1 第13回 愛国心 わずか九文字 戦後の日本では、「愛国心」という語が

第13回
愛国心
●わずか九文字
戦後の日本では、
「愛国心」という語が、しばしば論争の種と化しているよう
に感じられる。しかも、そこから生まれる議論は、ほとんど噛み合うことなく、
延々と続けられているようなのである。おそらく、これほどの関心を呼ぶ「愛
国心」という日本語には、極めて多様かつ複雑な意味があるに違いあるまい。
そのことを深く理解するために、まずは、『広辞苑』(第六版)における「愛
国心」の説明を検討するところから始めよう。と思ったのであるが、その判断
は、あまり賢明ではなかったようである。肝心の『広辞苑』には、「【愛国心】
自分の国を愛する心」と記されているだけなのだ。たった、それだけ。わずか
九文字である。これでは、検討も分析もへったくれもあるまい。
考えてみれば、国語辞典が示すべき言葉の意味としては、それ以上の事柄は
何もないだろう。日本語を母語とする者にとって、愛国心という単語は、少な
くとも文字通りの意味に解釈する限り、難解でも複雑でも専門的でもないから
である。
※漢語でも、
「自分の国を愛すること」を、古くから「愛国」と表現して来た。ただし、これに「心」とい
う文字が追加され、日本で「愛国心」という語が通用するようになったのは、明治維新期以後のことであ
る。
●改正教育基本法の文言
そして、これまた字義どおりに解釈する限り、
「愛国心」という語が示す中身
もまた、取り立てて騒ぐほどの大問題ではあるまい。各自の思想や信条は個人
の自由であるとは言え、
「自分の国を愛する心」そのものは、敢えて否定視すべ
きことではないと思われる。率直に考えて、自国民から嫌われるような国なん
て、誰も住みたくないだろう。
例えば、あるベトナム人が「自分たちは愛国心を持っている」と言ったとき、
それを非難する者が、日本にどれだけいるだろうか。おそらく、ほとんど皆無
だろう。ところが、ある日本人が「我々も愛国心を持とう」と言えば、それを
非難する日本人は、少なからず存在するのである。事実、二〇〇六年に教育基
本法が改正された際には、そこに愛国心的な要素が盛り込まれたことに対して、
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反対の声が多く寄せられていた。
しかしながら、その教育基本法の文言にしても、単純に字面だけを見る限り、
声を大にして強く抗議するほどの対象ではないだろう。そこには、
「伝統と文化
を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊
重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と記されているに過
ぎない。むしろ、「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という箇所
は、非難ではなく、評価に値すると思われるのである。
●「愛国」が実際に指し示しているもの
とは言え、いわゆる「愛国心」を教育基本法に盛り込むことに反対する人々
の懸念もまた、根拠のないことではない。日本の近代史を振り返れば、似たよ
うな事例が過去にも実在したからである。
一九三七年(昭和一二年)の末、
「愛国行進曲」というレコードが発売された。
この年に、盧溝橋事件、第二次上海事変、日独伊防共協定の成立などがあった
ことを思い起こせば、そのレコードの歴史的意味も察しが付くであろう。そう、
この「愛国行進曲」は、同年八月に閣議決定された「国民精神総動員実施要項」
の指針に則り、当時の内閣情報部が公募制作したものなのである。その売り上
げは、最終的に総計一〇〇万枚を超えることになる。時代を考えれば、驚異的
な大ヒットだと言えよう。
注目すべきは、その歌詞である。そこには、「八紘を宇となし」とか「正し
き平和打ち立て」とか「断固と守れその正義」とかいった文言が並んでいるの
だ。これまた、歌詞を読む限り、何ら問題はないだろう。平和を打ち立てるこ
とや正義を守ることは、どう考えても非難の対象にならないと思われるのから
ある。二〇〇六年に改正された教育基本法が「国際社会の平和と発展に寄与す
る態度を養う」と謳うのが正当であることと、非常によく似ているのだ。どち
らも、この上なく極めて高邁で素晴らしい理想的な模範を高々と胸を張って掲
げており……これこそ美辞麗句のような???
問題の根は、かなり深い。そもそも、戦前の「愛国行進曲」は、曲も歌詞も
国民かから公募されたものであり、かつ多くの国民から進んで愛聴および愛唱
されたものであった。なるほど、たとえ公募とはいえ、選んだのは時の内閣情
報部であったに違いない。ただし、そこで選ばれたのは、
「平和」や「正義」を
掲げる歌詞であって、戦勝や排外政策を訴えるものではなかったのである。
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しかしながら、
「愛国行進曲」の土台をなす「国民精神総動員実施要項」の方
には、「尽忠報国」や「国民教化」という文言とともに、「全国民ヲシテ国策ヲ
推進セシムル」と明記されている。となると、「愛国行進曲」の目的は、「尽忠
報国」に向けた「国民教化」に他なるまい。ただし、
「国民精神総動員実施要項」
の中には、「愛国」という文言は一度も登場しない。要するに、「愛国」よりも
「尽忠報国」という本音の下で、
「平和」や「正義」を掲げる「“愛国”行進曲」
が作られたというわけである。建前だけは、立派なのだ……。
ここで、二〇〇六年に改正された教育基本法を思い出そう。たしかに、そこ
には「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与」と明記されている。この
文言自体は、何ら批判すべき内容ではない。戦前の「愛国行進曲」が「平和」
や「正義」を掲げていたのと、全く同様である。という次第で、教育基本法の
改正に反対した人々の主張もまた、的外れだとは言えないだろう。だが、明示
された言葉で論理的に議論しようとすれば、何が何だかわけが分からなくなっ
てしまう。これもまた、日本語の宿命の一つなのだ。
●愛国心とナショナリズム
以上のことを踏まえた上で、
「愛国心」について、別の角度から考えてみよう。
二〇一二年四月二九日、フランス大統領選挙に臨んでいたフランソワ・オロン
ド候補――後の当籤者――は、一方の手に仏国旗(三色旗)、もう一方の手に欧
州旗(十二星旗)を持ちながら、次のように訴えた。すわなち、
「私がナショナ
リズムに対置するのは、愛国心である」と主張したのである。
周知のとおり、その選挙戦は、ギリシャの財政破綻に代表されるユーロ危機
の渦中で展開されていた。ギリシャと通貨を共有するフランスもまた、無傷で
はいられない。当然、国内からは、EU(欧州連合)やユーロに対する懸念が
生じて来る。そもそも、統一通貨ユーロの導入は、通貨の発行という、独立国
家の主権に関わる権限を放棄することに他ならない。となると、わざわざ経済
的な犠牲まで払ってまで、そんなことをする意味があるのかという疑問が湧く
のは、何ら不思議なことではあるまい。
そうした中で、オロンド氏は、敢えて仏国旗と欧州旗を同時に持ちながら演
説を行ったのである。その意図は、容易に察知できるに違いない。ここでの問
題は、その意図が、どのような言葉で説明され得るのかという点である。
片手に仏国旗を持ち片手に欧州旗を持つオロンド氏の姿勢は、ある意味で、
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日本の教育基本法に非常に近い。つまり、
「我が国と郷土を愛するとともに、他
国を尊重し」というわけである。フランスでも、それが「愛国心(patriotisme
=愛国主義)」なのだ。一方、同じフランスで――オロンド氏の発言にも見られ
るように――「愛国心」に対置され、否定視されているのが「ナショナリズム
(nationalisme)」なのである。
では、そのナショナリズムなるものは、いったい何なのだろうか。ここでも、
まず『広辞苑』に登場してもらうことにしよう。そこには、次のように記され
ている。
ナショナリズム【nationalism】民族国家の統一・独立・発展を推し進める
ことを強調する思想または運動。民族主義・国家主義・国民主義・国粋主
義などと訳され、種々ニュアンスが異なる。
この説明を読んで、心底から納得する者は希であろう。おそらく、『広辞苑』
が悪いのではない。そもそも、
「ナショナリズム」という外来語は、どう和訳す
るかによって「種々ニュアンスが異なる」以上、その語義を要領よく端的に言
い表すことは不可能なのである。そのことを理解するために、今度は、
「ナショ
ナリズム」の訳語として挙げられている「民族主義・国家主義・国民主義・国
粋主義」を、これまた『広辞苑』で調べてみることにしよう。
【民族主義】
(nationalism)民族の独立と統一を第一義的に重視する思想・
運動。一九世紀初めからヨーロッパに現れ、特に第一次世界大戦後は一民
族一国家の形成をめざす政治運動として発展。分裂している民族の政治的
統一をはかる型と、外国の支配からの解放・独立をはかる型とに大別され
る。
【国家主義】国家を人間社会の中で第一義的に考え、その権威と意志とに
絶対の優位を認める立場。全体主義的な傾向を持ち、偏狭な民族主義・国
粋主義と結びつきやすい。→ナショナリズム。
【国民主義】(nationalism)国民の利益や権利を擁護し確立しようとする
立場から近代国家の形成をめざす思想・運動。ナショナリズム。
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【国粋主義】自国の歴史・文化・政治を貫く民族性の優秀さを主張し、民
族固有の長所や美質と見なされるものの維持・顕揚をはかる思想や運動。
→ナショナリズム
たしかに、これらの四語は「種々ニュアンスが異なる」し、
「国家主義」と「国
民主義」に至っては、ほとんど両立不能だろう。それでも、たった一つだけ、
確かなことがある。それは、
「ナショナリズム」に宛てられた四つの訳語が、ど
れも日本語でいう「愛国心」、すなわち「自分の国を愛する心」と矛盾するもの
ではないという点である。となると、「愛国心」が「国粋主義」や「国家主義」
に横滑りする危険性もまた、杞憂だとは言い切れないだろう。
※『コンサイス英和辞典』(第13版)で「nationalism」の項目を調べると、「1 愛国
心;国家主義;国粋主義.2 民族(独立)主義」となっている。つまり、「nationalism」
の第一語義が「愛国心」で、それに続いて出て来るのが「国家主義」と「国粋主義」なの
だ。ここでも、「愛国心」と「国粋主義」は、ほとんど紙一重だと言えよう。なお、同じ
辞典で「patriotism」の語義を見ると、ただ「愛国心」とだけ記されている。
だが、先出のオロンド氏にとって、
「愛国心」と「国粋主義」の混同など、論
外であるに違いない。同氏は、
「愛国心」と「ナショナリズム」を、互いに重な
るようなものではなく、むしろ対立するものだと位置づけているのである。こ
れは、単なる私見でもなければ、独自の新説でもない。原語に照らして考えれ
ば、その理由が分かり易いだろう。
日本語の場合、愛国心の「国」も国粋主義の「国」も、同じ文字で表現され
る。そして、
「国」という字に「生粋」の「粋」を付ければ「国粋」で、
「愛着」
の「愛」を付ければ「愛国」となるのだ。となると、
「愛国」と「国粋」が同系
列の単語だという印象が生まれても不思議ではあるまい。
だが、フランス語の場合、愛国心は「 patriotisme 」、ナショナリズムは
「nationalisme」となる。どちらも何らかの「主義(-isme)」である点を除け
ば、両語の字面は全く似ていない。要するに、字面からして別系列の単語なの
である。これなら、
「愛国」と「国粋」の場合のような連想もまた、生じにくい
であろう。
いずれにせよ、フランス語の場合、「愛国心(patriotisme)」の対象は――
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「nation」ではなく――「patrie(パトリー)」なのである。この「patrie」と
いう語は、
「祖国」と和訳されることが多いのだが、フランスの国歌にも登場す
る。よく知られているとおり、フランス国歌(La Marseillaise)は、革命戦争
が勃発した一七九二年に作られたもので、いわゆる「革命歌」と呼ばれるもの
でる。そして、一七八九年に端を発するフランス革命は、自国の統治機構を破
壊するための内乱に他ならなかった。事実、この国歌が作られた翌年には、ル
イ一六世もマリー・アントワネットも、ギロチンで首をチョン切られてしまっ
たのである。
●「愛国心」≒「郷土愛」
話題を、フランス国歌に戻そう。そこには、
「Allons enfants de la Patrie(ゆ
こう、祖国の子らよ)」とか「Amour sacré de la Patrie(祖国への神聖な愛)」
といった形で「Patrie」という語が登場する。要するに、自分たちの国家体制を
転覆させる運動が、
「la Patrie=祖国」の名の下で遂行されたというわけである。
祖国(patrie)を愛するが故に、君主を処刑したのだ。その心は、まさに「愛国
心(patriotisme)」であった。現に、
「祖国(patrie)」を讃えるフランス国家の
中で、「王ども(rois)」は敵として登場している。
ただし、元来のナショナリズムもまた、フランス革命を契機にヨーロッパに
広まったもので、基本的には左派的な系列に属する思想であった。その背後に
は、君主への忠誠から、国家や国民といった集合体への忠誠へという価値転換
があった。しかし、一九世紀末頃から、ナショナリズムの意味が変化してゆく。
つまり、民主制や共和制といった近代的な枠組に価値を置くのではなく、民族
の伝統や血統を重視する思想となっていったのである。これが、今日まで続く
右派的なナショナリズムで、そこには多かれ少なかれ自民族の優越性という主
張が伴っている。
一方、「愛国心(patriotisme)」は、「祖国(patrie)」を愛することであり、
旧来の君主を崇拝することと同じでもなければ、現行の国家体制を支持するこ
とと同じでもないし、自国民の優越性を掲げることと同じではない。もちろん、
それらを短絡的に否定することと同じでもない。この「愛国心(patriotisme)」
という語は、
「郷土愛」や「愛郷心」に近いと理解すれば、むしろ分かり易いか
もしれない。実際、
「patrie」の語源であるラテン語の「patria」は、
「生まれた
土地」や「故郷」を意味しているのである。
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ちなみに、フランス人には、「愛国者(patriote)」を自称する者が多い。そ
こで、「じゃあ国家を歌ってみろ」と言うと、たいていの者は一番の途中で詰
まってしまう。フランスの学校には入学式も卒業式もなく、国家を歌わされた
経験もないのだ。そこで、国歌を知らない愛国フランス人は、「歌を知ってい
るかどうかと愛国心とは何の関係もない!!」と、半ばヤケクソ気味に叫ぶの
である。論理的に考えれば、たしかにその通りだ。
同じ国民どうしが勝ち組と負け組とに分断されるような状況で、嫌がる者に
まで無理やり国歌を強制しても、それで愛国心が強まるわけではないだろう。
もし、外部に共通の敵を見出すことでしか国民の連帯を確保できないのなら、
そこから生まれるものは、もはや郷土愛的な愛国心ではなく、紛れもない国粋
主義に他なるまい。
いずれにせよ、「愛国心」も「国粋主義」も、ともに「国」を軸とした言葉
である。そして、国粋主義者を自認する者なら、愛国心の持ち主であることも
自認するだろう。もちろん、“逆は必ずしも真ならず”であるに違いない。そ
れでも、日本語の場合、「愛国心」と「国粋主義」とが対立関係に置かれるこ
とは希有なのである。
となると、「愛国心」という日本語を国粋的な「ナショナリズム」と明確に
区別して用いることもまた、非常に難しくなってしまう。そして、「愛国心」
に関して正確な言葉で論理的に議論することは、さらに難くなってしまう。実
際、日本では、「愛国心」を教えることと、国に服従する人間を作ることとが、
わけの分からない形で混乱してしまっているのである。
事実、言葉どおりに解釈すれば、改正教育基本法に記されている条文にして
も、何ら不当な内容を含んでいるわけではないだろう。すなわち、「我が国と
郷土を愛する」ことや「他国を尊重」すること、さらには「国際社会の平和と
発展に寄与」することは、少なくとも懸命に否定しなければならない対象では
ないのである。とは言え、実際の歴史に照らしてみれば、そえほど呑気には構
えていられない。かつて、言葉の上での「愛国」が実際に指し示していたのは、
「尽忠報国」であり、
「全国民ヲシテ国策ヲ推進セシムル」ことだったからであ
る。
これでは、噛み合った議論など成立しようがない。言葉が文字どおりに指し
示す意味と、その語が暗黙の次元で持つ意味とが正反対なのであれば、そもそ
も論理的な話し合いなど成立するはずがない。日本語での議論には、多かれ少
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なかれ、このような傾向が宿命的に付きまとうのである。
まあ、日本では、自分の妻に絶対服従を強いられている夫と、いわゆる「愛
妻家」とを区別することもまた、非常に難しい。こう考えると、学校において
も家庭においても、日本人が宿命的に学んで来たのは、面従腹背の高等技術な
のではないだろうか。長年の経験に基づく心底からの実感として、そのように
思えてならないのだが……。
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