『科学者が人間であること』

●小論文ブックポート
(岩波新書) 定価800円〈税別〉
〈連載〉小論文ブックポート
●中村桂子
・著
などから、全ての生き物は「祖
先 は 一 つ 」「 億 年 の 進 化 を 等
しくたどってきたこと」という
共通項があり、「人間と他の動植
物もつながりあっている」とい
う重みがあると、著者は言う。
だが、この「人間は生きもの
であり、自然の中にある」こと
が、現代人、特に大都市では実
感できなくなっている。背景に
は便利さと豊かさを目指した近
代文明があり、それを支えてき
た科学と科学技術がある。
著者は哲学者の大森荘蔵が語
る「 近 代 的 世 界 観 の 問 い 直 し 」
を下敷きに、近代科学の問題点
を探る。大森は「近代科学によっ
て、特に人間観と自然観がガラ
リと変わり、それが人間生活の
『科学者が人間であること』
えの事実を足場に、著者は科学
東日本大震災から数か月後の
こと。ある大学の取材で工学部
者と自然、社会のあり方を問い
の 教 授 が、
「大震災とともに福
直 そ う と し て い る。「 人 間 が 生
島第一原発の事故が起こった今
きものであること」を自覚する
こそ、私たちのあり方が問い直
には、食べたり、眠ったり、歩
されています」と神妙な面持ち
いたりといった「日常」を大切
で語っていた。
にすることが欠かせない。例え
ば賞味期限切れの食品も、目や
科学と科学技術の限界を痛感
させられた大震災後、私たちは、 舌、 鼻 な ど の 感 覚 を 総 動 員 し、
これまでの自然、人間、科学の
食べられるかどうかを判断する。
関係を見直し、新たな関係を模
科学で確認された数値だけに頼
索することが迫られている。
らない姿勢である。
中村桂子著
『科
そこで今号は、
加えて著者が重視するのが
学者が人間であること』
( 岩 波 「 知 」 で あ る。 著 者 は 専 門 の 生
新書)を読む。
命科学に「生きものそのものを
見ようとする視点」が欠けてい
現代の科学 は 何 が 問 題 か
ることに気づき、生命の歴史を
考 え る「 生 命 誌 」 を 提 唱 し た。
最先端のDNAや遺伝学の研究
げるにはどうすればいいか。
著者はここで大森が唱えた科
学者自らによる「日常描写と科
学描写との重ね描き」という考
え方を用いる。近代科学は、物
質の細部を観察して分析的に描
く点で「密画的」だ。一方、自
然に対して日常的に自分の眼で
見て触れ、耳で聞き、味わう接
し方は「略画的」である。
この「密画的世界」と「略画
的世界」を科学者自身が「重ね
描 き 」 す る こ と が、「 生 き 生 き
とした自然」の魅力を伝えるこ
とになると、著者は言う。
重ね描きには、研究対象に対
して科学者自身が自分の心の動
き を 見 つ め、「 自 分 に 擬 し て 」
描 く と い う 方 法 が 有 効 で あ る。
例えば地球上の生物は全て細胞
から成り立ち、細胞の基本情報
はゲノムにあるが、調べれば調
べるほどにその働き方は共通点
があるという。実際に科学的な
知識で大腸菌とヒトとの共通性
が 見 え て く れ ば、「 生 き も の は
皆仲間」という気持ちがさらに
引き出されうると著者は言う。
「 重 ね 描 き 」 と し て は、 著 者
「 人 間 は 生 き も の で あ り、 自
然の中にある」
。このあたりま
を 動 か す 法 則 を 探 る 」 と い う、
最近は科学を一般人に説く
「サイエンス・コミュニケーショ 「機械論的世界観」にある。
ン」が叫ばれているが、著者は
近代科学を生んだヨーロッパ
の ル ー ツ、 古 代 ギ リ シ ア で は、
「いかに役に立つのか」が中心
に な っ て し ま っ て い て、 本 来、 「 自 然 は 人 間 と 同 質 の も の と し
て内から直観されるもの」と考
科学が持つ「自然観」や「人間
えられてきた。ところが中世か
観」など文化的な側面が置き去
ら近代以降は、自然は「未知な
りにされていると、指摘する。
る第三者」として、外から「実
科学が社会に出る時の言葉が、
験 的 に 把 握 さ れ る も の 」「 解 剖
極めて限定された対象への「論
されるもの」と位置付けられる
文」に限られることにも問題が
ようになる。これが機械論的自
ある。
そこで著者は科学者が
「自
然観であり、ガリレイやデカル
らの言葉を一つ一つ丁寧に考え
ト、ニュートンら科学者が積み
ること」
「日常的な生活者とし
上げたものである。
ての感覚を持ち、自然と向き合
著者は近代科学の重要性を認
うこと」を強く説いている。
めた上で、機械論的世界観の最
「重ね描き」 と い う 表 現
も大きな問題点は、大森の言葉
を借りれば、自然を「死物化す
著者はさらに近代的世界観の
ベースとなった近代科学の本質
る こ と 」 だ と 指 摘 す る。「 自 然
へと論を深める。近代科学の本
の死物化」とは、自然は色も匂
質は「自然を機械と捉え、それ
いもなく、形と運動だけがある
物質だと捉えること。科学が自
然を「数字で説明され尽くされ
る」という発想であり、人間の
身体も「死物化」されてしまう。
死物化を避けつつ、科学その
ものも放棄せずに、それらを「活
きた自然との一体感」へとつな
すべてに及んだ」と指摘した。
「便利さ、効率、
戦後の日本も、
自然離れした人工環境」を良し
と す る 中、「 人 間 は 生 き も の 」
との感覚を失ってしまったのだ。
科学者ら「専門家」の問題も
ある。例えば福島第一原発事故
で、「 原 子 力 ム ラ 」 は 多 く の 人
か ら 批 判 を 浴 び た。「『 専 門 家 』
たちが、自らもまた社会の中に
生きる一人の『生活者』である
という感覚を失い、閉じられた
集団の価値観だけを指針に行動
しているという事実が、一連の
説明を通じて伝わったことが最
大の問題」と著者は見る。
さ ら に 著 者 は、「 役 に 立 つ 科
学」というあり方の問題も指摘
す る。 今 の 科 学 技 術 は 本 当 に
人々のためになるかどうかでな
く、経済的な利益を第一に考え
る傾向が強い。例えば多額の予
算がつけられた、日本の「ゲノ
ム・プロジェクト」なども非常
に問題があると著者は指摘する。
「役に立つ科学」には、社会、
科学者の双方の関与がある。こ
のうち科学者の問題点の一つは、
科学者が使う「表現」
「言葉」だ。
の「生命誌」とともに、宮沢賢
治の作品や生き方、南方熊楠の
研究などが紹介されている。
それでは科学者が「重ね描き」
を 行 う た め に 必 要 な の は 何 か。
著者はこれまでも見てきたよう
に「生活者であること」ととも
に、「 思 想 家( 自 然 や 生 命、 人
間という問いに向き合うこと)
であること」が前提となるべき
だと語る。こうした科学者を育
むには、従来のように「特定の
テーマで競争に勝つ能力だけを
よ し と す る 」 の で は な く、「 バ
ランスのある人、生活を大事に
する人を育てること、常に自然
や生命について考える人を育て
ること」が必要だと著者は言う。
その鍵を握るのが人文・社会科
学も含めた「教養」なのである。
科学や科学技術は転換点に差
し掛かっている。近年は理系を
目 指 す 高 校 生 が 増 え て い る が、
単に「将来、役に立つ」視点だ
けでなく、社会や人間、自然と
どうつながりあうのか、本書を
読みつつ、自分の関心領域に引
き付けて考えてほしい。
(評=福永文子)
2013 / 12 学研・進学情報 -20-
-21- 2013 / 12 学研・進学情報
38