「動く中国」と「変わらない中国」

[特集:グローバル・チャイナ―移動する人々の動かす中国]
「動く中国」と「変わらない中国」
現代中国研究のパラダイム・シフトを考える
毛里和子
1)
はじめに
まず、企画者が設定した「グローバル・チャイナ」をどう理解するかについて所見を述
べておきたい。人の越境移動、不良食品の輸出、チベット問題の越境化など、中国から発
する昨今のさまざまな動きを、筆者は、中国のグローバル化というより、
「中国問題のグ
ローバル」化と呼んでいる。世界の人々にとって、大いなる気がかりの中国、China does
matter なのである。
次のような狙いが本セッションにはあると思う。①経済躍進国中国を中心として、グ
ローバリゼーションが追い風となっている、チャイニーズあるいはチャイニーズネス(濱
下報告)の国内およびグローバルな流動の現状をどのように捉えるか、われわれがもつ歴
史的経験で捉えることは可能なのか。②国境の内でも国境の外でも「開かれた中国」が国
際社会・国際秩序にどのようなインパクトを与えるか、世界はグローバル・チャイナの影
響を根本的に受けるのか、近未来世界をわれわれはどう描けばよいのか。③グローバル・
チャイナが中国それ自身の近未来にもたらすインパクトは何か、大国化、対外浸透は、リ
パーカッションを受けて、中国自体の構造的変化をもたらすのか、である。いずれも大変
な大問題である。
4 人の報告者はこの分野での国際的代表選手である。本稿ではまず、それぞれに大作で
ある報告者の 4 つのペーパーにもとづき、筆者の関心に沿って問題を整理し、いくつかの
問題を提起したい。最初に印象的なことを述べれば、報告者は 3 人が社会学者、1 人が歴
史学者である。政治学で中国を分析しようとしている筆者が再認識したのは、政治学と社
会学には越えがたい「深い溝」があるのではないか、という点である。
なお筆者は、本セッションを協賛する人間文化研究機構(National Institute for the Humanities;
NIHU)現代中国地域研究拠点連携プログラムの幹事長をつとめている。日々、中国の「持
続的発展」とは何か、何がそれを可能にし、何が阻害するか、あるいは「調和ある(和諧)
社会」とは何か、何がそれを可能にし、何が阻害するか、に頭を悩ませ、また、激変する
グローバル・チャイナを分析する「すべ」をわれわれ中国研究者はもっているのだろうか、
新たに開発するにはどのような冒険が必要か、について煩悶している。
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Ⅰ 各報告の論点
1. 園田茂人(早稲田大学)報告
精力的なアンケート調査に依拠して、中国における人の国内水平移動、垂直移動の特徴
を、アジア諸国との比較を視座に入れて鋭く分析した。
「都市からの視点」が濃厚な本報
告の主な論点は次の通りである。
① 現代中国の流動性の高さを支えているのは強い社会的上昇志向である。
② 国内大流動は、有産者と出稼ぎ者の分居など都市空間を大きく変え、また新住民への
義務教育や都市インフラ整備、戸籍制度の変革などガバナンス・コストを引き上げて
いる。
③ 農民工の都市定住を妨げている一要因は都市住民にある「能力主義的価値観」である。
④ 国際移動は国内移動の延長としてある。双方は絡み合っており、またエリート部分
では頭脳の国際周流の状況もみられる。
本報告についてはとりあえず、次の問題を提起しておきたい。①戸籍制度の変更を阻む
ものを心理的抵抗としているが、もっと根本的で、さまざまなコストの高さではないのか。
②国際流動は国内流動の延長だろうか。両者間にはアクター、志向の大きな違いがみられ、
別種の流動、前者は垂直性をもつ移動、後者は水平的・下降的浮遊と言えるのではないか。
2. 周敏(UCLA)報告
大陸中国、香港、台湾など「広義の中国」外に住む 3,300 万人のチャイニーズ(80% がア
ジアに居住)の国際移住の歴史をレビューした。植民地化、脱植民地化、国民国家化、そ
して権力交替によってチャイニーズの移動や生活は大きな影響を受け、制約を受けて変化
してきたことが歴史的変遷のなかで指摘された。とくに次の論点が興味深い。
① チャイニーズの「動き」そのものが、送出・吸引側双方の政治経済変化、華人コミュ
ニティの階層的変化、グローバルな華人ネットワークの変容に対応してきた。
② 移民輸出国の課題の 1 つは移民の管理・規制にあるが、これには限界がある。そこ
で注目すべきは、移民社会のネットワークや民間組織からの拘束である。周敏報告
の含意として、膨大なチャイニーズの国際移動は、移民社会ネットワーク・民間組
織から一定の拘束を受けるだろうから、通説で言われるような、国際秩序の混乱要
因にはなりにくい、という点にある。
3. 王春光(中国社会科学院社会学研究所)報告
リベラルな社会学者として中国国内でも積極的に発言している王氏は、昨今、
「不平等・
不均衡・格差」
、階層変容に焦点を当てた中国論が氾濫するなかで、それがどの程度で、
どのような政治的・思想的含意をもつのか、を解明中だという。本報告は次のような刺激
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的な論点を提起した。
① 中国農村における流動人口問題はなぜ社会問題であり続けるのか。なぜ解決できな
いのか。その理論的意味は何か。
② 農民工の流動は、水平流動、下降流動であり、また「剛性化」しており、社会的流
動とは言えない。
③ 以上をもたらしているのは、a. 単位体制、b. 戸籍制度で分割された労働力市場、別
の言葉で言えば、都市・農村二元構造という構造もしくは制度要因である。
④ 以上の状況を変えるには、公民権に加えて、
「機会所有権」(機会平等権)という新し
いコンセプトが必要である。
王報告の指摘は大変興味深いが、
「機会所有権」を公民権に加えて新たに設定すること
の意味はどこにあるのか、また「機会所有権」の制度化とは具体的には何を意味するのか、
などの問いが生ずる。
4. 濱下武志(龍谷大学)報告
「朝貢体制論」で国際的に名高い経済史家である濱下氏の報告も含蓄深いものがあった。
次の論点がとくに魅力的である。
① チャイニーズの移動を、人だけでなく、もの・情報・金などを含む流動として多義
的に捉え、移民・交易・送金ネットワークの三位一体として考える。
② チャイニーズの国際移動は、朝貢秩序下、植民地・帝国秩序下、国民国家下、冷戦
構造下、グローバリゼーション下によって区別されるが、重なり合いながらの展開
でもあった。
③ グローバリゼーションは、反面で宗族、拡大ナショナリズム、動く人々による地域
ネットワークなどのローカル・アイデンティティを刺激する。チャイニーズにおい
てとくにそれは顕著である。
④ 通常の国際秩序を「上位地域秩序」として設定し直し、国家によるものではなく、
人・もの・金・情報の移動に表れる集団・ネットワークによって作られる「民間」
秩序を新たな国際地域秩序として構想する。濱下氏によれば、もとよりチャイニー
ズはその重要なアクターである。
Ⅱ 全体から導かれる論点と 3 つの異論
4 つの報告から次のような通底する論点を導き出すことができると思う。
① 21 世紀に入って、人の流動を呼び起こす、国際規模での pull 要因と push 要因は絶大
である。1 つは中国の格差型(雁行型)経済発展、もう 1 つは、グローバリゼーショ
ンである。そして流動プロセスは続いており、その規模や空間は今後も拡大するだ
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ろう。
② 歴史的に見て、チャイニーズの移動は 16 世紀、19 世紀、21 世紀の 3 回にわたるグロー
バリゼーション、つまり資本主義の地球化の波にそれぞれ対応してきた。
③ 20 年来のチャイニーズの移動は、国内/国際、横/縦、末端/上層と多方向/多層
的・多内容的で、規模といい、内容といい、影響力といい史上空前である。また、
戦争や征服、災害などによるものを除けば、平和時における移動として世界史的に
も未曾有である。
④ 改革開放 30 年、中国における移動は次のような特徴をもつ。
a. 農村から都市へ、中国から海外へ、と今のところ、単方向的である。
b. 1 億人とも 2 億人と言われる「農民工」の「流動」が表現するのは、階層移動(上
昇)ではなく、空間的・水平的な移動、もしくは下降移動であり、また「流動」
(フ
ロート)であって移動後の定着を含意する移住、移動(マイグレーション)とは言
えない(本稿の最後の部分参照)。
c. それに対して、国際移動の場合、産油国や資源国への中国人労働者の労務輸出
など空間的・水平的移動も観察できるが、それ以外は、上昇移動が多く、また
グローバル・エリート・ネットワークの形成にもつながる可能性がある。
以上に対して議論を喚起するために、敢えて 3 つの異論を提起してみたい。
① 国内外ともに定着を前提とする「移動」(マイグレーション)と、定着できず、ある地
点とある地点をたえず動く「流動」(フロート)とを区別する必要がある。現在まで
のところ、基本的には、中国での国境を越えた人の動きは前者であり、国内での人
の動きは後者である。
② 現在までのところ、国内移動(流動)の主流は水平移動・下降移動(王春光)である。
したがって、上昇志向が支えになっており、ある程度それを実現できる越境移動と
は区別される。そうだとすれば、国内移動の延長線上に国際移動がある、という判
断(園田茂人)には懐疑的たらざるを得ない。
③ 人の移動が示すように、現在中国で生じている変化は実に巨大で、激変とも言える。
だが、それが政治や社会の根本的な構造変化につながるかどうかは定かではない。
極端に言えば、社会の一時的現象にすぎないのかもしれない。構造変化につながる
にはどのような状況・条件が必要なのだろうか。この点について、本稿の以下の部
分でいくつかの問題を提起しておきたい。
Ⅲ 「変わらない中国」その一―農民工
上記③について、改革開放 30 年で激変したのは中国の表層だけである、という大胆な
仮説をもって、人の移動をめぐる「変わらない中国」の姿を敢えて示したい。具体的には、
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1980 年代以来、
「農民工」という新「階層」が生まれ、都市・農村間を大規模に浮遊して
いるにもかかわらず、都市・農村二元構造を支えてきた 1950 年代末以来の戸籍制度が基
本的には変わっていないことを示し、合わせてそのことの意味を問うてみたい。
1. 「農民工」
改革開放による「新生事物」である「農民工」とは、農村戸籍をもった農民で出稼ぎの
ため都市で非農業部門に就業しているもの(離土離郷)、同じく農村戸籍をもったもので小
城鎮などで郷鎮企業の非農業部門に就業しているもの(離土不離郷)である。彼らがどれ
位の数にのぼるかについては、統計的に把握しにくいこともあって諸説がある。
中国農業部の統計では、2004 年時点で、農民工は総計 1.3 億人、全国の産業労働者 2.2
億人の 59% にのぼるという(岳・黄、2008)。もう 1 つのデータは国務院研究室課題組の『中
国農民工調研報告』(2006 年)などである。それによれば、2004 年時点で、都市に入って
非農業部門に就業している農民(戸籍上)は 1.3 億人、戸籍地をそれほど離れない小城鎮な
どで郷鎮企業に就業している農民(戸籍上)が 1.3 億人、想定される双方の重複を除くと、
全国の農民工は 2.1 億人(2004 年時点)となる(国務院研究室課題組、2006; 鄭・黄、2007; 座間、
2007)
。多くの文献が、2006 年に発表された国務院のデータをもとに、農民工の総数は
2004 年時点で約 2 億人、としている2)。また最近のデータでは、2008 年現在、都市に入っ
て工業や商業などの非農業部門に就業している農民(戸籍上)は 1.5 億人という李強(清華
大学)の説もある(李、2009)
。本稿では、約 2 億人とする国務院のデータを基準にしたい。
では彼らはどこから来て、どこに向かったのか、何をしているのか。農民工送り出しの
「大省」は、四川、重慶、河北、安徽、江西、河南、湖北、湖南、広西、甘粛の中部、西
部の 10 省市であり、受け入れている「大省」は、広東、上海、江蘇、福建、山東の東部
沿海 5 省である(「農民工失業潮―10 省份 485 万農民工已返郷」『財経』インターネット版、2008
年 12 月 17 日)
。
前記国務院研究室のデータでは農民工の動きや概況は下記のようである(2004 年時点)。
【出身省】中部地区が 4,728 万人(全体の 40%)、西部地区が 3,161 万人(同 26.7%)。
とくに四川、安徽、河南からの省外への流出は非常に大規模で、2008 年 11 月時点でそ
れぞれ、1,295 万人、1,291 万人、2,150 万人とされる(前掲記事、『財経』インターネット版、
2008 年 12 月 17 日)
。
3)
【移動先】移動は広域化している。省外への移動が 51%、省内・県外への移動が 25% 、
4)
経済先進地である東部・南部沿海地方への移動が 73.2% を占めた。
【就業の業種】製造業が 30%、建築業が 22.9%、社会サービス業が 10.4%、旅館飲食業が
6.7% を占めている。
【全就業者中に占める農民工の比率】第 2 次産業は 58%、第 3 次産業は 52%、加工製造
業は 68%、建築業では実に 80% が農民工である。
【年齢】平均年齢は 28.6 歳。次第に高くなっており、2007 年データでは 33 歳。すでに第
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2 代の農民工も出てきている(武漢大学経済発展研究中心、2007)。
【平均月賃金】500 元以下が 11.6%、500–800 元が 31%、800–1,200 元が 31.9%、1,200–1,500
元が 13.6%、1,500 元以上が 11.9% となっている。平均賃金は 685 元(武漢大学経済発展研究
中心、2007)である。
【学歴】中学以下が 11.6%、中学程度が 48.6%、高校・中等専門が 35.9%、大学専門学校
以上が 3.9% を占める(国務院研究室課題組、2006)。
2. 三等市民
端的に言えば、いま中国大陸では、農民であった 2 億人が土地を離れ、農業を離れて、
都市部で非農業労働に従事している。もちろん彼らの賃金は、都市部の正規労働者に比べ
ればきわめて安い。6 割程度というデータもある。都市部の 3K 労働を担っているのは彼
らであり、とくに建築業では 8 割が農民工だという。夫婦・一家で出てきているケースも
多い。またすでに 20 年近くも農民工として都市部で働いているものも多い。中国全労働
者の 6 割が農民工だという驚くべき数字もある。最大の問題は、基本的には彼らは農村戸
籍しかもたず、身分的には依然として「農民」のままである点だ。都市戸籍をもたないこ
とは、住宅、社会保険(とくに医療保険と年金)、子女の就学などで都市住民がもっている
権利が、彼ら農民工には与えられないことを意味する。
「五大社会保障」についていえば、
少なからずの農民工が労務傷害保険に加入しているとはいえ、養老年金には全体の 15%、
医療保険には 10% 前後しか加入しておらず、失業保険・生育保険にいたってはゼロに近い
と言われる(辜、2007)。農民工は二等市民だ、あるいは、都市住民は一等市民、農民が二
等市民、農民工は三等市民だ、と言われるゆえんである。
こうした身分的差別の根源は、戸籍を都市戸籍と農村戸籍に区分し、その間の移動が厳
しくコントロールされていること、そして、就学、労働、保険などさまざまな社会制度や
セーフティ・ネットが二元的戸籍制度と離れがたくリンクしており(1990 年代初めまでは、
食糧・生活物資や雇用の分配もリンクしていた)
、都市・農村の二元体制が全社会で構造化して
いる、などのためである。
Ⅳ 「変わらない中国」その二―都市・農村二元戸籍制度
現代中国では、1958 年以来、戸籍は都市戸籍と農村戸籍に大別され、その変更が非常に
むずかしいこと、さらに居住と戸籍が一体化していること、戸籍と食糧などの配給・雇
用・社会保障などがリンクしていること、などで、世界に類のない中国固有の制度となっ
ている。戸籍そのものは、いまも日本・韓国など東アジアの一部にあるが、それが社会身
分化し構造的不平等とつながっているのは、現代では中国だけと言われる。
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1. 戸籍制度の変遷
中国の戸籍制度はかなり複雑である。また、とくに 90 年代に入って部分的改革や地域
別のテスト改革などが進んでいて流動的であり、実態を掴むのはかなりむずかしい。本稿
では、まず戸籍に関する制度の変化を簡単にトレースしてみる。
:基本的に居住・移転の自由が認められた時期
第一期(1949 ~ 1957 年)
共同綱領(1949 年)や憲法(1954 年)では、公民の居住と移動の自由が規定されていた。
「都市戸口管理条例」(1951 年)や「日常戸口登記制度樹立についての指示」(1955 年)など
で都市部の戸籍管理が始まったが、治安維持と公民の登録が主要な目的で、移動の制限を
狙っていたわけではない。1954 〜 56 年の全国人口移動は 7,700 万人に達したという(肖、
2005)
。ただし、農民の都市移転については、
「農民の盲目的都市流入を抑止することにつ
「農村人口の盲目的外流についての指示」(中共中央・国務院、
いての指示」(政務院、1953)、
1957)などで一定の歯止めがかけられた。
:農村から都市への移動が厳しくコントロールされた時期
第二期(1958 ~ 1977 年)
1958 年 1 月に全国人民代表大会常務委員会が戸口登記条例を公布して以来、文化大革命
期全般を通じて、農村から都市への流入は原則として厳しく禁止された。同条例は第 10
条で、労働部門の採用証明、学校の入学証明、戸口登記機関の許可がなければ、農民の都
市への移転はできない、としたからである。背景には、都市部で食糧や日常物資の供給が
逼迫し配給制になったこと、雇用の場が少なく、これも分配制になったという切迫した事
情があった。すでに 1953 年から食糧の統一購入統一販売が始まり、1955 年 8 月には農村
食糧統一購入統一販売暫行辦法が施行されていた。食糧・日常物資が配給制のもとでは、
都市部人口を厳格に制限せざるを得ない。当時、戸口登記条例は移動の自由を認めた憲法
に抵触するのではないか、という問いに対して、公安部長・羅瑞卿は、
「抵触はしない、
社会主義建設と社会治安秩序の維持のための重要で、美しい未来を創るための措置だ」と
答えている(『人民日報』、1958 年 1 月 10 日)。
昨今、研究者の多くが二元的戸籍制度を強く批判しているが、その一人赫広義は、
「(中
央政府は)計画経済の管理モデルの必要性に合わせ、また(1957 年に)政策の誤りが引き起
こした農村人口の都市への高速度流入に対処するため、戸口登記条例を作った。条例は
1954 年の憲法に明らかに違背している」と批判する(赫、2007: 185)。いずれにせよ、本条
例が、その後 50 年以上続く、都市・農村二元戸籍制度出発の法的基礎になった。
だが、人口管理は実は非常にずさんだった。大躍進時期には 3 年間で 2,500 万人の農民
を職工として都市部に入れ、経済危機になると、逆に、1961 年から 3 年間で 2,000 万人に
およぶ都市人口の削減を行うなどの混乱が生じた。以後、農村から都市、とくに北京、上
海など 5 大都市への移転は厳禁された。また 1963 年からは国家が配給する商品食糧を食
べる人口とそうでない人口を厳格に区分するようになり、前者が「非農業戸口」
、後者が
「農業戸口」と呼ばれるようになる(赫、2007: 111)。
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なおこの時期には、逆に、都市から農村への幹部や青年の「下放」が大規模に行われた。
1962 〜 79 年に「上山下郷」した青年の総数は 1,776 万に上るという(赫、2007: 37)。
「上山
下郷」は政治キャンペーンであると同時に、雇用と食糧を保証できない人々の都市からの
強制的移動でもあった。
:移動制限が緩み始めた時期
第三期(1977 ~ 1992 年)
1977 年 11 月国務院は、公安部の「戸口移転についての規定」を批准、伝達した。この
規定は、とくに北京、上海、天津への移転を厳禁する一方、職員労働者の採用、入学、幹
部招聘、土地徴発などに限っての都市部への移転(「農転非」と言う)を非農業人口の 0.15%
までにした。この「農転非」そのものは、決して人口移動のコントロールを弱めたもので
はなかったし、逆に戸籍管理はより厳しくなり、大都市であればあるほど都市戸籍の価値
「農転非」が制度化されたことで、その後
が高くなる状況を促した(陸、2004: 144)。だが、
の戸籍管理緩和につながっていくのも事実である。1980 年 9 月、公安部などの通達は、高
級専門技術者の都市移転に限って公安部の制限を受けないとする一方、
「農転非」指標を
0.2% に引き上げた。
1980 年代の改革開放は農村から始まった。農民は農業以外の収入を求めて集鎮に向かい
だす。大流動が始まり、政府は彼らに、集鎮居住のための暫住戸籍を出さざるを得なく
なった。1984 年 1 月、中共中央 1 号文書(1984 年農村工作に関する通達)にもとづき、集鎮
に移って定住し、郷鎮企業などの定職があるものに、集鎮暫住戸籍を与えることにした(84
年 10 月 13 日、国務院「農民の集鎮入戸についての通達」
)
。給付される戸籍は「自理口糧戸口」
である。つまり都市に入ってきた農民は食糧は自分で手立てせよ、というのである。何は
ともあれ、長らく農村・都市を分断してきた鉄壁に小さな穴があいたのである。ちなみに、
1986 年末時点で全国の「自理口糧戸口」は 163 万戸、人口は 454 万人だったという(陸、
2004: 148)
。この措置によって、折からの「民工潮」がいっそう加速された。
食糧生産の増加などで都市部配給制度が廃止されたことがコントロールの弛みをもたら
した。1985 年、穀物と綿の統一販売制度がなくなった。92 年には食糧配給制度そのもの
がなくなった。
「人民中国」のシンボルとでもいうべき食糧キップ(糧票)、食糧油キップ
(油票)や布キップ(布票)が姿を消したのである。国家糧食局が「糧食移転証明」を正式
に廃止するのは 2001 年のことである。
:売買される戸籍、戸籍制度改革の試み
第四期(1992 ~ 2000 年代)
社会主義が世界的に崩壊するなかで、
「改革開放を加速せよ」と鄧小平が檄を飛ばして
から(1992 年 1 〜 2 月の南巡講話)、中国の改革開放は第二段階に入る。戸籍制度をめぐる動
きも新段階を迎えた。戸籍売買の流行、一部地域での都市・農村戸籍一本化の実験、そし
て中央レベルでのさまざまな改革構想などである。
まず、1992 年から広東、浙江、山東、山西、河南など 10 数省で「当地限定都市住民戸籍」
なるもの(ブルーカード)が過渡的措置として導入された。その地域だけに有効な都市戸籍
である。
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ついで、都市で起業や商売をするものに「戸籍を売る」のが流行した。まず小城鎮で一
人 4,000 元も出せば都市戸籍が買えるようになり、92 年、各地で戸籍売却による収入は
100 億元を突破、ある説では 200 億元にのぼった(張、2002, 2008)。
安徽省滁州の来安県、全椒県のケースを紹介しよう。都市戸籍を 1 戸 5,000 元で公開募
集したところ、客が殺到し、数日間で政府の財政収入が 300 万元増えた。一般に、地市級
以上の都市戸籍の相場は一人当たり 0.5 〜 1 万元、県級は 0.2 〜 0.5 万元だという。94 年に
全国で売られた戸籍は約 300 万戸、収入は約 250 億元という統計もある(殷、1996: 60; 陸、
2004: 150)
。
90 年代から外資や内資を導入して浦東建設を進めた上海市の場合はすさまじい。1992
年ころの規定では、投資総額が 500 万元以上、開業後 2 年、経済効果のよい企業には常住
戸籍を 5 つ提供、100 万元増えるごとに 1 常住戸籍を提供している(陸、2004: 151)。また、
93 年の規定では、上海に 20 万ドル(あるいは 100 万元) 以上投資したもの、もしくは 100
平方メートル以上の住宅を購入したものは「藍印戸口」(ブルーカード)を得ることができ
る。もちろん上海にだけ有効な戸籍である(陸、2004: 151)。
戸籍の公開売買に中央は必ずしも積極的ではなかった。戸籍売買反対の通達を出してい
るし、92 年に中共中央弁公庁、国務院弁公庁が、調査組を作って売買反対の具体策を協議
し、1. 戸籍売却の制止、2. 当地有効の城鎮居民戸口制度の導入、3. 戸籍立法の強化などを
決めている(陸、2004: 408)。上海の事例が示すように、むしろ売買に決定的役割を果たし
たのは市政府である。当時戸籍売却の指標は市財政局の審査確定が必要で、その後に工商
銀行が払い込む、という形式をとっており、公安部門や中央の認可があったとは思えない
からである(陸、2004: 408)。戸籍売買で潤った地方政府はかなりな数にのぼるに違いない。
このような状況は、現実が 58 年以来の都市・農村戸籍二元制度に合わなくなったこと
の反映だろう。この時期から中央レベルでの改革構想がいくつか出てくる。92 年末に国務
院は戸籍制度改革検討グループを設置、93 年 6 月には同グループが、商品食糧で農業戸籍
と非農業戸籍を分ける方法の廃止、
「農転非」制度の廃止、常住戸口・暫住戸口・寄住戸
口に分けて居住地で登記する、などを内容とする「戸籍制度改革についての決定」草案を
作った。人口流動と食糧配給制度の廃止で、農転非制度に意味がなくなったのである。
ところが、さまざまな抵抗があったのだろう。この草案は結局、成案、実施には至らず、
その後、一部の地域での試験的実施、そのためのガイドラインになるに止まっている。
以後、さまざまな部分的改革が行われている。1997 年 7 月、国務院と公安部は「小城鎮
戸籍制度改革の試点についての方案」を通達し、当該地域で条件に合った農村人口を城鎮
常住戸口として処理する、とした。1998 年 10 月中共 15 期 3 中全会の「農業と農村工作に
ついての若干の重大問題についての決定」
、2000 年 6 月 13 日中共中央・国務院の「小城鎮
の健全な発展を促すことについての若干の意見」などが出されたが、いずれも固定職業、
固定住所をもった農民に当該居住地に限って都市戸籍を与える、というものである。
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2. 二元戸籍制度を廃止できない理由
だが、2008 年まで都市・農村の二元戸籍制度そのものは変わっていない。上に述べた局
地的・試験的改革はあくまで部分的、試行的なものにすぎない。改革や実験は、当該地域
だけに有効な戸籍に限られているし、移動も小城鎮・小都市に限られ、大中都市への戸籍
移動は依然として拒まれているのである。
2005 年 10 月、公安部の「農業・非農業戸籍の区別の廃止についての報告」が出た。
『ニューヨーク・タイムズ』をはじめ西側メディアは、1958 年以来の二元戸籍制度を抜本
的に変える「画期的なもの」だと賑やかに伝えた。だが実は、この報告がいう「都市農村
統一戸籍登記制度」は、一部の省に限定されていること、また本地戸籍をすでにもってい
るものに限られていること、移動が郷鎮・県レベルに限られていること、などさまざまな
制限があり、二元戸籍制度そのものの変更ではない。K. W. チャンなどの分析では、90 年
代半ばからの「改革」は、戸籍に関する管理を中央から地方に下放し、また県レベル以下
の一部都市で本地人のみを対象に農業・非農業戸籍の区別を廃止したものの、農民工が都
市戸籍を得たわけではなく、制度そのものが変わったわけではない。その意味でマージナ
ルなものだ、という。またチャン論文は、南京市(総人口 620 万)を例にとって、中国都市
部での錯綜した戸籍状況を次のように説明している(Chan and Buckingham, 2008)。
つまり、中国では戸籍登録と居住登録が合体しているので戸籍には二重の区別がある。
まずは農業戸籍と非農業戸籍の別、次に永久居住地による区別(本地居住か、本地を離れた
外来人口か)である。その結果、南京市には次のような 4 種類の人々がいることになる。
① 南京の本地居住者で非農業戸籍をもつもの
② 南京の本地居住者で農業戸籍をもつもの
③ 非南京居住(外来人口)で非農業戸籍をもつもの
④ 非南京居住(外来人口)で農業戸籍をもつもの
2005 年 10 月の「報告」による改革は、全国 11 省で都市・農村居住登録システムの統一
を行うというものだが、対象になるのは②の人々のみ、また移動できるのは城鎮・県レベ
5)
ルまで、である。したがって、制度の抜本には触れていないのである 。
90 年代以来、何回も改革構想が出され、試験的には実施されてきているにもかかわらず、
制度そのものの抜本的改革に進まないのはなぜか。配給制度もなくなった。仕事の分配も
なくなり、労働移動は原則自由になった。二元的戸籍を必要たらしめていた根源がなく
なったにもかかわらず、なぜ二元的戸籍制度はなくならないのか。
1 つは、戸籍制度をめぐる既得利益が牢固にあるからである。90 年代から二元戸籍制度
「最
の廃止を主張してきた社会学者・陸学芸(社会科学院社会学研究所)は次のようにいう。
大の阻害物は今の戸籍制度で利益を得ている部分があるからだ。軍隊は都市での徴兵はコ
ストが高く、農村でやるほうが得だ。ある部門の企業は農民工が安いから得だ。要するに
制度撤廃は巨大な利益集団の利害にかかわる。もし付加的な制度、たとえば教育、医療、
「動く中国」と「変わらない中国」
79
養老、社会保障などの改革をしてから戸籍制度の解決をするというのだったら、50 年たっ
ても解決できないだろう。戸籍はたんに条件であるだけでなく、ある部門にとっては利益
分配の問題なのだ」と(陶・杜、2008)。
もう 1 つは、いったん都市・農村の「鉄壁」が崩れ農村人口(過剰農業労働力)が都市に
入ってくれば、都市は彼らを住民として待遇しなければならない、その社会的コストであ
る。雇用の保証、子女の就学、住宅、医療・年金などの社会保険には膨大な経費がかかる。
中国はこれを負担できるだろうか。ある試算では、農民一人を都市住民にするためにかか
るコストは 2.5 万元、2020 年までに 2 億の農民工とその子女を都市住民にするには総計で
5 兆元、年間にして 3,000 億元が必要だという。ちなみに、2006 年の中国の全国財政収入
は 3 兆 9,000 億元である(武漢大学経済発展研究中心、2007)。
Ⅴ 「動く中国」と「変わらない中国」
さらにもう 1 つ、戸籍による都市・農村分断の制度が、都市で働き、だが身分は農民と
いう「農民工」を存続させている。だが 2 億人の農民工は実は、経済成長期は安い賃金で
都市で働き、停滞期に入ると農村に返される、政府にとってはきわめて都合のいい存在、
必要な存在なのである。
2008 年米国発金融危機が、対米輸出産品の製造地であり、大量の農民工の受け皿である
中国の南部沿海地方を襲った。無数の玩具工場が倒産したという。その結果が農民工の馘
首、
「返郷」(故郷に帰す)である。2008 年 11 月末現在、農民工送出の 10 大省市(前掲)か
ら出てきた農民工の 5.4% に当たる 485 万人が職を失い、返郷させられたという。また、
人力資源・社会保障部によれば、2008 年 11 月末時点で、失業農民工は少なく見積もって
も 1,000 万人(「農民工失業潮―10 省份 485 万農民工已返郷」『財経』インターネット版、2008 年
12 月 17 日)
、おそらくその数は増え続けるだろう。
1980 年代、郷鎮企業や小城鎮が中国型発展のモデルとしてもてはやされた。実際に、改
革の第一段階では農民と農民工が改革のスターだった。
「農民工は中国経済の発展に大き
く貢献した。農民工なしには、沿海開放都市や経済特区、都市経済の持続的成長と安定は
なかったし、外向型経済の猛烈な発展はなかった」
。農民工のおかげで、中国では、イン
ドやブラジルのような都市貧民やスラムを作ることなく、経済の発展をなんとか実現し
た。しかも、農民工には請け負った農地、返るべき里がある。
「進退有路、来去自如」の
農民工こそ誇るべき「成功経験」なのである(国家統計局総合司課題組、2005)。逆に、
「1960–70 年代、無土地、無保障、無職、無技術の大量の農民を新市民にして都市での深刻
な両極分化と社会矛盾の激化を生んだラテン・アメリカの陥穽」は絶対に避けなければな
らない(辜・鄭・易、2007)。
いわば農民工とは、フロートする、顕在化しない余剰労働力である。そして、このメカ
80
アジア研究 Vol. 55, No. 2, April 2009
ニズムを維持していくには次の 2 つの制度がどうしても必要になる。1 つは、農民、農民
工を土地に縛りつけておく都市・農村の二元戸籍制度であり、これが「きわめて安い労働
力を国際市場に提供する面で貢献している」(Chan and Buckingham, 2008)。もう 1 つは、帰っ
て来た農民工に乏しいながら土地を保証する「土地公有制」である。
こうして、1950 年代以来の「変わらない中国」が基幹のところで厳然として残ることに
なる。戸籍制度と土地公有制である。戸籍制度は、農民と農民工を農村に縛りつけるため
の強制措置であり、公有の土地はフロートする農民工を完全な失業者にさせないための最
後の砦である。そして中国共産党の一党支配を支える最後のよりどころ、その特権の源泉
でもあるから、現体制が続く限り、私有制に移ることは考えにくい。二元戸籍制度を廃止
できないのは、2 億人のフロートする余剰労働力が安住する場を都市部は提供できないし、
彼らに公共教育、医療保険、年金保障などを提供する社会資本をいまの中国はもたないと
いう事情がある。
激しく「動く中国」に内在する「変わらない中国」を見つめるべきだろう。戸籍制度の
抜本的改革、都市・農村二元構造の解消、そして土地の私有化、これらが進まない限り、
どんなに移動や流動が激しかろうが、中国社会における構造変容は起こらない、というの
が筆者の現段階の観察である。
おわりに―パラダイム・シフトのために
すでに 90 年代半ば、明清史の専門家である黄宗智(Philip Huang)は「中国研究のパラダ
イム危機」を論じた。彼は、明清期中国についての「停滞した封建制論」も「資本主義萌
芽論」も理論的に行き詰まり、パラダイム、つまり、商品化は近代的発展を生み出すとか、
産業化と農業の発展は同時に進むとかの「相互に異なりかつ反対の意味を示す諸分析概念
の間に共有された、語られることのない、暗黙の前提」の転換が必要だと強調した。中国
史および中国には、階層化された自然経済と統合された市場、市民勢力の発展をともなわ
ない公共領域の拡大(国家による公共領域の独占)、市民社会をともなわない市場化などの
「パラドクス」に満ちあふれており、それがパラダイム転換を求めている、という彼の指
摘は、現代中国にもまったく当てはまる(黄、1994)。
パラダイム・シフトは容易にできるものではない。しかし、
「中国はどこへ行く」の問
いに対して、次のような「答え」
、別の言葉で言えば目標モデルを考えることは可能であ
る。2008 年 2 月のある現代中国地域研究プログラムのシンポジウムで筆者が提起した、現
代中国研究のための 4 つのモデルを紹介しておきたい。21 世紀に入って自由化した中国に
おける激しい改革議論からのあらいデッサンである(毛里、2008)。
「動く中国」と「変わらない中国」
81
1. 普通の近代化モデル
たとえいくつもの側面で「中国的」だとはしても、方向は民主化と市場化である、とす
るもの。とくに、民主化を明示的に提唱しているものである。
1 つの例を示そう。2004 〜 05 年にかけて、陳情(「信訪」、「上訪」)制度について中国で激
しい論争があった。言ってみれば、江戸時代の「目安箱」のような陳情の制度について、
その強化や改革を主張する多数派に抵抗して、制度の廃止をはっきり提起したのが于建嶸
(社会科学院農村発展研究所)らである。彼らは、陳情についての現行規定の多くが憲法など
に抵触するとし、その廃止を主張した。そして 2005 年 1 月制定された「陳情条例」は「官
を制限する」ものではなく「民を束縛する」であり、中国伝統の官本位主義、政府万能主
6)
義そのものだ、と痛烈に批判した(于建嶸、2005; 黄鍾、2006) 。彼らが描くモデルは普通の
近代社会である。
2. 伝統への回帰モデル
他方、改革開放以来 30 年たっても民主化が進まないなかで、
「民主化が中国の問題を解
決できるわけではない」と、伝統、しかも儒学的価値への復帰を将来モデルとして描く知
識人も出てきた。その代表が康暁光(中国人民大学)である。康は 90 年代には中国の権力
は「社会的公正」という新たな正当性を調達すべきだ、と主張していた論客だった。その
彼によれば、90 年代後半、大陸では、政治資源・経済資源・文化資源を独占した「エリー
ト連合」ができ、
「行政が政治を吸収する」状況が生まれ、それが政治安定を保証した、
と分析する。その上で、儒学的「伝統文化復興運動」の先頭に立ち、儒家文化の復興が中
7)
国の安定的発展、平和的台頭に貢献すると論じている 。
伝統への回帰は、難題に直面した時、誰にとっても選びやすいモデルなのだろう。
3. 東アジア・モデル
中国での東アジア・モデルの見方は微妙である。一般には経済発展と政治安定に限定し
て支持する見解が多いが、中国への適用に批判的な見解もある。その中で陳峰君(北京大学)
は、権威主義は東アジアが「やむを得ずとった過渡的な体制」だが、
「アジア型民主政治
体制」への漸進プロセスとして東アジア、とくに台湾経験を高く評価する(陳、1999)。
筆者は、中国の目標モデルとして東アジア・モデルはなお有用だと考えている。21 世紀
COE「現代アジア学の創生」からの知見では、東アジア政治社会は次のような共通性をも
つ。①公領域と私領域の相互浸透(政府党体制など)、②「契約」とは違う「関係性」ネッ
トワーク、③集団主義と温情/依存、パトロン/クライアント関係などの政治文化や権力
観、④東アジアの社会・地域関係がもつ濃厚なハイブリッド性、などである。それだけで
なく、同時に経済成長と国民国家形成でのキャッチアップという目標も共有する(毛里、
2007)
。日本を含む東アジアの歴史と現代を考える枠組みで今日の中国、明日、明後日の中
82
アジア研究 Vol. 55, No. 2, April 2009
国を照射することは意味ある作業だと考える。
4. 「中国は中国」モデル
この派は、現代中国の諸現象、構造、近い将来は、近代西欧も、伝統中国も、東アジア
の経験も引証基準とするわけにはいかない固有性をもつと考える。加藤弘之(神戸大学)は、
中国で起きている経済現象の 95% は近代経済学理論で説明できるとしながら、残る 5% に
8)
「中
ついては、
「中国は中国」モデルの有用性を認めているようである 。これまで筆者は、
国は中国」モデル論はともすれば安易になりやすいので批判的だった。2008 年 2 月のシン
ポジウムでも、
「しかしそこに到る前に、中国研究者がなすべき理論的な作業はたくさん
あるに違いない」と述べた。
しかし、万華鏡のような「動く中国」
、
「変わる中国」を目の当たりにしながら、他方で、
農民工や都市農村二元戸籍制度のように「変わらない中国」が厳然と存在し続けるのを見
ると、不本意ながら、3 つのモデルのいずれよりも、実は「中国は中国」モデルに強く惹
きつけられるのである。現在、筆者にとっての中国政治分析のキーワードは、戸籍制度、
陳情制度、そして土地公有制度である。
アジア政経学会の 2008 年研究大会国際セッション「動く中国」は、このように、実に
多くのことを考えさせてくれた。企画者、4 人の報告者に感謝したい。
(注)
1) 本セッションは、故田中恭子会員(南山大学)を追悼するために企画された。また、人間文化研究機
構現代中国地域研究プログラムが協賛した。
2) たとえば、辜勝阻・鄭凌雲・易善策(2007)
。
3) 農民工の出稼ぎ地は遠隔化している。国家統計局の 2005 年人口 1% サンプル調査では、農村労働力の
省を越えた移動は 1990 年(32.3%)
、2000 年(62%)
、2005 年(65.6%)となっている(2005 年全国 1% 人
口抽様調査課題組、2008)
。
4) 同上。
5) Chan and Buckingham(2008)
。なお重慶市では、2007 年から、局部的に改革試点となり、2012 年までに、
都市・農村統一の戸籍登記管理制度にするという。つまり全員に「重慶市住民戸籍」を給付、農村人と
都市人を分けない方向である(陶衛華・杜娟、2008)
。
6) このような陳情制度は、都市農村二元戸籍制度とともに、現代世界で中国以外にはない、いまなお続
く固有の制度である。于建嶸は、2006 年から 2007 年にかけて陳情者へ集団インタヴューをしてその記録
を残している(于建嶸、2007)
。昨今は、改革で落ちこぼれた弱者の集団的権利擁護闘争について論陣を
張っている。
7) 康暁光(2007b)
。また 2007 年の伝統文化復興運動調査を分析した康暁光(2007a)
。
8) 加藤弘之氏の 2008 年 2 月の上述シンポジウムでの発言。
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