資料7-fig (923KB)

9. 海馬の長期増強 LTP
海馬と記憶 - 症例1
人間の健忘症の症状と重症度については、著明な症例 H.M.に関する記述から、最もよく理解することができる。H.M.
の障害は完全な前行性健忘で、日常生活での出来事がまったく記憶に残らず、起こるそばから忘れてしまう。H.M.は
1953年に、重篤なてんかん発作治療のために、側頭葉内側部を両側切除する手術を受けた後、健忘症となった。切除
された部位には、扁桃体、海馬傍回、海馬の前2/3が含まれていた(図1)。手術の後、H.M.はてんかんが著しく改善
された一方で、重篤な健忘症となり、新しい学習がほとんど形成できず、また手術前数年間に生じた出来事の記憶も失
われてしまった。しかし古い記憶は保持しており、また語彙力をはじめ正常な言語技能を持ち、IQも正常かやや優秀
のレベルを保っていた。しかし、新しい事柄の学習に関するH.M.の障害は広範囲に及びかつ非常に重度で、H.M.は日
常生活では常に監視と世話を受けなければならなかった。毎日会っている人物の顔や名前も覚えられないのである。手
術後年をとったので、自分自身の新しい写真を認めることもできなかった。それにもかかわらず、H.M.は詳しくテス
トされている他の健忘症患者の場合と同様に、正常な数唱能力を保っていた。その上さらに、学習すべき素材が短期
(直接)記憶の容量を越えていない場合は、H.M.も他の健忘症患者も、それを外的にリハーサルすることによって、
数分間心にとどめておくことができた。しかしリハーサルが妨害された場合や、素材が記憶スパンを越えている場合は、
新しい情報はすぐに忘れられた。記憶素材として、音や言語化が困難な図形などを用いて、リハーサルを難しくした場
合も、情報は急速に忘却され、1分間保っていることもできなかった。
図1 症例H.M.の切除範囲を示す脳の断面図。
手術は両側性に行われたが、図では部位を明示するために、右側に正常脳を示している。
H.M.の障害の具体例を紹介しておくことにしよう。1つの課題では、さまざまな数系列が、1秒に2数字の速さで呈
示され、即座に復唱することが求められた。誤った場合は同じ数列が正しく復唱できるまで繰り返され、正しく復唱で
きた場合は、数字を一つ多くした新しい数列が呈示された。この条件では正常な被験者は、記憶スパンを20桁まで拡
大していくことができ、しかもどの長さの系列の場合も、15試行以下で正しく復唱することができた。H.M.は手術
前の記憶スパンにあたる6桁から始めたが、6桁以上にスパンを広げることができず、7桁では同じ数列を25回繰り
返しても正しく復唱することができなかった(図2にはH.M.を含む5例の健忘症患者の結果の平均が示されている)。
数唱に類似した新しい課題として、眼前にランダムに配置された数個のブロックを、検者が叩いた通りの順序で叩く
検査が行われた。H.M.のブロック叩きスパンは正常範囲内であったが、健常者とは異なり、スパンより1個だけブロッ
クが多い系列は、12回繰り返しても学習することができなかった。こうした結果は、H.M.で損傷されている側頭葉
内側部が、短期(直接)記憶に必要な部位ではなく、課題が短期記憶が保持し得る範囲を越えた内容を含んでいるとき
に必要となる部位であることを明示している。
図2 数列復唱テスト。
症例H.M.を含む健忘症患者群(
5例)と対照群(健
常者20例)に、5桁の数列を読み上げる。正しく復
唱できたら1桁増やした新しい数列に移り、正しく
復唱できなかったら、同じ数列を正しく答えるまで
繰り返す。健忘群は短期記憶で保持される桁数
までは対照群と変わりないが、その桁数を超える
数列の学習には、異常に多い試行を必要とする。
12桁以上の数列を25回の反復で言えた健忘症患
者は一人もいない。
海馬と記憶 - 症例2
人間で海馬が選択的に損傷された場合、記憶障害は重篤なのか、それともごく軽度なのか? 1986年この疑問に対する
回答が、5年間にわたって詳しく検査を受けた一人の健忘症患者(R.B.)の剖検の結果から明らかになった。この症例は、
患者が52歳の時、心臓のバイパス手術を受けたが、その際に併発した虚血発作のために健忘症が出現したものである。
知能指数は111、Wechslerの記憶指数は91で、失語はなく、前頭葉損傷を思わせる神経心理学的徴候も何ら認められな
かった。事実この症例については、記憶障害以外の認知機能の異常は一切とらえられていない。筆者たちの研究グループ
は、発症時から5年間R.B.と接触を保ち研究を続けたが、この間目立ったのは、短い時間内に同じ話しを何回も繰り返し
たり、同じ事を何度も質問することで、また物忘れも明らかに認められた。しかしその程度は、一部の健忘症患者(H.M.
やコルサコフ症候群の重度の健忘症)ほど重篤ではなかった。しかしR.B.は対連合学習や遅延再生テスト(図3)ができ
ず、これらのテストの成績を平均すれば、筆者らが研究した他の健忘症患者たちと同じレベルの障害を示していた(図4)。
図5 遅延図形再生テスト。
最初に左下のボックスに示す図を見せ、これを書き写させる。つい
で、10-20分後におぼえていた図を見本を見ずに書くよう指示する。
A, 健忘症発症6ヶ月後のR.B.(上:書き写し、下:記憶)。B, R.B.の
23ヶ月後。C, 同年齢、同程度の教育を受けた健常人の一例。
図4 遅延散文再生テスト(左)と遅延図形再生テスト(右)の
成績比較。
遅延散文再生テストでは、短い文章を聞かせて、10分後にこ
れを復唱させる。RB: 症例R.B.、AMN: 海馬の損傷をともな
う健忘症群(3例)、NA: 左半球に限局した海馬損傷の症例
N.A.、KORS: コルサコフ症候群患者(
8例)、ALC: アルコー
ル中毒対照群、CON: 健常対照群。
R.B.は1983年にうっ血性心不全で死亡したが、家族の同意と奨励を得て、彼の脳は詳しく調べられた。厚さ50ミクロ
ンの切片が4千枚以上作られ、そのうちの約4百枚は、細胞体をみるためにNissl法で染色された。また一部の切片は、
有髄線維をみるために染色されたが、こうした方法により、一部の切片から脳全体の状況を知ることができた。R.B.の脳
は、点状の損傷が、淡蒼球と感覚運動皮質の2ヶ所に一側性に認められた場合を除けば、目立った異常は、両側性の海馬
損傷と、小脳プルキンエ細胞のパッチ状の喪失だけであった。海馬の損傷は、CA1野の錐体細胞に限られていたが、こ
れは両側とも海馬体の全長にわたって、吻側端から尾側端まで及んでいた(図5)。扁桃体、視床背内側核、乳頭体、前脳
基底部の組織は、いずれも両側とも健全であった。したがってこの症例は、海馬損傷だけでも臨床上明らかな健忘症が起
こり得ることを立証したことになる。しかし海馬損傷による健忘症の程度が、側頭葉内側部の損傷が加わることによって
さらに重篤になることを忘れてはならない。サルの破壊実験の結果がこの点を強調しているが、両側側頭葉内側部に広範
な損傷を持つH.M.の健忘症が、海馬のみの損傷のR.B.より重度であった事実も、やはりこの点を明確に示している。C
A1野に限定された損傷が健忘症を起こす事実は、長期にわたって有効なかたちで貯蔵されることになるはずの新しい情
報の計算に、海馬が何らかのかたちで関与していることを示している。
図3 健常人(左)と症例R.B. (右)の海馬の比較。
R.B.の海馬では、前端から後端の全体にわたり、CA1野の錐体細胞が完全に消失していた。
海馬は記憶の場の一つである
海馬の長期増強LTP
長期増強LTPの特徴
長期増強LTPのメカニズム
AMPA
海馬の損傷がある種の記憶の障害を引き起こすことから,記憶の形成に海馬
が重要な働きをしていると考えられている.海馬シナプスの長期増強LTPは,
Hebb則にしたがう学習・記憶のメカニズムの候補である.