『⾚坂離宮七不思議』 前迎賓館⻑ ⼩林 秀明 3 ⽉ 11 ⽇の東⽇本⼤震災が発⽣した時、私は迎賓館⻑在職中で、迎賓館(正式名は「迎賓館⾚坂離宮」で す)本館の横にあるプレハブ建ての事務所で、⼤きな揺れを体験しました。揺れが収まった後、私は、迎 賓館の前庭に避難し、15 分程様⼦を⾒た後、余震の発⽣が気になりつつも、建物の状態を調べるため、迎 賓館の中に⼊りました。建物内部では、廊下の机の上に置かれていた陶器製の電気スタンドがいくつか床 に落ちて壊れていた他は、殆ど被害らしいものは⾒当たりませんでした。(後に詳しく調べたところ、壁 や天井の塗装が数か所、はげたりヒビが⼊ったりしたところが⾒つかりました。) 私が屋内で調べているうちに、⼤きな余震が起こり、天井のシャンデリアが⼤きく揺れました。⾝を隠す 場所もなかった私は、呆然としていましたが、建物が壊れるのではないかという⼼配は全くしませんでし た。それは、迎賓館の壁の厚さが 1.88 メートルから 0.65 メートルもある頑丈なものであることを知って いたからです。なぜ迎賓館の壁がそれほど厚いのか、これが迎賓館にまつわる不思議の⼀つと⾔って良い でしょう。 もともと迎賓館は、明治 42 年(1909 年)に東宮御所として建てられたものです。しかし、実際には時の 皇太⼦殿下がお住まいになることはなく、その名称も「⾚坂離宮」(⼀時「東宮仮御所」)に変わりまし た。そして、昭和 49 年に「迎賓館⾚坂離宮」に⽣まれ変わったわけですが、以下本稿では特別の場合に除 いて、この建物を「⾚坂離宮」と呼ぶことにします。 現在、建設後 102 年を経た⾚坂離宮には、その歴史にまつわる不可思議な事柄が少なくありません。本稿 ではそのうちの 7 つを取り上げて、「⾚坂離宮七不思議」としてまとめてみました。(なお、以下に書く ことは、私の迎賓館⻑在職中に職員の⽅々の調査により判ったことですが、その後の調査で更に詳しいこ とが判っているものと思われます。) 1. どうして⾚坂離宮の壁はそれほど厚いのでしょうか。 明治 10 年代に、現在、迎賓館和⾵別館のある場所(本館の東側)に、煉⽡造りの謁⾒場の建物が造られて いました。その建物が、その後東京を襲った地震のために、修復ができない程壊れてしまいました。この ため⾚坂離宮の設計者は、煉⽡造りの建物の耐震性に特別の注意を払いました。そのために上述のように、 壁を厚くしたのです。総床⾯積の約 30%が壁になっています。なお、同じく耐震性の⾒地から屋根の構造 の⼤部分が⽊製で、軽くなっています。 因みに、⼤正 12 年 8 ⽉ 28 ⽇から、当時の摂政宮殿下(後の昭和天皇)が⾚坂離宮にお住まいになりまし たが、その 4 ⽇後の 9 ⽉ 1 ⽇に関東⼤震災が発⽣しました。しかし、⾚坂離宮の建物は、この地震により 殆ど被害を受けませんでした。なお震災発⽣当時、摂政宮殿下は御執務のために明治宮殿(明治 21 年に完 成した明治天皇の宮殿。⽊造建築)におられ、ご無事であられました。 2. 明治宮殿が⽊造建築だったのに、東宮御所として建てられた⾚坂離宮が煉⽡造りとなったのはなぜで しょう。 明治宮殿は、当初、ジョサイア・コンドル(英国⼈建築家。明治 10 年お雇い外国⼈として来⽇。政府関連 の建物を設計し、また創⽣期の⽇本⼈建築家を育成した。)の設計による⽯造りの⻄洋⾵の宮殿建築とし て計画されていました。しかし、その後この計画は変更され、京都御所を模した和⾵の外観に、椅⼦やシ ャンデリアのある洋⾵の内装の⽊造建築となりました。こうした計画変更の背景には、予算上の制約の他、 上述のように煉⽡造りの謁⾒場が地震により破壊されたこともあったものと思われます。 このため⻄洋宮殿⾵の明治宮殿の建設を提唱し、挫折した⼈達が、その後計画された新東宮御所において その夢を実現しようとしたものと思われます。その中⼼⼈物がジョサイア・コンドルの4⼈の直弟⼦の⼀ ⼈、⽚⼭東熊でした。彼は、⻑州出⾝で、若い時に⾼杉晋作の奇兵隊に属していた勤王の志⼠でした。そ の後、建築の道を志し、⼯部⼤学校(現在の東京⼤学⼯学部の前⾝)に⼊学して、ジョサイア・コンドル の⾨下⽣となりました。 しかし、⽚⼭東熊⼀⼈では、その夢を実現することはできなかったでしょう。煉⽡造りの⻄洋⾵宮殿の建 設に対しては、費⽤や耐震性の⾒地から、反対論も強かったからです。ところがそこに強い味⽅が現れま した。平成 22 年のNHK⼤河ドラマ「⻯⾺伝」にもあらわれた⽥中光顕(みつあき)です。⼟佐藩⼠の彼 は、武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒し、後に脱藩して⻑州に逃れ、⾼杉晋作の弟⼦となりました。こう した経緯から、⽥中光顕と⽚⼭東熊の間には親交があったと思われます。 ⽥中光顕は、その後明治政府に出仕し、内閣書記官⻑、警視総監、学習院院⻑などの要職を歴任した後、 明治 31 年 2 ⽉に宮内⼤⾂に就任しました。⽥中宮内⼤⾂は、同年 8 ⽉に宮内省の中に東宮御所造営職を 設置し、その技監に⽚⼭東熊を任命しました。こうして、⻄洋宮殿⾵の東宮御所を建設するという⽚⼭東 熊の⻑年の念願が実現するに⾄ったのです。 3. ⾚坂離宮が建設された当時(明治 32-42 年)は、⽇露戦争(明治 37-38 年)のため財政がひっ迫 しており、また明治天皇が華美を嫌っておられたにもかかわらず、どうしてあのような多額の予算と外貨 を使った華麗な建物が造られたのでしょう。 先ず、財政との関係について述べますと、⾚坂離宮の当初の総⼯費予定額は 250 万円で、実際の所要経費 は 511 万円でした。上述の通り、⾚坂離宮(新東宮御所)建設が決定されたのは、明治 31 年でした。こ の少し前の明治 29 年に、⽇清戦争(明治 27-28 年)の賠償⾦として、清国から 2 億両(当時の⽇本円で 約 3 億円相当)が外貨で⽀払われました。賠償⾦の⼤部分は(83.5%)は、⽇清戦争の戦費⼿当と軍備拡 張に使われましたが、5.5%に当たる 2 千万円は「帝室御料」に編⼊されています。この 2 千万円が⾚坂 離宮建設に直接当てられたかどうかは定かでありませんが、いずれにしても、この賠償⾦由来の外貨と予 算が、⾚坂離宮建設に当たっての当時の政府の⽅針に少なからざる影響を与えた(いわば賠償⾦の「資産 効果」)ものと思われます。 なお、⾚坂離宮の正式の落成は明治 42 年とされていますが、建物の建設⾃体は明治 39 年にほぼ完了して います。従って、⽇露戦争勃発(明治 37 年)までには、建設資材等の諸外国からの調達の⼤部分終わって いたものと思われます。このため、⽇露戦争の勃発は、⾚坂離宮本体の建設には⼤きな影響を与えなかっ たと考えられます。 なお、⾚坂離宮建設の当初の計画では、洋⾵建築の本館に加えて、同じ敷地内に「和館」と呼ばれた和⾵ 建築の居住⽤宮殿と事務所棟が建設される予定となっていました。しかしこれらの建物は、実際には建設 されませんでした。その原因は、⽇露戦争による財政逼迫と推定されます。 次いで、明治天皇のご意向との関係について述べますと、よく知られているように、明治天皇は、⽇常⽣ 活において質素を旨としておられ、新東宮御所(⾚坂離宮)建設に当たっても華美なものをお望みになっ ていなかったと⾔われます。他⽅、前述の通り、⻄洋⾵の新東宮御所建設を強⼒に⽀持したのは、⽥中光 顕宮内⼤⾂でした。彼は明治 31 年から 42 年の⻑きにわたり宮内⼤⾂の職にあった実⼒者でした。従って、 同⼤⾂の意向が明治政府全体の⽅針となっていたものと思われます。 明治天皇は、明治 10 年代には、⾃ら政治の主導権を握ろうとする姿勢もみせておられましたが、明治 19 年に天皇と内閣の間で「機務六条」という契約が交わされ、天皇は、内閣が要請しない限り閣議に出席し ないことなどを約束され、天皇親政の可能性を放棄されました。こうした結果、明治天皇のご⻑男である 皇太⼦殿下(明宮嘉仁親王)のための宮殿についても、政府の⽅針が実施に移されたものと思われます。 4. ⾚坂離宮が東宮御所として完成したのに、当時の皇太⼦殿下が⾚坂離宮にお住まいにならなかったの は何故でしょう。 従来の定説では、設計者の⽚⼭東熊が明治天皇に新東宮御所(⾚坂離宮)の完成をご報告したところ、「贅 沢すぎる」とおっしゃられたために、皇太⼦殿下はお住まいにならなかったとされています。しかし、最 近の調査によれば、より直接的な原因は、「和館」ができなかったことではないかと考えられるようにな りました。 すなわち、煉⽡造りの⾚坂離宮は、湿気が⾼く、また⽇当たりが悪いなど、快適なお住まいとは⾔い難い ⾯がありました。特に、ご健康に優れなかった皇太⼦殿下には不向きの建物でした。そのため、和館の建 設が計画されたわけですが、上述の通り、予算の制約などの理由により実現しませんでした。このため、 皇太⼦殿下が⾚坂離宮にお住まいになることは、そもそも困難だったと考えられます。 他⽅、巨額の予算を投じて建てた東宮御所に皇太⼦殿下がお住まいにならないことについて、当時におい ても対外的説明が必要だったと思われますが、予算の不⾜で和館ができなかったことを表に出すよりも、 明治天皇のご意向を表⾯に出した⽅が説明しやすかったとも考えられます。 なお、仮に明治天皇のご意向が主要な原因であったとすれば、その建物の建築責任者である⽚⼭東熊が責 任を問われたはずです。しかし彼は、その後明治天皇葬祭場の建設等の重要な事業に携わり、また勲⼀等 旭⽇⼤綬章という建築家としては最⾼の叙勲にあずかっており、特に責任を問われたような形跡はありま せん。 5. ⾚坂離宮に東宮殿下⽤の東⽞関と東宮妃殿下⽤の⻄⽞関があるのは何故ですか。 実は、この建物で皇太⼦殿下⽤と皇太⼦妃殿下⽤に別々に造られているのは、⽞関ばかりではありません。 創建当時の⾚坂離宮の建物には、東側と⻄側にほぼ対称形に、それぞれ皇太⼦殿下⽤と皇太⼦妃殿下⽤の ⽞関、御寝室、御座所、御学問所、お居間(3室)等が設けられていました。つまり、建物の東側と⻄側 に、皇太⼦殿下⽤及び皇太⼦妃殿下⽤の完結した住空間が造られていたわけです。(昭和 40 年代に⾚坂離 宮を迎賓館として改装した際、これらの部屋の多くは別の形に変更されて現在に⾄っており、現在は対称 形ではありません。) このような対称形の部屋の配置は、当時の皇太⼦殿下(明宮嘉仁殿下、明治 33 年ご成婚)ご夫妻のお住ま いとして、適しているとは考えられません。(上述の通り、皇太⼦殿下が⾚坂離宮でお住まいになること はありませんでしたが。)なぜ、設計者は、このように部屋を対称形に配置することにしたのでしょうか。 その理由は、⽚⼭東熊ら設計担当者が⾚坂離宮のモデルとして参考にしたヨーロッパの宮殿の⼀つである ヴェルサイユ宮殿にあるようです。同宮殿の中⼼部分は「コの字」型になっています。⼆階の右側が「王 のグラン・アパルトマン」、左側が「王妃のグラン・アパルトマン」となっており、それぞれに、寝室を 含む各種の部屋からなる完結した住空間が造られています。(但し、各アパルトマンを構成するそれぞれ の部屋が同じになっているわけではありませんが。)⽚⼭東熊らは、こうしたヴェルサイユ宮殿の部屋の 構成を基本的に採り⼊れたものと思われます。 しかし、なぜ⽚⼭東熊らが、当時の皇太⼦殿下ご夫妻の⽣活スタイルに適しないヴェルサイユ宮殿の部屋 の構成を取り⼊れたのかは、謎と⾔わざるを得ません。⾚坂離宮設計に先⽴って⾏われた部屋の配置に関 する検討記録が現在も残されているので、このあたりの謎は、今後解明されるかも知れません。 6. ヴェルサイユ宮殿など⻄洋の宮殿の壁には、所狭しとばかり絵画が飾られていますが、⾚坂離宮の壁 に絵画が少ないのは何故でしょう。 ⾚坂離宮の壁に架かっている絵の数が少ないことは確かです。主な絵画としては、2 階⼤ホールの「朝⽇ の間」の⼊り⼝の両側の壁に架かっている⼩磯良平画伯の「⾳楽」「絵画」という 2 つの⼤型作品だけで す。この作品は、昭和 40 年代に⾚坂離宮を迎賓館に改装した際に、同画伯に依頼して作成して頂いたもの です。それ以前は、⾚坂離宮に絵画は殆ど飾られていなかったと思われます。 (但し、絵画ではありませんが、七宝焼きの花⿃の絵 30 枚が、「花⿃の間」(饗宴の間)に⾚坂離宮創建 以来、現在も飾られています。また、創建当時は、⼆階の⼆つのお居間に「古武将⼭狩の図」「孔雀に牡 丹、⽂⿃に櫻の図」と呼ばれた⼤型の京都⻄陣綴織が架けられておりましたが、戦災で傷んだりしたため、 現在は架けられておりません。) ⾚坂離宮に絵画が少ない理由は、幾つか考えられます。第⼀は、この建物は東宮御所として建設された のですが、実際は皇太⼦殿下がお住まいにならず、また、その他の⽤途にもあまり使われなかった(国賓 として訪⽇された英国皇太⼦や満州国皇帝の宿舎として、或いは皇族のお集まりの場として時々使われた だけだったようです)ため、この建物のために絵画の調達する必要がそれほど感じられなかったものと思 われます。 第⼆の理由は、⾚坂離宮の公的に使⽤される部屋の壁の多くが、⼤きな鏡や京都⻄陣織などの芸術性の ⾼い裂地(きれじ)で飾られており、また⽞関ホールや⼆階の⼤⼩のホールの壁は、極めて上質なヨーロ ッパ産の⼤理⽯でできているため、絵画を架けなくても体裁を保てたことでしょう。 第三に、⻄洋的な建物である⾚坂離宮の内部を飾るのに適した絵画を⼊⼿するのが容易でなかったこと も考えられます。というのは、⾚坂離宮の中に飾る絵として、純⽇本的なものは雰囲気にマッチしないし、 他⽅、余り⻄洋的なものも、⽇本の迎賓施設あるいは皇族のお集まりの場にはふさわしくないと感じられ たことでしょう。因みに、上述の⼩磯良平画伯の⼆枚の絵に描かれている⼈物は、男⼥とも⽇本⼈とも⻄ 洋⼈ともつかない顔になっています。 他⽅、欧州の宮殿に絵画が多いのは、歴代そこに住んでいた王族や貴族が⼀族の肖像画や好みの絵を次々 に飾っていったためであり、本格的に皇族のお住まいとして使われたことがない⾚坂離宮とは事情を異に すると⾔えましょう。 7. ⾚坂離宮は、平成21年12⽉に国宝に指定されたそうですが、明治期に建てられ、⽇本独⾃の様式 でなく、しかも現在も国の迎賓施設として使われている建物が国宝に指定されたのは何故ですか。 確かに、明治期以降に建設された建物としては、⾚坂離宮が初めて国宝に指定されました。これは⾚坂 離宮が「明治期の建築界において、意匠的にも、また当時の先端技術を導⼊している点でも、⽇本⼈建築 家の設計による建築の到達点を⽰して」いることから「明治期以降、昭和戦前に建設された我が国建築を 代表するものの⼀つ」として認められたためです。 なお、国宝の建造物というと、⾮常に古い建物というイメージがありますが、必ずしもそうではなく、例 えば、⻑崎県の⼤浦天主堂のように江⼾時代末期(1864 年)に建てられた建物がすでに国宝に指定されて います。因みに、国宝の⼀段階前とも⾔うべき「重要⽂化財」には、現在既に、明治期以降に建設された 多数の建物(例えば早稲⽥⼤学⼤隈記念講堂、国⽴⻄洋美術館本館、⾼島屋東京店など)が指定されてい ます。⾚坂離宮の国宝指定がきっかけとなって、今後更に明治期以降建造の建物が国宝に指定されること も考えられます。 建築の独⾃性の⾯では、⾚坂離宮が「本格的な⻄欧の建築様式を採⽤しつつ、彫刻等には我が国独特の 主題を⽤い、精緻な⼯芸技術が駆使されており、意匠的に⾼い価値がある」ことが認められたものです。 また⾚坂離宮が現在も国の施設として使われていることについては、既に国宝に指定されている建物でも、 現在引き続き使⽤されているものが多数存在する(例えば東⼤寺⾦堂、善光寺本堂など)ことから、国宝 に指定される上で特に問題となるものではありません。 (2011 年 11 ⽉ 30 ⽇寄稿)
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