予稿集原稿 パネルセッション:日本研究/歴史 1 近現代アジアにおける

予稿集原稿
パネルセッション:日本研究/歴史
近現代アジアにおける文化アイデンティティ
―帝国日本の文化発信ならびに現地での受容と展開―
Cultural Identity in Modern Asia History
Promotion and Reception of Imperial Japanese Culture
チェンチュア・カール・イアン・ウイ(アテネオ・デ・マニラ大学)
松岡昌和(日本学術振興会特別研究員、一橋大学大学院生)
李貞恩(一橋大学大学院生)
酒井健太郎(昭和音楽大学)
要旨
植民地の文化に関する研究では、植民者の被植民者に対する優位が注目されることが多
いが、被植民者が植民者の文化を変形しながら受容して新たな混合文化を形成したことも
看過できない。本セッションはこの両面に注目し、近現代アジアにおける帝国日本の文化
工作とその受容・展開について、特にフィリピン、シンガポール、韓国、タイの4地域に
ついての報告をもとに、多様な視点から議論する。
キーワード: プロパガンダ; イメージ; 異文化受容; アイデンティティ; 大東亜共栄圏
1. はじめに
本セッションは、近現代アジアにおける帝国日本の文化工作・事業に注目し、その手法、
ならびに現地での受容と展開について論じるもので、近現代アジア史、異文化交流・受容、
ナショナリズム、文化的アイデンティティ等の研究領域の共通部分に位置づけられる。セ
ッションは 4 人のパネリストからの報告をもとに、討論、質疑応答を行う。4 人の報告の
概要は以下に記す通りである。
2. 対照的なイメージ:マンガにおけるフィリピン描写(チェンチュア・カール・イア
ン・ウイ)
2.1 教育とメディア
「未来の大人」と見做しうる子供たちへの影響の可能性について検討することは不可欠
であり、最近の研究は子供向けのメディアに注目している。子供の教育、あるいは大人の
価値観の伝達は 2 つの形式においてなされる。それらは公式的には学校教育を通じて、非
公式的には子供たちによる大衆メディアの受容である。本報告は、第二次世界大戦前から
戦後の、フィリピンを描写した日本の漫画の影響と効果を検討することにより、非公式的
な教育の影響や効果に注目する。
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2.2 『少年倶楽部』
本報告は男児向け月刊誌『少年倶楽部』を一次資料として使用する。この雑誌は明治期
に創刊された最初の定期刊行物のひとつである。しかし、その内容がきわめて政治的、プ
ロパガンダ的であったために一般には購読されなかった。それが 1914(大正 3)年に大
日本雄弁会講談社(現講談社)の手で月刊化され、1962(昭和 37)年に終刊するまで長
く成功をおさめた。1945 年までのこの雑誌の内容は国家主義的であったが、カラーペー
ジに加えて有名な作家や画家による寄稿によって、少年たちの人気を勝ち得た。この雑誌
は、世界の動物や科学的な発見を紹介するだけではなく、ニュースや時事問題の報道によ
り若者を教育しづけた。また誌面にはこれらのほか、アクション、冒険、ギャグ、日常生
活など様々なテーマの漫画が掲載された。
2.3 アイデンティティ、オリエンタリズム
少年が何気なく雑誌のページをめくり記事を読み写真を見ることによって、彼のアイデ
ンティティは無意識のうちに形成される。雑誌の情報やイラストなどを楽しむことを通じ
て、少年は少年にとっての世界とはどのようなものか、ひいては少年自身とはだれなのか
といった考えを形づくるようになるのだ。ここにおいて、他者や外国人が重要な役割を果
たした。日本の読者のアイデンティティを強化するために、日本人にとっての他者に関す
る画像、物語、記事が雑誌に掲載された。サイードの『オリエンタリズム』は、西洋的な
「東洋」概念を、アジア文化の奇妙さや神秘性を強調することを通じて、「われわれ」と
「かれら」の対比において捉えた。日本人は同様の仕方で他者を見たが、この場合は「オ
リエンタリズム」ではなくて、西洋人に対する「オクシデンタリズム」であった。
2.4 ダン吉、フィリピノ、ダンちゃんと「南洋」「フィリピン」イメージ
戦前期の日本にとってフィリピンは未知の国ではなかった。長きに渡るルソン島との交
易の歴史を持つ日本は、「南洋」という地域の一部としてフィリピンを認識してきた。さ
らに、ダバオやバギオといったフィリピンの辺境地域に移住した日本人もおり、同国の具
体像を把握することも難しくはなかったはずである。しかし、このイメージは 20 世紀前
半、子供向けに漫画を描いた島田啓三の作品をはじめとする日本のビジュアル・アートに
反映されなかった。島田のよく知られた作品『冒険ダン吉』は、1933 年 6 月から 1939 年
7 月まで毎号 8 ページにわたって連載された。各ページに 2 つの絵と文章が載せられた。
主人公はダン吉という名の日本人少年で、南洋で漂流し先住民の王様になったという設定
である。興味深いのは、登場人物が色白のダン吉少年と黒人の先住民という二元性におい
て描かれていたことである。
島田はその経歴により第二次世界大戦中に陸軍に徴用され、宣伝隊の文化人としてフィ
リピンでプロパガンダ活動に従事した。『ボイ
フィリピノ』という 4 コマ漫画は、日本
軍政下で発行された日刊紙『トリビューン』に、1943 年 1 月 5~23 日の 18 回にわたり連
載された。この漫画の主人公は 2 人おり、1人はフィリピノ、もう 1 人はその父親と思わ
れる年上の男性である。この漫画で興味深いのは、全ての会話が、英語ではなく、カタカ
ナで書かれ、それをローマ字に変換したものが下に書かれていたことである。そしてまた、
島田はフィリピンの読者に、南洋の先住民についての日本人のイメージを押し付けるので
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はなく、『ボイ
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フィリピノ』という短命の 4 コマ漫画の登場人物を通じて新しいイメー
ジを生み出したのだ。
島田の創造的な「冒険」は、フィリピンで得た経験をもとに描かれ、再び日本の読者に
届けられた『ダンちゃんの荒鷲』で終わった。人気キャラクターのダン吉は、ここではダ
ンちゃんという名で登場し、爆弾号と呼ばれる最新小型戦闘機を発明し、南方の前線の日
本兵を助けに行こうとする。おそらく島田が滞在していたことがあったからだろう、ダン
ちゃんの最初の目的地はフィリピンであった。
3.
日本占領下シンガポールにおける『桃太郎』(松岡昌和)
3.1 はじめに
『桃太郎』は、絵本などを通じて幼少期から親しまれるほか、マンガ、アニメ、映画、
時代劇、各種広告媒体などさまざまなメディアを通して日本社会に広く浸透している昔話
である。第二次世界大戦後、この素材は学校教科書からは姿を消したが、戦前は教科書の
定番教材として、用いられていた。本研究は、以下の二点を目的とする。第一に、20 世
紀前半における『桃太郎』の植民地的展開を概観し、その中に日本占領下シンガポール
(以下「シンガポール」と略記)を位置づけること、第二に、シンガポールにおける『桃
太郎』の利用から見えてくる、教育政策・プロパガンダの特徴を描き出すことである。
近代日本における『桃太郎』の系譜については、鳥越(2004)にまとめられている。
一方、植民地・占領地など、「外地」における『桃太郎』については、これまでまとまっ
た研究がなされていない。植民地については、游(1998)、大竹(2008)がそれぞれ台
湾・朝鮮について児童文化を論じる中で昔話にも言及している。しかし、東南アジアを中
心とした「南方占領地」については、この点についてほとんど手付かずの状況である。
3.2 近代日本と植民地における『桃太郎』――「皇国の子」と「国語普及」
近代日本において、『桃太郎』は、「たくましく成長した桃太郎が村人を苦しめる鬼を
退治する」という筋書きゆえ、富国強兵を推し進める日本において「皇国/興国」のシン
ボルとして多く用いられることになった。この物語は、『尋常小学読本』(1887-)に採
用され、その後一貫して 1 年生前半用の定番教材となり、また唱歌教材、体育の唱歌遊戯
の素材としても終戦まで一貫して用いられ続けた。
また、「正義の味方」である桃太郎が「悪事をはたらく」鬼を退治するという筋書きは、
容易に近代日本の対外戦争と結びついた。『桃太郎』を素材とし、戦時における敵国を鬼
として描く作風は日露戦争の時から始まっている。英米との戦闘状態に入っていた 1940
年代には、「鬼」である英米に対して桃太郎が勝利を収めるという筋書きのアニメ映画
『桃太郎の海鷲』、『海の神兵』などが制作された(ダワー 2001; 秋田 2004 ほか)。
「国民的知識」となっていった『桃太郎』は、日本の植民地となった台湾・朝鮮におい
ても、「国語」普及や児童文化の確立の中で広まっていった。この物語はそれぞれの地で
読本教科書、唱歌教科書、あるいは副教材などに採用され、「国民的知識」として学校教
育の場から普及が図られていった(宮脇編 2010 ほか)。なお、台湾において興味深いの
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は、志村秋翠「台湾の桃太郎」(『童話研究』17-4, 1937)に見られるように、現地文化
の中に桃太郎を移植しようとする試みが行われたことである(游 1998, 322)。
3.3 日本占領下シンガポールにおける『桃太郎』――「昔話」の不在
1942 年 2 月に日本陸軍によって占領され、軍政が敷かれたシンガポールにおいても、
『桃太郎』は教育・プロパガンダに利用された。台湾・朝鮮とは異なり、同地で用いられ
た日本語教科書にはこの物語は掲載されていないが、こども向け新聞『サクラ』と、舞台
演劇の素材として用いられたことが確認できる。現地住民に対する宣撫を主な任務とする
軍宣伝班が 1942 年 6 月に実施された日本語普及運動を機に刊行したカナ新聞である『サ
クラ』では、宣伝班員であった詩人の神保光太郎が、日本の昔話の紹介の一環として
1942 年 8 月発行の第 7 号にその概略を記している。しかし、それはわずか 100 字あまり
で述べられたものに過ぎず、物語の概略が十分に説明されてはいない。
1942 年 7 月には宣伝班員の小出英男が指導にあたって、昭南少女歌劇団によって華語
版『桃太郎』劇が上演された。この物語は、日本を代表する桃太郎が「鬼」である英米に
苦しめられている南方諸民族を助けるべく、チャーチル、ローズヴェルト、蒋介石を倒す
という筋書きである(小出 1943, 209-247)。この脚本は日本の昔話に強引にシンガポー
ルの事情を組み込んだといった印象が否めず、「国民的知識」としての『桃太郎』が不在
の地にあって、数多ある「鬼畜米英」プロパガンダの一つとなってしまっていると言える。
3.4 おわりに
前節で見たように、シンガポールにおいては日本内地や植民地と異なり、『桃太郎』が
日本語や「国民的知識」の普及の題材として戦略的に用いられた形跡が見当たらない。そ
こには、現地文化を理解せず、日本語・日本精神を一方的に押し付けることしかできない
余裕の無さが垣間見られる。それは一つにはプロパガンダの担い手となる「文化人」宣伝
班員たちが、現地に根を下ろした人物ではなく、短期的に徴用されてプロパガンダに動員
されたに過ぎないことが理由として挙げられよう。その他にも、戦時期における「鬼畜米
英」概念について、吉見俊哉(2007, 57)は興味深い考察を行なっている。この時期のア
メリカが、たとえ偏見に満ちたものであれ、日本を「実証的」に研究していたのに対して、
日本はアメリカを他者として直視することができず欲望や憎悪の対象にしかならなかった
のである。『桃太郎』にみられるような鬼畜米英プロパガンダは、「支配者」となった日
本人の一方的な英米に対する欲望の裏返しとしての憎悪、あるいは欲望を内包した憎悪に
過ぎなかったのではあるまいか。
4. 植民地朝鮮に現れた「新女性」というディスコース誕生の背景とその意味(李貞恩)
4.1 「新女性」という問題
現在、韓国では「新女性」研究が盛んになり、「新女性」の生と思想、伝統への挑戦と
見なされた自由恋愛・自由結婚、「新女性」が体現した近代性、日韓「新女性」の比較な
ど、様々な研究テーマが出始めている。特に、最近では植民地・家父長制・近代化・フェ
ミニズムなどと関連づけて再検討されるまでになってきた。これらの研究は確かに「新女
性」の社会的位置、役割、生活像を眺望する重要なきっかけを提供している。しかし、こ
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れらの研究は「新女性」が最も活動した 1920~30 年代に偏って、1920 年代以前の近代女
性研究は軽視してしまう傾向がある。1920 年代からの「新女性」が強力な時代的シンボ
ルになったことは明らかであるが、彼女たちを出現させた前時代の社会と女性たちにも注
目すべきであろう。
本研究では、従って 1900 年代の新聞論説から「新女性」という言葉とどのように繋が
って、「新女性」が一つの時代的現象として、新たな社会勢力として現れたか、その理由
を明らかにする。
4.2 朝鮮の近代化
1900 年前後は朝鮮社会において西洋と日本から近代文物を受け入れながら近代国家と
しての認識が広がった近代啓蒙期だった。 キリスト教の受容、東学の人間平等思想、開
化期女性解放思想などによる啓蒙の熱気が高まっていたため、女性たちが近代に目覚め始
めた時期になったと考えられる。しかし、朝鮮の開港とともに進んできた近代化過程の中
でも朝鮮の家族や社会は徹底的に男性中心主義であった。そのため、家父長制、女性蔑視
などの伝統に抑えつけられた女性たちの中で、新たな思想と文物に接した一部女性たちが
自己意識に目覚め始めたとしても容易に社会進出することは不可能であった。それで、女
性に関するディスコースの形成主体は従って女性ではなく男性だったが、彼らが朝鮮の開
化期的雰囲気をいち早く見極めた開化派知識人であった。日本に留学した経験を生かして
女性に関する問題提起と自覚を世論化させるために新聞を創刊し、「新しい女性像」を提
示した彼らの中で、最も目立った活動をしたのが、徐載弼の『独立新聞』と李鍾一の『帝
国新聞』だ。二つの新聞は他新聞よりも開化派知識人たちが参加したため、当時若き知識
人たちから見た女性に対する現実認識を幅広く観察されうる。
4.3 女性の近代化と国民化
当時どのように女性と関連する問題と認識を朝鮮社会に投げ出したか、その上どのよう
な新しい女性像を提示したかを考察した結果、最も多かった内容が女性の権利・男女平等
を主張しながら、女性に男性と同じく教育を与えるべきだと強調して近代市民社会を作ろ
うとしたことだった。家父長制的家族経営、早婚制度、畜妾制度、妓生制度、内外法など
の廃止を訴え、特に女性に男性と等しく教育を受けさせるべきだと強調した。しかし、
『独立新聞』の論説はほとんど女性教育の重要さを述べていたが、『帝国新聞』の場合、
女性教育はもちろん、当時朝鮮全般にかかわっていた女性社会問題について扱っていたの
が違った。まだ、開化期が進行していく中であったため、さまざまな限界が生じたにもか
かわらず、二つの新聞は朝鮮社会で女性に対する新しい認識を埋め込んだのは確かだ。つ
まり、女性たちが自ら人間として自覚し、意識成長するような社会が作られ、新たな女性
の権利、男女平等を主張するように、女性の近代意識形成に大きく貢献したのである。
実はこのように男性たちが女性たちに進歩的意識を注入しようとした目的は国家を文明
化し、女性を国民化することにあった。しかし、新しい女性たちが男性、儒教知識人・読
者によって指導されたとしても、近代に目覚めるようなきっかけになったのは確かだ。そ
の結果、1910 年代に至って幅広く一般女性にまで拡がり、そのような女性を示す新しい
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女子、近代女子、啓蒙期女性などの言葉が出てきて、後に「新女性」を生み出す土台を作
った。
5. アジア太平洋戦争期の日本-タイ関係と文化交流(酒井健太郎)
本報告では 1930~40 年代の日本-タイ間の文化事業について、それに関与した団体・
組織について概括し、特に日本の文化事業に対するタイの対応に注目する。また、その前
提として対外文化事業に着目する必要性と、同時期のアジアにおける日本-タイ関係の特
異性に言及する。
5.1 対外文化事業研究の意義
外交には、外務当局者による政治交渉のほか、自国をより深く理解してもらうことを目
的とした文化交流も含まれる。文化交流は国家的な施策としてだけではなく、民間の組織
によって実施されることがある。ここではこうした活動を(対外)文化事業と総称する。
日本は 1920 年代に中国での反日感情の緩和を目的に、中国に対する文化事業を開始し
た(管轄は外務省)。日本はそれ以降、特に 1933 年の国際連盟脱退以後は、欧米、南米、
アジアに対する文化事業を盛んにおこなうようになる。1920 年代以降の日本の外交につ
いて検討するためには、こうした対外文化事業にも注目する必要がある。
対外文化事業の形式や内容には、事業の実施主体の文化的アイデンティティが反映する。
さらに、文化事業を受容する側には受容する側の文化的アイデンティティがあり、それに
よって受容の仕方が変化する。したがって、文化事業の実施ならびにその受容のありよう
を検討することから、実施者と受容者の文化的アイデンティティを考察する手がかりを得
ることができる。対外文化事業を研究することの意義はこうしたことにある。
5.2 日本-タイ関係研究の意義
日本は明治期以降 1945 年まで、概ね一貫して超国家主義的あるいは膨張主義的だった。
そうした姿勢をもとにして、日本は東アジア、東南アジア、南洋諸島へ進出し、それらの
地域において、いわば統治者(植民者、占領者)としてふるまった。つまり日本とそれら
の地域の間に築かれたのは、非対称な関係であった。多くの研究者が植民地や占領地にお
ける日本の施策に注目してきた/するのは、そうした歴史的経緯があるからだろう。
そうしたなかでシャム/タイ(以下、便宜上呼称をタイに統一する)は独立国家であり
続け、1941 年末に日タイ攻守同盟条約を締結するなど、少なくとも形式上は日本と対等
な外交関係を保持した。この点で日本-タイ関係史はアジアの歴史において特殊である。
日本-タイ間での活動に注目することによって、1930~40 年代の日本の対外文化事業の
新たな一面を知ることができるだろう。ここに日本-タイ関係史に注目する意義がある。
5.3 日本-タイの文化交流
近代における日本人のタイへの渡航は明治期に始まり、明治末期から大正期には銀行や
商社の支店がタイに設けられるまでになった。人的交流の深まりを受けて 1913 年に日本
人会、1926 年に日本人学校が設けられた。さらに、1927 年には東京で暹羅協会(現日本
タイ協会)、1935 年に三井合名社内に暹羅室(後にタイ室、その後、日本タイ協会と合
併)が立ち上げられた。日本側のこうした動きに対して、タイでは 1936 年に日暹協会
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(これは暹羅協会の会報における呼称)が設立された。さらに 1942 年には日泰文化協定
が締結され、翌年バンコクに日泰文化会館が設けられた(初代館長は、外務省で文化事業
に携わった経験のある柳澤健)。この日泰文化会館は当初の計画では、日本の対タイ文化
事業の拠点として、日本文化会館の名で設置されることになっていた。それが日本-タイ
両国の文化交流の機関として日泰文化会館に変更されたのは、タイ側の強い要請による。
日本の暹羅協会のカウンターパートとしてタイに日暹協会が設立されたことや、日本文
化会館が日泰文化会館に変更されたことから、少なくともタイ側には日本-タイ間の文化
事業を対等な関係において実施する意思があったと考えられる。このようなところに、ア
ジアにおける日本-タイ関係の特殊性が現れていると言えるだろう。
以上、1930~40 年代の日本-タイ間の文化事業について、それに関与した団体・組織
について概括した。これを踏まえることは、両国間で実際におこなわれた文化事業の内容
の分析と、それをもとにした両者の文化的アイデンティティの考察において必須である。
例えば、日本がタイに対しておこなった文化事業は多く知られているが、一方でタイが日
本に対しておこなった文化事業は多くない。このことだけに注目すると、タイは日本の文
化事業を受け入れることが多く、そのため日本-タイ間の文化事業は非対称な関係にあっ
たように見えてしまう。しかし上述のように、日本-タイ両国間の文化事業は、形式的に
は対等な関係においておこなわれたと考えられるのである。
なお、以上は主に日本側の歴史資料をもとに構成した日本-タイ間の文化事業のありよ
うである。ここでタイ側の資料を利用することができれば、より正確で複眼的な検討が可
能になるだろう。報告者が確認したところによると、タイの国立図書館には日暹協会が発
行した『
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に用いられていない。こうした資料を発掘・活用して研究をおこなう必要があるだろう。
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