ ないか、私たちにもう二度と会ってく れないんじゃないかって、そればかり 心配してたの。あなたが、ここで、こ んなにうまくやっていけるなんて、考 えてもみなかったわ」 「ここは、最初に思ってたような、嫌 なところじゃなかったわ」 僕は、ホリーの方をちらりと見てつ づけた。 「メールにも書いたけど、お友達もた 317/806 くさんできたし、それに、ほんとにす てきなルームメイトだっているし。パ パとママも、しばらくの間、娘を持っ たことに、もっと慣れなきゃだめよ」 「ああ、なんの文句もないよ」 パパは、今度はリラックスした感じ で、もう一度抱きしめてくれた。 「私は、世界中でいちばんきれいな女 性のうち2人を、家族に持ってるんだ」 それを聞いて僕は、パパの脇腹に軽 くパンチを入れた。 「いちばんきれいな女性2人、でしょ。 『のうち』はいらないわ」 「お前は本当に、私たちが1ヵ月かそ こら前に、ここに置いていった子供な のかい?」 思ってもいなかった攻撃から立ち直 ったところで、パパは言った。 「さあ、それはどうかしら?」 僕は、いたずらっぽい目でパパを見 318/806 上げた。 「パパとママが置いてったのは、フラ ンクって名前の男の子でしょ。今ここ に、男の子なんて、いる?」 「いや、ひとりも」 パパは笑い返し、僕のほおをくわえ るようにキスしてきた。 「ここにいるのは、2人のきれいなレ ディだけだ」 「うぉっほん、2人のきれいなレディ だけ?」 パパの後ろに立っていたホリーが口 をはさんだ。 ふり返ったパパは、彼女に笑い返し た。 「いや、3人と言いたかったんだ。で も、もし君をふくめたら、妻と娘がや きもちをやくんじゃないかと思って ね」 「彼女なら、がまんするわ」 319/806 ママが、笑いながら約束した。 「ふふ、あたしもよ」 僕も同意した。 「だってホリーは、けっきょくは、家 族の一員なんだから」 その言葉に肩をすくめたホリーを見 て、ママが笑いかけた。 「あなたもそう思ってくれるとうれし いわ、ホリー」 「ふふ、話を先に進め過ぎじゃない? フェイス」 ホリーは、ちょっと僕をにらむよう にした。。 「あたしをその気にさせられるかどう かは、あなたがここを出てからでしょ」 「だいじょぶよ」 僕は確信に満ちて言った。 「あなたは、あたしの魅力にまいっち ゃうはずよ」 と、パパはママと目を合わせたあと、 320/806 僕の方にどこか不安そうな視線を走ら せた。 僕には、パパの気持ちが手に取るよ うにわかった。彼は、自分が一生、娘 の父親でいる覚悟をすべきかどうか、 迷っているのだ。 「心配しないで、パパ」 僕は、そんなパパの考えを中断させ た。 「これからも驚くようなことが、いろ いろ起こるとは思うけどね」 「あ、ああ、それはそうだろうね」 パパは、自分が口をはさんでもどう なるものでもないと思ったらしく、静 かに言った。 「こうして、目の前の女の子を見てい るだけでも、じゅうぶん驚いてるんだ から」 そして、急いで話題を変えた。 「そうそう。車に、いいものが積んで 321/806 あるんだ」 いいもの――段ボール箱についたブ ランドマークから、それが最新式のパ ソコンであることがわかった。 「代金は、メールで払ってくれればい い」 パパは、笑いをこらえ、まじめくさ った顔で言った。 「もし、1週間に1通もメールが届か なかったら、これは、他の、もっとふ さわしい女の子に譲り渡そうと思う」 「何かあるごとに、1日何回でも書く わ」 僕はそう言って、大きくうなずいた。 「ママとパパも、1ヵ月に一度は会い に来てね。だって、女の子は、ママと パパがそばにいてくれなきゃ、すごく 心細いんだから」 その言葉に泣きそうになったママ 322/806 は、いきなり僕の腕をとって引き寄せ ると、抱きしめることで涙を隠した。 こんな両親を持った僕は、世界一幸 せな女の子だと思えた。 パパは、新しいパソコンをセットア ップするのを手伝ってくれた。でも、 そこで、ママに部屋から追い払われた。 「機械コッコはそれくらいにして」 ママは笑いながら言った。 「娘と私をふたりだけにしてくれる? 女どうしの秘密の話だってあるんだ から」 パパは、自分が必要なくなったこと を悟ったらしい。ママと僕にキスした あと、ホリーの案内で、ラウンジまで ワールドシリーズを見に行った。 「いったい、何が起きたの?」 パパとホリーの後ろでドアが閉まる と同時に、ママがきいてきた。 323/806 「最初は私だって、あなたみたいな子 にとって、これは悪い冗談にしかなら ないと思ってたのよ。それがどう? 今、目の前にいる私の息子は、まるで、 ジュニアミスコンの優勝者みたいな美 人なのよ。その上、あっという間に父 親を手なずけちゃうんだもの」 「ほんとのことを言うと、冗談どころ じゃなかったのよ」 僕は、首を振りながら言った。 「最初はほんとにどうしたらいいかわ からなかったんだから。ホリーは、マ マが買ったかわいいものの中に、いき なりあたしを放り込んだの。で、気が ついたら、あたしはその罠にかかって た。ふふ、これを見れば、その被害の 進行状況がわかるわ」 僕は、ホリーのパソコンの前に座り、 彼女が撮った僕の写真を何枚も呼び出 した。細心の注意を払い、ランジェリ 324/806 ーでポーズをとっている写真や、ベビ ードールを着た写真は避けたが。 「これが、すべての始まり。でも、そ のあとは、まわりにいる非現実的な女 の子たち(※1)の影響が強いわね。彼女 たちと毎日いっしょに暮らしてると、 知らず知らずのうちにそれがふつうに なってくる。気がつくと、あたしも他 の子たちと同じように感じて、同じよ うに振る舞ってるの。あたし、3週間 前にスラックスが許されたんだけど、 まだ一度も履こうって気にならないの よ。だって、スカートやワンピの方が 好きなんだもん。ホリーは最初、あた しなら1週間で女の子っぽい女の子に なるって言ってたけど、実際には『ス ネーク・アンド・スネール』(※2)から 『シュガー・アンド・スパイス』に変 わるのに3日しかかからなかったわ」 (※1訳注 ‘unreal girls’口語では「(現実 325/806 とは思えないほど)すてきな女の子たち」とい う意味に使うが、文字通り読めばもちろん「本 物ではない少女たち」) (※2訳注 タツムリ」 ‘snake and snail’=「ヘビとカ 「シュガー・アンド・スパイス」 と同じマザーグースの詩に出てくる「男の子の もと」 より正確には「ヘビとカタツムリと子 犬のしっぽ」が男の子の成分だと歌われる ち なみに、この詩はもともと、イギリスの女の子 たちが男の子をからかうわらべ歌) 「じつは前から、私はあなたに、なに かを感じてたのよね」 ママは、さまざまな服を着た僕の写 真を次々にクリックしながら、ほほ笑 んだ。 「いつも見せてたマッチョな顔は、あ なたの一面でしかない。乱暴で手に負 えない男の子とはちがうなにかが、あ なたの中にあるって気がしてたの」 「だけどママ、あたしは、本当には女 326/806 の子っぽい女の子にはなりきらないつ もりよ。これはまあ、ショーみたいな ものだと思ってるの。ホリーを喜ばせ るためのね。あたしは、ホリーに恋し てるの。だからここでは、彼女の好き な女の子っぽい女の子になってるけ ど、ここを出たら、彼女が求めるタイ プの男になるつもりよ。彼女を愛して、 彼女を守っていける男にね」 ママは、ちょっと首を振りながら、 ほほえみ返した。 「それはすてきだと思うわ、フェイス。 うまくいくといいわね。でも、もし、 彼女を守るんじゃなくて、彼女と同じ 生き方をしたいってあなたが言い出し たとしても、ママはなにも驚かないわ よ。だって、こうして見てると、あな たって、男を幸せにするいいお嫁さん になれそうだもの」 僕は、ママに向かってあわてて首を 327/806 振ることで、そんな気はないことを伝 えた。でも、それをあえて口には出さ なかった。なにか言えば、僕の心の中 にある恐れが伝わりそうだったから だ。ホリーと同じ生き方をするという ことは、今の暮らしがつづけられると いうこと。この幸せな毎日を手放した くないという気持ちが、僕の中にはた しかにあった。 「それはそうと」 ママは、いかにも女どうしの会話と いう感じで、唐突に話の方向を変えた。 「あたしもあなたに、ちょっとした贈 り物があるのよ。パソコンほど精密な ものじゃないけど、きっと気に入ると 思うわ」 そんな言葉とともにバッグを開けた ママは、ちょっとの間がさごそやった あと、なにかを取り出して僕に手渡し た。 328/806 見ると、「フェイス・ジョーダン」 名義のマスターカードだった。 「まだ、あなたといっしょにショッピ ングに行ったことがないから、お気に 入りのお店とか知らないでしょ。だか ら、これがベストかと思って」 「わあ、ママこそ、ペストなママだ わ!」 僕は思わず黄色い声を上げていた。 「あたし、まだ、ショッピングに行く のは怖いけど、これだったら、通販で も、かわいい服が買えるもんね」 「えっ? 本気で言ってるの?」 ママは、笑い声を立てながら言った。 「自尊心のある女の子は、ショッピン グを怖がったりしないものよ。特にあ なたみたいに、ほんとにきれいな娘は ね。通販は、時間やお金のない時には たしかに便利だけど、若い女の子にと っては無難な流行遅れの品揃えばかり 329/806 よ。じつはね、私たち、今週いっぱい、 こっちに残って、ホリーのお宅に泊め てもらうことになったの。で、ホリー のママといっしょに、明日の放課後、 母娘ふた組でのショッピングを計画し てるのよ。女の子として暮らしていく 上で必要なものを、もっと揃えとかな きゃいけないしね。試着もすると思う から、あんまりごてごてした下着はさ けてね」 その言葉に僕は、呆然と立ちつくし た。 この間、ホリーや友だちは、いつも いっしょにショッピングに行こうと誘 ってくれるが、僕はずっとそれを逃げ てきた。 でも、ママのなんだか浮き浮きした 様子を見ていると、今回はそうもいき そうにない。だいいち、ショッピング を否定することは、彼女の生き方その 330/806 ものを否定することにもなりかねな い。 見ていると、ママは、僕のクローゼ ットや引き出しを勝手に開け、何を持 っていて何を買わなければいけないか を、チェックしはじめた。 ときどき、追加しなければならない スカートの種類だとか、ワンピースの スタイルだとかをつぶやいていたが、 やがてランジェリーの引き出しを調べ たところで、なんだか感極まったとい う感じの声を上げた。 「フェイス、私がかわいいと思って選 んだものを、ちゃんと使ってくれてる のね」 ママは、顔を輝かせて笑いかけてき た。 「ちょっとやり過ぎたかと思って心配 してたんだけど、この引き出しの様子 を見てると、あなたがこれを好きにな 331/806 ってくれて、喜んで着けてくれてるの がよくわかるわ」 僕は、そんなチャンスを与えてくれ たママに、感謝のハグをしなければな らなかった。 「うん、ありがとう、ママ。ほんとの こというと、最初は怒ってたのよ。で も、今はみんな、あたしの宝物。かわ いいし、着けたときの感じも大好き」 「やさしくて、やわらかくて、とろけ そうなものに包まれてる感じって、最 高の女の幸せって気がするでしょ。男 の人にはぜったいわからないわよね」 「うん、堅苦しくてダサい制服でも、 その下にセクシーな下着を着けてる と、それだけでワクワクするもん」 僕は、制服の下にレースのパンティ を着けている時の気持ちを思い出しな がら言った。 「あたしが、ここになじめたいちばん 332/806 の理由は、そんな感覚がわかったから だと思うわ。かわいいものを着けてる と、男の子だってことをすっかり忘れ られるの」 「ふふ、女の子ってね、大人になれば なるほど、そんな楽しみが増えていく ものなのよ」 もう一度ハグし合った時、ママは、 秘密を打ち明けるとでも言うように耳 打ちしてきた。 「小さな頃は、パーティドレスの下に、 ファンシーなペチコートやラッフルの いっぱいついたパンティを履くのがう れしいのね。ちょっと大きくなるとス トッキングが履けるようになるの。あ なたのようにティーンエージャーにな れば、もっと女っぽいランジェリーが 着られる。レースやサテンを使ったね。 それに、ブラは、成長したあなたの胸 をすてきな形に包んでくれる。ハネム 333/806 ーンでは、そのサテンやレースがなり たての夫の心を完全に虜にするの。そ のあとは、黒のレースやガーターベル トが、彼を夢中にさせつづける。思い っきりセクシーなブラで、彼を手なず けるの。男の人は、力で世界を支配で きるって考えるのが好きみたいだけ ど、本当のこと言えば、そんな男を操 ってるのは誘惑のしかたを知ってる女 の方よね。セクシーなランジェリーは、 パワフルな男をまるで子供みたいにし ちゃう。そうなれば、こっちの思うつ ぼ」 「ふふ、あたしがそんなことを知っち ゃうと、ホリーは結婚したあと、その トリックが使えないわね」 「でも、あなたは、トリックを使う側 にまわってるかもしれないわよ」 「そりゃあ、先のことは、どうなるか わからないけど‥‥」 334/806 僕は、ナーバスな笑いとともに、消 極的にそれを認めた。 「だってあたし、まさか母親と、かわ いくって女っぽい下着を着る楽しさを 話すことになるなんて、思ってもみな かったわけだし‥‥」 それにしても、もしかしてママは、 僕が男の子に戻らない方がいいとでも 思ってるんだろうか? 「でも、あたしは、誰より、ホリーと いっしょにいたいの。だから‥‥」 するとママは、にっこり笑ってうな ずき、子供の頃から慣れ親しんだキス をしてくれた。 僕は、僕の未来について、母と娘の 会話をもっとつづけるつもりだったの だが、ママの考えはちがったようだ。 「明日の夜はすてきな時間にしましょ うね。あなたと私、ホリーと彼女のマ マ。男の子は閉め出した女の子だけの 335/806 夜の外出よ! 私にとっても初めての ことだから、なんだかワクワクしちゃ うわ。かわいい服を山のように試着し てもらうつもりだから、脱いだり着た りが簡単なものを着てきてね。そうそ う、スラックスがオーケーになったん なら、それも買わなきゃね」 「ママはあたしに、スラックスを履い てほしいの?」 僕は、スラックスについての不本意 な気持ちを顔に浮かべながら言った。 「あたし、スカートの方が好きだわ。 スラックスは、かわいくないもの」 「だいじょうぶよ。あなたなら、スラ ックスでもジーンズでも、お気に入り のワンピースと同じようにかわいく見 えるから。かわいいかどうかは、服で 決まるんじゃないわ。その服を着る女 の子で決まるのよ」 「ほんとにそうなら、いいけど‥‥。 336/806 まだ人の多いところに出たことなんて ないから、あたし、死ぬほど怖いのよ。 指さされて笑われるんじゃないかって ‥‥。スカートとかワンピとかを着て、 きちんとメイクしてれば、少しは女の 子らしく見えるって気はするけど‥ ‥」 と、ママは、僕を鏡台の前に座らせ、 ヘアブラシをとって、僕の髪をブラッ シングしはじめた。 「そんな心配いらないわよ。大事な娘 を笑うような人は、私が許さないから。 それに、これだけかわいければ、笑う どころか、町中の男があなたに振り向 いてもらいたくて、視線を送ってくる わ。あなただって、そのワクワクする ような気分にすぐ気づくはずよ。でね、 それがあなたを、もっともっとかわい くしていくの」 337/806 次の日の夕方、ママたちは約束通り の時間にやってきた。 僕は、デニムのミニスカートとプル オーバーを着、スニーカーを履いてい た。髪はポニーテールで、メイクも最 小限にとどめている。 正直言って、僕はまるで裸をさらし ているような気がしていた。 本当は、誰からも疑いの視線を投げ かけられないように、クローゼットの 中で最も女らしいドレスを着たかった のだけれど、ホリーがそれを許してく れなかったのだ。 「イブニングドレスでショッピングに 行く女の子が、どこの世界にいるのよ」 僕がしぶしぶそのドレスをあきら め、スカートを履いていると、ホリー はまた、あきれたように首を振った。 「これから、楽しいことをしに行くん でしょ。そんな暗い顔しないの」 338/806 「でも、どうすればいいのよ」 僕は、おろおろと主張した。 「こんな服じゃあ、きっと、誰もあた しのことを女の子だって思ってくれな いわ。服とヘアスタイルとメイク以外、 あたしは女の子に見せる方法を知らな いのよ。それを取り上げられちゃった ら、どうしたらいいの? ドレスはあ たしの救命胴衣みたいなもんなんだか ら。それがなくて、どうやって女の子 らしく振る舞えっていうの?」 「ねえ、お願いだから落ち着いて」 ホリーは深いため息をついた。 「何度言ったらわかるの? 今のあな たのどこを見ても、男の子だって思え るとこなんてないわよ。逆に、あなた のことを男の子だって、人に納得させ る方がずっと難しいわ。あなたは今、 大好きなピンクのパンティを履いてる んでしょ」 339/806 「う、うん、ブラもおそろい」 僕は肩をすくめた。 「それが、なんなの?」 「ほら、ごらんなさい。もしあなたが、 ほんとに自分のことを男の子だって感 じてるなら、最初の日みたいに、なん の飾りもないコットンのパンティを選 んだんじゃない?」 「やよ、あんなの」 僕はすかさず言っていた。 「全然かわいくないんだもん」 「ほらね。あなたは、あたしからジー ンズを借りることだってできた。サイ ズはほとんどいっしょなんだからね。 でも、あなたはスカートを履いてるわ。 ね、わかったでしょ。あなたはもう、 中身まで女の子なの。いい加減、それ を認めなさい。もう、話はおしまい。 早くしないと、ママたちが待ちくたび れちゃうわ」 340/806 ホリーは、ジャケットとバッグを投 げてよこすと、ラウンジに向かい、む りやり僕を連れ出した。 「ほんとにあなたの言うとおりね」 ホリーのママが、僕のママに言うの が聞こえた。 「ものすごくかわいらしいわ」 「あたしも、彼女はお人形さんみたい だって言ったでしょ」 近づきながら、ホリーがつけ加えた。 「それなのに、この子ったら、町で男 の子だって思われるんじゃないかって 心配してるのよ」 「まあ、フェイス。あなたがそう見ら れるより、私が男だと思われる確率の 方がずっと高いと思うわよ」 ミセス・ビンクラーは、そう言って 笑いかけてきた。 「あなたはほんとにかわいいレディよ。 341/806 今夜はきっと、楽しくなるわ」 そんなふうに言われたのがうれしく て、顔を赤らめていると、いつの間に か、ホリーとママが両腕を固め、僕は 建物の外に連れ出されていた。 「‥‥ねえ、聞いてる?。通販カタロ グにだって、着やすそうですてきな服 はいっぱい載ってるのよ。やっぱり、 ショッピングなんて、必要ないわよ。 それに‥‥そう、やり残した宿題があ るような気がするし」 さっきからつづけている僕の抗議は 完全に無視され、車はすでに、モール の駐車場に乗り入れていた。 「そうよ、宿題が‥‥」 車からむりやり降ろされながら、僕 は泣き声を出していた。 「よく言うわね。あなたのことだから、 今週分の宿題は、先に全部かたづけち 342/806 ゃってるんでしょ」 「で、でも、もう一度見直しておかな いと‥‥」 「ミセス・ジョーダン、あなたのかわ いい娘さんは、今や全教科でAをとっ てる優等生なのよ。そんな子が、宿題 をし忘れてると思います?」 「えっ? 全教科で‥‥A!?」 ママは、驚きで引きつったような声 をあげた。 「う、うそでしょ?」 「今学期の優等表彰は、たぶん、彼女 にまちがいないわ」 ご親切にも、ホリーはそうつけ加え た。部屋に帰ったら、忘れずに絞め殺 してやる! 僕はなんとか、僕に向けられた視線 から逃れたいと思った。 「話すつもりだったのよ。でも、この ショッピングのごたごたで、つい‥‥」 343/806 「あなたは、私があなたの年頃だった 頃より、ずっと美人だわ。その上、学 年一の優等生?」 僕は、ママがこれ以上興奮したら、 気が狂ってしまうのではないかと心配 になった。それで、ちょっとだけ訂正 した。 「優等表彰は、まだ発表がないからわ からないわ。まあ、クラスでいちばん 成績がいいことはたしかだけど」 「クラスどころじゃないでしょ。あの 呪われた学園一の成績じゃない」 ホリーはからかうような口調で言っ た。 「ほんと、あたし、いつの間に追い越 されちゃったのかしら?」 「あなたはいったい誰なの? 私の息 子をどうしちゃったの?」 ママも、ジョークできいてきた。 「ママとパパが、息子を女の子にしち 344/806 ゃったって記憶が正しいとすれば、た ぶんあたしは、殺人はしてないわ」 どう、ママ? お利口な答えでし ょ! 「だけど、パパにこれを信じさせるの は、至難の業ね」 「もうじき、成績通知票が出るから、 それを見せればわかるはずよ」 「ああ、全能なる神よ」 ママの感謝の祈りはつぶやきのつも りだったようだが、しっかり聞こえて いた。 そこで、モールの入り口にたどりつ いたことに気づいた僕は、叫んでいた。 「マ、ママ、お願い。もう一回、お祈 りして!」 ついに、ティーンエージャーの女の 子としての、世の中へのデビューの時 が来てしまった。 345/806 おおよそ1時間、次から次へと服を 試着したところで、ママはいったん休 憩しようと決めたようだ。 お店を出たママが、あとの3人を従 えるようにどんどん歩いていくのを見 て、僕は最初、フードコートへでも行 くつもりかと思った。 とりあえずここまではなんの問題も 起きていなかったので、正直、僕はち ょっと安心していた。というか、自分 が男の子だということを忘れ、ショッ ピングを楽しみはじめていた。でも、 ママが向かっている先が女子トイレだ ったことがわかったところで、僕はま たパニックに陥った。 「だ、だめよ、ママ。こんなとこ、入 れないわ。ばれたら逮捕されちゃう」 と、そこで、目の前のスイングドア が左右に揺れ、くすくす笑い合いなが ら、女の子の一団が出てきた。 346/806 それに緊張し、あわてて目を伏せる と、女の子のうちのひとりが、そんな 僕に近づき、踊るようにしながら抱き しめてきた。そして、聞き覚えのある 声で僕の名を呼んだ。 「まあ、フェイスじゃない。超まじめ で優等生な家庭教師も、ついにこんな とこに来られるようになったのね」 その声と女の子っぽいはしゃぎぶり で思い当たるのは一人しかいない。 「えっ、ジル?」 顔を上げた僕は、ホリーの方をちら りと見ながら言い訳した。 「どうも、あたしの“元”親友が、母 親ふたりをけしかけて、あたしを連れ 出したってことみたい」 「いいじゃない。ショッピングは楽し いわよ。ボーイフレンドとのビリヤー ド・デートには負けるけど」 ジルは声を立てて笑い、つづけた。 347/806 「だって、あたしが勝った点差の分だ け、彼にキスしてもらえるのよ」 ひとしきり笑った彼女は、僕たちを 見て、どっちが僕のママかきいてきた。 僕は、簡単に紹介しながら、ママに これ以上あれこれ知られる前に、ジル がもう少しテンションを下げてくれな いかと思った。 「ミセス・ジョーダン、あなたの娘さ んって、ほんとにすごいのよ」 やめてくれという視線を送っている にもかかわらず、ジルは僕をべたぼめ しはじめた。 「かわいくてきれいだし、その上、頭 がいいし。あたしが幾何の授業で落第 せずにすんだのは、フェイスのおかげ。 他にも何人もの女の子が、彼女の家庭 教師のおかげで、救われてるわ」 ママの顔がさらに輝きだし、それを 見て、僕はますます憂鬱になった。 348/806 「さっきから聞かされてる娘について の話は、驚くことばっかりよ。今夜、 帰ってから、パパのちっちゃな恋人が どれほどすばらしい娘か、話して聞か せるのが待ちきれないわ」 「ワオ、フェイス、あなたって、パパ のちっちゃな恋人?」 ジルは、かん高い声で叫んだ。 「すてき! きっとパパの財布には、 あなたの写真が入ってるわね」 「そ、そんなこと、まさか‥‥」 「財布だけじゃないわ。あの人はもう、 寝室の壁にも額入りの写真を飾ってる わよ」 ママは、にっこり笑ってつづけた。 「パパは、そのちっちゃな恋人にずい ぶん期待してたのよ。でも、彼女はも う、その期待を完全に超えちゃったみ たい」 「ええ、ほんとにそう」 349/806 ジルといっしょにいた別の女の子が 口をはさんできた。この子も、時々勉 強の相談にのってあげている子だ。 「フェイスと知り合えたのは、あたし がグレート・インディアン・リバーに 来てから3年間のうちで、ベストワン の出来事よ。彼女に化学を教えてもら ったとたん、あれだけ苦手だったのが、 わかるようになったんだもん」 「これまで気がつかなかったんだけど、 あたし、もともと人に教えたりするの が好きみたい」 ママの誇らしげな視線に、僕は肩を すくめながら、また言い訳した。 「どういうわけか、みんな、あたしの 教え方はわかりやすいって言うし」 その禁じられた領域、女子トイレへ の小旅行もなんの問題もなく果たし、 そこでママは、ランジェリーショップ 350/806 へ行こうと言いだした。 「ハニー、あなたが持ってないもので、 買っといた方がいいと思うものがある のよ。ちょっと男の子っぽいものだけ ど、あなたなら変じゃないと思うから」 男の子っぽいもの? ランジェリー 売場に? 男の子が女の子の服を着て、女の子 として暮らす奇妙な学校があるくらい だから、ついに世の中では、男の子用 のランジェリーを売り出したのだろう か? 「ほら、これよ。ローライズのジーン ズを履くときには、いいと思わない?」 ママはそう言って、一枚のパンティ を手に取った。それは確かに、男の子 用と同じようなぴっちりしたフルカッ トの下履きだった。でも、上のへりが ヒップの真ん中くらいまでしかなく、 しかも、全体が黒いレースでできてい 351/806 た。 「ボーイカットだけど、これなら、い やじゃないでしょ?」 こんなすてきなものをいやだなんて 言ったら、ぜったい、ばちがあたる! 僕は、ママが最初に揃えてくれたか わいいパンティが好きだけれど、今、 手にしているこれは、もう死んでもい いくらい、セクシーだし、女っぽい。 「毎日毎日、おんなじようなパンティ を履いてちゃだめよ。女の子は、持っ てる服に合わせて、下着もいろんなの を揃えとかなきゃね。他にも好きなの があったら、買ってあげるから、1枚 か2枚選びなさい」 「ママ、すてき! あたし、これまで に、ママのこと大好きって言ったこと あったっけ?」 「九つくらいが最後だったかしら? そのあとの男の子って、母親にそんな 352/806 こと言うもんじゃないって思うみたい ね」 「じゃ、あたしは言ってもいいわね。 ママ、あたし、ママのこと、ほんとに、 ほんとに、ほんとに大ッ好き!」 僕はそう言ってママに抱きついてか ら、僕のコレクションに入れたいパン ティを取っていった。ピンクのと、ブ ルーのと、白いのと、クリームのと、 もひとつブルーのと‥‥。 そして、言った。 「ねえ、ママぁ、おそろいのブラも、 あった方がいいと思わない?」 幸運なことに、僕の選んだパンティ には、すべてペアのブラが品揃えされ ていた。 こうして僕は、たとえ2週間洗濯し ないでも、毎日ちがうパンティとブラ を着けられる女の子になった。 353/806 寮の部屋に戻り、ゆっくりとバブル バスにつかった後、僕は、これまで履 いたうちで最もワクワクするパンティ を身につけた。もちろん、僕のコレク ションに初めて加わった黒いボーイカ ットパンティだ。 おかしなもので、「ボーイカット」 というその呼び名が、僕に、女の子っ ぽい、もっと言えば、大人の女になっ たような気分をもたらしてくれた。 ママとパパが家に帰る前日の土曜 日、僕はふたりとすてきな高級レスト ランにディナーに行くことになった。 パパを驚かせるために、ママと僕は 示し合わせて、おそろいの服を着るこ とにした。この前の週末ショッピング でいっしょに買った黒のミニドレス だ。ノースリーブで、僕の方はその上 に、ピンクのジャケットを羽織った。 354/806 襟の折り返しだけ黒になったかわいい デザインだ。ママのジャケットは、全 体が黒でピンクのアクセントが入って いる。 僕らは、髪型も似たものにし、さら に完璧にするために、おそろいの黒ス エードのブーツも買っていた。 僕は、ふたりを見たパパの顔を想像 しワクワクした。そして、パパが、自 分が連れたふたりの女性を自慢に感じ てくれたらうれしいと思った。 実際にレストランに行くまで、僕は わりと平然とし、自信満々に見せてい た。でも、その入り口を入ったとたん、 まるでホラー映画を見ている小さな子 供のように、がたがたぶるぶると震え だしていた。 学校ではもう、2ヵ月以上、女の子 の服で過ごしているが、よく考えたら、 355/806 それ以外で多くの人の目が集中する場 所に行ったことがない。この前のショ ッピングは、ずっと歩いていたのだし、 周囲の人も自分の買い物の方に気を取 られていた。でも、今回は、あの時と はちがう。 実際、レストランの中に入って予約 したテーブルに案内される途中、店内 の人々がこちらに顔を向け、僕らに‥ ‥というか、どうやら僕に視線を注い できた。 パパは、僕がびくついているのにす ぐに気づき、僕の手をとり、自分の腕 で包むようにしてくれた。ママも、反 対側の腕に手を絡めてくれた。 ウエイターについて歩きながら、パ パは、すべてうまくいっているという 表情でうなずいた。 「落ち着いて、フェイス」 そして、テーブルに近づいたところ 356/806 で、まだ小刻みに震えている僕にささ やいた。 「みんな、パパを見てうらやましがっ てるのさ。どうやったら、あんな美人 をふたりもディナーに連れて来られる のかってね」 僕はそこで、ママをまね、それに、 映画で見たシーンとかを思い出し、ウ エイターが椅子を引いてくれるのを待 った。そして、注意深くスカートの裾 をなでつけ、腰掛けた。 ママは、そんな僕の作法をそっとほ めてくれた。 食事が始まると、パパは、僕のこと をきれいだとかかわいいとか言いつづ けた。それがあんまりつづくので、僕 はパパに、ほめ言葉を待っている女性 がもう一人いることを、それとなく諭 さなければならなかった。 そんなふうに、ことは順調に進み、 357/806 そのせいで僕は、最初持っていた警戒 心をすっかり忘れていた。そして、ウ エイターに向かい、ソフトドリンクの おかわりを頼んでいた。 とたん、僕は、テーブルの下に隠れ たくなった。 おそらく、なんの警戒もせずに発し た僕の声で、ウエイターは、こちらの 正体に気づいたにちがいなかった。こ の若いレディが、じつは男だと知って、 大声で笑い出すにちがいないと感じ た。 ところが彼は、驚きの瞬きひとつせ ず、にっこり笑い返し給仕してくれた。 「ほらね、フェイス。なんの心配もい らないでしょ」 ママが、やさしい声で言った。 「あなたは、誰が見ても、若くてきれ いなレディにしか見えないのよ。もっ とリラックスして、それを楽しみなさ 358/806 い」 それは、実際、楽しかった。それに ついて、僕はなんの異議もない。 ウエイターは、僕がまるでプリンセ スでもあるかのように、うやうやしく 接してくれた。 パパに連れられダンスフロアに出る と、多くのほほ笑みと賛美のまなざし が集まってきた。 たとえ、そのうちの誰かが、僕のこ とをドレスを着た男の子ではないかと 疑っていたとしても、それがなんだと いうのだろう。 なにより僕自身が、自分のことを、 パパとダンスするかわいい女の子だと 感じているのだ。 それは、すごくすてきなことだった。 学校にいる時と同じように、街なか のこんな場所でも、僕は女の子でいら れる。なんだか、夢の中にいるような 359/806 気がした。 僕はもう、フランクではない。あの 腐ったような目をして、まともに口も きけないガキ、いつも問題ばかり起こ し、両親を震え上がらせていたあのど うしようもない男の子ではないのだ。 僕は、フェイス。やさしくて、賢く て、かわいくて、誰からも好かれ、両 親にも心から愛されている女の子なの だ。 僕は心に誓っていた。 将来、家に帰っても、僕は、両親が 誇りに思えるような子供でいつづけよ う。かつて両親が感じつづけていた不 名誉を、自らの行いで償い、ぬぐい去 ろう、と。 もちろん、僕が帰れば、かつての仲 間たちが、かつてのフランクを期待し て集まってくるだろう。でも、彼らは そこで、悔い改めた新しいフランクと 360/806 会うことになるのだ。礼儀正しくて、 頭がよくて、そして、見たこともない ような美人のガールフレンド、ホリー を連れた。 心の中でそう誓ってさえいれば、未 だ多少残っている女の子でいることへ の抵抗感をすっかり捨ててしまっても かまわないだろう。 あの古き良き女子校「グレート・イ ンディアン・リバー」――そこにいる 女の子たちの言い方で言えば「ガール センター」――での残りの暮らしを、 めいっぱい楽しんでもいいだろう。 ママの後について女性用トイレに入 るのにも、今回は、なんのためらいも なかった。 メイク直しやヘアスタイルのチェッ クをしながら、僕は、ママとパパが、 僕をガールセンターに入れてくれたこ 361/806 とを感謝していると伝えた。 ママは、うれしそうな顔をしたが、 一方でちょっと戸惑ったようにきいて きた。 「つまりそれは、もう、タオルを投げ るってこと? ホリーの影響力が、あ なたに最大限に働いたってことな の?」 「そんなんじゃないわよ、ママ」 口紅を塗り直したところで、僕は言 った。 「タオルを投げるつもりはないの。で も、この2年の間は、タオルをきちん とたたんで、引き出しの奥にしまって おこうって思ったの。もちろん、ママ とパパがそれでいいのなら、だけど」 いきなり、息ができなくなるほど抱 きしめられていた。 「ママ、落ち着いて。そんなきつく抱 かれたら、あたし、死んじゃうわ」 362/806 「あっ、ごめんね。パパと私は、あな たがこんなにいい子になってくれたこ とに、いちいち感動してしまうの。こ こで本当にやっていけるんだろうかっ て、すごく心配してたから」 「あたしだって、自分に起こったこと が、未だに信じられないんだもん。で もねママ、女の子になってみたことは、 あたしにとってまちがってなかったと 思うの。少なくとも、今はね。もちろ ん、将来は元に戻って、ホリーと結婚 したいって気持ちは、変わってないの よ」 「それは、すてきだと思うわ。ホリー は気だてのいい女の子だし、パパも私 も、彼女のことが大好きよ。でも、こ こ何日か、あなたといっしょに過ごし て、将来、あなたが男の子に戻るって 気持ちを持ち続けるかどうかは、よく わからないって感じたわ」、 363/806 ママはけっして押しつけがましくは ない口調で、でも、その目の中に、マ マなりの思惑があることを示しながら 言った。 「あなたの年頃の女の子ってみんな、 女であることの意味を少しずつ学びな がら成長しているんだと思うのね。あ なたを見てて、それと、どこがちがう のかなって感じがするの。若い女性と して学びながら毎日を過ごしたあなた が、もう一度男の子になりたいと思う かどうか、パパとママは、何も言わず にずっと見守ってるわ」 「ママ、あたしずっと、それが怖かっ たし、今も怖いの。でも、その怖さっ て、今は、ジェットコースターに乗る 時の怖さみたいな気もしてるのよ。あ たし自身も、どこかでそれを、楽しん でる気がする」 364/806 ママは、どちらかといえば、僕に女 の子でいつづけてほしいと思っている 気がしたが、そのことを、それ以上言 い立てることはなかった。 その代わり、ディナーの帰りに、何 冊かの女性雑誌を買ってくれた。同じ 年頃の女の子の気持ちがわかるように ということらしい。 帰って読んでみたが、おおかたの特 集は、どうしようもなくくだらないも のに思えた。カレが大親友と浮気した だとか、ダンスパーティまでにニキビ をなくす方法だとか、好きな男の子の 前に出ると何も言えなくなるだとか、 そんなことばかりが書かれていた。 ただし、いくつかの特集‥‥最新の ヘアスタイルだとかファッションだと かは、とても参考になった。自分自身 でやってみるために、また、通販でオ ーダーをする候補として、僕は気に入 365/806 ったページに印を付けた。 11月初旬、正式な成績通知票が出た。 僕は、学年で一位の成績をとってい た。一生懸命勉強したのが実ったのは 確かだった。 全教科のテストがA評価で、学科平 均値が4.0ポイント。これはもちろん、 僕がこれまでとった成績のうちいちば んいいものだ。なにしろ、前の学校の 成績より2.5ポイント高い。 以前はクラスの道化でトラブルメー カーだった人間が、全校一期待される 存在になったというのは、これはこれ で、慣れるのがたいへんなことだ。 言うまでもなく、僕はすぐに、ママ とパパに報告した。 この2ヵ月間で得られたママとパパ からの信頼は、僕にとって最も大事だ と思えるものになっていた。この成績 366/806 は、さらにそれを確かなものにしてく れた。 パパはまた、愛する妻と娘をお祝い のディナーに連れて行くと約束し、マ マは、僕のおねだりショッピングにつ き合うことを約束してくれた。 とはいえ、この前両親がたずねてき た時以来、僕は一度も寮から外へ出て いなかった。 自分が女の子としてパスできないの ではないかという僕の不安は、そうと う根深く、この前のショッピングやデ ィナーだけでは、とてもぬぐい去るこ とができないものだった。 もちろん、この前、なんの問題もな かったのはわかっているし、僕のやさ しい助言者ホリーは、僕が不安を語る たびに、この頃では「もういい加減に しなさい」と言う。それでも僕は外出 367/806 に自信がない。授業中のように、うま くパスできるとはとうてい思えない。 学校では「できる子」になった自信が あるから、なんとか女の子らしく振る 舞えているにすぎない気がするのだ。 僕がこんなに不安なのは、女の子と いうものを知れば知るほど、男の子と のちがいに気づくからかもしれない。 そのちがいは、けっして服やルックス だけでごまかせるものではない。女の 子と男の子は、行動がまるでちがうの だ。 たとえば、僕が男の子だった時、他 の男の子と会うと、たいてい握手して いた。ところが女の子どうしの場合は、 かん高い声を上げ、抱き合うことにな る。このガールセンターに来て3ヵ月 がたつというのに、僕はまだそれにな じめないでいる。 ジルなどは、僕がそれに慣れるよう 368/806 にと、僕を見つけるとわざとそうして くるのだが、それでも、そんな時、僕 はちょっと引いてしまう。 もちろん、ジルは本当にいい子だ。 それ以外に、彼女のことを表現する言 葉なんてない。 キュートで、男の子にモテて、いつ も服のセンスがいい。でも、彼女の良 さはそんなことだけじゃない。それら すべてを兼ね備えながら、なにより、 思いやりがあって面倒見がいいのだ。 もし、この学校でいちばん性格のいい 子は誰かという投票をしたら、必ずジ ルが一位になるだろう。 なにか個人的に困った問題が起こる と、みんながジルに相談する。家族と の問題でも、男の子との問題でも、ジ ルは親身になって聞いてくれ、気持ち が楽になるアドバイスをしてくれる。 369/806 もし、ある女の子が特別なデートに 着ていくための服に困ったら、ジルに 頼めばいい。まちがいなく、その子に いちばん似合う服が手に入るだろう。 そう、ジルはいい子だ。でもそれだ けじゃない。その表情の下には、無尽 蔵の愛情のエネルギーを発する原子炉 が隠されている。 だから、彼女はハグが好きなのだ。 あのモールの女子トイレで僕を見つけ た時のように、ハグしながら、まるで 踊るように飛び跳ねる。 相手の体がどれだけ大きくても、そ して、彼女が飛び抜けて小柄であるに もかかわらず、その抱擁は、相手を大 きく包んでしまう。 話を僕のことに戻そう。 とにかく僕は、自分が男の子だと見 破られることを死ぬほど恐れていた。 370/806 それは、言ってみれば、思春期拒食症 とかと同じようなレベルに達してい た。 友だちはみんな、僕のことをかわい いと言ってくれるけれど、僕は、自分 の姿を鏡で見ている時、そこにどうし ても男の子が見えてきてしまう。たと え、いちばんかわいい服を着ていても、 ヘアやメイクに何時間かけたとして も、そんな恐怖をぬぐい去ることがで きない。 ママとショッピングに行ったとき も、ママやパパとのディナーでも、そ の時点では楽しいと思えたのだが、帰 った時にはぐったりと疲れ切ってい た。その間ずっと、女の子ならこんな 時どうするのかと考え緊張しつづけて いたからにちがいなかった。 学校では、まあ、うまくやっている。 教室にいる時、僕は、自分をまったく 371/806 女の子だと感じている。 ところが、町に出たりすると、とた んに僕は、強風の中の木の葉のように 震え出す。町行く人すべてから、男の 子だと見抜かれているような気がして しかたがないのだ。 もちろん、ルックスにだってまだ問 題は多い。たしかに、上半身だけなら、 今の僕は女の子以外の何ものにも見え ないだろう。口幅ったい言い方をすれ ば、かなりかわいい子の部類だという 気もする。 でも‥‥。 たとえバストはにせ物でごまかせた としても、全身に目を移せば、そうは いかない。僕の体型が同じ年頃の女の 子とちがうことは、すぐわかるはずだ。 ヒップはボリュームがなさ過ぎるし、 女の子のお尻独特の丸みもないから だ。 372/806 スカートなら、体型をあらわにしな いものも多いからごまかしもきくが、 パンツではそんな弱点をもろにさらし てしまう。スラックスを履いて女の子 らしく見せるには、もっとヒップの横 幅や丸みが必要なのだ。 ここに来たばかりの頃、よくホリー が、ついつい仲間と自分を比べて落ち 込むことがあると話していた。 その頃の僕は、自分がそんなことに 思い煩うとは考えてもみなかった。そ もそも、女の子として本気でパスした いなどとは思っていなかったのだ。女 の子として暮らし、学校へ行くことに 抵抗を感じていたのだから、他の誰か のようになりたいなどと思わないの は、当然だろう。 でも、3ヵ月が過ぎた今、僕は、ホ リーのことをうらやましくてしかたな い。彼女のように、スラックスの似合 373/806 う幅のあるヒップや丸いお尻がほしい と切実に思うのだ。 そんな僕の悩みに、救いの手をさし のべてくれたのは、他ならぬホリーだ った。 約束の両親とのディナーの日、僕は、 できれば、この前ママに買ってもらっ たレザーのパンツ姿で行きたいと思っ た。でも、この体型ではとても無理だ とホリーに話した。 すると彼女は、そういうことならい い解決策があると、いきなり自分のク ローゼットの奥に首を突っ込み、そこ に積まれたいくつかの箱の中をがさご そ探し出した。 彼女がそこから持ち出してきたの は、1枚のパンティのようなものだっ た。他に、ラバーフォームでできた奇 妙な形のピースがいくつかセットにな 374/806 っていた。 「ホルモンの効果が出はじめるまで、 あたしが使ってたものよ」 ホリーはまず、そう説明した。 「特製のパンティガードルと、それに 入れるパッド。これで、キュートなお 尻ができるわ。最初は、お尻のまわり に変な圧迫感があって、着け心地はよ くないかもしれないけど、すぐに慣れ るわ。鏡の前で着けてみて。きっと気 に入ると思うから」 彼女は、僕にパンティだけになるよ うに言い、その間に、ガードルのサイ ドやバックの内側にあるポケットに、 パッドを挿入した。 「あなたのものをきちんとタックして、 パンティをきつく引っ張り上げてくれ る?」 「タック‥‥? なんのこと?」 僕は、愚かなことをきいたようだ。 375/806 そう、それはほんとに愚かなことだ った。そこで、あきれたように首を振 ったホリーは、次には僕の顔を哀れそ うに見つめ‥‥そしていきなり‥‥パ ンティの中に手を突っ込み‥‥タマタ マを体の中に押し込み‥‥小さくなっ たウインナーを腿の間に折り曲げ‥‥ パンティの縁をつかみ‥‥あごにも届 かんばかりの勢いで引き上げた。 「‥‥ウッ!」 「次、ガードル! 履いたら同じよう に引き上げる!」 僕が苦しみにもだえるすきを与えな いよう、彼女は、海軍の指導兵が訓練 兵に示す種類のやさしさで言った。 「ア、アイアイサー」 僕は、下腹部につづけざまにくわえ られた驚きと苦しさに息も絶え絶えに なりながら答えた。 「できたら、鏡に向かって、まわれ右 376/806 ッ!」 そのやさしい指導兵ルームメイトの 命令どおり、ガードルを履いて引っ張 り上げた僕は、鏡を見た。 そして次の瞬間、ジルが見たらきっ と喜ぶにちがいないやり方で、ホリー を抱きしめ、飛び跳ねていた。 「すごーい! ウソみたい!」 僕はそう繰り返しながら、ホリーの 手を取り、部屋中を踊りまわった。 「これなら、あのスラックスが似合う わ。早く見てみたーい!」 「そう、よかったわね。もうわかった から、あたしの手を離して、さっさと 履いてみなさいよ」 ホリーは、僕のせいで目がまわった らしく、うめくように言った。 「まったく、あなたったら、ジルの影 響、受け過ぎよ」 僕はあわててクローゼットに走り、 377/806 急いで新品のスラックスを引っ張り出 し、そそくさと足を通し、あせってフ ァスナーを上げた。 「オー、イエイ、ベイビー。あたしっ て、かっこいいぜい!」 鏡を見ながら、僕は自分の新しい体 型にワクワクしながら叫んだ。 「ほらね、女の子が本気になれば、男 の子はすごすご引っ込まざるを得ない のよ。ルックスでも、知恵でも、それ に、慎み深さでもね」 「ありがと、ホリー」 僕はそう言って、彼女のほおに姉妹 としてのキスを贈った。 「あなたはいつだって、あたしのいち ばんの相談相手だわ」 その茶色のレザーパンツにぴったり の白いシルクのブラウスを合わせたと ころで、僕は、ベッドの下に手を伸ば し、履いていく予定の靴を引っ張り出 378/806 した。3インチのとがったヒールのつ いたパンプスだ。 「えっ? そんなの、履いてくつもり なの?」 僕がストッキングの足をその靴に入 れるのを驚いたように見つめながら、 ホリーが言った。 「あなた、死ぬわよ」 「だいじょぶよ。じつはこの2週間、 あなたのいない時に、こっそり練習し てたの」 僕はそう言って胸を張り、部屋を横 切ったところでくるっとターンしてみ せた。 「この自然にお尻が揺れる感じ、すて き」 「そんなふうに町を歩いたら、すれち がう男の子たちがどんなふうになる か、わかってるの?」 ホリーはからかうように言った。 379/806 「もしかして、前にあなたがディープ キスした時の、あたしみたいになるっ てこと?」 僕は、まつげにマスカラを塗りなが ら、笑い返した。 「だってあたし、ちゃんとパスしたい んだもん。誰かに男の子じゃないかっ て疑われるくらいなら、その方がずっ とましよ」 ホリーは、あきれたように小さく口 笛を吹いた。 「お姉ちゃんの言うこと、ぜんぜん信 用してないのね、この妹は。そこまで やらなくたって、あなたはもう、まち がいなく女の子よ」 ママとパパは、僕の着てきたものを 見て、ちょっと驚いたようだ。 「へえ、今夜は、スラックスなのか い?」 380/806 パパがからかうように言った。 「この前はたしか、スカートかドレス しか着ないって言ってたと思うけど」 僕は、パパを抱きしめ、キスしなが ら言った。 「パパって、意地悪ね。せっかく、マ マに買ってもらったかわいい服を見て もらいたくて着てきたのに」 「ねえ、あなた。フェイスにすごく似 合うと思わない?」 ママが自慢げに言った。 「私もこれだけきれいならいいのにっ て、自分の娘ながら妬けてきちゃうわ」 「あたしのママなんだもん、ママだっ て、あたしの年頃にはそうだったでし ょ。もちろん、今だってすごい美人だ けど」 「うむ、頭がよくて、美人で、気だて もいい。うちの子は、娘としての理想 像がワンパックになってるってわけ 381/806 だ」 パパは、そう言って笑った。 「こんな愛らしい娘が、前はどんなだ ったか、もう私たちにも思い出せない よ」 「ママ、パパ、大好きよ」 僕は、ちょっとうつむきながら言っ た。 「それなのに、ひどいことばっかりし てて、ごめんなさい。あたし、もう、 二度とあんなふうにはならない。約束 するわ」 「ママとパパも、君のことを心から愛 してるよ、フェイス」 パパは僕にキスしながら言った。 「こんな子供を持てたことは、私たち のなによりもの誇りなんだから」 まるで魔法のような夜だった。 食事は、この前と同じようにおいし 382/806 くて、パパとのダンスは、この前以上 にすてきだった。踊っている間中、僕 は、自分のことを、本物の女の子だと 感じていた。 寮に帰った後、僕はホリーといっし ょに写真を撮った。もし将来、なにか つらいことがあったりしたら、この写 真を見てこの夜のことを思い出せば、 それだけで勇気が出る気がしたから だ。 次の朝、ショッピングに行くために、 ママが迎えに来た。 服はもう十分にあったので、この日 は、ジュエリーショップでパパのお金 を使うことに決めた。 「わあ、ママ、それ、すごくかわいい」 ママの持ったネックレスを見て、僕 は思わず歓声を上げていた。細いチェ 383/806 ーンにぶら下がったエメラルドのまわ りを小さなダイヤが取りまいている。 「でも、ちょっと高すぎない?」 「平気よ」 ママは、平然と言った。 「ほら、グリーンのワンピースがあっ たでしょ。あれと合うと思わない?」 「え? ああ、あの、ママが買ってく れた白いえりの?」 「そう、あなたの脚が、すごくきれい に見えるやつ。あんなのでヒールを履 いて歩いたら、男の子たちはみんな、 のぼせ上がるわよ」 僕は、自分が、そのグリーンのミニ のワンピースを着ているところを想像 し、ママの言うとおりだと思った。そ の姿は、ものすごくかわいく、僕自身 の経験から言っても、あんな服を男の 子は大好きなものだ。 「で、でも、なんか怖いわ。あたし、 384/806 男の子をのぼせ上がらせたくなんか、 ないもん」 「それは、どうしようもないことなの よ、フェイス」 ママは、そのネックレスと、ペアの イアリングをお店の人に差し出しなが ら言った。 「あなたは、これだけ魅力的な娘なん だもん。男の子たちは、あなたのこと を知りたくて、どうしたって近づいて くるわ。それにね、そんな経験が、女 の子が大人になることのすべてだって 言ってもいいくらいなのよ」 「でもママ、あたしは、女の子として 大人になる気はないのよ。男の大人に なって、ホリーと結婚するんだから」 「それはそれで、すてきなプランだと 思うわよ」 ママは、今度はレディスウォッチと ブレスレットを見ながら言った。 385/806 「でも、あなたは、ここにいる2年の 間、デートもしないつもり? それは あなたの年頃として、けっして健康な ことじゃないわ。ホリーに聞いたんだ けど、あそこの女の子たちは、たいて い、このあたりの男の人とデートして るんでしょ。中には、本当に女性にな って結婚しちゃったカップルまである っていうじゃない。もちろん、ママと パパは、そこまでは望まないけど、あ なたに、もっと若者らしい楽しみも持 ってほしいと思ってるのよ」 ここでママと論争してみても、得な ことは何もないだろう。要するにママ の言っていることは、2年間女の子で いるのなら、その役を楽しんでほしい ということにすぎない。 もちろん僕は、男とデートする気な んてさらさらない。ても、この場でそ れを言い立てて、せっかくのご機嫌を 386/806 損ねたくはない。そう考えた僕は、マ マの言い分を聞いたふりをしておこう と思った。 「うん、考えてみるわ、ママ」 僕は、とりあえず約束した。 「そんなに、いやがることじゃないの かもね」 いや、ぜったいに、いやだ! 僕はやっぱり、女の子が好きだ。つ まり、その、本物の女の子が‥‥そう、 ホリーこそ、僕にとっての本物の女の 子なのだ。 2年間、僕自身が女の子でいなけれ ばならないのはしかたないとしても、 そのせいで、男とデートしたくなった り、神様の禁じているようなことをし たくなったりはしないはずだ。 「わかってくれたのね。いい娘よ、フ ェイス。ところで、これとこれ、どっ ちの腕時計が欲しいの?」 387/806 それに、僕の思っていることは、マ マの思いとそんなにかけ離れているわ けでもない。 一時的であるにしろ、僕は今女の子 だ。女の子らしいデートをしろという なら、してもいい。ただしそれは、ホ リーを誘っての女の子どうしのデート という意味でだが。 少なくとも、ママにまったくのウソ をついたわけではない。 ところが、寮まで送ってきてくれた ところで、ママは、僕のそんな思惑を、 みごとに打ち砕いてしまった。 「フェイスは、さみしい思いはしたく ないんですって」 部屋までついてきたママは、中に入 るなり、ホリーに声をかけた。 「男の子とのおつきあいに慣れるまで、 ダブルデートとかに誘ってくれるとう 388/806 れしいんだけど」 その言葉にこちらを向いたホリー も、一瞬にして僕の思惑を見抜いたよ うだ。 「ええ、あたしも大賛成だわ。彼女は これだけかわいいんだもん。目の前に 楽しいことがあるのに、部屋に一人で 引きこもってるなんて、もったいない わ。彼女が気に入るような男の子2人、 心当たりもあるし」 「ありがとう、ホリー、よろしくお願 いね」 もしホリーがもう少し近くにいたな ら、そして、ママがもう少しドアの外 にいたなら、すぐにホリーに仕返しし てやるところだ。 「感謝してるわ。あなただけが頼りよ」 ママは、にっこりと笑って出て行き ながら、さらにつけ加えた。 「何かあったら、報告してね」 389/806 「よろこんで。ミセス・ジョーダン」 ホリーは、ママの後ろ姿に向かって そう叫んだ。 「‥‥ふふ、ママの言葉は取り消せな いわよね」 ドアが閉まったところでホリーはに んまりと笑った。 「つまり、あなたが思ってたほど、マ マは馬鹿じゃなかったってことでし ょ」 「ね、ねえ、あたしと男をくっつける なんてこと、マジで考えてるわけじゃ ない‥‥でしょ?」 「あなたのママとの約束だもん。あた しだって破れないわ。それに、あなた としても困るんじゃない? だって、 あなたとあたしが結婚したら、お母様 はお姑さんだもの」 「そ、それはべつに気にしなくていい んじゃないかな」 390/806 「でも、あなたがデートを断りつづけ るとしたら、それはそれで、ママにも 報告しなきゃいけないわけだしぃ」 ホリーは、そう脅してきた。 「ふふ、もう、あきらめたら? たぶ ん、ママがこの話を持ち出した時点で、 あなたは負けてたのよ」 ホリーの言うとおりなのだろう。 ママは、もっと前からこんな成り行 きを考えていたにちがいない。そして、 すべてを読んでいたのだ。僕がどんな 反応をし、どうごまかすかまで。要す るに、全部が、ママの策略だったとい うことだ。 僕をショッピングに連れ出し、気軽 な感じでデートの話を持ち出す。その あと、寮に戻ったところで、小さな罠 を仕掛ける。すべて読みどおりだ。 彼女は自軍の目的達成のためなら、 どんな障害でも乗り越える能力を持っ 391/806 た優秀な将軍なのだ。彼女が指揮して いたなら、第二次大戦も1ヵ月でかた がついたにちがいない。敵方は、ママ のやり方を目にしたとたん、戦う気を 削がれ、降伏しただろう。 「お願いだから、忘れて」 僕は、嘆願していた。 「もし、男にキスなんかされたら、あ たし‥‥僕、気が狂っちゃうよ」 僕は、この時、必死の思いで本音を 吐露していた。 おそらく、そんな切実さが伝わった のだろう。ホリーはそこで話をやめ、 その後も、デートの件は持ち出さなか った。もちろん僕も、そんな話題には 触れないよう心がけた。 そのせいで、僕らの間には、どこか 気まずい雰囲気が漂った。でも、そん な雰囲気にせよなんにせよ、つづけて 392/806 やって来た感謝祭シーズンは、ものご とが一巡し、新たな物語が始まる1年 の節目だ。 その連休中、僕らふた家族は、ホリ ーの実家でパーティをし、いっしょに 過ごすことになった。 都合のよいことに、どうやらママは、 この前の成り行きを忘れているよう で、僕は、ホリーのママが料理したお いしい七面鳥を安心して満喫すること ができた。 七面鳥に限らず、すべての料理がお いしかった。そのせいで僕は、自分の 皿に取り分けたぶんをあっという間に 平らげてしまった。 そして、料理を追加しようと手を伸 ばしかけた時だった。 「ダメよ。そんなガツガツするなんて、 女の子らしくないでしょ。それに、こ 393/806 れ以上食べたらブタになるわ」 そんな声が、どこからともなく聞こ えた。 どきりとして手を引っ込めた僕は、 今のは誰だったのかときょろきょろし た末、それが、自分自身の心の声だっ たことに気づき、愕然とした。 外泊許可をもらって学校を離れ、し かも、自分が本当は男の子だというこ とを知っている人たちに囲まれている というのに、僕には、男の子に戻って くつろぐことができなくなっているの だ。 数ヵ月、女の子を演じつづけてきた ことで、それがすっかり身についてし まっている。どうやらもう、それ以外 のものとして振る舞えなくなっている らしい。 「フェイス、君はほんとにいいお嬢さ 394/806 んだね」 食後のかたづけを手伝ってテーブル を拭いていると、ホリーのパパが声を かけてきた。 「学校の成績もいいんだってね」 「ありがとうございます」 ほめてもらえたのがうれしくて、僕 はにっこりと笑い返した。 「たぶん、授業が面白いからだと思い ます。先生の教え方がいいのかしら。 幾何だって、全然むずかしいって思わ ないんです」 「ママから聞いたでしょ。フェイスは 学年でトップなのよ」 皿をかたづけていたホリーが言っ た。 「幾何なんて、彼女に教えてもらって る子たちがいっぱいいるんだから」 「へえ、そんなに幾何が得意なの?」 ホリーの兄、ロバートがきいてきた。 395/806 僕は、ついつい自慢したくなって言 った。 「今ホリーが言ったように、いちおう 学年でいちばんよ。全教科A評価」 「えっ、幾何もAなの?」 その驚きようから、彼がそれを苦手 にしているらしいのがわかった。 「じつは前に、どんなものかと思って、 ホリーの教科書を見せてもらったこと があるんだ。君は、あんなのが理解で きるわけ? 僕の教科書より、ずっと むずかしかったぜ」 「さあ、それは、よく知らないけど‥ ‥」 僕は笑いながら、肩をすくめた。 「あたしは、そんなにむずかしいと感 じないわ」 「あのさ、人にこんなこと頼むのは、 あんまり好きじゃないんだけど、じつ は来週、幾何の大事なテストがあるん 396/806 だ。困っててさ。もし、いやじゃなか ったら、ちょっと教えてくれないか な?」 ロバートは、本当に困り果てている ようだ。学校で、僕を頼ってきた女の 子たちと同じ顔をしていた。 「いいわよ。じゃ、デザートのあとで ね」 そこで、ミセス・ビンクラーのアッ プルパイが出てきた。たっぷりのホイ ップクリームとひとさじのアイスクリ ームがトッピングされた、小さい頃、 ハリーの家でよくごちそうになった味 だった。 それを食べ終わったところで、ロブ と僕は、幾何の勉強をはじめた。 「君って、ほんとに幾何が好きなんだ ね」 僕が、問題を解くためのウラ技をい くつか披露したところで、ロブが言っ 397/806 た。 「まさか、こんなやり方があったなん て!」 「幾何なんて、ややこしく考えなくて もいいのよ」 僕は笑いながら言った。 「すじみち立てていけば、全部解ける わ。あとは、基本的な定理だけ、サボ らずに覚えておくことね」 僕は、そのあともいくつかの例題を 解いてみせ、それから、ロブ自身に問 題をやらせていった。彼は、自分だけ で問題が解けたことに、うれしそうな 顔をした。 「君たちの学校って、やっぱり先生が いいんだな」 半ダースほどの問題を解いたところ で、ロブが笑いながら言った。 「僕も、転校しようかな?」 その言葉に、僕は、彼の顔を見なが 398/806 ら大笑いしてしまった。 身長6フィート2インチ(約188セン チ)、広い肩幅、男っぽい顔つき‥‥ それが、プリーツスカートを履き、か わいらしいブラウスを着ている姿を想 像したからだ。 「うちの学校が、あなたに向くとは、 ちょっと思えないけど」 やっと笑いを納め、僕は言った。 と、そこに、ホリーが口をはさんで きた。 「べつに、先生のおかげじゃないわよ。 だって、彼女とあたしは同じ授業を受 けてるのよ。それなのに、あたしは、 テストの前になると、彼女に教えても らってるの。結局、あたしたちの目の 前にいるのは、天才ってことよ」 その言葉に、僕は顔を赤らめていた。 そして、ロブが、そんな僕をじっと見 つめているのに気がついた。 399/806 「君って、すごいヤツなんだね」(※) ロブが言った。 そのとたん、ミセス・ビンクラーが 激昂した。 「ロバート、そんな失礼なこと、言う もんじゃありません!」 (※訳注 原文は"You're a guy, aren't you?" ‘guy’は、単数では通常、男にしか使わな い しかし、若者言葉では「すごいヤツ」「か っこいいヤツ」という敬意を込めた‘a guy’ を女性に対して使うこともある ロバートはそ のつもりで言ったのだが、母親の世代には「君 って男だね」としか聞こえなかったわけだ) 「こんなすてきなお嬢さんに、なんて こと言うんですか。すぐ謝りなさい」 「ご、ごめん、フェイス。そういう意 味で言ったんじゃないんだ。君の教え 方が、ほんとにうまかったから‥‥。 それに君は、僕がこれまで聞いてたこ とから想像してたのと、全然ちがう人 400/806 だったから‥‥。いや、つまり、その ‥‥、理科室に放火した悪ガキだとか、 昔ホリーといっしょにぐれてたとか‥ ‥」 「ええ、そのとおりよ」 僕は、自分の顔が、また火照るのを 感じた。 「というか、そのとおり、だったわ。 今はちがう‥‥つもりだけど」 ロブの目の中の何かに、僕は怯えて いた。 いや、彼が僕を傷つけたりしないの はよくわかっていた。でも、なにか遠 いものでも見つめるようなそのまなざ しに、彼が僕に対して何を思っている のかが、やたら気になった。 「もしそれがほんとだとしても、きっ と、ずーっと昔のことだね」 「もしかして‥‥前世?」 気がつくと僕は、彼を見返し、かわ 401/806 いらしく笑っていた。 なにかが、起こっていた。 この男は僕にエサをちらつかせ、僕 はそれにぱくりと食いついていた。 「生まれ変わるのは、たいへんだった んだろうね」 ロブが向けてきたほほ笑みに、僕は 奇妙な感覚を抱いた。何か暖かいもの が、僕を包み込んでいくような‥‥。 僕もそれにほほえみ返し、それから 僕らは、会話に没頭した。 ふと気がつくと、すでに30分くらい がたち、ホリーもふくめ、僕らのまわ りから人がいなくなっていた。 そのあとも、僕は、ロブとの楽しい 時間を過ごし、ふたりで笑い合いなが ら話をつづけた。 彼は、その妹と同じくらい面白くて すてきな人だった。こんなに楽しい人 となら、僕は一生つき合っていけるだ 402/806 ろうと感じた。 ホリーと結婚して、義理の兄弟にな ったあとも。 翌朝、ふた家族いっしょに朝食をと っている時、ロブが、町でクリスマス セールが始まっているから、もしホリ ーと僕が行きたいなら、車に乗せて行 くと言いだした。 僕はもちろん遠慮しようとしたのだ が、すかさずロブが笑いかけ、何も心 配はいらないと言った。 「たとえば僕の友だちに君を紹介して、 本当は男なんだと言ったとしても‥‥ もちろん、そんなこと、ぜったいしな いけど‥‥、いくら僕が一生懸命説明 したところで、そいつは信じないだろ うね。君はほんとにかわいいし、表情 や仕草だって、僕が知ってるどんな女 の子より女の子っぽいんだもん。君自 403/806 身は自信がないみたいだけど、君はど っから見ても女の子そのものだよ」 ママからも同じようなことを何百回 となく言われ、そのたびに僕は、それ を強く否定してきた。でも、ロブに言 われ、僕はただ顔を赤くして、笑い返 しただけだった。 彼の声の中にあるなにかが、それに 彼のほほ笑みが、僕を安心させてくれ る気がした。それにしても、なぜ、彼 が僕のことを女の子だと思ってくれて いることが、こんなにうれしいんだろ う? 実際の話、僕が迷いを捨てて出かけ る決心をしたのは、そのうれしさのせ いだったと思う。ロブば、女の子なら 誰でも好意を抱くにちがいないかっこ いい男だ。そんな人から、女の子、そ れもかわいい女の子と言われれば、や っぱり悪い気はしない。 404/806 僕は、急いでバッグとコートをつか み、ホリーといっしょにセールに出か けた。 服についてはもう十分に持っている ので、当初、買うつもりはなかった。 でも、もうすぐやってくるクリスマス 休暇にぴったりのドレスが目にとま り、試着してみた。 真っ赤なベルベットでハイウエス ト。白いレースの胸当てがつき、半袖 のまわりにもレースのアクセントがつ けられている。 ただ、残念だったのは、スカートの 丈が太腿の真ん中くらいまでしかない ことだ。これほどのミニでなければ、 完璧なドレスなのに‥‥。 「あら? それ、買わないの?」 僕がそのドレスを、ハンガーラック に戻していると、ホリーが言った。 405/806 「うそでしょ、あんなに似合ったのに」 「こんなの着たら、ひどい風邪ひいち ゃうわよ」 笑いながらも僕は、ホリーがそう言 ってくれたことがうれしかった。こん なに肌を露出する服でも、僕は似合う んだ。 「ほんとに、本気かなあ?」 彼女は、からかうような目で見てき た。 「たとえば、クリスマスの日にドレス アップしたあなたを想像してみて。ヘ アスタイルやメイクはいつもどおり完 璧ね。で、このドレスを着たあなたは、 セクシーな脚やお尻を、みんなに見せ びらかすの。靴は、あの茶色のとおん なじようなパンプスの赤ね。あなたは きっと、ほんとにきれいに見えるでし ょうね。でも、もっと大事なことは、 そんなふうにすることで、あなた自身 406/806 が、自分がきれいだって思えることよ。 そしたら、あなたはもう、自分のこと を、女装したティーンエージャーの男 の子だなんて思えなくなるはず。他の 人があなたを見るのと同じように、き れいで、自信に満ちて、エレガントな 若い女性だって感じるんじゃないか な」 「あたしがそんなふうになれたら、マ マはきっと、すごく喜ぶわね」 僕は、まずなにより、それを強調し た。 「ママったら、あたしがここにいる間 は、女の子のすることならなんでもし て欲しいって思ってるみたいなの。あ なたと同じように、外に出かけろって しつこいし。メイクでも、セクシーな 衣装でも、似合いそうなものならなん でも試せって。ティーンエージャーじ ゃなくて、もっと大人の女になったあ 407/806 たしを、ママはきっと見たいでしょう ね」 「そうよそうよ、フェイス。あなたが 着たいわけじゃないとしても、ママを 喜ばせるために着てあげれば?」 「そうね。あなたの説得力には負ける わ」 僕は、くすっと笑って、買いものの 山に、そのドレスを追加した。 「あたしは、あなたに強く勧められて、 これを買ったってことにしといてよ。 それにしても、娘に甘いママとパパを 持ってるって、幸せね」 「ふふ、それを着た瞬間から目つきが 変わって、すっかりその気だったなん て、あたし、ぜったい言わないわ」 「さあ、なんのことかしら?」 僕は、試着室の中で見た自分の姿を 思い出し、ついつい顔がほころんだ。 408/806 そのあと僕らは相談し、けっきょく、 ホリーも同じデザインのドレスを買う ことになった。ただし、色ちがいのグ リーンだ。クリスマスパーティでは、 家族たちの前に、本当の姉妹のような おそろいの服で出て行こうと決めたの だ。 そのために僕らは、そのドレスに合 うかわいいランジェリーと、極薄でシ ルキーな高級パンストも選んだ。これ は、僕たちを、思い切りセクシーでフ ェミニンな気分にしてくれるはずだ。 たぶん、ホリーの両親は、ホリーが そんな格好をしてもあまり驚かないは ずだ。それに、僕のママも、僕の格好 にびっくりしたりはしないだろう。 でも僕は、うまくいけば、みんなの 注目の的になれるかもしれないと思っ た。両方の家族の男たちが、僕を見て どう思うか、それが楽しみだ。特に、 409/806 ロブがどんな顔をするのかと思うと、 その日が待ちきれない気がした。 結局はめいっぱい買ってしまったそ のショッピングを終え、ホリーの家に 戻ったところで、ロブが、僕とホリー に「トリビアゲーム」(※)をやろうと 言ってきた。 (※訳注 いわゆる「雑学クイズ」形式のパソ コンゲーム 時間内に何問できるかを競う ア メリカでは、市販品だけでなく、さまざまな分 野のトリビアゲームソフトがネット上で配布さ れている) それで、3人でゲームを始めたのだ が、そのうち僕は、ロブの関心が、ゲ ーム自体より僕に向いているらしいこ とに気がついた。 「ショッピングは、どうだった?」 ロブは、ゲームを始めるとすぐにき いてきた。 410/806 「なにか、気に入ったものがあった?」 「ええ、楽しかったわ」 僕は、彼がゲームに集中するよう、 微笑とともに社交辞令的な答えをし た。 「おかげで、すてきなものがいっぱい 買えたわ。どうもありがとう」 それで、ロブの気を削いだつもりで いたのだが、10分もしないうちに、ま たこんなことをきいてきた。 「どう? 学期末の優等表彰を受けら れそう?」 「そんなこと、今は関係ないでしょ」 僕はそう答えたが、ちょっと侮辱さ れたような気もしてつづけた。 「もうこれまでの3ヵ月間で、自分で も信じられないくらいの成績を取って きたのよ。それでも、あたしにはその 資格がないかしら?」 「あっ、ごめん。そういう意味じゃな 411/806 くて、プレッシャーとかあって大変だ ろうなって。いや、もちろん僕は、君 こそ、ぴったりの人だと思ってるよ」 ロブは、その最後の部分を、なぜか 僕の目を真正面から見つめ、ほほ笑み かけながら言った。 ‥‥ん? ぴったり‥‥って? も しかして今のは、成績の話じゃない の? 僕はどこかで、彼がそこに別の意味 を込めたのに気がついていた。そのせ いで、心の中がざわめくのを感じた。 僕は、話題をゲームに戻そうと思っ た。それなのに、そのブルーの目に引 き込まれるように見入っていた。僕の 目に向かって注ぎ込まれるそのほほ笑 みから目がはなせなくなっていた。 結局、僕にできたことは、顔を赤ら めながらかわいらしくほほえみ返し、 「ありがとう」と言うだけだった。 412/806 クソ! こいつはまちがいなく僕の ことを女の子として扱っている。 そして、またしても僕は、そのエサ に食らいつき、それをおいしく食べて いた。 と、ロブは、そのほほ笑みを僕の視 線からはずし、やっとゲームに戻った。 僕はそれにほっとしたのだが、一方 でそれがなんだか悲しいことのような 気もした。 さっきからロブが僕にばかり興味を 示すことに腹を立てながらも、僕の中 のなにかが、確実にそれを期待してい た。 彼が、「君こそ、ぴったりの人」と 言った時、僕はそれを、優等表彰の話 などではなく、彼からのある種の告白 としてとらえていた。そして、そのメ ッセージをうれしいと感じている自分 がまちがいなくいた。 413/806 今、ロブはまたゲームに集中してい たが、それを見て、僕はなんだか置い てけぼりにされたような気持ちになっ た。彼がまた、僕に顔を向けてくれた らいいのにと感じた。 それで、彼が話しかけてくるように、 僕の方から彼に関することを話題にし てみようと思った。 「ねえ、ホリーに聞いたんだけど、あ なたって、映画ファンなんでしょ?」 僕は、安っぽく見えないように気を つけながら、やわらかいほほ笑みを彼 に向けた。 「じゃあ、今の『風と共に去りぬ』の 問題なら、簡単にわかったんじゃない」 「ああ、そうなんだけどさ、ど忘れし たんだ」 彼は、そう言って肩をすくめた。 「ちょっと他のことが気になってるせ いかな、集中力が欠けてるんだ。君が 414/806 さっき、60年代ファッションの問題で まちがえたのと同じだよ」 「だって、あたし、60年代なんてまだ 生まれてないんだもん。それに、ファ ッションが得意分野ってわけでもない のよ」 僕はそう言って、ほほ笑みながら、 髪を掻き上げていた。 ‥‥えっ? 僕は、なにやってるん だ? 無意識にしたことではあったが、今 のがあきらかに男の気を引くための仕 草であることに気づき、僕はおろおろ した。 でも、幸いなことに(えっ?)、ロブ もすぐにその仕草の意味に気づいてく れたようで、僕を見る目つきが変わっ た。 そう、確かに僕は今、彼の気を引こ うとした。でもそれは、頭で考えてや 415/806 ったことではないのだ。これはどうや ら、このいまわしい3ヵ月間、女の子 としてものを見、女の子として行動し、 女の子として扱われてきた経験から自 然に身についてしまったものらしい。 そしてそれは、考え方や、感じ方にま でおよんでいるようだ。 僕はふたたび、僕に向けられた青く て大きい瞳やすてきなほほ笑みに、吸 い込まれるように見入っていた。 「でも、最新ファッションの問題だっ たら、強いんじゃない?」 ロブはやはり、会話をつづけてきた。 「君を見てると、その分野だったら得 意だなって、よくわかるよ」 「ふふ、ありがとう。あなたの得意分 野は、きっとスポーツね。なんだか、 見るからにジョック ( ※ ) って感じだ し」 (※訳注 ‘jock’ アスリート‘athlete’と 416/806 ほぼ同じ意味で使う口語だが、 「スポーツ馬鹿」 的なニュアンスもある) 「ちぇっ、幾何ができないからって、 馬鹿だって思わないで欲しいな」 ちょっとまずったかもしれない。冗 談めかしていながらも、彼の声には、 あきらかにプライドを傷つけられたと いう響きが混じっていた。 僕は、けっして馬鹿にするつもりな どなかった。むしろ、彼をほめたかっ たのに‥‥。 「なんでそんなふうにとるの? あた しは、寮でも他の女の子たちの勉強を よく見てあげるけど、彼女たちのこと を、馬鹿だなんて思ったこと、一度も ないわ」 「う、うん、今のこそ、まさにジョッ クの劣等感まる出しだったかも‥‥」 「だから、馬鹿だなんて思ってないっ てば。スポーツが得意そうな男らしい 417/806 人だって言いたかっただけ。実際に、 なにかやってるんでしょ?」 それにしても、なぜ僕は、彼の機嫌 をとることに、こんなに一生懸命にな っているんだろう? なぜ彼に、もう 一度ほほ笑んで欲しいと思ってるんだ ろう? 「ホリーから聞いてない? 学校の野 球部では、いちおうレギュラーで2塁 を守ってるんだ」 どうやらロブは、そのポジションに 誇りを持っているように見えた。ここ は、もっと掘り下げるべきだ。 「へえ、初めて知ったわ。ホリーった ら、そんなことなんにも言わないのよ。 もしかして、MVPだって獲ったこと あるんじゃない?」 と、彼の口の端が見る見る上がって、 その目が輝きだした。 大正解! 天は我に味方した。 418/806 僕が待っていたのは、こんなすてき なほほ笑み‥‥よ。 「入学した年にね」 ロブは、胸を張って言った。 「1年生がタイトルを獲ったのは、学 校設立以来初めてのことなんだって さ」 「へえ、すご~い。打率はどのくらい だったの?」 野球は、かつて僕の好きな話題だっ たが、今はそんなに関心があるわけじ ゃない。でも、もしそれで、ロブが気 持ちよくなってくれるなら、僕はもっ とつづけたいと思った。 「あのシーズンも、そんなに悪くはな かったな。3割2分3厘だったかな」 ロブは、自分の成し遂げた成果を、 あきらかに謙遜していた。1年生でM VP、しかも打率3割2分3厘って‥ ‥すごい。 419/806 「ロブは今、照れて言わなかったけど、 今シーズンもMVPだったのよ。一試 合3打点ってゲームが何度もあった し、通算出塁率は3割9分7厘!」 ホリーが脇から言った。彼女が、兄 のことを誇りに思っていることはまち がいなかった。 「あたし、ロブを応援するために、今 シーズン、ホームゲームは全部行った のよ」 「あっ、いいな。あたしも、見に行き た~い」 僕は、実際にも、この男に畏敬の念 を持ち始めていた。野球のことなら知 っているし、その数字を聞けば、この 男に輝かしい才能があるのは、よくわ かった。 「来シーズンは、君にも試合の予定表 を送るよ」 彼は、すかさずそう申し出た。 420/806 「スタンドにこんな美人ファンが2人 も来てたら、チームの連中に、うらや ましがられちゃうな」 「ほんとに送ってね。ぜったい行くか ら。あたし、野球、だ~い好き!」 ‥‥ん? 今、僕は、野球が「だ~ い好き」って言ったか? たしかに子供の頃から、野球はよく やってたし、大リーグの中継だってよ く見た。でも、僕はいつから、野球が 「だ~い好き」になったんだ? しかも、もっと悪いことには、その 「だ~い好き」が、野球そのものに対 してではなく、今、僕のことを「美人」 と言ってくれた人に対して言ったよう に聞こえたことだった。 僕は本当に野球が見たいのだという ことを、ちゃんと伝えなければいけな い。でも‥‥。 彼が、僕のことをかわいいと思って 421/806 くれてるんなら、わざわざそれを訂正 する必要もないし‥‥。 今やロブは、まるで、欲しくてしょ うがなかったおもちゃを手に入れた子 供のように、目を輝かせていた。 もしかしたら‥‥いや、たぶん、そ のおもちゃというのは、僕なんだ! 胃のあたりで、不吉な予感のような ものが渦巻いていた。 それにしても、なんでこうなっちゃ ったんだろう? 僕は、友だちと、その兄貴といっし ょに、他愛ないゲームをしているだけ のつもりだったのに、いつの間にか、 その兄貴の方といちゃつくような会話 を交わしている。 僕は、男になんて興味はないはずだ った。僕が求めていたのはホリーだっ たはずなのに、気がつけば、その兄の 方に顔を向けていた。 422/806 幸いなことに、そんなことをしてい るうちに夜も更け、僕は、ロブからの プロポーズを聞かずにすんだ。 「さっきのは、いったい何だったの?」 ホリーのベッドルームで寝る仕度を 調えながら、僕は彼女にきいた。 「あなたの兄さんが、羊の皮をかぶっ た狼だってこと、なんで教えてくれな かったの?」 「ロブは、狼なんかじゃないわ」 ホリーはまず、それを厳密に訂正し た。 「彼は、まちがいなく、あなたのこと をかわいいと思ってるし、あたしの見 るところ、近いうちにデートに誘うつ もりよ。もし、いやなら、断ればいい わ。兄さんの学校には、少なく見積も っても20人は、あなたの代わりになり たがってる女の子がいるんだから」 423/806 「よかった。それなら、断るとき、胸 が痛まないわ」 「あっ、それはちょっとひどいんじゃ ない? もしつき合うつもりがないん なら、なんであんな、期待を持たせる ようなことしたのよ」 僕がネグリジェをかぶったところ で、彼女は言った。 「そう仕向けてたのは、どう見てもあ なたの方でしょ」 「べ、べつにあたしは、仕向けてなん かいないわよ」 僕は、ヒップに引っかかったネグリ ジェを整えながら、反論した。 「彼の方から野球の話を始めて、試合 を見に来てくれと言ったのよ。彼はほ んとにすごい選手らしいから、試合を 見れば、あたしもきっとファンになる でしょうけど、それにしたって、あた しはなんの誘導もしてないわ」 424/806 「野球の話が出る前にちょっかいを出 して、話をそっちに持ってったのは 誰?」 ホリーは、こちらの目をのぞき込む ようにしてきいてきた。 「ジョックとか言っちゃってさ」 「だって、いかにもジョックって感じ がしたんだもん。背は高いし、がっち りしてるし、筋肉もよくしまってるし ‥‥」 「へえ、彼の筋肉をチェックしてたわ けね」 ホリーは、今度はからかうように僕 の方を見てきた。 「あなたはずっと、あたしのことが好 きなんだと思ってたんだけどなあ。き っとあなたも、野球をしたらいい選手 になれるわね。最高のスイッチヒッタ ー」 「も、もちろん、あたしが好きなのは、 425/806 あなたよ!」 僕は、彼女の笑い声にちょっといら つきながら言った。 「あたし、あなたの兄さんにしても、 他の男の子にしても、そういう目で見 たことなんてないもん」 「そうだ。あなたのママとの約束、ロ ブで試せばいいじゃない。どうして、 そうしないの?」 「どうしてって、そりゃあ、彼は男だ からよ。そして、あたしもそうだから」 僕は、強く主張した。 「あたしが、男の子なんかに興味を持 ってないってことは、この前納得した んじゃなかったの?」 「この前はね。でも、もう信じてない わ。要するに、あなたはまた怖がって るだけね。女の子でいることが好きだ って認めたがらなかった時とおんな じ」 426/806 「あの時だって、あたしは、怖がって なんていないって言ったでしょ。今だ って‥‥」 「じゃあ、どうして、兄さんとつき合 おうとしないの? それとも彼は、魅 力がないってこと?」 「ちょ、ちょっと待ってよ。あなたは、 いろんなことをごっちゃにしてるわ」 僕は、飛躍の多い彼女の言い分を、 順にかたづけていこうと思った。 「あたしは、そんなこと、ひと言も言 ってないでしょ」 「そうよね。つまり、結論としては‥ ‥あなたは女の子でいることが好き。 そして、ロブに魅力を感じている。こ れでいい?」 どう考えても彼女は混乱している が、彼女の中では、勝手に結論が出て しまったようだ。 僕は、あきらめて寝ることにした。 427/806 4連休の3日目、僕は、一日のんび りとテレビを見たり読書したりして過 ごそうと決めた。 ホリーとミセス・ビンクラー、それ に僕のママは、またショッピングに出 かけようとしていたが、僕は、それを 断った。きのう、ホリーにモールの人 混みの中を連れまわされ、疲れていた からだ。 「ロブと二人きりになっちゃうけど、 だいじょうぶ?」 出かけるための着替えを手伝ってい る時、ママがきいてきた。 「パパとミスター・ビンクラーは、い っしょに釣りに行くとか言ってるし」 「だいじょぶよ」 ママが僕のことをそんなふうに心配 しているのが、ちょっとおかしいよう なうれしいような気がした。 428/806 「ロブは、いい人だし、一緒にいても いやな思いなんてしないわ」 「いってきます」のいくつかのキス を残し、ショッパホリック (訳注 買い 物中毒者)たちが出かけると、つづけて、 魚を捕るためなら凍えることをもいと わない勇者たちが出発して行った。 「凍った魚が欲しいなら、スーパーマ ーケットで買えばいいのに」 パパたちの車が出て行くのを見送り ながら、ロブが皮肉った。 「なんで、わざわざそんなことするの かな」 「そこには、大きなちがいがあるのよ。 凍った魚はスーパーにいるけど、凍っ た釣り人はいないもの」 僕の受け答えは、なかなかいい線行 っていたんだろう。ロブもそう感じた にちがいない。だって、これだけ大受 429/806 けしているんだから。 「君って、ほんとに面白いね」 やっと笑いがおさまったところで、 ロブが言った。 「ねえ、またトリビアゲームでもやろ うか? 1対1でも、それなりには楽 しめるだろ」 「トリビア(※)であるかぎりはいいわ。 それ以上なら、わからないけど」 (※訳注 「ささいなこと」つまり、重大事で なければいいと言っている) 「君は、テレビに出られるよ」 ロブはゲームを立ち上げながら言っ た。 「そのへんのコメディアンより、ずっ と面白いもん」 ロブと僕は、ゲームをしている間中、 そんなふうにジョークをかわし合って いた。それが終わる頃には、僕は彼の ことを、これまで会った人たちの中で 430/806 も最高に楽しい人だと感じていた。 彼は僕を笑わせつづけ、特に、僕が 勝ちそうになると、顔を寄せて「プー」 と言ったり、他にも馬鹿なことばかり して、僕の気を散らそうとしてきた。 僕は当然、そんな不正行為に抗議した のだが、そうするまでもなく、彼は負 けつづけた。まあ、当然の報いだ。 「ねえ、明日、この町でグローブトゥ ロッターズ (※)の試合があるの、知っ てる?」 ゲームを終了しながら、ロブは何気 ない調子できいてきた。 (※訳注 “Harlem Globetrotters”アリゾナ 州フェニックスを本拠地とするプロバスケット ボールチーム かつてのニグロリーグから発展 した独立リーグ所属でNBAチームではないが、 歴史があり、試合でのパフォーマンスが派手な ことから人気が高い) 431/806 「あたしがファンだって、ホリーから 聞いたの?」 僕は、笑いながら言った。 「あの子ったら、あたしのこと、なん でもしゃべってるのね」 「まあ、君がかわいいとは聞いてたけ ど、こんなにかわいいとは聞いてなか ったな。あと、こんなに面白いことも、 こんなに頭がいいことも。それに、グ ローブトゥロッターズについても、彼 女は何も言ってなかったよ。ファンな の?」 「ええ、最初はテレビで見て好きにな ったんだけど」 僕はうなずき、偉大なるハーレム・ グローブトゥロッターズに敬意を込め て、ネット検索するのに最適な特徴を 並べた。 「選手がファンキーだし、それに、ト リッキーな個人技がすごいでしょ」 432/806 「僕、チケットを2枚手に入れたんだ。 ベンチのすぐ後ろの席」 ロブはまた、何気ない口調で言った。 「えーっ? どういうコネ?」 僕は驚きながらきいた。 「そんないい席、簡単にはとれないん じゃないの?」 「親父が昔、メドーラーク・レモン(※) を後援してたことがあってさ。こっち で試合をやるときは、チケットを送っ てくれるんだ」 (※訳注 グローブトゥロッターズの1980年代 のスタープレーヤー) 「ラッキーね。その席だと、選手と話 したりできるんでしょ」 「君だって、できるよ」 ロブはまた、高ぶりのない口調で言 った。 「いっしょに、行かない?」 「えっ? どこへ?」 433/806 僕も、時には、馬鹿にだってなれる。 「だから、明日、その試合に」 彼は、今度は、はっきりとした口調 で言った。 「いいだろ?」 「だ、だめよ、ロブ。誘ってくれたの はうれしいけど、行けないわ」 「でも、グローブトゥロッターズが好 きなんだろ。チケットは2枚あるんだ し」 「他にもいっしょに行ってくれる友だ ちとか、ガールフレンドとか、いっぱ いいるんでしょ」 「そりゃ、誘えば来るやつは、何人か いるさ。でも、すごくかわいくて、い っしょにいてこれほど楽しい人なん て、他にはいないよ。お願いだから」 彼は、真剣に頼んできた。 「でも、どうしてあたし? ホリーじ ゃだめなの?」 434/806 僕は、次々に他の人間を挙げていた。 でも彼の視線は、ぜったいに僕を連れ て行くと語っていた。 「ああ、君だ。ホリーが、野球とバス ケットのちがいを知らないとでもいう なら、つれてって教えてもいいけど」 正直、僕は迷っていた。 グローブトゥロッターズのナマの試 合を見られるチャンスなんて、そうそ うあるもんじゃない。ただナマという だけじゃなく、ベンチの後ろの席だ。 それこそ夢の実現だ。‥‥ただし、男 とデートするという悪夢の中での。 僕の気持ちは、降伏しろとささやい ていた。グローブトゥロッターズは、 僕のアイドルだ。でも、僕の理性は、 戦いつづけろと言っていた。 「行きたいのはやまやまだけど、やっ ぱり行けないわ。だって、あさってか ら学校が始まるもん。明日には戻らな 435/806 きゃいけないのよ」 そう、学校は完璧な論拠だ。反論の 余地はないだろう。 「ゲーム開始は昼の1時だよ。途中、 延びても5時には終わってるはずだ。 6時には学校まで送り届けられるよ。 君がこっちへ持ってきている荷物は、 ホリーに頼んでおけば、持って帰って くれるだろ。僕が彼女より1歳上で、 免許証を持っているのも知ってるよ ね」 彼の笑顔が、すべてを物語っていた。 王手! つみ! 投了! 「僕らは明日、親友として、バスケッ トのゲームを見に行く。いいね?」 「ほんとは、これが、ゲームなんでし ょ?」 僕は、笑いとともに、無意味な抵抗 をしながら降参した。‥‥どうやら僕 は、男とデートするらしい。 436/806 「いや、マジさ。ゲームじゃない。だ いいち、勝敗の行方は最初から見えて たしね。あえて言えば、君が負けを認 めるのに要したゲーム時間は、きっか り2分だったよ。ま、それはともかく、 僕は、バスケットボールをいっしょに 見に行く親友には、できるだけかわい い服を着てきて欲しいな」 その言葉にふくれて、彼をたたこう としたまさにその時、彼の方から顔を 近づけ「プー」と言った。そのせいで 僕は、床に笑い崩れていた。 たとえ僕がまだ、男とのデートなん て100パーセントないと心に決めてい たとしても、事実として、僕は口説き 落とされていた。 そして、いちばん問題なのは、僕自 身が、その過程のすべてをけっこう楽 しんでいたことだ。 437/806 「あたし、ぜったいに、あなたは落ち ると思ってたわ。ことに、ロブ相手な らね」 ことの成り行きを報告すると、ホリ ーはうれしそうに言った。 「女の子としてデートする味を一度覚 えちゃったら、あなたは、もう後戻り できなくなるわ。男の子が、あなたの 楽しみのすべてになるのよ」 「そんな‥‥。これは、まあ、一時的 なことだから。あたしは、女の子とし て一生を送るつもりはないんだし」 くすくす笑いつづけるホリーに、僕 はそう主張した。 「へえ、つもり? じゃあきくけど、 あなたは、自分がそんなにかわいくな るつもりはあった? セクシーなラン ジェリーやかわいいドレスを楽しむつ もりはあった? あたしの兄さんと、 デートするつもりはあった? つもり 438/806 はないのに、全部そうなってるじゃな い」 こんな思いやりある友人を持つこと は、けっして幸せなことじゃない。僕 が忘れたいことまで、いつまでもちゃ んと覚えていてくれるんだから。 「つまり、あたしには、自分の人生を コントロールできてない。だから、い ずれ、本物の女の子になる運命だ、と か言いたいわけ?」 「まあ、だいたいわね」 ホリーは、肩をすくめて笑った。 「ふふ、ほんとのところはどうなるか わかんないけど、結局、流れに任せて 楽しんじゃうしかないでしょ」 「あのさ、ロブにはぜったいないしょ にして欲しいんだけど‥‥」 ホリーの言葉に、僕は打ち明ける気 になった。 「あたし、ほんとは、明日が待ち遠し 439/806 いの。だって彼って、けっこうすてき だし、かなりかっこいいし、そばにい るだけで、なんだか楽しいし‥‥」 「もちろん。そんなこと、すぐには言 うわけないわ。もし彼が、相手の女の 子からすてきでかっこいいなんて思わ れてるって知ったら、きっと、がまん できなくなっちゃうだろうから」 「えっ? ‥‥あっ。すてきでかっこ いいは、なかったことにして。今言っ たこと、全部忘れて」 「それは無理ね、かわいい妹のフェイ スちゃん」 彼女は、ちょっと意地悪そうに笑っ た。 「あたしは今後、それを、あなたを操 る脅しのネタとして使うわけだし」 「もう、絶交よ」 僕の脅しのネタは、それくらいしか ない。 440/806 「それも一生無理だと思うな。だって、 そのうちあたしたちは、義理の姉妹に なるわけでしょ」 僕が投げつけた枕を、首をすくめて ひょいとよけ、ホリーは灯りを消した。 もうじき、明日がやってくる。僕の、 女の子としての初デートの日が。 その初デートの衣装として、僕は、 黒のベルベットのスラックスを選ん だ。それに、赤のタートルネックセー ター。足もとは、黒いなめし革の足首 までのブーツだ。 行き先がスポーツ観戦だったからス カートは避けたのだが、そのぶん、自 分を女の子っぽく感じるために、パン ティとブラは思いっきりホットなもの を選んだ。 髪は、セーターに合わせて赤いリボ ンで結ったポニーテール。 441/806 赤のイヤリングと、真っ赤な口紅、 そして同じ色のマニキュア、これでカ ラーコーディネイトも完璧だ。 鏡の前でかわいく着飾った自分を点 検しながら、ロブも気に入ってくれれ ばいいけれどと考えている時、僕が最 高に興奮していたことは、否定しよう もない。 玄関で、ロブが僕の肩にジャケット を着せかけるのを、ママは満面の笑み で見ていた。 「楽しんでらっしゃい」 そして、外に出ると、背後から叫ん だ。 「あとで、聞かせてね」 きっとママは、僕とゆっくり話す時 間をつくるだろう。そして、僕の初デ ートの中身をこと細かに聞き出そうと するだろう。どれほど楽しかったか、 442/806 次はいつ行くのか‥‥。 ママは、娘を持ったことに酔いしれ ていた。ママが質問を始めたとたん、 新米の娘である僕は、なにもかも白状 させられるにちがいない。 ロブは僕のスタイルを思い切りほめ てくれ、僕はその言葉に頭がぼーっと なるほどの喜びを感じた。そして、ス ラックスの下のパンティガードルに感 謝した。 ロブは車の助手席のドアを開け、僕 が乗るのを待ってからやさしく閉じ た。会場の駐車場で降りる時もまた、 外をまわってドアを開けてくれた。 凍った地面のせいで、僕がちょっと 足をすべらすと、彼は僕の自我の崩壊 を防ぐため、すかさずつかみやすそう なところに腕を差し出した。僕は、自 分のすべてが女の子だと感じることが 443/806 でき、その腕に、素直に僕の腕をすべ り込ませた。 そのとたん、僕は、自分が安全に守 られているのだという感覚に包まれ た。 その「席」には、本当に驚かされた。 ロブの言葉どおりベンチの真後ろと いうだけでなく、どうやら選手たちは ロブと顔見知りらしく、一人一人握手 してきたのだ。 「やあ、ロブ。元気かい?」 カーリー・ジョンソンがきいた。 「親父さんは、どうしてる?」 「ええ、親父も僕も調子よくやってま すよ、カーリー。チームの調子はどう ですか?」 僕はショックを受けていた。これま で、ほとんど神だとあがめていた男た ちが、まるでふつうの人間のように、 444/806 ロブと挨拶を交わしているのだ。 ロブが選手たちと話しているのを見 つけ、コーチの一人、テックスもコー トの反対側から駆けてきた。 僕は、自分のほっぺたをつねりたく なったが、もしこれが夢だったら、醒 めた時の失望があまりにも大きいと思 い、やめておいた。 試合もすばらしいものだった。選手 たちは、いつもどおり驚くようなワザ を見せ、観客たちは、そのひとつひと つに盛大な拍手喝采を送った。 ハーフタイムの時、ロブが僕をつつ き、壁の大型スクリーンを指さした。 と、そこには、なんと僕たちがアッ プで映っていた。顔を寄せてほほ笑ん でいるその姿は、恋人どうしのカップ ルにしか見えなかった。 それに驚いていると、今度は、片手 445/806 にさっきまで使っていたボールをつか んだカーリー・ジョンソンがつかつか と近づいてきた。そしていきなり、僕 の名前をきいた。 「フェ‥‥フェ‥‥フェイス。フェイ ス・ジョーダンです」 僕は、口をもつれさせながら答えて いた。 神なるグローブトゥロッターズの一 人が話しかけてくれるなんて、これほ ど幸せなことが他にあるだろうか? しかし、幸せはそれだけではなかっ た。カーリー・ジョンソンは、コーチ からフェルトペンをひったくると、持 っていたボールの上にサインしたの だ。 「おい、お前らも来いよ」 さらに彼は、他のチームメンバーも 呼んだ。 「このかわいいヤングレディに、俺た 446/806 ちの名前を覚えてもらおうぜ」 すぐに、コーチたちをふくめ、グロ ーブトゥロッターズの全メンバーが、 そのボールにサインしだした。 それが一巡すると、カーリーはにっ こり笑い、うやうやしく、そのボール を僕に差し出した。 「このサインボールと、君のキスとを 交換しよう」 彼はおどけた感じでそう言うと、片 方のほおをこちらに向けた。 僕は、もっとためらうべきだったか もしれない。でも、彼の手の中にある のは、チーム全員のサイン入り公式ボ ールなのだ。 僕は、つま先立ちして、彼のほおに キスしていた。 そして、気がつくと、チーム全員が、 おどけた笑いを浮かべ彼の後ろに列を つくっていた。 447/806 それを見て喜ぶ観客の歓声の中、選 手とコーチひとりひとりが平等に報酬 を受け、僕の手元にはボールが残った。 これはまちがいなく、最高の取引だろ う。 「これまで生きてきたうちで、いちば んの出来事だわ!」 車に戻ったところで、僕はロブに言 っていた。 「だって、サイン入りの公式ゲームボ ールよ。信じられない!」 ロブは、ちょっと首を振りながら笑 った。 「僕には、君が全員にキスしたのが信 じられなかったよ。もしかして、会場 にいた男の全員が、そのあとに並ぶん じゃないかと思った」 「でも、あたしがキスしたのはチーム のメンバーだけよ。他の人にはしなか 448/806 ったわ」 僕は、まだワクワクしながら答えた。 「君にキスしてもらえなかったやつを、 僕もひとり知ってるけど」 その言葉に僕は、キスしたものかど うかちょっと迷いながら、彼の方を見 やった。 べつに、それをしたからと言って、 なにかが起こるわけでもないだろう。 それに今、感謝の気持ちを表すとした ら、それこそ最適な方法なのだろう。 なにしろ、彼がいなければ、こんな貴 重なボールを手にすることは一生でき なかったのだから。 「ごめんね、ロブ。あなたのことを忘 れてちゃいけないわね」 僕はちょっと席をずれ、彼のほおに キスした。 「すてきな時間をありがとう」 「また、今度、誘ってもいい?」 449/806 ロブはすかさず、僕の顔を真剣な表 情で見つめながらきいてきた。 「だけどあなたは、男とデートなんか して、楽しいの?」 僕は、彼の思っていることがわから ず、そう聞き返した。 「僕は、男となんかデートしてるつも りはないよ!」 ロブは、きっぱりと言った。 「男は君ほどきれいじゃないし、男は 君ほどかわいくもない。それに、男は、 グローブトゥロッターズのメンバーに キスしたりしないだろ。ねえ、フェイ ス。君は本当に、自分のことを男だと 思ってるの?」 僕は、深く息を吸い、自分の思いを 確かめた。 「自分自身が何者なのか、自分でもよ くわからなくなってるみたい」 まず、それを認めた。 450/806 「正直言って、この何ヵ月間か女の子 をやってきて、つらいことも多かった のよ。ときどき、自分はものすごく不 幸だって感じたし、時には、死にたい ほど怖くなったわ。ひどい時は、それ が両方いっぺんにやってきた」 「それは、ほんとにつらいんだろうね」 ロブは、そう言ってうなずいた。 「僕も、ホリーの時のことを思い出す よ。彼女も最初は、そうとう大変そう だった。僕が初めて会ったのは、彼女 が判決を受けてガールセンターに入っ たちょっと後だけど、君とおんなじ問 題に直面してたみたいだ。むりやり女 の子の服を着せられて、女の子みたい に振る舞って、正直、見てて、ちょっ と気味悪い気もしたよ」 「きっと、あなたには想像もできない わ」 僕は、いくら話してみても、僕の考 451/806 えていることや感じていることは、伝 わらないだろうと思いながら言った。 でも、そこで、彼の顔を見た。そこ には、ただやさしさだけがあった。 なにかが僕に、彼ならわかってくれ ると言っていた。 それで僕は、ガールセンターに送ら れて以降、僕の身に起こった驚くよう な出来事を話し始めていた。そこで親 友と再会できると思っていたこと。と ころが、その親友がかわいい女の子に 変わっていたこと。それを知った時の ショック、その後の混乱‥‥。 「女の子の服を着ることに、どれくら いで慣れたの?」 たぶん、それに答える前に、もう少 し慎重に考えるべきだったのだろう。 でも、ロブとの間にできたなにかが、 僕を無防備にさせていた。 「3日」 452/806 言ってからしまったと思い、彼がそ の答えをしっかり聞いていなかったこ とを願った。 「えっ、3日?」 でも彼は、そう繰り返した。 「ホリーの時は、1ヵ月以上かかった と思うけど‥‥」 ロブは意外そうに言ったが、その口 調の中に、けっして馬鹿にする響きが ないことに、僕はちょっと安心した。 「なんて言ったらいいのか、つまり、 あたしは、学習能力が高いのね」 僕は、そう言って冗談めかしてから、 つづきを話した。 「要するにホリーのせいなの。彼女は、 あたしが本当は女の子っぽい女の子 で、これまで男の子のふりをしてただ けなんだというようなことを、何度も 言ったの。あたしはそれに煽られて、 彼女と賭けをした。1週間以内に、あ 453/806 たしを女の子っぽい女の子にできなか ったら、そのあと1週間おやすみのキ スをするって。そしたら彼女は、あた しをいきなり、考えられるかぎりの女 の子っぽいものの中に放り込んだ。思 いっ切りかわいくて、思いっ切りシル キーなね。どういうわけか、あたしは それを、うれしいって感じちゃった。 ‥‥で、3日で降参」 「つまり、君は今、女の子っぽい女の 子ってこと?」 ロブは、今度は、ちょっとからかう ようにきいてきた。 「君は、お砂糖とスパイスとすてきな ものすべてで、できてる?」 「‥‥え、ええ。自分では、そうだと 思ってる」 僕は、顔を赤らめ、小声で言ってい た。 僕は、ロブも同じように感じてくれ 454/806 ればいいがと強く思った。 でもまだ、僕の中のなにかが、彼に 甘えることを許してはいなかった。 「だけど、それは、判決で決まった更 正期間が明けるまでね」 僕は、あわててそうつけ加えていた。 たとえ、彼といっしょにいることが どんなに楽しくても、僕が永遠に女の 子っぽい女の子でいたいと考えている なんて、思われたくはなかった。 ロブはちょっとの間、僕の顔を見つ めていた。 それは、僕がもう一度「でも、じつ は‥‥」と言い出すのを待っているよ うに見えた。 しかし、僕が黙っていると‥‥。 「腹減ってないか、なにか食いにでも 行こうか?」 彼は突然、口調を変えた。 「ま、男同士だし、デートとか、そん 455/806 なんでもないわけだしな」 「ど、どうして、そんなこと言うの? 今、あたしは、女の子っぽい女の子 なんだって、言ったばかりじゃない。 あたし、サテンやレースを着るのが大 好きよ。あたしは全部、シュガー・ア ンド・スパイスでできてるわ。それな のに、まだあなたは、あたしのこと、 男だって思ってたの? さっき、男と デートしてるつもりはないって言って くれたじゃない」 僕は、ロブに裏切られたような気が し、けっきょく彼も、女の気持ちなん てなんにもわかっていない男なんだと 感じた。 ところが、次の瞬間、僕の予期して いなかったことが起こった。彼の手が 伸びてきて、僕の手をそっと握ったの だ。 「うれしかったよ、フェイス。ほんと 456/806 のことを言えば、僕は君を男だなんて 思ったことは一度もないんだ。会った 瞬間からずっと、君のことを女の子だ と思ってる。君自身もおんなじように 考えててくれて、よかった」 「も、もう、あたし、なにがなんだか ‥‥」 僕は、彼の手を握り返していた。そ して、ささやいた。 「でも、あたしも‥‥。自分が今、心 からそう言えたことが、すごくうれし い。こんな気持ちになるなんて‥‥」 ロブが車を停めたのは、ファミリー 向けの落ち着いた感じのレストランだ った。車を降りると、彼は急いでまわ りこみ、僕の側のドアを開けてくれた。 降りたところで、僕は、彼の目の中 を探るように見た。 「あなたって、ほんとにやさしい人ね」 457/806 彼に寄り添いながら言った。 「この前、幾何の勉強を手伝ってあげ たでしょ。だから、あたしもひとつだ けお願いしてもいい?」 「ああ、フェイス。どんなことでも」 ロブは、僕の手をとりながらうなず いた。 「あたしはずっと、男の子とキスする なんて、いやだと思ってたの。でもさ っき、自分は女の子っぽい女の子だっ て言っちゃったでしょ。もしかすると、 男の子とキスするのがいやじゃなくな ってるかもしれない。どう思う?」 僕は、まるで小さい女の子のような、 ちょっと甘えた感じの声で言ってい た。 「そういえば、僕もこれまで、本物の 女の子っぽい女の子とキスしたことな んてないなあ」 彼も、ちょっといたずらっぽい顔で 458/806 答えた。 「だから、ただの女の子とどう違うの か、試してみたいな。どうやら、お互 い、思ってることはいっしょだね」 僕は目を閉じ、彼の首に両腕をまわ した。 ‥‥どうか、すてきでありますよう に。 彼は両腕に力を込め、でもやさしく 抱きしめてくれた。そして、その顔が 近づいてくる気配があり‥‥。 ‥‥‥‥。 「‥‥んふ、どうだった? 答えは出 た?」 唇が離れたところで、僕は、彼に抱 かれたままきいた。 「女の子っぽい女の子とキスするのは、 好き?」 「ああ、僕は、この、女の子っぽい女 の子とキスするのが大好きみたいだ」 459/806 ロブはまた、僕を引き寄せ、もう一 度キスしてきた。 大好きな人にきつく抱きしめられて キスされるのって、なんてすごいんだ ろう。僕の全身が、自然に震えた。 と、彼の舌の先が、僕の唇の間に押 しつけられた。僕はそこを開き、入っ てきた彼の舌を、自分の舌で出迎えた。 僕は、ちょっとしたキスならたまに はするし、フレンチキスだって、何回 かはある。でも、ロブの舌が僕の口の 中を動くことで体じゅうを走るこの感 覚は、これまで一度も経験しなかった ものだ。 そのキスが終わったとき、僕は、激 しい鼓動とともに、まるでマラソンを 走り終えたような息をしていた。 「こんなキス、どこで覚えたの?」 荒い息とともに、僕はきいた。 「これまで、ホリーとしたキスが最高 460/806 だと思ってたけど、それより、ずーっ とすごかった」 「ふふ、ほめ言葉だと受け取っとこう」 笑いながら見つめてきたそのすてき なブルーの瞳に、僕は見入っていた。 彼の中に、僕の全存在が吸い込まれて いってしまうように感じた。たぶん、 この男は、僕の将来をめちゃくちゃに してしまうだろう。それでもいいと思 った。 そこには、疑いのかけらすらなかっ た。このキスがずっとつづけられるの なら、男の子に戻る計画にも、ホリー と結婚する夢にも、簡単にさよならが 言える。この男に抱かれてキスされる ことで感じる幸福感や安堵感は、そん なことをずっと越えていた。 僕の奥深くで、真実の愛を見つけた のだという声が聞こえていた。 この2度目のキスで、僕には、この 461/806 男と永遠の愛を誓い、この男の世話を し、この男の子供を持つための心の準 備が、すべて整っていた。 あとは、彼がプロポーズするのを待 つだけだ。 「こんなとこにいたら、風邪ひいちゃ うよ」 天使の声が、僕の夢を中断させた。 「あったかいとこに入って、なにかお 腹に入れよう」 それは、天使の声にしてはあまりに 日常的で、僕は、将来の夫にそんなつ まらない男にはなって欲しくないと思 った。 「お願い。もう一回、キスして」 僕は、恥ずかしげもなく口をとがら せて甘えた。 「そうしてくれなきゃ、あたし、やだ もん」 「ふふ、じつは僕も今、そう思ってた 462/806 とこなんだ」 ロブは、くすくす笑いながら言った。 「じゃあ、君のぶんと僕のぶん、合わ せてもう二回キスしてからね」 「賛成!」 こんなにおいしいキスを、さらに二 度も味わえるのなら、もちろん僕には 何の不満もない。 その二回のキスが終わったところ で、僕は、駐車場の凍った地面に足を すべらす心配をしなくていいことを知 った。レストランの入り口まで、僕の 足が地面につくことはなかったのだ。 ロブは僕の体を離したくなかったよう だし、僕を危険な目にさらすつもりも なかった。 それは天国だった。 僕は彼の体に身を預け、安全に守ら れていた。 彼の青い瞳を見上げながら、僕は、 463/806 女として生きていく上で、これ以上の 幸せなんてあるんだろうかと思った。 僕たちはそこで、すてきな食事の時 間を過ごし、お互いのことをさらに深 く知り合うことができた。ロブは、僕 のことを、女の子を演じている男の子 などとはつゆほども思っていないよう で、心から、世界で一番かわいい女の 子だと言ってくれた。まちがいなく、 彼は僕に恋していた。 「今日はほんとにすてきだったわ、ロ ブ。あたし、今日のことは一生忘れな いと思う」 「また、誘ってもいいんだよね?」 それでも彼は、僕が拒絶するのでは ないかと、不安そうだった。 「お願いだから」 「そんな、お願いなんて、しなくてい いわ」 464/806 僕は、彼の手を握りながら言った。 「でも、次は、親友なんかじゃなく、 最初から女の子で来たいな」 「もちろん。君がずっと女の子でいて くれるなら、もっと楽しいよ」 ロブは即座にうなずいた。 「女の子っぽく、ドレスとか着た君が 見たいな」 「ええ、ものすごくかわいいのを着て くるわね。そういえば、クリスマス用 にもすてきなドレスを買ったのよ。ほ んとにかわいくって、あなたも気に入 ると思うわ。ママたちが、クリスマス にもパーティを開くって言ってたでし ょ。その時着るつもりなの。ああ、あ なたに見てもらうのが待ちきれない」 今は、僕の方が、おもちゃを手に入 れた子供のように見えたかもしれな い。でも、そんなことは少しも気にな らなかった。 465/806 僕も、ロブに恋していた。本当に、 こんな瞬間は、これまでの人生の中で 初めてだった。 「今でも最高にかわいいと思うのに、 そんなドレスを着た君を見たら、僕は どうなっちゃうんだろう」 こんな男と恋に落ちるほど、簡単な ことはないのかもしれない。 「ふふ、わかってる? あなたくらい、 あたしの人生をややこしくしちゃった 人はいないのよ」 僕は、デザートをすくったスプーン を、彼の口に持っていきながら言った。 「あたしは今、女の子としての生活に 慣れきってるわ。かわいい服を着て、 髪をセットして、メイクして、ママと 買い物して、他にもいろいろ‥‥。で もね、2年間そんな暮らしをつづけた としても、本当の自分を見失いたくな いって、ずっと思ってたの。判決で決 466/806 まった更正期間が終わったら、女装な んてやめて、実家に帰ってホリーを待 とうって。あたしが、あなたの妹に、 ものすごく恋してたの、知ってる?」 僕は、もう一度キスしたいと思いな がら、指先で、彼の唇についたアイス クリームをぬぐい取った。 「あたしは、ずっと前から、ホリーこ そ、理想の女の子だと思ってたの。で も、彼女は、あたしに女の子らしい女 の子であることを望んだ。だからあた しは、彼女を喜ばすために、こんなふ うになったのよ」 ロブは、僕が言ったことに、混乱し 動揺しているようだった。 「ごめん、フェイス。僕は、君が本気 で女の子でいたいんだと思ってたん だ。僕は引き下がるよ。そうすれば、 君はホリーを選べるだろ。君の義理の 兄貴になるのは、なんだかすごくつら 467/806 い気がするけど‥‥」 その言葉に、今度は僕の方が動揺し、 次のアイスクリームをすくったスプー ンを、彼の鼻にぶつけてしまった。 「もう、そうじゃないったら!」 僕は、彼の顔からしたたり落ちるひ とかたまりのアイスクリームに、思わ ず笑いながら言った。 「あたしは、あなたに引き下がってな んか欲しくないの。もう、ホリーなん か選びたくないもん。もちろん、あな たの義理の弟になんかなりたくない わ。あたしは、あなたの彼女になりた いの。それに、いつかは、あなたの‥ ‥奥さんに」 一瞬にして、ロブのすてきな顔に、 ほほ笑みが戻ってきた。その顔に、僕 はますます彼が好きになっていくのを 感じた。 「ホリーは、悔しがるだろうね。未来 468/806 の夫を、永遠に他の男に獲られちゃっ たんだから」 「それは、ちょっとちがうわ。彼女は 未来の夫を失ったけど、その代わりに、 すてきなお義姉さんを手に入れたんだ から」 「ねえ、いつ、みんなに婚約を発表し よう?」 僕の未来の夫は、すでに夢うつつだ った。 「まだ早すぎるって言われそうな気も するけど」 「ロブ、あたしだって、せっかくのい いニュースをぶちこわされたくない わ。だいじょぶよ。あたしは、そんな に結婚をあせってないから。あなたの 未来の妻で、あなたの子供の未来の母 親は、法的にはまだ15歳の男の子で、 高校生だってこと、忘れないで。ホリ ーの話だと、それを変えるにはずいぶ 469/806 ん手間がかかるみたいだし、あたし、 大学にも行きたいし」 そこでロブは、しばらく何も言わず に、僕のことを見つめた。そのせいで、 僕はちょっと不安になった。 「どうかしたの? マスカラがおかし い?」 僕は、あわててバッグの中からミラ ーを出そうとした。じつは今日、これ まで使っていたマスカラが切れて、そ れと同じくらい強力だという別のブラ ンドに変えていたのだ。 「いや、君は完璧だよ、フェイス。だ から、見てたんだ。こんな姿を毎日見 てて、どうして君は、自分のことを男 の子だなんて疑うのかな」 「そうね‥‥。いくらかわいい服を着 るのが好きだと感じても、どうしても 自信が持てなかったのは、いつかは男 の子に戻らなきゃいけないと思ってた 470/806 からなんだと思うわ。でも今は、ちが う。あなたがいるから、もうそんなふ うには思わない。あたしは、女の子。 女の子でいることが大好きな女の子 よ」 ロブは僕を抱きしめ、どれほど僕を 愛しているか語った。そして、僕が女 の子になったことを、ぜったいに後悔 させないとも。 僕は、何の疑いもなく、その言葉を 信じることができた。 食事のあと、僕たちは手をつないで 車に戻った。 学校に着くとまた、彼は寮の入り口 まで歩いて送ってくれ、僕はそこで、 彼にほおずりした。 すると彼は、自分がはめていたクラ スリング(※)をはずし、僕に手渡した。 (※訳注 卒業や学年の修了を記念する指輪 471/806 アメリカの私立高校などでは、証書に添えて渡 すところも多い) 「これは、とりあえずってことだよ」 彼は、僕にキスしながら言った。 「君が望む時に、僕はそれを、ダイヤ モンドと取り替えるつもりだ」 僕は、両腕を彼の首にまわし、その 契約への印章代わりに、長くて官能的 なキスをした。 「次のデートの時は、もっとすごいの をするわね」 僕は、そうささやいた。 「だから、あたしにも、いっぱいして ね」 その夜、ベッドの準備をしながら、 ホリーは、さかんにロブとのデートが どうだったか、聞きたがった。 僕は、ただ楽しかったとだけ答え、 サイン入りのバスケットボールを見 472/806 せ、自慢した。 「でもまあ、一度女の子としてのデー トを経験したんだから、もう、ダブル デートを断る理由もなくなっちゃった わね」 彼女は、ほくそ笑むように言った。 「ううん、あたしは、そうは思わない わ。やっぱり、それが正しいことだと は思えないもん」 もちろん、未来の夫を裏切ることは、 正しいことじゃないだろう。 でも、ホリーがその理由を知るまで には、もう少し努力してもらわなけれ ばならない。僕が並べるパズルのピー スを組み立て終えたとき、彼女に死ぬ ほど驚いてもらうためにも。 「心配しないで。ロブと同じくらいに は、かっこいい男の子を紹介するから」 「そんなの、いやよ。興味ないもん」 僕は、それを強く拒否するように言 473/806 った。それに、ホリーはちょっとむき になったようだ。 「じゃあ、こういうのはどう?」 そして彼女は、こう提案してきた。 「もし、男といっしょに出掛けること を納得してくれたら、あたしがキスし てあげる」 僕は、ちょっとの間、それを考える ふりをしたあと、首を振った。 「ううん、やっぱりいいわ。それも、 興味ないから」 ホリーはその言葉に驚いたようだ。 「それって、あたしのキスを断るって こと? 頭でも打ったの? 前は、あ れほどキスして欲しがってたのに。あ なた自身が、何度もそう言ったじゃな い」 僕は、彼女が落ち着くのを待ってか ら、言った。 「ごめんね、ホリー。ほんとに、もう 474/806 その気がなくなっちゃったの。だって、 あなたよりキスの上手な人を見つけち ゃったんだもん」 「えっ、あたしより上手?」 彼女は、不思議そうな顔で言った。 「だって、あなたには、あたし以外の 人と、キスする機会なんて‥‥」 彼女の頭になにかがひらめいたよう だが、すぐにはそれが、言葉にならな かった。 「えーっ、うそーっ。そんな‥‥、ま さか‥‥」 そんなホリーを見ているのは気持ち よかった。 これまですべてを計画し、思い通り 運んできたきたつもりだろうが、初め てその制御権を失って、おろおろして いるのだ。 「ふふふ」 僕はミステリアスに笑ってみせた。 475/806 「あたし、ロブとキスしたわ。何回も、 何回も。すてきだったわよ。あなたの 兄さんが、あんなテクニシャンだって こと、どうしてもっと早く教えてくれ なかったの? 彼ったら、キスのチャ ンピオンじゃない」 「あなた、ロブにキスさせたの? ほ んとに? マジで? ‥‥そ、そうな んだ。あたし、あなたの顔を見れば、 うそついてるかどうかはすぐわかるか ら‥‥」 僕は、僕のパソコンのところまでつ かつか歩き、メーラーを立ち上げた。 と、予想どおり、ロブからのメールが 届いていた。 「フェイス、愛してる!」 それは、極端に短い文面だったが、 そのぶん逆に、僕の笑顔は大きなもの になった。 「ロブ、あたしも!」 476/806 僕がそう返信するのを見ながら、ホ リーはさらに驚いた顔をした。 彼女の方をふり返った僕は、テレビ のメロドラマの主役のような顔で言っ た。 「許して。悪いのはあたしなの。でも 他に、どうしても好きな人ができちゃ ったの。だから、もう、結婚はあきら めて」 すると、ホリーは、僕をベッドの上 に突き飛ばした。 「さあ、そこに座って。今夜は長くな るわよ。何があったのか、お姉ちゃん に全部話してちょうだい」 「それも、ちょっとちがうわよ。あな たの方が妹。これが証拠よ」 そう言って僕は、ロブからもらった 指輪を見せた。 「何年か後に、彼はこれをダイヤモン ドと交換するって約束してくれたわ」 477/806 ホリーには、自分の方からききたい ことが何百とあるようだったが、明日 の授業のこともあるので、おとなしく ベッドに腰掛け、僕が話すのを聞いて いた。僕がどうやってロブとの恋に落 ちたのか、そして、ふたりが将来どう したいと思っているのか‥‥。 話し終わったときには、どちらから ともなく抱き合い、ふたりとも涙を流 していた。 僕は彼女に、しばらくの間、家族た ちには、このことを内緒にしておいて 欲しいと頼んだ。ロブと僕は、クリス マスパーティの席で、親たちに報告し、 彼らを驚かせようと考えていたから だ。 ホリーは、もう二度と、僕に男を紹 介するつもりはないと約束した。 僕はロブの恋人、そして、将来のホ リーの義姉。そんなすてきな関係をこ 478/806 わしたくないからだと、ホリーは言っ た。 その最初のデートのあと、ロブと僕 は、毎週末、どこかに出掛けるように なった。時には映画を見に行くことも あったし、時には、学校のキャンパス で静かな場所を見つけ、そこに腰掛け、 話し、お互いの体をまさぐり合うよう なこともあった。 僕は、大切なボーイフレンドのため に、いつもかわいく着飾って出掛けた。 彼も、そんな僕を見てうれしそうな 顔をした。そしていつも、その服がど れほど似合うか、その服で僕がどれほ どかわいく見えるかを言ってくれた。 そのひとことひとことで、僕は、ます ます女の子になっていく気がした。 彼と知り合ったことで、僕の人生は、 まちがいなくより生き生きとし、より 479/806 幸せなものになった。 ロブは、少なくとも一日一回はメー ルをくれ、そこには、僕と会えなくて さみしいとか、週末が待ち遠しいとか 書いてあった。 それで僕は、ホリーのカメラで、持 っているほとんどすべての服を着た写 真を撮ってもらい、それを彼へのメー ルに添付した。彼が、他の女の子と浮 気しないよう、その中には何枚か、ベ ビードールを着た写真も紛れ込ませ た。 彼は、左手でクリックしなければい けないから大変だと言っていた。 その変化に最初に気づいたのは、や はりホリーだった。 「あなた、ロブとつき合うようになっ て、変わったわ」 480/806 ある日、彼女が言った。 「前だって問題なく女の子に見えたけ ど、最近は、仕草とか、すごく女っぽ くなったもん」 「うん、わかってるわ」 僕も、くすっと笑ってうなずいた。 「ロブとデートしてる時に、あたし自 身も感じるもの。歩いたり座ったりす るのが、意識してるわけじゃないのに、 自然と女っぽくなってるの。彼は、声 も変わったみたいだって言ってくれた わ」 「そうね」 ホリーも、それにうなずいた。 「しゃべり方がやわらかくなって、前 より女の子っぽい声に聞こえるのよ ね」 「ほんとに、わざとやってるわけじゃ ないのよ」 僕は、自分でも不思議な気がして言 481/806 った。 「自分のことを、自然に、女の子だっ て思えるの。ロブのおかげね。クリス マスには、いつも以上のキスをしてあ げなきゃ」 ロブといっしょにいることで、自分 がそんなふうに変わっていくことが、 僕にはうれしかった。 ロブを好きになるのとほぼ同時に、 服やメイクに対して多少残っていた違 和感もすべて消えてしまった。僕の中 から、男の子だという自意識はなくな り、自分がかわいい女の子であること を、なにより、ロブのようなかっこい いボーイフレンドを持つ女の子である ことを、心から喜べるようになってい た。 僕は、ふたりのことを、親に理解し てもらいたいと思っていた。 482/806 ロブと僕は、急いで結婚することを 望んではいなかった。 悲しいことに、どんな自己イメージ を持っていようが、僕はまだ、肉体的 には男の子なのだ。そして今後、肉体 を女性に変えたとしても、その時、た ぶん僕は18歳。そこでもまだ、結婚は 早いだろう。 僕も彼も、進学を希望している。彼 は工学部志望だが、僕は、いろんな条 件を考え、秘書コースとかへ進むつも りだ。 たぶん、就職して数年後に、僕たち は結婚し、しばらくして、1人か2人、 赤ちゃんを養子にすることになるだろ う。かわいい子どもたちにとってよい 母親になるためなら、僕は、キャリア をあきらめてもいい。 自分の思い描く将来像が、妻や母親 に変わってしまったことを、親にどう 483/806 説明したらいいのか見当がつかなかっ たが、でも、今の僕には、できるかぎ りよい妻であり、よい母親となること が、ベストな人生だと思えた。 僕は、ロブからもらった指輪をチェ ーンに通し、ペンダントのようにして、 いつも肌身離さず持ち歩いていた。そ して、学校の女の子たちに、それを見 せて自慢するのが好きだった。 ロブは毎週末、僕を迎えに来ていた から、彼女たちの多くは、彼を見たこ とがある。彼女たちは僕に、最高の男 をつかまえたと言ってくれた。 でも、僕が将来彼と結婚するつもり だということまで打ち明けたのは、今 のところ、ホリーとジルだけだ。 もちろんジルは、ホリー同様、その ことを心から喜んでくれた。 ある日の放課後、僕は、ジルを自分 484/806 の部屋に誘い、それを伝えたのだ。 「すご~い。すてき~」 ジルは、まるで自分のことのように かん高い声を上げ、狂喜した。 「あたし、ほんとにうれしいわ」 僕たちは、まるで、小さい女の子が ふたり、遊び場で踊るように、手を取 り合って部屋中をくるくるまわった。 その途中、ホリーが戻ってきて、い ったいなにをやっているのかときいた が、僕たちはすぐ、そんなホリーをも 即興ダンスの輪に巻き込んでしまっ た。ホリーが、いやみのひとつも言わ ずにそれに加わったのは初めてのこと だ。これは、僕とロブの関係にとって、 よい兆候にちがいない。 僕たちの関係をクリスマスまで親に 知られず、ロブとホリーと僕だけの秘 密にしておけるか、じつは心配してい たのだが、ホリーは、完全に僕たちの 485/806 味方になってくれていた。それに、例 のデートのあと、ママと話す時間があ まりなかったのも、なんとか秘密を守 り通せた理由だった。 クリスマスの3日前。 この日から年明けまでが、グレート ・インディアン・リバーの正式なクリ スマス休暇だ。 女の子たちはみんな、朝から休暇の ための荷造りをした。僕は、友だちや 勉強を見てあげている子たちが、みん な、親元で幸せなクリスマスと新年を 迎えることを願った。 僕たちふた家族は、またホリーの家 で過ごすことになっていた。帰るため に、ホリーと僕は、ふたりともローラ イズのジーンズを選んだ。僕はその上 に長袖の白いブラウスを着て、黒のな めし革のブーツを履いた。ホリーは、 486/806 タートルネックセーターとスニーカー だ。 僕たちをビンクラー家まで連れ帰る 役割を、ロブが買って出ていた。あと で聞いたところによると、親たちに内 心を隠してそれを言い出すのに、彼は かなり神経を使ったらしい。 ラウンジで顔を合わせたとたん、ロ ブは僕の体をつり上げるようにしてキ スしてきた。そのせいで、僕の足は完 全に床から離れた。 しばらくしたところで、それを見か ねたホリーが止めた。 「ロブ、フェイスの息がつまっちゃう わよ」 彼女は、はやるロブに正気を取り戻 させようと、背中をつつきながら言っ た。 「か弱い女の子なのよ。もっとやさし く扱ってあげなきゃ」 487/806 「あ、ああ。でも、会いたかったから」 やっと口を離した彼は、ちょっと恥 ずかしそうに言った。 「まあ、それはわかるけどね」 ホリーは笑いながら答えた。 「この子だって、毎日、会いたい会い たいって、そればっかり。うるさいっ たらないんだから」 僕が彼の首に腕をまわすのが癖にな っているせいで、最初の時から僕たち のキスがこんなふうになるのは、ホリ ーには話したはずだ。要するに、身長 差がありすぎて、熱烈なキスをすると、 僕の足は、いつも宙に浮くのだ。 「だけど、そんなキスは、新婚初夜ま でとっておいた方がいいんじゃない」 ホリーは笑いながらからかった。 「ふたりとも、いつもそんな、愛に飢 えた子どもみたいなキスしてるの? ちょっと馬鹿に見えるわよ」 488/806 「でも、がまんできないのよ」 僕は肩をすくめた。 「だって、あなたのお兄さんったら、 こんなに魅力的で、セクシーで、世界 でいちばんかっこいい男なんだもん」 「できたらそれを、彼の前で言わない で欲しかったな」 ホリーはため息をついた。 「あたしがこの何年か、彼の自意識が ふくらまないように努力してきたこと が、すべて水の泡だわ」 「ごめんね、でも、しょうがないの」 僕はまた、肩をすくめて言った。 「彼は、ミセス・ウイリアムズができ なかったことを、あたしにしたのよ。 あたしを女の子としてかわいがってく れて、あたしを女の子の気分にさせて くれて、女の子であることの幸せを教 えてくれたわ。なにより、彼の女の子 であることのね」 489/806 「だけど、クリスマスに親たちをびっ くりさせるために、この2日間は、ち ょっとおとなしくしてないとな」 ロブが言った。 「えーっ? それまで、キスはおあず け? そんなの、やだ」 それはつらいことだ。だって、2日 もずっとそばにいて、1回もキスして もらえないなんて‥‥。 「ときどきは、目を盗んでしてみるよ。 いや、必ずする」 ロブはその約束の印として、また熱 烈なキスをしてくれた。 「あーあ、ロブのキスがそんなにいい んなら、あたしが先につばつけとくん だったな」 ホリーは、僕たちが長い間そうして いるのを見て、あきれたように笑った。 「残念ながら、気づくのがちょっと遅 すぎたね」 490/806 ロブが笑い返した。 「僕は、世界でいちばんすてきな女の 子を見つけちゃったんだ。もう、僕の 気持ちは、誰にも変えられないさ」 その言葉に、僕は胸が熱くなる思い がし、実際、涙があふれてきた。 僕は、小さい頃からあまり泣かない 子だったのに、この頃は、泣いてばか りいる。 「ん? どうしたんだい?」 ロブはあわてて僕を引き寄せ、その 涙をぬぐってくれた。 「僕が、なにか気に障ることを言っ た?」 「だいじょぶよ、ロブ」 ホリーがやさしい口調で説明した。 「彼女は、ある線を越えちゃったのよ。 もう、彼女が男の子に戻るようなこと は、ぜったいないわ。彼女は、すべて の男が望むような、やさしくてかわい 491/806 い女の子よ。そして、そのうち、想像 以上のいい奥さんになるわ」 「ああ、それはもう、よくわかってる さ」 ロブはもう一度抱きしめ、キスして くれた。 「親に話すのが待ちきれないよ」 それを待つことは、本当につらかっ た。 大好きな人がすぐそばにいるという のに、抱きしめることも、キスするこ とも、愛を語ることも簡単にはできな いのだ。 こんなふうで僕は、クリスマスまで 生きていけるのだろうかと、不安にな ったほどだ。 その重大な日が、ついにやってきた。 ホリーと僕は、前から決めていたと 492/806 おり、同じデザインの色違いのドレス を着て、髪型も同じにすることにした。 じつは、もうすでに寮の部屋で一度試 してみたのだが、その姿は、本当に双 子の姉妹のように見えた。 僕たちは、まず、着ける予定の下着 をベッドの上に並べた。 僕はホリーを説き伏せ、以前ママに 教えてもらったセクシーなボーイカッ トスタイルを選んでいた。ホリーはグ リーンのドレスを着るので、下着はミ ントグリーン。僕の方は、ライトピン クだ。ドレスが赤だということもある が、なによりこの色は、自分自身をか わいく、また女らしく感じさせてくれ る。 時間を節約するため、僕たちは、い っしょにシャワーを浴びた。 彼女の胸やお尻がうらやましいとい うことを除けば、いっしょに裸でいる 493/806 ことに、僕はもう、何のためらいも感 じなかった。だって、ふたりとも、女 の子なんだから。 僕は、パンティを身につける前に、 ガフという、ベルトが組み合わさった ような下着を着けた。ママが、インタ ーネットの女装者向けサイトで見つ け、僕のために買ってくれたものだ。 それは、最初は、けっして着け心地 がいいとは言えないものだった。生殖 器を下腹部に押し込むのは、もうパン ティガードルで経験ずみだったが、こ のガフは、その部分をさらにきつく絞 めつけ、着けている間はまちがっても 元に戻らないように固めてしまう。 通常は、スラックスを履く時にしか 着けないのだが、ロブのそばに近づく ことがわかっている時は、スカートの 前が持ち上がったりしないように、こ れを着けていた。 494/806 数ヵ月前、まだ女物の服を身につけ るのを嫌っていた時、僕は、コットン のパンティと何の飾りもないブラしか 着けないと心に誓ったものだ。 それなのに今、寮の僕の引き出しは、 まるまる二段、女の子だけが買うこと を許されたかわいいシルクの下着で埋 め尽くされている。そのうちの多くは、 自分自身で買ったものだ。 今ではもう、ダサい制服のスカート とブラウスの下にさえ、かわいいシル クの下着が欠かせない。 そして僕は今、好きな男の前で、か わいくて女らしい気分を持ち続けたい からこそ、そんな下着を身につけてい る。だからこそ、彼は僕のことをかわ いいと言ってくれるし、たくさん抱き しめ、たくさんキスしてくれるのだと 信じている。 495/806 そして僕は、それこそ女の子の喜び だと心から感じている。 ドレスアップして、鏡の前に並んだ ホリーと僕は、本当に完璧だった。 僕は、ホリーの髪もフレンチブレー ドに結った。ただし、その大きな三つ 編みの中に、ホリーはグリーンの、僕 は赤のリボンを編み込んだ。 ふたりとも、休みに入る前にワック ス脱毛もすませていたから、脚もすべ すべで、薄いパンストがよりセクシー に見えた。 僕たちは、やはりおそろいで色違い のヒールを履き、メイクをもう一度チ ェックし合い、ふたり揃って、驚きの 視線の中へと出ていった。 「まあ、あなたたち、なんてかわいら しいの!」 496/806 それぞれにプレゼントを用意した家 族たちの前に出たとたん、ママが感極 まった声で叫んだ。 「ほんとに、姉妹みたいだわ」 ホリーと僕は、ふたりで顔を見あせ てくすくす笑った。まだママは、やが てそれが真実になることを知らない。 と、ロブが、がまんできないという ようにコメントをつけ加えた。 「そんなドレスを着られたら、どっち が自分の妹か見分けがつかないよ」 すると、彼のパパが、笑って言った。 「恋人と妹の区別がつかないようじゃ あ、いろいろ問題が起きるんじゃない のか」 えっ、恋人‥‥? 今確かに、彼はそう言った‥‥! 「恋人?」 ロブも聞き返していた。 「いつから、そんな‥‥?」 497/806 「だから、この前彼女がうちに泊まっ て、お前がバスケットの試合に連れて った時からだろ」 僕はびっくりして、その場に立ちつ くした。 「あたしは無実よ。何もしゃべってな いわ」 ホリーがあわてて叫んだ。 「で、でも、どうしてバレちゃった の?」 「ふふ、走行距離さ」 ロブのパパは、そう言ってほくそ笑 んだ。 「週末にロブに車を貸すと、距離メー ターが、いつも必ず93マイル(約150キ ロ)ほど進んでた。1回目か2回目で、 すぐ気がついたよ。うちから学校まで は、46マイルと少しだ。往復すれば、 93マイルだろ。毎週、妹のところへ行 くとも思えないし、だとしたら相手は 498/806 フェイス以外にあり得ない」 「フェイス、女の子でしょ。何をみっ ともなく口を開けてるの」 ママが、からかってきた。 「あなたの彼氏は、さっきからヤドリ ギの下(※)に立ってるのよ。あなたの キスを待ってるわ」 (※訳注 欧米では、クリスマスにヤドリギの 小枝を飾る風習がある その下でキスした恋人 たちは、幸せになれると言い伝えられている) 「ロブ、いつまでも突っ立ってないで、 早くキスしてあげなさい」 ロブのママも、けしかけた。 「こんなかわいい娘さんなんだもの。 照れてなんかいたら、すぐ誰かにとら れちゃうわよ」 ロブは肩をすくめながら、僕を見た。 僕たちの努力は、まったくの徒労だっ たわけだ。 僕は、そのヤドリギの下に歩み寄り、 499/806 ロブは、すてきなボーイフレンドなら みんなそうするようにキスしてきた。 僕は彼の首に、彼は僕のウエストに、 それぞれの腕をまわし、僕たちは、こ の間のがまんを埋め合わせるような熱 烈なキスをし、家族たちはそれを拍手 と歓声で見守ってくれた。 そのあと、ロブは、僕を部屋の真ん 中まで連れ出し、きれいにラッピング されたプレゼントを手渡した。 「母さん、父さん、紹介します。僕が 結婚したいと思ってる女性、フェイス ・ジョーダンです」 「私たちはみんな、君たちの幸せを喜 んでいるよ。ただ、結婚はそんな軽々 しく考えてはいけないことじゃないの かい」 僕のパパが言った。パパとしては当 然の言葉だろう。僕が一生、女の子と して生きていくことを危惧したにちが 500/806 いなかった。 「もちろん、ふたりが大学を出てから って考えてるのよ」 そのゴールドとダイヤのすてきなネ ックレスへの感謝を込め、ロブを抱き しめながら、僕はあわてて、そう説明 した。 「あたしたちには、他にも、解決しな ければいけない問題がたくさんあるも の」 「いい子ね、フェイス」 ママがほほ笑んだ。 「あせらずに、じっくり考えて解決し ていってね」 「約束するわ、ママ」 それから全員がクリスマスプレゼン トを交換し合い、その後、会話は、ど うしても僕とロブの将来についての話 題になった。 501/806 親たちは、僕たちがつき合っていた ことは知っていても、さすがに結婚ま で考えているとは思わず、驚いたよう だ。でも、僕たちが、まだ数年先と言 ったことに安心した。 「たしかに、まだちょっと先よね」 僕はロブの手を握ってほほ笑んだ。 「でも、必ずするつもりよ。自分の将 来について、こんなにはっきり見えた ことって、これまでなかったし、その 目標をぜったいに見失いたくないって 感じてるの」 「あなたは、これから自分がどんなこ とをしようとしてるのか、ちゃんとわ かってるわね?」 ママが確認するようにきいた。 「どっちにしても、近いうちにホルモ ンを摂り始めなければならないでし ょ。そしたら、二度と男の子には戻れ なくなるのよ。それでもいいのね。後 502/806 悔はしない?」 「ええ、ママ。よくわかってるわ」 僕は、かみしめるように言った。 「今思えば、あたしが女の子になりた いって考え始めたのは、ロブと出会う よりずっと前だったの。ロブはそれに はっきりと気づかせててくれただけ。 彼を愛することで、やっと女の子とし て生きていけるって自信が持てたの」 「えーっ、前から、女の子になりたか ったの?」 ホリーが驚いたようにきいた。 「じゃあ、どうして、あたしと結婚す るなんて言ってたの?」 「うーん、うまく言えないんだけど‥ ‥。最初はもちろん、女の子になんて なりたくなかったし、服も、メイクも、 全部いやだったわ。でも、あなたに、 それを楽しんでもいいんだって教えら れた時から、もう、自分でも止められ 503/806 なくなっちゃったの。かわいい服を着 たり、メイクしたり、髪の毛をいじっ たり、あたしは、そんなことが大好き だった。だけど、自分が女の子でいる ことで、何が起こるのかわからなくて、 それが怖かったのね。だから、どこか でブレーキをかけようとして、あんな こと言ってたんだと思うわ。ロブが現 れてはじめて、あたしは女の子でいい んだって、素直になれたってこと」 ホリーは、僕のほおにキスしながら 言った。 「わかるわ、フェイス。あたしも経験 者だから。それに、あたしだって、義 理の妹の方が、ずっと居心地がいいも ん」 「ロブ、お前が、彼女をしっかり支え ていってやらなきゃいけないんだぞ。 わかってるな?」 ロブのパパが言った。 504/806 「彼女はこれから、大変な思いをしな ければならないんだから」 「ああ、父さん。よくわかってるよ」 ロブは、強い口調でうなずいた。 「彼女がそうして欲しいときには、僕 はいつでもそばにいるつもりだよ」 僕はもう、それ以上こらえきれなく なり、ロブの体に身を寄せ、赤ん坊の ように泣き出していた。 「だいじょうぶだからね、フェイス」 ロブは、僕の体を抱き、何度も繰り 返した。 「愛してるよ」 僕も、ロブの目を見上げ、涙声でつ ぶやいていた。 「あたしも。愛してるわ、ロブ」 次の週、ロブと僕は、ほとんどの時 間をいっしょに過ごした。 彼は、親しい友人のすべてに僕を紹 505/806 介し、いっしょに映画を2本見に行き、 ホリーとのショッピングにも運転手と してついてきた。 どうやら彼は、そのショッピングに 対して、隠れた動機を持っていたよう だ。要するに、僕がかわいい服をいろ いろ着たところを見たかったらしい。 もちろん、僕としては、そんなうれし いことはない。 ママの提案で、ふた家族揃って、ニ ュー・イヤーズ・イブを豪勢に送ろう ということになった。この地区で最高 のレストランを予約し、そこにドレス アップして繰り出そうというわけだ。 ママは、そのために、僕が着るドレ スももう見つけてあるのだと言った。 ママは、一生忘れられないような大晦 日にするのだと張り切っていた。 その準備のためにみんなで町に出 506/806 て、男性陣がタキシードを借りにいっ ている間、僕たち女性もドレスとアク セサリー類を選んだ。 「じつは、あなたが女の子になるって 決まった時から、一度着せたいと思っ てたドレスなの。これを着れば、若い 娘としての喜びがわかると思ったか ら。でも、あなたはもう、これを、彼 のために着るのよね。思い切りきれい で魅力的な女の子になって、驚かせて あげましょ。彼がつかまえたのがどれ だけすごい女の子なのかってことを、 思い知らせるのよ」 たしかに、そのドレスを見るなり、 僕は夢中になった。 深いワインレッドの生地のトップラ インから裾に向かって金糸の刺繍が渦 を巻くように入ったそのロングドレス は、細いストラップで吊るオープント ップで、膝より上までスリットが入っ 507/806 ていた。 これは、どんな女の子にも似合うと いうものではないだろう。女らしく優 雅に着こなさなければ、みっともなく 見えてしまうはずだ。 でも僕は、そんなに恐れてはいなか った。この数ヶ月、明けても暮れても、 女らしさを表現する実践を積んできた のだ。肉体的にはもちろんまだ、さま ざまな補正が必要になるにしても、メ ンタリティの面では、今や自分を女だ と思っていたし、女としての自信もつ いてきた。 とはいえ、そのストラップとスリッ トを見て、僕は、べつのことが不安に なった。 「すごくすてき! でも、こんなの着 たら、凍えて死んじゃいそう」 「心配することないわ。こういうドレ スを着て来るのは、あなただけじゃな 508/806 いんだから」 ママは、そんな僕の心配を一蹴した。 「寒くなんかないわよ。私たちが行く のは、ピクニックじゃなくて、四つ星 レストランなのよ」 ママはそのドレスを買ったあと、ラ ンジェリー売り場へと急かせた。そし て、そこで、スリットの入ったロング ペチコートを選んだ。スリットが、レ ースで縁取られているものだ。 「このドレスには、濃い赤か黒のラン ジェリーがぴったりよ」 ママはそう教えてくれた。 「男って、ぜったいにスリットをちら ちら見るものよ。その気にさせるには、 レースが多い方がいいわ」 「かわいそうなロブ。自分にどんな罠 が仕掛けられてるか、何も知らないの ね」 僕がセクシーな赤いペチコートを体 509/806 に当てて長さをチェックしていると、 ホリーがそう言って笑った。 「あわれな男の子は、その罠にかかっ て、一晩中、彼女を口説きつづけるっ てわけね」 「あなただって、今夜、じろじろ見て くる男たちを、ぜったいにがっかりさ せないと思うわ」 ホリーが試着した悩殺的なブルーの ベルベットドレスに感心しながら、僕 は言った。 「あら、あたしを見る男たちは、いつ だって、がっかりなんかしないわよ」 ホリーは、すぐにそう訂正してきた。 「なにしろ、男の子たちをその気にさ せる実践は、あなたなんかよりずっと 積んでるんですからね。あたしの方が 上手よ」 「ふふ、言ってなさい」 僕は、寮の部屋でからかわれつづけ 510/806 てきたことを思い出し、仕返ししてや ろうと思った。 「あたしには、あなたとちがって、ち ゃんとしたカレがいるんだもん。もう そんな必要ないのよ」 「そりゃ、よかったわね」 ホリーは、笑いながら言い返した。 「要するにあなたは、男として時間を 浪費してたから、女の子としてはウブ なまんまなのよね。まあ、妹としては、 ロブに身持ちの堅い女の子を選んで欲 しいと思ってたから、ちょうどいいん だけどね。あたしのお兄ちゃんは、た しかに最高の選択をしたと思うわ」 僕は、彼女の肩に腕をまわし、抱き しめていた。 「あたし、あなたのお兄ちゃんをずー っと大切にするわ」 僕は、みんなの髪のセットアップを 511/806 買って出たのだが、ママは、4人分や るには時間がなさすぎると言って、近 くの美容院に予約を入れていた。 ママの話によると、僕の学校の子た ちもよく来る美容院だから、僕たちの ような女の子にも慣れていて、他の女 の子たちと同じように扱ってくれると いうことだった。 学校の美容室できれいにしてもらう ことが大好きになっていた僕には、も ちろん何の異存もない。 それにしても、僕についてくれた美 容師のジャニーは、僕の学校生活につ いて、しきりに聞きたがった。学校が 好きかどうか、成績はどうだったのか、 卒業まで在学するつもりか、学校を出 たあとはどうしたいのか‥‥。 彼女は、やさしくていい人そうだっ たので、僕もすぐにうち解け、いろい ろ話していた。理科室放火事件のこと 512/806 から、ハリー/ホリーとのいきさつ、 それに、成績についてのちょっとした 自慢まで。 「へえ、転校した学期に、優等表彰を 受けたの? すごいわ」 彼女は、カーラーを巻きながら驚い たように言った。 「あたしなんて、あそこに在学中、B よりいい成績とったことないのに」 その言葉に驚いて、僕が振り向いた せいで、巻きかけていたカーラーが飛 んでしまった。 こんなに女っぽくてきれいな美容師 が、ガールセンターの生徒だったこと が信じられなかった。 「グレート・インディアンの卒業生な の?」 僕は、まだ呆然としたままきいた。 「そうよ。卒業してから5年になるわ。 ガールセンターをね‥‥今でも、生徒 513/806 たちはそう呼んでるんでしょ?」 彼女は僕の驚く顔を見ながら、ほほ 笑んだ。 「11歳で入って、あそこが好きだった から、ずっといたの。あなたとホリー を見てると、今でも、かわいい子がい っぱいいるみたいね」 「あなたこそ、すごくきれいでかわい いじゃない」 僕は、心から感嘆していた。 「それにしても、まさか、うちの卒業 生だとは思わなかったわ」 「ありがとう。あたしも、ホリーと彼 女のママのことを知らなかったら、あ なたがあそこの在校生だなんて気がつ かなかったでしょうね」 「でも、11歳って、いったい何をやっ て入れられたの?」 その年でひどい非行に走るには、幼 すぎる気がして、僕は首をかしげた。 514/806 ホリーにしても、12歳までは、あそこ に送られるほどの問題は起こしてなか ったはずだ。 「誰が、非行で入れられたって言っ た?」 彼女は、僕の髪にまたカーラーを巻 きながらくすっと笑った。 「あたしが、隠れてママの服とかで遊 びだしたのは、8歳くらいの時だった かな。すぐ両親に見つかっちゃったん だけど、そこで、両親はあたしを叱っ たりしなかった。それどころか、かわ いいって言ってくれたの。そのあとも、 あたしに女の子の服を着ることを許し てくれて、娘としてかわいがってくれ るようになった。ママは、かわいらし い服をいっぱい買ってくれたし、パパ は、あたしの部屋をちっちゃな女の子 の部屋のように改装してくれたわ。お 休みの時なんて、ジャニーとして家族 515/806 旅行にも連れてってくれた。あたしが、 ティムとしてよりジャニーとして過ご す方がうれしそうなのを見て、両親は、 その方があたしにとって幸せなんだっ て思ったのね。たまたま両親がグレー ト・インディアンのことをよく知って たこともあって、あたしを連れて行っ てくれた。その時から、あたしは男の 子の服を全部捨てて、完全にジャニー になったのよ」 「あたし、うちの学校に入るのは、非 行少年ばっかりだと思ってたわ」 きつく巻かれたカーラーがヘアピン で固定されるのを感じながら、僕は言 った。 「そうじゃないのよ。毎年、何人かは、 あたしみたいに自分の希望で入ってく る子たちがいるの。あたしは、男の子 でいるより女の子でいる方が好きだっ た。両親は、試しに入れてみようと思 516/806 ったらしいけど、あたしにとっては、 これ以上ないほど、居心地のいい環境 だったの」 そんな話を聞いても、僕には、この 美容師が、かつて男だったとは信じら れない思いがした。もっとも、この数 ヵ月間、学校で知り合ったかわいい女 の子たちのほとんどが、かつて男の子 だったなんて信じられないのだが。 「ところで、あなたも、あたしのパパ に初めて会った時、怖いと思った?」 「えっ? 何のこと? あたし、あな たのパパになんて、会ったことないわ よ」 彼女が浮かべるにやにや笑いの意味 がわからず、僕は聞き返した。 「じゃあ、ヒントね。あたしの姓はウ イリアムズっていうのよ。で、あたし のパパは、グレート・インディアンで 働いているの。‥‥ふふ」 517/806 うちの学校で、ウイリアムズという 名の教員や職員は一人しかいなかっ た。あの魔女‥‥校長だ。 僕には、ジャニーが、まるでコメデ ィ・セントラル(※)の出演者のように 見えた。ジャニー自身もおかしそうに 笑い、そのせいで、手にしたカーラー を何本か落とした。 (※訳注 アメリカのコメディ専門ケーブルテ レビ局) 「そう、あたしのパパは、あの校長な のよ」 彼女は、カーラーを拾い上げながら、 さらに笑った。 「えっ? あなたのパパって、女?」 「んなわけ、ないでしょ。あなたにど う見えたかはべつにして、パパはれっ きとした男よ」 「そんな。うそでしょ」 僕がまた急に振り向いたせいで、彼 518/806 女は、ふたたびカーラーを落とした。 「ほんとよ。これじゃ、仕事が進めら れないわ。ちゃんと説明するから、少 しじっとしててくれる? 寝癖みたい な頭にはなりたくないでしょ」 彼女は、そう言ってから父親の話を してくれた。つまり、グレート・イン ディアン・リバー・ラーニング・セン ターの厳格なる校長、ミセス・ウイリ アムズの話を。 自分の父親にも女装の趣味があった ことを、子供の頃、ジャニーは知らな かったのだという。ところがある日、 母親が、突然、ビッキーおばさんと名 乗る女性を連れてきた。そこで初めて、 父親の秘密を聞かされた。 父は、自分もやはり、子供の頃から、 女の子の服を着るのが好きだったのだ と打ち明けた。小さな頃から、ときど 519/806 き、女装して楽しんでいたのだと。そ して、大人になった彼は、彼の趣味を 認めてくれる珍しいタイプの女性と出 会った。女性の方は、どんなに長時間 でもショッピングにつき合ってくれ て、洋服についてアドバイスしてくれ るボーイフレンドに夢中になった。そ して、ふたりは結婚し、ジャニーが生 まれたのだ。 一方、父親は、長年の教員生活で、 いずれは校長になることを目指してい た。ところが、彼が関わる特殊な政治 活動のせいで、どれだけキャリアを積 んでも、出世の道は閉ざされたままだ った。何人もの後輩に追い抜かれてい た。 そんなある時、当の政治団体――女 装者の権利を守る支援グループ――か ら、思ってもいなかった誘いが舞い込 む。トランスジェンダーの団体が共同 520/806 で、実験的に私立学校を開校するとい うのだ。彼は、その学校、グレート・ インディアン・リバー・ラーニング・ センターの校長になることで、長年の 夢を叶えた。しかし、それは同時に、 彼が女性校長になることをも意味して いたというわけだ。 「ふふ、どうやらあなたは、パパのお 気に入りみたいよ」 ジャニーは、そう言って笑った。 「じつは、あなたの名前は、パパから さんざん聞かされてたの。ガールセン ター開校以来、いちばん成績優秀な女 の子だって」 「まさか、そんな、お気に入りなんて ‥‥。でも、あたしって、そういうの に鈍いところがあるからな‥‥」 それは、認めざるを得ないだろう。 だって‥‥。 521/806 「自分の父親のことだって、誤解して たんだもの。あたしはずっと、パパか ら嫌われてガールセンターに放り込ま れたって恨んでたの。でも、じつは、 パパがずっとあたしのことを心配して くれていて、ホリーにあれこれ頼んで たことを聞かされた。それでやっと、 両親に会う気になったのよ。今では、 あたし、パパのことが大好き。厳密に 言えば、あたしはまだ本物の女の子じ ゃないけど、今は、パパの娘として生 まれたことを誇りに思ってるわ。だけ ど、あなたのパパについては‥‥、彼 女‥‥っていうか、彼のことを、ずっ と魔女だなんて思ってたし‥‥。今で も、顔を見ると、恐ろしくて震え上が っちゃうもの」 「パパは、ほんとは、すごくやさしい 人よ。でも、非行少年を女装させるこ とで更正させるっていう理論と実践 522/806 に、強い使命感を持ってるの。反抗的 な男の子たちを受け身の立場に変えさ せて管理していくには、どうしても、 あんなふうな厳めしさを装わなきゃい けないのよ。わかってあげて。あなた がみごとに適応して、優秀な成績を上 げてることを、パパはいつも、学校の 誇りだって言ってるんだから」 この地球上で、最もひどい生き物だ と思ってきた女が、誰かの親だったと いうことすら信じられないのだから、 それが、やさしくて思いやりある男で、 非行少年たちをぎりぎりのところで救 おうという使命感に燃えている人だと 認識するのは、そんな簡単なことじゃ ない。 でも、彼は、家族に自慢するほど、 僕のことを評価してくれているらし い。 卑劣で冷酷な魔女などというイメー 523/806 ジは捨てて、彼女に感謝のキスを送る べきなんだろうか? ジャニーや他の美容師たちの作業が すべて終わったところで、僕は声も出 ないほど驚いていた。 緩やかにカールした僕の髪が、肩の 上で弾んでいた。バレッタでとめられ ほどよく後ろにまわされたサイドの髪 が、やわらかな顔の輪郭を引き立てて いた。 前に、ヘアスタイルブックで見ては いたが、試したことのなかったそのス タイルは、シンプルだけれどエレガン トで、僕に本当によく似合っていた。 鏡を見るなり、僕は、ぜったいにこの スタイリングを覚えようと思った。こ んな髪型の僕を見たら、ロブは喜んで、 また、おいしいキスをいっぱいしてく れるにちがいない。 524/806 じつは、こんなところが、僕が女の 子でいることに大きな魅力を感じる点 なのだ。すてきな女の子でいるという ことは、ある意味、矛盾に満ちたこと だ。たとえば、その「シンプル、だけ れどエレガント」ということ。 このヘアスタイルには、他とはちが うなにかがあるにもかかわらず、あく までシンプルに見える。そしてじつは、 そんなシンプルさをつくり出すために は、普通に髪を洗ってリンスしセット するだけでなく、優に20分以上は余分 に時間をかける必要があるのだ。 今夜のドレスだって、矛盾だらけだ。 冬の寒い日だというのに、パーティ仕 様の僕は、わざわざ、細いストラップ だけで胸の上から肩までを裸同然にさ らしている。 もっと言えば、毎朝しているメイク 525/806 だって矛盾でいっぱいだ。僕は毎朝30 分以上かけて、その日の服に合わせた “ナチュラル”メイクをしているのだ。 思うに、女の子が毎日の生活の中に 抱えるそんな矛盾こそ、男が女に惹か れる理由だという気がする。 僕の持つそんなミステリアスな不可 解さこそが、ロブの気持ちを引きつけ、 彼がそれにわくわくすることで、僕も 幸せを感じるのだ。 夕方になり、いったんホリーの家に 戻って着付けをした時は、ちょっと奇 妙な感じだった。 男性陣が客室で着替えたのに対し、 僕たち女性陣は、ビンクラー夫妻の寝 室でその作業をした。 僕のママとミセス・ビンクラーは、 やはりどこかに、息子たちに見られて いるという意識があったのだろう。裸 526/806 になったあと、ちょっとあせったよう に、ブラやパンティを着けた。 こちらの側にも、下着姿の母親を見 ているという落ち着かない感じはあっ たものの、結局、ホリーと僕がブラと パンティ姿になったところで、母と息 子という雰囲気は完全に消え、あとは お互い、わいわい言いながらきれいな ランジェリーを着け、ガーターベルト にストッキングをとめた。 すべて着終わった時、僕は大きな胸 のときめきを覚えていた。 美しいドレス、セクシーな下着、こ れまで着けたうちで最もすべすべのス トッキング、ヘアスタイルもメイクも 完璧だ。僕はそれに、3インチの細い ヒールがついた黒いベルベットのパン プスを履いた。 すぐに部屋を出て、ロブに見てもら いたいと行きかけたところで思い出 527/806 し、クリスマスに彼からもらったかわ いい金のハート型ネックレスをつけ た。 「ワーオ、なんてきれいなんだ!」 ロブは叫ぶような声で、僕の努力に ちゃんと答えてくれた。 「ねえ、写真撮らせてよ。僕にはこん なガールフレンドがいるんだって、学 校で自慢するんだから」 「ママ、見て。彼ってほんとにすてき。 世界中でいちばんかっこいいわ」 そのかっこよさは、当然、甘いキス に値した。僕は背伸びして、彼の首に 腕をまわし、思いっきり甘えたキスを した。 彼は、僕の体をぎゅっと抱いてぶら 下げるようにし、僕がどれくらい愛し ているかを言うまで、そして、必ず結 婚するともう一度約束するまで、下ろ 528/806 してくれなかった。 もちろん彼だって、僕を地面に立た せたままでキスできるのだが、僕は全 然かまわない。だって僕は、彼のこと をほんとに愛しているし、ぜったい彼 と結婚するんだから。 ロブはタキシードが驚くほど似合っ た。広い肩幅と厚い胸板は、本当にタ キシードを立派に見せる。 じつは、僕も2年ほど前、親戚の結 婚式か何かでタキシードを着せられた ことがあるが、その時のみじめさった らなかった。 それに比べてロブは、タキシードを 着るために生まれてきたような体つき をしている。この貸衣装屋は、ロブが 着てくれたことに対し、逆にお金を払 うべきだとさえ思えた。 その夜は、完璧にすばらしいものだ 529/806 った。 ロブは、ウエーターを押さえて、僕 の椅子を引いてくれ、食事中もずっと 気遣ってくれ、僕のグラスのダイエッ トコーラがカラになるとすぐに注文し てくれた。 ダンスタイムが始まると、僕たちは 何曲も何曲も踊りつづけ、僕はまるで、 ダンスマラソンの出場者のような気分 になってきた。ほら、古いニュース映 画とかで、疲れ切った女性を引きずる ようにして踊る男の映像‥‥あれを思 い出したのだ。 じつは2曲目が終わった頃にはも う、僕のヒールの足は、そうとう痛み 出していた。きれいなロングドレスに 似合うこの靴は大好きだし、これを履 いていることで、歩幅の小さな女らし いステップを強いられる感覚も嫌いじ ゃない。でも、これでダンスフロアに 530/806 いつづけるのは、やはりつらい。こと に、こんなエネルギーのつきることの ない男のパートナーとして踊るのは、 本当につらいのだ。 それで僕は、ホリーにステディなボ ーフレンドがいないことをいいこと に、ときどきロブを貸してあげて、ダ ンスを休んで息をついた。 でも、彼女にロブをとられるのでは ないかと、やきもちをやく心配はいら なかった。レストランには、家族とと もに年越しに来ている同年代の男の子 たちがけっこういて、ホリーの姿は、 当然彼らの目にとまっていた。その天 使のような女の子に特定のパートナー がいないことがわかると同時に、彼ら は、自分がその特定の一人になりたく て彼女を取り囲んだのだ。 零時が近づいたところで、僕は、ロ ブの腕をしっかりとつかまえ、その腕 531/806 の中に僕が抱かれるような体勢をつく った。他の女の子たちに、新年のキス のチャンスを与えないためだ。 カウントダウンが始まると、僕を抱 く彼の力が強まり、僕たちは、徐々に 唇を近づけていった。そして、新年の カウントとともに、熱烈なキスを交わ した。 それは、ほんとにファンタスチック だった。僕たちは、クラッカーやホー ンや歓声が鳴り響く中、唇を合わせ、 きつく抱きしめ合っていた。 「ワオ! なんてすてきなの」 そのキスが終わったところで、僕は 叫んでいた。 「みんな、あたしたちのキスを祝って くれてるわ」 「ほんとにかわいいね、フェイス。で も、意外とお馬鹿さんかな」 ロブはそう言って笑った。 532/806 「新年のお祝いだろ」 「そんなこと、わかってるわ」 僕は、にっこり笑って言った。 「でも、ほんとにそうかどうか、もう 一度キスして試してみましょ」 「うん、いい考えだ」 ロブは、すかさず賛成した。 「君とのキスなら、1年中しててもい いよ」 その夜、僕は、ロブの腕の中に包ま れた夢を見ながら、まるで赤ん坊のよ うに安らかに眠った。 夢の中でも、ロブは、僕のことを世 界でいちばんかわいい女の子だと何度 も言ってくれた。そして、その言葉以 上のやり方で、僕のことを愛してくれ た。 そんな夢を見たということは、僕の 中にもう、自分を男の子だと思う余地 533/806 がいっさいなくなったということだろ う。 何日か後、僕は両親といっしょに、 ミセス・ウイリアムズと面談した。僕 が女の子になる治療を開始するための 相談だった。 僕は、まるでハリケーンの中の木の 葉のように震えていた。この前、美容 師のジャニーから、彼女の「パパ」に ついての話を聞いてはいたが、この校 長の前に出ると、どうしても虫けらみ たいに踏みつぶされそうな恐怖を感じ るのだ。 その上今日は、大事な話をしに来て いるのだから、緊張はなおさらだ。今 日の話の目的は、なにより、この学校 に卒業までいることを許可してもらう ことだった。 たとえ更正期間が終わったとして 534/806 も、僕がもう、前の学校に戻れないの は明らかだ。男に戻るには、すでに僕 は、女の子としての濃密な時間を過ご しすぎていた。この間、十代の女の子 として暮らし、会話し、行動してきた ことは、僕の心に究極の変化をもたら している。僕は今、実際に自分自身を 十代の女の子だと感じ、その上、女の 子として一人の男の子に恋さえしてい るのだ。 そんな僕が、男のふりをして前の学 校に戻ったとしても、さまざまな問題 が起こることは目に見えていた。昔の 仲間と話すには、自分自身を押し殺す ことが必要だし、たとえそれができた としても、知らず知らずのうちに、女 の子のように髪を後ろにまとめる仕草 をしたりするだろう。歩くときは、男 の子ならふつう体の脇で持つはずの教 科書を、胸の前に抱えるようにしてし 535/806 まうはずだ。教室に入った僕が、腰掛 けながら、履いてもいないスカートの 裾をなでつける仕草をしたとしたら、 みんなはどう思うだろう? いや、そんなことは些末なことだ。 僕にとってもっと重大なのは、まだ15 歳だとはいえ、僕がすでに人生を賭け たいと思う人に出会ってしまったこと だ。将来、ロバート・ビンクラーの妻 になるという以外の人生は、僕にはも う考えられない。 両親は、すべての事情をミセス・ウ イリアムズに説明した。僕が女の子と して生きる決意を固めていること、ロ ブに恋していること、そして、グレー ト・インディアンにとどまり、この学 校に卒業までいたいと願っているこ と。 ミセス・ウイリアムズは時折メモを とりながらほほ笑んだりしたが、それ 536/806 でも、厳めしさが染みついたその顔か らは、話の内容をどう受け取っている のか、まったくうかがい知れることが できなかった。この人は、どうしてい つも、こんな冷酷な表情をしているん だろう? 両親の説明がすべて終わったところ で、ミセス・ウイリアムズは、僕の方 に顔を向け、笑いかけてきた。 「そう言えば、娘のジャニーに会った そうですね」 僕は、そのほほ笑みにもやはり恐ろ しさしか感じられず、ただうなずいた。 「娘は、あなたの言葉を一生懸命否定 しなければならなかったと言ってまし たよ。私がけっして、あなたの思って いるような恐ろしい‥‥魔女ではない って」 彼女は、まるで昔からの友人に冗談 を言うように、おかしそうに笑った。 537/806 「い、いえ‥‥その‥‥、あたしは、 けっして‥‥」 僕は、口をもつれさせながら、なん とか言い逃れようとした。 誰だって、校長先生のことを魔女な んて言ったことを、校長本人に知られ たくはないだろう。たとえ、それが事 実だとしても。 「フェイス、それは別に、あなただけ じゃないんのよ。非行でここに送られ てきた子たちは、みんな、私のことを そう思うみたいね」 彼女はそう言ってまた笑った。 「でも、それでいいんですよ。新入生 たちを管理するには、そう思っていて くれた方が都合がいいんだから。ジャ ニーも、そう言ってなかった?」 彼女は、今度はちょっといたずらっ ぽそうな顔でほほ笑んだ。 「ジャニーは、私が、彼女のパパだっ 538/806 てことまでバラしたんでしょ」 「は、はい、そう、うかがいました」 僕は、ていねいな言葉づかいを崩さ ないようにして、答えた。 「それなら、話が早いわね。私は、そ のことをよく考えてほしいと思ってい ます。私は女性として暮らし仕事して いますが、同時に彼女のパパでもある。 つまり、何を言いたいかと言えば、肉 体上の性転換と、女性らしい生き方を することとは、必ずしもイコールでは ないということです。もしあなたが、 女の子の服を着ることや女の子として 振る舞うことが好きだというだけな ら、なにも性転換は必要ありません。 同じように、男の子に恋していること だけが理由なら、私は手術をすすめま せん。もし将来、彼と別れるようなこ とになったとしたら、軽はずみに体を 変えてしまったことを後悔しないとも 539/806 かぎらないからです」 「あたしは、軽はずみに決めようなん て、思ってません」 僕は、自分でも驚くほど大きな声で 言っていた。 「それまで目をそらしてきたあたし自 身の気持ちに、本気で向かい合うきっ かけになったのは、たしかにロブです。 そのおかげで今、あたしたちふたりは 愛し合っています。でも、あたしたち は、それに目を奪われて、わけもわか らず突き進もうとするほど愚かじゃあ りません。あたしは、ロブと出会う以 前から、もう変わっていました。うま く説明はできないけれど、ここに来た 時から、あたしの中に隠れていたなに かがどんどん大きくなっていって、気 がついた時には、もう、後戻りできな くなっていたんです」 「わかります。そのなにかがあったか 540/806 らこそ、あなたは、少年刑務所でなく ここに送られてきたのですからね」 ミセス・ウイリアムズは、やさしい 声音で言った。 「あの判決が下される前に、心理テス トを受けさせられたでしょ。そのテス トの結果は、あなたが社会的不適応で あることを示していました。もっと正 確に言えば、社会が求める男性役割に 不適応であることをね。あなたがとっ ていた無謀な行動は、あなた自身がそ れにむりやり適応しようとした過剰反 応だったようですね。あのテストによ れば、あなたの資質は、そんな行動と は裏腹に、やさしくて女性的な側面の 方が強いものでした。それなら、そん な女性的な部分への抑圧を取り払い、 もっと自由に伸ばしていける環境にお けば、あなたはより良い人間になるの ではないか。あの判決の裏には、そん 541/806 な判断があったのです」 「つまり、あたしは、女の子になるこ とを望むように仕組まれてたというこ とですか? いわば計画どおりに」 「いいえ、それはちがいますよ。ここ には、そんな計画なんてありません。 ここに送られてきた少年たちのほとん どは、より穏やかで精神的に安定した 青年としてここを旅立っていきます。 あくまで、青年としてね。この学校の 目的は、元来、少年なら誰もが持って いる女性的な側面を伸ばすことで、よ りバランスのとれた人間をつくるとい うことです。けっしてそれ以上ではあ りません。でも中には、そのバランス が、完全に女性になることでとれる人 たちもいます。そういう人には、その 決定を支持し応援するというのがこの 学校の立場です」 「で、あたしは、本物の女の子になれ 542/806 るでしょうか?」 僕は、すがるようにきいていた。そ の瞬間、話している相手が、この世で いちばんきらいな人間だということも 忘れていた。 「フェイス、その決定を下すのは私で はないのよ」 そう言ったミセス・ウイリアムズの 声音は、やさしく、いたわりのこもっ たもので、僕は、その顔から魔女の面 影が消えていくような気がした。 「まず、ご両親といっしょに専門医の ところに行って、診察を受けて。そこ で性的不適合の診断が下れば、すぐに ホルモン治療が始まるはずよ。あなた の体の男性としての発育を抑えて、若 い女性らしい体型をつくるためのね。 ただ、完全に体を変えるのは、成人す るまで待つべきだと私は思ってるわ。 もっとも、私が言うまでもなく、あな 543/806 たは賢明な判断を下すでしょうけど ね。たぶん、ジャニーはそれもしゃべ ったと思うけど、私はつねづね、あな たのことを、開校以来いちばん優秀で 賢い女の子だと思っているのよ」 「あの、それで、あたしは、卒業まで ここにいてもいいんでしょうか?」 「あなたのように成績優秀でいい子が 転校してしまうなんて、むしろ、この 学校にとっての損失よ」 ミセス・ウイリアムズは、そう言っ て笑いかけた。 「それに、あなたがここの卒業生だっ てことを、私は人に自慢したいもの」 その瞬間、幸福感に包まれた僕は、 思わず席を立っていた。そして、彼女 のもとに駆け寄り、その体を抱きしめ ていた。 「まあ、ジャニーやホリーの言うとお りね。あなたって、ほんとに素直でか 544/806 わいい女の子」 その感謝の抱擁から腕をといたとこ ろで、僕に向かい、ミセス・ウイリア ムズは、またいたずらっぽい笑顔で言 った。 「私がほんとはこんな人間だってこと、 他の生徒には内緒よ」 2週間ほどのち、両親と僕は、今度 は専門医のもとを訪ね、ふたたび、僕 が本物の女の子になりたいと考えるに 至った経緯について話した。 その女医は、僕と両親が話す内容を こと細かに書き取り、カルテを見直し てから、僕にいくつかの心理テストを 受けてくれと言った。 すべてのテストが終わったところ で、採血をされ、そこで女医は、検査 の結果は2週間後に出ると告げた。 545/806 その2週間は、本当に長かった。も う一度その診察室を訪ねる時には、僕 が本当の女の子になれるのかどうかが 決まってしまうのだ。僕は毎日、不安 にさいなまれながら過ごした。あんな 日々は、もう二度とごめんだ。 もし、検査の結果が「ノー」と出た ら、その時僕はどうなるのか? ロブはゲイなどではなく、女の子と しての僕を愛している。だとしたら、 僕らは一生、デート以上のことはでき ないということだ。だいいち、デート のたびにひげを剃らなければならない 女の子を、ロブは愛しつづけられるだ ろうか? その検査結果次第で、僕の人生すべ てが台無しになるのだ。僕はどうして も女の子になりたかった。ロブなしの 人生なんて、もう考えられないのだか ら。 546/806 その日、僕はピンクのスカートと白 いブラウスを着た。女子高生らしいか わいい格好で行けば、医者の採点が多 少甘くなるような気がしたからだ。そ の下に着けているのが、持っているう ちでいちばん女っぽいブラとパンティ とハーフスリップだと知ったら、さら に高いポイントがもらえるかもしれな い。僕が、医者にそれを見せようと思 っていると言うと、ママがとめた。 「先生は専門家なのよ、フェイス。あ なたがかわいいランジェリーを着けて いるからって、診断が変わるようなこ とはないわ。この前、あなたを診た結 果を、公正に伝えてくださるはずよ」 医師は、検査結果のすべてをもう一 度見直し、そのあと、何枚かの書類に 目を通していた。 547/806 待たされている間、椅子に浅く腰掛 けた僕は、その書類を取り上げ、むり やりにでもひとつの答えを言わせたい という衝動に駆られた。 と、書類を机に戻した医師が、僕に 目を向けた。 「おめでとう、フェイス」 彼女はそう言ってほほ笑んだ。 「すべての検査結果が、あなたが精神 的にも安定した魅力的な若い女性にな れることを示しています。それに、あ なたの体内のテストステロンの分泌量 は、同年代の少年と比べてきわめて低 いレベルです。つまり、そもそも、男 性の体を作っていくホルモンがそれほ ど多くないのね。これから、女性ホル モンの投与プログラムをはじめること になりますが、このテストステロンの 量から見て、その効果は、きわめて速 く現れると思います。2ヵ月後に、進 548/806 行度を診るための再検査をしましょう ね」 僕は、完全に我を失っていた。ひと こと目を聞いた瞬間から、声を出して 泣きつづけていた。 「早くロブに知らせたいわ」 僕は鼻をすすりながら言った。 「ああ、あたしって、なんて幸せな女 の子なの」 「じつは、もうひとつ、考慮に入れて いただきたいご提案があります」 医師は、両親に向かって言った。 「もちろん、ご両親の同意の上でとい うことですが、暫定的な外科手術をさ れてみてはいかがでしょう。成長過程 での女性化をめざす娘さんのようなケ ースでは、本格的な性転換手術はまだ おすすめできませんが、その代わりに、 女性としての生活に抵抗なく適応して いくために効果があるといわれている 549/806 方法です」 やっと泣きやんだ僕は、医師の説明 を食い入るように聞いた。 その手術とは、僕の現在の生殖器を 腹腔の中に押し込んで縫合し、外見上 は女性器と変わらない状態をつくると いうものだった。 つまり、その手術を受ければ、ぴっ ちりしたスラックスも履けるし、ビキ ニだって着られる、裸に近い姿でも平 気だということだ。詳しい身体検査で もされないかぎり、誰からも、どんな 場所でも女性として見られるわけだ。 僕は、例のパンティガードルなしで タイトなスラックスを履いた自分の姿 を想像し、ワクワクした。いや、それ 以上に、ビキニが着られるということ に有頂天になった。 一度走り出した僕のイマジネーショ ンは止めどなく暴走し、すでに頭の中 550/806 には、セクシーな白いビキニでデッキ チェアに寝そべり、日光浴する自分の 姿が浮かんでいた。ちらちら盗み見る ようにしていた男たちの視線は、けっ きょくはすべてそのボディラインに釘 付けになる。 小さなブラが僕の胸を形よくもり上 げ、かわいいお尻にはやっとカバーで きる程度の弾力ある生地が張りつく。 その前の部分には、もはや武骨にもっ こりした固まりなどなく、ゆるやかな 丘がやさしい曲線を描いている。ああ ‥‥。 もし、両親がその手術に同意してく れるなら、僕は思いっきりいい子にな ろう。まるでちっちゃな女の子のよう によく言うことをきいて、毎日きちん とお薬を飲もう。そして、女の子とし ての成長過程をたどるのだ。そしてそ して、夏までには、素敵なボディを手 551/806 に入れるのだ。あわれなボーイフレン ドを一発で悩殺してしまうようなナイ スなボディを。ああ‥‥。 「そっちの若い方のレディ、なにのぼ せてるんだ。お行儀よくしなさい」 パパのひと言が、やっと僕に正気を 取り戻させた。それにしても、パパは どうして僕の考えていることがわかっ たんだ? 「今のあなたの顔、見え見えだったわ よ」 きくまでもなく、ママが説明してく れた。 と、そこで、パパが医師に向かい口 を開いた。 「彼女は今後、性行為は可能なのでし ょうか?」 その言葉に、医師は一瞬パパを見返 したが、すぐにうなずいた。 「ええ、もう少し成長したのち、もっ 552/806 と本格的な手術をすることで可能にな ります。女性としての悦びも、まちが いなく得られるはずです。ただし、今 提案した処方の段階では、膣がありま せんから、まだ性交はできません。ペ ッティング程度ならできますが」 その言葉に、パパが僕の目をじっと 見つめてきた。 「‥‥あ、あたし、そんなこと、しな いわ」 僕はあわてて、誓いを立てた。 「あたし、いい子でしょ。ママもパパ も、信じて」 と、ママが先に折れて、パパを説得 しはじめた。 「あなた、この子が女の子としてちゃ んと大人になるためにも、思うとおり にしてあげましょ」 パパはまだ迷っているようで、医師 に向かってさらにきいた。 553/806 「女性ホルモンを始めると、この子は ずいぶん変わってしまうんでしょう か。たとえば、性格までも」 「ええ、大いに変わると思います」 医師は、僕が望んでいなかった答え を口にした。 「遺伝子上のマンスリーサイクルが働 き出す結果として、いわゆるお天気屋 といわれる性格が現れる‥‥つまり、 周期的に感情の起伏が激しくなるはず です。でもそれは、この年頃の女の子 なら誰もが多かれ少なかれ経験するこ とで、性的に成熟するためにはむしろ 自然なことだと言えます。その過程で は、これまでに経験したことのない衝 動が起こることもあるでしょう。でも、 彼女が新しく手に入れた体が、それを 乗り切らせてくれるはずです。これま でも、女性としての性衝動に駆られが ちな患者さんは何人もいましたが、少 554/806 なくとも体が変わっているかぎり、そ の衝動を解決するための最大の障害は 取り払われているわけですから」 医師の言葉に、パパはしばらく目を 白黒させていた。その言葉は、彼の女 性観の無防備な部分に突き刺さったに ちがいない。 「‥‥わ、わかりました」 ずいぶん間の開いた後、パパはうな ずいた。そして、僕に向かって確かめ るように言った。 「どうか、ママとパパを悲しませるよ うな、いけない子にはならないでおく れ」 そのお小言ともに、僕の手術は、春 休みに行われることが決まった。 その手術をはさみ、夏までには、摂 りはじめたホルモンが、僕の体に、年 頃にふさわしい女の子っぽいカーブを 555/806 つくってくれるだろう。あとは、ほん のちょっとだけパッドの助けを借りれ ば、ロブを、幸せな道化者にしてしま えるわけだ。 僕はやっぱりいい子だった。言われ た処方をきちんと守り、毎日忘れずに ホルモンを摂っている。始めたばかり の頃は、吐き気に悩まされたりもした けれど、それもふくめて、僕は、日々 ワクワクして過ごしていた。 それに関しては、ホリーと僕の間で、 新たな儀式ができた。 朝食の時、いっしょにカウントダウ ンし、ふたり同時にエストロゲンの錠 剤を口の中に放り込み、ジュースで飲 み下すのだ。 ほどなく、ホリーと僕には、あらゆ る面で、前ほどのちがいがなくなって いった。 556/806 それは、ホリーと僕が本物の姉妹に なれたような感覚だった。僕の体は、 お姉ちゃんの後を追うように、キュー トで曲線的に発育していくのだ。 ロブが、彼の学校のバレンタインパ ーティに誘ってくれた時、もちろん僕 は即座にオーケーした。 ロブはホリーも誘い、そのパートナ ーとして友達を一人用意してあると言 った。その友達には、ホリーと僕は双 子みたいなものだと伝えてあるのだそ うだ。 それで僕は最初、クリスマスの時に 着たホリーとおそろいのドレスを着て 行こうかと思った。あの赤いベルベッ ドのミニドレスだ。 でも、あれではちょっと時季はずれ のような気もした。あれは、いかにも クリスマスという感じだ。ちっちゃい 557/806 女の子のようにかわいらしくて「シュ ガー・アンド・スパイス」そのものと 言っていい。 今度、誘われているのは、なんと言 ってもバレンタインデー‥‥恋人たち の日なのだ。「シュガー・アンド・ス パイス」なんかでなく、もっと大人っ ぽい服を着たい。 じつはロブも、あの赤いベルベット を着て来てほしいと言い、あれこれ理 由を並べた。 「あの服は本当に似合うし、君のきれ いな脚を引き立てる」「赤は、まさに バレンタインデーの色だ」「友達は、 まだあの服を着た君を見ていないか ら、僕はそんな君をみんなに見せびら かしたい」‥‥。 やっぱりロブは男の子だ。女の子の ファッションも、女の子の気持ちもぜ んぜんわかっていない。 558/806 僕はロブにキスして「心配しなくて いいから、あたしに任せて」と言った。 僕は、誰よりロブに見てもらいたい のだし、ロブに驚いてもらいたいのだ。 彼がもっと僕に夢中になるような服 を、探さなければいけない。 僕はすぐに、ホリーを巻き込み、い っしょにドレスを買いに出かけた。 そして、いろいろ見た末、ついに気 に入ったドレスを見つけた。 やはり赤だが、ボディコンシャスな つくりで、これまで着たどんな服より ミニでタイトだ。これなら、最近大き く変わってきた僕の体型を、隠すとこ ろなく見せられるにちがいない。サン キュー、女性ホルモン。 試着室を出てきた僕に、ホリーは息 をのんだ。 「そんなの見たら、あなたのパパ、心 559/806 臓が止まるわ!」 「パパに見せるんじゃないもの。見る のはカレよ。彼にとって、一生忘れら れないような思い出にしたいの」 僕は、鏡の前であれこれポーズをと りながら、新しい自分の体に手を這わ せた。 「そうね、それならロブは、ぜったい 忘れないわ」 ホリーはにやにやしながら言った。 「自分の部屋に帰ったらすぐに思い出 して、激しい運動をするはずよ」 パーティの準備を終えたホリーと僕 は、自分で言うのもなんだけれど、驚 くほどの美人に見えた。 ホリーが選んだのは、太腿の真ん中 くらいの丈の赤いスリップドレス。僕 のより、ちょっとだけ長い。僕らはそ れに極薄の黒のストッキングを履い 560/806 た。下に着けているのは、もちろん最 高にセクシーな黒のランジェリーだ。 控えめに表現するとしても、パート ナーたちは、僕らを「あがめる」にち がいない。 思ったとおり、ロブも、それにホリ ーのパートナーであるジョーも、僕ら を見たとたん、目を見張った。それだ けでなく、パーティ会場に入っていく と、そこにいた男の全員が僕らのこと を目で追った。それはまちがいなく、 ロブとジョーのプライドをくすぐった はずだ。 僕はロブと何曲か踊り、そのあと、 ホリーとパートナーを交換して踊っ た。 と、それを合図にするように、一人 で来ていた男たちが、次々にダンスを 申し込んできた。 561/806 ロブもジョーも、それをいやがらな かった。 他の男たちが自分の腕に抱いて踊る ことで、ホリーと僕がいかに女らしく て、かわいくて、セクシーかを知れば 知るほど、学校内での、彼らの序列が 上がるということだろう。 パーティが終わるまでに、ホリーと 僕は、連れのいない男のほとんどと踊 っていた。それどころか、ボーイフレ ンドが僕らと踊りたがったせいで、ダ ンスフロアに取り残されてしまった女 の子たちも何人かいた。もちろん僕ら は、そんな女の子たちを傷つけないた めに、ためらうことなくロブとジョー を差し出した。いずれにしても、最後 の曲では、みんなもとのパートナーの ところに戻り、すべては丸く収まった。 その最後のダンスは、最高に素敵だ った。ロブは、僕がこのパーティ会場 562/806 でいちばんかわいい女の子だと何度も 繰り返し、その太い腕にきつく抱かれ た僕は、まるでふわふわと宙に浮くよ うな高揚感を味わっていた。もっとも それは、僕の中で例のお天気屋現象‥ ‥ホルモンによる感情の高ぶりが起こ っていたからでもあった。 そう、そのお天気屋現象‥‥という か、情緒不安定の症状についても、話 しておいた方がいいだろう。 ものすごく幸せだと感じている何秒 後かに、急に涙が溢れ出したりする。 最近では、そんなことがよく起こるの だ。 たとえばロマンチックな映画を見て いる時なら、それも悪くない。でも、 バッグスバニーのようなマンガを見て いる時にさえ起きるのは、ちょっと困 りものだ。 563/806 検診の時、そのことを報告すると、 医師は「苦しいなら、女性ホルモンの 量を減らしましょうか?」と提案して きた。でも僕は、即座にそれを断った。 自分の体が変わっていくことに、僕 は喜びを感じている。くびれていくウ エスト、かわいい丸みを増すお尻、ふ くらみはじめた胸‥‥本物の女の子へ と変身していく過程を少しでも押しと どめるようなことは、ぜったいにいや だった。 ロブに抱かれ、キスされ、最高の女 の子だと言われることに価値を見いだ せなくなったというなら話は別だが、 今の僕は、ますますそれを望んでいる。 そのためには、どんな苦しさだって耐 えられる。 じつは、例の手術について、僕はロ ブに詳しいことは話していなかった。 564/806 何日間か入院することは伝えてあった が、彼はそれを女性化の進度を確かめ るための検査入院だと思っている。 でも、ホリーは当然、知っている。 それどころか、彼女は僕といっしょに 入院し、同じ手術を受けることになっ た。 そう、同時に、同じ手術を。僕がそ の手術の話をした時から、彼女は親に 頼み、さんざんねだったあげく、つい には同意を取りつけていた。 小さな頃からの親友であり、未来の 義理の妹でもある人といっしょにそん な手術に臨めるなんて、なんて素敵な ことなんだろう。夏には、おそろいの 小さなビキニでプールサイドに寝そべ り、ボーイフレンドたちにサンオイル を塗ってもらえるのだ。 その手術が行われる予定の春休みま での間、ホリーと僕は、心弾む思いで 565/806 ふざけ合ってばかりいた。 僕は、彼女が、僕の成績に追いつけ ないだろうと、さかんにけしかけた。 その結果――微積分とフランス語の小 テストの前にはちょっと勉強を見てあ げたこともあり――、彼女はこれまで になくいい成績をとった。 愛する娘の評価がいきなりCからA に上がったことに、彼女の両親はたい へん喜び、もし今学期の成績がよかっ たら、僕に何かお礼をしたいと言った。 僕は、それに感謝しながらも今はいい と断った。僕が彼らからもらいたいも のは、ひとつしかない。彼らの息子だ けだ。 ともかく、そんなふうにいい成績を 保ちながらも、ホリーと僕は、毎日を 浮かれて過ごし、その大改造の日を迎 えた。 566/806 春休みに入った天気のいい月曜の 朝、僕ら2人は両親に連れられ、入院 した。 病室に入るとすぐに、看護士からカ ミソリを手渡され、バスルームでシェ ービングしてくるように言われた。 僕はホルモンを始める前からひげが 薄く、剃らなければならないほど生え ないと言うと、その看護士は大笑いし た。 ‥‥ん? なんか、変なこと言っ た? 戸惑う僕に、看護士は耳打ちし、そ の「シェービング」の意味を教えてく れた。僕は顔を真っ赤にしてカミソリ を受け取り、バスルームに駆け込んだ。 とはいえ僕は、その部分の毛も薄く、 剃るのに手間取ったわけではない。2 分後には、夢の国への出発準備がすべ て整っていた。 567/806 「また、あとでね」 看護士が僕の腕に慎重に針を刺すの を見ながら、ホリーが声をかけてきた。 「あたし、ビキニを着るのが待ちきれ なかったの」 ストレッチャーの上に身を横たえな がら、僕はそう答えた。 「だから‥‥」 そのあと、すでに白いビキニを注文 ずみだという話をしようと思ったのだ が、その言葉の途中で、僕のまわりを 暗闇が包んだ。 看護士の声が僕の名を呼び、具合は どうかときいているのはわかってい た。 でも僕はその時、素敵な夢を見てい る真っ最中だったので、それには答え なかった。 568/806 ‥‥プールサイドに腹ばいに寝そべ った僕‥‥おっぱいとお尻には、ちっ ちゃな白いビキニ‥‥ローションを塗 ってくれているロブの手が、背中や腿 の上をやさしくすべり‥‥その唇が、 首の後ろにそっと触れる‥‥。 目を開けたところで、僕はがっかり した。 僕の着ているのはビキニではなく、 白は白でも病院のガウンだった。背中 をなでさすっていたのも、ロブではな くパパだったのだ。 「だいじょうぶ、フェイス?」 ママの声が聞こえた。 「つらくない?」 「‥‥かな‥‥しい。あたし‥‥、か なしい」 僕はつぶやくように言った。素敵な 夢から覚めてしまったことが、本当に 悲しかったからだ。 569/806 「フェイス、でも、これは、お前が望 んだことだったんだろ?」 困惑したパパの声が、どこか遠くか らのように聞こえてきた。 「今さらそんなことを言っても‥‥。 それに、ロブのことだって‥‥」 「ちが‥‥う。そう‥‥じゃ‥‥なく ‥‥」 僕は、その誤解を解こうとしたのだ が、まだ意識がはっきりせず、言葉が うまくつかまえられない感じだった。 「ロブ‥‥愛してくれる‥‥うれしい ‥‥夢が‥‥」 「体を起こさせた方がいいわね」 看護士の声がして、その看護士とパ パが両側から僕の背中を支え、ベッド の上に座らせた。 「もう十分に回復したでしょ。目を覚 ます時間よ」 起きあがってからもしばらくは、ぼ 570/806 ーっとしたまままわりを眺めていたの だが、そこで突然、目の焦点が合った。 隣のベッドがからになっていることに 気づいたからだ。 「ホ、ホリーは? ホリーは‥‥ど、 どこ?」 その、ホリーのベッドを指さし、ま だもつれる舌と必死に戦いながら言っ ていた。 「ホリーは、まだ手術室よ」 ママが言った。 「あなたのがすんだあと、彼女の方に かかったんだから」 僕を取りまいていた霧が次第に晴れ ていき、舌のもつれもなくなってきて、 やっと、言葉が思考に追いついてきた。 僕は、見ていた夢のことを話し、さ っき「悲しい」と言ったのは、目を覚 ました時、背中をなでていたのが、ロ ブでなくパパだったからだと説明し 571/806 た。 もう一度、看護士に具合をきかれ、 僕は、脚のつけ根あたりに鈍い痛みを 感じる他は、別にどこもおかしいとこ ろはないと伝えた。看護士はそこで、 何錠かの錠剤を飲ませ、ナースコール のボタンの説明をした。 「手術はすべて順調にいったそうよ」 ママはそう言いながら僕の髪をな で、パパは僕の肩を抱きしめてくれた。 「しばらくの間、乗馬とかバイクは禁 止だって。でも、この夏、ロブにあな たを見せて喜んでもらうぶんには、な んの支障もないわね」 「ええ、暴走族やカウボーイになるの は、あきらめるわ」 僕は、笑いながらそう答えた。 「カウボーイにかぎらず、ボーイに戻 ることも、もうできませんよ」 病室に入ってきた執刀医らしい医師 572/806 が言った。 「もともとテストステロンの生成能力 が低かったあなたの睾丸は、大量の女 性ホルモンを浴びて、すでに機能しな くなっていました。それで、ご両親の 許可をいただいた上で、この際、切除 した方がいいと判断しました」 「ええ、今のあたしにとっては、なん の未練もないものです」 僕はそう言って、彼にほほえみ返し た。 「自分が男の子だったということすら、 思い出せないくらいですし」 「本来なら、術前にご本人におことわ りするべぎでしたが、術中にそれがわ かったものですから」 医師はそうわびたあと、つづけた。 「去勢したわけですから、今後、女性 ホルモンの効き目はさらに高まるはず です」 573/806 「もっと早くそれを聞いていれば、そ の時点でお願いしたのに」 そしたら、今でも、もっと大きな胸 になってたにちがいない。 「まあ、いずれにしても、手術は大成 功でした」 医師はそう言いながら、カルテに何 か書き込んだ。 「もう、明日には退院していいでしょ う。傷も1週間うちには回復して、普 通に生活できるようになると思いま す」 「ついでに、夏も早く来ればいいのに」 僕は、満面の笑みで言った。 「早くホットパンツがはきたいから」 「もし、僕がもう少し若ければ、すぐ にでも君のボーイフレンドのところに 行って、大金を渡して、君を譲れって 言うのに」 医師はそうからかってきた。 574/806 「もし、彼と別れるようなことがあっ たら、いつでも連絡して」 「先生は素敵な男性だと思うわ。でも、 それは無理ね。だって、ロブにとって は、お金よりなにより、あたしが大事 なんだから」 「こんなかわいい女の子をつかまえた なんて、なんて幸せなやつだって、彼 に伝えといて」 医師の言葉どおり、僕は翌日退院し、 新学期までの1週間を自宅で過ごし た。 言うまでもなく、その間僕は、1日 に何度も、ガーゼを変えるふりをして 新しい股間を確かめた。かつて、あの やんちゃ坊主がいた場所に、ぷっくり とした「唇」があるのを見るたびに、 僕は死ぬほどワクワクした。 ある日、そんな「点検作業」の真っ 575/806 最中に部屋のドアがノックされた。マ マだ。何か持ってきたとか言っている。 あせった僕は、急いでパンティとス ラックスを上げたが、その途中で入っ てきたママは、何をしていたか気づい たかも知れない。 「じつはね、新しいパンティを買って きたのよ」 ママはそう言いながら、「ビクトリ アズ・シークレット」というロゴの入 った紙袋を差し出した。 「これまでのは、ちょっと変なところ が伸びちゃってるでしょ。それに、も しかしたら、今のあなたは、もっとセ クシーなのが履きたいんじゃないかな と思って」 「セクシー? そんなこと、思ってな いけど‥‥」 ママには純情な娘だと思っていても らいたかったし、それに、ママの言う 576/806 セクシーなんてたかが知れているだろ うとも思い、僕はそう言った。 ところが、袋の中をのぞいた瞬間、 僕は言葉を失った。そこにはたしかに、 セクシーとしか言いようのないパンテ ィが10枚以上も入っていた。 「えーっ、うっそー!?」 その新しい下着をベッドの上に並べ ながら、僕はさらに息をのんだ。 「これ、マジで? パパが見たら、心 臓が止まるわ」 そこには、ブリーフは言うまでもな く、コットン・パンティすらなかった。 かのリチャード・ニクソンが死んで 以来、この惑星上で最も保守的だと思 っていたママが買ってきたのは、なん と、20枚以上のひもパンだったのだ。 あ然としてその顔を見やると、ウイ ンクしたママは、なぜかドアの鍵をか けた。 577/806 「ずいぶん高かったのよ。ねえ、履い てみせてよ」 ママは、ニコニコと笑いながら言っ た。 「恥ずかしがらなくてもいいわ。母親 として、かわいい娘がどれほど成長し たか、見たいだけなんだから」 笑ってはいるが、何だか有無を言わ せぬ口調だ。 とはいえ、僕の方も、拒否する気は なかった。 正直に言えば、ロブとつきあい始め た頃からずっと、僕は、こんなパンテ ィを履くことを夢見ていた。 たとえばロブとのデートで体を寄せ 合っているような時、僕の心の中で、 誰かが、「いい子」であることから思 い切って踏み出せとささやく。このま まロブが「いけないところ」に連れて 行ってくれたらいいのにと、密かに望 578/806 んでいたりする。 だから、こんなパンティの広告を見 かけると、心が騒ぐ。店で、実際に手 に取ったことも何度かある。でも、い つも買う寸前で思いとどまっていた。 恐かったのだ。 もしこんなのを履いたら、そのとた ん、僕は、欲望の中におぼれていきそ うな気がした。せっかく僕のことを大 事にしてくれている理想の男性の前 に、自ら身を投げ出し、彼をその欲望 の中に巻き込んでしまいそうな気がし たのだ。 でも今、ママのお許しが出た。 僕はさっそくスラックスを脱ぎ、も はやダサいとしか思えなくなったパン ティを、さっさと下ろした。 「最初は、これね」 ママはまた、もう決めているという 口調で言い、薄い黒レースのひもパン 579/806 を渡してくれた。 それに足を通し、やさしくずりあげ、 長さを調整してひもを結び直す。 ああ、こんな超セクシーなものを身 につけた感覚を、いったいどう表現し たらいいんだろう。 全身の末端神経から悦びの信号が駆 け上り、僕の意識をはるか高みまで押 し上げる。今、言うべき言葉があると したら、それは、恍惚という以外ない。 「かわいかったあなたも、いよいよ女 ね」 鏡の中の僕の姿を、ママは、本当に 若い女性として見つめてくれていた。 「上着とブラもとってみて。胸がどの くらい大きくなったか見たいの」 その言葉にも、僕は何の躊躇もなく 従った。ママの前でパンティひとつに なり胸をチェックされることに、不思 議と照れはなかった。というより、ふ 580/806 くらみつづけている胸を、母親に自慢 したいような気持ちになっていた。 「ふふ、私が同じ年頃だった頃よりは 小さいわね。でも、私は最初から女の 子だったんだから、そのぶん、ハンデ をあげなきゃね」 ママはそう言って笑いながら、なん と自分も、履いていたショートパンツ を脱ぎ始めた。 驚いたことに、ママはその下に、僕 とおそろいの、でも色違いの白いひも パンを履いていた。 「えーっ! ママが、そんな大胆なの 履くなんて、思わなかった」 僕は笑いながら言った。 「だいいち、自分をセクシーに見せた いなんて、考えない人だと思ってたも ん」 「失礼ね。ママだって女よ」 ママは、そう反論し、怒った顔をし 581/806 てみせた。 「セクシーに見せたくない女なんて、 いるわけないじゃない」 さらにママは、自分も上着を脱ぎ、 ブラまでとってしまった。 「どう? 年の割には、いい線行って るでしょ」 たしかに、ママの言うとおりだった。 その胸は僕より数段大きく、しかも、 未だ張りがあって形もいい。 「期待してていいわよ。うちの家系は、 みんな大きいし、セクシーでかっこい いおっぱいなんだから」 「ああ、あたしも、早く大っきくなら ないかな」 僕は、ママの均整のとれたボディに 見とれながら言った。 「ママみたいになれたら、きっとロブ は、もっと夢中になってくれるわ」 582/806 他にも何枚かのパンティを試したあ と、僕らは服を着て、夕食の仕度のた めにキッチンに向かった。 ママが、僕のことを、一人前の女と して‥‥年若い同性として接してくれ たことが、僕にはすごくうれしかった。 そのおかげで僕は、自分がまだ男の子 なんじゃないかとか、女の子としては 未完成なんじゃないかとか、そんなこ とを思い煩わなくてすんだ。 ホリーと僕が術後の副作用もなく回 復し、学校に戻ってきたことを、ミセ ス・ウイリアムズは喜んでくれた。病 院からの申し送り書面を見た彼女は、 僕らに、通院の必要があるうちは体育 の授業を免除すると言った。 ふたたび始まった学校生活は楽しか ったが、僕らにはそれがちょっと不満 だった。 583/806 体育館での着替えがないぶん、変わ った体をみんなに見せびらかすチャン スがなかったからだ。まあ、僕につい ては、みんなをうらやましがらせるに は、もう少し体型が変化してからの方 がいいのだろうが。 とはいえ、学年末(※)までには、ホ リーと僕が獲得した下半身の構造やカ ーブに富んだ体型は、全校生徒に知れ わたっていた。さらに男の子たちにモ テる要素を手に入れたことで、僕らは 羨望の的となった。。 (※訳注 7月初旬 9月に始まるアメリカの 学年は夏休み前に終わる) 長い冬の間、僕は、タートルネック セーターやジーンズやブーツに全身を 包まれていた。 でも、夏がやってきた今、女の子な らではの格好が思いっきりできる。ぴ 584/806 ちぴちのホットパンツ、ミニスカート、 サンダル、肩やおへそを出したトップ ス‥‥。そんなのを、いっぱい着るつ もりだ。 なんと言っても、 「持ってるもんは、 見せなきゃソン」。そして今、僕は、 まちがいなくそれを持っているのだか ら。 男の子の僕は、背の低いやせっぽち でしかなかった。でも、それはもう過 去の話。今の僕は、同世代の女の子た ちに負けないだけの立派な肉体を持っ た若い女性だ。めいっぱい見せびらか してやろう。 夏休み中、僕には、何週間かキャン パスを離れ、家族と過ごす許可が出た。 僕は、その期間を最大限に生かす計画 を立てていた。 この春から夏にかけて、僕の衣服の 585/806 下に入れているパッドの量がどんどん 減っていることを、ロブはまだ知らな い。そんなロブを驚かせてやるための 計画だ。 その帰省期間に入る前、僕はホリー を誘い、毎日ショッピングに出かけた。 そして、ミニスカートや、ぴちぴちの トップスや、思いっきり短いホットパ ンツなどを買いあさった。 もちろん、そんな服がパパにショッ クを与えることはわかっている。でも、 もうパパも、そろそろわかっていいこ ろだ。パパのちっちゃな娘は、すでに 一人前の女になっていることを。そし て、いくらパパでも、それを押しとど めることなんてできないのだというこ とを。 案の定、休みに入って最初のデート に出かけようとする僕のホットパンツ 586/806 姿に、パパはキレた。 「まさか、そんな格好で、どこかに出 て行くんじゃないだろうな!」 ロブの到着を待とうとリビングに入 っていくなり、パパは言った。 「もうじき、ロブが迎えに来てくれる の。ピザレストランへ行って、そのあ と映画を見るんですって」 パパの首筋の血管がぴくぴく動いて いるのに気づいてはいたが、僕は平静 を装い、いつもの調子で返事した。 「そんなものを着てか?」 「え? ああ、これ? 今日は暑くな りそうだし、買ったばっかりのこのホ ットパンツがちょうどいいかなと思っ て」 「いったいなに考えてるんだ。お前は、 パンティで外を歩くつもりか?」 僕が今履いているパンティはもっと ずっと短くて、生地も思い切り小さい 587/806 んだと言ってやりたくなったが、パパ に脳卒中でも起こされたら困ると思 い、やめておいた。代わりに、立ち上 がって、ヒップのあたりをなでながら、 笑いかけた。 「なに言ってるの、パパ。これはパン ティじゃないわよ。女の子なら、みん な履いてるわ。いくらでも見かけるで しょ」 「あいにく、ティーンエージャーの娘 たちの着ているものに、関心なんてな いんでな」 パパは腹立たしげに言った。 「ただし、自分の娘となれば話は別だ。 そんないかがわしい女のような格好で 町を歩くなんて、ぜったい許さん!」 「あら、そう。じゃあ、あの頃、あな たは私のことをいかがわしい女だと思 ってたわけね」 ママが、パパの脳卒中を遅らそうと、 588/806 いたずらっぽい顔を向けた。 「若い頃、デートの時、私もよくホッ トパンツを履いたわよ。忘れたの?」 パパはなにか言いかけたが、そこで 言葉をとめ、思い出すようにしたあと、 ちょっとにやけた顔になった。 「ああ、たしかに君は、ホットパンツ がよく似合ってたよ」 「でしょ。私はよくて、フェイスはだ めなわけ?」 「そ、そりゃ‥‥。この子は大切な娘 だ。娘のデート相手に、あの時の私の ような感情を抱いてほしくはないだろ う」 言ってから、パパはしまったという 顔をした。でも、言ってしまったもの は、もうどうしようもない。 「へえ、あの時、あなたはどんな感情 を抱いてたのかしら?」 ママは、勝ち取った主導権をたしか 589/806 なものにするように、迫った。 「と、ともかく‥‥」 パパは口ごもるように言った。 「私は、この子がこんな格好で男と会 うなんて、いいことだとは思えない」 「この子はもう、なんだってできるわ。 実際にするかどうかは別にしてね。そ れに、本当のところ、そうしたいとい う気持ちだってあるでしょうしね」 ママは、その論争にとどめを刺そう としていた。 「フェイスはもう、一人前の女よ。女 として、セックスにどう対処して、新 しい自分の体を守っていくのか。親が 口出すんじゃなくて、自分自身で学ば なければいけない時期だと思うわ」 「だから私は、なにより、それが心配 で‥‥」 パパは、ため息をつくようにぶつぶ つ言い、敗北を認めた。 590/806 パパの心配に反し、迎えに来たロブ は完全に紳士的に振る舞った。 ただしそれは、家を出るまではとい うことだ。車の近くまで行ったところ で、ロブは、こらえきれないように、 僕がどれほど素敵に見えるかを語りは じめ、その数秒後には僕を抱きしめ、 これまでに経験したうちでも最高のキ スをしてくれた。 ロブは、こんな僕を、知り合いすべ てに紹介したいと言った。ロブの友人 たちとは、ほとんど冬の間に会ってい た。でも、こんなふうになった僕を、 彼は自慢したいのだろう。もちろん、 僕に異存はない。 僕も、ロブの友だちに見られるのが 好きだ。彼らと会うと、たいてい、冗 談めかして、僕にデートを申し込んで きた。そのたび、僕は感謝のほほ笑み 591/806 とともに、僕がロブの彼女であること をあらためて伝えた。 あとからロブに聞いた話によれば、 彼らは、さかんにロブをうらやましが り、もしロブが僕を大事にしなかった ら、すぐにでも奪い取ると言ったそう だ。もちろん、そんな可能性はほとん どなかったが、僕はそんなふうに言わ れてわくわくした。 2週間が過ぎ、学校に戻らなければ ならない時が近づくと、僕は、悲しく て仕方なかった。それほどこの休暇は 楽しいことばかりだったのだ。 毎日、最高に素敵なカレといっしょ に過ごし、新学期用に着るかわいい服 をママと買いに行き、毎日、最高に素 敵なカレといっしょに過ごす。 ‥‥ん? 今、同じことを二回言っ た? 592/806 でも、しかたない。だって、僕にと ってそれは、これまでの人生で最高に 素敵な時間だったんだから。 たとえば僕は、ロブに、僕が育った 町を案内した。 かつて、ホリーと僕がハリーとフラ ンクだった頃、ふたりで遊んだ場所も 巡り、僕らがつくって「女の子立入禁 止」を宣言していた木の上の要塞も見 せた。 もちろん、僕が理科室に火をつけた 学校にも行った。ある意味、あの事件 がなければ、ふたりがこんなふうに出 会うこともなかったのだから。 それらすべての光景は、短い間にす っかり変わってしまっていた。いや、 すべては、あの頃と同じようにそこに あったのだが、僕には変わって見えた。 手のつけられない問題児の男の子と して見るのと、恋する女の子の目から 593/806 見るのとでは、世界は違って見えるの だ。 そこには、前は気がつかなかった素 敵なものがいっぱいあった。学校の花 壇にはかわいい花がいっぱい咲いてい たし、ロブといっしょにシートを広げ て時間を過ごした町の公園も、以前は こんなにいいところだとは思わなかっ た。公園で遊ぶ人々を眺めていると、 彼らもまた、僕らのことを若くてほほ えましいカップルという目で見て、笑 い返してくれた。 もうひとつ、けっして忘れられない ことがある。ロブの家のプールへ初め て泳ぎに行った時の、彼の顔だ。 それは、この春から僕がずっと待ち 望んでいた瞬間だった。いよいよ、本 当に女の子っぽい女の子に変わった僕 を見てもらうのだ。 594/806 そのイベントにあたり、僕はちょっ ともったいぶって、ロブに先に着替え させ、彼が水泳用のトランクスで出て くるのを、プールサイドで待った。 でも、そのトランクス姿を見た瞬間、 僕の方がまずのぼせ上がった。筋肉の 盛り上がった毛深い腕や脚、そして胸 毛。出会って以来初めて、僕は、彼の 体から目が離せなくなった。特に、ト ランクスの前のごつい盛り上がりか ら。 僕は、あわててその場を離れ、着替 えに走った。そうでもしないと、すぐ に彼を部屋に誘い、ベッドの上に押し 倒して、むしゃぶりつきそうな気がし たからだ。 ママやパパにいい子でいることを約 束して来ている以上、そんな考えは、 むりやりにでも捨てなければならな い。そう思いながら、僕はホットパン 595/806 ツとトップスを脱ぎ、ビキニに着替え た。 髪を整え、ポニーテールにまとめて、 白いシフォンのスカーフで結う。その あと、唇にちょっとグロスを塗り、ビ ーチサンダルを履く。 そんな姿で僕は、今度こそロブをの ぼせ上がらせるために外へ出た。 「おお、神よ‥‥」 できるかぎりのセクシーさで腰をス イングさせながら近づいていくと、ロ ブはそうつぶやいた。 「いったい、なんて‥‥なんて君は‥ ‥まるで‥‥夢みたいに‥‥」 「どうしたの、坊や?」 僕は、いたずらっぽく笑いかけなが ら、彼の首に腕ををまわし、その顔を 引き寄せようとした。 キスというものがどれほど雄弁か、 本当によくわかった。 596/806 なにも言わなくても、2フィート(約 60センチ)ほど宙に浮いた僕には、彼 の言いたいことがはっきり伝わってき た。 「君こそ、世界中でいちばんセクシー な女の子だ!」 そう、僕がどれほどホットな女の子 かは、そのままふたりでプールに飛び 込んだ瞬間、蒸気が立ちのぼったよう な気がしたことでもわかる。 彼は、そんなセクシーでかわいいボ ディにありとあらゆる素敵なことをし たいようだった。 いや、もっと正直に言おう。 ロブの言いたいことや考えているこ とが、キスだけで伝わってきたわけじ ゃない。ことに、彼が何をしたがって いるかという部分については、彼のあ る部分が、僕の体に強く押し当てられ たことでわかったのだ。 597/806 それは、女の子の服を着始めた時か ら、僕が密かに持っていた夢だった。 男の子がこうなるということは、ただ 単にかわいいと思っているだけじゃな いだろう。僕を性の対象として、つま り本物の女として認めているというこ とに他ならない。 ロブの手は、僕のウエストからお尻 へと移動し、そこをなでるように揉む ように動いた。そのことで、僕の体の 中から、大きな悦びがわき上がってき た。 ただ、悲しかったのは、あの手術が、 これ以上の悦びを想定したものではな かったことだ。そう思うと同時に、僕 は、自分の中に、彼とのセックスを待 ち望む衝動がまちがいなくあるのを感 じた。 そして、さらに不幸なことは、僕ら がふたりとも「いい子」だったことだ。 598/806 出かけていた彼の両親が間もなく帰っ てくることはわかっていたから、ふた りとも、プールの水で火照った体を冷 ますしかなかった。 「えっ? 君はもう、ほんとの女の子 になったの?」 プールから上がったところで、ロブ は、僕の股間を見つめながら言った。 「あら、失礼ね。あたしはずっと昔か ら女の子よ」 僕は、そんな彼のほおをたたく真似 をしながら言った。 「ただ、これまでよりもっと女の子に なっただけ。まだ、先はあるけどね。 で、ここまでのところ、あなたは気に 入ってくれた?」 言葉を浪費しないボーイフレンドを 持つのは、素敵なことだ。ロブは、言 葉よりキスの方が効率がいいことをよ く知っている。 599/806 あと2日で学校に戻るという日、マ マとパパは、僕に大きなサプライズを 用意していた。 その夕方、ロブと僕は、やはり1日 デートして帰ってきたところだった。 僕は、ロブがお気に入りのピンクのサ ンドレスを着ていた。ロブの方は、筋 肉や胸毛が素敵に見える短パンとタン クトップだった。 ふたりでキッチンに入っていくと、 そこで待っていたママが、なんだか公 式文章っぽい封筒をさし出した。 「ミセス・ウイリアムズが転送してく ださったのよ」 彼女は、つづけてこう説明した。 「あなたに判決を下した判事からです って」 「そんな、心配そうな顔しないで」 僕は、じつは、自分でもちょっと心 600/806 配しながら言った。 「判事が、あたしに男の子に戻れとで も言うの? そんなこと、ぜったいで きないはずよ」 僕は肩をすくめながら、32インチB カップの胸を示すジェスチャーをして いた。 その手紙を読み始めたところで、僕 はちょっと違和感を感じた。深刻そう な顔をしていたママが、くすくす笑い 始めたのだ。 そして、数分後にはその理由がわか った。 裁判所からの命令という形をとった その手紙は、僕の更正についてミセス ・ウイリアムズから聴取した結果、減 刑に値するとして、判決の期間短縮に よる執行終了を宣言していた。つまり、 僕の行動に加えられたあらゆる制限が 解除され、望むなら、このまま、グレ 601/806 ート・インディアン・リバーに帰らず 自宅で暮らしてもよいということだ。 犯歴としても残らないという。 「あたし、戻らなくてもいいのね」 僕は、興奮しながら言った。 「やったー!」 「えっ? あなたは、グレート・イン ディアンを卒業したいんじゃなかった の?」 ママが、不思議そうな顔できいた。 「フェイスになったあなたが、前の学 校にもとどおり通うのはつらいと思う んだけど」 「ちがうわよ、ママ」 僕は説明した。 「あたしはもとどおり、大好きなガー ルセンターに帰るわ。お友達と別れた くないし、それにも増して、ミセス・ ウイリアムズと別れたくないもの。あ たしは、自由の身になれたのがうれし 602/806 いの。これで、会いたい時にはいつで もロブに会えるし、帰りたい時にはい つでも家に帰れるわ。あたしは、何に も束縛されない自由な女の子になれた のよ。もう、ぜったいに男の子に戻ら なくてもいいってこと」 「おめでとう、フェイス」 ロブが、僕を抱き寄せ、キスしなが ら言った。 「これで僕も、前科者の女の子と結婚 する心配をしなくていいわけだ」 「それについては、じつはもう一通、 裁判所の決定が添えられてたのよ」 ママは、何だか思わせぶりな笑顔で テーブルの上からもう一通の書面を取 り上げた。 「さあ、いったい、どんなことが書い てあるのかしら?」 その書類をひったくるように取って 目を通した僕は、あまりの驚きに、思 603/806 わずそれを落としそうになった。 今、僕の手の中にあるのは、1通の 出生証明書。偶然にも僕と同じ日、同 じ時間に、同じ両親から生まれた‥‥ フェイス・ジョアンナ・ジョーダンと いう‥‥女性の出生証明書 ( ※ ) だっ た。 (※訳注 戸籍制度のないアメリカでは、これ が性別の法的根拠となる というか、「戸籍」 という封建制度が残っているのは日本と韓国く らい) 「あ、あたし‥‥、ほんとに本物の女 の子!」 僕は叫びながら、飛び跳ねていた。 「女の子、女の子、女の子。ね、素敵 な響きだと思わない?」 「僕もうれしいよ」 ロブは最大の笑顔で答えてくれた。 「もっとも、それを疑ったことなんて、 一度もなかったけどね」 604/806 「おめでとう、フェイス」 ずっと笑って見ていたパパも言って くれた。 「これで私も、公式に女の子のパパっ てわけだ」 パパの祝福は、外食につながったが、 行ったのはピザレストランだった。 僕は、かわいい衣装とヒールに着替 え、ちゃんとしたレストランに行きた かったのだが、短パン姿のロブがいや がったからだ。いったん帰って着替え てくるには、家が遠すぎるとロブはご ねた。 きれいに着飾って素敵になること に、男の人って、どうしてこう熱心に なれないのだろう? そう思ったことで、僕は自分が、か わいい服や素敵なランジェリーを着る ことがなにより大好きになっているこ 605/806 とを再認識した。 神よ、僕に女の子の楽しみを教えて くれたホリーに、最高の祝福を! 制限を解かれた僕は、さっそくミセ ス・ウイリアムズに電話し、外泊をも う1週間伸ばすと申し出た。その週に 僕の16回目の誕生日が来る。その日を、 ロブといっしょに祝いたかったから だ。でも、それが終わったら、急いで 学校に戻る約束もした。その頃には、 何人か、新入生の女の子たちが送致さ れてくることになっている。その子た ちの面倒を見たいと思ったのだ。 自分の経験から言っても、男の子が 女の子として暮らさなければいけなく なる最初の数週間が最もきつい。僕の 時にホリーや他の女の子たちがしてく れたことを、僕もその子たちにしてあ げたいと思っていた。 606/806 僕の16歳の誕生パーティは、すばら しいものになった。会場として、ロブ の両親が、プールを使わせてくれたの だ。 そのおかげで、学校から近いことも あり、友達すべてを招待できた。ロブ の方も、自分の学校から、野球部やア メフト部や陸上部の男の子たちを呼ん でいた。 その日は太陽が照りつける暑い一日 で、プールパーティには、うってつけ だった。 女の子たちはかわいい水着を着て、 男の子たちのうち、かっこいい何人か のまわりをワクワクしながらうろつき まわった。 男の子たちはみんな、いわば典型的 なティーンエージャーの男という感じ で、女の子の気を引くために、他の男 607/806 の目の前に裸のお尻を突き出したりし て、ふざけ合った。そのあと、かわり ばんこに水に飛び込んで遊んでいた彼 らは、やがて、もっと幸せな気分を味 わいたくなったらしく、水上騎馬戦を 提案し、それぞれに僕ら女の子を肩車 して戦った。 ロブは、誕生日プレゼントとして、 かわいいロケットをくれた。その中に 入っていたのが、あのグローブトゥロ ッターズの試合を見に行った日に撮っ た写真であることが、僕にはすぐわか った。 その写真の意味に、僕は泣き出して いた。それは、僕が女の子になること を決意した夜、そして、ロブと恋に落 ちた夜だった。 僕は、そのロケットを、一生身につ けると誓った。 608/806 パーティの翌々日には、僕はガール センターに戻っていた。 と、寮の部屋のドアに、ミセス・ウ イリアムズからのメモが貼ってあっ た。頼みたいことがあるから、荷物を かたづけたら、すぐに校長室まで来て くれということだった。 僕はもう、ミセス・ウイリアムズを 恐いと思ってはいなかった。それどこ ろか、彼女から頼りにされているらし いことを喜んでいた。 それにしても、頼みたいことって何 だろうと思いながら、スーツケースを ベッドの上に置き、髪とメイクを直す と、すぐに校長室に向かった。ミセス ・ウイリアムズの頼みなら、できるこ とは何でもするつもりだった。 「フェイス、戻って来てくれてありが とう」 609/806 僕が席に着くなり、ミセス・ウイリ アムズはそう笑いかけた。 「前にも言ったけれど、私はあなたを、 グレート・インディアン開校以来の優 秀な生徒だと思ってるのよ。あなたの ことを、どれくらい誇りに思っている か、わかってくれるわね」 僕は、何だか居心地悪い感じがして いた。いや、恐れなどではなく、照れ くさかったのだ。 「無理なお願いだと思うかもしれない けれど、ひとつ、助けてほしいことが あるの。大変なことだけれど、あなた ならうまくやれると思うわ。もし気が 進まないなら、遠慮なく断ってくれて いいのよ。だからって、あなたの評価 が変わることはないから」 「今のところ、断る理由が見つかりま せん。何を言われてるのか、さっぱり わかりませんから」 610/806 僕は、からかうような口調で言って いた。 そんなふうに、彼女に向かって冗談 めかした会話ができるなんて、ちょっ と信じられない気がした。去年の今ご ろは、彼女の前で笑っただけで洗脳さ れるにちがいないと感じていたのだか ら。 「じつは、あなたに、ある新入生のビ ッグシスターになってほしいと思って るの」 ミセス・ウイリアムズはほほ笑みか けながら言ったのだが、そのほほ笑み が僕の驚きを和らげることにはならな かった。 僕が‥‥ビッグシスター? 僕にはまだ、そんな心の準備はでき ていなかった。 僕が、この学校の方針に反発して、 女の子のように行動するのをいやがっ 611/806 ていたのは、そんなに昔のことじゃな い。たしかに今、僕は、カレさえいる 女の子っぽい女の子になっているかも しれない。でも、他の男の子が、僕と 同じ苦痛を味わう過程を、平然と推し 進めることができるだろうか? 「本気でおっしゃってるんですか? あたし自身、まだ、女の子になって日 が浅いんですよ」 「私の判断は、まちがいないと思いま すよ」 彼女は確信を込めて言った。 「その新入生は、あなたと同じクラス です。彼女は、自分を見失っている子 で、そういう子には、友人の援助が大 きな力になります。あなたこそその友 人に最適だと、私は確信しています」 僕には、この学校とミセス・ウイリ アムズに大きな借りがある。もし彼女 がその返済を望んでいるなら、断って 612/806 はいけないと感じた。 「あたしにできることなら、やってみ ます」 「うれしいわ、フェイス。あなたなら、 この新人のレディにとって、最高のお 姉さんになれるはずよ。ちょっと、彼 女について、説明しておきましょうね」 僕の新しい「妹」は、ラリーという 名だった。 彼は、あるストリートギャングのグ ループとつるんで、町をうろつきまわ っていた。そのグループは、せいぜい 万引きやひったくりをする程度だった のだが、最近になってその段階を「卒 業」し、ついには、コンビニ強盗まで 働くようになっていた。あるコンビニ を襲撃した際、ほとんどが逮捕された のだが、その時には、メンバーの一人 が射殺された。ラリー自身も危うく撃 613/806 たれるところだったようだ。 その裁判の過程で、彼の両親はガー ルセンターのことを知った。両親は即 座に入所を申請をし、結果、ここへの 送致という判決が出た。 裁判後、両親はまず、ラリーを隣人 の目から隠し、叔母のところに連れて 行った。 そこで、父親に見張られながら、彼 は母と叔母から採寸された。 彼はそれが、新しく入る学校の制服 のためだと聞かされていた。つまり、 彼が送られるのは、一般より校則の厳 しい寄宿学校だということだけを知ら されているわけだ。 2日後、ふてくされた顔の14歳の男 の子が校長室に座っていた。 彼の両親は、今後1ヵ月間は、息子 とは面会謝絶だと言い渡された。 614/806 彼らは、息子に別れを告げ、先生た ちの言うことをよく聞くようにと言い 残し、息子が何かを言いかけるより先 にそそくさと部屋を出た。 ラリーの両親が学校を去るのが、僕 が校長室に入る合図だった。 「この若い女性は、フェイスといいま す。ここでは、彼女が、あなたのビッ グシスター、つまりお姉さんになりま す」 ミセス・ウイリアムズは、僕が初め て会った時と同じ、冷淡な声音で告げ た。 「フェイスは、あなたのルームメイト であり、アドバイザーであり、あなた さえそう望めば、最高の友人にもなる でしょう。あなたが、このグレート・ インディアン・リバーでの生活に慣れ るよう、彼女がいろいろと面倒を見て 615/806 くれるはずです。彼女なら、勉強も教 えてくれるでしょうし、同様に、ここ での決まりや習慣についても親身にな って教えてくれます。あなたが反抗的 な態度をとって、彼女の言うことをき かないとか、あるいは、彼女が、あな たの更正はこの学校では無理だと判断 した時、彼女は私にそれを通告するこ とになっています。その場合、あなた は、少年刑務所に送られ、18歳までそ こで過ごすことになります」 まだ幼さを残すその男の子が、内心、 震えていることは、僕にはよくわかっ た。しかし、彼は、それを隠すように かたくなな態度をとりつづけた。 「へん! こんなネエちゃんの言うこ となんか、誰が聞くか」 彼は、そう毒づいた。 「こんなとこ、すぐにでも出てってや る」 616/806 「そうしたいんなら、してみなさい!」 ミセス・ウイリアムズは、一喝した。 「出て行った結果、何が待っているか は、わかっているんでしょうね。ここ にいるのは女ふたりだから、そこまで 強がっていられるんでしょうが、あな たより何インチも大きくて、体重が倍 もあるような男に向かって、あなたが どこまで虚勢を張れるか、ぜひ見てみ たいものです。ここの代わりにあなた が送られるところには、そんな男がう じゃうじゃいるんですよ。彼らが、あ なたのような小柄でかわいい男の子に 対して、どんなことをするのか、知っ ていますか? あなたはそこで、『ネ コ』と呼ばれる役回りをすることにな るはずです。その言葉の意味が、わか りますか?」 ラリーの強がりの姿勢は、一転して 怯えに変わった。彼は、その言葉をじ 617/806 ゅうぶんに理解したようだ。もし少年 刑務所に送られたら、自分がどんな目 に遭うのかも。 それでも、ミセス・ウイリアムズは、 あわれな少年への追及の手をゆるめな かった。 「さあ、さっさと出て行きなさい!」 彼女は冷たく言いはなった。 「私は、すぐに対抗手段をとります。 言うまでもなく、警察に通報するとい うことです。町に出る前に、あなたは また逮捕されるでしょう。そしてあな たは、何人もの男の慰み者になる。あ なたがそんなふうにかわいがられるこ とを、ご両親は喜ぶかしら?」 ラリーの目から、突然、大粒の涙が 溢れ出した。そして、むせるように嗚 咽しだした。僕は、彼が、本当に嘔吐 するのではないかと思った。 「それでも、あなたは出て行きます 618/806 か?」 ミセス・ウイリアムズは、そう問い つめた。 「早く答えなさい。私には、まる1日 待つような暇はないのですよ」 「ここで‥‥暮らします」 彼は、声をつまらせながら言った。 「ここに‥‥おいてください」 「これからは、どんな時も、いうこと をききますか?」 ラリーは、それにうなずいた。 「もう二度と、逃げるなどとは言いま せんか?」 それにも、うなだれるように同意し た。 「人が話している時は、ちゃんと目を 見なさい、ティファニー」 ミセス・ウイリアムズが誰に語りか けたのかと、ラリーは、周りを見まわ した。それは、僕が初めてフェイスと 619/806 呼ばれた時と同じだった。 「あなたに言っているんです、ティフ ァニー。聴覚に障害でもあるんです か?」 「‥‥僕?」 ラリーは、おどおどとつぶやいた。 「僕のことですか?」 「決まってるじゃないですか!」 その声音に、僕は、僕自身がラリー の立場にいた時のことを思い出し、思 わず身震いしていた。この冷酷で底意 地の悪そうな女は、本当に、僕の知っ ている、あのやさしくて寛容な人物な のだろうか? 「その‥‥僕だとは、思わなかったん で‥‥」 「もう、わかりましたね」 その声がまた、冷淡に響いた。 「フェイスが、部屋まで案内してかた づけを手伝ってくれます。今、午前11 620/806 時です。3時ちょうどにもう一度この 部屋に来なさい。秋からの授業の説明 をします。それまでに、この学校の生 徒にふさわしい服装に着替えること。 さっき、何でもいうことをきくと言っ たことを忘れないように」 「あ‥‥ああ」 「そんな言葉づかいは、二度と聞きた くありません!」 ミセス・ウイリアムズは、またきつ い調子で言った。 「今後、言葉づかいも、この学校の生 徒にふさわしいものに改めるように」 「‥‥はい」 ラリーは、小さな声でつぶやいた。 「誰に言ってるんですか?」 「は、はい、先生」 すでに彼の涙は枯れ果てているらし く、ただ、鼻をすすっただけだった。 「よろしい」 621/806 ミセス・ウイリアムズは、そう言っ て、その泣きべその顔にほほ笑みかけ たのだが、彼の目にはそうは見えなか ったらしく、困惑の表情が浮かんだ。 と、ミセス・ウイリアムズは、僕に かすかな目配せを送ってきた。僕は、 オスカー級の演技力に感嘆しながら、 うなずき返した。 そして、ラリーにやさしく手を添え、 校長室から連れ出した。 寮の部屋まで行く間、ラリーはずっ と口をつぐんでいた。その表情は、恐 れの中ですっかり我を失っている感じ だ。ただ、今後4年間、自分を拘束し ようとしているあの冷酷な女の目の前 から離れられたことだけは、とりあえ ず安堵しているように見えた。 「ここが、あたしたちの部屋よ」 622/806 僕はほほ笑みかけながら、ラリーを 部屋に導き入れた。 テーブルの花、クリーム色のカーテ ン、花柄ボーダーのライトピンクの壁 紙‥‥そんな室内の様相が目に入った ところで、彼は戸惑った顔でしばし黙 り込んだ。 「ここは‥‥女の子用の部屋だろ」 やっとのことで、そう口を開いた。 「どうして僕が、こんな部屋に? し かも、ルームメイトも女の子だってい うし‥‥」 「他にどんな部屋があるっていうの? ここは女学校なのよ」 僕は、彼が馬鹿な質問をしたという ように、肩をすくめてみせた。 「さあ、さっさとかたづけちゃいまし ょ。もう一度ミセス・ウイリアムズの ところに行くまでに、やらなきゃいけ ないことがいっぱいあるんだから」 623/806 「女学校‥‥? なんだそれ? なん で、僕がそんなところに?」 そう言うラリーを無視して、僕は、 彼の両親が置いていったスーツケース を開けた。そこに目を落とし、中に入 っていた白いブラウスと制服のスカー トを見た瞬間の彼の顔に、僕は、カメ ラを持っていないことを悔やんだ。 「さあ‥‥」 僕は、あたかも当たり前のことをし ているという感じで、彼に2着のブラ ウスを手渡しながら言った。 「あなたの制服を、さっさとかたづけ て。他にもしまわなければいけないも のが、山ほどあるのよ」 しかし、そのブラウスは、彼の手か ら滑り落ちていた。 「わざわざ実験しなくても、地球には 引力があるわよ。ティファニー」 「誰の‥‥ものだって?」 624/806 ラリーは、足もとでしわくちゃにな った服を見つめながらきいた。 「『もの』じゃなく、ブラウス。あな たの、制服の、ブラウスでしょ。ミセ ス・ウイリアムズの手を借りたくない んなら、さっさと自分で拾いなさい」 その言葉に、彼は、反射的にそれを 拾い上げた。 「だけど、こんなの、僕は‥‥」 その言葉に重ねるように、僕は言っ た。 「着るの! あたしたちは、毎日着て るわ」 僕は、彼の持つブラウスの上に、さ らにスカートを置きながら言った。 「だって、ここの制服なんだから」 「そりゃ、あんたはいいよ。でも、僕 は女なんかじゃない」 ラリーは、まるで保守的な老人のよ うなことを言った。 625/806 「いい? じゃあ、あなたの親は、な んであなたをここに入れたの? ここ が女学校だってことは知ってたはず よ。もしあなたが女の子じゃないとし たら、このスーツケースの中にいっぱ いつまってるパンティやブラはなにか しら? こっちのドレスは、誰の?」 僕は、他のスーツケースも開けなが らきいた。 「し、知らないよ」 ラリーは、ショックを隠しながら言 った。 「僕はホモじゃないんだ。そんなもん、 着るかよ」 「あのね、ここにはホモなんて一人も いないのよ。あなたはここに入ってき た他の男の子たちと同じように、ここ で、ちゃんとした女の子になるの」 僕はラリーにハンガーを渡し、彼が それにブラウスを掛けるのを見守っ 626/806 た。 その顔は、彼が今、僕の言ったこと を理解しようと猛然と頭を働かせるこ とを物語っていた。 「‥‥えーっ? じゃあ、あんたは‥ ‥」 「ストップ。次の言葉は『からかって るのか』くらいにしといて。それ以外 のことを言ったら、怒るわよ」 僕はまず、そう釘を刺してからつづ けた。 「だけどまあ、あなたの推測は正しい わ。ここにはたしかに、ふつうの意味 での女の子はいない。生まれついての 女の子は、ってことね。ここにいる子 たちのほとんどは、ここに送られてき た時、今のあなたと同じだった。生活 はめちゃくちゃに崩れて、家族も手に 負えないほどすさんでいた。このグレ ート・インディアン・リバーは、そん 627/806 なあたしたちにとって、刑務所に入ら ずに自分を立て直す最後のチャンスな のよ。あたしたちはみんな、力を誇示 しなければ自分を守れないという愚か な強迫観念を持って育ってしまった。 でもここで、もっとやさしい生き方だ ってあるんだということを学ぶの。自 分が美しくなることを楽しんだり、泣 きたい時は人目を気にせず泣いたり‥ ‥っていうね」 見ると、ラリーには、僕の言いたい ことが少なからず伝わったようだ。で も一方で、それとはちがう怯えのよう なものが、目の中で揺れていた。 「でも、そんな格好をしたら、人から オカマって言われる‥‥」 「さっき、初めて会った時、あなたは、 あたしのことをオカマだと思った?」 どうやら、次へのとっかかりが見え た気がして、僕はきいた。 628/806 「チッ、あんたを見たとたん、すぐに も一発やりたいって思ったよ」 「ありがとう。あたしのカレは喜ばな いでしょうけどね」 僕は、そう言ってほほえみ返した。 なんであれ、かわいいと思われている のはうれしい。 「だけと、あんたは、ほんとは男なん だろ」 ラリーの顔には、今度は僕のことを 警戒するような色が見てとれた。 「心配しないで。あなたに対して、そ んな気は起きないから」 その警戒を解くために、僕は笑いな がら首を振った。 「あなたと同じような意味での男だっ たのは、せいぜい、去年のクリスマス までね。肉体的には、今もまだ多少、 男の部分が残ってるけど、それも、あ とほんのちょっとしたことで、完全に 629/806 変わるわ」 ラリーがわけがわからなくなってい ることに乗じて、僕は、彼の新たな衣 装をクローゼットに掛けさせていっ た。 やがて、服が入っていたスーツケー スがからになり、残すは、下着類の入 ったものだけになった。 「こんなの、やだよ」 そこからパンティの類を取り上げた ようとしたところで、ラリーは体を震 わせながら言った。 「知ってるでしょ。あなたには2つの 選択肢しかないのよ。4年間、ここで 女の子として暮らすか、それとも、刑 務所で誰かの『女』になるか。ここに いれば、ちゃんとした教育だって受け られるし、あなたなりの未来が見つか るわ。さあ、あなたの下着なんだから、 あなたがちゃんとかたづけなさい、テ 630/806 ィフ。その間に、あたしがお風呂の用 意をしてあげるから」 何枚かのパンティを彼の手に渡し、 僕は、新しい妹のために、素敵なバブ ルバスの準備をすることにした。 どうやら、ミセス・ウイリアムズが 使った手を真似たのが功を奏したらし い。突然、新しい自分の名を呼ばれた 彼は、混乱し、疑問を差し挟む余地さ え失ったようだ。 バスルームに入りながら肩越しに見 やると、当惑したままの少年がひとり、 まるで危険物でも扱うように、新品の かわいらしい下着類を引き出しにしま っていた。 すべての準備が整ったところで、僕 は、まだ混乱した表情を浮かべている 妹に、服を脱いで、バスタブに入るよ う命じた。 631/806 ズボンを脱ぎかけたところで、彼は ちょっとためらうようにこちらをうか がった。それで僕は、彼をさらに混乱 させるように振る舞った。 「あたしたち、ふたりとも女の子でし ょ。ああ、手伝ってほしいのね」 僕は、彼のベルトに手をかけながら 言った。 「い、いや、自分でできるよ」 彼はうめくように言い、バックルを はずした。 「見てなきゃ、いけないのか?」 「ふふ、それに慣れなきゃね。だって、 今も言ったように、あたしたち、女の 子どうしよ。それに、これから2年間、 お互いのものを毎日見るわけだしね」 僕は、そう笑いかけた。 「あなたがお風呂に入ってるうちに、 あたしが着るものを用意しておくわ」 さらにそう言って、僕は、彼が脱い 632/806 でいく服を受け取った。 「どんな服が、お好み?」 「今、あんたが持ってるやつ」 「馬鹿なこと言わないで。あなたみた いにかわいい女の子が、こんな男の子 みたいなものを着るの? クローゼッ トの中には、かわいい服がいっぱいあ るっていうのに」 漂ってきた入浴剤の香りに、彼がま んざらでもない顔をするのを見なが ら、僕はからかった。 新しい妹のために僕が選んだのは、 デニムのスカートと、ライトブルーの Tシャツだった。僕らの年頃の女の子 が着る夏服としては、きわめて平凡な 組み合わせだが、ティフなら、これで じゅうぶんにかわいく見えるはずだ。 下着については、最初ということも あり、できるだけ抵抗の少ないものが 633/806 いいと思ったのだが、彼女のパンティ は、最もシンプルなものでも、ウエス トまわりにたっぷりレースが使われた 白いナイロン製だった。しかたなく、 僕はそれとともに、ローティーン用の トレーニングブラを選んだ。こちらも、 カップ全体をレースが覆っている。 あとは、服に合わせ、ライトブルー のソックスと白のスニーカーをそろえ た。 そんな服のコーディネイトをしなが ら、僕は、小さい女の子がバービーち ゃん遊びに夢中になる理由がわかった 気がした。乱暴者の男の子を、かわい くてきれいな女の子に変えるというこ とに、僕は、正直、浮き浮きと興奮し ていた。きれいなドレスやかわいい下 着を身につけた彼の姿を早く見たいと 思った。 つい、そんな期待を抱いてしまうの 634/806 は、彼の外見のせいでもあった。男の 子にしてはかわいいすぎる顔。くすん ではいるが長めのブロンドの髪。それ らの特徴からは、人をどきりとさせる ほどかわいい女の子の姿が、容易に想 像できた。 あれだけかわいい顔をしながら、彼 は、荒っぽい世界に身を投じて育って きたのだ。このまま年を重ねたとして も、けっして楽な生き方はできないに ちがいない。 あんな女の子っぽい見かけで、どう やって男の役割を全うしようというの か? 早い話、人からはしょっちゅう 女の子とまちがわれるだろうし、自分 よりかわいく見えてしまうのでは、デ ートの相手だって引くだろう。 彼は自分が、そのままでも、ふつう の女の子よりきれいだということをわ かっているのだろうか? 635/806 気がつくと、時間が少なくなってい た。それで、僕は自分の考えをとりあ えず保留し、僕の妹の最初の冒険旅行、 つまり、彼女を美容室へ連れて行く準 備にかかった。 僕が選んだ服をバスルームに持ち込 むと、彼女はすでに観念しているよう に見えた。 「は~ん、そんな服を着なきゃいけな いわけね」 彼女は、それにため息をついた。 「そうよ。それと、ミセス・ウイリア ムズに言われる前に、その『は~ん』 とかいう口癖、直しなさい」 僕は、そう警告した。 「もしかするとあなたは、中等部の『基 礎英語』クラスで、もっと小さな女の 子たちと勉強した方がいいかもね。き っと、おさげが似合うわよ」 636/806 「そんなのは、もうすんだよ」 彼女は不機嫌そうに言い、パンティ を手に取った。 「服を着る間のプライバシーもないの か?」 「ひとりで、できるの?」 「決まってるだろ」 ティフはかみつきそうな顔で言っ た。 僕はベッドルームへ出て待ちなが ら、これだけ敵意むき出しの人間に、 どうアプローチしたものかと考えた。 しかし、ほどなくある考えが浮かび、 僕はほくそ笑んだ。とりあえず、やら してみればいいのだ。レースやリボン いっぱいの中で、彼女がどこまでやれ るのかを見てやろう。彼女はすぐに音 を上げるはずだ。そしたら僕はすかさ ずミセス・ウイリアムズに電話する。 その手で、妹を手なずけることができ 637/806 るにちがいない。 「こんなもの、馬鹿馬鹿しくてつける 気にならないよ」 しばらくしたところで、彼女はそう 言いながらドアを開けて出てきた。上 着は着ているが、その手にはブラが握 られている。 「まあ、いいわ」 僕は、それに、おうように笑ってみ せた。 「じゃあ、行きましょ、ティフ。美容 室に予約が入れてあるから」 「美容室? 冗談じゃない。髪の毛を いじる必要なんてないね」 「そんなこと言ってると、ミセス・ウ イリアムズに髪を剃られるわよ」 僕は、脅すように言った。 「いいから、黙ってついてきなさい」 「やだね。僕はこの部屋から出て行く 気なんてないよ」 638/806 彼女は薄ら笑いを浮かべていた。自 分の方が優勢だと言わんばかりに。 そして、その手に拳をつくりながら 言った。 「へん、あんたには、僕をここから連 れ出すことなんてできないだろ」 「試すまでもないわ」 僕の方も笑いながら、受話器を取り、 校長室のナンバーを押した。 「もしもし、ミセス・ウイリアムズ? フェイスです。‥‥ええ、彼女は、 部屋から動こうとしないんです。あた しの言うことはききたくないと。‥‥ ええ、わかりました。ありがとうござ います。‥‥じゃ、またあとで」 僕は、平然と微笑したまま、電話を 切った。 「どうせ、ハッタリだろ。そんな見え 見えのハッタリに、だまされるもんか」 彼女の声が、ちょっと裏返っていた。 639/806 彼女は、今のがハッタリであってほ しいと思っているにちがいない。でも、 もしマジだったらどうしようと怯えて いるのだ。 僕は、ほほ笑みを保ったまま、自分 のデスクに腰掛け、本を開いて読み始 めた。 「ど、どこか、行かなきゃいけないん じゃないのか?」 2・3分もしないうちに、彼女は耐 えられなくなったようにきいてきた。 「美容室の予約とかなんとか、言って なかったか?」 「いいえ、もう、どこに行く必要もな いわ」 僕は、本に目を向けたまま、肩をす くめた。 「あなたは出て行くことになると思う けどね。ミセス・ウイリアムズが、警 察に連絡したはずだから」 640/806 「あ、あのババアは、そんなことでき ないさ。僕を、刑務所送りにするなん て、そんなこと‥‥」 彼女は、僕の予想どおり、切迫した 声を上げた。 「ええ、できないわね。刑務所へ行く には、あなたは幼すぎるもの。まずは、 お子様向けの牢屋ね。本格的な刑務所 送りになるのは18になってからでしょ うね。コンビニ強盗に殺人未遂までか らんだんじゃあ、合わせて10年てとこ かな。ここにいれば、4年間の間にい ろんな知識が吸収できるっていうの に、あなたは10年の間、毎日ひざまず いて、別のものを吸収しつづけるって わけね」 僕はそう言いながら、彼女の顔に目 を向けた。どうやら「10年間、ひざま ずいて、吸収するもの」の意味もわか ったようだ。 641/806 「ねえ、もう一度、電話してくれない か? たのむよ」 彼女はついに、嘆願し始めた。 「なんでもいうことをきくからさ。こ こに、いさせてくれよ」 「言葉に注意して。人に本気でものを 頼むときは、疑問形は正しくないわ」 「心から、お願いします。どうか、も う一度電話してください」 ティフの瞳には、すでに涙がたまっ ていた。彼女自身が思っているほど、 彼女は強くないのだ。 「さっき、あなたは、校長室でも同じ ことを約束したわよね」 僕は、彼女をもう少し追いつめる必 要を感じていた。 「信用できないわ」 と、彼女は、僕に向かってにじり寄 ってきた。 「やめなさい。今、あたしに乱暴すれ 642/806 ば、たとえあたしが命を落とさなかっ たとしても、もう2年はかたいでしょ うね」 僕は、冷たい声で言いはなった。 「さあ、そこに座って、お行儀よくし てなさい」 「そ、そんなつもりじゃないよ」 彼女は、すすり泣き始めていた。 「ぼ、僕を警察になんか、引き渡さな いで。お願いです。ぜったいに、約束 するから。おとなしくするよ。おとな しくて、いい‥‥女の子になるから」 僕は、ちょっと人がよすぎるのかも 知れない。たしかに彼女は、僕の前で 涙を流して立ちつくしている。でも、 おそらくこれは、半分は芝居だろう。 それにしても、僕は彼女との間に、早 く何らかの関係を築かなければならな いのだ。彼女が、いい女の子になると いう意志を見せたということで、今は 643/806 このくらいにしておこうと思った。 僕はうなずき、ふたたび受話器を取 った。 「ミセス・ウイリアムズ? 申し訳あ りませんけど、もう一度、警察に断り の電話を入れていただけます?」 僕は、ミセス・ウイリアムズがけっ して警察に通報などしていないことを 知っていながら頼んだ。彼女はさっき すでに、それを僕に任せてくれていた。 ティフニーの信頼を得るための方法や 決断は、すべて僕が選択すればいいと 言ってくれたのだ。 「いい? 自分の言ったことは、守る ように」 ミセス・ウイリアムズには遠くおよ ばないものの、僕は、できるかぎりの 高圧的な言い方で、宣言した。 「あたしは、ミセス・ウイリアムズに、 あなたを必ずいい女の子にすると約束 644/806 したわ。だからあたしは、彼女と同じ くらい、あなたに厳しく接するつもり よ」 「いい女の子になるって、約束するよ」 彼女は、もう一度、泣き声とともに 繰り返した。 「僕は、あんた‥‥あなたの言うこと なら、なんでもきく。あなたは、僕に どんなことでも要求できる。それで、 いいでしょ」 「ここのみんながあなたに要求してる のは、あなたがまっとうな人間になっ て出て行くことだけよ」 僕は、彼女の体に腕をまわしながら 言った。 「ここを出れば、前科もきれいになる わ。確実に、もう一度やり直せるはず よ」 「つまり、女の子として?」 ティフは、鼻をすすり上げながら僕 645/806 を見上げた。 「それは、あなた次第よ。でも、たい ていの生徒は、そうしないわね。ここ を出たあとも女装して生活する人は、 多くないわ。いずれにしても、それは、 完全に本人の意志にまかされてるの よ」 僕はティッシュを取ってティフの涙 を拭いてやり、そのあと、ブラをつけ るのを手伝い、美容室へと向かった。 「ハーイ、アンネ」 僕は、女性美容師に声をかけながら、 美容室の中に入った。 「あたしの新しい妹、ティファニーよ。 彼女に、あなたの魔法をかけてあげて」 アンネは、素敵な笑顔とともにその 女の子を招き入れ、真正面から顔を見 た。 「こんなにかわいい子なら、魔法なん 646/806 て必要ないでしょ」 さらに、ティフに笑いかけながら言 った。 「いつからうちの学校は、もともとの 女子生徒を入れるようになったの?」 「僕は、男だよ」 ティフはほほ笑みながら、あわてて 訂正した。 えっ? ‥‥ほほ笑みながら? それどころか、ティフは、アンネの ほめ言葉に、まるで女の子のように赤 面していた。 「ぎりぎりそう言えるのも、今のうち よ、ハニー」 アンネはティフに更衣室を示しなが ら言った。 「上着とスカートを脱いで、このスモ ックに着替えてくれる? あなたな ら、すごい美人になれるわ」 見ていると、もう一度同じことが起 647/806 こった。ティフは、その言葉に顔を赤 く染めたのだ。そして、思わずほほ笑 みそうになるのを必死でこらえている ように見えた。 「彼女、まるでお人形さんね」 ティフが更衣室に入ったところで、 アンネがささやいてきた。 「もっと年がいけば、まちがいなく超 美人になるはずよ」 「あたしも、そう思うわ」 僕もそれに同意した。 「彼女自身は、そう見られたくなくっ て必死になってるみたいだけど、無駄 な努力ね」 「ええ、あれだけ素材がいいと、私は 楽だけど、仕上げたあと、彼女自身が どうなっちゃうかは責任もてないわ。 だって、男の子をやりつづけようとす るには、彼女、最初からかわいすぎる んだもん。これまでそれに気づかない 648/806 で男をやって来たんだとしたら、自分 のとんでもないかわいらしさに動転す るでしょうね」 アンネの言葉は、けっして冗談では なかった。 すべてが終わったとき、僕の妹、テ ィフは、完全にかわいい女の子になっ ていた。ブリーチして輝きを増したブ ロンドの巻き毛と前髪が、彼女の顔を、 まるで、ティーンエージャー向け雑誌 の表紙モデルのように見せていた。 鏡の前に立った彼女は、そんな自分 の姿を見つめて、熱に浮かされたよう に、口の中でぶつぶつ言っていた。 僕は、アンネにお礼を言い、そんな 彼女の手をとった。 「急いで、ティフ。ミセス・ウイリア ムズのところに行く前に、着替えなき ゃいけないのよ。彼女は、待たされる 649/806 のが好きじゃないわ」 ティフは、未だ呆然とした顔でうな ずき、僕に引っ張られるままに、寮の 部屋へと歩いた。 「‥‥僕、まるで女の子みたいだ」 ティフがやっとそうつぶやいたの は、部屋に戻り、僕が上着を脱がして いる時だった。 「アンネは、僕を、女の子に見えよう にしちゃった」 それは、あきらかに控えめな表現と 言えた。 正確に言えば、ティフは女の子のよ うには見えない。天使のように見える のだ! アンネが施したメイクは、ティフが もともと持っていた特長――ぱっちり した茶色い瞳、キュートに上を向いた 鼻、透き通るような肌の色、長いブロ 650/806 ンドの髪――の魅力をさらに引き出し ていた。そこにいるのは、極寒の日さ え、ほほ笑みひとつで暖かく変えてし まうような女の子だった。 そんな彼女を一目見るだけで、はっ きりと言えることがある。 もし、彼女が女の子になるのを望ん でいないのだとしたら――じつのとこ ろ、この「もし」はかなり疑わしい気 もしてきたのだが――、彼女にとって は、一生、地獄の日々が続くことにな るだろう。だって、次々に言い寄る男 たちから逃げつづけなければならない のだから。 ただ、彼女の反応の中にあるなにか が、僕に疑念を抱かせていた。彼女は、 本当はこんなふうに見える自分が好き で、それを必死に押し隠しているだけ なのではないか。もしそうなら、いっ たん、彼女の信頼を勝ち取ってさえし 651/806 まえば、彼女は大きく変わるはずだ。 「そうね、あなたって、本当にかわい いわ」 僕は、あらためて彼女に保証した。 「さあ、着るものを選びましょ」 まだなんだかぼーとしている感じの ティフは、上着とスカートを脱がせた あとも、僕が手渡すものを素直に着て いった‥‥白いハーフスリップ、広が った裾とネックラインの鳩目がかわい い白のサンドレス、ヌードカラーのパ ンスト、2インチのヒールの白いパン プス。 彼女が正気を取り戻す前に、僕は、 コロンの一吹きまで完了していた。 「‥‥え? な、なにするんだ?」 そこで突然、ティフはコロンの匂い にむせる素振りをした。 「こんな匂い、まるで、オカマじゃな いか」 652/806 「あなたはオカマなんかじゃないでし ょ」 僕は、それを訂正した。 「あなたは、すごくかわいいレディよ。 レディは、大事な席にはコロンをつけ て行くものよ」 「ぼ、僕は、レディなんかじゃないよ」 その声音には、あまり説得力を感じ なかった。抵抗はしているものの、さ ほど強く反発しているようにも見えな いのだ。 「僕は男だよ。男はこんな服や香水な んて‥‥」 「あなたは、ここを出て行くまで、テ ィファニー・リンという名の女の子な のよ。女の子の服を着て、女の子とし て振る舞う。それが約束でしょ。その 約束をすべて果たせば、女の子として とどまるのも、男に戻るのも、それは あなたの自由よ」 653/806 「本当に、女の子でいつづけることを 強制されない? つまり、現実に戻る 時に」 彼女は、姿見を見つめながらきいた。 「あたしが、女の子でいつづけること を決めたのは、完全に自分の意志よ。 誰からも無理強いされてないし、誰か から助言があったわけでもないわ。な にしろあたしは、それまで、男に戻っ て、前のルームメイトをお嫁さんにす るなんて言ってたんだから」 「えっ、ほんとに? じゃあ、なにが きっかけで気持ちが変わったの?」 彼女は、自身の殻からちょっと顔を 出すような感じできいてきた。 「そのルームメイトのお兄さん!」 僕は、思わず笑いながら言った。 「彼と出会ったことで、あたしが無理 して乱暴で粗野な振る舞いをしてきた ことに気づいたの。本当はすごく女っ 654/806 ぽい感覚を持ってる人間なのに、それ を人に知られたくなくて、必死になっ て隠してた。自分にはそんなものはな いんだって思おうとしてたのね」 ティフの目の中で、なにかが揺らめ いた。僕の話に、思い当たる節があっ たにちがいない。かすかではあったが、 彼女はうなずきさえした。 「‥‥そ、そう言えば、どこかへ行か なきゃいけないんでしょ」 彼女はそこで、突然目をそらし、ス カートのしわを伸ばしながら言った。 「ミセス・ウイリアムズは待たされる のが嫌いとか、言ってなかった?」 「いいえ、彼女は待ってくれるわ」 僕は、ほほ笑みながら言った。彼女 が唐突に話を変えたことで、僕の観測 が正しかったことを確信し、話をつづ けようと思ったのだ。 おそらくティフは、本心では女の子 655/806 になりたがっている。強制されたり、 おびやかされていると感じれば、その 心を閉ざすだろうが、穏やかに解きほ ぐしていけば、そんな自分をもっと見 せてくれるはずだ。すべては、僕の持 っていき方次第というわけだ。 たぶん、ロブに頼めば、ティフと同 い年の、かっこいい男だって紹介して くれるだろうし‥‥。 そんなふうに思ったことで、僕はあ ることを思いついた。 「近いうちに、あたしのカレを紹介す るわね」 僕は、冗談めかして言った。 「でも、その前に約束して。カレを盗 らないって」 こんな言葉に対して、もし男らしさ を核心に持つ男なら、ボーイフレンド を盗るような欲望はないと、言下に否 定するだろう。 656/806 ところが‥‥ 「あなたの方がずっとかわいいんだか ら、そんな心配いらないでしょ」 ティフは、そう言った。 そして、そのあと、気づいたように、 あわててつけ加えた。 「い、いや、つまり、僕は彼とおんな じ男なんだし‥‥」 「そうよね」 僕は、そんな彼女にほくそ笑むよう に笑いかけた。 「彼とおんなじ、ね」 たぶん、彼女の片方の理想としては。 と、そこで彼女は、姿見をちらりと 見た。その一瞬、彼女の顔にほほ笑み が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。 「行くの?」 僕がドアを開けたので、彼女は言っ た。 「じゃ、こんな話は、これでおしまい 657/806 ってことで」 ティフとともに校長室に向かう間 も、僕は、まるで彼女の中でなにかの スイッチが入ったように感じていた。 彼女は、その服にさほどの違和感もな いようだった。裾の扱いなども、初め てスカートを履いた男の子にしては、 みっともなさがまるでない。あの、姿 見を盗み見るような一瞥といい、自分 の新しい姿に対するどこか弱々しい抗 議といい、僕は、さっき彼女の目の中 に見たなにかの存在を、より強く確信 していた。 校長室に入り椅子にかける時も、テ ィフは、スカートの後ろをなでつける 動作をした。ミセス・ウイリアムズが ちょっと驚いた視線を送ってきたとこ ろを見ると、彼女も、それを見逃さな 658/806 かったようだ。その動作は、わざとら しくなく、しごく自然で、優雅でさえ あった。 ミセス・ウイリアムズは、ティフに 対し、入所時の規則説明を淡々とすす めていった。最初の1ヵ月間の外出制 限、制服規定、授業のシステム、そし て、規則を破った際の罰則‥‥。 その間、ティフは、時折うなずきな がら静かに聞いていた。その手は膝の 上にきちっとそろえられ、両脚をしっ かりと閉じ、どの瞬間も、ふつうの十 代の女の子に見えていた。 唯一、ティフが特別な反応を示した のは、提示された彼女用の時間割の中 に「中級代数学」の授業があるのを見 つけた時だ。 「これは、無理です」 彼女は、それに不満を言った。 「この手の授業で、合格できた試しが 659/806 ないんです。もっと簡単なのにしても らえませんか?」 「あなたのプレースメント・テスト (※)の結果は、これより簡単な授業は、 あなたにとって時間の浪費であること を示しています」 ミセス・ウイリアムズは、そう言っ てほほ笑みかけた。 (※訳注 クラス分けテスト アメリカの学校 のclassは、日本の「学級」とはちがい、まさ に「級」を表す プレースメント・テストで判 定した学力クラスにより、とれる授業が決まっ てくるわけだ。だから、飛び級ということも起 こる ティフはフェイスの2歳下なのに、ミセ ス・ウイリアムズが「同じクラス」と言ってい たのは学年が同じという意味ではない) 「あなたは、これまでなぜか、自分を 能なしのワルと見せることに力を尽く してきたようですね。でも、実際のあ なたがそうでないことは、私たちには 660/806 わかっています。あなたの前の学校の 成績記録を詳しく調べさせてもらいま した。たしかにあなたは、各学年の多 くの授業で落第している。ところが、 落第点をとっているのは、必ず、最終 判定が下されるテストだけです。しか も、その点数は、いつも、及第点の95 パーセント以上にそろえている。本当 の落ちこぼれには、こんな器用な真似 はぜったいにできません。あなたは 『上 級世界史』や『高等英語』とともに、 『中級代数』をとるべきです。問題な く理解できるはずです」 それを聞いたティフの顔が、すべて を物語っていた。彼女はどうやら、前 の学校で、なにかに反抗するために、 ゲームをやっていたのだ。ところが、 ミセス・ウイリアムズは、その手の内 をすべて読んでいた。ゲーム・イズ・ オーバー。 661/806 「わかりました。その授業を受けます」 ティフは、静かにうなずいた。 その面談がすべて終わり、ティフと 僕が帰りかけたところで、ミセス・ウ イリアムズは、ティフの後ろ姿に向か って呼びかけた。 「ティファニー、そのドレス、よく似 合いますよ」 「ありがとうございます」 彼女は反射的にそう言ったところ で、なにかに気づいたように、あわて てつけ加えた。 「だ、だけど、なんだか、馬鹿みたい」 「だいじょうぶ。あなたはすぐに、こ この暮らしに慣れますよ」 「さあ、どうだか」 ティフが、さらにつぶやくように言 ったので、僕は彼女を肘で小突いた。 662/806 部屋に帰ったあとも、ティフは、着 ている服を脱ごうとはしなかった。ベ ッドに腰掛けて、先刻渡された時間割 をじっと見つめていた。 「ミセス・ウイリアムズにすっかり見 抜かれちゃったわね、ティフ。あの人 は、人が見逃しているところまで、よ く見えてる人だから」 「ああ、たしかによく見えてるよ」 ティフは、皮肉な感じの表情になり 言った。 「めがねを修理するか、新しいのに変 えた方がいいね」 僕はそれを無視し、電話に手を伸ば した。 本来ならホリーの部屋に電話したい ところだが、彼女は夏休みいっぱいを 自宅で過ごすらしく、戻るのは2週間 先だ。それで僕は、ティフを紹介する のに最もふさわしい人物の部屋を呼び 663/806 出した。あの、愛の原子炉、ジルだ。 2分後、突然、廊下が騒がしくなっ た。 僕には、ジルとともに10人あまりの 女の子たちが部屋になだれ込んでくる のを、くい止めるいとまもなかった。 ティフもまた、逃げ出すいとまなく、 新入生の女の子に対する好奇心でいっ ぱいの、幸せそうな女の子たちの笑顔 に囲まれていた。 「わあ、お人形さんみたい」 あ然とするティフに向かい、ジルは いきなり核心をついた。 「これまでも、何度もそう言われたで しょ」 「ああ、今日、2度ほど」 ティフはまた、皮肉っぽいまなざし で答えた。 「ほめられてるとは思えないけどね」 664/806 「ううん、ジルの言うとおりよ」 マリアンヌという別の女の子が言っ た。 「もとがいいのね。あたし、毎日、メ イクに30分以上かけてるのよ。でも、 あなたみたいな顔だったら、きっと1 秒ですむわ」 「ねえ、どんな授業をとることになっ たの?」 下級生の女の子たちが、口々に言っ た。 「あたしたちといっしょになるのも、 あるんでしょ」 僕にも覚えがあることだから、ティ フの気持ちはよくわかった。女の子の 集団の熱狂的なおしゃべりは、抵抗す る気力を越えている。次々に浴びせか けられる質問は、その答えの中に、自 分が男であるというイメージを投影す るひまさえ与えないのだ。 665/806 「 『中級代数』をとらされたんだ」 ティフは、嘆くように言った。 「無理だって言ったのに、ミセス・ウ イリアムズは、僕ならできるとか言っ て」 「あなたのビッグシスターはフェイス なんでしょ。じゃあ、心配ないわよ」 ひとりの女の子が言った。 「フェイスは、いつも、この学校でい ちばんの成績をとってるのよ。みんな 彼女に、勉強を見てもらってるの」 「そうよ、あたしなんて、彼女のおか げで『幾何』がBだったんだから」 もう一人の女の子も、口をはさんで きた。 「フェイスが来る前は、Dよりいい成 績なんてとったことなかったのに」 「彼女のおかげで『英語』がパスでき ただけじゃなくて、彼女に教えてもら ったヘアスタイルのおかげで、カレに 666/806 かわいいって言ってもらえたのよ」 クラスメイトのジャネットもつけ加 えた。 「彼女って、ほんと、最高!」 「ふ、みんなけっきょく、だまされて るんじゃないのか!」 ティフが急に、とげどけしい口調で 言った。 「友だちみたいな顔して親切そうに近 づいてくるけど、じつは、ミセス・ウ イリアムズの犬なんだろ。あのババア の言うことならなんでもきいて、なん でもチクるペットなのさ」 僕は、あ然として、言葉さえ出なか った。 僕に向けられた突然の敵意に、いっ たい、なぜ彼女がそんなことを言い出 したのかさえ、まともには考えられな かった。 次の瞬間だった。ジルがティフを突 667/806 き飛ばし、さらに、ベッドの上に仰向 けに倒れたその体の上に馬乗りになっ た。 「そんなことを、あたし‥‥いや、俺 の前で、二度と言うな!」 ジルは、ティフに強く迫った。 「フェイスは、ここにいるみんなに、 他の誰もできなかったことをしてくれ たんだ。彼女が来る前は、テストで落 第してたやつがたくさんいた。なんと か受かったやつも、みんなゾンビみた いになってたよ。彼女は、ここの生徒 全員から信頼されてる最高の友人だ。 人の秘密を、ぜったいチクったりしな い。ミセス・ウイリアムズにであろう と、誰にであろうとな」 「あたしの大事な友人に、すぐ謝りな さい」 別の女の子が、ティフの顔に自分の 顔を突きつけるようにして言った。 668/806 「そうしなかったら、あたしも、女を やめるわよ」 「ふ、ふん、お前らみたいなオカマ野 郎が、恐いとでも思ってるのか!」 ティフは、それでもせせら笑ってい た。 「僕は、町でいちばん強いストリート ギャングのチームに入ってたんだぞ。 お前らなんか、すぐに全員ぶちのめし てやる」 彼女はそう言いながら、腹の上のジ ルを払いのけようと、背中を弓なりに 反らせた。しかしジルは、ティフの体 をがっちりと押さえ、見下ろしていた。 「ふふ、偶然の一致ってやつか? 俺 とよく似た話だぜ」 ジルは見くだすように笑った。 「俺がクリップス(※)に入ったのは、 10歳の時だった。ここに送られたのは、 3人の男に重傷を負わせたからだ。1 669/806 人は鼻の骨が砕けて、唇が避けた。あ と2人は歯が何本か折れただけだが、 その代わり、両方とも、もう父親には なれないそうだ。3人のうちで、いち ばん小さかったやつでも、お前より50 ポンドは重かったと思うぜ」 (※訳注 ‘the Crips' 全米に知られるロサ ンジェルス最大のストリートギャング団) 「殴れるなら殴ってみろよ。刑務所入 りだぜ」 ティフは怒鳴るように言い返した。 「お前みたいなチビでかわいいやつは、 さぞ、みんなからかわいがられ‥‥!」 目にもとまらぬほどの平手打ちが、 ティフの言葉を途切れさせた。 「平気さ。俺は、友人があれほど侮辱 されて、知らん顔できるような人間じ ゃないんだ」 「もし、これで、ジルが刑務所送りで もになったら、あんたは、自分が代わ 670/806 りに行っとけばよかったって思いをす ることになるわよ」 上級生の1人が、強い口調で言った。 「あたしはあんたを許さない。あんた のここでの暮らしを、すてきな悪夢に してあげるわ。ちっちゃい女の子みた いなパーティドレスとおむつカバー で、町をパレードするなんてのは、ど う?」 「きっとかわいいでしょうね、3歳の ティファニーちゃん。ちっちゃくてキ ュートなドレス、おしゃぶり、おむつ ‥‥、ぜーんぶそろえてあげるわよ」 トニーという名の女の子も、そう煽 った。 それはささいな変化だった。でもた しかに僕は、その時ティフの顔に、言 いようのない恐怖の影が走るのに気が ついた。殴られ痛めつけられることに 対しては強がっていたティフが、小さ 671/806 な女の子のパーティドレスという言葉 には、死ぬほど恐ろしそうに顔をゆが めたのだ。 「やめて、ジル。彼女を放してあげて」 僕は、そう言っていた。 「もう、じゅうぶんでしょ」 「こいつが謝れば、すぐにでも放して やるよ」 ジルは、ティフの腹に軽くパンチを 入れたあと、その腕をとって強くひね った。 「だめ、ジル!」 僕は、ティフの腕を、ジルから奪い 返すようにしながら叫んだ。 「ティフを、起こしてあげて。今すぐ に!」 その言葉に、ジルは、首を振りなが らも、ゆっくりとベッドから降りた。 「こんなくそったれガキのために、な んで‥‥」 672/806 「彼女は、あたしの妹よ。妹が痛めつ けられるのなんて、見てられないわ。 みんな、もう、やめてね」 僕はそう言いながら、取り囲む女の 子たちを見まわした。 女の子たちは、渋々という感じでう なずいた。 それで僕は、ねじられた腕をさすり ながら涙ぐんでいるティフの方を向い た。 「あなたがさっき言ったことを、聞き 流すわけにはいかないわ。まず、それ をはっきりさせましょ。いいわね? あたしは、誰の犬でもないし、そうな りたいとも思わないわ。あたしは、こ の夏休み、カレと、もっと楽しい時間 を過ごすこともできた。でも、あたし は、ミセス・ウイリアムズに恩返しし たいと思って、早めに戻ってきたの。 もちろん、ビッグシスターになんて、 673/806 なりたくなかったわ。あたしは、妹の 立場でいる方が、ずっと幸せだったん だから。でも、今言ったように、ミセ ス・ウイリアムズから受けた恩に答え ようと思って、いわば、しかたなく引 き受けたのよ。もし、あなたが、あた しのことを信用できないんだったら、 ミセス・ウイリアムズにそう言えばい いわ。すぐ、別の人をあなたの担当に してくれるはずよ。あなたも、その方 がいいでしょうし、あたしだって、そ の方がいいわ。それに、これは確実に 言えることだけど、あたしのカレだっ て、その方がぜったいに喜ぶわ」 「僕がどう言おうが、このあと、みん なで僕をリンチするんだろ」 ティフは、未だ彼女に鋭い目を向け る女の子たちを見て、すすり上げた。 「誰も、もう殴ったりしないわ。あた しが保証する」 674/806 僕はまた、みんなの顔を見まわして 言った。 「いいわね?」 女の子たちはまた、渋々ながらうな ずいた。 「ちょっとの間、あたしとティフをふ たりだけにしてくれる?」 僕がそう頼むと、女の子たちはみん な、肩をすくめ、ドアに向かった。 「もし、俺‥‥あたしが必要だったら、 大きな声で叫んでね。すぐに駆けつけ るわ」 最後になったジルが、ドアを閉めな がら言った。 僕はそこで、まだ腕をさすっている ティファニーに顔を向けた。 「ティフ、あなたが決めて。あたしは、 決められた役割は果たすわ。でも、あ なたが他の子の方がいいというなら、 そう言えばいい」 675/806 「まだ本気で、僕のビッグシスターを やりたいと思ってるのか?」 ティフは、そうきいてきた。 「僕が、あんなこと言ったあとでも?」 「さあ、やりたいわけじゃないわ。で も‥‥」 僕は肩をすくめた。 「ミセス・ウイリアムズは、あたしな らできるって言ったわ。まあ、あなた の『中等数学』と同じよ」 「で、そんなことして、なんのトクが あるんだ?」 彼女は僕を、疑わしそうな目で見た。 「『いい子』だって言われたいからか? それとも、頭をなでて‥‥」 「いい加減にしなさい! また、ジル を呼んでほしいの?」 僕は、彼女が言い切る前に警告した。 「あなたに、人を尊敬する気持ちって いうのを知ってほしかったんだけど、 676/806 どうやら、それが理解できるほど賢く ないみたいね。あたしは、なにかの特 典がほしいわけじゃないわ。だいいち、 ずっと一番をとってきて、学校からい ろんな特典を与えられてるんだから、 これ以上必要だと思う? もうひと つ、あなたのために教えといてあげれ ば、この夏で、あたしの更正期間は終 わったのよ。ミセス・ウイリアムズが 期間短縮を働きかけてくれて、裁判所 が同意したの。だから、あたしは、い つでもここを出て行ける。でも、あた しはここに残って、ここを卒業するつ もりよ。ビッグシスターの話を持ちか けられたときは、それに挑戦する義務 みたいなものを感じたわ」 ティフは、じっと僕の顔を見つめて いた。たぶん、僕のことを頭がおかし いとでも思っているのだろう。でも、 そんなことは気にならなかった。 677/806 「話を進めましょ」 黙ったまま考え込んでしまったティ フを何分か待ったあと、僕は言った。 「遠慮することないわ。他の人に変わ ってもらいなさい。あたしは、ミセス ・ウイリアムズに、ビッグシスターに なるには、まだ力不足だったって言う から」 「やめ‥‥ないで」 ティフは、静かに言った。 「お願いです。そのままでいてくださ い。僕のビッグシスターで。お願い。 だめ?」 僕は、何だか幻想でも見ている気が して、ちょっと首を振った。 「素直でいい子になります。約束しま す」 彼女はすがるように言った。 「お願い。僕を、ひとりにしないで」 僕は、そんなティフの目を見つめ返 678/806 していた。と、その瞳の中に誰かがい る気がした。僕のことを必死に求めて いる誰か‥‥迷子になった女の子。本 当の自分に直面したくないがために、 無理矢理にタフであろうとし、その結 果、置き去りにされ途方に暮れている ‥‥心やさしい、ちっちゃな女の子。 「やめないわ」 僕は、ティフにほほ笑みかけた。 「あたしこれまで、一度も妹を持った ことがないの。だから、きっと楽しい わね」 そして、彼女を抱きしめた。 「お姉さんとして、第一にやらなけれ ばいけないことは、妹にこの学校を案 内してあげることね」 僕はティフにそう言った。 「それにはまず、そのドレスとストッ キングを脱がなきゃね。もっと楽な服 679/806 に着替えましょ」 「僕は、このまま、このドレスを着て たいんだけど」 彼女は、なんだか恥ずかしそうな表 情で言った。 「‥‥いや、つまり、さっき、ミセス ・ウイリアムズがこのドレスのことを ほめてくれたから。彼女のご機嫌を悪 くしたくないでしょ」 「そうね。あなたは、1日目にしてず いぶんいろんなトラブル起こしてるし ね」 僕は笑いながら言った。 「でも、その服だけは、なんの問題も なく、よく似合ってるもんね」 ティフはそのほめ言葉を受け流した が、すぐに、またミセス・ウイリアム ズをダシにして、乱れた髪のブラッシ ングを要求してきた。 「ねえ、ほんとにみんな、僕に仕返し 680/806 しないかな?」 ブラッシングの途中、彼女はちょっ と不安そうにきいた。 「さっき、みんな、そんなことしない って約束してくれたでしょ」 「だけど、それを、ほんとに信じてる の?」 「あのね、ひとつ、あなたに言っとか なきゃいけないことがあるわ」 僕は、厳しい口調で言った。 「ここでは、あなたがなにか約束した ら、誰もそれを疑おうとしないわ。こ この女の子たちは、人に対して、やる と言ったことは必ずやる。やらないと 言ったことは、ぜったいしない。覚え といて」 僕のことを「犬」と呼ぶことは許せ ない。でも、それ以上に許せないのは、 僕の友だちを疑うことだ。 ティフは、深くため息をつき、うな 681/806 ずいた。 「ごめんなさい。どうも僕って、そう いうのに慣れてないみたいだ」 「つまりそれが、人を尊敬するってこ とよ」 僕は、さっき伝わらなかったことを、 もう一度説明した。 「たぶんそれが、あなたがここで学ぶ、 いちばん大事なことね。それを知るこ とがあなたの人生に大きな影響を与え るはずよ。男の子だとか女の子だとか、 そんなことは重要じゃない。重要なの は、他の人に対して自分が負う責任を 自覚するってこと。グレート・インデ ィアン・リバーの卒業生たちが、社会 的に評価されてるのも、そんな自覚を 持ってるからよ。あなたの言うことや やることには、誰より、あなた自身が 責任を持たなければいけない。誰もあ なたに、こうしろとは言わない。それ 682/806 は、あなたが、ほんとはもう、どうす るのが正しいのかを知っているから よ。あなたが正しいと思うことをすれ ばいいの。それは、ここでの暮らしの すべてに当てはまることよ。あなたは、 ミセス・ウイリアムズに、自分のベス トを尽くすと約束した。それが、ここ であなたが期待されていることのすべ てよ。あなたの言うベストがどんなも のなのか、それを証明していくのがあ なたの責任ね」 「僕はこれまで、そんなこと、あんま り深く考えたことなかったよ。こんな 感じを持ったのも、たぶん初めてだ」 僕は、考え込んでしまったティフの 気持ちを、少し楽にしてやろうと思い、 笑いかけた。 「ふふ、その感じ、あたしにもよくわ かるわ。だって、あたしにも覚えがあ るんだもん。そんな感じが持てなかっ 683/806 たら、たぶん今、あたしはここにはい ないでしょうね。それに、地球上でい ちばんすてきな人に恋することもなか ったと思うわ」 ティフをラウンジに連れ出すまで に、さほどの時間はいらなかった。そ して、それは当然、さっき部屋にいた 女の子たちを含むたくさんの女の子を 呼び寄せることにもなった。 そんな中、ティフの顔が、急に緊張 した。 「平気よ。リラックスして」 ジルが近づいてきているのに気づ き、僕は彼女に耳打ちした。 「もう、わかった?」 ティフの前まで来たジルは、笑顔と ともにきいた。 「あたし、そんなかわいいドレス、血 まみれにするのはいやよ」 684/806 「うん、まちがってたのは僕だ。ごめ んなさい」 なんの挑発の声音もなく、ティフは 素直に謝った。 「あたしたち、友だち?」 ジルはほほ笑み、手をさしのべた。 「‥‥あっ、それも大まちがいよ!」 言おうと思ったが、もう遅かった。 手を握るなり、ジルはティフを引っ 張り、ぐるぐる回して、例の即興ダン スに巻き込んでいた。 数分後、すっかり混乱した表情のテ ィフが戻ってきた。 「最初は、殺されるのかと思ったよ」 「まさか」 僕は、笑いながら説明した。 「彼女の愛情表現よ。あれをするのは、 あなたが好きになった証拠」 「それはよかった。僕はこれで、彼女 が他の人になにをするのか、全部わか 685/806 ったわけだ」 数分の間にすべては水に流され、テ ィフは、急速に女の子の1人として受 け入れられていった。 みんなが笑い合い、女の子らしく騒 ぎ合う時間が過ぎていった。 その間に、ジルとティフは、また何 回か例のダンスを踊り、ティフは、顔 や服について、山のような称賛を浴び た。 「このままいけば、彼女はまちがいな く、鼻持ちならない大女優になるわね」 そんなほめ言葉にうれしそうにして いる彼女を見ながら、僕は心の中でつ ぶやいた。彼女には男の子の方が向い ているなどと言う人は、もうすでに、 どこにもいないだろう。 その1日目の夜から、ティフはどん 686/806 どん環境になじみ、ここの女の子らし くなっていった。 他の女の子たちにもすぐとけ込んだ が、ことにジルにはすっかりなついて しまい、いっしょにいることが多かっ た。僕は密かに、彼女のことを「もう 一人のジル」と呼んでいた。 ジルとティフが二人でいる光景は、 端から見ていて、なんだかほほえまし いものだった。それは、訳あって離れ ばなれに育った姉妹が、ついに再会で きたという感じに見えるのだ。 ジルとティフが親しくなったことに ついては、もうひとつ、いいことがあ った。ティフを寮に残していくことに 後ろめたさを感じることなく、ロブと 会えるようになったのだ。 僕がティフのビッグシスターになっ てからのまるまる3週間、僕はロブに 687/806 会っていなかった。もちろん、ロブに も友だちはいるし、僕のまわりにもた くさんの女の子たちがいる。でも、僕 らはさみしかった。 ロブの家に行くために、彼が車で迎 えに来たとき、僕は彼を窒息させるほ どのキスをした。 ロブの両親は、僕との再会を喜び、 僕のことを、まるで家族の一員のよう に扱ってくれた。僕は、ロブの両親に、 ロブと僕がけっして別れたりしないと いうことを、確信してほしいと思った。 いずれ、大学を出たら、僕たちふたり は盛大な結婚式をやるつもりだ。その 時、僕は、最高にゴージャスなウエデ ィングドレスを着るのだ。 この日は、ホリーも、今つき合って いるボーイフレンドを家に招いてい た。彼女と僕は、男たちに、彼らのガ 688/806 ールフレンドがいかにセクシーかを思 い知らせるため、ふたりそろってビキ ニを着た。けっきょくのところ、ビキ ニの最大の役割というのは、ボーイフ レンドのご機嫌を取り、気持ちよくさ せ、さらには、その心を乱すことにあ るのだから。 ホリーと僕は、男たちと素敵な時間 を過ごした。プールの中でバレーボー ルをしたのだ。彼らに肩車されてビー チボールをつくのは大変だったが、水 に落とされるたびに、僕らは彼らにキ スを要求した。もちろん時には、キス したくなった男たちが、あきらかにわ ざと落とすようなこともあった。でも、 そんなことをされた時は、すぐに、ホ リーと僕でうなずき合い、2人いっし ょに水に落ちて男たちに償いのキスを させた。 いずれにしても、キスしてくれるロ 689/806 ブのほほ笑みが近づいてくる瞬間ほ ど、自分のことを女だと感じられる時 はない。女らしく、かわいい存在であ ることの幸せが、僕の体全体を包み込 むのだ。 こんな光景を家の中から見ていたロ ブの両親が、僕らふたりの愛を疑うよ うなことは、けっしてないだろう。 その夜、寮に帰った時、僕の気分は まだ浮き立っていた。恋人とのファン タスティックな1日を過ごした女の子 が、そうなっているのはしかたないだ ろう。 ベッドのティフはもう寝ているよう だったので、僕は大きな音を立てない ようにシャワーを使い、そのあと、買 ったばかりのフリルいっぱいのベビー ドールを身につけた。それは僕をます ます女の子っぽい気分にさせてくれ、 690/806 さっきまでの素敵なディナーの記憶と も相まって、僕はすぐに甘い夢の世界 へと漂いはじめた。 ティフのベッドからすすり泣く声が 聞こえてきたのは、そんなふうにうと うとしかけた時だった。その泣き声か ら判断して、ティフはなにかつらい夢 でも見ているようだ。僕は、彼女の心 の奥底でなにかが起こっていると感じ た。 起き出し、ティフのベッドサイドま で行った僕は、その肩をそっと揺すっ てみた。 「どうしたの、ティフ?」 と、目を覚ました彼女は、その涙を 隠すとでもいうように目をこすった。 「ううん、なんでも‥‥」 「いらっしゃい、あたしたちは姉妹で しょ。忘れたの? 泣いたっていいの 691/806 よ」 僕はそう言いながら彼女の体に手を まわし、引き寄せた。 すると、ティフは、僕の胸に顔を埋 め、しくしくと泣き始めた。 「僕‥‥僕‥‥わからない‥‥どうし たら、いいの? ‥‥あんなつもりじ ゃ、なかったのに‥‥」 「話して、ティフ。力になれると思う わ」 僕は、ベッドサイドの灯りをつけ、 ティッシュを何枚か取って、彼女の涙 を拭いた。 ティフは、数回首を振ったすえ、し ぼり出すように話しはじめた。 「僕、逃げたかったんだ。でも、無理 だった。どこまでいっても、逃げ切れ なかった」 「逃げるって、どこから? いったい なにから、逃げようとしたの?」 692/806 僕は、できるかぎりのやさしい声で、 でも、断固とした思いできいた。彼女 を苦しみから救うために、これは、ど うしてもきいておかなければならない ことだという気がした。 「ママから。‥‥ママの、ちっちゃな 女の子から」 ティフは、泣き声を上げながら言っ た。 「だから僕は、ギャングの仲間に入っ たんだ。だけど、そこでも僕は、女の 子みたいに弱虫だって思われてた。な んとかしたかったんだ、フェイス。必 死だったんだ。でも、最後まで僕は弱 虫だった。僕はずっと、ちっちゃな女 の子みたいに弱虫なんだ」 なぜ彼女は、ミセス・ウイリアムズ でなく、今、僕に話すのか? そして、 なぜ僕は今、決められたとおりカウン セラーに電話しようとしないのか? 693/806 それは、僕が彼女のビッグシスター だからだ。そして、ミセス・ウイリア ムズも、僕にそれを期待しているから だ。 「もっと、ちゃんと話して」 僕はティフに、懇願するように言っ ていた。 ティフはまず、ずっと心の内に秘め ていた、小さかった頃のことを、延々 と語った。 ティフは、生まれたばかりの赤ん坊 だった頃から、女の子だとまちがわれ たらしい。ティフの母親が道を歩いて いると、人々は彼女を呼び止め、彼女 が連れた赤ん坊がいかにかわいいかを ほめ、こんなにかわいらしい娘を持て た母の幸せを称えた。そんなことが毎 日、幾度となくつづくうち、母親は、 そのまちがいを訂正するのをあきらめ 694/806 てしまった。いちいち言い立てて、な んだか気まずい思いをするより、女の 子としてのティフをほめてもらった方 がいいと感じたのだ。その方が、善良 な人々に対して素直に感謝の気持ちを 持てる。 母親が、外出の時などに、ティフに 女の子っぽいベビー服を着せるように なるのに、さほどの時間はかからなか った。もちろん、どの服も、ティフの やわらかいブロンドの髪や愛らしい顔 によく似合った。ティフは、どこに行 っても、その場でいちばんかわいい赤 ん坊としてもてはやされた。 そんな称賛やほめ言葉を浴びて物心 ついたティフが、それをうれしいと感 じ、やみつきになったとしてもなんの 不思議もない。 ほどなく彼女は、母親が遠くへショ ッピングに行く時、かわいいドレスや、 695/806 ペチコートや、ラッフルのいっぱいつ いたパンティを着せてくれるのを待ち わびるようになった。 近所の公園などへ行く時は、さすが にズボンとシャツを着るのだが、そん な時も、遊び相手はほとんど女の子だ った。女の子と遊ぶのは楽しかったけ れど、他の子と同じかわいいものを着 ていたならもっと楽しいのにと、いつ も思った。 ティフの父親は、息子が女の子の服 を着るのが好きなことに、当然、気づ いていた。それに、妻が、息子をかわ いく装わせることに夢中になっている ことにも。 でも、女の子になったティフを誰も 傷つける様子がないのを見て、それを 許した。それどころか、時には、自ら 妻に勧めてティフを女装させ、ディナ ーに出かけた。美人の妻と娘を人々に 696/806 見せびらかせる男の幸せを味わいたか ったのだろう。 こうしてティフは、母親にとっては パートタイムの娘として、父親にとっ ては秘蔵の宝物として育った。 もし、人にきかれたような場合、母 は、女の子になったティフのことを自 分の姪だと紹介した。その場合、ラリ ーは、大好きな叔母さんのところに行 っていることになった。代わりに、そ この娘であるティフが遊びに来ている というわけだ。 ティフの両親は、その矛盾をごまか すため、ラリーとティファニーの写真 をそれぞれ撮って、パソコンを使って 合成さえした。素敵なパーティドレス を着たティファニーと子供用のスーツ とネクタイ姿のラリーが並んで立って いる写真をでっち上げたのだ。この合 成写真は、リビングルームに飾られ、 697/806 そのまわりには「2人の子供」の成長 を示す写真が並んでいった。 学校へ行くようになると、ティフに はつらいことがいろいろ起こった。彼 女は当然、女の子と遊ぶことを好み、 そのことで男の子たちからいじめられ た。毎日、早く学校が終わらないかと 願った。家に帰れば、「ママのちっち ゃな女の子」になり、パパのために夕 食をつくるお手伝いができるのだか ら。 夏休みだけは、大好きだった。家族 旅行では、ママとおそろいのかわいい 水着を着て、パパを砂の中に埋めたり、 波と戯れたりできた。 体が小さかったことと、男の子の遊 びの経験がなかったことで、バスケッ トボールやフットボールでは、さんざ んみじめな思いをした。たしかに、男 の子たちの間では、それらが「人気の 698/806 あるゲーム」だったが、ティフにとっ ては、かわいい女の子として「人気を 得るゲーム」の方がずっと簡単な気が した。 つまり、ティフはもともと、ラリー という名の男の子であるより、ティフ ァニーという名の女の子だったのだ。 彼が、そんな自分に疑問を持ち、テ ィファニーであることに居心地悪さを 感じ始めたのは、せいぜい1年とちょ っと前のことだ。彼は、そんな自分を ぶちこわし、ふつうの男の子になりた いという衝動にかられた。 彼の母親は、娘がいなくなったこと に失望したが、息子をいつまでも、ブ ロンドのカールの中に押しとどめてお くべきでないこともわかっていた。 ところが、不幸なことに、彼の「ふ つうの男の子」への挑戦は、それを越 えて暴走せざるを得なかった。かわい 699/806 い服や、お気に入りのお人形や、ママ といっしょのショッピングへの憧憬を 彼方へと葬り去るには、その対極へと 走り、そこに身を投ずるしかなかった のだ。 こうして彼は、ストリートギャング と関わりを持ち、不良になることで、 本来の姿であるはずの男になろうとし た。 「でも、そこであなたの身になにが起 こるのか、考えてみなかったの? コ ンビニで逮捕された時、射殺されなか っただけでも運がよかったのよ」 「ううん、運が悪かったんだよ。撃た れてれば、男として死ねたのに」 ティフは、そうつぶやいた。 「馬鹿なこと、言わないで!」 僕は思わず声を荒げていた。 「男として死ぬ? まだ、まともに生 700/806 きてさえいないのに、そんなこと言う もんじゃないわ。男として死ぬなんて ことに、なんの意味があるの? あな たの人生を意味あるものにするのは、 生きて、本当のあなた自身になること でしょ」 「本当の僕自身になる?」 彼女は、そう言いながら、ふたたび 泣き始めていた。 「だから、それができなかったんじゃ ないか。僕は、男にはなれなかったん だ。強くなろうとしたさ。なのに、だ めだった。あの時、僕が銃を撃つのを ためらったせいで、ヴィニーは殺され たんだ」 「ちがうわ。あなたは賢かったのよ。 もし、あなたが銃を使おうとしてたら、 たぶん、あなたも撃たれてたはずよ」 「なんにもわかってないくせに。僕が 腰抜けだったから、仲間が撃たれたん 701/806 だ。僕は、あの男が銃を出してヴィニ ーを狙うのをただ驚いて見てたんだ。 ほんとの仲間なら、ヴィニーが撃たれ る前に、僕がそいつを撃たなきゃいけ なかったのに」 「ううん、わかってないのはあなたよ。 あたしは、ミセス・ウイリアムズから、 あなたの逮捕記録を見せてもらってる のよ。あなたたちが脅したレジの男は、 おとりの警官だったの。その上、天井 裏にも警官が隠れていて、そのショッ トガンは、あなたに向けられてたのよ。 その時、あなたがぴくりとでも動いて いれば、あなたの頭は吹っ飛んでたは ずよ」 「だ、だけど‥‥」 「だけど、じゃないでしょ!」 僕は強い調子でティフの言葉を押し 戻した。 「あなた、いったい、なに考えてるの 702/806 よ! だいたい、銃を持って歩いてる ような連中とつるんで、なにがしたか ったのよ?」 「だから、さっきも言っただろ。本物 の男になりたかったんだ。そんな強い ギャングに入れば、弱虫じゃなくなる って思ったんだ」 「ジルが通った道とおんなじね。彼女、 ギャング団の入団の儀式とやらで、肋 骨を2本折られたって言ってたわ。肋 骨を折ることが、なんで強さを示すこ とになるんだか」 と、その言葉に、突然ティフが嗚咽 しはじめた。 僕は、なにかまずいことを言ったの だろうか? 「どうしたの、ティフ? あなたも、 そのギャング団に入るとき、ひどい目 にあったの?」 僕を見つめるティフの顔が、これま 703/806 で見たこともないほど悲しみに歪ん だ。 「僕は、その儀式をやらせてもらえな かったんだ。そりゃ、僕だって、やれ ばできたさ。でも、ヴィニーが、僕は いいって。僕には、ロープと車の試練 を課さなかったんだ」 「えっ? 何の‥‥しれん? いった い、何のこと?」 僕は、わけがわからずきいた。 「2台の車の間のロープを飛び越える んだよ」 「まだ、言ってることがよく見えない んだけど。2台の車とロープで、何を するわけ?」 「だから、入団の儀式だよ」 ティフは、僕のことを、物を知らな いやつという目で見た。 「2台の車にロープを張るんだ。試練 を受けるやつは、そこから離れた場所 704/806 に立つ。で、自分に向かって全速力で 走ってくる車の間のロープを跳ぶん だ。それを3回クリアすれば、入団が 決まる。ジルはきっと、入団するまで に何度か失敗したんだと思うよ」 なるほど。それで、僕のことを物を 知らないやつと思ったわけか。 「ティフ、あたしは、あなたがそんな 馬鹿なことしなくて、ほんとによかっ たと思ってるわ。でもね、ギャング団 の入団の儀式っていうのは、他のメン バー全員に、何分間も殴られたり蹴ら れたりすることだって聞いてるわよ。 逃げずに耐えられたら、入団が決まる って。ロープも、車も、使わずにね。 メンバーが疲れるか、本人が逃げ出す かしないかぎり、気を失うまで痛めつ けられるそうね。ジルが肋骨を折った のも、それだって言ってたわ。ヴィニ ーが、あなたにそれをさせなかったの 705/806 は、まあ、運がよかったってことだろ うけど」 ティフは何か気づいたように息を飲 んだ。愕然と開かれたその目と口が、 震えていた。 「そ‥‥そんなこと、なんにも‥‥」 やっとのことで、つぶやくように言 った。 「僕は、からかわれてた‥‥? や、 やつら、それをネタにして、僕のこと、 笑ってた‥‥?」 「もう、わかったでしょ、ティフ。ヴ ィニーは死んだ。他の連中は逮捕され たか、どこかに雲隠れしてしまった。 こうして生き残ってるあなたは、ラッ キーだってことよ」 「殴られつづけるなんて、きっと僕に は耐えられなかった」 彼女は、僕の言ったことを反芻する とでも言うように、数回首を振った。 706/806 「たぶん、すぐに逃げてたよ」 彼女の声は、悲しげだった。 「やつらいつも、僕のことをフロイド って呼んでたんだ。けっきょく僕は、 ずっと、そんなふうに見られてたんだ ね」 「フロイド?」 僕は、その言葉とともに彼女が身震 いしたのが気になり、きいた。 「『プリティ・ボーイ・フロイド(※)』 ‥‥って」 彼女は、消え入りそうな声で言った。 (※訳注 ‘Pretty Boy Floyd’ 1930年代、 中西部で名をはせた伝説的銀行強盗 の名をとった西海岸のヘビメタバンド また、そ ギャン グ団のメンバーは、その名に引っかけ“プリテ ィ・ボーイ”ティフをからかったわけだ) 「さっきも言ったように、やつら、僕 のことを弱虫だって知ってた。女の子 みたいだって思ってたんだ。その儀式 707/806 もなしで僕を仲間に入れたのは、たぶ ん‥‥ヴィニーの『女』としてだね」 「ねえ、フェイス、お願いがあるんだ けど」 自分の物語を語り終え、しばらく黙 っていたティフは、なにかを吹っ切る ように顔を上げた。 「僕を‥‥あたしを、もっとかわいく して。ヘアセットのやり方とかも教え て。そしたらあたし、あなたみたいに きれいになれると思うの。来週、ママ とパパが来るのよ。その時に着る服の 相談にものってね。ママとパパに、あ たしが今幸せだって思ってほしいの。 いい娘になって、もう二度と困らせる ようなことはしないって、信じてほし いの」 「ティフ、あなたは今、自分の言って ることを、ちゃんとわかって言って 708/806 る?」 僕は、ティフの望みが、本心からの ものだと確信したくてきいた。 「あたしは、あなたにやけになってほ しいわけじゃないのよ。あなたの顔と 体格なら、完璧な女の子になれるって ことは保証するけどね」 「あたしは、ちょっと他へ行ってただ け。もともと、ここにいたの」 彼女は、解放されたような愛らしい 笑顔を向けてきた。 「まわり道しちゃったけど、戻って来 られたんだもん、もう、どこにも行き たくないわ」 「‥‥そうね」 僕はそう言って、彼女のおでこにキ スした。 「じゃあ、明日の朝から、ふたりで、 これまで誰も会ったことがないような かわいい女の子づくりをはじめまし 709/806 ょ。でも、そのためには、もう寝た方 がいいわ」 ティフは、両手を僕の体にまわし、 抱きしめてきた。 「ああ、ワクワクするわ。あたし、こ こへ来て最初の日に着たあのサンドレ スが大好き。あんなお姉さんっぽい服 は、これまで一度も着たことなかった から。ママったら、あたしを、いつま でもちっちゃな女の子だと思ってるの よ。だから、いつも、まるで8歳の女 の子みたいな服ばっかり着せられてた の。あたし、けっきょく、それがいや だったんだと思うわ。あたしだって、 いつまでも子供じゃないんだもん。ね え、今度、ママとパパが来る時、思い っきりドレッシーな服で会うっていう のはどうかしら?」 「だからね、それは明日、相談しまし ょ。きれいになるためにも、睡眠は必 710/806 要よ」 僕の言葉に、ティフはその話をつづ けるのはあきらめたようだが、また、 なにか別のことを思いついた顔をし た。 「ねえ、あなたのピンクのネグリジェ を貸してって言ったら、いや?」 彼女は、希望を込めた声できいてき た。 「あの、パンティつきの、短めのやつ」 「ああ、この前、あなたがひとりの時 に、こっそり着てみてたやつね」 僕は、彼女の言葉を補足した。 「えーっ? 知ってたの?」 ティフは笑いながらも、うかがうよ うに僕を見た。 「ふふ、ネグリジェを着てたのも、と きどき、あたしの服を試してるのも、 全部知ってるわよ。それに、あたしの 化粧品でメイクの練習してるのもね」 711/806 「あの‥‥、怒って‥‥ない?」 「妹は、こっそりとお姉ちゃんの化粧 品を使うものでしょ。姉はそれを、見 て見ぬふりするものよ。だって、妹が、 ちっちゃな女の子から、かわいくてき れいな本物の女の子に変わっていくの がうれしいんだもの」 ティフは、すぐにドレッサーのとこ ろに駆けていき、迷うことなく引き出 しを開けた。それは、正確に彼女の言 っていたネグリジェが入っている引き 出しだった。1秒もかからずに目的の ものを引っ張り出した彼女は、すぐさ まコットンパンティと長めのナイティ を脱ぎ、それに着替えた。 ベビードールの薄くて透けた生地 が、彼女の絹のようなお尻の肌をすべ って揺れた。 翌朝、ティフは、朝早くから起き出 712/806 した。 それはいいのだが、問題は、彼女が 僕にも早く起きることを期待したこと だった。 彼女は、ヘアスタイリングに関する 最初のレッスンが待ちきれなかったよ うだ。それを早めにはじめ、そのあと、 できればメイクのレッスンもしてほし いと思ったらしい。もちろん、下着や 服選びのコツも、早く身につけたいと いうことだろう。 たしかにティフは、いい生徒だった。 彼女は、僕の説明や手の動きを、ひ とつも聞き逃すまい見落とすまいと集 中しつづけ、その間、ヘアスタイルに 関する山のような質問を浴びせてき た。そのあとも‥‥アイメイクはどん な色の取り合わせがベストか、授業の 時にはどこまでのメイクが許されるの か、自分にはどんな種類の服が似合う 713/806 か、自分の年齢で高いヒールを履いて もおかしくないか‥‥と、次から次へ と質問してきた。 僕は、それに答えることを、少しも 面倒だとは思わなかった。というより、 彼女こそ、女の子にとっての夢の実現 だった。生きている等身大バービー・ ドール‥‥僕が手を入れ、着飾らせる ことで、彼女は確実にきれいになり、 僕はそれにワクワクしつづけた。これ まで彼女が身につけたことのない服や 小物をなにかひとつ加えるだけで、彼 女はよりかわいくなった。ほんのちょ っとしたメイクを施すだけで、彼女の 顔は信じられないほど輝きを増すの だ。 大人の女へと変わりはじめた瞬間の 少女だけが持つ、その息をのむような 美しさは、まさに一枚の完璧な絵だっ た。そのかわいらしさは、彼女が出会 714/806 うすべての人を、虜にしてしまうにち がいない。 ティフは、例の白いサンドレスを着 たがったのだが、僕は彼女のクローゼ ットから、別のものを選んだ。ぴった りと体の線に沿ったベース生地の上 に、ライラックカラーの花柄がプリン トされた薄布が、レイヤーとして取り まいているドレスだ。 僕はそれに合わせて、引き出しから は、やはりライラックカラーのスリッ プ、ブラ、パンティのセットを出した。 あとは、薄い白のパンストと、ローテ ィーンの妹のお出かけにふさわしい、 あまりヒールの高くない白のサンダル を選んだ。 その、おそろいのスリップとブラと パンティを見た時のティフの表情は、 本当にかわいかった。クリスマスプレ 715/806 ゼントの包みを開けた子供だって、こ こまで幸せそうな顔はしないだろう。 「これ、きれい!」 彼女は、満面の笑顔で言った。 「ママは、こんなのいっぱい持ってた わ。あたしも、同じようなのを着けた いって思ってたこと、知ってたのね?」 「ふふ、お子様向けじゃないお姉さん 用の下着ね」 僕は、そう言って笑った。 「ほらね。ママだってもう、あなたに レディらしい服を着てほしいと思って るのよ。いつまでも、ちっちゃな女の 子用じゃなくね」 「あたしは、あのかわいらしいパーテ ィドレスやペチコートとさよならしな きゃいけないのね」 ティフは、ネグリジェを脱ぎながら、 そう言ってほほ笑んだ。 「だけど、こんな下着の方が、このす 716/806 てきな髪型には似合うわね。ママは、 いつも、おさげにしか結ってくれなか ったのよ」 「レディはおさげ髪はしないわ。そし て、小さな女の子は、こんな高価なラ ンジェリーは着けない。ママが、これ だけお金を使ったのは、自分の娘に、 こんなすてきなランジェリーの価値が わかる女の子に成長してほしいと思っ たからでしょ」 「あたし、そんな女の子になるわ。ぜ ったい、なる」 彼女は、そう約束しながら、なんの ためらいもなくブラのホックを前でと め、それをくるっとまわしてストラッ プを肩にかけた。さらにパンストを手 早くくるくると巻き込むと、そこに足 を通し、きれいに脚の上に延ばした。 スリップも、いつも僕がやってあげて いるのと同様の手慣れた感じで身につ 717/806 けた。 「どう? ほんとのこと言うと、ちっ ちゃい頃から、ママのでこっそり練習 してたの。まちがってないでしょ」 その手際の良さに驚いている僕に、 彼女は、そう笑ってみせた。セクシー なブラを着けることにも、レースでい っぱいのシルキーなパンティにも、何 のためらいもない。 これが、何日か前まで、粗野で乱暴 に見せようとしていたのと同じ人間だ ろうか? そのランジェリーに嬉しそうにして いる姿を見たら、彼女が、基本的には 男の子として育ったと言っても、誰も 信じないだろう。 「あんたって、とんだインチキ野郎ね。 ここへ来た時は、そんなこと、おくび にも出さなかったくせに。男になりた い? 強くなりたい? 嘘つき! ほ 718/806 んとは、か弱く見せることが大好きな んじゃない」 「インチキ野郎? ひどーい」 彼女は怒った顔をしてみせた。 「まあ、かわいいインチキ女くらいな ら、妥協してもいいけど」 僕は、がまんしきれず、彼女を抱き しめていた。 「それは正しくないわ。かわいいどこ ろじゃなくて、あなたって、世界でい ちばんのお人形さんよ」 「だけど、あたし、気味悪くない?」 突然、ティフがちょっと心配げにき いてきた。 「あたしずっと、気味悪いオカマだな んて思われたくなかったの。でも、ど うしてもそうなっちゃう。ママのかわ いい女の子でいることが大好きだった あたしには、一生、男の子は無理なの ね」 719/806 僕は、難しい選択を迫られていた。 彼女が男の子として大人になる姿を 想像できないという本心を語るべき か、それとも、いつかは、ドレスやラ ンジェリーやメイクを忘れ、誰からも 男だと思われて暮らせる日がくると、 嘘をつくべきか。 そんなことを平然とした顔で言える ほど、僕は不正直ではない。たとえ、 ジーンズにライダースブーツ、革ジャ ン姿だったとしても、ティファニーは 女の子にしか見えないだろう。 「もちろん、オカマになんか見えない わ、ティフ」 僕は、彼女を見つめて言った。 「もし、気に障ったらごめんね。でも、 こんなにかわいくて女の子っぽいあな たを見てると、そもそも男の子に生ま れてきたのがまちがいだったって気が するの」 720/806 と、彼女は僕を見返し、ニッコリと 笑った。 「気に障る? とんでもない。あたし、 今は、女の子であることを、誰からも 疑われたくないの。まちがっても、男 の子だなんて思われたくない。あたし は、二度と男の子に見られたいなんて 思わないわ。だって、小さい頃から、 男の子の自分が好きだったことなん て、一度もないんだもん。女の子の格 好が好きだったし、女の子といっしょ に遊ぶのが好きだった。ままごとをや ってる時だって、他の女の子は、とき どき男の子やパパをやりたがったけ ど、あたしは、ママしかやらなかった もん」 そう言いながら、準備したドレスを ハンガーからはずしたティフは、背中 のジッパーを頭が入るのにじゅうぶん なとこまで上げてから、それをかぶっ 721/806 た。 「あたし、いつも、ママがドレスを着 るのを見てるのが大好きだったの」 ドレスの裾が下まで降りたところ で、彼女は、途中まで上がったジッパ ーを、首の後ろまで引っ張り上げなが ら笑った。 「だから、やり方は全部知ってるのよ。 こうすれば、あなたに手伝ってもらわ なくても、ジッパーが閉められるのよ ね」 僕は、感心しながらそれを見ていた。 僕の妹は、すぐに、立派な誘惑者に なるだろう。 僕には、気を引こうとして自転車で 近づいてきた男の子たちが、彼女が笑 いかけたとたん、バランスを失って転 ぶ姿が、容易に想像できた。 「コロンもつけてみる?」 僕は、お気に入りのコロンを手渡し 722/806 ながら言った。 「大好きな香りの中にいると、男の子 だった時のこと、すっかり忘れられる わよ」 「わかるわ。でも、あたしは、男の子 だったことを忘れるっていうより、マ マに、あたしにもつけてっておねだり してた時のことを思い出すわ」 「そうか。あなたはずっと、ママみた いになりたかったのよね」 僕も、それにうなずいた。 「それを知ったら、ママもきっと喜ぶ わ」 「ほんと、あたしのママって、最高な のよ」 ティフは、何の屈託もなく言った。 「頭がいいし、ほんとにきれいだし。 あたしもいつか、ママみたいな大人に なりたいな」 「あなたなら、ママよりきれいになれ 723/806 るかも知れないわよ。頭の方はまだわ からないけど」 僕はそうからかった。 「あたし、他の子よりいい成績とるわ よ」 彼女は、そう宣言した。 「ミセス・ウイリアムズも、あたしは 賢いんだって言ってくれたでしょ」 「もうじき、新学期が始まるから、そ うすればわかるわ。さあ、準備ができ たら、そのドレス、みんなに見てもら いに行きましょ」 僕はそう言って、彼女の肩に手を添 え、ドアの外に導いた。 ティフが、将来も女の子でいつづけ るつもりだと語ったことに、他の女の 子たちはみんなわきたった。ジルはも ちろん、ティフの手をとり、例のダン スを踊った。ティフも、ジルに負けず 724/806 に飛び跳ねた。 「あたし、これまでで、こんなに幸せ だったことってないわ」 ティフは、叫ぶような声を上げた。 「ここに来て、初めてほんとの友だち ができたの。それも、こんなにたくさ ん。みんな、大好き!」 「いったい、なにを騒いでるの?」 背後から、よく知っている声が響い た。 振り向くと、ラウンジの入り口にホ リーが立っていた。 「あっ、帰ってたのね。早くこっちへ 来て。話したでしょ。あたしの妹よ」 僕はすぐに、ホリーを輪の中に招き 入れた。 「見て、すごくかわいいでしょ。まあ、 あたしと同じくらい」 そう言ってから、僕はふたりを紹介 した。 725/806 「ティファニー・リン・モリソンよ。 こっちは、あたしのビッグ・シスター、 ホリー・リン・ビンクラー」 「わあ、すてき! ミドルネームがお んなじ!」 ティフはうれしそうに言うと、ホリ ーが身を引くより早くその手をとっ た。とたん、ホリーはダンスに巻き込 まれ、ティフに振り回された。 「ふー、彼女、ジルの影響をもろに受 けちゃったってわけね」 ダンスからやっと解放されたところ で、ホリーはあきれたように肩をすく めた。 「オー、神よ。ついにわれわれは、2 台の小型永久運動装置を手に入れまし た。その名は、ジルとジル・ジュニア」 と、その時、ホリーのそばに誰かが 駆け寄った。声を聞きつけ、人垣の中 からジルが飛び出したのだ。当然、彼 726/806 女はすぐに、ホリーの手をとった。 僕は、姉だけがふたたび、ジルとジ ル・ジュニアの儀式に巻き込まれるを 黙って見ているわけにもいかず、あわ ててジルとティフの間に割り込んだ。 「姉妹でしょ。仲間はずれはなしよ!」 僕ら4人は、笑いながら部屋の中を ぐるぐる回っていた。他の女の子たち は最初、あきれたように見ていたが、 やがて勢いに飲まれ、その輪に加わっ てきた。 ★ その集まりが解散した後も、ホリー は僕らの部屋までついてきた。、ティ フのことをもっと知りたいからという ことだった。いや、少なくとも口では 727/806 そう言っていた。 ところが、部屋に入るやいなや、ホ リーはティフに、僕がたった3日間で 女の子っぽい女の子になってしまった てんまつを話しはじめ、僕は恥ずかし い思いをすることになった。 「ふん。もし、あの結婚式の時、ロブ があんなにすてきな人だって知ってた ら、あたしは、あなたなんかでなく、 彼と踊ってたもん! とにかく、彼の キスはすてきなんだから」 「へえ、そう。グローブトゥロッター ズのキスよりも?」 ホリーは、意地悪な笑いを浮かべ、 僕をからかいつづけている。 「ねえ、ティフ、あなたのお姉さんか ら、グローブトゥロッターズのチーム 全員とキスした話は、もう聞いた?」 「あれは、サイン入りボールのため よ!」 728/806 僕はそう言って、彼女にイーッと舌 を出した。 「あなたって、あたしにフラれたこと を、そうとう根に持ってるのね」 「えっ? あっ、そうかあ!」 ティフが笑いながら言った。 「さっき、紹介されたときは、そこま で頭が回らなかったけど、フェイスが 結婚しようと思ってたのって、ホリー なのよね。ねえねえ、妹からフラれる って、どんな感じ? きっと、すっご くつらかったでしょうね」 「ううん、すっごく面白かったわ」 ホリーも、笑いながら答えた。 「だって、熱くなってたのはこの子だ けで、あたしには、そんなつもり全然 なかったんだもん。この子が女の子っ ぽい女の子だってことは、最初からわ かってたし」 僕は、肩をすくめた。 729/806 「ふん、言ってなさい。あたしには、 世界一すてきなカレがいるんだもん、 平気よ。お互い、心から愛し合ってる し、必ず結婚するんだから」 「もう、すぐこれよ。最後は全部おの ろけ」 ホリーは、そう言って、肩をすくめ た。 「そうだ。それより、もっと面白いこ としない?」 そして、ティフの方を見て、また、 なにかたくらんでいるような笑いを浮 かべた。 「ティフ、あなたって、ほんとにかわ いいわ。お人形さんみたいよ。だけど、 もっと本物の女の子になりたくない? 自分がどこまで色っぽくなれるか、 見てみたいでしょ?」 「色っぽい‥‥って」 ティフは、どこか不安げにほほ笑み 730/806 ながら言った。 「あたしには、まだちょっと無理だと 思うけど‥‥」 「だいじょぶよ! あなたなら、男の 子たちを一発でノックアウトしちゃう くらい色っぽくなれるわ」 ホリーは、さらにからかうようにテ ィフを見た。 「想像してみて。あなたは、セクシー という言葉がぴったりな大人の女にな るのよ。もう、ちっちゃな女の子なん かじゃなくね」 「あたし、ちっちゃな女の子なんかじ ゃないわ」 ティフは、半ば笑いながらも、ちょ っとムキになって言った。 「いいわ。セクシーな女って、楽しそ う」 「サイズは、あたしと同じくらいよね」 ホリーの方は、ちょっとにやにやし 731/806 ながらティフを立たせた。 「あたしの部屋に行って、3人で服を 選びましょ」 ホリーの部屋、つまり僕がこの前ま でいた部屋は、やはり居心地がいい。 もちろん、今のティフには何の文句も ないけれど、ホリーといつもいっしょ にいられないのは、やっぱりさみしい のだ。もとの僕のベッドに腰を落とし ながら、僕は思わずため息をついてい た。 「ごめんね、フェイス。ミセス・ウイ リアムズは、今学期中に、あたしにま た、新しい妹を担当させるつもりらし いの。3人部屋でもあればいいのにね」 ホリーもちょっとさみしげに言い、 自分のクローゼットや引き出しを物色 しはじめた。 「そしたら、あなたにビッグシスター 732/806 の仕事を手伝ってもらえるでしょ。だ ってあなたは、こんなに短い間に、テ ィフをここまでにしちゃったんだも ん」 「あたしは、そんなにたいしたことを やってないわよ。タイミングがよかっ ただけ。ティフはちょうど、女々しい 男の子であることから抜け出したくて もがいてたんだから」 「じゃあ、これを履いて、また、女々 しい男の子に戻ってもらおうかな?」 ティフに向かい、いたずらっぽい顔 でそう言いながらホリーが差し出した のは、レースでいっぱいのボーイカッ トパンティだった。 ティフはそれを、まるで神聖な宝物 ででもあるかのように受け取った。コ ットン製なら話は別だが、ピンクで、 しかもレース以外の何ものでもないそ れを、断る理由はないだろう。 733/806 「それから、この際、パンストもダメ よ」 ホリーはそう言いながら、今度はガ ーターベルトとストッキングを手渡し た。 「あーっ」 それを見たティフは、震えるような 声を上げた。 「ママは、特別なお出かけとかには、 これを履くのよ。あたしも履かせてっ て言ったら、まだ早すぎるって」 「ここには、ママはいないわ」 僕は笑いながら言った。 「これは、あたしたち、女の子だけの ないしょのパーティでしょ」 ティフがそれにうなずくと、ホリー は、次に、パンティとおそろいのブラ、 ピンクのハーフスリップを手渡した。 最後に渡された黒のミニスカート と、シースルーのブラウスを見た時に 734/806 は、ティフの呼吸は、すでにそうとう 速まっていた。 彼女は、急いで着ているものを脱ぐ と、あわててパンティに足を通した。 「そんな、あせらないの」 僕は、そんな彼女に言った。 「レディは、そんなに急いで服を着な いものよ。ドレスを着る前に、ランジ ェリーの肌触りをめいっぱい楽しまな きゃ。どう? そのパンティの軽くて 肌にフィットする感じ。まるで、何も 着けてないみたいでしょ。次は、その ガーターベルトをして、ストラップを パンティの下に通すの。そのあとは、 ストッキングの楽しみが待ってるわ。 忘れないで。レディは、着ることをた っぷりと楽しむの」 「ええ、あたし、楽しんでるわ。ほん とにワクワクするもの」 ティフは夢見るように言い、くるく 735/806 ると丸めたストッキングを、脚の上に すべらせていった。 「こんな気持ち、味わうのは初めて。 子供向けのパーティドレスやペチコー トとは全然ちがう」 「おっぱいも、入れてみる?」 ホリーはそう言いながら、ティフの ブラのカップに、ブレストフォームを 挿入した。 「本物のおっぱいができる前に、あた しが使ってたものよ」 「わあ、すごーい」 ティフはちょっと恥ずかしそうに笑 いながら、大きくふくらんだ自分の胸 のあたりを見下ろした。 「あたし、そのうち、ほんとにこんな ふうになるのね」 「自分の胸をふくらませる唯一の方法 は、ホリーやあたしみたいに、女性ホ ルモンを摂ることだけど‥‥」 736/806 僕は、ティフの今言ったことの意味 をきちんと説明しておこうと思った。 さまざまな影響も含めて、正確に理解 しておいてもらいたかったのだ。 「でも、じゅうぶんに胸がふくらむと ころまで女性ホルモンをつづけた場 合、その時点でもう、あなたの体の男 の子の機能はダメになってるはずよ。 あとは、女の子として生きていくしか なくなるのよ」 その言葉にティフはちょっと考え込 む表情をしたが、それは10秒ほどだっ た。顔を上げた彼女は、ニッコリとほ ほ笑んで言った。 「それで、何の問題もないと思うわ。 女の子になることが、あたしの望みだ もの。よく考えると、子供の頃から今 まで、ずっとそうだったんだと思うわ。 そりゃ、一度はそこから逃げようとし て、無理して男の子をやろうとしたけ 737/806 ど、それはやっぱりほんとのあたしじ ゃなかった。あたしは、生まれる前か らずっと女の子だったの。それがなに かのまちがいで、男の子になってただ けだと思うから」 ティフは、スリップを身につけ、体 にフィットさせながらつづけた。 「ママもパパも、あたしが女の子でい る方が幸せなことを、ずっと知ってた んだと思うわ。あたしが、もう男の子 のふりをして生きるのをやめるって言 ったら、きっと喜んでくれるはずよ」 「体のテストとか心理テストとか、い ろいろすることになるわよ」 僕は、彼女の選択は正しいと思って いたが、その決意が早計すぎるような 気がして確認した。 「女の子になるっていうのは、あなた の気まぐれで決められるようなことじ ゃないんだから」 738/806 「知ってるわ。前に、ちゃんと本で調 べたもん」 ホリーが手渡したミニスカートをは きながら、ティフはそう答えた。 「あたしは、テストでもお医者さんと の面談でもべつに平気よ。女の子にな りたいっていうあたしの気持ちは、本 物だと思うから」 体にぴっちり沿ったブラウスを着た あと、中に入った髪をまとめて跳ね上 げるティフの仕草を見て、僕は、「こ の色っぽさは、たしかに、とても14歳 の男の子だなんて思えない」と、あら ためて感じた。 この上、ホリーがメイクやヘアスタ イルまで仕上げたら、ティフの姿は、 大学生の男が夢精の時に夢見る女の子 そのものになってしまうだろう。 「すてきよ、ティフ!」 ホリーが選んだ茶色のサンダルを履 739/806 くティフに、僕は口笛を吹いた。 「これであなたは、ちっちゃな女の子 時代を完全に卒業ね。ようこそ、メジ ャー・リーグへ!」 「なんか、あたし、すごくセクシーで きれいになれた気分!」 その高いヒールの感触を確かめなが ら、ティフはくすくすと笑った。 「やっぱり、前に着てたかわいらしい ドレスとは、全然ちがうわ」 「今、フェイスも言ったでしょ。あな たはもう、子供じゃないんだから」 ホリーは、ティフをメーキャップテ ーブルの前に座らせながらほほ笑みか けた。 「さあ、あなたがここを卒業する時、 どんな女の子になってるか、見せてあ げるわね」 ホリーはそう言うと、ティフの顔に、 シャドーやチークやマスカラやアイラ 740/806 イナーを次々に入れていき、最後に口 紅で仕上げた。その顔からは、子供っ ぽいイメージがすっかり消え、これか ら夜遊びに出かける女子大生という感 じの表情が現れた。 「ワオ!」 姿見の前でその姿を確かめたティフ は、大きな声で叫んだ。 「こんなあたし、ママに見せてあげた いわ」 「見せられるわよ」 ホリーはそう言うと、例の愛用のデ ジカメを持ち出し、ティフにあれこれ ポーズをとらせ、シャッターを押しは じめた。 「娘のそんな写真見せられたら、どこ の親もぶっ飛ぶわ」 カメラの前であられもないポーズを とるティフを見ながら、僕は笑った。 その後も、僕らは、ティフに何着か 741/806 の大人っぽい服を着せ、ヘアスタイル やメイクもさまざまに変えて、何十枚 もの写真を撮った。 「どれもみんな、すごくすてきよ。で もあたし、ママが買ってくれたお洋服 の写真もちゃんと撮っておきたいわ」 5着目の服が終わったところで、テ ィフが言った。 「だって、あたし、ママやパパに、い かがわしい女になったなんて思われた くないもん。そりゃ、もうちっちゃな 女の子みたいなのはいやだけど、でも、 背伸びしすぎるのもやっぱりよくない と思う」 こんなに賢くて家族思いの女の子で 遊んでしまうなんて、本当にいけない 姉たちだ。 ティフと僕はいったん部屋に帰り、 かわいい衣装を何着かとってくると、 メイクや髪ももとに戻して、そのあと 742/806 の撮影をつづけた。とはいえ、最小限 のメイクと年相応のヘアスタイルだけ でも、彼女が将来、誰もが息をのんで ふり返るような美人になることは、容 易に想像できた。 さっき彼女が言っていたとおり、彼 女はもともと女の子なのだろう。そこ にはもう、男の子を感じさせるものは なにもなかった。 もちろん、ミセス・ウイリアムズも、 そしてティフの両親も、変わったティ ファニーの姿を大きな驚きと喜びで見 つめた。そしてその場で、彼女がすで に女性になる決意を固めたことを聞か された。 その瞬間、ティフの両親がミセス・ ウイリアムズの方に視線を送り、軽く うなずいたのを見て、僕は彼らの真意 に気づいた。両親は、そもそも彼女を 743/806 ここに送った時点から、そのつもりだ ったにちがいない。たぶんずっと、彼 女が、男の子としてでなく女の子とし て成長する方が幸せなことを知ってい たのだろう。 両親が訪ねてきたその週末をもっ て、ティフの基礎訓練期間は終わった。 ティフは、2日間とも、大好きなマ マといっしょに、久しぶりの母娘とし てのショッピングを楽しんだ。ティフ の父親は、娘を美人にしてくれたお礼 だと言って、ホリーと僕もディナーに 招待してくれた。 父親の腕に手を絡めてレストランに 入っていくティフは、僕が知り合って からのこの1ヵ月で、最も幸せそうな 顔をしていた。 そんな輝くような美少女の姿に、レ ストランじゅうの若い男の目が注がれ ていた。 744/806 ディフのパパは、今のうちから、が んじょうな棍棒でも用意しておいた方 がいいだろう。彼女がもう少し成長し たら、親の目を盗んでデートに誘い出 そうとする男が押し寄せるにちがいな い。 すでにティフは、デートで僕を迎え にきたロブと何度か顔を合わせてい る。そんなこともあり、ロブの試合の 応援に、僕はティフを誘った。 外出できるようになった彼女が、女 の子としての社会経験を積むのにちょ うどいい機会だと思ったし、ティフの 変化をロブに見せて、僕の「成果」を 自慢したい気もあったのだ。 と、それを聞きつけたジルが、自分 も退屈だから――要するに、今つき合 っているボーイフレンドたちに飽きた という意味かも知れないが――いっし 745/806 ょに行きたいと言い出した。でも彼女 は、自分のこともよくわかっていて、 はしゃぎやすい自分が行くことで、試 合のじゃまになるのではないかと心配 もしていた。 「あたしのカレ」は、やっぱり馬鹿 じゃない。電話で相談したその答えは 明確だった。 スタンドにジルがいれば、チームメ イトは喜ぶにちがいない。たしかに気 が散るかも知れないけれど、そんな選 手たちを試合に集中させるのは監督の 仕事だ。観客が気にすることはないと いうのだ。 僕は、自分が彼のチームの監督でな くてよかったと思った。ジルにじゃま されずに試合を成立させるため、彼は 忙しい一日になるだろう。 試合の日、僕らの部屋に現れたジル 746/806 を見て、僕は目を疑った。にやにや笑 いを浮かべたその顔は、ティフの顔に 浮かぶ笑いと一致していた。 偶然にも(?)ふたりは、まったく同 じ衣装を着ていた。お腹の出た白のち びTシャツ、極端に短いピンクのホッ トパンツ、ひもがピンクのスニーカー。 同じようにポニーテールにし、ピンク のスカーフで結んでいる。ただしジル は、いつもの男を釣るための濃いめの メイクを控え、ティフに合わせた薄化 粧だ。 そんなふたりを見て、僕は思わず笑 ってしまった。 「ホリーの言うとおりね。ジルとジル ・ジュニア」 僕は急いでホリーの部屋に電話し た。 「すぐに来て。面白いものが見られる わよ」 747/806 ホリーは、ふたりを見るなりあきれ たように言った。 「こんな女の子たちがスタンドにいた んじゃあ、今日の試合は凡打やエラー の山ね」 「このガフっていうの、きつくて、が まんできないわ」 ティフは、女の子らしい股間を見下 ろしながら、うなるように言った。 「‥‥でも、やっぱりがまんしよ」 けっきょくは、姿見に映った自分の 姿をうっとりと見つめながら、納得し たようだ。 僕らが球場内に入ったとたん、そこ にいたすべての男たちが、観客席に向 かう2人のホットなベイビーを目で追 った。ティフもジルも、じゅうぶんに それらの視線を意識しているようで、 ふだんよりずっと、ヒップをスイング 748/806 しながら歩いている。かつて、マッチ ョなワルをめざしていたはずのティフ は、今や、ひとひらの可憐な花びらの ように見えた。 2対0のビハインドでむかえた三回 裏の攻撃。ロブのチームは、ここまで ヒットに恵まれなかった。と、ジルが、 打席に向かうかっこいいバッターの名 をきいてきた。 「マイクよ」 僕は答え、さらにこうつけ加えた。 「打率は2割8分、今日はあたってな いけどね」 「じゃあ、応援しなきゃね」 ジルは、弾んだ声でそう言うと、テ ィフになにか耳打ちした。くすっと笑 った2人は、席を立つと、観客席のフ ェンスのところまで駆けていった。 「マイクーっ。ホームランよーっ」 ジルは、黄色い叫びを上げた。 749/806 「あたしたちのために、かっ飛ばして ー」 観客席から声援を送るかわいい女の 子2人に気づき、うれしそうに笑い返 しながら、マイクは打席に立った。そ して、ライトフェンスの方向をバッド の先で指し示した。 そんなクラシックな挑戦をあざ笑う かのように首を振ったピッチャーは、 振りかぶると、内角低めにかまえたキ ャッチャーのミッドに向かい、こん身 の一球を投げ降ろした。 しかし、そのボールがミットの中に 入ることはなかった。振り切ったマイ クのバットが快音を発すると、次の瞬 間、ボールは、予告どおりライトフェ ンスを大きく越えていた。 ジルとティフは、手に手をとって、 マイクの名前を絶叫しながら、くるく ると踊り出した。 750/806 ダイヤモンドをまわってホームイン すると、マイクはジルとティフの近く まで来て、オーバーにお辞儀してみせ た。ダッグアウトに戻るその後ろ姿は、 まるでスキップでもするようだった。 その後もティフとジルは応援とダン スをつづけ、けっきょくチームは全員 安打、ロブも3打点を上げた。2点差 はあっという間に無になり、試合が終 わったときのスコアは、8対2になっ ていた。 「みんな、君たちのかわいい応援のお かげだって言ってるよ」 マイクは、ジルに自己紹介した後、 そう言った。 「アイスクリームとピザ、どっちがい い?」 ジルとティフは、いつしか、ロブの チームのメンバーたちから、スヌーピ 751/806 ー・ツインズと呼ばれるようになっ た。例のダンスが、漫画「ピーナッツ」 に出てくるスヌーピーの動きに似てい るからだ。彼女たちは、そのシーズン、 残りのすべての試合に応援に出かけ、 ロブのチームはプレイオフに進出した のみならず、リーグ優勝を果たした。 それは、スヌーピー・ツインズの活 躍によるところも大きいのだ。<br> わがチームの攻撃になると、僕が持 って行っているポータブルCDプレイ ヤーから「ルーシー・アンド・ライナ ス」という曲が流れる。アニメの「チ ャーリー・ブラウン」で、スヌーピー のダンスのバックにかかるあれだ。ツ インズは、それに合わせて踊るのだ。 シーズン最後の頃になると、相手チー ムは、その曲が始まったとたん、うん ざりした顔をした。そのダンスととも に、こちらのチームメンバーが俄然元 752/806 気づくからだ。 1年後、僕はグレートインディアン 校での最後の年を迎えていた。他の生 徒たちの勉強を見る役割を担ってきた 僕がいなくなった後のことがずっと心 配だったのだけれど、その頃にはもう、 心おきなく卒業できる状況になってい た。後継者ができたからだ。 ティフは、ミセス・ウイリアムズの 指示に従いレベルの高い授業をこな し、どの学期も、僕と同じくらい優秀 な成績をとっていた。彼女は8年生に して、高等部1年の授業を全Aで合格 し、高等部2年に進級した。(※) (※訳注 「8年生」というのは、小学校に入 学してからの通算 日本で言えば中2で高1を 終えたことになる つまり、飛び級している) これは、グレート・インディアン・ リバー設立以来の快挙だという。 753/806 僕は、各学年の成績のいい子たちを あつめ、落ちこぼれている子やつまず いている子たちに勉強を教えるグルー プをつくっていった。ティフはいわば 僕の助手として、それを手伝ってくれ た。 高等部の1年生が、ほとんどの授業 で全員B以上の成績をとったのは、テ ィフと何人かの生徒が、教師役を買っ て出てくれたおかげだ。成績発表の時、 ミセス・ウイリアムズはうれしそうに そう言った。 もちろん、ティフが僕の後継者だと いうのは、勉強の面だけではない。彼 女は、落ち込んでいる子たちの相談に のり、女の子としての暮らしにとまど う新入生たちの面倒を積極的にみてい る。 これも、ミセス・ウイリアムズを感 心させたことだが、もしティフがいな 754/806 かったなら、何人かの新入生は確実に ここから逃げ出し、刑務所送りになっ ていただろう。 ここに来た新入生たちのほとんど は、毎日女物の服を着て女の子として 振る舞うというやり方に反発し、混乱 する。ティフは、そんな新入生たちに、 ここに送られたのは、罰やはずかしめ を受けるためではなく、人生を立て直 すためなのだということを根気よく納 得させた。僕がホリーから学んだよう に、彼女は僕から学び、新入生たちを ここの暮らしにとけ込ませ、トンネル の向こうに光明があることを理解させ るすべを身につけていた。 僕自身は、そんな幸せな少女時代か ら旅立とうとしていた。 僕はここで、人生を大きく変え、自 分の弱さを克服して、よりよい人格を 755/806 つくることができた。 そんな希望にあふれた将来をもたら してくれたグレート・インディアン校 とミセス・ウイリアムズに、心から感 謝していた。 だからこそ、ここに送られ、自分を 見失っている後輩たちを支援するため のネットワークを、卒業までにつくっ ておきたかったのだ。 僕の卒業後、何年かはティフがそれ を引き継いでくれるだろう。そして、 ティフはまた、そのネットワークを育 てていく後継者を見つけるはずだ。 道に迷った問題児の男の子たちが、 その人生をを立て直すために、このガ ールセンターが、より良い学校になっ ていくことを、僕は心から願っている。 ロブと出会って以来、僕の将来の望 みは、なにより妻になり、できれば母 756/806 になりたいということだったから、今 後の進路は、大学に行くにしても、地 方の単科大学で教養課程だけを学ぶ (※)つもりだった。 (※訳注 アメリカの大学制度は、単科大学‘c ollege’で教養課程を修め、それから総合大学 ‘university’に進み、修士課程を修めるとい うのが一般的 collegeだけでやめる学生も少 なくない) でも、思い返してみると、ホリーと 結婚したいなどと言っていた頃、僕は それとはちがうことを考えていた。グ レート・インディアンに来た高1の頃 は、総合大学に直結した有名単科大学 (※)への進学を夢見ていたのだ。 (※注釈 有力なuniversityは、傘 下に数校のcollegeを持ち、そこから の進学が圧倒的に多い) じつはそれをあきらめたのは、我が 家に、その授業料をまかなうだけの経 757/806 済的余裕がないせいでもあった。たと え奨学金を受けられたとしても、まだ 年に何千ドルも足りないのだ。 でも、僕はそれが残念だと思っては いなかった。 卒業後、多少は外で働くとしても、 けっきょくは専業主婦になるのだ。夫 を仕事に送り出し、子供が学校に行っ たあと、家事をするその家の壁に、子 供の写真と並んで修士号の証書がかか っていようがいまいが、大したちがい はないだろう。 そんなふうに思っていた最終学年 の、ある午後のことだった。 校長室から呼び出しがあった。ミセ ス・ウイリアムズが、なにか大事な話 があるというのだ。 校長室に向かいながら、僕は、いつ かのことを思い出していた。 758/806 あの日僕は、コンビニ強盗を働き、 このグレート・インディアン校での5 年の更正教育を言い渡された不良少 年、ラリー・モリソンのビッグ・シス ターになってくれと言われたのだ。ミ セス・ウイリアムズは、僕ならできる と言ってくれたが、そんな自信はまっ たくなく、僕は、尻込みしたものだ。 それが今や、その少年は、自分の人 生を大きく変えただけでなく、他の生 徒を更正させるために中心となって動 いている。僕自身が、その成果に大き な驚きを感じていた。 とはいえ、僕がまたビッグ・シスタ ーとして他の子の面倒をみるには、も う時間がなさ過ぎた。いったい、ミセ ス・ウイリアムズの話というのは、ど んなことなのだろう? 首をかしげながら校長室に入ってい 759/806 くと、そこにはなんと、当のティフと、 その両親が待っていた。 ティフはもちろん、もうずっと前か らミセス・ウイリアムズといい関係に なっていたが、今日はことに、その横 にうれしそうな顔で並んで僕を迎え入 れた。 「フェイス、私たちは君を、娘の大恩 人だと思ってるんだ」 僕が腰掛けると、ミスター・モリソ ンが笑顔で切り出した。 「もし君がいなかったら、私たちは、 この子を失っていたかもしれない。も ちろん、ここに入れたことで淡い希望 は抱いていた。でもまさか、こんな優 等生の娘として、私たちのもとに戻っ てくるとは思ってもみなかったよ。そ の上、一時は手がつけられないほどぐ れていたこの子が、今では、他の子た ちの手本になっているというじゃない 760/806 か」 「あたしは、お姉さんの真似をしただ けよ」 ティフが、照れくさそうに言った。 「フェイスこそ、あたしのお手本だも の」 「フェイス、あなたは、いわば悪魔に 取り憑かれたひとりの少年に戦い方を 示して、悪魔を祓う力を授けたってこ とね」 ミセス・ウイリアムズがそんなふう につけ加えた。 「私の見込みは、まちがっていません でしたよ」 「今、うちの人が言った、この子を失 うっていうのは、けっして大げさな言 い方ではないのよ」 さらに、ミセス・モリソンがつづけ た。 「この子が、悪い連中とつき合いだし 761/806 たのを知ったとき、私たちはなにより、 この子の命が心配だったの。もともと は親の私たちが悪かったにしても、こ の子は、ただ家から逃げたい一心で、 わけもわからずそんな世界に飛び込ん でしまった。あの夜、家にやってきた 警官が、武装ギャング団の一味にうち の子が加わっていたと言ったとき、ど れほど恐ろしかったか。しかも、現場 で銃撃があったというし。その警官が、 死体の身元確認をしてくれと言い出す んじゃないかって、身の縮む思いだっ たのよ」 「だから、裁判所でグレート・インデ ィアン校の話が出たときは、わらにも すがる思いだったんだ。私たちの望み は、やさしかったこの子が戻ってくる ことだけだった。すさんで、荒れ狂っ た状態から目を覚ましてさえくれれ ば、それが男の子であろうが女の子で 762/806 あろうが、そんなことは問題じゃない。 ただ、ミセス・ウイリアムズから、君 がビッグ・シスターとして面倒をみる と聞かされたときは、正直言って、ち ょっと不安だったんだ。この子とそん なに年の違わない君に、いったいなに ができるのかってね。でも、ミセス・ ウイリアムズは、もしティファニーを よみがえらせられる人間がいるとする なら、それはフェイスしかないと、確 信を持っておっしゃった」 ミスター・モリソンはそう言ってひ とつうなずき、僕に笑いかけた。 「実際、君は、私たちにも、それに、 ティファニーが面接したカウンセラー の誰ひとりにもできなかったことを、 成し遂げてくれた。まさに、ティファ ニーの悪魔祓いをしてくれたんだ」 「そんな‥‥。あたしは、たまたま、 それに立ち合ったってだけです。ミス 763/806 ター・モリソン」 たいしたことをしたつもりはないの に、みんな、僕のことを買いかぶって いる気がして、僕は言った。 「ティファニー自身がもうわかってい たんです。なにも恐れる必要なんてな いってことを。必要だったのは、そば にいて、それにうなずいてくれる人だ けだった。彼女が恐れていたのは、灯 りがつけば消えてなくなるような自分 の影にすぎなかった。その灯りのスイ ッチを入れたのも、あたしではなく彼 女です。ティファニーは、なにが正し いことか、自分がどうすればいいかを よく知っている、賢くてやさしい子で すから」 「そんなふうに謙遜するところが、ま すます君らしいね、フェイス」 ミスター・モリソンは、さらにそう 言った。 764/806 「でも、目の前の現実がすべてを物語 っている。もし君がいなかったら、こ の子はたぶん、刑務所送りになってい たと思うよ。そうなれば、こんないい 娘が、私たちの目の前にいることはけ っしてなかったはずだ。君に対する私 たちの感謝の気持ちは、ただ、お礼を 言うだけでは、とても表せるものでは ない。だから‥‥」 と、ミスター・モリソンの目配せで、 ティフが、一通の封筒を差し出した。 「開けてみて」 ティフの両親はわざわざお礼の手紙 を書いてくれたのかと思いながら、取 り出した書面に目を通し、そこで僕は 呆然とした。 それは契約書のような書類で、僕が 大学へ行くための経費すべてを奨学金 として提供するとあった。 読みながら、涙があふれてくるのを 765/806 感じた。 「そんな‥‥。いけません。こんな多 額なお金、受け取れません」 「心配しなくていいのよ」 ティフのママが笑いかけながら言っ た。 「あなたを援助するくらいの余裕はあ るんだから。それにね、もう少し使え る余裕もあるの。続きを読んでみて」 詳しく読むと、その書面には、新た な奨学基金制度の創設がうたわれてい た。この学校で、仲間たちの面倒をよ く見て、多大な影響を与えたことが認 められる生徒に贈られるというその奨 学金は、本人が選んだ分野の修士課程 が修了するまで、授業料や書籍代すべ てを援助するというものだ。そして、 その「リープ・オブ・フェイス」奨学 金制度(※)の最初の受給者が僕だとい うことだった。 766/806 (※訳注 ‘“Leap of Faith”scholarship’ この小説の副題にもなっている‘a leap of fa ith’は「安全性を確かめないでとる行動」と いう意味の成句 そこから「自己犠牲精神に贈 られる奨学金」という意味になると思われる また‘leap’には「跳躍」とか「急激な変化(好 転)」という意味もあり、「フェイスの躍進」奨 学金、あるいは「フェイスの変身」奨学金とい う意味にもとれる) 「その名前つけたの、もちろん、あた しよ」 まだ呆然としている僕を抱きしめな がら、ティフが誇らしげに言った。 「今、パパとママが言ったことはまち がってないわ。もしあなたがいなかっ たら、あたしは今ごろ、この世にいな かったと思うもの。あなたがあたしに してくれたことは、これからもぜった いに忘れないわ。自信がなくてふらふ らしてたあたしに、本当の自分を直視 767/806 する意味を教えてくれたのは、あなた よ。あなたにとってはなんの見返りも ないのに、ふてくされて文句ばっかり 言っているどうしようもないガキに真 正面から向き合ってくれて、立ち直ら せてくれたんだもん。この感謝の気持 ちをどうやって伝えようかと思ってた ところで、あなたが、第一志望をあき らめたんだって話を聞いたの。あたし はもう、前みたいに甘やかされて育っ ただけの女の子じゃないわ。でも、こ れに関しては、親に甘えてもいいかな と思ったの。うちには出せるお金があ るし、あなたには一流大学に行くだけ の能力がある。その両方を活かすんだ もん、これ以上いいことはないでしょ。 それに、この奨学金があれば、あなた とあたしがつくってきた困ってる子た ちを助けてあげる伝統を、この学校に 根づかせることだってできると思う 768/806 の」 僕は涙をこらえようとしたのだが、 とても無理だった。感情のままに泣き ながら、僕はティフを抱きしめた。 「感謝しなきゃいけないのは、あたし の方よ」 僕は泣き叫ぶように言っていた。 「あなたは、お金以上のものを、あた しにくれたわ!」 「ねえ、それはそうと、ミセス・ウイ リアムズからも、あなたになにか提案 があるんですって」 ティフは、僕の体から手を離しなが ら、なんだか含みのある顔で言った。 その言葉に振り向くと、ミセス・ウ イリアムズもまた、含み笑いを浮かべ ていた。 「あなたたちほど賢い女の子は、これ まで、ここの生徒にはいなかったわ」 ミセス・ウイリアムズは、まずそう 769/806 切り出した。 「フェイスが卒業して、いずれティフ ァニーも卒業していなくなるのは、こ の学校にとって、大きな損失だって思 ってるのよ。さっき、そのことをティ ファニーと話したの。彼女は、大学卒 業後、この学校にカウンセラーとして 戻ってくれると約束してくれたわ。そ こで、あなたにもお願いがあるんだけ ど‥‥」 「座って聞きましょ、フェイス」 ティフが言った。 「あなたもきっと、驚くわ」 僕がふたたび腰掛けると、ミセス・ ウイリアムズは、ひとつ咳払いしたあ と、あらたまった口調でつづけた。 「じつはもう、理事会にも提案して、 合意を得ているのですが、将来的に、 私の仕事を補佐してくれる役職を設け ることにしました。毎日起こるさまざ 770/806 まな問題を処理し、生徒たちに最適な 手をさしのべるには、私だけではもう 手いっぱいです。ところが、教育と更 正を両立させるというこの学校に対す る社会の要請は、ますます高まってき ています。その期待に応えるためにも、 生徒たちの毎日の生活に目配せした施 策を、今まで以上に充実させていかな ければなりません。生活指導と学科教 育の両面に渡ってそれを成し遂げるに は、どうしても有能な人材が必要です。 今も言ったように、ティファニーは、 大学卒業後、ここでカンセラーの職に 就くことをめざしてくれるそうです。 でも、まだ足りません。私を補佐し、 学校全体を見てくれる副管理者、こと に、あなた方ふたりがこの間つくりあ げてきた生徒たちの自助の精神を育 て、発展させることができる副管理者 を置きたいと考えています。まだ今の 771/806 段階では、明確な答えは出せないかも しれないけれど、フェイス、私は、ぜ ひあなたにその仕事をやってもらいた いと思っているんです」 「どう、フェイス? あたしとあなた、 姉妹そろって、世の中のために働ける のよ」 ティフが、目を輝かせながら言った。 その瞬間に、僕の将来は決まった。 僕は、世界的にも高名な大学に入り、 教養課程を修めるだけでなく、修士課 程として私立学校の経営管理学を学ぶ ことになるだろう。 卒業後は、高収入が保障された、ま さに僕向きの仕事に就くのだ。しかも、 なによりすてきなのは、これまで出会 ったうちで最も賢く、最も気心の知れ た友人と働けるのだ。お互いに願望や 夢を共有できる仲間と仕事ができるな 772/806 んて、こんなすばらしいことはないだ ろう。 ただ、大学に入る前に、僕にはどう してもしておかなければならないこと があった。 グレート・インディアン校の卒業式 が近づいたある日、僕は、ロブに頼ん で、以前通っていた学校まで車で連れ て行ってもらった。 学校に着くと、まっすぐ職員室に向 かい、校長との面会を申し込んだ。 「以前、あたしがおかけしたご迷惑の 数々をお詫びしたくて、まいりました」 校長室に通された僕は、まず、そう 話した。 「あの頃のあたしは、本当に、なにも わかっていなかったんです」 「いや、私も今、よくわかっていない のですが‥‥」 773/806 校長は、取り次いでくれた人が書い たらしい机の上のメモを見ながら礼儀 正しい微笑を向けてきた。 「ここの在校生だったということです が、どうしても思い出せないんですよ、 ミス・ジョーダン」 「どうか、フェイスと呼んでください、 トーングル先生」 僕は、校長の驚きを少しでも和らげ ようと、そう言ってから一拍おいた。 そして、ニッコリと笑ってつづけた。 「でも、先生がご存じのあたしは、フ ランク・ジョーダンといいました。あ の、理科室放火事件の」 僕はこれまで、誰かがこれほど速く 瞬きを繰り返すのを見たことがない。 ミスター・トーングルが、僕の正体に 気がついたことが、それでわかった。 ただ、彼の名誉のために言っておけば、 彼は、表面上、プロの教育者としての 774/806 冷静さを保っていた。 「見るところ、君の人生には、少なか らぬ変化があったようだね」 彼は、やっと笑顔になるとそう言っ た。 「ふむ、どうやら、この学校にいた時 より、幸せになったことはまちがいな いようだ」 「ええ、ここにいた時は、本当にどう しようもない人間だったと思います。 ご存じのように、あたしはグレート・ インディアン・リバー・ラーニング・ センターに送られました。あたしにと っては、それがよかったんだと思いま す。よろしかったら、これをご覧にな ってください」 僕はそう言って、バッグの中から、 成績表と大学の合格通知を取り出し た。 「おめでとう。この成績もすばらしい 775/806 が、君はきっと、これ以上にすばらし いものを前から持っていたんだろう。 君がここにいるうちに、それに気づい てあけられればよかったと思うよ」 僕らはそれから、1時間近く談笑し た。成績のこと、ガールセンターで僕 らが組織した個人教師プログラムのこ と、僕が受けることになった奨学金制 度のこと‥‥。 「大学を出たあと、いい仕事に就ける といいね。就職活動は大変だろうが、 初志を貫き通してほしい。君なら、か ならずできるはずだ」 そんな言葉に、僕は言わずにいられ なかった。 「じつは、もう決まってるんです。修 士過程を終えたら、グレート・インデ ィアン校の副管理者として迎えてもら えるって」 「君の果たした変身を一目見ただけで、 776/806 その仕事にぴったりなのがよくわかる よ、フェイス」 立ち上がったミスター・トーングル は、そう言って握手を求めてきた。 「君自身が生徒たちのすばらしい見本 となるわけだ。たいていの学校では、 管理者は引退した教師がなっている。 すでに情熱も枯れて、抜け殻になった ようなね。でも、本来は、君のような 生徒たちに近い存在が必要だ。生徒た ちの気持ちがよくわかっている君な ら、必ずいい学校がつくれるはずだ。 もし、私に協力できることがあれば、 いつでも電話してくれたまえ」 ミスター・トーングルは、僕を学校 の玄関まで送ってくれた。 そこで待っていたロブを、僕は彼に 紹介した。 ロブは、かつて僕を追放したはずの 校長と僕がまるで古くからの友人のよ 777/806 うに話しているのに、ちょっと不思議 そうな顔をした。 ミスター・トーングルは、それに笑 って応え、こんなにすてきな恋人を持 ったのだから、大切にするようにと言 った。 たしかに、校長先生と仲よく話すな んて、かつての僕なら考えられないこ とだ。でも、これが初めてのことじゃ ない。僕はすでに、グレート・インデ ィアンでも同じ経験をしていた。自分 ながら、人間というのは変われば変わ るものだと思う。 大学へ入った僕は、教養課程および 教育経営学の修士課程を、きっちり4 年で修了した。大学生活を楽しんでの んびり過ごしていれば、たぶん5年か かったのだろうが、そうはいかない事 情があった。年下の競争相手に追い上 778/806 げられていたのだ。 そう、ご想像通り、わが愛しの妹、 ティフだ。僕の翌年、グレート・イン ディアン校を卒業したティフは、僕を 追うように同じ大学に入ってきた。そ して、一年前の姉同様、学年一の成績 で優等表彰を受けて教養課程を終え、 心理学の修士課程へと進級した。 ただし、総合点では、僕の方が1ポ イントだけ勝っていた。この点だけは、 一生、ティフに忘れさせないつもりだ。 もちろん、だからといって、2年で高 校を終え、4年で大学を終えた女の子 の実績に傷がつくものではない。 もし、叶わないと思っていた願いが すべて叶ってしまったら、あなたなら どうする? あとはもう、世界一ハンサムで、世 界一やさしくて、世界一セクシーな男 779/806 と結婚するしかないだろう。 じつは、大学に入学する前の夏休み、 僕はすでに最終的な手術を受けてい た。術後は死ぬほど痛い思いもしたけ れど、この痛みが、やがてはすてきな 夫との愛の交歓に取って代わるのだと 思えば、平気で耐えられた。 僕らが結婚したのは、ロブが大学の 修士課程を終え、原子力発電所設計の 仕事に就いて間もなくだった‥‥と、 こう書くと、僕が大学を出てすぐ結婚 したように聞こえるかもしれないが、 じつはそうじゃない。僕もできるかぎ りの援助はしたのだけれど、ロブは修 士をとるのに5年半かかってしまった のだ。 いや、彼が頭が悪かったわけじゃな い。彼が選んだ、原子物理学という学 問が難しすぎるのだ。 780/806 結婚式は待たされたというものの、 それは、将来にわたって僕を大事にす るためにも、確固としたものを持ちた いという、ロブの気持ちの表れだった。 もちろん、花嫁の付き添いはホリー に頼んだ。そして、ジルとティフも、 ブライドメイドとしてついてくれた。 ロブのメインの付き添いは、彼の高 校の友だちであり、ホリーのフィアン セでもあるジャック。他に、ロブの高 校時代の野球部の同僚、マイクと、そ の弟のマーティーも付き添いになっ た。じつは、このふたりも、いずれは ジルとティフの夫になりそうだ。マイ クは、例のスヌーピー・ツインズのデ ビュー戦の時からずっとジルとつき合 っているし、その1年後に、弟とティ フを引き合わせたというわけだ。 781/806 この日のために、ママは雪のように 白いランジェリー買ってくれた。その ランジェリーが肌をすべる感触は、本 当に心地よい。レースのパンティは、 柔らかな毛に包まれた僕のかわいい割 れ目をぴったりと覆い、長年がまんし てきた新郎へのそのごほうびを、まる で額縁にでもはめるように、ガーター ベルトが囲んでいた。 手に持ってもかすかな重みも感じな いほど薄いそのストッキングは、はい てみると、官能的に脚の肌に張りつい た。 時間の浪費だと思えるほど着付けに 手間がかかるからこそ、これらの衣装 は、こんなに美しいのだろう。そして、 けっきょくはあとで、ロブに脱がされ るのだと思うからこそ、こんなにワク ワクするのだろう。 形のよいふたつの胸がサテン地のブ 782/806 ラカップの中に固定されるのを見つめ ながら、僕は、女性ホルモンを摂りは じめた頃さんざん苦しめられた吐き気 や情緒不安定さえ、懐かしい思い出と してふり返っていた。僕の胸は今、や わらかく弾力があり、ことが終わった あと、身をあずけてきたロブの頬をや さしく包むだろう。 豊胸手術をすることもできたのだ が、僕は、ホルモンだけでゆっくと自 分の胸を育ててきた。その結果、今、 36インチCカップの胸を持っている。 もしかしたら、豊胸ならもっと大きく できたかもしれないけれど、僕は、新 妻として、大事な人に「ホームメイド」 のものを食べてほしいのだ。‥‥わか るでしょ? ホリーとティフは、ペチコートをは くのを手伝ってくれ、きれいに形を整 えてくれた。僕の選んだウェディング 783/806 ドレスは、裾が長くスカートのボリュ ームのあるものだったから、細いウエ ストから大きくふくらんだペチコート が必要だった。 「ちっちゃい頃のこと、思い出しちゃ うわ」 ほほ笑みながらティフが言った。 「パーティドレスを着てくるくるまわ ると、広がったスカートの下から、ペ チコートがのぞくのよ。もう、あんな ことできないと思うと、ちょっとさみ しいな。あたしの結婚式も、こんなウ エディングドレスにしよ。そしたらま た、こんなペチコートが履けるもんね」 白いサテンにレースがいっぱいのそ のウエディングドレスを着ると、ジル がジッパーを上げ、ボタンをとめてく れた。 僕は、鏡の中の魅惑的な女性から目 が離せなくなっていた。 784/806 完璧なヘアスタイル、透き通るよう に白い肌、キスを待ちわびる唇、そし て、愛する人にかき抱かれ、愛撫され る準備がすべて整った体。 その愛らしい姿に、僕自身、かつて 自分が男だったとは思えなかった。 僕にとって、かつて自分がすさんだ 問題児の男の子だったことなんて、な んの意味もない。大事なのは、僕が変 わったということだ。 いや、肉体の変化のことだけじゃな い。もっと僕のコアの部分にあるもの が変わったのだ。 ガールセンターは、僕自身さえ気づ かなかった資質に気づかせてくれ、そ れを育ててくれた。人のことを思いや れるいい人間になりたいという願望 や、逆に、他の人からやさしくしても らいたいなどという気持ちが自分の中 785/806 にあるなんて、かつての僕は思っても いなかった。 ロブは、すぐに僕のそんな資質を見 破った。ホリーも、僕の中にそれを見 つけた。もちろん、ミセス・ウイリア ムズが見ていたのも、僕のそんな部分 なのだろう。たぶん、気がついていな かったのは僕だけなのだ。 いや、本当のことをいえば、僕だっ て、自分にそんなところがあるのはわ かっていた。ただ、強い男になりたい と思い、そのためには、自分のそんな 部分がじゃまになると感じていた。そ して、そんなものはないのだと思いこ もうとしていた。 僕の本質を見つめてくれて、僕の中 から、それを引き出してくれた人たち に感謝したい。そして、僕のまわりに そんな人たちをもたらしてくれた神様 にも、最大限の感謝を捧げたい。 786/806 もし、あんなすてきな人たちがいな かったらと思うと、恐ろしくなる。た ぶん今ごろ僕は、せいぜい自転車便で 小遣いを稼ぐとか、悪くすれば、もっ といかがわしいことをしていたにちが いない。 でも、すてきな人たちに出会えたお かげで、僕は今、学校の副管理者とし て、かつての僕と同じような問題児を 更正させ、まともな人間として――男 としてであれ、女としてであれ――社 会復帰させる仕事をしていられるの だ。 へたをすれば僕は、完全な敗北者に なっていた可能性だってある。いつま でも親のやっかいになり、まともな大 学に入れるような成績もとれず、ちゃ んとした人間関係さえ築けずに次々に 悪い仲間の間を渡り歩く‥‥そんな人 生だってあり得たのだ。 787/806 でも、今の僕は、一流大学の卒業生 だ。卒業の際には、主席として、大学 が与えるうちでも最高の表彰を受けて いる。しかも今、僕は、美貌と実力を 兼ね備えたレディ。そして、女なら誰 もがあこがれるような最高の男性に身 を捧げる、幸せな花嫁だ。 これ以上を望んだら、ばちがあたる というものだろう。 聖歌の演奏が始まるとともに、僕は パパの腕に手をかけた。 「こんなきれいな花嫁をもらえるなん て、やつは、なんて幸せな花婿なんだ」 祭壇に向かって歩き出すと同時に、 パパはそうささやいた。 「ママやパパと離れるのは、さみしい わ」 僕も、そうささやき返した。 「いろんなこと、全部、ありがとう」 788/806 「べつに、そんなに遠くに嫁に行くわ けじゃないだろ。きっと、年寄りの男 がひとり、しょっちゅう、新婚家庭を じゃましに行くと思うよ」 パパは、なにかをこらえるように冗 談めかした。 僕は、パパの腕をぎゅっと握り、言 った。 「ママとパパの娘に生まれてよかった って、ママにも伝えといて」 いよいよ、その時が来た。 僕らは、バージンロードの終点まで たどり着いていた。目の前には祭壇、 そして、横にはロブがいる。 パパは、僕のベールをちょっと持ち 上げて頬にキスし、「幸せに」とつぶ やくと、僕の手をロブの腕へと移した。 それは、あっという間に終わってし まった。というより、たぶん、僕が呆 然としていたのだろう。 789/806 牧師の言葉が始まったところまでは 覚えている。 「フェイス・ジャアンナ・ジョーダン。 あなたは‥‥」 そのあと、なにを言われているのか よくわからないまま、僕の頭の中で、 ずっと夢見つづけていた言葉がはじけ た。 びくりとした僕は、なんだか背伸び でもするような格好で愛しい人の方を 向き、その言葉を大声で言っていた。 「誓います!」 ロブの番になり、彼もまた、牧師の 言葉が終わるか終わらないうちに、僕 に笑いかけながら言った。 「誓います」 ロブが、僕の指にリングをすべらせ、 ベールを持ち上げ‥‥そして、待ちこ がれる僕の唇に、自分の唇を重ねてき た。 790/806 それは、本当に不思議なことだった。 その時、僕の耳に聞こえてきたウエ ディングベルや口笛の音を、僕はもう 何年も前に聞いていた。あれは、グロ ーブトゥロッターズの試合を見たあ と、ロブが始めてキスしてきた時だ。 今のは、まちがいなくあの時の音だっ た。 ロブと僕が教会の通路を戻り、外に 出て、そこに停められたリムジンのと ころまで歩く間、僕らのまわりではず っと、嵐のような拍手と歓声がつづい ていた。その黄色い歓声のほとんどは、 グレート・インディアンの友人たちに よるものだったが、僕らの家族も、け っしてその輪からはずれてはいなかっ た。僕のママは、手を痛めるのではな いかと心配になるほど拍手していた し、ロブのママは、自分の流す涙にお 791/806 ぼれそうだった。 場所を変えて行われた結婚披露パー ティは、計画どおりすばらしいものに なった。 グレート・インディアンの友人たち は全員参加していたし、ロブの野球チ ームのメンバーたちもみんな来てい た。バスケットボールファンの参加者 を喜ばせたのは、ちょうどこの地方で 試合があったハーレム・グローブトゥ ロッターズのメンバーが、お祝いに駆 けつけたことだ。もちろん彼らは、新 郎新婦席の前に列をつくり、花嫁のキ スを受けようとした。自分の番が終わ ったあと、もう一度列に並び直したメ ンバーも含め、僕は喜んで、全員にキ スした。 すべてが、ほぼ慣わしどおりに進ん だ。会を始める前に参加者全員で記念 792/806 写真を撮り、新郎新婦のダンスと付き 添いも含めたダンスを披露したあとパ ーティに移り、ロブには、おきまりの 「ケーキ・イン・ザ・フェース」(※) もあった。 (※訳注 ‘Cake in the Face’ 誕生パーテ ィや結婚パーティで、会の主役がだまされて、 ケーキに顔を突っ込まれるイベント) もちろんそれも、予定されていたこ とだ。すべてがプランどおりに進んで いた。ただ、進行が、予定よりちょっ と遅れていた。新婚旅行のハワイ便の 搭乗時刻が迫っているのだ。 そろそろ、お開きの時間だった。 「皆さん、今日はどうもありがとう」 バンドが並ぶステージに立って、ロ ブが呼びかけた。 「愛する妻と僕は、来てくださった皆 さんに、心から感謝しています。おか げで、今日は、僕らにとって忘れられ 793/806 ない一日になりました。フェイスと僕 は、皆さんにとっても、今日が忘れら れない日となってくれたらうれしいと 思っています。そこで‥‥」 そこまで言って、ロブは、マイクを 僕に渡した。 「ミス・ジル・カフリーとミス・ティ ファニー・モリソン、ちょっと、ダン ス・フロアの真ん中まで出てくれ る?」 僕の呼びかけに、不可解そうな顔の ジルとティフが、それぞれのパートナ ーを残して、フロアに出てきた。それ に合わせて、参加者たちが場所を空け、 ふたりを取り囲んだ。 「レディス・アンド・ジェントルメン、 あたしのかけがえない友人であるふた りのすてきな女性をご紹介します。こ こにいる多くの方はすでにご存じでし ょうが、彼女たちこそ、愛のかたまり。 794/806 そのあふれるほどの愛をごらんいただ けることを、私は心からうれしく思い ます。さあ、ご紹介しましょう。スヌ ーピー・ツインズ!」 その言葉の途中で、ロブはバンドの 方を向いた。 「例のやつ、頼むよ」 合図とともにバンドが演奏し始めた のは、 「ライナス・アンド・ルーシー」 だ。 あっけにとられていたジルとティフ は、僕の方を向いてニッコリ笑うと、 例のダンスを始めた。 数分うちには、そこに、僕が加わり、 ロブが加わり、ホリーが加わって、や がて、ダンスフロアー全体が、熱狂的 に踊り出した。 そんな盛り上がりの中、僕らは、こ のパーティが参加者全員にとって忘れ られないものになったことを確信し 795/806 て、空港へと向かった。 ホテルの部屋で、ロブは、ウエディ ングドレスのジッパーをやさしく下ろ し、僕がドレスとペチコートを脱ぐの を手伝った。 「こんな時が来るのを、ずっと待って たんだ」 僕がウエディングドレスをハンガー に掛けながら、ちょっとお尻を振って みせたのを見て、ロブは口笛を吹きな がら言った。 「これからずっと、君を見ていられる んだね」 近寄ったロブは、僕を振り向かせ、 抱きしめキスしてくれた。 「あたしだって、待ち遠しかったわ」 僕は、そう言いながら、ロブのズボ ンのベルトをはずし、ジッパーを下ろ した。 796/806 「だからもう、1秒だって待つのはい や。キスしたままベッドにつれてって」 それに対してロブもなにか言った が、すでにお互いの唇を強く押し付け 合い、舌をからめている状態では、よ くわからなかった。でも、下に落ちた ズボンから足を抜いたロブが、僕の背 中にまわした手でブラのホックをはず そうとしていることで、その思いはじ ゅうぶんに伝わってきた。 彼がそれに苦労しているようだった ので、僕の方がそれとなくベッドまで 誘導し、ブラのホックがはずれたとこ ろで、ロブの体をそっと押してベッド に仰向けに倒した。そして僕は、その 体の上に身を投げ出した。 それから20秒のうちに、僕らは残っ た衣類をはぎ取りながら、お互いの体 をまさぐり合った。 全身の肌をえもいわれぬ感覚が走っ 797/806 たあと、僕の脳裏に、例のベルと口笛 の音がよみがえり、つづけて、何発も の花火がうち上がった。 ロブはうめくような声を上げ、僕は、 怒張して硬くなった彼のものが股の間 で動くのを感じた。そして、その鼓動 が、僕の中に入ってきた。 ベルや口笛の音はさらに高鳴り、打 ち上げ花火がつづけざまに開いた。 言うまでもなくそれは、僕がこれま で生きてきたうちで、最高の出来事だ った。 ロブは、僕の体を操る達人だった。 ロブによって僕は、何度も何度も、こ れまで経験したことのない高みまで連 れて行かれた。 僕の夫が、僕を喜ばせる言葉の使い 手であることは、もちろん前から知っ ていた。でも、その舌に、他にもこん なにたくさんの使い道があり、こんな 798/806 にすてきな思いにさせてくれるワザが あったなんて知らなかった。僕は、そ の悦びに、ただただ酔いしれた。 もちろん僕だって、これまで、そん な性の技法に無関心だったわけじゃな い。 その手の小説はけっこう読んでいる し、カナダの放送局制作の、ずばりそ の名のとおり「サンデー・ナイト・セ ックス・トーク」という番組が好きで よく見ている。司会の、ちょっと頭の 空っぽそうなお姉さんも大好きだ。 でも、社会に出るまでずっと女子寮 生活を送っていた僕には、あの番組で 話される内容がすべて理解できていた わけではない。まあ、要するに、ひと りでするのでは、実感にも限界がある ということだ。 ただ、基本的に勉強家の優等生であ 799/806 る僕は、結婚したあとのことも考え、 あの番組の出演者たちが指し示した要 点について、ちゃんと整理してある。 やっぱり、あのメモが役立った。 ロブは今、強烈に天井を指し示して いた。 次の朝、あの番組で勉強した方法で ロブを起こそうと考えた僕は、毛布の 下に潜り込み、ロブのものを口に含ん だ。 すると、とたんにそれは、岩のよう に硬くそびえ立ったのだ。 少しして、体をびくりと震わせなが ら目を覚ましたロブは、あわてて僕の 体を起こそうとした。でも僕は、それ を拒否し、大好きな人のものをくわえ つづけた。 たとえその人本人にだって、せっか くの実験をじゃまされたくはない。 800/806 数秒後、僕の口の中に、温かくて濃 い液体が、強烈なリズムとともに吹き 出してきた。それがすべて終わるのを 待って、ロブのものを唇できれいにぬ ぐい取ってから、僕は口の中のものを をごくんと呑み込んだ。 「ふふふ、実験成功!」 毛布から顔を出し、僕はニッコリ笑 って言った。 「やっぱり、パイナップル味だったわ。 次は、チェリーを試しましょうね」 ロブは、あきれたように首を振り言 った。 「そうか、それでゆうべ、僕にあんな にパイナップルを食べさせたんだな」 「ねえ、朝食を頼まない? なにかシ リアルと、それに、あなたはバナナ?」 僕は、話を変えて言った。 「それがいやなら、アップル風味のベ ーグルっていうのも、メニューにあっ 801/806 たわよ」 ロブはけっきょく、ルームサービス に、バナナとアップル・ジャック・シ リアル(※)を頼み、さらに、チェリー をひと皿注文した。 (※注釈 ‘Apple Jack’はアメリカでよく食 べられるリング状のシリアルのブランド べつ にリンゴ味というわけではない) 「ふふ、バナナとアップルだけじゃた りなくて、けっきょくチェリーもほし いのね」(※) 僕は、ベッドに戻ってきたロブに言 った。 「えっ? なんだ、さっきチェリーっ て言ったのは、そのチェリーじゃない のか? もしかして、ここにある、こ れのこと?」 そう、僕は悪い子だ。僕が言ったの はもちろん、今、ロブが手を置いたそ れのことだ。 802/806 ロブの舌が、ふたたびそのチェリー を食べたとき、僕は、至福の悦びにう ち震えた。あー‥‥愛してる。 (※訳注 言うまでもなく‘banana’も‘cherr y’も‘apple’も男女の性器や乳房を表す隠語 フェイスは、朝食の話のように見せかけて、 けっきょくはねだっていたわけだ) でも、僕が基本的に無知だというの がよくわかったこともある。 おっぱいというのは、赤ちゃんに授 乳するためと、男たちの気を引くため に使うものだと思っていたのだが、そ れは認識不足だったようだ。たとえ寝 ている時でも、セクシーな男に吸われ ると、乳首は、まるでそれ自体が意識 を持っているかのように立ち上がり、 応えている。僕はそれに、文字通り目 を覚まされた。 そうそう、バナナやチェリーだけで 803/806 なく、柑橘系の果物のおいしさをも、 僕らは存分に楽しんだ。ふたり同時に、 お互いの果汁をすすり合い、その味に 体を震わせたりもしたのだ。 2週間の新婚旅行中、僕らはハワイ のすべての島の観光スポットをまわ り、あのテレビ番組で紹介されていた よりさらに多くの体位を試した。 僕らは今、グレート・インディアン 校から10マイル(約16キロ)ほど離れた 場所に住んでいる。 僕は仕事に打ち込み、ミセス・ウイ リアムズも、その仕事ぶりを喜んでく れている。 生徒たちはみんな、小さな体に愛を あふれさせた新任カウンセラー、ティ フが大好きだ。 ロブの職場も近くて高給。経済的に も時間的にも余裕ある僕ら夫婦は、近 804/806 いうちに、赤ちゃんを養子にもらおう と考えている。 ロブも僕も、できれば、かわいい服 がいっぱい着せられる女の子の方がい いと思っているが、べつに男の子でも かまわない。 ティフやジルを見ていると、男の子 とペチコートという取り合わせも、ス ープにサンドイッチを合わせるという くらいのちぐはぐさでしかない気がす る。というか、チェリーとバナナか? とはいえ、そんなに軽々しく決めて しまってはいけないことだろう。 最終的には、わが家は男の子と女の 子ふたりの養子を迎えることになるの かもしれない。 いずれにせよ、うちの子たちは、わ がままな甘えん坊になりそうだ。 なにしろ、親ふたりに加え、4人の 祖父母、ホリー叔母さん、そして、ス 805/806 ヌーピー・ツインズと呼ばれる2人の 女性の愛を、一身に受けて育つのだか ら。 CopyRight(C)2003 by Karen Elizabeth L. Based on the text FictionMania Translated by Rino Maebashi この『ガール・センター ~ フェイスの冒険 ~』は、 カレン・エリザベス・Lさんのオンライン小説“GIRL C enter - A Leap of Faith”を、前橋梨乃が日本語訳し たものです。原作著作権はカレン・エリザベス・Lさん が、翻訳著作権は前橋が保持します。個人で楽しむ以外、 無断でのコピーを禁止します。 806/806
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