≪ 20 世紀~現代7 冷戦と第三世界の独立 その2 ≫

≪ 20 世紀~現代 7 冷戦と第三世界の独立 その 2 ≫
3 第 15 章-3 第 3 世界の台頭と米ソの歩み寄り(第三世界の自立と危機)
第三勢力の結集
スエズ戦争と北アフリカ アフリカの年
ラテンアメリカとアメリカ外交 キューバ革命とキューバ危機
米ソの軍備管理交渉
ケネディ・ジョンソン政権
フルシチョフ体制からブレジネフ体制へ 東欧圏の自立と改革の失敗
ヨーロッパの緊張緩和
ユーロコミュニズムと南欧諸国の民主化
中ソ対立 文革
中国…文革の終焉
ヴェトナム戦争 戦後アメリカ政治の危機
米中国交正常化
東アジア,東南アジア諸国の戦後体制の変化
4 第 15 章-4 石油危機と世界経済の再編(米ソ両大国の動揺と国際経済危機)
戦後体制からの脱却 70 年代への転換
国際経済秩序の変化
石油危機後の欧米
冷戦の終焉 ソ連の消滅
(このページは「世界史研究」(山川出版社)1995 年第 1 刷-2002 年第 10 刷 の戦後部分である 17 章,18 章を
要約を含む。)
第 15 章
-1-
3
第 15 章-3
第三世界の自立と危機
第三勢力の結集
・東西両陣営の対立→アジア・アフリカに波及…米ソそれぞれの思惑から好意的態度で援助競争。
朝鮮戦争やインドシナ戦争を米ソ主導により解決→このような状況から自立を強め第三勢力形成への潮流
が生まれ,国連を中心に第三勢力が活動
第三世界の結 A) コロンボ会議開催(54)…南アジア5カ国首脳が集合
集
アジア・アフリカ諸国会議の開催,核実験停止を提案
平和五原則の発表(54)…周恩来(中国)とネルー(インド)が会談
B) [
]会議の開催(55)…インドネシアのバンドンで開催,29 カ国
が参加
十原則の採択…平和共存・反植民地主義など
従来の欧米諸国の支配下にあった国々の政府代表のみによる初の国際会議
中国,インドの主導で冷戦下の超大国の行動を批判し,世界平和への道を提案した意味
で画期的…バンドン精神
↓継承
C) 第1回非同盟諸国首脳会議の開催(61)…ユーゴスラヴィアの呼びかけ
ベオグラードに 25 カ国参加。第三世界の積極的中立の立場を決定
→平和共存,民族解放の支援,植民地主義の打破を宣言,共同歩調を誓約
スエズ戦争と北アフリカ アフリカの年
エジプト
A) エジプト革命…ナギブ,ナセルらの将校団がファルーク 2 世の王制打倒(52)
B) ナセル大統領 積極中立政策を提唱
バグダード条約加盟を拒否し,チェコからの武器購入表明(55)→対米関係悪化
米英 アスワン・ハイダム建設資金融資を撤回(56)…経済援助の停止
スエズ運河の[
]宣言(56)で対抗…ダム建設資金捻出のため
↓
英・仏・イスラエルが宣戦(56.10)…[
]戦争(第2次中東戦争)
↓国際世論の批判
国連緊急総会においてインド中心にアジア,アフリカも擁護…米ソの警告で3国の撤退
国内的には計画化経済への転換と大企業の国有化でソ連に接近
エジプト,アラブ民族主義の指導的地位につく
パレスチナ問 A) アラブ難民の発生…アラブ諸国の支援でパレスチナ解放機構(PLO)の設立(64)
題関連
B) 1960 年代,アラブ諸国に社会主義の傾向強まる←エジプトのナセル政権の影響
↓警戒するイスラエルとの間に緊張高まる
第 3 次中東戦争(67)
イスラエルがアラブ諸国の対イスラエル統一戦線に先制攻撃([
]戦争)
イスラエルの占領地が拡大
シナイ半島,ガザ地区(エジプトから),ゴラン高原(シリアから),ヨルダン川西岸,イ
ェルサレム旧市街(ヨルダンから) 占領
→アラブ諸国とイスラエルの対立激化,エジプトのナセル大統領の威信が低下
第 15 章
-2-
アフリカ諸国 A) モロッコ・チュニジア…56 年独立達成
の独立
B) アルジェリア…フランス人入植者・現地軍部と民族解放戦線(FLN)との武装抗争→後
者による独立達成(62)
独立に反対する入植者,現地軍部,および右翼の期待を担ってド・ゴールが復帰
↓憲法改正で強力な大統領権限をえて
支持してくれた現地人らの反対をおさえ,アルジェリアの独立認める(62)
C) ガーナ…エンクルマの指導→最初の自力独立黒人共和国成立(57)
「アフリカの年」(60)…17 カ国が一斉に独立達成
D) アフリカ諸国首脳会議の開催(63)…エチオピアのアジスアベバ,30 カ国が参加→アフ
リカ統一機構(OAU)の結成:アフリカ諸国の連帯,植民地主義の克服めざす
独立達成後の ・ポルトガル…植民地を依然保有
諸問題
・コンゴ動乱勃発 独立後も旧宗主国ベルギーが干渉したことによる
・ナイジェリア ビアフラ紛争
・経済自立基盤の脆弱さ…植民地ではモノカルチャー化が進展しており,多経済構造から
の脱却には困難が伴う→経済開発と国民の統一を強行する軍事独裁政権が生まれやすく,
内線やクーデタが頻発することになる
・どの国も当初の勢いを失い,欧米諸国の援助による近代化へ方向転換
ラテンアメリカとアメリカ外交 キューバ革命とキューバ危機
ラテンアメリカ諸国の戦後の動向
・大戦中,アメリカ側で物資提供
・大土地所有制が支配的で議会も不安定→土地改革や政治改革の要求
アメリカの干渉に反発する民族主義運動の登場
パン・アメリカ A) アメリカ主導で開催(47)
会議
リオ協定…共同防衛と相互協力の約束
米州機構(OAS)の結成(48)… 国際共産主義の封じ込めのために
B) 反アメリカの動き
・グアテマラ…左翼政権が成立(51) 土地改革に着手→これに対し,アメリカ支援の
軍部クーデタが起こり政権崩壊(54)
・アルゼンチン…ペロン大統領就任(46)…反米的な民族主義かかげ社会改革実施
キューバ革命
A) キューバで[
]の革命運動…バティスタ親米独裁政府を倒し,
革命政権
樹立(59)
↓土地改革実行,アメリカ企業を接収
アメリカは断交(61) 食糧,医薬品以外全面禁輸
・社会主義宣言発表…ソ連寄りの姿勢へ
ソ連のミサイル基地建設により[
] 発生(62)→米ソ緊張
米州機構とキューバの断交(64)→キューバ革命政権の孤,しかし政権維持
B) 革命の影響
・ラテンアメリカ諸国,カリブ海地域の革命運動・武装ゲリラ闘争に大きな影響
・アメリカの対抗措置…「進歩のための同盟」結成(61)
経済援助を進めることで中道勢力の育成を図るが,軍事政権が民主勢力を圧迫するなど
必ずしも機能しなかった。
ドミニカ革命にはジョンソン政権が軍事介入→最後は軍事力という外交の矛盾
第 15 章
-3-
米ソの軍備管理交渉
米・ソ軍縮の流 ・大気圏内外水中核実験停止条約調印(63)…米・英・ソが参加
れ
・[
]条約調印(68)…米・英・ソら 62 カ国が参加
既保有国 5 カ国に保有を限定し,技術移転などを禁止したもの
ソ連は ICBM を増やし,米国は精度を高めた→相互確証破壊(MAD)の状況
↓
軍備の段階的な縮小を目指す,軍備管理交渉に利害を見出す。
・第1次戦略兵器制限交渉(第1次[
])開始(69~)ニクソン訪ソ
・核兵器の現状凍結協定,ABM 条約締結(72)
・核戦争防止協定締結(73) ブレジネフ訪米
・第 2 次戦略兵器制限交渉(第 2 次 SALT)開始(79) カーター・ブレジネフ間
ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカ上院は批准せず。また,NATO も中距離核戦力
(INF)を行う→第二次冷戦(新冷戦)
・戦略兵器削減交渉([
])開始(82~)
中距離核戦力(INF)全廃条約調印(87)
START 調印(91) 核兵器の半減について合意 →米・ソ冷戦の終結
ケネディ・ジョンソン政権
合衆国の動揺
A) ケネディ大統領(61~)
ニューフロンティア政策 50 年代後半の停滞を打破すべくかかげる
内外にわたる積極政策
経済政策では減税で景気復活,議会の抵抗で福祉拡大はできず
アイゼンハウアーの大量報復戦略の見直し
→柔軟反応戦略へ(核戦争,通常戦争,ゲリラ戦のあらゆる段階
ベルリン,キューバでソ連と渡り合いつつ対話路線を定着
黒人の公民権運動に理解を示す→対応を模索途中に暗殺(63.11)
B) ジョンソン大統領…公民権法の成立(64)
黒人差別を撤廃,
「偉大な社会」建設計画…社会福祉政策をすすめ,差別と貧困の解消を
めざす
ヴェトナムへの軍事介入拡大→ベトナム戦争の泥沼化と損害の増加→反戦運動の激化
68 年の大統領選の出馬断念
公民権運動の指導者・キング牧師の暗殺(68)…黒人運動をめぐる対立の深刻化
→社会の亀裂拡大
フルシチョフ体制からブレジネフ体制へ 東欧圏の自立と改革の失敗
ソ連
A) フルシチョフの解任(64)
解任の背景
キューバ危機での対応に軍部が不満
中ソ対立,党の指導性の削減(工業と農業に機構分割)について幹部が不満
B) コスイギン首相・ブレジネフ第一書記の体制へ
自由化の進展やスターリン批判の声を抑圧し,安定を志向…内外の統制強化
国民生活は安定したかにみえたが,長老支配で党官僚の腐敗が進行
第 15 章
-4-
東欧社会主 ・60 年代 ソ連の支配下の枠内ではあったが,それぞれの独自性を志向
義諸国
・70 年代 ハンガリー,ポーランドは歴史的結びつきのある西欧とのつながりを深める
・アルバニア…中国を支持
・ルーマニア…独自外交の展開
・チェコスロヴァキア…民主化要求運動発生(68)
ドプチェクによる自由化推進 「[
]」と呼ばれたが,ソ連が軍事介入
ソ連は国際的非難をあびるが,ブレジネフ・ドクトリン=「制限主権論」を主張
↓
社会主義圏の改革の動きを阻害することでかえってソ連の威信は低下。
ソ連・東欧社会主義諸国の政治・経済の停滞。
ヨーロッパの緊張緩和
ヨーロッパに A) 西ドイツ [
]政権(69 成立)
おける緊張緩 ・
「東方政策」の推進
和の影響
自らが懸け橋となって緊張緩和に寄与しなければいけないという平和構想に立脚し,社
会主義国との関係改善を図る。
武力不行使条約締結(70)…西ドイツとソ連間で戦後の国境不可侵を確認
国交正常化条約締結…ポーランドとの戦後国境を承認,他の東欧諸国とも外交正常化を
進める。
ベルリンの現状維持協定締結(72)…米・英・仏・ソ連による
西ベルリン市民の東ベルリンへの訪問可,西独と西ベルリン間の通行自由
・以上の成果により,東・西両ドイツ間で基本条約…相互承認(72 年末),両ドイツの国際
連合加盟(73),さらに,ブルガリア,ハンガリーとの国交も回復
国民からの支持も高かった。
B) このような緊張緩和を条件にようやくブレジネフ書記長が提案(66)した全欧安全保障
協力会議(CSCE)を受け入れることができた。
↓東西間の交渉継続
ヘルシンキ宣言(75)…主権尊重,武力不行使,科学・人間交流の協力をうたう
参加国:アルバニアを除く全欧州諸国,アメリカ・カナダ
ユーロコミュニズムと南欧諸国の民主化
ユーロコミュ A) 70 年代半ば イタリア,スペインなどの南欧の共産党に現れた潮流
ニズム
複数政党を認めて議会制民主主義の中で進歩勢力と連帯しようとする動きがでてきた。
B) ソ連のアフガン侵攻への対応でフランス,イタリア,スペインの各共産党の足並み乱れ
る。
→80 年代には影響力失う…各国での社会党政権の成立と規を一にしている。
南ヨーロッパ A) ポルトガル
の軍事政権・ ・軍事独裁政権(1926~) 戦後も内外で圧制…「最後の植民地帝国」と批判
独裁体制の消
植民地での解放勢力攻勢→独裁体制の危機
滅
軍事クーデタ発生(74)…独裁体制崩壊
新政府樹立 アンゴラ・モザンビーク・ギニアの独立承認,国内の民主化進行
B) スペイン…フランコ死去(75) フアン・カルロス1世の即位
新憲法制定(78)…民主的君主制へ移行
ゴンザレス政権(82)EC 加盟(86)
C) ギリシア…戦後,王政に戻るが軍事クーデタ(67)で倒れる→軍事政権崩壊(74)→民主制
に復帰(75)
パパンドレウ(左翼,反米だが)
NATO,EC に加盟(81)
第 15 章
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70 年代…南ヨーロッパの軍事政権や独裁体制が消滅
→議会制民主主義が東欧を除くヨーロッパにおける共通の前提になってくる
中ソ対立 文革
動揺する中国
・ソ連の平和共存路線,アメリカとの接近は中国の内外政策にも影響
・50 年代前半,戦前の農工業生産を超える
一方で強引な工業化・農業集団化政策が共産党への批判を生む。
・毛沢東「[
]政策」を指示
大衆動員で社会主義の矛盾克服,前進をかかげる
工業,農業,先進技術と在来技術を同時に発展させるというもの人民公社の設立
↓多大な犠牲,失敗
・劉少奇,国家主席に就任(59) 経済計画の見直し…調整政策
・毛沢東(党主席) 復権をめざした活動
①ソ連の平和共存路線を批判
②中国共産党内部の対立を引き起こす
中国 アメリカ帝国主義と対決(武装闘争)しつ
毛沢東と林彪ら(急進主義)
つ社会主義建設をめざしていたこと,及び,スター
現政権(劉少奇・鄧小平ら)漸進主義的な政策を攻撃
リン批判が毛沢東の絶対化進展の障害となる
「実権派」
「走資派」と非難し,ブルジョワ的要素
↓
を取り除けと唱える
ソ連も毛沢東を批判,中ソ対立へ
↓
プロレタリア[
](文革)を呼びかける(66)
・チベット ダライ・ラマの反中国運動
革命達成のためには大衆の自発性が求められたため,
(59)が中印国境紛争を招くと,
大学生や高校生からなる紅衛兵などの大衆運動が起こ
ソ連:インドを支持し,中国への核開発
る(造反有理)
技術援助を破棄
↓
・中国への経済援助停止(60)ソ連技術者の
労働者人民解放軍も介入し,党幹部や知識人が批判・
引き上げ→中ソ対立の深刻化
追放される
・キューバ危機でのソ連の譲歩,部分的核実験禁止
→劉少奇失脚,国家主席廃止(68)
条約への批判…両国共産党の公開論争へ(63~),中 約十年間にわたり深刻な社会的な混乱,経済・文化活動
ソ国境で武力衝突(69)
の停滞をもたらす
64 核保有国
フランスと国交
・その後の方向性を示さず,紅衛兵らの暴走が多大な犠
牲者をうんだこと
・社会主義と党への信頼はかえって低下
中国…文革の終焉
文化大革命の激動が続く中,権力闘争も新局面へ。
毛沢東 軍に対する党の優位を主張し林彪と対立
林彪はソ連との内通を企図したとされ失脚(71)
この事件後,鄧小平らが復活,周恩来は彼らと協力して秩序回復と経済再建にあたる
↓
江青らは毛沢東の威信を背景に,批林批孔運動(ねらいは周恩来排斥)
↓
周恩来死去(76.1) その後,天安門事件。 毛沢東死去(76.9)
華国鋒首相就任(76)
毛沢東の後継にもかかわらず文化大革命推進派(江青ら「四人組」)の逮捕した(クーデタ)
党主席を兼任,文化大革命の終了を宣言(77)
「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)を推進
文化大革命の犠牲者の名誉回復
中国のたちおくれの克服をめざす
第 15 章
-6-
ヴェトナム戦争 戦後アメリカ政治の危機
A) ヴェトナム共和国(南ベトナム)…アメリカの支援でゴ・ディン・ディエム政権成立(55)
しかし,アメリカの改革要求を無視。各界の反発を買う
・南ヴェトナム解放民族戦線結成(60)
・アメリカ 軍事顧問団派遣(61)
ヴェトナム民主共和国(北ベトナム)と連携
ゲリラ戦を展開
・クーデタによりゴ政権崩壊(63)
→解放戦線の攻勢強まる
↓その後
・アメリカの本格的軍事援助開始
・北ヴェトナムと解放戦線,
トンキン湾事件(64)口実に北ヴェトナム爆撃(北
ソ連,中国からの支援→戦局の泥沼化
爆)開始(65~68)
68.1 テト攻勢
→地上兵力を増強…50 万人を越える(68)
・アメリカは北爆停止,和平協定に移る(68~)
ニクソン大統領(69) 戦略転換で 70 年代から本格撤兵へ
ニクソンドクトリン…同盟国独自の負担を要請し,米国の負担軽減を図る→沖縄返還
しかし,完全撤兵の前提としてカンボジアに進行し,現地の北ヴェトナム,解放軍の基地攻撃。
ラオスにも侵攻(71)
インドシナ全域に戦火が拡大
ヴェトナム(パリ)和平協定調印(73 年1月):アメリカのヴェトナムから撤退を主な内容
・北ヴェトナムと解放戦線,サイゴンを占領
↓
ヴェトナム社会主義共和国の成立(76) 南北の統一
そ の 他 の イ B) カンボジア
ンドシナ情
クーデタでシハヌーク元首の追放→親米右派のロン・ノル政権誕生(70)
勢
赤色クメールなど解放勢力の抵抗…指導者ポル・ポト
内戦の末,解放勢力の勝利(75)…民主カンプチア(民主カンボジア)を自称
C) ラオス
60 年代より 右派政権と左派愛国戦線(パテト・ラオ)との内戦
→後者の勝利 ラオス人民民主共和国の成立(75)
第 15 章
-7-
米中国交正常化
東アジアの緊 A) アメリカの財政上の要請が大きく関わる
張緩和
ニクソン・ドクトリン…直接的軍事介入をやめ,核の傘の下,同盟国の自力防衛にゆだ
ねる(ヴェトナム戦争のヴェトナム化)
米中接近…中ソ対立を利用し,中国を味方にしてソ連をけん制する意図(勢力均衡政策)
キッシンジャー大統領補佐官の北京訪問(71)
→ニクソン訪中(72)…毛沢東と会談,中華人民共和国を中国と認定
日本へ沖縄返還(72)…日本の防衛範囲の拡大を意味。
有事の核持込の黙認という密約と取引関係があった。
B) 影響
ドル・ショック,ニクソン・ドクトリンを合わせて二つの意味でニクソン・ショックとい
われた。
日中国交正常化(72)…田中首相の北京訪問,台湾との関係断絶
→日中平和友好条約締結(78)
国連総会 中華人民共和国に中国代表権を認める→台湾の国民党政府の追放
東アジア,東南アジア諸国の戦後体制の変化
アジアの開発独裁
・開発独裁政権 社会主義国に隣接するアジア諸地域に登場
強権的支配のもとで,政治運動や社会運動を抑圧しながら近代化を強行→1960 年代 冷戦構造からくる
国内体制への批判が生じる
大韓民国
A) [
]政権…アメリカからの援助を受け大企業優遇=農民や零細企業困窮
抑圧的な反共体制
学生運動勃発(60)…民主化と経済発展を求める→李承晩の失脚
その後,南北統一を求める学生運動が高まると
B) 朴正熙政権 クーデタで権力掌握(軍事政権)→民政移管(63)
国内の反対をおさえ日韓基本条約…日本との国交締結(65)
強権体制のもと,日本からの資本導入で経済発展
イ ン ド ネ シ A) [
]大統領 共産党と協力→非同盟中立主義をとり中国との関係強化
ア
九・三〇事件(65) 左派の軍人らがクーデタをおこす
↓スハルトが鎮圧…軍部が実権掌握
これを機に反共の大衆運動起こると軍が共産党を弾圧
インフレもすすみ,スカルノ失脚
B) スハルト大統領就任(68)…工業化や近代化の推進 開発優先政策で親米路線
そ の 他 の 情 東南アジア諸国連合([
])結成(67),
勢
参加国…インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイ
インドネシア情勢を背景に結成,地域協力をめざす
ヴェトナム戦争ではアメリカを支持
イラン
白色革命の開始(63) パフレヴィー2世の指導
経済・社会の近代化,その一方で反対派の弾圧
第 15 章
-8-
4 石油危機と世界経済の再編
戦後体制からの脱却 70 年代への転換
国際経済体制と戦後政治のゆき詰まり
A) 50 年代前半 米ソ対決から冷戦が局地的熱戦に転じた時代
B) 60 年代 米ソの二極体制の安定,かつ西側経済の成長でアメリカの相対的地位低下
日米欧の経済協力関係緊密化のため 経済協力開発機構(OECD)設立(61)
平和共存時代は多極化が進行し,米ソ各陣営で自立的な動きが目立った時代
また,非同盟主義という第 3 ブロックへの所属拒否のうごきもあった。
C) 国際経済体制の転換
ヴェトナム戦争の戦費,社会政策費の増大,日本・ヨーロッパの先進工業国の躍進
D) アメリカ,貿易収支が赤字に転落(71)
金・ドル交換停止,10%の輸入課徴金導入を発表(71)→世界に衝撃(ドル・ショック)
ブレトン・ウッズ国際経済体制の崩壊…ドルを基軸通貨とし,アメリカ1国が世界経済を支えた経済体
制が崩壊→世界経済は合衆国・西ヨーロッパ・日本の三極構造へ
国際経済秩序の変化
国際経済体制 A) 国際経済体制の転換
と戦後政治の
アメリカの金準備を上回るほどのドルの過剰な支出→ドルへの信頼失墜
ゆき詰まり
ヴェトナム戦争の戦費,社会政策費の増大,日本・ヨーロッパの先進工業国の躍進→イ
ンフレ,米国製品の値上がりで国際競争力低下
アメリカ [
]が赤字に転落(71)
↓
ニクソン・ショック ニクソン大統領の新経済政策が世界に激震
金・ドル交換停止,10%の輸入課徴金導入を発表(71)→世界に衝撃(ドル・ショック)
ブレトン・ウッズ国際経済体制の崩壊…ドルを基軸通貨とし,アメリカ1国が世
界経済を支えた経済体制が崩壊→世界経済は合衆国・西ヨーロッパ・日本の三極
構造へ…アメリカの派遣が経済面でも動揺
B) 二度の[
] (石油危機)…戦後の国際経済体制,とくに先進国経済の
あり方に限界をつきつけた。
第4次中東戦争(73~74)→アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略発動
イスラエルを支援する国家に対する原油輸出停止や制限の処置
石油輸出国機構(OPEC)による原油価格大幅引き上げ(~74.1 原油価格 4 倍に)
→石油メジャーに依存する先進工業国経済に大打撃…第1次石油危機
インフレ,不況と失業が並存するスタグフレーション
イラン・イスラーム革命(79)…イラン産石油輸出停止…第 2 次石油危機
(~81 原油価格 3 倍)
C) ドル・ショックとオイルショック(石油危機)→先進国の好景気に終止符
西ヨーロッパ諸国・アメリカの経済成長減速…日本はまもなく立ち直る
省エネ,代替エネルギー開発などの模索が本格化
サミットの開 ・ジスカール・デスタン(仏)の提唱
催
・西側経済の懸案事項…相互に共通する問題や1国では対抗できない問題が登場
ドル・ショック→変動相場制への移行(73),オイル・ショック,経済成長鈍化,
多国籍企業の問題,環境汚染など,相互依存関係にある世界経済を認識
→先進国首脳会議(サミット)の開催(75 年以降)
第 15 章
-9-
石油危機後の欧米
80 年代以降の A) 西側経済は不況と失業に苦しみ,財政赤字拡大
政治潮流
B) 従来の「大きな政府」への批判が高まり,市場機構の役割を高く評価して,自由競争
による資本主義の効率性を重視し,
「小さな政府」を唱える保守政権が登場
これらの政府は,外交においては対ソ強硬路線に転じる。
ヨーロッパ
・80 年代
サッチャー保守党政権(イギリス),コール連立政権(西ドイツ)…国営事業の民営化,自由
化路線の推進,福祉社会の軌道修正をすすめる
・90 年代
労働党政権の復帰(イギリス),社会民主党の勝利(西ドイツ,98 年の選挙),
フランス・イタリアでの中道左派系政権の誕生→社会民主主義的方向が優位になる
アメリカ
A) レーガン大統領(1981~) 「強いアメリカ」
,ソ連を「悪の帝国」と名指し
SDI 構想(スターウォーズ計画)をかかげて軍拡
第三世界の反米ナショナリズムをおさえる強硬策
ニカラグア,アフガニスタン,グレナダ,リビアに介入
内政:福祉予算削減,企業減税,規制緩和
↓
双子の赤字 軍事支出の突出→財政赤字の膨張
ドル高→資本の注入,輸入増加,国際競争力低下による輸出低迷→膨大な貿易赤字
→債務国に転落
イギリス
A) 労働党政権下(1974~)
経済成長の低迷,10%以上のインフレ,実質的な低賃金,公共部門の労働者のストライ
キ…高福祉が「イギリス病」を生んだといわれた。
B) サッチャー内閣…保守党(1979~90)
民営化,社会政策費の削減,所得税減税で経済の活性化を図る
外交面,アメリカとともに対ソ強硬路線
フォークランド紛争で勝利(82)…国威発揚で圧倒的支持確保
89~ 新住民税(人頭税)導入,公共サービスの低下→支持低下
・メージャー内閣(90~97)
・ブレア内閣(労働党)(97~)
・ブラウン内閣(労働党)
フランス
A) ジスカール・デスタン大統領(1974~)
議会に支持基盤が弱く,自由化政策は達成できず
しかし,シュミット(西ドイツ)と協力し,仏独を軸とするヨーロッパ統合をすすめた。
B) ミッテラン大統領(1981~)…社会党出身者として初
議会では保守系が力を強めるが,国有企業の民営化をすすめ,社会民主主義の中道路線
をとり,長期政権維持
・シラク大統領(1996~2007) 保守系
・サルコジ大統領(2007~)
A) シュミット内閣(1974~)
石油危機後の困難な情勢に果断な処置
B) コール中道右派連立政権(1982~) キリスト教民主同盟
社会福祉を縮小して保守回帰
東側との融和外交は続けられ,90 年 10 月のドイツ再統一に適した環境を醸成
西ドイツ
第 15 章
- 10 -
ヨーロッパの ・70 年代前半,拡大 EC…イギリスなどの加盟を承認
統合
・80 年代,ギリシア・スペインなども加盟→巨大な統一市場へ発展
・マーストリヒト条約調印(92)…ヨーロッパ連合(EU)の成立→東欧・東南欧・地中海諸国
など 10 カ国加盟(2004)→アメリカと肩をならべる大連合体へ発展
冷戦の終焉 ソ連の消滅
ソ連の停滞
A) 70 年代以降,ソ連の全般的停滞傾向が顕著となる
石油危機後の石油価格の高騰を利用し,安易な外貨獲得に乗り出したため,西側がとるハ
イテク化への道に遅れをとった。また,第三世界への勢力を広げるため,軍需産業に依存し
た経済構造が固まっていった。
↓
経済成長の鈍化,農業生産の不調→原油や金の輸出と大量の小麦や飼料の輸入
先端電子産業部門における立ち遅れ→環境汚染の広がり
硬直した共産党一党支配→若い人材が登用されず
反体制派文化人の国外追放→文化面の沈滞
B) ソ連の[
]侵攻(79) アミン政権を倒し,カルマル政権を支援のため
国際世論の非難,合衆国との関係緊張
イスラーム教徒の反政府ゲリラの抵抗→解決のめど立たず
ペ レ ス ト ロ A) 政策の転換へ
イカ(改革)の
ブレジネフ死去(82),さらに相次ぐ後継書記長の死去
実施
ゴルバチョフ書記長就任(85.3)
情報公開(グラスノスチ):言論自由を打ち出す
チェルノブイリ原子力発電所の事故(86.4)
管理体制や情報提供の欠陥が明らかになる→改革の必要性
政治・社会…ソ連の政治・社会全体の全面的見直しに着手
・ソ連型人民民主主義を修正(88)
複数候補者制選挙にもとづく連邦人民代議員大会・連邦最高会議制を実行(89)
→大統領制の導入(90):ゴルバチョフ大統領就任
・経済…中央指令型計画経済から市場経済へ移行
・スターリン体制下の犠牲者に対し名誉回復の措置実施
・外交…「新思考外交」の提唱
世界の多極化を認めて,多様に交流すること。さらに,共通の安全保障のため従来の核抑
止論を否定
新ベオグラード宣言(88.3)…各国独自の社会主義体制を尊重。ソ連の指導権否定
「ヨーロッパの共通の家」構想(89)
レーガン・ブッシュ両大統領との協力関係構築…軍縮の進展,をめざす
アフガニスタンからの撤兵を表明(89)→撤退(89)
北京訪問(89) 鄧小平と会談→中ソ対立を終了
マルタ会談(89.12)…冷戦からの脱却
戦略兵器削減交渉(START)に調印(91.7)→追加条約である STARTⅡ締結(93.1)
ソ連の崩壊
・内外の急速な改革→バルト3国などソ連国内の民族独立運動を惹起
・保守派のクーデタ失敗(91.8)…ウクライナ・アゼルバイジャンなどほとんどの共和国が離脱
を宣言→ソ連共産党の解散→独立国家共同体の結成(91.12)
エリツィンを大統領のロシア連邦が中心,ウクライナ・ベラルーシなど 11 の共和国から構
成される→ソ連の解体→ゴルバチョフの辞任
そ の 後 の ロ ・各共和国が自立傾向を強める→ロシアの石油や天然ガスに依存する多くの国の存在→独立
第 15 章
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シア
国家共同体の将来…不透明
・エリツィン大統領再選(96)
市場経済への移行に遅れる→政治の不安定→多くの問題が未解決(チェチェン紛争など)の
まま辞任(99 年末)
・プーチン大統領(2000~08)
・メドヴェージェフ大統領(2008~)
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第 15 章
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