会報 2011年5月号 - 日本ビジネス航空協会

2011年5月号
隔月刊
(NPO法人)日本ビジネス航空協会
巻
頭
理 事 久喜 敏弘
スイスポートジャパン㈱代表取締役社長
この度の東日本大震災におかれて被災された方々並びに
企業・団体に心よりお見舞い申し上げますとともに、一日
も早い復旧・復興を祈念致します
私どもスイスポートジャパンは、日本の三大経済圏に位置する成田・関空・中部の国際
空港にて主に国際線向けのグランドハンドリング事業を営んでおります。日本ではまだま
だ認知されていませんが、世界では、弊社のようなエアラインに属さない会社が約半数の
グランドハンドリングを行っています。
震災直後は、関空・中部にて臨時便などの増便が一時的にはありましたが、1 ヶ月以上経
過した時点では、上記空港全てにおいて定期便が大幅に減少され、特に成田空港では、今
年のゴールデンウィークの旅客需要が前年対比 48%減と予測されています。
わが国の航空 100 年であった昨年、成田・羽田の両空港において、ビジネスジェットに
関する規制・条件の緩和や発着枠の拡充がなされる等、国を挙げて、ビジネス航空への取
組み方針が大きく舵をきられました。しかしながら、昨今の状況を踏まえると、今後の日
本の復興には、西日本での経済活動が日本全体を牽引していかねばならない重責を担って
いると考え、この場をお借りして、関西国際空港について考察させていただきます。
昨年、国土交通省が発表した成長戦略会議の最終報告で、バランスシートの改善と伊丹
空港との経営統合が提言されました。何をいまさら、とお思いの方も多いと思いますが、
関空は、空港島の建設や地域対策費の殆どを空港会社が負担しており、有利子・無利子を
含め、未だ 1.3 兆円を超える巨額な負債を抱えています。リーマン・ショックの影響を受け
た 2009 年度ですら営業収支ベースでは黒字を確保していたものの、多額な利払いのために、
政府補給金に依存している状況です。利用面からみると、新規就航の着陸料が免除されて
いるものの、施設利用や賃貸料は高止まりのままであり、最終的には、エアライン等運航
事業者が負担を強いられています。
一方、伊丹空港においては、公費で賄った騒音対策費は 8,000 億円を超えているといわ
れており、当然のことながら、キャッシュフローから生み出される事業価値は大きくなり
ます。しかしながら、現状においても騒音規制の環境基準が守られておらず、クリアする
には発着数を 8 割程度削減する必要があるため、今後とも伊丹空港を運用していくために
は、多くの有識者が指摘している離発着時の危険性と併せ、大きな課題となります。
また、前出の成長戦略会議の報告では、伊丹空港の不動産価値の活用や鉄道アクセスの
2
改善に向けての調査・検討についても言及されているものの、両空港の運営権につきコン
セッション契約する民間会社があるのか、地元自治体からの理解は得られるのか、まだま
だ課題はつきません。
関西国際空港では、国際ハブ空港の確立や、LCC の誘致が取り沙汰されていますが、ビ
ジネスジェットのニーズに対応できる空港を目指す、ともしています。
地元大阪では、急激な変革への道を選択すべく、先の統一地方選挙で地域政党が圧勝し
ました。荒療治となっても、現状維持を良しとはしない、時間の猶予はない危機感の表れ
だと個人的には解釈しています。空港においては、旅客・貨物の量的拡大のみならず、ビ
ジネスジェット利用者の利便性向上をフォーカスし、関西経済、ひいては日本経済の復興
に寄与されることを期待しています。
最後に、私が現職に就任した 2009 年 4 月は、前年のリーマン・ショックの影響がいつま
で続くのか見通せない時期でした。各空港の現場を廻り、今は耐え忍ぶ時期だが、それだ
けではつまらない、筋肉質で競争力のある会社にして、景気が戻れば飛躍できる準備をし
よう、とスタッフに訴え続けました。スタッフの頑張りのおかげで、その後の景気の回復
とともに、事業の拡大が現実となり、昨年は念願だった成田空港に本格進出することがで
きました。弊社の競争力が空港自体の競争力向上の一助になれるべく、これからも研鑽を
積んでいきたいと考えています。
◇
ビジネス航空界のトピックス
・
新着情報
この度の大震災では一部の会員の方に大きな被害がありました。心よりお見舞い申し上げ
ますとともに一日も早い復旧をお祈り致します。又会員の多くの方々が地震発生直後から
救助作業、復旧支援作業等に従事され多忙な日々を送られました。大変御苦労さまでござ
いました。
この大震災に伴い、以下の委員会も含め多くの行事が中止又は延期となりました。
その中で、今後取り組んで行くべき規制・制度改革として 4 月 8 日に閣議決定された事項
の中にビジネス航空に関する事項が含まれた事は大きな前進です。
行政刷新会議の規制・制度に係る方針「閣議決定」
前号において内閣府行政刷新会議の「規制・制度改革に関する分科会、中間報告」で
ビジネス航空に関する規制緩和の必要性が取り上げられた事をお知らせしましたが、その
後内閣府と関係省庁との折衝等を経て、ビジネス航空関連を含む事項が今後規制・制度改
革として検討して行くべき事項として 4 月 8 日に閣議決定されました。
内容的には中間報告と同じで「ビジネスジェットの利用促進に資する規制緩和」と「CIQ の
合理化」の 2 項目として取り上げられています。詳細は行政刷新会議のホームページ
http://www.cao.go.jp/sasshin/kisei-seido/publication/p_index.html を御参照下さい。
3
4-2 ⑬、⑭項で取り上げられています。
国土交通省「ビジネスジェットの推進に関する委員会」
3 月末に開催される予定でした第 3 回委員会は大震災により延期となりました。
現在のところ 5 月下旬に開催される予定です。
その時には、委員会の中間報告が出される予定になっております。
EBACE
2011
今年の EBACE(European Business Aviation Convention & Exhibition)は5月17-19
日 に EBAA(European Business Aviation Association) 及 び NBAA ( National Business
Aviation Association)の共催で Geneva で開催されます。出展社はおよそ500社、入場
者は約12000名、展示機体60機超という大規模な Event になることが予想されてい
ます。
又今年の EBACE の Education Session には協会から事務局長がパネリストとして参加し最
近の日本のビジネス航空界の動きについて話しをする事になっています。
◇
協会ニュース
協会ホームページの見直し
協会ではかねてより協会ホームページの見直し作業を行っておりましたが、その第 1 段階
を 4 月 1 日付で実施致しました。4 月 1 日付の改訂は主として、ホームページの今後の維持
管理を容易にするための新しいソフト導入でしたが、それに合わせて一部の改善を実施し
ました。
協会では皆様のお役に立てますよう今後ともホームページの充実・改善に努めて行く予定
です。ホームページに関します、御要望、御意見等ございましたら協会事務局までお知ら
せ下さい。
2011 年度総会の開催について
会員の皆様にはすでに開催通知をお送りしておりますが、以下により平成 23 年度の総会を
開催致します。
日時 : 平成 23 年 5 月 10 日(火) 16 時より
場所:メルパルク東京
尚総会後には例年通り懇親会を予定しておりますので皆様のご参加をお待ちしております。
主要協会活動(3-4 月)
3月7日
四役会開催
4月1日
協会ホームページ新ホームページへ切り替え
4月4日
理事会開催
4
4月11日 国土交通省航空局企画室と会議、
経済産業省航空機武器宇宙産業課と会議
4月18日 監事説明会開催
4月27日 電子航法研究所及び JAXA 訪問
◇
投 稿
タイム・イズ・マネー
㈱エアロパートナーズ代表取締役
JBAA
副会長
金井 大悟
ビジネス航空が求められる最大の要因の一つは言うまでも無く時間を有効活用できる究
極のツールであるからですが、このタイム・イズ・マネーに関する体験について話をさせ
ていただきます。
最初にまず定期便の意外な不便さに気がつくきっかけとなったこと、そして結局移動時間
の短縮ができなかった経験から始めようと思います。
皆様ご承知のように JBAA は 1996 年 5 月に日本ビジネス機協会として発足し、2001 年
4 月に日本ビジネス航空協会と名を改めより活動を広げてきましたが、この改名される直前
の 2001 年 2 月 7 日、神戸において協会として初めて自治体が主催するビジネス航空セミナ
ーに参加しました。
当時神戸空港は 2005 年度中の開港を目指して建設中でしたが、神戸市は伊丹と関空とい
う既存空港があるため、その頃まだ珍しい神戸空港セミナーを開いてその有効活用を図る
べく PR に務めておられました。
そして早くからビジネス航空を一つの可能性として捉え協会にもいち早く会員として参加
していましたが、2001 年のセミナーは「21 世紀の空港と航空ビジネス」と題して全面的に
ビジネス航空を取り上げ、協会はパネルディスカッションに参加するとともに 8 社がパネ
ル展示を行いました。
当日は市内三宮の神戸商工会議所ホールに、兵庫県、神戸市、神戸商工会議所などで作
る神戸空港推進協議会の呼びかけで、神戸や大阪の政財界から約 300 人が参加する盛況と
なりました。レイケイの森田氏の基調講演の後、神戸大学鎌江教授がコーディネーターと
なり「新産業と航空ビジネス」というテーマで 4 人のパネリストがそれぞれの立場でビジ
ネス航空を紹介し、協会からは中日本航空の福富取締役と小職が参加し、欧米におけるビ
ジネス航空の状況やビジネス機専用ターミナルの必要性などを述べました。
さて私にはこのセミナーとほぼ同時に日程が決まりずらすことができなくなった米国出
張があり、翌日どうしても米国アリゾナで会議に出席する必要がありました。当然関空の
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時刻表からなるべく遅い米国行きの便を探しましたが、便数は限られており 18 時 30 分で
米国本土行きは終わりだということが分かりました。関空行きのバスも高速船もそれほど
頻繁ではなく乗り換えを考えると 17 時まで市内で行われるセミナーからはどうしても間に
合いません。30 代のころ米国に駐在した経験から米国の空港は 24 時間オープンしておりフ
ライトは夜中もあることを知っていましたので、今さらながら国内の定期便の実情を理解
していなかった自分が甘いことが分かりました。
今では羽田の国際化により深夜早朝の出発便ができてこれらのスケジュールをフルに活
用した弾丸ツアーもありますが、それまでは全く不可能な日程でした。当時改めて調べて
みると、夕方まで仕事をしてから米国西海岸へ直行便で出張することやニューヨークで朝
からの仕事に丁度いいフライトは皆無で、ましてや便数の少ないヨーロッパやアジア方面
では日程の自由度が非常に制約されることを思い知ったわけです。
しかしアリゾナの次にもう一か所回らなければならず今さら変更はできないので、いろ
いろと考えた挙句以前米国への直行便がどうしても取れずハワイ経由で出張したことを思
い出しました。ハワイは日本人には人気のリゾートでそれこそ時間の有効活用から夜出発
したいというニーズが多く夜遅くまでフライトがあります。案の定調べると関空からは 21
時過ぎまで便がありました。
私は自分が操縦したフライトのログブックとは別に旅客として飛んだフライトのログブッ
クもつけていますが、その当日の記録を見ると私の 239 回目のフライトとして 21 時発の
UA 便でホノルルへ行き、ホノルルで昼のサンフランシスコ行きに乗り、さらにサンフラン
シスコでフェニックス行きに乗り換えて夜中近くに到着したとあります。
見るからにハネムーンと分かる何組かを乗せた観光客で一杯のハワイ行 B747 と、休暇が
終わったアメリカ人のハイテンションな会話が飛び交うハワイ発の B767 に揺られ、自分の
身の不遇を呪うこと延々20 時間以上かかったわけです。機内ではプロペラ機時代の太平洋
線はウエーキ島とハワイ経由で正にこれと同じような時間をかけて飛んでいたはずだ、昔
の渡米は本当に大変だったのだなどと当時の人の苦労を思ってみましたが、飛行機が好き
で少なくとも今よりは若かった私もさすがにヘトヘトで到着という状態でした。
何故もっと遅くまで米国本土行きが無いのだろうとか、せめて市内から関空までヘリコ
プター便があればとか、さっきまでビジネス機の利便性を神戸空港セミナーで力説してい
たのにその恩恵どころか辛い出張になってしまったと反省しましたが後の祭りです。
それ以来海外出張はフライトの状況をよく調べてから最終日程を決めるようにしています
が、定期便は国内線国際線とも仕事に使うにはかなり時間的なロスを覚悟せざるを得ない
ということについて、その後の協会活動やビジネス機の利便性などの記事を書くときには
良く調べるようになりました。
そして実はこのような反省をしながら思い出したのは全く逆の経験をしたことでした。
つまりこの時には時間短縮の方法が無かったのですが、実はかなり以前に正にタイムイズ
マネーという経験をしてビジネス航空に興味を持つようになったきっかけがあったのです。
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次にそのことをお話しします。
20 年以上航空機の油圧系統の技術屋をしていた関係で時々海外に出張しましたが、1985
年の第 36 回パリ航空ショーに展示要員として出張を命ぜられ初めてヨーロッパの土を踏む
ことになりました。
当時は B767 が続々とデリバリーされており自分が開発にかかわった数点の製品にいくつ
かトラブルが発生していて、パリショーの帰りにシアトルのボーイング社で対策会議が予
定されていました。
85 年のパリショーは 5 月 31 日から 6 月 9 日まで行われ日本企業は十数社が出展してい
ました。デモフライトではミラージュ 2000 と F-16C のそれぞれ性能を極限まで駆使した
マニューバーが話題となりましたが、何といっても展示機の目玉は 4 年ぶりに実機を持ち
込んだソ連(当時)の超大型機アントノフ An-124 でした。世界最大の 150 トンのペイロ
ードを誇り、総重量 405 トン(当時の B747 は 378 トン)を支えるために左右のバルジに
前後 5 列のダブルタイアで合計 20 個の主車輪、
前輪も何と 4 輪というとんでもない怪物で、
西側に遅れること 17 年でソ連が高バイパス比大型ターボファンエンジンを実用化した革新
的な機体です。また A320 が初の受注を発表してその後のベストセラーのスタートを切った
年でもありました。
ショーは仕事の上でも多くの経験と収穫がありましたが、欧州の航空関係者と話すうち
感じたこと特にフランス人から強く受けたことがありました。それは航空は我々が開発し
発展させたのだというプライドでした。アメリカは大量に作っているだけであってハード
もソフトも全て後追いである。常に新しい発想は我々が考えた。最初の航空ショー、最初
の軍事航空、最初の渡洋航空路、最初のジェット旅客機、最初のビジネスジェット、最初
の超音速旅客機、どれもフランスと欧州のものだという強烈な主張です。
当時エアバスはまだまだボーイングの後塵を拝していて私自身暫くボーイングで働きまし
たからこの主張にはびっくりしましたが、一方で彼らの言うことは歴史上の事実だし技術
屋としては認めざるを得ないと思いました。
そしてショーの仕事の合間に会場となっているル・ブールジェ空港の一角にある航空宇宙
博物館を訪ね、ブレリオのグライダーからコンコルドまで 350 機近い展示機をじっくりと
見るうち、これから行くアメリカでも飛行機の歴史に触れてみたいと考えてしまいました。
そうなると行くべきところはワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館しかありません。
今と違ってインターネットも E メールも無いので米国にいる駐在に電話していろいろと
調べてもらいましたが、すでに予定が組まれているシアトルでの会議は動かせないので、
ワシントンへ寄る時間をひねり出すには予定を 1 日早めて大西洋を渡るしかないのですが、
それはショーに展示した出品物をきちっと梱包し輸送業者に渡すという重大任務があって
不可能です。
駄目だと言われると余計諦められなくなるのが人間です。最後の頼みとばかりパリ市内の
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JAL 営業所に飛び込んで相談をしました。
フランス人のスタッフは暫く時刻表をにらんでいましたが、やおら「あなたお金持って
るか」と聞いてきました。勿論航空チケットを切り替えて寄り道するのですから多少費用
がかかるのは覚悟の上ですがちょっと様子が変です。いくらかかるかと恐る恐る聞くと非
常に沢山という答えです。
そこで彼女が言った言葉は忘れられません。
「コンコルド」。
彼女曰くこれ以外にあなたのスケジュールを実現するのは不可能とのこと。勿論コンコ
ルドはマッハ 2 で飛ぶから半分以下の時間で大西洋を渡れることは理解していましたが、
本当にワシントンに寄る時間が生まれるのか良く聞いてみました。
するとコンコルドに乗ると時間が逆転するというのです。
パリ・ワシントンの直行便は都合のいい時間にはなく、通常の便は西行き飛行時間が 8 時
間ですからパリを早朝に出てニューヨークで乗り換えるとワシントンに着くのは夕方にな
ってしまいスミソニアン行きは無理です。ところがコンコルドは飛行時間わずか 3 時間半
で時差がマイナス 5 時間ですから、午前 11 時パリ発で JFK(ケネディ空港)着午前 9:30。
従ってこれなら昼にワシントンに着けることになります。
これでタイムの方は分かりましたが問題はマネーです。勿論このような費用を出張費とし
て会社に請求できるわけはありません。彼女曰くおおよそファーストの 2 割増しときまし
た。こっちは元々大西洋線のファーストがいくらかなど知るよしもないのですから計算も
できませんが、しかしここまで根掘り葉掘り聞いた以上ここでやめては日本男児の名が廃
るというもの。クレジットカードを出しながら平然と(装って)言いました「That’s good !」
。
かくして 1985 年 6 月 11 日シャルルドゴール発
JFK 行き、エールフランス AF001 便シート 07D を
ゲットと相成りました。
ホテルと会場間は毎日出展企業でまとまってバスで
往復していましたが、この日は JAL の支店から地下
鉄でホテルへ帰りました。そしてこのためにまた一つ
大発見をしてしまったのです。
シャルルドゴールへ、エッフェル塔をかすめて
駅からホテルへ歩くうちヘリコプターの音が聞
こえてきました。こんな町中にヘリが降りるのかし
らと思いながら音の方へ行ってみると立派なヘリ
ポートが見えてきました。
ヘリフランスのドーファン
→
入ってみるとイッシー・ヘリポートとあり数機のヘリコプターが遊覧などをしているよ
うで、シ ャルルドゴールへも定期便がありわずか 14 分で着くというのです。たった今給
8
料以上のお金を使ったばかりで口座に幾ら残っているか自信はありませんでしたが、気だ
けは大きくなっていたので迷わず 11 日朝の便を予約しました。
このヘリポートはエッフェル塔の南西 4km ほどにあり今でも空港への足だけでなく観光地
やロンドンなどへのフライトに良く使われています。
さて当日朝ヘリフランス社の事務所で荷物の重量をチェックされ、三色旗に塗られた綺
麗なドーファンの座席に収まりました。固定翼は自分で飛んでいましたがヘリはこれが初
めてのフライトです。離陸するやエッフェル塔をかすめて 135kt で飛びあっという間にシ
ャルルドゴールに着いてしまい、ショー期間中朝晩の渋滞でバスがもっと市内に近いショ
ー会場まで 1 時間半ほどかかったことがウソのようです。ヘリから直接専用待合室に案内
されましたが、一度ターミナルビルの外に出てみると入口も受け付けカウンターも全てコ
ンコルド専用であることが分かりました。
搭乗が始まると座席が 108 席しかないのとほとんどが旅慣れたビジネス客なのですぐに
ドアが閉まりランプアウトです。キャビ
ンは横 4 列なので丁度 YS-11 のような
感じでイスの横幅もけして大きくなく、
窓は恩師の木村教授が言われていたよ
うにちょうど葉書位の大きさでかなり
小さく、薄暗いトンネルのようなキャビ
ンはやはり普通の旅客機とは違う機体
なのだということを実感させてくれま
した。
コンコルド全景
タキシングも離陸順序も最優先のようで滑走路エンドまで一切止まらずすぐに離陸に移
りました。想像はしていましたがアフターバーナーON のオリンパス 593 エンジン 4 基の
推力は素晴らしく、滑走路末端を通過するときにはキャビンのマッハ計は 0.4 を示していま
した。クルーズはマッハ 2.02、高度 は 56,000Ft で、上を見ると青というより黒に近い空で
窓ガラスはかなり温度が高いのです。マッハ 2 では機首は 120 度、胴体でも 90 度になって
いるのだから無理もありません。
さて食事の最中 CA さんに機体の事やお
客さんのことを少し聞いてみました。さす
がに日本人は少ないようですが毎週のよう
に大西洋を横断するお得意さんが結構大勢
いるというのです。こちらは一生に一回の
つもりで乗ったのに世の中にはそういう人
種もいることを初めて知りました。
←
9
コンコルドのキャビン
そういえば私はきょろきょろと周りの観察に忙しいが、食事もそこそこに隣と議論する
人、資料を広げて電卓片手に計算している人など、後に NBAA の資料で知ったビジネス機
の機内での過ごし方そのものという感じでした。
ならば私もこの機会を最大限生かそうと、CA さんに私は航空機の仕事でこれからボーイ
ングに行くところですが、コックピットをのぞかせてくれたら大変ありがたいのですがと
聞いてみました。一言で冷たくあしらわれると思いきや手渡した名刺を持ってキャプテン
に聞いてきますという。暫くするとキャプテンの OK が出ましたとのこと。当時はまだハ
イジャックも少なく 9.11 など想像もつかない良い時代でした。
CA さんの案内で前方のカーテンを抜けると狭い通路があって両側は電子ラックで埋ま
っています。その中を進むとコックピットドアがありました。中に入ると機首が非常に絞
られているのですごく狭く機関士を含めた 3 名で一杯です。風防の可動式バイザーが閉ま
っているので外は何も見えないし薄暗い感じで、また高速のため騒音がすごくて話が聞き
取れないくらいでした。写真で見た羊の角のような特徴のある操縦桿があり、B767 の電子
式の統合計器を知っている私にはアナログ式の計器で埋まったちょっと時代を感じさせる
コックピットで、マッハ 2 で飛行中の最先端の機体にしては違和感がありました。
キャプテンにお礼を述べてから旅客用フライトログの 34 回目にサインをいただいてコック
ピットを後にしました。
さて席に戻ってからお礼かたがた CA さんにもう一つ質問をしました。気になっていたの
は JFK からワシントン行きの便が出るラガーディア空港までどうしたら最短時間で行ける
かということでした。彼女は一言「No Problem」、機体を降りたらこの番号のカウンターへ
行きなさいと言います。ちょっと意味を測りかねていると「ラガーディアまでヘリがある
からそれが一番早い」と言う。予想もしない答えについいくらですかと聞いたらコンコル
ドの乗客はフリーだという。
毎週のようにコンコルドで大西洋を横断している人がいるかと思えば、そういう忙しい人
のためのサービスもちゃんと用意されているのは二重の驚きでした。
着陸後言われた通りのカウンターに行く
と外にはニューヨーク・ヘリコプター社のド
ーファンがおり非常時の説明が済んだらす
ぐに搭乗です。あまりにスピーディーなので
荷物が気になり聞きましたら既に積んであ
るから心配ないとのこと。
ニューヨークヘリのドーファン
30 分から 1 時間ごとに 1 日 17 便も飛んでおりラガーディアまで 10 分で着いてしまいま
した。アプローチ中にパイロットからどの航空会社に乗るのかを聞かれましたが、驚いた
のは 4 人の乗客の乗るエアラインのターミナルにそれぞれ送ってくれたことです。
10
私はイースタンエアラインが当時飛ばしていた予約がいらないシャトル便でワシントン
に行く予定でしたが、空港内に入るとパイロットはホバータクシーで滑走路を横切り、ど
んどんエプロンに入ってまさにイースタンのターミナルビルの横で降ろしてくれました。
コンコルドがパリを離陸したのが午前 11 時、今ワシントン行きを待っているラガーディ
ア空港はまだ 10 時過ぎです。地上の移動を含め通常の場合に比べて 6 時間近くは得をして
いる勘定ですから、これで十分スミソニアン博物館を見学できる時間が手に入りました。
まさにタイムイズマネーを実現できたのはコンコルドとヘリのお陰ですが、この時痛切に
感じたのは、欧米には時間短縮を最大限に実現ししかも快適に移動できるシステムがあり
そしてその市場があるという事実でした。
このような便利なヘリ送迎の体験があったので、冒頭述べた神戸のセミナー後関空へせめ
てヘリのサービスがあればと思った次第です。現在成田空港へは都心からヘリコプターの
便がありますが、もし空港外のヘリポートではなく空港ターミナルビルに近い場所に降ろ
すことができればもっともっと時間は短縮され利用者が増えることでしょう。
ビジネスジェットについては後に JBAA のお手伝いをするようになってその有効性を知
り、また関連する仕事もしていたのでそのすばらしい効果を実感しました。例えばこのパ
リ・ワシントン間の場合も、もしビジネスジェットが利用できれば何もマッハ 2 で飛ばな
くとも朝 9 時にパリを発ちワシントンへ直行すればほぼ同じ時刻に到着が可能になるので
す。そして時間や目的地のフレキシビリティー、機内の時間の使い方などを考えれば当然
ビジネスジェットに軍配が上がるでしょう。
1962 年英仏共同事業として開発が始まったコンコルドは、その名称 Concorde が示すよ
うに機体はフランス主導、エンジンはイギリス主導で進められ、2 つの文化、2 つの国家、
2つの単位のギャップを粘り強く克服して、B747 と同じ 69 年に初飛行し 76 年から就航し
ました。
試作機を含めてわずか 20 機しか生産されず、2000 年 7 月の事故で運休した後 2001 年に改
良型で運航再開されましたが、折からの燃料費高騰と 9.11 の影響による乗客減で赤字とな
り、多くのビジネス客の要望がありながら 2003 年 10 月に運航中止となりました。
すぐ後を追って開発が進められていたボーイング 2707 超音速機は結局中止となり、今日
まで史上唯一の超音速旅客機というタイトルを誇っていますが、コンコルドは単に速度が
速かっただけでなく、FBW(フライバイワイアー)の操縦システムや燃料移送による重心
位置のコントロールを始め、今日使われている多くの新技術を初めて実用化したそれこそ
ヨーロッパ航空技術の結晶でした。
さらにもう一つの功績として、今日のエアバスの成功はこの長い共同開発の実績とアメリ
カには負けないというプライドが強く作用して実現したものであり、85 年のパリショーで
知った欧州の連帯意識の賜物です。
既に 10 年ほど前から超音速ビジネス機の開発が始まっており、乗客 8 人で大西洋横断に
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使える性能を目指しています。また次世代の超音速旅客機は日米欧が共同して研究してお
り、こちらはマッハ 3 で太平洋横断にも使えるスペックを目指しています。
航空機の歴史はある意味速度向上の歴史でもありましたが、ジェット旅客機の運航が始ま
ってから何ともうすぐ 60 年、コンコルドの就航からも 35 年が経ちますので、残念ながら
空の旅の時間短縮が史上最も長期間停滞しているのが実情です。
いくら IT が発達してもビジネスにおけるフェースツーフェースの重要性は変わらず、経済
性や環境への負荷とバランスが取れるのであればマッハ 2 あるいは 3 での移動は非常に魅
力的でしょう。
そしてそのような次世代の夢はともかく、少なくともビジネス機やヘリコプターによるタ
イムイズマネーをもう少し国内でも手軽に利用できるようこれからも活動を続けていきた
いと思います。
===========================
飛行速度の変遷
48km/h
から
マッハ 2.04 まで
スミソニアン博物館のライト兄弟 1 号機
音速を突破したベルX-1
コンコルド
機首部分
写真提供
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金井大悟さま
◇
ホームページのご案内
協会ホームページ
http://www.jbaa.org/
ホームページで、新着情報等より詳しい情報を提供させていただいておりますのでご利
用下さい。
◇
入会案内
当協会の主旨、活動にご賛同いただける皆様のご入会をお待ちしています。会員は、正
会員(団体及び個人)と本協会の活動を賛助する賛助会員(団体及び個人)から構成され
ています。
詳細は事務局迄お問い合わせ下さい。入会案内をお送り致します。
入会金 正会員
団体 50,000 円
個人 20,000 円
賛助会員
団体 30,000 円
個人
年会費 正会員
1,000 円
団体 120,000 円以上
個人 20,000 円以上
賛助会員
団体 50,000 円以上
個人 10,000 円以上
◇
ご意見、問い合わせ先
事務局までご連絡下さい。
(NPO)日本ビジネス航空協会 事務局
〒100-8088
東京都千代田区大手町 1 丁目 4 番 2 号
Tel:03-3282-2870
丸紅ビル3F
Fax:03-5220-7710
web: http://www.jbaa.org
e mail: [email protected]
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編集後記
東日本大震災は、未だ復興の段階ではありませんが、事務局
られた2,3の震災レポートから、岩手県警察航空隊長
村山
柳井の手元に寄せ
眞寿雄氏の手記の
一部分を氏の了解のもとに転載いたします。自衛隊と共に百数十機の民間ヘリコプ
タが、この瞬間も東北・関東の被災地上空で懸命の救援活動を続けています。
本震のさなかにエンジンを始動、ヘリテレ(画像中継)のミッション故に津波に
呑み込まれる人々を目の当たりにしながら、手を出せないもどかしさのジレンマ。
航空隊長の責務あふれる空中からの臨場体験報告「希望の松」の末尾の一節です。
なお本編全文は、同県防災ヘリの救難活動報告と共に次号に掲載予定です。
・・・・・・・・・・あの日、吠える海に呑まれた多くの命はいまだ
発見されていないが、そんな中でも被災地は日々、立ち上がる逞しさを
増しつつある。
それでも、被災地上空を飛ぶとき、今も津波に呑み込まれる情景を思
い出し、自分の無力さにさいなまれることがある。
そんな時、7万本もの高田松原がすっかり流された跡に、たった1本
だけ残った松の木が語りかけてくる気がする。
「私たちはみんな自然の中で生かされている。
いつ死ぬかなんて誰にも分からないのさ。
だから、その日、その時を大切にして生きること、
そして、亡くなった多くの命に恥じない生き方をすることが残され
た者の努めなのさ」と。
この木は「希望の一本松」と呼ばれ、今日も私をはじめ、被災地の人
たちの心のよりどころとなっているのである。
そして、季節は着実に春へと変わりつつある。
2011 年 4 月 8 日
岩手県警察航空隊長 村山
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眞寿雄