宇宙で最初の人間

2、神とは
2-1 聖書の神は天地創造の神
2-2 神をどうして知るのか
2-3 聖書の神と日本人の神
2-4 聖書の神は三位一体の神
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2-1 聖書の神は天地創造の神
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)聖書はその第1ペ-ジ・冒頭最初の言葉
でこう述べています。聖書はその第一歩で、聖書のすべてを言い尽くしているとも言えます。
神が存在すること、その神が天地万物を創造したことを宣言しています。
「天と地」は宇宙ということになりますが、世界の全て、これは太陽系や星を含む物質的な全
宇宙をさします。聖書の神はその初めから宇宙の創造主として描かれています。
まず、聖書は神が存在することを、なにも説明なしに、証明もなしに宣言しています。つまり、
聖書の神は、巷の神々とは異なって、一切の説明も証明の必要を認めないのです。いわば、
自信満々なのです。理屈や哲学的な根拠が不要なのです。なぜなら、天地万物、これには当
然人間も入りますが、造られた人間に、造った製作者の意思や考えその存在のすべてがわ
かりようもないからです。
また、天地万物が偶然にできたものでないこともわかります。制作者はつくる前にかならず
目的があるからです。しかし、創造の目的がなんであるか、その全部がわからなくとも、つくら
れたもののなかに、人間があることだけはたしかで、われわれは偶然の産物でないこともわ
かります。天地は、偶然でなく、神がある目的をもってつくられ、われわれは、そのなかにいる
のです。聖書学者の間では、「知的な設計者」という呼び方をすることもありますが、宇宙は無
限ではなく、始まりがあり、その始まりは偶然ではなく、創造主によって始められたというのが
聖書の主張です。
創造と言うかぎり、何もないところ、つまり、無から、天地を造られたことも宣言しています。
人間はいまあるもののなかからしか物をつくることもできません。どんな、発明やアイデアもす
でに存在する何かも前提にし、それを加工しています。人間には無から有を造りだすことがで
きないのです。人間の創造と神の創造は根本的にちがうのです。
ここで、「神」という呼称(呼び名とでもいいますか)ですが、いわゆる、日本人が普通、神と
いう場合は普通名詞(もちろん捉え方は各人各様ばらばらですが)、どこどこの神社で祭られ
ている場合は、その神社の固有名詞、例えば、伊勢神宮でしたら「アマテラスおおみかみ」い
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う具合ですが、聖書の神の固有名詞、すなわち聖書の神の名前は、どうなっているのでしょう
か。モ-セと言う人が、神に出くわす場面が、旧約聖書の出エジプト記の3章13節14節にあ
りますが、モ-セは「あなたのお名前はなんですか」と問いますが、神は「わたしは、『わたし
はある』と言う者である」と答えています。文語訳では、「我は有りて在る者なり」と訳されてい
ます。これは、固有名詞で、何々と呼ばれることを要求されていなとも取れます。むしろ、「あ
る」の意味のなかに、過去、現在、未来を含んだ現実の存在する者ということがあるのではな
いでしょうか。
しかし、旧約聖書には、神はいろいろの名称で呼ばれてもいます。その代表は「ヤーウエ」
「ヤハウエ-」で、これは文語体では「エホバ」とも訳されています。ではこの名称が使われて
いるのでしょか。旧約聖書時代に、神に対する恐れ、畏敬の念から、この名前は使われなくな
りました。これに代わり「主」(読み方はアド-ナイ)と呼ばれるようになりました。したがって、
聖書の神は、天地万物の創造の神イコ-ル「主」を指すということになっています。後、新約
聖書には、イエスを主と呼んでいますが、これは何故なのかは、もう少しすすんでから、説明
します。
次に、神はどの様な方なのかについてですが、これはこの書全部を読まれれば分かること
なのですが、聖書の中で表現されている幾つかのものを紹介しておきましょう。詩篇という箇
所で、1、神は無限なお方です。「主は大いなる方」(詩篇145:3)2、神は不変のお方です。
「あなたは、変わることなく」(詩篇102:27)3、神は永遠なお方です。「まことに、とこしえから
とこしえまで、あなたは神です」(詩篇90:2)4、神は偏在のお方です。偏在とはどこにもおら
れるということです。「天に上ってもそこにあなたはおられ、・・よみに床を設けてもそこにあな
たはおられます」(詩篇139:8)5、神は全知のお方です。「主は星の数を数え、そのすべて
に名をつける。・・その英知は測りがたい」(詩篇147:4.5)という紹介をしています。
そのほか、神は全能のお方です。(マタイ19:26)。神は霊のお方です。(ヨハネ4:24)。神
は命のお方です。(ヨハネ5:26)。神は真実なお方です(申命記32:4)。神は聖なるお方で
す。(第1ペテロ1:16)。神は愛なるお方です。(第1ヨハネ4:8)。というように、聖書全巻をと
おして、神がどのようなお方なのかを説明しています。
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2―2 神をどうして知るの
神をどうして知るのか
まず、神の存在を前提に話が、始まりましたが、神の存在を認めない人からは、当然反
対論があるでしょう。神は目にはみえないものですから、みえないものをあるように、議
論するのは、先走りではないかと。では、聖書の神は、どうして、存在するといえるので
しょうか。
第1にすべてのものは、原因なくして存在しないということです。原因があって結果が
あります。宇宙も地球も、人間も、いやすべてのものはただ、存在するだけでは説明が尽
きません。世のなかにあるのもで、偶然にできたものはありません。難しくいうと、偶然
の存在はありえないと言うことです。たとえば、机の上にペンがあるとしましょう。その
ペンは誰かが置いたから、そこにあるといえます。勝手にぺンがそこに永遠の昔からある
とは考えられません。ペンがそこにあるという結果は誰かが置いた原因があるからです。
そこにある、存在する言えるには、それにふさわしい原因と結果が必要で、とすれば、万
物の存在という結果は、原因がある、それをつきつめれば、第1の原因は神にたどりつき
ます。
「神がお造りになったすべてのもの」(創世記1:31)と原因と結果について、
聖書は非常に簡単、明瞭に説明しています。
第2に物の制作には、制作、デザイン者が必要です。偶然に宇宙や地球が、また小さな
宇宙にたとえられる人間の存在を説明するには、これをつくられた設計者をぬきにかたる
ことはできません。時計が壊れれば、その設計者の時計屋に修繕を頼むは、作った方が一
番時計を良く知っているからでしょう。この自然界の不思議さ人間の不思議さを説明する
には、人間の知識や知恵では限界があります。すべてのものが、偶然にでき、無計画の無
秩序のものとするには、あまりには、調和がとれすぎています。聖書は「わたし(神)が
(ヨブ記38:4)とご自分が天地万物の製作者であるこ
地の基(もとい)をつくった」
とを宣言しているのは、創世記1:1とおなじです。
第3にわたしたちは、美しい自然や広大も自然にふれると、なにかそこに、不思議な存
在を感じないわけにはいきません。夜空の星星をみて感動し、美しい山々をみて快感をも
つのは、感情や気持ちの満足だけでなく、この宇宙、万物の創造者である、神の存在にふ
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れるからでないでしょうか。何人かの宇宙飛行士が地球にかえってから、聖書を広める牧
師になった話は有名ですが、あまりにも、見てきた宇宙や地球が美しかったから、またそ
れをつくったのは、神としか説明がつかないからでしょう。聖書は「神はまた、人の心に
永遠への思いを与えられた」(伝道の書3:11)と言っています。
第4に良心や道徳心の存在です。この両方は親や学校で教えられなくても、だれでもそ
のこころにある事実です。理性や道徳心が人間の心にある理由は、物質が偶然にできたと
する唯物主義の考え方からは、絶対に説明ができません。人間がうまれながら、宗教的な
存在であるのはなぜでしょうか。聖書はこれについては、「神はこのように、人をご自身
(創世記1:27)そして「律法の命じる行いが彼らの心に書か
のかたちに創造された」
(ロ-マ書2:15)からとしています。律法とは、守らねばならぬ教え、す
れている」
なわち道徳心といってよいでしょう。かれらは人間をさします。神は人間に理性や道徳心
を心にあたえたのです。もうすこし難しく、神は、人間を霊的な存在として造られたと言
えますが、神に似せて造られたと覚えておきましょう。
そのほかに、例えば、祈りによって神を知るとか、聖霊によって神を知るとか(第9章、
第13章をご覧ください)いろいろあるでしょうが、しかし、見えない神をあるというた
めには、最後には、やはり信じるかどうかが決め手となるでしょう。
神をどのようにして知るのか
1
原因と結果を考え、知る。
(万物の存在)という結果は(神)の原因から
2
天地の製作者を考え、知る。
製作者の意図なし物は存在しない
3
美しい自然にふれて、知る。
自然から永遠の思い、そして神を思う
4
良心や道徳心の存在から、知る。
人には生まれながら、宗教心がある
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2-3 聖書の神と日本人の神
つぎに、神の存在を一応みとめるか、どうかは別として、その神がどんなものか各人に
より、異なるでしょう。そこで、聖書でいう神と一般に日本人がいう神の違いについて、
見てみることにしましょう。
1、見えない神か見える神か。
「神の見えない本性」(ロ-マ1:20)とハッキリと見
聖書の神は目に見えません。
(ヨハネ4:24)ですか
えない、みえなくともよい、とされています。「神は霊です」
ら、私たちが見たり、聞いたり、触れたり出来る3次元の存在とはことなった4次元の方
ですから、見えなくて当然といえばそうなのです。しかし、私たち多くの人間の弱点でも
あることなのですが、五感をとうしてわかるものでなければ、信じられないのです。そこ
で、一応神は認める人でも、見える形をとりそれを信じようとするのです。石や金属や紙
切れや材木で神の形を作り、それを対象とするものです。それが人間の弱点なのです。
日本は特にその傾向が強く、神社仏閣もそうですが、それ以外に町々、道路にそのような、
神々があふれています。
聖書は特に、それらによってつくられた神を「偶像」とよび、絶対禁止をしています。
なぜなら、人によってつくられた偶像の神をつくることは結果として、人間を神にするこ
とに繋がるからです。人間が人間でつくった物を、拝んだり、神格化するのは、作られた
ものが、作くられた方を作るという逆転の思考と行動にほかならないからです。私たち人
間世界でも子供が自分を生んでくれた親に絶対なれないし、子供である間、いくら親をイ
メ-ジしたところで、不完全なものでしかないことをみてもわかることでしょう。聖書の
神は「みえない神のかたち」(コロサイ・1:15)とされ、あえて人間の弱点を通して
、存在されるのです。
ただ、ここで、あとで説明するイエスだけは例外であることを一言付け加えます。
イエスは神ですが、見える人間という形でこの世に来られ、我々に見える存在として、
現れました。これはイエスの箇所で触れますので、イエスだけは例外だとしてください。
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2、唯一の神か多数ある神か。
「わたしが主(
聖書の神は、他の神の存在を認めない、いや、その存在を許しません。
神)である。わたしのほかに神はいない」(イザヤ45:5)と唯一の神であると、聖書
は50回以上の箇所で宣言しています。ここも日本の神とは違います。日本は特に八百万
(やおよろず)の神々と言われていますから、際立った相違点と言えるでしょう。神々と
しているのは、神の間で神の仕事(神の業=わざといいます)の分業をしている、とかい
えません。とげが刺されば、とげ抜き地蔵、目がわるければ薬師如来、結婚は出雲の神で
、受験なら天神さんです。家のなかでも、火の神、水の神、果てはトイレの神です。仕事
の分業の打合せで、日本の神々は会議、会議の連続で忙しいことでしょう。
ある方々は、山の頂上(真理)にたどり着くには、いろいろの道がある。どの道を行っ
ても(どの宗教でも)
、頂上に着けば皆同じ、だと主張されます。しかし、聖書の神は、頂
上は、確かに一つ、真理も一つ、神も一つで、どのようなコースを取ろうと自由だが、た
どり着く神は、唯一の神である聖書の神だとする立場です。真理は人間が作ったものや、
人間の知性や理性でのみ認められるものでなく、神の真理(神そのものが真理です)を人
間が受け入れるかどうかにかかっているのだとするのです。
また、唯一の神を反対する人々は、神は寛容で、独断的でなく、他の神の存在をも許容
(申命記6:4
するはずと、言いますが、それに対しては、聖書の神は「ただ、ひとり」
)と言い切ってこそ、ほかの存在と相対して認められるような相対的な存在でなく、絶対
的な存在なのではないでしょうか。唯一といえるから、ふらふらした、あそこにもあるこ
こにもあるというような存在でなく、絶対的確実な存在と認められるのではないのです。
寛容だが、いい加減な存在でなく、独断だが、責任をもつ存在で、神の存在以外は全ての
存在を許容するといえるのではないでしょうか。したがって「わたしのほかに、ほかの神
(出エジプト20:3)と戒められるのではないでしょうか。
々があってはならない」
ここで、少し難しい表現をしますが、唯一の神と単一の神は違うということです。例え
ば、ユダヤ教やイスラム教の神はそれぞれ、自分たちの神しか認めませんが、これはその
民族ユダヤ民族、アラブ民族の民しか、存在しない、したがって、神は一つなのです。そ
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して、その民族しか、神は祝福しないのとは、異なって聖書の神は、地球のあらゆる民族、
人達の神でありながら、他の神の存在を認めないのです。
3、全知全能の神か偏知偏能の神か。
神には不可能なことはありません。できないことがもし、あれば、神の名に相応しくな
いでしょう。また何でも知っておられます。知らないことがあれば、人間やコンピ-タ-
(創世記17:1)といい、
と大差がなくなります。聖書は「わたしは全能の神である」
「神は・・なにもかもご存じ」
(第1ヨハネ3:20)と全知全能者であることをハッキ
リさせています。日本八百万の神々で、わたしは全知全能の神であると、宣言した神はあ
るでしょうか。日本の国土はつくったが、アメリカ大陸は作っていない。日本はつくった
ので日本人は分かるが、アフリカは作っていないので、そこの人々の心は分からない。
(そ
の意味では、それぞれの国の民族的宗教といっていいでしょう)太陽は作ったが、夜空の
星には関係がないでは、非常に片手落ちの存在ではないでしょうか。天地万物を創造、
見えるもの見えないものすべてを創造したかただけが、全知全能といえるのです。全部を
できない、全部を知らない神があれば、制限能力の神と呼ばざるをえませし、神と呼ばれ
る資格がないでしょう。聖書の神は「その英知は測りがたい」(詩篇147:5)のです。
4、宇宙を超越している神か自然の中にいる神か。
日本人は、自然のなかに神や霊の存在をみとめる習慣があります。太陽や木や石を拝ん
だりするのがそれです。自然だけでなく、動物のなかにも宿っているとします。宇宙その
ものが神であるとするのもそれです。難しくは汎神論とよばれる考え方ですが、聖書の
神は、なにか、漠然としたものではありません。なにかしら有り難いもの、日本人の神
にたいする共通するイ-メジですが、そんなサムシンググレ-トでなく、ハッキリとした
存在です。聖書の神は「天にも地にも、わたしは満ちている」(エレミヤ23:24)と
しますが、この天地宇宙を創造したわけですから、どこにでも存在され、どこをも支配さ
れています。宇宙の上に立つと同時に、宇宙のすべての内部にも存在するといえます。
ですから神と宇宙は同じではありません。宇宙は神がつくられました。したがって、作ら
れたものを神とすることは許されませんし、太陽や木や石などを礼拝の対象とすることは
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許されません。「主(神)の御目はどこにもあり」(箴言15:3)詩篇の作者は「私が天
に上っても、そこにあなたがおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられま
す」(詩篇139:7)と歌いました。 神は宇宙の中にいる、またわれわれの中にいると
いう考え、汎神論といいましたが、聖書の神はあくまで、「天と地」すなわち世界の全て、
全宇宙を造られたとみるのです。
5、歴史に拘束されない神か歴史に拘束されるか
歴史のことを英語で、HISTORY(ヒストリ-)と表現しますが、それはHIS(
彼=神)のSTORY(物語)からきています。ただ、聖書の神の物語は、永遠の物語で
す。神には初めもなく、終わりもありません。「わたしはアルフア-であり、オメガであ
る」(黙示録1:8)と表現されました。過去、現在、未来の時間の連続性に対して、全
く拘束されず、時間を支配しているともいえます。時間をも、創造されたからです。だか
「光よ。あれ」
(創世記1:3)と、天地の初めをつくること
ら、はじめ無の世界から、
ができたのです。詩篇の作者はここでも、「山々が生まれる前から、あなたが地と世界を
うみだす前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」
(詩篇90:2
)と歌いました。だから「永遠の神」(創世記21:33)とよぶにふさわしいのです。
日本の文学者や歴史家が作った神々のように、太古の昔はいたが今はどうしたとの、問に
答えられない存在でないのです。
また、すべての人のすぐそばにおられ、わたしたちの思いと行いをご覧になります。「
御目はどこにでもあり、悪人と善人を見張っている」(箴言15:3)今という現在の存
在です。また、未来をも支配しておられます。したがって「わたしは、終わりの事を初め
から告げ、まだなされていない事を昔から告げ」、
「わたしの望む事すべて成し遂げる」
(イザヤ46:10)と言われます。「わたしは有りて在るもの」
(出エジプト3:14
。文語訳)と過去、現在、未来の存在をこのように、難しく表現された箇所も、聖書のな
かではあるのです。神は時間を造られたのですから、時間にも制約されず、永遠の神なの
です。
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6、審判者としての神か傍観者としての神か。
聖書の神は、まったく聖(きよい)お方です。人間の場合と区別するため、清いと言う
表現はしません。汚れが全然ないからです。また、日本の神のように、地獄の沙汰も金次
第というような、薄汚れた存在でなく、
「わたしが聖である」
(第1ペテロ1:15)と
ご自身を聖なるものとされています。聖書の神は創造者として、自ら造られたもの、これ
を被造物と言いますが、その区別をはっきりされるのです。それを難しく「聖別」といい
ますが、創造者と被造物の区別が大切で、区別された世界の秩序が意味を持ち、目的があ
ることを表しているのです。
聖書も「われらの神は聖である」(詩篇99:9)とします。また、聖書の神は義のお方
です。義とは正義と同意語です。これも人間の場合と区別するため、義という表現をす
る場合が多いのですが、正義としてもおかしくありません。「わたしは・・正義の神」
(イザヤ45:21)として、罪をにくまれ、罪を裁かれます。
ここで、聖と義はコインの表と裏の関係で、一体です。「主よ。あなたは正しくあられ
(詩篇119:137)聖書はあらわします。
ます。あなたのさばきはまっすぐです。」
罪に対しては、神に対する立場でその結果は右と左のごとく、正反対になります。神を信
じ、神に罪を悔い改めた者とそうでない者です。その意味で、検察官のように、有罪をも
とめる立場だけでなく、無罪と有罪を審判する裁判官の立場にたたれるのです。いわば、
全ての人に白と黒をハッキリさせるということです。
触らぬ神に祟りなし、と日本人は神にかかわりがなげれば、災いに関係がない、という
立場をとりますが、聖書の神は、そんなことに関係なくすべての人に対して、聖であり、
義である立場をハッキリさせられます。逃げることも、曖昧にすることも、傍観者であ
「人々はおのおの自分の行
ることも関係なしです。だれものがれることはできません。
いに応じてさばかれ」(黙示録20:13)るのです。万物の支配者である聖書の神は
「真実な、正しいさばき」
(黙示録16:7)をなれるということからも、日本の神の
ように、清濁あわせ飲むという、いい加減な存在ではないということを確認できます。
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7、愛の具現者としての神か単なる愛の神か。
裁きと言うと聖書の神は、なにやら恐ろしい存在のようです。確かに神を畏れることの
すすめは、聖書では、幾度も説かれています。人間はともすると、増長し、傲慢になるか
らでしょう。しかし、聖書の神は、
「愛の神」
(第2コリント13:11)です。自分の
罪のために刑罰をうけなければならない者に対して、愛をもって、救いの道をもうけられ
ました。その道がイエス、キリストの道です。神は人に見える形で、神の一人子である、
イエスをこの世におくり、人にわかるかたちで、愛をあらわしてくださいました。それが
イエスの十字架です。日本の神々も一応は愛を解きます。しかし、それは、抽象的な言葉
や道徳的な言葉の範囲をでません。人間の頭からでた、想像の愛、理想の愛、のお説教の
域をでません。なぜなら、人間の愛には、限界があるからです。時間や場所の制限のほか
、中身の不完全性です。現実的、具体的、現在的でもありません。
聖書の神の愛こそ、だれにでも、いつでも、どこでも、なんどでもある、絶対的な愛な
のです。聖書で説かれる愛は人間の世界では、一見不可能なことばかりです。しかし、神
であるイエス・キリストは人間としてその愛を実行されました。実現されました。また、
いま現在も、実現されています。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら、神は愛
だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させ
てくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
(第1ヨハネ4:8・9)
聖書の神は聖書、66巻に貫かれた生きている神といえますが、だいじなことは、あまり
自分で勝手に神はこうだ、このような方、と決め付けないことです。そのように、自分
個人で決め付けると、決め付けた制限されたものが自分の神になります。神は無限ですか
ら、これからの一生とおして、どのようなお方だろうかと考え、求め、仰ぎ見る態度が必
要でしょう。
人間の愛は他人の存在を抜きには成立しませんが、神は他の存在を抜きに成立する。これ
を神の愛の自己実現といいますが、神はご自身で愛である、これを難しく、聖書の神の
三位一体の神といいますが、これは次の章で学んでください。
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聖書の神と日本人の神の対比
聖書の神
大多数の日本人が信じる神
1 見えない神
見える神
2 唯一の神
多数ある神
3 全知全能の神
偏知偏能の神
4 宇宙を超越している神
宇宙の中にいる神
5 永遠の神
歴史の神
6 審判者としての神
傍観者としての神
7 愛の具現者としての神
単なる愛の神
これ以外に大きな特徴が、三位一体の神という考えである。
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2-4 聖書の神は三位一体(さんみいったい)の神
1、三位一体とは、日本語でも使う場合があります。相撲の場合、心、技、体3拍子そ
ろった、名力士と言う具合です。しかし、じつは三位一体はキリスト教から生まれた言葉
です。ところが、この肝心な言葉が、聖書のなかには、直接でてきません。どんなものな
のか、理解することにチャレンジしてみましょう。
まず、キリスト教ではつかわれる、神には、父、子、聖霊という神がある言うことです
。そして、それぞれが、神であり、それぞれの人格(神だから神格と言ってもいいわけで
すが、理解の便宜上人格をつかいます。
)があり、父、子、聖霊、三つの人格の存在をみ
とめるものです。位とは、くらいで日本語では身分の高い低いを指すのが普通ですが、べ
つの意味では他の関係からみた位置を表現する場合に使用します。その点から言えば、三
つの神の、それぞれの関係の位置、人格が独立して存在している、もう少し、難しく表現
すると、神の存在のあり方といっていいのかしれません。しかし、それが統一して存在し
ているというのです。だから、それぞれ別々かと言うとそうではないのです。先に聖書の
神は唯一の神である、と説明しましたが、三つの神の存在ならば、矛盾することになるか
らです。ということは、
『三つで一つ、一つで三つ?』と頭が混乱するからです。とにか
く、ここでは神は唯一の存在だが、父と子と聖霊の、三つの人格のことを、三位一体と言
う、と理解しましょう。
2、三つで一つ、一つで三つ?のことは、じつは私たちの身の回りでも、そんな現象が
みられます。例えば、太陽ですが、太陽は一つですが、光と熱とエネルギ-の三つの現れ
方をします。しかし、太陽を三つと言う人はいません。また、水です。水は固体になれば
氷で、気体になれば水蒸気で、液体では文字どおり水です。一つですが、三つの働きをし
ます。どの場合でも、水という一つもののなかに三つのものをみることができます。ある
方は、自分の子供から説明をもとめられた時に、合体ロボットの例を出したそうです。子
供の好きな流行りの合体ロボットはそれぞれ一つづつでも動きますし、合体して集まって
一つでも動くからです。また、人間の世界でも、たとえば、Aさんが、男子で、もし結婚
し、子供があれば、AさんはAさんの親との関係からみれば、子の立場、Aさんの子の関
係からみれば親の立場、奥さんとの関係からみれば、夫の立場という一人の人間が三つの
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立場を兼ね備えていることも、三つで一つの分かりずらいこのことをの理解をたすけるの
ではないでしょうか。
3、しかし、三位一体というのは、なにかしら、不気味なものを連想させます。日本の
昔話にやわた大蛇の話がありますが、幾つものあたまをもったお化け、と言う具合です。
また、二重人格や多重人格のように、あまりなりたくない存在、歓迎できない存在という
イメ-ジも働きます。なぜ、聖書の神は三位一体でなければ、ならないのでしょうか。た
しかに、聖書を信じると言う人にも、この三位一体の考えをとらない人、グル-プがいま
すが、正当な聖書の立場や、オ-ソドックスなキリスト教の立場は皆、三位一体の教え(
キリスト教では教理といいます。)をみとめます。
したがって、三位一体をみとめない立場、グル-プは非聖書的として、異端(いたん)
の考えとして、正当なキリスト教とはみとめません。異端とは、聖書を自分の都合のよい
ように、曲解、こじつけ、をして正当だとするものです。と同時に聖書66巻以外の聖典
「聖書の預言はみな、人
を認める立場も原則をはずすものと、くりかえし説明しました。
の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言はけっして人間の意志
によってもたらされたものでなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った
のだからです。」
(第2ペテロ1:20・21)したがって、たとえば、神の子であるイ
エスや聖霊を神とみとめないグル-プや人間である教祖を神とするグル-プは、正当キリ
スト教会からは異端とみなされています。
4、ともあれ、唯一の神でありながら、三位一体という考えがなぜ、必要なのでしょう
か。それは、聖書の神こそ、神の存在を表現するかたちとしてもっとも、三位一体がもっ
ともふさわしいのだ言うものです。いいかえれば、神が存在するためには、三位一体でな
ければならない。三位一体でなければ、神の本質を現しきれないというものです。なぜか
、それは「神は愛」(第1ヨハネ4:6)だからです。愛は、愛する者と愛される者、そし
て愛の中身がなければ、成立しませんが、神が愛であるなら、ご自身でこの愛をご自身で
完成出来るお方なのです。難しい表現です自己充足といいますが、神は三位(父、子、聖
霊)の交わりで、愛を十分に満たすことができるのです。人間は愛を満たすためには、他
人という別の人格存在が必要ですが、神は唯一でそのことが、可能なのです。神ご自身で、
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父、子、聖霊の交わりがあり、それが永遠なのです(ヨハネ17:24)
。
5、聖書はその目的は罪人(つみびと、このことは後に説明します。)となった人間の
救いにありますが、まず、父なる神は天地を創造し人間を造り、最後の審判をなされる創
造と支配の主役を通して愛の実現をし、子なるイエスは救いの完成として、罪人の人間の
身代わりとして十字架での救いと死と復活を通して愛の実現をなされ、聖霊は救いの知ら
せ=福音をのべつたえるための助け主として愛の実現をなされるのです。
6、聖書のなかにも、三位一体であることを示す言葉がみられます。旧約聖書のなかで
、神はご自分のことを表現するのに、「そして神は『われわれに似るように、われわれの
かたちに、人をつくろう』
」(創世記1:26)言われ人を造られました。このわれわれ
は、「三位一体の神であるわたしに似た者として、
」と現代訳聖書は訳しています。神の
唯一は単一性、絶対の一でなく、統一性の一であり、複合的な存在としての一つだ、と解
く先生もおられます。新約聖書ではこれが、もっとハッキリします。
「わたしたちは」と
イエスご自身も表現されました。(ヨハネ14:23)。また父と子と聖霊はそれぞれ神
とよばれているからです。
(ロ-マ書1-7、へブル人への手紙1-8、使徒の働き5-
3)また、教会での牧師の祝祷(しゅくとう=祝いの祈りのことば)
「主イエスの恵み、
(第2コリント13:1
神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてにありますように」
3)という表現もそれです。イエスは別の箇所で「父、子、聖霊の御名によって」(マタ
イ28:19)と三位一体を表現されています。
6、しかし、三位一体の教えは私たちの知識や理性ではわかるものではありません。ま
た、わからなくとも、聖書の理解に基本的な妨げになりません。信じることなのです。聖
書は神の言葉で、最終的には、神ご自身しかわからないことだからと思います。天国で、
神に会いまみえるそのとき、ハッキリするかもしれません。
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三位一体の神(神は御自身で愛を実現する)
父なる神
(愛の中身)
創造と支配
交わり
交わり
愛の実現
子なるイエス
聖霊なる神
神の自己実現
(愛の中身)
(愛の中身)
救いと復活
救いの知らせ
交わり
の助け
人間は他の人がいなければ愛は実現できない
(愛の中身)?
人
人
間
間
交わり
愛する立場
愛する立場
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