第11回

我が国の鎮魂歌「海行かば」に思う
NPO 法人孫子経営塾
目
H26.2.6
前原清隆
次
1.はじめに
2.「海行かば」と「国体明微声明」
(1)鎮魂歌「海行かば」の由来
(2)「大伴家持家の家訓」を歌い継ぐ K 大学教育の心
(3)天皇主権説と天皇機関説との関係における政争
(4)明治憲法の特徴
3.敗戦後の「海行かば」と我が国の軍歌
(1)我が国の国歌・軍歌の特徴
(2)我が国の国体を現す伝統と文化
4.おわりに
(1)軍歌を歌い継ぐ
(2)交声曲「海道東征」復活
(26.2.6 付 SK 紙より)
(3)特攻はテロリズムだったのか? 「永遠のゼロ」より
(4)特攻は空の武士道である。
(5)孫子を乗り越えた特攻隊員
(6)「空の武士道」は現在でも健在である。
1.はじめに
去る1月8日偕行社の賀詞交歓会では合唱団の一員として「一月一日」他二曲を合唱し、
更には12日「而今の会」の新年会で「一月一日」を再び合唱しあらためて新年を祝った。12
日の会合は元来が「勉強会」の会合であり、講師は K 大学の T 教授の「『海行かば』の時代的
背景」について講演があった。
而今とは “この一瞬を精一杯生きる”という意味らしい。而今の会は慶応義塾大学名誉
教授・平成国際大学名誉学長・法学博士の中村勝範氏が主宰する自主独立の会であり、
『誇りある日本人を育て、現状に甘んじずに自分自身を高め、日本をより良くしていこうという
人たちの集まり』である。通算 50 年以上の歴史を有するそうであるが昨年一員に加えていた
だいた。
T 教授に依れば、「海行かば」の歌詞は万葉集第18巻の第4094番に出て来る大伴家持
の長歌の一部であり、作曲者は信時 潔(1887~1965)である。1935年(昭和10年)の天皇
機関説事件を発端とした、明治憲法における天皇の役割を巡る社会の混乱を鎮めるために、
『国体の本義』を明らかにし、これを定着させるために生まれた曲として昭和12年11月に初
めてラジオ放送された。所謂「国体の本義」、即ち国民総動員体制下における『天皇を中心と
した社会こそ日本』という「国体明微運動」の一環として広く用いられるようになった。その後、
日米開戦後米軍の反攻が始まり、離島等における玉砕や特攻作戦など態勢が不利に傾く中、
これまでは『大本営発表』における「軍艦マーチ」から「海行かば」が採り入れられ、「第二の
国歌」とも言われるような曲と成ったそうである。因みに、偕行社が発行している歌集「防人の
歌『雄叫』」によれば、明治13年はじめての制式軍歌として制定されたもので、曲は東儀季芳。
一般に広く歌われているものは、昭和12年信時 潔のもので、終行は「かえりみはせじ」とな
っている(明治13年版は「のどには死なじ」)、更に“将官の敬礼に用いた”という注が付され
ている。又、T 教授は明治憲法が“条文と運用が乖離している”事を指摘された。つまり、本国
体の本義に関する二度に亘る「国体明微声明」こそ、明治憲法の条文と運用が全くかい離し
て行く発端となったと思う次第である。
2.「海行かば」と「国体明微声明」
(1)鎮魂歌「海ゆかば」の由来
「海行かば」は、古来大切にしてきた武士道を日本人が大切にしてきた武士道精神文化
の一端である。神話の時代から有ったものであり、大伴家の家訓となっていた「海行かば」が
復古神道に基盤を置く武士道としてこれを裏付けている。元来、天照大神の代々の世継ぎと
して「葦の生い茂る実り豊かなこの国を統治」してこられた天皇、その代々の天皇に仕えて来
た大伴氏の先祖神である「大久米主」が、かつての今上天皇の東国「陸奥の国」の開発に仕
える役柄として、『海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草生す屍となって、大君
の御足もとにこそ死のう。後ろを振り返る事はしない』と誓って、正に「益荒男の穢れ無きその
名を、遥か昔より現在まで伝えてきた、その様な先祖の末裔なるぞ」。と先祖の立てた誓いを
子孫は「先祖の名を絶やさず大君に御仕えするものであると語り継いできた・・・・・・・・・。」と
言われる。
(2)「大伴家持家の家訓」を歌い継ぐ K 大学教育の心
K 大学では、正規の授業の中に「海行かば」を巡る教えが取り入れられて居る。通信大
学過程も併設しており、夏のスクーリングでも本授業が組み入れられている由。先の戦争中
は『第二の国歌』とも言われる程一般的な歌であったようであるが、敗戦後 GHQ の占領政策
より我が国の良き伝統や文化が否定される中で、我が国から完全に『忘れ去られた歌』と成
ってしまった。その様な戦後に於いて一般的な社会からは全く姿を消しているなかで、K 大学
の授業は現今における極めて貴重な存在である。因みに同曲は8月15日(偕行社)合唱団
の一員として、靖国神社で合唱している3曲の内の1曲であるが、日本の伝統や文化を象徴
するような重厚な鎮魂歌として是非とも歌い継がれなければならない曲である。
(末尾の原詞参照)
(3)天皇主権説と天皇機関説との関係における政争
天皇機関説(美濃部達吉貴族院議員)は大日本帝国憲法下で確立された憲法学説であ
り、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機
関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。この考え方は昭和初期まで
は当然として受け入れられていたが、軍部・政友会・右翼等の台頭により、1935年(昭和10
年)に入り、2月の貴族院議会における論争が発端となり、天皇機関説は国体に反する学説
であるとして排撃運動が始まり全国的に激化した。国体明微運動の発端は正にこの社会的
混乱を鎮めるための運動でもあったと言える。
当時の岡田啓介内閣は、文部省から「国体明微訓令」に次いで8月と10月の2回に亘り
「国体明微声明」を発した。“天皇機関説は国体の本義に発し、芟除(サンジョ=取り除く)される
べし”」とし、天皇主権説対天皇機関説を巡る事態は取り敢えず沈静化したものの、『明治憲
法の条文と運用は乖離したもの』となり、大日本帝国憲法下の立憲君主主義の統治理念は
公然と否定されるようになったのである。
(4)明治憲法の特徴
立憲主義と国体を併せ持つ欽定憲法(天皇が定めた憲法)であり、立憲主義で議会制
度が定められ、国体によって議会の権限が制限される。天皇は元首であり統治権の総攬者
であり大権が与えられているが、『君臨すれども統治せず』を基本とし、『輔弼』と言う手段で
内閣を追認する形である。国務大臣・議会・裁判所・枢密院・陸海軍などの国家機関は各々
が独立して天皇に輔弼ないし『協賛』の責任を有する。このために如何なる国家機関も他に
優越せず分立する。しかしながら、実質的な統合者として『元老院』が存在した。
しかしながら、日露戦争等では実質的な統合者としての『元老院』の存在は大きかった
が、大東亜戦争開始時期には実質的な機能はしなかったと言える。元老は、明治以後大東
亜戦争前に国家の重要な政策や首相選任に当った特定の政治家の総称で、明治天皇から
元老待遇を受けていたが、大東亜戦争の生起が切迫する頃には、西園寺公望公(昭和 15 年
没)のみであり、元老院の機能を果さなかった。
唯、2.26事件対応と終戦の『御聖断』は天皇みずから決定した例外であると言える。
特に終戦への「ポツダム宣言受託」の御聖断は『国策的決定としては唯一の例』であったと言
える。
明治憲法第1条における「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」は、天皇が自由
に政治を行うことを意味することではなく、第55条で国務大臣が天皇を輔弼して政治責任を
負うべきことと、法律・勅令などは国務大臣の副署を必要とすることを明記している。更に、
第5条では「天皇は帝国議会の協賛により立法権を行使することを明記している。また軍令
については第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるが、統帥部の長が天皇を輔翼してその
責任を負う習慣が成立」している。立憲君主制の運用とチェック機能が適切に作用しなかっ
たのではないだろう。第11・12条に規定する「統帥権の独立」はシビリアンコントロールの概
念を曖昧にし、軍部の独走を招いたと言っても過言ではない。内閣総理大臣でも統帥事項に
は立ち入れず、陸軍大臣(海軍大臣)でも参謀総長(軍令部総長)の統帥事項には立ち入れ
なかった。更には国務大臣責任制が内閣と内閣総理大臣の権限を著しく制限し、軍部大臣
の現役武官制と相まって、内閣の安定化を妨げた。例えば陸軍大臣(海軍大臣)を陸軍(海
軍)が出さなければ内閣は総辞職せざるを得ない。
3.敗戦後の「海行かば」と我が国の軍歌
(1)我が国の国歌・軍歌の特徴
戦後「海行かば」は我が国から完全に『忘れ去られた歌』と成ってしまった。国歌「君が
代」といい、何とも重厚さを覚えるのであるが、多くの軍歌において通じるものがある。多くの
軍歌の中で歌詞に「敵の用語」があまり出てこないことを T 教授は例を出しながら説かれた。
確かに、約400頁に及ぶハンドブックタイプの「防人の歌 “雄叫” 」(偕行社発行)に収めら
れた「国歌や儀礼歌」「各種の軍学校歌」「各期同期生歌」「兵科・兵種の歌」「歴史的軍歌」
「陸軍の歌」「海軍の歌」「軍団体歌」「日露戦争」「昭和軍歌・時局歌」「寮歌・唱歌」「自衛隊
歌」等々のジャンルに観る数々の歌詞から“敵”或いは“敵性”の活字を見出すのは至難の業
に近い。更には曲想が「敵愾心に燃えたものでは無く」、何となく『演歌』に通じるのは、正に
軍歌が『日本の文化』そのものなのだろう。
国歌や鎮魂歌を歌う事は普通の国家の普通の国民が普通に行う行為である。国歌や
国旗を忌み嫌う教育や行為は所謂“野蛮人”(少なくとも進歩的文化人とは言い得ない)とし
か思えないのだが。我が国は近代国家建設の途上で、国旗と共に外交儀礼上欠かせない国
歌の制定は1888年と言われる。因みに大日本帝国憲法の施行は1890年であり、我が国
近代国家建設の基礎が構築されたと言える。国歌である“君が代”の歌詞は元来古今和歌
集の短歌から採用されたと言われ、曲はイギリスの軍楽隊長「ジョン・ウイリアム・フェントン」
の進言及び作曲(武士の歌を参考にしたとも言われる)を経た後、宮内省の奥好義による旋
律・雅楽演奏者の林廣守が作曲、これにプロイセンの作曲家「フランツ・エッケルト」が西洋風
の和声を付けて編曲して完成したと言われる。因みに、国歌が法制化されたのは国旗と共に、
何と現行憲法下における平成11年である。「国旗及び国歌に関する法律」(平成11年法律
第127号)に基づき “国旗は、日章旗とする。日章旗の制式は、別記第1のとおりとする”
“国歌は、君が代とする。君が代の歌詞及び楽曲は、別記第2のとおりとする” と成っている
(別記第1第2省略)。
元来各国の国歌や国旗はその国の歴史や伝統・文化等に由来するものが多いだけに、
中華人民共和国は自ら三千・四千年の歴史を誇示するにしては、現在の国歌が抗日戦その
ものを持ち込んでいることを、日本の歴史や伝統文化から眺めれば、何とも“ちぐはぐさ”を感
じざるを得ない。(末尾に T 教授も示された中・仏国歌)
(2)我が国の国体を現す伝統と文化
「代表的な日本人」を著した内村鑑三は復興のために第3の条件として、国の実力は軍隊
ではなく「信仰の実力」だと述べた。古くは遣隋使や遣唐使を派遣し外国の多くを学んだ。明
治維新では広く外国へ人材を派遣し近代化に向けた国造りを行った結果、約半世紀後には
世界の五大国に加えられるほどの力を付けた。伊勢神宮では昨年式年遷宮が20年毎に行
われた。飛鳥時代の持統天皇 4(690)年約1300年の昔から、時代の荒波をこえて続けられ
昨年は第62回目の年だと言われる。「社殿を建て替え・装束・神宝を造り替えて神さまにお
遷りいただく」という祭の年である。この行事は8年間かけて行われるそうであるが、新たな材
料や技術の確保に加え、経済効果もあるだろう。取り壊されて残った材料は捨てずに、地方
の神社で再度活かされて再生され、継承されて行くのである。正に『循環・再生・継承の文化
と伝統』がここに定着している。人創りは国創りの如く、我が国古来の伝統と文化に根差した
国創りとは、わが民族古来の遣り方、つまりは統治にあっては(うしはける=私の管理下に置
くという統治」ではなく)「知ろしめる統治」(領民の心や領域の状況を「しろしめす=知らす」統
治)及び外交にあっては「言向け和平す外交」(コトムケヤワス外交)こそ我が国の真の実力では
なかろうか。
かつて我が国は、ソフトパワーを駆使してブラジル中部のセラード地区で行った共同プ
ロジェクトによる「奇跡とも言われる農業革命」により、ブラジルを世界第2位の穀物生産国家
に押し上げた。次はモザンビーク熱帯サバンナを開拓し、アフリカを救うために不毛の地にお
ける第2の奇跡を起こしてほしいものである。我が国は貢献でTICADは一層脚光を浴びる時
代に成る事を願う次第である。これこそ我が国が伝統とする「言向け和平す外交」の姿であり、
「しろしめる」内政と共に、日本の真の再生への道であろう。
4.おわりに
(1)軍歌を歌い継ぐ
国旗・国歌・軍歌を語れば『右翼』と言われる国は我が国以外に在るだろうか。数千年の
歴史と独自の文化と伝統を有する先進国であり多くの人口と経済力を有する国では少なくと
も見出すことは出来ない。軍歌は演歌だ! 若い人達の好む歌をよく吟味すると新しい時代
の演歌が多い様に思う。演歌は、我が国固有の童謡や唱歌と共に、正に日本人の伝統文化
を DNA として秘めている様に思う。同胞の慰霊に対して『鎮魂』の意を込めて『歌い継ぐ』こと
は当り前だろう。残念ながら、多くの善意ある同胞でも、戦後の歪められた歴史観で歴史を語
ったり現在及び将来の在り方を語る人は少なくない。店頭では未だに売れ筋が良く、スクリー
ン上では多くの人達に感動を与えている『永遠のゼロ』は久し振りに深く考えさせるだけのイ
ンパクトがあり、自然に『海行かば』を心の中で静かに吟じている。その一方では、頭から作
品に対する歪んだ評価が有るわけであり、言論の自由の許すところであるが、鎮魂歌くらい
は捧げた後に論じてもらいたいものである。
(2)交声曲「海道東征」復活
(26.2.6 付 SK 紙より)
海道東征は日本神話において、初代天皇である神武天皇が日向を発ち、大和を征服し
て橿原宮で即位(BC660年)するまでを記した説話(神武東征)であり、これを交声曲にした
ものである。
その交声曲「海道東征」が来る2.11の建国記念日に熊本市で演奏されることになった由、
我が国にとって日本精神の蘇えりとでもいえる言えるものではなかろうか。同紙の正論に寄
稿された筆者である「新保祐司氏(文芸批評家であり都留文科大学教授)」によれば、『海道
東征』は、神武東征を題材とし、第1章「高千穂」、第2章「大和思慕」、第3章「御船出」、第4
章「御船謡」、第5章「速吸と菟狭」、第6章「海道回顧」、第7章「白扇の津上陸」、第8章「天
業恢弘」からなり、演奏時間はおよそ1時間である。皇紀2600年(昭和15年)奉祝の芸能
祭に際し、日本文化中央聯盟の嘱により作詞作曲された。作詞は「北原白秋」で作曲は“海
ゆかば”同じ「信時 潔」である。
『海道東征』は、昭和15年11月26日に日比谷公会堂で初演された。当日の成功の様子
について白秋は『演奏時間一時間に渉り、誰もが異常の興奮と感激を以て終始した模様で、
私の感銘も並々ならぬものがある』と書いている。(因みに)熊本で演奏に任じるのは山田和
樹指揮で管弦楽団は横浜シンフォニエッタということであるが、山田氏は名門スイス・ロマンド
管弦楽団首席客演指揮者であり、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者を務める35歳と
いう新進気鋭の一流指揮者である。
戦後の占領政策の影響を強く受けた我が国では、戦前のことを語ったり行ったりすれば、
軍国主義とか右翼だとか「短絡的」「ステレオタイプ的」な言論がマスコミ等でプレイアップされ
るのが常であるが、熊本での演奏は是非成功してほしいものだ。熊本近傍にお住まいの方
の地の利を以てたくさんの方々が好機を活かされることを願うものである。
※注:御船出(ミフナデ)・御船謡(ミフナウタ)・速吸(ハヤスイ=速吸瀬戸=豊予海峡)・菟狭(ウキ=大
分県宇佐)・恢弘(カイコウ=広く行き渡らせる・普及させる)
※神武東征には約40分に及ぶ神楽もあり、各地で受け継がれている。
(3)特攻はテロリズムだったのか?
「永遠のゼロ」には史実に於いても違和感は覚えないが、*海軍の体質と *特攻はテ
ロであったのか否かに関し考えさせるものがある。第1点についてであるが、ゼロ戦闘機に
関する内容であるだけに、陸軍特攻について述べた部分は皆無に等しいことは納得できるが、
イギリスに範をとる日本海軍には英国的な「階級社会」の影響を強く受けたこと、プロイセン
に範をとった日本陸軍には海軍ほどの階級意識が無かったのではなかろうか。その点から
言えば、「永遠のゼロ」は日本海軍における海軍兵学校出身将校(士官・少尉等)とその他の
将校(特務士官・特務少尉等)を公然と待遇を含め差別扱いしていることがいたるところで描
かれている。陸軍では先任将校が、或いは戦闘の特異性に応じた指揮権の委譲が行われ、
現実的な対応が取られている事と比較してみれば明らかである。つまり、「海軍に対する批
判」が読み取れるのである。
第2点の特攻はテロであったのか否かと言えば、当然『NO』である。聖戦(ジハード)の戦
士と特攻隊員は断じて同じではない。大きな違いは、先ず、・『死生観と攻撃目標の違い』に
ある。次いで ・特攻隊員は単なる時代背景や軍部に洗脳された一時的なヒロイズム的な愛
国者ではない。第3に特攻隊員の志願や遺書に顕われた真意には、検閲下という明らかに
時代的な背景を背負っていた事は明らかである。だが、決して「天皇陛下万歳!」ではない
のである。第4にジハードの戦士達は「己と神との契約」に基づく死生観に在るが、特攻隊員
の死生観は愛する家族や祖国に対する純粋な愛情に基づくものにあり、武士道精神に基づ
くアジアの解放者の一人一人であったと言わざるを得ない。方や、敗戦後占領下の検閲下に
洗脳された人達こそ、その後の日本を歪めてきた元凶である。
(4)特攻は空の武士道である。
以下は.「日本人はなぜ特攻を選んだのか」 黄文雄 祥伝社 “おわり”から引用したも
のである。
(長い間帰国を許されなかった後)・・・・ようやく(台湾に)帰国した私は、以前日
本で描いたヘーゲルの精神現象学と空海の「十住心論(ジュウジュウシンロン)を比較した論文を漢
訳したいと思った。だが、西洋哲学と仏教哲学の和文を漢訳できる者がおらず、断念せざる
を得なかった。
そのとき痛感したのは、とくに日本の魂や心は、漢訳不可能ということであった。漢語は、
かつて自分たちが取り入れた仏教さえも、うまく言い表す術を失っていた。2000年にわたり、
仏教を拝し儒教を取り入れてきたためだ。そして儒教とは、きわめて世俗的で、現世利益を
求め、祖先崇拝ばかりに重きを置く。
だから仏教の様な来世思想は、中国人や中国の属国であり続けた韓国人には理解でき
なくなってしまった。ましてや日本人の古来からの自然崇拝と仏教が習合した心のありような
ど理解できるはずがない。
そのため、中国や韓国は日本人の魂や心を曲解することしかできないのだ。だが。儒教
の影響がそれほど大きくない他のアジアでは、日本人の玉魂が理解できる。タイやミャンマー
は敬虔な仏教国だし、インドネシアは少数の仏教徒・ヒンズー教徒・キリスト教徒と多数のイ
スラム教徒、インドはヒンズー教徒が多い。
大和魂は日本人のコアである。そしてこの大和魂が武士道に息づいた。特攻も大和魂
や武士道と深い関係があるのは言うまでもない。
戦後の「人命至上主義」から特攻を「犬死」「馬鹿げた行為」と批判することはたやすい。
だがそれは、命を捨てて国のために戦った戦士を貶める行為であるばかりでなく、大和魂や
武士道までも否定し、ひいては日本人の否定につながる愚かな行為なのである。“
(5)孫子を乗り越えた「特攻隊員」
ア.孫子曰く
「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は彊(強)に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢いなり。」
(孫子第5勢篇より)
孫子は『治乱、勇怯、強弱は、固定的なものではなく 常に入れ替わり、そしてあくまでも
相対的なものであって、絶対的なものではない』と指摘 したが、恐らく志願した隊員の中にも
勇怯が入れ替わりながらも、「家族の為国の為」に、且つ「後に続く者を信じ確たる決意で」任
務に臨んだであろう。又、特攻要員に成りながら、様々な状況で特攻の機会を逸した隊員が
多く有った事も忘れては成らない。 “勇怯の差は小なり、責任感の差は大なり”
イ.孫子曰く
「兵士は甚だしく陥れば則ち懼れず、往く所なければ則ち固く、深く入れば則ち拘し、已
むを得ざれば則ち闘う。是の故に其の兵、修めずして戒め、求めずして得、約せずして親し
み、令せずして信なり。・・・これを往く所なきに投ずれば、諸・劌の勇なり。」(孫子第 11・九地
篇より)
『即ち死地には戦う』と孫子は述べているが、“已むを得ざる境地を更に乗り越え
た”のは、「輪廻転生」・「靖国桜の梢」・「葉隠の武士道」等々、『神仏儒習合の崇高な文化』
が土壌に有ったからだと思う。 “識能の差は小なり、資質の差は大なり“
(6)「空の武士道」は現在でも健在である。
戦後の後の日本ではどうだったかと言えば、平成に入ってからだけでも多くの例を見出
すことが出来る。例えば、平成11年11月22日、航空自衛隊の練習機が墜落し2名のパイ
パイロットが死亡した悲惨な事故が発生した。墜落場所は入間川の河川敷きで幸運にも民
間人には犠牲者が無かった。だが、高圧線を切断したために、東京・埼玉で80万戸が停電
し、交通や ATM が乱れた。翌日の A 新聞は一面トップで「東京・埼玉80万戸停電」、「空自墜
落で高圧線切断・埼玉狭山」、「交通・ATM 乱れる」と大活字である。数段小さな活字で、写真
付きで「2乗員死亡」と報じられた。練習機はコックピットに煙が進入する事象を発見し、入間
基地に帰投するが、途中は『密集した住宅街』が続く。そのために、パラシュート開散高度30
0m迄来てもまだ住宅街と続くため、住宅街を避けて河川敷めがけて更に操縦を続ける。二
人のパイロットは5000時間を超える『ベテランパイロット』であるが、高度60mの高圧線を
切断して墜落死した。脱出の高度は何と『高圧線の高度』と同じだったようである。せめて鎮
魂歌くらいは歌い継ごうではないか。
此ればかりではない、3.11大震災における原発に対し、放射能の濃度の高い破損原
子炉上空から放水したヘリコプターの乗員達は、命がけであった(我が誇れる同期生にもヘ
リコプターの元パイロットは少なくない)。当時の指揮官は苦心の末に乗員の志願を募ったそ
うであるが、全員が志願したと聞き及ぶ。報道の在り方はともあれ、「永遠のゼロ」の武士道
は現在でも立派に引き継がれているのである。否、空のみならず、3.11では地上からの原
子炉冷却に臨んだ隊員や人命救助・御遺体の捜索収容、更には避難者への生活支援など
に昼夜を徹して繰り返し繰返し全国からはせ参じた多くの隊員一人一人が、正に『自己犠牲』
の精神に満ちた無言の背中で国民への安堵感と窮地からの立ち直り感を引き出す力を発し
た。陸にも海にも武士道は活きて居ることを信じる。
おわり。
注1:「海行かば」の原詞
「海行かば」
作詞:大伴宿禰家持
みちのくのくに
作曲:信時 清(1887(M20.12.29)~1965(S40.8.1)
くがね
みことのり
ことほ
陸 奥 国 より 金 を出だせる 詔 書 を 賀 く超過より
みづほ
あまくだ
みこと
葦原の 瑞穂 の国を 天 下 り 知らしめしける
ひつぎ
み よ
よ も
日継と
知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
みつき
山河を 広み厚みと た
おほきみ
てまつる 御調宝は
もろひと
数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が 大 王 の
諸 人を
くがね
ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて
あづま
鳴く
あま
すめろきの 神の 命 の 御代重ね 天 の
いざな
誘
とり
金 かも たのしくあらむと思ほして 下悩ますに
みちのく
鶏が
まう
東 の国の 陸 奥 の 小田なる山に
すめろき
金ありと 奏 し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
みたま
あ
天地の 神相うづなひ 皇御祖の 御霊助けて
遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕
を
食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
はしてあれば
や そ
を
おいひと
もののふの 八十伴の雄 を まつろへの むけのまにまに
だ
をさ
ふ 心足らひに
たふと
撫で賜ひ 治 め賜へば ここをしも あやに 貴 み
かむおや
ひて 大伴の 遠つ 神 祖 の
み づ
かばね
海行かば 水漬く 屍
めのわらはこ
老 人 も 女 童 児 も しが願
おほくめぬし
嬉しけく いよよ思
つかさ
その名をば 大来目主と 負ひ持ちて 仕へし 職
む
山行かば 草生す屍
へ
大王の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ
ことだ
と異立て
ますらを
いにしへ
大 夫 の 清きその名を
をつつ
おや
古 よ 今の 現 に
流さへる 祖 の子どもそ 大
おや
伴と 佐伯の氏は
人の 祖 の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず
つかさ
大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の 官 そ
つるぎたち
梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に
おほきみ
取り佩き
朝守り 夕の守りに 大 王 の 御門の守り
た
や立て 思ひし増さる
我をおきて また人はあらじ とい
さき
大王の 御言の幸 の 聞けば貴み
注2.:外国国歌例
(1)中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」1935 年製作の抗日映画「風雲児女」の主題歌
・起きあがれ!奴隷になるのが嫌だという奴ら!
・俺たちの血肉をかけて新しい万里の長城を築こうぜ!
・中華民族は今最大の危機を迎えているぞ
・一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。
・起て!起て!起つんだ!
・俺達すべてが心を一つにして、敵の砲火に立ち向かって進め!
・敵の砲火に立ち向かって進め!進め!進め!進め!
(2)フランス国家「ラ・マルセイエーズ
・いざ進め 祖国の子らよ ・栄光の日は やって来た
・我らに対し 暴君の ・血塗られた軍旗は 掲げられた
・血塗られた軍旗は 掲げられた ・聞こえるか 戦場で
・蠢いているのを 獰猛な兵士どもが ・奴らはやってくる 汝らの元に
・喉を掻ききるため 汝らの女子供の
コーラス
・武器を取れ 市民らよ ・組織せよ 汝らの軍隊を
・いざ進もう! いざ進もう! ・汚れた血が
終。