放蕩息子

「神にある真の愛」
(アウトライン)
13.6.23(朝)
<ルカ15:11~24>
(序)本当の愛はどこに存在するのか? 真の神のもとに存在する。なぜなら「神
は愛だからです。」と聖書に書かれているからである。
ここにイエス様が群衆にむかって語られた「放蕩息子のたとえ」の話しがで
てくる。まさに現代の家庭の姿であり、実はこの放蕩息子自身が自分のことを
いっていることに気づかされる。
今日、聖書のみことばを通して真の神の愛に触れ、神の愛を受け入れ、神の
愛の中に歩もうではないか。あなたは愛の人に変えられる。
Ⅰ.喪失した愛(11~13)
この放蕩息子は父親をすてて、お金をもって家を飛び出していった。この瞬
間に、息子は父親の愛を喪失したのである。彼のこの後、欲望のままに生活し、
もっともみじめな姿に落ちぶれたではないか。この姿こそ、人間と神様の関係
なのである。
(創世記1:26~28、2:15~17・・・神様との愛の関係)
(創世記3:6~13、16~19、23~24・・・神の愛を失った人間)
Ⅱ.十字架に現れた神の愛
放蕩息子の幸いはどこにあったのか。彼は自分の愚かさに気づいたこと。
「我
に返った時」この時こそが人生の転換点となった。悔い改めである。
みじめな姿のまま帰ってきた息子を父親は可哀そうに思い、すべての罪を赦
し、ありのままの放蕩息子を迎え入れたのである。
ここに神の愛を見る。私たちは放蕩息子と同じではないか。そんな私たちを
神様は可哀そうに思い、ご自分のもとに帰ってくる道を用意して下さった。イ
エス・キリストの十字架の死と復活である。
(Ⅰヨハネ4:8~10)
*十字架の死:私たちの罪のさばきを身代わりに受けて死んでくださった。
*復活;私たちを永遠に生かすために死からよみがえってくださった。
神の愛はどこに現れたのか。キリストの十字架に現れた。神を敵としている
罪人の身代わりに死んでくださった愛、すべてを与え尽くす愛、すべての罪を
赦す愛、見返りを求めない愛、ありのままを受け入れてくださる愛・・・。
神の愛のゆえに我々は救われたのである。
Ⅲ.回復した愛
父の家に戻った放蕩息子は、失った愛をもう一度回復することができた。彼
は魂に本当の喜びと平安を得たことだろう。赤ちゃんの居場所はお母さんの腕
の中。同様に、私たちの居場所は愛の神様の御腕の中ではないか。
あなたの心が、あなたの家庭が、神の愛に満たされていたら、どんなに楽し
い人生だろうか。私たちに必要なものは何か。神の愛の中に生かされ、互いに
愛し合い、赦し合い、神と共に歩むことではないか。
(結論)「神にある真の愛」
どうしたら神の愛の中に生きることができるのか。放蕩息子の「我に返った
時」のように、自分の愚かさを悔い改め、十字架を受け入れ、神のもとに帰るこ
とではないか。あなたは愛の人に変えられる。