インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念

ン テ ク ス ト に お け る、 こ れ ら 思 想 家 た ち の 理 論 的 著 作
作 に お け る、 こ れ ら の 概 念 の 解 明 で す。 こ の よ う な コ
○∼六五○頃︶
、ダルモーッタラ ︵七五○∼八一○頃︶の著
、ダルマキールティ ︵五八
グナーガ ︵四五○∼五二○頃︶
を過不足なく解明することです。具体的に言えば、ディ
インド瑜伽行派における
と vikalpa
の概念について
kalpanā
ナタリア・カナエワ
前川健一
訳
はじめに
本 論 文 の 目 的 は、 イ ン ド 論 理 学 に お け る 方 法 論 的 ア
プ ロ ー チ を、 仏 教 論 理 学 の 文 献 に 実 際 に 適 用 す る こ と
にあります。
パ ナ ー と ヴ ィ カ ル パ と い う 術 語 を﹁ 思 考 ﹂ と か﹁ 心 的
の 意 義 を 制 約 し て い る の は、 現 代 の 研 究 者 た ち が カ ル
仏 教 論 理 学 の 特 殊 性 や、 そ れ が 論 理 的 思 惟 の 歴 史 に
占 め る 地 位 を 理 解 す る 上 で、 極 め て 重 要 な の は、 大 乗
思 考 は、 伝 統 的 な 西 洋 論 理 学 の 対 象 で す。 西 洋 論 理
実です。
1
構想﹂という西洋的概念と類比して理解したという事
︶と ヴ ィ カ
kalpanā
仏教の瑜伽行派の中の論理学的分派 ︵自立論証唯識派と
称 さ れ ま す ︶に お い て、 カ ル パ ナ ー ︵
︶という二つの概念に与えられてきた意味
ルパ ︵ vikalpa
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
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「東洋学術研究」第 47 巻第2号
囲 に あ る と は 見 な し て き ま せ ん で し た し、 今 で も そ う
事 物 と の 間 の 関 係 が、 思 考 の 学 と し て の 自 ら の 守 備 範
な が し ま し た。 形 式 論 理 学 は、 思 考 の 構 造 と ︵ 現 実 の ︶
別 の 実 在 性 を 場 と す る 思 考 の 領 域 を 分 離 す る よ う、 う
論 は、 思 考 の 形 式 す な わ ち 論 理 形 式 が﹁ 住 み つ く ﹂ 特
の で す。 論 理 学 は 観 念 論 の 只 中 で 出 現 し ま し た。 観 念
諸 法 則、 知 識 を 表 現 す る た め の 言 語 的 手 段 と い っ た も
レスにもとづき、論理形式と呼ばれるもの︶
、それらが従う
してきたのは、﹁認知的思考﹂、その諸構造 ︵アリストテ
前 四 世 紀 に 誕 生 し た そ の 瞬 間 か ら、 西 洋 論 理 学 が 探 求
始以来︶
﹁ 思 考 の 学 ﹂ と し て 理 解 さ れ て き ま し た。 紀 元
学 は、 過 去 三 百 年 に わ た っ て ︵ つ ま り は、﹁ 新 時 代 ﹂ の 開
な っ て 初 め て、 同 義 語 と し て 使 わ れ る よ う に な っ た の
択 ﹂﹁ 二 分 法 ﹂﹁ 比 較 ﹂ な ど を 意 味 し て い ま し た。 後 に
配置すること﹂を意味していましたし、ヴィカルパは﹁選
いたわけではありません。カルパナーは、﹁順序正しく
も と も と、 こ の 二 つ の 術 語 は 同 義 語 と し て 使 用 さ れ て
識 論 と 論 理 学 に 関 す る 有 名 な 二 冊 の 本 が、 そ れ で す。
ェ ル バ ツ コ ー イ に よ っ て 追 跡 さ れ て い ま す。 仏 教 の 認
展 し て き ま し た。 そ う し た 発 展 の 主 要 な 諸 段 階 は、 シ
学 派 で 用 い ら れ た も の で あ り、 そ の 意 味 は 歴 史 的 に 発
こ の 術 語 は、 仏 教 だ け で な く、 全 て の ︵ イ ン ド 哲 学 の ︶
成する﹂
﹁確立する﹂
﹁想像によって思い描く﹂などです。
二つの動詞には多くの意味があります。たとえば、﹁形
か ら 派 生 し た と さ れ ま す。 こ の
動 詞 の ク リ ッ プ ︵ kl︶
.p
2
で す。 そ う し た も の は、 論 理 理 論 の﹁ 括 弧 の 外 ﹂ へ と
﹁配列﹂
﹁分類﹂
﹁構想﹂
です。その場合の意味は、﹁想像﹂
覚 と は 原 理 的 に 異 な る も の と い う こ と で す。 そ し て、
す な わ ち、 思 惟 に も と づ く 知 識 で あ り、︵ 直 接 的 な ︶知
瑜 伽 行 派 は、 仏 教 教 義 の 中 心 思 想 に も と づ き、 カ ル
パナーを﹁心的︵ないし概念的︶構想﹂として解しました。
﹁能産的想像力﹂
﹁述語﹂
﹁範疇﹂などといったものです。
4
3
追いやられたのです。
カルパナーとヴィカルパの語義について
カルパナーとヴィカルパというサンスクリットの術
語 は、 ベ ー ト リ ン ク の 八 巻 本 の 辞 典 に よ れ ば、 動 詞 の
︶から派生したとされ、別の資料によれば、
カルプ ︵ kalp
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「東洋学術研究」第 47 巻第2号
した。
カ ル パ ナ ー を、 低 次 の 経 験 的 実 在 性 の レ ベ ル に 置 き ま
依 拠 し な い も の で あ り、 実 際 の と こ ろ、 西 洋 に お け る
オ ル ガ ノ ン は、 認 識 主 体 の 世 界 像 に お け る 思 考 状 態 に
教 の 存 在 論 の 中 に 導 入 し た の で す。 二 諦 は、 高 次 の 実
︵二諦、二つの真理︶の他に、第三の観念的実在性を、仏
し て、 彼 ら は、 ブ ッ ダ 以 来 知 ら れ て い る 二 つ の 実 在 性
与 え、 仏 教 の 範 疇 体 系 の 一 部 と し ま し た。 こ の よ う に
パリカルパ︶を使用するだけではなく、それらに定義を
彼 ら は、 カ ル パ ナ ー と い う 術 語 や、 同 じ 語 根 か ら 作
られた異なった思考産物を表示する言葉 ︵ヴィカルパや
統派哲学の文法学派の理論的基盤を利用したことによ
す が、 デ ィ グ ナ ー ガ が、 実 在 論 の 立 場 に 立 つ イ ン ド 正
界の実在性を受け入れる人々にも語りかけているので
︵世界を幻想と見なす︶観念論者だけではなく、物理的世
というのも、服部正明が指摘したように、この著作は、
いて、その可能性を認識したかのようにさえ見えます。
﹄にお
結 論 的 著 作﹃ プ ラ マ ー ナ サ ム ッ チ ャ ヤ ︵ 集 量 論 ︶
形 式 論 理 と 対 応 す る も の で す。 デ ィ グ ナ ー ガ は、 彼 の
在 性 と、 低 次 の 実 在 性 の 二 つ で す。 前 者 は 形 而 上 的 な
っ て、 唯 名 論 者 だ け で な く、 実 在 論 者 に も 語 り か け る
7
もの ︵パラマールタ、第一義諦︶であり、後者は、感覚と
ものとなっているからです。
周 知 の よ う に、 認 識 論 か ら 論 理 学 を 独 立 さ せ る こ と
は、 イ ン ド の 思 想 家 た ち に よ っ て は 考 慮 さ れ ま せ ん で
インド論理学への方法論的アプローチ
8
概念によって認識される物質と観念を含む、
﹁論理的な﹂
もの ︵ヴィヤヴァハーラ、世俗諦︶です。一方、彼らが導
せることで、自立論証唯識派は、この﹁第三の実在性﹂
し た。 ま た、 独 立 し た 学 と し て の 論 理 学 が 作 ら れ る こ
5
入した第三の実在性とは、可想界であり、﹁質料が全く
を 扱 う た め の 理 論 上 の 前 提 条 件 を 創 り 出 し、 こ の 領 域
と は あ り ま せ ん で し た。 プ ラ マ ー ナ ヴ ァ ー ダ ︵ 知 識 論 ︶
な い、 イ デ ア の み の ﹂ 領 域 で す。 思 考 の 領 域 を 独 立 さ
を 扱 う 特 殊 な 学、 す な わ ち、 あ ら ゆ る 認 識 に と っ て の
の諸問題を議論するという文脈の中で形成された論理
6
オ ル ガ ノ ン が 出 現 す る 可 能 性 を 生 み 出 し ま し た。 こ の
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
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したし、それにとどまりました ︵私はこのことを二○○八
は な く、 認 識 論 の 一 部 を な す﹁ 形 式 化 さ れ た ﹂ 理 論 で
いうことです︶
。そうした論理的着想は、﹁形式﹂理論で
ーナヴァーダ﹂とは、﹁信頼できる知識の根拠に関する学﹂と
よって︶取り出された思惟形式を分析すること、すなわ
と、︵二︶そこで用いられている言語を分析し、︵それに
ら 形 式 論 理 学 的 着 想 を 抽 出 し、 そ れ ら を 再 構 成 す る こ
の方法論的アプローチが決定されます。︵一︶認識論か
認識論と一体となった形式化された理論としてイン
ド 論 理 学 を 特 徴 づ け る こ と に よ っ て、 こ の 分 野 の 研 究
的着想があっただけでした ︵サンスクリット語の﹁プラマ
年 二 月 の 第 五 回 ト ル チ ノ フ 会 議 で 述 べ ま し た が、 あ る イ ン ド
ち、 イ ン ド の 理 論 家 た ち の 着 想 に 含 ま れ る 形 式 的 側 面
こ で 分 析 さ れ る 諸 特 徴 は、 イ ン ド 論 理 学 の 基 盤 を 示 す
9
人学者から猛然と反論されました︶
。
形式理論から形式化された理論を分かつものは何か
と 言 え ば、 或 る 命 題 か ら 別 の 命 題 へ と い う、 理 論 に よ
も の で す が、 思 想 家 自 身 に よ っ て は 定 式 化 さ れ て い ま
近 代 の 論 理 学 に は、 論 理 の 基 礎 を 扱 う 場 合、 二 つ の
方向性があります。すなわち、数学的 ︵記号的︶理論を
や、 そ の 形 式 化 の 傾 向 の 特 徴 を 分 析 す る こ と で す。 こ
っ て 実 証 さ れ て い る 推 移 と は 別 に、 理 論 そ の も の の 立
︶
せんし、認識さえされていません。
︵
場 か ら は 出 て こ な い、 或 る 思 考 か ら 別 の 思 考 へ と い う
着 想 に お い て は、 非 常 に し ば し ば、 こ う し た 推 移 が 論
素 材 と す る も の と、 哲 学 的 論 理 学 な い し 論 理 学 の 哲 学
︶
理 的 着 想 を 規 定 し て い る だ け で な く、 認 識 論 や 心 理 学
と い う 二 つ の 方 向 性 で す 。 ど ち ら の 領 域 も、 か な り 広
︵
の 面 で も 同 様 の 作 用 を 及 ぼ し て い ま す。 と も あ れ、 今
範 囲 で あ り、 守 備 範 囲 が 完 全 に 分 か れ て い る と い う わ
︶
述べた定義からすると、アリストテレスの三段論法は、
け で は あ り ま せ ん 。 両 者 と も、 推 論 す な わ ち 論 理 的 帰
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11
味、﹁ 帰 納 ﹂﹁ 論 証 可 能 性 ﹂﹁︵ 論 証 式 の ︶構 成 ﹂﹁ 真 ﹂ と
︵
近 代 の 形 式 論 理 学 の 源 泉 で あ る に も か か わ ら ず、 そ れ
結 の 関 係 の 本 質 お よ び 一 般 的 性 質 や、 論 理 的 結 合 の 意
ということになるでしょう。
自体は形式理論ではなく形式化された理論にとどまる
直観的推移が残存していることです 。インドの論理的
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「東洋学術研究」第 47 巻第2号
︵
︶
う な 西 洋 の 知 的 伝 統 に よ っ て の み 探 究 さ れ て い ま す。
学とは何か ﹂。こうした問いに対する答えは、上述のよ
的概念 ︵演算︶とは何か﹂﹁論理的体系とは何か﹂﹁論理
以 下 の よ う な 問 い で す。﹁ 論 理 的 帰 結 と は 何 か ﹂﹁ 論 理
で す。 こ う し た 問 い の う ち、 も っ と も 根 本 的 な も の は
る問いに如何に答えるかということをも規定するもの
の 主 潮 流 を 規 定 し て き ま し た し、 論 理 学 の 基 礎 に 関 す
る 回 答 を、 デ ィ グ ナ ー ガ・ ダ ル マ キ ー ル テ ィ・ ダ ル モ
有 効 性 を 持 っ て い る の か。 私 は、 こ う し た 問 い に 対 す
う 観 念 は、 自 立 論 証 唯 識 派 の 中 で、 理 論 的 に ど の 程 度
ことは、どの程度適切なのか。︵二︶こうした構造とい
要素を論理形式 ︵概念、判断、推論・結論︶と同一視する
う に、 瑜 伽 行 派 が 抽 出 し た カ ル パ ナ ー の 構 造 の 中 の 諸
されるでしょう。︵一︶シェルバツコーイが提案したよ
すでに概略を述べたような方法論的アプローチの枠
組 み の 中 で、 二 つ の 問 い が 最 重 要 の も の と し て 定 式 化
カルパナーと概念
西洋学者によって行われたインド論理学説の比較研究
ーッタラの著作に対する専門的研究の中に探ってきま
︶
はさほど多くありませんが ︵シェルバツコーイ、インゴー
した。
る こ と で、 問 題 を 見 る 地 平 は 拡 張 さ れ ま す し、 そ れ は
わ ら ず、 で す。 推 論 の 合 理 化 に 関 し て 異 な る 伝 統 を 知
論理学にもたらす重大な利益に注意しているにもかか
が完全には一致していないことが示されます。
﹃集量論﹄
え ら れ て き た も の で す が、 そ れ に よ っ て、 彼 ら の 立 場
我 々 が こ れ ま で に 知 っ て い る カ ル パ ナ ー の 定 義、 そ
れは同時に我々が関心を持つ論理学者たちによって与
素っ気なくこの問いに答えています。﹁何がカルパナー
に 対 す る 自 ら の 注 釈 の 中 で、 デ ィ グ ナ ー ガ は い さ さ か
を 及 ぼ し て い ま せ ん。 多 く の 人 が、 イ ン ド 思 想 が 西 洋
︵
ルズ、チーなど︶
、それらは﹁論理学一般﹂には全く影響
こ う し た 諸 問 題 は 極 め て 重 要 な も の で あ り、 二 十 世
紀の末から二十一世紀の初めにかけての論理学の発展
いった概念の分析などの問題を扱います 。
13
論理学の基礎に関する問いを解決する上でも必要であ
る、と私たちには思われます。
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
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す。 こ の 知 識 の 性 格 と 表 象 の 役 割 と を 扱 う の が 意 味 の
の進展によって明確な知識が獲得されるということで
る の は、 表 象 す る こ と は 認 知 過 程 の 結 果 で あ り、 認 知
に お い て、 解 釈 さ れ ね ば な り ま せ ん。 次 に 明 ら か に な
定 義 は、 現 実 を 表 象 す る 過 程 が 思 考 で あ る と い う 意 味
黙 な 定 義 は 極 め て 多 く の 情 報 を 網 羅 し て い ま す。 こ の
︵と呼ばれる︶か? それは名称︵ナーマ︶や種︵ジャーティ︶
︵ ︶
との結びつきである ﹂。しかし、実際のところ、この寡
い う 結 果 を も た ら す も の で す。 こ う し た 知 覚 を 援 用 し
知 覚 を 扱 っ て い ま す。 そ れ は、 知 覚 に も と づ く 判 断 と
日 常 的 行 為 の 中 で 用 い ら れ る 知 識、 す な わ ち 有 分 別 の
実しません。ディグナーガの考える推論は、明らかに、
な い に し て も、 言 語 表 現 さ れ る 知 識 と い う 形 態 で は 結
知 覚 で す。 前 者 は、 現 実 を 把 握 し て い る こ と は 間 違 い
が関与していない﹂知覚と、
﹁心的構想が関与している﹂
パカ︶と 有 分 別 ︵サヴィカルパカ︶
、すなわち﹁心的構想
二 つ の 形 態 で す。 す な わ ち、 感 覚 に よ る 知 覚 と、 論 理
は 認 め な い の で、 彼 の 定 義 が 含 ん で い る の は、 認 知 の
です。権威ある師の言葉 ︵聖言量︶を独立の認識根拠と
手 段 に よ っ て 獲 得 さ れ ま す。 そ れ は、 直 接 知 覚 と 推 論
い て、 デ ィ グ ナ ー ガ は、 パ ー ニ ニ の﹃ ア シ ュ タ ー デ ィ
純粋知覚の結果にどのような語が結合されるのかにつ
知 覚 の 結 果 は 言 語 化 さ れ、 関 連 す る 語 と 結 合 さ れ る 〟。
彼はさらに次のように説明します。〝知覚された対象
は、 指 示 と い う 手 段 に よ っ て 他 の も の か ら 区 別 さ れ、
︶
17
、
ています。﹁﹃偶然的な﹄名称 ︵ヤドリッチャーシャブダ︶
ー バ ー シ ュ ヤ ﹄ で の 注 釈 を 援 用 し、 次 の よ う に 列 挙 し
︵
ヤ ー イ ー﹄ 一・ 一・ 二 に 対 す る パ タ ン ジ ャ リ の﹃ マ ハ
も っ と も、 感 覚 に よ る 知 覚 が 全 て 認 識 根 拠 と さ れ る
わ け で は あ り ま せ ん。 ご 存 じ の と お り、 瑜 伽 行 派 で は
的指示を基盤とする合理的な認知です。
二つの種類の知覚を区別します。無分別 ︵ニルヴィカル
理論 ︵アポーハ論 ︶です。この理論は仏教徒が精緻化し
て 受 容 さ れ た 知 識 の 上 に、 推 論 的 知 識 が 基 礎 づ け ら れ
︶
続 け た も の で あ り、 デ ィ グ ナ ー ガ の 定 義 が 有 す る 意 味
ます。
︵
の全てを適切に理解する上で考慮に入れなければなら
15
な い も の で す。 仏 教 の 認 識 論 に よ れ ば、 知 識 は 二 つ の
16
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「東洋学術研究」第 47 巻第2号
称 ︵ジャーティシャブダ︶
、たとえば﹃牛﹄。性質を示す名
すなわち固有名詞、たとえば﹃ディッタ﹄。種を示す名
びつけられています。
こと ︵単一のものとして解された、実体に属する普遍︶と結
有 者 と し て 識 別 さ れ る 時 は、 性 質 の 所 有 者 を 表 示 す る
デ ィ グ ナ ー ガ が 文 法 学 的 分 類 に 依 拠 し た こ と に は、
大 き な 意 味 が あ り ま す。 周 知 の よ う に、 文 法 学 者 た ち
称 ︵グナシャブダ︶
、たとえば﹃白﹄。作用を示す名称 ︵ク
リヤーシャブダ︶
、 たとえば﹃ 食事 の 準備 ﹄。 性質 の 所有
、たとえば﹃杖の持
者を示す名称 ︵ヴァストゥシャブダ︶
︵つまり普遍︶と結びつけられています。
︵三︶性質を基
と し て 対 象 が 識 別 さ れ る 時 は、 類 と し て 名 づ け る こ と
︶を示す表徴を基盤
genus
現 前 す る 表 徴 は 特 定 化 さ れ て い ず、 そ の 連 関 は 偶 然 的
詞とそれが表示するものとの連関を規定する恒常的に
が 使 用 さ れ る 時 に は、 対 象 そ の も の に お い て、 固 有 名
を導入する基盤となっていることです。︵一︶固有名詞
こ こ で 注 意 さ れ る の は、 上 に 列 挙 し た 五 つ の 場 合 に
は、 そ れ ぞ れ 異 な る 指 示 作 用 が あ り、 そ れ が 表 象 作 用
ブ ラ フ マ ン の﹁ 玄 妙 な る ﹂ 言 葉 に 参 入 す る た め に 作 ら
に 役 立 つ よ う 作 ら れ た も の で あ り、 さ ら に、 こ の 同 じ
ラフマンが幻像として顕現したこの世界を記述するの
ルパ︶の集合と呼びました。言語は、最高存在であるブ
ように 、バルトリハリは言語を人工的な構成物 ︵ヴィカ
の言語哲学を主題とした学位論文の中で指摘している
い う 術 語 を 使 用 し ま し た。 特 に、 ル イ セ ン コ が イ ン ド
た の で す。 文 法 学 者 た ち も カ ル パ ナ ー と ヴ ィ カ ル パ と
学問はインドにおいて理論的探究のための範型となっ
は 単 に 言 語 学 的 な 問 題 を 扱 っ た だ け で は あ り ま せ ん。
盤 と し て 対 象 が 識 別 さ れ る 時 は、 性 質 を 表 示 す る こ と
れ た も の な の で す 。 言 語 の 単 位 で あ り、 言 語 哲 学 に お
ち主﹄﹂
︵ 性 質 と い う 普 遍 ︶と 結 び つ け ら れ て い ま す。
︵四︶作用
ける知識の基礎となるのは、語︵シャブダ︶です。それは、
︵
︶
︵
︶
彼 ら は、 言 語 哲 学 の 問 題 を も 扱 っ た の で あ り、 彼 ら の
を基盤として識別される時は、作用を表示すること ︵作
意味の上から、﹁概念﹂﹁心像﹂﹁見地﹂といった概念と
な性格のものです。︵二︶類 ︵
用という普遍︶と結びつけられています。
︵五︶性 質の所
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
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19
18
︵
︶
論の差異は何ら本質的なものではなかったということ
っ た と し た ら、 彼 に と っ て は 論 理 の 領 域 に お け る 存 在
白 に 看 取 さ れ る の で す が、 彼 が そ の 事 実 に 頓 着 し な か
ェーシカ学派のカテゴリー論という実在論的体系が明
ナ ー ガ が 利 用 し た パ タ ン ジ ャ リ の 分 類 に は、 ヴ ァ イ シ
伝統の枠組みの内部で発展したものです。︵二︶ディグ
い る に し て も、 そ れ で も な お 一 般 的 な イ ン ド 論 理 学 の
学の体系とは存在論に関して決定的に立場を異にして
ます。︵一︶ディグナーガの論理学は、インド正統派哲
デ ィ グ ナ ー ガ が、 パ タ ン ジ ャ リ に よ る イ ン ド 正 統 派
哲 学 的 な 分 類 に 依 拠 し た こ と は、 次 の こ と を 証 し て い
分類
義 の 差 は、 ま ず は、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ が、 名 づ け 方 の
﹁概念﹂と訳してもよいかも知れません。この二つの定
ラティーティは、シェルバツコーイが提案したように、
ティ︶の言語的表現である〟と言うにとどめました。プ
パ ナ ー は、 対 象 に 対 す る 判 然 と し た 心 像 ︵ プ ラ テ ィ ー
せん。カルパナーの定義をするにあたり、彼は、
〝カル
う な、 実 在 論 者 に 忠 義 立 て す る よ う な こ と は し て い ま
︵ 一・ 四・ 第 二 句 ∼ 第 三 句 ︶で、 デ ィ グ ナ ー ガ が 示 し た よ
﹄
ティは、彼の﹃プラマーナヴィニシュチャヤ ︵量決択︶
と い っ た も の は、 片 鱗 も 見 ら れ ま せ ん。 ダ ル マ キ ー ル
デ ィ グ ナ ー ガ に よ る カ ル パ ナ ー の 定 義 に は、 何 ら か
の 論 理 形 式、 た と え ば﹁ 概 念 ﹂﹁ 判 断 ﹂﹁ 推 論・ 結 論 ﹂
に な る で し ょ う。 と い う の も、 万 人 に 認 識 さ れ る 実 在
在として存在することを明確に含意するものです
│
これは知覚された事物に対置される普遍が実
性を説明する論理的思惟内容こそ、言語的実践 ︵ヴィヤ
を 行 わ な か っ た と い う 事 実 に あ り ま す。 し か し、 そ れ
│
ヴァハーラ︶によって表現された思考であり、この実在
に も ま し て、 名 づ け ら れ る も の、 す な わ ち 知 覚 の 結 果
│ ﹁高次の﹂﹁低次の﹂﹁絶対的な﹂﹁幻
が、 プ ラ テ ィ ー テ ィ で あ る と 指 摘 し た 点 に、 両 者 の 差
は、 推 論 の 形 式 論 理 的 分 析 と い う 文 脈
像的な﹂等
︵正理一滴︶
﹄の中
同 様 に、 彼 は﹃ ニ ヤ ー ヤ ビ ン ド ゥ
異はあります。
ことだからです。
に お い て、 彼 に と っ て は 重 要 性 を 持 た な か っ た と い う
│
性に対する修飾句
合致しています 。
20
90
「東洋学術研究」第 47 巻第2号
象 を 持 つ プ ラ テ ィ ー テ ィ が、 カ ル パ ナ ー で あ る ﹂ と 述
でカルパナーを定義して、﹁言語表現と結びつきうる表
を肯定したり否定したりする思考です︶
。ドイツのインド学
実 際 の こ と と し て 述 べ ら れ た 時、 思 考 の 対 象 に つ い て 何 事 か
部分を成すのは、判断です ︵判断とは、ある特定の状況が
︶
べています 。ダルモーッタラは、﹃正理一滴﹄の注釈で
者 ヤ コ ー ビ は、 イ ン ド の 論 理 学 に は 判 断 論 が 欠 け て い
︵
あ る﹃ テ ィ ー カ ー﹄ の 中 で、 こ う し た カ ル パ ナ ー の 定
る と 指 摘 し て い ま す 。 ま た、 こ の 事 実 を、 文 に 類 比 し
︶
義を受け入れ、次のように説明しています。
〝概念と語
うるような 複合語を構成しうるサンスクリットの ︵言語
︵
と の 間 に は 完 全 な 一 致 は な く、 概 念 は 必 ず し も 語 と 一
としての︶特質に由来するものとしています。
︶
︵ア
一方、シェルバツコーイは、推理についての学説
︵
〟。
体ではない︵例、語の使用に習熟していない子どもの思考 ︶
こ こ で 生 じ て い る こ と は、 記 号 と そ の 意 味 と の 分 化 で
︶
ヌ マ ー ナ ヴ ァ ー ダ ︶の 中 に、 判 断 論 を 見 出 そ う と し ま し
の対象から区別する思考です。しかし、仏教徒の中に、
の 類 に 分 類 し、 共 通 の 述 語 を 基 盤 と し な が ら 他 の 多 く
ま す。 こ こ で﹁ 概 念 ﹂ と い う の は、 思 考 の 対 象 を 特 定
﹁概念﹂とを接近させ
ラティーティ﹂と ︵西洋論理学の︶
サ ー ヤ を﹁ 判 断 ﹂ と 解 釈 し た の は、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ
は文字通りには
﹁決定﹂を意味します。彼がアディヤヴァ
一滴﹄一・二一に対する﹃ティーカー﹄の注釈を参照︶
。それ
し た 術 語、 ア デ ィ ヤ ヴ ァ サ ー ヤ で し た ︵ た と え ば﹃ 正 理
た 。 彼 が 見 出 し た の は、 意 味 の 上 か ら﹁ 判 断 ﹂ に 類 似
と を 結 び つ け る 決 定 な の で す。 す な わ ち、 二 つ の 単 純
念 な の で は な く、 表 徴 と そ れ に よ っ て 表 示 さ れ る も の
段 で あ り、 知 覚 の 結 果 と は 単 に 対 象 の 言 語 化 さ れ た 想
よ り ま す。 す な わ ち、 彼 ら に よ れ ば、 知 覚 は 認 識 の 手
概 念 の 理 論 を 見 出 す こ と は で き ま せ ん。 も っ と も、 そ
︵
す。 こ の こ と は、 カ ル パ ナ ー の 第 一 の 要 素 で あ る﹁ プ
23
とダルモーッタラが以下のことを示そうとしたことに
24
れ は ア リ ス ト テ レ ス に も な い の で す が、 彼 も 形 式 と 思
考内容との区別はしていました。
判断とアディヤヴァサーヤ
西 洋 の 伝 統 的 論 理 学 で、 論 理 形 式 に お い て 二 番 目 の
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
91
22
21
な 要 素 の 連 結 を 固 定 す る こ と な の で す が、 こ れ は 判 断
う事実を証するのである、と。
︵判断を成り立たせる︶総合を分析すること、つま
この
り そ れ を 幾 つ か の 段 階 に 分 解 す る こ と に よ っ て、 瑜 伽
に よ っ て 遂 行 さ れ る こ と で も あ り ま す。 判 断 と は、 思
考の対象を対象の属する特定の類に結びつけることだ
行派は知覚判断 ︵ヴィディ︶を ︵他の判断から︶区別する
存在 ︵持続なき瞬間︶と非存在 ︵概念︶との結合
│
こ と が で き ま し た。 そ れ は、 第 一 段 階 の 総 合 の 結 果
からです ︵もちろん、判断とアディヤヴァサーヤとでは、結
び つ け る 要 素 が 異 な り ま す。 判 断 が 結 び つ け る の は 二 つ の 思
│
﹃仏教論理学﹄の第一巻で、シェルバツコーイは彼の
解 釈 を 実 証 す る た め、 次 の 事 実 を 指 摘 し ま す。 す な わ
れ て い る も の で あ り、 そ の 瞬 間 し か 存 続 せ ず、 不 確 定
で あ る ﹂ と い う 文 が 引 か れ ま す。 主 語 は 現 実 に 知 覚 さ
考であり、アディヤヴァサーヤの場合は現実と思考とです︶
。
ち、 ア デ ィ ヤ ヴ ァ サ ー ヤ と い う 術 語 は 詩 学 に お い て 既
で あ る の で、 指 示 代 名 詞﹁ こ れ ﹂ で 表 現 さ れ ま す。 こ
と 見 な さ れ ま す。 こ う し た 判 断 の 例 と し て﹁ こ れ は 壺
に 用 い ら れ て お り ︵ と い う こ と は、 独 自 の 意 味 と 表 示 作 用
︶
れ が、 確 定 し た 名 詞﹁ 壺 ﹂ に よ っ て 表 現 さ れ る 述 語 と
︵
を有した特別な術語だったということですが︶
、そこでは二
︶
結びつけられます 。
︵
種 類 の 相 互 関 係 が 区 別 さ れ て い た の で す。 そ れ は 比 較
り、そのことは、仏教徒が、複雑な総合の結果であり、
対象を表示するという決定を採用するという行為であ
ヤ と い う 術 語 で ︶論 じ た の は、 ま さ し く、 対 応 す る 語 で
ーカー﹄二四・一六︶
。
念︶
﹂︵ヴァストゥサーダナ︶とを同一視しています ︵﹃ティ
︵ヴィディ︶と﹁知覚された対象の観念︵概
的な知覚判断﹂
﹃ティーカー﹄の中で、ダルモーッタラは明確に﹁肯定
の二つが同一であるという命題も見出されます。特に、
︵概念︶から独立
判断を特別な思考構成物として観念
さ せ る こ と が 示 唆 さ れ る 一 方、 関 連 著 作 の 中 に は、 こ
26
思 考 構 成 物 で あ る も の と し て、 判 断 を 独 立 さ せ た と い
論 じ ま す。 す な わ ち、 仏 教 徒 た ち が ︵ ア デ ィ ヤ ヴ ァ サ ー
断 の 役 割 に つ い て の 自 説 を 発 展 さ せ て、 以 下 の よ う に
と 同 一 化 で し た 。 さ ら に 彼 は、 仏 教 論 理 学 に お け る 判
25
92
「東洋学術研究」第 47 巻第2号
有分別の知覚において起こる ︵第一段階の︶総合の次
に、認知的思考の第二段階の総合があります。これは、
推理 ︵アヌマーナ︶において生じる、二つの概念の結合
理 学 に お い て﹁ 革 命 ﹂ を 成 し 遂 げ ま し た。 彼 ら は、 証
│
から、演繹であり、
明 と い う 形 態 を と る、 弁 証 論 的 方 法 と し て の 推 理
│
﹁他人のための推理﹂︵為他比量︶
﹁自分のための推理﹂︵為自
認知の形態である推理
│
です。推理の結果は推理的判断 ︵ニガマナ︶であり、そ
比量︶
︵
︶
︵
︶
を分離しました。また、アリストテレスの三
の例は﹁音は常住ではない﹂です。概念は非存在なので、
段論法における大前提に比較される、媒介論証項の﹁三
│
肯定されたり否定されたりします 。このように考える
つ の 特 質 ﹂︵ 因 の 三 相 ︶と い う 規 則 を 導 入 し ま し た。 そ
︶
ことで、仏教徒は肯定判断及び否定判断を結論 ︵ニガマ
れ は、 ニ ヤ ー ヤ 学 派 の 推 理 論 と は 対 照 的 に、 命 題 間 の
︵
ナ︶の形態として定式化することができ、否定的な結論
論理的結合を強化するものでした 。これらに古典的定
別 の 面 ︵ つ ま り 為 他 比 量 ︶に 注 意 を 向 け ま し た。 彼 に と
︶
義 を 与 え た の は、 デ ィ グ ナ ー ガ の 学 派 に 属 す る ダ ル モ
︶
仏教論理学におけるカルパナーの第三の形態として
登場するのがアヌマーナ ︵推理︶です。これは、単純定
って、それは﹁因の三相を有する表徴を通じて︵間接的に︶
︵
を用いる推理 ︵アヌパラブディ・アヌマーナ︶の数々を論
じることができたのです。
︵
ーッタラでした。為自比量は、彼によって、﹁内的 ︵な
言 的 三 段 論 法 と 称 さ れ る 演 繹 の 数 々 と、 類 似 し て い る
生み出された認知で、︵知覚されたのではなく︶推理され
︶
32
ら成っています。論証肢は次の二つです。
こ れ は、 二 つ の 論 証 肢 ︵ ア ヴ ァ ヤ ヴ ァ︶と 三 つ の 命 題 か
︵
一 方、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ は、 推 理 の 最 初 の 分 岐 の う ち
面 も あ れ ば、 類 似 し て い な い 面 も あ り ま す。 推 理 に 関
認知過程︶﹂と定義されました ︵﹃ティーカー﹄一一・一七 ︶
。
31
た 対 象 を 指 示 す る も の ﹂︵﹃ 正 理 一 滴 ﹄ 二・ 三 ︶で し た 。
推論とアヌマーナ
30
29
す る イ ン ド の 理 論 の 特 徴 に つ い て、 私 は こ れ ま で に 一
再ならず論じてきました。
デ ィ グ ナ ー ガ を 典 型 と す る 瑜 伽 行 派 の 仏 教 徒 は、 論
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
93
28
27
ヤまたはアヌメーヤ、 ま
s たは
と略記︶
。﹁あの山に
ps
︵一︶結論となるもの、ないし論証されるもの︵サーディ
火あり﹂
︵二︶論理的根拠ないし論理的属性︵ヘートゥ、 と
。
h 略記︶
﹁煙があるから﹂
︵他人に対して︶論理的表徴の三特質
﹁為他﹂比量は、﹁
︵ ︶
、別の言
を伝達することに存する﹂︵﹃正理一滴﹄三・一 ︶
い 方 を す る と、 論 理 的 表 徴 と サ ー デ ィ ヤ と の 必 然 的 結
合 が あ る こ と を 他 人 に 証 明 す る こ と に 存 す る の で す。
それを定式化すると、﹁類同による論証式﹂と﹁相違に
よ る 論 証 式 ﹂ と い う 二 つ の 形 態 に 大 別 さ れ ま す。 こ う
おける前提命題の形式とは、いささか異なっています。
した論証式における前提命題の形式は、﹁為自﹂比量に
主 論 証 項、 す な わ ち サ ー デ ィ ヤ な い し ア ヌ メ ー ヤ、
ダ ル マ キ ー ル テ ィ に よ れ ば、 類 同 に よ る 論 証 式 は 以 下
こ の 二 つ の 論 証 肢 の 中 で、 三 つ の 論 証 項 が 機 能 し て
います。
略号 。s
の三つの論証肢で構成されています。
⊥
︵
∀p︶
ss
︵全ての に
h ついて で
s ある︶。
∀hs
に
ps ついて で
h
に
ps ついて で
s ある︶。
は
ps の
p 例であり、全ての
︵ 二 ︶ 類 同 す る 例﹁ 壺 な ど の よ う に︵ ︶
、
︵ p≈ps, ∀psh,
p﹂
s
︵ ︶﹂
s、
︵一︶大前提﹁︵全ての︶因果的所産︵ ︶hは無常である
、略号 。p
小論証項、パクシャ ︵主題︶
媒介論証項、ヘートゥ、略号 。h
︵全ての に
p ついて で
h あるなら、全ての
∀ps
この構造は以下のように記号化されます。
∀ph
に
p ついて で
s ある︶。
あり、全ての
︵三︶小論証項﹁音声︵ ︶pはそのような作られたもの
︶
︵全ての に
︵﹃正
である︵ ︶﹂
h、 ∀ph
p ついて で
h ある︶
こ の 論 証 式 の 結 論 は 論 証 式 の 中 に は 現 れ ま せ ん。 と
︵
な ぜ な ら、 ヘ ー ト ゥ は 既 に﹁ 因 の 三 相 ﹂ の 規 則 に 合 う
理一滴﹄三・五︶
。
し か し、 こ の 推 論 の 中 に は、 ヘ ー ト ゥ の 中 に 含 意 さ
れていながら、定式化されていない諸前提があります。
33
も の が 選 択 さ れ て い る か ら で す。 こ の た め、 こ の 推 論
全体の構造は、見た目よりも複雑なのです。
34
94
「東洋学術研究」第 47 巻第2号
s
h
いうのは、仏教徒の意見では、それは明白だからです。
︵全ての に
p ついて
∀ps
で、 類 似 性 を で
≈ 記号化
﹁ そ れ 故、 音 声 は 無 常 で あ る ﹂、
である︶
。 帰 結︵ そ れ 故 ︶ を
⊥
すると、この論証式は以下のように記述されます。
⊥
ついて で
pに
s ある。全ての に
p ついて
s
︵
︶
︸
︵全ての に
h つい
∀ps
︷ ∀hs, p≈ps, ∀psh, ∀pss , ∀ph
て で
の
ついて で
s ある。 pは
p 例であり、全ての pに
h
s
s
あり、全ての
である。それ故、全ての に
p ついて で
s ある︶
と との結合を示す一般的大前提は明確に
ここで、 h s
定 式 化 さ れ、 そ れ を 示 す 例 に よ っ て 具 体 化 さ れ ま す。
︷
︶︸
︵或る に
p つ い て、 pv
∃p︵¬ p≈p
v , ∀p v h, ∀p v s
ついて で
pに
h あ り、
v
ついて で
pに
s ある︶。
v
は の
p 例 で は な い。 全 て の
全ての
︶﹂
h、
¬
︶﹂
s、
¬
︵h或る に
p ついて で
h はない。 h
∃p¬
︵三︶小論証項﹁しかし、音声︵ ︶pは因果的所産であ
る︵
ではない が
p ある︶。
︶ は 無 常 で あ る︵
[ 結 論﹁ そ れ 故、 音 声︵ p
︵
︶
︸
[ ∀sh, [ ︷
∃p ︵¬ p≈p︶
v , ∀pvh, ∀pvs],
︵﹃正
s る に
p ついて でs はない。 でs ない が
p ある︶]
∃p︵
¬或
理一滴﹄三・五 ︶
。
記 号 化 す る と、
︵s全ての に
s ついて で
h ある。或る に
pつ
∃p¬h] ∃p¬
⊥
の
いて、 pは
p 例ではない。全ての
v
結 論 の 主 題︵ ︶p が 述 語︵ ︶s を 有 す る こ と は、 論 理 的
表徴である属性︵ ︶hを主題が有しており、かつ、この
全ての
ついて で
pに
h あり、
v
表徴が推理される述語と不可分に結びついているとい
それ故、或る に
p ついて で
s はない︶。
こ こ で も ま た、 大 前 提 は 明 確 に 定 式 化 さ れ、 相 違 す
る 例 に よ っ て 具 体 化 さ れ ま す。 小 論 証 項 と 結 論 は 一 般
ついて で
pに
s ある。或る に
p ついて で
h はない。
v
うことを基礎として、この形式によって確定されます。
相違による論証式は以下のようなものです。
︵一︶大前提﹁恒常的実体︵ ︶sは因果的所産でないと
可分に結合した論理的表徴︵ ︶hを有しておらず、それ故、
確 立 さ れ る の は、 推 理 の 主 題︵ ︶p が、 述 語︵ ︶s と 不
的 に 否 定 的 な も の で す。 相 違 に よ る 弁 別 と い う 形 式 で
︶
、
p﹂
v
︵全ての に
s ついて で
h
∀sh
知られている︵ ︶﹂
h、
ある︶。
︵ 二 ︶ 相 違 す る 例﹁ た と え ば 虚 空 の よ う に︵
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
95
35
主題が述語を有していない、ということです。
︵推理において︶関
仏教徒の推理理論の特徴の一つは、
係 を 確 定 さ れ る 三 つ の 論 証 項 が、 単 一 の 事 物 に 結 び つ
けられた、複合的な観念ないし構想された心像︵プラティ
︶
ーティ︶に属しており、このことが推理の演算の基礎に
︵
︵
︶
﹁ こ れ︵ ︶p は 死 を 免 れ え な い︵ ︶。
s 人 間 だ か ら︵ ︶﹂
h
を表現するものは、語 ︵シャブダ︶であったり、判断 ︵ア
論 の キ ー タ ー ム と な っ た の で す。 こ の 構 想 さ れ た 概 念
判 断、 推 論・ 結 論 ︶の う ち、 推 論 の み が、 理 論 的 に 確 定
︵概念、
︵一︶西洋論理学における三つの主要な思考形式
概 念 と 判 断 と は、 そ れ に 比 べ れ ば、 理 論 的 に 曖 昧 で す
︵これはサンスクリットの言語としての特徴に規定されていま
す︶
。それらを指示する固定的な術語は存在しませんし、
明確な定義もありません。
だ か ら ﹂ と い う 推 理 で 表 現 で き ま す。﹁ こ こ︵ ︶p に は
い う 判 断 は、﹁ こ れ︵ ︶p は 木︵ ︶s で あ る。 紫 檀︵ ︶h
ます。
て 得 ら れ る 結 果 で あ り、 そ の 具 体 的 適 用 で あ る と 言 え
こ れ が、 本 論 文 で 提 案 し た 方 法 論 的 ア プ ロ ー チ に よ っ
︵二︶今回用いた原典資料の中で理論的に精緻化され
ていたのも、推理の概念だけでした。我々の考えでは、
死を免れえない︵ ︶s人間︵ ︶hがいる﹂という判断なら、
え ば、﹁ こ こ︵ ︶p に は 紫 檀︵ ︶h の 木︵ ︶s が あ る ﹂ と
様に、あらゆる判断は論証式に書き換えられる〟。たと
ょう、
〝あらゆる論証式は判断として提示できるし、同
仏 教 徒 か ら す れ ば、 こ れ ら の 間 に 原 理 的 な 違 い は あ
り ま せ ん。 む し ろ 反 対 に、 彼 ら は 次 の よ う に 言 う で し
ったりします。
された類似物を有します。すなわち、アヌマーナです。
ことができます。
こ の よ う に、 仏 教 徒 の 思 想 内 容 を 適 切 な 仕 方 で 提 示
す る だ け で、 こ の 論 文 の 最 初 に 提 出 し た 問 い に 答 え る
結
論
という推理になります 。
37
ディヤヴァサーヤ ︶で あ っ た り、 推 理 ︵アヌマーナ︶で あ
ー テ ィ︶
﹂ と い う 術 語 が、 仏 教 徒 に と っ て は、 自 ら の 理
あるということです。それ故、﹁構想された心像︵プラティ
36
96
「東洋学術研究」第 47 巻第2号
注
︵1︶
るインド正統哲学︵特にニヤーヤ学派とヴァイシェー
在 論 者 ﹂ は、 個 物 だ け で な く、﹁ 普 遍 ﹂ の 実 在 も 認 め
遍﹂の実在は否定する部派仏教︵特に説一切有部︶。﹁実
ЩербатскойФ.И.Теорияпознанияилогикапо
︵
БочаровВ.А. Теорияв логике// Новая
философскаяэнциклопедия. В 4 тт. М.,
︵ボチャロフ﹁論理学におけ
2000-2001. Т. IV. C. 45.
る理論﹂︶
КарпенкоА.С. Современныеисследованияв
философскойлогике// Вопросы философии.
︵カルペンコ﹁哲学的論理学にお
2003. № 9. С. 54-75
ける最近の研究﹂︶
︵ ︶ Ibid. C.55.
︵ ︶ Ibid. C.58.
︵ ︶
Ibid.
C.
.
61
︵ ︶
Iyengar,
H.
R.
R.,
Pramān.asamuccaya, edited and restored
into Sanskrit
with Vr.tti, T.ıka and Notes. Mysore, 1930.
p.12. 13d.
︶︵ 訳 注 ︶ ア ポ ー ハ と は﹁ 排 除 ﹂ の 意 で、 言 葉︵ 概 念 ︶
︵ ︶
︵ ︶
で毎年開催されている東洋学・宗教学の国際会議。
∼二○○三︶を記念して、サンクトペテルブルク大学
︵9︶︵ 訳 注 ︶ 東 洋 学 者 エ ヴ ゲ ニ ー・ ト ル チ ノ フ︵ 一 九 五 六
シカ学派︶。
учениюпозднейшихбуддистов. В 2-х ч./
Санскритскиепараллели, ред. иприм. А. В.
Парибка. СПб., 1995. Ч. II. С. 133, 138.
︵シェルバツコーイ﹃後期仏教学説における認識論と論
理学﹄、以下
︶ Shcherbatsky, Th.,Buddhist Logic. In
ТПЛ
︵.同著﹃仏教論理学﹄、以
2 vols. N.Y., 1984. Vol. I. p.219
下 BL
︶
︵2︶ Кириллов,В.И., Старченко,А. А., Логика. М.
BL Vol. Ⅱ . p.6.
︵キリロフ・スタチェンコ共著﹃論理学﹄︶そ
1995. C.3
の他の論理学の教科書を参照。
︵3︶
︵4︶ BL Vol. Ⅰ . p.555.
︵5︶ BL Vol. Ⅰ . p.509.
︵6︶︵訳注︶﹁オルガノン﹂はギリシア語で道具・機関の意。
Hattori, M., Dignāga, On Perception. Cambridge: Harvard
と見なし、オルガノンと称した。
アリストテレス学派では、論理学を全ての学問の基礎
︵ 7︶
︵ note 1.55
︶ , pp.100-106
University Press, 1968. pp.97-99
︵ notes 1.60-︶
64 .
︵訳注︶服部正明は京都大学名誉教授。戦後日本を代表
するインド哲学研究者の一人。
る大乗仏教。﹁唯名論﹂は、個物の実在を認めるが、
﹁普
︵8︶︵ 訳 注 ︶ こ の 論 述 で の﹁ 観 念 論 ﹂ は、 全 て を 空 と 考 え
の対象は、実在ではなく、他のものの排除にある、と
す る 説。 た と え ば、 火 と い う 言 葉︵ 概 念 ︶ の 対 象 は、
実際に直接知覚される火ではなく、火以外の全てのも
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
97
10
11
15 14 13 12
16
︵
のを排除した残余の何かであるとされる。
︶︵ 訳 注 ︶ パ ー ニ ニ 学 派 は、 イ ン ド の 文 法 学 の 主 流 を な
す学派。パーニニ︵紀元前四∼五世紀︶の著わした﹃ア
シュターディヤーイー﹄を出発点とし、パタンジャリ
説の基礎を形成した。バルトリハリ︵五世紀︶はこの
︵ 紀 元 前 二 世 紀 ︶ の 注 釈 書﹃ マ ハ ー バ ー シ ュ ヤ ﹄ が 学
学派に属し、ブラフマンの本質を言語と考える言語哲
学を形成した。
ЛысенкоВ.Г. Дискретноеи континуальноев
историииндийскоймысли: лингвистическая
│
традицияи вайшешика. Диссер. насоиск. уч.
︵ルイセンコ﹃インド思想史
степ. д.ф.н. М., 1998
における断絶と連続
文法学派の伝統とヴァイシェ
︵ ︶
ーシカ学派﹄︶
︵ ︶ Ibid. C.115.
︵ ︶ Ibid. C.81.
︵ ︶
︵訳注︶翻訳にあたり、梶
p.
.
BL
Vol.
Ⅱ.
Т
П
Л
.
Ч
.Ⅱ.
С.91.
5
山雄一博士の訳文を参照した。同訳﹃認識と論理﹄
︵長
尾雅人責任編集﹃大乗仏典︵世界の名著
二︶﹄、東京・
中央公論社、一九六七︶四六二頁下段。
︵ ︶ ТПЛ. Ч. Ⅱ . С.188.
︵ ︶ Ibid.
︶︵訳注︶﹁アヌパラブディ﹂は非知覚と訳される。或る
︵
︵
︵
ものが知覚されないことを論証根拠として、その或る
ものと必然的に結合している別の或るものの非存在を
推理するのが、アヌパラブディ・アヌマーナと呼ばれ
るもの。
︶︵ 訳 注 ︶ 因 の 三 相 と は、 論 証 に お い て 有 効 な 論 証 根 拠
がそなえる三つの特質。①主題に属する全てのものに
当該の論証根拠があることが承認されている。②類同
す る 例 に 当 該 の 論 証 根 拠 が あ る こ と が 確 定 し て い る。
確定している。
③相違する例には当該の論証根拠が存在しないことが
︶︵ 訳 注 ︶ ニ ヤ ー ヤ 学 派 で は、 論 証 式 を 五 つ の 論 証 肢 で
構成する。主張命題・論証根拠・例・合︵主張命題と
例とを結びつけること︶
・結論︵主張命題の繰り返し︶。
これは論証を通じて対論者を説得することに力点を置
とは論証それ自体にとって不要であると見なし、主張
いた論証式の構成であるが、ディグナーガは合と結論
命 題︵ 論 証 さ れ る も の、 サ ー デ ィ ヤ ︶・ 論 証 根 拠︵ ヘ
ТПЛ. Ч. Ⅱ . С.228.
︵ ︶
︵ ︶
Ibid. p.108.
Ibid. p.113.
Ibid.
BL Vol. Ⅱ . p.48.
ートゥ︶・例の三つの論証肢に改めた。
︵ ︶
︵ ︶
BL Vol. Ⅰ. p.212.
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
Т
П
Л.
Ч.
Ⅰ
.
С.93.
︵ ︶ Jacobi, H., Die Indische Logik. S. 461
︵.ヘルマン・ヤコー
ビ﹃インドの論理学﹄︶
28 27 26
29
30
34 33 32 31
17
18
21 20 19
23 22
25 24
98
「東洋学術研究」第 47 巻第2号
︵ ︶
ТПЛ. Ч. Ⅱ . С.211.
Ibid. p.114.
︵ ︶
Ibid. С.216.
哲学研究所研究員︶
︵N・A・カナエワ/ロシア科学アカデミー
︵訳・まえがわ
けんいち/東洋哲学研究所研究員︶
インド瑜伽行派における kalpanā と vikalpa の概念について
99
︵ ︶
37 36 35