内外の建築積算の歴史的経緯に関する調査

内外の建築積算の歴史的経緯に関する調査(平成 22 年度)
主席研究員
岩松 準
第1章 概 要
1.1 研究の目的
今日の建築積算の経緯を知ることは、この分野の今後のあり方を見通すために必要である。こう
した知識へのニーズは、当研究所の機関誌「建築コスト研究」の読者にも多いと考えられる。とくに
現代の問題につながるテーマについての歴史的探求という視点が求められる。それはそれぞれの
問題について考えるための具体的視座を提供するものである。また、国内のみではなく、近代的な
積算の発祥である英国等を中心に、積算技術の発展についての歴史的経緯を知ることも有意義と
考えられる。
上記の目的に照らして、長期的な見通しのもと、内外の建築積算の歴史的経緯に関する適切な
テーマを設定し、関係する歴史的文献・資料の収集を徹底して行い、ビジュアルな資料を添付す
ることなどにも留意しつつ、読みやすい文書としてまとめる。その成果は当研究所の季刊誌「建築コ
スト研究」(建築コスト遊学)へ寄稿するかたちで公表することとする。
1.2 これまでの成果のリスト
これまでの研究成果は次の 7 つのテーマに関するものであり、「建築コスト研究」の第 60 号(2008
年 1 月発行)より、「建築コスト遊学」というタイトルで連載を開始している。本報告では最近の 4 号
分をとりあげる。
既報分は下記の通りである。
•
「日本建築積算略史――その起源と展開」60 号, 2008.1.
•
「法律 171 号と予定価格――官の積算の意味」61 号,2008.4.
•
「建築経済学と建築コスト研究史」62 号, 2008.7.
(以上は平成 19 年度版報告書に掲載)
•
「物価史にみる建築職人賃金の推移」63 号, 2008.10.
•
「建設統計の成立と展開」64 号, 2009.1.
•
「原価計算基準と建築コスト」65 号, 2009.4.
•
「新しい業務報酬基準と積算:数量公開論争 100 年」67 号 1, 2009.10.
(以上は平成 20 年度版報告書に掲載)
•
「コストプランニングのための部分別数量書式」67 号, 2009.10.
•
「 米 国 の 公 共 調 達 にお ける「フェ ア ーでリー ズ ナ ブルな 価 格 」を めぐっ て」68 号 ,
2010.1
•
「日米構造問題協議と建設内外価格差問題」69 号, 2010.4
•
「近世初期建築書「愚子見記」の中の積算資料」70 号, 2010.7.
(以上は平成 21 年度版報告書に掲載)
1
予定稿段階では 66 号掲載予定だったが、67 号に特集記事の一つとして一部稿を改めて掲載された。
- 35 -
平成 22 年度は下記の 3 テーマを取り扱った。
•
「 明 治 初 期 の 建 築 工 事 紛 争 ~ 名 古 屋 鎮 台 兵 営 建 築 増 費 請 求 事 件 ~ 」 71 号 ,
2010.10.
•
「建設工事のリスクのコスト~危険負担と履行保証を例に~」72 号, 2011.1.
•
「WLC(Whole Life Costing)をめぐる日英の違い」73 号, 2011.4.
以下では、既発表分に一部加筆しつつ掲載する。
第2章 明治初期の建築工事紛争~名古屋鎮台兵営建築増費請求事件~
(71 号, 2010.10)
本号の建築工事紛争特集に絡み、ある史実に触れておきたい。施主―工事業者間の建築紛
争の多くはその工事代金(施主にとっての建築コスト)をめぐるものといえるだろう。ここで取り上げる
明治初期の事件はその類型に属し、また、その後の建設業界が施主、とりわけ公共発注者にどう
向き合うかに大きな影響を与えた事件としても記憶されてきたところといえる。
この事件とは、竹中工務店の前身・竹中藤右衛門が関わったもので、それは大審院民事事件
「名古屋鎭臺兵營建築増費請求一件」として当時の判決録に詳細な記述があり、建設請負契約
関係の専門書や古い時代の業界関係者の座談等にしばしば出てくる話である。簡易に「名古屋
鎭台事件」等と呼ばれることもある。
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この事件の元になった工事は帝國陸軍の発注で、名古屋城二の丸に、明治 6(1873)年着工、
翌 7 年竣工したものである。当初の工事内容は、洋風二階建て瓦葺き兵舎 8 棟、付属家屋 16 棟
など計 30 棟、延床面積 16,500 ㎡余、請負金額約 10 万 4 千円(米価を元にした現在価値換算で
約 20 億円)というものであった。
明治 4(1871)年の廃藩置県後に藩兵を解散、次いで明治維新政府は全国の兵権を兵部省に
集め 4 鎭台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台))を置いた。鎭台とは反乱士族の鎮圧など、地
方の治安を守るためにおかれた軍隊を指す。征韓論に破れた西郷隆盛等は政界を去り、国内情
勢は不穏で、また、百姓一揆が頻発するなど社会的安定が求められていた時代でもあった。明治
維新政府は、明治 6 年 1 月に徴兵令を公布し、国民皆兵へと梶を切るとともに、名古屋、広島に新
たに鎭台を設けることになった。名古屋では徴兵した兵を入れる建物が必要となっていた。
判決録によると原告のひとり岩本常太郎が他の大工 12 人と共に明治 6 年 4 月中旬、東京の陸
軍省に呼び出され「建築仕様書と絵図」を示されて請負額を入札するよう指示され、それを写し取
った。結局入札は不調で、岩本の願出により名古屋に行き入札するよう示達した。岩本が同年 6 月
11 日に名古屋に出頭し、新たに示された書類を写し取ったものと比べたところ、絵図は 4 月のもの
と同じで仕様書のみ加除があったようだ(この点は設計変更の指示の信憑性に関して、後に争点と
なった)。翌 12 日に兵営 8 棟、番兵所 3 棟、賄所 2 棟、付属家 18 棟、病室賄所共 3 棟の見積を
差し出した。結局、岩本常太郎は 6 月 20 日にひとまず兵営 4 棟の請負の予約を得て、指示に従
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いながら仕様書の調整を行って翌 7 月 5 日に着工。7 月 23 日にここではじめて竹中藤右衛門が
加わり、10 万 3449 円の請書を連名で提出している(請書の日付は 6 月)。
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写真2:同・建物内部
写真1:竹中工務店によって博物館明治村に一部移築された
名古屋鎭台兵営(歩兵第六聯隊兵舎)の建物外観
本事件の着工までの経緯をやや詳しく紹介した。この事例では、会計法(明治 22 年成立)が未
整備な段階であり、公共調達方式が確立する以前の建築工事発注の一端が描かれていることにも
注意したい。その実際は分からないものの、全てが確定していないと考えられる「建築仕様書と絵
図」がまず発注側から用意され、それに対する見積を複数の大工(工事業者)に提出させ、請負う
大工を特定した後に、仕様書や図面を詳細につめる過程で、請負価格を決めていることである。
今日のネゴシエーション方式と呼ばれる調達方式に近いイメージである。また、書類の取り交わし
は、今日では簡易なもののみで使われる「請書」によっている。
もう一つは、竹中藤右衛門が着工前後から入ってきたように、ジョイントでの請負が認められてい
たことである。当時は珍しかった西洋建築であり、ひとつの大工組織のみが担うには大きな工事だ
ったと思われる。逆に竹中にとっては、織田信長の時代から工匠に転じ、社寺建築を手がけて、関
西の三棟梁の一人と呼ばれるようになっていたが、本格的な請負工事への参入を地元名古屋の
大型洋風建築で行おうと意図したものでもあったのだろう。
なお、一式請負という形態は初期の洋風建築の場合、それほど一般的ではなく、直営施工、分
業請負(分担請負)が主流だった。名古屋鎭台の場合もこれに近いやり方といえる。有名な清水組
の支配人・原林之助の「分業請負と一式請負」の優劣に関する建築学会討論が行われたのが明
治 25(1892)年 10 月のことであり、一式請負の広がりはその頃からであった。
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工事に取り組むことになった竹中藤右衛門(11 代)、藤五郎(12 代)の父子は、千葉の佐倉分営
まで出かけて西洋小屋組を見てくるなど当初はたいへん意欲的だった。ところが、発注側の陸軍
省に詳細な図面や仕様書が用意されていなかったこと、そのため工事は陸軍省の都合による設計
変更・追加工事で手間取り、工期は遅れ(明治 7 年 6 月完工予定のところ、同年 11 月に完成)、
世情不安を原因とするインフレーションによる資材の高騰や職人の賃金上昇が工事を直撃した。
その結果、発注者に引き渡した時には、欠損は相当額に及び、「一家の浮沈」に関係するほどに
- 37 -
膨れていた(『竹中工務店 70 年史』)。竹中は最終的に発注者である陸軍省は面倒をみてくれるだ
ろうことを期待して工事を続けたが、軍は増費支払いには応じず、結局、裁判となったのであった。
判決録によると、番兵所 4 棟の請負が見送られたことから 9 万 1248 円の確定額から、下渡木材
代や瓦代や石灰代などの支給分を差し引いた 6 万 8886 円が請書(受書)の総合計金額となって
いる(明治 7 年 4 月付)。だが、実際の工事では設計や仕様の変更が頻繁だったのだろう。明治 7
年 6 月には、陸軍第三経営部の係官・野島直好から、費用増加分の報告をするよう求められて提
出した調書に○と△の印を付けられ、○印の分のみを抜き出して差し出すよう再度、指示された。
図 2.1 大審院判決文の冒頭部分(国立国会図書館蔵・近代デジタルライブラリーより)
竹中はこのやりとりを契機に、明治 7(1874)年 10 月と翌年 1 月の二度にわたり、30 数件の申し
立て、合計約 2 万円分の増費請求を行ったが、請書に増費する約束が記されていないことを理由
に、申し出るような筋のものではないと断られたため、東京上等裁判所に陸軍省を相手に提訴に
及んだ。背に腹は代えられない切羽詰まった事情と、名棟梁としの自負・プライドも強かったのであ
ろう。だが、明治 10(1877)年 3 月 28 日に原告敗訴判決となり、5 月 26 日に大審院に上告したが、
1 年後の明治 11(1878)年 6 月 28 日に「東京上等裁判所の裁判は破毀すべき理由なきものとす」
という判決が確定した。世は西南戦争(1877)後の混乱のさなかであった。
判決理由の条文を読むと、まさに官尊民卑の風がある。実際の工事では係官の細部にわたる口
答での指図には従うほかないが、後日提出した件の○△印の書類でさえも、増費の証拠とは認め
られなかった。これでは、法的権利の主張や保護どころなく、嘆願でしか建設業者の救われる道が
ないことになる。
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竹中藤右衛門(14 代)はその間の事情を、ある座談の中で「私の祖父です。全国に鎭台が出来
たのでしょうが、名古屋の鎭台が一番早いらしい。それでそこを請負ったところが、第一番に出面を
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揃えなければならない。第一そんなに大工がいない。そこで下駄の歯入れまで全部大工に仕立て
て出面を合した。とにかく毎日というと長持で担い込んで来る。銀貨だから……。初めは景気が良く
て金が儲かった。しかし仕事が出来ない。下駄の歯入れがやっているのだから能率が悪い。しかも
木材の検査が非常に喧しくて、官尊民卑の頃だったから、出来た後検査に来て、こんなものはいけ
きず
ないと言って疵 をつける。これがために私の祖父は非常に大損を招いた。その内、仕事はどんどん
やったが金はくれない、さあ最後は約十年ばかりかかって陸軍相手に訴訟をした。・・・それで実は
もう陸軍の仕事というと見向きもしない。極端にいやがって……。役所の仕事がいやだというのも、
原因はそこにあるのです」(『建設業の五十年』, pp.16-17)と述べている。
竹中はその後 40 年余にわたり「官庁工事をひとつもやらず、民間建築一本槍で来たのも、鎭台
...
工事のにがい 経験にかんがみてのことであろう。特に、陸軍相手の仕事と云うと極端にいやがって、
見向きもしなかった」のだが、大東亜戦争直前に陸軍からの命令で予科士官学校という鎭台と奇
妙に符合する建物の工事を行わされた。まさに、「陸軍ぎらいの竹中工務店が日本陸軍の始めと
.....
終りとに一役ずつ買わされているのは歴史の皮肉 とも云うべき」(太田通他(1957), pp.120-121)で
あろう。
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いずれにせよ、この事件は業界関係者に強く記憶されることになる。現在に至るまで日本の公共
工事において、建設業者の増費を理由とする訴訟が皆無に近いのは、以上述べてきた竹中の件
があるためであろう。近代以降、建築工事紛争が一般化しなかったひとつの原因となった事件だっ
たといえよう。
参考文献
1.
荒井八太郎『建設請負契約論』勁草書房, 1967.3
2.
岩崎侑『建設工事請負契約の研究』清文社, 1987.12
3.
土持保・太田通『建設業物語』彰国社, 1957.8
4.
建設業を考える会『にっぽん建設業物語:近代日本建設業史』講談社, 1992.9
5.
司法省蔵版「大審院民事判決録」明治 12 年 6 月, pp.302-357
6.
田中孝『企業のこころ・上』建通選書, 1982.3
7.
東京建設業協會編『建設業の五十年』槇書店, 1953.2
8.
「名古屋鎭台事件」 公共建築 , Vol.43-2, p.86, 2001.4
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第3章 建設工事のリスクのコスト~危険負担と履行保証を例に~(72 号, 2011.1)
法社会学者の川島武宜・渡邊洋三による『土建請負契約論』(昭和 25 年)の序説は、「いわゆる
「片務契約」性の内容」で始まる。明治・大正期以来の業界「三大問題」――(一)片務契約、入札
及び契約に関する保証金制度の改善、(二)営業税の改廃、(三)議員被選挙権の獲得――のい
ちばん始めに来る「片務契約」の問題は、じつは当時もそして今日でもしばしば指摘される。この問
題に対処することが、建設業初の全国業界団体・日本土木建築請負業者聯合会が大正 8 年に初
めて設立されたとき以来の重要課題であった。同書には『東京土木建築業組合沿革誌』の記述を
引用しながら、大正から昭和にかけての陳情運動の話が列挙されている。
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請負契約はほんらい双務契約である。「当事者の一方がある仕事を完成することを約し、相手方
がその仕事の結果に対してその報酬を支払うことを約することによって、その効力を生ずる」(民法
632 条)のが請負だからである。ところが、「土建請負契約、とくに官公署を注文者とする土建請負
契約は、すでに久しきにわたって、実際界においては――とくに請負業者によって――「片務契約」
として批難されてきた」とする。法律家の著者に言わせるとこれは「滑稽な矛盾」でしかない。
請負業者が「片務契約」と呼ぶのは、例えば、契約書には債務不履行の際の違約金、遅延料
等の制裁の記述はあるのに、注文者の代金支払い義務の不履行は規定していない契約が多いこ
と、注文者の自己都合によって工事が中止・変更になっても十分な損害賠償を与えないこと、仕事
の遂行に際して注文者が業者に対し絶対的な命令・監督権を有すること等挙げられているが、そ
の中でも当時の最も大きな批難は、請負の仕事完成における「危険負担」のことだったという。
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「危険負担」とは聞き慣れない言葉かもしれないが、建設の請負には付きものといえる。請負工
事の場合は、民法 534~536 条の規定 2とは若干異なり、工事の完成引渡に至る間に、請負業者
がその工事に対して被った損害(不可抗力による損害)を、請負業者または注文者のいずれが負
担するべきかという問題であるとされる。例えば、工事中の隣家の出火による未完成工事物の火災
被害や、工事途上の橋が大雨で流されることを指す。この場合、完成引渡に影響を与えるが、請
負業者が履行不能に陥ることはなくとも、余分にかかる費用を誰が負担するのかという問題が生じ
る。これが建設の請負契約における危険負担である。請負業者からすれば、「危険負担と称するも
のは、請負業者(債務者)の責に帰すべき事由にもとづかない増加工事費は注文者が負担すべき
であると主張するもの」(荒井八太郎著『建設請負契約論』1967.3, p.460)であり、戦後あった「値増
問題」にも絡む。鹿島建設法務部長の職にあった荒井の論では、危険負担の守備範囲は、「天災
その他の不可抗力の事由にもとづく損害」に加え、「条件変更」や「物価労銀の変動」や「その他正
当の事由」にもとづく損害にまで広く及ぶ。
この危険負担について当時の官公署の契約書の多くが、例外なく請負人の負担としたり、ひど
い場合、受渡後も請負人負担とするものさえあった。なお、この川島・渡邊の著書は、昭和 23 年に
経済安定本部の要請を受け、封建的性格が色濃い「終戦前の、官公庁を注文者とする請負契約
書」の法社会学的分析を行ったものであり、もちろん現在の話ではない。
2 民法第 534 条(債権者の危険負担)、第 535 条(停止条件付双務契約における危険負担)、第 536 条(債務者の危険負担)
の解釈をめぐる法律議論がある。
- 40 -
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*
*
危険負担については、戦後にできた建設業法(昭和 24 年法律第 100 号)の第 19 条「建設工事
の請負契約の内容」に、「六_天災その他不可抗力による工期の変更又は損害の負担及びその
額の算定方法に関する定め」を書面に記すよう定めている。(但し、制定当初は「六_天災その他
不可抗力に因る損害の負担に関する定」とのみあった。)また、現在の公共工事標準請負契約約
款では第 29 条に「不可抗力による損害」を規定し、他に第 51 条には「火災保険等」の規定を置く。
同様に民間約款でも類似の条文がある。このように危険負担に関して、契約上の配慮がされてい
るようだが、いったい戦前のような片務的な性格は払拭されているのだろうか。
荒井の本の中では実際の工事契約書について昭和 30 年に調べた 180 件の分析例が載ってい
る。うち双務的(非片務契約の意)と判断されたのが 110 件、片務的は 70 件だった(荒井(1967)
p.300)。同じく、昭和 24 年 4 月~昭和 26 年 3 月の 545 件の請負契約書の分析では、いわゆる
危険負担(天災不可抗力にもとづく損害)を注文者側のものとすることを認めている例が約半数も
あることをあげ、「かかる免責約款の周知徹底を図るべき」(同書, p.622)としている。
また、建設業と関係が深い法学者の内山尚三は著書(内山(1974),p.216)で、民法の天災不可
抗力の危険負担の主体については学説が分かれていることを述べ、当時の立法者の念頭にない
大建設工事が発注される時代なのだから、建設請負の危険負担は民法上の範疇だけで考えるべ
きではないとしている。そして、「公共工事標準約款や四会連合約款においては、危険負担は注
文主の負担になっている」と民法の通説である原則請負者負担とは逆の対応がとられている事実
を述べている。
以上のように、天災不可抗力による危険負担のコストに関しては、戦前は一方的に請負業者側
に負担義務のあったものが、戦後は形式的には契約書や約款の中に注文者側が責任を負う場合
が明記されるなど、徐々に改善されてきたとみてよいと思う。しかし、戦前は片務契約の典型とみら
れていた危険負担条項の実体的運用状況は、当事者の外にはなかなか明らかにならないものの
一つだが、国土交通省地方整備局に関する近年の実績調べが手元にある。表 3.1 に近年 10 年間
の推移をまとめた。年度による違いが大きく一概にはいえないが、適用された案件は 10 年間で 200
件近くあり、損害額の大きさは請負額の 2%程度であり、注文者はその 4 割を負担している。
表 3.1 国土交通省地方整備局(港湾空港関係を除く)の「天災不可抗力条項適用状況」の推移
(年度)
H11
H12
H13
H14
H15
H16
H17
H18
H19
(単位:件、千円)
H20
合計
54
31
17
12
9
36
16
14
16
12
217
1) 件数
30,126,365 7,036,335 3,919,802 4,441,867 1,056,825 5,164,214 2,850,341 1,993,068 22,993,635 38,803,643 118,386,095
2) 請負代金額
231,925 1,316,269
165,126
102,345
90,923
242,345
82,414
104,654
128,880
149,947
2,614,828
3) 損害額
164,576
203,466
104,885
62,481
79,585
181,600
57,759
82,834
77,244
52,496
1,066,926
4) 損害負担額
23,917
45,365
240
6,654
1,535
14,540
3,497
6,139
24,938
5,972
132,797
5) 取片付け費用負担
0.77%
18.71%
4.21%
2.30%
8.60%
4.69%
2.89%
5.25%
0.56%
0.39%
2.21%
損害額の大きさ 3)÷2)
71.0%
15.5%
63.5%
61.0%
87.5%
74.9%
70.1%
79.2%
59.9%
35.0%
40.8%
負担割合 4)÷3)
(注)国土交通省「直轄工事等契約関係資料」各年度版より作成。請負契約書第 29 条に係る調べ。
*
*
*
注文者にとっては天災不可抗力のリスクに並んで、請負業者の倒産等による不測の事態は避け
るべきものであった。少なくとも明治 22 年の会計法制定当初から、工事請負では保証金をとる決ま
りがあった。現在でも基本的には、公共工事の入札参加のためには入札価格の 5%以上の「入札
保証金」を、また、落札者となった場合には、契約金額の 10%以上の「契約保証金」を納付すること
- 41 -
が、国では会計法第 29 条の 5 と同法 29 条の 9 に、また、地方公共団体では地方自治法施行令
第 167 条の 7 および 16 に規定されている。これらはそれぞれ注文者側が請負業者側に対して入
札と工事の履行の保証を求める措置である。ただし、こうした金銭的保証は、契約担当官等が納
付させる必要がないときはこれを免除できる
3
とされている。こうした保証金
4
に代わる手段として、
保証コストが顕在化しない「工事完成保証人制度」がかつての日本の公共工事では広く存在し
た。
「工事完成保証人制度」の起源については必ずしもよく分からない点もある。前出の荒井(1967)
p.919 によると、「工事完成保証人に関する規定が契約約款に挿入されたのは昭和 26 年 2 月 14
日の中央建設業審議会で決定した民間建設工事標準請負契約約款第五条が嚆矢」だという。こ
れは、建設の請負契約を履行するための役務的保証であり、請負業者の債務不履行に対して、
請負業者に代わって別の保証人に工事を引き続き完成させようとするものである。しかし、これにつ
いては、つねづね注文者にとって最も都合の良い制度になっているという批判があった。
*
*
*
三浦(1977)p.176 によれば、昭和 47 年頃から、米国で普及しているボンド制度を導入すること
の可否の議論の中で、工事完成保証人制度に関する問題点の指摘がなされるようになった。その
問題点とは、保証施工した部分以外についての瑕疵担保責任の問題、一建設業者が数多くの同
業他社の保証をする過大債務保証保持のおそれ、相指名業者が保証人になる場合に落札者より
も高い価格で応札した業者が万一の場合に工事を引き受けなければならない不合理さ、指名競
争入札をとる場合にはその後の指名に影響することをおそれて保証債務引き受けの拒否がしづら
いこと、また、「談合破り」に対して工事完成保証人となることを拒否するというかたちで談合を助長
する可能性のあること等である。総じて前近代的な制度のなごりであり、過重な責任を建設業者に
負わせていたのである。
とくに、談合を助長することになる点は、米国を中心とした批判が強く、埼玉土曜会談合事件
(1991)、首長に対する一連の贈収賄事件(1993)など、当時相次いだ業界不祥事をうけて、平成 7
年 5 月 23 日の中央建設業審議会の勧告「工事完成保証人制度の廃止と新履行保証制度の導入」
により、明確に廃止の方針が打ち出され、翌 6 月 16 日に予算決算及び会計令(以下、予決令)の
改正が行われた。さらに「公共工事の入札及び契約の適正化の促進に関する法律」(平成 12 年
11 月 27 日法律第 127 号)が根拠となって規定している「適正化指針」では、「履行保証について
は、各省各庁の長等において、談合を助長するおそれ等の問題のある工事完成保証人制度を廃
止するとともに、契約保証金、金銭保証人、履行保証保険等の金銭的保証措置と付保割合の高
い履行ボンドによる役務的保証措置を適切に選択す るものとする。」「公共工事の入札及び契約の
適正化を図るための措置に関する指針」平成 18 年 5 月 23 日閣議決定(改訂))とされ、公共工事
からは完全に廃止されることとなった。しかし、このような廃止方針が出ても、市町村等ではこの便
利な工事完成保証人制度をそのまま利用するところが残っていたのも事実である(図 3.1)。これに
代わり、平成 7 年 1 月の中央建設業審議会で打ち出された「新履行保証制度」が平成 8 年以降、
順次採用されている。(図 3.2)
3 会計法第 29 条の 4(保証金の納付)1 項ただし書き、同法第 29 条の 9(契約保証金の納付)2 項ただし書き、予算決算及び会
計令第 77 条(入札保証金の納付の免除)、同・第 100 条の 3(契約保証金の納付の免除)等。
4 入札保証金や契約保証金は現金の必要はなく、国債や政府の保証のある債券、信用連合会の発行する債券、銀行が振り出
し又は支払保証をした小切手などが認められる。(予算決算及び会計令・第 78 条、第 100 条の 4)
- 42 -
100 %
95
90
85
80
H13年度
国
H14年度
特殊法人等
H16.3.31
H17.10.1
都道府県
H19.9.1
H18.4.1
指定都市
市区町村
図 3.1 工事完成保証人の廃止に至る状況
(注)国土交通省「入札契約適正化法に基づく実施状況調査」
⑥履行保証免除案件
100%
⑤-2 利付国債
90%
⑤-1 契約保証金
80%
④金銭保証(金融機関)
70%
③金銭保証(履行保証会社)
60%
②履行保証証券
50%
①履行保証保険
40%
(注)地方整備局(港湾空港関
係を除く)、官庁営繕部、国土
技術政策総合研究所
出典:国土交通省直轄工事等
契約関係資料 各年度版より
作成(H13年度はデータ未入手)
30%
20%
10%
0%
H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 H19 H20 H21 (年度)
図 3.2 国交省工事・履行保証措置別の契約金額内訳
*
*
*
公共工事で一般的となっている前払い金については、従来より民間工事では商習慣があったら
しく、とくに戦時中は「軍工事を促進するために約 50%の前渡金支給の道が開かれていた」 5という。
一般の公共工事では、とくに制度化されていなかったが、戦後の金融引締時代に金融難に陥って
いた建設業のために、昭和 27 年 6 月公布の「公共工事の前払い金保証事業に関する法律」によ
って前払金保証事業会社
6
が設立され、公共工事の前金払いの大幅な拡大が行われた。この法
律では、金融を通じて建設業(建設会社)の経営の近代化を促すことも目指したとされる。予決令
や地方自治法施行令の改正 7を経て請負代金の 30%~40%の前金払いができるようになった 8。こ
『110 年のあゆみ』佐藤工業、1972.7.20, p.301
建設業と一部金融機関等の出資で北海道、東日本、西日本の各建設業信用保証株式会社が設立された。
7 予決令:昭和 27 年 10 月 8 日公布の政令による改正、地方自治法施行令:昭和 27 年 8 月 15 日政令第 345 号による改正。
また、大蔵大臣と建設大臣の個別協議(「予算決算及び会計令臨時特例、第四条の規定に基づく協議について」(昭和 27 年
10 月 23 日・建設省発会第 354 号および同年 11 月 10 日・蔵計第 2479 号))により、前金払いの範囲及び割合が決められた。
他省庁および地方公共団体はこれに倣った。なお、民間における工事については、前払いの根拠はなく、個々の具体的な契約
に当たって当事者間の合意による。
8 水野・宮内(1954)pp.91-94 には、前払金保証契約に際しては、保証事業会社は個々の保証申込について公正な審査をする
ことをうたい、申込者が保証総額が 10 億円に達している場合や「公正かつ適正な価格」で請け負ったものでない場合には拒否
できるなどとしている。前者は与信枠の観点からのものであり、ある特定の大業者に保証契約が片寄ることを防止する必要を言
5
6
- 43 -
れは保証を条件とした一種の金融であり、そのコストは現在の共通費積算基準の運用では一般管
理費等率の補正値を 0.04%にする分を見込む。
*
*
*
今回は若干歴史的に、建設工事のリスクに伴うコストについてみた。建設工事の周辺にはこれら
に類する取引費用が多く存在している。
主要参考文献
1.
荒井八太郎『建設請負契約論』勁草書房, 1967.3.15
2.
内山尚三『増補・転換期の建設業』清文社, 1974.7.10
3.
内山尚三『請負:叢書民法総合判例研究 33』一粒社, 1978.10.20
4.
川島武宜・渡邊洋三『土建請負契約論』日本評論社、1950.10.25
5.
草刈耕造『公共工事契約と新履行保証制度:考え方と実際』日本評論社、2001.1.30
6.
三浦忠夫『日本の建設産業』彰国社、1977.5.10
7.
水野岑・宮内潤一『公共工事の前払金保証事業に関する法律解説』1954.8.1(非売品)
8.
益田重華『建設産業・近代化への側面史』大成出版社、1996.9.1
っている。また、後者はダンピング排除の規定で、今日的話題であるが、85%を一つの目安としている。
- 44 -
第4章 WLC(Whole Life Costing)をめぐる日英の違い(73 号, 2011.4)
建築のライフサイクル・コスト(LCC)には長期の時間的概念が入るため単純でないことは明らか
だろう。これには広範な問題領域が含まれるとともに、関係者の努力にもかかわらず、算定すべきコ
ストの範囲の定義や計測方法などに混乱がみられるという。前者の「広範な問題領域」とは、建物
の寿命、ストック、効用・性能評価、省エネルギー、地球環境等を指しており、単なるイニシャルコス
トの算定に比べるとそれぞれが複雑に絡み合う難しい問題である。そこで全体を単なるコスト算出
や維持管理ではないライフサイクル・マネジメント(LCM)という概念で括って考える場合もある。ま
た、後者の「混乱」についての指摘は、若干古いが当研究所と関係の深い古川修、遠藤和義両博
士によるもの 9がある。
日本ではこの分野の直接的な研究は 1970 年代後半からだが、1990 年代半ばに 3 ヵ年(1995.4
~1998.3)にわたり総合的に取り組まれた日本建築学会の特別研究委員会(委員長:白山和久・
筑波大学名誉教授)が広範な知見を取りまとめている。また、例えば「ライフサイクル×建築」で学
術論文の検索をすると 600 件を超える論文が抽出される。それらをみると、とくに地球環境問題が
注目されるようになった近年は論文数が激増していることを確認できる。
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*
*
以上のようなことは海外でも似た事情があると考えられる。ところで、建築のイニシャルコストが氷
山の一角だという英国人のR.フラナガン博士らの描いた絵は建築系の学生にはなじみ深く、後述
の国土交通省監修の本にも引用されている。英国はどの分野でもそうだが世界標準の設定に主
体的に関わることに相当熱心であり、ISOにはLife Cycle Costingがある
10
。英国規格協会(BSi)
の関係資料には「英国建設業はLCCが大切で重要なものと見なしているが、経済または環境面で
のコスト評価の実現においてどの方法が最も優れているのかについては混乱(confusion)がある」
と書かれている。
この ISO 文書には公式の定義があり、一見同じような意味と思われる単語 Life cycle cost
(LCC), Life cycle costing, Whole life costing(WLC)は区別されている。図 4.1(次ページ)をみ
ると LCC と WLC の差が理解されるが、LCC は WLC の一部という関係にある。そしてその定義を
よく読むと、末尾の単語が単なる cost ではコストそのものに関心が高いのに対して、costing のよう
に ing が つ け ば 、 決 め ら れ た 範 囲 ( agreed scope ) で の 体 系 的 な 経 済 性 評 価 の 方 法 論
(methodology for the systematic economic evaluation)というように意味が広がる。またさらに、
単なる life cycle ではなく頭に whole がつくと、コストのほか利得(benefit)の評価も加わる。すると、
WLC(Whole Life Costing)には建設プロジェクトの幅広い経済評価として、ベスト・バリュー(best
value)や、欧州の公共入札での落札基準のキー概念である EMAT(経済的に最も有利な入札:
economically most advantageous tender)、さらには、環境や持続可能性評価(environmental
or sustainability assessment)にもなじむ概念に拡張される。
古川修「LCC 計算は役に立つか?」Re, No.114, 1998.7, pp.14-16、また、遠藤和義「ライフサイクル・コストの構成要素の定
義に関する考察」日本建築学会大会(関東)学術講演梗概集(8125), 1997.9, pp.1159-1160.
10 正確には「BS ISO 15686-5 Buildings and constructed assets – service life planning, Part 5: life cycle costing」という名
称の規格。ISO/TC 59, Building construction - Subcommittee SC 14, Design life.において 2006~2008 年に順次制定され
た 11 パートの一つ。
9
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図 4.2 建築の LCC に関する日英の代表的刊行物
図 4.1 WLC, LCC 等の関係(概念図)
(注)BS ISO 15686-5 figure 4 の引用
(注)
日本の本は素人向けの啓蒙書という色彩が強いが、英国の方は
専門家のための実務書(手引き書)といった内容である。
つまり、この ISO 規格では、単なる建設プロジェクトの LCC 計算を拡張することによって、さまざ
まな経済評価に応用できるなど、果実の多い使い方が可能になると想定されるのである。
*
*
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図 4.2 に LCC に関する代表的な日英の著作を示した。日本のものは国土交通省監修本の第二
版で LCC を本格的に取り上げた書籍はこの他にはそれほど多くはない。一方、英国の書籍は図1
が含まれる ISO の付属文書(supplement)という位置づけのものである。ただこれ以外にも LCC や
WLC を扱う専門書は新刊カタログに載るだけでも数多く存在する。
このISOの付属文書はSMLCCと略称
11
されるもので、90 ページほどの薄い冊子だが、ライフサ
イクル・コストの細かな取りきめと解説を行っている。これはイニシャルコスト算定のための歴史ある
建築積算数量基準SMM 12 やプロジェクト初期のコスト概算のための書式SFCA 13 とその基を一に
するものである。すなわち、LCC算出やWLCの検討のために専門家がこの本に従って実務をこな
すためのものといえる。このようなルールブックの存在によって専門家(主にRICSメンバーのQS)が
作るデータは標準化され、信頼できるものに近づく。なお、この本の表紙にあるBCISとはRICS傘下
の情報提供会社である。RICSメンバーQSからの年刊数件の情報提供をとりまとめ、ギブ・アンド・テ
イクで全情報をオンラインで流す仕組みを構築している。イニシャル・コストの情報は長い蓄積を持
つ一方、LCCについても同様な取り組みがある。メンバーQS以外の外部会員にはオンラインや書
籍の形で有償による情報提供を行っている
14
。
*
*
*
ところで、図 4.2 の英国文献を読んでいて気がつくのは、イニシャル・コストに概算と精算の区別
があるように、LCC についてもの意思決定の場面に応じた LCC 計画の精度レベルがあることであ
Standard Method of Life Cycle Costing for Construction Procurement
SMM は Standard Method of Measurement の略で、精積算のための建築数量積算基準。現在は 1998 年に改訂された
第 7 版(SMM7)が最新。なお、初版は 1922 年。ただし、これと後述の SFCA 等を包摂する形で 2009 年 5 月以後は NRM(New
Rules of Measurement)に移行中である。詳細は本誌次回号特集で取り上げる予定。
13 SFCA は Standard Form of Cost Analysis の略で、RICS 傘下の情報提供会社 BCIS が新築工事のコスト概算データを蓄
積するための内訳書分類書式。エレメンタル・コスト・プランニングが流行した 1969 年以後の蓄積がある。現在は 2008 年の第 3
版が最新。
14 その仕組みや内容についても本誌次回号特集で取り上げる予定。
11
12
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る。この点も日本語の文献ではあまり目にしない。
英国ではRIBA(英国建築家協会)が定めるプロジェクト進捗段階(RIBA Plan of Work)があり、
A. Appraisal, B. Design Brief, C. Concept Design/Scheme Design, D. Design
Development, ・・・ ,K. Construction to Practical Completion, L. Operation & Maintain, M.
Replacement、最終的に廃棄(End of Life)に至る 13 区分になっている。そしてほぼこれに対応
するように 9 つのLCCのプロセス・ステージが設定されている(図 4.3 参照)。このプロセス別にLCC
計算の意味と精度を変えるのである。
Figure4.1 Process map of the key stages when LCC is typically undertaken
図 4.3 プロセスマップ(SMLCC, p.23 の figure 4.1 を引用)
たとえば、プロジェクトのごく初期においては、ステージ 1 として「LCC 予算の設定」が行われるが、
これは床面積当たりの数値やイニシャル・コストの総額に対する比率として計算されるレベルのもの
である。ステージ 2「エレメントの LCC 計画」では部分別の LCC の計算をキーになる部分のベンチ
マーク値やコストモデリングや概算手法等をいろいろと駆使して計算する。それ以後のステージ 3
やステージ 4 では、サブエレメントやコンポーネントの LCC 計算を取り扱う。このような計算結果は
LCC 予算、ターゲット LCC 計画等となり、完成後のプロジェクトについては LCC 分析、建物運営
計画等が LCC に関するマネジメントの対象となる。
*
*
*
不確かな未来を捉えて経済性を判断する場合に現在価値化して代替案と比較するのが分かり
やすく、通常の LCC 検討ではこのような比較を原則とする。その際、事業開始から i 年目に発生す
る価値 vi を一定率 r で割り引くことで現在価値(NPV)が計算できる。この r を割引率(discount
rate)という。すなわち、
NPV = v0 +
vn
v2
v1
+
++
2
(1 + r ) (1 + r )
(1 + r )n
で、n 年目の Vn は 1/(1+r)n 倍に割り引いて計算する。
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当然だが、割引率 r の大きさが評価結果を左右する。たとえば、図 4.4 に示す単純な支出系列
による比較考察で、A 案は B 案に比べてイニシャル・コストは安いが毎年のメンテナンスにより多く
のコスト(一定額で不変と仮定)がかかるというケースで示してみよう。このような A、B 両案のどちら
を選択すべきかは、建築計画上よく突き当たる問題といえよう。(i)は割引率を一切考慮しない場
合で累積コストは 20 年目くらいで逆転することになる。20 年以上その施設を持つ場合にはイニシャ
ルが高い B 案を選択する方が得になるということだが、実際には割引率を仮定するから(ii)のように
逆転する年は 20 年よりも大きくなる。ところが、割引率の値をある程度大きく仮定すると(iii)のよう
にいつまでも逆転せず、A 案の選択が得だという逆の結果になる。このように割引率 r の大きさの設
定は LCC 評価の結果を左右する重要な項目であることが理解されるであろう。
700
600
cost
600
600
cost
500
500
400
400
300
300
cost
500
400
300
200
B
200
B
200
A
100
B
100
A
100
time
0
0
10
20
30
(i)割引率無し
40
50
time
0
0
10
20
30
40
50
(ii)割引率が低い場合
A
time
0
0
10
20
30
40
(iii)割引率が高い場合
図 4.4 割引率の大きさによるライフサイクル・コストの評価結果の違い
*
*
*
この割引率について日本では内閣府の「VFMに関するガイドライン」(平成 13 年 7 月(平成 20
年 7 月改定))に曖昧な記述があるのみ
15
ではっきりした数値を示していない。一方、英国では財
務省資料「THE GREEN BOOK: Appraisal and Evaluation in Central Government」に 3.5%
という数値がある。さらにこれにはLong-term discount Rates(長期の割引率)がついていて、300
年先まではそれが徐々に低減する設定になっている(下)。300 年というのはまったく現実的とは思
えないが、さすが歴史ある建物を使い続ける国だという気がしてくる。
15 「割引率については、リスクフリーレートを用いることが適当である。例えば、長期国債利回りの過去の平均や長期的見通し等
を用いる方法がある。」(p.11)としているのみ。また、内閣府の「PFI 導入の手引き」には「はっきりと数値は決まっていません」「類
似施設の事例、同じ事業期間の事例、同じ地方公共団体内における先行事例、最近の傾向等から、各地方公共団体は、アド
バイザーと相談して決めていることが多いようです。割引率の数値は、国債の利回りの過去の平均や物価上昇率等を考慮して
決めていきます。」という記述がある。
http://www8.cao.go.jp/pfi/tebiki/kiso/kiso13_01.html
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50
割引率を明示することについては基本的に米国も同じであり、大統領府予算局(OMB)が毎年
度の割引率を明示する。「2011 Discount Rates for OMB Circular No. A-94」(2010 年 12 月改
訂版)という文書
16
には下記のような記述があり、30 年では 2.3%という数値が示されている(下)。
この数値は毎年示されることと、その数値が近年の経済デフレ傾向を反映するためか、非常に
小さいと感じられることである。一方の英国は 3.5%とやや高いが、それでもこれは 2004 年頃まで使
っていた 6%から引き下げられた数値のようだ。
このような設定数値の公表は、ある意味で LCC 評価手続きの透明性と客観性を生み出すものと
いえるだろう。このように、プロジェクトの経済性評価計算に使う「割引率」に関して、日本は公定数
値が皆無、英国は存在するが毎年変動しない、米国は公表数値が毎年変動するという違いがあ
る。
*
*
*
以上の記述では、単なる LCC ではない WLC という概念とその経済計算をめぐる主に日英の違
いに焦点を当てたつもりである。しかし筆者の狭い経験とごく少数の内外文献によるものだけに、間
違いや誤解が含まれるかもしれない。また、LCC 計算の根拠となるデータベースの違いに関する
記述ほか、いくつか大切な問題点を落としていると思う。ご意見とご批判を期待している。
主要参考文献
1. 日本建築学会「時間・建築・環境:ライフサイクルマネジメント基本問題特別研究委員会報告書」1998.10
2. OGC, Whole-life costing and cost management , Achieving Excellence in Construction Procurement
Guide 07, 2007
3. Watts, Watts Pocket Handbook 2011 , 27th edition, 2011.
4. I. Ellingham and W. Fawcett, New Generation Whole-life Costing: Property and construction
decision-making under uncertainty , Taylor & Francis, 2006
16
OMB Circular No. A-94 は連邦政府関係の費用便益分析のためのガイドラインであり、1992 年 10 月に定められたもの。
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