第57巻-2 掲載

アジア政経学会
Asian Studies
第 57 巻 第 2 号
2011 年 4 月
目
次
·論
説·
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
―自薦候補と共産党のコントロール
中岡まり
1
内陸へ向かった広東人―民国期の華南鉱山開発を中心として
飯島典子
19
広東糾察隊の再検討― 1920 年代の中国労働運動史像の
再構築に向けて
衛藤安奈
35
福岡侑希
52
西村成雄・国分良成著『党と国家―政治体制の軌跡
(叢書中国的問題群 1)』
杜崎群傑
64
堀口
吉冨拓人
69
小島
眞
73
川田敦相著『メコン広域経済圏―インフラ整備で一体開発』
藤村
学
79
Robert Taylor, The State in Myanmar
熊田
徹
82
· 研究ノート ·
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
·書
評·
正著『中国経済論』
横川信治・板垣
英文要旨
博編『中国とインドの経済発展の衝撃』
87
中国地方人民代表大会選挙における
「民主化」と限界
自薦候補と共産党のコントロール
中岡まり
Ⅰ 問題の所在
人民代表大会(以下、人代と略)は中国の最高権力機関である。また、憲法は、全国人民
代表大会(以下、全人代と略)が国家主席・副主席を、地方各級人代が同級人民政府の長と
副職をそれぞれ選挙すると規定している。すなわち、本来、人代は政権建設に対して決定
的な権力を持つ機関として設置されている。また、選挙は、現在の中国においては、法的
に共産党の支配の正当性を調達する機能を果たしている。中国の人代選挙研究は、共産党
が政権建設の過程を掌握するために権力機関や大衆をコントロールしているメカニズムを
解明する、という意義を持つ。
人代選挙に関する先行研究は、共産党にとって有効な選挙制度の構築方法、運営方法に
関する実証研究が中心であった。現行選挙制度の問題点の指摘(史衛民、2000; 蔡定剣、
2003)
、選挙に関するデータ集(白鋼、2001)、選挙手引とその実施結果分析(史衛民・劉智、
2003)
、選挙過程の批判的紹介(李凡、2005b)、選挙過程における共産党の関与方法(袁達毅、
2003)
、選挙制度の歴史(王振耀、2002)などがそれである。これらの先行研究は、選挙制
度の構築過程と変遷、共産党にとっての現行制度の問題点を明らかにしたが、あくまでも
共産党が全過程をコントロールする選挙制度の完成を目的としたものであった。このた
め、これらの先行研究の中では、党とは異なる何らかの利益を表出しようとする選挙民や
候補者の存在が取り上げられることはなかった。
しかし、現実の選挙過程においては、1980 年の人代直接選挙では多くの大学で立候補者
が現れたこともあった。また、1990 年代終わりから、党によりコントロールされた選挙に
対して選挙民は不満を抱き始めていた(史衛民・雷兢璇、1999: 415、416、420–422; 雷弢、2005:
257–265)
。そして 2003 年の区・県級人代直接選挙においては、各地で自ら支持者を集め立
候補する「自薦候補」が現れた。特に立候補者の多かった深圳、北京ではそれぞれ「深圳
現象」
、
「北京現象」と呼ばれ、最終的に深圳では 2 人(唐娟・鄒樹彬主編、2003: 246–247)、
北京では 4 人の自薦候補が当選した(張濤ら、2008: 144–145)。当選者は少数であったが、自
薦候補の存在は、選挙制度に党の指導とは異なる利益表出機能を付与するものであった。
だが、史衛民に代表される社会科学院など政府系シンクタンクの選挙制度研究者は、選挙
1)
民・候補者による利益表出をとりあげることは少なく 、他方で大学や民間シンクタンク
?????
1
の研究者はこれを民主化の萌芽として論じた(李凡、2007; 鄒樹彬、2004; 張濤ら、2008)。つ
まり、党の立場から、選挙民・候補者による利益表出の意義と対応策を論じた研究はこれ
まで存在しなかったのである。本論文の特徴はまさしくこの点にある。本論文では、2003
年の北京市区人代直接選挙をとりあげ、自薦候補による利益表出に対する党の対処を検討
し、党が許容する利益表出の内容、表出の方法の限界点を探る。筆者はこれまで共産党に
よる政権建設の視点から、党が人代直接選挙に対する支配を浸透させていくメカニズムを
解明してきた(中岡、1998、2001、2009)。本論文でも同様の視点から、自薦候補に対する党
のコントロールについて考察する。
自薦候補の存在を重要視する理由は、彼らへの対応を誤れば、党の支配の政治的正当性
に瑕疵が生じる可能性があるためである。確かに、現在の選挙の結果、高い投票率の下で、
2)
党が推薦する候補は高得票率で当選しており(白鋼、2001: 172–182、186–188) 、共産党の支
配は法制度を通過して法的正当性を獲得している。しかし、法的正当性の獲得は政治的正
当性の十分条件ではないのではないか。この点を指摘したのが、J. M. クワコウの権力の政
治的正当性をめぐる議論である。
権力の正当性を満たすための条件として、クワコウは、同意・諸価値の一致・合法性が
常に必要とされる、としている(クワコウ、2000: 36–53)。統治者の権力の行使は、被統治
者の社会的あるいは政治的生活にある程度の制限を求めるものだが、そのためには、被統
治者の同意が必要であり、同意の根拠には、その政治制度が実現を追求する諸価値が不可
欠である。また、この同意を得る過程には合法性が求められる。但し、その合法性は形式
的合法性であってはならず、そこで扱われる法律が社会の利益に適合していること、諸価
値の表現となっていることを求めている(クワコウ、2000: 50–52)。中国の現行選挙制度に
おいては、同意と合法性は党のコントロールにより調達されているが、国家の追求する価
値には共産党が指導する共産主義が所与のものとして設定されているため、諸価値の内容
3)
を問うことは意義を認められず、忌避されている(雷弢、2009: 153、154) 。しかし、1993
年から北京で選挙民意識調査を行ってきた北京市社会科学院研究員の雷弢によれば、人民
代表の選択基準は、
「労働模範」から「利益代表」へと変わりつつあり(雷弢、2007)、選
挙民は諸価値の選択を求め始めている。また、自薦候補の出現は現行の選挙における「価
値」の選択肢の不在を顕在化させたと言える。
「諸価値の一致」の不在を無視し、現行の
選挙制度を改善しなければ、共産党の支配の正当性の強化は困難となる。
共産党が支配の正当性を維持し強化するためには、選挙民に「価値」の提示を認め、選
択を容認する必要がある。現在のところ、北京市で選挙民たちが選挙区の人民代表に求め
ている「価値」は、治安維持や渋滞・騒音の解消、医療や社会保障など安定した市民生活
4)
に関するものが中心である 。だが、将来それが政治体制に対する批判も含むいかなる「価
値」の提示に変化していくのかは予想しがたい。問題は、この表出される利益と表明され
る「価値」をどの程度まで認めるかである。過度の制限も許容も共に党の支配を揺るがし
かねない。よって、自薦候補の扱いは、党の支配の正当性に関わる重要な問題と考えら
2
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
れる。
本論文の結論を簡単に提示すると、党は、自薦候補の提示する「価値」とその提示の方
法を、選択的に認めながらも党の許容範囲内に制限し、コントロールしている。この許容
の限界点は柔軟性を持つもので、党内の階層により異なっており、また今後も変化すると
考えられる。なぜなら、一方的に自薦候補の存在や活動を禁止することは、党の支配に対
する政治的正当性に瑕疵を生じせしめるからである。
本論文の構成は以下のとおりである。第 2 節では 2003 年選挙の過程と結果から自薦候
補の意味を考察する。次に第 3 節では自薦候補の側から選挙過程と活動を考察し、自薦候
補の提起する「価値」の内容についても考察する。続いて第 4 節は党の側から選挙と自薦
候補の意味を考察することを目的とする。ここでは選挙と自薦候補に対する党の考えを、
党の上層部と基層レベルに分けて取り上げ、自薦候補への対応から、党が選挙工作過程に
おける「価値」の提示をどの程度容認しようとしているのか限界点を探る。最後に第 5 節
では、2006 年選挙の結果を踏まえたうえで、2003 年選挙での自薦候補の出現の意味と、
「価
値」の提起に対する共産党の対応と限界点について考察する。
Ⅱ 2003 年選挙の概要と自薦候補
本節ではまず選挙過程に対する党のコントロールについて明らかにし、その下で自薦候
補となる方法について説明する。そして、自薦候補が多数現れた 2003 年選挙の概要とそ
こでの自薦候補出現の意味を探る。
1. 選挙過程に対する党のコントロール
まず、共産党の支配に対して自薦候補出現の持つ意味を説明するため、選挙工作を管轄
する組織および過程と、これに対する党のコントロールについて述べる。日本では選挙工
程の管理は選挙管理委員会が行い、選挙活動は候補者およびその所属する政治団体・組織
が行う。しかし、中国の人代直接選挙においては選挙管理と選挙活動を一括して選挙工作
として党が指導する。つまり、工程管理も宣伝も全て党がコントロールするのである。
選挙工作を管理する組織として、上級から順に北京市区県換期選挙工作領導小組、北京
市区県換期選挙工作弁公室、選挙委員会および選挙委員会分会があり、これらは全て党の
指導下にある(図 1 参照)。つまり、選挙工作は全て党の指導下に進める体制が作られている。
「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会選挙法」(以下「選挙法」
と略)と「北京市区、県、郷、民族郷、鎮人民代表大会代表選挙実施細則」
(以下「実施細則」
と略)が規定した選挙工作管理組織は、選挙委員会のみである。しかし、図 1 に示したよ
うに、実際は選挙委員会の上部機関として、北京市区県換期選挙工作領導小組と北京市区
県換期選挙工作弁公室が設置される。前者は市党委員会(以下、市党委と略)と市人民代表
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
3
図 1 選挙工作管理組織
(出所)袁達毅(2003: 11–35)より筆者作成。
大会常務委員会(以下、市人代常委会と略)の領導を受けるもので、組長は市党委副書記が
務め、市党委の各部門の副部長クラスと市民政局局長をメンバーとして構成される(袁達
毅、2003: 14–15)
。後者は市人代常委会の決定により、その領導を貫徹するため設置される
もので、主任が市人代常委会人事室主任、副主任が市党委組織部ら 3 人と市人代常委会ら
2 人で構成される(北京市人民代表大会常務委員会関与郷、民族郷、鎮人民代表大会換届選挙的決
定、2002 年 9 月 4 日採択)
。両組織は共に構成から北京市党委の影響力が強いと推測できる。
しかし、市区県換期選挙工作領導小組については、その組織について規定する法律、条例
は見当たらない。つまり、法に依拠することなく党が選挙工作を指導しているのである。
次に選挙工作過程に対する党のコントロールを検討する。
「選挙法」と「実施細則」の
規定によれば、選挙工作はまず、①選挙委員会が成立するところから始まる。区選挙委員
会は区党委書記が主席を務め、人代常委会主任・副主任、宣伝部・組織部・統戦部・工
会・婦女連・公安・軍などの責任者で組織され(大興区選挙委員会、2003)、これが選挙工作
過程全般を指導する。選挙委員会の成立に続き、以下の手順で選挙工作が行われる。②選
挙活動計画の制定、③選挙区の区分、④選挙活動工作員の養成 ・ 訓練、⑤選挙民登録・資
格審査、⑥選挙民名簿の公布(投票日の 20 日前)、⑦政党 ・ 人民団体による連合あるいは単
独推薦と選挙民 10 名による連名推薦を受けた初歩代表候補者名簿の公布(投票日の 15 日
前)
、⑧初歩代表候補者についての協議、⑨選挙委員会および選挙委員会分会による正式
代表候補者名簿の確定・公布(投票日の 5 日前)、⑩選挙委員会および選挙委員会分会によ
る選挙民に対しての正式代表候補者紹介、⑪投票、⑫選挙結果確定、である。この中で選
挙結果に対して選挙委員会すなわち党のコントロールが決定的な役割を果たすのは③、
⑦、⑧、⑨の段階で、特に⑧と⑨はしばしばブラックボックスとして批判される(中岡、
4
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
2009: 209–212)
。自薦候補が主に係わるのは⑦〜⑫の段階で、党のコントロールが多く及ぶ
部分である。
2. 候補者の種類
では、上記のように党のコントロール下にある選挙過程において自薦候補として当選を
目指す者はどうすべきか。当選する方法としては、①党・団体により推薦された正式候補
者となる、②選挙民の 10 名以上の連名により推薦された正式候補者となる、③非正式候
補者、の 3 つの選択肢がある。本論文で扱う「自薦候補」は②あるいは③の方式での当選
を目指すものである。③の方法は「選挙法」第 37 条の「選挙民は代表候補者に賛成票を
投じることができ、反対票を投じることもできる。その他のいかなる選挙民を選ぶことも
でき、また棄権してもよい」との規定を利用するものである。正式候補者は選挙委員会の
コントロール下で調整を経て決定されるが、非正式候補者は選挙委員会すなわち党のコン
トロール外で当選するもので、共産党の支配にとって脅威となる。党が最も問題視するの
はこの非正式候補者方式の活動である。但し、自薦候補にとって、最も望ましいのは、選
挙民 10 名以上による推薦により初歩候補者となり、選挙委員会らによる協議を経て正式
候補者となり、最終的に投票で当選する方法である。非正式候補者で当選するのは至難の
業であるため、これは正式候補者になることができなかった場合にとる手段であり、第 1
の選択肢ではないのである(中国人大代表選挙研究課題組、2008: 352–354)。
3. 2003 年選挙の結果と自薦候補
北京市で行われる直接選挙は区・県級人代と郷鎮人代の 2 つがあり、1998 年に区・県級
人代選挙、2002 年に郷鎮人代選挙、2003 年に区・県級人代選挙、2006 年に区・県級人代
5)
と郷鎮人代選挙が行われた(『北京晩報』、2006 年 8 月 5 日) 。このうち郷鎮人代選挙は北京
市の 18 区県中 5 区では行わないので、本論文では全ての区県で行われる区・県人代選挙
を取り上げることとする。
2003 年選挙は 12 月 10 日に投票が行われ、同月 18 日前後に 4403 人全ての代表が確定し
た(「本市区県人大代表今全部産生」)。
投票率は公式の発表では 95.3% と非常に高いものである。第 2 次投票の実施は、第 1 回
の投票で票が割れてしまい選挙委員会によるコントロールがうまく機能しなかったことを
意味するが、その割合は 1.45% と極めて低く、2003 年も全体としては党の指導する選挙委
員会が選挙過程と結果をコントロールすることに成功していたと考えてよい。しかし、投
票率とコストと目標達成に関して課題もある。北京市民を対象とする雷弢の調査によれ
ば、 委 託 投 票 で は な く 自 ら 票 を 投 じ た 選 挙 民 の 割 合 は、1998 年 が 74.2%、2003 年 が
73.0%、2006 年には 63.7% と低下傾向にある(雷弢、2009: 136–138)。また、800 万余りの選
挙民を投票にまで導くために 3 万人近い工作人員が動員されるなど(『中国人大新聞』、2004
年 1 月 5 日)
、このコントロールは非常に高いコストを要するものである。その上、選挙工
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
5
作の過程における党の重要な目標の 1 つである「代表構成の優良化」に関しては課題を残
した。目標とされた基準のうち、大専以上の学歴の者が 84% 以上と 35 歳以下の者が前回
より増加すること、党員が 65% を超えない、の 3 つは達成されなかったのである(『中国人
大新聞』
、2004 年 1 月 5 日; 中国政法大学学校弁公室、2003)
。
選挙の中で自薦候補が多く現れ、彼らについて多くの報道がなされたが、実際に当選を
果たしたのは 4 名にすぎず、選挙結果は前回の 1998 年選挙の結果とほとんど変わらなかっ
た。つまり、自薦候補の出現は選挙過程全体においてはごく一部の限られた現象であり、
選挙結果自体への影響よりもその社会的影響において党とメディア、知識人から重視され
たものである。特にメディアの多くはこれを民主化の兆しの 1 つとして称揚したが、党は
後述するように複雑な対応を見せた。
Ⅲ 自薦候補の選挙活動と目的
本節では自薦候補の経歴、目的、選挙活動と当選後の活動を取り上げ、自薦候補の背景
と彼らの意図および社会的評価について述べる。さらに自薦候補の提起する「価値」の内
容についても考察する。
1. 自薦候補の履歴・目的
2003 年選挙で現れた主な自薦候補は 24 名6)で、そのうち当選者は 4 名であった。主な自
薦候補は、大学生・院生 11 名、不動産所有者 6 人、その他は大学講師や弁護士、消費者
権利保護活動家などであった。当選者は北京郵電大学文法学院講師の許志永、北京工商大
学法学院講師の葛錦標、反 偽科学 キャンペーンで有名なテレビ司会者の司馬南、北京
回龍観社区の居民委員会主任で不動産所有者を代表する聶海亮の 4 人で、いずれも社会経
験を持つ人物であった。許は所謂「人権弁護士」であり、2009 年には「公盟法律研究セン
ター」の脱税疑惑で一時逮捕されるなど、公安当局から圧力をかけられている人物であ
7)
る 。許、司馬、聶は正式候補者から当選し、葛のみが選挙委員会のコントロールを全く
経ない非正式候補からの当選であった(表 1 参照)。
自薦候補たちは「政治参加」自体を立候補の目的とするものが多く、選挙の本来の目的
8)
の 1 つである利益表出を目的とするものは少なかった(唐娟、鄒樹彬、2003: 192–193) のが
特徴である。
(許志永・張星水・
「政治参加」自体を目的とするものは、
「行動をもって法治を推進する」
杜兆勇・司馬南)
、
「身を以って法を試す」(舒可心・葛錦標)、
「民主の実践」(陳俊豪、石磊、
殷俊ら学生)を標榜していた(張濤ら、2008: 136–138)
。彼らは、自らが法律通りに選挙に参
加しようとすると党からいかなる反応が生じるかを大衆の目に明らかにすることにより、
法治が機能しているかどうか、法律に則って政治参加を行うことが安全かどうかを証明で
6
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
表 1 自薦候補のプロフィールと選挙結果
氏名
許志永(党員)
葛錦標
司馬南(党員)
聶海亮
殷俊
謝岳来(党員)
佟麗華
王海
舒可心
杜兆勇
張星水
所属
北京郵電大学文法学院講師
北京工商大学講師
テレビ司会者
回龍観社区居民委員会主任
北京大学中国経済研究中心修士生
清華大学地房産研究所 01 級博士生
北京青少年法律援助与研究中心主任
北京大海商務顧問有限公司(消費者活動家)
中国人民大学制度分析与公共政策中心研究員
北京朝陽園業主委員会主任
法学博士
弁護士
結果
正式候補者から当選
非正式候補者から当選
正式候補者から当選
正式候補者から当選
初歩候補者
正式候補者
初歩候補者
初歩候補者
初歩候補者
(出所)鄒樹彬編(2004 年)より筆者作成。
きると考えた(陳文、2004b: 19–22; 陳文、2004a: 46–47)。この動機は当選を求めてのものでは
なく、むしろ選挙過程の不法性や非合理性を選挙民に印象付けることを目的としていた。
しかし同時に彼らの選挙民の側は、特に学生は彼らを自分たちの利益代表ととらえ、学生
9)
生活の利便性の向上や学生の権益保護に関する要望を候補たちに伝えた(若凡、2004) 。
このように選挙民からの働きかけにより自薦候補が意図せずして利益代表に転じていく可
能性も指摘しておきたい。選挙過程により選挙民が権利意識に目覚め、代表候補を利益表
出を行う政治家へと育てることも可能性として考えられるのである。
「不動産取引の安全性の維
利益表出を目的としたものは、
「消費者権益の保護」(王海)、
「個人の権利保護」(佟麗華)、
「不動産所有者の権利保護」(聶海亮) があり、
持」(秦兵)、
主に消費者の立場からの権利保護を求めるものである。これらの自薦候補が目指した利益
表出は、対象が限定的であり、今後いかに所属や階層、地域の枠を超えた連携を産む広が
10)
りを持つかが課題となる 。多くの立候補者の目的は、現行の選挙制度が実質的に合法的
ではないことに対する挑戦であった。しかし、実際に当選したのは学生や不動産所有者ら
の利益の代弁者であった。
2. 自薦候補の選挙活動
自薦候補たちは実際にどのような選挙活動をしたのか。本項では、当選した自薦候補・
当選者の対抗馬・落選した自薦候補の三者を取り上げ、当選理由と落選理由を探り、代表
候補に対して選挙民が求める機能について検討する。
(1)当選した自薦候補
当選した自薦候補は大学講師の許と葛、テレビ司会者の司馬、不動産所有者委員会の聶
の 4 人である。このうち、選挙活動の過程が多く公表されている許志永の選挙活動を紹介
し、当選理由などを検討する(陳文、2004b: 13–42;『南方都市報』、2003 年 12 月 16 日)。
河南省の村の医師の家庭に生まれ、北京大学で法学博士の学位を取得した許は、長期に
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
7
わたり弱者に対する法律支援活動に携わっていた。人権派弁護士として孫志剛事件と孫大
11)
午事件 に関わる過程で法治の重要性を実感し、自分の専門知識を法治の推進に役立てた
いと考えるようになった(陳文、2004b: 14–17)。そこで、許は選挙活動の戦略として、自ら
選挙民 10 人以上の推薦を集め、選挙委員会の管轄下で正式候補者となることを目指した。
許が当選できた理由としては、選挙区の構成と正式候補決定過程の透明性、当局への配慮、
知名度の 4 点が挙げられる。1 つ目は選挙区の構成が単純で地盤が強かったことである。
選挙区は所属単位である北京郵電大学と周辺のいくつかの居民住宅区という比較的単純な
12)
構成であった。2 つ目は正式候補者の決定に際して予備選挙 の方式が取られたことであ
る。郵電大学の選挙委員会がリベラルな対応をしたことが大きな理由であろう。3 つ目と
して、許が単位内の選挙工作当局と密接に連絡を取り、ポスターの掲示やチラシの配布な
ど当局から難色を示された行為は即座に停止するなど(陳文、2004b: 25、36)、協調的な態
度をとったことが挙げられる。4 つ目は、許が孫志剛事件と孫大午事件を通じてすでに有
名人となっており、投票直前の中央電視台の番組で「2003 年度法治人物」と紹介されるな
ど知名度が高かったことが挙げられる。
非正式候補者として当選した北京工商大学法学院講師の葛錦標の場合は、地盤と選挙民
との関係は他の自薦候補と同様だが、当局との関係は良好とは言い難かった。葛は、当初
選挙活動には参加していなかった。しかし、正式候補者の決定が学院内の各学部の党支部
書記と 20 名ほどの選挙民小組組長により行われたと知り、その決定方法の妥当性に疑問
を抱き、自ら選挙活動を開始した。彼は経歴や考えを印刷したビラの配布や学生間の
ショートメールで宣伝を行い、非正式候補者として党と選挙管理当局のコントロール外で
当選した(若凡、2004)。
(2)当選した自薦候補の競争者
同じ選挙区の競争者も、地盤と選挙工作管理当局との関係については、同様の条件を得
ていた可能性があるが、彼らは自ら積極的に選挙活動を行うことがほとんどなかった。
許の選挙区で正式候補となったのは計算機学院院長、電信学院院長、信息学院院長と許
の 4 名で、許以外はいずれも郵電大学に長く勤務し、校内や学術界において声望が高く行
政職にも就いている人物であった。しかし、3 人とも選挙に対しては積極的ではなく、許
の選挙活動に対しても穏やかな対応をした(陳文、2004b: 34)。電信学院院長は学生に対し
て授業で許に投票するよう呼びかけるなど、自ら進んで許の集票活動を助けた(『南方都市
報』
、2003 年 12 月 16 日)
。
葛の選挙区は定数 2 名で、第 1 次正式候補者となったのは法学院院長、外語部党総支書
記、学校弁公室副主任であった。第 1 回の投票にあたり、選挙区ではこれら 3 名の経歴を
宣伝するポスターを張り出し、選挙民との質疑応答の場を設けたが、3 人の候補はいずれ
も準備が不十分で、当選後の施策については具体的な回答ができなかった(若凡、2004)。
自薦によらず候補となる場合は、正式候補者本人もその過程をよく知らされず、突然、所
13)
属単位から正式候補者として呼び出されるため 、候補者たちは当選後、所属単位の利益
8
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
14)
のために働くが 、自身が人民代表となることについてあまり思い入れも準備もないと考
えられる。少なくとも許、聶、葛たち自薦候補は、集会や支援者ネットワークの構築によ
り、指名されるのを待つだけだった彼らの競争者よりも選挙民と密接な関係を築くことに
成功していたと言える。
(3)落選した自薦候補
最後に落選した自薦候補のうち、学生候補とそれ以外の候補について検討する。彼らの
選挙活動と選挙工作当局の対応を検討することにより、
「価値」の提起に対する党の限界
点を明確にできるはずである。学生の人代選挙への参加には前例がある。1980 年の北京区
県人代選挙において 100 名近い大学生が参加し、最終的に 8 名が投票により当選した(馬波、
2003; 謝振才、2004a: 92)
。しかし、2003 年選挙では学生候補は全て落選した。その原因につ
いて、謝振才、雷弢は環境要因と学生自身の要因の 2 つを指摘している(謝振才、2004: 98–
101; 雷弢、2009: 63、64)
。1 つ目は 80 年の学生たちは文化大革命の結果、社会経験を積んだ
後大学に入学していたため、経済政治体制改革の是非などの国家的問題に対する見識を持
ち議論する風潮があったのに対して、2003 年の時点では学生たちの関心が身近な生活上の
問題への対応と法治や個人の権利を守ることに集中しがちであった点である。2 つ目は学
生たちが明確な社会利益を代表せず、選挙への参加が理想主義の結果に過ぎなかったこ
と、特定の現実的な利益の後ろ盾を持たなかったことである。学生たちの落選の原因は、
彼らの目指した利益表出の内容が抽象的な社会問題とささいな学生生活に対する不満など
であり(謝振才、2004b: 112–114、「中央民族大学李猛林参選声明」、「民族大学石磊参選人大代表宣
言書」
)
、有権者と共有されなかった点にあろう(陳猛、2003)。
これに対して、ある程度の広がりを持つ利益を表出しようとした弁護士や社会活動家た
ちが落選した理由は、価値の提示に失敗し、選挙民の支持を得られなかったというよりも
むしろ、選挙委員会の対応と選挙制度に負うところがある。不動産所有者などの権利保護
に熱心な活動家として知られる舒可心の場合を取り上げ、検討してみよう(鄒樹彬編、
2004: 43–68)
。舒も当初は許同様に選挙民による推薦により初歩候補者を経て正式候補者と
なることを目指していた。舒の選挙活動の特徴は選挙事務所である「競選弁公室」(舒可心
公共事務弁公室)を立ち上げ、ポスターと選挙民との接触により当選を目指したことである。
後述するが、この選挙事務所の存在が、選挙工作当局から問題視されることとなる。
舒の落選の理由は、地盤と、党に対して疑義を唱える可能性がある代表が選出されると
いうリスクを恐れる選挙工作当局の対応、選挙制度の 3 つが挙げられる。1 つ目の地盤に
ついてだが、舒の選挙区である朝陽区三里屯北片選挙区は、主に単位と商業区そして多く
の外国の大使館や領事館が点在する複雑な構成である。それぞれの単位は選挙民の選択を
拘束することが可能であるため、もともと単位外の者の当選は困難が予想された(「十三届
15)
人大代表名簿」
) 。2 つ目は、この選挙区を管轄する朝陽区選挙委員会三里屯分会弁公室が、
舒について問題を起こす面倒な人物と認識し、ポスターの掲示、推薦表の入手、正式候補
選出過程の公開に関して非協力的であったことが挙げられる。選挙管理当局の至上命題は
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
9
円滑に予め設定された構成の代表を選出することであるため、これに対して舒は障害とな
ると考えられ、選挙当局による妨害の原因となったのであろう。3 つ目は現行の選挙制度
が選挙委員会とその下部組織以外の者にとって難解で、推薦者を集めるのに必要な書類の
入手や提出の時期などを知ることすら困難となっており、体制外の者の参入を実質的に拒
んでいる点である。
16)
3. 当選後の自薦候補の活動
選挙終了後も自薦候補たちは「北京現象」として報道の上ではもてはやされていた。し
かし、選挙民の協力により当選を勝ち取ったにもかかわらず、自薦候補たちが当選後、本
人の希望と選挙民の期待通り人民代表として活躍し、選挙民の利益を人代の場に反映する
ことができたとは言い難い。結果は、選挙民の期待を裏切るものだった。
許志永は 2006 年の選挙においても当選を果たし、2011 年現在 2 期目の人民代表を務め
ている。しかし、予算審議や行政府の人事決定の際に代表として自分ができることはあま
17)
りにも少ないと話している(章剣鋒、2009) 。東城区で当選した司馬南も周囲から面倒を
起こす人と思われ諌められ、同様の無力感を感じた。聶海亮は現在北京で能源科技会社の
経営者となっている。聶は回龍観小区のマンションの敷地管理をめぐる問題を焦点に小区
住民の票を集めたが、当選後は小区との関係を断ち、商売しかしていない、商売のために
代表となり上層部との関係を作ろうとしただけだと批判する選挙民もいる。葛錦標はすで
に北京工商大学の職を辞し、弁護士として事務所を構えているが(「企業知識産権網」)、人
民代表としての活動は明らかではない。
18)
自薦候補の代表たちは当選後、既存の人民代表の派閥から疎外され(章剣鋒、2009) 、
その力を発揮することができず無力感を募らせたと言えよう。党は選挙過程において当選
者を厳選するためコントロールを行っているが、当選後も制限は続く。党に容認された当
選者に対しても、さらに当選後の活動について代表団を通じて圧力を加えているのである。
Ⅳ 共産党の対応
本節では、選挙と自薦候補に対する党の対応を、党の上層部と基層レベルに分けて取り
上げ、そこから、党が選挙工作過程における「価値」の提示をどの程度容認しようとして
いるのか、その限界点を探る。
1. 共産党の選挙に対する考え
2003 年選挙が 1998 年選挙と同じ選挙法のもとに行われたにもかかわらず、2003 年選挙
においては多くの自薦候補が現れた。その理由には、2002 年の共産党 16 回全国代表大会
において取り組むべき課題の 1 つに政治建設と政治体制改革の推進が取り上げられ、法治
10
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
19)
の推進、基層民主の拡大が提唱され 、自薦候補が許される雰囲気が醸成されていたこと、
20)
それに伴い北京で行われた 2002 年社区直接選挙の影響が考えられる 。もともと 2002 年
から都市部の居民委員会における直接選挙に関する報道が増えていたが、2002 年 6 月に
『人民日報』(華南版)が広西柳州での居民委員会直接選挙について大々的に報じ、8 月に中
央と地方のメディアが北京市の九道湾社区居民委員会の直接選挙について報じて、大衆の
耳目を集めた(李凡編、2003: 36–69、306–316; 李凡、2005a; 張濤・王向民・陳文新、2008: 175)。
こうした中で、人代選挙においても多くの自薦候補が現れ、知識人が論評し、メディアが
熱心に報道し始めたが、これは北京市党委員会の想定を超えた事態であったという。しか
し、党が報道を抑制しようとした時にはすでに自薦候補の活動は広く知られており、これ
21)
に圧力をかけることは困難となっていた 。2003 年選挙での自薦候補が多く現れたのには
党のコントロールミスも一因となっていたのである。
2003 年選挙の後、2006 年選挙に向けて 2004 年に選挙法が改正され、正式候補決定過程
での予備選挙も可とする、選挙委員会が候補と選挙民の面会をアレンジすることを可とす
る、選挙破壊活動に対する罰則規定を設ける、と新たに規定された。これは党の上層部が
2003 年選挙の結果を肯定的に評価し、より選挙民の意見を反映しやすい選挙制度改革に積
極的に取り組もうとしていることを示していた。
しかし、2006 年選挙において、党は自薦候補に対する調査・報道を抑制しつつ、自薦候
補自体は一部認めるという複雑な対応を示した。2006 年選挙に際して、2003 年選挙の際
に深圳や北京で調査を行ってきた深圳大学や中国社会科学院・北京市党校の研究者は調査
への協力を拒否され、自薦候補については活動することを容認するが、報道関係者がこれ
22)
を報道することは差し控えるよう指示が出されたという 。実際に 2003 年選挙の時に比
べ、2006 年選挙に関する報道は明らかに低調であった。この党の対応の変化の理由として
は、全人代常委会委員長が人代の機能強化を目指す李鵬からこれに消極的な呉邦国に代
わったことや中・東欧と中央アジアで選挙を契機として起こったカラー革命の影響などが
23)
しばしば挙げられるが、明確な根拠は確認できない 。報道が規制される一方で、自薦候
補は海淀区においてのみ前回をはるかに上回る 20 名前後が当選を果たした(李凡編、2007:
4)
。しかし、その他の区からの自薦候補は「様々な理由から」(李凡編、2007: 4)当選が叶
わなかった。利益保護を目指す不動産所有者たちは正式候補者を決定する際に全て不適格
とされた(李凡編、2007: 184–185)。
この党の対応は、
「代表構成の優良化」の方針に基づく、党に融和的な新階層の取り込
みを目的としたものと考えられる。2006 年選挙の候補推薦にあたり党が強く求めたことは
「代表構成の優良化」であり、党政幹部と大企業の経営者の割合を減少させ基層の労働者、
農民、知識人の割合を増やし、民意を反映できる人民代表の構成を目指した。また、人民
代表は名誉職ではなく実務能力を持った人物がふさわしいことも強調された(盛華仁、
24)
2006; 田雨、2006;『半月談』
、2006 年 8 月 9 日 ;『時事資料手冊 2006 年第 5 期』
、2006) 。この「代
表構成の優良化」傾向と、2003 年選挙の自薦候補当選者がいずれも高学歴知識人で共産党
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
11
組織との連携を重視する人物であったこと、2006 年選挙の結果、知識・技術水準の高い住
25)
民が多く住む海淀区 でのみ自薦候補が当選したこと、2003 年選挙での自薦候補の中でも
党に協力的であった人物を 2006 年選挙では党派団体推薦候補に取り込んだこと(雷弢、
2009: 17)などから、党は人代直接選挙において党の条件に合致し、且つ党と融和的な人物
を自薦候補として容認することを、新たな社会勢力となる新階層を取り込み政権の基盤を
強化する 1 つの手段として採用し始めた、と考えられる。
2. 基層党組織の対応
党が条件付きで自薦候補を受け入れようとする一方で、実際に選挙工作を管理する基層
党組織は、自らの管轄内に現れた自薦候補者に対して協力的ではなく、むしろ消極的妨害
をもって対応した。選挙結果を予定通りコントロールできなければ責任を問われる立場で
あることから、彼らは面倒を回避し、自薦候補というイレギュラーな存在をできるだけ排
除しようとしたと考えられる。当選した許、葛と落選した舒の選挙活動の例から、選挙活
動の各段階での基層党組織の対応について検討し、
「価値」の提示について、党の限界点
がどのあたりに設定されているのかを考察する(陳文、2004a: 43–68; 陳文、2004b: 24、25)。
選挙活動における「価値」の提示について、党が問題とするのは 3 つの側面があると考
えられる。1 つは「価値」を提示する方法、すなわち選挙活動の手法である。2 つ目はそ
の程度、そして 3 つ目は提示される「価値」の内容である。
まず、
「価値」を提示する方法について、舒の例を見てみよう。この例は、選挙工作管
理当局が選挙活動に関する権限の侵害を許すつもりはないことを示している。
舒の選挙活動を管轄したのは朝陽区選挙委員会三里屯分会弁公室であった。まず、問題
となったのは舒の立ち上げた「舒可心公共(選挙)事務弁公室」の存在であった。これは「法
治の夜明けを作り出し、居民の権益を保護しよう!」をスローガンとする競争選挙のため
の組織であった(陳文、2004a: 50)。この選挙事務所は、選挙工作管理当局が一切を取り仕
切る選挙工作のうち、選挙活動を行おうとするものであり、選挙工作管理当局にとっては
選挙工作管理に関する権力を侵害するものであった。このため、朝陽区選挙委三里屯分会
弁公室の王芳主任は舒可心と面会する際も個人としての舒と面会するのであって「選挙事
務所」とは何ら関係を生じさせないと主張し、
「選挙事務所」の存在を認めなかった。
また、選挙活動の 1 つである宣伝活動も問題視され、妨害にあった。宣伝活動としての
ポスターの掲示は「市の景観管理条例に違反する可能性がある」とされ、その結果、舒は
個人のポスターではなく、選挙法の普及という形をとるよう変更を余儀なくせられた。
「市
の景観管理条例」に関して、舒の選挙事務所はその後朝陽区市政管理委員会とその上級組
織北京市市政管理委員会に問い合わせたが明確な回答は得られなかった。選挙活動に必要
な資金集めのための募金も当局は非合法と認識しており、関係部門の批准を得ねばならな
いとされた。朝陽区選挙委三里屯分会弁公室は、具体的な選挙への参加については、市党
委員会組織部・宣伝部の批准を得なければならない、とまで舒に伝えた。このように、宣
12
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
伝活動は上級からの許可が出ないことを理由にことごとく却下された。
次に障壁となったのは推薦者集めである。初歩候補者となるには選挙民 10 名以上の推
薦を集めねばならないが、これを記入する推薦表の交付時期と入手方法は選挙区により異
なっており、選挙管理当局以外の者に情報がいきわたらず、入手に困難が生じた(中国人
26)
大代表選挙研究課題組、2008: 352–353) 。許は選挙弁公室に問い合わせ、結局同僚から選挙
民小組会議の開催を知らされ、その場で推薦表の入手に成功した。舒は当初、選挙民小組
会議の席上では組長に配布を拒否され、選挙分会にてようやく入手した。
通常、推薦表公布から初歩代表候補者確定まではわずか 5 日足らずであり、一定の組織
なしにこの間に推薦者を集めるのは困難である。しかし、党派団体推薦候補と異なり、自
薦候補は選挙活動を行う団体を組織することも認められていない。自薦候補の草分けであ
る姚立法らが作成した自薦候補マニュアルは、選挙活動のための組織は非合法民間組織と
して取り締まりを受ける可能性があるため、組織しないよう指示している(姚立法・姚秀栄、
2006)。
このように基層党組織と選挙工作管理当局は、宣伝と選挙活動、推薦者集め、選挙活動
組織作りにおいて自薦候補の活動を妨げる障壁となっている。その理由は、これらの選挙
活動が、選挙工作管理の権力を侵害し、党の一元的なコントロールを妨げる可能性を持つ
ものだからである。
次に「価値」の提示の程度について、舒と当選した許の例を見てみよう(陳文、2004b:
23–25)
。ここでは、当該選挙区以外の広い範囲で話題になることや、メディアで大々的に
報じられることに対して選挙工作管理当局が敏感であることがわかる。
『瞭望東方週刊』
が舒の選挙事務所の活動を追跡報道したいと申請したが、北京市人代と連絡した後、責任
者は舒の選挙参加に否定的で、報道しないよう指示した。許は初歩候補となるために推薦
を集めたが、選挙活動を行うことにより何らかの圧力がかかることを恐れ、いったん署名
集めを停止し、当局の出方を伺うことにした。選挙区に対する公開状は、ネット上に公開
した文章と区別した方がいいと考え、感情的な文章は削除した。
『新京報』の記者の取材
に対して、北京郵電大学選挙区の進歩した点を主に語り、鋭い批評は避けた。また、選挙
工作に携わる同僚から「あまり大ごとにしないよう」との忠告を受け、不要な摩擦を避け
るべく従来決定していたポスター貼りを停止した。このように正式候補となり当選した許
の場合でも、周囲や他の選挙区にまで過大な影響を与えるような活動には圧力がかけられ
たのである。
最後に、提示される「価値」の内容についてみてみよう。これには、その人物が党と選
挙工作管理当局に対して対立的かどうかが判断点となると思われる。
非正式候補者から当選した葛は、選挙工作を所管する北京商工大学選挙工作組と甘家口
街道選挙分会に対して正式候補者決定過程に関する疑義を訴える書を提出するなど、選挙
活動の当初から選挙工作管理当局に対して対立的な立場を取っていた(若凡、2004)。この
ため、選挙民との接触の機会を減らされるという制裁を科された。この選挙区では正式候
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
13
補者を含めての 1 回目の投票で既定の得票数に達した者がおらず、選挙は無効となった。
2 回目の投票の際に「面会会を設ける時間がなかった」として大学の党委書記は面会会を
手配せず、葛は直接選挙民に主張を訴える場を奪われたのである。
落選した学生候補者の殷俊は、一度は教師から「所属単位からの推薦も可能」との情報
を得たが、翌日に学生管理部門の教師から大学の指導部が「支持もせず反対もしない」と
の方針を固めたことを知らされた。表向きの理由は 1 年半後に卒業する学生が任期 5 年の
人代代表となるのは民主的資源の浪費であること、学業と人代代表の活動の両立が困難で
あることとされた。しかし、殷が献血活動や学生寮の食堂や寮の移転をめぐって大学当局
から問題を起こす学生と認識されていたことが本当の理由と考えられる(謝振才、2004b:
107–110)
。
基層党組織に現れる「価値」の提示に関する限界点は、選挙工作における選挙管理当局
の権力を侵害しないこと、自薦候補の選挙活動の影響が広い範囲に及ばないこと、提示さ
れる「価値」が党と対立的ではないことで、基層党組織はこれを目標として行動している。
「代表構成の優良化」という目的では一致しているものの、党の上層部と現場で対応する
基層の間にはずれが生じていると考えられる。
Ⅴ 結語
2003 年選挙における自薦候補の出現は、当事者である自薦候補たちにとっては法治の推
進と利益の主張を意味し、その選挙民たちにとっては利益表出の機会を得、
「価値」の選
択肢が与えられたことを意味した。しかし、これをいわゆる下からの民主化の 1 つと結論
付けるのは時期尚早である。なぜなら自薦候補は、共産党が法治を推進し、現行選挙制度
の行き詰まりを打破し、選挙民の不満を一部解消する中で容認されたもので、その当選に
際しては高学歴で党と連携し協力的であることが条件となっていたからである。つまり、
彼らの提示した「価値」の選択肢が党の容認の範囲内にあったことが当選を容認された理
由であった。党は選挙により自薦候補の中でも「代表構成の優良化」に貢献する社会的に
有力な新階層を新たに体制内に取り込もうとしたと解釈できる。
但し、このような党の変容をもたらしたのは、選挙民の間に生じた意識の変化であり、
こうした市民の底流で生じている変化の力は軽視すべきではない。市民の意識と環境の中
で生じている変化として以下の 3 点を指摘しておきたい。第 1 に雷(2005)が示すように、
従来の「価値」の選択肢のない選挙に対して選挙民が潜在的に不満を持っていたことであ
る。第 2 に利益表出の手段として機能している一部の村民委員会に関する報道や社区での
直接選挙の経験を通じて、
「価値」の選択肢の提示とこれを選択する意味を選挙民が知っ
たことが挙げられる。第 3 に単位による住宅の分配制度が解体し、個人での住宅取得が可
能となったため、居住区の住民構成が複雑になり、従来の単位を軸とした上級からの一元
14
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
的なコントロールや利益調整が困難になったこと、安定した基層社会統治のためにある程
27)
度の利益表出機能を持った人代代表が必要となったことである(鄭杭生編、2008: 94、95) 。
これらの変化により、従来のとおり選挙過程における党のコントロールを強化し選挙民の
中にある「価値」の選択肢を無視するコストが、選挙民の中の「価値」の選択をある程度
容認するコストを上回り、それが党の選挙制度への態度を変化させたと言えよう。
しかし、党は無条件に「価値」の提示を許容することにしたわけではない。党の許容す
る「価値」の提示は非常に選択的である。自薦候補の選挙活動の例が示すように、選挙工
作管理当局は工作の過程において、候補が当局の権力を侵害しないこと、広範囲にわたり
影響力を及ぼす可能性がないこと、その「価値」の内容が党に対する批判を含まないこと
を判断基準として、
「価値」の提示を許容しているものと思われる。また、当選後も「価値」
の提示には大きな圧力がかけられ、自薦候補からの当選者による「価値」をめぐる政策実
現には障壁となっている。今後、この「価値」の提示に関する基準がその方法と程度およ
び内容について如何に変化するのか、党の支配の正当性に関わる問題として注目する必要
があろう。
(付記)本論文は平成 19 〜 21 年度文部科学省科学研究費補助金・基盤研究(A)
「ボトム・アッ
プの政治改革―社会変動期の中国における政治参加の総合的研究」および平成 22 〜 23
年度文部科学省科学研究費補助金・基盤研究(A)
「調和社会の政治学―調和的な発展政
策の形成と執行の総合的研究」
(共に研究代表者:高原明生東京大学大学院法学政治学研
究科教授)の助成を得たものである。
(注)
1)このことは政府系シンクタンクの研究者が選挙民や候補者の動向に注意を払っていないことを意味す
るものではない。彼らもデータ収集は行っているが、公表には所属単位の政治的判断が必要であるため、
適当な時期でなければ論文においても言及できない(2011 年 3 月、北京の研究者へのインタビューによ
る)
。
2)この中では、党派・団体推薦候補と共産党員の当選率が明らかに高いことが示されている。
3)選挙民に配布される候補者の資料には、経歴・党籍・学歴・所属単位・業績が記載されるのみで、政
策や政治信条に関する記載はない。
4)北京市 H 区 H 選挙区選出の区人民代表 W 氏へのインタビュー(2009 年 10 月)と同選挙区の居民委員
会 L 主任へのインタビュー(2010 年 2 月)による。
5)北京市の 16 区 2 県のうち、東城区・西城区・崇文区・宣武区・石景山区は区人代選挙のみを行い、朝
陽区・海淀区・豊台区・順義区・昌平区・門頭溝区・通州区・房山区・大興区・懐柔区・平谷区と延慶
県・密雲県はそれぞれ区人代・県人代選挙と郷鎮人代選挙を行う。2004 年の憲法改正により、郷鎮人代
の任期が 3 年から 5 年に変更されたため、この時期の郷鎮人代の選挙が不定期になっている。
6)初歩候補を目指す自薦候補については劉亜偉(2003)
、
『京華時報』
(2003 年 12 月 6 日)を参照。
7)許は 2009 年 7 月 29 日に警官により拘束され、8 月末に釈放された。許が代表を務める「公盟法律研究
センター」は粉ミルク汚染事件の被害者など社会的弱者を支援する活動で知られていた(2011 年 8 月 16
日最終アクセス、http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=691)
。
8)この点は、不動産所有者を中心として消費者の権利保護(所謂「維権」
)を主張するものが多くを占め
た「深圳現象」と大きく異なっている。
9)この中で学生たちが寄せた要求は、治安、食堂・浴場・自習室の混雑、学校側の不合理な費用の徴収
など生活の中の問題に関するもので、政治参加に関するものではなかった。
10)現在、北京では 300 あまりの業主委員会が参加する「業主委員会協会申弁委員会」が活動を行っている。
これは、業主委員会の連合する協会の設立を目指すもので、今後業主による共同活動が行える可能性を
中国地方人民代表大会選挙における「民主化」と限界
15
持っている(2010 年 2 月、業主委員会協会申弁委員会のメンバー L 氏へのインタビューによる)
。
11) 孫志剛事件は、湖北籍で、大学卒業後広州で会社員をしていた孫志剛青年が、身分証明書を携行して
いないという理由で、2003 年 3 月に広州市内で派出所へ連行され、収容所で暴行を受けて死亡した事件。
同年 4 月に『南方都市報』がこれを報じ、5 月に許志永は北京大学の同級生である兪江と滕彪とともに全
人代常務委員会法政工作委員会に対して、
「都市ホームレス収容遣送弁法」の違憲審査を求める上申書を
送り、6 月に同法は廃止された。孫大午事件は、河北省で事業を成功させた孫大午が、賄賂を受け取れな
かった地元政府の恨みを買い、罪をでっち上げられて逮捕され、半年後に釈放された事件。許志永は張
星水とともに孫の弁護にあたった(鄒樹彬編(2004)
、15–17 ページ ;『南方週末』
、2003 年 11 月 6 日)
。
12)通常、正式候補者を決定する際には、選挙民小組での推薦、話し合いなどを経て選挙委員会が決定し
公表する。しかし、
「実施細則」第 36 条は「必要ならば予備選挙を行ってもよい」と規定している。こ
のケースではこの条文を基に選挙民の意思をより正確に反映するため、予備選挙が行われ、その得票数
で正式候補者を決定した。
13)『中国新聞週刊』
、2003 年 12 月 8 日。この記事には、突然初歩候補となっていることを知らされた袁達
毅氏が、正式候補を決める投票の結果 1 位になったにもかかわらず、内部の調整により正式候補を外さ
れ、またその過程に関与できなかったことが記されている。人代選挙の研究者として知られる袁氏でさ
え選挙活動に主体的に携わることは困難であったことがわかる。
14)人代代表を送り込むことは学内での学部の勢力伸長には利する(2009 年 3 月、北京大学でのインタ
ビューによる)
。
15)実際にこの選挙区では、北京市飛宇微電子有限公司エンジニア、朝陽区国土資源房屋管理局局長、党
三里屯街道工委書記が当選した。
16)当選後の自薦候補については章剣鋒(2009)
、
「独立人大代表十年浮沈」を参考とした。
17)区長の選出にあたり、事前に区長候補の犯罪を知っていた代表たちは協力して当選を阻もうとしたが、
関係部門に強力に阻止され、そのまま候補は当選した。4 カ月後に区長は中央規律検査委員会により逮捕
された。
18)区人代の全体会議上たびたび棄権票を投じた司馬南は代表団の団長や複数の人代代表から「調和した
大会、団結した大会、勝利の大会とするため」協力するよう求められた。
19)江沢民「在中国共産党第 16 次全国代表大会上的報告 五、政治建設と政治体制改革」の部分による。
20)但し、居民委員会の選挙工作については、民政部基層政権および社区建設司が所管しており、名目上、
人代常委会が所管する人民代表大会選挙とは選挙工作に対する考え方自体が異なっている。
21)北京のシンクタンク関係者へのインタビューによる(2010 年 2 月)
。
22)北京の複数の人代選挙研究者へのインタビューによる(2007 年 8 月)
。
23)北京の複数の人代選挙研究者へのインタビューによる(2009 年 2 月、2010 年 2 月)
。
24)盛華仁は全人代常務委員会副委員長兼秘書長。
25)海淀区は、中国のシリコンバレーと称される中関村があり、北京大学など主要大学が集中する文教地
区であって、北京市の高学歴者が集中して居住し、文系・理系を問わず技術職、専門職が多く、新階層
の割合が高い地域と言える(北京市 1% 人口抽様調査領導小組弁公室・北京市統計局、2007: 63、235–
238)
。
『2005 年北京市 1% 人口抽様調査資料』
。
26)この自薦候補のマニュアルでは入手方法と作成方法についての指示を行っている。
27)北京のシンクタンク関係者へのインタビューによる(2010 年 2 月)
。
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18
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
内陸へ向かった広東人
民国期の華南鉱山開発を中心として
飯島典子
はじめに
周知のように、広東は名だたる華僑の故郷として世界に知られており、主に東南アジア
を中心とするネットワークに関する研究はすでに枚挙に暇が無い。そうした中、筆者は広
東人のネットワークが専ら海外のそれにばかり言及されている事に些か疑問を感じ始め
た。勿論彼らとていつも海外を志向していた訳ではなく、他省の中国沿岸部の主要都市に
1)
は明代から両者が会館を設立していた事が先行研究で明らかになっている 。また筆者が
文献を渉猟してゆく内に、広東人が内陸の鉱山開発に関わっているという記録がしばしば
目についた。近代中国史における鉱山研究は石炭を中心とした華北・東北部を対象にした
2)
ものが多く 、中国は錫の生産において 2006 年の時点で埋蔵量、採掘共に世界第 1 位にあ
る(石油天然ガス・金属鉱物資源機構、2006: 17)にもかかわらず、中国国内の錫に関しての研
究は東南アジアにおけるその研究蓄積に比べると数において寡少の嫌いを免れない。また
雲南に及ばないとは言え、広東省が東北部に多少の錫鉱床を有し、その北部は世界屈指の
3)
タングステン鉱床のある江西南部であるという客観的事実を踏まえると 、広東人がこう
した地の利を些かも活かさないまま内陸の鉱山開発に全く無関心であったとは考えがた
い。しかも錫・タングステン鉱床の存在とは別に、江西南部から広州にかけては河川によ
る水運が発達しており、江西南部から広州を貫く物流の動脈で貨物や人の終着点である広
州を本拠地とする広東人の占める役割は当然ながら江西人のそれより大きいのである。江
西商人も中国では名だたる商人の一部類に数えられているが、江西の大都会が南昌など北
部にあることから、彼らのネットワークはむしろ上海を目指して「北上」する方が主で 、
江西南部はむしろ広東人の勢力圏である。
清末民国期の広東研究にしても、その関心は主に政治の動向がその中心であった。清末
以降、上海ほどの急激な社会発展こそ見られなかったものの、香港を目と鼻の先に控え、
華南では依然として社会経済の中心であった広東であるが、その経済活動、とりわけ近代
になって需要が高まった石炭以外の鉱物資源(錫、タングステン)の採掘、流通という点か
ら同地に焦点を当てた研究は筆者の知る限り、まだこれといってまとまった研究成果が世
に出ていない。こうした事実を踏まえ、筆者は近代世界的に需要が高まり、しかも華南に
鉱床が集中的に分布している錫、タングステンの流通に焦点を当てることで、近代華南史
を政治とは異なる角度から分析できるのではないかと考えた。
?????
19
次に、どこまでを本論で議論の対象とする「広東人」として取り上げるのかを明確にし
ておかねばならない。筆者が文献を渉猟している内に 、 広東に祖籍を持つ所謂「南洋華僑」
が華南の鉱山開発に出資する事例がいくつか見受けられた。東南アジアの錫鉱山開発に果
たした華僑の役割に関しては周知の事実で 、 彼らが再び本土の鉱山に目を向けるのは当然
かもしれないが、彼らの活動までを網羅しようとすると、広東省そのものの内陸志向を正
確に論じるために焦点が定まらない危険もある。そこで本論で議論の対象とする広東人と
は、広東出身者および活動拠点が他省にあった場合でも、出自が広東である者を広東人と
定義しておく。また今の時点で集まった資料は、いずれも鉱山開発に主導的な役割を担っ
た人々を中心としたものであった関係上、本論はこうした指導的な立場にあった人々を考
察の中心としている。従って単純労働者として鉱山開発に従事した人々の動向について
は、資料が集まった時点でまた稿を改めて論じたい。
Ⅰ 関連した先行研究
1. 近現代の福建研究および華南山岳地帯研究
前述したように、彼らが内陸へ向かってその活動範囲を広げていった経緯についての研
究はまだ数少ない。限られた先行研究であるが、それらをまず関連分野別に分けてみよう。
今現在筆者が確認できている先行研究の多くは、華僑の故郷として双璧をなす福建を対象
としたものも含まれてきており、厳格に広東人の内陸へ向かう動向のみを対象とした研究
は極めて限られてしまう。従って本論のテーマよりやや対象範囲が広くなるが、福建人の
動きまでを含めた先行研究を紹介したい。
(1)近現代の福建を対象とした研究
福建の社会経済をテーマにした研究は多々あり、それらをさらにいくつかのカテゴリー
に分類すると、①福建社会の海外(台湾、東南アジア、とりわけフィリピン、日本等)への広
がりを考察したもの、②宗族復興などの観点から現代福建社会のあり方を研究したもの、
③人形劇等福建の文化芸能を研究したもの等に分けられるが、福建の社会文化が専ら海外
に広がって行く経緯、あるいはその逆輸入(華僑からの交流によって刺激された宗族復興等)
に焦点を当てたものが多く、福建人の内陸志向にはまだ関心が向いていないようである。
そうした中、福建人の奥地への移動に言及した研究として李紅梅が 19 世紀になってから
藍、麻等を栽培するため福建西部から江西への移動に触れている(李紅梅、2007: 162、196)。
(2)華南山間地帯(広東・福建・江西)に関する研究
明清代に多くの社会変動と秩序形成が進み変遷の大きかった「辺境」としての華南山間
地域の活性化がどのような要因で進んだのかが分析されており、客家および畬族の社会を
研究したものは甘利やレオンの研究がその代表例である(甘利、1998; Leong, 1997)。他には
同地の鉱山に焦点を当て、主に華南山間地がその交通の不便さ且鉱脈の存在故にいかに同
20
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
4)
地域が「盗賊」活動の温床となりやすかったかを論じている研究例がある 。この一連の
華南山間地域研究の対象年代がほぼ例外なく明清代となっているのは同地域の変遷が最も
激しかったためやむを得ない感がある。また管見の限り清末以降の社会変動が同地域にど
のように及んだのかについてはまだまとまった研究が出ていないようである。
2. 会館研究
華南社会研究という枠組みではないが、同郷人の移動およびその可視的な拠点を示すと
いう意味で会館研究は本論の先行研究として不可欠である。早期の代表的な会館研究とし
ては根岸佶(1938)があるものの、同書はタイトルの通り会館というより、組織としての
ギルドに着目しており、考察の対象も上海を中心とした華中地方および東南アジアの華僑
組織が主で、華南および西南地方は記述の対象になっていない。少し時代が下がった何炳
棣(1966)は明代から民国期までの全国における会館史を幅広く網羅し、会館史の概略を
把握するには大きな手助けとなる。ただ題名の通り、会館史を概観するもので、広東人の
動向はその一部でしかない。ただ、後述する王光英(2002)もそうであるように、とかく
会館研究が華中および華北の大都市を中心にした分析が多い中、何が同治年間に湖南にお
いて設立された福建および粤東会館(何炳棣、1966: 75)、および清初に雲南の蒙自で江西と
福建の会館に言及していた点は注目すべきである(何炳棣、1966:40)。最近の研究では先
に挙げた王光英(2002)が清末および民国期の会館の広がりを考察しており、広東人が蘇
州、漢口、北京へいつ頃会館を建てたかを知ることができ、とかく国内よりも海外での
ネットワークに関心が集まる彼らが「北上」した記録を知る上で重要な示唆となる。同書
の中で雲南と貴州に移民した他省出身者の会館数統計を見ると、江西会館が圧倒的多数を
占めており、福建・広東会館は両者ともに数えるほどで西南地方ではそれほど広東・福建
人の活動規模が大きくなかったことがわかる(王光英、2002: 139–142)。王の議論の中心は
中国沿岸部の都市における会館の成立およびそれに関わった商人の活動で、清代漢口の商
業幫分類では江西と福建が 1 つの幫として数えられている。漢口が湖北に位置することか
ら考えても、福建から湖北へ達するのには当然江西を通過する河川を利用したと考えら
れ、目的地の漢口で江西と福建幫を 1 つの組織とすることは至極尤もであろう(王光英、
2002: 146)
。また厳密な意味で「内陸」とは言えないが、広東人が広西へ向かってその活動
範囲を拡大していたことを示す先行研究として、明清代に広東人が広西に移住していった
過程に言及した菊池の研究がある(菊池、1992、1998)。
菊池の研究が太平天国の動向を中心に論じているのに対し、清末民国期に広東人が広西
へその影響力を拡大した動向を、経済活動に焦点を当ててまとめた研究が黄濱(2005)で
あり、広東人がいつ頃どのような過程で広西経済に介入していったかが詳しく考察されて
いる。現在でも顕著な広東と広西の経済的格差を見れば、広東人が広西に及ぼした影響は
当然と言えるが、黄濱によれば、宋代以前、広東の経済的中心は元来省の北部であったが、
経済の中心が南部に移行するに伴い、広州と仏山が二大中心地となっていった(黄濱、
内陸へ向かった広東人
21
2005: 278)
。仏山は北江、西江、およびその両河川の中心を流れる綏江という三河川が合流
する地点なので、海上交通が未発達の時代においては重要な水上交通の要衝だったことが
容易に想像できる。水上交通および海外貿易の発展と共に経済の中心が沿岸である広州、
そしてアヘン戦争以後はさらに香港に移り、天津条約(1858)、北京条約(1860)により広
東東部の沿岸都市汕頭および海南島の瓊州が開港したことで広東省の経済は一層活発化し
た。それが又広西との経済格差を拡大させ、さらに広東商人を同地に誘致する呼び水に
なったことは十分考えられよう。
会館の存在は地域集団や同業者の外地における存在感や流通の活発さを計る基準ともな
るが、広西会館はこの点でも他の会館と特色を異にしており、広州に広西会館が設立され
たのは 1930 年代と、20 世紀になってからである。また設立目的も学生や軍職、公職の便
に供するもので、商人は会館員 1005 人の内、28 人、全体のわずか 0.27% であった(黄濱、
2005: 33)
。換言すれば 20 世紀になっても広西の他省における商業活動がいかに微々たるも
のかが察せられよう。もっとも広東人が広西へ向かってその勢力圏を伸ばしたのは単に隣
接省という地の利があっただけが理由ではなく、むしろ福建や江西などへ経済活動を拡大
するための交通が未発達であり、他省にはその勢力範囲を拡大できず、海外はともかく国
内の発展は広西へしかその活路が残されていなかったためである(黄濱、2005: 253)。
3. 明清代の広東人および福建人の四川移住研究
明清時期が対象ではあるが、広東人および福建人の四川への移動を研究した研究例とし
て、劉正剛(1997)が挙げられる。他地域から四川への移住は大概明末清初が最も活発な
時期であったのだが、劉はその後の閩粤人社会が安定してゆく過程を廟や会館の設立から
分析している。これによると最も早期に建てられたのは大竹県の東粤宮で雍正元(1723)
年であり、続いて乾隆年間に冕寧県と納渓県に 2 軒の広東人による会館が建てられている
(劉正剛、1997: 219)
。劉正剛はさらに四川における広東・福建人による媽祖廟建立に関して
も統計を取っており、これによると、確認できる一番早期の媽祖廟は乾隆年間の崇慶州に
おける広東人、福建人によるものそれぞれ 1 軒だが、嘉慶・道光年間の記載が多く目につ
く(劉正剛、1997: 223–231)。その後こうした移住民は土地に完全に同化されることもなく
会館は増築、改修を重ねた事例も多く、民国時代に住宅、工場、小学校などに使用され、
現在に至っているものもある(劉正剛、1997: 239–241)。今現在でも四川成都では広東省梅
5)
「広東人」の命脈は保たれているのはこのためであ
県の方言を話す人々が健在で あ り 、
る。ただ管見の限り、四川への移民流入が清末民初まで続いたという研究例は見あたらず、
移住民の流入はほぼ乾隆年間(1736–1795)で完結した感がある(劉正剛、1997: 92–97)。
専ら海外に広がる華僑ネットワークの一端として語られる広東人だが、彼らは近代に
なって内陸への広がりを画策したことはなかったのだろうか。そのヒントの 1 つになり得
るのが清末民初に起こった鉱山開発がある。後述するように清代中葉まで清朝は鉱山開発
に消極的であり、清末になって近代化の必要とともに徐々に鉱山開発に着手するが、とり
22
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
わけ鉱山開発が盛んに論じられるようになるのは民国期であった。
本論はこうした上述の先行研究を踏まえて、広東人の「海外志向」に一石を投じるべく
清末および民国期の広東人が内陸の鉱山開発に関してどのような活動を展開したのかを論
じるものである。なお、華南における地下資源は数々あるが、清末および民国期を通して
調査が進み、採掘に関して顕著な動きがあったのは錫およびタングステンであり、本論も
6)
考察の中心はこの二種類の資源であることを断っておかねばならない 。
Ⅱ 広東人が目指した江西と広西の鉱山
1. 広東における鉱山開発の歴史
広東省自体、江西や雲南程鉱産資源には及ばないが、湖南と省境を接する広東北部と東
北部は省内では比較的鉱産資源に恵まれており、すでに清初の時点から屈大均も東北部に
位置する長楽(現在の五華)、隣接する興寧、さらに河源、永安(現在の紫金)を錫の産地と
して挙げており(清・屈大均『廣東新語』巻十五 貨語)、また石炭、鉄鉱、鉛鉱、銅鉱、タ
ングステン等の鉱産地として広東の梅県、蕉嶺、平遠、興寧、五華の名も挙がっている(羅
香林、1933: 111–114)
。錫の産出についてはすでに宋代からその存在が確認されており、恵
7)
州で錫が採掘されているが 、清朝が鉱山開発に消極的だったこともあり鉱業の発展を見
ることはなかった。
広東の鉱床は概して戦後開発されたものが多いが、筆者が確認できた所では五華で元代
にも採掘が始まっていたという言い伝えがある(中国鉱床発現史・広東巻編委員会、1996:
155)
。また明代嘉靖 33(1554)年には、すでに広東東部の沿岸にある海豊の鉱山には広東
嘉応州長楽や程郷(現在の梅県)で「不逞の民」が採掘し数万の徒を集め、附近数百里(約
50 km)が皆被害を被ったとある8)。なお清代には恵州の錫産出と精錬技術の高さが記録さ
9)
れているが 、潮州の錫採掘は県志などの地方史を見る限り大々的に行われた形跡がない
(中国鉱床発現史・広東巻編委員会、1996: 3)
。
10)
民国期になると広東省は官民共に隣接省の鉱山開発に関与してゆく 。広東建設庁は
1933 年 11 月、余漢謀(広東省高要人)11)の贛南鉱務庁設立計画に促され、江西南部のタング
ステン採掘にも着手しようと動き出す(アジア歴史資料センター資料、以下、番号のみ表示。
必要に応じてスライドナンバーも記載。Ref. B08060420600、No. 312)
。具体的には総局を広州に
設置、その他北江、東江にも分局を設置、鉱務の整理と鉱砂の買い付けに当たらせること
にした(Ref. B08060420600、No. 313)。因みにこれより 1 年遅れではあるが、広東の北部およ
び東部の地名(翁源、始興、従化、河源、恵陽、曲江、中山、恩平、楽昌、海豊、東莞、梅県)が
タングステンの産地として報告されているので(Ref. B09041883800、No. 520)、広東が鉱山
開発という点で同省東北部にも関心を寄せていた事も明らかである。このように広東省が
タングステン鉱専営処を設立し同省のみならず「広東省経由で輸出されるべき他省産のタ
内陸へ向かった広東人
23
ングステン鉱も取り扱うこと」(Ref. B09041884800、No. 0510)を趣旨としており、ここから
も鉱業を通じてさらに近隣省への関与を強めようとした姿勢が窺える。
2. 広西鉱山における広東人の関与
広西の錫鉱床は雲南のそれに及ばないが広東省境に位置する賀州、富川は合わせて富賀
と称され、すでに宋・明代には採掘が隆盛を極め、省内屈指の錫鉱床として知られていた
(中国鉱床発現史・広西巻編委員会、1996: 52)
。光緒 33(1907)年、時の広西巡撫張鳴岐が公金
50 万両を調達して現在の鐘山県(後述する賀州に近く、広東と隣接した地域)西湾の大嶺に官
鉱局を設立、元来石炭の採掘を予定していたが、その後有望な錫鉱床が存在するとの情報
により、宣統元(1909)年、官鉱局は新たに公金 10 万両を調達し、石炭業と錫のそれを兼
業し、これが近代的な同省の錫鉱業の濫觴となった(Ref. A06032514900、No. 103)。広西に
おける民国以降の採掘、開発については地元民というよりも外国資本や広東人の動向が大
きな影響を与えている。富(川)賀(州)鐘(山)鉱山区にしても錫の運輸、販売は八歩(同
鉱山区の中の地名か)在住の広東商人が独占壟断していたと報告されているが、その理由は
広西の鉱業会社では資本が不足しており、自力では錫を搬出できず広東商人から予め商
品代を借り受け、納期を決めて荷渡しをする条件となっていたので、広東商人が錫の市場
価格を操作し、また運搬事業を独占するに至ったためであるという(Ref. A06032514900、
No. 110)
。
1912 年の時点でまず広西側がまず全省の釐税を、事業が軌道に乗ったら富賀の石炭およ
び錫鉱を担保とするという条件で(Ref. B04010702200、No. 0387)台湾銀行に 500 万円の借款
「借款を渡しかねる様子があまりに長
を申し入れたものの(Ref. B04010702200、No. 0385)、
引き」
、1918 年三菱商事が単独で 70 万円を限度として交付している(Ref. B04011093100、
No. 0388)
。当時広西省長であった馬君武が同地の台湾銀行支店から錫鉱を担保として 150
万元の融通を希望し、当時両広塩運使を勤めていた広東人(広東省大埔県人)の鄒魯がまず
台湾銀行に申し入れをしたが、
「台銀に借款に応ずるを好まざる事情があり」
、結局政変の危
険を考慮に入れながらも日本政府が 150 万の借款に応じ三井物産が錫販売の優先権を獲得
した(Ref. B04011093100、No. 405–408)。両広塩運使を勤めていた鄒魯が借款を獲得すべく動
いたとしても不思議ではないが、鄒魯、馬君武は共に日本に留学経験があるばかりでなく、
中国同盟会に加入しているという共通点もあった(張憲文・方慶秋・黄美真編、2002: 137、
823、989)
。また広西の錫精錬に間接的に関わった広東軍閥もあった。1921 年、南洋華僑の
欧鋼なる人物が富川賀県の鉱物(主に石炭と錫)採掘独占権許可を省長の馬君武に申請して
いる。この件を外務省に報告した当時の広東総領事藤田栄介は、欧の背後には当時粤軍第
二軍長であった許崇智の後援があったとしているが(Ref. B04011093100、No. 0400)、許がや
はり広東(番禺)の出身で中国同盟会に加入していた点も看過できない。
24
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
3. 広東人の江西鉱山開発と運搬ルート
地の利を生かしての広東側による鉱山開発は江西にも及ぶ。図 1 は江西における錫の流
通ルートだが、一見して明らかなように大部分が広東沿岸へ運ばれており、広東側が流通
の主導権を握っていた事は明らかである。江西当局の文書にはしばしば錫の密貿易に関す
る言及があり、当局が把握していたルートは 3 通りで、①湖南との境、汝城一帯を通過す
るもの、②広東との省境を越えて同省の東北部を通るもの、③福建・浙江・安徽等省の北
部へ送られるものに分けられるが(図 2)、江西北部が日本に占領されてからは③のルート
が盛んに使われており(曹立瀛・温文華、1941: 78)、他に広東中央を南北に貫く北江経由で
高利を狙おうとした密売ルートもあった(曹立瀛・温文華、1941: 81)。①は湖南経由で、正
「横流し」と考えられるのに
規のルートとも重複しているので(曹立瀛・温文華、1941: 85)、
対し、②は江西の錫流通に関しては、今まで筆者が史料を閲覧した限りほとんど名前が挙
がらないルートで、やや非合法ルートとしての色彩が濃い。図 1 からわかるように江西の
錫は少量が浙江の金華へ運搬される以外は、大部分が最南端の大余から広東北部の南雄へ
集積されていているものの、こうした「公式」流通ルートはいずれも広東東北部を通過し
12)
ていないためである 。因みに運送手段であるが、少し年代を遡ると 1935 年の時点で広
東当局が定めていた江西省南部産の輸送経路は広東北部から広州へ通じる粤漢鉄道のみと
されていた(外務省記録)。
広東の地形を見ると、江西最南端の錫鉱床を有する都市大余と同地にほど近い広東側の都
図 1 江西の錫輸送ルート
(出所)曹立瀛・温文華『江西之錫鉱業 鎢錫鉱業調査報告之四』錫業管理処江西分処(1941)60 頁。
内陸へ向かった広東人
25
図 2 広東・江西のタングステン鉱床分布と密輸送ルート
(出所) 鉱床分布は中国鉱床発現史・広東巻編委員会(1996)
、中国鉱床発現史・江西巻編委会編(1996)
より作成。
市南雄を直接結ぶ河川は無いものの、両者は地理的に極めて近い距離にあり、南雄は広東中
央を南北に貫く北江を通じて一路広州へ通じている。それに対して南雄一帯と広東東北部を
直接結ぶ河川は無く、今日のように道路網が発達していなかった事を考え合わせると、江西
南部の錫鉱床から広東東北部へ通じるルートというのは当然ながら山岳地帯を通るので、
3 つのルートの中では一番不便で、換言すれば人目につきにくい運搬ルートとも言えよう。
前述のように、広東建設庁は 1933 年、タングステンの専売営業所を設立し、広東一省
のみならず広西、湖南および江西産であっても同省で流通するタングステンを専売する目
的で恵州、汕頭、および北江に事務所を設置したが、鉱商に売買の度に証明書を発行して
いたことから、却って密輸出が防ぎきれていないことを認めざるを得なかった(Ref.
B09041883800、No. 0520–0521)
。1935 年、広東当局はタングステンの商取引取り締まりに関
して様々な規定を公布および施行しており、その文言から流通に関してこと細かな報告を
義務づけるなど運搬の流れをできる限り明瞭化すべく策を尽くした様子がくみ取れ、いか
に当局が密輸出に頭を悩ませていたかが察せられる(外務省記録)。因みに日中戦争下に
26
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
あっても日本側も密かに中国人工作員を介し匪賊と接触して買い付けるなど様々なルート
を駆使したようで(甘志遠著・蒲豊彦編、2000: 142–143)、1941 年、広東の港(原文は粤港)か
らは高利を狙って錫が「敵」に密売されたとあり(曹立瀛・温文華、1941: 78)、日本占領下
の広東での密売を示唆している。タングステンが軍需産業に欠かせない資源ということも
あるが、合法にせよ非合法にせよ、官憲であれ匪賊であれ、広東が内陸との流通把握に強
い意欲を見せていたことが窺えよう。
Ⅲ 雲南における鉱山開発
1. 雲南省の動向
次に雲南側の動きを見ていこう。日本政府も雲南の錫開発には早くから着目していた
が、この交渉にも広東人が関わっている。管見の限り最も早期の記録は 1916(大正 5)年、
雲南省の箇旧錫務公司と日本政府間の借款に関するもので、1 年後正式に委任を受ける
(Ref. B04011094700、No. 0370)
。時の雲南省長は日本に留学経験のある雲南人唐継堯で何か
と話が通じやすかったのかもしれない。唐は日本人参謀(氏名は書かれていない)による両
広の掌握にはまず海路の確保が大事であるとの提言を受け入れ、広東人劉某を派遣して香
港駐在の代表とした。この劉某が嘗て広州の新聞社に勤めていたこともあり、唐の意向を
受けて香港の各新聞を買収し始めた。この時買収された『大光報』の記者が唐の招聘によ
り、雲南通訊社を創設している(Ref. A06032523400、No. 11 内外情報第 139 号)。
1926 年龍雲が雲南省政府の実権を掌握して以来、省内屈指の錫鉱床がある箇旧では欧米
の技術を導入、精錬法が飛躍的に進歩し、それが 1930 年代の好調な錫輸出となって雲南
経済は潤い、収益は軍備の近代化に振り向けられた。また以前からその勢力を浸透させて
いたフランスが武器を提供していたが、1937 年 8 月、龍雲は蒋介石に対して抗日戦への参
加を表明し、その部隊も国民政府第 60 軍に編成されることになった際、装備の面で国民
党中央軍を凌ぐ威容を誇ったほどであった(武内、2003: 23–24)。
こうした中、雲南でも断片的にではあるが広東人がその存在感を示している。雲南と広
東を結ぶルートは大きく分けて 2 通り存在していた。1 つは錫板を馬の背中に積み、広西
の百色まで運び、そこから船で広東の西江を下るものだが、このルートは 1860 年代すで
に著しい衰退を見せている(武内、2003: 6)。もう 1 つは太平天国およびその後の天地会系
諸叛乱の勃発に伴い新たに拓かれたもので、雲南の箇旧より陸路で同省の蒙自に至り、洮
江すなわち紅河を下ってハノイ・広東へ至るルートである(Ref. B04011093100、No. 0392 お
よび No. 396、397、398)
。
また 1923 年の時点でも、すでに広東人が雲南の錫流通に関与している記録がある。具
体的には錫を買い上げて外国商人に売り渡すのは全て広東商人で(Ref. B04011094700、
No. 0423)
、ベトナムのハイフォン(海防)から香港に至る卸や倉庫・保険の手続きが、ベト
内陸へ向かった広東人
27
ナム人は勿論広東人の手にも委ねられていると記されている(Ref. B04011094700、No. 0421)。
さらに 1939 年、
『上海満鉄調査資料』は具体的に雲南における広東商人の動向にも言及し
ている。
箇旧の錫は箇旧より碧色塞に至るまでは、錫務公司経営の軽便鉄道に由っているが、
碧色塞より海防までは佛人経営の滇越鉄道に由っているので種々の不都合な事があ
る。蓋し雲南商人は運輸、納税、過境等の規則の就て知識乏しく種々の誤解を生ずる。
例えば佛領インドシナの通過税は僅少であるが、船積の関係から暫く保管せられる際
は、担保金類似の一種の輸入税を課し、同地で売却せられるのを防止する。この税は
香港に積出の際返却されるのであるが、雲南商人は佛人の新税と誤解し返却を要求し
ない。佛人も亦雲南商人の欺くべきを知り、常に無理なことをする。ここに於いて雲
南商人は広東人に委託したので、雲南より香港で倉庫に入れるまで運輸保険等の一切
のことは広東人の手中に落ちた。これに由る雲南商人の損失は毎年 30 万元以上であ
る(『上海満鉄調査資料第 19 編 支那南品叢書 5 輯錫』、1939: 25)。
同書はあくまで「必ずしも現在存在している事実と云い難い」と断った上で紹介してい
るのだが、この時代雲南の錫流通に広東人が何らかの形で関わっていた事を伺い知るには
充分である。蒙自と箇旧はともにベトナムとの国境付近に位置していたが、箇旧の錫流通
が大きく変化したのは 1910 年にフランスの出資でベトナム国境のラオカイから蒙自を経
て昆明へ至る滇越鉄道(張憲文・方慶秋・黄美真編、2002: 1845)が 1910 年に開通してからで
ある(『支那の錫生産・販路及び世界市場』、1940: 27)。これによって従来は蒙自が商業の中心
であったが、ここに至ってそれが香港に移ったのである(『支那の錫生産・販路及び世界市場』、
1940: 27)
(図 3)
。なお、時代を少し遡った 1916 年の時点での日本外務省報告によると、箇
旧の錫は雲南商人から広東商人へ売り渡され、精錬後に外国商人に渡ったという経緯が記
されており(Ref. B04011094700、No. 0423)、錫流通に関する広東人の存在感は鮮明である。
滇越鉄道敷設に関わった労働者 20 万の内、少数のベトナム人以外、皆中国人であった(中
国鉄路建設史編委会、2003: 93)ことを考えると、ベトナムを通過して香港へ至るルートにも
広東人が関与していた(Ref. B04011094700、No. 0421)のも当然であろう。
2. 雲南・ベトナム流通ルートの掌握
1933 年、中仏条約の規定には、ベトナムの中国人には居住、旅行、工商業経営の権利が
認められ(華企雲編、1933: 62–65)、フランス政府もベトナムにおいて中仏両国民の貨物輸
出入を阻止しないことが明言されている(華企雲編、1933: 67)。ベトナムにおける中国人の
13)
経済活動はより確固たる政府の保障を得たことがわかり 、法律の整備もこうした「広東
人」の活動活性化に一役買ったのは疑いがない。
さて、こうした雲南とベトナムに跨がる広東商人の一連の動きは同地において彼らの長
28
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
図 3 滇越鉄道
(出所)Ref. B10074719900、No. 14。
内陸へ向かった広東人
29
年の独断場を示すものなのか。民国期雲南全体の会館数統計を見ると、福建と広東の会館
数は同数の 4 軒で、1 位の江西(58 軒)、2 位の湖広(32 軒)3 位の四川(27 軒)に遠く及ば
ず(王光英、2002: 139–140)、雲南の蒙自一都市における会館にしても康熙乾隆年間に江西
および福建の会館設立が記載されているのみで(何炳棣、1966: 46)、広東会館の記述は無い。
しかしこと経済活動に関する動向を文書から把握しようとすると、散見されるのは専ら広
東人のそれなのである。清代からある会館のような組織が無くとも、雲南における活発な
活動の記録は、広東人が雲南にあって後発の商業集団だとしても民国期においては一気に
その影響力を拡大した証と解釈できよう。
また、内陸を志向した広東商人を一律に同じ集団と見て良いかという疑問も呈しておか
ねばならない。広州という長い歴史を持つ港町と、同地に流れ込む多くの河川による水運
を十二分に利用して広東人が雲南や江西といった内陸からの流通ルートを握っていた事は
当然とも言えるが、彼らの活動範囲は実に広範囲に亘っている。流通の中心は広州だとし
ても、広東商人の中で江西南部から広州までの運搬に関わる広東東部と、蒙自から広西を
経て広州へ至る広東西部のそれとに分かれていたような「棲み分け」があったのか、ある
いはすでに流通網が一元化されて広州は中継地点であり江西南部から雲南の箇旧・蒙自ま
でを繋ぐ錫鉱業関係者の広範なネットワークが確立していたのかについて、管見の限り棲
み分けを裏付ける資料は見つかっていない。この問題を今後さらに考察することによっ
て、鄒魯のように広東の中では錫鉱床が分布する広東東北部の出身者で広西のような他省
の鉱山に関わりを持った人物は例外なのかどうかも明らかにできよう。因みに広東の錫鉱
床では主に東北部が有力視され、東北部の中でもとりわけ興寧に関して言えば、政府も調
査にひとかたならず関心を抱いていたらしく、1941 年 3 月から 45 日にわたって広東東北
部を中心に調査を行っているが、その中で興寧と五華を 6 日にわたって往復、その後梅県
へ向かうもまたさらに 3 日興寧に戻り、全部で 10 日に及ぶ調査を行っている(曹立瀛、
1941: 8)
。
本稿では字数の関係もあって十分に触れられなかったが、中国の鉱山開発に深く関わっ
ている欧米資本と広東人の接点、および当時日本国籍を有していた台湾人と中国大陸の鉱
山開発の関係に関しても一言述べておく。一例を挙げると、ドイツの江西における関与が
あり、第一次世界大戦終結後、
「南洋」でタングステン入手の拠点を失ったドイツが江西
の鉱床に着眼し、中国側の採掘業者に採掘資金を前貸しするなどの活動を続けた結果、広
14)
州の採掘業者でドイツと関係を持つものが十数軒に上った 。しかもこうした情報を日本
側に伝えたのは台湾「籍民」林麗生なのである(Ref. C05022771600)。因みに 1928 年まで江
西のタングステンは贛江、九江を経て長江経由で上海に運ばれていたが、共産党が鉱床の
集中している省西南部のすぐ北にある井崗山に拠点を設けたことで、原石の輸送が困難に
なり、海外への輸出は広東・香港経由のルートに変わっている(Kirby, 1984: 129)ので広東
側はタングステンの流通に関してより一層の影響力を強めたと考えられる。
30
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
おわりに
従来専ら国内の沿岸都市や海外、とりわけ東南アジアに活路を求めたとされる広東人で
あるが、清末から民国期にかけて彼らの活動範囲は雲南のような内陸にまで及んでおり、
彼らは大なり小なり江西南部、広西の錫開発に関わっていた。本論のテーマはあくまでも
広東人の動向に絞られているが、華南全体の鉱山を俯瞰すれば、必ずしも開発、資源の運
搬は広東人の独断場とは言えない。具体的には、雲南における他省人の進出を概観すると
江西商人の動向は看過できないのである。鉱山開発は鉱業振興と欧米からの需要という 2
つの要因から、清朝が従来の抑制政策を一転させて清末から政府が奨励した産業である
が、鉱山開発のために内陸へ向かった広東人の動きはこの時期新たに始まったものなの
か、それとも小規模ながら機能していた内陸と沿岸を結ぶ流通網が鉱物資源の輸送で活気
づいたために文献に散見されるようになったのかという疑問も呈示された。また、広東の
隣接省であり同じく海外への移民が多く、本土よりも華僑社会での存在感が大きいという
共通点を持つ福建人の内陸志向についても比較検討したかった。しかし今現在筆者が資料
を渉猟した限りでは、福建人の痕跡は会館設立にこそ散見されるものの、具体的に鉱山開
発に深く関わった事例が見つかっていない。また台湾の日本「籍民」が大陸で多少なりと
も鉱山に関わっている事例は挙げることができ、彼らが全く大陸人の助けを借りずに江西
まで到達したとは考えがたい。しかし具体的に福建側が「籍民」に協力したという事例が
挙がらなかった以上、福建人の動きはあくまで推測の域をでず、彼らの鉱山に対する関与
を論じることは控えなければならなかったことも断っておかねばならない。
今まで筆者が閲覧した民国期の鉱山に関する文献に関する限り、そのほとんどは流通
ルートと鉱脈調査も関するものである。採掘技術に言及したものは極めて少数だったた
め、広東人が採掘現場、取り分け精錬作業から海外への輸出までどの段階でどの程度関
わっていたのかを断片的であるにせよ知り得る資料が無く、具体的な彼らの活動を把握す
るにはまだ隔靴掻痒の感がある。雲南などの辺境開拓に向かったのが広東人だけでなかっ
たのは言うまでもなく、会館の設立ではむしろ広東の先鞭をつけた福建人、そして鉱物資
源に恵まれ、しかも国内の流通において一定の存在感を持つ「江西」商人の活動も把握し
た上で、広東人のそれを相対化することも今後の課題である。
(注)
1)蘇州における会館を見ると明代万歴年間(1573–1620)以降建てられた福建系、広東系の会館はそれぞ
れ 6 軒である。清末の漢口においても、康熙年代に福建系、広東系の会館がそれぞれ 1 軒あった(中国
会館志編纂委員会、2002: 10–11、43–46、52–57)
。
2)筆者が閲覧した先行研究に陳慈玉(2004)がある。
3)タングステンと錫はしばしば同じ鉱脈で産出する。
4)管見の限りこのテーマに関した主な研究は本文で挙げた甘利(1998)の他に、呉金成(1998、1999)
、
唐立宗(2002)
、周雪香(2007)がある。
5)2010 年 3 月 31 日、四川省社会科学院の陳世松教授の談話による。
内陸へ向かった広東人
31
6)広東東北部では多少の石炭を産出するものの、広東・福建における石炭採掘規模は遠く華北や東北の
それに及ばないため、鉱山関係資料にもほとんど言及がない。
7)「帰善……(中略)有永吉、信上、永安三錫場、三豊鉄場、淡水塩馬場」
(潭其驤編、2003: 238)
。
8)「嘉靖甲寅。長楽程郷不軌之民盗開鉱穴、聚衆数万、附近数百里内莫不被害」
(清・于卜熊纂修『海豊
縣志』乾隆十五年刊本、邑事 三十九)
。
9)「錫出恵州者、謂之上點銅……性堅而清以製器用最精、工人亦極精巧、他省之匠不能及也」
(清・呉震
方撰『嶺南雑記』七十五 – 七十六)
。
10)清末から民国期にかけての江西における鉱山開発に関わった広東人の動向については、飯島(2009)
を参照されたい。
11) 余漢謀の詳しい経歴については『中華民国史大辞典』
(2002: 982)を参照。ただ同書には、余漢謀が江
西南部(贛南)の鉱山開発に関わるようになった経緯については触れていない。
12)少し時代が遡るが 1939(昭和 14)年の時点で日本が把握していた広東の自動車道路は全部で 33 路あり、
江西と通じていたのはその内わずか 3 路である。この時代の中国に限らず多くの自動車道路がそうであ
るように、まず道路は沿岸部主要都市と内陸を結ぶことを主眼に敷設される。この時代の広東の場合、道
路の大部分は北部から広州を結ぶもの、汕頭など東部沿岸の都市と東北部を結ぶものが主であり、江西南
部から広東東北部に至る自動車道路はまだ確認されていないのである(東洋協会調査部、1939: 26–28)
。
13)華企雲編著(1933)には「中法条約本年の規定……」とあるが、本年がいつか、という記載は無い。
本書の出版年が 1933 年なので本文では便宜上 1933 年とした。
14)日中戦争においても、日本の同盟国であったドイツは中国において複雑な役割を演じている。ドイツ
は軍事上の必要から必要なタングステンを武器と引き替えに中国から入手しており、その一部はヒト
ラーとスターリンの協定により 、 ソ連への供与が約束されていた。ビルマ(ミャンマー)とインドシナ
で英仏が支配を強めた中、ヒトラー・スターリン協定が功を奏し、タングステンもソ連の購入というこ
とにして香港からウラジオストックへ出荷され、そこからシベリア経由でドイツまで送られたのである
(Kirby, 1984: 248)
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アジア歴史資料センター資料
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34
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
広東糾察隊の再検討
1920 年代の中国労働運動史像の再構築に向けて
衛藤安奈
はじめに
1921 年に誕生した中国共産党(以下、中共と略す)が国民党によって都市から放逐され、
農村での活動を余儀なくされたのは 1927 年夏以降のことであった。この間、中共は来る
べき社会主義革命のために都市労働者を動員しようと試み、広州と香港を中心とする広東
1)
地域でイギリスを標的とした省港大罷工(広州・香港大ストライキ の意。以下、省港ストライ
キとする)と呼ばれる長期間のストライキを発生させた。本稿で検討する糾察隊とは、こ
の運動において出現した労働者の武装組織である。
2)
国共合作期の中国における労働運動史は、いくつかの例外を除き 、大雑把にみて 1990
年代を迎えるまで中共の正統革命史の叙述枠組みに従って書かれていた(島、1965a、1965b;
向山、1965; Chesneaux, 1968; 中村、1978; 手島、1985)
。当時の広東労働者が出身地域によって
分断されていたと指摘した M・チャンも、運動の隆盛は国民党や共産党の組織した近代的
総工会(工会とは労働組合を意味する)の力に拠るものと理解した(Chan, 1975)。日本におい
3)
「ただプロレタリアートのみが偉大
ては、研究者たちはとくに鄧中夏の影響を強く受け 、
な、集中された民衆であり、徹底的に革命をやる精神をもつ」(鄧中夏、1983: 102)と述べ
た鄧中夏とともに、当時の労働運動を階級闘争および反帝国主義闘争という範疇に押し込
めて理解しようとする傾向があった。そして糾察隊を、長期間のストライキを推進し、支
えた原動力として評価したのである。
だが 1990 年代以降、従来とは異なる叙述の仕方が現れ始めた。たとえば、R・ホロック
ス(Horrocks, 1994) は、省港ストライキに反対の立場を取った労働者たちに焦点を当て、
正統革命史とは異なる側面を描き出そうとした。また、M・チンは 1920 年代の広東社会を、
さまざまな社会集団の利害が錯綜し、暴力が頻繁に使用された世界として描いた。彼によ
れば、当時の労働者たちは「破壊的行為の限りないプロセス」(Tsin, 1999: 178)に向かって
いたのである。このように、研究者たちは階級闘争や反帝国主義(あるいはナショナリズム)
という範疇から一定の距離を置き、当時の中国労働運動を理解し始めている。とはいえ、
中共の公式の歴史の描き方に対していかなる代案を提示すべきかという問題は依然として
決着がついていない。そこで本稿では、近年利用可能になった新しい資料に依拠して広東
糾察隊の活動の実態について再検討を行うとともに、当時の労働運動史像の再構築に向け
た提言を行うことを企図した。
?????
35
あらかじめ述べれば、筆者が描く糾察隊の実態は、正統革命史におけるイメージと、チ
ンのような修正主義的な歴史研究におけるそれとの中間に位置する。近年利用可能となっ
た資料は、糾察隊が成立して間もなく指導者の意図と統制から外れて自己増殖を始め、隊
員は「帝国主義」とレッテルを貼られた人々からの収奪に夢中になり、さらには内部抗争
を繰り返したことを物語っている。糾察隊は運動を促進させたのみならず、運動を混乱に
投げ込む役割をも果たしていた。だが、糾察隊のさまざまな行動が、あくまで「帝国主義」
との闘いという枠組み―たとえその定義がどこまでも政治的かつ主観的であったとして
も―において行われたこともたしかである。結論部分において、筆者は、従来の解釈枠
組みに収まりきらない糾察隊のこうした傾向を、1 つの枠組みに収めるよう試みる。
分析に用いた資料は、主として当時の日刊紙である『広州民国日報』
、省港罷工委員会
4)
機関誌である『工人之路特号』 、およびそうした一次資料から重要な布告や論説などを抜
き出し収録した『省港大罷工資料』などの資料集である。また、当時広東を勢力圏に収め
ていた国民党によって作成・保管された未公刊の档案資料(公文書資料)も補完的に利用
5)
したが、それらは漢口档案と五部档案と呼ばれるコレクションから収集したものである 。
Ⅰ 糾察隊の目的、組織構想、指導者
まず糾察隊をめぐる当時の政治状況を概観しておこう。1925 年 5 月、上海で中国人労働
者の死傷事件が発生し、反帝国主義を掲げた全国的抗議活動が中国の主要都市に広がった
(五・三〇運動)
。この運動自体は、学生や商人など異なる社会集団の運動が入り交じる形
で勃興し、労働者のみの運動として定義することはできない性質を持っていた。だが運動
の中で労働者が主役として表象される傾向にあり、また労働者の待遇改善などが要求され
ていたことから、労働運動としての側面を強く持っていたことは間違いない。
広東では、とくに 6 月に広州で生じた中国人デモ隊に対する発砲事件(沙基事件)以降、
運動が一気に加熱した。ただし広東の運動の主な標的はイギリスに絞られた。当時協力関
係にあった国民党と中共の指導者によって、運動の目的は反英へ、またその手段はイギリ
ス領香港に対する経済封鎖へ収斂した。経済封鎖とは、ストライキ、ボイコット、不買運
動を通じて敵国との経済関係を断ち、相手を経済的に困窮させ、外交上・政治上の要求を
呑ませようとする戦略を指した。
このような背景のもと、経済封鎖を実行する組織である省港罷工委員会(広州・香港スト
ライキ委員会)が 7 月 3 日に正式に成立し、次いで 5 日に同委員会直属の糾察隊の成立大会
が開催され、10 日に経済封鎖の実行が宣言された。経済封鎖は 1926 年 10 月 10 日に終了
宣言が出るまで続いた。この 16 カ月間が一般に中国では広州・香港大ストライキと呼ば
れている。しかし運動をめぐる政治環境は、1927 年 4 月 12 日に上海でクーデターが発生
したことにより、一気に悪化した。2 日後には省港罷工委員会に対する軍の攻撃も始まり、
36
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
中共は国民党を逐われ、広東の共産党指導下の労働運動は瓦解したのである。
従来の文献は、糾察隊について、ストライキ破りの監視役としての存在意義に注目した
り、糾察隊の前身を 1922 年の香港海員ストライキに求めたりする傾向があった(Chesneaux,
1968: 293; Kwan, 1997: 128)
。これらの説明には、多くの場合、糾察隊の活動を労働運動の一
環として強調しようとする正統革命史の意図が反映されていた。しかし他方、中共の正統
革命史は、糾察隊がイギリスに対する経済封鎖戦略を支えた実行部隊であり、一部の隊員
が銃器などで武装していたことに触れている(劉明逵ほか、1998: 240)。すなわち糾察隊とは、
労働者団体と武装組織の 2 つの性格を併せ持つ存在であった。
省港罷工委員会は名称こそストライキ委員会であったが、行政組織、司法組織(監獄や
法廷)
、軍事組織(糾察隊)を完備し、単なる国民政府の下部組織には収まりきらない「独
立した政府」の形を取っていた(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 149–153)。共産党
員たちは当初からフランスのパリ・コミューンに続く労働者政府の樹立を目指していたと
いい、イギリス側がこの委員会を「第 2 の政府(Government No. 2)」と呼んだことは中共の
歴史において誇らしげにアピールされる(劉明逵ほか、1998: 239; 鄧中夏、1957: 228、254;
Chesneaux, 1968: 293–294)
。
糾察隊を軍隊式の組織とすることは当初から明確に意識されていた。糾察隊成立大会で
は黄埔軍官学校(1924 年 5 月に設立された政府軍幹部養成学校)の学生が糾察隊員に軍事訓練
を施すと明言され(『工人之路特号』、1925 年 6 月 30 日、7 月 5 日)、実際に、糾察隊軍事教育
係である総教練には、黄埔軍官学校を卒業し、農民自衛軍の軍事訓練にも携わった徐成章
が任じられた(井出、1928: 90、92–93;『工人之路特号』、1925 年 7 月 3 日;阿南、2008: 54–55)。
また、広東には民間自衛組織の長い歴史が存在し、国民党は五・三〇運動以前からこうし
た組織を革命へ動員しようと努めていた。広州商団事件(1924 年)の際には工団軍という
労働者の武装団体の存在も確認され(蒲、1992)、糾察隊員には工団軍に参加した経歴を持
つ者もいた(広東省政協学習和文史資料委員会、1980: 175–186)。軍事史の側面からすれば、糾
察隊は労働者を用いた軍隊建設の試みでもあった。
糾察隊の主な指導者としては、このほかに蘇兆徴、鄧中夏を挙げることができる。蘇兆
徴は糾察隊の上部組織である省港罷工委員会の委員長であり、同委員会の主要な部分を占
める香港海員の指導者であった。鄧中夏は糾察隊の政治教育を担当する訓育長であった。
以上の 3 名はいずれも共産党員であるが、糾察隊を束ねる総隊長には黄金源という人物
が任命された。黄は清朝打倒を掲げた秘密結社とされる洪門三合会の一員であり、もとは
豚肉屋であった。彼は、魚屋、鶏肉屋、飲食業関係者などからなる持平工会の会長から始
まり、後には、華工総会と並ぶ香港労働界の二大勢力の 1 つである香港工団総会の会長に
登り詰めた。香港工団総会は 70 余りの工会を傘下に収め、中共が香港労働者を省港スト
6)
ライキに動員するうえで重要な役割を果たしたという 。しかし黄は、中共に対して一貫
して好意的であったわけではなく、それゆえ一般的な中共系の文献は、黄を黒社会(ヤク
ザ社会)や黄色工会(資本家や国民党と結びついた工会)の領袖などと見なし、彼に総隊長職
広東糾察隊の再検討
37
を与えたのは鄧中夏および中共の一時的方便だったと説明する(蔡俊桃、1998: 15; 盧権・禤
倩紅、1997: 133–134)
。他方、黄の子孫が彼を擁護する立場から書いた文章は、梁子光とい
う別の黄色工会の領袖に扇動された結果であるとしつつ、香港工団総会を中共に解体され
ることを恐れた黄が、中共を排した別の省港罷工委員会を設立しようとし、一足早く糾察
隊を組織してその総隊長にみずからが収まったと述べる(広東省政協学習和文史資料委員会、
2005: 552–553)
。当時中共は香港工団総会と華工総会をみずからの指導の下に統一しようと
試みていた(同上:184)。黄にとっては、中共の計画は労働者に対する指導権を奪われる
可能性を示唆していたのだろう。
盧権と禤倩紅の共著が婉曲に述べるところでは、労働者に対する掌握力の弱かった中共
は、香港労働者に大きな影響力を持つ黄金源の総隊長職就任を追認せざるを得なかった。
それどころか、省港罷工委員会の下部組織に「できるだけ(香港)工団総会の上層人物の
参加を受け入れる」よう努めることさえした(盧権・禤倩紅、1997: 134)。当然、このような
意識を持つ人々に重要な役職を与えることは、中共にとってリスクを伴うものであった。
ほどなく罷工工人代表大会(省港罷工委員会の最高意思決定機関)は、この「上層人物」たち
7)
が互いの収賄行為を告発し、
「工賊」のレッテルをなすりつけ合う権力闘争の場と化した 。
黄もまた収賄行為を告発され、同大会において有罪となり拘留された(ただしこの判断は後
に冤罪であると覆った)
(広東省政協学習和文史資料委員会、2005: 507)
。
一方、黄金源を唆したとされる梁子光という人物は、香港車衣工会の領袖であり、香港
工団総会で交際部(連絡部)主任という役職を得ていた(広東省政協学習和文史資料委員会、
2005: 49)
。省港ストライキの期間中は、省港罷工委員会の招待部主任および水陸偵査隊(香
港と広州を往来する船舶を海上や港で監視することに特化した糾察隊)の隊長を任されていた。
だが、省港罷工委員会会審処(裁判所に近い機能を司った)でストライキ労働者内部の問題
を処理した共産党員・彭松福によれば、梁子光の秘書は会審処の取り調べに対し、梁が香
港咸魚工会(咸魚とは魚の干物の意)の賄賂を受け取り、取り締まりの手を緩めたと白状し
たという。この秘書が拘留されるや、梁は逃亡した(同上:272)。
ところで、梁子光の収賄事件が発覚した契機は、上司の梁と不和を生じた部下の藍卓廷
(当時は水陸偵査隊副主任)の告発であった。だが藍自身、別の水陸偵査隊の隊長を務めてい
た際、やはり収賄行為で告発を受けたことがあった。彭松福が記すところによれば、藍は
ひそかに配下の水陸偵査隊を商店へ向かわせ、
「金を払えば(没収した)物品を返してやる」
と商人を恫喝したとされる。この一件によって藍は隊長職を解任され、梁子光の部下に降
格させられたのである(同上:272)。
このように、おそらく中共の理念よりも自己の権力維持に関心の向いた香港下層社会の
有力者が糾察隊の重要なポストを占めていたことは、後に述べる運動の混乱を暗示してい
たといえるかもしれない。だが、まさに彼らの持つ個人的影響力と具体的利益獲得への情
熱こそ、梁子光や藍卓廷の指揮した水陸偵査隊を活動的にさせ、省港ストライキを促進し
た重要な要因であった。当時の『広州民国日報』には、彼らの率いる水陸偵査隊の華々し
38
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
い活躍が報じられている(たとえば、『広州民国日報』、1925 年 5 月 10 日、11 日)。
Ⅱ 糾察隊の自己増殖
すでに述べたように、糾察隊は本来イギリス領香港に対する経済封鎖を行うための実行
部隊として組織された。だが誕生するや、この組織は指導者の当初の意図と異なる機能を
担い始め、それに伴い自己増殖を開始し、次第に統制が効かなくなっていったとみられる。
当初の意図と異なる機能とは、失業労働者の生計を維持することであった。
1. 国民政府による労働者の生活支援と糾察隊
国民政府は、労働者を経済封鎖に動員し続けるためには、彼らに対する一定程度の生活
支援が不可欠と考えていた。労働者にとって、ストライキへの参加は収入源の喪失を意味
したからである。そこで労働者に対するさまざまな支援策が講じられた。鄧中夏によれば、
国民政府が彼らの生活を支援するために準備した資金は合計 490 万元に達した。この資金
の一部がそれに充てられたかどうかはともかく、国民政府工人部は労働者のための食堂や
宿泊施設を設けた(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 57、247)。また省港罷工委員会
は、失業者救済のための黄埔埠頭建設計画を打ち出し、中央銀行から 4 万元を借り入れて
労働者の食費に充てる救済案も提出した(『広州民国日報』、1925 年 7 月 5 日)。
とはいえ、当初の構想段階において、糾察隊に多数の失業労働者を吸収し、それを彼ら
の救済機関にしようという提案がなされた証拠はない。そもそもどのような人々を糾察隊
員として採用するかについて、この組織を構想した人々には明確なイメージが欠けてい
た。だが省港罷工委員会が定めた糾察隊員に関する規定の変化をたどると、指導者たちが
徐々にこの組織を失業者の救済と結びつけていくようになった過程が浮き彫りになる。
初期の省港罷工委員会章程には、
「糾察隊を何隊か組織する」と記されているのみであっ
た。糾察隊の指導者層をいかに形作るかという構想がいくらか明確になり、糾察隊の総隊
長、隊長、副隊長については罷工工人代表大会から選出されるとの規定が加えられたとき
も、一般隊員の参加資格については「壮健で 18 歳以上 35 歳以下の者」という文言のみで
あった(『工人之路特号』、1925 年 6 月 27 日)。糾察隊の正式な成立から半年以上たった 1926
年 2 月になり、ようやく模範糾察隊(他の模範となるべき糾察隊)の隊員資格に関し、それ
を「省港ストライキ労働者」に限るという規定が現れた(『工人之路特号』、1926 年 2 月 8 日)。
翌月、通常の糾察隊員に関しても「糾察隊員には必ずストライキ労働者を充当しなくては
ならない」と謳われた(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 235)。
隊員資格をストライキ労働者に限定した理由について、これらの規定それ自体はなんら
説明していないが、劉永大と陳永階の共同論文は、糾察隊が労働者階級の組織であること
を保証するための措置であったと解釈する(劉永大・陳永階、1990: 227)。しかし現実には、
広東糾察隊の再検討
39
ストライキ労働者は収入源を失った人々であり、失業者とほぼ同義であった。運動の指導
者たちが必ずしも明確に意図しなかったにせよ、事実上、糾察隊が失業労働者で満たされ
てゆくことが容認されたのである。おそらくその背景にあったのは、他の失業者救済案が
奏功してないことに対する省港罷工委員会の焦慮であった。同委員会は、失業労働者に関
する「事態は一刻の猶予もならない」(『広州民国日報』、1925 年 7 月 5 日) と認識していた。
糾察隊を失業者の救済機関とすることはやむを得ない措置とみなされたのだろう。
一方、省港ストライキ中に発表された中共の公式文書は、失業労働者と糾察隊を直接結
びつける表現を避けていたようにみえる。だが、1927 年の第一次国共合作の崩壊によって
中共が農村に追いやられ、都市の労働者をいかにして国民党から取り戻すかが議論される
ようになると、中共の決議には、
「党は失業労働者の糾察隊を組織する工作に必ず注意し
なければならない」(「職工運動決議案」1927 年 11 月、傍線引用者)といった露骨な表現が用
いられるようになる(中央档案館、1989: 514)。また、中共第五回全国代表大会(1927 年 4 月)
の「職工運動決議案」は、糾察隊に失業労働者が多数含まれている状況を前提としつつ、
「失業者が多すぎてもいけない」と述べていた(同上:83)。これらの決議案は、中共指導
者もまた糾察隊が失業労働者を引き付ける魅力をもつと理解していたこと、ならびに、糾
察隊が失業労働者対策としての機能を担うことを容認したことを示唆している。
2. 押し寄せる労働者
糾察隊を構想した人々の考えがいかなるものであれ、失業者の目に、この組織が生計を
維持するための手段として映ったということは十分考えられる。この時代の中国におい
て、無職の者が生存を確保するためにしばしば用いた手段の 1 つは、軍閥の傭兵として雇
8)
われることであった 。もし軍閥の兵員と同様、特別な技術を必要とすることなく雇用さ
れる道があったとすれば、彼らがそれに飛びつかないことがあっただろうか。実際に糾察
隊を回顧したある資料によれば、火器の運搬などを任された糾察隊員に 2 元が支給された
ケースも存在していた(広東省政協学習和文史資料委員会、2005: 316–317)。したがって失業労
働者の側からすれば、糾察隊とはてっとり早く金を稼ぐ手段にほかならなかった。
単に最低限の生活を保障する手段であることを超えて、糾察隊はその成員に荒稼ぎを可
能にさせてもいた。荒稼ぎの手段になったと目されるのが仇貨没収である。仇貨とは一般
に帝国主義者の商品を指したが、この時代の広東においてはとくにイギリスと関わりのあ
る物品を意味した。1925 年 7 月 1 日に、省港罷工委員会は仇貨として没収された食料品に
ついて、その 1 割を糾察隊の全隊員に、さらに 1 割を、食糧を没収した糾察隊員自身に分
配すると定めた(『工人之路特号』、1925 年 7 月 2 日)。仇貨は競売にかけられることで値上が
りし、ときには元値以上の利益を叩きだすこともあった。鄧中夏が 40 万元とした仇貨競
売による収益について、台湾総督府税関事務官・井出季和太は、没収品の総額が 31 万
9000 元であったのに対し、得られた利益は 40 万元を超えたとする(井出、1928: 103)。
糾察隊が仇貨没収を通じて利益を貪ることを、糾察隊指導部は決して奨励しなかった
40
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
が、積極的に制止しようともしなかった。むしろ黙認していたようにみえる。仇貨没収に
はイギリス帝国主義者に打撃を与えるという大義名分が与えられていたからである。この
ような組織は失業労働者にとって魅力的に映ったのであろう。労働者は糾察隊に殺到し
た。
初期の糾察隊の組織構想では、500 人を 1 大隊とし、2 つの大隊から構成される計 1000
人規模の組織となることが予定されていた。ところが実際の隊員数は、成立大会のまさに
その日から予想を越えて膨れ上がる兆候を見せ始めていた。成立大会当日に糾察隊の構想
者たちが来場者を整理すると、100 人余計な人々が来場しており、その後も参加者が続々
と詰めかけ、後日第 3 大隊をつくってそこに余剰人員を吸収することになった(『工人之路
特号』
、1925 年 7 月 6 日)
。その後も糾察隊員の人数は増え続け、7 月末には 2500 人、9 月に
は 3000 人、1926 年初頭には 6000 人を突破したという(井出、1928: 95)。
鄧中夏の『省港罷工概観』(1926 年)は、国民政府が陳炯明と鄧本殷を打ち破った時点に
おいて、広州の中心地域に 3 支隊、順徳一帯に 1 支隊、江門一帯に 1 支隊、中山の石岐付
近から珠海にあたる地域に 2 支隊、深圳の竜崗から宝安にあたる地域に 3 支隊、東莞の虎
門鎮太平に 1 支隊の糾察隊が派遣されたなどと記した(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、
1980: 66–67)
。だが劉永大と陳永階の共同論文によれば、糾察隊はその後も必要に応じて増
派された。そのうえ、支隊という単位の隊員数自体、流動的であり、初期の構想では 1 支
隊 100 人であったものが、やがて 108 人、125 人と増員された(『工人之路特号』、1925 年 6 月
30 日;井出、1928: 93; 劉永大・陳永階、1991: 221、224)
。支隊の下部には、班や小隊という、
9)
より小さな単位が構成されており、ある資料 によれば、糾察隊の最小単位は班(12 人)
であった(中央档案館・広東省档案館、1983: 25)。しかし鄧中夏は、このような小さな単位の
糾察隊は各地に不揃いに配備されたと記しており(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980:
67)
、
『広州民国日報』にも、
「××班」
、
「×× 小隊」などの名称が次々に姿を現している(た
とえば、
『広州民国日報』1926 年 9 月 18 日、21 日)
。こうしたことから、実際には、上層部も
把握していない無数の糾察隊が、広東各地で勝手に結成されていたと考えられる。
増員の理由を、中共系の文献は労働運動や経済封鎖が大いに進展したためと説明する
か、国民政府の支配地域拡張に伴い防衛線が拡大し、兵士の増員が必要となったためと説
明する傾向がある(たとえば、劉永大・陳永階、1991: 221; 広東哲学社会科学研究所歴史研究室、
1980: 174)
。このような説明は、指導部が必要に応じて意図的に糾察隊を増員していったか
のような印象を与えている。だが現実には、指導機関から支給されるいくらかの給与に加
え、自らの努力によって相当の金額を稼ぎ出す―しかも、邪悪な帝国主義者に打撃を与
えるという大義名分のもとで―ことが可能な組織の魅力に大量の失業労働者が引き寄せ
られる事態を、指導部が制御できなくなっていたように思われる。
広東糾察隊の再検討
41
Ⅲ 糾察隊が引き起こした紛争
では糾察隊員たちの実際の行動とはどのようなものであったのか。中共系の文献は糾察
隊が地元民と数々の紛争を起こしたことを認めている。だがそのような文献の多くは、糾
10)
察隊と地元民のもめ事の背後に帝国主義者の陰謀があったとしている 。糾察隊自身も自
己正当化を行う際には敵対者を帝国主義と結託した土匪と罵った。鄧中夏は土匪との戦争
の代表例として、沙魚涌の戦役、太平の戦役などを挙げ、このほかにも無数の戦いがあっ
たと述べている(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 67)。しかし、個別の案件を詳細
に検討すれば、糾察隊をめぐる紛争は以上の構図では理解できないことがわかる。
もめ事はまず仇貨売却の収益をめぐり、労働者間で生じていた。たとえば、江門の新会
11)
県で起きたある紛争において中心となったのは陳日光、葉璋という人物の争いであり 、
事件は双方の派閥の労働者による武力衝突に発展した。共産党員・劉爾崧の報告を整理す
ると、江門罷工委員会事務所の会計を司っていた陳日光に対し、葉璋は糾察隊の代弁者と
いう立場に立ち、次のような言いがかりをつけたという。すなわち、省港罷工委員会の決
定によれば糾察隊は仇貨の 2 割を分け前にできるはずだが、陳日光の会計処理はこの決定
を反映していない疑いがある、帳簿を開示せよ、というものである。だが陳日光は帳簿の
開示を拒み、事件が発生したのである(「中央工人部上中執会函」1926 年 1 月 29 日、漢 11564、
Hankou Reel 106)
。争いの背景には、地元の権力関係や人間関係をめぐる複雑な確執があっ
た可能性がある。だが、少なくとも帝国主義者の関与は認められず、基本的には仇貨売却
で得られる収益をめぐる労働者の派閥間の紛争として理解しうる。
また糾察隊の末端組織が中央の統制から外れ、勝手な行動を取ったことが、この組織と
地元民の紛争を頻発させることにつながった。糾察隊が指導部の統制から外れかけている
ことは初期の段階ですでに認識されていた。早くも 1925 年夏には、各工会の組織した糾
察隊が「各自好き勝手にやるので、指揮ができない」ことが問題視され、糾察隊の改編が
実行されていた。各糾察隊のそれぞれの旗の色までが異なる状況であったため、糾察隊が
携帯すべき旗、着用すべき竹編み笠、腕章・襟章の色が指定された(『工人之路特号』、1925
年 7 月 11 日)
。糾察隊第 4 大隊に関しては、より詳細な様子を 10 月の『広州民国日報』に
公開された政府の書簡から読み取ることができる。それによれば、カトリック教会のある
司教が、教会を占拠している第 4 大隊のストライキ労働者隊員の行動に不安を覚え、教徒
の身や財産に対し彼らが何かしでかしそうな雰囲気が生じていると訴えている。司教の認
識によれば、以前は陳烈という指導者(黄埔軍官学校から派遣)が教練長として隊員たちに
適切な指導を行い、占拠した建物についても責任を負っていたので、それほど問題はな
かった。ところが近頃、ストライキ労働者が別の建物に「工人部」と書いた紙を貼り、さ
らに教会の学校部分と向かいの建物を占拠し、指導者や責任者がいない(「並無指導領袖、
又絶無負責之人」
)かのような状況になったという。陳烈はこの時点でもなお第 4 大隊の指
42
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導者であったのだが、司教の目には、労働者が指導者の意向を気にしなくなり、行動をエ
スカレートさせていくようにみえたのである(『広州民国日報』、1925 年 10 月 8 日)。
さらに糾察隊の偽物が相次いで出現したことが、紛争をいっそう夥しいものにした。偽
物の事例としては、たとえばさきにも触れた水陸偵査隊の名を騙る組織の出現を確認でき
る。
『広州民国日報』に掲載された水陸偵査隊の通告は、香港から広州へ向かう船の客が
上陸する際、水陸偵査隊を騙る者が金銭をゆすることがあると指摘し、このような行為は
『広東革命歴史文件彙集』所
強盗と同じだと非難した(『広州民国日報』、1925 年 10 月 17 日)。
12)
収の「広州工会運動的報告」 中には、糾察隊に酷似した組織の出現も確認できる。同報
告書は、工会設立が各種名目で会員から金銭や物品を徴収できる「金儲けの早道」とみな
され、人々は「競って工会を組織」し、
「ときには会員争奪のため大きな闘争が生じた」
と指摘する。そして工会加入を望まない労働者に対しては「検査小組」という団体が組織
され、太く長い棍棒を携えた検査小組の成員が労働者に暴力を振るい、加入を強制した(中
央档案館・広東省档案館、1983: 342–343)
。工会所属の武装組織であり、棍棒を持ち、大義名
13)
分が「検査」である点からみて、これはあきらかに糾察隊の模倣である 。省港ストライ
キの期間中、いわば糾察隊という名の都市版匪賊ともいうべき組織が出現していた。
では、仇貨売却から得られる収益と自己増殖する末端組織という組み合わせは何をもた
らしたのだろうか。この組み合わせは、第 1 に没収対象が無制限に拡大する契機を生じさ
せ、第 2 に上層部による方向修正の試みを無力化する効果をもたらしたと考えられる。
没収対象の拡大ということについては、糾察隊上層部の態度にも原因があった。省港罷
工委員会が 1925 年 7 月 10 日に発した文書は、広州と香港のあらゆる船舶の往来を禁止し、
食糧を断絶させるとしていた。11 月には糾察委員会の名において、経済封鎖が徹底されて
いないことを理由に封鎖対象を広東のその他の港へ拡大するとも宣言された(広東哲学社
会科学研究所歴史研究室、1980: 281、285–286)
。本来イギリスの貿易品に限定されるはずであっ
た仇貨という概念は、上層部のこのような態度によって、香港近辺の港や市場を通過する
あらゆる物資に適用される余地を持ってしまったとみられる。
一例として、広東の一般民衆の主食である魚の干物をめぐる騒動があった。正統革命史
において土匪と糾察隊の戦争として語られる太平の戦役(広東省東莞太平で発生)の場合、
当事者の一方である太平商会の言い分によれば、紛争原因は魚の干物を売ろうとした中国
人女性に糾察隊が干渉したことであった。1925 年 9 月半ばにはすでに太平商会から広州市
商会に宛て、太平駐在糾察隊が渡し場でみだりに商品の積み卸しを制限するのをやめさせ
てほしいという懇願が行われており、糾察隊に対する地元商人の反感はかなりのものに
なっていたとみられる(『広州民国日報』、1925 年 9 月 19 日)。そのようなときに、市場で女性
と商店(どちらも中国人)が魚の干物を取引しようするのを糾察隊が咎め、商店の者を殴っ
たのだという。憤った商人たちは抗議の意思表示として一斉閉店(罷市)を決行し、一連
の争いは最終的に太平の商人の自衛組織と糾察隊の銃撃戦に発展した(「太平商会上中執会
電」1925 年 10 月 13 日、漢 11534、Hankou Reel 106)
。このほか、広州の西濠口埠頭でも九江の
広東糾察隊の再検討
43
魚の干物が糾察隊に没収される事件が生じている(「広州市公安局呉鉄城致中央工人部函」
1925 年 11 月 28 日、部 8846、Wubu Reel 78)
。商人たちは魚の干物はイギリス製品ではないと
して、国民政府関係機関や糾察隊の末端指導者などに返却を求めた。しかし魚の干物は腐
りやすく、申し立ての是非を審議するあいだ保存しておくことができなかった。たとえば
14)
ある記事において、省港罷工委員会会審局は魚が腐るという理由で魚の干物「162 件 」
を競売局に引き渡している(『広州民国日報』、1925 年 9 月 26 日、10 月 1 日)。没収された魚の
干物が返却される見込みは限りなく低く、売却利益はそのまま省港罷工委員会関係者の懐
に入ってしまったのである。
商人たちは、こうした事態が魚の干物の高騰を招き、貧民の食費を圧迫していると訴え
ていたが(『広州民国日報』、1925 年 9 月 26 日)、1926 年 4 月 17 日には省港罷工委員会もつい
にそれを認め、
『工人之路特号』において、魚の干物についてはそれが香港から輸入され
たものでない限り通行の自由を許し、検査も迅速化するよう命じた(広東哲学社会科学研究
所歴史研究室、1980: 266–267)
。だが末端組織が中央によって厳正に統制されたものではな
かった以上、上層部の新たな命令を末端成員に守らせることは困難だった。魚の干物に関
する上述のような命令が事態を改善した形跡はなく、また同時期、農村地域に展開した糾
察隊と農民のあいだには、かえって深刻な争いが生じていく。
たとえば省港罷工委員会は、1926 年 4 月、
「省港罷工委員会特准宝安農会農民経過英界
条件」という 11 の条件を示し、少なくとも農民協会に所属する宝安の農民に限っては、
「英
界」(イギリス領香港を指すと思われる)を通過して米、肥料、塩などを購入することを許可
した。農民が港で農産物と日用品をやりとりすることを糾察隊が許さず、このことが農民
の生活を圧迫していたので、省港罷工委員会は取り締まりを緩めるよう糾察隊に指示した
のである。にもかかわらず、鄧中夏によれば、同年 5 月以降、広東沿岸地域の農民と糾察
隊の紛争は増加した。糾察隊上層部の命令は末端隊員に遵守されなかったのである。沿岸
部の農民にとってこの時期は収穫物を売りに出す書き入れ時にあたっており、農民たちは
糾察隊に対するそれまでの友好的ないし中立的態度を改め、武器を手に糾察隊と対抗する
姿勢をみせるようになった(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 51、265–266)。
こうした状況を背景とし、8 月には宝安の固戌郷という村で糾察隊による襲撃事件が起
きた。固戌郷の嘆願書によれば、掘り出したばかりの生姜を持つ「労働者」(固戌郷の村人
を指すと思われる)を宝安南頭駐在の糾察隊員が縛り上げようとし、殴り合いになったとい
う。2 日後、糾察隊は 100 人余りを率いて再来し、固戌郷全体に対して発砲、放火、略奪、
拉致を行い、死傷者が出た。嘆願書の最後には「罷工委員会」が慰問に来たと記されてい
「罷工委員会」とは広東
る(「宝安固戌郷農民協会等訴詞」1926 年 8 月、部 8654、Wubu Reel 77)。
の各要所に設けられた省港罷工員会の事務所のことであろう。これが事実だとすれば、糾
察隊の行為は地元の罷工委員会からみても行き過ぎたものであった。
中共広東区委員会の雑誌『我們的生活』(1926 年 9 月)には「省港罷工問題」と題した文
章が掲載され、宝安の第 1 回農民大会でストライキを擁護するという提案がなされた際、
44
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
農民協会会員の半分が手を挙げずに不賛成の態度を取ったことが記されている。農民たち
に理由を問うと、食糧の輸出を禁止するので糾察隊はよくないと答えたという。また前山
の農民大会では、サトイモ、サツマイモ、生姜の輸出を許可してくれるよう糾察隊に請願
することが議決されたという(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 668–669)。
中共の歴史叙述が語るように、糾察隊がイギリスに対する経済封鎖を行うために大きな
役割を果たしたことは事実であるとしても、以上のような事例からみて、この組織はあき
らかに経済封鎖の実行部隊という範疇を大きく踏み越えていた。それは指導部の統制から
外れて自己増殖し、
「帝国主義との闘い」という壮大な物語の枠組みにおいてなしうる収奪
を行い、利益の分け前をめぐる私闘を演じ、人々から疎ましく思われる組織となっていた。
Ⅳ 指導者の困惑
当然のことながら、こうした紛争あるいは糾察隊の無法ぶりは糾察隊の上層部に対応を
迫るものだった。とりわけ上層部が深刻だと認識したのは、1925 年 10 月に起きた江門駐
在糾察隊第 13 支隊の行動であった(劉永大・陳永階、1991: 223)。同年 11 月 4 日、糾察隊指
導部によって『工人之路特号』に「省港罷工委員会糾察隊員会成立宣言」が掲載され、糾
察隊の隊長制を改め委員会制に移行し、糾察隊を整理することが公表された。この宣言は、
公務の地位を利用して私腹を肥やしている者が糾察隊に存在することを認め、糾察隊は
「当初の設立意義を次第に失った」と指摘した。そして、
「公金を差し止める」(おそらく着
服を意味する)
、灯油を盗んで売りさばく、命令に違反するといった江門駐在糾察隊の行為
を批判した(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 162–163)。
翌年 3 月には、
『工人之路特号』において、糾察隊に対する罰則規定も公表された。そ
こでは銃殺刑に相当する重罪として、経済封鎖戦略と密接に関わるスト破り(糧食をひそ
かに運搬すること、中国人を香港・沙面・マカオにひそかに運ぶこと)のほか、積載貨物を盗ん
で売りさばくこと、人を捕らえて恐喝すること、物品を横領して私腹を肥やすこと、命令
に違反すること、そして「公金を差し止めること」が明示された。後半の 5 つの罪状はほ
ぼ江門駐在糾察隊の行為と重なる。軍事的観点からすれば本来もっとも罪が重いと考えら
れる軍事機密の漏洩、銃器の喪失、上級機関に対する集団での脅迫行為などは、監禁また
は解雇という処罰にとどめられた(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 237)。
鄧中夏は 1926 年 3 月の『工人之路特号』において、広州の工会同士の紛争件数が「と
ても多い」と嘆いた。広東の積卸労働者中、労働同徳総工会に次ぐ重要な勢力として中共
15)
から注目されていた集賢工会は 、鄧中夏が挙げた紛争例に 2 度も姿をみせる。1 度目は
海員工会との紛争であり、2 度目は労働同徳総工会との紛争である。海員工会、労働同徳
総工会はどちらも中共との関係が深い工会であった。鄧中夏は労働者自身の問題として、
階級意識が欠如し、広東の古い械闘(民間の武装闘争)の習慣が強いことを挙げ、とりわけ
広東糾察隊の再検討
45
労働者の次のような態度を嘆いた。労働者は意見が違えば殴り合い、殴り合いへの参加を
痛快なこととする。争いに勝てば「優勢になった」
、負ければ「メンツを失った」と考える。
負けた場合はみずからを不甲斐ないと責め、次回の報復に備える。あるいは工会同士の優
劣を決めるべく「痩狗嶺にて」
、
「鳳凰崗にて」などと場所を指定し、果たし合いの約束を
取り交わす(鄧中夏、1983: 232–235)。同年 6 月、大任の署名で『工人之路特号』に掲載され
た別の文章も、
「(工会のあいだで)紛争が発生すると、(労働者は)上級工会に裁判を頼まず
武力で解決しようとするため、殴り合いがない日はない」と指摘している(広東哲学社会科
学研究所歴史研究室、1980: 474)
。たとえば労働同徳総工会が国民政府に充てたある陳情書は、
粤港起落貨総工会(労働同徳総工会と同じく陸上運輸業者の団体)の糾察隊が労働同徳総工会
を襲撃したと訴えている(「労働同徳総工会上中執会呈」1926 年 11 月、部 6830、Wubu Reel 60)。
だが、粤港起落貨総工会側の陳情書によれば、労働同徳総工会もまた、粤港起落貨総工会
を襲撃し、同工会の成員に、死者、行方不明者、重傷者を出させていた(「粤港起落貨総工
会上中央工人部呈」1926 年 4 月 1 日、部 6846、Wubu Reel 60)
。紛争の原因は、積み降ろしの仕
事の奪い合いであった(「労働同徳総工会上中執会呈」1926 年 4 月 2 日、部 6849、Wubu Reel 60)。
このように、糾察隊は労働者の私的武装組織として工会同士の紛争にも積極的に関わった
のである。
また中共広東区委員会が書いたと推定される省港ストライキに関する報告書 (注 9 を参
照のこと)は、彼らの取り込み工作の対象であった労働同徳総工会の領袖に対する不信感
を洩らしている。7 月 9 日の『広州民国日報』は、労働同徳総工会広州支部がストライキ
支援のための資金を集めることができなかったと報じた(『広州民国日報』、1925 年 7 月 9 日)。
だが同報告によれば、実は「同徳の領袖」は省港ストライキに熱心ではなく、持っている
はずの「基金数万(元)」をストライキ支援に回さなかった(中央档案館・広東省档案館、
1983: 29)
。くわえて、前述の「広州工会運動的報告」の執筆者が「我々を驚かせ、おかし
いと思わせたこと」として指摘するところでは、彼らの指導する機構であった油料工会の
指導者は、月給 220 米ドルを獲得し、さらに数千米ドルの公共資金を浪費していた(同上:
342–343)
。
これほどまでに問題を抱えていながら、政府が糾察隊の解散に容易には踏み切れなかっ
た理由は、1 つには国民党内部に糾察隊を合法的武力として利用しようとする意見があっ
16)
たためであろう 。内戦の続く中国において自前の武装組織は何より重要なものだった。
だが本稿で検討したように、糾察隊に失業労働者の生計維持という側面があったことも大
きく影響したと考えられる。糾察隊からの除外は隊員にとって生計維持の道を失うことを
意味した。鄧中夏は『中国職工運動簡史』の中で、経済封鎖を取り消すには「ストライキ
を収束させ、根本的な解決を得ること」が必要だという表現を用いている。当初は経済封
鎖のためのストライキだったものが、この局面に至って、ストライキのための経済封鎖に
変質してしまったようである。井出の言葉を借りるならば、ストライキ労働者をいかにし
て「転職」させるかという問題が、ストライキを収束させる上で最大の障害として立ちは
46
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
だかっていた。1926 年 10 月頃、省港罷工委員会は貿易品に関税 2.5% を課し、これを財源
にして労働者に 100 元を与え、香港などで仕事を探させ(つまり費用を与えて就職活動をさせ
る)
、半年しても仕事がなければ省港罷工委員会が再び住まいと食事を世話するという方
針を数回決議したという。だが経費不足のため実際の支給は 1 人 10 元がやっとであった
(鄧中夏、1983: 637; 井出、1928: 100)
。労働者の就職活動を満足に支援できない限り、経済封
鎖の取り消しも糾察隊の解散も難しいというジレンマが存在したのである。
経済封鎖の終了が宣言され、四・一二クーデターによって共産党が都市を逐われた 1927
年 5 月頃になっても、省港ストライキは事実上継続し、
「糾察隊改編による過剰人員の生
計維持問題」はなお国民政府の悩みの種であった。糾察隊員 1 人につき 2 元を支給して糾
察隊を解体すると決定されても、財源不足から予定通りには実行されなかった。鄧中夏に
よれば、省港ストライキは同年 10 月に汪精衛
17)
が武力を用いてストライキ労働者に解散
を迫るまで継続した。糾察隊の消滅は、四・一二クーデターと汪精衛による強制解体、お
よび国民党の合法的武力としての一部の取り込みをもって、ようやく完了したのであった
(鄧中夏、1983: 637–638; 井出、1928: 100–101)
。
おわりに
改革開放に伴う資料の公開やソ連崩壊などによって、中国近現代史の歴史叙述方法には
変化が訪れた。とりわけ農民運動研究における知見の蓄積はめざましく、運動が党の指導
のもとに整然と行われたことは稀であったという想定は、いまや常識として認定されたよ
うにみえる。一方、冒頭にも紹介したように、1920 年代の中国労働運動についても新しい
叙述方法の模索は始まっているが、その修正作業には、まだ多くの余地が残されている。
正統革命史と農民運動研究の対決から、我々は二種類の人間像を読み取ることができ
る。正統革命史における人間像は理想的プロレタリアートを前提につくりあげられてい
た。この理想的プロレタリアートとは、レーニンの著作においてイメージされていたよう
な、高度に発達した資本主義のもとで文化的にも鍛えられ、社会主義を持つほど視野の広
くなった人々を指す。これに対し、1990 年代以降進展した農民運動の見直し作業は、程度
の差はあれ、計算高い人間像と限りなく親和性をもつ合理的人間像を基礎としていた。
こうした人間像の上に、農民運動研究は人々が運動に参加した真の動機を問い直し続
け、運動をめぐる人間関係や利害関係の存在を次々とあきらかにした。だがこのことは、
かえって運動のさまざまな混乱の局面と 1949 年の中共の最終的勝利を結びつけるものを
みえにくくした。混乱の各局面において、人々はどこまでも冷静で中共に非協力的にみえ
た。にもかかわらず、1949 年の中共の勝利は、人々が中共を支持した結果のようにみえる
のである。人々が運動に参加する動機について、党の組織の柔軟性、軍事力の増強などか
18)
ら説明が試みられてきたが 、本稿ではさらに参加者の次元からの理解をつけ加えたい。
広東糾察隊の再検討
47
党の働きかけを受けて労働運動が勢いづいたという点は、大まかには正統革命史が主張
する通りだろう。また、革命参加者たちが運動に参加した動機を、すべて経済的利益の追
求に還元してしまうことも危うい。労働同徳総工会の行動は中共広東区委員会からみれば
非常に打算的であったが、それでも彼らが 1922 年の海員ストライキに参加した動機は、
当時の文献において同情と説明された(高田、1922: 21 葉(右側))。ここではとくに列挙し
ないものの、ほかにも同情を労働者のストライキ参加の動機として指摘している文献が多
数認められる。おそらく、運動参加者たちが自身の動機を語る際にこのような説明を好ん
だのだろう。彼らの熱狂ぶりは、自分たちの置かれた苦境の改善を正義の実行と重ね合わ
せて主張し、そこにある種のやりがいを見出した興奮から生じているように思われる。
それゆえ本稿では、徹底した利己主義者あるいはホモ・エコノミクスと、理想的世界を
めざす革命的プロレタリアートの、どちらか一方に偏った見方で労働者を捉えるのではな
く、両者の混合物として彼らをみるということを提言したい。仇貨没収熱は両者が交わる
ところで発生したものとみたほうがよい。おそらく彼らの内面では、壮大で理想的な大義
名分が近視眼的な利己的動機とうまく結合されていたのであろう。労働者たちはたしかに
崇高な理想を必要としていた。しかしそれは、彼らの利益を決して損害しない範囲におい
てでなければならなかったし、その理想に多少操作を加えることで現実の利益追求に役立
てることができるものであれば、なおいっそう望ましかった。おそらくこの条件に適合し
ていたからこそ、1920 年代の中国労働運動は大きな盛り上がりをみせたのである。
もしこのように考えるならば、中共が民衆を動員するにあたりマルクス・レーニン主義
を徹底して人々に教え込む必要などなかった一方、運動を盛り上げるには経済的利益を差
し出すだけでも不十分であったと理解できる。中共のめざす革命と現実に発生した革命と
を媒介したものは、運動参加者の利益追求の意義を、参加者自身の文脈からそれぞれに引
き出すことのできる柔軟なイデオロギー(それは決して中共の初期メンバーが望んだことでは
なかったが)にあったと考えられる。このように柔軟なイデオロギーの解釈は、中央集権
的でありながら末端までの統制が行き届かない組織環境が存在してこそもたらされたもの
であった。かりにオーウェルの『一九八四年』において描かれたような、逸脱した解釈の
実践を成員に許さない全体主義的組織が構築されていたならば、運動は自発的熱狂よりも
保身のための慎重な沈黙を基調としたであろう。
このような特徴をもつ組織とイデオロギーを中心に展開された労働運動に、もっとも積
極的に参加した人々とは何者であったのか。少なくとも現在入手しやすい資料において女
性はあまり姿を見せない。散発的な報道が女工たちのストライキを伝えることはあったし
(
『工人之路特号』
、1925 年 6 月 29 日)
、女性の糾察隊員も存在はしていた(広東省政協学習和文
史資料委員会、2005: 105)
。だが、どちらかといえば女性は接吻隊や給食係など、男性労働
19)
者を慰労し支える存在として注目されることが多かった 。老人もまたほとんど姿をみせ
ない。省港ストライキで活躍した組織は若年、壮年の男性を中心としていた。また糾察隊
の行動様式からして、男性労働者の中でもとりわけ械闘の文化に慣れ親しみ、血気盛んで
48
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
男気のある振る舞いを好む一方、そこに荒稼ぎの機会も同時に見出そうとする匪賊的な類
型の人々が運動の先陣に立って大まかな方向性を決定していたように思われる。
革命家が男性労働者に接触して新たな理想を与え、利己主義者あるいはホモ・エコノミ
クスと革命的プロレタリアートの混合物としての労働者を生み出し、その末端組織が熱狂
のうちに暴走を始める構図は、20 世紀を通じて中国労働運動の中心的要素であったと考え
られる。だがまたこのような構図は、おそらく労働運動にのみ限られたものではなく、農
民運動などのその他の民衆運動にもある程度通底するものだったと予想される。本稿で検
討した労働運動が示唆するものとは、革命全体の見直しを要請するものなのだろう。
(謝辞) 本稿は、慶應義塾大学平成 22 年度博士課程学生研究支援プログラム(研究科推薦枠)
の助成を受けた。また、草稿段階で蒲豊彦先生(京都橘大学)から貴重なご意見を賜り、
資料の上でもご助力頂いた。心より感謝申し上げる。
(注)
1)かつての日本語文献においては、省港大罷工を広東・香港大ストライキと訳す傾向があった。しかし
本来、省港の「省」とは広州を意味し、当時の英語文献における Canton もまた、主に広州を意味する言
葉であった。さらに、ストライキの最大の目的は、イギリス領香港(主にイギリスの直轄植民地である
香港島および九龍半島の先端部と、その北部に位置する同国の租借地である「新界」によって構成され
ていた)を広州一帯の物流から切り離して孤立させることにあった。このことに鑑み、本稿では広州・
香港大ストライキとした。
2)例外としては、たとえば国民党系の労働運動史がある(李伯元・任公担、1955; 中国労工運動史続編編
纂委員会、1984)
。また文化大革命以降、日本においても、上海、漢口などの地域別の労働運動史研究に
おいて、革命史観の制約を受けつつも中共の言説と距離を置こうと試みる研究が姿を現すようになった
が、紙幅の関係により本稿では割愛する。
3)当時研究者たちがもっとも参照した文献は、鄧中夏の『中国職工運動簡史』である。初版はソ連の中
央出版局から出され(1930 年)
、延安に設立された中共の解放社がこれを再版して「1919–1926」の副題
を追加した(1943 年)
。現在もっとも流通している版は 1949 年に人民出版社から出版されたものを底本
とする(鄧中夏、1957: 出版者関於本書的説明)
。
4)筆者が参照した『工人之路特号』は、東洋文庫が所蔵するマイクロフィルム版(創刊号〜 1925 年 8 月
14 日)と 1959 年に出版された工人出版社のリプリント版(創刊号〜 1927 年 1 月 21 日)
、および資料集に
収録されたものの三種類である。注釈の煩雑さを避けるため、前二者からの引用の場合、
『工人之路特号』
××月××日とのみ記した。
5)漢口档案とは国民政府が南京と武漢に分裂していた時期(1926 年〜 27 年)に武漢国民政府中央党部が
管理していた文書のコレクションである。五部档案とは 1924 年から 27 年にかけて国民政府中央の 5 つの
部署(工人部、農民部、青年部、婦女部、商民部)が処理した案件をまとめたコレクションである。オ
リジナル版は台湾の国民党文化伝播委員会党史館が所有し、マイクロフィルム版をアメリカのスタン
フォード大学フーバー研究所が所有する。筆者が使用したものはフーバー研究所で閲覧・収集したもの
である。
6)黄金源に関しては、黄の孫と甥によって書かれた回顧録を参照した。香港労働界をめぐる記述は、省
港罷工委員会顧問であった黄平の回顧録と、羅珠ら 6 名の運動指導者が連名で記した回顧録に拠った(広
東省政協学習和文史資料委員会、2005: 15、184、551–552)
。
7)たとえば 1925 年 8 月の罷工工人代表大会第 10 回代表大会と第 11 回代表大会に関する報告を参照。蘇
兆徴、黄平と、梁子光との間に生じた激しい口論の様子が記されている(中共広東省委党史研究委員会
辦公室・中共珠海市委党史辦公室、1985: 147–152)
。
8)長野朗は、主に北京の労働者を観察した著作の中でではあるが、失業労働者はつねに傭兵予備軍であっ
たと述べる(長野、1925: 196–197)
。
9)原題は「省港罷工情況的報告」
。
『広東革命歴史文件彙集』の編者は、中共広東区委員会が 1926 年 7 月
に書いた文書と推定し、
「中共広東区委関於省港罷工情況的報告」と改めてタイトルを付した(中央档案
広東糾察隊の再検討
49
館・広東省档案館、1983: 25)
。
10)冼一宇「粤港罷工糾察隊奮闘概況」
(湖北全省総工会宣伝部が 1927 年 3 月に印刷した小冊子とみられる)
の論調を参照(広東哲学社会科学研究所歴史研究室、1980: 170)
。
11) 陳日光は江門に国民党部を開設する使命を帯びた国民党員であり、新会県総工会の顧問でもあった。
葉璋は江門酒楼茶室工会委員長という役職にあった。
12)『広東革命歴史文件彙集』の編者は、中共広東区委員会が 1926 年 5 月以降に書いた文書と推定。注釈
によれば、外国語で書かれた原文を中国語に翻訳したものだという(中央档案館・広東省档案館、1983:
321)
。
13)仇貨を取り締まるという意味で「検査」という言葉を看板に掲げた団体の例として、恵陽農会の「検
査仇貨会」などがある(
『広州民国日報』
、1925 年 12 月 16 日)
。また糾察隊は 6 尺ほどの丸棒を持って見
張りに当たるのがつねであった(井出、1928: 96)
。
14)162 件とは 162 匹の意味とも考えられるが、西濠口では魚の干物が「五十七籮(籠)
」という単位で持
ち去られており、したがってこの 162 件も 162 籠である可能性が高い(
「広州市公安局吳鉄城致中央工人
部函」1925 年 11 月 28 日、部 8846、Wubu Reel 78)
。
15)横浜正金銀行香港支店に勤務した高田逸喜によれば、労働同徳総工会(1921 年 11 月設立)とは 1922
年の海員ストライキに参加した約 8000 人規模の「陸上労働者の団体」であった。中共広東区委員会の報
告(1925 年 7 月頃作成と推定)は、
「同徳」を広東の積卸労働者の最大勢力とし、中共はその領袖の説得
に腐心したと記す。また高田によれば、集賢(集賢卸貨工会、1921 年 3 月設立)とは船内雑貨の荷下ろ
しを行う労働者の団体であった。1922 年の海員ストライキ時には約 1500 人の勢力を誇り、前述の中共広
、21 葉(右
東区委員会の報告中では約 3000 〜 4000 人の団体に発展している(高田、1922 年:20 葉(右側)
;中央档案館・広東省档案館、1983: 29)
側)
。
16)1927 年に開催された国民党中央執行委員会政治委員会第八次会議は、国民党の憲兵が組織されるまで、
糾察隊を秩序維持の合法的武力として使用することを認めると決議した(
「中央執行委員会致蔣中正等軍
事長官電」1927 年、漢 725、Hankou Reel 6)
。
17)汪精衛は省港ストライキ中は省港罷工委員会顧問を務めていた(広東哲学社会科学院研究所歴史研究
室編、1980: 153)
。
18)高橋伸夫は、中共の高い適応能力と生命力の強さは、散漫な党組織とそれゆえにもたらされた末端組
織の大きな自律性にかかっていたとする。また B・ハザードは、党が十分な軍事力を持ち、支配地域を
安定させる能力を持つことが、農民を革命に参加させる上で重要であったと指摘した(高橋、2009: 22;
Hazard, 1981: 78)
。
19)井出によれば、1926 年 6 月時点のストライキ参加者 9 万 5000 人中、女性は 8000 人であり、当時美談
とされた女性の活躍とは、女子中学生の接吻隊がストライキ中の苦力にキスをして回るというもので
あった(井出、1928: 99)
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(スタンフォード大学フーバー研究所所蔵、Wubu Reel)
※フーバー所蔵の『漢口档案』と『五部档案』について、文中注釈では、文書名、文書の日付、原
資料のファイル番号、当該文書を収録したマイクロフィルム番号の順に表記した。
(えとう・あんな 慶應義塾大学大学院 E-mail: [email protected])
広東糾察隊の再検討
51
[研究ノート]
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
福岡侑希
はじめに
本稿では比較政治学の視点から東南アジアの民主化分析における理論的課題を検討する。東
南アジアの民主化経験の多くは、西欧やラテンアメリカの経験から形成された理論(以下、自由
1)
主義理論と略)の演繹的適用を通じて分析されてきた 。自由主義理論とは、経済発展に伴う市
民社会の拡大と民主化の相関関係に着目した理論である。つまり、経済成長が社会構造の変化、
特に中間層や労働者層の拡大を促し、彼らが市民社会という政治空間を形成し、権威主義体制
の民主化を求めるという議論である。同理論は普遍性を有するとされ、世界各地の政治変動の
分析に利用されてきた。自由主義理論は民主化研究において、クーン(Kuhn, 1962)の言うリサー
チ・パラダイムとしての地位を確立したと言える。
東南アジアにおける民主化経験も、この自由主義理論の演繹的適用を通じて説明されてきた
(Case, 2004; Laothamatas, 1997; 岩崎、2000)
。他方、同地域には長期の経済発展にもかかわらず強力
な市民社会が形成されず、権威主義体制が維持されているケース(シンガポールやマレーシア)や、
また、強力な市民社会が不在の中で民主化を達成したケース(特にインドネシア)もあり、市民
社会の存在を民主化の独立変数と見なす同理論の妥当性に地域研究者から疑問の声が上がって
いる(Gainsborough, 2002; Rodan, 1996)。しかし、比較政治学はこうした批判に十分に応え、その
理論的インプリケーションを模索したとは言い難い。その結果、依然として自由主義理論の適
用を離れた研究は数少なく、新理論の模索というよりも、むしろ、既存理論の救済に労力が傾
けられてきた。今後、東南アジアの民主化経験を考えるにあたり、既存理論を救済するのでは
なく、理論的反証(falsification)を受け入れ、新たな分析枠組みを構築する作業が求められてい
ると言える。
クーンによれば、理論的革新には既存パラダイムの理論的前提(assumptions)に対する批判的
検討が求められる。そこで、本稿では自由主義理論を東南アジアの民主化経験に照らし合わせ
ることで、同理論の理論的前提の中で東南アジアの政治的現実に馴染まない要素を明らかにし、
その上で、新たな分析モデルの構築に向けたヒントを探ることを目的とする。具体的には、先
行研究で支配的な「国家 vs. 市民社会」の視点を離れ、民主化を「国家内部におけるエリート
間対立の解消メカニズム」と捉える。この観点からすでに民主化を達成した東南アジア諸国の
経験を振り返ると、権威主義体制の崩壊を前後してエリート間の政治闘争が発生し、これが民
52
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
主化を経ることで安定を取り戻していることがわかる。これは国家資源をめぐる政治闘争であ
り、民主化とは旧体制下で十分なパトロネジ配分を享受できなかったエリート層が、選挙政治
の拡大や行政府に対する立法府の強化を通じて国家資源へのアクセスを獲得する過程であっ
た。本稿はこうした利権構造再編成のプロセスとしての民主化のモデル化を試みると共に、今
後の研究課題を提示する。
本稿の構成は以下の通り。まず、以下第Ⅰ節で自由主義理論を概観する。その上で、第Ⅱ節
にて東南アジアの文脈における自由主義理論適用の問題点を指摘する。第Ⅲ節では同理論の前
提の中で東南アジア地域の現実にそぐわない要素を特定し、続く第Ⅳ節で新たな分析モデルの
構築を試みる。最後に全体の議論を総括し、今後の課題について検討する。
Ⅰ 自由主義理論
まず、自由主義理論の内容を概観する。同理論は経済成長に伴う市民社会の拡大と民主化の
関係に注目した理論であり、ザカリア(Zakaria, 2008: 102)が指摘するように政治学において「最
も重要かつ多くの研究で立証された(most important and well-documented)」とされる理論の 1 つであ
る。同理論によれば、まず、経済成長が社会構造の変化、特に中間層や労働者層を生み出し、
彼らが市民社会という権威主義体制に対抗する政治空間を形成する。続いて、市民社会が生み
出す民主化圧力が権威主義体制を不安定化させ、それまで一体性を維持していた体制内のエ
リートを権威主義の維持を望む「タカ派(hard-liners)」と民主的改革を志向する「ハト派(softliners)
」に分裂させる。この体制内の「ハト派」と市民社会勢力が穏健な民主化改革に合意した
、その「定着(consolidation)」が進むとい
時、権威主義体制から民主主義への「移行(transition)」
うロジックである(表 1)。
この自由主義理論は、民主化議論におけるいくつかの研究アプローチの総体である。例えば、
ムーア(Moore, 1966)やラッシュマイヤーら(Rueschemeyer et al., 1992)の研究は社会構造の変化
と政治変動の関係に着目している。他方、こうした社会構造に対する分析に加えて、オドンネ
ルら(O’Donnell et al., 1986)やプシェヴォルスキ(Przeworski, 1991)のように、政治エリートの戦
略的行動に対する分析を重視する学派(移行論)も存在する。当初、移行論者のグループは民主
化分析における社会構造分析の有用性を軽視していた。しかし、ポッター(Potter, 1997)の言う
表 1 自由主義理論のロジック
市民社会の力
体制内エリートの一体性
強い
弱い
弱い
強い
民主化する可能性:低い
民主化する可能性:高い
(出所)Gill(2000: 121)
.
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
53
「理論の収斂」を経て、両者の溝は大幅に縮まり、少なくとも市民社会を民主化の必要条件と
見る点でコンセンサスが形成されたと言える。現在では、エリートレベル(Agency)と社会構
造レベル(Structure)と強調する独立変数で見解は若干異なっても、基本的に「国家 vs. 市民社会」
の視点から民主化の過程を分析し、自由民主主義をその終着点と見る点で多くの論者達の見解
2)
は共通していると言える 。
近年の民主化の理論的研究では、こうした市民社会を独立変数とする自由主義理論の演繹的
適用が支配的となっている。例えば、リンツとステパン(Linz and Stepan, 1996: 9)は「政治的な
選択肢を生み出し、政府・国家権力を監視できる強力な市民社会は、政治体制の移行を誘発し、
その逆戻りを阻むと共に、民主主義の定着や深化を促すことができる。民主化プロセスの全て
の段階において、活発で自立的な市民社会の存在は欠かせない」と指摘している。同様にダイ
アモンド(Diamond, 1994: 5)も「韓国、台湾、チリ、ポーランド、チェコスロバキア、南アフリカ、
ナイジェリア、そしてベナン(部分的なリストではあるが…)、市民社会の広範な動員は民主化の
決定的な要因となった」と、市民社会の普遍性を主張している。こうして、民主化の研究を行
うことは、市民社会を研究することと同義となり、逆に民主化の不在・停滞は強力な市民社会
の不在を拠り所に説明されるようになった。
この自由主義理論は民主化議論において「リサーチ・パラダイム」としての位置を確立した
と言える。パラダイムとは、研究者の共同体における支配的な物の見方を指すが、民主化を「市
民社会の勝利」と見なす考え方は、研究者に限らず、メディアや政治家、民主化活動家等の間
でも幅広く定着している。筆者は 2008 年〜 2009 年にインドネシアに滞在したが、当時は民主
化 10 周年という節目の年ということもあり、各地でインドネシアの民主化をテーマとした講演
会が開催されていた。その多くで、民主主義への「移行」や「定着」
、さらに「市民社会の役割」
といった自由主義理論の言語が飛び交っていたのを覚えている。
Ⅱ 自由主義理論と東南アジア
クーンはパラダイムの形成は学問の成熟を示す指標となる一方、研究者の視野を大きく制約
する効果もあると指摘している。つまり、既存理論が説明できない現象が発生しても、同理論
を離れた思考は難しく、新理論の模索というよりも、むしろ、既存理論の救済に労力を傾ける
こととなる(Kuhn, 1962)。この指摘は東南アジアの民主化研究の現状に少なからず当てはまる
ように思える。実際、以下で検討するように、自由主義理論は東南アジアの経験を分析する上
で説得力を欠くが、それに替わる新たな理論枠組みは提示されていない。
東南アジアの文脈での自由主義理論適用における問題点の 1 つは、シンガポールやマレーシ
アのように、高度の経済発展が進み中間層や労働者層が拡大したにもかかわらず、民主化を促
す強力な市民社会勢力が台頭していない事例に対する説得力が弱い点である。こうした問題に
直面し、多くの研究者の関心は自由主義理論の反証や代替理論の模索ではなく、むしろ新たな
54
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
変数の導入や、理論が機能しない例外条件を特定するといった「理論精緻化(elaboration)」を通
じた自由主義理論の救済に集まった(Slater, 2008)。例えば、ラオタマタス(Laothamatas, 1997)は
①国家主導の経済成長、②政治文化、③民族対立、④業績による正当性(performance legitimacy)、
⑤形式的な選挙実施による正当性(electoral legitimacy)および⑥社会資本の脆弱性といった変数
が存在する場合、経済成長は民主化に繋がらないと主張した。また、クラウチとモーレー
(Crouch and Morley, 1999)はこれに加え、⑦国の規模、⑧外部の脅威の存在、⑨エリートの一体性
および⑩政治制度の変数を導入した。
このような理論精緻化はそれ自体十分価値のある知的行為であると言える。スレイタ―
(Slater, 2008)が指摘するように、従来の民主化理論が東南アジアの経験を取り込んでいない現
状を考えれば、同地域の民主化経験から様々な変数を抽出し、それを既存の理論的文脈で議論
することは必要不可欠な作業であるとも思える。他方、こうした理論精緻化の作業はしばしば
既存理論の複雑化につながり、普遍性を謳う社会科学理論に求められる「簡潔さ(Parsimony)」
が次第に失われつつあることは否定できない。特に、多くの変数を取り込んだ理論・仮説の普
遍的妥当性を立証するためには、より多くの事例を通じた比較研究が求められるが、それを達
成した研究は数少ない。むしろ、理論に多くの変数が取り込まれる一方で、それを実証する事
例の数が少ないという方法論上の問題(too many variables and too few cases)がしばしば見られる。
これまで、東南アジアの文脈で自由主義理論の有用性を立証する以上にその救済に労力が傾け
てられてきたが、必ずしも大きな成果は生まれていないように思える。
2 つ目の問題は、市民社会の存在を民主化の独立変数とする自由主義理論は、強力な市民社
会が不在の中で民主化が達成されたケースを説明できない点である。この点について、インド
ネシアの民主化が象徴的である。1998 年以前の分析の多くはインドネシア市民社会の弱さを強
調するものが多く(Mackie, 1999; Santoso, 1997)、同年のスハルト辞任は多くの論者にとって想定
外の事態であった。クラウチ(Crouch, 2010: 2)が指摘するように、1990 年代後半に最も一般的
な予測は、
「いずれスハルトの後継者が誕生しても、体制は大して変わらないだろう」という
ものであった。確かにスハルト体制崩壊に伴い労働組合や NGO 等の活動が拡大したことは否
定できない。それでも、民主化の過程で市民社会の果たす役割は限定的であった。また、民主
化を経ても、市民社会を構成する勢力の影響力拡大は限定的である(Robison and Hadiz, 2004)。興
味深いことに、こうした自由主義理論と現実の乖離はインドネシアに限らず、他の東南アジア
諸国においても指摘されてきた。例えば、ピープル・パワー後のフィリピンでは、反マルコス
運動に参加したエリート層による利権再配分が進み(Hedman and Sidel, 2000)、また、タイでは選
挙政治の拡大を通じて地方エリートによる政党支配が生まれた(McVey, 2000; Phongpaichit and
Piriyarangsan, 1994)
。こうして、東南アジア諸国では強力な市民社会が不在の中で自由民主主義
3)
とは程遠い政体が定着した 。
さ て、 ク ー ン(Kuhn, 1962) が 指 摘 し て い る よ う に、 こ う し た 理 論 と 現 実 の「ギ ャ ッ プ
(counterinstances)
」の存在は、新たなパラダイムを模索する契機となるべきと思われる。しかし、
依然として既存の民主化研究の多くは自由主義理論で定義された問題設定・分析手法で行われ
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
55
ている。つまり、権威主義的体制が続く国家については市民社会の不在を問題とし、また、民
主化を達成した国家については、理想的な自由民主主義モデルを尺度にそのパフォーマンスを
測定し、
「何が足りないのか ?」
「今後何を改善すべきか ?」といった処方的な議論が多い(Rodan
and Jayasuriya, 2006)
。この結果、東南アジアの民主化議論では「半民主主義(semi-democracy)」
、さらには「家産主義的民主主義(patrimonial
や「質の悪い民主主義(low quality democracy)」
democracy)
」といった、自由民主主義に至らない政体を描写する様々な形容詞が氾濫することに
なったのである。こうした中、
「民主化=市民社会の台頭」という従来の視点を離れ、
「市民社
会が不在の中、そもそも何故権威主義体制が崩壊したのか ?」または、
「民主化と呼ばれる政治
変動の終着点は必ずしも自由民主主義ではなく、他の政体となる可能性は無いのか ?」といっ
た問題設定はあまり見られない。
Ⅲ 「国家 vs. 市民社会」の視点を超えて
クーン(Kuhn, 1962)によれば、理論的革新には既存パラダイムの前提に対する批判的検討が
求められる。そのためには、自由主義理論を東南アジアの政治的現実に照らし合わせることで、
同理論の理論的前提の中で東南アジアの文脈に馴染まない要素を明らかにする必要がある。こ
の点について、地域研究者の視点が非常に有益である。例えば、ロダン(Rodan, 1996: 25)は「国
家と社会の二分法は、国家が社会勢力を飲み込んだ(アジアの)政体の分析に敏感に対応するこ
とはできない」と指摘している。これは、欧米と異なり国家と社会の境界が不鮮明な東・東南
アジアにおいて、両者の明確な分離を前提とする自由主義理論には限界があるとの指摘である。
こうした問題認識は他の地域研究者の間でも幅広く共有されてきた。しかし、彼らの研究の多
くは自由主義理論の不備を指摘するに終始し、新たな分析枠組みの提示には至っていない。他
方、比較政治学もこの批判に十分に応え、その理論的インプリケーションを模索したとは言い
5)
難い 。
そもそも、中間層や労働者層を民主化の担い手とする自由主義理論は、市場や国家および市
民社会の境界が明確な環境における、特定の経済発展パターンを前提としている。16 〜 18 世紀
の英国がこの典型的な例と言える。逆に、アジアのようにこれらの境界が曖昧な場合、国家か
ら独立した自立的な社会勢力が生まれる可能性は低いと考えられる。この点を特に強く主張し
ているのがベルとジャヤスリヤ(Bell and Jayasuriya, 1995; Jayasuriya, 1995)の研究である。彼らは西
欧における産業化のプロセスでは資本家層が国家からの自立性を維持していたのに対し、後発
国であるアジア諸国では国家が経済開発で主導的な役割を果たした点に注目した。その上で
「民間アクターの国家への依存度の高さが、国家の外部における独立的な利益の形成を阻害し、
[……]これは市民社会の性質や、民主主義の在り方に永続的な影響を与えた」と結論付けた
(Jayasuriya, 1995: 112)
。つまり、西欧における自由主義の形成は西欧独特の開発形態に起因する
6)
ものであり 、言い換えれば、アジアにおいて西欧的な意味での自由主義が形成されなかった
56
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
表 2 自由主義理論と Bell and Jayasuriya(1995)の比較
Bell and Jayasuriya (1995)
自由主義理論
民主化の契機
・ 市民社会の台頭
・ 体制内エリートの政治闘争
プロセス
・ 市民社会が生み出す下からの民主化圧
力を受け、権威主義国家は政治空間を
解放する。
・ 政治空間の開放は市民社会勢力が主導
する。
・ 政治空間の開放は権威主導体制内のエ
リートが主導する。
・ 政治空間の開放を通じて、対立するエ
リート・グループは市民社会勢力を動
員・操作し、対立関係の解消を目指す。
終着点
・「実質的民主主義」の実現を民主化の究
極的な到達目標と想定する。
・「手続き的民主主義」以上のより実質的
民主化については懐疑的。
(出所)筆者作成。
のは、同地域独特の開発形態に起因するとの議論を提示した。
ベルとジャヤスリヤは、経済発展に伴い社会・経済構造が変化し、新たな社会勢力(資本家や
中間層等)が誕生・拡大することは否定していない。また、彼らは経済発展に伴う市民の政治意
識の高まりも否定していない。しかし、右勢力が国家に対抗する政治利益を形成しない以上、
西欧社会で見られたような「市民社会の強化が国家の弱体化につながる」といったゼロ・サム
的な政治変動は発生し難いことになる。ではアジアにおける「民主化」とは何を意味するのか ?
『民主化』とはエリート間の利害対立の解消メカニズムであ
ベルとジャヤスリヤは「(アジアの)
り、市民社会と国家の権力関係の変化ではない」と主張している(Bell and Jayasuriya, 1995: 14)。
つまり、国家内部でエリート間の対立が生まれ、これが従来の手続きで解消されない場合、対
立するエリート・グループは社会勢力の操作・動員を通じてその決着を目指す。この操作・動
員を可能とするのが「民主化」を通じた政治空間の開放なのである。ここでの市民社会は動員
の対象であって、政治エリートに挑戦する存在ではない。また、民主化とは「手続き的民主主
義(formal democracy)」の導入を指し、自由主義論者が期待する、より「実質的(substantive)」な
7)
西欧的自由民主主義への移行は意味しない(表 2) 。
この「エリート間対立の解消メカニズム」という視点は、東南アジアの民主化を分析する上
で、自由主義理論を特徴づける「国家 vs. 市民社会」とは異なる視座を提供してくれる。また、
この視点は地域研究者の議論とも親和性が高い。例えば、上述のロダン(Rodan, 1996)はアジア
の民主化分析にあたり、国家内部の緊張関係を分析する必要性を指摘した。また、インドネシ
アの民主化における市民社会の役割に着目したアスピナル(Aspinall, 2004)も、最終的にスハル
ト体制崩壊に至る政治変動は国家内部の権力闘争に起因する部分が大きいと結論付けた。他に
も、東南アジアの民主化を考えるにあたり、
「国家内部で何が起きているのか」を考える必要
性を指摘する研究は見られる(Gainsborough, 2002)。しかし、これらの研究の多くは具体的な対
立軸を特定し、その理論的含意を模索するに至っていない。そこで、以下では、一部東南アジ
ア諸国の民主化経験を振り返り、その時国家内部で発生したエリート間対立の性質やその対立
軸を特定した上で、その理論的含意を探る。
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
57
Ⅳ 東南アジアの「民主化」の再考
民主化を達成した一部東南アジア諸国(フィリピン、インドネシアおよびタイ)の経験を振り返
ると、確かに権威主義体制の崩壊を前後してエリート間の熾烈な権力闘争が発生し、その後、
「手続き的民主主義」の導入を経ることで一定の安定を取り戻していることが確認できる。し
かし、多くのケースにおいて、自由民主主義や権威主義といった政治的イデオロギーや特定の
(経済)政策が闘争の対立軸を構成することはなかった。エリートの多くは「民主主義」や「人
権」
、または「経済改革」の必要性を語り、市民社会勢力を動員・操作することはあっても、そ
の究極の関心事項は国家資源・パトロネジの確保にあった。なお、筆者はエリートの行動が政
治思想や理念といった要素に全く影響されないと言うつもりはない。ここで強調したいのは、
上記諸国の政治的文脈においては、パトロネジ確保の要請に比べると、思想や理念は二次的な
重要性を持つにすぎないという点である。
例えば、フィリピンにおける民主化を象徴したのは、マルコス政権下で停止されていた議会
の復活であったが、これはエリート間での利権分配機能の回復を意味した。従来、フィリピン
議会はエリート間での利権分配の舞台であった(Hutchcroft, 1991; 1998)。しかし、1972 年の戒厳
令を受け、議会機能は停止され、利権配分機能も失われた。その後、マルコス元大統領周辺に
よる利権独占を受けて、1980 年代に入ると国家資源へのアクセスを失ったエリート層が増加し、
体制内での不満が高まった(Anderson, 1988)。彼らの多くはマルコス体制の崩壊、その後の民主
化を経て利権へのアクセスを回復した。例えば、1987 年選挙で当選した下院議員 200 人中、
130 人は伝統的な政治家一族に属し、39 名はその親戚であった。アキノ政権下では利権の再配
分が進み、マルコスの取り巻きの凋落と同時に、旧体制下で彼らに冷や飯を食わされた有力者
らの復活が見られた(Hedman and Sidel, 2000)。
インドネシアでも同様の現象が見られた。1990 年代後半のインドネシアでは、スハルト一族
や、その周辺の華人政商を中心とする限られた取り巻きによる利権ネットワークの一極集中が
体制内の緊張関係を生み出した(Sidel, 1998; 増原、2010)。経済界では現地人(プリブミ)実業家
層が、政界ではインドネシア・イスラム教徒知識人協会(ICMI)関係者らが利権・権力へのア
クセスを失い始めた。その後、1997 年のアジア通貨危機を契機に「持たざる者」へ転落した政
治・経済エリートらによる利権回復を目指す動きが活発化し、スハルト体制の崩壊を促した。
彼らはイデオロギーや政策面で立場はバラバラであっても、その力の向く先は「スハルトによ
る利権一極集中の解消」で共通していた。スハルト辞任後に成立したハビビ政権では ICMI 関
係者が要職に就き、その後、選挙政治が拡大する中でプリブミ実業家の政界進出が進んだ。現
在、主要政党所属議員の多数が実業家出身である(森下、2003、2007)。旧体制下ではスハルトに
依存することで利権を享受していた実業家層は、民主化を経て自ら利権ネットワークを支配す
るに至った(Fukuoka, 2011)。
最後に、タイについては、マルコスやスハルトのように利権ネットワークを一極化する独裁
58
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
者が存在しなかった。それでも、タイにおいてもパトロネジ配分の行き詰まりと民主化を通じ
たその解消を確認することができる。特に興味深いのは、1980 年代以降、政党政治が拡大する
中で、地方有力者(Chao Pho)が台頭したプロセスである。地方有力者達は 1960 年代から経済
基盤を確立し、次第に政治的影響力も強めた。しかし、国家の主要な政策決定は依然として国
軍や官僚、バンコクの実業家層に独占されていた。こうした中、地方有力者の影響力拡大を促
したのは、1980 年代後半に始まった政党政治の拡大であった。新たに台頭した地方有力者の多
くが自由民主主義や特定の政策実現を目的に国政へ参加したことを示す証拠は少なく、むしろ
利権目当てであったと指摘する研究者は多い(McVey, 2000; Phongpaichit and Piriyarangsan, 1994)。な
お、1988 年に成立したチャートチャーイ政権では多数の地方有力者が要職に就いたが、彼らの
政治運営は内閣の私物化や政治の利権化に向かったことから、
「ビュッフェ内閣」と揶揄され
た(末廣、1993)。
このように、すでに民主化を経験した一部東南アジア諸国の経験を振り返ると、
「(民主化とは)
エリート間対立の解消メカニズムである」との指摘は一定の妥当性を有すると言える。また、
その対立の原因はパトロネジ配分の歪みに起因する部分が大きく、これは同地域における多く
の国家の家産主義的性格を反映していると考えられる。特に、フィリピンやインドネシアでは、
一部のエリート・グループによる国家資源の独占と、それによって利権へのアクセスを失った
エリート層の拡大が民主化の契機となった。後者は次第に現体制に批判的になり、様々な社会
勢力を動員することで前者との対決姿勢を強めた。1986 年のフィリピンにおけるピープル・パ
ワーや、1998 年のインドネシアにおける社会動乱は、こうしたエリート間闘争の文脈で理解す
る必要があろう。そして、この対立構造は後者による利権獲得・回復を通じて調整された。つ
まり、選挙政治の拡大や立法府の行政府に対する権限強化が、国家内部におけるエリート間の
利権再配分に大きな役割を果たしたのである。
こうしたパトロネジ配分と政治変動の関係を理論化するにあたって、歴史的制度論の視点が
有益である。権威主義国家を政治制度(または複数の制度の集合体)と考えれば、それが維持され
るのは同制度に参加する主要エリート層が「収穫逓増(increasing returns)」を享受している限り
においてである(Pierson, 2000)。家産制国家においてはエリート間でのパトロネジの安定分配が
これに相当する。つまり、利権ネットワークが流動性を保ち、幅広いエリート間で利害調整機
8)
能を果たしている限りにおいて、体制は安定するのである 。逆に、この流動性が失われ、十
分なパトロネジ配分を享受できないエリート層が増加した場合、制度変更(民主化)の契機が訪
れる。この場合、制度変更の向かう先は西欧的な自由民主主義体制ではなく、利権ネットワー
クの流動性の回復である。すなわち、旧体制下で冷や飯を食わされたエリート層は、一般的に
民主化と表現されるプロセスを通じて、パトロネジを獲得するのである。
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
59
おわりに
本稿ではベルとジャヤスリヤの研究を拠り所に、自由主義理論に替わる理論枠組みを模索し
た。特に、先行研究で支配的な「国家 vs. 市民社会」の視点を離れ、民主化を「国家内部にお
けるエリート間対立の解消メカニズム」として捉えようと試みた。この観点からすでに民主化
を達成した一部東南アジア諸国の経験を振り返り、権威主義体制の崩壊を前後してエリート間
の熾烈な権力闘争が発生し、これが民主化を経ることで一定の安定を取り戻していることに着
目した。これは国家資源をめぐるエリート間での政治闘争であり、民主化とは旧体制下の利権
構造において周辺化されたエリート層が、選挙政治の拡大や行政府に対する立法府の強化を通
じて利権を獲得するプロセスであった。このようなパトロネジ配分と政治変動の関係に注目し
9)
た民主化研究は少なく、今後、同分野における一層の研究が期待される 。
他方、依然としていくつかの疑問も残る。まず、エリート間でのパトロネジ配分の歪みが政
治変動の契機となったとしても、それが民主化の形態を取る必然性はない。すなわち、旧体制
下で周辺化されたエリート層が利権へのアクセスを獲得するにあたり、民主化以外にも権威主
義体制の更新という選択肢も考えられる。政治変動がいかなる形態を取るのか、その決定要因
を特定するためには、特定のエリート間の政治闘争という次元での議論を離れ、より構造的な
分析が必要となるだろう。例えば、政治変動が民主化の形態を取るためには、現体制に不満を
抱くエリート層が選挙政治の拡大に利益を見出だしていることが必要となる。つまり選挙戦を
勝ち抜くのに十分な資金力を有するエリート層が社会に存在することが民主化の前提条件とな
るのである。言い換えれば、政治変動が民主化の形態を取るのは、経済発展がある程度進み、
一定の富を有するエリート層が誕生した段階で、利権をめぐるエリート間対立が発生した場合
となる。こうした社会構造レベルでの変数の特定は今後の課題である。
また、
「民主化とは国家資源をめぐるエリート間争いに起因する」という視点がどの程度一
般化可能なのかという疑問もある。例えば、今後、シンガポールやマレーシアといった権威主
義体制が維持されている国家の展望を考えるにあたり、国家内部での緊張関係の発生に注視す
る必要があると考えられる。しかし、その緊張関係が利権分配の歪みに因るものなのか、それ
ともそれ以外の要因に起因するものなのか、ケース・バイ・ケースで検証する必要がある。最
後に、東南アジア諸国で進む民主化が辿り着く先に、自由民主主義とは質的に異なる政治体制
があるとすれば、その特徴を捉えるために自由民主主義と異なる概念を構築する必要もある。
こうした課題を乗り越え、東南アジアの民主化を捉える新たな視座を模索するにあたり、今後、
比較政治学と地域研究の間で一層の学び合いが求められるだろう。
(謝辞) 本稿は、2011 年度アジア政経学会西日本大会(九州大学、2011 年 6 月 25 日)での報
告論文に基づく。研究大会においては、討論者の竹中千春先生や司会者の田村慶子先生を
はじめ、多くの先生方から貴重なコメントやアドバイスを頂きました。また、
『アジア研究』
60
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
の匿名査読者からも原稿執筆のために貴重なコメントを頂きました。ここに記して感謝い
たします。
(注)
1)「自由主義理論」とは筆者が便宜的に名付けたものであり、先行研究で多用されている専門用語ではな
い。
2)オドンネルら「移行論」者達も市民社会の重要性は否定せず、権威主義体制の崩壊から、民主主義体制
への移行にあたり、
「市民社会の復活(the resurrection of civil society)
」に注目している(O’Donnell et al.,
1986)
。
3)なお、筆者は欧米諸国における政治体制が理想的な自由民主主義を体現していると主張するつもりは
ない。この世に完璧な自由民主主義など存在せず、欧米諸国においても制度的建前と実際のパフォーマ
ンスの間にギャップは見られる。例えば米国の民主主義について、ダール(Dahl, 1967)は厳密な多数決
民主主義(majoritarian)モデルを拠り所にその本質を捉えるのは難しいとし、新たに多元主義(pluralism)
モデルを提唱した。筆者がここで問題にしているのは、理想的な自由民主主義モデルに対する各国の政
治体制の近似値(approximation)である。すなわち、欧米諸国のように、様々な指標で理想モデルに近
い政治体制がある一方、東南アジア諸国の政治体制は同モデルから大きく離れた位置に存在する。後者
について、今後より理想的な自由民主主義に接近していくと見るのが自由主義理論であるが、これに対
して、筆者が指摘したいのは、一部東南アジア諸国で定着しつつある民主主義は、欧米における自由民
主主義とは質的に異なるのではないかという点である。
4)中国の文脈で、ディン(Ding, 1994)も市民社会と国家の二分法の適用可能性の限界を指摘、この二分
法は中国の党主導下の政府体制のダイナミズムを不明瞭にしてしまうと主張した。
5)そもそも東南アジア諸国の政治を比較的に分析した研究は非常に少ない。例えば、ムンクとスナイダー
(Munck and Snyder, 2005)が比較政治学の有力ジャーナルを調査したところ、東南アジアを対象とした研
究は全体のわずか 4.3% に過ぎず、中東(8.9%)やサブサハラ・アフリカ(9.8%)
、東アジア(17.7%)等
に比べて投稿数が圧倒的に少ないことが判明した。
6)西欧的自由主義の起源については様々な議論があり、ザカリア(Zakaria, 2007)は中世の西欧における
キリスト教会の役割に注目している。また、中世の国王と封建領主の対等な権力関係に着目した研究も
ある(Ruggiero, 1927)
。
7)「手続き的民主主義」および「実質的民主主義」の定義についてはポッター(Potter, 1997)を参照。
8)フィリピンの文脈でハッチクロフト(Hutchcroft, 1998)もパトロネジ配分の「流動性」の重要性に着
目している。
9)すでにこうした研究も見られる。例えばゲインズバラ(Gainsborough, 2007)はベトナム共産党大会前
後の人事異動の分析においてパトロネジ配分という視点を持ち込んだ。
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(ふくおか・ゆうき ブリストル大学 E-mail: [email protected])
東南アジアの「民主化」分析における理論的課題
63
[書評]
西村成雄・国分良成著
『党と国家
』
─政治体制の軌跡(叢書中国的問題群 1)
杜崎群傑
Ⅰ.本書の構成と概要
強」のために中国は一貫して強権主義であっ
現代の中国の国家体制はどのように理解さ
たこと、
(3)普遍的価値への関心を示しつつ
れるべきであろうか。そして、このような国
も、
「中国的特殊性」に対するこだわりがあ
家体制はどのような歴史を経て形成されてき
るために、これが絶えず政治的強権主義や
たのか。これらの疑問に対して、結論を出す
「党国体制」の根拠となっていること、
(4)
ことは困難を極める。本書は、党と国家の関
係、特に「党国体制」を軸に、清末から現代
国際契機の重要性を挙げている。
第 1 章「
『立憲君主』から『立憲共和』へ」
中国までの政治体制を総合的に分析したもの
では、清末から中国において立憲政治が試み
であり、歴史および現代を問わず、中国の政
られたにもかかわらず、清朝も北京政府も
治制度を理解する上で極めて重要な手がかり
「政治的正統性」が得られず、共に崩壊する
1)
を提供するものであると言える 。中国の近
こととなったことを指摘している。
現代史を、1949 年革命による断絶によらず、
第 2 章「中華民国『党国体制』と『国民参
連続面から捉えなおす試みがなされるように
政会』
」では、清朝や北京政府に代わって、
2)
なって久しい 。本書はその中でも特に、為
「正統性」の受け皿となったのが中国国民党
政者による「富強」の実現と「正統性」の調
(以下、国民党)であったと論じた。国民党は
達、これに基づく党による「代行」政治とい
孫文の「三民主義」構想の下、
「中華民国訓
う連続面を捉えた上で、国家、政府と党の一
政時期約法」によって、
「正統性」を調達し
体化構造(これを本書では「党国体制」と規定し
ていった。しかし、その後日中戦争が勃発す
ている)が一貫して継続してきたことを論じ
ると、強い政府によって軍事的に敵国に対抗
ている。本書が近年注目されている、中国の
しなければならなくなった。この過程で権力
「国民国家」化の議論を視野に入れているこ
の集権化が進められるが、一方で国民政府の
とは言うまでもない。
本書の構成は以下の通りである。
「政治的正統性」を担保し続けるためにも、
「国民参政会」を通した民意調達を必要とし
「はじめに─ 20 世紀中国政治体制論の試
ていった。これが「憲政運動」に発展し、国
み」では、20 世紀中国の共通性として、
(1)
民参政会が「正統性」を調達していくことと
「富強」つまり豊かさ(近代化)と強さの同時
なる。また、中国共産党(以下、共産党)の登
追求が一貫した目標であったこと、
(2)
「富
場と、同党による「連合政府」の主張により、
64
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
新たな政治的磁場が生じ、国民党との「正統
るとする正統性原理が埋め込まれて」おり、
性」の相克が生じていくこととなったとして
党は「国民や人民の政治的意思を『代行』す
いる。
る組織として存在していた」ということが一
第 3 章「戦後『連合政府』をめぐる政治的
貫してきたとしている。その上で「国家を指
配当」では、
「憲法制定権力」の「正統性」
導する党の存在」をどう捉えるべきかという
をめぐる 2 つの路線(具体的には国民党による
難問に近づくために、
「政治的委任=代表関
訓政的政治支配と国民参政会および連合政府の主
係の制度的特徴を、周期的選挙による委任=
張)が対立する中で、国民党と共産党は共に
代表性と、歴史のある時点で『同意され』担
第三勢力の獲得を通し、
「正統性」をいかに
保された委任=代表制」に区分した。
「正統
獲得していくのかを重要な課題としていった
性」は「常に磨滅し流出しており、そのため
としている。最終的にこれは軍事的対立に発
政治、経済、社会、イデオロギーの各領域で
展し、共産党が「正統性」を獲得することに
の正統性の再調達が要請される」
。この時、
より、新政治協商会議へとつながっていく。
共産党の統治下においては、
「社会主義イデ
第 4 章「中国共産党支配下の党国体制」で
オロギーが常に重要な機能を果たし」
、
「社会
は、人民共和国における当初の連合政府が完
的かつイデオロギー的正統性の基盤を拡大」
全に挫折し、共産党支配下の「党国体制」へ
することによって、
「ヘゲモニー政党制」か
向かう軌跡を見た。朝鮮戦争などによる危機
ら「一党独裁へ移行」していった。その後、
的状況により、毛沢東は社会主義を推し進め
鄧小平によって再び「ヘゲモニー政党制へ回
るようになった。このような毛沢東による社
帰する指向性が示」されていったとされてい
会主義化の中で、党外のみならず党内におい
る。
ても民主が喪失していき、最終的に毛沢東を
これらの議論を受けて、最後に現在の中国
頂点とした個人の独裁体制による「党国体
の政治体制の位置づけについて、
「国家コー
制」が築き上げられていった。
ポラティズムとの類似性」を指摘している。
第 5 章「国際システムと党国体制の相克」
では、鄧小平を中心に、権力集中を是正する
Ⅱ.私なりの疑問点
措置が取られていったが、
「六四」によって
以上のように本書は、中国の政治体制を理
中国の完全なる民主化への期待は潰え、現在
解する上での極めて重要な材料を提供してお
は経済政策の成功によって民意の調達を担保
り、日本における著名な両研究者によってな
しつつ、
「国家が主体になって上から形成す
された労作と言える。他方、評者の関心は主
る」
、
「コーポラティズム」による「党国体制」
に建国期中国の政治制度に関心があり、この
が維持されていると論じた。
視点から本書の課題を、疑問点として提示し
以上を踏まえた上で、
「おわりに─ 21 世
ていきたい。
紀中国のチャレンジ」では、
「20 世紀中国の
第 1 に、本書が使用する概念の 1 つの「正
政治的変動には、国民あるいは人民から政治
統性」についてである。本書では「正統性」
的委任を負託された、授権されたとする党に
が一貫して論じられているが、ではどの時点
よって、その政治的意思が代表され行使され
から、どのようにすれば、その政権は「正統
書評/西村成雄・国分良成著『党と国家─政治体制の軌跡(叢書中国的問題群 1)
』
65
性」を調達したと言えるのか、さらに、本書
た後の米中接近も同一線上で考えることがで
でも論じられているように、建国後中国は一
きる。このような言わば国際社会からの承認
党独裁を経て、毛沢東の個人独裁へと至る
を通した「正統性」調達も、中国の政治体制
が、ではこの時点でも「正統性」を中共は必
を考える上では重要な要素であると思われる
要としていたのかどうかについては、明確に
が、本書ではこれについて触れられていな
触れられていない。
い。
これに関連して、この「正統性」について
第 2 に、
「党国体制」(あるいは本書では「政
は、本書の後半に入ると使用率が減っている
党国家」という言語も使用されている)について
ようである。これはあくまで評者が独自に数
である。
「党国体制」とは「党政一体型国家
えたところではあるが、
「党国体制」を一貫
(party-state)
」とも言われるが、本書ではこれ
して使用しているのと比べれば顕著であっ
を「党と国家の二重支配、より正確には、国
た。本書が指摘しているように、
「党国体制」
家や政府の制度や組織を媒介した形で党の意
を論じる場合、どの政権が、どのような階層
思を国家や政府に反映させる政治体制」と定
あるいは集団から、どのように「正統性」を
義している。これについては、評者も同意す
獲得したのかは極めて重要な問題であること
るが、では具体的にどのような状況になれば
は言うまでもない。仮にそうであるとすれ
これに至ったと言えるのかについては曖昧で
ば、
「正統性」を論じることは、
「党国体制」
あるように思われる。すなわち、
「党」は自
の軌跡を見る上でも重要な指標になると思わ
らの意思を国家に反映させるために、どのよ
れる。評者はこの点に注目して読んでいたの
うな手段でこれを可能としたのかということ
で、その「正統性」と「党国体制」両者の相
である。これには例えば、拙稿で示したよう
関関係について、いま少し言及していただき
に、人事の独占や、政府組織と党の融合が考
たかったところである。
えられる 。これが理解されたとき、次の問
4)
「正統性」についてはもう 1 つ触れておき
題が初めて解決されると思われる。すなわ
たいことがある。本書は、
「正統性」と言っ
ち、いつ、どの時点から「党国体制」が成立
た場合、主に国内向けの「正統性」に注目し
したのかということである。これについては
ていたが、とある政権の国家主権の強化を考
評者にとっては、まだ解明の余地があるよう
えた場合、中国国外から調達する「正統性」
に思われた。
も重要であるように思われる。クラズナー
第 3 に、本書で度々使われている「ヘゲモ
(Stephen D. Krasner) の研究にもあるように、
ニー政党制」についてである。本書でも指摘
国際的な国家の承認は 1 つの国家の主権の強
されているように、この概念はジョヴァン
3)
化にとって重要な要素となってくる 。特に
ニ・サルトーリ(Giovanni Sartori)によって区
中国建国時の国際社会は、冷戦構造がすでに
分された政党制のうちの 1 つである。サル
確定的であったために、国際的な敵視から新
トーリによれば、
「ヘゲモニー政党制」の下
国家を守るべく、共産党が様々な努力を行っ
では、
「他の政党は〈衛星政党〉
、2 次元的政
たことは疑いない。建国期の中国の場合、
党としてのみ存在することを許されて」お
「ソ連一辺倒」がそれに当たると思われ、ま
66
り、
「権力の座にある政党のヘゲモニーに対
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
しては一切の挑戦が許されていない」とされ
5)
に同意するものである。しかし、著者自身も
ている 。本書が指摘するところの、建国直
言及しているように、
「自己革新のない権力
後から中国はすでにヘゲモニー政党制であ
は時とともに正統性を流出させ、統治能力を
り、その後一党独裁に向かっていったという
磨滅させ」ているとすれば、共産党もいずれ
ことについては評者も同意する。しかし、共
は政治体制の変革を行わざるをえない時がく
産党が当初からこれを目指していたのかにつ
ると予測される。もしそうであるとすれば、
いては、ここでは再確認しておかなければな
今後の中国はどこへ向かうのか、その際「国
らないように思われる。すなわち、評者が拙
家コーポラティヴィズム」に代わる、議論な
稿でも論じたように、建国直前まで、共産党
いしは枠組みが必要とされるのではなかろう
の中でも「連合政府」か「人民民主独裁」
、
か。ただし、この点についてはむしろ両氏の
換言すればサルトーリが論じるところの、
というよりは、中国政治を分析・研究するわ
「一党優位政党制」か「ヘゲモニー政党制」
れわれ研究者全員の課題なのかもしれない。
6)
かの議論がまだ行われていた 。最終的に毛
以上のように、本書は中国における政治体
沢東のイニシアチブによって「人民民主独
制をめぐって、その問題を深く考察すること
裁」が決定付けられていくこととなるが、こ
において、実に多くのまた貴重な素材を提供
の間の転換が後の中国政治にどのような影響
している。現代の中国政治を理解するために
を及ぼしていったのかということと、さらに
は、本書のように歴史的な観点から照射する
は当時民主党派はこれをどこまで認識できて
ことは極めて重要な作業過程であり、その意
いたのか、実は彼らはあくまで「一党優位政
味で本書は我々後進・後学に貴重な一歩を踏
党制」と認識しており、これが後の共産党と
み出させたと言えよう。評者は改めて本書の
民主党派の熾烈な争いに到達してしまったの
ような議論を受けて、まだ解き明かされてい
ではないかということについては、改めて考
ない様々な課題に取り組んでいく必要を感じ
え直さなければならないように思われる。
させられた次第である。
第 4 に、総動員体制による政治制度、政治
7)
体制の影響についてである。久保亨 あるい
8)
は奥村哲・笹川裕史などの研究 にもあるよ
うに、日中戦争下あるいは朝鮮戦争下におけ
る戦時体制は、権力の一極集中を強化して
いったという意味で、中国の政治体制にとっ
て重要な要素となっていったことがすでに実
証されているが、本書ではこれについてあま
り重要視されていなかったように思われる。
最後に、
「国家コーポラティヴィズム」に
ついてである。確かに現在の中国の政治体制
を規定するのに、
「国家コーポラティヴィズ
ム」は有効であるように思われ、評者もこれ
(注)
1)なお、本書に関しては、すでに水羽信男による書
評「
『20 世紀中国』政治史─新刊 2 冊の紹介と批
評」
『アジア社会文化研究』第 11 号、2010 年 3 月、
189–194 頁がある。これも合わせて参照されたい。
2)例えば、久保亨『1949 年前後の中国』汲古書院、
2006 年など。
3)Stephen D. Krasner Power, the State, and Sovereignty:
Essays on international relations, Routledge, New York,
2009, pp. 179–210.
4)杜崎群傑「建国期の中国人民政治協商会議におけ
る中国共産党の指導権」
『アジア研究』第 56 巻第 4
号、2010 年 10 月。
5)ジョヴァンニ・サルトーリ(岡沢憲芙・川野秀之
訳)
『現代政党学─政党システム論の分析枠組み
(普及版)
』早稲田大学出版部、2000 年、222 頁。
6)杜崎群傑「中国人民政治協商会議共同綱領の再検
『現代
討─周恩来起草の草稿との比較を中心に」
書評/西村成雄・国分良成著『党と国家─政治体制の軌跡(叢書中国的問題群 1)
』
67
中国』84 号、2010 年 9 月。
7)久保亨・土田哲夫・高田幸男・井上久士『現代中
国の歴史─両岸三地 100 年のあゆみ』東京大学出
版会、2008 年。
8)奥村哲『中国の資本主義と社会主義─近現代史
像の再構成』桜井書店、2004 年、奥村哲・笹川裕
68
史『銃後の中国社会 ─日中戦争下の総動員と農
村』岩波書店、2007 年。
(岩波書店、2009 年 10 月、四六判、xiii+245 ページ、
定価 2,200 円[本体]
)
(もりさき・ぐんけつ 中央大学大学院)
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
[書評]
堀口 正著
『中国経済論』
吉冨拓人
本書は、まえがきで著者自身が述べている
第 14 章 WTO から FTA へ
ように、経済を学んだことのない人でも理解
本書のテキストとしての 1 つの特徴は、中
できることを目指した中国経済のテキストで
国経済の主要な側面をできるだけ網羅的に記
ある。中国経済というカテゴリーにくくられ
述しようとしていることにあり、それは合計
る書籍は、毎年一定数刊行されている。しか
14 章という章立ての細かさに表れている。
し、初学者向けでかつ学術的に中国経済を解
とりあげている各テーマは、比較的オーソ
説しているテキストは意外にも多くない。初
ドックスと言えるが、対中経済協力、観光開
学者向けに限らなくても、この数年来、1 冊
発、WTO から FTA へなど、本書のカバーす
で事足りるような中国経済のテキストは公刊
る範囲は広い。章立てをみると、著者が内容
されておらず、待ち望まれているなかでの出
に関してできるだけ MECE(もれがなく、かぶ
版であったといえる。
ることもなく) であろうとしていることが伝
わってくる。テキストとして、読者に対する
Ⅰ.構成と特徴
まずは、構成や形式など大枠での特徴をみ
誠実な態度であると言えるだろう。
ただし、テキストとしてテーマの取り上げ
ていきたい。章立ては以下の通りである。
方に標準があるわけではなく、著者ごとの濃
第 1 章 中国経済の概要
淡がみられるのは当然である。カテゴライズ
第 2 章 農村経済
の仕方やその構成は、著者のセンスが反映さ
第 3 章 地域格差と貧困問題
れるものであり、何を重視しようとしたかが
第 4 章 対中経済協力
みえてくる。農村経済における産業の発展や
第 5 章 人口問題
日中のものづくりの特徴、貿易構造、中国企
第 6 章 財政問題
業の国際化、WTO から FTA へなど、内外に
第 7 章 日中のものづくりの特徴
おける企業の活動に関するテーマについてや
第 8 章 戸籍制度と労働移動
や厚く取り上げているのは、著者のこれまで
第 9 章 人民元切り上げの効果
の研究の問題関心のありかがうかがえる。一
第 10 章 環境問題
方で、網羅しきれていない分野ということで
第 11 章 観光開発
敢えて挙げれば、国民生活やエネルギー問題
第 12 章 貿易構造
などへの言及は少ない。
第 13 章 中国企業の国際化
書評/?????
各章ごとに、理論と歴史・現状をバランス
69
よくおさえていることは、本書のもう 1 つの
はやや楽観的にすぎよう。
特徴といえるだろう。理論と歴史・現状は基
第 9 章の金融改革の課題については、
「金
本的に節で分かれているため、独立性が高
融システムの改革を優先的に進めながら資本
く、それぞれを別々に学ぶこともできるよう
移動の自由を徐々に緩和し、かつ変動幅を拡
になっている。たとえば、第 5 章「人口問題」
大する方向で為替制度を改革していけば、国
では、まず「一人っ子政策」を中心とする中
内経済も安定的に推移し、それが世界経済の
国の人口政策について解説し、後半では、他
安定へと寄与すると思われる」と述べてい
国の人口政策とともに、ラベンスタインのい
る。しかし、日本の 80 年代後半のバブル経
わゆる「費用・便益仮説」やベッカーの合理
済、1997 年のアジア通貨危機など、金融自
的選択の理論、人口ボーナス等、経済学的人
由化の過程で大きな変動を経験した国も多
口論をわかりやすく紹介している。また、第
い。中国もこれらの他国の経験を踏まえて金
12 章「貿易構造」では、前半で貿易額や交
融自由化、為替相場変動幅の拡大には慎重な
易条件などのデータを示しながら中国の貿易
姿勢を崩していない。このような楽観的な見
の変遷や現状が示され、後半で IS バランス
通しを述べるからには、それなりの根拠を示
論、比較生産費説、ヘクシャー=オーリンの
す必要があったのではないか。
定理、プロダクト・ライフサイクル理論など
第 9 章では中国の不動産市場についても論
の理論が説明されている。ここでは理論だけ
じている。日本も中国も自国通貨の増価を防
ではなく、中国の現状の説明がかみあい、非
ぐために通貨が過剰になった点は共通してい
常に理解しやすい内容となっている。
るが、中国では「現在までのところ、かつて
の日本ほどのバブルは発生していない」との
Ⅱ.個別の論点
見解を示している。しかし、バブル期の日本
全体として各章の分析では既存研究の紹介
と中国の現状との相違点については明確では
が中心で、著者の主張は控えめであるが、各
なく、日本ほどのバブルが発生していないと
章の「おわりに」において、若干の提言や見
の判断基準も示されていない。資産市場の動
通しを述べている。ただし、その提言や見通
向は、中国経済の今後を左右する重要な論点
しに至るまでの道筋は必ずしも明確ではな
の 1 つであり、根拠を提示することなく断定
く、唐突感のある提言がいくつかみられた。
できるほど単純な問題ではないはずである。
たとえば、第 8 章の戸籍制度改革に関する
中国経済は、日本と同じようにバブルが崩壊
記述のまとめで、
「中国において人口の移動
することによって高度成長にストップがかか
制限が緩和されていけば、内需の拡大を伴う
るとの議論もある。著者が分析の対象とした
都市化が促進され、持続的な経済発展が可能
のは 2008 年までの状況と思われるが、中国
になるであろう」というが、都市化に伴い、
はリーマンショックに始まる世界同時不況か
飲料水、交通、電力などインフラへのプレッ
らいち早く回復し、積極的な財政政策や世界
シャーが強まるほか、戸籍制度を撤廃するこ
的な金融緩和の中で 2009 年には再び不動産
とにより教育や社会保障等における財政負担
価格が急上昇した。2010 年からの金融引き
が増加することは明らかであり、著者の見解
締めや数度にわたる不動産価格抑制策により
70
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
2011 年前半の不動産価格はやや落ち着いて
んと回収してほしいところであるが、その答
いるが、これらの一連の動きはファンダメン
えは読者に委ねたということなのだろうか。
タルズと乖離したバブルといえるのかどうか
疑問が残る。
非常に気になるところである。
第 12 章では日中貿易についても解説して
テキストの作り方は、大きく言えば 2 つあ
ると思われる。1 つは、
「大きなストーリー」
いるが、データは日本の財務省の貿易統計に
を提示することを重視するタイプ、もう 1 つ
よっており、日本が赤字であることが指摘さ
は、
「大きなストーリー」は控えめに、
「小さ
れているのみである。しかし、よく知られた
なストーリー」を積み上げていくタイプであ
事実だが、中国側の統計では対日貿易収支は
る。
中国の赤字となる。貿易統計では、輸出額は
著者は前述した問題意識をもとに「大きな
FOB、輸入額は CIF と異なる価格で計上され
ストーリー」を描こうとしているのだろうと
ているため、輸入額が高めとなり、2 国間の
読者は思うだろう。しかし、本書は、どちら
貿易統計は一致しないのが一般的である。さ
かといえば、後者の「小さなストーリー」に
らに中国の場合は、香港の中継貿易が大きな
重点を置くタイプのテキストだと言えるだろ
割合を占めるため、日中の統計だけでは日中
う。もちろん、移行経済論、漸進主義の改革
間の貿易の実態を把握することはできない。
など、
「大きなストーリー」に基づく経済発
輸入は原産地主義、輸出は仕向地主義でカウ
展の要因についての記述はあるが、それは第
ントされるため、香港経由の輸入のみがカウ
1 章の中で完結しており、全体としては各章
ントされて両国ともに赤字になりやすい。香
ごとの「小さなストーリー」を提示していく
港を含めようとすると、説明が煩雑になり、
ことに専念している印象である。
初学者には不要のテクニカルな問題であると
初学者のためのテキストとしてどちらのタ
判断したのかもしれないが、説明不足の感は
イプがよいのか、賛否両論があるだろう。そ
否めない。
もそもどちらがよいというわけでもないのか
もしれない。
「大きなストーリー」を重視すれ
Ⅲ.総論
ば、読者が中国経済の大きな流れと今後の見
本書のまえがきに戻ると、著者の問題意識
通しをイメージしやすくなるが、1 つの見方
は、
「中国は『固い文化なのか』
『柔らかい文
に頼るリスクと、そもそもテキスト全体を
化なのか』
、中国経済をみることで、何を学
「大きなストーリー」でまとめあげるためにあ
ぶことができるのか」という点にあるとい
る程度の「力技」が必要になるだろう。
「小さ
う。しかしこの「固い文化」
「柔らかい文化」
なストーリー」は、それぞれのテーマごとに
が何を指すのかについて説明はなく、本文中
それなりに自己完結する結論が得られるが、
で触れた形跡は見当たらない。また、
「中国
では中国経済全体を見渡そうという時に、は
経済をみることで、何を学ぶことができるの
たとゆきづまってしまう可能性が高い。
か」という点についても、それに対応するよ
本書は、テーマごとに提言や見通しが示さ
うな回答は見当たらない。問題提起したから
れており、それらを総合すれば著者のイメー
には、読者が消化不良に陥らないようにきち
ジはある程度伝わってくるが、著者の全体の
書評/堀口 正著『中国経済論』
71
見通しに関するまとまった記述はない。大き
は間違いない。初学者向けという制約がある
な見通しを得たいと思っている読者にとって
なかで、万人が納得するようなテキストをつ
は、やや物足りない印象を与えるだろう。ま
くるのは至難の業であるが、中国経済テキス
た、さまざまな理論による中国経済の分析の
トのスタンダードとして改訂を重ねることを
過程で、中国は経済理論に当てはまる「普
期待したい。
通」の国なのか、それとも「特殊」な国なの
か、いわゆる中国の独自性と普遍性の問題に
(なお本稿における考えや意見などは筆者の個
ついて、著者の見解を知りたいところであ
人的見解であり、所属する組織の見解を反映する
る。あとがきにでも、それらを総括した記述
ものではありません)
があれば、読者のイメージづくりに役に立っ
たのではないだろうか。
ともあれ、本書が初学者向けのテキストと
して、汎用性が高く、非常に有用であること
72
(世界思想社、2010 年 5 月、四六判、
viii+319 ページ、定価 2,200 円[本体]
)
(よしとみ・たくと 外務省中国・モンゴル課
日中経済室任期付職員)
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
[書評]
横川信治・板垣 博編
『中国とインドの経済発展の衝撃』
小島 眞
Ⅰ 本書の狙いと構成
ちなみに本書は、次の 8 章から構成されて
西洋列強の進出に伴い、長らく経済的停滞
いる。中国、インド両国の経済発展をいかに
を余儀なくされてきたインド、中国の両国は
捉えるべきか、その総論を構成しているのが
ともに 1980 年代以降、経済的台頭を開始す
第 1 章、第 2 章である。さらに各論として、
るとともに、目下、トップ 1、2 位を占める
第 3 章から第 8 章までは中国、インドに関す
速やかな経済成長を続けており、リーマン・
る事例研究が収録されている。
ショック後の世界経済を牽引する存在になっ
第1章
ている。とりわけ注目されるのは、ともに
12 〜 13 億を超える巨大人口を擁する両国が
信治)
第2章
グローバリゼーションの潮流を追い風としな
がら顕著な台頭を示してきたという事実であ
中国とインドの工業化の衝撃(横川
中国とインドの再台頭―先進国へ
の衝撃(ボブ・ローソン)
第3章
中国経済発展の最近の特徴と日本経
済に与える影響について(苑志佳)
り、東洋文明の両雄としての中国、インド両
国の復権は、まさに世界の経済地図を塗り替
第4章
日本企業 in 中国(板垣博)
える文明史的な出来事であるということであ
第5章
グローバル化とインドの経済自由化
る。
本書では、こうした中国、インド両国の経
(二階堂有子)
第6章
チャー―展望と課題(大野早苗)
済発展をいかに捉えたらよいのか、それに対
して意欲的に取り組んだ学問的成果が収録さ
東アジアに関する金融アーキテク
第7章
国際金融危機・金融システムのグ
れている。評者は、インド経済を専攻する者
ローバル化と中国―機関投資家の
であるが、インド経済の台頭を理解するため
変貌(丸淳子)
にも中国、インド両国の比較研究の重要性を
第8章
グローバル金融恐慌:発展途上国と
痛感しており、本書刊行の意義は極めて大き
インド(ジョッティ・ゴーシュ、C. P.
いものと考えている。本書は、武蔵大学教授
チャンドラシェーカー)
陣を中核として、市民向けに開催された武蔵
大学イブニングスクールでの講演内容をベー
Ⅱ 各章の概要
スにした論文を中心に編纂されたものであ
第 1 章では、先進国、発展途上国の別な
り、それに加えて世界で活躍する研究者から
く、経済発展の大きな流れは動態的比較優位
の寄稿論文も収録されている。
論の枠組みで説明できるとの議論を展開した
書評/?????
73
上で、中国、インド両国の工業化はキャッチ
る。先進国にとってのもう 1 つの損失は、両
アップ型の既存の後発型発展の枠組みでは収
国への生産拠点の移転である。それが大規模
まらず、研究の枠組みそれ自体の再検討が求
ではない場合でも、移転の可能性それ自体、
められていることが示唆されている。雁行形
労働者の賃金引き下げへの交渉材料になる。
態論は、第 1 形態(輸入⇒国内生産⇒輸出)、第
今後、両国の成長が先進国にどれほど損失を
2 形態(産業構造の高度化)、さらには第 3 形態
与えるかは不確かではあるものの、特定の小
(国際的波及) から構成されるが、中国の場
集団に有害な構造変化を引き起こすことは必
合、直接投資による生産工程全体の産業移植
至であり、人道的な方法でいかに対応するか
が促されたため、繊維産業、機械産業、最先
が最大の課題であるとしている。
端分野を含む多分野での工業化が同時進行
第 3 章では、時系列、国際比較による中国
し、雁行型発展の第 2 形態を取っていない。
経済の目覚ましい達成状況、さらには産業構
また労働集約的分野での中国製品の優位性は
造、企業構造、労働環境、通貨政策など中国
より遅れた発展途上国の雁行型発展を阻んで
経済の最新の構造変化がヴィヴィッドに示さ
おり、元の為替レート切り下げと相まって、
れている。労働環境面では近年、労働賃金が
ASEAN 諸国を通貨危機に追いやることにも
急上昇し、労働者に有利な社会政策が採用さ
なった。環太平洋経済圏では、すでに貿易の
れていること、また通貨政策面では元の国際
流れは日本を中心とする三角貿易から中国を
化に向けて兌換性や元建て債券市場の育成に
中心とする多角貿易へと変化するようになっ
課題が残されていることが論じられている。
た。ただし、中国の台頭は覇権国の交代を伴
1990 年代末以降、中国は成熟 NIES 型貿易構
う資本主義世界システムの危機につながって
造に進化したことに伴い、日中両国はそれぞ
いるわけではないとしている。
れ高付加価値、中・低付加価値の工業製品を
第 2 章では、しっかりとした経済学的裏付
輸出するという水平分業パターンに基づい
けを持たせながら、中国、インドの再台頭が
て、それぞれ質的向上を伴いながら、貿易額
先進国にいかなる影響を及ぼすのか、周到か
をさらに引き上げる可能性を持っている。そ
つ視野の広い議論が展開されている。収束方
のため中国経済の目覚ましいパフォーマンス
程式に基づいて、2050 年までに両国の GDP
は日本経済にとって頼りとすべき柱の 1 つに
は米国に匹敵するか、追い越すとの予測がな
なっているが、他方では日本企業の対中直接
され、世界は一極集中から多極分散に移行す
投資では、中国側の受け入れ状況変化に対応
るとしている。特にインドの場合、人口が若
すべく、業種の再編が不可避となっている。
く、IT に強みがあるということは、今後の発
また、迅速な行動力をもって先進国企業と互
展にとって有利であるとしている。中国、イ
角に競争力できる中国企業が台頭し、東南ア
ンド両国が豊かになれば、労働集約的商品の
ジアなど世界市場において日本企業のライバ
相対価格の上昇、燃料・鉱物価格の高騰を通
ルになりつつあることが指摘されている。
じて、先進国の交易条件は不可避的に悪化す
第 4 章では、電機・電子産業、自動車産業
ることになるが、長期的に振り分けられれ
を取り上げながら、日本企業を取り巻く中国
ば、劇的な変化を回避することが可能であ
市場での競争関係、さらには人事管理上の問
74
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
題が検討されている。カラーテレビ、薄型テ
成長」が見られたとしている。他方、サービ
レビ、白物家電ではすでに有力地場企業が大
ス部門の場合、その成長を牽引したのは外需
きなシェアを握っているものの、基幹部品は
に依存した IT 産業(ソフトウェア開発やビジネ
日本企業からの供給に仰いでいる。そのため
スサービス) ではなく、卸売・小売業、ホテ
中国企業は製品面で差別化を図ることが困難
ル・レストランや公共サービスであるとし、
であり、いきおい大量生産によるコスト削減
そもそもサービス部門の成長それ自体を過大
や値下げ競争に走らざるを得なくなってい
評価することには慎重な姿勢が示されてい
る。また自動車産業では民族系メーカーは躍
る。
進著しいものがあるが、基幹部品や設計の外
第 6 章では、アジア諸国の経験に照らして
注依存度が高く、開発力は依然として弱いと
国際金融のトリレンマと通貨制度の問題を論
される。日本企業の強みは多品種小ロットに
じた上で、厳格な資本規制を維持したために
あるが、それを発揮するためにはジャスト・
アジア通貨危機の影響を免れることができた
イン・タイム、単品管理、全社的品質管理な
中国に注目し、今後、海外資本取引の自由化
どが前提とされ、そこには目に見えないチー
が進むに伴い、中国が直面するであろう問題
ムワークが求められる。しかしながら中国で
や危機を未然に防ぐための対策、さらにはア
は仕事を明確に定義し、そこに人を配置する
ジア通貨制度の行方について検討している。
トップダウン方式の米国流の方が理解されや
目下、中国では改革の順序(sequencing)に基
すいため、日本企業は人事管理面で苦戦を強
づいて資本規制が徐々に緩和される一方、資
いられており、経営者の現地化も遅れてい
本規制を無効化する金融サービス貿易の自由
る。日本企業の組織や戦略を理解し、組織全
化も進行しつつある。他方、通貨価値の安定
体を活性化できる現地人材のキーパーソンの
性については、事実上のドル・ペッグ制が維
育成が急務であるとしている。
持された状況にある。海外資本取引の自由化
第 5 章では、独立後インドの混合経済体制
が進めば、国際金融のトリレンマからして、
の形成から経済自由化にいたる経済発展の長
独立した金融政策を放棄するか、為替レート
期動向や産業政策の展開について論述した上
の変動性を容認するか、そのいずれかとな
で、グローバリゼーションの下で進められた
る。アジアでのプレゼンスの大きさからし
経済自由化が経済発展に与えた影響について
て、中国の為替政策が周辺国にとって不安定
検討されている。1990 年代以降、インドは
要因になる可能性が高い。アジア通貨単位
速やかな経済成長を実現したが、東アジア諸
(AMU) の導入はそうした弊害を回避すると
国の場合とは異なり、労働集約的な工業製品
ともに、域内社債市場の育成や域内金融取引
輸出が牽引したものではなく、その源泉は内
の活発化、さらには地域統合の発展にとって
需とサービス部門に求められるとしている。
期待できるとしている。
製造業の場合、全要素生産性(TFP) の動向
第 7 章では、証券市場の拡大、グローバル
から判断して企業の生産性向上は確認できな
化に多大な役割を果たしてきた海外機関投資
いこと、また労働市場の柔軟性の欠如を反映
家の存在に注目しつつ、国有企業が支配的な
して、組織部門の雇用減少を伴う「雇用なき
中国証券市場のグローバル化の実態とそこで
書評/横川信治・板垣 博編『中国とインドの経済発展の衝撃』
75
の課題が論じられている。中国で証券市場が
農産物価格の安定化、公的流通制度の充実、
登場したのは社会主義市場経済の導入を契機
貿易・資本勘定の厳格な管理など統制色の強
としている。中国では機関投資家として投資
い政策が提案されている。
信託(基金管理会社) が 1991 年に設立され、
他に保険会社、年金もその役割を果たしてい
Ⅲ 評価と課題
る。2001 年の WTO 加盟に伴い、証券市場改
中国、インド両国は、それぞれ世界の一大
革が加速するようになり、2002 年には投資
文明の担い手であるとともに、19 世紀初め
限度額内での海外機関投資家(適格外国機関投
までは世界の GDP の過半数を占めていた地
資家) の国内証券市場への投資が解禁され
域である。1980 年代以降、グローバリゼー
た。他方、最近の中国の機関投資家の動向で
ションの時代が強まる中で、両国は目覚まし
特に注目されるのは、急増した外貨の運用と
い成長を開始するようになったが、それはま
いう国家戦略を背景として、積極的な海外投
さに両国の再台頭を意味するものであり、既
資が展開されていることである。2007 年に
存の後発型発展モデルでは容易に捉えきれな
は有力な政府系ファンドである中国投資有限
いものであることは明らかである。しかもそ
責任公司(CIC) が設立されたが、その投資
の巨大な経済的規模を考慮すれば、両国の発
政策は公表されていない。本来、機関投資家
展が世界経済に与えるインパクトは質量とも
であれば純粋に収益志向のはずであるが、大
に甚大なものであることが予想される。
規模な対外 M & A が国家戦略であれば、そ
並はずれた規模と多様性を持つ中国、イン
の行動は価格形成機能から逸脱する危険性が
ド両国を同時に睨みながら、その経済発展に
あり、市場を維持していく上での透明性が問
迫ろうとすること自体、それは容易ならざる
われるとの懸念が提示されている。
ことではあるが、そうした中国、インドの台
第 8 章では、インドの衝撃がテーマになっ
頭を考える上で、貴重な手掛かりを与えてく
ているものの、それは意外にもグローバル金
れるのが本書である。とりわけ本書の中で注
融危機が発展途上国、さらにはインドに与え
目されるのは、総論を構成する第 1 章と第 2
た衝撃についてのものである。グローバル金
章である。そこでは新たな分析的枠組みの構
融危機は中国、インドもその影響から免れる
築を目指しつつ、知的刺激に満ちた意欲的な
ことができなかったということで、デカップ
議論が展開されている。第 1 章では中国、イ
リング論の限界、さらには新自由主義モデル
ンド両国の台頭は既存の後発型発展モデルの
の破綻が露呈されたとしている。インドの経
枠組みでは収まらないということで、動態的
済成長は法人利潤の拡大に基づいた「富裕層
比較優位論に基づいた新たな枠組みの構築が
のブーム」によるもので、それはすでに限界
示唆されている。今後、そうした枠組みの中
に達しており、グローバル金融危機の下で工
で、中国、インド両国の経済発展の特徴をい
業、サービスの労働者の実質賃金が減少を余
かに浮かび上がらせることができるのか、さ
儀なくされたとしている。インドでの成長を
らなる研究の進展が期待される。また第 2 章
持続可能なものにする代替政策として、大衆
では、中国、インド両国の経済発展、あるい
消費拡大のための賃金主導型成長、さらには
は先進国への衝撃について、今後の見通しも
76
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
含めて、幅広い視野から説得的な議論が展開
通じて確実に技術力をアップさせているとと
されている。また、中国、インド両国は将来
もに、世界的に需要拡大が予想される低コス
的にアメリカの世界的支配に挑戦する経済力
ト車や電気自動車の分野では、今後中国の自
を持つ大国になるという見方だけではなく、
動車メーカーが優位性を発揮できる可能性が
他方ではリカードの比較優位説あるいは実質
大きいのはないだろうか。
為替相場による調整作用といった国際経済学
第 6 章では国際金融のトリレンマの視点に
からの冷徹な視点も提示されており、単なる
基づいて、事実上のドル・ペックが維持され
脅威論ではない、バランスのとれた議論に
てきた中国の為替政策の今後の方向性と周辺
なっている。興味深いのは、第 1 章、第 2 章
国への影響について論じられている。さらに
の双方においてボーモルのコスト病と賃金の
第 7 章では機関投資家をキーワードとして中
ラチェット効果が期せずして言及され、中
国の証券市場化に注目しつつ、近年、顕著に
国、インドの台頭について地に足のついた手
拡大しつつある中国の機関投資家の海外
堅い議論が展開されていることである。
M&A に対して市場の透明性確保の観点から
本書では各論として、中国の事例について
疑問が投げかけられている。いずれとも国際
の論文が 4 編、インドの事例についての論文
比較の視点から豊富なデータを駆使しつつ、
が 2 編それぞれ収録されている。中国の事例
専門性の高い議論が展開されており、中国の
については、いずれも専門的観点から中国の
影響力が確実に高まっていることが浮き彫り
躍進振りとその対外的影響が鮮明に論じられ
にされている。惜しむらくは、いずれともイ
ている。このうち第 3 章、第 4 章では、中国
ンドとの比較の議論が見当たらないことであ
の台頭に伴う日本の製造業への影響が論じら
る。変動相場制に基づいて、インドの為替
れている。中国は基幹部品の供給を日本に仰
レートは完全に市場レートに移行しており、
いでいるため、中国の経済発展は高度な水平
また株式市場も中国に比べて透明度の高いも
貿易に基づく日本企業の中国向け輸出の拡大
のになっており、市場経済化という点ではイ
が期待できる一方、より付加価値の高い分野
ンドは中国に比べて数段先に行っているはず
で中国企業の競争力が強化される傾向にあ
である。無い物ねだりになるのであろうが、
り、そのため中国市場や東南アジアで日中間
そうしたインドとの比較からの議論が多少と
の企業間競争が厳しさを増す可能性が高いこ
も展開されていれば、錦上花を添えることに
とが示唆されており、大筋において異論のな
なったはずである。
いところである。ちなみに自動車産業につい
さらに各論として、インドの事例について
て、第 4 章では中国企業はモノづくり力が要
の 2 編の論文が収録されている。それぞれ筋
求される乗用車生産には不適切であり、先進
の通ったインド経済論として評価できる面が
国の自動車メーカー並みの技術を身につける
あるとしても、本書の意図するインドの経済
のは容易ではないとの見解が提示されている
発展の衝撃を説明するものとしては、いずれ
が、果たして今後ともそうなのであろうか。
も物足らなさと若干の戸惑いを抱かせるもの
世界最大の国内乗用車市場を背景に中国の
がある。1990 年代以降、インド経済が目覚
メーカーは日本や欧米のメーカーとの合弁を
ましい持続的成長を遂げていることは誰しも
書評/横川信治・板垣 博編『中国とインドの経済発展の衝撃』
77
が否定しようのない事実である。しかし第 5
行するものであり、インドの経済発展に真正
章では、インド経済の牽引役として重要な役
面から向き合った論調とはいえないように思
割を果たした IT 産業、さらには近年の製造
われる。
業の台頭について必ずしも正当な評価が与え
本書の各論において、中国に比べてインド
られていないため、インド経済の台頭を説明
の事例についての論述がややネガティブなも
するものとしては迫力を欠いたものになって
のに偏向しているという印象を与えるもの
いる。さらに率直にいって、少なからず違和
の、中国、インド両国を睨んだ研究書とし
感を覚えたのが第 8 章の論文である。すでに
て、本書の内容は極めて刺激的であり、その
インドでは中間層が大きな広がりを見せてい
パイオニア的な価値は高く評価される。本書
るにもかかわらず、その経済成長を「富裕層
は両国の台頭に関心を抱く多くの人々にとっ
のブーム」によるものと断定し、労働者の実
て必読の書であり、新たな視角からのアジア
質賃金が減少しているという事実認識はイン
経済論としても幅広く読まれることを切望し
ド経済の実態を正しく反映しているものとは
ている。
思えず、評者としても理解に苦しむものであ
る。また持続的成長のための代替政策が提案
(御茶の水書房、2010 年 3 月、A5 判、280 ページ、
定価 3,200 円[本体]
)
されているが、いずれも 1990 年代以降のグ
(こじま・まこと 拓殖大学)
ローバリゼーションと経済自由化の潮流に逆
78
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
[書評]
川田敦相著
『メコン広域経済圏
―インフラ整備で一体開発』
藤村 学
本書が対象とするメコン広域経済圏は一般
本書はまず第 1 章でメコン広域経済圏が注
に Greater Mekong Subregion(GMS)と呼ばれ
目を浴びるようになった歴史的・制度的背景
る大陸部東南アジア地域で、カンボジア、ラ
および様々な経済協力スキームを概観し、第
オス、ミャンマー、ベトナム、およびタイの
2 章 で 国 別 に 道 路、 鉄 道、 港 湾、 空 港、 橋
ASEAN5 カ国に、中国の雲南省と広西チワン
梁、工業団地、特別経済区などのインフラ開
族自治区を加えた 7 カ国・地域を指す。GMS
発の最新状況を紹介し、第 3 章ではそのよう
という名称はアジア開発銀行のイニシャティ
なインフラ整備に誘発された域内企業や日本
ブで 1992 年に正式に発足した多国間経済協
企業の事業展開を紹介している。第 4 章では
力スキームが発祥である。GMS に関しては
9 つの「経済回廊」において深化する域内経
近年、アジア開発銀行による多国間協力だけ
済統合の様子を描写し、さらに域外、特にイ
でなく、中国、タイおよびベトナムによるカ
ンドとの経済関係強化に言及している。最終
ンボジア、ラオスおよびミャンマーに対する
章の第 5 章ではメコン地域へ進出している日
2 国間ベースの域内経済協力スキームも増え
系企業の視点から、今後の事業戦略と同地域
ている。日本政府も国際協力銀行 (JBIC) や
でのビジネスニーズをまとめている。
国際協力機構(JICA)を通じて同地域を支援
してきており、2009 年には経済産業省が日
評者のように国境を越える広域インフラの
本の産業界を巻き込んだ「日メコン経済産業
経済効果を研究する者にとっては、本書は投
協力イニシャティブ」を打ち出し、輸送・物
資誘発効果の豊富な事例を提供し、特定地域
流インフラの整備や貿易円滑化を後押しして
に関心のあるビジネスマンにとっては最新の
いる。アジア開発銀行がこの地域を「サブ
投資環境情報を提供してくれる。特に進出日
リージョン」と命名したのはアジア太平洋地
系企業の生の情報やコメントが多数引用され
域(リージョン) のなかの一部分という位置
ており、ジェトロ調査の成果が反映されてい
づけであるためであるが、本書の意気込みと
る。日本からはなかなか見えにくい、在タイ
しては、重要性を増すこの地域がもはや「サ
日系企業や在ベトナム日系企業による、カン
ブ」として捉える段階を越えた実態を示そう
ボジア、ラオス、ミャンマーへの事業展開の
とするものである。
紹介は大いに参考になる。中国リスクを考慮
した「チャイナ・プラスワン」というだけで
書評/?????
79
なく、メコン地域内での「タイ・プラスワ
スも 1 人あたり名目 GDP が 750 ドルを超え、
ン」
、
「ベトナム・プラスワン」といった動き
都市部では中間層が出現し、最貧国から脱出
も見られる。物流に関して詳細な情報も有益
する展望が見えてきた。このようなダイナ
である。例えば、バンコクからラオス経由で
ミックに変化する地域が、中国とインドとい
ハノイまで物資を輸送しようとする場合、メ
う 2 大再興国の中間に位置するという地政学
コン川渡航とラオス国内にいくつか代替ルー
的重要性もあり、域内の経済統合がすなわち
トがあるが、経由地ごとの走行距離や所要時
アジア全体の経済統合に貢献すると考えられ
間の比較などは興味深い。
る。近年、国際経済学や経済地理学の分野
で、いわゆる「貿易コスト」を対象とする研
本書は日本貿易振興機構(ジェトロ) に勤
究蓄積が進み、関税や非関税障壁といった制
務する著者が、バンコクをベースにメコン地
度上のコストだけでなく、輸送・物流の物理
域を精力的に現地調査して収集した鮮度の高
的コストを削減することが、国境を超える経
い情報を、自らの撮影による写真や自作の地
済統合の進展や各国の経済発展にとって決定
図などを効果的に用いつつまとめた労作であ
的に重要であることが実証されてきた。輸
る。対象地域が広いだけに、通常であれば大
送・物流コストを削減することは、グローバ
勢の調査チームを組んで数冊分の報告書にも
ル企業による生産工程分業や製品間国際分業
なりそうなテーマであるため、1 冊の本です
を容易にするため、域内相互直接投資も促進
べてを詳しく扱うのは不可能であろう。その
し、ひいては貿易と投資の相互作用をエンジ
ため、広く浅く扱わざるを得なかったと思わ
ンとした域内経済統合を進展させている。メ
れる箇所も多いが、このように「旬な」情報
コン広域経済圏はこのような現象が顕著に進
を、単独でここまでまとめたことは賞賛に値
行している地域であり、経済統合を研究する
し、著者の真摯な意気込みが感じられる。
者にとってこの地域は豊富な材料を提供する。
人口 3 億 3,000 万人ほどを抱えるメコン広
評者もメコン地域の経済回廊を頻繁に視察
域経済圏は、タイを除いてすべて何らかの計
しているが、陸上輸送インフラ整備とそれに
画経済下におかれていたが、1980 年代以降
伴うここ数年の域内貿易や経済統合の進展は
徐々に経済を自由化し市場原理を取り入れて
目ざましい。メコン地域は市場規模、資源賦
きた成果が、ミャンマーを例外として、はっ
存、産業集積、技術力など様々な面で多様で
きりと出始めている。特に雲南省と広西チワ
あり、お互いの経済補完性が大きいため、
ン族自治区は中国全体と歩調を合わせるよう
ハード・ソフト両面でのインフラが整えば、
に急成長し、1 人あたり GDP は名目で 2,000
経済統合が一気に進む可能性を秘めている。
米ドルを超えた。ベトナムも改革開放化に伴
メコン地域が様々な戦争・紛争によって分断
い、長い海岸線をもつ地理的好条件と外国直
されていたことを考えれば、1990 年代半ば
接投資流入のおかげで工業化が進展し、1 人
からはまさに「戦場から市場へ」と変貌して
あたり名目 GDP は 1,000 米ドルを超え、最貧
いる。かつては「黄金の三角地帯」と呼ば
国から脱出したといえる。カンボジアとラオ
れ、世界有数の麻薬産地であった雲南省・
80
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
ミャンマー・タイ・ラオスの国境が接近する
的にこの地域の経済統合と発展に関わるべき
地帯も、今では他の商品作物や工業製品が行
だろう。
き交う回廊であり、また平和な観光ルートに
変身した。この地域の住民がようやく平和の
紙面の制約や、研究書というよりは実務書
配当を受け取る時代が来たのである。カンボ
という性格から、本書の中身の「賞味期限」
ジ ア、 ラ オ ス、 ミ ャ ン マ ー と い っ た 後 発
というものはあろうが、経済統合の最前線で
ASEAN 諸国では、日本企業がしばしば投資
起きている現実を俯瞰するには有用な本だと
に二の足を踏む中で、中国、韓国、タイ、台
思う。本書に限らず、ジェトロの海外ネット
湾といった、他のアジア諸国出身の企業のプ
ワークをベースにしたタイムリーな発信に今
レゼンスが目立ち、この地域の経済緊密化を
後も期待したい。
リードしているように思われる。ダイナミッ
クに動く経済ではダイナミックな決断が要求
(勁草書房、2011 年 4 月、A5 判、232 ページ、
定価 3,700 円[本体]
)
されるためであろう。日本も援助中心の官主
(ふじむら・まなぶ 青山学院大学)
導ではなく、民主導あるいは官民協働で積極
書評/川田敦相著『メコン広域経済圏―インフラ整備で一体開発』
81
[書評]
Robert Taylor
『The State in Myanmar』
熊田 徹
本書は、指導的なミャンマー近 ・ 現代政治
ヴァード国際開発研究所およびブルッキング
史研究者の 1 人であるテイラーが、1987 年の
ズ研究所が共同出版した論文集『ビルマ:民
旧著『ビルマにおける国家』に、その後 2008
主化の展望』において、制裁派の指導的研究
年までの 20 年間を追加した増補改訂版であ
者である J. シルヴァースタインの議論を「史
る。
「国家」とそれ以外の諸制度とからなる
実の書き換え」として手厳しく批判してい
「社会」との相互作用関係を歴史的背景と照
た。同書では制裁派は少数説だったが、その
合しつつ分析する J.S. ファーニヴァル譲りの
後も J. H. バッジリー(2004 年)、D. スタイン
旧著での認識枠組は、本書でも引き継がれて
バーグ(2006 年)ら半世紀以上のミャンマー
いる。最大の注目点は、1988 年の軍事クー
研究歴をもつ碩学達や、米国の大学卒業直後
デターを 1962 年クーデター同様、国軍対社
の一時期ビルマ民主化の運動家として活躍し
会諸グループとの正統性抗争事件として捉え
た後に母国の政治史研究に転じたタン・ミン
たうえで、政治的正統性を国軍(軍政) に帰
ウ(2006 年) なども、制裁誤謬論を展開して
する点にある。同国現代史において反中央権
いる。だから刺激的といっても、本書の論旨
力的な社会グループの動きが二度にわたって
はなんら特異ではなく有力学説の 1 つなので
「国家秩序」を崩壊させかけたが、いずれに
あり、その価値は、現地での聞き取り調査な
おいても国軍のクーデターがこれを排して国
どの新知見をちりばめた事実関係の整理を通
家秩序を維持回復した、というのである。
じて、制裁論の誤謬を正している点にある。
周知のとおり、欧米やわが国の一部研究者
を含め国際社会の多数世論は、1988 年クー
だが、残念ながら、個々の史実のとりまと
デターを民主化要求運動への許しがたい人権
め方が煩瑣で、しばしば用いられる間接的な
抑圧とみなしており、米欧諸国政府は対同国
いしレトリック的叙述などあいまいな面もあ
軍政制裁政策を実行し、国連安保理も取り上
るため、読者の予備知識如何によっては、論
げてきた。2010 年末の新憲法に基づく選挙
旨展開が明快を欠くかもしれない。一般の読
実施以降、同国民主化の行方が注目されてい
者にとっては隔靴掻痒というか、おそらく難
る今日、単なる学説上の対立や混乱を超えて
解だろう。いずれにせよ評者の目で見ると、
欧米の公式政策を事実上否定する本書の所論
この煩瑣・難解の責任は著者というよりは、
は刺激的といえよう。
ミャンマー国家社会とその政治構造自体が内
実は著者は、1998 年に世界平和基金とハー
82
包する複雑性に帰すべきで、それは次の 2 つ
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
の基本的要素に由来する。
公聴会記録は、1988 年 9 月クーデター前後の
第 1 は、ファーニヴァルが分析した植民地
米国の対ミャンマー介入は当初から確立し
遺制的な多民族「複合社会」構造ゆえの、民
た公式政策だったのではなく、国務省政務局
族間の乖離・対立関係という宿命的脆弱性で
は「人道介入」に強く反対していたことを明
ある。第二次大戦中の国内分裂、独立後の世
記している。同省人権局や現地大使、2 〜 3
界最大といわれる数の少数民族反乱組織が跳
の議会外交委員会議員などからなる民主化
梁する内乱の常態化、冷戦期のドミノ理論に
要求デモ支援グループと、民主化要求デモは
基づく米国の対ミャンマー介入政策など、こ
外国人 や政党 が関与する「騒乱(upheavals)」
の脆弱性の副産物というべき諸要因が、ミャ
であり、その「取締(crackdown)」は人権抑
ンマーの内外政治を特異で複雑なものとし
圧(repression) ではないと判断する国務省政
た。今日の同国政治の極端なまでの軍事化と
務局とが対立していたのである。前者は、
0
非正常性はその帰結なのである。
0
0
0
0
「英国が導入し、ミャンマーで根付いていた
第 2 は、介入政策が用いた「秘密工作」で
民主主義はレーニン主義的な軍政により閉鎖
あり、その非正統性が正統的な政治・外交と
的圧制に変えられた」が、スーチー女史の下
の間に生ぜしめる二重性と政治的・倫理的な
で「民主政権が成立すれば、シャン州の麻薬
矛盾である。第二次大戦中の日本側の「ビル
産業で儲けている、腐敗した軍政に麻薬対策
マの独立」約束、連合国側の国境地帯少数民
を依存しないで済む」とか、
「ネーウィンはア
族の「ビルマ族からの独立」約束、冷戦期の
ジアのノリエガ」で、
「山岳地国境地帯の少数
東西からのイデオロギー的な「心理工作」
、と
民族はネーウィン政権が続く限り武装反乱を
くにシャン州を舞台とする国府軍(KMT)を
続ける」などと主張した。一方国務省政務局
用いた米国の国境地帯少数民族の「反共ゲリ
は、ミャンマーには少数民族反乱問題ゆえに
ラ化」工作と武器供与、その資金源としての
人権侵害があるが、
「米国は同国への人道介入
麻薬産業などが少数民族反乱問題を一層複雑
を行う意図を一切有しておらず」
、
「麻薬撲滅
化せしめた。これらは相まってミャンマー国
のための対同国支援協力継続こそが米国の重
内外政治のガヴァナビリティを奪い去る一方、
要な国益」だと主張した。つまり、米国政権
米国内部に「隠された政策対立」という矛盾
内部で「人権政策」と「麻薬撲滅政策」とを
を産んだ。こうした「外生要因」や「秘密性」
めぐる矛盾・衝突現象が生じていたのである。
が今日でも同国政治史研究者やマスコミ、国
本書 386 ページで著者は、
「1988 年 7 月末
際社会一般の史実把握に混乱や過誤をもたら
から 9 月 18 日に至る諸経緯 ―この間に、
していることは、十分留意すべきであろう。
国軍が既に死期が迫っていた BSPP(ビルマ社
本書の論旨展開の難解さも、重要史実の機
会主義計画党) 政権の残滓とアナキー的市民
密性に加え、公開・非公開を問わず仮に著者
勢力とをクーデターでつぶした―は複雑で
が知っていても直接的言及を避けたり、レト
議論が分かれている」という。そして 390
リックで代替したりしているからでもあろう。
ページでは、これを軍隊と「弱体だが強力な
「政策対立」について付言すれば、一般に
外部同盟者を有する政治勢力」との間の非対
はあまり知られていないようだが、米国議会
称的政治抗争と表現し、その過程における
書評/Robert Taylor『The State in Myanmar』
83
「隠れた勢力の動きなど細部を解明できるの
法を含んでいるといっている。NED は、世
は、将来の歴史家だろう」といっている。他
界各国への人権と民主主義の普及を目的と
方彼は 389 ページで、
「シャン州東部ではビ
し、連邦予算により賄われる基金組織である
ルマ共産党が軍事行動を強化し、国内はアナ
が、実際の活動は米国の政党組織や労働団
キーに陥っていた」ともいっている。同党が
体、各種 NGO(国際 NGO の他、各国の政党や
1970 年代後半に中国共産党からの武器と資
人権・民主化関連諸団体)に委ねられ、基金総
金の援助を絶たれた後、1989 年に瓦解する
裁がその成果を米国議会に報告する。国務省
までの間、同国最大の麻薬生産者たるワ族を
人権局長が毎年議会に提出する「国別人権報
支配して資金源としていたことは、公知の事
告書」においても、在外米国公館の他、これ
柄である。米国はビルマ共産党やカチン族な
ら NGO の活動や人権状況観察結果が引用さ
どの麻薬生産の撲滅を 1985 年のボンサミッ
れている。注意すべきは、1983 年以降人権
トの非公式議題として取り上げたうえで、
報告書の主要項目構成が変って、
「生存権」
ネーウィン政権に対しケシ栽培撲滅支援策の
が削られ、代わりに「市民による政府変更の
ための空中散布用薬剤と航空機等を供与し
権利」が登場したことである(1988 年に「労
た。この麻薬撲滅活動は事実上ビルマ共産党
働者の権利」を追加)
。つまり米国の対外人権
などに対する軍事作戦でもあり、その経緯は
政策は、1966 年に成立した 2 つの国際人権規
1987 〜 88 年頃の米国の公開資料に明記され
約のうちの市民的・政治的権利中心の B 規約
ている。一方、両年度の米国の国別人権報告
重視、生存権や経済発展、社会権中心の A 規
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書はビルマの項で、この麻薬撲滅活動を過剰
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約軽視に変質し、イデオロギー化したのであ
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な安全保障力を欲するネーウィン政権の「強
る。以後米国の人権政策は、レーガン政権の
権的統治」の一例のごとくに記述している。
「強いアメリカ」実現戦略としての「レジー
シルヴァースタインなど制裁派の研究者達
ム・チェンジ」(体制改革ないし政権変更)の重
は、KMT 工作や麻薬対策に関するこれら史
要手段となったのだが、ミャンマーとの関連
実に触れたがらないようだが、なぜか本書で
で留意すべきは、同政権 2 期目の 1986 年に
も「1987–88 年頃の事象に関する説明は少な
世界的麻薬禍対策のための麻薬取締法が成立
い」(390 ページ)と述べるにとどめている。
したことである。現在ミャンマーの麻薬問題
は稀にしか国際社会の話題とされないが、前
次に、これら関連資料類の一部(すべて公
開資料)と評者気づきの点に触れる。
まず、
「人権政策」について。S. ハンチン
記の「人権と麻薬」をめぐる「政策対立」の
背景にはこの「1986 年麻薬取締法」とその
関連法令実施上の矛盾があったのである。
トンは 1991 年の『第三の波』で、米国の人
それは、1990 年 8 月 20 日に採択された米
権・民主主義促進政策は、レーガン政権によ
国関税・通商法(P.L.101-382)における「ビル
る 1983 年の NED(全国民主主義基金) 創設に
マ産品に対する経済制裁」と題する条項(第
よって第 4 期に入ったとし、その政策手段は
138 条)の規定を見れば明らかである。
CIA や VOA、USIA、USAID、軍事力…の他、
大統領声明や議会決議…などの多種多様な方
84
同条項前段は、1990 年10 月1日以前に「1986
年麻薬取締通商法」第 802 条(b)項が定め
アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
まず、本書の構成は、本書序言、旧著序
るすべての条件をビルマが満たしていたと大
(1)
統領が議会に保証(certify) しない限り、
言、序論、第 1 章 植民地化以前の国家、第
大統領は同法が定める制裁措置を含め、大統
2 章 国家の合理化(1825–1942 年)、第 3 章
領が適当と認める対同国経済制裁を課すこと
合理化された国家における政治(1886–1942
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ならびに、
(2)対ビルマ制裁に関して他の民
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年)
、第 4 章
国家の解体(1942–1962 年)、第
主的工業諸国と合意するために協議すること
5 章 国家の回復(1962–1987 年)、第 6 章 国
を定め、後段では、ビルマが満たすべき条件
家の再回復(1988–2008 年)、付録(ミャンマー
として次の 4 点を列挙している。
国第三憲法)
、となっており、リストにして 2
(1)1986 年 麻 薬 取 締 通 商 法 第 802 条(b)
項が定める条件をビルマが満たすこと、
(2)
ページ相当の図表と計 37 ページの文献・資
料リストが加わる。
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第 5 章までの大筋は、学界の伝統的な多数
ビルマにおける国家統治の法的権能が文民政
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府に移譲されること、
(3)戒厳令の解除、
(4)
説 と ほ と ん ど 変 ら な い が、1974 年 憲 法 と
政治的理由に基づく拘束者の解放。
1982 年市民権法の制定に際し、当局が長期
前段で明らかなように、この条項制定は国
にわたって国民各層を対象とする巡回討議を
際的麻薬取締法規のミャンマーへの適用を目
実施したことが、ネーウィン政権の正統性を
的としつつ、同条項成立後 2 カ月で「ビルマ」
高めたとの見方などは、うっかりすると見逃
が同条項の条件を満たさない限り、経済制裁
しかねない重要な論点である。ネーウィンが
を課すことを米国大統領に義務付けたうえ
社会主義イデオロギーと政権とを放棄した
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で、追加的に、軍政から文民への「政権移
後、国家が再度の正統性抗争を通じて改めて
譲」と政治犯の釈放とを制裁解除の条件と
自 己 を 確 立(redux) し た 経 緯 を 描 く 第 6 章
している。つまり、同条項は「麻薬対策」を
(375–485 ページ)では、軍、政党、学生政治、
「人権・民主化問題」=「レジーム・チェン
少数民族との停戦協定と新たな少数民族政
ジ」にパラダイム転換したもので、後段の
治、対外関係など 14 の小項目に分けて叙述
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(4)は、国務省政務局が外国人や政党が関与
し、国防体制強化、中間市民層創出努力、国
する「騒乱」とみなすデモの「取締」のため
境地帯開発と麻薬撲滅対策、米国議会や国連
に、ミャンマー軍政が逮捕投獄した学生その
の動向などにも触れる。このなかで、1990
他の「社会グループ」の釈放実現を、米国大
年選挙の正統性と政権移譲問題に関する基本
統領に義務付けたのである。米国大統領はま
的論旨はスタインバーグらと同じだが、NLD
た、前段の(2)により、この転換された目
(国民民主連盟)の意思決定過程における内部
的達成を国際社会の共通課題とする義務をも
分裂という新知見を加味した 414–15 ページ
負わされた。要するに国務省政務局の不介入
の次のような分析などは貴重である(旧共産
政策は、この「パラダイム転換条項」成立に
党員や学生達の画策とその結果に関する 406 ペー
よって敗退せしめられたのである。
ジ以下や 422 ページなどの記述も重要)
。
選挙実施後、欧米諸国や亡命政治家達が軍
さて、ここで本書の構成に触れたうえで、
若干の補足的コメントを付け加えたい。
書評/Robert Taylor『The State in Myanmar』
政に対し人権問題を絡めて NLD への政権移
譲圧力をかけ始めたが、当初 NLD の長老達
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からなる中央執行委員会は、SLORC(国家法
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秩序回復評議会) が示す法的手続を受け入れ
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の決断のみの結果だとは信じ難い」との間接
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と同じ趣旨を布告 1/90 で繰り返した(選挙管
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的表現は、本書各所での記述と前記「政策対
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理委員会が制定した選挙法布告 1 カ月後の 1989 年
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を帰するが、この国家危機がネーウィン将軍
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した。これに対し SLORC は 7 月 27 日、前年
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あるジャーナリスト達はただ 1 人の人物に責
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た。だが下部党員層が即刻の政権移譲に固執
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の「ポピュリスト的著述家や政治的制約下に
立」の結末とを加味すると、説得力を増そう。
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6 月、SLORC スポークスマンは、
「選挙が終わって
も政権を移譲せず、選出された議員達は先ず憲法
ファーニヴァルは 1957 年に、複合社会ビ
を制定し、国民がこの憲法を承認すれば憲法に
ルマでは「多数決原理の民主主義は幻想だ
従って成立する政府に政権が移譲される」旨を発
が、歴史的に類例のない不利な条件下で壮大
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表していた)
。2 日後 NLD は、不確かだが当選
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したとみなされた候補者達の会合で、9 月ま
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な実験が行われている」と指摘した。それか
ら半世紀、同国の民主化過程は依然停滞して
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でに人民議会を開催するよう要求した。注意
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おり、本書も反乱組織との停戦協定と国境地
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すべきは、本書は解説していないが、人民議
帯開発・少数民族発展省の活動に触れる(442
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会は SLORC が効力を停止していた 1974 年憲
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法上の一党独裁制議会だということである。
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ページ) 一方、反乱組織や政党に対する外国
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政府や宗教団体からの直接的間接的支援の合
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またこの齟齬 は、政権側が 1988 年 9 月、反
法性 云々を論じてもいる(503 ページ)。建国
政府側の「国民投票」反対と「暫定政権」設
の父アウンサンが悲願とした「真の民主主義」
置を要求する最後通牒、およびそれを誘導・
のためには、国民間融和と政治の非軍事化と
支持した米国議会の圧力に屈して、国民投票
を基礎とする「第四憲法」の制定を待たざる
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(つまりはネーウィンが 1988 年 7 月 に提議してい
た憲法改正)を断念した結果なのである。
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が冷戦の遺物のような人権政策規準を排し、
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一方、すでに 1989 年 2 月 に政権奪取戦略
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を得ないだろうが、それには米国や国際社会
経済・社会開発をも重んずる、国際標準的で
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の国際化 を図るために、NLD の並行政党と
均衡の取れた人権・民主主義規範に回帰する
してスーチー女史の従兄弟セインルイン博士
のが捷径であろう(アウンサンは、「後進地区の民
を長とする PND(国民民主主義党) が結成さ
度向上……や、諸民族間の接触と交流を妨げている
れていた。それは米国に本拠を置き少数民族
自然障害の道路、鉄道、通信設備の建設による克服」
反乱組織と結託する亡命政権 NCGUB(ビル
を悲願達成の前提と考えていた)
。本書が第三憲法
マ連邦連合政府)設置につながり、NCGUB は
を解説したあとで、60 年以上にわたる内戦や
米欧諸国や国連でのロビー活動を通じて、
政治的不和とその中での軍隊の機能に触れつ
米欧による政権移譲圧力の強化に腐心した
つ、西欧諸国政府がおのれのイデオロギーに
(415–16 ページ。405 ページ以下も参照。タン・ミ
固執している現状を憂えている(506 ページ)
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ンウは、この国際化戦略を「グローバルコミュニ
ティーからの隔離を望む国内の強硬派と制裁を推
のも、こうした問題意識からなのだろう。
し 進 め る 国 外 の 勢 力 と の 邪 悪 な 同 盟 = unholy
(University of Hawaii Press、2009 年、21.4×13.8 cm、
xxv+554 ページ、$28.00)
alliance」と表現している)
。なお、391 ページで
(くまだ・とおる)
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アジア研究 Vol. 57, No. 2, April 2011
SUMMARY
‘Democratization’ and Limits in Local People’s Congress
Elections in China: Independent Candidates and Chinese
Communist Party Control
NAKAOKA Mari
Elections have performed a regime-legitimizing function for the Chinese Communist Party
(CCP). Under CCP control, the electorate has been unilaterally forced to support the CCP, as
questioning the content of the values of communism that the CCP sought has not been permitted.
In recent years, however, the electorate has grown increasingly dissatisfied with the lack of
values. For the continuing strengthening of its regime, the CCP has had to allow elections to
serve to articulate interests. The greatest issue for the CCP is to what degree to allow the interests
articulated and values expressed by citizens because either limiting them too much and permitting
them too much could shake the existing regime.
The direct election of Local People’s Congress delegates in Beijing in 2003 saw the entry of
many independent candidates who aimed to be elected outside the influence of the CCP. This
paper examines the career histories, motivations, and election campaigns of the independent
candidates as well as the response of the CCP organization. The research reveals the following
points regarding the limits of CCP permission on the proposal of values in the election process
and the significance of those limits.
The motivation of many independent candidates was not articulation of interests but participation in politics; however, the independent candidates who won were in the end charged with the
articulation of interests as a result of their election. They told the electorate that there were
options in terms of values. However, none of the independent candidates elected took an adversarial stance in relation to the CCP, and the value options that they presented were always within
the range permitted by the CCP.
The top echelon of the CCP seeks to incorporate a new conciliatory class in the CCP organization based on the policy of ‘improving the composition of delegates’ through elections. On the
other hand, the response of CCP grassroots organizations reveals the imposition of the following
three limits on the presentation of values. First, the presentation of values may not infringe on
the power of the election management authorities in election operation. Second, the election
campaigns of independent candidates may not have wide-ranging impact. Third, the values
presented may not include criticism of the CCP.
In the future, how the criteria for presenting values change needs to be examined as an issue
related to the legitimacy of the CCP regime.
SUMMARY
87
SUMMARY
The Role of the Cantonese in the Mining Business during the
Republican Era and Their Inland Orientation
IIJIMA Noriko
Contrary to popular belief, the Cantonese were not always oriented on working overseas as has
been presumed in recent studies of overseas Chinese. In fact, the Cantonese were active investors
in the mining business in southern China, especially in tungsten mining in Jiangxi province, the
southern border of which is adjacent to the northeast of Guangdong. Although archives from the
Qing period contain much about the involvement of the Cantonese in tin mining in the east of
Guangdong, little has been investigated of their activities afterwards. However, during 1930s in
the Republican era, the Guangdong Ministry of Construction started supervising the development
of the newly exploited tungsten mining in Jiangxi by controlling tungsten exports. Traditionally,
the southern part of Jiangxi came within the economic sphere of Guangdong, and thus the control
of tin mining in Jiangxi by the Guangdong authorities was not considered as economic invasion
across the provincial border.
The Cantonese spread their mining business as far as Yunnan province. In 1910, the completion
of Dian-Yue (Yunnang-Viet Nam) railroad promoted the rapid transportation of tin from Yunnan
to Hong Kong through Viet Nam. By the time of the Sino–Franco agreement of 1933, the
Chinese had won almost total freedom of residency and business in Viet Nam, which stimulated
their local business. From the statistical point of view, based on the number of residences of
outsiders in Yunnan during the Republican era, there were relatively few Cantonese in Yunnan but
the archives show that the Cantonese were economically the most active group in the mining and
export of tin, while the Fujianese left almost no trace in the province.
SUMMARY
The Guangdong Pickets Revisited: In Search of a New
Perspective on the Chinese Labor Movement in the 1920s
ETO Anna
The official history of the Chinese Communist Party (CCP) has depicted the Guangzhou–Hong
Kong strike of 1925–26 as a highly successful labor movement. During this period, armed labor
organizations, called ‘pickets’ (jiuchadui), played an important role in maintaining this prolonged
strike.
This paper aims to offer a new perspective on the Chinese labor movement in the 1920s
through a re-examination of the pickets using materials such as daily newspapers, publications by
the Strike Committee, selected manifestos and articles, and also unpublished Kuomintang
archives.
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アジア研究
Vol. 57, No. 2, April 2011
Previous scholars, whether Chinese or not, have tended to adopt the CCP’s discourse, which
was based on Deng Zhongxia’s text. However, by the 1990s, there was a marked change, and
scholars, including Robert J. Horrocks and Michael Tsang-woon Tsin, attempted to approach the
Guangdong labor movement during this period in perspective different to that of the CCP. Nevertheless, it is still difficult to claim that we have a decisive alternative to the CCP’s discourse.
This article takes the middle ground between revisionist studies and the CCP’s official history,
focusing on the fact, overlooked in previous studies, that the pickets probably helped to alleviate
unemployment. Confiscation of Chouhuo, or enemy (i.e. British) products, might in fact have
been one of the means of subsistence for unemployed workers. The pickets were taken with the
idea of confiscating from not only British merchants but also Chinese society—actions that can
be understood within the framework of the struggle against imperialism. As a result, many
conflicts between pickets and other local groups occurred.
In conclusion, I suggest that we should grasp the strikers’ behavior based on the image of a
mixture of egoistic Homo economicus and ideal proletariat. While the former image of workers
is found in revisionist studies, like those of Tsin, the latter is found in the CCP’s narrative.
Further, we should note the organizational circumstance that made the strikes possible. The
Strike Committee was centralized, and did not exert strong control over the lower echelons of the
movement; this enabled people to ignore its direction. Moreover, paying attention to the armed
civil conflict among Guangdong workers, I show the people who eagerly participated in and led
the labor movement were young men, particularly those who tended to behave as brigand.
Finally, I conclude that this labor movement structure might be to some extent common to the
other Chinese popular movements in this period.
SUMMARY
The Theoretical Challenges of Analyzing ‘Democratization’
in Southeast Asia
FUKUOKA Yuki
This article challenges a popular theory of democratization (i.e. liberal theory) which has largely
shaped our understanding of the subject. This theory focuses on the presumed link between
economic development and the emergence of pro-democratic civil society, which then drives a
democratic transformation: a strengthening of civil society implies a corresponding weakening of
the authoritarian state. Driven by a naïve belief in the universal potential of the civil society
factor, it is often assumed that all countries are travelling on the same historical path, ending with
the establishment of a liberal democracy. This theory has also been utilized in the analyses of
political change in Southeast Asia, though experience of the region casts doubt upon its relevance.
For example, in Malaysia and Singapore, high levels of economic development have yet to
produce strong pro-democracy civil society forces and authoritarian states continue to exist.
Also, the role played by civil society forces in the process of so-called ‘democratisation’ in the
Philippines, Thailand, and Indonesia has been rather limited. Furthermore, democracies in these
countries display many features that suggest their democracies are more formal than substantive
and that a liberal democracy is one of the least likely outcomes.
These observations suggest the limits of this popular theory in Southeast Asia, though much of
SUMMARY
89
the literature still operates within the context defined by this theory, with many scholars seeking
to ‘save’ the theory by introducing an array of auxiliary hypotheses. This article emphasizes the
importance of breaking free of this liberal mindset and presents an alternative framework not only
to capture the broad pattern of illiberal democracies in Southeast Asia but also to shed a different
light on how the prospects of political transition are assessed in other non-democratic regimes in
the region. To this end, this article suggests that democratization in Southeast Asia does not
present a change in the balance of the state–society relationship but offers a mechanism through
which to manage differences among the elite. More specifically, this article locates the proximate
cause of political transition in the disruption of stable circulation of patronage within the state,
which creates disgruntled elites who have lost access to state resources. These regime elites in
turn push for political change in an attempt to regain access to patronage networks. Against this
backdrop, political transition—which is commonly referred to as ‘democratization’—entails a
reorganization of patronage networks within the state.
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アジア研究
Vol. 57, No. 2, April 2011
編集後記
第 57 巻第 2 号をお届けします。本号も中堅・若
手会員による意欲作を掲載することができました。
中国関係の論文が多くなりましたが、実に多様な時
期が対象となっています。また最近ではミャンマー
など、東南アジアにおける新たな動きが注目されて
います。この点に関しては、本号掲載の研究ノート
や書評を是非ご一読下さい。TPP で議論を呼んでい
るアジア太平洋協力に関しては、次号で何篇かの論
考をご紹介する予定です。
本号をもちまして、現編集・書評委員会は交代と
なります。次号より園田茂人理事を委員長とする新
編集委員会が担当いたします。この間、執筆者、査
読者、編集・書評委員、中西印刷の関係各位をはじ
め、会員の皆様のご協力により、質の高い学会誌を
維持することができました。とはいえ、ようやく四
半期ベースでの刊行が軌道に乗ったものの、発行期
日の大幅な遅れを取り戻すまでにはいたりませんで
した。この点に関しましては、会員の皆様にご迷惑
をお掛けしましたこと、深くお詫び申し上げます。
あらためて、次期編集委員会へのご支援・ご協力を
お願い申し上げます。
(大橋英夫)
[編集委員会]
大 橋 英 夫(委 員 長)
・ 清 水 一 史(副 委 員 長)
・
中居良文(副委員長)
・佐藤考一(副委員長)
・
木 崎 翠(副 委 員 長)
・ 家 近 亮 子・ 大 島 一 二・
渡 邉 真 理 子・ 唐 成・ 小 嶋 華 津 子・ 青 山 瑠 妙・
大 西 裕・ 平 川 均・ 秋 葉 ま り 子・ 遠 藤 元・
三重野文晴・小笠原高雪・川中豪・石上悦朗・
竹中千春
[書評委員会]
滝 口 太 郎(委 員 長)
・ 石 川 幸 一(副 委 員 長)
・
阿 南 友 亮・ 増 田 雅 之・ 西 野 真 由・ 中 園 和 仁・
茂木創・青木まき・堀芳枝・山本博史・大場裕之
投稿要領(2006 年 7 月 1 日改訂)
1. 『アジア研究』は、アジア研究に関する論説、研究
ノート、書評論文、書評などにより構成され、1 年に
4 号刊行する。投稿については随時受け付ける。
2. 投稿できるのは、アジア政経学会の会員および編
集委員会・書評委員会が依頼した人とする。会員の
場合、投稿する当該年度までの学会費が納入済みで
あることとする。
3. 投稿原稿は未発表のものでなければならず、同一
の原稿を『アジア研究』以外に同時に投稿すること
はできない。
4. 同一会員による論説、研究ノート、書評論文を 2 年
以内に 2 回以上掲載することは原則としてしない。た
だし、書評はこの限りではない。
5. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿の著作権
は財団法人アジア政経学会に帰属する。
6. 原著者が『アジア研究』に掲載された文章の全部
または一部を論文集等への再録などの形で複製利用
しようとする場合には、所定の様式の申請書にて事
前に編集委員長に申請する。特段の不都合がない限
り編集委員長はこれを受理し、複製利用を許可する。
7. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿は、アジ
ア政経学会のホームページ(http://www.jaas.or.jp)に
おいて PDF ファイルとして公開する。
8. 投稿に際しては、
「編集要領」および「執筆要領」
(本
学会ホームページに掲載)の内容を踏まえ、その規
定に準拠した完成原稿と論文要旨 (1200 字程度 ) を提
出する。
9. 『アジア研究』の本文で使用できる言語は日本語と
する。ただし、注記などにおいてはその他の言語を
使用できる。特殊な文字、記号、図表などを含む場合
は、予め編集委員会および書評委員会に相談する。
「アジア研究」第 57 巻第 2 号
発行 2011 年 4 月 30 日
発行者/アジア政経学会
(連絡先)〒112-8610 東京都文京区大塚 2-1-1
お茶の水女子大学 理学部 3 号館 204
特定非営利活動法人 お茶の水学術事業会
アジア政経学会担当 Tel/Fax: 03-5976-1478
発行責任者/高原明生
編集責任者/大橋英夫
制作協力/中西印刷株式会社
印刷所/中西印刷株式会社
10. 投稿する原稿の本文には、執筆者名を記入せず、
執筆者名、そのローマ字表記、所属機関、職名、お
よび原稿表題の英文表記は、本文とは別にまとめて
付記する。
11. 投稿する原稿の枚数は、40字×30 行を 1 枚と換算
して、論説が 15–20 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
研究ノートが 10–20 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
書評論文が 10–15 枚(注・図表・参考文献を含む)
、
書評が 2–5 枚とする。原稿に挿入される図表につい
ては、大小にかかわりなく 3 点を 1 枚と換算して、全
体の枚数から差し引く。
12. 投稿原稿は、E-mail の添付ファイルとして送付す
る。ファイル形式は、MS-Word、一太郎のいずれか
とする。やむをえずハードコピーで提出する場合は、
ワープロ原稿を 2 部提出する。採用が決定した原稿
の提出方法は、編集委員会から再度通知する。
13. 投稿された原稿は、レフェリーによる審査結果を
考慮の上、編集委員会が採否を決定する。
14. 採用された場合、約 400 語の英文要旨を提出する。
英文要旨は、提出前に必ずネイティブ・チェックを
受ける。
15. 執筆者は、別刷り(抜刷)の作製を印刷所に依頼す
ることができる。費用は執筆者の自己負担とする。
16. 原稿の投稿先および問い合わせ先は次のとおりと
する。なお、投稿者は、連絡先住所・電話番号・メー
ルアドレスを明記する。
〒 214-8580 神奈川県川崎市多摩区東三田 2-1-1
専修大学経済学部
大橋英夫気付『アジア研究』編集委員会
E-mail: ohashi @ isc.senshu-u.ac.jp
Aziya Kenkyu (Asian Studies) is published quarterly in January,
April, July, and October by the Aziya Seikei Gakkai (Japan
Association for Asian Studies).
Editorial office: Aziya Seikei Gakkai, c/o Hideo Ohashi, Senshu
University, Higashimita 2-1-1, Tama-ku, Kawasaki 214-8580, Japan
Subscription rates: ¥6,300 per year. Multiple-year subscriptions
are available.
© 2011 Aziya Seikei Gakkai
Asian Studies
Vol. 57, No. 2, April 2011
CONTENTS
Articles
‘Democratization’ and Limits in Local People’s Congress Elections in China:
Independent Candidates and Chinese Communist Party Control
NAKAOKA Mari
The Role of the Cantonese in the Mining Business during the
Republican Era and Their Inland Orientation
IIJIMA Noriko
The Guangdong Pickets Revisited: In Search of a New Perspective on the
Chinese Labor Movement in the 1920s
ETO Anna
1
19
35
Research Note
The Theoretical Challenges of Analyzing ‘Democratization’ in
Southeast Asia
FUKUOKA Yuki
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Book Reviews
KUMADA Tohru
Summaries in English
87
AZIYA SEIKEI GAKKAI
( Japan Association for Asian Studies )
TOKYO, JAPAN
http://www.jaas.or.jp
ISSN
0044-9237
定価1575円
(本体1500円)