新谷刺繍の歴史 西暦(年号) 1921(大正10) 参考資料:先代新谷軍平が残した回顧録・ゴーダEMB(株)発行「穿針引線 合田峯松の足跡」 手縫ネームを参考に ミシンネームに挑戦 シンガーミシン「15種」 足踏家庭用ミシン使用 1923(大正12) 関東大震災 1924(大正13) 国内初 足踏ミシンによる 手振ミシンネーム出現 先代 新谷軍平(1902-1978)の妻「りょう」が 祖父の洋服屋時代の手縫ネームをミシンで 出来るように練習を始める ◎手縫ネーム 当時 西区九条の千波ネーム店(後にミシンに転向)文字の形に 渋紙を切り抜き糊で貼付、その上を撚糸で縫い上げる(盛上がりキレイ) ◎手振ミシンネーム 生地(布)を手で直接前後左右させ乍ら文字を縫い上げていく方法 (技術差大きい)手縫ネームよりは見劣りする 現在のコンピューターミシンと原理は同じで 針は上下動のみ 生地(布)を動かす方法が、機械(電動)か手動の違い 1926(大正15) 1927(昭和2) 1928(昭和3) マルシンネーム店創設 6月 円タク登場 8月 甲子園球場完成 大阪市此花区西九条に看板を出す 大阪市内均一タクシー料金(1円) シンガーミシン「17種」 電動千鳥ミシン 電動ミシンネーム専用機 第一号 機械科出身の先代と その義兄(故 井上昌二氏 現 井上金属工業(株)創設)の 協力を得て、 中古「17種」ジグザグ(千鳥)ミシンを20円で買い、 1年がかりで針巾が変えられるミシンネーム専用機 第一号を完成 (能率をあげていく)日商 8~10円 外交に出る(注文取り) 中古自転車を買い、市内を朝定時集荷 翌朝、集荷時に引渡し、 後に当日配達出来るようになる 時間厳守で信用を得る 電話開設 新設 大阪 1020円 電動全方向 ミシンネーム装置 考案 針棒を中心にミシン全体が90°回転さす装置を造り、 タテ・ヨコ・ナナメ自在に糸のかかる理想のミシンネーム機 両手、両足使用の為、技術取得に苦労した 見習募集第1号 故 合田峯松氏(現ゴーダEMB(株)創設)入社 見習募集第2号 故 西澤信一氏(福知山) 林ネームさんが シンガーミシンへ 問い合わせ 林ネームさん(故 林清一氏 現ハヤシエンブ(株)創設)が 弊社が入れた見返しネームをシンガー社へ持込、 「新谷ネームは電動で糸目がタテヨコ自由自在の ミシンネームをしている、こんなミシンはないのか?」 と問い合わせる. シンガーミシン工業部より弊社 へ 問い合わせ 価格競争 当時の5軒以外 高田ネームや 近澤ネームを知る 試作中として拒否する 横振107W102輸入 シンガー刺繍ミシン黒色 初輸入 一番先に林ネームさんが購入 林ネーム(当時 福島)景山ネーム、宇田ネーム(谷町)、 藤井ネーム(日本橋)、新谷の5軒で得意先の取り合い、 特に林 対 新谷は0円迄エスカレートした 1929(昭和4) 輸入第2号(新谷ネームへ) ライバルの購入を知り続いて450円で購入した 音は静かで1000回転以上、振巾:10mm以上 申し分なく画期的ミシン 今日迄ほとんど改良なし(現在は製造中止) 次第に台数増えていく 1933(昭和8) 貸家新築の余裕 (現在の弊社敷地となる) 大阪市都島区(現在地)86坪に2階建4軒1棟を新築 貸家とする 1935(昭和10) 会社等のマーク刺繍受注へ 丸コンパス独自製作 マーク加工に必要な製図も拡大・縮小も得意の先代は シンガーミシン専用の丸コンパスは芯押えが不十分故、 真円の2重・3重も正確に出来る丸コンパスを独自製作 圧倒的な受注を得た 1937(昭和12) 二代目 現社長誕生 5月 新谷 將平(現 有限会社新谷刺繍 社長)此花区で生まれる 応召 12月 先代 応召 自動車隊へ 社員 故・西澤信一氏 別部隊へ 故 合田峯松氏 マルシンネームの後を引継ぎ、港区で独立開業 1940(昭和15) 七・七 禁令 ぜいたく品製造販売制限規則 施行される 我々の仕事も駄目となったが企業のマーク、バッジは 金属代用としてミシンネーム・マークが適切との 我々の運動の結果、政府に例外として認められ 仕事は続けられた 1941(昭和16) 太平洋戦争勃発 1943(昭和18) 疎開始まる 先代の義兄(豊中市)宅へ 横振107W102ミシン6台一式と共に 現社長 新谷 將平(小1)と 従兄 金川賢次郎(小2)(故・金川刺繍(株)会長(神戸市))と 2人お世話になる 1945(昭和20) 7月 戦火で焼失 此花区 マルシンネーム店 都島区 貸家86坪 (現 新谷刺繍 敷地) 共に全焼 8月 終戦 9月 火災保険 1946(昭和21) 1946(昭和21) いくら掛けていても一律最高5000円のみの支払い 預金封鎖 銀行預金は一銭も引き出せなかった 後に封鎖証紙の貼った紙幣のみ通用した 進駐軍 関係の仕事 正月に 故 合田峯松氏より連絡有り 進駐軍のマークの仕事があるので至急準備をとの一報をもらう バラック建築で仕事準備 保険金の5000円を元手にバラックを建て、ミシン作業の準備 1946(昭和21) 6月 G.H.Qの軍命令 上本町 山本良 微章店を窓口に、故 高津俊三氏 故 合田峯松氏、故 橋本友蔵氏 等々のメンバーと共に 注文をこなし再建ができ、今日がある 電気事情悪化 一般家庭はよく停電があった為、仕事中、停電になったら昼でも ミシンの前で寝て、夜、電気が来たら仕事をする状態の連続だった、 足踏式で107ミシンを回したこともあった 自家発電 バッテリー設備をし、自家発電で仕事をする 単独台は価格が高く 6台連続して1個のモーターで回す ミシン部品作り 107W102横振ミシン 部品不足時代 仕事はあっても横振ミシンが尐なく、あっても部品のない物や磨耗で ガタが多かったので部品を自作するしかなかった 先代は寝食を忘れ 夢中で作業 造って同業者に譲った部品 ・中ベルト(タイミングベルト)………麻糸を撚ることからはじめ、 ベルト製作装置も自作し、 幅や長さを調整しながら作った ・ベベルギヤー 1セット(シャフト用と釜用のギヤー) ・振巾調節用シャフト 針棒とマネキの連続用クランクの修理 等、 (ミシン屋でも当時 設備も技術者もなく出来なかった) 部品自作 →同業者へ 先代の義兄の工場の施盤やボール盤等 その他設備を借りて自作し間に合わせた 1950(昭和25) 貿易物の仕事 ハンカチや枕カバー等 繊維加工品の輸出の仕事 1956(昭和31) 見習生 大募集 尐しでも刺繍が入っていれば有利に出荷出来た為、 数量が非常に多かった。 見習生を多く確保し、練習台用に大いに利用出来た 屋号 新谷刺繍加工所とする 二代目 新谷 將平 入社 ジャガード 4頭建×3台 パンチング機×1台 設置 入社後すぐ、テキシマ(ドイツ製)ジャガード設備を スポンサーの協力で設置 担当を命じられる 故 合田峯松氏や日本レース(株)パンチング技師に指導依頼 勉強する 1957(昭和32) 1958(昭和33) 1958(昭和33) (ジャガード4頭)と (横振107)1台分が 同等くらいの能率だった 前年導入したジャガード機は、タテ4ミリ×ヨコ4ミリ 斜6ミリの 範囲しか振巾がなく250回転 作業も限定された パンチング機 6倍のトレース上に1針ずつ針目を製図 X,Y軸交点ではじめて1針の パンチングで1日3000~5000針程度しか出来なかった。 刺繍データ管理 紙テープ(56ミリ巾)かさばり保管に苦労 ジャガードに見切り 横振り及び、 特殊ミシンでいく決心 能率面で資金的にも企業化には弊社では無理と判断 撤退した 横振りミシン用 靴下専用だ円枠制作 プラスチック工場と相談 3~4cm大のワンポイント柄は出ていたが、 だ円枠使用で(3×8cm)程度の長い柄刺繍の要望に応え、 靴下工場の多い奈良方面からも大口注文 ハンドル刺繍にも進出 単環は元より飛び環(2色交互)巻ハンドル コード縫い 2本針巻ハンドル等 カットワーク(コード刺繍) アタッチメントも考案(細い芯でもコーナーで上糸が はずれないようにした) 横振107W102の 二本針化 針棒の先を2本針用に作り直した 横振ミシン ワッペン ジャガード(現コンピューター)の正確さには、 歯がたたないが、見劣りせぬ横振ミシンワッペンを制作 ジャガードなんかに負けるか!の意気込みで 他店ですぐ真似の出来ない弊社独自の商品作りを目指した。 色々なアタッチメントを自作 刺繍に応用 1958(昭和33) 外枠の正確さにゲージ使用 1963(昭和38) 次男 新谷秀清入社 1973(昭和48) 有限会社新谷刺繍に改組 法 人とする 二代目 新谷 將平(代表取締役) 次男 新谷 秀清(取締役) 兄弟でそれぞれ得意分野を担当 共同経営 1985(昭和60) コンピューターミシン刺繍再参 入 紙テープの管理(56~25ミリ巾)に苦労したが フロッピー化出来たので導入 それまでの間、大口注文は外注形式で他店に協力してもらった 現在 1頭8台 小ロット多品種対応 ネーム・マーク・ワッペンを主とする 賃貸マンション6階建 新築 事業縮小の為 86坪の旧作業所兼自宅を全部建替 1階18坪を(有)新谷刺繍として現在に至る 1988(昭和63)
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