2012 年3月号 - 日本ビジネス航空協会

2012 年3月号
隔月刊
(NPO法人)日本ビジネス航空協会
◇
巻
頭
歩
道
理 事 寺岡 伸二
岡山航空(株)代表取締役
パイロットとしてはまだまだ未熟な私がこのような機会を頂き手記を掲載させて頂きま
す事に感謝申し上げます。
私がパイロットとして歩みだしたのは山梨県にある日本航空高等学校(JALとは無関
係)に 25 年前入学した時から始まりだしたように思えます。
高等学校では主に航空整備を学び、空を飛ぶ事に何が必要かも知らず?一抹の不安を抱え
たまま日本航空大学校 操縦科に入学して操縦訓練生としての 1 歩を踏み出しました。
今は無くなってしまいました、群馬県館林飛行場を基地としての飛行訓練が始まり、初め
ての単独飛行前夜は緊張のあまりベッドに入るもなかなか寝る事が出来ず、睡眠時間は 4
時間も無かったように思います。
天候は晴れ、微風で単独飛行には最高の気象条件での First Solo でした。
エンジン始動、地上滑走そして離陸、 眼下に広がる景色と自分が操縦して教官が横に居
ない現実、この感動はパイロットであれば誰もがほぼ同じ感情と思いますが、私は『ほっ』
としました。人生の中で最高の出来事のひとつとして忘れることはありません。
2 年間の操縦科課程にて事業用操縦士まで取得して迎えた卒業式、そしてプロパイロット
としての訓練が大阪八尾空港にて始まりました。
学生時代とは違って給料をもらっての飛行訓練は体制も対忚も全く違うものでした。
航空機使用事業での機長発令を受けて機種限定訓練も無事合格し、約 7 年間セスナ 172・
206・208 型で大阪を初め日本の各地へ飛行する充実した毎日でした。
この時一番怖いものは天候(自然の力の前に人は無力)を痛感させられる経験をして、今
でも大切な教訓として飛行しています。
その後、ある人物との出会いをきっかけに岡山県岡山市浦安南町にある岡南飛行場の片
隅に事務所を設け、日本一小さな航空会社として岡山航空が誕生しました。
パイロットと経営の両立を追求される日々が待ち受けていました。
小さな会社でしたが、アットホームな雰囲気に何度も救われながら成長して来ました。
人生、起業につながったある人物である岩崎氏が癌と告知されました。
そのような中、パイロットと経営者として 2 足のわらじを履きながら多忙な日々を過ごし
ましたが、岩崎氏が他界するという大きな悲劇が私の目の前に訪れました。
岡山航空の存続、これからどうして行けば良いのか?大きな負担が私の肩に被さってきま
した。
そのわずか 2 週間後、暑い 8 月の朝のことです。これ程までに人生は試練を与えるのか
と痛感させられたのは、岡山航空のセスナ 172 型航空機が写真撮影中に墜落し、機長含む
2
搭乗者 3 名が死亡との報道、また運航管理から業務連絡があった時は、目の前が真っ暗に
なり呆然となりました。
毎年 8 月になると、役職員に安全運航を注意喚起すると共に墓前に行って報告を欠かす
ことはありません。
『安全は全てに優先される』を日々感じながらパイロットとして飛行し、
ある時は社長業に努めております。
これらの教訓を忘れることなく、社員一丸となって乗り越えてきた結果、セスナ・サイ
テーションを運航する機会に恵まれ、限定
変更訓練を始めることになりました。
今までとは違い、大きさは約 2 倍ですが、
速度は約 4 倍と自分が想像するより遥かに
ヘッドワークが必要な機体に当初は振り回
されたのを覚えています。このビジネスジ
ェット機の運航をきっかけに、株式会社ジ
ャプコンを設立し仕事も尐しずつ頂けるよ
うになってきました。
セスナ・サイテーション
フリート
平成 18 年には念願の新社屋を建設し、セスナ・サービス・ステーションとして認可を頂
きました。北は秋田、南は沖縄のお客様から機体整備のご用命いただき、年間 50 機程度の
整備作業を担当させていただいております。また、乗員訓練ではサイテーションの限定変
更訓練を受託して、現在まで約 12 名の合格者を出してきました。平成 20 年にはセスナ式
680 型、T類の航空機として初めての経験となります。
米国 Fight Safety での訓練を 2 週間受け、その後実機訓練を受けて日本へ帰国しました。
日本国では初めての型式のため、国内に限定資格を持った教官がいないため、航空法第 35
条の相互監督訓練申請を行い、岡山空港及び高松空港を訓練空港として無事合格しました。
世紀末を思わせるような出来事が東日本を襲いました。
私は、本業とは別に日本赤十字社 赤十字飛行隊の岡山支隊長を務めさせていただいてお
ります。本部と連絡をとり被災地への救援物資の確保・輸送手段を日夜検討しました。熊
本支隊、沖縄支隊と連携し、3 月 19 日には花巻空港へ第 1 回目の救援・医療物資を全国に
先駆けて空路により搬送しました。
(写真下
3
左
右)
大きな事はできなくても、今できる事を早くと思う気持ちだけでおこないましたが、被
災地から感謝のお言葉を頂きました時、この会社や仲間がいる環境で頑張って良かったと
痛感いたしました。
また、航空フェア実行委員会を設置し、実行委員長に任命され 9 月 11 日に岡南飛行場で
航空祭を行いました。岡山県、岡山市から後援をいただき、日本赤十字社・自衛隊も参加
いただき東日本震災復興支援とし、防災意識の向上を目的に募金活動・セスナ機(実機)
に岡山の子供たちからの被
災地忚援メッセージを書い
てもらいました。
この機体は、今年 1 月末に仙
台の東日本航空専門学校様
に実習機として寄付しまし
た。
(写真左)
だらだらと、まとまりがない
文となり申し訳ありません。
◇ ビジネス航空界のトピックス ・ 新着情報
航空局主催「安全に関する技術規制のあり方検討会」第 2 回開催
航空局主催の「安全に関する技術規制のあり方検討会」
(委員長鈴木真二東大教授)の第
2回会議が、2 月 6 日に開催されました。
今回も主として定期航空会社から出ている要望を中心に議論が行われましたが、今後はビ
ジネス航空関係の要望もここで取り上げていくことになっています。
検討会の詳細につきましては、国土交通省ホームページ、航空-基本情報-審議会・委
員会等-安全に関する技術規制のあり方検討会、
http://www.mlit.go.jp/koku/koku_tk19_000001.html
をご参照下さい。
日経フォーラム
協会が「特別協力」しました日経新聞主催の日経産業新聞フォーラム 2012(ビジネス航
空フォーラム)
「日本企業の本格的グローバル化に向けて、ビジネス航空が果たす役割」が
2 月 9 日日経ホールで開催されました。
フォーラムは吉田国土交通副大臣、経済産業省宮本大臣官房審議官、北林協会会長等の
挨拶の後、長田航空局長による基調講演「我が国におけるビジネスジェット推進に向けた
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取り組み」
、深谷成田国際空港(株)専務
執行役員による「成田国際空港における
ビジネスジェットの受け入れについて」
等の講演やプレゼンテーション、パネル
ディスカッションが行われました。パネ
ルディスカッション等には多数の会員企
業の方にも御登壇いただきビジネス航空
への理解を深めていただく大変良い機会
になりました。
パネルディスカッション風景
航空局主催第 4 回「ビジネスジェット推進委員会」開催
航空局主催第 4 回「ビジネスジェット推進委員会」
(委員長戸崎 肇早大教授)が 2 月 16
日に開催されました。第 3 回委員会以降における主な動き(成田、中部、関空等のその後
の状況等)や活動(海外向情宣活等)等が報告、討議されました。又技術規制緩和に向けて
の今後の進め方が紹介されました。
この委員会の議事内容も国土交通省ホームページ(航空、審議会・委員会等)で紹介されてい
ますので御参照下さい。
ABACE 2012
ABACE(Asian Business Aviation Conference & Exhibition)2012 が、NBAA(National
Business Aviation Association)と AsBAA(Asian Business Aviation Association)の共催で
3 月 27 日-29 日に上海で開催されます。
久しぶりの ABACE ですが中国のビシネス航空の最近の急速な発展ぶりを知る良い機会に
なると思われます。日本からも会員の愛知県や成田国際空港(株)等がブースを出展されます。
又航空局からもご参加いただける予定になっております。
成田国際空港ビジネスジェット専用ターミナルオープニングセレモニー
成田国際空港ビジネスジェット専用ターミナルオープニングセレモニー&見学会が 3 月
30 日(金)に同施設で開催されます。当日は会員企業のご協力によりビジネスジェット機の
展示も行われる予定になっております。
同施設の供用開始は翌 31 日に予定されています。
◇ 協会ニュース
拡大専門委員会開催
協会では理事会社を中心にした幾つかの専門委員会を従来から設置しておりましたが、
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其々の分野における一般会員の皆様の御意見を広く聞かせていただくための意見交換の場
として、その分野のすべての会員の皆様をメンバーとする以下の第 1 回拡大専門委員会を
開催させていただきました。
・運航・整備拡大専門委員会
2 月 10 日
・空港・グランドハンドリング拡大専門委員会
2 月 15 日
我々の方からも最近の活動状況をお話させていただき、又多数の現場の生の声、ご要望を
聞かせていただくことができ大変有意義な場になりました。
今後もこのような機会を年1、2 回は設けて行きたいと考えておりますのでよろしくお願い
致します。
日本航空協会主催の講演会でビジネス航空について講演予定
日本航空協会主催の「航空と宇宙」定例講演会で佐藤協会副会長・事務局長が「ビジネス
航空の現状と課題、そしてその将来について」講演することになりましたのでお知らせし
ます。
日時 : 3 月 13 日(火) 15:00-16:30 会場 :新橋の航空会館
詳細は日本航空協会のホームページをご参照下さい。
総会
会員の皆様には正式には別途ご案内しますが 2012 年度の協会定例総会を
5 月 9 日(水)にメルパルク東京で開催致します。
主要協会活動(1-2 月)
1 月4日 日本航空協会主催の賀詞交換会に参加
1月 19 日 関空会社と会議
1月 19 日 静岡県と会議
1月 25 日 全地航の講演会に参加
2月1日 福岡県と会議
2 月 6 日 航空局主催の第 2 回「安全に関する技術規制のあり方検討会」をオブザーブ
2 月7日 理事会開催
2 月9日 日経フォーラム開催
2 月 10 日 運航・整備拡大専門委員会を開催
2 月 15 日 空港・グランドハンドリング拡大専門委員会を開催
2 月 15 日 「横田基地民営化推進」の会議に出席
2 月 16 日 国土交通省吉田副大臣を訪問
2 月 16 日 航空局主催の「ビジネスジェット推進委員会」に出席
2 月 16 日 群馬県と会議
2 月 21 日 協会法人格変更準備会議を開催
2 月 24 日 成田国際空港(株)訪問
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◇ 投 稿
世紀の海難事故―タイタニック号事件(Ⅱ)
元日本海運㈱
常務取締役
髙
島
健
来る 4 月 15 日には 100 周忌を迎えるタイタニック号の遭難事故ですが、、
「海洋も航空も両者に油断、思い過し、過信、まさか、と言う不安全要因の相
似性が厳然と存在します。このところ大きな事故がないと言って油断していると、
何が起きるか分からない、天災や事故は忘れたころに起こります。ビジネス航空に
も無事、無事故が続くように祈りましょう」。
以上は、かつて航空大事故の辛苦を経験された大先達から寄せられた前
号本欄読後感の要約・転載です。
柳 井
3. 避航が間に合わなかったのは
<氷山の視認距離とスピード>
一般に
氷山は、晴天暗夜では、1~2海里で容
易に視認できると云われており、従来は、
これだけの距離があれば、船は氷山を発
見してから十分避航する余裕があると考
えられていた。しかし、北大西洋航路は
スピード競争の時代に突入しており、イ
ギリスを始めとしてドイツ、アメリカなどの船社が続々と22~23ノットの船を投入し
てきていた。
晴天暗夜、氷山を発見してから避航するまでの余裕があるという一般的な概念は、船が
15~16ノットで走っていた頃には十分通用したのだが、22~23ノット、あるいは
キュナード・ラインのモレタニア号、ルシタニア号のように26ノットという高速船が出
現した場合、必ずしもこの常識は当てはまらなくなってきていたのである。因みに16ノ
ットの船の場合、2km走るのに約4分かかるが、26ノットの場合は約2分30秒で到
達することになる。
ホワイトスター・ラインは、スピード競争に関しては、1890年代まではチュートニ
ッ号、マジェスティック号(約1万トン)という2隻の20ノットクラスの船で他社に対
抗していたが、その後は、燃料消費量が極端に多くなる高速船を追求するよりは、大きさ
と豪華さで勝負するというコンセプトに変わり、高速船からは手を引いた格好になってい
た。
スミス船長は、ホワイトスター・ラインでは最古参の船長であったが、キュナードやド
イツの会社の船長たちほど高速船での経験は豊富ではなく、また航海士たちも、高速船に
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は馴れていなかったといえる。自分の船が46,000トンという世界一巨大な船で、ス
ピードも他社に比べれば遅いとはいうものの、それまでの16~17ノットの時代からは
飛躍的に速くなっており、大型・高速船であるからこその操縦性能の低下、また、衝突し
た際の衝撃の大きさなどに関し、十分認識すべきであったのである。
<舵の形状とプロペラの関係>
タイタニック号の舵は、優雅なカウンタースターン(帆
船型船尾)に合わせて、薄く縦長でなだらかな三日月型になっており、船体の浸水部に対
する舵面積比率も1.9%と小さく(通常3~5%)、しかも肝心のプロペラによる水流
が当たる部分の幅はむしろ狭くなっていた。
船の舵というものは、船が走っている時、即ち舵に水流が当たった時初めて効力を発揮
するもので、汽船時代に入ってからの舵は、プロペラによる水流を最も効果的に利用出来
るよう設計されていたが、タイタニック号は、帆船時代の舵の形をそのまま踏襲していた
のである。長さが270メートルもある船のアドバンス(舵をきってから船が90度回頭
するまでの前進距離)がどれ位か、また、緊急時にはどの程度の旋回能力を持つべきかな
どについて、理論的な計算がなされていなかっ
た模様で、正にタイタニック号のアキレス腱で
あったと云われている。
これに較べるとキュナーダーの舵は、汽船に対
忚した設計になっており、舵面積比率も約5%
で、プロペラの水流を受ける部分の幅が最も広
く、高速船 時代にマッチした形状であった。
タイタニック号の舵とプロペラ
4.
不沈船と云われた船が呆気なく沈んだのは
1985年9月1日、3,800メートルの海底に眠るタイタニック号が、アメリカ、
フランスの合同捜索隊によって発見された。その後、船体の一部や部品、船客の遺品類な
ど約5千点以上が回収され、科学的に分析されるとともに、深海での目視や超音波による
損害箇所の調査も進み、沈没時の情況や、損傷の状態などが次第に明るみになってきてい
る。
また、発見当初は、海中にいる鉄を喰うというバクテリヤによりかなり多くの“錆びつ
らら”が発生してはいるものの、船首部分から船橋や士官居住区、前部の客室にかけては、
かなり原形を止めており、あと100年位は持つであろうと推測されていたが、最近の調
査では、ツアー等の観光客を乗せた深海艇がデッキに降りたりして破損を促進しており、
また腐食も一段と進んでおり、今後せいぜい50年程度で、船体は完全に消滅してしまう
のではないかと懸念されている。
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<構造上の問題>
タイタニック号は、不沈構造ということで15個の水密隔壁により1
6の区画に仕切られており、そのうちの4つの区画に浸水しても浮力が保たれるように設
計されていた。しかし、氷山は右舷船側を約100メートルにわたって擦るようにして接
触して行ったため、5つの区画にわたって5~6箇所の亀裂が生じ、海水が毎秒約7トン
の割合で船内に侵入、前の区画でオーバーフローした海水は次々と後ろの区画に流れ込ん
で行き、結局、船首の方から海中に没してしまったのだが、隔壁の高さがあと一層高けれ
ば沈没は免れたのではないかとも云われている。隔壁の高さが低いということは、その上
の部分のスペースを広大に使うことが出来、船の幅
一杯の豪華な大食堂や贅沢な談話室、数層を突きぬ
いて設置された優雅な廻り階段など、タイタニック
号が世界一豪華な船であるともてはやされた反面、
構造的に強度という面では尐なからず問題があっ
たと云える。
タイタニック号が沈没する最後の瞬間には、船尾
が大きく持ち上がり、大音響と共に船体が折れ、沈
没を早める結果になっているが、広い大食堂や吹き
抜けの廻り階段スペースなどが尐なからず影響し
ていることは否めない。
豪勢な廻り階段
<衝突のタイミング> 氷山は、タイタニック号が左に回頭を始め、約20度ほど回頭し
た頃右舷前部に衝突したのだが、氷山の発見があと1秒早ければ、船の回避動作が間に合
って衝突は避けられたかも判らない、と同時に、逆にあと1秒遅ければ、氷山はより船の
正面に衝突して、船首の部分は大きなダメージを受けるにしても損傷はせいぜい1~2区
画で止まり、船全体に海水が浸入するような事態にはならなかったのではないかとも云わ
れている。衝突のタイミングが最悪であった、或いは衝突のしかたが最悪であったという
ことになる。
また、1等航海士のウィリアム・マードックが、衝突直後に水密隔壁の水密扉を閉鎖し
たことは、一般的には間違った措置ではないのだが、この事故の場合、むしろ扉を開放し
て海水をどんどん後に流し、船体を出来るだけ長く水平に保った方が(イーブンキールの
状態)、いずれ沈没は免れないにしても、船首から突っ込んで船体が折れてしまうという
ような事態にはならず、より長く海上に浮かんでいることが出来、救助船のカルパチア号
が間に合ったのではないかという説(計算)もある。
<粗悪な材質>
ごく最近の調査では、切断面を水中カメラでつぶさに調べ、また船体を
構成していた鋼板(厚さ2.5~3.8cm)や鋼板をつなぎ合わせているリベット(ボ
ルト)を回収して化学的に分析したところ、鋼板は現在の鋼板にくらべると、燐と硫黄分
が非常に多く(それぞれ4倍と2倍)含まれており、このため柔軟性に欠け、特に摂氏0度
程度では脆かったことが判明、またリベットは、通常は「best best」といわれる基準4の
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抗張力の強いものを使うところ、タイタニック号は 基準3の「best」が使われていたこと
が判り、氷山に衝突して出来た亀裂は、実際は、鉄板を繋いでいたリベットが連続的に破
損し、鉄板の間に隙間が生じたものであると考えられるようになって来ている。
また、切断部の破損の状態をつぶさに調査し、船体の上部にかかった引張り力と、底部
での圧縮力を推定した結果、タイタニック号が沈む時は、一般に云われているように船尾
を空中高く持ち上げて折れたのではなく、せいぜい15度位の角度で折れたのではないか、
と推測されている。
5. 沢山の犠牲者が出たのは
<救命ボートの不足>
タイタニック号には正規のものが16隻、折りたたみ式が4隻
で合計20隻の救命ボートが設備されていたが、定員は全部合わせても1,178人分で、
タイタニック号の最大搭載人員3,300人の約3分の1、この航海の乗船者約2,20
0人に対しても約半分であった。
この時代、救命ボートに関する規則は、1896年に制定されたものがそのまま適用さ
れており、1万トン以上の船の場合は、16隻で良いということになっていた。20世紀
に入り船舶がどんどん大型化して、乗船人員も2千人から3千人以上と増えていたにも拘
わらず、救命ボートに関する規則は、極めて時代遅れであったといえる。
この背景には、一般的には救命ボートは全員が退船するためというより、むしろ交通の
激しい北大西洋上では、無電で遭難を知って駆けつけた救助船と遭難船との間の交通手段、
テンダーボート、として利用するためのものという考えが強かった。本船に何らかの事故
が発生した場合でも、数時間の余裕があれば、付近を航行中の船舶が助けに来れるものと
考えられていたのである。20世紀に入って、急速に普及してきた無線電信の存在もこの
ことを助長していた。
また、現実の問題として、3千人以上の乗客・乗員を短時間で救命ボートに乗せて避難
させること自体、かなり困難な作業でもあり、また沢山の救命ボートを積むということは、
それだけお客にとっての憩いの場であるボートデッキ(プロムナードデッキ)を潰すこと
になるわけで、このような理由から、当時大西洋を横断していた船は、タイタニック号ば
かりでなく、殆どの船が定員の2分の1から3分の1程度の救命ボートしか用意していな
かった。タイタニック号も、当初は64隻計画されていたが、建造が進むにつれ次第にそ
の数が削減されていったのである。
<定員一杯まで乗らなかった>
タイタニック号が遭難していよいよ退船しなければなら
なくなった時、特に最初の頃は、船もまだそれほど危険な状態には見えず、船客たちにも、
まさか自分の船が沈む筈がないという期待感があったため、明るく輝く大きな本船から、
いかにも頼りない小さなボートに乗り移って真っ暗な氷の海に乗り出すということに、か
なり抵抗を示した客が多かった。また、「婦人と子供優先」
(Ladies and children first)と
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いう仕切りの中で、夫に離れてボートに乗ることを拒んだ夫人や、ボートの指揮をしてい
た士官が、ボートに定員一杯まで乗せた場合、重量が重くなり過ぎてボートダビット(吊
り支柱)の強度がもたないのではないかと考えたこと、更に、タイタニック号が新造船で
寄せ集めの船員たちであったため、ボートフォール(吊り索)を扱う船員たちの技量が判
らず、ボートにあまり加重をかけると危険であると判断したことなどが、只でさえ尐ない
乗艇定員に拍車をかけている。
ボートはなるべく軽い状態で安全に海に下ろし、その後、本船サイドに横付けして定員
一杯まで乗せる予定であったが、実際には、ボートは海上に下りた途端、船から遠ざかっ
て行ってしまった。タイタニック号はその頃、船首が徐々に沈んで行くと同時に船尾が上
に持ちあがって来て、海上に下りた小さなボートからは小山のように見え、恐怖心に囚わ
れ、更にはこれだけ大きな船が沈むと、その時出来る巨大な渦にボートが巻き込まれてし
まうと言い出す者も出たりして、本船に横付けすることなど考えられなかったのである。
<指揮命令系統の不徹底・乗員の訓練不足>
タイタニック号は新造船であったため、当
然のことながら乗組員も各船からの寄せ集めで、船内の指揮命令系統が徹底しておらず、
退船に当たって、船客の誘導などで混乱を招く結果になっている。約900人の乗組員は、
一忚日常の業務に関しては自分の役割を理解していたものの、海難事故発生等の非常時の
体制については、全く訓練されず徹底していなかった。ボートに乗って退船するという事
態が発生しても、自分の持ち場がどこであるか判らない船員が多かった。士官の中にも、
自分の指揮するボートが何号艇であるか知らなかったものがいたほどであった。
「婦人と子供優先」という取り扱いもマチマチで、右舷側を統括指揮していた1等航海士
のマードックは、婦人と子供を優先し、付近に婦人と子供が居なければ男性にも乗艇を許
可したのに対し、左舷側のライトラー2等航海士は、婦人と子供のみと解釈していた。
<近くに船がいたが・・・>
氷山に衝突して停船したタイタニック号のブリッジからは、
数マイルほど離れた所に船の灯りらしきものが見えていて、何とか遭難に気付いてもらい
たいと、遭難ロケットを打ち上げ、発光信号で連絡をとろうと試みたが、また、先方から
も何かチカチカと信号らしき光が見えたものの、結局虚しい結果に終わっている。
この船がカリフォルニァン号であることは間違いないと見られているが、カリフォルニ
ァン号のスタンレイ・ロード船長は、事故のあと開かれた査問委員会で、自分の船はタイ
タニック号からは20~30海里以上離れた位置におり、タイタニック号からも、また自
分の船からもお互いに見えていなかった筈である、ログブック(航海日誌)の記録からも
証明できる、と反論したが、委員会は、事件の夜カリフォルニァン号のブリッジで当直を
していた士官や、デッキに出て一服していた船員たちの、約5~6海里先の海上に大きな
客船が停船し、ロケット花火が打ち上げられるのを見た、という供述などから、カリフォ
ルニァン号のログブックは信憑性に乏しく(改ざんの疑い)
、同船はタイタニック号から1
0海里か或いはもっと近くにいて、タイタニック号のロケットが見えていた筈であり、そ
の時点で速やかに救助に行けば、1,500人全員とはいえないまでも、尐なくとももっ
11
と多くの人命を救助できたと思われる、という判断を下している。
6. 救助
救命艇で海上に逃れ出た遭難者を救助したの
は、船客745人を乗せてニューヨークから地
中海に向けて航海中であったキュナード・ライ
ンのカルパチア号(13,564トン)だった。
カルパチア号は、15日午前0時45分、タ
イタニック号からの遭難信号を聞き、直ちに反
転、ボイラーに出来るだけ多くの石炭を放り込
んで蒸気を作り、暖房や湯を一切止め、
カルパチア号
船内のあらゆる蒸気をすべて機関に投入して全速力で暗夜の海上を北上、通常は14ノッ
トのところを17.5ノットという誰もが信じられないスピードで疾走し、当初の予定を
30分も短縮して、午前4時遭難現場に到着した。しかし、時すでに遅く、明るくなりか
けた海上で見つけたのは、数海里にわたって散らばっている救命ボートのみであった。
直ちに救助活動を開始、午前8時までに705人の生存者を収容、甲板上に13隻の救
命ボートを引き揚げた後、地中海行きを取り止めニューヨークに引き返すことを決定。8
時50分、遭難現場を離れ、18日午後9時30分、マンハッタンのキュナード専用桟橋
に到着した。
カルパチア号がニューヨーク、アンブローズの港口からハドソン河を遡ってバースに向
かって航行している頃から、天候が急変して風雤が強くなり、土砂降りの雤となり、あた
かもこの悲劇の航海を象徴するかのように、雷光がきらめき雷鳴が轟いたという。
この船の船長は、アーサー・H・ロストロンで当年42歳、キュナード・ラインきって
の決断の早い船長で、決断の速さから同僚の間では“Electric Spark”(電気火花)とあだ
名されていた。
船長になってから2年目、カルパチア号には3ヶ月前に乗船したばかりだったが、この
時の沈着冷静な救援準備と、統率の取れた救助活動などの英雄的行為が世の絶賛を浴び、
国王からのメダルを始め、数々の表彰状や感謝状を受け、これを契機として彼の人生は日
の出の勢いとなり、最後はキュナード船隊の commodore(指揮官)の地位にまで昇りつめ
た。1931年に引退。1940年7月、72歳で死亡。
10.おわりに
タイタニック号が沈没する寸前海中に飛び込み、その後、救命ボートに助け上げられて
九死に一生を得た2等航海士のチャールズ・H・ライトラーは、生き残った乗組員の中で
最高位の士官として、査問委員会で最も多くの訊問を受け、証言をしており、この事件の
真相として明らかにされている事実については、ライトラーの発言によるものが多い。
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証言の中でライトラーは「100年に一度あるかないかという異常な事態が、すべてあ
の稀に見る静かな夜に集中して発生し、しかもそれらが全て我々に背をむけたのです。
(everything against us)
」と表現しているが、タイタニック号の悲劇は、その裏にある原
因の一つ一つは些細な人的ミスであっても、それらが、不幸にもタイミング良く(悪く?)
同時に発生し、大事故に発展した典型的な例である云えるもので、このことは、超近代化
が進んでいる現代社会においても、同様のことが云えるのではなかろうか。
(おわり)
髙
島
健氏のプロファイル
昭和10年4月10日生 東京都出身(76歳)
昭和33年 東京商船大学航海科卒業 三菱海運㈱入社
その後日本通運㈱海運部、日本海運㈱船員・船舶担当を経て
現在興洋マリン㈱非常勤顧問
趣味:囲碁、ゴルフ、船舶模型
著書の紹介
成山堂書店発行
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◇ ホームページのご案内
協会ホームページ
http://www.jbaa.org/
ホームページで、新着情報等より詳しい情報を提供させていただいておりますのでご利
用下さい。
◇ 入会案内
当協会の主旨、活動にご賛同いただける皆様のご入会をお待ちしています。会員は、正
会員(団体及び個人)と本協会の活動を賛助する賛助会員(団体及び個人)から構成され
ています。
詳細は事務局迄お問い合わせ下さい。入会案内をお送り致します。
入会金 正会員
団体 50,000 円
個人 20,000 円
賛助会員
団体 30,000 円
個人
年会費 正会員
1,000 円
団体 120,000 円以上
個人 20,000 円以上
賛助会員
団体 50,000 円以上
個人 10,000 円以上
◇ ご意見、問い合わせ先
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(NPO)日本ビジネス航空協会 事務局
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