中江兆民「一年有半」

中江兆民「一年有半」
現代語訳
三
浦
良
2010/08/31
訳
第一
1 年半の由来
明治 34 年 3 月 22 日東京出発、翌 23 日大阪に到着した。2,3 人の友人
が停車場へ迎えに来ていて、私の顔をじっと見つめて大いに驚いて、私
がその場で卒倒するのではないかとまで思ったと、旅館に着いた後に言
がいそう
った。そうだろう、私は去年 11 月から咳嗽(せき)が繰り返し起きるよ
の
ど
うになって、当時咽喉専門の医者の診断では、普通の咽喉カタルという
ことで、しばらくほったらかしておいたところ、咽喉に次第に痛みを感
じ、飲食ともに半減した時に、夜汽車でやってきたので、そのような疲
労が現れたのだろう。しかし、この時私はやはり慢性の咽喉カタルくら
いに考えてほったらかして、4 月に紀州の和歌の浦へ行って 4,5 日遊ん
だ。しかるに、その頃からそろそろ呼吸が少し早まるようになり、のど
の痛みも依然として収まらず、私も素人とはいえ少し気を使って、ひょ
そうそう
っとしていわゆる癌ではないかと思い、そこで行李も怱々に大阪へ帰り、
耳鼻咽喉専門医の堀内某の診断を受けた。医学の例により光線を利用し
て、詳しく調べて、これは手術が必要と言う。私はこれできっと癌だと
考えて、それならば一身を任せるので切開をするようにお願いし、すで
に私の友人で私の依頼により手術の証人になることを了承していた者に、
いよ
手紙で私の留守宅へ送って詳細を知らせた。妻の禰は大変驚いてあわた
だしく大阪へ来て、私が投宿していた中の島の小塚にやってきた。そう
こうしているうちに、皆は癌摘出手術は極めて危険で、九死に一生もな
い、むしろ維持策を取るのが一番だと言って、私をしきりにとどめた。
私ももとより好きで早く死にたいのではなく、少しでも息があればきっ
とやることがあり、また楽しむことが出来ることを知っていたので、癌
摘出手術の方は思いとどまり、そして堀内医師も無理強いせず、やはり
危険と考えたと見える。
寿命の豊年
私はある日堀内を訪問し、
「あらかじめ隠すことなくはっきり言ってほし
いとお願いして、これからいよいよ臨終に至るまであとどのくらいの日
月があるか、その間になすべきことや楽しむべきことがあるため、一日
でも多く利用したいので、このように聞いて今後の心得をしようと思う」
と聞いた。堀内医師は極めて優れた人である。深く考えて、2,3 分して
から極めて言いにくそうに、
「一年半、しっかり養生すれば 2 年はもたせ
られるだろう」と言った。私は「高々5,6 か月と思っていたので、1 年
は自分に寿命の豊年だ」と答えた。この書を題して「一年有半」という
2
のはこのためである。
1 年半は悠久なり
1 年半を諸君は短促(極めて短い)というかもしれない。私は極めて悠久
であると言う。もし短いといいたければ、10 年も短い、50 年も短い、百
年も短い。(人が)生きる期間には限りがあって死後には限りがない。限
りがあるものを限りがないものに比べる短さはありえない。始めから無
である。もし為すことがあってそれを楽しむ場合には、1 年半は優に利用
できるのではないだろうか。ああ 1 年半も無なら、50 年、百年も無であ
る。すなわち我々は虚無海上一蘆舟(海に漂う空の船のように虚無)
。
世界との交際
こうして 1 年半という死刑宣告を受けて以来、私が日々楽しみにするも
のは何か。旅行中だから本もなく、まずさしあたり当地の朝日、毎日の
二つの新聞と予てから愛読してきた東京の満朝報を読むことである。す
なわちこの三新聞によって私は世界との交際を継続していることになる。
この間伊藤内閣が倒れて桂内閣が代わって興きた。極めて弱々しい立憲
内閣、いや立憲内閣の幻影も消えて超然内閣(政党無視の怪物)が勃興
した。桂内閣なるものはそれが成立しただけで、世の立憲政治家に対す
る宣戦布告ということができる。
だんかん
超 然 の 怪 物 弾冠
星亨は健在だろうか、犬養毅は健在だろうか。野党政治家も一たび利益
して笑う
を目的とし、権勢を目的とし、威厳を目的にして以来、超然の怪物と一
緒になって、任官を狙って笑いながら、野党など恐れるに足らず、とい
う。
コルベールの時
伊藤、大隈のライバル関係の時代は去り、伊藤、山縣のライバル関係の
代
時代になった。民間の意気消沈はここにきわまった。かくしてその原因
は財産が無くて苦しむことにある。故に私は今の日本はコルベールの時
代だという。
マンチェスター
わたしはこれまで新聞雑誌に時々意見を述べてきた。マンチェスター派
派の賜物
経済理論は我が日本の官民上下を長い間にわたって毒してきた。すなわ
ち、自由放任の経済主義が、明治政府とともに発展してその力を強めて
きて、いまや経済界の付属品ともいうべき交通運輸機関は日々整備され
てもこの機関に乗せるべき主要な産物は 30 余年以来どれほども増えてい
ない。車両があっても積むべき貨物がない、これがわが国の今日の経済
界の実態である。これがマンチェスター派経済論の賜物である。
3
国民はだれに頼
官民上下ともに貧困に苦しんでいる。この時に当たって施策はすべて姑
ればいいか
息で、人情は日々薄らいでいる。内閣もまた国の政治を担うとは思えな
いほど、私利をむさぼり権勢をもてあそぶ最高に便利な階段になってい
る。貴族院は表向き政党政治の弊害を矯正すると称して、陰で機に乗じ
て自分を内閣の利権に割り込ませようとして、無理に攻撃を装う険悪極
まる物体の集合所である。衆議院とは何か。これもまた言うに及ばず、
餓えたトラの集団に過ぎない。このように一国の政治の中心機関である
内閣、貴族院、衆議院の各団体であって薦紳的野獣(高官の皮をまとっ
た野獣)がたむろする巣窟になって、国民は果たして誰に頼ることが出
来るだろうか。コルベールが出現して意のままにさばいて大いに利益の
源を開発して、官民上下を豊かにさせるか、あるいは自然の成り行きで
多くの年月を経てコルベール並みの才覚を発揮したと同じ効果が得られ
なければ、わが日本の政治経済はついに見るに堪えないものになり果て
るだろう。
越路太夫を聞く
以前私が大阪に来て、かって文楽座の義太夫が極めて面白いことを知り
じん た ゆ う
(私は春太夫、靱太夫を記憶している)、旅館の主人に頼んで文楽座へ行
った。越後太夫の「合邦ケ辻」の出しもので、その音声の玲瓏さ、曲調
の優美さ、桐竹、吉田の人形遣いの巧みさ、はるか昔の十数年前に聞い
たものよりはるかに勝る。私はもともと義太夫を好んでいる。特に大阪
のものを好み、東京のものを好まない。東京の義太夫は大阪のものと比
べると児戯にも値しない。その後また、越路の「天神記・寺子屋の段」
を聞き、
「忠臣蔵七段」において呂太夫が平右衛門を演じ、津太夫が由良
之介を演じ、越路太夫がお軽を演じ、いわゆる掛け合いで語り、さらに
越路太夫が九段目のお石となせの遣り取りを語るのを聞いた。又、明楽
座で大隅太夫の「千本桜すし屋の段」を聞いた。それから 4 月 20 日に妻
が来るのを待ってまた一緒に文楽座へ行き、その後しばらくしてまた出
かけた。故にこの忠臣蔵の浄瑠璃を妻は二度聴き、私は三度聴いて全く
飽きないどころか、聞くほどにますます面白味を感じてきた。芸が巧み
な証拠である。まさしく津太夫の美貌とその落ち着いてものに動じない
音声、重々しい洒落などはまさに千五百石の赤穂の家老である大石内蔵
戯曲界の一偉観
助その人を思わさせる。呂太夫がうまく関東の言葉を使い、率直で任侠
の風であるのは平右衛門にぴったりである。さらに越路の優美な音声と
綾なる曲調に至っては、お軽を演じる人で彼に及ぶ者がいるとは思えな
いほどである。まことにこれは戯曲界の一偉観と言うべきものだろう。
4
私はこれまで三度この偉観に接してきた。1 年半は決して短くないと言う
のはここである。孔子も言っているではないか、朝に道を聞いて夕べに
死すとも可なり、と。
気管切開の一法
しかしながらいわゆる 1 年半の期限も徐々に歩を進めて減ってきた。も
あるのみ
し残りの期限が減らないなら、1 年半でなく不老不死になるだろう。私の
喉の腫れものも次第に発達して大いに呼吸を切迫させるようになって夜
間安眠することが出来ないので、堀内医師に相談した。この時私は妻や
友人の勧めで、いったん東京へ帰って再び下阪したいと思っていた。堀
内医師は診察して、
「それは危険極まりない、もしこのままで汽車に乗る
と途中できっと窒息してしまう。これを防ぐには気管切開の方法がある
だけだ。これはとても簡単な手術で、気管の適当な場所に穴をあけて、
銀管を挿入して呼吸に備える方法である」と言う。妻は心配して決めら
れず、急に電報をして私の従弟の医学博士浅川範彦を呼んで相談したと
ころ、範彦も当然堀内医師と同意見であった。さらに当地の伝染病研究
所所長の石神某とともに立会人となって、5 月 26 日に堀内医院で切開手
術を行い、医院の前にあった浅尾某の一室を借りて療養することになっ
た。
ついに不具者と
浅尾の家は今橋一丁目にあり東横堀に面し、右に高麗橋があり左に築地
なる
橋があって、さらに前方、つまり東方に天神橋が堂々と架かり、夜間に
は両岸の明かりが水にうつって煌々として見事な水の都にいる思いにさ
せる。ここで毎日堀内院長が往診して傷口を治療し、私は床に就いたま
ま動くこともなく医者の指示に従った。気管切開手術は、簡単な手術で
あることには違いないが、手術は手術であって、初めは相当な痛みがあ
がいそう
り、咳嗽(せき)するたびに痰が口から出ないで胸から出る。しかも声
は全くかれて少しも響かず、非常に近接して少しだけ談話できる位だっ
た。予想通り私は一種の不具者となってしまった。しかもそれは根本的
な治療でなく、高々1 年半を迎えるまで窒息して死ぬのを防ぐにすぎない
だけだった。
いささか哲理的
気管切開のことが東京、大阪に伝えられて以来、手紙が日々方々から寄
工夫を要す
せられ手術後の経過の状態を尋ねるものには、私は妻に経過は極めて良
好なりと書かせた。大体において世間の多くの人は癌における気管切開
がどんなものかも知らず、すぐに根本的切開と考えていた。さらに返信
で大いに祝賀して来るものも皆これであった。いわゆる 1 年半の余命は
5
ただ私と妻が知るだけであった。東京から来た郵便中に二人の子供の葉
書若しくは封書があって、父上の病気もおいおい回復云々とあった。こ
れには父親として私もいささかストイック哲学の工夫を凝らして、自分
で防がざるを得ない。人間もまた何と理非の区別もつかない愚かな動物
であることか。笑ってしまう。
温泉場の養生
私の妻は、私があらかじめ案じていたよりも意外に哲学的で、夫の 1 年
半において苦情を言わず、すべての点で私の心の中の思いを汲むことに
努めてその時を楽しみ、それで自らを慰めていると見え、今この病院に
いても、なんとなく陽気であたかも温泉場で養生をしているかのようだ
った。うつらうつら日を送り、そのうち傷口もすべて癒着して、ただ咳
がおさまらないだけになった。そういうわけで 6 月 18 日に退院して再び
中の島の小塚旅館へ帰った。
団平と大隅太夫
これより前、まだ入院する前、私は妻と連れだって堀江の明楽座へ行き、
大隅太夫の浄瑠璃を聞いた。妻が大隅を聞いたのはこれが初めてだった。
大隅は名人故春太夫の弟子で、春太夫没後、三味線をまかせたら古今無
双と称された豊沢団平に弟子入りし、団平に神品(神業、人ものものと
は思えない優れたもの)ともいえる三味線の芸を教えられて、自然に故
うんおう
春太夫の音節の蘊奥(極意)を極めることが出来たという。ことに近頃
流行の壺坂寺のごときは団平が創始してこれを大隅に伝えたもので、今
日ではほぼ大隅の専売といえる。私は退院して小塚へ帰るや、明楽座が
その三十三所の演目に掲げ、壺坂寺の段は大隅太夫がこれを語ることと
なり、毎日大入りだと聞いた。
大隅太夫の壺坂
このように壺坂寺の段は、大隅太夫の十八番ともいうべきもので、その
ために大いに受けていると言うので、是非一度は行きたいと思い、ある
日妻とともに出かけた。明楽座は人形といい、人形遣いといい、到底文
楽座の優れた巧さには及ばず、そのほか道具もすべて及ばない。そうで
あるのに午後 2 時、3 時ころから客が続々と詰めかけて、ついに場内で立
錐の余地もないほどの満員になった。この人たちはその他の太夫には目
もくれずに、ただ大隅一人を聞くためにかように雑踏している人たちだ
った。これからみれば、大隅一人で優に文楽座の向こうを張っていると
言うことが出来る。
技ここに至ると
三十三所も順次段を追って、ついに壺坂寺の段に至った。序幕は春子太
神なり
6
夫が陰で語って引き下がり、次いで大隅太夫が相撲取りのような太った
体で出てきた。やがてかの有名な法師歌(上方唄)の「夢が浮世か浮世
が夢か」を歌いだし息がなくなりそうでなくならず、その沢市と里の話
をしていると両人がその場に出現したようで、舞台から大隈太夫の姿が
消えているようである。ああ、この技に至ると神業である。これは浄瑠
璃だろうか、噺だろうか、活劇だろうか。他人の浄瑠璃は浄瑠璃である。
大隈の浄瑠璃は事実そのものである。さらに彼はことさらに拍手喝采を
得ようとする態度は全くなくて、ただ自ら語り自ら芸を研究して、自ら
満足して自ら楽しんでいるようなところが真に高尚上品で、到底他のろ
くでもない者と比べ物にならない。ああこれこそこの道の聖人というべ
きものだ。
星享と伊庭想太
6 月 21 日夜、朝日新聞の号外が送られてきた。本日午後 3 時星亨が東京
郎
市会において伊庭某のために刺されて即死した、という。私も驚いた。
それから 26 日に葬儀が終わるまで、東京、大阪の新聞は毎日 1,2 欄星亨
暗殺事件の詳細を掲載しないものはなかった。いわゆる一国如狂(国全
体が狂っている様子)なのだろうか。どうしてわが国の人は軽薄で落ち
着いた態度に乏しいのだろうか。生前の星は追剥盗賊で、死んだ星は偉
人傑士である。人の是非や人を褒めたりけなしたりする世評は定まらな
いものである。伊庭某について私は一面識がある。名前を想太郎という。
極めて温厚で落ち着いた人である。それなのにこうした挙に出たのは理
由がないとはいえない。ただ、暗殺自体の善悪はいうまでもない事で、
刑法で人を殺すことについてはなお多いに議論すべきこともあるが、死
刑を廃する論が各国で行われてところである。言うまでもなく互いに人
が殺しあうことなどは許されることではない。
暗殺は必要なり
こうしたわけで暗殺はその事件だけの是非を論じるべきものでなく、む
しろその国の社会が暗殺の必要を生み出したことこそ哀しむべきことで
ある。人は或いは勢いに乗じて威張って、恥じることがなくなるかもし
れない。その悪をほしいままにすることが明らかでも、法律で公然と捕
まえることもできず、彼は自分を当てにして少しも他を顧みることもな
く、こうして人の道に怒る侠気の人が立ち上がって天下のために人を刺
し殺す。この勢いはある程度やむをえないものがある。伊庭は確かにこ
のように信じただけである。ここから更に一歩を進めると、文明が大い
に開けて法律も用がなくなり、道徳だけが一人力を発揮して、いいかえ
れば一国の人々が皆君子(紳士)になった暁は知らないが、仮にも社会
7
の制裁力が弱い時代にあっては、悪を懲らして禍を防ぐために暗殺もき
っと必要欠くべからざるものと言わざるを得ない。
ハイ カラ
ハイカラ連の欺
世にはまた一種の灰殻連というべき連中がいて、自分が文明人であるこ
偽
とを宣伝しようと、むやみに被害者に同情を表し、自分の気持ちを曲げ
て賞賛媚悦(褒めちぎり)し、加害者を直ちに兇漢と決め付けて、自分
が文明人で温和な人であることを見せかけて、その本心を問えばまさに
かい
これと反対で、心の底ではこの事件を快(心にかない、喜ぶこと)とする者が
多々あることを知っている。なんと欺瞞の世の中であることよ。教育の
ごときはその大事なところをまさに根本から改革しなければならない。
範彦は呉服屋の
6 月 29 日、東京の文部省で、法理医文の諸科で博士号を受けた者が 30
帳面に非ず
数名いて、私の従弟の浅川範彦もまた医学博士の称号を受けた。範彦が
懸命に勉強したことは他の誰にも負けない。北里や後藤などの著名な医
師の目に止まるほどだった。初めは郷里を出て東京へ遊学するや、私の
家に数ヶ月仮住まいした。私は彼に、立派な男子が一つの学問の勉強に
従事したのだから必ず 1,2 の新しい意見を見出して、社会や後世から称え
られなければならない。ニュートンの引力、ラボアジェの酸素などはま
さに大いに人を驚かせた発見である。そうではなくただ書物で学んだだ
けでは、その頭の中に昔の人の言葉を記憶するに過ぎないので、呉服屋
の帳面と同じである。これで何が学士か、何が博士か。男子は一たびこ
の世に生まれたら必ず一大爪あとをしるすべきであると言った。範彦は
深くうなずいてそうしますと言った。今回博士の学位を得たのはまさに
細菌学で大いに新しい発見を発表したためであった。予想にたがわず範
彦は呉服屋の帳面ではなかった。笑える。
井上、白根は今や
ところで新しい発見を成し遂げると言うのはどういうことなのか。その
亡し
人の学術が大衆より秀でているのは勿論のことだが、そもそも真面目で
なければならない。あのニュートンやラボアジェなどは極めて正しい道
を進んだ人である。極めて真面目な人である。或る人がニュートンに何
故あのような大発見が出来たのかと聞くと、ニュートンは、私はただひ
たすら考え続けてきたので達成できたと答えた。その心境はいかなる人
も見習うべきである。俗に言う、少しばかりの知識と学問があって、横
着でいわゆる図々しい小人たちが見習うべきことではないだろうか。今
やわが国の中産以上の人物は皆横着の標本である。図々しい小人の見本
である。私は最近、真面目で、横着でない人物、図々しくない人物を二
8
人しか見ていない。井上毅と白根専一であるが、いまや亡くなっている。
ロベスピエール
古今東西の歴史を見るといい。栄えている国の人は皆真面目である。衰
出現せんとす
退する国の人、滅びる国の人は皆不真面目である。ギリシャ、ローマの
末年を論じるまでもなく、1780 年フランス革命前を見ると、如何に人々
が不真面目であったか。世間の出来事や戦役の呼び名まであだ名をつけ
てそれをののしり辱めている。この不真面目な風潮が極まって、ついに
史上最も悲惨で、滑稽なロベスピエールなどを生み出して、この不真面
目な連中を絞め殺して終わった。人間に倫理が存在していないことの恐
ろしさはここにある。
我が国に哲学な
我が日本では昔から今に至るまで哲学がない。本居宣長や平田篤胤など
し
は古代の墳墓を探り、昔の文献を勉強した一種の考古学者に過ぎず、天
地性命(万物が天から授かったそれぞれの性質と運命)の理論にいたっ
たんえん
ては覃焉である(暗い)。仁斎や徂徠などは、経書(儒学の中では)では新しい
見解を出したこともあるが、要するに経書研究家に過ぎない。ただ仏教
僧の中で創意を発揮して開山作仏(宗派の開祖で苦労して物事を為したこと)の功
績を遂げたものがいないわけではないが、これは最後まで宗教家の範囲
のことで、純然たる哲学ではなかった。近年では加藤某、井上某が自ら
を主張して哲学家といい、世間の人もこれを許しているが、実際は自分
が学習してきた西洋のだれだれの論説をそのまま輸入し、いわゆる崑崙
なつめ
で 棗 を呑むもので(十分に理解して自分のものにしているわけでなく)、哲学者と呼
べるものではない。哲学の効用は未だに必ずしも人々にはっきりと表れ
ていない。すなわち、貿易の好不調、金融の緩慢さ、商工業の盛衰など、
哲学には何の関係がないようなものも、そもそも国に哲学がないという
のは、あたかも床の間に掛け物がないようなもので、その国の品位を落
とすことから免れられない。カントやデカルトは実にドイツやフランス
の誇りである。この二国の床の間の掛け物である。この二国の人民は品
位を評価されるうえで自然と関係がないわけにいかない。これはへ理屈
のように見えてへ理屈ではない。哲学がない国の人民は、何事を為すに
も深く考えることがなくて、浅薄な行動になってしまうことを免れない。
すべての病根こ
わが国の人が海外諸国を見ると、極めて物事の筋道が明らかで、うまく
こにあり
時の必要に応じて態度を変え、全く頑固な風がない。これはわが国の歴
史に西洋のように悲惨で愚迷な宗教上の争いがなかったものの、明治維
新の偉業がほとんど血を流さないで成就し、3 百諸侯が先を争って土地政
9
権を返上してぐずぐずしなかったのも、旧来の風習を一変して西洋風に
改めて少しも顧みることがないのも、皆このためである。しかし一方で、
我が国民がふらふらして軽薄な大病の原因もまたここにあるのである。
志に乏しくて断じて行うことがない大病の原因もまたここにある。独自
な哲学がなく、政治においても主義がなく、政党の間の抗争においても
継続性がない原因はここにある。これは一種の小利口で、小さな才智で
あるが、大きな偉業を成し遂げるには不向きな性質である。極めて常識
に富んだ人民である。常識以上の事を成し遂げることは到底望むことが
出来ない。速やかに教育の根本を改革して、死んだ学問よりも生きた人
民を育てることに努める必要があるのはこのためである。
今の日本を大体このままにしておいて、次第に改正を加えて進むか、あ
るいは速やかに大革新してヨーロッパの仲間入りをさせるか。これは今
日国の政権の座にある者の最重要な懸案である。しかし、予算の成立に
汲々とし、議会対策で動きがとれず、閣僚の統一に疲弊して、そのほか
のことについて心を砕く余裕がない侯爵、伯爵などには到底夢想も出来
ないことである。
中国大陸のことは私はこれを述べたくない。事が外交問題になっている
現在、言うよりもまず行動する必要がある。ただ我が日本は、まさに自
己の天職如何と自覚すべきだけである。自己の百年後の運命はどうかと
考慮すべきだけである。世界のルーマニアとならなければ幸いである。
7 月 4 日大阪中の島の小塚旅館を出て、妻とともに堺市へ行った。前の明
治 33 年春、私は堺の友人某々ら並びに技師大上某の要請を受けて大阪に
来たことがある。大上は幾年もの間思いを深めてかろうじて好成績を得
た石炭精錬の仕事を始めるために、砲兵工廠へ依頼して更に化学実験を
しようとした。私はもともと総理の大田某と親しかったので、私は斡旋
の労をとった。試験の成績は極めて良好で、本人を始め仲間は皆大いに
喜び、その後堺市の町に事務所を設けて、合名もしくは合資の一会社を
組織しようとした。こうして大上らは、私にその事務所で病気療養する
ように勧めた。私は長い間小塚旅館にいて、やや飽きていたこともあっ
て、すぐに堺の人の勧めに従って事務所へ来た。家は大して広くなかっ
たが、整然と作られ庭園を良く見ることができて、大気がとても清涼だ
った。ただこの一事で他のことを全て購って充分だった。ましてや主人
の大上やその他共に石炭事業に従事してここにいる者たちは、皆あかぬ
10
けたいい人達ばかりだった。
政友会の運命
政友会は星が死んでものさびしくなった観を避けられなかった。しかし
ながら政友会の主要メンバーを占める自由党は歴史も古く地盤も固く、
かつベンサム的利己学の実験を得意として、ただ儲けることを考え、人
として恥じらいがあることを知らないので、今後分裂などの心配はあつ
はずもない。小波乱はあるかもしれない。小規模な内輪もめもあるかも
しれない。各派の競争もあるだろう。しかし政友会の力はまさに大政党
たるところにあって、分裂すれば双方に共に損があって利益がないため
に、いわゆる内輪もめもきわどいところにくると自然に止んで、双方共
に利益を図り、害を避けることに務めて、他念はないに違いない。こう
して世の中の利益を志す人々は、次第にここに集結してきた。当分は衰
退したり滅んだりすることはないだろう。ただ勲一等を受けた伊藤博文
から他の総務担当連中に至るまで、無気力で志のない人たちだから、虫
が蠢く様に揺れ動き、汲々として歳月をむなしく過ごし、国に益するも
のがなく、また大いにこれに利することもなくて、長い目で見ると結局
雲散霧消する。ああ、これが政友会の運命である。論語に、
「周を継ぐも
の百世といえども知るべし」という言葉があるが、孔子は私を欺かない。
政友会の運命も推して知るべしである。
伊 藤 候 は 下 手 な 勲一等伊藤博文はまことに才気あふれる人だ。その漢学は下手な漢詩を
魚釣り
つくる程度の力があり、その洋学は目録を暗記する程度の下地がある。
しゅんらく
これだけですでに大いに他の元老たちを浚 轢 (水底の土をさらう)して
言葉を失わせるに足りる。これに加えて口先がうまく余裕を持って一時
かん りん
をごまかす。しかしながらこれは要するに書記官の才能である。翰林(文
人学者の集まり)の能力である。宰相(首相)の資質ではない。故に法
律制度の制定等に関しては若干の功績はあっても、総理大臣になると、
ただ失敗があるだけで一つとして成果がなく、その器にあらざることが
わかる。故に彼が総理になって企画するところを見ると、あたかも下手
な釣り人のようである。船、竿、えさ、糸など全て人に準備してもらっ
てはじめて手を下しても、魚は一匹も得られない。有名な行政刷新、財
政整理はすべて下手な魚釣りではないだろうか。一言でこれを言うと、
野心が余りあって肝が据わらず、内閣書記官長程度に止まればまさにと
ころを得るだろう。
早 稲 田 伯 愛 す べ 早稲田の大隈伯は壮快で可愛い人物である。しかしこれもまた宰相の器
し
11
ではない。目前の智には富んでいるが、先の見通しがない。故に何度も
負けるが一度も成功しない。民間で相場師をさせればまさにその才能を
発揮するができる。まさしく生糸商人の田中平太郎や事業家の阿部彦太
郎などもこの類である。
他 の 元 老 は 筆 を 山縣は狡賢い、松方は至愚、西郷従道は臆病である。他の政府首脳に至
汚すに足らず
よごす
っては筆を 汙 すほどの者はいない。伊藤以下皆死んで一日でも早くいな
くなれば、一日でも国家のためになる。
自由党の大度量
自由党がその抑鬱混沌流離艱難(弾圧されて艱難を受けた)の歴史を忘
れて、自ら伊藤へ捧げて少しも貴重大切に思われない。一体伊藤とは何
者であるか。まさにかって自由党を抑鬱混沌流離艱難させた張本人で、
すなわち当の敵だったと思えば、私は自由党の諸氏の度量に恐れ従わざ
るを得ない。そもそも男子の気概はどうか。彼はただ利害だけを見る。
だから何でもする。故にその度量は金持ちのからかいに耐える太鼓もち
の度量に過ぎない。
進歩党の立遅れ
進歩党の無主義、無経綸(無政策)は自由党と同じで、面の皮が厚いの
は遠く及ばず、これが進歩党が自由党の後塵をあびる理由である。自由
党はまず政府と妥協し、進歩党がこれに続く。自由党がまず積極論を唱
えて進歩党がこれに続く。進歩党はそれが真心に劣ることを知っている。
そのために迷って事に遅れる。それが国家に利益がないのはどちらも変
わらず、政治や俗事に害があることもどちらも変わらない。
宣 言 実 行 は 釈 迦 自由党は無主義、無経綸を公然と掲げて隠さず、利益を得ようとする姿
孔子以上の仕事
を自ら自慢して得意になっている。これが仇敵を恨まず、新参者を見下
げず、党が膨大な人数を擁するようになってきた理由である。その膨張
が一層激しくて、風俗を傷つけることも甚だしい。これを放置させては
ならない。伊藤侯は小さくてつまらない宣言書で自由党の欠点を直した
いと望んでいる。自らものを考えないひどい例といえる。今や、伊藤侯
はすっかり自由党の親分になっている。思うにうまく自由党の欠点を直
して規則や儀礼の枠内に納められる者は、きっと釈迦や孔子以上の人物
に違いない。今の計画を行うには、ほかにもう一つの政党を作って、天
下の人気を集めて世の中の忠義を大いに盛り上げて、ついにはその総力
を挙げて自由党を排斥し、政界に食い込めないようにすることだろう。
腐った土もこのようにひどいと最早救いようがない。
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惜しむべきは人
進歩党はそれでも恥を知っている。故にその無主義を恥じて主義を持と
材がいないこと
うとし、儲けることを恥じて正義にたよろうと努力している。統領(か
しら)にしかるべき人がいればもしかしたら真の政党となれるのではな
いか。
玉造と紋十郎の
御霊文楽座は人形遣いが長い間沢山いる。目下のところ吉田玉造の男役
人形
の人形、桐竹紋十郎の女形の人形はともに神品(優れて品位)がある。
じんぴん
玉造の男人形は団十郎に似ている。紋十郎の女形人形は菊五郎に似、坂
東秀調に似ている。世間で評判のクライマックスへ至った時には人形が
誰かに操られていることを忘れるほどだ。人形がすなわち人、役者であ
る。ああ、この技こそ神様である。
文楽の三絶
玉造、紋十郎は人形使いにおいて、津太夫、越路太夫は浄瑠璃において、
広助、吉兵衛は三味線において、まさにその神業を思いのままに使う。
いわゆる三大絶品と言ってよいだろう。文楽座の狂言が天下に広がる理
由はここにある。
津大夫
津太夫は声が低く、舞台に近い観客以外にはおそらく一言も聞こえなく
て、ただ唇が動くのを見るだけである。体の動きが移り変わるのをみる
だけである、しかしながら津太夫が一たび舞台へ現れると、場内はしん
としておしゃべりするものはいない。まさしく太夫は気概を心で語り、
聴衆もまた気概を心で聞いているのである。もし舞台の近くにいて事細
かに傾聴するときは、その音節が微妙で、高尚な態度が自然に出て少し
の無理や当て込みもないのは、老練の極みというべきで、技を極めれば
自然体になるという見本のようなものである。
越路の音声の美、曲調の巧みさには、匹敵するものがいない。確かに津
太夫、呂太夫は玉造の男人形とあいまち、越路太夫は紋十郎の女人形と
あいまって、ともにその妙(上手な様)を極めている。皆逸品である。
豊沢団平が死んで三味線の世界は物寂しさを逃れられない。広助や吉兵
衛は一応の技術をもっているが、まだその器量は小さい。
浜寺の風景
堺市の浜寺は風景がとても良い。海岸に松の木がたくさんあって、その
下を存分に散歩して涼をとることができる。須磨や東海道の平塚に似て
いる。海のそばで料亭と旅館を兼ねたすこぶる広壮な一力で、手すりに
すいてん ほうふつ
寄りかかって一望すると、水天髣髴(海と空が続いて見分けがつかない)
13
のかなたに神戸や淡路が見られる。私はある日の夕刻、妻とともに歩い
て海岸へ出た。たまたま雨が降ってきて、黒雲が西方を覆い、激しい波
が岸へ打ち付けて、早鐘のような音が、或る人には意気をさかんにさせ、
また或る人には元気なく憐れみを催させる。私はすでに不治の病にかか
って余命 1 年半の宣告を受けて、そのため妻は日夜私のそばで投薬の労
をとるが、これはもともと病を治すためでなく、ただ死期を待つだけの
ことである。私は男で、かつ多くの本を読んで道理や正義を解する者で、
その境遇にあっても楽しみを見つけることが出来るし、そのうち時々は
大病の身であることを忘れることもできる。妻の如きは女で、最近は私
の影響を受けて、目の前で心地良いことを楽しむ術を得たとはいえ、そ
れでも私のように自ら満足してゆったりと出来ないのは自然の道理であ
る。私はもともと金儲けが下手で、借金は山ほどあっても貯蓄はない。
だから、このように重い病気にかかったのは悲惨といえば悲惨なことで
ある。この夕方私は笑って妻にこういった。
「妻の年齢もすでに四十を過
ぎて、私が死んだ後は再び再婚の望みがあるわけでもない。私とともに
入水自殺してまっすぐあの世へ行こうか」と。二人とも大笑いして、途
中かぼちゃ 1 個と杏一籠を買って家へ帰った。時は丁度夜 9 時。
自殺論
私は自殺を排斥する者ではない。ただし自殺は大いに道徳にそむいて、
人情に反する行為だから、それをした後には自ら悔恨しないわけにいか
ない。自殺によって死を選び、それによって罪を懺悔する場合であれば
必ずしも悪いことではない。金銭のため病気のため等が原因で絶望して、
自殺を図るなどは単に臆病なだけである。たとえ病気で布団にいるとき
でも、その中で楽しみを見つけ出さねばならない。私の 1 年半の記述の
如きはまさにその一つである。
死後は永劫
人は 70,80 で死ねば長寿といえる。しかし、死んだ後は永劫無限である。
ほう そ
70,80 年を無限と比べればどんなに短くせわしいことか。彪祖(中国の伝
たけうちのすく ね
説中の長寿の人をさす)を若死にといい、竹 内 宿弥(大和朝廷で活躍し
た伝説上の人物)を短命とせざるを得ない。
子供が生まれるその瞬間から徐々に死につつあるのである。その最長期
の 70,80 に向かって進んで片時も休止することがなければ、これは徐々
に死につつあるといえるもので、何の不思議もない。
おわる
(7 月 11 日堺市でこの稿を 畢 る)
14
第二
じ づ ら
権略(策略)は悪
権略(策略)は決して悪い字面(文字の意味)ではない。聖人賢人とい
字面ではない
えども仮にも事をなそうと望むならば、権略は必ずしもなくすわけには
いかない。権略とは手段である。方便である。ただ権略は事に対して行
うべきで、人に対して行うべきではない。正邪(正しいことと正しくな
いこと)の別はただこの一点にある。権略を事に及ぼすというのは、た
とえば大石良雄が始めに城を枕にし討死しようと言い、中途で殉死を主
張し、最後に始めてその真意を打ち明けて復讐(敵討ち)を唱えたのが
これである。権略を人に及ぼすとは、たとえば戦国のときに、偽って敵
と和睦し、敵の大将を誘いだして待ち伏せて不意に殺すようなものであ
る。織田信長、明智光秀の輩はややもするとこの方法を用いた。これは
もとより避けるべきものである。権略を事に及ぼす事は多ければ多いほ
どよい。事を成すとはまさにここにある。これはほぼ方法順序と言える
ものである。
大政治家
フランスのリシュリュー、コルベール、チェール、イギリスのピット、
ロバートピール、グラッドストーン、ドイツのビスマルク、イタリアの
カブール、支那の諸葛亮、曽国藩、我が国の徳川家康、大久保利通、こ
れらを大政治家という。今の五等爵位の連中は特に太陽の前の蝋燭の火
に過ぎない。
大政治家が行うことは一定の方向がある。動かすことが出来ない順序が
ある。未来を照らす光が際立って優れている観がある。彼が言うことは
彼が行うことである。今の某氏がいたずらに準備が多く、触れ込みが多
く、実行になると幽霊の足のようにたちまち消滅してしまうようなもの
ではない。そうして聞くところによると、某氏は密かにビスマルクを気
取りカブールを気取っていると聞く。将来いつの日かこの二人にあの世
であったら、どんな顔をしてお互いに出会うだろうか。笑える。
大政治家は真面
大政治家はだれでも、かしこまりつつしんでいる様子があり、小さなこ
目
ともおろそかにせず慎み深い態度をする。その真心があり真面目なため
である。某氏が公然と身分の高い女性と戯れたりうまい酒を飲んで、軽
薄な幕賓(客)を集めて大言壮語して、やがてわずか 1、2 人の敵対する
ものに出会うと、意気もたちまちしぼみ、ただ逃げ足が遅くないかと心
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配するような者ではない。笑える。
秕販零商
輸出超過、輸入減退、正貨流入、物価低落で、順調と言われている。小
商人の連中は、常に売ることが多く仕入れが少ない。財が乏しいためで
ある。一国もまた同様で、輸入はほぼ皆無で、正貨流入は購買力が行き
詰まってただ売ることだけとするためで、国の貧富は物貨生産の力の大
小具合にあり、我が国の今日の心配事は貨幣が乏しいにあるのでなくて、
生産力が劣っていることにある。政治家はここを着眼すべきである。
製造難
製造業が極めて難しい。品質が優れてしかも価格が安くなければ市場で
勝てない。品質が良くて価格が安くするには科学によるほかない。この
ために学術の普及を図らないではいられない。品質が良くて価格が安く
ても必ずしも市場で勝てるわけではない。必ず需要家の嗜好に合わせざ
るを得ない。このために販路となる地方の人情や習俗や好みに熟達せざ
るを得ない。こうしたことは到底一時的な思いがけない利益を幸運とす
る株屋連中がよくやることとは異なるものである。
輸出難
これ故に輸出業は輸入業に比べれば、大いに難しい。故に輸出業者に対
して、官がうまく相当な保護奨励の方法を設けてこれを補佐すべきであ
る。輸入業の如きは我が邦人を相手にするもので、その嗜好は元々熟知
しており、需要もまた同様に知っているので、百発百中で失敗の心配が
全くない。これが我が国のような商業が未開なところで輸入商が多く輸
出商が少ない理由である。官でこの仕事に当たる者はこれを詳しく調べ
るべきである。
百年の計別にあ
近年官がいう事業繰り延べ、公債支弁事業というのは、皆、今のことを
り
処理するもので、もとより緊急な事業である。しかし、これらは元々や
むを得ないもので、ほとんど再考を要しない。国家百年の計がおのずと
別にあるならば、当局はそこに目をつけるべきだ。百年の計とは何か。
言うならば前に述べた生産力を増殖する一事に尽きる。
なんぞ堕落を怪
「衣食足りて栄辱を知る」。これは中人以下の人はみなそうである。近年
しまん
我が国の上下の人情が薄くなり、ひどいのは堕落し腐敗に至る理由も詳
しく調べると、人は皆金銭が不足して自分が使う幾分かも満たせないこ
とによる。貧乏して堕落しない者は千百人のうち一人だけである。
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文学の戦国時代
いまやわが国の文学は、ほぼ戦国時代の英雄割拠の有様に似ている。漢
は べ り
文崩し体があり、翻訳体があり、言文一致体があり、侍りけり体があり、
すうちょう
各種雑用の体がある。思うにこの諸体には各々短所長所があって、 崇 重
て ん が
典雅(敬い気高いこと)な様子や若しくは悲壮慷慨(歎き)の状態を写
すには、漢文崩しが最適と思われる。委曲詳密透得(細かく詳細なこと)
で十二分なことを求めるには、翻訳体若しくは言文一致体に及ぶものは
じ
ふ
ない。優美な色彩を発するのは侍鳧体が一番である。故に、これらの諸
体は今後盛衰はあろうが、消滅するものはないに違いない。また、文字
の如きも漢字あり、仮名の中の草書イロハあり、片書イロハあり、万葉
あり、このように複雑なものはおそらくこれまでどの国にも例がなかっ
た。このために文字改革論があった。考えてみるに、その時に政権を得
たものが、ロシア帝のアレキサンドルの思い切った行動に対処するなら
ば、ローマ字が最も便利である。これを行う方法はまず大中小の辞書を
つくり、次いで巖谷漣のおとぎ話のようなものをローマ字で編纂し、小
学校の副読本に加えて、中学大学でもその他適当な 1,2 書をローマ字で
綴って副読本へ入れて、学生に十分会得させ、ついに官の公示諭達の中
へ入るようになれば、時間はかかるが一変することになろう。ただし、
このように文字を一定にしようとすれば文体もまた一定にせざるを得な
い。この時は原文一致体だけが適当である。欧米諸国でローマ字を用い
る諸国の文は皆この書体だからである。
邦人は二様の生
私はかってある新聞紙上へ論文を載せたことがある。我が国の人はすで
活
に自国を生活し、また欧米も生活して、一身で二様の生活をしている。
他国人に比べて倍の生産力がなければならない。何のことかと言うと、
我が国ではすでに羽織袴を着て、またフロックコートも着ている。すで
にキセルをたしなみながらパイプも持っている。書院つき茶室付きの家
屋の一隅にコーヒーカウンター付きの洋室も設けている。そのほかこの
ような類は枚挙にいとまがない。このことは小さなことのようだが、実
はそうではない。一国の経済に関する極めて大きなものがある。五等爵
位の大政治家がどうしてこれに気がつかないか。
粉にして吹き散
墓地が年々広がって、宅地や耕作地などの生産地を侵害することが大き
らせ
い。東京の谷中、青山で見ることが出来る。その間の歳月は長く、旧を
壊して新しくし相償いあうこともあるだろうが、そもそも大勢では増え
ることはあっても減ることがない。私は法案をつくって、一切火葬とし、
各人が持ち帰った余りは骨と灰を一か所に堆積して、毎月日を定めて海
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中へ投棄させたいと望んでいる。各人の先祖の祭りのようなものは遺骨
を家において、写真、画又は油絵などを並べて、これに対して線香をた
いて誠を尽くせば、孝士貞女の情を尽くすには余りあるのではないだろ
うか。どうして必ずお墓で行うのか、もし国家に大功労がある人物の場
合は、別に碑を立ててこれを表彰することもできる。器量が狭い人をい
ちいち碑に書きつけなどは笑えることの甚だしいものである。
ぼくぜい
占い、観相、風角、
まじない
ふ しゅう
卜筮(うらない)、観相(手相、人相による運命判断)、風角、巫 祝 (ま
じない)、及び諸種仏神護符(お札)の類は、人事を害し、また人の霊妙
な知恵を傷めることがきわめて多い。これらに徐々に法を設けて、多少
の猶予期間を与えてこれらを禁絶(根絶)させるべきである。そのほか
天理教、金光教などいかがわしいものを祀る類は皆この一例により禁じ
て根絶すべきである。
げ い ぎ
芸者は解放すべ
き
芸妓(芸者)やすべての割烹店の女性はこれを解放すべきである。彼ら
は風俗を害しかつ性病の毒を媒介する恐れがある。芸者などはしばしば
自分でバイ毒を製造し伝播するだけでなく、その仕事が酒を酌み交わす
席に控えて宴会を盛上げることにあり、紳士たちが芸者を呼ぶのは初め
から淫らさを目的にしており、少しも敬意を表す必要がない。良家の令
嬢令夫人に接するのに比べて、自分でしたいままでいささかの慎みもな
いので、自然に令嬢令夫人から男子との交際とは別物として退けられる。
我が国の婦女の交際の趣味を理解しないのは、芸者がいて男子の喜びを
ほしいままにするためである。
しょうぎ
天下に公娼より
も必要なものは
ない
娼妓(公娼、売春婦)は私はこれを保存したい。道徳が大いに進み、今
の偽君子が皆眞君子になり、今の小人が皆柳下恵(優れた婦人のこと)
となる日を待って、公娼は初めて廃すべきである。すでに梅毒を駆除す
る規則があり、芸者が野放しになっている危険な様子とは異なる。ただ
し、娼楼建築の方法を一変して、行く意思をもたない人を誘惑すること
がないようにすべきである。遠くから聞こえる楽器などは禁じることは
可能である。
娼家(遊女屋)の制度は元々社会に欠陥があり人心に弱点があることに
よる。人情ではやめようとして止められないものがあり、その止められ
ない者に対して天下がこれを待ちうけることもない。だからその偽君子
がやかましくその非を唱えても官は深く考えず、いわゆる自由廃業が起
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きても、ついに廃絶できない。ただし、娼家の主人があくなき欲に駆ら
れてさまざまな道理の通らない厳しい手段を設けて娼妓を苦しめるよう
な弊害は洗い流すべきである。
病の 1 年半、日記
そうであっても私の癌は、その時どんな状態だったかと言うと、癌の手
の 1 年半
順でゆるやかに進み、故に私もまた自分の手順でゆるやかに進んで、自
分の 1 年有半を記述しつつあった。一つの一年半は病気のことである、
私のことではない。他の一年半は日記である。これは私である。
病気になって 1 年半、近頃病も少し歩みを進めたようで、咽喉の塊も次
第に大きくなり、のど元に差し迫ったものを感じて、夜は眠ることが出
来るが昼間は安眠できず、食べるたびに飲み下すことはできないと思う
こともあるが、実際にはそうならず、卵 2,3 個、粥 2 椀、あえもの 2 碟、
牛肉スープ 1 日 4 合は必ず摂取している。これが今日までよく私の 1 年
半を記録した理由である。
小山久之助
7 月 13 日故五代友厚君の遺児の某女性が東京から小山久之助君の手紙を
もってやってきて、面会を乞われた。私の声は全くかれて談話できなか
ったが、小山の手紙を見れば、彼女はフランス語を勉強していて私に面
会したいと長い間思っていたということで、これを座敷へ招いて、無理
に声を絞り出して 1,2 語を交わした。小山もまた咽喉に塊が出来たと聞
いて、5,6 日前手紙を書いて尋ねた。今その手紙の中にリンパ腫で橋本
医師の治療を受けて少し快方に向かっていると、激しい今日の濁流の中
にあって、このような人は純粋に愛すべき者で、出来れば私の病気のよ
うな不治の病でないことを願う。
旧門人 20 余人
これより先、私がまだ大阪小塚旅館にいた頃、野村泰享君が手紙をくれ
ちょ せん
た。旧門人(仏学塾)20 余人の氏名を書いて、楮泉60 余金を封に入れて
贈ってくれた。僅かだが食事の役に立ててくれと言う。私は諸君のなじ
みの厚さを喜び受け取った。私は元々金銭が不足していて、今この贈り
物で私はたくさんのお金を得たような気がした。
堺の住まいの庭
私が住む堺の家は、庭園は小さいけれど、とても蒼古隠秀(さびて隠れ
園
た趣)の様子がする。一本の樫の木は 7,80 年もので、幹が 5,6 本あっ
て、そのうちの 1 本は外皮のような形をして、他の幹を半ば包みこんで、
大小の山石が数十、皆苔に覆われて、地面もまたおおむね苔に覆われて、
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灯篭 4,5 基もすべて苔に覆われていないものはなかった。もし柳宗元の
筆法でこれを書くと、樹木や石や灯などすべてのものを配置し、しかる
後に苔で包んだもののようであった。小さな池があり、錦鯉が数十匹い
る。、私は毎日吸入を行い薬を飲んで、1 年半を書いて、その間時に庭に
下りて餌を池へ投げるのを楽しみにしていた。カメが居て大きさはお盆
くらいだったが、一種先天的な野生で、とうとう人になつくことがなか
った。時に頭を水の表面に出すが、足音を聞けばたちまち沈んで、つい
に悟りを開いて解放できなかった。
郷里にカツオあ
堺の地は、魚も種類が豊かでまた味もよい。我が国ですべて南に面する
り
海の魚は、北に面する海の魚よりも味が良い。故に私の郷里の土佐、中
国、筑前、博多等の魚は、仙台、秋田、新潟等に比べてはるかに勝ると
言える。この地の海浜の芽海楼、一力楼などは料理屋で旅館を兼ねて、
旅客がとても多い。大阪から来る者が多い。皆鮮魚を味わうためである。
ほう
魚はタイ、えび、魴(ほうぼう)そのほか蛤の炙りが最もうまいと言わ
れている。ただ、恨むべきことはカツオがない一事である。私の郷里は
カツオが有名で、今や梅雨の候にはこの魚が毎日市にのぼることが極め
て多く、味のよさでも類まれである。思い出すたびによだれが我慢でき
なくなる。
郷里に楊梅(やま
私の郷里にはまた楊梅(ヤマモモ)がある。今まさにその時期である。
もも)あり
ヤマモモに 2 種類あって、一つは朱色でもう一つは銀色である。その銀
のものが最も甘美で、漢の国ではレイシ、竜眼肉に次ぐももとして尊ば
れているものがヤマモモである。葡萄梨柿の類は添え物にすぎない。
迂なるかな公債
桂内閣は、最近公債を外国市場へ売りだそうとして、その筋のものに事
売出し
情を調べさせ、応募者がないことに苦しんでいると聞いた。これは初め
からわかっていたことである。英国は南ア戦争に膨大な費用を費やし、
フランスは国力の半分をロシアの事業に投じ、ドイツはまさに恐慌に悩
まされて、このように欧州大市場は今まさに資金が不足している。だか
ら我が国政府が 27,8 年来常に貧に苦しみつつあるのは、議会がこれを
暴露し、新聞がこれを大げさに言って、外国人に密かに疑義を抱かす。
この時において公債を売りだそうと望むのはうっかりも甚だしいもので、
桂内閣が果たして百年の先の計画に眼を着けて、これをするのに巨費を
要する場合には、どうして断然抵当を出してでも財のある人を誘うのは、
金を借りるに抵当を入れるのは個人として恥ずべきことではなく、我が
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国としても同様である。ああ、これもまた従前のものと同じように、国
を治める方策もなしに、ただ権勢と財利をむさぼるものなのか。
市民に訴えるの
桂内閣は大いに貴族院を恐れ、衆議院を恐れると聞く。これは大きな間
み
違いである。桂内閣たるものはただ天下後世に恥じない現在の務めに適
切な国を治める方策がないこと恐れるべきである。今大いに国を治める
方策があるなら、どうして貴族院を恐れることがあろうか、衆議院を恐
れることがあろうか。二院で意見が異なり譲らず張り合うならばすぐに
天下に向かって呼びかけて、演説や新聞によって国民に訴えるだけであ
る。
栄誉の地何ぞ限
国務大臣は敬い重んじられることが特に多い。これは昔の専制政治の弊
らん
害である。衆議院議員は元々大臣になりたいと願う。貴族院議員もそう
である。彼が何会何派と言ってややもすると官と抗争することを好むの
は、その心の底では実は国務大臣になろうと望むからである。一言でい
えば、両院議員はともに利害に飢えた餓鬼である。
その栄誉にどうして限りがあろうか。大臣以外に高等官などは言うまで
もなく、弁護士、新聞記者、工業商業家など職業を問わず、力があり手
腕があってうまく功績をあげれば、皆その貴尚は尊重される。国務大臣
となって何もなすことがなくただ利益や給与を貪るのは、これはひどく
恥ずべきことで、何の栄誉があろうか、何か貴尚すべきことがあろうか。
繫文の弊害が生
我が国の官吏はとても偉そうな感じがするが、実はそうでない。これは
じる理由
繁文の弊害が生むものである。何でそういうことを言うかを農商務省の
一省について述べる。これまでに山林、鉱山、商工などの局を設けて各々
に局長を置いている。しかも、山林局長は一人でその局の責任を任せら
れるのでなく、他の高等官もまた必ずその文書に捺印してその責任を分
担する。これは決められた局長を疑って一人その責任を任せず、すなわ
ち繁文の弊害が生じるけれども、権力を各長官に任せず、そのために事
務が渋滞し、月日が無駄にかかり、この害をこうむるのは人民である。
故に、我が国の官吏は偉そうな感じがするが、実はそうでない。これも
また行政刷新中の重要なものである。
これゆえにだいたいことで各局にかかるものはその当該局長一人に責任
を任せて、他の局長は関知せず、そこで山林のこと、商工のことにはそ
の所管局長たるものが意見を出して、次官、大臣がそれを採用すれば、
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直ちに命令を発することができる。このようにすれば今 3 カ月を要する
事項も 4,5 日から 10 日で処理できる。だから局長たる者は一層奮闘し
て気力を奮い起こして仕事に励むようになる。これがその人を尊敬する
理由である。
官とは何か
同時に、官とは何か。もとは人民のために設けたものではないだろうか。
今や官吏のために設けたもののようである。全く正常でないと言える。
人民が出願あるいは請求することがあると、これを却下する時はあたか
も度を超えた失敗があった者を懲らしめるかのようで、これを許可する
時はあたかも恩恵を与えるかのようである。どうしてこれが甚だしく理
に反することになるのか。彼らは元々誰に頼って衣食しているか。人民
から出る租税に頼っているのではないか。すなわち人民に養われて生活
が出来ているのではないのか。およそ官のもので金銭はもちろんのこと
でごくわずかなものといえども、天から落ちてきたのでなく、地面から
出てきたのでもない。皆人民の懐から生まれなかったものはない。すな
わち、人民は官吏たるものの第 1 の主人であり、敬われざるを得ない。
民権自由は欧米
民権は至理(根本原理)である。自由平等は大義(大原則)である。こ
の専有に非ず
れらの理義(道理と正義)に反する者は最後には罰を受けないではいら
れない。百の帝国主義があってもこの理義を滅ぼして失くすことはでき
ない。帝王がいかに尊いといえども、この理義を尊重することで尊敬を
保つことが出来る。この道理は漢でも孟子、柳宗元が早い時期にこれを
見破っており、欧米の専有ではない。
未だこれあらざ
王族、公族、将軍、宰相がいなくて民(人民)が居る例はあるが、人民
るなり
がいなくて王公将軍宰相が居るのはあったことがない。この道理は深く
考えるべきものである。
考えることが嫌
我が国の人は利害に明るく、道理や正義に暗い。事に従うことを好んで、
いな国民
考えることを好まない。ただ考えることを好まず、故に天下で最も明白
な道理でも、これを放置してこれまで怪しむことがない。永年封建制度
を受け入れて士族が跋扈するに任せて、いわゆる切捨て御免の暴挙に出
会ってもこれまで逆らって争わなかった理由は、まさに考えることもな
く座っていただけだったためである。それはただ考えることを好まず、
そのために行うことが浅はかで、十二分にあちこちを明晰にできず、今
後必要なことは、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得ることにある。
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故井上毅君
近年では我が国の政治家の井上毅君が比較的考えることを知っていたが、
今や亡くなってしまった。
首尾よく出来た
新聞記者の話し方で言えば、我が国には口の人や手の人は多いが脳の人
今日の腐敗社会
が少ない。明治維新の初めから、口の人と手の人がともに活躍して、い
わゆる進取の業を開いて以来すでに 30 余年になり、首尾よく今日の腐敗
堕落の一社会を形成した。わが日本人民は天に何の罪があるだろうか。
政治の自由と経
私はかって論じたことがある。明治政府の初めから我が国の官民上下の
済の自由は別物
人々はイギリス・マンチェスター派の経済論を間違って真と考えて、保
護干渉はほぼ悪事とし、経済上の自由と政治上の自由を混同し、民間政
論派などは特に保護干渉を憎悪し、政府は時に万やむを得ない必要を感
じて保護干渉の策に出ることがあると、群がってこれを非難し、政府も
また臆病でかつ心から信じるものでないために、民間の攻撃に合うとた
ちまちためらってぐずぐずと履行せず、めぐりめぐって廃止に至る。こ
れもまた上下共に考えることがなかった罪である。
干渉保護はどう
我が国の商工会を英仏国民と同じ基準におけば、放任はもとより悪いわ
して止めること
けはない。今やそうでなく、彼らの大半は一層頑固で、それに加えて資
が出来ようか
本が乏しく、新知識も乏しく、ただ目の前の手っとり早い事業だけを企
画し、長く続く仕事は到底彼らがうまく担うものでなく、官が誘致奨励
しなければしっかりした仕事はついに興すことができない。近年紡績、
鉄道、銀行、その他各種会社が続々と落ち込むのを見て知ることができ
る。この類の人たちが今日にあって紳商(大商人)と称して、かつ多数
に比べて資本が豊かで知識も富んでいると名乗る者はなおそうである。
ましてやそのほかのことについてはそうである。干渉や保護をどうして
やめることができようか。
保護干渉は、ややもすると官吏と当該商人が結託して私的な利益を生む
弊害がある。しかしながらこれは弊害であり、予防もできる。懲罰する
こともできる。もし弊害があるからというなら、天下に弊害がないもの
があるだろうか。これはおのずから別の問題である。
讃岐の砂糖、土佐
欧州諸国といえどもその初めの 15,6 世紀の頃には、保護干渉の政治を
の紙すき
行わざるを得なかった。特にフランスのように、セーブルの陶器、コブ
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ランの織物は皆保護を受けてかくの如く盛大になったのである。近くは
我が国内を見よ。讃岐の砂糖、私の故郷の土佐の紙すき業などは、皆藩
が自らこれを営業した。ただの干渉だけではなかったのである。その他
の諸国の特別な物産はたいてい封建の時代に、藩政の力に頼らなかった
ものはない。干渉や保護は元々廃止することが出来ないのである。
工業 4 種に大別
私はかって工業はおのずと 4 種に分けられる、と考えた。第 1 種は全く
人民の創立に任せて少しの干渉も必要としないもの。例えばすべての粗
製にかかるもので、紡績、毛糸のようなもの及び大きな橋梁、トンネル
がない鉄道などのようなもの。第 2 種はいまだ着工前に大いに調査を必
要とするもの。考えてみるに、調査のため若干の歳月や資本を必要とす
るものは、眼前の利益を追う私人が到底我慢できるものではない。故に
官がその調査を行い、その結果によって事業を起こさせるものである。
第 3 種は独り調査結果を与えるだけでなく、さらに利益金を補給するこ
とが必要なもの、第 4 種は官が自ら創設して経営し、若干の利益を得る
ことを確かめられたところで払い下げを受けるもの、これらは皆農商務
省の仕事である。
農業もまた大改革が必要である。第 1 に牧畜を兼ねさせる必要がある。
大中小の農業規模などは各地の都合によるべきものである。
水産
我が国の沿海は数千理もあり最も魚介が豊かである。官は大いに水産業
を奨励し、或いは自らが経営すれば、面目は一新するだろう。オランダ、
デンマーク、ノルウエー諸国の水産業を視察して参考にすべきである。
北海道のサケマスなどは、魚類の王公と言えるべきもので、塩引きと呼
ばれる腐って悪臭がするものを作るのみで、他の製法を知らないと言う
のにはため息が出る。
羊と豚
羊に 2 種類がある。専ら毛を利用して肉があまりうまくないものと、毛
と肉ともに用いるものがあり、英国では 2 番目のものが多く飼育されて
いる。豚にもまた数種類あって、英国で最も種類が豊かである。これは
しっかりと実際の場所で調査すべきことである。
豚は飼育法で言う時は、決して不潔なものではない。また必ずしも愚か
ではない。それを放し飼いにして山野にいるものも、食事の鐘を鳴らし
24
たり夕方ころに笛を吹くなど、一旦習熟すれば、いつでもすぐに戻って
きてこれまで時間を違えることがない。
美しい一幅の絵
春夏の頃で、草木が青々と茂っている時、原野や丘陵で人家が木々の間
画
に散在しているところで、その近傍にいる羊や豚の群れが歩き、またあ
るものは寝そべって、牛馬もその間に雑居し、いわゆる「花暖青牛臥」
の風景が尤も人目に好ましく、欧米に旅行する者でみんなこの風景に感
動しないものはいない。我が国の原野はこれに比べて大いに物寂しい。
単に経済上の損失だけでなく、美術上でも多いに欠けるものがあると言
うべきである。
服装改良論
男女の服装は今日ではきっぱりと一定にすべきである。思うに、洋服、
日本服で今に行われるもののほか、別にさらに体に適し、かつ夫人など
はさらに優美に見えるものを作って、自分から模範を作るべきである。
今の日本服はとてもゆったりとして、ややもすると肌を露出する欠点が
ある。洋服はとてもきっちりしていて、大寒や炎暑の頃は人体に適せず、
必ずしも古くからのまねをしなくてもよい。
今の日本服、洋服、支那服、トルコ服などについて、その長所をとり短
所を捨て、さらにデザインを加えて、幸いに良いものを得ることが出来
れば、利便さと美しさは大いに今のものに勝るものになろう。天下のこ
とは万事旧慣に拘らずに、常に変更改正を加えるべきである。単に服だ
けについていうのではない。
文学としての謡
いまや 7 月上旬であるのに梅雨も未だ開けず、日々陰鬱もひどくて、そ
曲
のために主人大上君から謡曲本を借りる。すぐに開いて調べると、たし
かんたん
かに観世流の稽古本である。松風、鉢の木、百万、邯鄲など文章として
見るとおおむね下手の極みで、今日の露伴紅葉をもってこれを見ると華
族と乞食の違いがある。きっと当時僧侶らが初めて文学に指を染めて、
本中でやや歌うことができるのは古歌を引用し、仏教語を散らしたとこ
ろ、白楽天の詩句を借りてきたところにすぎない。構成も多くは千篇一
律で、仏神の霊夢、古人の亡魂などを根本にして、その他は勝手に塗り
つけただけである。もしほかに採るべきところはというと、ただ隠然と
して古めかしい色彩があることである。しかしそれは作者の功績でなく、
月日の力と言えるだけである。
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近年の文学者
近年の文学では、露伴、紅葉、逍遥、鴎外は皆優れている。きっと露伴
は力強く、気高いことに意を用いて、徂徠のいわゆる「峩眉天外雪中看」
は正に人の野心が向かっていく方向である。紅葉は百垂千練、澄んで明
るく、十二分に明晰でなければ止まない趣がある。逍遥は極めて自然に
近い。縦横無人ぶりは東坡の「いくべき所へ行き、止まるべきところに
止まる」に似ている。これに対して鴎外は穏やかで、絶えて矛先をあら
わすことがない。きっとその人があるいはそういう人なのだろう。
日本文章の第一
近年の作者は、多くは文体ばかりを飾りたてることを専らにして,構成
等
の巧みさには野心がないかのようである。その点からいえば、今の作者
は皆近松、武田には遠く及ばない。近松、武田は単に語り口が秀麗だっ
ただけでなく、構成もまた巧みで普通と異なり、人に拍手をさせる。私
は常に言うのだが、我が国の文学では義太夫本が一番である。西欧の古
典、ドラマに劣らず、小説の類は皆これに及ばない。
小品中の小品
和歌はわずか 31 文字である。これは世界の文章の中で小品中の小品であ
る。これまでに万葉集や古今集があり、後世の人はただ陳腐な文字を並
べているに過ぎない。これもまた唐の七言絶句以降、見るに足らないよ
うに思われる。形成はとても小さくて、思想を発展させる余地がない。
俳句や川柳もまた同じである。
翻訳は思軒と涙
翻訳は故森田思軒が最もうまい。漢学洋学の学才を兼ね、特に漢学の基
香
礎があるのはこの人しかいない。ゆえにうまく文字を駆使して左右皆好
ましい。これに次いで涙香の小説もやや見ることが出来る。私は涙香が
訳した原書を一つも読んだことはないが、思うにこれは厳しく省略を加
えたものに違いない。それでも少しも痕跡がなく、その編集のうまさは
おそらく他人が出来るものではない。
講談落語の名文
如燕、伯圓、圓朝、柳櫻の口頭の文は、これは一種の記事若しくは叙議
夾雑体の上乗せである。ただその筆記を読むとすぐに聞くとの間には雲
泥の差があって、私の記事文の上乗せというのは、筆記を言うのでなく
語り口をいうのである。これは叙事体演説というべきものなのか。
日本の演説
演説に至っては、それが行われるようになって日がまだ浅く、弁士で最
がじゅん
も上手な者といえども、うまく流れるように語句も間違えず、いわば雅馴
(文章が上品で字句が練れていること)を失わないというに過ぎない。
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その筆記を読んでも文章として褒めるべきものはおそらくいないだろう。
デスラエリー、グラッドストーン、ガンベッター、チエールなどの演説
の博弁宏偉は、到底及ばない。これはまた独り習熟していないだけでな
く、その中心に燃えるごとき熱意と剛健の気がないために他ならない。
俗曲
常磐津、清元、長唄の類は音節曲調を別にして、文辞としてわずかに見
るべきものがないわけではない。常磐津の「釈迦八相記」、清元の「山姥」
、
長唄の「勧進帳」、「京鹿の子」などは皆暗唱すべきである。もし歌澤に
至ってはその中に人の急所を突くものがある。
「色気がなくとも苦にすま
いもの」や「ホトトギス自由自在に聞く里の」などはこの中に入る。都々
逸に至っては卑猥で聞くに堪えない。
議論時分の 5 人
時事論文では、故福沢先生、福地櫻痴、朝比奈碌堂、徳富蘇峰、陸猲南。
そのうちの最高のものは福沢文で、天下に彼ほど飾る人もなく、彼ほど
自在な人はなく、その文章として観るに足らないところも正に一種の文
章である。櫻痴は才筆諸体を兼ねて、一種封建の匂いがあるのは珍しい
と言える。蘇峰の直訳体はほぼ彼が初めて作ったもので、一時天下をほ
しいままにした。碌堂、猲南はともに漢文崩しで、時に使う言葉に不消
化の弊害もあるが、或いは急普請の漢学者であるためか。
近時漢語の杜撰
近年漢学が不振である。人々はただ役に立つことを求めるだけで、自分
一人で学ぶものが多く、注意が行き届かないことがおびただしく、
「三舎
を譲る」
「鼻息を伺う」
「一衣帯水」
「旗色鮮明」などの類が紙上で誤って
失敗する者は皆同じ状態である。だから読者も怪しむに及ばない。これ
は小中学校の課程が忙しくて漢学を修める暇がなかったことによる。実
際この誤りがないのは独り思軒がいるだけである。
欧州人の文章
欧州人は文章には極めて厳しい。古い大家の文といえども言葉が穏当で
ないもの、もしくは文脈に逆らうところなどがあると、後世の人は決し
て放置せず、そのために本を書いて一一容赦なく指示して、少年子弟に
気付かせる。学校の教科書の中の欄外にこの種の指示を掲げたものがと
ても多い。かつ、フランスについて言うと、ボシュエー、フェネロン、
ボルテール、モンテスキューの大家といえども、しばしばこの種の摘発
を逃れることができず、文章がますます上品に赴く理由である。日用の
言語でも、子供たちが誤ることがあるときは、父母は必ず教えてこれを
正す。演説談話にますます規則がある理由である。
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か い じ
障壁の落書き
子供がもし糞尿、陰部などの晦事(隠し事)などの言葉を口にしたら、
父母兄弟は厳しく懲らしめて後にしないよう注意する。会話が清浄潔白
になるだけでなく、実際の風俗に対する影響もまた大きい。故にフラン
スでは都会はもちろんのこと遠い田舎の僻地であっても、人家の壁に落
書きして忌み嫌われることをすることは全く見なかった。我が国の倉庫
の白壁に、ややもすれば陰陽二物を書いて、往来で見る人もこれまで変
だと思うこともなく、婦人が正装して街中をゆくときに車引きが集まっ
てしばしば指をさして笑ってこれを辱めることがある。これはそれとは
かけ離れたもので、大いに戒めるべきである。
婦人の待遇
我が国の男性は、年の若い婦人に接すると、すぐ肉欲晦事を連想する。
ゆえに男があって話をすると、しばしば男女のことに及ぶことがある。
良家の婦人に対することと芸者に対することに異ならない。しかも人は
これを怪しまず、当の夫人もまたこれを非礼として怒ることもしない。
これが風俗日々に崩壊して、令嬢や令夫人の交際が高尚にならない理由
である。
窮屈が嫌い
この国の人の特性は和易(穏やかで、たやすいこと)で、放漫に流れや
すい。心がさっぱりしていて慣れ合いに陥りやすい。剛毅と荘重に欠け
ている。教育に当たる者は常に目をつけておくべきである。
これゆえ、我が国で位が高い人もしくは財に富む人は、やや荘重厳正に
出来る人で、荘重厳正にならずにかえってものを待つことが平気で、あ
るいは放漫で事をしないと、人々はみなこれを喜び好んであの人にして
かくの如しという。荘重厳正を喜ばないことがわかる。この癖は国家や
天下においてつながるところが大いにあって、政治家は大いに意を改め
るべきことである。
諸種の礼式
諸種礼式の類は、人を荘重厳正にさせるものである。明治維新以来、封
建時代の礼儀格式は一時に廃棄されて、服制などもそのために秩序ない
状態になり、以来欧米の習俗が採用されるようになって、紳士役人にあ
っては旧例に代わる諸種礼式が相次いで生まれ、大小礼服その他勲章位
記等が燦然と品節もはっきり定めて、大いに荘重な様子を示すようにな
ったが、中以下のものはいまだにそうならず、上下肩衣が廃止されて、
わずかに羽織袴もしくは洋服がこれに変ったが、葬式婚礼で着流しで列
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席するものがしばしばいる。これは服の基準がなくなり、人々が放漫に
流されやすいためである。我が国の人はもともと荘重の性質に乏しく、
儀礼によって身を律することがなく、勝手にするがままに放置しておく
とやがて収拾できなくなることを恐れるべきで、これもまた政治家が意
をいたすべき点である。
時間の約束
人と時間を約束する。1,2 時間遅れてもともに怪しまない。これは放漫
な心立てに起因するものである。
晏子御者の集合
この国の人は度量が狭く、少しの成功に満足する傾向がある。ただ少し
の成功に満足して、少し得意になると、たちまち得意げな態度を示し、
ひどい場合はすぐに傲慢になって人を待たせて、ややもすれば礼を失す
る場合がある。すなわち役所の門衛、受付、鉄道会社等にいる切符売り
の人は、しばしば客に偉ぶって礼を失するが如きは、他の位の高い人で
も逃れられず、自らで満足しているからである。ただ少しの成功に満足
しているからである。
故にかの手工業商業に従事するものは幸いにして 10 万 20 万の資金を得
た時はたちまち自ら安心して再び手を出さず、専らその財を失わないこ
とを図って他に考えることがない。或いは 1、2 万で安心し、あるいは 4,
50 万、100 万で安心するなど、その欲に大小はあるが、どんどん進んで、
死に至るまで経営に心を使い休む者はほとんどいない。近日わが大商人
中、独り安田某、古川某、浅野某、雨宮某の如きやや進取の気に富める
のを見るが、その他はまさに 10 万、100 万に安心する連中である。ロス
チャイルド、ワンダービルトの巨費はこの連中が到底夢想するところで
ない。
官吏の安心
官吏においてもその通りである。課長になるとたちまち自ら満足し、局
長になるとたちまち満足し、国務大臣になると満足がさらにひどくなっ
て、その権勢で仕事をする。だから君恩に報い、民意に沿って名を盛ん
にすることを考えず、ただその地位を失わないことに努めて、自ら無為
を事とし、破たんしないことを求める。我が国の 23 年以降の内閣がこれ
だった。
学士博士に好著
学校の生徒であってもそうである。学士号を授かればたちまち自ら満足
なし
し、博士号を授かれば自ら満足する。この学位にふさわしい実力をもつ
か持たないかは、かって自分で反省したこともなく、ましてやこの先さ
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らに学問に努めて事を向上し、若しくは良い著述を出して世の役に立つ
ことを求めるなどというのは、絶えて考えたこともなく、故に今の学士
や博士で良い著述がある者がいるかどうか、私はこれまで見たことがな
い。
亡国の基
国民の各階級、各職業では皆小さな成功に満足しやすく、大きく改める
ことがない場合は、その国家では実は肝を冷やすようなことである。欧
米諸国がかくも盛大なのはほかでもない、国民がみんな一生懸命ことに
努め、死ぬまで努力したためで、ビルマ、トルコ、エジプト、韓国など
の勢いが衰えて今日のようになったのは、その国民が小さな成功に満足
して一生懸命勤めなかったためである。
洋洋大国の風
大国民と小国民の区別は、領土の大小によるのではない。その気質、胸
の内の大小による。今や英国本土はかくのごとく狭小である。それなの
に 5 大州の至るところで英領がないところがない。だから大国の風を表
すことが出来る人は、その胸の内が大きいことに起因しないではいられ
ない。勢いが盛んなものと言える。
(7 月 18 日堺市でこの稿を終わる)
30
第三
独英の商工業
近年、学士の人たちはしばしば言う。ドイツの学問が勢いを得て、工業
商業に応用されることがますます頻繁になって、それが製造するものは
精巧で安い。英国の販路を皆退けてドイツの領分になってしまった。き
っと英国の衰運がすでに始まっている気配がある云々。しかしながら、
英が南アフリカで戦って長く、それが 30 万余の兵を動員し、その財も
10 億以上を出費している。その間に北清のことがあり、そういうわけで
未だかって金融ひっ迫を告げることがなかった。利息は常に 100 分の 3,
4 を行き来して、それ以上に上がらず、その豊かな資金の強固さは真に人
を驚かせるに十分である。英国を未だ急に軽んじてはいけない。
井上甚太郎君
7 月 30 日井上甚太郎君が来て病気の私を見舞ってくれた。私が彼と知り
合ってほぼ 20 年、彼は讃岐の人で、私は初めて彼とあった時には、彼は
口を極めて欧州の砂糖業が盛んで讃岐の砂糖業は遠からずして圧倒され
ようということを述べて、速やかに学問に応用してその改革を図る必要
を唱えて、当時すでにその意見を詳しく書いて印刷して同業者へ配った。
その当時、我が国の過半数或いはほぼ全員は、皆外国産の砂糖を嫌がり、
讃岐の三盆糖が最良のものとして、同業者も安心して、井上君の意見を
聞かなかった。以降まもなく、菓子商が最初に外糖が精製されて、カス
も少ないことが分かって、内国産の砂糖を用いず、以降一般でも外糖を
用いる者が日に日に増えて、内糖はついに圧倒されてしまった。
井上君は次にまた内地の塩業について同じの意見をもち、また詳しく研
究した。今やドイツの塩は年々輸入されて、千葉の醤油製造家は専らこ
れを用いるという。きっとその灰汁が少なくて有利なことで、あたかも
菓子商が初めに外糖をもちうるのに利便を感じたことと同じである。井
上君の正しく行き届いた配慮で事業の改正を唱えるのはほぼこの類であ
る。紡績、タバコ、その他もろもろの農産業について熱心に詳しく研究
したものは枚挙にいとまがない。きっと彼のような人は、私が前に述べ
た最も真面目な人で、今日の我が国の多数の人物、特に目先の利益ばか
りに目を注ぐ政党的人物とは全く種類の違う人である。その政友会にお
いて常に抗争、意見を述べて、少しも意見を曲げないのは、彼がいかに
真面目かを見ることが出来よう。
政友会中に一人
31
試みに井上君に聞く。君が見るところで今の政友会中に果たして一人で
も国家という観念を抱いているものがいるか。権勢、利禄、地位、虚栄
イ デ ー
など、すべて自分の身や家の利便を思う他に、人民という意匠を頭の中
に描いている人物が果たしているかと聞いたところ、彼は苦笑して答え
なかった。
議員、政治家とい
井上君もまた私と同一の妄想を抱く人である。貴官大職にある人や代議
う啖人鬼
士政党員などは、自分の利益のほかに少しは国家とか人民などの意識を
頭の中に蓄えている人と信じてきた。今はどうかというとそれは純然た
る妄想で、それは彼らの知恵で私が愚かだったためである。どうしてか
というと、国家なるものはともかく大物で、それが衰亡するまでには多
くの人々が犠牲になって余りある。そうだとすれば、国家を犠牲にして
自分が利益を得るのに何を遠慮することがあろうか。人民とは何か、無
智な農民が最も多くいて、天の優勝劣敗の道理からすれば、他の智者の
利益に供されるべき物体ではないか。ああ今の貴官大職、代議士、政党
たんじん き
(食人鬼)というべきものになる。我が日本帝国
員はすなわち「啖人鬼」
の如きは、かくの如き智者の食料に供されて果たして幾年延ばすことが
出来ようか。
国家はともかく
そうはいっても、国家はともかくも大物である。このような智者のみの
の大物なり
巣窟でなくて、それ以外の智者たちも言う妄想家もまたその中に住んで
いる。こうして、正義、公平、慈仁、愛国心、敵外心などの各種の妄念
もまたそれ相応の代表者を映さないではおかない。我が日本帝国なども、
彼ら啖人鬼に食いつくされる前に、これらの妄想家が来て混ぜ返すこと
があって、社会はだんだん真面目になっていくかもしれない。今日早く
もこの兆候が現われている。
改革の兆候すで
あの三四倶楽部や、帝国党、貴族院の中にも、また未だ社会の表面に出
に発せり
ていない無名人の中にも衷心から真に政友会の智者のグループの行為を
憎んで、正義、公道、自由、平等、愛国等すべて言語としては極めて陳
イ デ ー
腐でも、事実としては極めて珍しい意匠を発揮しようとする少数者が出
現しかけているのはよくわかっている。きざしはすでに発しており、こ
れが事実になるのもそれほど先のことではない。世の真面目な人物たち
よ、それほど悲しむことなく、安心しようではないか。天と地の神は決
して我が日本国を棄てないだろう。
病の 1 年半はいよ
いよ急
32
この二、三日、夏の暑さがすこぶるひどく、朝日新聞では華氏 90 度と報
じていた。そのためだろうか、私の 1 年半はこの際大いに歩みを進めた
感じがした。首の腫物が急に大きくなって、大いに咽喉を圧迫し、裏側
の腫れものもまた広がったようで、咳が頻繁に出て、痰をはいた後には
呼吸が大いに圧迫される。私が咽頭がんを患うのは今回が初めてで(勿
論 2 回以上患う理由はない)、経験がないために自分でもわからないが、
食道がふさがるのがそれほど先ではないように思われる。そのためだろ
うか、最近食欲が盛んになって粥を一日 3 度 4 椀食べ、お菜もそんな調
子だ。その間に果物あるいは菓子を手当たり次第に食べて、その貪り方
は地獄の餓鬼のようである。故に私の目下の楽しみは、新聞を読むこと
と『1 年半』を欠くことと何かを食べることの 3 つである。食欲はかくの
ごとしなのに、ある日食道が塞がって食べることが出来なくなり、しか
も胃はなお健全で食べ物を求めるとなると、その不愉快は果してどうい
うことになるか。故に私は今になっては、盛んに食べて快さをとりつつ
あるのである。
社会の罰を蒙れ
私は明治の社会についてとても不満である。だから筆をとれば筆で攻撃
り
し、口を開けば罵倒している。今や喉に悪性の腫れものが出来で、治療
もなく、手をこまねいて終焉を待つ。もしかすると社会の罰を受けてそ
うなったのではないか。笑える。
正確には明治 14
明治 8、9 年頃だったかと思う。私は、西園寺候、柏田盛文君、松田正久
年。攻撃の筆は死
君、松沢憲君(幾ばくも無くしてこの新聞のために投獄されて死んだ)、
すれども休まず
上条信次君、林正明君らと一新聞を創立し、「東洋自由新聞」と呼んだ。
当時自由党はいまだ起らず、自由の字をとって表看板にしたのはきっと
これが初めてだった。その目的である専断制度を攻撃し、自由平等の大
義を唱えたもので、時の政府にとって正に正面の敵となった。
ほどなく西園寺候がその筋のない内諭を受けて新聞社を去り、ついには
松沢ほか 1,2 人が投獄され、新聞社はついに解体された。
その後自由党が起こるとともに、私はまた板垣伯の頼みで故島本伸道君、
故馬場辰猪君らといわゆる「自由新聞」なるものの筆をとり、のちに大
阪の「東雲新聞」、後藤伯の機関紙の「日刊政論」、及び二度目の「自由
新聞」、「立憲自由新聞」、「民権新聞」等に主筆として論文を掲載し、常
に時の政府すなわち薩長政府を攻撃して余力を残さなかった。そのため
に誤って、わが国体に害を加える者と認められるようになった。今の私
の病気つまり 1 年半は、俗にいう業病になるのか。それでも私は別の面
33
の 1 年有半すなわちこの記事を書き続けて、死に至るまで攻撃の筆をほ
しゅくごう
しいままにしたいと望む。これまた、私の宿 業(前世からの善悪の行為)
に違いない。笑える。
今、私が「1 年半」を書くのに、旅の身で一冊の書物も持たない。私は元々
記憶力が乏しく、参考の書物もなく、いちいちこれを記憶だけで書いて
いるので、不自由なこと甚だしい。東京の家に書籍があれば、取り寄せ
ることは極めて簡単だが、実は十数年来我が家の恐慌は世間の恐慌より
もさらにひどく、書籍の如きは少しずつ売却し米塩に替えて、今は一冊
も残っていない。これも私が事業に従事した結果である。世間の智者は
どんなにか憐れみ笑うことだろうか。
兆民居士は学者
私の事業では、利益は他人がこれを取り、損失は私が被ることになって、
なり
その末に裁判、弁護士、執達吏、公売等続々起きて、後に終わる。これ
が私が数年来事業を行って遭遇したことの順序である。今は不治の病に
かかり、百数十里の遠くで仮住まいをしているが、きっと火葬の骨で家
へ帰ることになるに違いない。しかし、私の本領は別にあって、他でも
ないこの「1 年有半」がそれである。これがすなわち真の私である。
本箱の中の旧知
4,5 日前、仮住まいの主人の大上君の部屋へ行き、向かい合って話をし
たのち、偶然彼の机の上の本箱が開き、
「眞山民詩鈔」と「唐栄八家選本」
を見せてもらった。私は大いに喜んで、あたかも異郷の遠く離れた宿で
友人に出会ったようで、すぐに主人にお願いして借りて、大いに文思を
養うことが出来た。これからの私の楽しみがまた一個増えた。まず真山
民の詩から始めた。思うに私がこの書物をひもといたのは 17,18 歳のこ
こうろぎ
ろかと思う。記憶にあるのは、「絡緯数声山月寒」(虫の声が数声山にか
かる月が寒い)の 1 篇で、あとは忘れており、今初めて読むようなもの
である。興味はますます湧いて、記憶が弱ることもまた時として益があ
ると言える。
真山民の詩
山民の詩の声調(節回し)は極めて美しく、立意は新奇を尊重し、いわ
ゆる他人のまねごとになっていない点が最も尊ばれている。詩にせよ、
和歌俳句にせよ、昔の人の意思を踏襲して僅かに字句の表を変えたもの
は、一度読めば人に嫌気を与える。和漢を問わず、大抵はこの二種であ
る。
文人の苦心
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私がいつも考えていることは、漢詩文は宋以降見るべきものはなく、よ
く考えてみると、古人の焼き直しに過ぎない。故に私は宋以降の詩文は
一読して再読することがない。文人の苦心は古人の後に生まれて、古人
が開拓した田地のほかに、別途種まきして別途収穫したいと望むところ
にある。韓退之のいわゆる「務去を陳言しかつかつその難きかな」とは
正にこのことである。もし古人の意思を踏襲して、古人の田地に種をま
いて収穫すればこれは剽盗(盗人)である。李白、杜甫、韓退之、柳宗
元らは、どうして古人を踏襲したのだろうか。独り漢文学だけがそうで
あるのでなく、英のシェークスピア、ミルトン、仏のパスカル、コルネ
イユなども皆別に機軸を出さないものはいない。そうでなければ何を尊
ぶべきであろうか。
高青邨
山民は斬新な立意のほか、大いに意を声調に用いたもののようだ。故に
その詩を他の宋の人と比較すると、大いに唐人に似ているところがある。
後世でいえば、高青邨はきっと山民がこれらのところから真理に入った
に似ているとして、編者近藤南州が言うのはまことにうまく当たってい
て、青邨の詩は正に立意が斬新で、声調はしばしば唐の詩聖に迫り、こ
れは模倣でなく自然に似ているのである。尊ぶべき理由である。
漢詩革新の一法
私はフランスのコルネイユの「シード」、ラシーヌの「アタリー」、
「イフ
ィジェニー」
、近年のユゴーの諸作を読んで、思うに漢詩でもこの種の作
品にのっとって作れば大いに人の注目を新たにすることだろう。ただし
かい なん
その時に字句が上品なことは極めて難しい。槐南、寧斎、種竹の諸君が
計画したいと考えたが、ついに果たせなかった。これら大家の筆で変化
が図られれば、その功績は大いに見るべきものがあろう。
かいなん
槐 南 先生の詩学
かい なん
槐南先生の詩学は、独り我が国の詩人だけでなく、中国の作家といえど
もおそらく尊ぶことはないだろう。その作品を私は余り見ていないが、
読んだ限りでは皆優れてよかった。先生の作品はただ立意や言葉が好き
そ
う
なだけでなく、内容を題に副うことに大いにその意を用いるところと見
かい なん
える。かつ、槐南、寧斎が他の人より尊ばれるのは、我が国の人のよう
はい ぶん い ん ふ
に間接に材料を佩文韻府(中国の辞書)のような機械から取り出すので
なく、直接に自分の心から取り出してきたもののようである点である。
故岡松甕谷先生
近年の漢文は、一つも見るに耐えられるものがない。帰震川、王尊厳の
奴隷に甘んじることなく、さらに下って塩谷宕陰、安井息軒の御用を勤
35
めるに至っている。陳腐さは人が一読すると頭痛を発せさせるほどであ
とうえい
る。独り岡松甕谷先生は真に近代の大家で、その訳は「常山紀談」
「東瀛
通鑑」
「記事本末」、
「荘氏注釈」などは他の漢学先生連中が夢にも思いい
たらないところだった。これらの書物を私は出版したいと望んだが、貧
しくてかなわなかった。その原稿は果して今だれのところにあるのか、
願わくは良く保管して時期を待って刊行されることを望んでいる。
山陽、履軒、跣足 岡松先生は叙事文で大いに力を尽くされた。その材料を取るに極めて学
のみ
識が広く、三代の秦漢から明清に及び、その傍らで民間の物語、在野の
人の編さんした歴史書、医学書にいたるまで、時に応じ、意に任せて、
駆使して残さず、こうして紙に現れたものは、字字軒昂(気持ちが奮い
立つ)しかも穏やかさを失わず、その常山紀談を訳す時は原文の一字も
おどし
おろそかにせず、馬のふくみ綿、鎧の 縅 等のささいなことといえども、
皆きちんと訳して、そのため字面で一つ一つ出所がないものはなく、山
陽、履軒と言わず、徂徠といえどもおそらく筆を投げて感嘆し、膝の前
にひれ伏さないではいられないだろう。先生の学識はこれほどあり、し
かも他の川田、重野らが博士号を授かったのに反して、貧しい服を着た
書生として自宅にこもって亡くなった。しかしながら、こんなことは先
生においては初めから何の問題でもなかった。思うに、川田、重野らと
同じでなかったことが、正にますます尊ばれる理由であるかもしれない。
団蔵
市川団十郎、尾上梅幸は今の世の名優である。私も家内や子供を連れて
しばしば見に行った。団十郎が言外に意味を含ませて、巧みに観客に意
味を悟らせる。菊五郎は十二分のところまで突っ込んだ演技で、心残り
もなく、両人が互いに作用し合って優れた眺めをつくる。また秀調は老
し が ん
練で、芝翫は艶美である。これらがみんなで人心を喜ばすに足りる。た
だし、真の悪役を演じるには、団菊は未だ人にいやな感じを与えること
が出来ず、きっと団十郎は上品で悪役が出来ないで、菊五郎は生まれつ
き身軽で毒々しい感じが出せないのだ。故に師直、仁記、滝口などの悪
役に至っては団菊ともに適役ではない。私は昔これを見た時に、団の師
直が「鮒じゃ鮒じゃ、鮒侍」などのセリフを言う時にいかにも他から借
りてきたもののようで、少しも憎々しさがなかった。こうなれば団蔵に
舞台へ出てもらわざるを得ず、団蔵が場に上がって一瞥すれば、いつで
もその骨を粉々にしたくなるほど憎々しげである。私は、常に思うのだ
が、団十、菊五、団蔵の 3 人を一場で演じさせたら、真に見事な眺めと
なろう。
36
雷権太夫
いかずち
相撲は今の 雷 権太夫が梅が谷の名前だった頃、真に天下無双の号に値
したというべきだ。5,6 年続けて負けがなくてまた引き分けもなく、た
だただ勝ちっぱなしだったときだけをいう。西の海、小錦などの今の横
綱は皆それに遠く及ばない。実際にも真に横綱に値するものが居ない時
は、空位にして 2 年でも 3 年 5 年でも開けておいて、真に強力な者すな
わち 5,6 年間負けることを知らないものを待って、はじめて位を授ける
ようにすれば、横綱の位は貴く、真に天下無双の名前に沿うと言えるが、
それでは相撲協会の利益にならないのだろう。故に、歴代の横綱力士は
大いに差があることを避けられず、今の大砲、常陸山、梅の谷などは強
いのは強いが、未だ 2 年間不敗だった者はいない。きっとこれも時の運
がそうさせることもあるとはいえ、そもそも横綱に就く前の日まで時々
失敗していては、なんとなく尊ぶことが出来ない。きっと今の横綱は内
閣における総理大臣と同様に、どうしても置かないでは済まされないた
めに、とりあえずおくというのみで、梅が谷(雷)が横綱だったのは故
大久保公が内務卿だったようなもので、その名前よりも実力で尊ばれる
べきものが見られる。
不公平
しかしながら私は相撲には熟達していないので、ややもすると今の力士
をもって陣幕、鬼面山、雷電、境川に比べて、その評判を下げようとし
ているかもしれない。これはきっと不公平な見解だろう。何となれば、
相撲は元々二人で勝負するので、両方とも強い者が対戦する時は、勢い
勝敗も半ばせざるを得ず、ゆえに時代が異なる人の相撲をもってきて、
その絶対的な優劣を判定することはほとんど出来ないことである。
近代の非凡人 31
私は近代の非凡人を精選して 31 人を得た。藤田藤湖、猫八、紅勘、坂本
人
竜馬、柳橋(後に柳櫻)、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、
杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅が谷藤太郎、勝安房、
圓朝、伯圓、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢、越路太夫、大
隅太夫、市川団州、村瀬秀甫、九女八、星享、大村益次郎、雨宮敬次郎、
古川市兵衛、である。だから伊藤、山県、板垣、大隈は入らない。そし
てその他入り乱れる人々、あの人この人などは人名辞書の 4 分の 1 ペー
ジも汚すに足りない。
西園寺候
西園寺候は、気宇が高く、見識も広く、加えて並ぶものが居ないほど聡
明である。ただし甚だ聡明で何事においてもたちまちそれが落着すると
37
ころを見通すために、一つも候の好奇心を動かすに足るものがない。す
なわち天下のいかなることも、候には初めから珍しいことはない。すな
わち候に好奇心がないのである。だから、冷やかでいささかの熱意もな
く、彼に会ってその言葉を聞く者には、その内熱を冷やしてしまう理由
である。候のその心はきっとこう思っている、自分が兵を使うに、アニ
バル、ナポレオンには及ばない。政治をするにビスマルク、カブールに
勝ることはできない。たとえ私がこれをしなくても、世間にはこれを行
う者が沢山いて、私がどうして他人と功名や権勢を争うことをしようか。
故に常に避けて何もしない。伊藤候を動かすに当たり、風が吹く柳のよ
うに、花に舞う蝶のごとく、ただあっさりと少しも自分の心に映写する
ことがなくて、自分の意思を動かさない。郭喜が曹操に対したものとは
大いに違う。到底、候は当局の政治家ではありえない、惜しむべしであ
る。
近衛公
近衛公は、最上名門の出身でありながら、東奔西走の労も惜しまず、そ
の意を最も東洋大陸のことに用いて、薩長内閣の伴食大臣であることを
拒んで、独り好んで学習院の長となり、華族の子弟の教育を司っている。
その心の向かうところはまことに遠大と言える。ただし私は公にお目見
えしたのは 1 回に止まり、その胸中にあるものが果してどんなものかを
うかがうことが出来ず、いつの日か信望に応えて天下の人心を満足させ
るかどうかも知らず、昔の第一等貴族の末裔であるのに、独り孤立し自
負しているのでなければ国家の幸いである。
黒田候
黒田長成候は立派な評判があるといえども、私はこれまでお目にかかる
機会がなく、座をたまわったこともない。
犬養木道君
犬養木道は、その外貌を見ると精悍の気が激しく外に溢れる。物事に臆
しない気力もある。眼の光も爛々としているのをみると、きっと機智も
たくさんある。だからこそ、自由党と追いつ追われつすると、ややもす
れば先を越されて、未だに大いに気を吐くことがない。考えてみると、
彼は余りに東洋的、三国志的で、事を事とせず、むしろ昼寝をして礼を
尽くして頼みに来るのを待ち、むしろ傍若無人に主人を驚かすことを喜
んで、意地汚く進んでことをなすことを好まないのだろう。しかし、こ
ういう人も得難い才能である。
大石正巳君
大石正巳君は、生まれつき活発で小事にこだわらなく、大志をもち、プ
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ライドはすこぶる高く、すべてのことを知っており、わざと出来ないこ
とがないように見せかけて実はそうでなく、得意なところは幾度も人に
頑固と疑わせるものがあり、これはひょっとすると外の人には分からな
いところである。ただし彼も欧米で学問をし、その判断力は 20 世紀にし
て、しかもその行動は東洋的かつ三国志的である。これに加えて執着力
は極めて弱く、しばしば初めは脱兎のごとく、後には処女の如しで、弊
害を避けられない。今少しその気位を下げるなら丁度 20 世紀のよい政治
家となれるというべきか。
尾崎学堂君
尾崎学堂が進歩党を去って政友会へ入った時、他に意向があったのだろ
うが、外からこれを観察すると、彼が入閣を急ぎ、先年の「共和演説」
のとばっちりを払しょくするには、伊藤侯や天の恵みを慕って、侯に頼
って身を立てるしかないと思って、ロシアと謀りごとを連ねる云々は、
特に一時世の人を欺くことにほかならないと言われている。想像が真に
近いならば、学堂もついには節義に苦しまねばならない。さりとて学堂
もまたその声価を落としたものだ。私はもう少し政治家的だったと信じ
たい。要するにその知恵が木堂にはるかに及ばなかった。
田口卯吉君
田口卯吉君はしゃれた好紳士である。今の文学博士中で著書の多さで彼
を超える人はいない。
島田三郎君
嶋田三郎君は、弁がうまく、文筆もあり、精力もまだ普通の人以上にあ
る。それなのにその名望が未だ薄いのはどういうわけだろうか。
佐々智房君
佐々友久君は、小心で慎み深く、品行は堅固らしい。政敵といえども敵
にせず、むしろ他日協力すべきを考えて心は密かにこれを延納するよう
な事態になる。これは度量がやや大きなゆえんである。ただ志が余りに
転変するので、恐らくそのために時期を逃すこともあるのもこのためだ
ろう。私は再度会えるなら、それでも良いというだけである。
頭山満君
頭山満君は大人長者の風格がある。かつ今の世で昔の武道を十分に残し
ている者は独り彼がいるだけである。彼は言わずして知っている。機知
も真面目さから発していると言うべきである。
坂本金弥君
坂本金弥君は、年少で色白軽薄な才人の雰囲気があって、本当のところ
39
は度胸があり、知識も高遠である。私はたったの一回だけ言葉を交わし
て大いに敬意を発したところである。この人は後日必ず名をなす人であ
る。
加藤高明、山本権
今の内閣の大臣と前の大臣で、特に加藤高明君、山本権兵衛君は多分か
眯
なり学術があり、およそこれら 40 歳代の人はたとえもっとも才能がない
ものでも薩長元老に比べれば多いに勝る。士官学校又は江田島学校出の
佐官、尉官と算数も知らない元帥や大将との優劣のようなものである。
それなのに、元老たちはなおかつ舅然として、ややもすれば政治に口を
はさむ。その人が国家の進歩発展を害することがどれほどか。いつの日
か、どうして滅びないでいられようか、女とともに滅びようということ
わざもある。
故黒田清隆君
故黒田清隆君、この点で人よりましだと言える。
恐露病、侮外病
最近新聞誌上でしばしば「恐露病」という文字を見る。我が政府が過度
にロシアを恐れることをいうのである。間違いなくこの事実はある。し
かし私はさらに言う。我が政府すなわち薩長政府は長い間恐外病に罹っ
ている。欧米強国は勿論で、支那朝鮮といえどもこれを恐れることがひ
どい。その亡命の人に対処するにあたり、しばしば不当な行いがあった
事を知っている。もしそれが他の強国の場合だったら、恐れることはも
っと甚だしい。たしかにかの強国は物質的な学問ではたしかに人を驚か
すに十分だが、しかし道理と正義を考察することになれば、それを恐れ
るべきものは果たしてどこにあろうか。外交と称する詐欺を盛んに行い、
互いに排斥して陥れて、熱心に奪う有様はあたかも飢えた犬が腐肉に群
がる有様のようである。私はその卑しさを見て、尊敬すべきことは見な
い。さらに近年の北清事変で、軍隊を北清の野へ連ねて敵に当たった時
彼らが大変弱く、野蛮な風を発したのをみて、我が国の軍人が皆初めて
欧米諸国の文明がしばしば形だけに止まって、理義に至れば我々とあま
り変わらず、或いはわれらよりも大いに劣ることがあることを知った。
今後、いわゆる恐外病は少し癒えてくるだろうか。一つの極から他の極
へ走るのは普通の人の情である。我が国の人は明治維新以前には、外国
人を軽蔑することが甚だしかった。彼らは邪教を信じて人の国の様子を
じっと窺うとか、異臭がしてけがらわしさが極まるとか色々言ったもの
だ。こうして諸藩の少壮の勤王の意気込みに燃えると自称するものたち
が、仮にも道路上で青い目の人を見ると直ちに刀を抜いてこれを切った。
40
武蔵の国の生麦のこと、泉州泉のことその他枚挙にいとまがない外国人
殺害のことはみなただこうした考えが起こさせたものである。これはま
さに侮外病というべきものである。しかし、ついに開港貿易の命令が出
されて、いくつもの条約を押し付けられてから、次第に意気地がない方
へ流れて、その末に結局恐外病にかかり、外国人と言えばトラのように
恐れるのは、正に一つの極から他の極へ走ったものではないだろうか。
日本人は虫持ち
これ故に、今日我が国の人が外国で正義を守って、あえて法律を犯さな
の子供
いのも、自分自らが守るものがあるというよりも、むしろ怖がっている
ためである。虫持ちの子供は自然と悪いことをしないが、これはその勇
気に乏しいためである。我が国の人が外国人に対してよく道を守るのは、
きっと虫持ちの子供に類するためではないだろうか。
パークスと大久
我が国の外交が振るわないのは、きっと我が国の当局者が知らず知らず
保
のうちに、幾分あの恐外病にかかり、ややもすれば虫持ちの子供の類に
陥っているからではないか。きっと外国人が我々を軽んじて我が国の人
が外国人を恐れるのは、その習性がすでに長いためである。昔(M7,8
年頃か)岩倉公が大使として欧米を巡回するに当たり、大久保利通公が
ロンドンでパークスと同車して、ある場末の一角をすぎるときに、たま
たま野狐がいて車の前に来た。パークスはこれを見て、急に柏手を打っ
てこれを拝んで、大久保公を振り返って微笑した。きっと我が国の人が
狐を稲荷として祀るのをパークスが愚弄したものである。一体パークス
は何者か。大久保公と比べて主人と奴隷のみならず、こんなことをする。
故にこの一点よりして言うならば、先年の日清戦争や北清戦争で、我が
国の軍人が多いに勇気を戦陣に奮い、国威を輝かせたのは、我が国の恐
外病を癒すうえで大いに効果があったようだが、翻って政治経済等に関
するに至ると、恐外病はなお依然としたものがあるのはどうしてか。
ハイカラ者流、容
もし根本から恐外病を癒そうとするならば、教え導くことを盛んに行い、
喙の権利なし
物質の美と理義の善の区別を明らかにすることに及ぶものはない。学術
がいかに深くても、権勢がいかに盛んな時でも、名望がいかに盛り上が
っていても、もし子として父を虐げ、夫として妻を苦しめ、友人を欺き、
諸々の不善を行えば、我が国家がいかに強くても、隣国がいかに弱くて
も、我々は理由もなく兵を隣国へ加えたらどうか。
外物(そとのもの)はついに理義に勝つことが出来ない。根本と末梢の
別があるからである。この言葉は今のハイカラ者流がきっと言う、陳腐
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で聞くに堪えないと。一般的に理義の言葉は皆陳腐である。これを言う
時には陳腐でもこれを実践する時には新奇となる。ハイカラ連が陳腐と
するものは国家としては皆極めて必要なものである。男子のくせに白粉
を着け、その髪の毛に油をつけるのは、彼らが新奇とする所で、私は世
間の人と一緒に臭くて嫌なものである。彼らには未だに理義の言葉に横
から口を入れることを許さないのである。
物質の美と愛国
しかしながら、単に物質と理義の区別を明らかにするだけではまだ足り
心
ない。すなわち、物質の美も大いに愛国心を引き起こすうえで力がある。
こうして愛国心が盛んになると自然に恐外病を癒すことになる。こうし
て邦人で朝鮮や支那へ行く者は、自ら憐れみの心をもち金品を恵む気持
ちとなる。それから朝鮮支那人で我が国へ来る者は自ら我を尊ぶ気持ち
をもっている。他でもなく、いろいろな事物が我国に及ばないからだ。
そして欧米諸国が、我国に勝っているのは我らが朝鮮支那に勝るような
ものでなく、すべて欧米から輸入するものは内地で同一のものがあって
も、その良否は比べ物にならない。故に商人はきっとこれは上等な舶来
品であるという。すべてのものがいちいち外国産が優れていれば、我々
は自然と卑屈になってしまう。これは普通の人が逃れられないところで
ある。故に中人以下の人は、ただ理義と物質の区別を明らかにするだけ
でなく、直接に物質の美を進歩させてそれを示し、それによって愛国心
を発するようにさせなければならない。故に教化を盛んにすることと科
学を盛んにすることは、二つながら欠くことが出来ない。
理化の応用
科学を普及する必要は、人々が皆認めており、必要なことである。ただ
各種の科学のうちで、我が国で容易に受け入れられないものがある。す
なわち理、化の 2 つの学がそれである。きっと土木とか鉱山若しくは医
学のように、大学を出ると引っ張りだこで,官庁又は会社又は個人へ招
かれる。理化の2科はそんな具合には売ることができない。
これは他でもない。事業家、資本家の絶対数が少なくて、理化の2科に
は需要が未だに多くないためである。これ故に理学士なのに、時々、玩
具商に雇われて、玩具づくりに努力して、神仏の縁日でに思いがけない
利益を得るために働き、かろうじて食べていくという。これは教育家が
知らなくてなならない一事である。だから資本家と学士連中の連携を頻
繁に行うことが最も肝要である。
未来の大発明
化学のようなものも今日にあっては応用が未だ多くない。故に学士にな
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っても教師になるほかに、これを事業に応用する道は甚だ乏しい。しか
し私がこれを考えると、化学の如きはその用途が極めて広く、医学の如
きも将来大発明をしようとすれば、化学に頼らざるを得ないのであり、
今の 60 余の元素も増えて 70,80 となるか、或いは減って 50,40 とな
るか未だ分からないが、思うに今日の化学的合成の術によって物質を製
造するといっても酸素と水素の 2 素から水をつくるぐらいなもので、わ
ずか 2,3 品に過ぎないけれど、化学がさらに進んでゆけば、他の有機物
を製造し、ついに血や肉を製造し、究極のところ脳の作用である智、感、
断の三者の如きも、また化学的につくれるかもしれない。
パリ、ロンドンの
科学を普通にさせて、盛んに工業へこれを応用し、精巧な物を製造する
愛国心
ことは単に国を富ますうえで必要なだけでなく、人民の愛国心を涵養す
る上で、極めて必要なことは前に論じたとおりである。私はかって欧州
とうとぶ
で観察したのは、パリでは 2,3 の物は英国製を 尚 ぶがその他は皆自国
で製造するものが上等で値も高い。これは自国製だからだと言う。ロン
ドンでもまた同じで、2,3 の物ことに化粧品の如きはフランス製を尊ぶ
が、その他は自国製として自国の品物を尊ぶ。すべてこれは表面に現れ
ない間に、人民に愛国心が現れたもので、またこれを涵養するゆえんを
知ることが出来るものである。
外尊内卑はこの
もしもこれに反して、自国の産物が一々劣等で、中産以上の人々が物を
国の大患
外国品に仰ぐようになったら、戦時はさておいて、平時には自然に外国
を尊び、自国を賤しむようになることは普通の人の情である。それこそ
外尊内卑で、我が国の大病である。単に男尊女卑だけでなく、単に官尊
民卑だけではない。
洋妾とハイカラ
らしゃめん
横浜商館の番頭や 洋 妾は、外尊内卑主義の主導者である。その次はハイ
カラつまり広襟連中である。ここから始まり、各階級の人物でこっそり
この主義を維持するものがどれだけいるかは分からない。憎むべし、卑
しむべしである。
今の外交官
それにもまして最も品よく最も学術的に外尊内卑主義を手にとり、それ
を少しも気づかせないほどに巧みなものは今の外交官である。これはた
だ憎み卑しむだけですませるものではない。この連中を国際関係の業務
に携わらせておくのは危ない。
国民堕落の歴史
43
私は前にこの書で、邦人が互いに手を携えて、腐敗堕落の境へ落ち込ん
でいくのは嘆かわしいことだと言った。思うに、我が国は長い間封建制
が行われて、人々は各階級各族類に閉じ込められて、抜け出す道もなく、
競争も全くなかった。農工商の中でも穀物を扱うものは幾世を経ても穀
物を扱い、酒を商うものは幾世を経ても酒を商い、変換することは極め
て困難だった。
一国民をあげてほとんど化石のようで絶えて変動することがなかった。
衣食住についても、各階級には習慣があって、それより贅沢なことを許
さず、つつましいことも許さず、一社会あげて魚介の形を変えないよう
になった。要するに、中産階級以下は質朴風(自然のまま)とし、否質
朴以上に人間以下の生活をし、これを常とした。
すでに明治中興の政治が敷かれて、欧米諸国と交際も行ったり来たりし、
その諸国の貨物、制度、文物、習俗、被服とをごちゃごちゃに輸入して
きたから、我が旧物はすみやかに消え去り、一国を挙げて新天地へ突入
し、官民上下の階級は残っているが、生活の様式は混同して一つとなり、
資力があれば競走馬に鞭うってもよいし、どんな立派な家に住んでもよ
く、位や階級の別もない。こうして生活程度は俄然高く上り、人々は皆
その資力以上の娯楽を希望し、あれこれと手に入れようとする。こうし
て官吏は賄賂で身を肥やし、工商者は賄賂や縁故で結託して思いがけな
い儲けを狙い、これに加えて維新改革の際に、数百年来厳しいたずなの
如き法律に苦しめられた西国武士は一旦朝廷の政治に参列し高い地位を
得ると奢り高ぶり、鱎喬淫逸に流れること矢の如くで、大いに都会に淫
靡の風をもたらし、天下に遊びにふけることの模範を垂れたから、大商
人から中産以下に至るまで、あいひきあってこれに溺れて、すべて自ら
奢りとなすに至ったのである。
これは今日我が日本帝国の官民上下、貴賤貧富すべてが贅沢と遊興にふ
ける習慣をつくった歴史である。教育家、経世家、政治家、皆口を開け
ば堕落腐敗を論じない者はいない。結構なことである。しかしひとたび
活眼を開いて良く見渡してみれば、一張一弛(張ったり緩めたり)は人
の道の常で、今日の風をなしたのは勢いである。自然の一段階である。
やむを得ない経過であった。ただ問題にするところは、うまくこの地獄
以外に一線の活路を切り開けるかどうかにある。うまく大道へ出て、長
安へ行けるかどうかにある。だから私は前に、すでに良い兆候が表れて
おり、東の天竺はいささかの光を洩らしている、と言ったことがある。
こ の ほ か に 名 策 今日から各階級の人は皆少しは自ら学んで身につけて、理義が正に適合
なし
44
することを求めるようになるべきだろう。かつ利益の点から考えて、君
が行うにこしたことがないことを理解するようになるだろう。かつこの 5,
6 年来金融はひっ迫し、工商の不振が相次いで切れ目がないため、変化を
求めようとすれば、貯蓄に及ぶものはない。貯蓄は節約による。この他
に別に名案もないことを知り、自然に奢侈の風を減らして、すなわち不
義の富の必要さは前のようにひどくならないですむようになろう。
万朝報の理想圏
万朝報社の理想団の唱えたことは、まさにこの時期を見破っているのだ
ろうか。
理想団の主旨は、私は未だにそれを詳しく聞いていないが、しかも人々
が自ら学んで身につけて、名誉と節操を磨いて、会合約束といった小さ
なこととでも少しも破らず、一言でいえば君子となる事を求めて怠るこ
とがないということらしい。これは良い志である。政党がすでにあのよ
うになる時は、いわゆる宣言と言い政綱といい、ただ空事を羅列するに
過ぎず、人民たる者は自分自らを頼む者でなければ、再び政治家に頼む
ことはない。理想団の必要なゆえんか。
すでに理想という、たとえその勢いが今日行うことが出来ないもの、純
然たる理義の正しさの如きも、これを口にし筆にして、将来日を改めて
必ずこれを実行しようとしているのだろう。自由、平等、博愛その他万
国と隔離する国境を撤去して、戦争をやめて、貨幣を一つにして、万国
共通の役所を設けて、土地所有権と財産世襲権を廃するなども要求の中
へ入れるべきである。これは大志である。牢屋の苦労といえども辞さな
いことを期待すべきである。理義が分からない凶漢の匕首も避けること
はできないだろう。色々な政党員が小さな一つのイスを失って、気はく
じけ、心は暗くなって、にわかに志を翻し、十数年の交友を捨て去り、
敵の党に鞍替えするような、世間の虚栄を慕う無義無残な連中の集まり
ではないはずである。果たしてそうであるなら、団員諸君にお願いした
い。私も石碑の後ろから、将来いつの日か手を挙げてこれをお祝いする
ことがあるだろう。
生ける藁人形の
団員諸君、諸君の志を述べようと望むならば、政治を置いてこれを哲学
放逐
に求めよ。本当に哲学をもって政治を打破するのが重要である。道徳で
法律を圧倒するのが重要である。良心の褒美で世俗の爵位勲章をぬぐい
去るのが重要である。紫を引いて朱をまきつけた上等な服を着て高い場
しん しん
所の上で飛翔する縉紳(位の高い人)、貴顕と呼ばれる生きた藁人形は適
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当に千里の外へ放り出すべきである。唯一人無爵無位の真の人がこれに
任じられれば充分である。団員に健闘を祈ると言いたい。
パリのスープよ
8 月 3 日、これより先の去る 7 月 19 日から諸学校は例年休業になるので、
りも美味しい
私の長男で早稲田中学に行っている者で年齢 13 歳が、東京から来ており、
毎日お昼が終わった後の午後大浜へ行って水泳をし、蛤を取って帰って
くる。この地は蛤で知られており、私もこれを好む。よって毎日吸い物
にして食べる。パリのカフェーのアングレーのスープもこれに及ばない。
私は病になってから大いに甘いものを好む。毎朝粥をすするにも必ず砂
糖を混ぜる。また桃やスモモの類にも皆砂糖をつける。きっと胃腸は極
めて健全なりと見える。
ただし近日、咽喉に事に緊窄を覚え、咽喉もとの腫れものは毎夕 7 時か
ら傷みを発して、さらに左頭部に及んで神経痛を起こし、8時ようやく
止む。これは特に最近の炎暑のためそうなるのか、正に私は日々筆を取
って私の「1年半」を記し、社会各級皆を罵って余力を尽くしているた
めに、もしかすると天が私を憎んで1年半をそそのかして約束を破って
病気を進行させて、急いで私を罰していわゆる息の根を止めようと望ん
でいるのではないか、果たしてそうであるならば私もまた歩調を急いで、
1ページでも多く書いて、一人でも多く罵倒し、一事でも多く破壊し去
ることを望むべきだろう。堺で炎暑がひどく、健康な人でも昼間はぐっ
すり眠るだけなのに、私は病気の身で、毎日筆を取って、あえて憚ると
ころがない。或いは天もまた私の罵詈雑言癖の頑固なことに驚かざるを
得ないとするか。面白いことだ。
余に於いて足れ
私が当地にいると、東京の留守元から大抵手紙が 1 日 2 日をあけて必ず
り
来る。だから債権者が来て催促があったこと、もしくは執行官が来て封
印したことを知らてくる。これは独り私の身が不治の病を受けただけで
なく、東京の我が家もまた悪性の病気になったというべきか。
この外患内憂に当たり、私の悪口病もますます熾烈になっていったのも
また仕方がないことだ。この際私の味方となるものは、ただ妻と子供と
私の筆があるだけである。これで私は足りている。これを除いてまた他
を待つことは必要ない。
徳孤ならず
しかしながら、仮住いの主人の大上君と当市の友達は私のこんな様子を
見てとても心配して、もてなされるのがすこぶる手厚い。きっとこれら
の諸君は、皆優に朝報社の理想団に入るべき価値がある。私が慰められ
46
るのは大大名も及ばない。
「徳は独りでなく必ず隣人がいる」とはこれを
いうのだろうか。
兆民居士不遇に
近頃では東西の新聞も一つも興味があることがなくなった。大阪市長の
非ず
辞職、その代理人の人選、伊藤大勲位の東北行き中止、このようなこと
ばかりで、私に一つも心を動かすものがない。私が期待するものは、一
葉落ちて涼風が生じた後、大阪堀江の明楽座と御霊文楽座が開場する頃、
幸いにも私も行くことが出来て、これまであわせて 3 回大隅太夫、越路
太夫の義太夫を聞いて、玉造、紋十郎の人形を見て、この娑婆世界に別
れを告げることを願うのである。私は文楽には暗いので、これらの傑出
した芸人と時を同じにできたことは誠に幸福だった。私はまだ不遇を嘆
くわけにはいかないといえる。
(8 月 3 日堺市においてこの稿を終わる)
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