プロテスタントと正教の違い - 日本キリスト教団 都島教会

プロテスタントと正教会の違い
プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 と 正 教 会 の 違 い に つ い て お お ま か に 説 明 し た い 。こ れ は
西 方 教 会( ロ ー マ ン・カ ト リ ッ ク 教 会 と プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 )の 考 え 方 と 東
方正教会(オーソドックス・正統教会)の神学の違いでもある。この場合、
正 教 会 神 学 と は 教 父 神 学 で あ っ て 、 古 代 教 会 の 神 学 で も あ る 。 こ れ は 1000
年 間 キ リ ス ト 教 世 界 を 支 配 し て い た 考 え 方 で あ る 。こ れ は 違 う と か 、言 い す
ぎ だ と い う 方 も い る か も 知 れ な い が 、私 の 経 験・理 解 の 範 囲 内 で あ る こ と を
承知して欲しい。故に神学論文ではない。正教の中でも色々な解釈が ある 。
❶【原罪理解の違い・悪理解の違い】
◇プロテスタント…人間本性が悪である。人間は犯罪者である。
◇正教会…人間本性は悪ではない、習性が悪である。人間は意志の病
人である。
① .《 悪 と は 何 か ? 》
聖 デ ィ オ ニ シ オ ス ・ ア レ オ パ ギ テ ー ス は 『 神 名 論 』( 485∼ 531) の 中
で悪魔について次のように書いています。
・「 悪 と は 不 完 全 な 善 で あ る 。」
・
「 悪 と い う も の は 、悪 魔 に お い て も 我 々 の 魂 に お い て も 、悪 と し て 存
在 す る の で は な く 、そ れ ぞ れ に 固 有 の 善 の あ る べ き 完 全 な 状 態 が 欠 如 、
不 在 で あ る こ と に よ る の で あ る 。」
◇悪魔は本性から悪ではありません。神から、存在、知恵、意志、能
力、思考を既に与えられているからです。すべての存在物は、善なる
神から出、その善である存在自体をいただいているからです。善から
は善しか出ません。もし、悪魔が本質から悪なら、自分の存在も否定
しなければならないでしょう。世の存在者で、善に全く与らないよう
な者は存在しません。彼は《善》という状態に留まることが出来なく
なった者であり、神からせっかくいただいた《善》なる多くの賜物を
感謝できなかった者なのです。
悪魔は、自分の《善なる性質》を《否定》し、悪になりえない善なる
性 質 を 《 悪 》 に し つ づ け る と い う 《 強 情 者 》《 変 わ り 者 》 な の で す 。
何が不満だったのでしょうか?自分を生んでくれた者に敵対するとは。
何と悪魔とは人間に似ているのでしょう。実は逆で、神から離れた人
間が悪魔に似てゆくのです。
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● 『 悪 と は 存 在 で は な く 、 善 の 欠 如 し た 状 態 で あ る 。』
神の創造された物の中に《悪》はありませんでした。神は悪をお造り
にはなりませんでした。
ゆ え に 《 悪 》 と は 、《 存 在 》 で は な く 《 善 が 欠 如 し た 状 態 》 な の で す 。
肉体も善いものですが、悪の目的の為に使われると、悪になってしま
うのです。しかし、善の方向へ向きを変え、善の為に用いるならば、
本来の善の姿を回復するのです。
人間の中にある、すべてのものは『良いもの』です。神の恩恵によ
っ て 、自 分 の 中 に す で に 神 に よ っ て 与 え ら れ て い る 善 を 開 花 さ せ る か 、
悪にだまされて幻影を追い求め、利用されるかだけなのです。
●《罪》とは『的をはずす』という意味があり、神に生きる生き方に
背を向けて、神を必要としない生き方を選ぶことであり、生き方全体
が 罪 な の で す 。つ ま り 、
『 そ の 人 自 身 の 存 在 が 罪 な の で は な く 、そ の 人
の方向性の問題』なのです。
し か し 、プ ロ テ ス タ ン ト は 人 間 の 存 在 そ の も の を 悪 と し て し ま い ま す 。
だから生まれながら罪人であり、呪われており、堕落ということを強
調します。そうすると、自分の存在自体が悪であるかのような錯覚を
起こしてしまうのです。
② .《 罪 ・ 悪 は 人 間 本 性 の 外 か ら や っ て 来 た 。》
・
「 僕 た ち が 主 人 の と こ ろ に 来 て 言 っ た 。だ ん な 様 、畑 に は 良 い 種 を
お蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでし
ょ う 。 主 人 は 『 敵 の 仕 業 だ 』 と 言 っ た 。」( マ タ イ 13: 27)
・ 「 神 は お 造 り に な っ た す べ て の も の を 御 覧 に な っ た 。見 よ 、そ れ
は 極 め て 良 か っ た 。」( 創 世 記 1: 31)
「善の本性は悪の本性よりも一層強力なものです。善は確かに存在し
ますが、悪はそれに反して、存在しないか、仮に存在するとしてもそ
れ が 為 さ れ た 瞬 間 に し か す ぎ ま せ ん 。」( フ ォ ー テ ィ ケ ー の デ イ ア ド ゴ ス )
悪は意思によってこの世界に入り込んできました。悪は《人間本性》
ではなく、
《 人 間 の 習 性 》で す 。神 は 人 間 を 善 な る も の と し て 創 造 さ れ
たからです。人間が自然に悪に変化していったとするなら、神の創造
は失敗であり、神は悪を創造されたことになります。悪は人間の外か
らやって来たのであって、人間の内から生まれたのではありません。
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悪はそれ自体としては存在しないものです。悪が現実のものとなるた
めには、人間の意志が悪を選んでくれなければ存在できません。この
意 志 こ そ 、悪 の 唯 一 の 棲 家 で あ り 、悪 に 対 し て 一 定 の 存 在 を 与 え ま す 。
人間は本来、神を知り、神を愛するようにできていたのですから、人
間が自分の意思によって実在しない善・幻影に向かって行ったとする
なら、外部からの影響によってでしか説明できません。この外部から
の 影 響 と い う の は 、人 間 の 意 志 と は《 別 の 意 志 に よ る 説 得 》で あ っ て 、
人間はこの意志に服従してしまったのです。この外から来た意志を持
つ、霊的な存在を悪魔といいます。
罪とは《意志の病である》と教父たちは言っている。意志はこの病に
よって善の幻影を善と取り違えて誤るのです。悪魔は、人間の意志を
狂わせ、この世・偶像・幻影を選ばせるのです。
アダムは罪の言い訳をして『すべての責任は他人と、神にある』とい
い ま し た 。彼 は 自 分 の 意 思 か ら 悪 が 生 ま れ た こ と を 認 め ま せ ん で し た 。
強情になり、神の恵みが入らないように、自分の内に壁を造ってしま
ったのです。罪は、人間の自由意思によって現われる。
③ .《 原 罪 と は 何 か ? 》
原罪とはアダムが自由意志をもって神の戒めを犯し、神の法に背き、
人間の目的と本分に違反したことをいいます。教父たちは、原罪とは
人間を神から離れさせた《自由意志の決定》であると言っています。
原罪は、生物学的な遺伝はないといわれています。なぜなら個人の自
由意志は遺伝しないからです。アダムの罪の結果この世は、悪魔と死
と呪いの支配下になっています。そこに生まれてくる全ての人間は、
罪を教育され、自分の自由意思をもってアダムとは違う違反を神に対
して犯すという《人間の避けられない状態を原罪》といいます。
◆「私たちの罪が先祖の原罪なるものに起因するとすれば、私たちの
罪は親からの遺伝で受け継いだ病気のようなものとなり、私たちが自
分の遺伝病に対して責任を持ち得ないし、また持つ理由もなく、私た
ちはむしろ被害者の立場に立つように、罪についても私たちはそのた
め に 責 め ら れ る い わ れ が な い こ と に な り ま す 。」
( 吉 村 善 夫 『 原 罪 に つ い て 』)
◆「アダムの原罪なるものも、私たちの罪の歴史的起源を物語るので
はなく、私たちの存在の根源にある罪を指すものと解釈されます。い
わゆる宿罪なるものも、先祖から遺伝した罪のことではなく、私たち
の個々の罪行、すなわち私たちの存在の根源にある罪から必然的に生
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じ る の だ と い う こ と を 意 味 す る 言 葉 だ と 解 釈 さ れ ま す 。」
( 吉 村 善 夫 『 原 罪 に つ い て 』, 日 本 の 神 学 № 14)
◆「『 原 罪 』と は 、決 し て 歴 史 の 起 源 に お い て な さ れ た 個 人 的 で 原 初 的
な自由行為が、その倫理的な質を後世に伝えるということを言うもの
ではない。いわゆるアダムという個人、もしくは人間集団がなした行
為が、我々にもその結果を及ぼし、いわば生物学的に我々に継承され
るという、そのような思想は、原罪に関するキリスト教の教義と全く
関係がない。…原初的な自由行為における個人的罪過は決して他人に
転嫁されるものではない。…それは一個人の主体の自由が、自由とし
て 他 人 に 転 嫁 さ れ な い の と 同 様 で あ る 。」
( カ ー ル ・ ラ ー ナ ー 『 キ リ ス ト 教 と は 何 か 』 P.147、 148)
・ 「 罪 を 犯 し た 本 人 が 死 ぬ の で あ っ て 、子 は 父 の 罪 を 負 わ ず 、父 も
ま た 子 の 罪 を 負 う こ と は 無 い 。正 し い 人 の 正 し さ は そ の 人 だ け の
も の で あ り 、悪 人 の 悪 も そ の 人 だ け の も の で あ る 。」
(エゼキエル
18: 20)
・ 「『 先 祖 が 酢 い ぶ ど う を 食 べ れ ば 子 孫 の 歯 が 浮 く 』 … お 前 た ち は
イスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはな
い 。」( エ ゼ キ エ ル 18: 2∼ 3 )
・ 「 こ の 人 が 生 ま れ つ き 目 が 見 え な い の は 、誰 が 罪 を 犯 し た か ら で
す か 。本 人 で す か 。そ れ と も 両 親 で す か 。イ エ ス は お 答 え に な っ
た 。『 本 人 が 罪 を 犯 し た か ら で も 、 両 親 が 罪 を 犯 し た か ら で も な
い 。神 の 業 が こ の 人 に 現 わ れ る た め で あ る 。』」
( ヨ ハ ネ 9:2∼ 3 )
●プロテスタント教会は、罪を生物学的遺伝であると考えている傾向
が強い。罪がどうしてもやめられない理由を生物学的遺伝として考え
肉体に問題があると思ってしまう。その結果、生まれながらにして人
間は罪をもって生まれており、自分自身の存在や肉体を悪と考える傾
向にある。しかし、正教会は人間の存在や肉体を善と考える。罪も遺
伝ではなく、個人の自由意志であると考える。プロテスタント教会は
《性悪説》だが、正教会は《性善説》である。悪いのは、人間の肉体
ではなく、血液でもなく、存在でもなく、方向性なのである。プロテ
スタント教会のように《性悪説》を取ると、カルト宗教がそれを利用
して悪魔的教理を作ってしまう。統一協会は、悪魔の血を引いている
ので、神の血に血統転換しなければならないという。先祖からの罪や
呪いが因縁として自分の上に覆い被さってくると思っている日本のよ
う な 仏 教 、 神 道 の 世 界 だ と 、《 性 悪 説 》 が ぴ っ た り 入 っ て し ま う の だ 。
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④ .《 罪 は 人 間 本 性 に 無 秩 序 を 与 え る 》
罪 は 人 間 を《 無 秩 序 》
《 不 調 和 》に し ま す 。罪 に よ っ て 人 間 は 、自 分
の能力をコントロールする力を失ってしまいました。見ないでよい物
を見てしま、愛してはならない者を愛してしまうのです。感情、創造
力、知性、意志、感覚、情欲が獣のように勝手に動いてしまい、自分
で も ど う す る こ と も で き ま せ ん 。キ リ ス ト は 、こ ん な 人 間 を《 再 統 合 》
す る た め に 来 ま し た 。人 間 に《 調 和 》
《ハーモニー》
《平和》
《 秩 序 》を
与 え ま す 。貪 欲 か ら 、偶 像 礼 拝 か ら の 自 由 を 与 え ま す 。神 は 完 全 な《 調
和 》《 秩 序 》 で あ っ て 《 美 》 し い 。 調 和 の あ る も の は 美 し い か ら で す 。
私たちの意志を神に向けるならば、調和が生まれて来ます。人間だけ
が《美しい》と感じることができる動物です。人間の罪によって、人
間自身の秩序が乱れ、自然界の秩序も乱れました。自分を回復するこ
とは、世界、自然界を回復することなのです。
「 被 造 物 は 、 神 の 子 た ち の 現 れ る の を 切 に 待 ち 望 ん で い ま す 。」
( ロ ー マ 8: 19)
❷【人間理解の違い】
① .《 人 間 は 神 の 像 と 似 姿 で あ る こ と 。》
聖書を通して私たちに啓示された「人間」とは、
・「 我 々 に か た ど り 、 我 々 に 似 せ て 、 人 を 造 ろ う 。」( 創 世 記 1: 26)
(エイコーン)
・
「 御 子 は 、見 え な い 神 の 姿 で あ り 、す べ て の も の が 造 ら れ る 前 に 生 ま
れ た 方 で す 。」
(エイコーン)
( コ ロ サ イ 1: 15)
キリストこそ神の完全な《像》であり、そのキリストに《似せて》人
間 は 創 造 さ れ ま し た 。そ の キ リ ス ト か ら 離 れ た の で 、
《 神 の 似 姿 》は 失
われてしまい、
《 悪 魔 の 似 姿 》に な っ て し ま い ま し た 。し か し《 神 の 像 》
は失われてはいなせん。
《 神 の 像 》と は 、人 間 の 構 造 論 的 な も の で 、ど
ん な に 罪 が 人 を 麻 痺 さ せ て も 失 わ れ な い も の な の で す 。し か し《 似 姿 》
は恵みであって、失われたり、成長したりします。
洗 礼 の 時 、失 っ た《 神 の 似 姿 》を《 胚 》の 形 で 聖 霊 に よ っ て 受 け ま す 。
成長するにつれて輝きは増し、背丈も伸び、活気に満ちてきます。し
かし、絶えず神に向かって進まず、故意に神に背を向けて神の命(=
キ リ ス ト = 生 命 の 木 )か ら 離 れ て 死 に 向 か っ て 行 く な ら ば 、
《神の似姿》
の輝きは失われ、霊的に鈍くなって干からび、消滅してしまいます。
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この死は霊的な死を意味しています。しかし、それでも《神の像》は
失われていません。それは《資本金》のようなものであって《神の似
姿》を成長させてゆく為に、神によって備えられた賜物・恵みだから
です。人間が悔い改めて、再び神に向かって生き始めるならば、聖霊
の助けによってそれを成長させることができるのです。
●《 神 の 像 と は 》-自 由 意 志・ 知 性・ 良 心 ・理 性・ 自 己 応 答 能 力・精 神
性 。心 と 身 体 全 体 = 人 間 。神 と 交 わ る 力・支 配 能 力 。
●「 人 間 と い う 名 は 心 と 身 体 に 別 々 に あ て は め ら れ て い る の で は な く 、
その両者に共に語られるのです。この二つは共に神の像に似せて造ら
れ た か ら で す 。」( グ レ ゴ リ オ ス ・ パ ラ マ ス − 14 世 紀 − )
●「神の言は新しく創造された地の一片をとって自分の不死の手によ
り私たちの形象を形造り、それに生命を与えました。彼が吹き込んだ
霊は見えざる神性の噴出でした。こうして塵と息吹とから不死なる者
の似姿としての人間が創られたのです。…このように、私は一方で大
地の性質をもつ者としてこの地上の生につながれていますが、また他
方 で 神 の か た わ れ と し て 永 世 の 希 望 を 胸 に 抱 い て い る の で す 。」
(ナジアンゾスのグレゴリオス)
●「こころは神の息吹であり、天上的なものでありながらも地と混合
されたままにされています。それは洞窟に閉じ込められた光です。し
か し そ れ は 消 え る こ と の な い 神 的 な 光 な の で す 。」( 〃 − 4 世 紀 − )
●「 土 か ら 取 ら れ た 者 は 、こ の『 息 』を 受 け 取 ら な か っ た の で あ れ ば 、
至 と 高 き 方 の 像 と み な さ れ る こ と は あ り え な か っ た で あ ろ う 。」
(アレキサンドリアのキュリロス)
人 間 は 神 と の 一 致 に 達 す る た め に 、そ の 息 吹 と 共 に 、
『 神 性 の 断 片 』す
なわち恩恵をその創造の初めからその心に吹き込まれていました。
神が人間を造られた時、体と魂だけで造ったのではなく、人間をこの
神の生命、つまり神の霊へと向かわせました。聖霊が住まわない人間
は、出来損ないというのではなく、まだその人が完全な人間本性に従
って生きていないということ、人間本性が完全に開花していないとい
うことなのです。魂は神と一体になり生かされ、心は魂によって養わ
れて満足し、満足した心によって身体は生かされるはずでした。しか
し神から離れた魂は、身体を道具として、この世の物を貪欲に追い求
め 、心 の 平 安 を 得 よ う と し た の で す 。そ の 結 果 、
『 肉 体 』は 疲 れ 果 て て
浪費されてしまい、絶えず物が無ければ満足しないような、物質の奴
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隷(偶像崇拝)となってしまい、それでも完全な平安も満足も得られ
ない状態にいるのです。なぜならこの世の物は一時的な物であり、永
遠ではなく、移り変る性質をもち、消え去って行くからです。永遠な
平安は、永遠者である方からしか来ません。完全な愛は完全者である
方からしか来ないからです。こういうわけで、神と一体にならない
限り、人間には完全な平安も安息も静けさも満足も来ないといったの
です。
② .《 三 位 一 体 と 人 間 の 本 性 と ペ ル ソ ナ の 関 係 》
人間が三位一体の神の像であるということは、三位一体の神的生命の
秩序を人間性のうちに再現することとなるのです。
(ペルソナ・個)
父なる神
子なる神
聖霊なる神
Aという人
Bという人
Cという人
(本性)
同質なる神性
同質なる人間性
(神キリストの似姿を持つ)
●「キリスト教とは神の本性のまねびにほかならない」
(ニュッサのグレゴリオス)
人間が神から離れた時、神の似姿が失われ、人間本性はコントロール
が失われ、無秩序状態になり、自分のためだけに生きるようになった
個人は、自分中心になってバラバラになりました。故に、人間性を回
復するには、キリストと一体になって失われた似姿を回復し、キリス
トと同質の人間本性を得て各個人は聖霊によって賜物が生かされ、互
いに愛によって一つになる道が備えられたのです。
③ .《 男 女 の 性 に つ い て 》
・
「 復 活 の 時 に は め と る こ と も 嫁 ぐ こ と も な く 、天 使 の よ う に な る の だ 」
(マタイ22:30)
男女という性は、神の像と何の関係もなく、人間の堕落を予知された
神によって用意されたものです。神様には、男の神様、女の神様とい
うものはないからです。もしあったとするなら、男は女ではないこと
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の故に不完全であり女は男ではないことの故に不完全となり、神では
なくなってしまいます。神は常に完全だからです。
結婚とは、男女が一体となる儀式です。神は、男女を、あえて不足す
る者、限界ある弱い者として創造なさいました。それによって男女が
互いに求め合い引き合い一つになるためです。人間が罪によって自己
中 心 に な り 、分 裂 し 一 致 で き な く な る こ と を あ ら か じ め 見 越 し た 神 は 、
一致の手段として男女を創造されたのです。従って、復活の時、人は
め と る こ と も 嫁 ぐ こ と も な く 天 使 の よ う に な り ま す( マ タ イ 22:30)。
事実、幼児にはほとんど性の区別がなく、老人になると性の区別がな
くなってきます。性はこの世での《働き》のために与えられているも
のなのです。
④ .《 人 間 に は 二 つ の 自 由 意 志 が あ る こ と 》
神は一つの人格的存在(ペルソナ・個)としての人間に語りかけ、人
間は神に応答します。人間は神と一体になるように招かれますが、こ
の招きは強制ではありません。それは人間の自由意志に対して呼びか
けられるもので、人間は神の意志を受け容れることも、斥けることも
できます。人間は善を選択しようが、悪を選択しようが、神の似姿を
実現しようが、神と似ても似つかぬ姿になろうが、なお自由を持って
います。神の像に創造されているからです。
意思
本性的に目ざす善の欲求
人間本性共通(人間全体)
本性的意思
個人個人の自由意思
ペルソナ(個人)
自由意志
全ての人間本性は、善を要求しますが、ペルソナ(個人)が善の要求
を受け入れたり、拒絶したりします。我々の自由意志は、罪の毒によ
って麻痺し、歪められ、堕落した自由意志となってしまいました。罪
のために暗雲に覆われたように鈍くなり、真の善を知ることもなくし
ばしば「本性に反する」ことを選び、望んでしまいます。迷うことが
すでに病に侵されているしるしなのです。
人間は完全なものとして創造されましたが、それは最初から、目的
を遂げていたとか、神と一体であったということではありません。人
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間が神の恵みを自分の内に取り入れ、浸透させて成長する力、神と交
流する力が与えられていたということです。種は、これから出て成長
するであろう芽、茎、葉のひな型である胚をそのうちに完全な形でも
っています。これと同じです。故に、人間がますます神と交わること
ができるようになり、神のことが分かり、神からの恵みを自分のもの
としていけるようになった時、その人は本来の人間本性の状態に帰っ
て来ているのだという徴になります。
◆プロテスタント教会は、人間の罪を強調するあまり、人間は罪を犯
し堕落したので完全に、恵みを失い、神の像を失い、善を求める意思
もなくなったという考えが強い。しかし、正教は《似姿》は失われた
が《神の像・断片》は失われていないし、善を求める本性的意思も失
われていないとする。もし失われたのなら、罪の呵責や矛盾というも
のは起こらないであろう。二つの意思がぶつかりあうので矛盾を感じ
るのだ。正教は人間を信者だろうと未信者だろうと、健常者だろうと
障害者だろうと《神の像》として尊重し、尊敬する。
◆また、プロテスタント教会は男女の性というものが来世まで続くと
誤解しており、性同一性障害者を罪人扱いする。しかし正教会は、性
は救いのための一手段にしかすぎないと考えているのではないか。
❸【天国理解の違い】
・天国と地獄を右と左(又は上と下)に分けて考える。
新
・天国も地獄も来世にあると思っている傾向が強い。
教
正
教
・天 国 と 地 獄 を 右 と 左( 又 は 上 と 下 )に 分 け て 考 え る こ と も す る
が、地獄の回りに天国が覆っていると考えている。
・天国も地獄もこの世から始まっており、来世で完成する。
《プロテスタント》
《正教会》
天
キリスト
地
獄
天
国
国
地
獄
神は、世の初めには天国しか作らなかった。神は、地獄をお造りには
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ならなかった。地獄は人間が造ったのである。死の世界、闇の世界、
恵みのない世界、神のいない世界を地獄という。神は死をもお造りに
はならなかった。それは、人間が命の源である神から離れたので、出
来上がった状態なのである。つまり、地獄とは神から離れた世界の状
態なのである。神は、人間が自らの意志をもって神から離れ、死の世
界・地獄を造ることを予め知っておられた。それなのに人間を創造さ
れたのは、地獄の回りにすでに初めから神の愛の世界、天国が覆って
いるのである。
( 卵 の 白 身 の よ う に )ア ダ ム が 神 か ら 離 れ 、自 ら 閉 じ こ
もることによって、彼は自分の内に地獄を作り、地獄の中にとどまっ
ているのである。この罪・死・闇・悪魔(嘘・虚像)の世界にキリス
トはやってきたのである。それは、地獄を天国に、闇を光に、死を命
のあふれる国に変えるためである。そしてキリストは教会の姿で世の
終わりまで共におられるのだから、
《 こ の 世 が 天 国 》な の で あ る 。正 教
では、天国と地獄を分けて考えないのである。
・ 「 神 の 国 は 、見 え る 形 で は 来 な い 。こ こ に あ る 。あ そ こ に あ る と い
う も の で は な い 。 実 に 神 の 国 は あ な た が た の 間 に あ る の で あ る 。」
( ル カ 17: 20)
❹【贖罪理解の違い】
新
教
正
教
・神と人間との対立構造。人間は自分の罪という借金をキリストとい
う犠牲によって支払った。悪いのは人間である。
・キリストはあくまでも、人間側からの供え物。犠牲である。
・罪が赦されるかどうかが中心課題である。法律的である。
・信じれば赦される。
・神と悪魔との対立構造。人間は悪魔に騙されたのであって、人間は
悪魔の支配下に入っている。神は悪魔を滅ぼして人間を解放した。
・キリストはあくまでも神として悪魔と戦う。贖罪の業は三位一体の
神の業である。
・罪と死と悪の滅びが中心課題である。
・キリストと一体になることによって命・赦し・天国をいただく。
《プロテスタント》
プロテスタント教会の贖罪論では悪魔が登場しない。神と人間との対
立構造が中心である。勢い、悪いのは人間であって、人間は自分の違
反という責任を迫られ、罪が赦されるかどうかがいつも論点となる。
キリストはあくまでも、人間側からの供え物。犠牲であり神として捕
らえられていない。贖罪は三位一体の神の業ではなくなっている。罪
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は借金のようなものであり、キリストが自らの命を献げて供え物・身
代金となり、人の罪の借金を支払った。そこで人は神に罪が赦される
というのである。これをアンセルムスの《満足説・客観説》という。
こ れ は ラ テ ン 型 贖 罪 論 で あ り 、プ ロ テ ス タ ン ト は ほ と ん ど こ れ で あ る 。
罪の赦し
✝
神
人
間
人間イエスの犠牲。
イエスは人間側から
の供え物。
《正教会》
正教会では、悪魔が登場する。一番悪いのは悪魔であって、彼は不法
にも神のものである人間に手を出し、人間を奪ったのである。故に人
間は悪魔に騙されたのであって、むしろ被害者である。対立構造は三
位一体の神と悪魔との戦いとなる。神父は、神子をこの世に遣わし、
悪魔と対決をさせる。悪魔はキリストを殺すが、彼は三日目に復活し
て、死を滅ぼし、地獄に降り、死者を解放し、地獄を滅ぼし、光の国
としてしまった。キリストはこの世を悪魔の支配下から奪い、ご自分
の支配下に置かれた。悪魔・罪・死の支配下にあった人間は、キリス
トの分捕り品となり、キリストは人に赦しと永遠の命を与える。これ
が《 勝 利 者 キ リ ス ト 》と い う 贖 罪 論 で あ り 、キ リ ス ト 教 会 を 1000 年 間
支配していた贖罪論である。
神キリストの戦い
神
✝
悪
魔
支配
解放
神の生命を与える
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被造物世界
人間
① 《 救 い と は 何 か 。》
《正教会》
正教会は、救いとは完全に《キリストと一体になること》である。な
ぜならは、滅びとは《神からの分離》であり、救いとは《神と一体に
なること》だからである。命の源泉である神から離れることが、死な
のである。キリストがこの世と人を救うために取られた手段は、この
世と人を受け取られて《ご自分の中で一体化する》ことによってその
《性質を変えられる》という方法だった。正教会はすべてにわたって
この考え方を適応している。
○ 神と人が一体になる。 …受肉によって人間性に神性を与え、人間と
神の間にあったあらゆる障害をご自分の内で、一つにされる。
○ キリストが洗礼を受ける。 …水を聖別し、水の中で葬りと誕生を与
える洗礼を制定される。
○ キリストが十字架にかかり苦しみを受ける。…苦しみに意味を与え
る。
この世のカルト宗教、民間信心、イデオロギーは苦しみからの解放を
約束するが、キリスト教はそうではない。主は、この世から苦しみが
無くなるために来たのではない。苦しみは堕落したこの世では取り除
くことはできない。しかし、主は苦しみを担われることによってその
意味を《変容》したのである。群衆はキリストが奇跡と癒しを与え、
苦しみを取り除くことを求めた。しかし、主が《苦しみと死を通過し
て復活に至った》ならば、私たちも主が通った同じ細い道を通らなけ
れば復活にいたることは出来ない。主が苦しまないで復活したなら、
私たちも苦しまないで復活するだろう。しかし、メシアが通った道を
通る以外、救いはないのである。しかし、苦しみはキリストと一体に
なって共に歩むのである。
○ キリストが自分を献げる。 …自分の体と共に、全被造物を父なる神
に献げることをもって、全被造物を清められる。
○ キリストが死を受け取られる。 …死を復活への入門とする。
○キリストと一体となる洗礼や聖体の祭儀(聖餐)というサクラメン
トにより、またキリストの体である教会から離れないことにより、聖
書(神の言葉)から離れないことにより人に命と救いと神化が与えら
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れる。正教会には《義認》や《聖化》といった区別はないし、そうい
っ た 救 い を 分 離 、分 割 し た り 、段 階 、評 価 を つ け た り し な い の で あ る 。
「 こ う な れ ば 義 と 認 め ら れ 、こ う な れ ば 聖 め ら れ た 、異 言 が 語 れ た ら 、
奇跡が行えたら、これが出来れば救われている」というものはないの
であり、また作ってもいけないのである。
洗礼は、
《 義 》と《 聖 》の 始 ま り で あ り 、聖 体 の 祭 儀 に よ り 、絶 え ず《 義 》
と《聖》が与えられる。キリストから離れれば、再び《義》も《聖》
も失うだけなのである。なぜなら《義》も《聖》もすべて神だけのも
の で あ っ て 人 間 の 内 に は《 義 》も《 聖 》も な い 。人 は《 神 の 義 》と《 神
の聖性》をいただくのである。聖霊の働きによってキリストとの一致
が深くなればなるほど《義》も《聖》も深くなるだけなのである。救
いというのは《存在》なのではなくて《状態》なのである。
◆「人間は神から本性、罪、死という三重の障害によって離れ去った
のです。しかし主キリストによってこれらの障害は次々と除去されま
した。この除去のおかげで人間は神を十全に所有し、直接神と一致す
ることができるようになったのです。なぜなら主は受肉によって人間
性の障害を、その死によって罪の障害を、復活によって死の障害をそ
れ ぞ れ 除 去 し た か ら で す 。」( 14 世 紀 ニ コ ラ ス ・ カ バ シ ラ ス )
◆「 実 に 、キ リ ス ト に 受 け 取 ら れ な か っ た も の は 癒 さ れ な い 。し か し 、
神と一つに結ばれたものは救われる。アダムの半分だけが罪を犯した
のであれば、その半分がキリストに受け取られ、救われたであろう。
しかし、全体として罪を犯したのであれば、全体が生まれた方全体に
一 つ に 結 ば れ 、 全 体 的 に 救 わ れ る こ と に な る 。」
(ナジアンゾスのグレゴリオス『クレドニオスへの第一の手紙』より)
◆「何のために彼は降って来られたのか。…彼は罪を滅ぼし、死を征
服 し 、 人 間 に 生 命 を 与 え る た め に 。」( エ イ レ ナ イ オ ス )
◆「神の御子は、人間を永遠の死から救うために人間になられたので
ある。…彼は今までと同じもの(神性)としてとどまりつつ、しかも
同時に、今までなかったもの(人間性)をまとい、神である御父と等
しい姿に僕の姿を合わせられた。彼はこの二つの本性を一致させるに
あたって、光栄がより低いもの(人間性)を消し尽くさず、また受肉
がより高いもの(神性)を低めないようにされた。従って神性と人間
性の実体はそのまま完全に残り、一つのペルソナの内に体合するので
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ある。尊厳が卑しさをとり、力が弱さを、永遠性が可死性をとるので
ある。われわれ人類の負債を支払うために、犯しえない神性が、苦し
みうる人間性と一致したのである。つまり、真の神、真の人は唯一の
主において合致したのである。こうしてはじめてわれわれの救済に相
応しいことが行われるようになった。すなわち、神と人との唯一無二
の仲介者が、人間であるからこそ死ぬことができ、神であるからこそ
復活することができるようになったのである。…もし彼が真の神でな
かったならば、彼は我々に救いをもたらすことはできなかったであろ
う。もし彼が人でなかったならば、われわれの模範となることはでき
な か っ た で あ ろ う 。」( ロ ー マ の 聖 大 レ オ )
神キリスト
人 間 性・罪・死
父なる神
この世
神との一致 が救い ・接木
《正教会》
人間救済の業は、父と御子キリストと聖霊=神ご自身によって遂行さ
れる。キリストは、悪魔・罪・死の支配を終わらせ、人間をそれらの
統 治 か ら 解 放 す る こ と に よ っ て 、神 の 国 を 完 成 さ せ る《 創 造 の 再 統 合 》
=創造の回復と完成を目的としたものである。正教は、罪と死と悪魔
を分離して考えない。罪のあるところに同時に死があり、死のあると
ころに罪もある。
《プロテスタント》
プロテスタントは、救いとは《キリストを信じること》である。これ
は《 神 の 業 よ り も 、人 間 の 信 仰 心 と い う 業 》に 重 点 を 置 く 。だ か ら「 信
じれば救われ、信じなければ救われない」となる。こうなってくると
信じられない者たちを滅びると決めつけることになり、責め、裁くよ
うになる。自分自身も信じられない自分を自分が責めてしまうという
ことになる。信仰というものが非常に《人間の感情》に左右されるこ
ととなる。
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❺【三位一体理解の違い】
新
教
正
教
・三位一体を正しく礼拝できない。プロテスタントの中には、知らな
いで異端の信仰をしている者もいる。バランスが失われている。
・ユ ダ ヤ 教 的 で あ り 、父 の み を 強 調 す る 。
「 父 な る 神 」と 祈 る 傾 向 が 強
い 。《 三 一 神 信 仰 》 で は な く 《 唯 一 神 信 仰 》 で あ る 。
・キリストの神性より人間性を強調する。バランスが失われている。
・聖霊に関しても単なる上からの力であると思っている。
・父と子と聖霊の働きがバラバラである。
・オーソドックスとはオルソス(正しく)とドクサ(栄光・讃美)か
らなっている。三位一体を正しく讃美する教会という意味である。
・父と子と聖霊を決して分離しない。三位一体がしっかりしている。
・キリストの神性と人間性のバランスが取れている。
◆「この方は、かつては人間でなく、神であり御子、代々に先立って
存在された方のみであられ、肉体及び肉体的なものと混在することは
なかったが、終わりの時に、人間ともなられ、私どもの救いのために
人間を受け取られ、肉体によって苦しみうる者、神性によっては苦し
みえない者、肉体によって限定された者、霊によっては限定されざる
者、同時に地上の者かつまた天上の者、見える者であり精神によって
のみ捉えうる者、把握しうる者であり把握しえぬ者となられた。それ
は、同時に完全な人間であり神であるこの方によって、罪のために堕
落 し た 人 間 が 再 創 造 さ れ る た め で あ る 。」
ナジアンゾスのグレゴリオス『クレドニオスへの第一の手紙』より
◆「彼は鉄(人間性)として切り、火(神性)として焼く。…キリス
トは人間性によってラザロを甦らせたのではありません。また神性に
よ っ て そ の 墓 の 前 で 涙 を 流 し た の で も あ り ま せ ん 。」
(ダマスコの聖ヨハネ)
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❻【権威をどこに置いているか】
新
教
・権威は聖書にのみあり、従って聖書を上手く語れる牧師、魅力のあ
る牧師、指導力のある牧師に権威が集中する。
正
教
・権威は教会にあり、聖礼典(サクラメント)にあり、聖書にあり、
聖伝承(教会会議規則)にある。
❼【プロテスタントの信仰三原則の間違い】
新
教
・信仰のみ。
・聖書のみ。
・恵みのみ。
正
教
・信仰と行いのバランス。
・聖書と教会(聖伝承)のバランス。
・恵みと自由意志のバランス。
《プロテスタント》
結 局 カ ト リ ッ ク 教 会 へ の 反 動 か ら 出 た も の は 、反 動 に す ぎ な い の で バ ラ ン ス が 失 わ
れている。それでいて、カトリックを認めたらプロテスタントではなくなるので、
自 分 を 保 持 す る た め に も 、自 分 た ち の 教 理 が 正 し い こ と を 極 端 に 強 調 す る 。そ れ が
バ ラ ン ス の 悪 さ に な っ て い る 。偏 っ た 信 仰 で あ る 。食 べ 物 で も 偏 食 を し た ら 病 気 に
なる。信仰も同じなのである。
聖書のみ
・ 聖書のみにしてしまったので人の頭の数ほどあ
る聖書解釈が生まれ、教派が数え切れないほど
生まれた。そこから異端も再び生まれ、教父時
代の無秩序に帰ってしまっている。
・ 聖書を聖典化したのは教会であり(福音書だけで
も 10 位 あ っ た )、 様 々 な 解 釈 を 、 教 会 会 議 を 開 い
て信条という形でまとめたのも教会なのであ
る。教会に権威があることを忘れてしまい、個
人の信仰が強調され、教会に従わないわがまま
な信者が生まれた。
・ 聖書は教会から離れて読んではならず、教会は
聖書によって自らを規制するのである。このバ
ランスが大事である。
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恵みのみ
信仰のみ
・ 神の恵みだけで人は救われるとするならば、
救いというものは最初から決まっていること
になってしまう。人間の側の応答(意志)が
あって初めて救いは完成する。
・ 間違った予定論が生まれてしまった。救いと
選びとは違うのである。選ばれるのは神の務
めをするためである。神は全てを予知してお
られるが故に、予定される。
・ 信仰のみにしてしまうと、肉体というものが
軽視されてしまった。信仰を心の問題、精神
論にすり替えられてしまい、礼拝が講演会・
勉強会のようなスタイルになり、体を参加さ
せる動作がなくなった。礼拝堂も講演会場の
ようになった。知的なこと、精神論的なこと
が良いことであって、肉体を修道するという
ことがなくなってしまった。
・ 信仰を知的なことだとするなら知的障害者、
認知症の方は救われないことになってしま
う。また幼児には理解する力がないものとし
て幼児洗礼を授けなくなった。
・ 修道というとすぐに《行い》というアレルギ
ーがある。一種のマインドコントロールであ
り《霊肉二元論》になってしまっている。
・ また、復活も霊的に復活することと思ってお
り、仏教の霊魂不滅論と重なって理解してい
る。肉の復活ということを軽視している。
・ しかし、信仰のみと言っていながら、実際は
そうではなく、非常に熱心な頑張り信仰が生
まれた。それは信仰=自分の感情になってお
り、自分の感情ほど不安定なものはなく、ど
うしても不安になるので、結果を出すこと、
業績に頼ろうとするのである。
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《正教会》すべてはバランスである。
信
仰
行
い
恵
み
自由意志
教会の中には、
《使徒伝承》
《礼
拝》
《信条》
《 信 仰 習 慣 》も 含 ま
聖
書
教
会
れ て い る 。文 字 で 書 か れ て い な
くても現実に伝えられてきた
ものもあるのだ。
❽【教会観の間違い】…作成中
新
教
・
正
教
・
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