戦後における職務給導入から職能給への変遷過程の分析 制度補完性の

戦後における職務給導入から職能給への変遷過程の分析
制度補完性の観点からの考察
青山学院大学大学院
国際マネジメント研究科
国際マネジメント専攻
山本
美馨
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ p.1
第1章
終戦直後から復興期の人事労務管理
(1945 年から 1949 年)・・p.1
第2章
経営近代化への多様な動き
(1950 年から 1959 年)・・・・・・p.2
2-1
経営基盤形成と新人事制度の導入
2-2
職務給の導入
2-3-1
八幡製鐵における職務給導入
2-3-2
技術革新による影響―技能序列と年功序列のかい離
2-3-3
採用政策と技能研修制度
2-3-4
職務給導入のプロセスと運用
2-4
戦後紹介の放棄と戦前導入の維持
第3章
高度成長の始まりと人事労務管理(1960 年から 1969 年)・・・・p.9
3-1
能力主義管理への移行
3-2-1
三菱重工における職能給導入の背景
3-2-2
職能資格等級と職能給の導入
3-2-3
職能資格等級と職能給の導入における合意と課題
第4章
日本的経営と報酬制度における補完性の考察・・・・・・・・・・p.12
4-1
日本的経営と報酬制度の在り方
4-2
技能・知識構築の在り方と職能給
4-3
組織内技能研修と配置転換の関係
4-4
長期雇用慣行と職階に基づく職能給、内部昇進制度
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ p.16
注
参考文献
0
はじめに
1990 年代成果主義(成果給)が、富士通を始め大手企業で取り入れられたが、近年年功
賃金に揺り戻しがおきている。
(高橋,2006,pp.368-392)これは戦後の復興期に職務給が導
入されたが、定着することなく、職能給に移行したことと類似している。戦後復興期から
高度成長にむけた 1945 年から 1970 年代にかけて、日本的経営が形成されたといわれてい
るが、職能給は日本的経営の形成・確立に大きな意味をなし、長期的関係を重視する一つ
の現れであった。終身雇用、職能給、人材育成・技能研修、内部昇進性などこれらの人事
制度は、互いに補完的な関係を持ち、日本的経営を支え安定的なシステムとして機能して
きたと思われ、日本的経営が形成される過程で、職務給から職能給へと軌道修正が行われ
たのは、偶然ではなく必然であったと考える。日本は仕事に対して、次の仕事で応えると
いう考え方が広く定着し、職務に報酬で応えるという考え方が支持されなかったことも影
響しているのではないだろうか。
第 1 章、第 2 章では歴史を辿り、戦後から 1950 年台までの期間を時代別に概観し、報酬
賃金制度の変遷と、時代的背景を整理する。職務給を導入した事例として、八幡製鐵(2
章 1 節)を、職能給を導入した事例として、三菱重工(3 章 1 節)を紹介し、それぞれの
企業が抱えていた問題と、なぜ新賃金制度の導入に至ったのかを考察する。第 3 章では、
高度成長の始まる 1960 年代に、どのような職務、技能や知識、調整や連携の在り方を日本
企業が追求していたか、報酬制度との関連を中心とし考察する。
戦後における報酬制度と日本的経営との関係を、制度補完性の観点でとらえ、職能給を日
本的経営のシステムとして含むといった立場で論じる。森 (2007)も、本論と同様に、制度
補完性の立場から賃金制度を理解しようとしている。「こうして日給(基本給)、長期勤
続慣行、人事異動の三者の間に補完関係が成立することになった。この補完関係こそ戦後
日本の人事管理や労使関係の根幹をなすものに他ならない。」(森, 2007,p.75)と述べて
いる。ある社会で生まれた制度や仕組みが、安定的に維持されるかどうかは、同じ社会に
おいて、他にどのような仕組みや制度が存在するかに大きく依存している。従って、一つ
の社会にあるこれら制度や仕組みは、それを支える要素が独立して存在しているのではな
く、補完的な関係を持ち、相互に支え合っており、全体として安定的なシステムとなりえ
る(青木,奥野,1996,pp.325‐326)ことを論じていく。
第1章
戦後直後から復興期の人事労務管理
(1945 年から 1949 年)
第二次世界大戦が 1945 年 8 月 15 日に終結し、壊滅的経済と雇用停滞の中、アメリカ軍
主力の連合国軍による完全支配を受けるようになった。占領軍の司令のもとで、旧指導者
の公職追放、財閥解体、農地改革といった労働の民主化が急速に進められていった。1945
年に 7200 万人であった人口は、外部からの復員・引き揚げで急増し、国民は食糧難と住宅
1
難に陥り、完全失業率は 1946 年には 159 万人となった。 (1)占領軍の司令で社会制度改革
が進められ、鉄鋼と石炭の増産を基軸に、電力、医療、肥料といった国民生活に直結する
部分の生産に重点が置かれた。占領軍は労働組合が、民主主義の担い手となり、政治的安
定に寄与するという立場を取り、労働者階級の力を強めることで、労働者の生活水準を向
上させ、最終的に経済の安定をもたらすと考えた。GHQ は、ワシントンで作成されていた
民政ガイドラインに基づき、1945 年 6 月、労働組合組織と政治的活動の自由、組合組織の
発展と団体交渉の奨励等の指示を日本に出した。その方針に従い、日本における労働関係
の基本的諸制度が整備されていった。 (2) 法整備に伴い戦前の身分制度が表向き廃止され
て、従業員、社員と呼ばれるようになった。査定制度に関しては、日本政府による「考科
表制度」(1945 年)をきっかけに、日本能率協会が「米国文官能率評定表」を紹介し、労
働組合の受容によって、日本企業に広がっていった。 (3)
労働組合は、占領軍の労働組合育成政策により急速に結成された為、労働組合のほとん
どが、企業ごとにホワイトカラー、ブルーカラー双方一括加入の形式をとらざるを得なか
った。1946 年は 40.0%であった組合組織率は、年々増加していき 1949 年には、55.8%あ
にまで上昇した。(労働省「労働組合調査」)企業別組合が急速に定着していった点につい
て、橋本(1996)は、
「多数の引揚者、復員者がいるという条件のもとで、戦前の養成工が
代表した熟練形成の仕組みが企業別組合に適合的であったが、労働供給が過剰という条件
の下で、労働者は『良い職場』を守ろうとして、その利益を代表できる指導者を選任し、
労働組合は雇用確保を重視した。」
(橋本,1996,p.36 )と述べている。労働争議は激しさを
増し、三菱美唄炭鉱賃上げスト(1946 年)、東京芝浦電気や東宝など生産管理争議が続き、
経営側は労務対策に追われた。経営者は解雇に対して組合からの強い抵抗を受け、解雇の
コストの高さを認識し、原則として解雇しない方針に転じ長期的雇用慣行が生まれた。(4)
当時インフレが進行したことで、労働者の実質的な賃金低下をまねき、企業組合からの
賃金引き上げ要求圧力は、さらに高まっていった。1947 年日本電気産業労働組合は、年齢
給を前提とする賃金制度を整え、電産型賃金体系といわれるモデルを生み出した。その特
徴は、賃金の決定要素として、勤続年数や家族数などの客観的指標を用いる一方で、分布
制限付きの評価尺度法 (5)で(情意の評価要素によって)査定した点にある。企業生産との
関連は無く、賃金総額の約八割は生活給保障が占めていた。
第2章
2-1
経営近代化への多様な動き
(1950 年から 1959 年)
経営基盤形成と新人事制度の導入
1950 年 6 月に勃発した朝鮮動乱による特需がもたらした経済回復、1951 年のサンフラン
シスコ講和条約により、日本は独立を回復し、アメリカ依存の政治経済体制から変革を迫
られた。経済界では、朝鮮動乱経済特需のあと、電力、鉄鋼、海運、石炭の四基幹産業を
合理化が経済政策の中心となる。日本開発銀行が 1951 年に国家資金で設立され、財政資金
2
の対民間供給の主なルートとして機能し始めた。52 年には、企業合理化促進法、租税特別
措置法が制定され、租税特別措置法による特別償却、技術向上についての補助金支給、試
験研究設備の短期償却などの措置が取られ、技術革新をサポートした。外国技術の積極的
な導入は、技術革新を促進し、日本の重工業化を本格化させた。造船の溶接技術、鉄鋼の
ホット・ストップ・ミル、ナイロン技術、大型建設機械などがこれにあたる。
この頃の日本企業の経営行動のなかで、多くの場合背後にあったのは、熟練労働者不足,
生産現場の効率化、柔軟な人材形成という問題意識であった。(6)企業は一般的技能研修に
加えて、勤続年数に応じ段階的に企業特殊的研修を義務付け、多能工化を進め柔軟な人材
形成システムの構築に注力した。これについて、青木(Aoki, 1988)は、日本企業は、労
働者の集団が各部署で発生する諸問題を、自分達で処理する能力を追求しており、ローテ
ーション(配置転換)制度によって、技能や技術の伝達と、多職能の労働者を作り、労働
者の集団が各部署で発生する処問題を自分達で処理する能力を追求できる組織をめざして
いると指摘している。
海外からの技術導入とともに、科学的労務管理方式 (7)が次々と紹介された。新賃金制度
として、紹介された職務給は、経済的強国であるアメリカの経営方式であり、その導入・
試行に関心を示す企業も多かった。アメリカの教育訓練、人事考課、人間関係管理、職務
分析・評価など労務管理制度が紹介された。職務給の導入に関しては、日経連も奨励した。
日経連が職務給を勧めた理由には、総人件費管理の観点もあった。 (8)
激しいインフレのもと、賃金は日々の生活の維持が可能な程度にすぎず、労働組合によ
る賃金大幅賃金引き上げ要求も累積し、人件費コストは上昇し経営を圧迫していた。職務
給とこれまでの生活給、年功賃金との違いは、労働力対価から、労働対価への変更を意味
した。労働力が成長すれば、定期昇給制度により毎年賃金を上げる必要があるが、仕事は
毎年上がらないため、人件費を抑えることが可能であり、人件費面を考慮すれば職務給は
経営側にとって都合が良かった。当時の状況について楠田は、「仕事基準の賃金であれば、
賃金を下げることもできた」と述べ、労働組合の要求をかわし、人件費コストの上昇を抑
制する動機があったことを示唆している。(楠田,2004,p.53)
その一方で、大企業では、1955 年から 1956 年頃から持ち家制度、年金制度、レクリエ
ーション活動など多彩な福利厚生に力を入れた。経営者は考え方として、
「企業の福利厚生
は国家の行う福利厚生と関連せしめる必要はない。ギブ・アンド・テイクのように割り切
ることをせず、企業目的の一環であると断じざるを得ないが、やはり人間関係を基調とし
ている。」と日清紡常務荒垣長次郎は述べ(「経営者」1955 年 8 月号)、人中心の人事政策
へのニーズが当時高まっていたことを示している。
2-2
職務給の導入
職務給の導入において規範となったのは米国のそれで、具体的な施策はアメリカから輸
入された。(9)
職務給は、従来「人本位」できめられていた賃金(人基準)を「仕事本位」
3
(仕事基準)に改めるといった原理に基づいている。職務の標準化を行い、各人の従事す
る職務を企業内で評価し、賃金が決定される。勤続年数、学歴など、旧来の評価要素は考
慮されない。技術革新によって、発生していた年功と職務バランスの崩れなどの調整とし
てふさわしいと考えられ、王子製紙、日本油脂等が、生活給賃金制度からの制度切り替え
として職務給制度を導入し、職務評価のための職務分析が行われた。(10) 東京電力も組合
との交渉が妥結した 1955 年に、生活給を中心としてきた電産賃金から職務給へ移行、導入
がおこなわれた。東京電力では労働科学研究所の指導を受け職務分析を行い、職務を困難
度、重要度、責任度から 18 の職種に区分し、それぞれの職務に適応した賃金額を設定した。
(11)
2-3-1
八幡製鐵における職務給導入
戦前より八幡製鐵では職分制度に基付き、
「 職能に応じた職分」で身分・資格が保障され、
基本給と業績手当(能率給)、その他に諸手当から賃金構成されていた。(福岡,2005,
p.149)業績手当と基本給は 50 対 50 の比率で、基本給は初任給に昇給が加算され、業績手
当ては生産量、生産性に従い総財源が決まり工場別の業績手当てに按分されていた。 (12)
1962 年に労務管理制度の変更が行われ、八幡製鐵では職分制度から職務給が導入された。
当時の人事担当者であった福岡は、職務給導入の背景を海外からの技術導入と技術革新、
機械化の影響が大きかった点に触れ、
「 技術革新には大きな意味の技術革新と職場の両面が
あった」と述べている。技術革新は企業内労働に大きな変化をもたらし、職場における技
能序列と年功序列のかい離を招いたため、それらの対応策が求められた。八幡製鐵では、
社員の位置づけを明確にする為の給与制度、人事制度改革が検討され、1967 年に新人事制
度を導入、全社員を職掌(資格制度)に基づき位置づけした。(福岡,2005)
2-3-2
技術革新による影響―技能序列と年功序列のかい離
八幡製鉄における技術革新は、1951 年から始まった「第一次設備合理化計画」に発する。
朝鮮戦争(1950 年)が始まり鉄の需要が急増したため、施設の拡張・改造を重ねる合理化
計画が行われた。当時は造船ブームで厚板の需要が伸び、建造物で利用する型鋼や自動車・
家電など耐久消費財需要も急増した。増加する需要に対応する為、八幡地区はさらに拡張
を重ねたので製品を作る流れが悪化し、工程も複雑化、結果的に作業効率を悪化させた。
同時に品質向上の問題も発生したため、戸畑地区に炉と圧延設備を持つ新しい鉄鋼一貫方
式工場(戸畑製鉄所)を建築した。(第 2 次設備合理化計画)
合理化計画によって、戸畑製鉄所の主要設備はこれまで主力であった平炉が転炉に変わ
り、大幅な作業時間短縮を実現させた。また、外国技術であるストップミルの導入により、
圧延工程がオートマチック化され、
「勘やこつ」による重筋作業はなくなり、基礎知識が必
要な監視労働、計器労働が職務の中心に変わっていった。
新技術の導入と機械化によって、労働現場ではキーマンが年齢的に若い人になり、いわ
4
ゆる年功のある人がキーポジションからはずれるケースが目立つようになった。戦前はど
の職場にも系列があり、企業内の経験年数と熟練の形成とがおおむね整序的であり、賃金
序列に大きな狂いはなかった。ところが設備が近代化され、若手が新しいが重要な業務に
投入されるようになり、仕事の重要度と経験年数との関係が崩れるようになると、職分制
度における年功賃金では、若手の勤労意欲を低下まねき、労働生産性の向上を阻害すると
問題視されるようになった。職務序列と人事序列にかい離が発生し、労働の価値、労働の
対価の尺度として、職分制度は不十分であると経営側にも認識された。
2-3-3
採用政策と技能研修制度
第 2 次世界大戦以降の石炭、鉄鋼などの戦略産業に対して物資と資金を重点的に投入し、
これを梃に日本経済全体の復興を図った傾斜生産も関連し、八幡製鐵でも大量の採用を始
めた。(資料 1)戦後まもなくの採用条件は高等小学校卒である。 (13) 昭和 28 年に朝鮮戦
争が終結して需要が減少し人が余ったため、昭和 28 年、29 年は採用を見送った。昭和 30
年以降は採用を再開し、昭和 32 年に定期採用に切り替えた。昭和 30 年以降の採用の中心
は、新制中学、旧制高等小学校に代わって、新制高校、旧制甲種中学校卒が主となってい
った。
(資料 2)しかし、整備工が必要となったため、大量採用を行うとともに整備工制度
を作り、二年間全日制で別に学習をさせ、技能研修政策を開始した。
八幡製鐵における社内技能研修の歴史は、明治 34 年から始まる。ドイツからマイスター
を呼び寄せたが、うまくいかなかったことから、その後自前で幼年職工養成所を開設し、
社内教育に注力してきた。戦後は、昭和 33 年に「作業長養成科」が作られ、組長・伍長を
対象に講座を開設した。組長・伍長は作業長の予備軍であったが、彼らの 70%が旧制高等
小学校卒であったので、基礎学力が十分でないといった判断により、昭和 34 年 9 月には、
「役付補習特別講座」を開講し、英語、数学、物理、化学など基礎科目を履修させ、これ
を修了した者のみが、作業長教育に進むという制限を設け、積極的な参加を促した。一般
的知識、企業内で必要とされる技能への徹底した教育は、管理者、作業員の別を問わず全
社員に向け推進された。全社員に向けた社員研修の目的は、専門性への追及と、総合的能
力の向上であり、長期に渡って企業成長を支える人材を育成・確保することであった。
採用と社内研修の在り方から示唆されることは、経営者は景気後退、需要の増減など外
部環境の変化に対し、採用数をコントロールすることで対応し、その一方で、継続的に雇
用する労働者を、多能工として育成している。
「経験」によって熟練度が上がれば、それが
継続する間は、雇用を継続する事が経営側は有利となる。研修は、企業にとって必要とさ
れる技術を補てん、強化していくものであるとともに、長期的なインセンティブを与える
仕組みの一つであった。技能を身につけていけば社内における階層を上がっていけるよう
関連付けられており、長期的に雇用される事にベネフィットがあるよう、キャリアプラン
が設計されていることが分かる。
5
資料 1.戦後の採用・離職状況
年
採
採用者数(人)
用
離職
うち旧中・新卒以上
度
同比率
(人)
(人)
S22
3083
4779
23
9882
2387
24
2185
417
19.10%
1572
25
3569
654
18.30%
1603
26
1545
257
16.60%
1442
27
7299
1328
18.20%
27563
2656
合計
出所:福岡(2005,
11783
p.50)
資料 2.学歴別職業比率
年
新制高校、旧制
新制中学、旧制高等
度
甲種中学校卒(人) 小学校卒程度(人)
計
S30
416
173
589
31
1031
331
1362
32
1043
191
1234
計
2490
695
3185
78.20%
21.80%
100%
出所:福岡(2005,
2-3-4
p.51)
職務導入のプロセスと運用
八幡製鐵における人事改革制度の目的は、「企業への貢献の促進」、「人事秩序の維持」、
「社員間の納得と安定」であり、理念のみの追求ではなく、現実に即したものが求められ
た。職務内容の標準化と職務分析、評価体系・職務区分が丁寧に作成され、採用・昇進、
教育訓練に至るまでの活用を目指し、取り組まれた。職務の標準化を行う、職務分析の対
象となる単位を「方」と定めた。職務の置かれている位置、職務内容、職務に対する精神
的働き、職務が作業者に要求する資格要件、職務に追随する環境条件といった項目が職務
分析項目分析項目となり、評価要件は、資格要件、責任、努力、外的条件といった四つの
評価項目に対して、さらに具体的な評価要素が作られ、分析と評価がセットで結びつくよ
う考案された。
(資料 3.4)評価要素と評価基準は、ABCD の四段階評価で、基礎知識、習熟、
責任、判断、精神的負荷、肉体的負荷、作業環境、災害危険度の八つが評価項目となり、
これらの程度で評価された。給与体系は、職務給、基本給、業績手当で構成され、職務給
は、業績手当ての一部(25%程度)とベアを財源とした。職務給制度は、全給与の 15%程
6
度であり、部分的な採用であったが、誰が重要な仕事をしているか職場内で明らかになっ
た。職務給の導入により減額対象者に対しては、導入後 2 年間は減収保障を行い、それ以
降は下げるといった措置が取られた。減給対象社員は、全従業員の 10%程度が該当となっ
たが、ベースアップがあったため、実際は減額にはならずにすんだ。(資料 5)
しかしながら、職務制度は 1960 年代後半には、職能給への議論が出て 1970 年代には能
力給へ移行されていくことになる。福岡(2005)は、移行に至ったのは、柔軟な人材配置
が困難となり、能力開発のインセンティブを欠いてしまったためと指摘し、実際の仕事内
容が幅広くなっていき、範囲給化 (14)してしまったことが影響していたと述べている。
資料 3.職務と分析項目
職務のおかれている位置
所属・昇進系列・転換可能職務・職務の目的
使用する機械・工具・材料・指導監督の態様
職務内容
単位作業・やり損じた時の影響
職務に追随する精神的働き
判断・緊張感・単調性・特殊要件
職務が作業者に追随する身体的働
作業態様・作業姿勢・平均作業強度・筋肉作業の内容・特殊要件
き
職務が作業者に追随する資格要件
基礎知識・専門知識・必要な教育程度・特技・性別・実務知識・
入社後の教育訓練・資格免許・習得期間
出所:福岡(2005,
p.63)
資料4.職務評価の体系
(1)評価要素
資格要件
基本知識・習得
責任
責任
努力
判断・精神的負荷・肉体的負荷
外的条件
作業環境・災害危険度
出所:福岡(2005,
p.63)
(2)各要素と割合のランク別評価点一覧表
要素
基礎知識
習熟
責任
精神的
肉体的
作業環
災害危
負荷
負荷
境
険度
判断
割合
20
20
20
10
10
10
5
5
A
10
10
10
10
10
10
10
10
B
18
18
18
15
15
15
13
13
C
32
32
32
22
22
22
16
16
D
56
56
56
33
33
33
20
20
E
100
100
100
50
50
50
25
25
出所:福岡(2005,
p.62)
7
(3)職級区分表
職級
職級
職級
職級
職務点
職級
職務点
1
80~87
6
129~141
11
208~228
16
336~368
2
88~96
7
142~156
12
229~251
17
369~406
3
97~106
8
157~171
13
252~276
18
組長
4
107~117
9
172~188
14
277~304
19
同上
5
118~128
10
189~207
15
305~335
20
同上
出所:福岡(2005,
参考
職務点
資料 5
p.62)
鉄鋼 18 社の春闘妥結結果
年
(単位:円)
36
37
38
39
40
アップ率
11.80%
7.60%
5.10%
9.50%
6.40%
妥結
3,300
2,600
1,514
3,076
2,214
要求
5,000
5,000
4,974
5,001
5,028
28,000
34,000
29,542
32,406
34,562
基準内賃金
出所:福岡(2005,
2-4
p.86)
戦後紹介の放棄と戦前導入の維持
新賃金制度としての職務給は、労働省の調査によると、全企業が 18%(昭和 45 年)に
過ぎず、それ以上広がらなかった。多くの企業では、職務の概念が明確ではなく、従業員
次第で、職務範囲が変わる属人的なあいまいさがあり、職務分析が容易でなかったためで
ある。
(木笹,1965,p41-50)職務分析のための職務調査書も、属人的な「職員経歴簿兼適正
調査表」となり、これまでの基準と大差がなくなっていた。
(木笹郁,1965,pp.63-74)適正
調査表とは、職務を遂行に必要な能力を調査する表である。職務を対象にした調査書であ
るが、かりに従業員を対象に変更すると、査定制度における能力の評価要素の諸項目にな
ると遠藤(1996)は指摘している。 (17)
総評系労働組合が強く反対したことも、職務給
の広がりを妨げた。
(総評・中立労働春闘共闘委賃金委員会,1966)。日本の労働組合におけ
る中核的労働組合員は、中高年の男性労働者で、彼らの賃金は年功賃金のもとでは相対的
に高かったが、職務給が導入されれば低く引き下げられる可能性があった為である。企業
は、職務分析が難しい状況の下で、労働組合の反対を押し切る力はなかった。
職務給を紹介した労働省内でも、近代化されたアメリカ式賃金制度を広げる一方で、日
本では、労働対価は日本の風土、社員採用制度に合わないことを早い段階で認識していた。
日本では、アメリカのように仕事で採用するのではなく社員採用であり、仕事はその都度
組織の都合で決まり、仕事ごとに賃金を決めたら、配置転換のたびに給与が変動すること
になり、社員のやる気に影響を与えてしまう(楠田,2004,pp.49-51)からであった。
継続性の乏しい新しい部署でどのような評価がなされるか、従業員に不安を与え、評価
者である上司も、配属後間もない部下の判断は難しい。結局、職務分析の導入が放棄され
8
た為、戦前から行われていた「協調性」
「積極性」など、職務に関連の薄い情意の評価要素
が大きな比重を占めていった。このことは、情意の評価要素が日本企業にとって、適合性
の高い評価項目であったことを示している。仕事で決める賃金ではなく、人の価値基準で
の賃金制度がいいという考え方が多くの企業にあり、評価の容易さという点からも、
「協調
性」「積極性」など、職務に関連の薄い情意の評価要素は適していた。(楠田,2004)
1955 年からの高度成長によって、継続する技術革新と労働力不足への対応に対して、分
析すべき職務内容が変化を続けたからである。「職務の属人的な性格と 1955 年以降の高度
成長が、職務分析の困難さを増加したとするならば、日本企業はこれらの評価要素を益々
重視せざる得ない状況にあった」と遠藤(1996)も、主張している。 (18)
職務給以外に、チェックリスト法が 1950 年代に、評定尺度法に勝る手段であると紹介さ
れ、導入を試みた企業もあった。しかしチェックリスト法は、職務分析の結果を利用する
手法であったため、職務分析ができなければ導入はできなかった為、普及は進まず戦前か
らの評価尺度法が使用された。様々な査定手段のうち、職務に関連の薄い情意の評価要素
を採用しやすいのは、評価尺度法であった。日本企業は職務に関連の薄い評価要素を重視
し、そのために評価尺度法から離れられなかった。すなわち、査定結果を分布制限するこ
とが、日本企業にとって適合していたからである。査定結果を分布制限することで、査定
結果は、従業員間で必ず差がつき長期的には、昇給・昇格に反映される。
しかし、査定評価が悪い従業員でも、競争結果がすぐに明らかにならぬよう、入社後十
年から十五年程度の期間は、役職・職能等級面で、同期入社社員の格差をほとんどつけな
い「遅い選抜」が行われている。(小池,1995)これは、従業員の努力水準を高めるインセ
ンティブとなる。なぜならば、差をつけないことで皆に昇進の可能性があるという期待を
抱かせ、モチベーションを維持させる(Prendergast (1992))ことが可能となるからであ
る。査定結果を分布制限すれば、従業員間の競争は促進される。査定結果の悪い従業員に
もやる気をなくさせることなく競争へ参加を促す。査定結果は、査定される本人には通知
されないので、査定結果に対して、
「調整」が行われる。情意の評価項目が存在することで、
主観的な評価とならざるを得ないが、従業員間における平等意識が米国企業よりはるかに
強い日本企業においては、評価者は部下のやる気を引き出しながら、良好な人間関係を構
築する意味においても、情意の評価項目は適していたと考えられる。
第3章
高度成長の始まりと人事労務管理(1960 年から 1969 年)
3-1 能力主義管理への移行
1950 年代後半から 1960 年代にかけて、日本企業は能力給へと移行していった。日経連
は、職務給の導入に際して、職務給の導入が遅れている場合に限っては、
「労働対価原理を
職務遂行能力に即し、能力考課によって把握する」ことを提唱した。(石田,1990,p.35)
日経連『労務管理統計総覧』
(1959)では、
「能力給」という名称が、職能給と見られるが、
9
66.7%にも達していた。当時の職能給の解釈としては、職能給制度は職能別に賃金を決定
するものであるが、職務比較と職能比較を統合した賃金決定方式で、基本給と職務給制度
を統合したような性格のものであると考えられていた。
(楠田,2005,pp.188-199)職能制度
による賃金体系の基本給は、年齢給、勤続給、職能給で構成された。労務管理委員会『人
事考課』
(1962)は、能力を評価の一項目とし、
「業績評定」
「執務評価」
「能力評価」
「性格
判定」という評価項目において、能力評価を重視することを紹介した。日経連も、
「能力主
義管理-その理論と実践」
(1969)を刊行し、年功制が陥った欠点の対処を強調した。年功
で評価されない部分を能力評価で査定するとし、高度成長の下で変化し続ける仕事への対
応力、従業員の「能力」を評価すべきであると必要性を説いた。 (19)
職能給の導入を行った三共では、従来の基本給を職能給に合理化し、職能給が基準賃金
中 70%を占めた。基幹となるものは、職級で「職能分類基準」により、経験、責任などの
主として職務の質的難易度に基づく分類と、その分類された職務を遂行する人の資格、能
力に基付く分類との結び付きで、一から八級職を設けた。(「経営者」1956 年 5 月号)
職能給の広がりとともに、定期昇給制度も確立していった。昇給は、賃金の基礎たる基
本給の基礎として、また社内秩序の基礎として、長期にわたってその個人の提供した労働
の質と量、勤怠度のみならず、能力の進度などを的確に評価し、その人の勤続とともに累
積評価された結果が、その者の本給に明確に表現されていなければならない(「経営者」59
年 2 月)と認識されていた。一度昇給を欠けば、そのような評価の累積が崩れ、社内秩序
が崩れることになるため、社内秩序維持のために重要であった。
3-2-1
三菱重工における職能給導入の背景
1950 年代から 1960 年代にかけて、三菱重工においても欧米から近代的な経営管理手法
と技術を導入し、新たな工夫を加えながら、自社での適用を推し進めていた。近代的な経
営管理と生産体制の構築とともに合理化が必要となり旧来の職種編成に基づく職員と工員
の格差、工員の現場作業編成のあり方を変え、新たに編成し直す必要があった。ブロック
建造法の採用など、技術導入に伴い、仮溶接や玉掛けなどを多くの工員が行うようになり、
多能工化も進み、従来からの作業方式、仕事内容などに変化が現れていた。 (20)
このこ
とは、新たな状況に対応して、現場での技能養成が進み始めていたことを示し、現場でリ
ードをする指導者、管理者の役割がますます重要となっていった。(橋元,2003,pp.63-64)
60 年代に入ると、これまでの組織編成や労務管理との問題が顕在化していった。コスト管
理のためのラインの明確化と簡素化が求められ、指揮・命令系統と現場管理者が問題とな
った。新技術の導入や多能工化などによって、これまでの職種序列に変動が生じ、労働実
態と賃金制度の不整合は、工員の不満となっていった。新たな状況の中で重要な役割を担
う現場管理者や、新たな職務状況の担い手となってきた若壮年層に対して、厚い処遇をす
ることはできなかったため、従来のやり方に固執することで能率給を稼ごうとする者も現
れ効率を悪くしていた。1966 年に新たな労務管理制度に取り組む基本的考え方を決定した。
10
それは、身分制度的な差別を撤退し、賃金について年功序列的要素を薄め、仕事や能力に
対応した賃金要素を取り入れていくことであり、職能資格制度と職能給化への移行を意味
していた。組合と協議を重ね「職務と能力」に基づく職能給が 1969 年より実施されること
となった。
3-2-2
職能資格制度と職能給の導入
職能給の導入以前の三菱重工の賃金は、職員は、本給、勤務給、家族手当、臨時手当て、
家族手当から成りたち、工員は、本給、臨時手当、第一奨励金、第二奨励金、家族手当か
ら成り立っていた。
(第一・第二奨励金は、能率給部分で、営業所ごとに内容が決定されて
いた。)従業員の資格制度は、職員、雇員、傭、工員の四種類で、職員の等級は、参与、参
事に、工員の等級は、一等工手、二等工手、三等工手、普通工員が付与された。本給は、
職員が月給、工員が日給であった。 (21)
新人事制度へ移行後の給与体系は、基本給(職務等級別に昇給する月給額)と臨時手当
勤務給(成績給)から成り立つようになり、基本給は全賃金の六割から七割を占めた。職
能給の導入によって、身分差別との批判のあった職員、工員の区分は廃止され、全員を社
員として統合し、職務能力の種類という区別で従業員を再編成した。職務区分はその性質
によって、技能職群、監督職群、事務技能職群、管理職群、特別専門職群、特務職群、医
務職群という七つの職務群に分けられ、各職群に対し職務能力で等級がランク付けされた。
職能給制度に先行して作業長制度が導入され、監督職を独自の職群として格付けし、権
限を与え、処遇の改善が行われた。コスト削減のための管理体制と、新技術や生産管理に
基づく作業組織の構築は、現場監督者である彼らの動向に左右されたため、会社の方針を
受け入れ、工程過程の責任者として、作業者を教育・統率できる管理者は重要であった。
(橋元,2003,p.69)新制度では、求められる職務能力の向上が昇格・昇進に繋がることを
原則にしたので、今まで昇進ルートのなかった工員でも、昇格を重ねていけば、技能職か
ら監督職、監督職から管理職へ昇進が可能となった。
なぜ、職能資格等級と職能給の導入でなければならなかったのか。会社主導で生産体制
の構築がおこなわれていたが、新しい設備や技術に対して、最も合理的に新たな職務を作
り編成し、労働者を適正配置するものではなかったことが関係している。現にいる労働者
に、新たな技術を習得させ、知識を共有させることで、現場におけるその時々の対応や工
夫を促し、知識の共有に基付く、部門単位での水平的調整が盛んに行われていた。しかし、
職場における要員配置が安定的になされている実態はなく、新技術に対応するよう多能工
化を進め、随時研修や養成がなされているにすぎない。従って、従業員が職務能力をどう
高めるかを組織していくことが、経営戦略の成功に重要な意味をなした。橋元(2004)も
同様に「人事育成・養成、管理システムを作りつつある過程である以上、職務給ではなく、
職能資格制度・職能給である他なかった」と指摘している。(橋元,2004,p.14)
また、従業員は組織の戦略に従い能力水準を高め、結果として生産性が向上、企業の成
11
長により上級職のポストが増加、昇進の可能性も増す。業績が伸びれば、報酬の増加だけ
でなく、昇進・昇格を通じ従業員に割り戻されるので、従業員が長期継続的に能力・努力
水準を高めようとする動機づけとしても、職能給は有効である。
3-2-3
職能資格等級と職能給の導入における合意と課題
新賃金体制の導入に伴い、査定も客観化と強化が行われた。(22) 二、三年毎の能力考課
(昇給・昇格)、毎年の定期昇給の人事考課、半年毎の一時金の為の考課、毎月の成績考課
と、定期的な査定が行われ賃金が決定されるようになり、賃金決定における競争が明確化
した。しかし、職群等級毎の最長滞留年数が決められ、昇給は最低額が保障、全員が定期
昇給した。従って、最低保証のある競争であったが、能力差は査定により累積された。
では制度導入は、実態面においてどんな意味があったのだろうか。一つにはこれまでの
職種のあり方にこだわらず、会社の設定する職務を基準とし、職務能力の向上を人事考課
によって判定し、処遇する仕組みが確立したことである。会社の立場に立てば、必要とす
る生産体制の構築に即応する労務管理の仕組みを作ったという意義があり、従業員の立場
に立てば、労働能力が公平に評価されるための仕組みが整ったことに意味があった。しか
し両者の思惑が実現されるには、労働能力の向上に対応する職務がある事、労働能力が公
正に判断される事という二つの条件が満たされねばならないが、これは先送りされた。
年齢別格差の縮小をもたらす独自項目としての職能給の設定という課題も残った。組合
では、賃金格差を認識していたが、本給実態の維持を要求する他に方法がなく、問題を将
来へ先送りした。(23) 昇給基準線も導入前の本給実態に合わせて設定されたことから、査
定による増減を除けば、導入前と大きな差は生じなかった。これらのことから、三菱重工
における新賃金制度は、年功的でありながら能力主義的な制度であることがわかる。
第4章
4-1
日本的経営と報酬制度との補完性の考察
日本的経営と報酬制度の在り方
戦後日本の人事労務管理の歴史を辿り、賃金システムを中心に論じてきた。企業は、労
務管理の展開において、年功給から、職務給など、あるタイプからあるタイプへと変化を
遂げているが、そのきっかけは、内在する問題への解決策としての人事管理制度の姿であ
った。日本では、外部労働市場が存在しないため、企業は社員採用した従業員に、仕事を
しながら技術・技能を習得させ、社内研修制度や技能研修の機会を設け人材育成を行い、
内部労働市場を充実させてきた。賃金システムは、常に人材育成制度とともにあり、採用
した若い社員に長期雇用を示し、その中で能力開発を求めるものであった。それは、技能
の専門化だけでなく、知識の共有にもとづく部門単位における水平的調整にも主眼を置く
ものであり、これが日本企業の重要な内部的特徴であることも確認された。
12
一般的には、終身雇用、年功賃金、企業別労働組合が、日本的経営の三本柱といわれて
いるが、年功賃金は多くの場合年齢給に近い意味で用いられており、この点で誤解を招き
やすい。(年功給は、年齢が能力の良好な尺度と見なしうる状況下で機能する職能給の一
特殊形態と理解すべきである。)結局のところ、報酬制度を巡る戦後の模索は、技術革新
のもとで年齢給的な年功給が良好に機能しなくなったことを契機として始まり、職務給の
試行的導入を経ながらも、年齢を職能の代理指標とする簡略的な職能給(=年功給)を進
化させる仕方で、職能査定を用いられるようになってきた。 (24)
4-2
技能・知識構築の在り方と職能給
本論で主として論じてきた職能給は、技術開発などの事業戦略に対し、組織内技能研修
が必要となったこと、そしてそのための長期雇用への労使双方のコミットメントが形成さ
れたという事情と関連を持っている。基盤となるのは長期雇用への労使双方のコミットメ
ントであるが、直接的には組織内技能研修と職能給との間に、より密接な関連を見いだすこ
とができる。組織内研修における職能向上の努力が、職階上の昇進・昇級によって報われる
というシステムは、技能向上のインセンティブを与える。すでに八幡製鐵のケースでも確
認したことだが、技術革新の途上では、職務内容の定義も職務の割り当ても流動的とならざ
るを得ない。かりに、このような状況下で、あえて特定の職務遂行と報酬を関連付ける職務
給を採用したとしても、技能向上自体が直接的に報われるわけではない為、技能向上のイン
センティブは職能給に比べて弱くなることは容易に想像される。技能向上を最優先課題と
判断する限りは、直接的に職能向上に報いる職能給の方が、職務内容の定義や職務の割り当
て次第で報酬が変わってしまう職務給よりも、従業員の動機付けの面で適合的である。
また、年齢を能力の代理指標とする年齢給的な年功給が機械的に昇級を保証するとは違
って、職能給には職能向上の努力に対して、査定と職階上の昇進によって報いるインセン
ティブ・メカニズムが組み込まれている。機械的に適用されがちな年齢給的年功給と比較
した場合、職能給には長期にわたる能力向上努力を引き出すインセンティブが用意されて
おり、短期的にではなく長期にわたって徐々に格差をつける仕組みによってインセンティ
ブが維持されることから、効率性と公平性のいずれも側面から見ても優れているといえる。
日本企業が「摺り合わせ」といった水平的調整を強みとすることは、多くの論者によって
指摘されているが、この特徴は組織内技能研修と職能給の一対の制度によって育まれてき
たと考えられる。 (25)
同僚と共に学ぶ組織内技能研修は、技能獲得を主目的としながらも、同時に同僚との一体
感、企業理念の理解、企業への忠誠心などを育む場としても機能するから、相互理解、コミュ
ニケーションを促進する。また、職能制のもとでは、職務を巡って同僚と競争する必要がな
いから、相互浸透的に業務を遂行することが可能になる。職務分担の在り方において、分担
範囲の柔軟さが存在しており、重なりあう部分があるため、責任や分担範囲があいまいで
ある。従って、部門内や、隣接する部門やチームにおいて、技能や知識を共有する程度は
13
高いほうが望ましいのである。従って、企業特殊的な経験や知識を持つことが重要になり、
調整や連携の在り方も水平的調整が重要な意味を持っているのである。
4-3
組織内における技能研修と配置転換の関係
日本において外部労働市場が機能していれば、人材が必要になる都度調達すればよく、企
業内における研修機会も少なくて済んだであろう。しかし、戦後日本では多数の未熟練労働
者を外部教育するだけの余裕もないまま、復興・成長の道をたどるしかなかった。事実、多
くの企業は多数の中卒者・高卒者を採用後に組織内で技能労働者へと育成する方法を採用
した。(大企業の中には、自前で企業内に高等教育のための学校を設立するところさえあっ
た。)技能研修が終了すれば、従業員は人事部采配のもと人事異動となり現場へ配属された。
仕事と直接的につながりをもたない職能給は、人材の有効活用という意味において適し
ている。部門の統合整理に対し、人事異動により組織的に柔軟な対応ができる。景気循環
や技術革新・需要の変動に対しても、人材のフレキシブルな配置が可能となる。勿論、人
材が十分な技術を持っていない際には、研修を必要に応じて行えばよい。従業員側にとっ
ては、長期雇用慣行(暗黙の契約)があり、首にならないので、企業特殊的研修に対し、
安心して取り組むことができる。
人事異動は、職場間の技術、知識の移転を促進し、従業員を多能工化させる。定期人事
異動は、日本独特のもので、ジョブローテーションによる多能工化は、
「日本的労務管理の
最大の特徴」(田中,1988,p.147)でもある。日本企業において、企業内技能研修、人事異
動、多能工化はセットで考えられ、補完関係がある。研修の機会が増加するに従い、研修
を受けた従業員の知識水準や技能能力を高める。また、技能研修を受けた者の方が、技能
の幅を広げ安いことは明らかである。配置転換を重ねることで、従業員の技能はさらに幅
を広げ、多能工化した社員による、知識移転は進み、部門の業績や生産性を高めている。
また、先輩社員の援助と助言を通じ、後輩は仕事を模倣し習得していくが、知識の共有は
暗黙の了解に基付いている。(図1)勿論、企業組織内での技能研修にはコストを要する。
企業にとっては、先行的に人的投資した労働者を長期雇用することでしか投資コストを回
収することはできない。従業員の側に立てば、企業内で業務を通じて学んだ技能の多くは、
企業特殊的であるため、他の企業で使えるものではない為、辞めて他で勤めようという動
機は生まれにくくなる。双方が長期雇用にコミットするインセンティブは、このように未
熟練労働者を企業内で育成するしかなかったという歴史的な与件に多分に依存している。
企業が人事育成プログラムを重ねることで得られるものは、個々の能力向上だけではな
い。研修を通じ、企業理念や行動規範への理解を深め共通の価値観を構築する。共通の価
値観は、会社への帰属意識や集団意識を生み、仲間意識を高める。従業員は一つの会社に
長く在籍する事が前提にあり、共通の価値観や企業理念への理解は、職場内における相互
理解やコミュニケーションを助け、独自の企業文化を生み出し、この会社で勤めたいとい
う内発的動機にも寄与している。
14
4-4
長期雇用慣行と職階に基づく職能給、内部昇進制度
本論で確認してきた職能給を巡る歴史的経緯は、青木(Aoki, 1988)のいう、タテの組織
構造が水平的調整というヨコの連携・共同作業と一対の関係になっている、という理論的
な説明と見事に一致する。それゆえ、ランクヒエラルキーのもとでは、水平的調整に適合
的な職能形成が促進されることになる。つまり、職能給制度においては、職階制というタ
テの組織構造が水平的調整というヨコ型の職能形成を促すのである。事実、日本の企業組
織においては浅くて幅の広い技能形成が尊重されてきたことは、しばしば指摘されている。
ランクヒエラルキーに基づく内部昇進競争は、雇用が継続される見通しがなければ機能し
得ない。同様に、水平的調整に適合的な職能は、周囲との関係の中でこそ十全な意味を持
つ職能であるから、組織との関係が安定的であること、つまり長期の雇用が保障されてい
ることが必要条件になる。すなわち、ランクヒエラルキーとそのもとで形成される水平的
調整に適合的な職能は、共に長期雇用とセットで考えられなければならない。長期安定的
な雇用が、日本では、社会的にも理想とする意識が根強く、いったん離職してしまうと、
別な企業に就職しても、年功を失い報酬は減ってしまう。この結果従業員は、一つの会社
に留まろうとする強いインセンティブを持つ。事実戦後の日本の離職率は、戦前の日本や
戦後のアメリカの半分程度である。(Mincer‐Higuchi, 1988)若年従業員に比べて、高年
齢従業員に高い給与を払う傾向はどの国にも存在しているが、他国に比べて日本の給与は、
勤続年数に大きく反応している。
以上をまとめると、次のようになる。日本的経営が形成される契機となったのは、外部労
働市場の欠如のために、企業内技能形成が選択されたという事情と、職の境界線があいまい
であったことにある。長期雇用が慣例として定着していった事も、職務給導入の試みにもか
かわらず職能給が定着していったことも、組織内技能形成と適合的だったからだと思われ
る。そして、水平的調整を強みとする生産面での特徴は、相互に補完的な諸制度のもとで
育まれていったと理解できる。
図 1.補完関係の概略図
景気循環や技術革新・需要の変動
↓
↓
配置転換
/
企業内労働組合
|
\
|
\
内部昇進制度
/
\
―
社員採用
/
技能形成・多能工化 <内部労働市場の発達>
長期雇用慣習・終身雇用
/
―
―
|
人材育成研修
<特殊的技能+一般技能>
・共通の価値観<企業倫理・文化・戦略への理解>
能力給
15
おわりに
本論では、職能給と職務給を二項対立的な概念として対照的に用い、戦後日本の賃金体系
が、基本的には「職能給」という性格を保持し続けてきたことを検証した。職務給導入の試み
が挫折し定着しなかった理由を、制度補完性の観点から、組織内能力形成と適合的でなかっ
たところにあるのではないかとする当初の仮説の検証にとっては、職能給と職務給という
大まかな対立図式で十分だと考えられる。
しかしながら、職能給という基本的な性格を保持しつつも、年功給という(年齢もしくは
勤続年数を能力の代理指標として用いる)簡略化された特殊な職能給が、本来的な能力査
定を伴う職能給へと進化していくプロセスがどのようなものであったかについては、わず
かな事例だけから一般論として主張することは許されないだろう。これまでの議論におい
て、年功給を年齢給的に適用される職能給として、その基本的性格を職能給の一特殊形態
ないしプロトタイプであると理解してきたのだが、実は、年齢に比例させる機械的な適用を
した場合、年功給は生活給であるとの解釈も可能である。つまり、年功給は、潜在的には、
職能給でもあり、生活給でもあるという両義性をもっているのである。ただし、生活給と理
解するにしても、能力査定付きの職能給と理解するにしても、属人的な性格という意味では
変わりない共通点を持つ。年功給は、査定付きの職能給の性格を強めていくが、属人的な性
格あるいは人基準の原則は一貫して保持されているのである。本論で確認したことは、職
能給制度という人基準の制度の強靱さだったとも言える。互いを支え合っているという制
度補完性は、職能性を部分として含む日本的経営が強靱であることを説明する。
とは言うものの、その強靱さが進化的適応とでもいうべき変化(年功給の生活給の側面を
強化していくか、本来的な職能給として強化していくかの選択肢があった中で、後者の方向
が選択された)を伴っていたことももう一面の真実である。諸制度は強靱さ一辺倒ではな
く、同時に環境変化に対する柔軟な適応も示していたのである。この点に関しては、森
(2007)の考察がヒントになる。森(2007)によれば、賃金体系の二層構造(年功を反映した
基本給と、業績に連動する能率給。後者の部分は、ほとんどの場合、基本給に比例する集団
的能率給。)が戦後一貫して持続してきたことが確認できるという。賃金の二層構造は、年
功給部分によって長期の安定的見通しを与えることで能力形成のインセンティブを維持し
つつ、短期的な業績変動や効率の維持に対応するという安定性と適応性のバランスをとる
ことを可能にしたのかもしれない。つまり、長期持続的な目標としてはあくまで能力形成を
基本としながらも、短期的な業績変動を吸収するバッファー項として能率給が機能したの
かもしれないという可能性がある。
以上のことは、賃金制度の特徴をより正確に理解するには、人基準か仕事基準かという軸
だけでなく、これに追加して長期基準か短期基準かという軸も考慮する必要があるのかも
知れないことを示唆する。
16
注
(1)
小山田,服部,梶原(1997),pp .2-4,
橋本,1996, p.36
(2)1945 年 12 月に旧労働組合法(現行法は 1949 年 6 月公布)、46 年 9 月に労働関係調整法、1947 年 4
月に労働基準法が相次いで公布され、1947 年 9 月に労働省が新設された。労働基準法は、1 日八時間労
働、週一日休日制などの最低労働基準を強化した。
(3)
遠藤公嗣(1996)
「 人事査定制度の日本化」,橋本編,
『 日本企業システムの戦後史』第 2 章,
(4)
小山田,服部,梶原(1997),p.7
pp119-123
(5)分布制限付きの評価尺度法は 1920 年代のアメリカでよく実施された方法であった。
(6)
石田光男(1990),「賃金の社会科学」中央経済社.
有斐閣.
宇田川勝他(1995),「日本企業の品質管理」,
久本憲夫(1998),「企業内労使関係と人材形成」,有斐閣などを参照。
(7) 科学的労務管理方式に関しては、佐々木(1986)及び高橋(1994)を参照。
(8) 小山田,服部,梶原(1997),p.54
(9)当時、労働省の賃金調査課の楠田は、GHQ から直接賃金のレクチャーを 4 か月受講、
職務調査、職務評価、職務グレードの作成、賃金表を学び多くの企業に紹介をした。GHQ からの賃金レ
クチャーは、民間企業の人事担当者も参加していた。
(10) 小山田,服部,梶原(1997)pp.54-57
(11)職務価値を企業内で算定評価し、人事考課によって賃金が決められた。東京電力では、賃金の 80%
は職務給で構成されていた。
(12) 按分方法は、工場別の基本給総額に基準率・生産達成率を乗じた形で算出され、基準率は労働医学
研究課で産出した熱エネルギー代謝率で決まり、生産達成率はその時々の業務査定で決定された。
(13) 昭和 24 年以降、旧中・新高卒以上が 2500 人程度採用されている。これは、学歴をマイナスに偽っ
て入社してきた人々である。
(14)
範囲給化とは、職務に対し一定幅のある職務給を設定する方法で、単一職務給は、同じ仕事は同
じ賃金となるが、範囲職務給では、熟練や仕事ぶりによって昇給できた。
(15) 遠藤,橋本編,(1996), pp139-142
(16)
尾高, (1993), 岡崎,奥野編,第 5 章,pp174-175
(17) 遠藤, 橋本編,(1996), p140
(18)
遠藤, 橋本編,(1996), p140
(19) 橋元, 2003 年,「職能等級制度と職能給」,佐口,橋元編, pp63-107
(20)
三菱日本重工業編, (1997), pp105‐115
(21)
三菱日本重工業編, (1997), pp209‐293
(22) かつては査定の決定方式と基準は曖昧であった。職場集団や労働組合と協議が公式、非公式に行な
われ、職場レベルでの慣行、組合による規制の影響のもとで、査定額が決められたが、結果的に年齢と
勤続年数に対応してしまっていた。
(23)新賃金体系への移行措置として、現状の追認も行われた。
(24)
1960 年半ばに、職務給を導入した企業は、東急、フランスベット、三井物産、キャノン等がある。
17
詳細は、楠田,2004,pp。158-168 参照。
(25) 藤本, 2006 年参照,「摺り合わせ」という言葉を流行らせ、世に知らしめたのはトヨタの生産シス
テムを中心に研究を積み重ねてきた藤本氏が代表的な存在である。
参考文献
高橋伸夫,
(2006),「日本型年功制の再評価」,伊丹他編『日本の企業システム第Ⅱ期第 4 巻』第 3 部 13
章所収,pp.368-392,有斐閣
小山田英一,服部治,梶原豊, 1997 年,「経営人材形成史」中央経済社
青木昌彦,奥野正寛編,経済システムの比較制度分析,1996,東京大学出版
橋本寿朗,(1996),「企業システムの『発生』、『洗練』、『制度化』の論理」,橋本編『日本企業システム
の戦後史』,東京大学出版会
遠藤公嗣, (1996),「人事査定制度の日本化」, 橋本寿朗編,『日本企業システムの戦後史』第 2 章所
収, pp.109-158,東京大学出版会
楠田丘,(2004),「賃金とは何か-戦後の日本の人事・賃金制度史」,中央経済社
福岡道生,(2005),「人を活かす-現場からの経営労務史,日経連出版部
木笹郁, (1965),「職務給導入の理論と実際」,日刊工業新聞社
岡崎哲司・奥野正寛編,1993 年,「現代日本経済システムの源流」,日本経済新聞社
尾高煌之助, (1993),「『日本的」労使関係」,岡崎、奥野編,『現代日本経済システムの源流』 第 5 章
所収, pp.145-182, 日本経済新聞社
小池和男,(1999),「仕事の経済学」第二版,東洋経済新報社
石田光男,(1990),「賃金の社会科学」,中央経済社
三菱日本重工業編, 1997 年,「新三菱日本重工業社史」,三菱重工株式会社
橋元秀一,(2004),『日本造船重機産業における賃金制度と人事制度の形成・発展・現状』
三菱造船、三菱重工 1950~2004 の事例」,國學院大學
橋元秀一,(2003),「職能給制度と職能給」佐口和郎,橋元編『人事労務管理の歴史分析』,第 2 章所収,
ミネルヴァ書房
田中博秀, 1988 年,「日本的経営の労務管理」,日本能率協会
森建資,(2005),「賃金体系の二層構造」,『日本労働研究雑誌』No.562,2007
藤本隆宏,(2006),「組織戦略と製品アーキテクチャ」,伊丹他編『日本の企業システム第Ⅱ期3巻:戦
略とイノベーション』,pp.303‐333,有斐閣
Aoki M,(1988),‘‘Information, Incentives, and Bargaining in the Japanese Economy, ’’
New York and Cambridge: Cambridge University, press.
邦訳
青木昌彦,(1992)「日本経済の制度
-分析情報・インセンティブ・交渉ゲーム」,筑摩書房
Jacob Mincer. Yoshio
Higuchi, 1988,‘‘Journal of the Japanese and International Economies,’’
Wage Structures and Labor Turnover in the United States and Japan.
18
19