【現代 7 現代の世界】 1 冷戦の解消と世界の多極化 核兵器開発競争と反核運動 / 米ソの軍備管理交渉 / ヨーロッパの緊張緩和 / ユーロコミュニズム と南欧諸国の民主化 / 70 年代のアメリカ合衆国 / 米中国交正常化 / 経済大国日本 / 国際経 済秩序の変化 / 石油危機後の欧米 / 2 社会主義世界の解体と変容 冷戦の終焉ソ連の消滅 / 東欧社会主義圏の崩壊 / 文革の終焉 / 70 年代以後の南アジアとアジア ニーズ / アジア社会主義圏の混迷 3 第三世界の多元化と地域紛争 南北問題の重層化 / 中東紛争とイスラーム世界の混迷 / ラテンアメリカ諸国の変革と苦悩 カの人種・民族対立 アフリ 1 冷戦の解消と世界の多極化 核兵器開発競争と反核運動 ・冷戦の過程は核開発競争の歴史 原爆開発…米(45.7),ソ連(49),英(52),仏(60),中国(64),印(74) 水爆開発…米(52.11),ソ連(53.8) 人工衛星…スプートニク号打ち上げに成功(ソ連)→運搬手段の質的変化 互いの覇権をかけて核軍拡を続けながら,その超越的な破壊力ゆえに全面核戦争は回避するという冷戦 の路線ができあがる 米・ソ軍縮の流 ・冷戦下の核兵器開発競争と核拡散の危険を警告する声の高まり れ バートランド・ラッセルらの呼びかけでパグウォッシュ会議開催(57) …各国の著名な科学者が参加,核実験禁止・核兵器廃絶を求める →世界各地に原水爆禁止運動が広がる国際世論の圧力 米ソの軍備管理交渉 米・ソ軍縮の流 ・大気圏内外水中核実験停止条約調印(63)…米・英・ソが参加 れ ・核不拡散条約調印(68)…米・英・ソら 62 カ国が参加 既保有国 5 カ国に保有を限定し,技術移転などを禁止したもの ソ連は ICBM を増やし,米国は精度を高めた→相互確証破壊(MAD)の状況 ↓ 軍備の段階的な縮小を目指す,軍備管理交渉に利害を見出す。 ・第1次戦略兵器制限交渉(第1次 SALT)開始(69~)ニクソン訪ソ ・核兵器の現状凍結協定,ABM 条約締結(72) ・核戦争防止協定締結(73) ブレジネフ訪米 ・第 2 次戦略兵器制限交渉(第 2 次 SALT)開始(79) カーター・ブレジネフ間 ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカ上院は批准せず。また,NATO も中距離核戦力 (INF)を行う→第二次冷戦(新冷戦) ・戦略兵器削減交渉(START)開始(82~) 中距離核戦力(INF)全廃条約調印(87) START 調印(91) 核兵器の半減について合意 →米・ソ冷戦の終結 ヨーロッパの緊張緩和 ヨーロッパに A) 西ドイツ ブラント政権(69 成立) おける緊張緩 ・ 「東方政策」の推進 和の影響 自らが懸け橋となって緊張緩和に寄与しなければいけないという平和構想に立脚し,社 会主義国との関係改善を図る。 武力不行使条約締結(70)…西ドイツとソ連間で戦後の国境不可侵を確認 国交正常化条約締結…ポーランドとの戦後国境を承認,他の東欧諸国とも外交正常化を 進める。 ベルリンの現状維持協定締結(72)…米・英・仏・ソ連による 西ベルリン市民の東ベルリンへの訪問可,西独と西ベルリン間の通行自由 ・以上の成果により,東・西両ドイツ間で基本条約…相互承認(72 年末),両ドイツの国際 連合加盟(73),さらに,ブルガリア,ハンガリーとの国交も回復 国民からの支持も高かった。 B) このような緊張緩和を条件にようやくブレジネフ書記長が提案(66)した全欧安全保障 協力会議(CSCE)を受け入れることができた。 ↓東西間の交渉継続 ヘルシンキ宣言(75)…主権尊重,武力不行使,科学・人間交流の協力をうたう 参加国:アルバニアを除く全欧州諸国,アメリカ・カナダ ユーロコミュニズムと南欧諸国の民主化 ユーロコミュ A) 70 年代半ば イタリア,スペインなどの南欧の共産党に現れた潮流 ニズム 複数政党を認めて議会制民主主義の中で進歩勢力と連帯しようとする動きがでてきた。 B) ソ連のアフガン侵攻への対応でフランス,イタリア,スペインの各共産党の足並み乱れ る。 →80 年代には影響力失う…各国での社会党政権の成立と規を一にしている。 南ヨーロッパ A) ポルトガル の軍事政権・ ・軍事独裁政権(1926~) 戦後も内外で圧制…「最後の植民地帝国」と批判 独裁体制の消 植民地での解放勢力攻勢→独裁体制の危機 滅 軍事クーデタ発生(74)…独裁体制崩壊 新政府樹立 アンゴラ・モザンビーク・ギニアの独立承認,国内の民主化進行 B) スペイン…フランコ死去(75) フアン・カルロス1世の即位 新憲法制定(78)…民主的君主制へ移行 ゴンザレス政権(82)EC 加盟(86) C) ギリシア…戦後,王政に戻るが軍事クーデタ(67)で倒れる→軍事政権崩壊(74)→民主制 に復帰(75) パパンドレウ(左翼,反米だが) NATO,EC に加盟(81) 70 年代…南ヨーロッパの軍事政権や独裁体制が消滅 →議会制民主主義が東欧を除くヨーロッパにおける共通の前提になってくる 70 年代のアメリカ合衆国 多極化時代の A) ニクソン大統領(69~74) 政権 ・イデオロギー外交から現実主義外交へ…キッシンジャーの勢力均衡策 ・中ソ対立を利用して米中接近→ソ連にデタント交渉につかせよう。 ・日本,西欧には経済力に見合うバードンシェアリング要求 →秘密主義外交という批判,二度のオイル・ショック,ウォーターゲート事件→国民の不 信が高まり辞任(74) 60 年代からの混乱で合衆国のイメージ悪化 B) フォード大統領 C) カーター大統領(77~81) 政治不信の解消や国民の自信回復などめざし,アメリカ民主主義の原則を訴える。 また,外交では権力政治的なキッシンジャー外交からの転換を図る。 世界不況からの脱出のため,日独に「機関車」の役割をたのむ。 ソ連に対し「人権外交」をとなえ,高圧的なソ連の体制を批判する形で世界世論の同調 を求めた…アフガニスタン侵攻で破綻 米中国交正常化 東アジアの緊 A) アメリカの財政上の要請が大きく関わる 張緩和 ニクソン・ドクトリン…直接的軍事介入をやめ,核の傘の下,同盟国の自力防衛にゆだ ねる(ヴェトナム戦争のヴェトナム化) 米中接近…中ソ対立を利用し,中国を味方にしてソ連をけん制する意図(勢力均衡政策) キッシンジャー大統領補佐官の北京訪問(71) →ニクソン訪中(72)…毛沢東と会談,中華人民共和国を中国と認定 日本へ沖縄返還(72)…日本の防衛範囲の拡大を意味。 有事の核持込の黙認という密約と取引関係があった。 B) 影響 ドル・ショック,ニクソン・ドクトリンを合わせて二つの意味でニクソン・ショックとい われた。 日中国交正常化(72)…田中首相の北京訪問,台湾との関係断絶 →日中平和友好条約締結(78) 国連総会 中華人民共和国に中国代表権を認める→台湾の国民党政府の追放 経済大国日本 高度経済成長 A) 1955~70 年代初め ・GNP 年平均成長率 10%を持続(資本主義国中 第 2 位) 要因 内的:積極財政,消費の増大,高い貯蓄率 外的:円安ドル高,低い石油価格 一方で,公害が深刻化。 B) 第一次石油危機の後には成長経済に対応した経済,社会構造への反省が生まれる 保守政権の継 A) 中曽根内閣(82~87) 続と迷走 「新自由主義」の潮流にのり国営企業の民営化→NTT や JR,JT,行政改革行う。 レーガンと協調し,日米安全保障関係を強化 →日本列島「不沈空母」発言,防衛費 GNP 比 1%を越える。 B) 竹下内閣(88~ 消費税導入,リクルート事件で退陣 C) 宇野~海部~宮沢内閣 バブル経済の崩壊以後,国内経済は低迷→「失われた 10 年」が始まる。 冷戦の終焉と同時に起こった湾岸戦争への協力要請で安全保障政策のあり方をめぐって 迷走→「国際貢献」の大合唱 日米協力をこえて,自衛隊海外派遣の道が開かる。 ・1993~ 細川~羽田内閣(連立内閣)…55 年体制崩れる ・1995~ 村山内閣,橋本内閣(自社連立) ・1999~ 小渕内閣 森喜朗内閣, ・2001~ 小泉内閣(郵政事業民営化が進んだほか,自由競争の論理を徹底) ・2006~ 安倍内閣,福田内閣,麻生内閣(一年ごとに変わる短命自公政権) ・2009.9~鳩山由紀夫内閣(民主党) ・2010.6~管直人内閣(民主党) 8 月末の選挙で圧勝(308 議席),社民党,国民新党との連立内閣 国際経済秩序の変化 国際経済体制 A) 国際経済体制の転換 と戦後政治の アメリカの金準備を上回るほどのドルの過剰な支出→ドルへの信頼失墜 ゆき詰まり ヴェトナム戦争の戦費,社会政策費の増大,日本・ヨーロッパの先進工業国の躍進→イ ンフレ,米国製品の値上がりで国際競争力低下 アメリカ 貿易収支が赤字に転落(71) ↓ ニクソン・ショック ニクソン大統領の新経済政策が世界に激震 金・ドル交換停止,10%の輸入課徴金導入を発表(71)→世界に衝撃(ドル・ショック) ブレトン・ウッズ国際経済体制の崩壊…ドルを基軸通貨とし,アメリカ1国が世 界経済を支えた経済体制が崩壊→世界経済は合衆国・西ヨーロッパ・日本の三極 構造へ…アメリカの派遣が経済面でも動揺 B) 二度のオイル・ショック(石油危機)…戦後の国際経済体制,とくに先進国経済のあり 方に限界をつきつけた。 第4次中東戦争(73~74)→アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略発動 イスラエルを支援する国家に対する原油輸出停止や制限の処置 石油輸出国機構(OPEC)による原油価格大幅引き上げ(~74.1 原油価格 4 倍に) →石油メジャーに依存する先進工業国経済に大打撃…第1次石油危機 インフレ,不況と失業が並存するスタグフレーション イラン・イスラーム革命(79)…イラン産石油輸出停止…第 2 次石油危機 (~81 原油価格 3 倍) C) ドル・ショックとオイルショック(石油危機)→先進国の好景気に終止符 西ヨーロッパ諸国・アメリカの経済成長減速…日本はまもなく立ち直る 省エネ,代替エネルギー開発などの模索が本格化 サミットの開 ・ジスカール・デスタン(仏)の提唱 催 ・西側経済の懸案事項…相互に共通する問題や1国では対抗できない問題が登場 ドル・ショック→変動相場制への移行(73),オイル・ショック,経済成長鈍化, 多国籍企業の問題,環境汚染など,相互依存関係にある世界経済を認識 →先進国首脳会議(サミット)の開催(75 年以降) 石油危機後の欧米 80 年代以降の A) 西側経済は不況と失業に苦しみ,財政赤字拡大 政治潮流 B) 従来の「大きな政府」への批判が高まり,市場機構の役割を高く評価して,自由競争 による資本主義の効率性を重視し, 「小さな政府」を唱える保守政権が登場 これらの政府は,外交においては対ソ強硬路線に転じる。 ヨーロッパ ・80 年代 サッチャー保守党政権(イギリス),コール連立政権(西ドイツ)…国営事業の民営化,自由 化路線の推進,福祉社会の軌道修正をすすめる ・90 年代 労働党政権の復帰(イギリス),社会民主党の勝利(西ドイツ,98 年の選挙), フランス・イタリアでの中道左派系政権の誕生→社会民主主義的方向が優位になる アメリカ A) レーガン大統領(1981~) 「強いアメリカ」 ,ソ連を「悪の帝国」と名指し SDI 構想(スターウォーズ計画)をかかげて軍拡 第三世界の反米ナショナリズムをおさえる強硬策 ニカラグア,アフガニスタン,グレナダ,リビアに介入 内政:福祉予算削減,企業減税,規制緩和 ↓ 双子の赤字 軍事支出の突出→財政赤字の膨張 ドル高→資本の注入,輸入増加,国際競争力低下による輸出低迷→膨大な貿易赤字 →債務国に転落 イギリス A) 労働党政権下(1974~) 経済成長の低迷,10%以上のインフレ,実質的な低賃金,公共部門の労働者のストライ キ…高福祉が「イギリス病」を生んだといわれた。 B) サッチャー内閣…保守党(1979~90) 民営化,社会政策費の削減,所得税減税で経済の活性化を図る 外交面,アメリカとともに対ソ強硬路線 フォークランド紛争で勝利(82)…国威発揚で圧倒的支持確保 89~ 新住民税(人頭税)導入,公共サービスの低下→支持低下 ・メージャー内閣(90~97) ・ブレア内閣(労働党)(97~) ・ブラウン内閣(労働党) フランス A) ジスカール・デスタン大統領(1974~) 議会に支持基盤が弱く,自由化政策は達成できず しかし,シュミット(西ドイツ)と協力し,仏独を軸とするヨーロッパ統合をすすめた。 B) ミッテラン大統領(1981~)…社会党出身者として初 議会では保守系が力を強めるが,国有企業の民営化をすすめ,社会民主主義の中道路線 をとり,長期政権維持 ・シラク大統領(1996~2007) 保守系 ・サルコジ大統領(2007~) A) シュミット内閣(1974~) 石油危機後の困難な情勢に果断な処置 B) コール中道右派連立政権(1982~) キリスト教民主同盟 社会福祉を縮小して保守回帰 東側との融和外交は続けられ,90 年 10 月のドイツ再統一に適した環境を醸成 西ドイツ ヨーロッパの ・70 年代前半,拡大 EC…イギリスなどの加盟を承認 統合 ・80 年代,ギリシア・スペインなども加盟→巨大な統一市場へ発展 ・マーストリヒト条約調印(92)…ヨーロッパ連合(EU)の成立→東欧・東南欧・地中海諸国 など 10 カ国加盟(2004)→アメリカと肩をならべる大連合体へ発展 2 社会主義世界の解体と変容 冷戦の終焉 ソ連の消滅 ソ連の停滞 A) 70 年代以降,ソ連の全般的停滞傾向が顕著となる 石油危機後の石油価格の高騰を利用し,安易な外貨獲得に乗り出したため,西側がとるハ イテク化への道に遅れをとった。また,第三世界への勢力を広げるため,軍需産業に依存し た経済構造が固まっていった。 ↓ 経済成長の鈍化,農業生産の不調→原油や金の輸出と大量の小麦や飼料の輸入 先端電子産業部門における立ち遅れ→環境汚染の広がり 硬直した共産党一党支配→若い人材が登用されず 反体制派文化人の国外追放→文化面の沈滞 B) ソ連のアフガニスタン侵攻(79) アミン政権を倒し,カルマル政権を支援のため 国際世論の非難,合衆国との関係緊張 イスラーム教徒の反政府ゲリラの抵抗→解決のめど立たず ペ レ ス ト ロ C) 政策の転換へ イカ(改革)の ブレジネフ死去(82),さらに相次ぐ後継書記長の死去 実施 ゴルバチョフ書記長就任(85.3) 情報公開(グラスノスチ):言論自由を打ち出す チェルノブイリ原子力発電所の事故(86.4) 管理体制や情報提供の欠陥が明らかになる→改革の必要性 政治・社会…ソ連の政治・社会全体の全面的見直しに着手 ・ソ連型人民民主主義を修正(88) 複数候補者制選挙にもとづく連邦人民代議員大会・連邦最高会議制を実行(89) →大統領制の導入(90):ゴルバチョフ大統領就任 ・経済…中央指令型計画経済から市場経済へ移行 ・スターリン体制下の犠牲者に対し名誉回復の措置実施 ・外交…「新思考外交」の提唱 世界の多極化を認めて,多様に交流すること。さらに,共通の安全保障のため従来の核抑 止論を否定 新ベオグラード宣言(88.3)…各国独自の社会主義体制を尊重。ソ連の指導権否定 「ヨーロッパの共通の家」構想(89) レーガン・ブッシュ両大統領との協力関係構築…軍縮の進展,をめざす アフガニスタンからの撤兵を表明(89)→撤退(89) 北京訪問(89) 鄧小平と会談→中ソ対立を終了 マルタ会談(89.12)…冷戦からの脱却 戦略兵器削減交渉(START)に調印(91.7)→追加条約である STARTⅡ締結(93.1) ソ連の崩壊 ・内外の急速な改革→バルト3国などソ連国内の民族独立運動を惹起 ・保守派のクーデタ失敗(91.8)…ウクライナ・アゼルバイジャンなどほとんどの共和国が離脱 を宣言→ソ連共産党の解散→独立国家共同体の結成(91.12) エリツィンを大統領のロシア連邦が中心,ウクライナ・ベラルーシなど 11 の共和国から構 成される→ソ連の解体→ゴルバチョフの辞任 そ の 後 の ロ ・各共和国が自立傾向を強める→ロシアの石油や天然ガスに依存する多くの国の存在→独立 シア 国家共同体の将来…不透明 ・エリツィン大統領再選(96) 市場経済への移行に遅れる→政治の不安定→多くの問題が未解決(チェチェン紛争など)の まま辞任(99 年末) ・プーチン大統領(2000~08) ・メドヴェージェフ大統領(2008~) 東欧社会主義圏の崩壊 ポーランド ・食品値上げに抗議するストライキ運動拡大(80) 自主管理労組「連帯」の結成…指導者:ワレサ →政府に改革要求→社会主義体制の閉塞状況を示す運動 「連帯」復活,政治参加を模索(89.2~)→6月選挙に圧勝 憲法改正,ポーランド共和国に改称(89.12) ワレサ大統領(90) ドイツ統一 ・ソ連の改革進行→東欧社会主義国の民衆が一斉に決起 ↓東ドイツからの脱出者急増 東ドイツ ホネカー書記長退陣(89.10) ベルリンの壁の開放(89.11)→東西ドイツ間の自由な往来実現 東ドイツで自由選挙実施(90.3) 連合党派の勝利…早期統一を求める 統一ドイツの実現(90.10)…米・英・フランス・ソ連の同意 そ の 他 の 東 A) ハンガリー・ポーランド・ブルガリア・チェコスロヴァキア 欧諸国 無血革命に成功→自由選挙による議会制民主主義・市場経済に移行 チェコとスロヴァキアに分離(93) B) ルーマニア…チャウシェスクの独裁体制に対し反体制運動(89 年 12 月) →チャウシェスク夫妻の処刑 C) ユーゴスラヴィア…ティトーの死後,集団指導体制下 民族的・宗教的対立→解体に向かう クロアティア・スロヴェニアの分離(91.6)…経済主権を求めて セルビアの連邦政府はこれを認めず内戦状態へ 以後,他地域も独立を宣言し,ユーゴスラビア解体(92) 内戦の終了は 95 年 セルビア,モンテネグロ,マケドニア,スロヴェニア,ボスニア,クロアチアが独立国に ・東欧圏の共産党…解散または社会民主主義政党へ改編 ・コメコン・ワルシャワ条約機構の解消(91)→東欧社会主義圏の消滅 中国…文革の終焉 文化大革命の激動が続く中,権力闘争も新局面へ。 毛沢東 軍に対する党の優位を主張し林彪と対立 林彪はソ連との内通を企図したとされ失脚(71) この事件後,鄧小平らが復活,周恩来は彼らと協力して秩序回復と経済再建にあたる ↓ 江青らは毛沢東の威信を背景に,批林批孔運動(ねらいは周恩来排斥) ↓ 周恩来死去(76.1) その後,天安門事件。 毛沢東死去(76.9) 華国鋒首相就任(76) 毛沢東の後継にもかかわらず文化大革命推進派(江青ら「四人組」)の逮捕した(クーデタ) 党主席を兼任,文化大革命の終了を宣言(77) 「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)を推進 文化大革命の犠牲者の名誉回復 中国のたちおくれの克服をめざす 70 年代以後の南アジアとアジアニーズ 韓国 台湾 ・70 年代のデタントの影響で,南北政府間交渉進められる 南北共同声明(72)…統一の原則を定めたもの A) 朴政権…統一論議をおさえるため,強権支配を強化する「維新体制(第 4 共和制)発足 輸出工業の育成,反政府活動の厳しい取り締まり→側近により暗殺(79) ・光州での反政府民主化運動が高じると軍部が弾圧(光州事件) B) 全斗煥・盧泰愚らの軍人出身大統領が続く ソ連・中国との国交回復 南北ともに国際連合加盟(91) 金泳三大統領(92~)…32 年ぶりの非軍人大統領 光州事件の調査→前大統領の処罰→文民政治の定着を試みる 金大中大統領(97~), 盧武鉉大統領(2002~), 李明博大統領(2008~) ・輸出産業の成長,経済力の増大 戒厳令下の国民党の一党支配が継続していたが,戒厳令解除(87) →李登輝,総統に就任(88) 民主化の推進 2000 年の総統選挙→陳水扁が当選…非国民党政権 馬英九(2008~) 国民党政権復活 タイ ・学生革命(73)→タノム軍事政権崩壊 しかし,その後も軍部クーデタ頻発 経済は発展し,都市中産層を中心とする反政府運動により民主主義政権樹立(92) フィリピン A) マルコス大統領政権(65 年以来)…戒厳令(72~81)で大統領一人支配 改革は試みられたが,門閥支配のもとで不正が横行→85 年選挙の不正を抗議する民衆運動 の高揚→マルコスの追放(86.2) B) 以後,民主選挙による政権が継続 コラソン・アキノ政権(86~) ラモス大統領(92~) エストラダ大統領(98~) アロヨ大統領(2001~) ミャンマー ネ・ウィン政権(62~81) 社会主義を掲げる事実上の軍事政権 ↓民主化運動で打倒されるが,その直後に ソウ・マウン 民主化を弾圧 アウン・サン・スー・チーを逮捕,拘禁。国名をミャンマーに(89~) 国際的非難をあびるもこの軍事政権による実権掌握は続く インドネシ ・スハルト政権の継続→経済不振→民衆の反対運動高揚→スハルト大統領退陣(98) ア インド ・1960 年代,中印紛争やカシミール問題で国際的地位を低下。 ネルーの指導力も低下 A) インディラ・ガンジー首相(66~) 国民会議派が主流を形成 古参の指導者を追放し,直接国民に訴えかける政治体制をとる。 70 年代の経済危機に起因する反政府活動を弾圧,強権的性格を見せていく バングラデシュの独立を支援し,第 3 次印パ戦争(71) 80 年代再登板 パンジャーブ,南インドの民族主義を弾圧したために暗殺(84) B) ラジブ・ガンディー(84~) 反国民会議派政権 北インドの後進カーストに優遇策 ガンディー 総選挙途中に暗殺(91)…国民会議派が政権奪還 C) 90 年代は伝統回帰を唱える政党が有力となり,インド統一のあり方に一石を投じる状況 を生んでいる。 ・インドの核実験に対抗してパキスタンも核実験(98) スリランカ ・尐数派タミル人の民族暴動…多数派のシンハラ人への反発から アジア社会主義圏の混迷 モンゴル ・モンゴル人民共和国…社会主義圏に属していた。 ・ソ連解体の影響で自由選挙の実行(90)→社会主義体制から離脱(92)し,モンゴル国へ改称 ヴェトナ ・中国,アメリカに対抗するためソ連との提携(ソ越友好条約,コメコン加盟) ム 南部の社会主義化をめぐる混乱,カンボジアの革命勢力を支援するため介入 経済活動の停滞→ヴェトナム難民の発生…国際問題化 →「ドイモイ(刷新)」政策の推進…ゆるやかな市場開放に向かう 原油生産が軌道に乗り,経済状況の好転 カンボジアから撤退(89),中国と国交正常化(91) カンボジ 民主カンプチア(指導者はポル・ポト) ア 閉鎖的共産主義社会の建設強行,反対派の大量処刑 中国 ポル・ポト派を支援(ソ連に対抗していたため,ヴェトナムム牽制が目的) ヴェトナム 反ポル・ポト派を支援してヴェトナム軍が介入(78 年末) カンボジア人民共和国の樹立…首班:ヘン・サムリン →中国は「ヴェトナムをこらしめる」としてヴェトナム北西部で軍事行動(中越戦争) ・ヴェトナム軍撤退(89) 両派による和平協定調印(91) ・総選挙実施→憲法制定議会の成立(93) 新憲法採択→カンボジア王国樹立 シハヌークが国王 →ポル・ポト死去(98)→ポル・ポト派の壊滅→内戦終結 中国 ・新指導部の成立(81)…鄧小平の指導の下 胡耀邦党主席(81~82),李先念 国家主席(83) 一連の経済改革(社会主義市場経済)の実行 人民公社の解体,農民の自主性を尊重する制度を導入, 外国資本・技術導入による開放経済,国営企業の独立採算化など 趙紫陽首相(80~87) 経済改革に正当性を与えるも,政治体制変革には消極的 周辺諸国との関係改善,急激な改革→社会問題の増加 民主化なき経済改革に不満 ↓ ・天安門事件(89)…民主化を要求する学生・労働者を政府が武力で弾圧 運動に対し柔軟だった趙紫陽総書記が解任される 楊尚昆国家主席(88~93),江沢民総書記(89~ 国家主席兼 93~),李鵬首相(88~99) 国際的な非難を浴び,海外からの資金調達が凍結されるなど打撃を受けるが,92 年には開放 政策と共産党支配を両立させる社会主義市場経済の概念が採用された。 江沢民(89~2002)経済改革・開放政策の継続 ASEAN 諸国との関係正常化(90 以降) 韓国と国交締結(92),イギリスから香港が返還される(97) 鄧小平死去(97)…江沢民,最高指導者となる 胡錦濤総書記(2002) 中国経済の驚異的成長→高層建築の急増→先進地域と同じ現代的特徴 北京オリンピック開催(2008) 北朝鮮 3 ・金日成に党と人民が一体化する体制を強化 冷戦の終焉後,孤立深める。打開策として,日本との国交交渉開始(90.9),アメリカとの接触 し,経済特区を設けるなど始めた。 南北同時に国連加盟(91.5) 金日成死去(94)→金正日政権へ 核開発をすすめ,瀬戸際外交を演じている。 第三世界の多元化と地域紛争 南北問題の重層化 南北問題とい A) 1950 年代,先進工業国と発展途上国(南半球に集中)間における経済格差の拡大,それ う認識 にともなう諸問題が認識される。 ・当初の解決策と引き起こした現象 →伝統的社会の遺制,教育の遅れなどに求め開発援助を推進。しかし,当事国内部の 貧富の差,深刻な環境破壊を生んだ。 ・改められた解決策 南北間に存在する国際経済秩序に低開発の原因が求められた…従属関係の固定 先進工業国(北半球)への鉱物資源・動植物素材の供給国の地位となっていることが南北 格差の拡大の原因とされ,北の発展と南の貧困は表裏一体という認識へ変化 B) 発展途上国の動き…国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立(64) ・発展途上国 71 カ国が参加。先進国が指導する GATT に対抗し,南北間の経済問題 について話し合いをもつ。一次産品価格の安定,先進国からの GNP1%援助など求め るが十分な成果なし 第三世界の多 A) 70 年代…石油危機と資源ナショナリズム 様化 国連資源特別総会「新国際経済秩序宣言」…工業国中心の経済秩序の変革を志向 地球規模で人口,環境,資源などが考えられるようになった時期。 B) 80 年代…第二次石油危機後,先進国に自由主義的な市場経済の復活が進む→南北の対 話が停滞 南南問題 浮上 の 発展途上国間の経済格差が拡大し,南北問題が複雑化 ・70 年代 多くの産油国…石油危機以後の原油高騰で高所得国に上昇 新興工業経済地域(NIES)…韓国・台湾・香港・シンガポール・ブラジルなど 東南アジア諸国連合(ASEAN)の加盟国→70~80 年代,高い経済成長率を示す 加工業や中継貿易の育成に成功→中所得の国や地域へ ・80 年代 他地域での石油増産により OPEC も低迷。一部の新興工業国,多額の対外債務 →一時の勢いを失うが基本的動向に変化なし 後発発展途上国(LDC)といわれる中米・アフリカの低所得国では,人口の爆発的増大, 首都への人口集中,内戦や自然災害による農業不振→難民の増加→解決の道筋なし・ 経済面…多様に分化 ・90 年代 冷戦体制の枠が消滅すると,民主化が促進され政治的自由行動の余地が広がり,武力 紛争や内戦が増加 中東紛争とイスラーム世界の混迷 中東戦争とア A) 1960 年代,アラブ諸国に社会主義の傾向強まる←エジプトのナセル政権の影響 ラブの分裂 ↓警戒するイスラエルとの間に緊張高まる 第 3 次中東戦争(67) イスラエルがアラブ諸国の対イスラエル統一戦線に先制攻撃(六日間戦争) イスラエルの占領地が拡大 シナイ半島,ガザ地区(エジプトから),ゴラン高原(シリアから),ヨルダン川西岸,イ ェルサレム旧市街(ヨルダンから) 占領 →アラブ諸国とイスラエルの対立激化,エジプトのナセル大統領の威信が低下 B) サウジアラビアなど親西欧穏健派が台頭…OAPEC(1968)結成 C) アラブ民族主義も低調になり,パレスチナ問題がパレスチナ人独自の問題として扱わ れるようになる→1868 PLO にアラファト議長,武装闘争へ。三宗教が並存するパ レスチナ社会の実現をかかげる。 D) パレスチナ問題解決が中東和平とアラブ問題解決の前提条件であることが国際的に受 け入れられるようになる。 中東和平の発 A) エジプトのナセル急死(70)→サダト大統領へ 展と停滞 第 4 次中東戦争(73) シリアとともにシナイ半島とゴラン高原でイスラエルを攻撃 苦戦するも,OAPEC の石油戦略で政治的に勝利 ↓ ・サダトの政治的基盤強化 左派を排除し,軍とテクノクラートに依存する体制へ 経済的には開放政策をとり,発展のために外交面ではアメリカに接近 イスラエルと和解に転じる イェルサレム訪問(77),ベギン首相との間でキャンプ・デービッド合意 エジプト・イスラエル平和条約締結(79) ↓イスラーム原理主義者の怒りを買い,アラブ諸国からは断交 サダト大統領 暗殺(81) B) ムバラク大統領 政策を継承し,シナイ半島返還を実現 対ソ,対アラブ関係改善に動き,アラブ連盟に再加盟(89) C) イスラエルが占領地併合姿勢を示す→パレスチナ解放機構とアラブ人の抵抗 ラビン(イスラエル)とアラファト(パレスチナ解放機構)の話し合い →相互承認→パレスチナ人の暫定自治樹立の合意(93) しかしラビン暗殺で武力対決にもどる その他のイス A) イラン ラーム諸国の パフレヴィー2世の上からの近代化路線=アメリカとの結びつき強める 動向 宗教的反対者の弾圧,農村に打撃,富の偏在 ↓抗議行動拡大(78) 国王亡命(79.1),ホメイニ師の帰国 イラン・イスラーム共和国の成立(79.1)…イラン革命 国家原理にイスラームを掲げ,欧米諸国との対決姿勢 B) イラク ・バース党の権力掌握(68 以来)…アラブの統一と社会主義を標榜 イスラーム教を国教とする人民民主主義国家の建設進む ・サダム・フセイン大統領就任(79~2003) イラン・イラク戦争勃発(80~88)…イラン革命の影響を懸念し,不安定な状況に乗じ, 湾岸地域の覇権をねらったとされる。西側諸国の武器供与で長期化。 クウェート侵攻,占領(90.8)→湾岸戦争:(91.1~2 月) 米国を中心とする多国籍軍がイラク軍を撃退。 アラブ諸国はこの際もイラク側,アメリカ側に分裂してしまう。 有力な産油地帯の紛争→世界経済に不安 C) アフガニスタン タリバン政権誕生(96)…厳格なイスラーム原理主義をとり,西欧文明や異教文化を否定 (バーミヤン石窟の破壊など)→アメリカと敵対 アメリカで同時多発テロ事件発生(2001.9.11)すると,アメリカはタリバン政権が支援す るアル・カーイダ(反米組織)が実行者であるとして,アフガニスタンへの軍事行動を開 始 タリバン政権は追放され,暫定政権が成立…カルザイ大統領就任(2004~) D) イラクへの武力発動 アメリカ・イギリスによるフセイン政権への武力発動(2003) 米・英を中心とする占領統治,自衛隊の派遣,暫定政権への主権委譲 →反対運動の継続→世界経済への不安定要因 ラテンアメリカ諸国の変革と苦悩 ・第三世界の新傾向 発展途上国…開発独裁や軍事政権,長期政権の存在→80 年代,数を減らす→複数政党制や民主化の進展 ・ラテンアメリカ諸国の軍事政権 キューバ革命後,一部では武装闘争が激化 60~70 年代,この動きを抑圧して治安を確立しようとする軍事政権,官僚主導の権威主義体制が登場。 ペルー ・革新的な軍事政権が誕生 ベラスコ政権(68~80) 企業の国有化や外資の制限,自立的な経済発展をめざすが,石油危機で停滞 チリ アルゼンチン ニカラグア A) アジェンデ社会主義政権(70) 60 年代の停滞を反省に国民生活の向上を目指した政策を実施,アメリカ系鉱山の国有化 なども行うが,内部分裂や中産層の離反にあう ↓アメリカの経済干渉で混乱,クーデタで崩壊(73) B) ピノチェト軍事政権の樹立 国有企業の民営化など自由主義改革を行うが経済は停滞 国民投票に敗北(88)→政権崩壊 ・軍事政権,フォークランド戦争(82)に敗北→民政に移行 ・ソモサ長期独裁政権←サンディニスタ民族解放戦線(左翼ゲリラ)が打倒(79) サンディニスタ政権…アメリカの干渉により反革命武装勢力コントラとの内戦へ →選挙の実施→中道政権成立(90) その他のアメ ・グレナダ(83)に侵攻し親米政権を樹立 リカの干渉 ・エルサルバドル政府を支援し,左翼勢力を抑える。 ・パナマ侵攻(89) ノリエガ将軍を捕え,パナマ運河地帯の利権を維持 アフリカの人種・民族対立 南アフリカ共 A) 英連邦からの離脱,独立(61~) 和国 アパルトヘイト政策の継続…多数派である黒人を極端に差別 ↓アフリカ民族会議(ANC),アフリカ統一機構(OAU)の抗議 国際連合の経済制裁 孤立するも,希尐金属などの鉱物資源に恵まれる同国に先進国の批判は消極的だった。 B) デクラーク政府,アパルトヘイトを全面的に見直し(80 年代) ナミビアやジンバブエの独立などの情勢を背景に マンデラの釈放(90 28 年ぶり),新生南ア宣言,差別諸法の全廃(91) 平等選挙権の承認(94) 選挙の実施→アフリカ民族会議が過半数を制する→マンデラ大統領の当選 ジンバブエ ・ローデシアがイギリスから一方的に独立(65) 解放運動の武装闘争,国際世論の批判→黒人多数支配を受け入れる →国名をジンバブエと改称(80)…黒人主体の国家 エチオピア ・軍部のクーデタ(74)…ハイレ・セラシエ皇帝追放 アフリカ初のマルクス・レーニン主義型の社会主義政権 北西部のエリトリア独立要求やソマリアとの紛争→国防支出増大 80 年代 深刻な干ばつと飢餓→社会主義政権崩壊(91) 冷戦以後のア 独立後のアフリカでは,開発と国家建設のために社会主義を取る傾向が強かったが,冷 フリカ 戦の終焉とともに,一党独裁体制が次々と崩れていった。 民主化要求が強まり,深刻な経済危機を克服するため西側資本との提携を深め,統制経 済を緩和する傾向が現れている。 ★
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