論文「アジアの民族造形-祈り」関連 資料一覧・解説

論文「アジアの民族造形-祈り」関連
資料一覧・解説
1
木彫シンガ像 桁鼻飾り
インドネシア トバ バタック族 19 世紀
これはスマトラ島に住むバタック族の魔除けの木彫である。トバ湖の周辺には 4つのバタック族がおり、大きな屋根の高床の家を構築し、入口に木彫の獅子像
を左右一対で桁に打ちつける。もちろん除魔招福と家内の安全と豊穣を祈る。大木を長さ 3メートルほどに切りだして、さらに2メートルほどの長方形の角材に
切り、下部を細く上部を太くして、中央正面に目、鼻、口を刻み、目は黒く塗り、額を三角形にして蔓草状の曲線模様を刻む。全面に朱を塗ってあったが、今は
目の緑だけに濃く残っている。
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乾 漆 仏 頭 ミャンマー 17 世紀
「乾漆」とは木や粘土を素材にして型を造り、その上から麻布を漆を塗りながら何枚も重ねてゆく造形技法をさす。中国では前漢(紀元前後)ごろに始まり、
朝鮮半島の楽浪遺跡から挟紵像の存在を示すことが文献に見られる。その影響をうけて、日本では奈良時代(7世紀)に伝来している。塞、土塞、紵などの文字を
用いて素材や技法を示している。同じように乾漆の技法は、南中国から東南アジアにも伝播している。特に仏教を深く尊崇したミャンマーでは、ビルマ族が土着
のモンやピュー族を制覇して、パガン王朝を建設したころからはじめている。まず木製の芯を造り、その上に粘土を盛りつけて、造形対象の像を造りあげる。さ
らに石膏をかぶせ、乾くと 2つから 4つぐらいに切り分ける。それぞれから粘土をとりだして、石膏型だけにする。これから造ろうとするメス型があらわれ、そ
こ くそ
こにベンガラ漆を塗り、さらに糊漆を用いて麻布を張り、摺漆を塗る。木糞と生漆を糊をまぜて塗る。次は研磨を 8-10回ぐらい繰り返す。これがおおよその乾
漆の造形技法で、仏像の本体は完成する。これに長い耳をつけ、頭頂にはジャック・フルーツの実の形をした螺髪を、あらかじめ開けておいた穴に差しこんで、
最後に髷をのせる。細い眉は鼻筋につなげ、目はぱっちりと開けて、拝む衆生にやさしい慈悲の目を向ける。ベンガラ漆と黒漆を塗ったのち、仕上げに金漆を塗
って完成する。ふっくらと丸顔の仏は、ミャンマーの北部の顔の特徴をあらわしている。因みに南の仏像は細身である。ミャンマーでの漆塗りの仏像は、パガン
(10-13 世紀)
、ピンヤ(14-15 世紀)
、アヴァ(16世紀)
、コンバウン(17-18世紀)と編年されている。これはコンバウン時代の代表的な乾漆仏だが、残念
ながら体の部分を欠いている。頭部の大きさから想像すると人体により小柄ではなかろうか。
3
青 銅 太 鼓 を 持 つ 女 王 像 インドネシア ニアス島
スマトラ島の西の海に浮かぶニアス島に住む人々は、プロト・マレー系で多様な伝承を持っている。潮の流れに乗って周辺の島々との交流がさかんに行われた
可能性も高い。彼らは芋、稲、トウモロコシを主食とし、豚を飼育する。インドネシアに共通する巨石崇拝とともに、天界から地界までを 9層に分ける。彼らが
尊崇するロワランギ(Lowalanngi)
、ラトゥラ・ダノ(Latura Dano)
、シレウェ・ナサラタ(Silewe Nasarata)の三大至高神は、住民の安全を脅かす祖霊や悪
霊を除いてくれる。島民を支配する首長はシャーマニズムとも関わり、祭り(エレ)は聖所(バレ)で執行する。木や金属造形に豊かな才能を持つ彼らは、聖な
る祭場に木彫の像(アドゥ)や、青銅、ときには金製の像などを安置する。
これは、青銅で造られた半裸の女王像だが、台に腰を下ろし膝に鼓を置き、金属製の首輪をはめ、頭には丸い突起のついたベルトをしめ、細長い宝冠をかぶる。
前面の装飾はこの土地に繁茂する大きな羊歯(しだ)の葉をかたどったものだ。首長や妃は羊歯をつけることで、絶対権威の象徴とする。おそらくこれは女王自
らが巫の役を務めた像を示したものではなかろうか。
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青 銅 龍 神 像 ミャンマー パガン 17 世紀
ミャンマーは最高神の帝釈天(ダージャーミン)をはじめ、多くのナッ(霊魂)神の信仰がさかんな国である。古くから水稲耕作を行ってきたので、農民の多
くは水神を尊崇してきた。水田のような低湿地に棲息する蛇を、水霊すなわち龍神と崇める習俗は、インドから東南アジアを経て、南中国や日本にも共通する。
頭に鎌首をもたげ口を開いた蛇がいるので、一目で水神とわかる。正座した像は肩衣をまとい静かに合掌し、耳には大きな耳飾りを付け、宝冠をかぶっている。
小形ながらすぐれた造形技法によるこの神像は、形がよく、よほどの人が念持仏のように身近に置いたものであろう。
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龍 神 ネパール
骨 灰 泥 像 “ 夜 叉 像 ” ブータン
ヒマーラヤを仰ぐブータンもまた、チベット仏教の影響を受けて、その精神基盤にしている。チベットでは黄帽派だが、ここは紅帽派の中のドゥルック派を国
教にしている。信仰の対象はチョルテン(仏塔)やラカン(仏殿)やゴンパ(僧院)で、そこを中心に落ち着きある社会生活を営む。人々は洋装せずに伝統の衣
服のゴー(男)やキラ(女)を着用している。昭和天皇の御大葬の折、ゴーに身を包んで参列したブータン国王は、各国代表の中で民族服を着用され、堂々とふ
しら ゆう
るまわれたお姿が今なお記憶に残る。寺の周辺には白木綿の布に木版で経文を印刷した、ダルシン(経文旗)を立てる。旗が強い風になびいてヒューッと、響き
わたるわびしさを秘めた音は、神秘的でいつまでも耳に残る。敬虔な人々はツァンパ(麦粉菓子)や、トルマ(ツァンパにバターを塗って色付けしたもの)やツ
アツアをチョルテンなどに捧げる。ツアツアは型で抜いた粘土に、火葬した骨灰をまぜて造った小さな仏塔である。その方法で造ったのがこの“夜叉像”で、寺塔
の前に数多く並んでいる。蓮華をめぐらした台座に、両足を開きふんばって立ち、頭髪を逆立てて三ツ目で眉をつりあげ、口を大きく開いている。右手は肩より
高く上げ、左手は胸のあたりで布をつかむ。憤怒の表情でまさに仁王像を彷彿とさせる、小さいながら強さみなぎる夜叉像である。後ろの船形光背には湧きいづ
る雲が模様化されている。このほかにも観音像など多様な形があるが、いずれも銀彩がほどこしてある。奉納者はこれを仏前に奉じて、
「オンマニ・パトメフーム」
と唱え、マニ車を回しながら死者の供養と家族の除魔招福を祈る。
7
真 鍮 ジ ャ イ ナ 教 “ ガ ネ ー シ ャ ”( 象 頭 神 ) 像 インド 19 世紀
釈迦と同じ前 6-5 世紀ごろにあらわれたすぐれた思想家の一人、ナータ族のマハーヴィーラが興した信仰がジャイナ教である。本名をバルダマーナ
(Vard-hamana=繁栄)といい、若くして出家してニガンダ派の行者となり、その教義を改良してジャイナ教を設立した。当時頽廃していたバラモン教の供犠の
制や祭祀や、長い間権威とされた『ヴェーダ経典』を批判あるいは否定し、人々の生活に照らし合わせて、独自の真理や学説をうち立てる。彼はこの世の存在を
霊魂(ジーバ)と非霊魂(アジーバ)に分け、後者をダルマ(運動の条件)
、アダルマ(非条件)
、アーカーシャ(虚空)
、プドガラ(物質)の 4 つに分けた。と
くに殺生を禁じるアヒンサーを重要視した。その上で嘘をついて人をだますな、非性交、一切私のものを持たないなど、5つの誓いと戒め(アヌブラタ)を守っ
て出家するのを条件とした。ジャイナ教は仏教のように近隣の諸民族への伝播はなく、インド亜大陸にのみ分布した。
ジャイナ教の造形活動は、古代にあっては仏教を、中世にはヒンドゥー教を範としている。オリッサ州にある前 2-1 世紀ごろのカンタギリ、ウダヤギリ遺跡
には、それぞれ 15、18 の石窟がある。さらにアイホール(7世紀)やエローラ(8-10世紀)にも石窟がある。エローラはアゥランガバードの北西 25キロのと
ころにあり、2 キロにわたって穿たれた石窟には、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教のすぐれた石像彫刻群が見られる。インド第一級の石窟追跡だけに、毎日訪
れる多くの見学者が吐く息で磨滅が進んでいる。
このガネシャ像は蛇がとぐろを巻いたような台座に、蓮華座を重ねた上に座した、象頭神の像である。長い鼻を右に伸ばして膝にのせ、両側に身を伸ばした蛇
が、7 匹の蛇が造る光背を支えている。商いの神や幸運を招く神として多くの信仰を得ているが、どことなく微笑ましく思うとともに、滑稽味をも感じ親しみを
おぼえる。
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木彫白猿(ハヌマン)と龍(ナーガ)闘争像
インドネシア バリ島 19 世紀
王冠をかぶった白猿は波に立ち、目をむきだし鼻に皺をよせて、相手に噛みつかんばかりの形相を呈している。頭には王冠をかぶり、猿に襲いかかる龍がおり、
足もとの龍も猿の膝頭の噛みつこうとしている。おそらく水中か水辺での争いなのであろう、両者の体の周りには泡立つ水が彫りめぐらされている。水稲耕作を
行うバリでは、今なお水利権についての争いが時折起こるという。猿も龍も水の神の象徴なので、水の神への祈りを具象化したものではなかろうか。猿の毛と龍
の驎や波しぶきなど見事な造形表現で、インドネシアの彫り師の腕の高さを示す、代表作といえよう。
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木 彫 彩 絵 神 仏 混 合 神 像 ネパール
10 木 製 色 絵 牡 丹 厨 子 ネパール 19 世紀
13 石 彫 ヤ ク シ ャ ( 夜 叉 ) 神 像 タイ スコータイ 14 世紀
本来は森や樹木に宿る霊魂すなわち樹霊をさす。おそらくヴェーダ(神聖な信仰上の知識、インド人の祖であるアーリア人が前 1200 年ごろ編纂した賛歌や
祭祀の聖典)以前に遡る土着の守護神が、のちに地域全体を守るようになった。その姿は見えないが、超能力を備え人々に恵みを与える存在として崇められた。
だが供養もせず人に尽くさない者には悪疫をはやらせる。のちに仏教が生まれると、ヒンドゥの神々とともに、仏教の守護神として崇められるようになった。
東南アジアは長い間クメール族のアンコール王朝の支配下にあった。ところがジャヤバルマン 7世の死後、王朝は急激に衰え始める。そのとき各地のタイ族
の士候たちが決起し、クメール族を駆逐した。13世紀のはじめごろ、初代のシーインタラティット王は、都を三重の城壁で囲んだ。そして中央に王宮とワット・
マハタート寺院を築いた。さらにラムカムヘン大王(1279-1316)は、勢力を拡大し北はラオスのプランパバンから、南ナコン・シー・タマラート、東はメコ
ン沿岸、西はミャンマーのシャン州にいたるまでを領地に広げた。
‘92 年には中国の元に朝貢し、陶器造りに長けた匠 50 人を招聘して大窯を築き、スコータ
イやスワンカローク焼を焼造して周辺諸国から日本にまで輸出している。わが国では皿の見込みに鉄絵で魚を描いた鉢を「ソコタイ」
、スワンカロークを「宋
胡録」と親しみをもって愛好してきた。
ラム・カムヘン大王は、ナコン・シータマラートから僧を招いて、スリランカの上座部仏教を興した。城内に多くの仏塔や寺院を建立して仏像を納めた。そ
れにあわせて貴族や豪族も寺領地や寺院や仏塔に仏像仏具を寄進し、今日の隆盛を見るにいたった。それらの寺院には釈迦の除魔招福の神としてヤクシヤが祀
られた。日本にも将来して祀られ、京都東寺の夜叉神像はその代表格といえようか。
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石 彫 多 産 婆 像 インドネシア バリ島
石 彫 機 織 像 インドネシア スンバ島 19 世紀
石 彫 家 の 守 護 神 インドネシア スンバ島 19 世紀
15 紙 塑 朱 塗 仏 殿 ネパール シェルパ族 19 世紀
16 椰 子 葉 穀 神 像 ( デ ゥ ィ ・ ス リ ) インドネシア バリ島
椰子の葉で造った穀霊女神像(デウィ・スリ)である。彼女はビシュヌの化身といわれている。頭には華やかな髪飾りをのせ、上着にはクバヤ、腰にはサロン
こて
を巻いている。肩の両側には丸い輪をつけ、腕輪をはめている。顔の右は墨で、左は鏝 で焼いて描く。バリはヒンドゥー教信仰のさかんなところで、土着の精霊
信仰と混淆している部分もある。稲作農耕民は太陽の光と水の恵みにより、大きな収穫が期待できるだけに、神への敬虔な祈りは毎日行われる。
17 飴 釉 鉢 の 龍 神 像 ミャンマー ビルマ族
18 収 穫 祭 の 豆 飾 り イラン イスファハン
19 神 の 依 代 タイ
20 大 道 龍 橋 絵 巻
タイ ヤオ族 18 世紀
南中国に本拠をもつヤオ族は、古代に住んだ武陵蛮や五渓蛮の子孫といわれる。彼らは早くから東南アジアへと移動し、ザオ(ベトナム)とよばれ、焼畑で陸
稲、とうもろこし、芋などの栽培を行う。移動性の過山系と定着性の非過山系とに分かれる。前者には姓があり、海上移動の際に救われたので渡海神話を持つ。
はん こ
また死後の霊界への入社式(男子のみ)
、先祖の墓の修復、葬儀の諸儀礼、中国から持ちこんだ 18神を祀る和年(ホーヒャン)
、始祖の盤 古を祀るなどの 5儀礼
を守り続けている。屋内に祀った精霊祠の傍らに、泥絵具で描いた道教 18 神の掛け軸を並べる。彼らの移動に際しては、南宋時代に雲南省の役人が、特定のヤ
オに対して、
「評皇券牒」という特許状を与えた。これはおそらくそのころに描かれた絵で、
「評皇券牒」の一部かもしれない。先頭には馬に乗った 2 人がおり、
ついで「中天星主」や「天宮北極星在此」と書いた旗を掲げる行列が続く。おそらく星辰信仰を持つ人々の行列が、泥絵具で描かれているものであろう。
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帛絵 クリシュナとゴーピー(羊飼いの娘)
インド ラージャスタン州
夜空に星がまたたく、山と森に囲まれた中にクリシュナは佇む。右には盛装した女性が 57人、左にも 61人の牧場の娘(ゴーピー)たちが囲んでいる。目を輝
かせた美女に囲まれるのは、まさに男子羨望の一場面といえよう。インドの数多くの物語の中の偉大な逸話のひとつである。クリシュナは半農半牧を行うヤーダ
ヴァ族のブリシュニ支族の生まれで、紀元前数世紀ごろの存在と考えられている。彼はバラタ族の争いに参戦し、アルジュナ王子の御者として働き、やがて一族
の指導者となる。彼はゴーピー(牛飼い娘)たちにとってはあこがれの的で、蛇を退治した勇猛さや、秋の長夜に吹く笛の音に魅了される女性は多かった。彼女
たちはなんとか彼に取り入ろうと、カーティヤーヤニー女神に祈願し、ヤムナ川で身を清め、
「彼の妻になれるよう」に祈った。いつものように川岸に服をぬぎす
て、遊んでいる彼女たちの姿を見たクリシュナは、衣服をすべてとりあげて、木の上に登ってしまう。恥ずかしさに川から出られない彼女たちは、寒さにふるえ
ながらも彼と過ごせた一時を喜ぶ。彼は「私へのカーマ(願望)は、世俗的なカーマ(欲望)ではだめ」とたしなめる。牛飼いが崇めるインドラ神を屈伏したク
リシュナへ、彼女たちはますます畏敬の念を抱く。今なおクリシュナの祭りには、夜を徹して女性たちでにぎわう。
一枚の大きな布にこれだけの絵を描ける絵師の造形力には驚嘆する。“祈り”にかかわる絵には、崇高な心が宿っていたからであろう。
21 ク リ シ ュ ナ の 行 列 と ゴ ー ピ ー インド
クリシュナが兄と共に牛車に乗って母のもとへ旅する行列である。たちまちゴーピーに囲まれて賑やかな光景が展開する。白と黒による造形技法が全体に神秘
性を増している。
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護符
ドゥルガ女神像
ネパール
カマンドゥ
さんさ
げき
シヴァは『リグ・ヴェーダ』に登場する暴風神ルドラと同じで、髪をふり乱し頸に蛇を巻きつけ、手には三叉の戟 を持つといった、いかにも荒々しい性格の神
である。ふと、わがスサノオを思いうかべる。古く生殖器信仰を取り入れ男根石(リンガ)を祀ったインド亜大陸全域の先住民が崇めた、豊饒や多産の象徴であ
り古い地母神的性格を持つ女性を妃としている。一方は愛に献身するサティーやパールバティー、他方は血を好み武器を携えて諸魔と戦うドゥルガやカーリー女
神である。この護符は毎年 10月に行うダサインの祭りに、参道で売られている 1枚だが、千手観音像のように沢山の手を持つドゥルガ女神を描いている。9本の
剣を差し両側に旗を立てた冠をかぶり、顔、手、衣服を紅色で描き、頸には狩りとった悪魔の首を紐に結んでつるしている。足元の左には獅子が、右手には顔は
人、身体は水牛姿のマヒシャスール(悪魔の象徴)がおり、ドゥルガは槍で水牛の頸をはねている。画面の上には太陽と月を描いて、ドゥルガの悪魔退治が昼夜
を通して行われたことを示している。この世の平和を乱す悪に敢然と立ち向かう、ドゥルガ女神の祭り「ドゥルガ・プージャー」は、露店や多くの参詣者でにぎ
わう。
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硝子絵
アッラーと馬のマホメット
イラン
イスラム教の経典『コーラン』によれば、
「これぞ、アッラー、唯一の神、諸人が祀るアッラーぞ。子もなく、親もなく、ならぶものなきみ神ぞ」とある。イス
ラムの人々は長い歴史の歩みの中で、絶対的な存在として神と仰いできた。
「アッラー」とはアラビア語の「イラーフ」
(Ilah=神)に、定冠詞「アル」
(Al)がつ
いて「アッラーフ」
(Allaf)となったようだ。アジアの他の神々と同じように、
「恵み」と「慈悲」をあまねく人々に垂れるが、同時に悪行に対しては厳しく罰す
る存在でもあった。アラビアに始まるイスラム世界も、かつては霊魂信仰が人々の心を支配していた。だがムハンマドが啓示を受けて“イスラム”が広く西アジ
アを覆うにつれて、他の信仰、たとえば霊魂信仰など天地自然の神々を“邪神”とし、それにともなう諸々の偶像崇拝も禁止するようになる。そしてイスラム教
徒に「六信五行」を護ることを義務づけた。すなわち六信は、1)アッラー、2)天使や使徒、3)啓典〔クルアーンなど〕
、4)預言者、5)来世、6)運命、
五行は、1)信仰の告白〔シャハーダ〕
、2)礼拝〔サラート〕
、3)喜捨〔ザガート〕
、4)断食〔ラマダーン〕
、5)巡礼〔ハッジ〕で彼らはこれを忠実に実行
して今日にいたる。礼拝には大きなムスク(聖堂)が各地に建立され、長い砂漠の道のりを歩き続けた人々には、その聖堂こそ暑い陽射しを避け喉を潤す貴重な
憩いの場であり、メッカに向かって祈る、かけがえのない心の安らぎを得る場だった。私もしばしば砂漠を旅するが、50-60℃にも達する灼熱地獄から、はるか
にオアシスの森とモスクが見えると、ほっと胸をなでおろした経験がある。一生この地に暮らす人々にとって多彩な模様のタイルに装飾されたモスクは、まさに
心のオアシスであることが理解できる。それはそこにいる人々の安らかな顔から窺い得よう。
これは偶像を描かないイスラムでも、宗派が違えばこのように神や聖者の像を描く。シーア派では、アッラーとムハンマドの聖像を描く。主体は人面、馬体に
は羽が生え、帽子はかぶり髭を生やしているのがムハンマドで、馬の背中の大きな手はアッラーを象徴している。そのため神の上には天蓋が存在する。この点は
他の神仏像と共通する。テヘランの下町にある天使像には羽根が生えている。土着の信仰はゾロアスター(拝火教)で火と水を拝む。
24 女 神 2 体 インド
25 金 糸 刺 繍 「 仏 伝 図 」 ミャンマー マンダレー 20 世紀
仏教の開祖ゴータマ・ブッタの生涯を主題にした図像をさす。これはミャンマー伝統の民族造形としてその技法を誇る金糸の刺繍で、
「シュエジ・ドゥ」と
いう。見事な刺繍が織り成す仏伝図である。最も古い経典の阿含経や戒律を示した聖典に、釈迦が説いた厳しい教えや戒律を述べた部分が原点のように思われ
る。
これには釈迦の誕生から、世の中の無常を感じて髪を切って剃髪し、妻子に別れを告げ馬に乗って城外に出る。長い修行の末に悟りを開く。衆生はもとより象
までもその徳の高さにひれ伏す。そして菩薩からブッタへと崇められる。といったような内容である。
26 金 糸 刺 繍 「 舞 姫 の 図 」 ミャンマー ビルマ族 20 世紀
28 帛 画 魔 除 け の 寅 ベトナム ハノイ
ベトナムでは旧正月(テト・グエン・ダン=tet nguyen dan)をもっとも盛大に行う。梅によく似たホアマイという紅白の小さな花を、各家で門松のように飾
る。正月には 1年の幸せと魔除けの行事が展開される。魔除けには布に寅の絵を描き、それを家の前やときには町のソムミョウ(小祠)にかける。どこでも見か
ける手軽な絵だが、寅の顔、特に髭の表現には、真に迫るものがある。よほど数をこなさなければこれだけの絵は描けまい。この時期が過ぎると入手はむずかし
い。
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道教水神の図
中国
ヤオ族
17 世紀
すげがさ
かがり び
両側に従者をしたがえた道教神は、赤と白の王服をまとい手に諸刃の剣を持つ。下には船に乗って投網を引く2人の漁師が菅 笠 をかぶり、そばに 篝 火がた
う じょう
つ。手の引き具合から鵜 匠 なのかもしれない。おそらく水を支配する神を表現し、水神の恵みに感謝の意を表する絵ではなかろうか。ヤオ族は東南アジア諸国
にも移住し、ベトナムではザオ族と名前をかえ、ラオスやタイではヤオ族を名のり同じような生活文化を展開する。
30 ワ ー ル リ ー 画 インド
不思議さに魅せられて見つめると、父祖伝来の造形技法に従って描かれたこれらの絵には、世界の誰もが想像もせず、世間に騒がれることもなく、21 世紀へと
てら
受け継がれようとしているような感がする。現代絵画に共通する衒 いを感じさせない、驚くべき絵ばかりであるのはなぜか。土地の人々が日々の恵みへの感謝を
こめて、神に捧げる深い祈りが秘められているからである。楚々として飾ることなき土壁の家の内外に、牛の糞を塗って画布を構成し、米の粉を水に溶いた顔料
で、自然環境や天体や動植物や、暮らしの中の多様な動きを見せる人物像などを題材に描く。どれもが歓喜に満ち悲壮さを感じさせない。ハイテク謳歌のこの世
に、かかる“祈りの造形”を前面に押し出した絵画が生命を守り続けてきたことに、ワールリー族の造形感覚のすばらしさを思い、感動する。
人や動物の胴をしぼった表現は、原始時代に人類が描いた岩窟画や朱彩土器に見る表現方法との共通性があり、驚嘆せずにはいられない。1の集落の守護神を
象徴するような画面の中央の大樹は、根を出したままになっている。孔雀は雷太鼓のような丸い羽をつけている。
このほかにもアルポナとよぶ地面に描く祈りの絵画やマドバニー絵画、ラトワ族やビラーラ族が描く壁画、さらにカーリーガード絵など、暮らしと祈りが密着
した絵が、インドには生き続けている。人と信仰儀礼との関わりをはじめ、動物や植物などが繰り広げる、世にも不思議な物語や絵であふれている。近代化にど
っぷりつかってしまった日本人が、遥かかなたに追いやってしまった、
“人の暮らしとは”を考えさせられる絵が、民族や地域ごとに健やかに息づいているのは、
なんともうらやましい。民衆の自由さみなぎる造形技法は、宮廷画員の描くミニアチュールには見られない、力強さにあふれて私の目を楽しませてくれる。
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絵 入 り ク メ ー ル 文 字 経 典 19 世紀
金 彩 経 典 タイ
朱 漆 金 彩 貝 多 羅 葉 経 典 タイ
金 彩 唐 草 文 経 典 タイ
木 彫 蛙 付 貝 多 羅 葉 経 典 インドネシア
貝 多 羅 葉 経 典 インドネシア
貝 多 羅 葉 経 典 インドネシア
38 経 典 カンボジア
39 金 彩 経 典 貝 多 羅 葉 教 ミャンマー
40 紙 折 本 写 本 ミャンマー
41 入 墨 教 本 ミャンマー
42 黄 麻 紙 黒 泥 経 典 ネパール
信仰する者が心のよりどころとする聖典には、仏典やヒンドゥー経典がある。
仏教の経典は仏僧や仏教徒が祈祷の折に読誦する仏典をいう。その源は釈迦が生前に悟りを開くまでの間に、さまざまに公案した多くの真理を弟子や衆生に語
りかけてきた。その話法は誰にも理解しうる俗語で語りかけ、弟子たちにもそれを強く望んだ。釈迦の入滅後、各地で語った尊い教えを書き残すために、文字に
書きとめたものが経典ではなかろうか。
経典は経論律の三蔵から成り立っている。すなわち、釈迦の説法を集成した経蔵、釈迦が制定した教団の規則集成した律蔵、アビダルマと呼ばれる仏教を解釈
した諭蔵とから成り立っている。これは釈迦の言説を暗記したものに対する、統一見解を示すものである。釈迦の入滅後、十大弟子やその後の後継者に伝承され
てゆくうちに、各部派に分かれ教団も生れた。初期の仏教はインドのグプタ時代に、サンスクリット(梵語)が広く流通するようになった。やがてそれがスリラ
ンカに伝播すると、パーリー語で表記されるようになった。さらにインドからパキスタンのガンダーラやアフガニスタンのバーミヤンを経て、ウズベク、タジク
へと移動し、中国の西域地方から長安へ入ると、翻訳センターでサンスクリットや方言は漢約された。各地に伝播する過程で、多様な民族の言語に訳され、独特
の方言を交えた経典も多く書写されたのであろう。漢訳経典はやがて朝鮮半島や日本にも及び、国家仏教から貴族仏教そして民衆仏教へと変貌していった。これ
を北伝仏教あるいは大乗仏教とも言う。
一方パーリー語の経典は、スリランカから東南アジアへと及び、ミャンマーのプロームやパガン、タイのロップブリやチェンマイやスコータイやアユタヤ、バ
ンコク朝へと変遷する中で、国王が熱心な信徒となり国教としての地位を得る。同時にタイの民衆の間でもマライ大僧正の徳をしたって造られたのが「プラ・マ
ライ」である。ラオス、カンボジアではクメール文字(太字=ムル書体)で書くか、タイ語での表現が加わると細字のコム書体が多くなる。
これには挿絵があるが、
『ジャータカ』より、
「プラ・マライ」の物語を描いている。1.マライが地獄で、生前の悪業を厳しく責められる罪人の姿を見る。2.
貧しい農夫が布施し蓮の花を三十三天のチェーマン・チャイトヤに供える。3.兜率天から弥勒が来訪し、争いの時代の到来を告げる。
ラオスのプランパバン、カンボジアのアンコール・ワット、ベトナムのチャンパ、インドネシアのボロプドゥールなどで栄えた。だがこれらの地域には大乗と
上座部が混交しているところもある。それだけに多様な民族語や方言で描かれた経典も多い。
ヒンドゥーの聖典は膨大な量で、その形態も多様多元だが、
『ヴェーダ』
(Veda=吠陀、前 10 世紀ごろにインドの西北に移住したアーリア人が、緑濃い自然の
偉大な美しさを讃え、心より歌った抒情詩で 1000 年かかって完成)を、天啓聖天(シュルティ)とし、その絶対的な権威を認めている。人知をもってしても感
得しえない、自然や宇宙の神秘さを讃仰したのが、ヒンドゥーの根本原理である。だがこれを読みこなすのは難解で、ブラフマン、ビシュヌ、シヴァの3神をは
じめ、その化身の神々の像への崇拝が主流をなしている。その教えを感得しようと、人々は地域ごとにおのれの言語や文字を駆使して、経典を身近において、真
理の深さに接する日常を送ってきた。そのヒンドゥー教は、インドにとどまらず、自然と共生して暮らす東南アジア諸国地域の支配者たちがまず積極的に受け入
れ、王宮の周辺に神像を刻んで祀り、経典造りも順次推進されていった。住民もまた土着の信仰にヒンドゥーをも加えるように変わった。
紙料に恵まれた地域では手漉きの紙を生産して、文字を書き絵を描くことができる。だが、そうでないところでは、知恵の限りを尽くして他に素材をもとめる。
南や東南アジアでは各地に繁茂する椰子の若葉や木の皮を用いて、紙と同じような効果をあげている。スマトラ島のバタック族は、数百年も前から木の皮をはい
で、経本仕立ての本を造り、それに自然の真理や医薬に関する知識を黒々と書き記した。
31は紙にクメール文字で書いた経典で、現在ではカンボジアの所属になるが、かつて政治的な国境のなかったときには、クメール族はタイにも居住して信仰活
動を行っていた。表紙は黒漆を塗っただけだが、中を開くと藍染めした地に、金彩した台座に経典を捧げ持つ釈迦如来の座像がある。両側には 3本ずつ蝋燭が立
ち、左に僧、右に尼僧の合掌像を描く。さらにその下には天蓋を持った修行僧がおり、いずれも顔は白く塗っている。
33と 35-37、39はロンタル椰子の若い葉を集め、その表面に針状の筆記具で文字を刻んだ。さらに、炭を植物の汁で溶いて墨汁を造り、刻んだ文字の上に塗
り、文字が浮きでる工夫をこらした。このような椰子の葉に記した「貝多羅葉経典」
(ばいたらきょうてん)には数十枚から数百枚に達する大冊もある。これを繰
りながら読みあげるが、その際、順序を間違えないように、葉に穴を開けて紐を通して紛失を防ぐ。また椰子の葉だけでは傷がつきやすいので、この前後に板を
あてて保護する場合も多い。農耕民の多いロンボックで、板に蛙や鰐を彫刻してあるのは、水の恵みを願う意味がこめられているからである。タイ系民族で構成
されるシャン族の経典は、漆器の産地だけに朱漆を塗った板を用い、竹を色糸で編んだ簀子でそれを巻いている。
43
紺紙金銀泥経
中国
チベット
16 世紀
す
ヒマラヤの周辺の国々では古くから、手漉きの立派な紙を造り続けてきた。そのひとつに厚手の紙に藍染をほどこした紙がある。仏教が広まる中でどこの国で
も、写経を大切な修行の一つとすることから、よい紙の抄造がさかんになる。
紙は長い間に虫に侵されやすい。それを排除するために薬効の強い藍で染めて写経紙を漉いた。その上に金泥あるいは銀泥を墨汁にして筆写したものである。
釈迦の教えを伝える中には、
「真理を説くものは仏説」とあり、これを認めないと大乗経典は成り立たない。当時は仏典を書き記せるような国有の言葉がなかっ
たので、釈迦は弟子たちに理解しやすい俗語で説いたという。各地の写本を見ると、各地の言葉が反映されているのがわかる。だからインドから伝えられた仏典
は長い時間をかけて翻訳して集められたものであり、大乗や上座部ともに、異なった宗派の経典が含まれている。スリランカでは西インドの方言のマガダ語の要
素が加わっている。それが書写されると聖典語(パーリー語)として固定する。グプタ時代になると、サンスクリット語で書くことを奨励した。
仏塔中心に集まった信者たちは、出家者たちに限定しないで、在家を含む多くの人たちをも、悟りの世界に送りこむ意味で、自らを「大乗」と名乗って、仏を
賛仰する新しい運動を展開した。従来の舎利信仰にかわって、経典の重要性を認識しその普及をもめざした。このような中から新しい信仰運動として、
「密教」は
生みだされた。密教は仏の絶対性より、人々の心を揺り動かすことを強調し、これを如来の三密(身・口・意)による加持(慈悲)と説明する。まさにヴェーダ
以来のインド的な言葉のもつ呪力に対する崇拝で、密教でいう「真言」すなわち「マントラ」である。
密教の出現は仏教をヒンドゥーと差異のないものにした。13世紀に東ベンガルにあった教団の根拠地だった、ビクラシラー寺院がイスラムに蹂躙され、頭を失
って壊滅しヒンドゥーに吸収されてしまう。だが幸いにもチベット教団によって継承され、今日にいたる。釈迦が禁じた呪文や印契や壇を設ける修法をとり入れ、
バラモンやヒンドゥーの諸神を大量に摂取した。747 年には、パドマサンババ(蓮華生)がチベットに入り、土着のボン教と融合してラマ教をひらいた。ボン教
とは、聖なるカイラース山に近いシャンシュンの地で、生命の神ラ(bla)を祀って除魔招福を祈る、ム(dMu)族の信仰がもととなり、彼らと通婚した古代チ
ベット王家や、ピャ(Phyva)族の間で行われた。また占いにより、吉凶をみる医療にもとづく祈 禱 を行う、シェン族の信仰も加わった。
44
45
46
東巴経典
東巴経典
東巴経典
中国
中国
納西族創世紀
中国
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東 巴 経 典 祭 天 教 中国
東 巴 経 典 消 災 除 魔 経 中国
東 巴 教 神 路 図 中国
な し
きょう
長江上流の金沙江のほとり、雲南省麗江に居住する納西族は、チベット北東部にいた 羌 族のひとつである。唐代のはじめにこの地に移住したところ、彼らは
鳥蛮(ウバン)ともよばれた。固有の信仰はラマ教(紅帽派、四川省永寧の納西族は黄帽派)
、仏教、道教、ナッ(ミャンマーの霊魂信仰)などの要素が入り交じ
っているが、ボン教の影響をうけた東巴(トンパ)教である。彼らは象形と表意の2つの文字を持ち、儀礼執行にはシャーマン(覡=トンパ)が、現代人には読
めない、ナシ文字の経典を口誦する。古くは火葬を行ったが、漢化されてからは土葬にかわった。
49は本来1枚の布だった。それを6枚に切って表装したのでこのような形になってしまった。この長い布は臨終の床に持ち込み、その人の枕元から天井に向け
て張る。シャーマンは死の恐怖から救うように、ここに描かれた地獄から神々が待つ極楽への道を説きながら、使者を幽界へと導く。
50 木 胎 金 彩 龍 文 経 箱 チベット
51 虎 皮 貼 革 櫃 チベット 17 世紀
長方形の木箱に革を貼り、蝶つがいでとめた蓋がつく。全面を褐色に染めた革で蔽い上面、前面、側面、及び上面中央には魔除けにヒマラヤ虎の皮が貼ってあ
る。角々には L字形の金具をつけて補強し、両面に鉄の把手がつけてある。これはラマ教の経典や仏具などを納めてチベットを中心に、ヒマラヤを越えて南中国
やネパールへと運ぶのに用いた。
前面に透かし彫りの金具が、背面には厚い皮をうちつけ、箱を締めつける帯を通すのに用いた。貴重品の運搬に欠かせないこの革櫃は、チベット族の重要な生
活用具だった。
52 屋 根 飾 り 龍 ベトナム
53 木 彫 豊 作 祈 願 用 占 い 木 箱 フィリピン カリンガ族
54 石 灰 石 棺
フィリピン ミンダナオ島 8 世紀
空から見下ろすフィリピン海溝は、透き通るような青さに輝いている。その青さこそ珊瑚礁に囲まれた島の宝である。珊瑚礁を構成するサンゴ石灰岩は、沖縄
のみ
からインドネシアまでの海域ならば、無尽蔵に存在するので入手も容易だ。細かな孔があるので石より軽く、斧や鑿 での造形も安易だし仕上がりもよい。まず岩
に鉄の楔を打ちこんで、造形に必要な大きさに割る。目的にあわせて鑿で粗削りしたあと、工房に運んで仕上げにかかる。フィリピンにおけるサンゴ石灰岩の仕
よせむね
事は、古代に始まっている。この石棺もそのひとつで、長方形に切りだした岩をくり抜いて身と蓋に分け、身は上を広く底を狭くした。蓋は寄 棟 造りの屋根に
似た形に造る。軽くするためだろうか、全面に鑿で斜めに浅い溝が彫ってある。これが標準的な形式のように思われる。沖縄では死者を土葬して 3年たつと洗骨
し、厨子甕(ジーシーガミ)や石厨子(イシジーシ)に納める風習がある。古い王陵に納められるのは、およそ 15 世紀ごろから始まっている。石棺と甕棺のい
ずれが早いのかは定かではないが、ミンダナオ島では、前者はすでに 8世紀に行われている。南海との交流も深く、その生活文化を大いに受け入れた沖縄に、フ
ィリピンのサンゴ石灰岩製の棺に葬る習俗が渡来した可能性も考えられよう。
60 帛 画 異 父 兄 弟 闘 い の 図 インドネシア バリ・アガ族
インドに伝わる古代の二大叙事詩のうちの一つ、
「マハーバーラタ」の物語を題材にした絵である。バーラタ族の争いを描いたものだが、かたや 5 人の王子、
かたや 100人の王子、相互の闘いで多くの犠牲者が出た。遥か彼方のインド古代の物語だが、それをものの見事に換骨奪胎して、インドネシアの民族性豊かな絵
として完成させている。
大きな画面を深い樹木で埋め、遠くには火山と湖を配して舞台背景を構成し、左右に両軍の戦闘場面や後方陣地を描いている。両陣営ともに 2頭立ての 2輪馬
車 2両が向かい合い、さかんに弓を射て相手を攻撃し、すでに何人かは首や胸に矢を受けて絶命寸前の状況にある。彼らの服装や顔は完全にインドネシア化して
いる。本来は広い沃野での闘いなので、相当広いスペースが必要な筈だが、中央にこんもりとした森を描いたことで、両者の距離感を出したのはうまい表現法と
いえよう。西欧絵画の様式論では、アジアの絵の本質をつかむことはできない。こんな見事な絵を描いたインドネシアの民族造形は日本で紹介すべきだ。
58 新 年 祭 守 護 神 獅 子 ラオス
57 獅 子 ミャンマー
59 木 彫 仮 面 シ ン ガ ー ブータン
ネパールには多様な民族が住んでいる。山岳部にはチベット系の民族が多く、彼らは木彫りの面を造る。これは魔除けと力の神で、眉をつりあげ、目をむいて
口を大きくあけて、今にも喰いかからんばかりの恐ろしい形相の面だ。額には、きり殺した悪魔の骸骨をかかげている。
55 石 彫 鷁 ( ヒ ン ダ ) 像
ミャンマー
56 石 彫 龍 王 ( ナ ー ガ ) 像 ミャンマー
鷁と龍は対で、蠟石 を刻んでそれに安手の顔料で彩色をほどこしている。モン族伝統の象徴を子どもたちに教える。
中国には“鳳凰”という超越的な空想上の鳥がいる。つねに龍と組み合わせて、龍が男、鳳凰が女の象徴として王家の瑞兆や魔除けなどに、しばしば登場して
くる。その鳳凰は奈良時代にわが国に渡来し、染織・鏡・漆櫃や法隆寺金堂の天蓋などにも描かれるようになる。しかし平安時代に入って和風化が進むと、中国
的な表現を廃して、実在の尾長鳥や鶴へと変化していくのである。この鳳凰と龍の関係を東南アジアに求めても、あまり出てこない。これに相当するものがある
のだろうか。
20年ほど前、私はカレン族調査のためにタイ最北端の町メーホンソンを訪れた。メコンを渡りミャンマーと国境を接する地域に住むカレン族は、道なき道をか
きわけなければ到達できないほどの、山中に集落を営んでいた。近代化と隔絶したカレンの集落では、前近代化の暮らしぶりを、民宿させてもらいながら調査を
行い、衣食住や信仰などに大いなる収穫を得た。だが、その帰路に滞在したメーホンソンの雑貨屋で、10センチ足らずの小さな 2個の石製玩具を手に入れた。滑
石に似た白い石に、龍と鳥を刻んだものだが、店番をしていた少女に聞いたが、恥ずかしげに首を振るだけだった。こちらの龍は中国の龍が 2本角なのに 1本角
の蛟龍(みづち)である。ミャンマーに限らず、タイでも他の東南アジア地域でも 1 本角が多い。
その後、ミャンマーのパガンで漆器調査の折に、アーナンダー寺院の参道の店で、人形や玩具とともにこれと同じものを見つけた。老婆に聞くと「ヒンダとナ
げき
ーガ」だという。ナーガは蛇または龍だが、ヒンダは鷁 で空想上の鳥である。安っぽい顔料で彩色した石の白さを、土地の人たちは、胴体の白いアヒルが原型に
なっているからだろうという。モン族の国「ハンター・タイン」とは、ヒンダの国の意味である。いわばモン族の象徴する造形で、王家の紋章や旗印にもヒンダ
像が用いられていたわけである。この空想の鳥は 547 種のジャータカ(本生譚)に登場する、鳥のひとつに数えられていたという。前述のように、中国の鳳凰が
龍と一対をなしていると同じように、ミャンマーでは、鷁と蛟龍がモン族の守護神として、長く尊崇されていたことを示す。だが、その伝承がモン族支配の時代
に端を発していることを知る人は、もう少なくなっている。
私は学生時代にうけた平家物語の講義に登場した「龍頭鷁首の船」の源流がどこにあるのか、気がかりのひとつだった。それがこれとの出会いによって、謎が
解けてきた。平家物語より古い『紫式部日記絵詞』(国宝 藤田美術館蔵)の寛弘 5 年(1008)の項に、
かれもさこそ心をやりてあそ/ぶとみゆれど身はいとくるし
かんなりとおもひよそへらる 少将/のきみふみおこせ給へる返事/かくにしぐれのさとかきくらせば/つかひもいそぐ又そらのけし/きも心ちさはぎてなん
とてこ/しをれたる事やかきまぜ/たりけんくらうなりにたるに/たちかへりいたうかすみたるこぜ/んしに/くもりなくながむるそらもかき/くらし い
かにしのぶるしぐれなるらん/かきつらんこともおぼえず/ことはりの時雨のそらは雲まあれど/ながむるそでぞかくはくまもなき/あたらしくつくられたる
ふね/どもさしよせて御覧ず龍頭/鷁首のいけるかたたちおもひやら/れてあざやかにうるはし
(田中親美模本『日本絵巻大成』9 中央公論社)
の一文があり、その中に「龍頭鷁首」の文字がでてくる。その前段には衣冠束帯に身を包んだ藤原道長が、縁側に立って池をみている。一条天皇が、土御門邸(道
長邸)への行幸当日の朝、龍と鷁で豪華に飾った新造の船を下見する姿が描かれている。これが龍頭鷁首の船を描いた唯一の絵ではなかろうか。平安貴族は二隻
一対の御座船を池に浮かべて、楽師たちに管弦を奏でさせて楽しんだのである。このふたつの船首の像は、単なる装飾というよりは、極楽浄土への熱い願いが込
められていたのであろう。鷁は鵜に似た白い鳥で、風を切って大空を飛び、水にも自在に潜るという。いわば、超能力をもった存在として、龍とともに常に身近
におくことで、栄耀栄華を誇った藤原一族は安心立命を図ったのであろう。このようにわが古代文学作品に登場する飾り船の造形が、遥かなるミャンマーの地に
端を発してたのである。
61 ガ ル ー ダ インドネシア
62 木 彫 仮 面 ネパール
63 紙 塑 仮 面 ネパール
64 紙 塑 仮 面 ネパール
65 紙 塑 仮 面 ネパール
(総論 5 頁参照)
66 魔 除 け の 面 中国
白、赤、黄、緑の4色で描いた耳の長い怪物面である。目玉は外を黄色、中を赤で二重円を造る。鼻の下に白い歯6本をむきだし、両側に牙を外に向ける。頭
頂と目の両側と耳の上にも桃の実がつき、顎の桃は花びらが開いている。このように桃を使ったのは、桃が持つ呪力によって悪魔をよけるための面であろう。し
かしどことなくユーモラスな顔をしている。
67 紙 面 ネパール
68 操 り 人 形 ネパール
69 操 り 人 形 ネパール
70 水 上 操 り 人 形 龍 神 像 ベトナム
私たちになじみの深いヌオック・マム(魚醤)でもわかるように。ベトナム語では“水”を「ヌォック」
(Nuoc)という。その水に人形(ロイ=roi、正確には
コン・ロイヌォック)という。これはベトナムを代表する伝統芸能の一つで、神話や祖先や勇敢に戦った英雄の伝説を演劇化して見せたのがはじまりという。会
場は本来野外で、村の一角に掘った池の岸に祠(ディン=dinn)風の建物(Nha thuy dinh=水の祠)を造る。床はなく、天井から簾を垂らし、遣い手たちはそこ
に陣取り、外の様子を見ながら舞台の水面を凝視する。ベトナム戦争以降、村での演技は見られなくなってしまった。
これはハノイのタン・ロン(Than ron=昇竜)劇団で見たが、舞台の中央に水の祠を建て簾をはる。遣い手たちは多様な人形とともに控えている。前面には水
をはり舞台上手には囃子方が椅子に座り、銅鑼、鉦、胡弓、月琴などを奏でたり爆竹を鳴らす。
人形は 2~3 メートルの竿の先端に立て、竿の中に通した丈夫な麻紐や金属線で、人形の体や手や足や頭などを操作する。人形には多彩な色を塗ったり、衣服や
装身具や帽子や採りものを持たせるが、原則的に足は衣服で覆って見せない。時には馬や船に乗って登場する場合もある。
70 は火焔のごときたてがみをさかだて、口を開いて白歯をむき出して襲いかかろうとする龍神像である。インドで発生した蛇は水の神として東南アジアに伝播
し、中国では王の象徴として龍に生まれ変わった。人形遣いは水中に設置した操り棒を駆使し多様な場面に龍神を登場させる。
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木 彫 龍 神 面 中国
木 彫 龍 神 面 中国
老寿星 竹根面
74 チ ョ ウ 仮 面 ド ゥ ル ガ ー インド ベンガル
75 チ ョ ウ 仮 面 インド
76 チ ョ ウ 仮 面 「 夜 の 精 」 インド
人は自然の恵みを得て、安らかな日々を送ることができる。特に日月星辰はその根本で、幸不幸はすべて天の神々のなせるわざと考え、高い徳に感謝の意を表
し、深い祈りを捧げてきた。ここベンガルでは、きびしい自然条件のやわらぎを願い、それを舞踊劇に託してきた。創世記の時期は不明だが、とくに激しく乾き
きった大地は、水の恵みをうしはぐ太陽神への雨乞いのための舞踊劇として、古くから行われてきた。それが数世紀前からヒンドゥー教が取り入れられるに及ん
で、太陽神からシヴァ神信仰へと変容し、わが神仏習合思想と同じような現象がおこる。そのため今日では内容も「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」が主流
をしめる。
これはプルリアの「チョウ」
(サンスクリット語で“影”の意)仮面舞踊劇である。演じるのは、農民が主で、日ごろは作業に従事する、ムンダやブーミジやク
ルミ族が祭の日(ベンガル暦の大晦日)が近づくと嬉々として準備にとりかかる。踊り手はいずれも仮面をかぶり、頭には草花を鳥の羽根で形造った冠をかぶる。
金属製(ダムシャ)や、笛(シャナイ)の激しい伴奏に合わせて、大地も響けとばかりに、力強く飛び上がって勇壮に踊りまわる。それはもはや仮面を付けた人
ではなく、踊り手自身が降臨した神になりきっているようにさえ見える。舞踊が頂点に達したころ、歌い手が登場して、
「雨を恵みたまえ」と神への讃歌を声高ら
かに歌う。観衆の間からは踊り手が飛び出すたびに、大きな歓声があがる。
集落中総出で賑わう仮面舞踊劇の面造りは、スートラダールという専門の職人たちが乾燥する 2 月から 5 月の農閑期に行う。粘土型を造り、紙を水に浸してそ
れに貼りつける。さらに粘土を塗り、上に布裂を貼る。へらで目、鼻、口、耳をつけて顔面を造る。ほぼ一日陰干しし、型をはずし水に溶いた顔料で、顔の各部
分を描いて面は完成する。ガネーシャ(象頭神)像には長い鼻を付け、魔王ラーバナには顔の両側に、いくつもの顔を連続させる。強い力で悪魔(マヒシャース
ル)を倒す“ドゥルガ女神”は、ベンガル地方ではもっとも人気の高い神として崇められている。
「ラーマーヤナ」の勇将ハヌマンには赤猿の面が用いられる。
77 コ ー ン 仮 面 賢 人 パ ロ ッ ト タイ
78 コ ー ン 仮 面 ラ ー マ 王 子 タイ
タイのコーン仮面劇に用いるもので、インド渡来の「ラーマーヤナ」を、タイの王室により仏教的に翻案した「ラーマー・キエン」
(ラーマの栄光)上演の仮面
である。劇には善玉悪玉が登場するが、原則的に善には金箔を多く用いる。
「77 賢人パロット」は、劇の中で主な役割を担う猿に善悪を教えることと、この劇が無事に運ばれることを守る神でもある。朱と金色の冠を被り、耳の上には
賢者を示す葉状のものを付け、口には 2 本の犬歯がのぞく。「78 ラーマ王子」は長い王冠をかぶり、緑の顔は高貴な風貌を象徴する。
79 ジ ャ ガ ン ナ ー ト 面 インド
80 テ ィ モ ー ル 面 インドネシア
81 笙 ( ケ ー ン ) タイ
135、105、80、70 センチと 4本の竹を砲弾形に仕上げた木胎の響鳴胴に差しこみ、吹口を長く、実に大きく長い笙である。日本では座楽なので短く、アクセ
ントもつけやすいが、チェンマイ周辺の民族は踊りながら笙を吹くので、目の前が見えるように長く造る。笙は吹いても吸っても音が出るのが特色で、吹き込む
と通気孔があき、それを指でふさぐ。南中国から移動した民族が東南アジアにもたらし、ラオス、タイ、カンボジアの諸民族の間でさかんに使われ、それにあわ
せた舞踊も見られる。その代表的なモーラル(歌と軽妙な会話による笑いをさそう芸能)の伴奏には欠かせない、人気の高い民衆の楽器で、若者ならば誰もが容
易に演奏できる。
82
片面太鼓
インドネシア
ダヤク族