近代資本主義の成立と 奴 隷 貿 易 ―――――――― ① 課 題 の あ り か カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか 西 山 俊 彦 Toshihiko Nishiyama 2003 年 10 月 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 42 巻 第 5 号 新大陸発見五百周年は 人類の輝かしい歴史だが 見る目を持っている者は幸せ C・ コ ロ ン ブ ス に よ る 新 大 陸 の 発 見 ( 1492 年 10 月 12 日 ) は 「 天 地 創 造 に つぐ偉業」と称えられました。それから ほ ぼ 500 年 、新 大 陸 発 見 500 周 年 を 前 に 、 教皇ヨハネ・パウロ二世は 「新大陸の発見、征服、キリスト教化 は、暗影もなくはなかったとはいえ、 全体としてみれば輝かしい位置を占 め て い る 」( 1990 年 5 月 5 日 、メ キ シ 「 奴 隷 の 家 」壁 画 の 説 明 に「 ア フ リ カ が 開 発 の 遅 れをとったのは奴隷制度のためである」とある コ・ベラクルスにて) と評されました。たしかにキリスト教化は絶大で、今では、カトリック信者の二人 に一人が 新大陸 住んでいます。 資本主義の隆盛も同様です。黒人奴隷を動力源とするプランテーション(大規模 農園)生産によって資本を蓄積、資本主義を確立して、それが目下グローバル覇権 を達成しているのも、快挙に違いありません。 と こ ろ が「 全 体 と し て み る 」評 価 で は 、十 羽 一 絡 げ の 論 法 で は 、 「強者の立場」 「勝 利者の立場」だけが代表されないとも限りません。是非善悪は、必ず、その立場を 明示して言えること、ですから、元ブリティッシュ・コロンビア州最高裁判事T・ バージャーは明言します― 「( 教 皇 ヨ ハ ネ・パ ウ ロ 二 世 の 評 価 は )歴 史 を 軽 視 す る の で な け れ ば 決 し て 到 達 で き な い 判 断 で あ る 」( 1992) と 。 これに代えて、もし、 「人びとの喜びと希望、悲しみと苦しみ、とりわけ、貧しい人々とすべて苦しん でいる人々のものは、キリストの弟子達の喜びと希望、悲しみと苦しみである」 (『 現 代 世 界 憲 章 』) のなら、インディオ住民の奴隷化と絶滅、黒人奴隷の世紀にわたる売買、移送、使 いんぺい 役 な ど 、人 格 無 視 の 無 数 の 虐 待 、こ れ ら は 、決 し て 、 「 全 体 の 中 に 」埋 没 隠 蔽 で き る ものではありません。 特 に そ れ ら が「 見 捨 て ら れ た 大 陸 」の 苛 酷 な 現 状 の 原 因 な ら 、 「 過 去 の 惨 事 」と し てだけでなく「現在の惨事」に属します。 と に か く「 人 類 最 大 最 長 期 に わ た る ホ ロ コ ー ス ト( 大 量 虐 殺 )」で あ る 奴 隷 貿 易 を 、 資 本 主 義 繁 栄 の 彼 方 に 葬 り 去 っ て し ま う な ら 、人 類 は 理 性 の カ ケ ラ も 持 ち 合 わ せ ず 、 キリスト者はその名の逆の存在となります。その名に値する者、兄弟の重荷を共に 担う者となるかならないかは、 「見ることができる心の目」 ( マ タ イ 13・16)を 持 っ ているかいないかの問題です。 -1- 犠 牲 者 は 600 万 人 か 、 6000 万 人 か それではいったい、どれほどのアフリカ人が奴隷として大西洋を横断させられた の で し ょ う 。 600 万 人 と も 6000 万 人 と も 言 わ れ て い ま す が 、 記 録 も 統 計 も な い の で す か ら 、確 か な と こ ろ は 判 り ま せ ん 。お お よ そ 、1200 万 か ら 1500 万 人 と 推 定 さ れ、当らずとも遠からずと見なされています。 F・ タ ン ネ ン バ ウ ム ( 1946) に よ れ ば 、 全 体 の 3 分 の 1 が 郷 里 か ら 出 航 地 に 着 く までに、3 分の 1 が大西洋横断途中で亡くなり、残りの 3 分の 1 だけが植民地での 強 制 労 働 に 従 事 し ま し た 。し か し 今 で は 、大 西 洋 横 断 途 中 で の 犠 牲 者 を 10〜 15% と 見なす見方が大半です。もちろん横断前後の 犠牲者はこれをはるかに上回ります。新大陸 に辿り着けた者も着けなかった者も、どちら も犠牲者とすれば、奴隷貿易は人類最大最悪 の 犯 罪 で あ っ て 、 S・ エ ル キ ン ズ ( 1959) ら が、ナチスによるホロコーストと対比させ、 これをはるかに上回る犯罪と位置づけている のも当然です。 不帰の旅 に向け最後の港となったゴレ島 奴隷労働が近代資本主義を準備 詳しくは追って記述しますが、近代資本主義の成立に奴隷労働が決定的役割を果 た し た こ と は 「 ヨ ー ロ ッ パ 全 体 が 一 致 す る 見 解 」( E・ ウ ィ リ ア ム ズ 、 1970) で す 。 発見 直後は、農・鉱業奴隷としてインディオを使役しました。しかし彼らがほ ぼ絶滅してからは、まずブラジルと西インド諸島での砂糖黍プランテーションに、 そして、北米を加えた珈琲、煙草、ゴム、特に綿花のプランテーションに黒人奴隷 を導入しました。 奴隷労働にまさる搾取はないのですから、 「黒ん坊一人は白人労働者三人より働き が よ く 、 か つ 安 か っ た 」( 岡 倉 登 志 、 2001) の は 当 然 で す 。 と に か く 、 ① ア フ リ カ で黒人を買い漁り ②アメリカで大量生産した原料を ③ヨーロッパで製品化して各 地に売り捌く、この三大陸を結ぶ交易の環を「三角貿易」と言いました。産業革命 ま で の 期 間 を 、徐 々 に 資 本 を 増 殖 し て 革 命 を 準 備 し た「 先 行 条 件 期 」と か「 資 本( 原 資)の本源的蓄積期」と言いますが、そこでの生産性の基軸となったのが、もちろ ん、奴隷労働に他なりません。 とかく動力革命とエネルギー革命が産業革命を可能にしたと直結されますが、一 層 決 定 的 だ っ た の が 、そ れ に 先 立 つ「 原 資 蓄 積 期 」と そ の 間 の 奴 隷 労 働 の 役 割 で す 。 とすれば、近代資本主義の成立と奴隷貿易・労働は表裏一体だったことになり、 黒 人 奴 隷 の 幾 世 紀 に も わ た る 徹 底 搾 取 を 主 軸 と し て 、 ヨ ー ロ ッ パ・北 米 工 業 諸 国 の 先進性 と アジア・アフリカ途上諸国の後進性 (1) たことが判ります。 -2- とは一体不可分離の関係にあっ 奴隷制は「人道に対する犯罪」 「ダーバン会議」の「宣言」等 近 代 資 本 主 義 は 、前 項 に 指 摘 し た と お り 、人 間 性 の 高 揚 と そ の 蔑 視 、繁 栄 と 衰 退 、 文明と非文明を表裏一体として形成されました。しかし長年、虚偽意識(≒錯覚) の 作 用 に よ っ て 、意 識 に 上 っ た の は 前 者 、即 ち 、 「 勝 者 の 意 識 」の み で し た 。と こ ろ が、グローバル化の波は、後者も前者と一体であることを理解させる視野枠組を提 供 す る こ と に な り ま し た 。そ の 一 つ が 、 「 人 種 主 義 、人 種 差 別 、外 国 人 排 斥 お よ び 関 連 の あ る 不 寛 容 に 反 対 す る ( 国 連 ) 世 界 会 議 ――「ダ ー バ ン 会 議 」と 略 ――」( 2001 年 8 月 31 日 − 9 月 8 日 、 南 ア フ リ カ ・ ダ ー バ ン 市 に て 開 催 ) で す 。 「ダーバン会議」の主題の一つは、奴隷貿易への認識を喚起し、現代の諸矛盾に 連 な る 歴 史 的 責 任 を 迫 る こ と で し た 。「 宣 言 」 の 一 つ は 次 の と お り で す ― 「大西洋越え奴隷取引などの奴隷制度と奴隷取引は、その耐え難い野蛮さのゆえ だけではなく、その大きさ、組織された性質、とりわけ被害者の本質の否定ゆえ に、人類史のすさまじい悲劇であった。奴隷性と奴隷取引は人道に対する罪(傍 線筆者、以下同じ)であり、とりわけ大西洋越え奴隷取引は人道に対する罪であ ったし、人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の主要な源泉 で あ る … 。」( 13) この「宣言」の最大の特徴は、奴隷貿易等が「人道に対する犯罪」であることを明 瞭に断言したことです。 こ れ を 一 層 展 開 し た の が 、 ほ ぼ 同 時 進 行 の か た ち で 開 催 さ れ た 「 NGO フ ォ ー ラ ム」の「宣言」です― 「人道に対する罪を構成する大西洋越え奴隷貿易と奴隷制は、非人間的な移転と 歴史的に最大規模の強制移住(一億人を越える)を強要し、何百万人ものアフリ カ人を死に至らしめ、アフリカの諸文明を破壊し、アフリカ経済を衰退させ、今 日まで続くアフリカの低開発と周辺化を築いたことを、認識する。アフリカがヨ ーロッパ列強によって解体、分割され、それによって、西洋の経済と産業の利益 を目的にアフリカの天然資源を継続的に搾取するため、西洋の独占支配が築かれ た こ と を 認 め る 。」( 66) こ れ を 受 け て 。 同 じ く 「 NGO フ ォ ー ラ ム 」 の 「 行 動 計 画 は 、 責 任 に 応 じ た ( 賠 償 ) 補償、を次のように、求めます― 「大西洋越え奴隷貿易…奴隷制およびアフリカの植民地化に関与し、そこから利 益を得た米国、カナダ、ヨーロッパ諸国、アラブ諸国は、世界会議から一年以内 に、これらの人道に対する罪の犠牲者のために、国際的な補償機構を設置するこ と を 、 要 求 す る 。」( 236) 「人道に対する罪」とは こ れ は ロ ン ド ン 協 定 ( 1945 年 8 月 8 日 ) に よ っ て 国 際 軍 事 裁 判 所 憲 章 と し て 設 定され、枢軸国の戦争指導者を裁いた「東京裁判」と「ニュルンベルグ裁判」で適 (2) 用されたもので、次のように説明されます― -3- 「 犯 罪 地 の 国 内 法 に 違 反 す る と 否 と を 問 わ ず 、… 戦 前 も し く は 戦 争 中 に 行 わ れ た 、 すべての民間人に対する殺人、絶滅、奴隷化、強制連行及びその他の非人道的行 為、または政治的、人種的、ないし宗教的理由に基づく迫害行為」 こ の 罪 状 の 最 大 の 特 徴 は 、同 じ く 、 「 占 領 地 の 民 間 人 の 殺 害 、虐 待 、奴 隷 労 働 、等 で あっても、戦争の法規または慣例の違反」に当たる「戦争犯罪」とは異なるもので ホ ロ コ ー ス ト あることで、実際には、ユダヤ人の大量殺戮やアジア占領地区での民間人の虐殺な どに適用されました。 「人道に対する罪」には時効がない な ぜ「 人 道 に 対 す る 罪 」と 宣 言 す る こ と に 意 義 が あ る か と 言 え ば 、1968 年 の 国 連 総 会 決 議 2391 号 以 降 、 「 人 道 に 対 す る 罪 に は 時 効 が な い 」こ と が 確 立 さ れ て い る か らです。これによって「事後法非遡及の法理」は撤廃され、時効に関係なくユダヤ 人 虐 殺 関 係 者 が 糾 弾 さ れ る こ と に な り ま し た 。も ち ろ ん 、奴 隷 貿 易 、奴 隷 労 働 が「 人 道に対する罪」に当たるなら、これもまた、時効に関係なく糾弾できるのは言うま でもありません、 米 国 等 の 退 場 と 9・11 へ の 予 感 「 奴 隷 貿 易 が 人 道 に 対 す る 罪 で あ る 」こ と 、 「植民地主義による略奪が多くの国を 衰 退 さ せ た 」こ と 、 「 被 害 者 の 尊 厳 回 復 の た め に 、金 銭 補 償 で は な い が 、謝 罪 が 必 要 である」ことが合意されたことは画期的なことでした。 しかし「米国は『この会議はパレスチナ人によってハイジャックされた会議だ』 (3) という理由でイスラエルとともに退場しました。 (4) 『 9・11 同 時 多 発 テ ロ 』 が 発 生 し た の は そ の 3 日 目 の こ と で し た 。」 教会は奴隷貿易に断固、一貫して 反対してきたのか 教皇庁の最新の言明 カトリック教会が奴隷貿易に関してどのような態度 を 取 っ て き た か に つ い て 、「 教 皇 庁 正 義 と 平 和 評 議 会 」 が 最 近 公 表 し た 指 針『 教 会 と 人 種 主 義 』 ( 1988)に は 、 次のように記されています― 「…たとえ、その動機が、主として安値な労働力を 手に入れるためであったにしろ、何十万もの人によっ 質 素 な 壁 に「 奴 隷 の 家 」を 訪 れ た 要 人 た ち の 写 真 が ( ゴ レ 島 で )。 中 央 に「 こ の 家 は 叫 び を 上 げ て い る 。こ の 世 紀 を 越 え 、世 代 を 越 え る黒人奴隷の叫びを聴くために 私 は 来 た 。 ヨ ハ ネ ・パ ウ ロ 2 世 」 とある。 て買い取られ、アメリカまで連れて来られたアフリカ の黒人奴隷の売買について…彼らが捕えられた状況や、 交通路の状況があまりにもひどいので、新世界に到着 する前、また出発する前でさえ、数多くの者が死亡し ました。新世界では、奴隷としてもっともいやしい仕 -4- 事につくことが運命づけられていました。 こ の 奴 隷 貿 易 は 、1562 年 に 始 め ら れ た の で す が 、奴 隷 制 は 、結 果 と し て ほ ぼ 三 世紀も続くことになったのです。ここで再び繰り返しますが、歴代の諸教皇や神 学 者 、ま た 多 く の 人 道 主 義 者 た ち は 、こ う し た 慣 行 に 反 対 し て 立 ち 上 が り ま し た 。 教 皇 レ オ 十 三 世 は 、 1888 年 5 月 5 日 付 け の 回 勅 「 奴 隷 制 度 廃 止 に つ い て 」( In plurimis) に お い て 、 奴 隷 制 を 断 固 と し て 非 難 し 、 ま た 奴 隷 制 を 撤 廃 し た ブ ラ ジ ルをたたえています。本文書の公刊は、この記念すべき回勅の百周年と一致して います。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ヤウンデに参集したアフリカの知識人たち を 前 に し た 演 説( 1985 年 8 月 13 日 )で 、キ リ ス ト 教 国 に 属 す る 人 々 が 、か つ て 黒人奴隷売買に関係していた事実に、何らためらうことなく遺憾の意を表明した の で す 。」 カトリック教会は奴隷貿易について、一貫して断固反対してきた、と主張するこの 言明は、 『 新 カ ト リ ッ ク 百 科 辞 典 New Catholic Encyclopedia』な ど に 見 る 従 来 の 見 解と、ほぼ、同一です。 教皇庁の言明についての第一印象 かし 教 皇 庁 の 公 式 言 明 に つ い て の 筆 者 の 第 一 印 象 は 、「 首 を 傾 げ た く な る も の ば か り 」 と い う も の で す 。「 単 な る 商 行 為 」 で あ っ た か の よ う な 、 ま た 、「 意 図 し な い 結 果 」 で し か な か っ た か の よ う な 記 述 は 論 外 と し ま す 。し か し 、 「 奴 隷 貿 易 は 1562 年 に 始 まった」というのは事実に反しますし、また「歴代の教皇…が一貫して断固反対し て立ち上った」のなら、なぜ何世紀も続くことになったのか理解できません。しか も、唯一明記されているブラジルを称える教皇レオ十三世の回勅は、デンマーク、 英国等が法的廃絶を決めてから数十年を経たものですし、それに何世紀も先立つ回 勅、特に、奴隷化を容認する文書についてはおくびにも出していません。 なぜこのような歪曲無視がなされるのか、詳しくは次回以降の課題です。ただこ こでは、 「 キ リ ス ト 教 国 に 属 す る 人 々 が 、か つ て 黒 人 奴 隷 売 買 に 関 係 し て い た 事 実 に 、 (5) 何 ら た め ら う こ と な く 、 遺 憾 の 意 を 表 明 さ れ た ( 教 皇 の 行 為 )」 が 、 誠 実 で あ る か どうかの条件についてだけ記しておこうと思います。 ゴレ島 ― 不帰の旅 への最後の港 教皇ヨハネ・パウロ二世のゴレ島での「遺憾の意」の 表明を理解するために、この島の生い立ちを、まず、説 明します。 筆 者 も 「 第 二 回 ア フ リ カ 平 和 巡 礼 」( 1997 年 9 月 29 日 − 12 月 27 日 ) の 起 点 と し た ゴ レ 島 は 、 ダ カ ー ル 港 外 3 キ ロ に 位 置 す る 東 西 300 メ ー ト ル 、南 北 900 メ ー ト ル の小島です。老若男女の海水浴客、観光客が戯れるこの 島は、今ではユネスコの世界文化遺産に登録されていま す が 、そ れ は こ の 島 が 奴隷たち の 最後の港だったからに他なりません。 -5- 不帰の旅 への 最 初 に こ の 島 に 到 達 し た の は ポ ル ト ガ ル 人 で 、16 世 紀 末 に は オ ラ ン ダ が 要 塞 を 造 り 、1677 年 に は フ ラ ン ス が こ れ を 奪 っ て 、交 易 基 地 に し ま し た 。そ れ と と も に ゴ レ 島は、フランスがセネガル沿岸部で行なった奴隷貿易の拠点として、奴隷を集荷し 一時的に収容する基地になっていきました。毎年、数百人、多い時には千人を超す 奴隷が収容されていたと言われます。 「奴隷の家」と「故郷最後の時」 ゴ レ 島 に シ ニ ャ ー ル( 現 地 人 女 性 と ヨ ー ロ ッ パ 男 性 と の 間 に 生 ま れ た 裕 福 な 女 性 ) の た め に 1776 年 に 建 て ら れ た 家 が 、「 奴 隷 の 家 la maison des esclares」 と し て 保 存公開されています。赤褐色の二階建てで、正面には馬蹄形の階段を構える、決し て上品とは言えない外観ですが、管理者のJ・ヌジャ イ 氏( 75 才 )の 説 明 に よ る と 、窓 の ほ と ん ど な い 小 部 屋ばかりの一階には奴隷たちが詰め込まれ、二階は奴 隷商人である主人とその手下らの住いでした。海に面 した一階中央には人ひとりが通れる間口が開いていま すが、それは乗船口だったとも、こと切れるかこと切 れそうになった犠牲者を海上投棄するためだったとも 言われています。 「奴隷の家」に足を踏み入れるとき、暗闇で鎖に繋 がれた無数の犠牲者に想いを馳せずにはいられません。 彼らを待つのは遠路の危険、終生中断されることのな い強制労働だったことは言うまでもありませんが、と りわけ断腸の思いだったのは、 「 こ れ が 故 郷 最 後 の 時 」と 自 覚 す る こ と で は な か っ た でしょうか。故郷を離れ、親兄弟とも別れ、どこへ連行されるのかさえ判らないの であれば、自ら生命を断つ思いに駆られるのも当然なこと、…そして到着した未開 の地では、言葉も分からず、文化も気候風土も別物である上に、夫婦でさえチリヂ リ に 売 ら れ て い っ て 、再 び 会 う こ と さ え 叶 わ な い の で あ れ ば 、… 身 に 受 け た 焼 印 も 、 心に刻まれた傷痕も、ともに、人間の尊厳を根底から抹殺するものであったに違い ありません。 教皇ヨハネ・パウロ二世の 遺憾の意 の表明 そ の ゴ レ 島 に 、 そ の 「 奴 隷 の 家 」 に 、 教 皇 ヨ ハ ネ ・ パ ウ ロ 二 世 が 、 1992 年 2 月 22 日 、訪 問 さ れ ま し た ―「 奴 隷 貿 易 に 従 事 し た キ リ ス ト 教 国 家 と キ リ ス ト 教 徒 に 神 の 許 し を 乞 う た め に 」 ―。 新聞は、これは「歴史上かつてなかった出来事」と報じました。教皇の 意 遺憾の の表明は「これは、キリスト教と称される文明のもたらした最も不正で悲しむ べきドラマであり、何世紀にも何世代にもわたる(犠牲者の)叫びが、このドラマ (6) が罪に根ざしていることを明示している」というものでした。 -6- 遺憾の意 の表明をどのように理解すればよいのか 遺憾の意 の 表 明 に 接 す れ ば 、そ れ を ど の よ うに理解するかの問題を避けて通ることはできま せん。或いは、人類の罪過を一身に引き受け贖罪 に 励 む「 よ き 牧 者 」の 実 践 、少 な く と も 、 現 代 キ リスト教の良心の発露 とも受け取られるかも知 れません。それは、奴隷貿易が「キリスト教国と そ れ に 属 す る 人 々( だ け )に よ っ て な さ れ た 罪 過 」 な の か 、そ れ と も 同 時 に 、 「キリストの御名を戴く 海水浴の地元民で賑わう ゴレ島船着場周辺 教会も関与した罪過」なのか、にかかっており、これこそ本連載全体の主題です。 もし前者だけであれば、 遺憾の意 の 表 明 は「 よ き 牧 者 」の 良 心 と 善 意 の 単 な る 過剰表現かも知れませんが、後者であれば、この上なく不道徳な責任転嫁でゾッと (7) する事態となります。次に掲げるのが、なぜそうなるのかの基準です― 第一基準 も し 奴 隷 貿 易 が 、「 教 会 の 子 ら 」( だ け ) の 私 的 罪 過 の 一 つ で あ れ ば 、 教 会の責任者に直接の責任はなく、謝罪は不要です。例えば、アメリカ大統領は、同 国軍人の公務中に犯す罪過については責任がありますが、私的罪過については責 任がないのと同様です。 第二基準 もし奴隷貿易の発生と継続に教会が関与していたのであれば、教会には 罪過があり、謝罪の義務があります。そして、教会に責任があるにもかかわらず、 そ れ を キ リ ス ト 教 国 と キ リ ス ト 教 徒 と の 責 任 と し 、彼 ら に 代 わ っ て 謝 罪 す る な ら ば 、 そ れ は 自 他 を 共 に 欺 く 不 道 徳 で あ っ て 、誠 実 を 旨 と す る は ず の キ リ ス ト の 教 会 と も 、 信仰者の態度とも、まったく無縁の破廉恥となります。 次回以降の予定 以上が、 「 課 題 の あ り か 」の 大 要 で す が 、終 わ り に 次 回 か ら の 展 開 予 定 を 記 し ま す ― 第2回目 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか ―教皇文書と新大陸での実態の吟味― 第3回目 「三角貿易」が近代資本主義を形成したのではないのか ―奴隷貿易の実態と先行条件期の検討― 第4回目 「売るから買うのか、買うから売るのか」 ―天正遣欧使節の見た日本人奴隷、等について― 第5回目 人間性を語って止まなかったヨーロッパ・キリスト教と解放の神学、等 第6回目 「見捨てられた大陸」の現状と「ダーバン反差別会議」等 -7- 【註】 (1 ) E・ウ ィ リ ア ム ズ( 1970) 『 コ ロ ン ブ ス か ら カ ス ト ロ ま で ― カ リ ブ 海 域 史 、1492 − 1969』岩 波 書 店 、2000。W・ロ ド ネ ー『 世 界 資 本 主 義 と ア フ リ カ 』拓 殖 書 房 、 1978。 E.D.Genovese, The World the Shareholders Made , Wesleyan University Press, 1969 ; A.G.Frank, World Accumulation, 1492-1789 , Monthly R eview Press, 1978 ; W.W.Rostow, The Stages of Economic Growth : A Non-Communist Manifesto , 1960, 『 経 済 成 長 の 諸 段 階 』 ダ イ ヤ モ ン ド 社 、 1965. (2 ) 清 水 正 義 「『 人 道 に 対 す る 罪 』 の 成 立 」、 内 海 愛 子 ・ 髙 橋 哲 哉 編 『 戦 争 裁 判 と 性 暴 力 』 第 Ⅰ 巻 、 緑 風 出 版 、 2000、 20-37。 藤 田 久 一 『 戦 争 犯 罪 と は 何 か 』 岩 波 書 店 、 1995。 (3 ) そ れ に も か か わ ら ず 2003 年 7 月 8 日 、 ア フ リ カ 5 ヵ 国 訪 問 の 途 次 、 ゴ レ 島 を訪れたG・ブッシュ大統領は「これは歴史上最大の犯罪の一つだ」と厳粛に 語った。 “President Bush Speaks at Goree Island in Senegal.” http://www.whitehouse.gov/news/releases-1.html. (4 ) 武 者 小 路 公 秀 「『 同 時 多 発 テ ロ 』 と グ ロ ー バ ル 闘 争 」、 ア ジ ア 太 平 洋 資 料 セ ン タ ー 編 『 こ れ は 新 た な 戦 争 か ? 』 2001.10、 50-57、 50 頁 。 上 村 英 明「 ダ ー バ ン へ の 長 い 道 の り 、そ し て 、差 別 撤 廃 へ の 未 来 へ の 視 座 」 『反 人 種 主 義 ・ 差 別 撤 廃 世 界 会 議 と 日 本 』『 部 落 解 放 』 502 増 刊 号 、 2002 年 5 月 、 33-72、 33 頁 。 (5 ) 現教皇による、アフリカでの 遺憾の意 の表明は三度認められる。前記ヤ ウ ン デ の 他 に 、セ ネ ガ ル は ゴ レ 島 ( 1992 年 2 月 22 日 )で と 、サ ン ト メ ・ プ リ ン シ ペ ( 1992 年 6 月 6 日 ) で の も の で あ る 。 (6 ) 括 弧 内 は 全 部 、 “At Go r ee, pope asks God’s forgive ness for evil of slavery.” National Catholic Reporter , March 13, 1992, p.21. (7 ) 西山俊彦「教会は誠実に罪の赦しを願ったのか―『記憶と和解』に関する髙 柳 師 の 所 論 に 関 連 し て ― 」『 福 音 宣 教 』 2001 年 3 月 、 32-39。 -8-
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