﹁初代ペンキ屋﹂の自負胸に

 ﹁オレンジ色はあでやか
てた撮影は初めてだった。
とが混ざりあった時、その
闇夜に向かう空の色と照明
本で一番高かったからな﹂。
してたけど、怖かった。日
た。 ﹁ずっと高い所で商売
合わせ、上へ上へとのぼっ
の磯部﹃夫会長︶の塗装を
式鉄塔世界︸の高さを目指
からこそ、自分が先に行か
手を挙げない。 ﹁怖い所だ
代未聞の建造物﹂ ︵3代目 が引き受けなければ、誰も
していた東京タワー ﹁前
なくちゃ。それが職人気質
は最も危険だった。責任者
塗りながら下りていく作業
はひるんだ。逆台形をした
色は一段と映えた。 ﹁鉄が
塗装職人の現場責任者とし
受注し、鈴木さんは蒲原や
戦争を経て復職した。パリ
オブジェに見えた﹂と水野
ジ色に塗り上げた。
52年前、同じ地点で仕事 て、タワーの鉄骨をオレン
さんは語る。
10代から、地元蒲原の毘
磯 から癸窪れ霰地
の芝公園へ向かった。
”成長”する東京スカイ
よ﹂と鈴木さんは言う。
ツリーに﹁高さは追い越さ
れた﹂と残念に思いつつも、
鈴木さんの胸は自負の思い
教開年迎ル
鰍躍
鉄骨は事前に工場で塗装
・エッフェル塔を抜き自立 構造の外枠を、上を向いて
神沢生まれの鈴木賢治さん
をした人がいる。旧蒲原町
で﹁ペンキ屋﹂として働き、
︵84︶口大阪府在住目は、東部塗装︵現在、本社東京︶
京タワーが空に延びるのに
﹁初代ペンキ屋﹂の自負胸に
の構造は想像以上に複雑。
だった﹂。地上250材。 オレンジ色に塗られた鉄骨
に出た写真家水野雄介さん
今年初め、特別展望台の上
︵49︶け伊豆の国市Hは夢中
に満たされる。﹁おれたち
った初代ペンキ屋だ﹂
は日本一の東京タワーを塗
首都東京のシンボル、東
◇
に映える﹁インターナショ
立年間構
モ塔に者父
東19成前と
夘響観
士」 「耐震
を済ませるが^組み立てた
いては、岸座中”の現場で
ナルオレンジ﹂に塗り上げ
原︵現・静岡市清水区蒲原︶
に譲ったタワーに、彼らは
建設中の墓泉スカイツリー
のは産経新
後に溶接する連結部分につ
手塗りするしかない。ニッ
を片手に持ちうう鉄骨につ
姿。ペンキ入れの﹁さげ缶﹂
たのも、今、塗り替えてい
カーボッカーに地下足袋 京タワー。この鉄塔を青空
かまり、はけで3回塗る。
の上を歩く時もあづた。細
日舞なく、・援L馨 るのも﹁塗装のまち﹂ 蒲
い場所で幅10∼距穆。﹁よ 生まれの男たちだ。52年間
く歩いたもんだ4自分に課 守り続けた﹁日本一高い建
人は歩けない﹂
せられた仕事だからね。素 造物﹂の座をことし3月、
といっても、後に特別展
望台となる250層地点で何を思うのか。
(昭和33)
でシャッターを切った。東
京タワーの鉄に、焦点を当
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仲早大名誉
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年にライトアップを
U億人を記録。2006
,08年開業50周年を
したパリ・エッフエ
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▲上
東京 タ ワ ー を は け で 塗 る 若 き 日 の 鈴 木 さ ん ︵ 鈴 木 さ ん 提 供 ︶
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平成22年(2010年)9月21日〔火曜日)
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