実践としての知の再/構成

『スラヴ研究』No. 56(2009)
[ 研究ノート ]
実践としての知の再/構成
―― チュヴァシの伝統宗教と卜占 ――
後 藤 正 憲
1. 序論
本論考は、宗教を始めとする文化的現象の変化を捉える際の問題点について、ソ連崩壊後
のロシアにおける事例を通して追求することを目的とするものである。始めに論考の足場を
用意するために、欧米における近年のシベリア・北アジアのシャーマニズム復興に関する議
論を取り上げる。そこで得られる議論の枠組みに基づいて、後の節ではチュヴァシの伝統宗
教と卜占に関する事例を挙げながら考察を進める。そして結論では、議論を進める上で用い
た枠組みを反省的に捉え直すことによって、自らの学問的実践への再帰性をも視野に入れな
がら、問題を追求する。
いわゆる 9・11 事件以降、西洋のリベラリストの間では宗教を暴力と短絡的に結びつける
一方で、世俗主義の優位を説く傾向が一層強まった。これを受けて人類学者のタラル・アサ
ドは、「世俗」概念が近代社会において形成された過程を丹念に追うことによって、西洋リ
ベラルの性急な議論が抱える問題を批判的に検証している。その中で彼は、18 世紀に多く
書かれたシャーマンを扱った民族誌が、「霊感」(インスピレーション)概念の世俗化に寄与
するものであったことを指摘している(1)。それによると 18 世紀のヨーロッパでは、シャー
マンの示す超自然的な力についての概念が、民族誌やその他の言説における隠喩的使用を通
して、生理学的機能や芸術的才能と絡んだ「霊感」概念へと徐々に変化していった。現在一
般的に流通している「世俗」や「宗教」といった概念は、こうした言説の変化から成る近代
固有の「プロジェクト」の中で生み出されたものであって、それぞれの概念自体は決して固
定したカテゴリーではないというのが、アサドの論点である。彼が指摘するような「世俗」
と「宗教」の境界を引き直す作業は、21 世紀の今日でも引き続き行われている。このよう
に見ると、近代啓蒙主義による「世俗」化を極端に推し進めたソ連が崩壊した後のロシアで、
「宗教」として再生しつつあるシャーマニズムを扱った民族誌は、今日の議論の趨勢を読む
一つの手がかりとなる。
ソ連崩壊から今日まで、シベリア・北アジア地域のシャーマニズムに関して起きている現
象について扱った民族誌の中には、以前とは大きく異なった形でシャーマニズムが復興され
つつあることを伝えながら、同時にその過去からの継続性を重視するものがある。その代表
例として、サハ共和国におけるシャーマニズム復興を追ったバルザーの一連の民族誌が挙げ
1 Talal Asad, Formations of the Secular: Christianity, Islam, Modernity (Stanford: Stanford
University Press, 2003), p. 45.
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られる。彼女は、知識人や文化活動家など、本来シャーマンとは異なる政治的リーダーたち
が、シャーマンの知識を活用しつつ伝統を再生する試みを報告している(2)。彼女の議論では、
シャーマニズムを外部からの圧力に対するサハ知識人の内面的な反応の現れと捉えている点
に、大きな特徴が見出せる。それによると、過去にもたらされたロシア化やソヴィエト化の
圧力は、サハのとりわけ知識人層に、困難な時代を生き抜くための仮面を身につけることを
余儀なくさせた。しかしその下では、アイデンティティや民族意識、霊性(スピリチュアリ
ティ)などの「内面的統一」が保持されていて、今日のシャーマニズム再生につながっている。
バルザーが現在再生されつつあるシャーマニズムを、過去との継続性において捉えているこ
とは、彼女が度々使用する逆接の修辞からも窺える。つまり、ロシア帝国とソヴィエト政府
による抑圧を受けてきたにもかかわらず、サハでは特に知識人の間で「シャーマニズムの精
神」が維持されているというものである。
しかし、過去と現在のつながりを、知識人など特定人物の「内面」に特定化する見方は、
その知識人を含む人々が近代化を通して経験した歴史を正面からとりあげないことによっ
て、対象を非歴史化するに等しい。一方、このような見方に対して、ブリヤートの都市で新
たに起こっているシャーマンの活動を追ったハンフリーは、過去との継続性よりもむしろ変
化の大きさに重点を置いている。「ポスト・ソヴィエトの今日、都市のシャーマンにおいて
歴史への回帰は見られない」とする彼女は、シャーマニズムの脱構築的なあり方を描いてい
る(3)。それによると、「ポスト・モダン」と同等の意味合いが与えられる「ポスト・ソヴィ
エト」のシャーマニズムは、様々な対立するカテゴリー――都市と地方、世俗的なものと神
秘的なもの、ソヴィエト的な制度とシャーマン、近代と伝統――の結び目に、支障なく「再
領域化」される。これと同様の傾向は、リンドクイストの次のような主張の上にも現れてい
る。「トゥヴァのシャーマニズムにおいては、グローバルとローカルの間、また、マーケッ
ト、学術界、観光、消費の間に境界線を引くことはできない。それらすべてが生きた社会空
間をつくりあげ、シャーマニズムを活気づかせている」(4)。彼女の議論では、今日のトゥヴァ
において、ローカルの知識とグローバルな媒体の出会うところに、シャーマニズムの「伝統」
が意味を変えながら活性化される様子が伝えられている。
2 M. M. Balzer, “Dilemmas of the Spirit: Religion and Atheism in the Yakut-Sakha Republic,” in
Sabrina Petra Ramet, ed., Religious Policy in the Soviet Union (Cambridge: Cambridge University
Press, 1993), pp. 231–251; M. M. Balzer, “Two Urban Shamans,” in George E. Marcus, ed.,
Perilous States: Conversations on Culture, Politics, and Nation (Chicago: University of Chicago
Press, 1993), pp. 131–164; M. M. Balzer, “Flights of the Sacred: Symbolism and Theory in
Siberian Shamanism,” American Anthropologist 98, no. 2 (1996), pp. 305–318; M. M. Balzer,
“Dynamic Ethnics: Socio-Religious Movements in Siberia,” in M. Siefert, ed., Extending the
Borders of Russian History: Essays in Honor of Alfred J. Rieber (Budapest: CEU Press, 2003), pp.
481–495.
3 Caroline Humphrey, “Shamans in the City,” Anthropology Today 15, no. 3 (1999), pp. 3–10;
Caroline Humphrey, The Unmaking of Soviet Life: Everyday Economies after Socialism (Ithaca:
Cornell University Press, 2002), pp. 202–221. 引用は p. 218.
4 Galina Lindquist, “Healers, Leaders and Entrepreneurs: Shamanic Revival in Southern Siberia,”
Culture and Religion 6, no. 2 (2005), pp. 263–285. 引用は p. 282.
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これらの議論では、いずれもあらゆる境界を取り払った姿として描かれる今日のシャーマ
ニズムが、流動的で捉えようのない印象を与えている。しかし、それよりも指摘されるべき
は、いずれもソヴィエト崩壊前後の分断を前提にして、変化を歴史的経緯の一面的な解釈に
持ち込んでしまっている点である。それらの議論はシャーマニズムの変化に着目するものの、
その基準はあくまでソヴィエト崩壊を境とする時間の切断面に置かれており、分析者が任意
に用意する固定的な枠組みに変化をあてはめる形となっている(5)。
これに対してヴィテブスキーは、シャーマニズムにおける変化をソヴィエト崩壊による歴
史的分断に還元せず、むしろそこで扱われている宗教の性質の違いから論じている(6)。彼に
よると、サハのシャーマニズムが復興される契機となったのは、サハ共和国内で金やダイヤ
モンドなどの天然資源の埋蔵が確認され、潜在的な輸出能力が大きく拡大したことに見出せ
る。豊富な資源を元手に強気な発言をする知識人たちは、民族の主権を確立するという目的
を果たすために、シャーマニズムを政治的アイコンの位置に掲げた。この時点で、サハ人の
シャーマンの伝統に対する解釈が「牧畜や狩猟を営む人々の宗教的感受性から、より抽象的
な民族的感覚への変化」を被ったことを、ヴィテブスキーは指摘している(7)。彼によると、
前者はシャーマンの「ハビトゥスとしての知識」
(knowledge as habitus)に基づくものであり、
それに対して後者は「諸事実としての知識」
(knowledge as facts)に基づくものである。「ハ
ビトゥスとしての知識」の場合、知ることと行うこととの間に根本的な区別はないが、それ
が収集され、データベース化して保存されることによって、「諸事実としての知識」へと変
わる。彼は、民族主義や環境保護などプロジェクトの風味のついた言説でシャーマニズムが
持ち出される場合、このような「認識論的強制」を免れることができないとしている。
ヴィテブスキーの指摘する「ハビトゥスとしての知識」から「諸事実としての知識」への
変化は、かつてクリフォード・ギアツがイスラムの聖典主義者や民族主義者による「宗教
のイデオロギー化」の現象を解説して述べた、「宗教性」(religiousness)から「宗教意識」
(religious-mindedness)への移行とよく似た性格を持っている(8)。ギアツによると、宗教
が本来の象徴的な力(すなわち「宗教性」)を失って、なお正統性と信仰を維持するために、
本質的な威圧力とは異なる「イデオロギー」が発動されることによって、「宗教意識」へと
変化する。このように宗教に関する二つの性質を弁別し、一方から他方への移行を論じるヴィ
テブスキーとギアツの議論は類似しているが、同時に両者の間には根本的な違いも見出せる。
ギアツの議論では、日常世界を超越した崇高なレベルにおける「宗教体験の衝撃」が、徐々
に常識の浸透を受けることによって生じる変化について論じられているのに対し、ヴィテブ
5 足羽與志子は、中国共産党による改革開放政策以後の中国における宗教の復興に関する議論の傾
向を批判して、同様の指摘を行っている。足羽與志子「モダニティと『宗教』の創出」『宗教とは
なにか(岩波講座宗教 1)』岩波書店、2003 年、85–115 頁。
6 Piers Vitebsky, “From Cosmology to Environmentalism: Shamanism as Local Knowledge in a
Global Setting,” in Richard Fardon, ed., Counterworks: Managing the Diversity of Knowledge
(London: Routledge, 1995), pp. 182–203.
7 Ibid., p. 190.
8 Clifford Geertz, Islam Observed: Religious Development in Morocco and Indonesia (Chicago: The
University of Chicago Press, 1968), p. 61.
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スキーの場合は、日常世界に埋め込まれた知識が、徐々にそこから離れていくことによる変
化について扱われている。
ヴィテブスキーの示すシャーマン理解のカテゴリーは、それゆえギアツのものよりも、む
しろダニエルの指摘する「存在論的」な宗教意識と「認識論的」な宗教意識に近い(9)。ダニ
エルは、それぞれ前者をヒンドゥー教に、後者をキリスト教に当てはめて、かなり本質主義
的な議論をしているが、それでも彼が用いているカテゴリーは、本論を展開する上で参照す
るには有効である。彼によると、インドの農村では古代ローマで行われていたのと同様に、
それに参加することが市民の良識的な義務とされるような儀礼的行為が行われている。その
ような儀礼で祀られるシヴァ神などは、その現われの中で生きるものであって、「信仰」の
対象として同定されるものではない。それに対してキリスト教では、「信仰」が「実践」に
対し、「ついて」(about-ness)が「である」(is-ness)に対し、「宗教」が「伝統」に対し、
勝利を収めるようになる。近代の科学的な知と傾向を同じくするこうした性質を、ダニエル
は「存在論的」な意識に対する「認識論的」な意識として区別している。
「ハビトゥスとしての知識」から「諸事実としての知識」への移行、ダニエル流に言えば「存
在論的」な宗教意識から「認識論的」な宗教意識への移行を、ヴィテブスキーは、グローバ
ル化の必然的な結果として起こることであり、避けられないとしている。彼によると、世界
を構成する知識の階層構造においては、弱い立場にある「ハビトゥスとしての知識」が、強
い立場の「諸事実としての知識」に従わなくてはならない。かつて人々の生活の中で実践さ
れていたシャーマニズムは、近代化が進むとともに商品として市場価値を与えられ、民族主
義者の理念的象徴とされたり、学校教育の必須科目に取り上げられたりすることによって、
より生活から遠ざかった知識へと変転せざるを得ない。
しかし実際には、宗教に関する「ハビトゥスとしての知識」から「諸事実としての知識」
への移行は、ヴィテブスキーの指摘するように必ずしも必然的に生じるわけではない。従来
の作法に基づいて行われる儀礼的実践が、状況の変化に拘らず持続されていくケースも多く
見られる。例えば、モンゴルのブリヤート人の間で復興しつつあるシャーマニズムについて
扱ったマンドゥハイ・ブヤンデルゲルの民族誌は、その好例を与えてくれる(10)。彼女は、
ポスト社会主義時代のモンゴルにおいて、市場経済に直面しながらシャーマンによる儀式を
実践し、さらにはそれへの要求を増幅させる人々の様子を伝えている。その中でとくに興味
深いのは、ブリヤート人によるシャーマニズムの実践が、シャーマンに対する「信仰」では
なく、むしろ「不信」によって支えられている点である。社会主義時代の国家政策によって
伝統が失われてしまったという喪失感と、市場経済の流通によってシャーマンの動機が判別
9 E. V. Daniel, “The Arrogation of Being by the Blind Spot of Religion,” in K. Hastrup and G.
Ulrich, eds., Discrimination and Toleration (London: Kluwer Law International, 2002), pp. 31–53.
ダニエルの議論については、足羽の前掲論文から教えられた。足羽「モダニティと『宗教』の創出」
112 頁。なお、誤解のないように付け足しておくと、ここでダニエルが哲学の用語を用いて示し
た分類に言及する上では、あくまで宗教的な知識のカテゴリーにおける相違が問題なのであって、
形而上学における位相の相違は本論の議論と何の関係もない。
10 Manduhai Buyandelgeriyn, “Dealing with Uncertainty: Shamans, Marginal Capitalism, and the
Remaking of History in Postsocialist Mongolia,” American Ethnologist 34, no. 1 (2007), pp. 127–
147.
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しにくくなったことによる猜疑心とがあいまって、人々の間ではシャーマンに対する不信感
が高まった。しかし、その不信はシャーマニズムを弱体化させるのではなく、一人のシャー
マンの正当性を別のシャーマンによって確かめるといった具合に、正当性をめぐる人々の不
安がはからずもシャーマニズムの実践を増幅させるという状況を生み出している。この場合
では、社会主義による近代化を経験した社会でも、「認識論的」な枠組みが与えられたもの
としてではなく、生活レベルでの実践によってシャーマニズムが持続されている。
このケースが示すように、宗教的な意識のあり方は、必ずしもヴィテブスキーが言うよう
に「ハビトゥスとしての知識」から「諸事実としての知識」へと一方向に移り変わるのでは
なく、時間と場所に応じて多様な現れ方をする。ポスト・ソ連時代の宗教のあり方について
探究する上では、このような二つの範疇の間でどのような動きがあるのかを個別に見定める
ことが求められる。このことをより具体的に確かめるために、以下ではチュヴァシの宗教に
関する事例に基づいて、より詳しく議論を進めていきたい(11)。
2. 変容する意識:伝統宗教の再生
ソ連崩壊直後の 1990 年代前半、旧ソ連の他の諸地域と同様に、ロシアのチュヴァシ共和
国でも民族独自の文化を復興させようとする動きが高まった(12)。その復興の道筋が模索さ
れる中で、とりわけ民族的なアイデンティティのよりどころとして注目されたのが、ロシア
正教が取り入れられる以前の土着的な宗教である。運動を導くリーダーたちにとってチュ
ヴァシの伝統宗教は、近隣のロシア人とタタール人に対抗して民族の独自性を打ち出すため
の文化的基盤にふさわしいものだった(13)。以来、その従来のあり方を追求し、現在に可能
な形で再現するための様々な試みが、「チュヴァシ民族会議」(ChNK)のメンバーを中心と
する知識人たちによって精力的に行われている。
19 世紀半ばごろまでチュヴァシ人が持っていたとされる伝統的な宗教観は、様々な階層
に分かれる多くの神格や霊的存在への崇敬によって成り立つものである。ロシア正教やイス
11 以下の議論は、筆者が 2004 年 10 月から 2005 年 11 月にかけて、チュヴァシ共和国のチェボクサ
ルィおよびモルガウシ地方で行った現地調査に基づいている。調査は、日露青年交流事業若手研
究者フェローシップを受けて行われた。調査時の使用言語はロシア語で、チュヴァシ語が必要な
場合は通訳に依頼した。
12 チュヴァシ共和国はモスクワから東へおよそ 600km のチェボクサルィ市を中心都市として、ヴォ
ルガ川以南(一部以北の土地を含む)、スラ川以東に広がる、およそ 18300 平方 km(ほぼ岩手県
と同じ面積)の土地に位置している。共和国内で暮らす約 130 万人の人口のうち、およそ 68 %
がチュヴァシ人、ついでロシア人 27 %、タタール人 3 %。言語はロシア語とテュルク語系チュ
ヴァシ語が用いられる。数値に関する出典は Ol’ga Vasil’eva, Chuvashskaia Respublika. Model’
etnologicheskogo monitoringa (Moscow, 2000), p. 17.
13 ソ連崩壊直後のチュヴァシにおける民族主義運動の指導者が、正教会やムスリム組織からの支
持を得られず、チュヴァシの伝統宗教への傾倒を強めていく過程については、次の文献を参照。
Sergei Filatov and Aleksandr Shchipkov, “Iazychestvo: Rozhdenie ili vozrozhdenie?” Druzhba
narodov 11–12 (1994), pp. 180–183. なお、ロシア語で iazychestvo、英語で paganism あるいは
folk religion などと表される土着の宗教を、これも適切な表現とは言いがたいが、ひとまず本論
では「伝統宗教」と表すことで統一した。
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ラム教のように正典を持たないチュヴァシの伝統宗教は、動物の供犠を始め、神格に対する
大小様々の献供をともなう儀礼の日常的な実践によって維持されていた。今日の知識人たち
による取り組みでは、そうした儀礼を現在に再現することとならんで、かつては保たれてい
たとされる宗教の全体性を回復するための、理論的な構築がなされている。
チュヴァシの知識人たちによるこうした取り組みの中では、伝統宗教で信仰の対象となる
多くの神格の中でも、とりわけキレメチ(kiremet’)と呼ばれる霊的存在が、チュヴァシの
文化的なシンボルとして取り上げられている。このキレメチに相当する概念は、他地域では
ケレメト(keremet)あるいはクラマット(kramat)などと呼ばれ、チュヴァシを取り巻く
マリやモルドヴァ、ウドムルトなど、ヴォルガ川中流域のフィン・ウゴル語系の諸民族のみ
ならず、中央アジアのテュルク語系民族を含むユーラシアの広い地域で見られる(14)。クリ
フォード・ギアツは、インドネシア・バリの政治文化について著した『ヌガラ』の中で、バ
リで宗教的威信を発する力の概念であるスクティ――原義でのカリスマ――を「奇跡を行う
能力など神が与えた資質や力」と解説して、全世界で見られる同様の呪力を表す概念の中に、
マナやバラカ、オレンダとならんでクラマットを挙げている(15)。チュヴァシのキレメチは、
より具体性を持った一つの霊的存在として位置づけられ、通常は周囲から孤立して生えてい
る白樺や楡などの木、林の中に開けた空き地、人里から離れた谷間、湖沼、墓地など、特定
の空間と結びつけて捉えられる。かつてはこうした空間において、占い師の判断によって選
定される動物の供犠とともに、祈禱の儀礼が行われていた(16)。
現在の知識人がとりわけこのキレメチに着目する背景には、チュヴァシの伝統宗教がた
どった固有の歴史的事情が関わっている。16 世紀半ばにイワン雷帝の率いるモスクワの勢
力に編入されて以来、チュヴァシ人の住むヴォルガ川中流域ではキリスト教化が進められた
が、従来の宗教的な儀礼は持続的に行われていた。それからさらに本格的な宣教が始まった
のは、すでに 19 世紀の半ばも過ぎてからのことである。教会は宣教活動を強化するに当た
り、チュヴァシの伝統宗教の多くの神格の中でも、とくにキレメチを異教のシンボルとみな
し、動物の供犠が想起させる未開のイメージと結び合わせて排除しようとした。もともとチュ
ヴァシ人の間では、動物の供犠は高次の神に対する祈禱に欠かせないものであり、高次神ト
ラ(toră)に対して行われていた。しかし、トラに対する人々の信仰心を流用して、キリス
ト教の神をトラになぞらえ布教を図る教会は、反対に悪霊に当たるものとしてキレメチを特
定し、これに動物の供犠を集約させた。このように教会側の作り上げた、動物の供犠を人間
14 R. G. Akhmet’ianov, Obshchaia leksika dukhovnoi kul’tury narodov Srednego Povolzh’ia (Moscow,
1981), p. 31.
15 クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)『ヌガラ:19 世紀バリの劇場国家』みすず書房、1990 年、
125 および 236–237 頁。
16 文献に基づく限り、チュヴァシのキレメチについて明確な理解を得ることは難しい。キレメチは
ある特定の霊的存在とされ、たいていは擬人化されたイメージで想起される。しかしそれと同時
に、霊のとどまる空間を指してキレメチと呼ばれる場合もあり、ここにあげた自然物であったり、
その周囲の空間すべて、あるいは儀礼が行われる場所であったりする。詳しくは O. P. Vovina,
“Chuvashskaia kiremet’: Traditsii i simvoly v osvoenii sakral’nogo prostranstva,” Etnografi­
cheskoe obozrenie 4 (2002), p. 41.
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に要求する悪霊としてのキレメチの理解は、やがて占い師を通じてチュヴァシ人の間にも定
着していく(17)。キレメチは次第に、チュヴァシ人にとって呪術と密接な関係を持つ邪悪な
霊として、畏怖の対象となっていった。またそれと同時に、教会はキレメチの放つイメージ
の力を利用して、上で挙げたようなキレメチの存在する特定の空間にあえて教会を建設し、
いかに教会の前ではキレメチが無力であるかをアピールした。こうして、19 世紀末から 20
世紀初頭にかけて、人々の間でキレメチが持っていた威力は、徐々に失われていく(18)。
かつてロシア正教会が自らの対立像として取り上げたキレメチは、今日では民族文化の復
興を目指すリーダーたちによって、逆に民族の不屈の精神を表すシンボルとして流用されて
いる。ただし、19 世紀末の民族誌が示すように、人々に恐怖の念を引き起こす霊力を持つ
ものとしてではなく、チュヴァシの伝統を体現する特別の「聖性」を保ったものとして、そ
の再生が図られているのである(19)。かつて呪術的な作用と関連して恐れられた空間が、今
日では宗教的聖地として取り上げられている。
その典型を示す例として、モルガウシ地方北部にあるカルシュラフの森が挙げられる。カ
ルシュラフの森では、チュヴァシの伝統宗教とロシア正教の歴史が、複雑にもつれ合って層
を成している。この森のはずれにあったとされる古い墓地は、もともとサルドンという名の
キレメチとして知られていた。サルドン・キレメチには、次のような言い伝えが残されている。
昔この場所には、金色の屋根を持つ石造りの教会が立っていた。あるときこの教会で、資産
家の娘の結婚式が行われた。花婿は、幼い頃母親が亡くなったために、娘の父親から追い出
されて、使用人の家族に育てられた息子だった。花嫁である娘は後妻との間に生まれた子供
で、つまり花嫁と花婿は父親が同じ、血のつながった兄妹だった。近親結婚の禁を犯す縁組
に使用人以外は誰も気づかないまま、大勢の人が集まって結婚式が挙げられようとしていた
まさにそのとき、教会は集まった人の重みに耐えられずに、人も建物も地中に沈んでしまっ
た。教会が立っていた場所はその後キレメチとなり、人々が動物を生贄に捧げて儀礼を行う
ようになった(20)。
17 先に筆者は、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて残された資料をもとに、キレメチを始めとする
伝統宗教の神格がキリスト教との相互作用を経て徐々にその表象を変容させていく過程について
論じた。Goto Masanori, “Metamorphosis of Gods: A Historical Study on the Traditional Religion
of the Chuvash,” Acta Slavica Iaponica 24 (2007), pp. 144–165.
18 19 世紀末に残された伝承の中には、キレメチが人々に引き起こす畏怖の凄さを示すものとならん
で、その威力喪失を物語る伝承が多く見出せる。その中では、通常擬人化して捉えられるキレメ
チが、「年老いて耄碌した」、「代替わりした息子が馬鹿だった」、「地中に沈んだ」、「猫の姿になっ
て逃げた」などと語られている。出典は順に以下の通り:V. Ia. Smelov, “Nechto o chuvashskikh
iazycheskikh verovaniiakh i obychaiakh,” Izvestiia po Kazanskoi eparkhii ( 以下 IKE と記載 ) 20
(1880), p. 538; N. I. Ashmarin, Slovar’ chuvashskogo iazyka, tom 6 (Cheboksary 1934), p. 232;
NAChGIGN (Nauchnyi arkhiv Chuvashskogo gosudarstvennogo instituta gumanitarnykh nauk), t.
151, no. 4608; NAChGIGN, t. 168, no. 4944.
19 Vovina, “Chuvashskaia kiremet’,” p. 58; Olessia P. Vovina, “Building the Road to the Temple: Religion
and National Revival in the Chuvash Republic,” Nationalities Papers 28, no. 4 (2000), p. 700.
20 E. A. Zaitseva, Morgaushskii raion: Traditsii, obriady, prazdniki (Cheboksary, 2004), pp. 292–
294. キレメチの起源にまつわる伝承は、ただロシア正教に関連するものに限られるのではなく、
様々なバラエティを持つ。詳しくは次を参照。Goto, “Metamorphosis of Gods,” pp. 145–146.
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サルドン・キレメチの成り立ちに暗い影を落としていたロシア正教は、やがて十全な姿を
現して、従来の信仰を圧倒していく。カルシュラフの森では、19 世紀末頃から近郷のクジマ・
イワノフという名のチュヴァシ人が一人で小屋を立てて住むようになり、キリスト教の戒律
に基づいて 18 年間修道生活を送りながら同胞への宣教を行った。彼の熱意は徐々に人々を
呼び込み、1903 年には 30 人以上の修道僧が暮らすアレクサンドル・ネフスキイ修道院が開
設される(21)。しかしロシア革命後、教会に対する弾圧が強まる中で修道院は閉鎖され、後
にその建物は小児用の結核サナトリウムとして使われるようになった。
そしてソ連崩壊後の 1992 年、民族文化復興の動きが高まる中、サナトリウム周辺のカル
シュラフの森で「チュヴァシの宗教」(chăvash tĕnĕ)に基づく儀礼が再現された(22)。知識
人を中心とする民族運動組織「ヴィリヤル」の主催で行われた儀式は、近隣のコルホーズや
ソフホーズが参加して華やかに行われた。組織のブレーンであり、詩人で文学者でもあるス
タニヤルは、キレメチは本来儀礼を通して人間と神なる自然との交流が行われる神聖な場所
であるとして、歴史研究を通してキレメチの理解を深めていくことの重要性を強く訴えてい
る(23)。
民族文化の復興に向けた運動は、その後 1990 年代の後半には下火となり、今日ではソ連
崩壊直後のような華やかさを失っている。しかし、それでもキレメチを民族の文化的シンボ
ルとして掲げる傾向は、知識人の間で根強く残っている。2005 年 8 月にチェボクサルィ市
内で行われた考古学の発掘調査に際し、発掘の指揮に当たっていた人文科学研究所のエヴ
ゲーニイ・ミハイロフ氏は、「真実を掘り当てる」ことを目標として、ヴヴェジェンスキイ
寺院のそばにキレメチがあったという伝説の正しさを立証したいと話している(24)。考古学
的探求の的として掲げられるキレメチは、今日のチュヴァシにおいて必要とされるキレメチ
のあり方を象徴している。1992 年に儀礼を復活させた主要メンバーは、伝統的な儀礼や祭
式に関する長老たちの証言を集めた論集を始め、チュヴァシ民族の知恵や精神性を学び研究
するための「プログラム」を発行して、運動を広めようとしている。また、チュヴァシ民族
会議(ChNK)のメンバーを中心に、文化人や知識人、学生が組織して、キレメチを始めと
するチュヴァシの歴史的記念物を訪ねるエクスカーションなども行われている(25)。
しかし、こうした取り組みがかつての信仰のあり方を忠実に再現するものでないことは明
白である。ヴォーヴィナも指摘する通り、秘密裏に行われる儀礼の閉鎖的な性質がなくなり、
企画者がマスメディアを通じたメッセージを投げかけるなど、よりオープンな一般参加型の
21 T. A. Zemlianitskii, “Monastyr’ ‘Karashlakh’ i kiremet’ ‘Sar-tavan’,” IKE 45 (1904), pp. 1555–
1557.
22 V. Stan’ial, “Karshlăkhri Aslă chükleme,” Khypar, 18.08.1992. 本論ではチュヴァシ語の表記に関
して、キリル文字はそのラテン文字への翻字をそのまま用い、キリル文字の母音に記号のついた
ものについては、ラテン文字への翻字に同じ記号を付けた。キリル文字にない子音 Ç については、
慣例に従って記号 Ś で表した。
23 V. Stan’ial, “Chuvashskaia narodnaia religiia Sardash,” in Obshchestvo, gosudarstvo, religiia
(Cheboksary, 2002), pp. 96–111.
24 “Detektivy proshlogo: Dokopat’sia do istiny,” Sovetskaia Chuvashiia, 02.09.2005.
25 Vovina, “Building the Road to the Temple,” p. 698.
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実践としての知の再/構成
儀礼に変わっている(26)。また、かつては村の権威ある長老が占い師の助言に従って儀礼を
執り行っていたのに対し、知識人エリート主導による現在の儀礼は、郷土史や民族誌の記述
に基づいて行われるようなった。儀礼と言っても、その任意の参加者は執行者と分離された
観客の立場に置かれるため、もはや宗教的な「儀礼」というよりも、むしろ「芸能」に近い(27)。
一方、知識人や文化活動家の持つ熱意と、周辺の一般住民の捉え方との間に大きな隔たり
があることも否めない。カルシュラフの森では、1992 年以降は組織的に儀礼が行われてい
るわけではないし、個人が自主的に儀礼を行っている気配もない。むしろ人々の宗教的関心
は、政府から財政的な援助を受けて進められているロシア正教の復興に向けられている(28)。
筆者が滞在した当時、ソ連時代から運営されていた小児用結核サナトリウムの敷地の半分を
利用して、アレクサンドル・ネフスキイ修道院を再建する工事が進められていた(29)。2005
年 8 月には、修道院内に新築された教会の清めの儀式が府司教ヴァルナヴァを迎えて行われ
たが、周辺の村から 200 人から 300 人程度の老若男女がつめかけて、新しい教会で行われ
る礼拝に参列していた。一般的にロシア正教と比べて、伝統宗教に対する人々の関心はきわ
めて低いと言わざるを得ない。筆者はカルシュラフの森の周辺だけでなく、いたる所でキレ
メチやそれに関する儀礼について知っていることを人々に尋ねてみたが、ほとんどの場合目
立った反応は返ってこなかった。ただその中の幾人かは、民族運動のリーダーたちによって
発行された本を取り出してきて、私に読むように勧めた。まさにチュヴァシの人々にとって、
キレメチやその他の土着の神格は、本に載っている「諸事実としての知識」なのである。知
識人によって構築された「認識論的」な理解は、すでに人々の生活の中で「ハビトゥスとし
ての知識」の座を保っていない。
キリスト教化によってチュヴァシ人の生活にロシア正教の要素が入り込んだ後も、少なく
とも 19 世紀前半まではキレメチをその一部とする伝統宗教が、人々の日常生活の中で大き
な位置を占めていただろう。そもそもキリスト教化が進む以前においては、宗教がチュヴァ
シの生活そのものと一体となっていたために、今日のような形でそれを「宗教」として同定
することもできなかったことを認識しておく必要がある。ロシア正教会による半ば強制的な
改宗が進められていた時代には、
「洗礼を受けた者」(kĕreshĕn ―ロシア語で「洗礼を受けた」
を表す kreshchennyi からきたもの)に対して従来の信仰に留まる者は、ただ単に「チュヴァ
26 Ibid., p. 698.
27 福島は、儀礼と密接に結びついた切迫した生存感覚とは無縁の第三者的視座が導入されることに
よって、「儀礼」から「芸能」へのシステムの変化が生じることを指摘している。福島真人「儀礼
から芸能へ:あるいは見られる身体の構築」福島真人編『身体の構築学:社会的学習過程として
の身体技法』ひつじ書房、1995 年、88 頁。
28 自ら熱心なロシア正教徒であり、ロシアとの友好的な関係を維持する構えのチュヴァシ共和
国大統領ニコライ・フョードロフは、伝統宗教の復活を掲げる民族主義者と距離を置く一方
で、ロシア正教会による復興事業を積極的に支援している。M. Burdo and S. Filatov, eds., Atlas
sovremennoi religioznoi zhizni Rossii, tom 1 (Moscow, 2005), p. 356.
29 アレクサンドル・ネフスキイ修道院の再建は、最初に立てられてからちょうど百年後に当
た る 2003 年 か ら 進 め ら れ て い る。 詳 し く は 次 の 資 料 を 参 照。Liudmila Vasil’eva, “So dnia
osviashcheniia muzhskogo Chuvashskogo Aleksandro-Nevskogo monastyria – 100 let,”
Pravoslavnaia Chuvashiia 9, no. 31 (2003), pp. 12–15.
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後藤 正憲
シ人」(chăvash)と呼ばれていた(30)。また、チュヴァシ語で「洗礼を受ける」という意味
を表す言葉(tĕne kĕr)は、直訳すると「宗教に入る」となる。つまり、チュヴァシ人にとっ
て「宗教」とはすなわちロシア正教のことを意味しており、それに対峙するものとして今日
の知識人が(そしてわれわれも)想定する「チュヴァシの宗教」は、「チュヴァシ人」その
ものと渾然一体であるためにそれと指し示すこともできないものだった。
こうしたことから伝統宗教に関しては、もともとチュヴァシの生活から切り離すことので
きなかったものが、そこから遠く離れた知識へと変貌した様子が窺える。言い換えれば、近
代化とともにチュヴァシ人の宗教的な知識は「ハビトゥスとして」の性質から「諸事実として」
の性質へと移行したことになり、先に示したヴィテブスキーの主張する通りとなる。しかし、
従来伝統的な宗教と密接な関係を持っていた卜占に目を移すなら、それとは違った変容のあ
り方が見出せる。次節では、チュヴァシの卜占とそれに付随する呪術を取り巻く環境につい
て論じてみたい。
3. 持続される行為:卜占と呪術の連関
チュヴァシの卜占は、従来キレメチを始めとするチュヴァシの伝統宗教と密接な関係を持
つものだったが、今日ではそれとまったく異なる変容を遂げて存続している。
チュヴァシ語でヨムジャ(iomśă, 地方によってユモシュ iumăś)と呼ばれる占い師は、か
つてはテュルク語系の言語で広くシャーマンを意味するカム(qam)の変化形を語源とする
という解釈から、シベリアのシャーマンと根を同じくすると考えられていた。しかし、近年
の言語学ではそうした解釈が誤りであることが指摘され、「魅了する、呪文を唱える」(ium)
というチュヴァシ語が語源であるとされている(31)。実際、ヨムジャがシャーマンのように
憑依状態になって神と交信したりするようなことは、過去に記録された資料の中にも全く見
出されないことから、ヨムジャがもともとシャーマンに由来するとは考えにくい。また、ヨ
ムジャはしばしばロシアの「治療師」(znakhar’, znakharka)に相当するという見方がされ
ることがある(32)。しかし後で述べるように、病気の回復が最終的な目的になっていても、
ヨムジャ自身が直接患者を治療するわけではなく、むしろそれに先立つ卜占を行うことが役
割の中心である。少なくとも今日では、ヨムジャは「占い師」であるとする認識が一般的に
共有されている(33)。かつては通りごとに一人はいると言われ、現在でも村ごとに存在する
と言われる占い師は、病気や災いが起こったときにその原因と対策を卜占によって確定し、
依頼者に伝えるという役割を果たしている。
30 A. K. Salmin, “Fol’k-religiia chuvashei,” Problemy natsional’nogo v razvitii chuvashskogo
naroda: Sbornik statei (Cheboksary, 1999), pp. 241–242.
31 Judith Szalontai-Dmitrieva, “The Etymology of the Chuvash Word Yumśă ‘Sorcerer’,” in András
Róna-Tas, ed., Chuvash Studies (Wiesbaden: Harrassowitz, 1982), pp. 171–177. なお、この論文で
ヨムジャを「妖術師」sorcerer としているのは誤りである。
32 例えば、A. K. Salmin, Kolduny i znakhari (Cheboksary, 2002).
33 今日ではヨムジャという呼び名も一般的には用いられていない。普通は人物の固有名か、あるい
は年老いた女性であることが多いため、単に「お婆さん」と呼ばれることが多い。
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実践としての知の再/構成
過去の文献が伝える占い師の姿は、例えばその身体技法において、ほとんど変化を受けず
に今日においても見出される。1876 年にオストロウーモフは、カザン師範学校のチュヴァ
シ人の生徒による口述を記録して、占い師の技法を克明に表した。それによるとヨムジャは、
「パンのかけらを糸に結び、右足が上にくるように足を組んでいすに座る。右足のひざに右
ひじを置いて、手が動かないように支えながら糸を持つ。左手はパンのかけらを下から支え
るか、前もって用意した細長い板を持ってパンを支える。それから、右手に持った糸を半ベ
ルショーク(約 2 ㎝)ほど持ち上げ、しばらくそのままの状態に保つ。徐々に糸が揺れ始め
ると、ヨムジャは揺れるパンに向かってこう口に出してつぶやく。「シュリジ・トラ[高次神]
が病気を送ったのなら、手(板)に沿って糸を揺らせ」。もし実際に手(板)に沿って糸が
揺れ始めると、シュリジ・トラが病人かその家族に対して怒っており、供物を供えて宥める
必要があると断定する。もし、パンを結んだ糸が輪を描いて回ったり、不規則に揺れたりし
た場合には、シュリジ・トラが怒っているのではないとみて、他の若い神々についても同様
の方法で順に占っていく」(34)。筆者が 2005 年 8 月にモルガウシ地方ハルノイ村で観察した
卜占は、130 年前に書かれたこの文献の示すものと極めて類似していた。このように特定の
技法においては、その形式上の不変性が際立っている(35)。
このような方法を用いて、占い師はまず患者の身体に起こった病気の原因を割り出す。19
世紀末頃までは、霊的存在のなかでもとくに病気や災いをもたらすとされるキレメチがその
原因とみなされることが多かった。その場合、患者が以前キレメチの周りで騒ぐなどして規
律を破ったことが、病気の原因とみなされた。そのほかに、誰か他のある人物が行った呪術
の作用によって、病気が生じたとみなされることもある(36)。呪術が原因とされる場合、発
信源となる人物が意図的に妖術(黒魔術)を使って病気を起こす場合と、本人も気づかぬま
ま相手に病気を起こさせている場合(邪視など)がある。キレメチや他の霊的存在の持つ威
力が失われてしまった今日では、占い師によって割り出される病気の原因は、人的に与えら
れる呪術の作用に限られている。
病気や災厄の原因が割り出されると、次にそれへの対策が告げられる。過去の民族誌資料
を参考に、占い師によって告げられる対策例を総合すると、主に次の三つの要素に分けられ
る。1)供犠、献供。病気の原因として指定される霊的存在に供物を供えて儀礼を行う。か
つては馬や牛、羊、家禽など、さまざまな動物を犠牲としてキレメチに捧げる儀礼が多く行
われていたが、今日では動物の供犠が行われることはない。しかし、教会内のイコンの前に
34 N. Ostroumov, “Prigotovlenie umiraiushchego k smerti u kreshchenykh chuvashei Kazanskoi
gubernii,” IKE 13 (1876), pp. 400–404.
35 卜占の技法は、他にも古い銅貨や鏡、コップの水、イコン等を見て占ったり、患者の脈を取ったり、
身体から少し手を浮かせてかざしたりするなど、必ずしも一定していない。NAChGIGN, otd.
I, ed. khr. 176, no. 5051; NAChGIGN, t. 151, no. 4604; NAChGIGN, otd. 1, ed. khr. 638, arkhiv
Elle. 現在でもこうした多様な技法が用いられている。
36 実際には上で指摘したように、キレメチと呪術はしばしば結びつけて想起されたため、これらの
原因はある程度重なっている。つまり、誰かに呪術をかけたいと思っている人は、キレメチに
行ってしかるべき操作を行うのである。このことを示す資料としては、NAChGIGN, otd. I, ed.
khr. 176, no. 5051; V. A. Sboev, Issledovaniia ob inorodtsakh Kazanskoi gubernii (Kazan, 1856), p.
114.
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後藤 正憲
ろうそくや布、パンなどを供える行為は、キリスト教が浸透した後にもなお残る献供の習慣
と考えられる(37)。2)原因の除去。誰かの行った妖術によって病気になったと判断される場
合、その妖術に用いられた道具を取り除くことによって事態の改善を図る。妖術はその破壊
的な作用を及ぼすのに、何か具体的なモノ(たとえば布や木の切れ端、硬貨など)が媒体と
されることが多い。この媒体物を取り除くことで、妖術の作用そのものが一掃され、病気が
治ると考えられる(38)。3)呪文。占い師の実践において、呪文は不可欠の要素となっている。
かつて呪文を使って病気や災いに対処するヨムジャは、その「言葉を知っている」
(chĕlkhine
pĕlet)と言われていた(39)。このことから、呪文の秘儀的な知識が占い師の特権性を保証す
るものであったことが窺える。
チュヴァシの民族学者サルミンは、占い師について次のように述べている。「多様な知識
を持つユモシュは、神話や儀礼に屈折して残された民族の不文の歴史を、自らの内に秘めて
いる」(40)。彼の言う「民族の不文の歴史」は、占い師が持つとされる秘儀的な知識のことを
指しているとも取れるが、それを明示的に表されることのない、人々の実践的行為の連なり
と読むこともまた可能である。社会の中で占い師が果たした役割や、その社会的立場を過去
に遡ってたどってみると、確かにそこには人々の宗教的な信仰に関する歴史的な背景が色濃
く反映されている。
キリスト教以前のチュヴァシの生活では、旱魃や飢饉など自然災害に見舞われた場合、村
や地域を単位として祈禱儀礼が行われていた。集団で行われるこの祈禱儀礼においては、占
い師は供犠獣を指定するなど後見的な役割を果たしていた(41)。また、子供の誕生や婚礼、
葬儀など、個人的な生涯の様々な段階で行われる通過儀礼では、邪気を祓って場を清めるた
めに必ずその家庭に占い師が呼ばれ、清めの儀式が行われた(42)。またそのほかに、病気や
その他の問題を抱えて訪れる者に対しては、占い師は個別に原因や解決策を割り出し、どの
対象に何を供物として差し出せばよいのかを伝えた(43)。したがって、かつて占い師が果た
していた役割は、集団で行われる儀礼の後見的役割、個人の通過儀礼における職能者として
の役割、個別の病気や災害時における占い師としての役割に分類できる。しかし、伝統宗教
の威力が失われるにつれて、占い師がその機能を果たす範囲は徐々に狭められ、とりわけ最
後の役割、つまり個別の相談に応じる占い師としての役割に集中する結果となった。
37 Ostroumov, “Prigotovlenie umiraiushchego k smerti,” p. 403.
38 A. Rekeev, “Iz chuvashskikh predanii i verovanii,” IKE 9 (1897), p. 270.
39 Diula Mesarosh, Pamiatniki staroi chuvashskoi very, perevod s vengerskogo (Cheboksary 2000
[1909]), p. 220. 他に占い師の呪文を記録した資料としては A. S. Ivanov, “Chuvashskie «iumzi»,”
Strannik 2 (1896), p. 174.
40 Salmin, Kolduny i znakhari, p. 24.
41 N. V. Nikol’skii, “Etnograficheskii ocherk Mil’kovicha, pisatelia kontsa XVIII veka, o
chuvashakh,” in N. V. Nikol’skii, Sobranie sochinenii v chetyrekh tomakh, tom1 (Cheboksary,
2004 [1906]), p. 487.
42 V. K. Magnitskii, “Chuvashskie babushki – povitukhi,” Kazanskie gubernskie vedomosti 28
(13.04.1874); NAChGIGN, otd. III, ed. khr. 152, no. 1220.
43 資料多数。例えば次のもの。M. F., “Predaniia chuvash Bichurinskogo prikhoda, Cheboksarskogo
uezda, i sposoby lecheniia u nikh boleznei,” IKE 21 (1876), p. 651.
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実践としての知の再/構成
組織的に住民の正教化が進められた 19 世紀後半になると、占い師は人々を惑わす者とし
て教会側から強い迫害を受けるようになった。住民の教化に当たる聖職者たちは、キレメチ
信仰とともにチュヴァシ人の生活に深く根を下ろした占い師の存在を、正教の教えに対立す
るものとして厳しく非難した(44)。その一方で、占い師のほうではたくみにキリスト教の要
素を取り入れながら、社会における従来の機能を果たしていたことが、文献資料から窺うこ
とができる。ロシア正教が人々の間に広く浸透していった 19 世紀後半には、ヨムジャたち
は相談に訪れた人々に対してキレメチの代りにロシア正教の教会にお参りすることを指示す
ることが多くなった(45)。また、上で述べたように、キレメチが異教の蒙昧さを表すとする
教会の見方の中から、とくにそれを呪術に絡む不浄の力と結びついたものとする見方が、占
い師の口を通してチュヴァシ人の間にも行き渡るようになった。この意味で占い師は、チュ
ヴァシ人とロシア人、伝統と近代、農村と教会のそれぞれ間に立って、両者を結ぶ仲介者の
役割を果たしていたと言える。
ソ連時代に入ると、今度はボリシェヴィキ政府が占い師を「人民の敵」として非難告発し
た。特に、五カ年計画による産業化とともに農業の集団化が推し進められた 1930 年代には、
この傾向が激しさを増している。その際に根拠とされたのは、次の二つの要因である。一つ
は経済的要因で、占い師が人々の依頼に応える見返りに報酬を受け取り、さらに高額の供物
を供えるように促して、人々の家計を疲弊させたというもの。もう一つは、近代的な医療の
裏づけを持たぬ知識を使って人々を惑わしたということである(46)。当時は共産党組織やコル
ホーズの幹部が中心となって宗教への厳しい弾圧が行われ、チュヴァシでもほとんどの教会
が破壊されたが、こうした反宗教運動のあおりを受けて、占い師は激しい攻撃にさらされた。
しかし、占い師を含めソ連の社会的理念にそぐわない要素を排斥することによって、共産
党政府は皮肉にも、逆にそこから新たに卜占が必要とされる素地を作り出すことになった。
農業集団化による社会再編においては、曖昧な基準で住民の中から特定された、いわゆる「富
農(クラーク)」の強制的な解体が行われ、その資産が没収されるとともに家族はシベリア
へ追放されるなどの厳しい措置が取られた。また、最後まで集団化に反対してコルホーズや
ソフホーズへの加入を拒否し続けた一般農家も、日常の社会生活においては様々な制裁を受
けた。その他にも密告や告発が飛び交い、人々の間で怨嗟や敵意が渦巻く状況が生まれた。
こうした「恐怖」(テロル)の政治において社会的外縁に追いやられた人たちは、その外部
性が呪術を使う人々といったイメージと結びつけられやすかった。このことは、文学作品の
ような芸術媒体の中に如実に現れている。例えば、農業の集団化を擁護する立場から書かれ
44 正教会による占い師排斥に関する資料としては、例えば次のもの。V. K. Magnitskii, “Shkol’noe
obrazovanie i nekotorye cherty religiozno-nravstvennoi zhizni chuvash Iadrinskogo uezda (po
arkhivnym dokumentam),” Izvestiia obshchestva arkheologii, istorii i etnografii pri Kazanskom
universitete 30, no. 2 (1919), p. 211–239.
45 人々の生活にロシア正教の要素が浸透するのに、占い師が積極的な役割を果たしていたこと
を示す資料としては、次のものが挙げられる。Smelov, “Nechto o chuvashskikh iazycheskikh
verovaniiakh i obychaiakh,” ( 前注 18 参照 ) p. 533; NAChGIGN, otd. I, ed. khr. 638, arkhiv Elle.
46 例えば、「チュヴァシ共和国トラコーマ撲滅年間について」と題された州およびチェボクサルィ
市共産党委員会報告には、こうした理由で占い師を非難告発する内容が織り込まれている。 I. D.
Kuznetsov, Chăvash respuplĕkĕ trakhoma pĕteres śul śinche (doklad) (Cheboksary, 1933).
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後藤 正憲
た、体制寄りの作家マルファ・トルビナの作品「チャバルカ」(1935)では、集団化に反対
する農民が呪文をかけた水でコルホーズの牛を殺そうとして捕らえられる情景が描かれてい
る(47)。当時を知る人々の口から聞かれる逸話から判断しても、こうした「公式」の語りと「非
公式の」語りは、途切れないで連動している。農業集団化と平行して行われた占い師への非
難告発は、ボリシェヴィキ政府が自らの規定にそぐわない者を切り捨てる画定作業において、
まさにその排除すべき占い師への需要を生み出すといった循環の構造をなしていた。
ソ連時代にも脈々と受け継がれたチュヴァシの卜占は、今日においても根強く人々の生活
の中に息づいている。人々が占い師に期待するのは、病気の原因を究明したり、病状回復の
ための方策を伝授したりすることであって、病気そのものを治療することではない。この点
に、病院の医者と占い師の違いがある。革命以前は、農村にいながら近代的な医療を受ける
ことが難しかったために、占い師が医者の代わりを担っていたと言うこともできる。しかし、
今日では農村にも医療施設が整備されている上に、ソ連時代に整えられた社会保障制度のお
かげで診察や薬にはあまり費用がかからないため、近代医療によるケアを受けることはそれ
ほど難しいことではない。それにもかかわらず、今日でも体調に異変が生じたときに、医者
の所ではなく占い師に相談に行く人が跡を断たないのは、人々が病気を呪術的な作用と結び
つけて捉えることが多いからであると考えられる。
すでに述べたように呪術による病気は、何か具体的なモノを媒体にして起こるとされる。
かつて呪術師とされる人物は、人の持ち物、とくに衣服や布地からその切れ端を切り取って
持ち帰り、それに呪文をかけて妖術を送ると考えられていた(48)。また呪術師でなくても、水、
硬貨、ビーズ、羽毛、玉子、骨など、日常の中でごくありふれたもの、すなわち、あまり目
立たない身の回りのものに呪文を掛け、病気を送り付けたいと思う人の家に投げ込むと、そ
の人は病気になるとされていた(49)。今日でもこうした考え方は無くなっていない。ただし、
実際にそうした行為が行われているというよりも、人が病気にかかったときに、誰かがその
ようにしたから病気になったのだとする想像力が働かされるのである。それゆえ、自分の家
に何か不審なものが紛れ込んでいたり、また逆に何かものがなくなったりしたときに、ちょ
うど体調を崩すなどの不幸が重なると、人は自分の身に呪術が掛けられているのではないか
と懸念して、占い師の所へ相談にいく。
ゾーヤ(70 歳代、女性)は、結婚後トルクメニスタンに移住し、天然ガスの採掘現場で
働いていたが、ソ連崩壊後に現地では住みにくくなったことから、チュヴァシで年老いた親
戚の面倒を見る必要があったことをきっかけに、1993 年に故郷のモルガウシに戻ってきた。
帰郷してから 2005 年までの間に、彼女は計五回それぞれ異なる占い師に相談に出かけてい
る。彼女によると、ただ単に治療のためではなく、原因不明の病気に悩まされたり、身の回
りに不吉なことが起こったりして、誰かの怨念を受けている恐れがあるときに、占い師に見
てもらうのだという。ゾーヤの場合、あるとき背中や足の痛みがひどかった上に、玄関に点々
47 Marfa Trubina, “Chăparkka,” in Marfa Trubina, Śyrnisen pukhkhi, tom 1 (Cheboksary, 1970), pp.
168–178.
48 Rekeev, “Iz chuvashskikh predanii i verovanii,” p. 270; NAChGIGN, t. 154, no. 4651.
49 G. E. Kudriashov, Perezhitki religioznykh verovanii chuvash i ikh preodolenie (Cheboksary, 1961),
p. 67; NAChGIGN, otd. I, ed. khr. 638.
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実践としての知の再/構成
と軽石が置かれてあったので、誰かが呪術を使っているのではないかと怖くなり、隣人とと
もに占い師に見てもらいに行った。またセルゲイ(30 歳代、男性)は、以前働いていたコルホー
ズでの仕事をやめ、現在では断続的に、親戚数人とともにチュヴァシと隣接するニジニノヴ
ゴロド州に出かけていって、大工仕事を請け負って現金収入を得るようになった。たまった
お金で家を建て始めたが、あるとき原因不明の耳垂れが治らなかったため、ハルノイ村の占
い師に相談した。こうした例が示すように、占い師に対する人々の要求は、ソ連崩壊後の今
日においても、時代の変化に応じて持続的に生み出されている。
このように人々の間で受け継がれ、実践され続けている卜占が、現地の知識人たちによっ
てまともに取り上げられることはほとんどない(50)。筆者はたまたま、大学でチュヴァシの
宗教史を教える教授が、子供が重病で暗い顔をしている秘書の女性に、「いい婆さん[つま
り占い師]はいないのか?」と声を潜めてささやくのを耳にした。この教授は、大学の授業
や自分の研究の中で、決して占い師について取り上げることはない。大学教授を含め、チュ
ヴァシ人にとって占い師の存在は、「諸事実として」よりも「ハビトゥスとして」生活の中
に入り込んでいる。卜占は「認識論的」な意識となる前に、生活の逼迫した必要性をもって人々
の間で実践されている。
4. 考察:知識の再/構成
以上では、ヴィテブスキーが人の宗教との係わり合い方について示した二つの弁別的特徴
―「ハビトゥスとしての知識」と「諸事実としての知識」―の枠組みを借りて、チュヴァシ
の伝統宗教と卜占のたどった歴史的経緯と、ソ連崩壊後の今日におけるあり方について論じ
てきた。ここで、再びヴィテブスキーの枠組みに戻って、さらに詳しく検討を加えてみたい。
マルセル・モースが身体の技法について論理を展開するために用いた「ハビトゥス」の概
念を、ブルデューは人間の行為に見られる一般的特徴を示すものとして、さらに理論的に発
展させた。その議論の中でブルデューは様々な対立的図式を用いているが、中でもより具体
的な例を示すために家族間の結婚を題材に取り上げて、その「公式」のものから「非公式」
のものを区別している(51)。民族学者が構築する婚姻交換システムのような、紙の上で規定
される「公式」の結婚規制と異なり、実際に結婚が行われる際のいわゆる「非公式」な実践
は、
「公式」のイメージとのズレを覆い隠すための手続きをも含んだ、より柔軟なものである。
リジッドに固定され、明示的に示される「公式」と比べて、明示化される手前の暗黙の状態
で繰り広げられる「非公式」の実践では、
様々に異なった「読解」や「用法」が適用される(52)。
そのため、個別に行われる実践は体系的な硬直性を持たず、ある程度の不確定性を持つこと
50 サルミンの研究は例外と言えるが、それでも彼は、過去の「伝統的な」部分のみを扱っており、
現代における実践のあり方についてはまったく触れていない。Salmin, Kolduny i znakhari.
51 ピエール・ブルデュ(今村仁司、福井憲彦、塚原史、港道隆訳)『実践感覚 2』みすず書房、1990
年、45 頁。
52 同上、50 頁。
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後藤 正憲
になる。しかし、結婚を始めとする実践的行為は、まったくでたらめに行われるわけではなく、
当事者が社会的体面を保ちつつそこから利益を引き出そうとすることによって、一定の傾向
を保ちながら繰り返される。このように緩やかでありながら、ある一定のやり方で集団的行
為を方向付けるような心的傾向を、ブルデューは「ハビトゥス」と表し、実践の理論を支え
る概念として適用している。
チュヴァシの卜占に見られた継続性は、明らかにこの「ハビトゥス」としての傾向性を示し
ている。チュヴァシの占い師たちによって巧みに読み替えられた「公式」の見解は、本来の意
味に反して人々の心的傾向を補強することになり、結果的に卜占がその形式性を保ったまま今
日まで存続することを可能にしている。人々が占い師の指示に従って、キレメチに供犠獣を捧
げる代わりに教会のイコンにろうそくを捧げて事態の解決を図ったり、キレメチが放つ呪力を
病気の原因として恐れたりするような傾向は、卜占を「ハビトゥス」として定着させ、またそ
こから卜占に対する需要を引き出した。ソ連時代に入ると、農業集団化の際にコルホーズに入
りたがらない個人農を呪術師とする見方が広まることによって、呪術の出所とされるものが転
じながら、卜占が必要とされる傾向性は持続された。そしてソ連崩壊後の今日でも、さらに転
調が加えられながら、卜占は一世紀以上も前とほぼ同じ形で継続されている。
こうしてチュヴァシの卜占は、まさに「それ自体が文化的な構造化の影響を受けて成立す
ると同時に、ある傾向性をもった行為のパターンを、転調可能な形で再生産することによっ
(53)
てずらしつつ再構造化を行う、慣習的行動の母体」
となっている。そこで継続される行為は、
その都度「転調可能な形で」意味を「ずらしつつ」行われ、様々に異なった「読解」と「用
法」が適用されるため、正否の判断や正統性の問題は行為の存続に直接影響しない。あの占
い師はウソつきだなどと罵りながら、毎回違う占い師に相談に行くゾーヤの例は、シャーマ
ンに対する不信が逆にそれへの依存を助長しているモンゴルのブリヤート人の間で見られた
例と、傾向を同じくしている。それに対して、伝統や歴史に関する自らの解釈の正しさを主
張し、その正統性をめぐって分裂と闘争を繰り広げる知識人エリートたちの知識は、「ハビ
トゥス」が持つ形式上の安定性を持たない(54)。「諸事実としての知識」は、転調したりずら
したりすることができないために、立場を越えた人々による共有が成り立ちにくい。
また一方で、ロシア正教会やソヴィエト政府が、自らの反転像としての外部に呪術=悪を
位置づけることによって、その存在を完全に否定せず、むしろそれへの必要性を高めたこと
も、卜占が存続する要因となっていると考えられる。そうした外部は、権力者にとってだけ
でなく一般の人々にとっても自らの存在と表裏をなすものであり、強力な身体性をともなっ
て現れる。チュヴァシの人々にとって、身体を持つ者が向き合わざるを得ない悪=病気を扱
う卜占は、「ただ単なる生理的作用にとどまらず、洗練された感受性や感情、感覚の統合を
53 福島真人「序文:身体を社会的に構築する」福島真人編『身体の構築学』23 頁。
54 序論で紹介したシベリア地方のシャーマニズム復興の場合と同様、チュヴァシにおいても、伝統
宗教を復興させようとする知識人たちの運動は一枚岩ではない。本論で取り上げたスタニヤルや
チュヴァシ民族会議(ChNK)メンバーによる試みは、それぞれ異なる主張を持つ大勢の中の一
部に過ぎない。こうした主体間の足並みの乱れが、運動自体の閉塞にもつながっている。詳しくは、
Vovina, “Building the Road to the Temple,” p. 699.
- 172 -
実践としての知の再/構成
も含む身体化された能力」(55)としてのハビトゥスに関わるものである。一方、知識人たち
の構築する「諸事実としての知識」には、卜占が満たしているような生理学的、心理学的、
(56)
社会学的要素を備えた「全体的人間」
(l’homme total)
の視座が具わっているとは言えない。
では、このように弁別的特徴を持つ二種類の知識の関係を、どのように捉えたらよいだろ
うか。その一つの方法は、アサドが「儀礼」概念について考察したように、知識の「系譜」
を描いてみることである。彼によると「儀礼」の概念は、近代以前のキリスト教世界では規
定されたものごとを適切に行うことといった、身体的・言語的な技能の形成を前提とする実
践的な訓練に依拠するものだったのに対して、後にその定義は、行為自体とは異なる何か別
の事象を意味していると解釈される行為へと移り変わっていった。アサドはこうした二つの
「儀礼」概念の根本的な違いを指摘した上で、産業資本主義社会においては、実践されるべ
き規則としてよりも読解されるべき表象としての側面が強化されてきたことをほのめかして
いる(57)。このように、大きな時間軸に沿って知識の「系譜」を描くことは、近代化ととも
に「ハビトゥスとしての知識」から「諸事実としての知識」への移行が生じるとするヴィテ
ブスキーの議論に通じるものである。しかし、チュヴァシの伝統宗教と卜占の変容のあり方
における明確な違いは、このような知識の「系譜」が必ずしも一概に描けるものではないこ
とを示している。
そこで、二種の知識の関係を捉える別の方法として、知識の構成される状況を個別に検討
していく作業が必要となる。この作業においては、クリフォード・ギアツがフロイトの夢解
釈における「第二次加工」(sekundäre Bearbeitung)の概念を借りて、宗教研究における課
題を検討した方法が参考になる。実際に夢を見ている人の生の体験をそのまま取り出すわけ
にはいかないので、夢の解釈は目が覚めた後にそのことを思い出しながら説明される語りを
もとに行わざるを得ない。しかしその場合、夢の語り手は荒唐無稽な部分を省いたり、途切
れている部分を想像で埋めたりして、全体的に夢が何らかの「意味をなす」ように加工して
しまう(58)。これと同じように、宗教的体験は常識的な世界に合わせてのみ説明可能となる
ために、それを理解するうえではどうしても合理化が行われてしまうという困難が、宗教研
究にはつきまとっている。しかしギアツは、人が宗教の視座と常識の視座を頻繁に往復する
ことによって常識が再構成されていくプロセスに、宗教と社会的行為との関係を捉えるため
の手がかりを見出している(59)。
これと同様に福島は、ギアツが宗教研究に関して指摘したような困難とそれを克服するた
めの方策を、儀礼研究において見出している。儀礼研究は、もともと非言語的で形式的な儀
礼を、言語的に解釈しなければならないというパラドクスを抱えている。その困難を乗り越
えるために、彼は儀礼の意味を固定したものとしてではなく、それが喚起される「ポテンシャ
55 Asad, Formations of the Secular, p. 95.
56 M. モース(有地亨、山口俊夫訳)『社会学と人類学 II』弘文堂、1976 年、128 頁。
57 タラル・アサド(中村圭志訳)『宗教の系譜:キリスト教とイスラムにおける権力の根拠と訓練』
岩波書店、2004 年、88 頁。
58 ジグムント・フロイト(高橋義孝、菊盛英夫訳)『夢判断(下)』日本教文社、1994 年、252 頁。
59 Geertz, Islam Observed, pp. 109–110.
- 173 -
後藤 正憲
ル」として捉えることを提案している。儀礼の当事者は、分析的な視座を持つ第三者のよう
に、儀礼に何らかの意味を見出す余裕を持たないが、背景的な知識のあり方によって、意味
が喚起される度合いは変わってくる。そのため、「一般の行為者、ある特定知識を持った儀
礼職能者や司祭、マージナルで他の社会にも関心のあるインフォーマント、そして人類学者、
こうした様々なレベルにおいて、儀礼は様々に異なる喚起力を発揮し、それが異なる「釈義」
を作り上げることになる」(60)。このように意味が喚起されるポテンシャルは、社会的立場の
違いによって異なるばかりでなく、同一人物であっても時と場合によって異なる。こうした
ことから、意味が喚起されたりされなかったりして、様々に異なる視座を行き来しながら知
識が構成されていく状況を、個別に押さえていくことが必要となる。
知識が構成される個別の状況に着目した場合、上で挙げた二種類の知識は、どちらが時間
的に先行するとか、どちらが優位にあるとかいった関係で捉えられるものではないことが分
かる。もともと、「ハビトゥスとしての知識」と「諸事実としての知識」は、互いに複雑に
絡み合って特定の知識を構成している。呪術を恐れて占い師に頼る人々の口からは、しばし
ば呪術師は特別な「本」を持っていると語られる。「本」に書かれた「諸事実としての知識」
のイメージが、卜占の行為を支えている。実際にはそのような「本」が書かれたり読まれた
りするわけではないために、卜占につながる呪術が「諸事実」となることはないが、
「ハビトゥ
スとしての知識」が「諸事実としての知識」とまったく無縁というわけでもない。このことは、
かつて占い師が「言葉を知る人」と呼ばれていたことにも通じる。いずれの場合も、卜占に
おける「ハビトゥスとしての知識」は、秘儀的な要素を持つ「諸事実としての知識」に依存
している。また、伝統宗教の復興を目指して歴史の再編に取り組む知識人は、ソ連崩壊後に
民族文化の立て直しを図る行為者の立場から、例えばキレメチに関する知識を転調させるこ
とによって流用している。彼らは、言ってみれば知識人特有の「ハビトゥス」に基づいて知
識を生み出していると言えるだろう。ただし、それは生み出されると同時に「諸事実として
の知識」に変わるため、それ以上転調の余地がないだけである。
このように対立する知識は、行為者の占める社会的な位置づけによって異なる仕方で絡み
合いながら、それぞれに特徴のある知識を構成している。しかし、社会的位置づけに応じて
構成される知識は、固定的なものとして定着するのではなく、他のあり方との横断を通して
再構成されうる。チュヴァシの大学で宗教史を教える教授が、秘書に占い師のことについて
小声で尋ねる時、卜占についての第三者的な「意味」については喚起されないだろう。この
場合、卜占は彼にとって、いわば「ハビトゥスとしての知識」を構成している。その彼が一
旦教室に入ると、卜占のことなど授業で扱うものではないという意味づけがなされる。そう
なれば、卜占は不在という形で「諸事実としての知識」に再構成される。
こうしたことから、「ハビトゥスとしての知識」と「諸事実としての知識」は、近代化の
時間的な継起において捉えられるものではなく、それらを両極とする中間状態に人々の営み
が繰り広げられる場として捉えられるべきだろう。これは言い換えれば、ブルデューが「競
争の場」(フィールド)と呼ぶものの一つのあり方を示している。各フィールドでは、諸条
60 福島真人「儀礼とその釈義:形式的行動と解釈の生成」民俗芸能研究の会、第一民俗芸能学会編『課
題としての民俗芸能研究』ひつじ書房、1993 年、137 頁。
- 174 -
実践としての知の再/構成
件が問われることもなく暗黙の合意に置かれたドクサの状態と、それに競合する意見の出現
によって合意が破られる状態との間で対立が起こりうる(61)。ただし、行為者が占める相対
的な位置取りに応じて、喚起される知識の性質も変わってくるため、この対立はいつも一様
に現れるのではない。
しかも、ブルデューが強調して言うには、こうしたフィールドは決して他から切り離され
ているのではなく、他のフィールドとの変更可能な組み合わせによって社会を成り立たせて
いる(62)。このため、フィールド間ではしばしば自由な横断が行われるが、そこで各フィー
ルドの性質に応じて喚起される知識も変わってくるのである。再びチュヴァシの大学教授の
例を取り上げると、同じ職場で働く同僚として秘書との間で卜占についてささやかれる控え
室では、互いに顔の見える関係で結ばれた親密な共同体のフィールドが成り立っている。し
かし、公教育の現場で教師と生徒との関係に置かれる大学の教室では、国家制度のフィール
ドが要求するところに従って、卜占についての話題は意図的に回避される。また、上述の出
稼ぎをする元コルホーズ員の場合には、隣人の注意を引きながら稼いだ金で家を新築すると
いう、経済的なフィールドにおける関係性が横断的に作用することによって、卜占の行為に
つながっている。こうしたフィールド間の横断を繰り返しながら、それぞれの日常は築かれ
ている。現在のところ、チュヴァシの知識人の懸案となっている伝統宗教は「諸事実として
の知識」により近く、一般の人々の心を騒がす卜占は「ハビトゥスとしての知識」に傾いて
いる。しかし、どちらもそれぞれの領域で自律性を保つのではなく、他のフィールドとの組
み合わせや横断を通して、構成と再構成が繰り返されている。
5. 結論
本論では、まず序論でソ連崩壊後のロシアにおけるシャーマニズム復興についての民族誌
を取り上げ、それが近代の「プロジェクト」と軌道を同じくしているのではないかという問
いを起点として、議論を進めてきた。ここで論考を結ぶに当たり、サーリンズによる議論を
参照するのがふさわしい。
20 世紀の締めくくりとして書かれた論文の中で、彼は人類学が後期資本主義の西洋で形成
されてきた学問であり、現在でもそれが近代啓蒙主義のイデオロギーを背負ったままである
61 Pierre Bourdieu, Outline of a Theory of Practice (Translated by Richard Nice) (Cambridge:
Cambridge University Press, 1977), p. 168. ブルデューは、このような議論の場の出現が、都市の
発達のような歴史的要因に関係付けられる場合でも、それを時間的継起の結果と見るのではなく、
むしろそこで異なる民族や職業の集団が出会うことによって暗黙の合意が破られる条件が整えら
れることに注意を喚起している。Bourdieu, Outline of a Theory of Practice, p. 233 (note 16).
62 Pierre Bourdieu, “Social Space and the Genesis of ‘Classes’,” in John B. Thompson, ed., Language
and Symbolic Power (Translated by Gino Raymond and Matthew Adamson) (Cambridge: Polity
Press, 1991), p. 245. なおブルデューは、市場経済や国家と法のシステム、学問や芸術体系といっ
たフィールド同士が互いにどのように連鎖しているかを、行為者のハビトゥスを通して追究して
いくことこそ社会科学の役割だとしている。Ibid., p. 242. この点については、論集の編者による
解説も参照のこと。John B. Thompson, “Editor’s Introduction,” in Thompson, ed., Language and
Symbolic Power, p. 25.
- 175 -
後藤 正憲
ことを指摘している。西洋的な見方では、
「われわれ」が変化すればそれは発展であり、
「彼ら」
が変化すれば文化の喪失とみなされる。それまで独自の文化を謳歌していた周辺世界の人々
が、西洋近代の文化に触れることによってショックを受け、やがて土着の性質を失ってしま
うという見方を、彼はグリーンブラットの言葉を借りて、「感傷的ペシミズム」(sentimental
pessimism)と呼んで批判している(63)。その上で彼は、文化人類学者が本当の意味で啓蒙さ
れるためには、文化的伝統がモダニティの要素をたくみに吸収して、それぞれ異なった変化
を遂げることに目を向ける必要があるとしている。ここでは彼にならって、周辺社会におけ
る「ハビトゥスとしての知識」は近代化が進むとともに「諸事実としての知識」へと必然的
に移行するというヴィテブスキーの議論を、「感傷的ペシミズム」と呼んで差し支えないだ
ろう。
それと同時に、
「ハビトゥスとしての知識」を論理的に先んじるものとして人々の側に置き、
そこに仕掛けられる「近代化」の攻勢に抵抗する手段として措定する議論も退けられる。そ
うした見方は、結局「感傷的ペシミズム」の裏返しにすぎず、ただ外側から加えられる圧力(「近
代化」や「権力」)に屈するかしないかが違うだけで、ともに時間の一元的な見方に陥っている。
「ハビトゥスとしての知識」と「諸事実としての知識」を時間的継起において捉えたり、
従属か抵抗かの二者択一において捉えたりする見方は、両者が多様な形で絡み合う状況を見
落としてしまう。チュヴァシの伝統宗教の復興に賭ける知識人や、卜占を実践する人々にお
いて見られるように、知識の形作られる状況は、人々と近代化の圧力の間で引かれる単一の
境界に現れるのではない。また、知識人エリートと一般の人々との間で根本的な線引きがさ
れるわけでもない。むしろ、いずれにおいても複数の境界と異種の行為が交叉して、多様な
空間と時間が構成されている。このように複雑な状況を見極めるためには、それぞれの場面
で個別に喚起される意識に基づいて、人々の間で世界が構成され再構成されていく中に現れ
る変化のプロセスを、その都度追っていくことが求められる。理解を深めたいと思うものに
対して、「関係の有する一定時の状態を再構成するという代価を払ってだけ把握し直すこと
ができる」という点では、われわれの実践的行為も変わりはない(64)。
謝辞
本論考は、共同研究会「社会主義的近代化の経験に関する歴史人類学的研究」報告(国立民族学博物館、
2008 年 10 月 25 日)の内容を発展させたものである。座長の小長谷有紀氏を始め、コメントをいただ
いた多くの方々に感謝したい。
63 Marshall Sahlins, “What is Anthropological Enlightenment? Some Lessons of the Twentieth
Century,” Annual Review of Anthropology 28 (1999), p. vi.
64 ブルデュ『実践感覚 2』53 頁。この点で、田辺の言う学問的な実践と人々の日常的実践を同時に
視野に納めた再帰的人類学の展望を見失わないことが重要である。田辺繁治「再帰的人類学にお
ける実践の概念:ブルデューのハビトゥスをめぐり、その彼方へ」『国立民族学博物館研究報告』
26 巻 4 号、2002 年、533–573 頁。
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Re-/Construction of Knowledge as a Practice: Traditional Religion
and Divination of the Chuvash
Goto Masanori
In an attempt to ascertain the current tendencies of religious movements in the world,
it is inevitable to distinguish between two different types of phenomena. The first type
is religious activity based on people’s knowledge as habitus. This type of knowledge is
embodied by people almost unconsciously due to circumstances from their childhood. The
knowledge as habitus is usually merged into everyday life, and affects people implicitly.
Conversely, the second type of activity is based on knowledge as facts, which has been
defined from a reflective point of view. Knowledge as facts is defined explicitly in a
scientific manner. It usually serves abstract and rationalistic purposes, such as in ecological
or nationalistic endeavors.
Regarding the matter of cultural change including religious consciousness, it is
often said that knowledge as habitus gave way to knowledge as facts in the course of
modernization. However, such a generalization by no means captures the complex
dimension of practices of people. I will elucidate this point by examining the religious
phenomena of the Chuvash, a Turkic people of the Middle-Volga basin.
First, I will illustrate how the Chuvash intellectuals, who devote themselves to a
nationalist movement, have tried to revive the traditional religion. The Chuvash traditional
religion has a pantheon of gods and spirits composing various strata of the celestial world.
The Chuvash people held onto their indigenous beliefs until the mid-19th century, when the
Orthodox Church promoted systematic Christianization among them. Their beliefs were
lost almost completely by the time of the Russian Revolution. Later, since perestroika,
Chuvash intellectuals, in a nationalist mood, have paid most of their attention to the preChristian indigenous beliefs. This has been adequate for promoting a national identity,
because it clearly distinguishes the Chuvash from both Orthodox Russians and from
Muslim Tatars. The illustration shows how the religious knowledge has been transformed
from habitus to facts in an attempt of the Chuvash intellectuals to revive their traditional
religion.
Next, I will turn to the divination of the Chuvash. Diviners had a close relationship
with the Chuvash traditional religion. During the pre-Christian era, diviners appointed
dates, places and sorts of offerings to be sacrificed on the occasion of the communal rituals.
As the power of traditional religion was lost, the social role of the diviners was diminished.
But it has not been lost completely because the divination process remains, and serves
to counsel individual clients for whom diviners indicate the reasons and solutions for
misfortunes. Although the divination was excluded by both the Orthodox Church and the
Bolshevik Party, in the same way as the traditional religion was excluded, the diviners are
still in large demand today. This makes the divination a marked contrast to the traditional
Chuvash religion. In this case, the habitus form of knowledge has been maintained through
the practice of divination among the people.
Examination of the traditional religion and divination of the Chuvash demonstrates
that the relationship between modernization and the transformation of knowledge cannot
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後藤 正憲
be reduced to a fatalistic generalization. As the case of the divination shows, knowledge
as habitus is not always transformed into knowledge as facts through modernization. At
the same time, the practices of people based on habitus should not be construed as resisting
modernization. Such an alternative view whether people’s habitus should surrender to
modernization or resist it, reduces the people’s experiences to a simplified dimension. In
truth, knowledge involving religious affairs can be constructed in various ways, depending
on where an agency is situated between the two poles of knowledge as habitus and
knowledge as facts. Furthermore, the knowledge is by no means fixed in a single situation,
but rather it can be shifted in other situations due to other setting of relationship established
between agencies. People reconstruct their knowledge through the act of coming and going
between different situations. Those who are engaged in a reflexive study of culture, should
turn their attention to each practice as construction and reconstruction of knowledge.
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