ニューズレター7 (64K)

No.7
1997.2.27
年史編纂
巻頭言
∼金沢大学建学五十年之記∼
大場 義樹
(学生部長)
私の手元に金沢大学十周年を記念して上梓された
冊子「金沢大学十年史」がある。記念式典は昭和34
年5月29日(金) に行われた。当時の学長は初代の
戸田正三学長である。学部構成はほぼ現在どおりで
あるが,経済学部はまだなく,医学部は理学部乙類
として入学させ教養教育を行い,2年後に医学部と
しての入学試験を行った模様である。学生 数はほぼ
1000名 で現在の40 %である 。この冊子の巻頭の辞
を戸田学長が書いており,
「金沢大学は,12年前既に
国立第8大学として出発すべきであったが,その機
会を逸して,10年前,全国一様の 70 の新 制国立大
学の一校として出発しました。・・・(中略)・・・
そもそも,国立大学ともあるべきも のを 造るには ,
新設に必須な人的,物的両要素の整備に少なくも5
ヵ年の日子をついやし,・・・一夜 造りの大 学とい
うのは,古今東西 を通じて,戦後わが国に初めて生
まれたものであって,駅弁大学といわれてもしかた
のない・・・」とある。また編集後記にも,
「 金沢に
総合大学をつくることは北陸地方の人々の宿願で
あって,明治44年第27回帝国議会に建議案が提出さ
れてから4 0年 に亘って運動が続けられて来たもの
で,戦後の学制改革がなくても,同じ頃に北陸帝国
大学ができていたことと思う。このことは他の新設
大学とはいささか類を異にする・・・」と述べている。
このような無念の思いは相当に根強いものであっ
たらしく,2代目の石橋雅義学長(昭和3 6 ∼4 2 )も
ほぼこのようなトーンで 例年 の 学生便覧の巻頭言
を飾っている。第3代の中川善之助学長は東北大学
から就任したせいもあり,
この問題に特にこだわらな
かったようである──それは批判の対象にもなりえ
た。そうこうするうちに昭和44,45年には学園紛争
の嵐が本学にも吹き荒れた。学生運動は開学当初か
ら学生自治会を中心に盛り上がりがあった。平和を
守る会の集会,破防法反対統一決起大会,内灘永久
接収反対全学大会,原子戦争準備反対総決起大会,
勤務評定反対抗議集会,そして昭和35年の安保条約
改定阻止総決起大会等々。しかし昭和30年代後半に
入り日本経済の高度成長期を迎えて,次第に凋落し
て行った。1968年全世界を巻き込んだ学生運動の火
は,金沢大学にも点火し 大きな紛争を巻き起こした。
本学では全学補導委員会(この名称も今は存在しな
い)がこれに対処した。丸芳十郎学生部長は昭和44
年の学生便覧で次のように述べている。「近時大学
の内外の問題と関連し,大学の自治の本質が問われ
ることがしばしばある。若い学生諸君の中には既成
の規約の無視,破壊が,大学のそして学生の自治で
あるがごとき錯覚をもっている人達がいる。これは
大きな誤りである。・・・」。この事態収拾にあたり
文部省の指示もあり,全学的に沈静化の努力を続け
数年後には一応の成果を見た。
この事象についてこれ以上の言及は避けるが,こ
れを契機に大学における学生の状況は微妙に変化し
ていったように思える。昭和50年代後半,第5代金
子学長の時代になると学内問題,特に大学移転問題
が教官側から火を噴き,10年以上大揺れに揺れた。
きびすを接するように,教養部分属をはじめとする
大学改組問題が次々に浮上し今日に至っている。こ
のような大学改組の問題は金沢大学のあり方と密接
に関係するわけだが,基本的なスタンスとしては,文
部省の指示待ち,あるいは他大学の状況を横目で見
ながら組織をいじくり回し,文部省の評価を得るべ
く腐心している。大学の自治,不羈独立といった語
は死語となった−あるいは初めから存在しなかった
のかも知れない。学生運動についても,団結,連帯,
統一行動,全学決起集会,帝国主義打倒,自主独立
など多くの語が死語となった。学生はどうなったか,
どうにもなってない。大志を抱くなどはやめにして,
素直でおとなしく,ほどほどに勉強し,身の保全を
考えている。いずれにせよ多様化した価値体系に対
する認識のズレが教官との間にあり,それは簡単に
埋まりそうにない。教官達も小成に安んじ,次々に
押し寄せる構造改革の波に不安を覚えながら泳ぎ抜
こうとしている。できれば大都市の大学へ泳ぎ着き
たいと願っている。金沢大学が一流大学か二流かは
この際問わないとしても,中流意識は十分にあり,
文部省の意向に逆らうなどとんでもない話である。
しかし残念ながら文部省の意向が見えにくくなって
きた。このような不安定構造は現在日本経済がおか
れている不安定性と関係がなくはないであろう。日
本経済の崩壊がささやかれる今日,金沢大学はこの
ままの形で生き延びていけるのか,少子化を迎えて
大学は氷河期に入るという声もある。不安である。平
和と安寧を祈願して神社詣りでもしようか。
年史編纂によせて
50年の節目
∼創立50周年に寄せて∼
定塚謙二
(名誉教授)
金沢大学における私の生活は,およそ50年前,1950年4月憬慎寮で始まった。
旧城内の兵舎跡の木造建築で,私が入寮した4号室があった建物は,教育学部が
角間移転をするまで同学部が校舎として使用していた。爾来,自慢できる話では
ないが,理学部を卒業して短期間ではあるが,日本海区水産研究所での非常勤職
員としての生活を除いては50年近く金沢大学でお世話になったことになる。
4年間の寮生活の間,あらゆる学部の友人との共同生活を体験した。この間の
さまざまな体験はまだまだ私の脳裏から薄れそうにない。勉学の上では,プラス
やマイナスになった面はそれぞれに大きいが,人間形成の上での影響がいかに甚
大であったか,いくら過大に評価をしても私の表現力では手に余る。今もなお,
当時の寮友たちと夫婦同伴で毎年旧交を温めあっている。ただ近年次第に早逝す
る友人が増えてきたのは寂しい限りである。
最近,定年退職して時間的に余裕が出来たのを幸い,寮生活当時読んだ漱石全
集を再読した。50年前の読後感とは極めて異質な感慨をもったことはいうまでも
ない。例えば「三四郎」の主人公を借りて,漱石自身の体験や視点が随所に語ら
れているが,その多彩な感性の一面として科学に強い執着をもっていたことが窺
える。また,登場人物の一人である“野々宮君”はいわずとしれた物理学者寺田
寅彦がモデルであるが,漱石は寅彦を最も信頼できる門下生として畏敬していた
ことはいうまでもない。寅彦も後年,彼の随筆「夏目漱石先生の追憶」のなかで,
漱石の科学的感受性の豊かさに驚きを示している。一時は自然科学を目指した漱
石と,文学史にも名を残した世界的物理学者寅彦が互いに親交が厚かったことは
示唆する点が極めて大きい。
私の寮生活や大学生活を振り返って幸い多彩な良友に恵まれたが,今にして思
えば,「三四郎」の登場人物に置き換えてみると唖然とするぐらい類似点が多い。
“野々宮君”はじめ“与次郎”もいたし,先輩に“広田先生”もいた。勿論“美
禰子”もいた。また,机を共にした友人には「坊ちゃん」の“赤シャツ”や“山
嵐”もいた。
「三四郎」の舞台は主として明治末年の日露戦争後の東京である。私の寮や大
学における学生生活はそのちょうど50年後の,非戦災都市とはいえ戦後の混乱が
未だ色濃く残っている旧金沢城址や金沢の街だった。
それからおよそ50年が経ち,本学は近く創立50年の節目を迎える。 その過程を
つぶさに見てきた私にはその充実・発展ぶりには大きな喜びと驚きを隠し得ない
が,一つ気掛かりになることがある。私の退職直前に教養課程が無くなったこと
である。学問の分化発展に即応して大学の組織も変貌することが重要であること
は論を俟たないが,学寮の影が次第に薄れていくことと併せて,感受性豊かな学
生の幅広い交遊関係が阻まれるとしたら問題は少なくない。私の杞憂であれば幸
いである。何はともあれ創立50年をさらなる本学の飛躍の年として祈念したい。
(1月29日記)
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金沢あれこれ
二度目の金沢
中村厚生
北陸自動車道から金沢大学角間キャンパスへの標識を辿って,事務局に着いた。
昨年11月,車での身軽な単身赴任である。金沢大学には昭和55年から2年余り経
理課長としてお世話になっているから,今回は二度目ということになる。が,当
時はお城の中であったから,移転したこの角間キャンパスは城内とは比べものに
ならない広大さで,すべてが一変してしまった。以前の感覚からはこれが金沢大
学だとはとても思えない発展ぶりだ。どうも他の大学に居るような気分でしよう
がない。
この地への移転が決まったのは,確か前回在職中の頃だったと思う。あれから
十数年。これまでの経緯を知らないだけに,このように立派に整備されたことに,
いま驚きと感慨深いものを感じている。
(事務局長)
おきのどくな
宿舎は幸町にある。犀川のほとりで閑静である一方,片町の繁華街にも近い。
昔ながらの町並に細い路地が入り組んでいて,いまだに迷ってしまう。金沢駅が
見違えるように立派になり道路も広くなったが,古い情緒ある町並は変わってい
ないように見える。
小さな引越を終えて,早速お世話になる向三軒両隣に挨拶に参上した。玄関で
声を掛けると扉が開いたので,その場で挨拶をしようとすると,相手は一旦式台
まで戻り改めて両手をついて丁寧に挨拶をされたのには驚き,恐縮した。昔なが
らの金沢のしきたりを垣間見た思いだった。こちらも粗品など差し出しながら挨
拶をすると,「これはまあおきのどくな」ときた。ああなんとなつかしい金沢言
葉。またまた感じ入る。金沢へ来たんだという実感と人間相互の結び付きが疎遠
になる昨今,連帯感を再生した思いだった。(「おきのどくな」については1月
19日の北国新聞で本学文学部島田昌彦教授が解説している。)
ウソのような本当の話(雪の話)
金沢も最近は雪が少ない年が続いているという。今年も1月になってようやく
白くなってきた。思えば,前回は56豪雪の時で, 移転予定の角間地区の雪対策も
一つの課題であった。「除雪は簡単に出来るというところを見せてやれ。」と,
当時の上司の指示で城内の雪を全部取り除くことになった。丸二日かけて雪を空
堀にダンプで運んではブルで押し込む。空堀一杯になった雪はその年の6月頃ま
であって,石垣の除草の手間が省けるおまけつき。山はさらに大雪で,「ウソ」
という鳥が食べるものがなくなり,里まで下りてきて桜のつぼみをついばんでし
まった。ために,その年の桜の花は意地悪じいさんが灰をまいたかのような咲き
具合で,淋しい春となった。これウソのような本当の話。
都会では雪が降ると子供たちが喜んで外に出て遊ぶのに,こちらでは誰も外で
遊んでいない。この地の雪は,子供にとってもやはり大きな負担なのだろうか。
だからこそ,春が待ち遠しい。北陸の春はすべての花が一斉に咲いて,それこそ
一気にやってくる。金沢大学も,これから第二期移転事業,病院の再開発など大
きな事業がスタートする。皆様方とともに見事な花を咲かせたいものだと念じて
いる。
話
んな
こ
史
編
部
部局
学
薬学部50年の歴史
薬
50年史編纂委員会委員
正宗 行人 (薬学部教授)
年史編纂室
昨年4月に薬学部の50年史編纂委員に任命された。 大場教授に薬学は薬学部100年
史を昭和42年に出版しているからそれを参考にすればなんとかなるよと言われた。そ
こで100年史を読んでみたが, これを元に80ページの内容を書くのは容易なことでな
いことがすぐわかり,途方にくれた。ちょうどそのころ,日本薬史学会の依頼で薬学
部前史を山本譲名誉教授 が執筆しておられることを知り,先生の助けをお借りするこ
とにした。先生は前史のみでなく,戦後に薬学部となってからのことも調べ始めてお
られ,大変助かった。先生を中心にして,多くの先輩の協力も得られ,なんとかこの
3月の初稿締切に間に合いそうである。
薬学部は1867年に 卯辰山 養成所に製薬所と薬圃が附設された時を創立時とするが,
その後,理化学校として兼六園の時雨亭のところにあったこともあるそうである。終
戦時には金沢医科大学附属薬学専門部となっていた。戦後金沢大学を設置するに当た
り,鵜飼主事の多大な努力により,わが国で最初の医学部より独立した薬学部として,
金沢大学に参加することとなった。順調な発展が期待されたやさき,昭和32年に火災
にみまわれた。学部の再建の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。その後,
諸先輩の努力で大学院薬学研究科薬学専攻が設置され,さらに製薬化学科の設置も認
められた。昭和60年には薬学部の長年の夢であった,大学院博士課程が大学院薬学研
究科生命科学専攻として設置された。平成8年にはこれからの薬学教育を目指す一つ
の方向である医療薬学教育を充実するために,修士課程の医療薬学専攻(独立)が設
立された。
平成9年には 大学院薬学研究科(修士課程)は自然科学研究科の改組にともない,
博士前期課程に統合された。また,後期課程の改組も本年行われる見込みがつき,薬
学部も生命科学専攻の中心として引き続き参加することとなった。大学院大学を目指
した,次の取組が始まると思われる。
50年史編纂に参加させてもらったおかげで,薬学部の歴史をかいま見ることができ
た。ものごとの節目節目には必ず強い意志と熱意,そして実行力のある人物がいるこ
とがわかった。
日誌抄録
(平成9年12月∼平成10年2月)
年月日 内 容 9.12.22
第四高等学校「自治会,学生運動」等の調査のため,深井寛氏(昭和25年同校卒)
来室,第四高等学校関係資料について面談
10.1.12
金沢高等師範学校関係資料のコピー・製本化
1.16
第四高等学校溝淵進馬校長の日誌資料調査
1.20
石川師範学校の学徒動員,その他資料について同校卒業生に面談
1.21
編集会議(第10回)開催
1.23
金子曾政元本学学長に面談
2.2
ビデオソフト「昭和初期の金沢」を視聴(於:金沢市立泉野図書館)
(旧制金沢医科大学上野一晴教授撮影のフィルムをビデオソフト化したもの)
2.8∼13
国立国会図書館,国立教育研究所,大学基準協会等へ資料調査のため,
江森50年史編纂委員,谷本室員出張
2.17
編集会議(第11回)開催